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羽仁五郎君 国会において初めて
死刑廃止法案が
提案されたのでありますが、その
日本の
刑事政策上また
日本の歴史の面から考えてみましても、実に重大な
意義を持つ本
法案が、どうか本
委員会において、十分に慎重に
審議せられたいということを希望いたしまして、ただいまの
提案理由の
説明に対して多少
補足をさしていただきたいと思います。
その第一は、大体現在この
死刑廃止の
立法措置をなすべきであるということの動機についてであります。この
最大の
理由は、最近
凶悪犯罪が激増しておるということであります。最近
凶悪犯罪が激増している際に
死刑を
廃止するということは時期尚早ではないかという御意見があるようですが、われわれの
提案の第一の
理由は、その最近
凶悪犯罪が激増しているということを放置すべきでなく、それに対する
立法者の緊急の
義務として
死刑廃止を
提案すべきであるということがわれわれ
提案の第一の
理由であります。
最近
凶悪犯罪が激増しているということの
理由は一体どういうところにあるか、私はやはり衆目の見るところ、またあらゆる画から考えてみまして、その原因が最近の
戦争にあったということは、おおうことのできない事実であろうと思います。ヨーロッパにおいてもドイツが一九四九年に
憲法をもって
死刑を
廃止いたしまして、その九ヵ月後に
西ドイツの
議会において再びこの
死刑を復活させようとする
努力がなされましたときに、
西ドイツ議会の
社会民主党の議員の
マイヤー・ラウレ夫人が、次のように述べておられます。最近の
戦争によって
生命を
尊重するという
観念ばかりでなく、死をおそれるという
観念までもが破壊されてしまっている、道徳、
モラルというものが最低のところまで、
戦争の結果、落ちてしまっている、このときに当って、
立法者の
義務は、この破壊された倫理的な
価値というものを再び回復さして、そうして最近の過去の野蛮な
状態から、将来のヒューマニズムの
時代に向って大胆に
第一歩を踏み出すことであるというふうに考える、というように述べておられますが、これは全くわれわれと見解が一致する点でありまして、この
戦争によって低下した
モラルというものを、そのままに放置しておくべきではない。最近の
凶悪犯罪の激増について、
立法者はまず第一にこの点に注目すべきであると考える。最近
凶悪犯罪が激増しているのに、
死刑を
廃止してどうするのだという御
議論は、この点において私はどうか十分に再検討をしていただきたい。
なかんずく青年の間に
生命を
尊重する
観念が地を払っているのみならず、
自分が死ぬということについての
恐怖の
気持さえも浅くなっている。この
状態をわれわれは何とかして打破しなければならない。この
意味において、
本法提案の第一の
理由は、現在
凶悪犯罪が激増している、これを何とかして阻止しなければならぬ、その阻止する根本的な
方向は、
人命尊重、そしてこの
死刑廃止ということからこなければならない、この
意味から申せば、現在
死刑廃止は今日きわめて急を要する問題でありまして、現在のように
生命尊重の
観念が低下している
状態を一日も存置すべきではない。なかんずく、そういうように
生命尊重の
観念、その
モラルが落ちているときに、
死刑を存置していることによって、
現実に現われているあり方は、ことに
青少年あるいは
一般国民の間に、
凶悪犯罪を、罪をおそれるという
気持よりも、
死刑をおそれる、
刑罰をおそれる
観念の方が強くなってしまっているということであります。で、ときどき聞きます
講論に、たとえば現在
死刑を判決せられた
方々、そういう
方々が、
死刑を前にして、すっかりそれを
観念せられて、きわめて高い
精神状態になっておられる。ところが、そういう
方々が何かの
関係で減刑せられますというと、その態度ががらりと変ってしまうということを、
刑務官、あるいは
刑務所関係の方のお話の中にありますが、これも何を現わしているかといえば、まさに刑をおそれているだけであって、罪をおそれてはいないのです。私はこの旧民の間に刑のみをおそれて、罪をおそれないといろ
観念が発生していることぐらい、
刑事政策上危険なことはないと思うのです。
人間はやはり刑をおそれる前に、罪をおそれるのが当然であります。その正常な
状態を回復しなければならないと思うのであります。私はその
意味で、この
本案が幸いにして本
委員会の慎重な
審議を受け、可決せられた暁には、必ずこの
凶悪犯罪の阻止に有効なる効果があるものと確信をしております。
以上が
立法論としての特に
補足さしていただきたい点でありますが、次に
法理論として
補足さしていただきたい点が三点ございます。およそあらゆる
法律というものは、常に私は次の
三つの
条件を具備していなければならないものと思っております。その
三つの
条件と申しますのは、そういう法が必要にして欠くべからざるものであるかどうか、ただいま
現実の問題としては
死刑というものがなければ、世の中が成り立たないものであるかどうかということが第一点であります。われわれ
立法者は、決して必要欠くべからざる以外の
法律を作る権限は持っていない。それがなければ
社会が成り立たないというものであって初めて
法律上
死刑というものを存置せられることを許されるのでありますが、果してこの
死刑というものは、それがなければ
社会が成り立たないものであるかどうか、これが第一点。
それから第二点は、いかなる
法律であっても、それにおそるべき
乱用があるような
法的措置を存置することは許されない。
死刑というものがおそるべき
乱用を伴わないということが断言できるかどうか、この点が第二に十分考えられなければならぬ。
最後に、あらゆる
法律は、それによって不当な待遇を受けたと考える人がある場合に、それを救う
方法がなければならないわけであります。しかるに、この
死刑の場合には、不当に
死刑を受けたという人が救われる道があるかどうか。
以上の三点が私は
立法上特に厳格に守られなければならない要点であると思います。
しかるにこの第一点、
死刑というものはそれがなければ
社会が一日も存続し得ないものであるかどうか。実際の各国の
統計の示す数字から結論されることから見ましても、現在
世界には多くの国において
死刑が
廃止せられております。
死刑が
廃止せられた国々がその結果として、決してその
社会なり
国家の
状態が不安に陥っておるのではなくして、かえってそこに
社会状態、また
国家の
状態としても、はるかに確実な
状態が実現されておることは、
統計の示す
通りであります。
死刑を
廃止したことによって
凶悪犯罪の増加した例は
一つもないと言って差しつかえないのであります。ごく
短期間に、そうして狭い範囲内では、ただ
一つスイスの
三つばかりの州におきまして、
死刑を
廃止して、後数年間
凶悪犯罪が若干増加しておるという
実例がございますが、これも長い目で、それ以前の二十五年間、それ以後の二十五年間というものを比較してみますと、やはり長い目で見れば、
死刑廃止によって
凶悪犯罪が増加しておるのではありません。ただ
一つこの部分的な、しかも
短期間な事例があるだけでありまして、その他はいずれもこの
死刑廃止によって
凶悪犯罪が増加しておるという事実はないのであります。これはまさにこの
死刑というものが、それがなければ
国家社会の秩序が維持できないというものではない。それから次に、それが有効であるかどうかということにつきましても、
死刑が有効でない、全然無効だということはもちろん言いがたいことでありますけれども、しかし
死刑というものはあまり有効なものではないということは、現在
日本におきましても
死刑があるにもかかわらず
凶悪犯罪が微増しておることが何よりもそれを証明しておる。つまり、
死刑というものは、それがなければ
社会が存続できないものでもないし、かつまたその
死刑によって
凶悪犯罪を阻止するのに著しく有効なものでもないのであります。
しかるにこの第二点、
死刑にどういう
乱用があるかといえば、これはまことにおそるべき
乱用があるのでありまして、その
最大の
死刑の
弊害というのは、やはり
人間社会に及ぼす堕落的な
影響であります。
人間が
人間を殺すということが
社会に与える
影響は、
人間的な感覚の麻痺という点において最もおそるべきものがあります。従って、具体的にもこの
死刑が、先ほどの
提案理由の
説明にも述べられておりますように、この
死刑に
関係する
人々に対しておそるべき
弊害がある。またその中でもなかんずく、今日のように発煙してきましたマスコミュニケーションを通じまして、あるいは
新聞、
ニュース写真、あるいは
ラジオ、
テレビなどによって
青少年に与える
弊害は、実におそるべきものがあるのであります。こういう
意味で、この
死刑の持っておりますところのおそるべき
弊害の
性質というものは、特に他の場合と異るものがあります。
最後に、この
死刑によって不当な処置を受けたと考える人が、あるいはそう判断された場合が、救済できないということが、また最も大きな問題であります。
議論をする人の中には、この
誤判の問題は
死刑に限らないので、
裁判一般に
誤判の問題はあるのであって、
誤判ということを問題にするならば、
裁判ということを否定しなければならないということを
議論される方がありますけれども、しかしながら、人の
生命は法によって与えられたものではない、それを法によって奪うという
関係から、この
死刑の
誤判は
一般の
裁判の
誤判の場合とは
性質を異にしておるものがあるのであります。
一般の
裁判の
誤判の場合には、完全に救済することはできないにしても、何らか救済する余地があるのでありますが、一旦殺してしまった人の命を取り返すことはできない。しかも、
日本では幸いにして
裁判が
槙重に行われておる結果、
死刑の
誤判の
実例を見ないということを言っておられる方がありますが、これはまことに驚くべき
議論でありまして、
明治三十年代において
刑法改正の際に、当時の
内務省監獄局事務官小河滋次郎博士が発表されました著書の中にも、
死刑の
誤判は、その
誤判を争うべき
本人がすでにこの地上にいない、その
理由からも
死刑の
誤判は明らかにされがたい。他の場合であれば、その
誤判を明らかにすることによって利益を回復する人が生きているのでありますから、その御
本人がさまざまな
努力をして、
誤判があればこれを明らかにするのだけれども、
死刑の場合には、その
本人が死んでおるために、その
誤判を明らかにしようとする
努力がなされない。次に
警察、
検察あるいは
裁判所においては、
自分たちが間違って
誤判をやったという事実を、世間に明らかにすることを好まないのは当然でありまして、従って
誤判の事実を隠蔽するということは避けられない。このために
日本では
死刑の
誤判というものは明らかにされていないのであるということを、
明治三十年代において
小河博士が指摘しておられるのであります。ごく最近イギリスで明らかになりました、エヴァンスという人の
事件の
誤判というのも、
真犯人が
警察官の経歴を持っていたために、この
真犯人がなかなか発見されがたかったという事情がございますが、私は
明治時代からの資料をいろいろ調べてみまして、その中に、
明治時代の
統計の上に現われている事実に、
一つはその
被害者、すなわち殺されたという人がその
犯罪行為以前に死んでいるという場合がございます。それからいま
一つは、その
被害者、殺されたという人が依然として生きている、そのためにその
死刑の判決について再審の申し立てをされている
実例がございます。また
政治的な
関係におきましては、あるいは
幸徳秋水先生の
事件であるとか、その他
日本の
死刑の
事件において、
誤判がないということは決して言えないことであろうと思うのであります。従って、
日本は
裁判が慎重に行われているから、
死刑の
誤判という心配はないという
議論は成り立たないものである。いわんや
人間のするところの
裁判でありますから、
日本の
裁判であっても決して
誤判がないということはできないのであります。
明治四十年に、
刑法改正の際に
死刑が
廃止せられなかったことを嘆いて、看
獄協会雑誌に
典獄の
方々あるいは
教戒師の
方々が論文を発表されておられる。その中に、長年
典獄として
死刑囚を手がけた方が、
人間が誤まって人の命を一人
死刑によって断つならば、百の
法律を正しくしてもこれを救うことができないというように指摘しておられますが、全くこの
死刑の
誤判の問題は、今日考えられておる以上に重大に考えられる必要があると考えるのであります。
結論といたしまして、十分にお考えを願いたいと思いますことは、これは
牧野博士なども指摘せられておる点でございますけれども、
政治家は
死刑に託して
社会をよくし、
政治をよくする責任を回避すべきでない、今日なおまだ
社会をよくし、
政治をよくするという
努力の上において、なすべきことが多々ある。それがなされていないために
兇悪犯罪が起り、その結果
死刑というものが生じておる場合が決して少いとはいえないのであります。この点を
牧野博士は指摘しておられるのでありますが、われわれはこの際
死刑を
廃止することによって、悪い
政治をやり悪い
社会をそのまま存続させておいて、
兇悪犯罪が発生すればそれを
死刑によって防ごうというような
方法でなく、
死刑を
廃止するということによって
社会をよくし、
政治をよくする
決意を現わすべきであると考えるのであります。
世界の
刑事政策あるいは行刑上の最近の進歩を省みてみますと、実に驚くべきものがあります。
わが国の
状態が著しくおくれておることはまことに残念であります。ごく最近アメリカのウィスコンシン州においては、二、三年前から、
刑罰というものは
犯罪に対して下さるべきものでなくして、その
犯罪を犯した人に対して与えられるべきものである。従ってある種の兇悪な
犯罪をやったから
死刑であるとか無期であるとか、あるいは長期の禁固であるとかいう
刑罰を下すべきでなくて、その罪を犯した人をよく研究して、それの人にどういう
刑罰が適するかをなすべきだ、そういう新しい方針を
ウイスコンシン州では実現しておるのであります。これは
刑事政策上革命的な新しい考え方だといっても差しつかえないのでありますが、その結果、この二年間に
ウイスコンシン州では従来そのまま
刑務所に送っておりましたおよそ六千人の中の三千人を
刑務所へ送らないで、
社会の中でその改善の
方法をはかっておる。そのためになすべき一番重要なことは、その罪を犯した人が欲する
職業を与えることである。
人間は
自分の欲する
職業を与えられるならば罪を犯すものではないのであります。そういう
意味で
ウイスコンシン州では、従来のやり方であれば
刑務所に送るべき六千人の人の中の三千人は
刑務所へ送らないで、その
人々に、
自分でやりたいと思っておる
職業を与えて、それによってみずから改善するという
努力をさせて、いわゆる故殺の場合でありましても、その二五%は
刑務所に送らない、
日本でありますればあるいは
死刑あるいは無期というふうに当るような
人々を、無期あるいは
死刑どころではない、
刑務所にも送らないで、
社会に置いて、その人の欲する
職業につけて、その人がみずから改善する
努力を助けておるのであります。こういうように、これは
ウイスコンシン州の最近の例でございますが、
世界の現在の
刑事政策は、刻々に進歩をしておる、その際にわれわれは、
日本においてはなはだおくれた
状態にあるということは許さるべきではないと考えるのであります。特に敗戦後、そうして
兇悪犯罪が激増しておる際に、
死刑を
廃止するということが時期尚早であるというようなお考えが現在まだ非常に強いことは残念でありますので、以上の点を特に
補足的に申し上げさしていただいた次第であります。