○
安部キミ子君 直接
選挙が
民主主義でないと、こういう
民主主義に反する場合もあるので、任命制に今度の
法案を作りかえたと、わけても女が、非常に出たいと思うような人でも出ないだろう、これはおとといの、二、三日前の
委員会でそう言われました。いい人がおられるのだけれ
ども、ああいう人を
教育委員に出せばいいと思っておるけれ
ども、そういう人は立候補なさらないので、そういう人を今度任命したいと、こういう
意味もあって任命制がいいということを言われました。実は
大臣は御
承知でございましょうが、私も県の
教育委員をしておりましたが、
選挙というものはなみなみのものじゃないですし、ずいぶん苦労したもんなんです、もちろん、私よりもっと立派な一人が山口県にも女性の方であるいはおられたかもしれない。私はばかであったものですから ばかな者が
教育委員になりましたけれ
ども、先日の話によると、そういうふうな
お答えにもなろうかと思うのです。(「ならぬ」と呼ぶ者あり)そこで、私はそういうふうにたとえば
教育委員になって、県なら県の
教育行政を立派にしていきたいと、少くとも
自分の自主的な
気持が動かなければ、こんな
選挙というような大きな仕事に立候補する人はいないのです。まして、女性というふうな
立場の人はもうよっぽど気違いか何かばかでなければおそらく立候補の決意をしないと思うのです。私はその類に属するものでありますので、そういう過程を経てきましたが、しかし、また一面から
考えますと、任命されて意欲のない人が
教育委員になって、果してほんとうに責任のある
教育行政をやり得られるかどうか、私はこういう点にも疑問を持ちます。私の体験から通して疑問を持ちます。それから
地方民が
選挙したと、
地方民は
選挙するからには非常に関心を持っておるわけですね。この
教育委員会というものに非常に関心を持っているのです。それで
教育委員が何をするか、
教育委員という仕事はどういう仕事かと、こういうことは年々年を経るに従って
地方の人たちも関心が強くなってきている。一例を申し上げますと、私の町で一昨年小学校に火事がありました。その火事で焼けます前までは
地方の
教育委員会制度ができるということにいろいろ
議論がありまして、むしろ、その空気は、
地方教委は作らない方がいいと、こういう
考え方があったんです。ところが、火事があって、さあ再び学校を建築しなければならないというこの子供の幸福についての直接の問題が起ってきますときに、一番私の町、市でございますけれ
ども、市民の
気持をくんでよく学校の再建に努力して下さったのは、やはり
教育委員会の方だったのです。そうして、やっぱり
教育委員会制度はいいものだと、地教委はよくないといって初めは反対したけれ
ども、私の市でこの学校がりっぱに再建できたのも、やっぱり
委員会制度があるからよかったし、また私
どもが
選挙した
委員が働いて下さったことに非常に私の市でも市民が喜んでいるわけです。それが今度任命になりまして、まあ任命といいますと、半分はお役人みたいな
気持でありまして、まあこの任命ということが果して
先ほどの二本建の問題、予算の獲得の問題にも私はつながって、もっとゆっくり
大臣の
意見も聞きたいのですけれ
ども、やはり直接
選挙すれば、それだけ関心が深まるわけです。そうして、また責任も感ずるわけなんです。その市の
教育委員がおかしいことをやったりなんかすると、なんだあんなのに投票してということになる。早い話が、国
会議員のわれわれでも、おかしいことをしたり、あるいは乱闘国会なんかしますと、
選挙した県民の人たちは、何だ
自分が
選挙した代議士はあんな行為をやっているじゃないかというふうに非常に関心が強い。でありますので、私は
大臣が
先ほどからるると任命制の方がりっぱな
教育行政ができると言われますけれ
ども、私が実際に通っで来た道を振り返ってみましても、決してそういう答がそのまま真実とはならないと思うのです。
それからもう
一つ、
先ほど申しましたように、
中立という問題なんですけれ
ども、私はこの
中立という問題でも、この言葉自身を、この
中立という
内容を
大臣がどういうふうに
考えておられるか、
教育の
中立、
政治の
中立というふうなことをどういうふうに
考えておられるかということも疑問があるわけなんです。そこで私は結論的に、
大臣が
国民のためにと言われますけれ
ども、その制定をする人が、
先ほど申しましたように自由党の
市町村長であったり、あるいは知事であったりすれば、どうしても
自分の党に属するような人、
自分の
政治に都合のいいような人、あるいは二本建なんかで、もちやもちややってくれないような人、いわば
調和という言葉の
意味についても、私はそのままそういうことになれば、
調和という言葉は使われないと思う。これは
一つの権力ですよ。圧力ですよ。
調和にはならないと思う。
自分の思ったようにしようと思えば、どうしてもそこに圧力的な色彩が出てくる。でありますので、
大臣の方の
提案説明に、
調和という言葉がしばしば使われたし、またあなたにも今までの
委員会で言っておられますけれ
ども、必ずしも
調和ではなくしてそれは圧力だ、権力だと、私はこういうふうに解釈する。なぜなら、どうしてもその一党一派の知事さんなり、市長さんなり、町長さんなり、村長さんなり、
自分のめがねにかのうた
議員を任命するという形になるまいと思ったって、なるのが常識なんですよ。そういう建前から、あなたが
中立と言われますけれ
ども、こういう言葉が一体成り立つかどうか、これも国のためになる、
国民のためになる判定という、その判定そのものにも問題が出てくる。それでそれの責任を、
国民自身が、地域社会の
国民自身が真接の責任を持てば、もし間違っても
国民自身に責任があるわけです。たとえば乱闘国会をするようなあるいは小
選挙区法のような案を出すような国
会議員を
国民が出していろいろな批判があったとしても、それを突き詰めて
考えれば結局
国民自身に責任があるわけです。そういう国
会議員を出したということに。こういうことで
国民自身が責任を持つという建前からいけば、あくまでも直接
選挙よりほかにないということの
前提に立たなければ、私は
教育委員会法の第一条にも、
教育基本法にも沿わないと、こういうふうに
考えますが、
大臣はどうなんですか。