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矢嶋三義君 関連して。先ほど吉田
委員から学者を謳歌して云々と言われましたが、今のところ謳歌したのは安倍先生だけで、私ども学者のことは一言も言っておりません。(笑声)だから本
委員会全体がそうだと思われては困りまするので(「けっこう、けっこう」「わかりました」と呼ぶ者あり)そういうことは云々ということは申しませんが、ただ重大なことは、東京の十総長、学長によるこの声明並びにこれが全国民に及ぼした影響について先ほど
質疑があったわけですが、この点について
文部大臣は先刻こういうことを言われました。学者がわれわれの
文教政策にとやかく言ってもらいたくないと、こういう
発言をたしか午前中だったかと思いますが
発言されたが、これは私は重大だと思うのです。それで関連
質問を私はこの学長諸君の声明にしぼって関連
質問するわけですが、先ほど
大臣は
教育は時の
政治の動向によって左右されてはならない、賛成だ。
教育の制度と
方針はこれを政争のほかにおいて安定せしむるべきである、賛成だ。こういう御
発言ですが、一体こういう文書を読む場合に五つか六つの活字をとってとやかく言うべきものではない。その声明自体、全部に流れる大きな筋をわれわれは把握しなくちゃならぬと思う。かかるがゆえにこれには「
文教政策の傾向に関する」声明と書いてある。そうしてずっと作文がされているわけですが、この声明の重点は、
政治の動向に左右されてはならない、
教育の制度と
方針は政争のほかにおいて安定せねばならないが、「この原則をあやうくするかに思われる。」すこぶる謙虚に書かれてあります。「原則をあやうくするかに思われる。」それから「民主的
教育制度を根本的に改変するにいたるものである。ことに
教育に対する国家統制の復活をうながす傾向」の顕著であること。それらが将来「言論、思想の自由の原則をおびやかすおそれもある。」と、かような案を作るに当っては、慎重の上にも慎重を期するように厳に戒めなければならない。こういうところがこの声明の眼目であって、私はこれは学者が出しゃばったとは思わないのです。私があえてここで
文部大臣にただしたい点は、戦時中のことを想起していただきたいと思うのです。戦前及び戦時中に
日本の学者に学者としてのいかなる自由が保障されておったか。真実を語り、あるいはそれを活字にして発行すると、その学者は学園から追放されておりました。かような国民が真実を、真理を教えられなかったがゆえに、あの敗戦の苦杯をわれわれはなめたと思うのです。その反省のもとに、戦後の
教育というものは発足しているわけです。学者が国家公務員であるから、一国の
文教政策にとやかく言うなということの
考え方というものは、私はあやまちを再び繰り返すおそれがあると思うのです。一国の
責任のある総長、学長、学者として学問的な
立場から学究徒としてこういう点についてこの
発言、意思表示をされるということは、私は民主主義国家としては当然であると思うのです。ああいう人々も私は直接会ってはそう聞いておりませんが、いろいろと御
意見を持ちながらも、自己の研究に専念し、その大学の自治と発展のために象牙の塔にこもられて努力されておったが、最近の
文教政策の傾向をつぶさにながめるときに、いても立ってもおられないという、こういう学究徒としての耐えられない心境から象牙の塔からとび出して来られて、こういう声明をされたものと私は推察をしております。従ってこういう声明というものは、私は国民としては、これは傾聴してしかるべきだ、また、為政者というものは格段と私は耳を傾けてしかるべきだと思う。ということは、一人か二人の風変りな学者が
所見を述べられたなら別ですよ、特にこの十人の中の木下一雄先生、この人は学者グループの一部では、
言葉をここで言うのは穏当かどうかわかりませんが、言わなければわかりませんから言いますが、学者グループの一部では木下一雄先生は非常に
文部省の御用学徒だというようなことを言う人もあった。これは当っているか当っていないかは別です。しかし学者の一部にはそういうことを言う人もあった。その木下先生がここに名前を連ねたということで、
文部省の人々はがく然としたということを伝えている。御心情御推察申し上げます。この木下さんまで名前を連ねてある。こういうものに耳を傾けられるのは当然であって、学者がわれわれの政界のことにとやかく言うべきでないという、これは
文部大臣としてはいかがかと思いますので、重ねて
所見をただしたいと思いますが、この
発言を若干修正されれば、私は追及いたしません。しかし、
大臣の
答弁次第ではさらに私は
質問をいたしたいと思います。速記に載っています……。