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公述人(磯部常治君) ただいま
委員長から、まことに厚いお
言葉をたまわりまして、ただ感無量、ありがたく拝聴いたしました。ただ、その
被害者の地位を忘れて、
死刑廃止賛否の問題について所感を申し上げようと思います。
この問題につきましては、午前中からただいままで、各
皆様が
意見を申されたのでありますが、私その要旨を鉛筆でとりますのに、ほとんど私の言わんとするところは、もうりっぱに言い尽されておるので、私は今さらこれをちょうちょうと申し上げるまでもないと思っております。抽象的に申しますならば、私はやはり
死刑廃止に
賛成なんであります。
廃止論者なのであります。これは、先ほど
委員長のおっしゃった一月の妻子の、私の
被害者の立場、現実に
被害者の立場になった、その身になっても、なお私は
死刑は
廃止すべきだという論なんであります。
なるべく重複を避けまして、所感を簡単に、
一言申し上げたいと思います。
私は、そもそもこの
死刑廃止賛否の問題は、人の
生命とは何ぞやと、しこうして人の
生命はいかに高貴、尊く、尊厳である、この認識が深ければ、人の
生命を断つということは起らない。もしもそれを犯す人があるのならば、それは
精神上異常のある欠缺者であると、私はこう思うのであります。今さらその
生命の何たるや、尊厳さについては私は申すまでもないと思いますが、私は
言葉をかえて申しますと、私自身がここにこうして息をして生きているという、この
生命の本質は、何とかして生きていこうという力がこの体内に存在しておる。この力が
生命である。そしてその力はどうかというと、いうまでもなく、私の父母、祖先から受け伝えられておる。同時にまた、同じ子孫を私は生み育てる力を私自身が持っている。同時に横の面においては、これは
社会の一員として、
国家の一員として、人類の一員として、いかなることもなし得る力を私は持っている。これは決して他人が持っているのじゃない。私自身が持っているのであって、また同時に、私でなければその力は持っていないのだ。いかにその尊いかということは、身みずから反省して
考え得られると思うのであります。同時にこの私自身の力は、
生命は、
社会、
国家、大きくいうならば人類の一員としての資格も、
社会的
生命、いわゆる他動的力とでも申しますか、そういう力を
自分は持っているのだ。これまた、いかに尊きかが自覚できると思うのであります。同時にこれは、老若男女、善悪、その人種のいかんを問わない。いずれもその人として平等に共有しておる力、すなわち命であると思うのであります。かく
考えていきますと、簡単に
人命は尊い、
尊重すべきだと申しますが、とうていよく。みずから反省して、
自分の生きておることの力、姿を見ますと、
言葉をもって尽し得ない。高裁の判例には、人の
生命は全地球よりも重しという
言葉を使われておりました。その判例がありますが、私はそれどころではない。宇宙を小さく縮図した
生命がすなわちおのれであり、
自分の姿である。ここまで
考えていいではないかと思うのであります。たとえていうならば、太陽の縮図は
自分であるとも
考えられると思うのであります。私が洗濯をして干しておけば、太陽は一生懸命かわかしてくれるなどと
考えますと、むしろ太陽即
自分である。これは少し一面から、宗教的にもったいない
言葉かもしらんけれども、そういう
言葉はただ
考えられる。ゆえに
人間、
生命、生きる力、生きんとする力の尊さは、とうてい筆舌をもって尽し得ない尊厳さがあると思うのであります。こういうことから
考えてみますと、人の命を殺すということは、
もとよりなしてはならぬことはいうまでもないことなんであります。私は、
自分みずからが
自分を殺す
自殺でさえも、これはしちゃいかんじゃないかと思うのであります。ゆえに
刑法上におきましても、
自殺を幇助したものについては、処罰の規定さえあるくらいであります。この尊い
生命は、
自殺といえどもしてはならない。なぜならば、
自分の
生命を断てば、その子孫に
生命を伝えることができなくなるのであります。これを
考えた場合に、自己の絶滅、人類の絶滅という工合に
考えていくと、
自殺といえどもしてはならないという尊さがあると思うのであります。いわんや他人の
生命を奪うにおいておや。そこで問題となるのは、
国家の
権力、
法律をこしらえて、
法律によって人の命を殺害する
死刑ということについて、しからばどうかということがすなわち
死刑廃止の
是非論だと思うのでありますが、これは、
国家の
権力といえども、各個
人々々の集まった
社会、
国家というものが
権力的に
法律というものをこしらえて、
法律で処罰するのであって、
もとをただせば、やはり各個の
意見が主となるのであります。私は、これを区別する必要はない。
国家の
権力といえども、今申し上げました高貴、尊厳であるところの人の
生命はどこまでも殺してはならぬというのがほんとうの人類であると思うのであります。
もう
一つ、そこで私の
廃止の
理由は、人が人の
生命を断つということは、唯物的に
考えれば、肉体という存在があるわけです。
精神的には、中に見えない力というものがそこに生きて働いておるのであります。これを二つに区別して
考えましても、すべてその力によって現われてくるところの
行為、動作については、必ずこれは反射作用がある。先ほど来聞いていますと、反能という
言葉を前のどなたかおっしゃったのでありますが、そういう
言葉がいいか、私の申し上げる反射作用という
言葉がいいか、これは私は、どの説が適切か、まあ著書によってこれを知ったのじゃありませんが、私はよく研究し
考えますと、必ず反射作用がある。これは、物理的には反射作用があることは、今さら私がここでちょうちょうと申し上げるまでもないことであります。そのもののうちに潜在するところの目に見えない一種の力、いわゆる基本的な
生命、基本的な動かす力、これを他動的に殺害した場合に、
精神的な反射作用があるや否やという問題、これは私は、私の
経験その他から見れば、必ずあると思うのであります。どういう作用になって現われてくるかというと、人を殺せば、殺された者はもちろん恨みます。残りの
被害者も恨み、
生命を断たれたその形は、息が絶えて、死というものになって動きませんが、そこから離れたところの一種の力、
人間の力をもって見えない――私はこれを見えると称するのでありますが、一応見えない
生命の基本的な力、
生命というものに対しても、やはり反射作用が起るということが、今まで申し上げられた方とちょっと私の
理由が違っておるのであります。それは、どうしてそういう作用が起るかと申しますと、人が人を殺す、殺した方からいいますと、殺したことについていいか悪いかということを判断する良心があれば、残虐性の
行為をもって殺すべからざるものを殺した場合に、必ずそこに反省するという反射作用がこの殺した人にすでに起っておるのであります。これを
被害者の立場から申しますと、漢文では九族とか申しますが、殺された方の親族あるいは知己その他の
社会に対しては、殺されたことによって怨恨とかあるいは利害
関係があるならば、殺した人を恨むという、こういう反射作用が起っていくのであります。そこで、そういう反射作用を起すことを
国家の
権力、
死刑によるといえども、殺した場合には、さらにその反射作用によって起る反対の力というものは、さらに殺した人を恨む。不愉快に思う、あるいはもう一歩進んではあだ討ちするという反射作用が、かたき討ちとか復讐とかいうことになってくる。これをさらに繰り返し繰り返ししていくと、ついにはそれが集団的になれば戦国時代を惹起するようになる。同族同士で戦国時代を惹起するようにもなれば、その
国家的な、
国家と
国家でそういう恨みというものを持つようになれば、ついに
戦争というものに飛躍することになると思うのであります。これはある著書には、そういう反応が集団的な
精神作用、魂とでも申しますか、繰り返されるのがすなわち
戦争というものになって現われてきておるのだということを実証した著書も見たことがありますが、私は実は
精神方面の動きについては霊媒
関係の研究を医学博士その他とやったことがあるし、またその実験もしたこともありますが、これは一種不可解な力があるのであります。動きがあるのであります。反射作用があるのであります。と申しますのは、こう説明したらばおわかりじゃないかと思うのであります。今、ここに見えない声、見えない影が存在しておることば、これは何人も否定はなさるまいと思うのであります。たとえば、ラジオ、ラジオが放送されてあるならば、すでにここに見えない声があるのであります。テレビが放送されているならば、ここにその姿が飛び回っておるのであります。ただ、その受信機のいかんによって聞えるか、見えるかというに過ぎないのであって、その受信機さえ、スイッチさえ入れれば聞え、かつ見える。すでに科学はそこまで進歩しておる。科学がそこまで進歩しておるということをはっきり皆さんが是認されれば、幽霊というものも
人間の魂、声というものも必ずわれわれの肉眼をもって見えない以外に潜在しておるということは、はっきり立証できると思うのであります。あるいはこの力を細分していけば、原水爆の元素がすなわちそれなんだということも私は言い得るのじゃないかと思うのであります。そういうものの反射作用があるということを
考えた場合に、生きていきたいという
人間の命を、いかに
国家の
権力といえども、これは殺害してはならないということは是認するのが当然だと私は思うのであります。こういう意味から、私は
生命の本質を分解していけば、そのおそろしい反射作用によって、決して人の
生命は
国家の
権力による
法律というものによってもこれを殺害してはならぬということが是認されるわけであります。ただ論じられるのは、その基本的な力によって現われる
人間の
行為、この
行為というものと
生命、基本的な力、私はそう言いたいのでありますが、生きんとする力というものを混同して
考えると、その現われてくる
行為が残虐であるがゆえに、残虐な
行為は
社会秩序を乱し、
社会の公共福祉にも反するから、これは
法律をもって
死刑にすべきだと、こういう論があるのでありますが、私はそれは大きな誤まりだと論断するものであります。なぜならば、従来各員から論じられた
通り、
人間にはそれぞれの現われてくる
行為がある。その
行為は基本的な
生命というものの力から出てくるのであって、その
行為は自主的に出てくる場合もあれば、
社会文化がこの程度進歩しておる今日においては、むしろ
社会意思、
社会的方面から
人間の
行為というものは現われてくる。同時にまた自然的な環境からもその
人間の
行為というものは現われてくる。
行為に現われてくる。その
行為として現われてくる
行為の
もとであるところの
もとの
生命というものは、私は厳然と区別して考うべきだと思うのであります。そこで現われてくる
行為が残虐
行為であるとか、あるいは善なる
行為であるとかいうことによって、基本の力、基本的人権、基本的
生命を抹殺するということは、あたかも人類が
自分たちを
自殺、滅ぼしてしまう結果になると私は思うのであります。その
行為の、善なる行然をなすものがあれば、あるいは悪なる
行為をなすものもあるのでありますが、その残虐な
行為は、これはこれこそお互い人類の力、ともに生き、生かし合っていく相反した人の力、それを大きく言うならば、
国家社会の力、それこそ
国家の
権力をもっていかようでも処置できると思うのであります。その処置できることを忘れて、ただ残虐によって人を殺した者を殺してしまえばそれでいいんだというような
考えは、その
言葉は少し言い過ぎかもわからぬが、高貴なる
人命、人権の高貴、
尊重しなければならないということを忘れた
考え方であると私は思うのであります。ゆえに残虐的な
行為は、それこそ先ほど来申された
通り、宗教、教育、
社会施設その他の環境によってこれは防止することが十分できる。そういう
犯罪は、そういう環境その他他動的
行為によって
犯罪というものは生ずるのだということは、今までのお説きになったことでよくおわかりであろうと思うので、私はもう申しませんが、全くその
通りだと私は思うのであります。
次に、この
法律というものが、威嚇的な、
予防的な効果があるものである。ゆえに人を殺した者は
死刑に処すという
法律を
存置しておかなければいかぬ。こういう説があるのでありますが、私は、少しこの点は極端に論じてみたいと思うのであります。
法律効果がいかにしてあるか、議会で立法して、それを公布すればそのまま
法律効果が一体あるのか。言うまでもない、
法律を作って、六法全書を作っておいたって、何ら効果はありやしない。その
法律を遵法する
精神があることによって、初めて
法律効果が出てくるのであります。かく論じますと、どうしても
法律はどこまでも
尊重しなければならぬという
人間の倫理、道徳観念を高揚せしむる環境、施設、あるいはこれに関する
法律というものを、私は宗教、演劇、映画、そういう方面に力を用いて、
国家がその育成に努めたならば、必ずや
法律効果は自然に出てくるのであります。また逆にそれをやらない限り、幾ら
法律を作っておったって
犯罪は幾らでも出てくる。私は
法律というものをかく
考えるのであります。これが弁護士を数十年やっておりまして、まことに実際
体験することが多々あるのであります。今においても、民事
事件といえども、刑事
事件といえども、
法律があるのにかかわらず、腹が減ったから盗む、盗むということと、盗まないということは、
法律があるがゆえに盗まないのじゃないのです。生きていかれないからつい盗む。生きていかれないから払うべき金を払わない。こういう
行為、その
もとには生きていかなければならぬという基本的な
生命の維持ということが、それが維持されるかされないかということが基本的になっておる、そこへ力をいたさない限り
法律効果は私はないと思います。むしろ私は
死刑に処するという
法律あるがゆえに、証拠があれば有罪だが証拠がなければ無罪だ、この
法律あるがゆえに逆効果を生じて、この頃の残虐
犯人は、人を殺す前からいかにしたらば証拠があがらないだろうかということを
考えて行われている
犯罪がむしろ多いのじゃないでしょうか。自動車の運転手の強盗
殺人のごとき、運転手を殺してしまえば何ら証拠はあがらない、だから運転手を殺して金をとる、五百円か千円と
生命と交換して平気でやる、同時に人を殺したり、
自分を知った者がなければ
自分は
殺人の罪に問われないから、証拠隠滅のためにまた人を殺す、むしろこれは
法律あるがゆえにだと思うのであります。そういう工合に
考え論じていきますと、
法律の存否によって必ずしも残虐
行為が行われるかいなかということは、決してきまらないと私は思うのであります。同時に
誤判による
死刑執行が取り返しのつかない不正義な、
国家的罪悪
行為であることはこれはもう言うまでもないことで、先ほど来
誤判があったかなかったかということは論じられておるのでありますが、今の
法律のような証拠さえあれば常に有罪である、証拠さえなければ無罪になるんだという
法律制度の下においては、かえって
法律によって
法律に合うように証拠を作り上げるというような人権侵害
行為が起らぬとも限らない。いな、むしろ新聞紙上でもそういうあやまちがあるのではないでしょうか。私は
考えられるのであります。その他
被害者の立場から、
被害者擁護の意味においてということが
考えられるのでありますが、私は少し
人間が変っておるかしれませんが、私はこの
被害者として、一月、本当に苦しい心痛な立場に立ちまして、さらに
犯人が過去を悪かったとみずから本当に反省するのならば、
死刑にする必要はない、
死刑にするということはむしろ反射作用を起すぞと、私はこう言いたいのであります。と申しますのは、もしもあの
犯人が
死刑にされた場合には、これは
もとより
本人は生きていきたいということを前提とするのでありますが、みずから死にたいというやつは、これは
自殺しようとどうしようと
自分の
生命を
自分で処理するのでありますからこれはまあいいとしまして、本当に生きていたいというのに
国家の
権力、
法律をもって
死刑にするという
死刑の言い渡しをした場合には、さらに彼にも両親があるはずであります。兄弟もあるはずです。なお同時に九族もあるはずです。同時に彼には彼としてまた仲のよかった共犯者も、昔の兄弟分もいるかもしれません。これらの者が私と同じような苦しみをさらに抱くであろうと
考えた場合に、そういう苦しみを私は人に与えるという気にはどうしてもなれません。別に喜ばせる
気持はありませんが、殺されたその被告の、
死刑にされたその被告の両親の
気持は私と同じであろうと思うのであります。悪いことをしたから殺されるのだから私はいいですと、快く彼が
自殺するのならばそれは私はあえてとがめませんが、
被害者であればあるほどこういううき目を二度と繰り返すということは、私はしてはならぬ、したくない。こういうことが繰り返されてついには
戦争というようなものが起きるようになる。原水爆を人を殺すために使うというようなことが起るような、反射作用が米粒万倍で大きくなった場合には一体どうなるでしょうか。米ソ
戦争が起ったらどうなるでありましようか。
日本の九千万人が窮地に立たされるのじゃないかと、何かしらぬが連鎖的に即座に私の頭に浮んでくるのであります。かく
考えた場合に、この
生命を軽んずるということが、他動的に人の
生命を断つということは決して人類はしてはならない、いわんやわが民族においておやということを私は痛感するのであります。こういう意味から
考えましても
死刑はしてはならぬ。
もう
一つ私は
考えるのであります。今や私の
生命は私あるがゆえにあるのではなく、
国家、
社会、
日本民族とともに私はあると思うのであります。これからの
人間の
生命は
自分だけの
生命だというふうに
考えるのは大きなあやまちだと思うのであります。
自分の
生命は即妻の
生命であり親子間の
生命であり親族の
生命であり
社会の
生命であり
国家の
生命である。もっと大きくは世界人類ともに生きる
生命でなければならぬと
考えなければいかぬと思うのであります。かく
考えた場合に
生命を軽んずる
日本民族であるということになった場合に一体どうなるかということを
考えますと、少くも国際間においては各国が
日本民族は非常に人の
生命を軽んずる民族で、殺せば殺すというような、
自分の命を賭けて戦ってくる民族だという認識を得た場合に、
日本民族の国際場裡における国交
関係その他を
考えて一体生きていく道がありましょうか。
日本民族が
日本民族だけで生きていくということは絶対にないのであります。今の自動車といえどもガソリンがなかったら動けなくなるじゃありませんか。かく
考えた場合に、人類はともに生きる。こう
考えると、私は
日本民族は
人間の
生命というものは決して断たない、いかようなことがあろうとも生かし合う、生かしていく
思想を持ったりっぱな民族であるという襟度をここに示さない限り、私自身の
生命もなくなるという結果になると私は大きく
考えたいのであります。かつ個人的な小さい
生命の高貴
尊重ということから
考え、その
生命は断ってはいかぬということから
考え、
法律をもってしても
死刑にしてはいかぬということを
考えますと、私はどこまでも
日本民族は一日も早くいかなる残虐の
行為をなすも生きていきたいという被告に対しては、
死刑にしてはならぬというこの
法律改正が先決問題だと私は思うのであります。
行為に対する善導の道は、私は府中の
刑務所を一カ月以前に見学してきたのでありますが、今の
殺人犯行のごときを少くするのは、やはり強盗
殺人のごときでありますが、一体行刑制度はこれでいいのか。むしろ行刑制度が悪いために
殺人犯を門から外にばらまき、ばらまかれた悪性の
人間が実は
殺人犯を繰り返している。私はこの点を詳しく実は述べたいくらいであります。私の行刑制度を見た実感から、これが違うかどうかは別でありますが、
一言に申しますと四千人からいる
刑務所のうちで、
裁判所は二年とか三年とか十年とかという刑を言い渡すわけであります。いやしくも、本当にその
人間が基本的
生命から現れてくる
自分の行いを悪性の残虐
行為をなす性格を持った者が
刑務所へ預けて直りっこないと言っているのであります。私は実際そうだと思う。二年たったからそれですっと善人になって門から外へ出ていくということは
考えられない。ほんとうの例外に過ぎない。そうすると、悪性の者を二年なら二年、三年なら三年の刑が終えたら出さなければならないから、所長が
刑務所の門から外へ出す。出した場合にどうなるか。すぐかみつくより方法がないのです。まるで動物園のヒョウかトラを動物のおりから出すも同じようなことです。この行刑制度、同時に刑を終った後の、いわゆる救済制度というものがないために、銀座のまわりにうろうろして前科者が歩き回る。これが生きていかれないから人の命なぞはかまわずにかぶりつくというのがすなわち銀座の
殺人行為になって現われてきておると私ははっきり言えると思うのであります。
もとよりただ強盗
殺人のみが
死刑廃止の
根本のみではありません。
国家を転覆する
行為とかいうようなもっと大きな問題もありますが、それにしても
国家の
権力が強いというならば、
国家の政治というものがよろしきを得ればそういう
事件は起らないはずなんだと私は思うのであります。ここに反省する必要が大いにあると思うのであります。
結言を申しますと、ただいま申し上げましたような
理由によって、人として生きたい者は、これは必ず生かしてやらなければいかぬ。決して殺してはいかぬ。人の
生命はそう他動的に殺さなくても自然と死ぬようにできておるのであります。というようなことから、文化的国際人とならなければ私初め
日本民族は生きていかれないということをかんがみた場合に、早く人の命を断つというような
死刑制度は範を示して
廃止すべきだということを痛感するものであります。また同時に、基本的な生きる
生命力から現われてくるところの
人間の行いがいいとか悪いとか申しますが、それが悪い邪性の
行為であるのならば、それを指導するところの善人は、それがそういう
行為をなさないように導いてやる。すなわち善人は悪人を悪い
行為をなさないように導くし、知者はおろかな者の足りない知識を補って事なからしめるというところに初めて善人の善人たる
ゆえんがあり、知者の知者たる
ゆえんがあると私は思うのであります。かく論じますと、むしろ残虐な
行為をなして人の
生命を断つような
行為をなさしめるのは、善人の、知者の責任だと私は言いたいくらいであります。
実は事私の
事件について私は研究し、
考えたのでありますが、
もとより
犯人別府は悪い、悪いがあの
行為をなさなければ生きていかれないというあの
犯人を作り上げたのは一体どうしてであろうかと
考えた場合に、十年前、十七、八ころに
日本が
戦争をして、彼に殺すことを一生懸命教育し、ほんとうの生きる道を教育しなかったところに誤まりがあると思うのであります。同時に一体あの両親はほんとうの親としての愛を彼に注いだかどうかということを私は疑うものであります。
社会は
もとより彼が就職して金をもうけて生きていきたいと思っても、いわゆる就職させてくれなかった、前科者であるがゆえに。こういうところに多く
原因があり、いわばあらゆる生きんとする愛に捨てられたということが彼があの犯行をなした
原因であると私は何度
考えても思うのであります。こんなような意味から、殺されてしまった今日においてこれを論じますと、私は、生きていきたいという
犯人は、これは
法律の力といえども、
国家の
権力といえども、その命を断ってはいかぬ。反射作用が起るからということが私の
死刑廃止の
理由なんであります。はなはだ簡単でございますが。