○
説明員(
横井大三君) それでは、いわゆる
京都五番町
事件と申しますか、この
事件につきまして、四月十二日に
調査に参りましたその結果の概要を御
説明申し上げます。
調査いたしましたのは四月十二日でございまして、
真犯人と称する
佐藤久夫なる者が
検察庁へ出て参りました日が四月四日でございますので、約八日後でございます。で、
調査いたしました場所は、
京都地方検察庁及び
犯行現場付近でございます。主として
関係された
方々から
事情を聴取するという
方法でいたしました。
お話を伺いましたのは、第一に
地検関係で、
検事正の
熊沢孝平氏、次席の
泉政憲氏、
公判部長検事の
中沢良一氏、この
中沢検事はこの最初の
少年四名を
起訴いたしました
事件の
捜査を担当されたのでございますが、これは
少年事件でございますので、本来
少年係検事が担当するのが通常でございますが、
少年係検事でありました
山中検事が欠勤をしておられましたので、前
少年係という形で
中沢検事が担当されたそうであります。次は、
京都地検の
検事の
早川勝夫氏でありますが、これは
真犯人と称する
佐藤久夫の
事件を担当しておられました。それから
少年四名の
公判を担当されました
森島検事、以上が
検察庁関係でございますが、
警察からは
刑事部長の揚子氏と、
監察課長の黒田氏、なお、特にこの四名の
少年は、
家庭裁判所へ一たん送られまして、それから逆送になっておりますので、
家庭裁判所の
調査官にもお目にかかりまして
お話を伺ったわけでございますが、この三名の
調査官でございますが、淵上、塩見、川口の二氏でございます。なお、
公判記録と、
保護事件の
記録等をざっと見て参りました。何分一日でございますので、詳細に検討する余裕はございませんでしたが、とにかく一応は目を通すということで
調査して参りました。私が参りましたときの
調査の焦点と申しますのは、現在
佐藤久夫が、
自分がやったと言って
検察庁へ出て参りました。現在から見まして、宋ほか三名の者を
傷害致死の
犯人として
起訴したのは、結果的には間違っておったのでありますが、一体その
事情はどうであったか。もちろんこれに
関係しまして、
人権じゅうりんの点にも触れてくる、こういうつもりでございました。
第二点は、
西村外二名を
偽証の
疑いで調べまして、そうして、うち二人を逮捕したということがわかっておりましたので、その
事情、大きく分けますとこの二点、それを
中心に調べて参ったわけでございます。
で、
調査の結果は、まず第一の点でございますが、私が参りましたときには、
佐藤久夫が
傷害致死の
犯人であるということを申し出て参りまして、一応
検察庁で調べた
段階でございますが、そのときには、その担当をした
検察官の心証によりますと、
佐藤久夫が
真犯人に間違いないであろう、こういうことでございました。その当時は、なお
凶器に付いております
血痕とか、その他の
裏づけ捜査ができておりません
段階でございましたので、まだ
捜査が完了しておったわけではございませんが、大体当時の
段階で、
佐藤久夫が
真犯人であるということは間違いないだろう、こう申しておりました。
なお、これに関連しまして、
佐藤につきましては、その後、四月十九日でございますが、
傷害致死の
犯人として
起訴した、こういう
報告が参っております。従いまして
宋外三名を
傷害致死の
犯人として、ことに宋が傷をつけたんだ、現実に傷をつけたのは宋であるということで
起訴いたしました
捜査機関、
検察官の
判断は、結果的には確かに間違いであったということになるわけであります。
しからば、なぜ一体そういう
事情が生じたのかという点でございますが、私の聞きました
範囲におきましては、まず宋ほか三名の者が、
犯行の
現場におったということ、これは間違いない事実、現在でも間違いない事実でございます。さらに
宋外三名が、
被害者として傷をつけられました
木下治外三名の者と
犯行現場において格闘をしたということも、これも間違いない事実であります。それから宋ほか三名の、当時
少年でごさいますが、のうち二人が、
傷害行為をしたのは、どうも宋と思うというようなことを
供述しておるのでありまして、この
供述は、
家庭裁判所におきますその
少年の
供述調書にも出ておるわけであります。従いましてこの
傷害を起した
犯人が、この四名の
少年のうちにある、ことに宋ではなかろうかという
疑いをかけるのは無理がなかったのだというような感じがするわけであります。なお、宋の肩衣には
血痕が付着しておりまして、そうしてその血は
被害者木下治の血液型と同じであったということもあるのであります。さらに宋が
警察におきまして自白をしておるということであります。これらの
事情、当時の
状況を総合いたしまして、
検察官といたしましては、
宋外三名が一緒になって
木下治外三名の者と
けんかをいたしまして、その機会に宋が
傷害を与えた、こういうふうに認定したようであります。
ただ、当時の
検察官の気持といたしまして、
凶器が出ておらない。しかも宋が自白いたしました
あと、
兇器の所在につきましていろいろ尋ねますというと、その
供述がひんぱんに変るおけであります。で、変るつど
裏づけ捜査のために、そこへ行って
兇器を発見しようといたしましたが、それが見つからないわけであります。
最後まで
凶器が見つからないままに
事件は終っておるわけでありますが、その点は
検察官としまして非常な心残りであったようであります。
ただ先ほど申し上げましたいろいろな
事情から、どうもこの四人の
少年が
犯人である。ことに宋が
傷害を加えたものであるというふうに考えるだけの十分な
理由がある。こう考えまして、
刑事処分相当の意見を付して
事件を
家庭裁判所に送ったわけであります。
家庭裁判所は、
調査官に聞きますというと、主として四
少年の性格とか環境などを
調査したようでありまして、事実
関係につきましては特に新らしい
証人を呼ぶとか、その点を
中心として調べるということはなさらなかったようであります。しかしながら四人の
少年の
供述、
被害者の
供述、従来の
記録等を検討されました結果、
凶器が出ない点になるほど一まつの疑問はあるけれども、しかしながら客観的な
事情から見まして、相当この四
少年に
疑いをかける
理由がある。しかもこの四
少年につきましては
前歴等を考えまして、
刑事裁判所におきまして審判をしてもらうのが適当である。こういうことから
検察庁へ
事件を逆送して参ったということであります。
そこで
検察官は、この
次庭裁判所の
調査の結果と、従来の
捜査機関の
捜査の結果等を総合いたしまして、
宋外三名を
傷害致死の共犯として
起訴するに至った。こういうような
状況になっております。
起訴事実はお手元にお配りいたしました書面に書いてございますが、この四人の
少年につきましては、
傷害致死の事実と、それ以外に
宋少年につきましては十数回の
暴行罪、あるいは
恐喝罪等がございまして、これらをあわせて
起訴しております。なおそのほか二人の山田、山本両
少年につきましては窃盗あるいは
道路交通取締法の余罪があるというので、それもあわせて
起訴しておるようであります。
これがまあ
起訴に至りました
経過でございまするが、この
経過と、それから
佐藤久夫が
真犯人らしいということの確定いたしました現在の
状況から
判断いたしますと、まあいろいろ
捜査に欠陥があったということが考えられるのでありますが、そのおもなものを私の
判断であげて見ますと、まず第一に、
事件発生直前、
現場付近において
被害者木下治と、
佐藤久夫とが
けんかをいたしまして、
仲裁人が入って一応おさまっているという事実があるのであります。このおさまった
あとで、もう一度
けんかがあるわけでありますが、その
けんかのある
一つ前に、
被害者と、それから
真犯人と称せられる
佐藤久夫とが実は
けんかをいたしておりまして、そういう事実が
捜査の上に現われておらなかった。従って
佐藤久夫という
人物が、もしこの事実が明らかになっておりますというと、くっきり浮び上っておったのではなかろうかと思われるのですが、その点には
捜査が及んでおらなかった。この点が
一つと、それから
犯行の
直前及び直後に
佐藤久大が
現場付近の酒場に立ち寄りまして、そこの女中に
事件の
現場を見にやっている事実が、
佐藤久夫の
供述から出てくるわけであります。それがもしわかっておりますというと、やはりこの場合におきましても、
佐藤久夫という
人物が浮び上ってくるはずであったわけでありますが、その点が前の
捜査には現われておらないということ。それから
木下らと、宋らとの
けんかに
仲裁人がいたということが、
捜査の
過程に現われておりますが、これがいつの間にか消えているわけです。この追及がもう少し行われれば、あるいは
真犯人なるものが浮び上ってきただろうと、こう思われるわけであります。
で、これらの
事情は、これは
真犯人が現われましての現在から推測いたしますと、そういう点にやはり不十分な点があったのではなかろうかと思われるのでございます。当時の
状況としてどうであったかという点は、これまた別個の
判断になろうかと思います。
次に宋が自白しております。
警察で……。この点において
人権じゅうりんがあったのではなかろうか、こういう疑問が当然持たれるわけであります。で、私の調べました
範囲では、少くとも
検察庁の
取調べの
段階におきましては、そういうことはなかったように思われるのであります。
警察における
取調べの
段階でございますが、この点につきましては、直接
取調べをいたしました
方々に私はお目にかかることをいたしませんで、現在
警察におきまして、この
捜査の
過程における
人権じゅうりん問題を
調査しているということでございましたので、その
調査をしておられる方にお目にかかって伺ったのでありますが、私の伺いました当時におきましては、
被告人らの主張しておりますような、そういう
暴行、
脅迫等の事実は、具体的には現われておらない。ただ、しかしながらこういう
事件があるから、徹底的にその点を調べる。で、遠からず結果がわかると思う。こういう
お話でございました。私はその
程度で、
警察の
捜査、
調査の結果を伺うということで、
警察関係の調へは、それで打ち切って参ったのであります。
以上がこの第一の問題、つまり
宋外三名を
傷害致死の
犯人として
起訴した
事情でございます。
次は
偽証の点でございます。
検察官は
昭和三十年の、昨年の十一月十七日に行われました
佐藤和代の
公判廷における
証言、これがございますが、これに一応
虚偽ではないかという
疑いを持ちまして、さらに本年の二月十六日に行われました
村松泰子という
証人の
証言に至りまして
偽証の
疑いを濃くいたしました。そこで二月二十四日
村松証言の行われました後約八日たっておりますが、
西村というものを
偽証教唆で逮捕いたしました。それから三月二日に
村松を
偽証で逮捕するに至った、こういう日時の
経過になっております。
しからば、どういう意に、どういうところから
偽証の
疑いを持つに至ったかということでございますが、
佐藤和代は
公判廷でどう述べておるかといいますと、
事件の当夜鍋
町通り七本松角、これは
犯行現場のかどでございますが、で七本
松通りを南から北に走って行った男に突き当った、
京都は
南北東西に碁盤の目のように道がなっておりますが、そのかどを南から北に走って行った男にそのかどでぶつかった。その男は白い
上着を着て
帽子をかぶって、黒か紺の上市を着ておった、突き当った後、その男は鍋
町通りを東に行った、つまりかどから右に曲って行った、その
直前鍋町通り六軒町のかどの
公衆便所で人が手を洗っているのを見た
友人から、
刃物を洗っていたと聞いた、しかしながらその
友人の氏名はわからない、こういったような
供述をしたわけであります。ちょうど何か
真犯人らしい
本件被告人以外の
人物に会ったというような印象を与える
供述でありました。ただ、この
佐藤和代の
証言につきましては、その
供述調書、
公判記録を見ますと、それ自体それほどはっきり出ているわけではございません。この
程度のことでありましたので
検察官としては
疑いを持ちましたが、そのままにしておったようです。ところが本年の、一月十六日に行われました
村松証人の
証言かございました。この証、言では、実にはっきり
真犯人らしい者を見たという
供述になって参るわけであります。
村松証人は
法廷で、
事件当夜六軒
町通り下長者町西南かどの
公衆便所——これはかなり
犯行現場から離れます
——で、白いアンダーシャツか白い
毛糸の
トックリシャツを着ておって、濃い紺の
背広を着て
中折帽を
左斜めにかむっていたようでありますが、右側の前の頭の毛が縮れておって、パーマをかけたように見えた。
雨ぐつの短いのをはいておって、ズボンのすそをその中に入れた男に会った、その男が
自分を押しのけるようにして手を洗いに来た。その男の洗っておるのを見ると、二本筋の入った
日本手拭を洗っており、さらに何かぴかっと光るものを洗っておる、その男はそこから南の方に行って
自分は
北の方に行った。そうして鍋町のかどで
佐藤和代に会った。先ほど出て参りました
佐藤和代の
証言では知らない人だといっており、
村松の
証言では
自分が会ったということで
村松と
佐藤とは親しい
間柄であったわけですが、そういう
供述をいたしたわけであります。
村松の
証言は非常に明確であります。ことに、ここには書いてございませんが、手や手拭いを洗っておった
状況をこと細かに述べておる、
村松の
証言があった直後、その日のうちに
裁判所は
現場検証をいたしております。それで、
村松証人の
証言によりますと、六軒
町通り下長者町のかどということになっておりますが、そこへ行きましても
便所はございません。それでその
付近に二つございまして、
北の方に鍋
町通り六軒町かどに
便所がありますが、これは先ほどの
佐藤和代の
証言に出て参ります
便所であります。それからそれより西の方に七本
松通り下長者町かどの
便所がございます。これはかなり離れております。
村松を連れて参りますと
証言した所には
便所がない。そこでまず鍋
町通り六軒
町通りの
便所へ連れていきましたら、これは違う。実はここが後に
真犯人が手を洗った所でありますが、違う、でそれよりもずっと西の方になりまする七本
松通り下長者町通りのかどの
便所である。こういうふうにはっきり言ったようでありまして、そこで一体その
村松証人の明確に否定いたしました
便所で、果して当時の照明の工合から、そんなに詳しくはっきり見えるかという点に非常な疑問を持ったようであります。しかも
佐藤和代は名前を知らない人から何か光るものを洗っておったという
供述を受けておりますが、それは
村松の
証言では
村松である。
村松と
佐藤はよく知った
間柄である。その他
服装等の点について多少の食い違いが見られる。こういうような
状況から、
検察官としては
偽証の
疑いを深めまして、
村松証言のありました後、しばらくたちましてから、
佐藤和代を調べたようであります。そうしますと
佐藤和代はもちろんはっきり
偽証だということではございませんが、その調べの結果によりますというと、
佐藤は、
西村正美という者に頼まれて、
自分と突き当った男の
服装について、
記憶に反する
供述をした。それから
村松から頼まれて
公衆便所で洗っていたのは
刃物であると聞いたと
記憶すると
供述するように頼まれた。こういうようなことを述べております。そこで、少くとも
佐藤が、
証言の一部ではございますが、
記憶に反する
供述をしておるということで、しかもそれは
西村から頼まれた、こういうことで
西村を
偽証教唆で逮捕いたしました。それで次いで
村松泰子を逮捕するに至ったのでありますが、
村松はこう言っております。
自分の見た男は
えりの分厚な
白えりの
トックリシャツを着て、
マフラーを前から首に巻きつけていた。
佐藤和代から
上着を着ていたと
法廷で述べたので、それに合わせてもらいたいと言われてそう述べた。先ほど申し上げましたように濃紺の
背広を着ておるという
法廷の
証言でありますが、
マフラーを前から首に巻きつけておった、白の
トックリシャツを着ておった。これはその後
村松証人につきまして
検察官が聞きましても、この
供述は変っておらないようであります。さらに
西村も、
浜田——これはこの四
少年のうちの一人でございますが、
浜田の母親から、
現場付近で
真犯人らしい人を見かけた人があったらば教えてもらいたい、こういうふうに言われて、
佐藤和代が
トックリ白シャツ、
中折帽子の男にすれ違ったということであったので、
裁判官にはっきりわからせるために衝突、突き当ったというふうに述べてくれ、こう言われた、こう申した。それで
佐藤和代の
証言は先ほども申し上げましたように突き当ったという
証言になっております。しかしながらこの
村松、
佐藤、
西村等を調べましてそれ以上の
証言は得られなかったのであります。そこで
偽証事件の性質上、これ以上追及しても追及することは困難であろうというところから、
村松を逮捕をしました即日
西村、
村松を釈放いたしておりますのであります。
以上の
証言と、それから
佐藤久夫が出て参りまして当時の
服装を述べましたところといろいろ検討いたしてみまするというと、
村松が
法廷で
供述しました男の
服装というのは、
佐藤久夫の当夜の
服装ときわめて類似しておるのであります。その点に関する限り
虚偽ではなかった。客観的事実には合っておったということになるのでありますが、一体なぜそのような一致したのか。私が調べて参りました覇時の
状況では、はっきりいたさないのであります。で、ただ私が、これらの
状況から想像いたしましたところによりますと、
佐藤久夫の
服装というのは、この
佐藤久夫が
浜田らと、つまり宋ほか三名の
少年と、
木下治あるいは
木下治の
兄等が、
犯行現場で相対峙して、今にもなぐり合いを始めようというその
現場へ立ち現われまして、そうして
けんかの中に入っておるわけであります。従いまして
浜田は
自分のすぐ目の前でこの
仲裁人として現われた
佐藤久夫を見ておるわけであります。それがいろいろ伝わり伝わりまして、
佐藤、
村松の
供述になったのではなかろうかと、こう推測されるのであります。これは推測の
範囲を出ません。
ただ
西村、
佐藤、
村松間に
供述の一致をはかるためにある
程度の打ち合せの行われたということは、これらの
関係者の
供述からうかがえるのであります。それを
検察庁は
偽証工作、こういうふうに考えたと思われるのであります。以上が
偽証罪として
事件を
捜査した
経過でございます。
最後に
佐藤久夫が
検察庁へ出頭するに至った
事情でございますが、
佐藤久夫は母と姉、妹各一人とおりまして、姉は
谷口義弘弁護士の
事務員をしておられる方のところへ嫁しておられますが、
佐藤は
事件直後非常に沈みがちであって、今年になってから特にひどかったようであります。三月二十日過ぎごろ「真昼の暗黒」という映画を見まして、その煩悶を特に強めまして、三月二十日に至ってこの姉の主人であります高木氏に
犯行を打ちあけ、直木氏から母に伝わりまして、そして母が自首を勧めるというような
経過をたどりまして、そうして四月四日に当時の
服装——白い
毛糸の
トックリシャツと紺の
背広の上下、皮の半長靴とナイフ、
中折帽を持参しまして
検察庁へ出頭したという結果になっております。
私が
調査して参りました
段階におきまする当時の模様というのは以上でございます。