○
参考人(
矢内原忠雄君)
臨時教育制度審議会設置法案についての考えを述べるようにということでございますが、私の
結論は、このような
審議会を設ける必要はないだろう、場合によってはかえって有害なことにさえもなるおそれがないだろうかという心配をするのです。そのわけを短かく申し上げてみたいと思うのでありますが、第一は、
制度的に考えまして、現在
中央教育審議会というものが
文部大臣の
諮問機関としてございまして、そのほかにこの
臨時教育制度審議会を設ける必要はないだろうということが第一であります。
それで
中央教育審議会の
権限といいますか、それはまあ御承知のところでありますが、「
文部大臣の
諮問に応じて
教育に関する
基本的な
制度その他
教育、
学術又は文化に関する
基本的な
重要施策について調査
審議し、及びこれらの事事に関して
文部大臣に建議する。」となっておりまして、非常に広範にわたっております。このたびの
臨時教育制度審議会設置法案の第二条を拝見いたしますと、「
教育に関する
現行制度に
検討を加え、」ということが
目的として掲げられております。それで
中央教育審議会は
教育に関する
現行制度に
検討を加える
権限がないか、
中央教育審議会にそれがないから今度の
審議会を
お作りになるかと申しますと、
中央教育審議会においても、
教育に関する
現行制度に
検討を加えることができるわけです。そして、できるのみならず、実際行なってきたことであります。私は
中央教育審議会の
最初からの
委員をいたしておりまして、途中で二カ年の任期が切れまして、あらためて任命されまして、
最初からの
関係者ですが、
中央教育審議会は、単に
文部大臣の
諮問に答えるだけでなく、みずから重要問題を取り上げて積極的に
検討を加え、
大臣に建議することができるという、そういう方針が確認されまして、その
通りに運営されて参りました。途中で二カ年の任期が終って改選になったときも、そのことを確認いたしまして出発いたしました。それで
中央教育審議会でまず取り上げられました問題は、六三制の
検討という
学校体系の
検討から始まりました。それで皆で相談をいたしまして、六・三・三・四制の一番低い段階、すなわち
義務教育から出発しようというので、
小学校、
中学校と順次、順を追って
検討を加えて参りました。他面、
大学の
制度が特に重要な問題であるというので、並行して
大学制度の
審議をいたしました。それで
高等学校に入るときに
委員の改選がありまして、それで
高等学校から
大学に移る段階、すなわち
大学の
入学試験の
試験地獄解消ということが議題となりまして、それから発生いたしまして、
短期大学制度の
検討をする、そういう順序で
学校体系の
研究をいたして参りました。ですから
中央教育審議会は、与えられた
教育制度のワクの中において起ってくる諸般の問題について
大臣の
諮問に応ずるということだけでなくて、
現行制度そのものを取り上げて
検討することができる
権限を与えられており、また実行もしてきたわけであります。ただ
結論は、六・三・三・四の
小学校、
中学校の
制度について
改正を加える必要はない、つまり
現行通りでよろしいと
結論は出ましたけれ
ども、それは
研究した結果そういう
結論が出ました。それでありまするから、
政府が
教育に関する
現行制度に
検討を加えるというならば、
中央教育審議会に御
諮問になるなり、あるいは
中央教育審議会で
会議の結果きまりました事項を知っておられるわけでありまするから、それを参考にされるなりすればよろしい。それでできる
制度になっておりますので、
現行制度の
改革そのものは今度できる
臨教審に、与えられた
制度内における個々の問題については
中教審にというようなことは必要はないだろう。これが第一点であります。
第二点は、
臨時教育制度審議会においては、
委員の数は四十名になさって、各方面の人を
委員に委嘱する。それで
教育の問題は、単に
文部大臣所管事項だけでなくて、いろいろのところに関係があるから広く人を集める、また
国会議員の方もお加わりになる、
中央教育審議会の
委員の
顔ぶれが何だかこう狭くて、もう少し広い範囲で人を集めて相談をすることがよろしいというふうな御
趣旨にうかがえるのでありますが、
中央教育審議会の
委員は二十名でありまして、その人選は
文部大臣がおきめになると思いますけれ
ども、従来の実績を見ますと、かなりよくいろいろの分野から人をとっておられます。それで
国立大学からは私と広島
大学の
学長の森戸君、それから
私立大学からは、きょうお見えになっておる
早稲田大学総長の大浜君、
慶応大学総長の潮田君、国立、私立でおもなといいますか、
大学の人が入っております。以前においてはもっといろいろな方も、中央
大学の
学長な
ども入っておりました。それから
日本学術会議の会長、これは
最初は亀山君、今は茅君が入っております。それから毎期
大学、
中学校、
小学校の校長、もしくは教員が入っております。それから
教育委員会、それから
地方団体といいますか、
東京都知事の安井君、前には
大阪市長の中井君も入っております。そういう方面の
地方団体の
代表者、それから
実業家、財界、これも東京と大阪と両方から
委員が任命されております。それから
新聞界、それから
評論家にまたがっておりますので、
教育の問題を単に
教育者だけが
諮問に応じ、もしくは建議することでなくて、広く国民の活動の各分野にわたって人選がなされていると思うのであります。だから
中教審よりももっと広範な範囲で人材を集めるということは必要がない、
中教審にそれができていると思われるのであります。第三に、
国会議員の方々が
中教審に入っておりません。今度の
審議会にはお加わりになるということでありますが、
中央教育審議会の方に、
国会議員が入っておられないのは、
教育政策から政党の色彩の影響をできるだけ除いて、
教育という問題は
国家百年の計であるから、
教育の
中立性と
継続性、
持続性を期する、そういう
趣旨で
国会議員がお入りにならないのだということを
最初説明されております。そういうわけで、ただいま
中央教育審議会が
設置されて、まあ不十分ながらその機能を果し、職責を尽して参っておりますので、このたび
臨時教育制度審議会を
設置する必要はないだろう。
中教審は
文部大臣の
諮問機関でありますが、
文部大臣が
教育の問題についての
主管大臣でございますから、閣議において、また
国会に対して
十分責任のある処置をなされればそれで足りる、こう考えますので、
制度的に見て、
中教審のかわりに
臨教審を設ける必要はないだろう。
次の点は、今度の考えられておりまする
審議会においてどういうことが
研究されるだろうかということを、
衆議院における
内閣委員会、
文教委員会の
連合委員会の
議事録などで拝見いたしますと、
文部大臣は三点をあげて、特に三点をあげておられるようであります。それで二月二十五日の
連合委員会、
審査会でございます、
委員野原代議士の
質問に対して
清瀬文部大臣の御
答弁の
趣旨は、
臨時教育制度審議会設置の
目的は、第一に
教育基本法を
改正する。今、
教育基本法にうたわれておりまする事柄だけでは足りない。たとえば親に孝行するとか、
国家に対する
忠誠の義務とか、そういうことも取り入れる必要があると思うので、
教育基本法改正の必要があるかないかを審査してもらう。第二は、
教育に対する
国家の
責任を明確にする。今の、現状では
文部大臣が
十分責任を持てないような仕組になっておるから、それを改めて、
文部大臣が
教育に対する
責任を持つことができるようにする、その点が第二。第三は
教育制度、ことに
大学制度の
検討をしてもらう。
大学の
制度については、単に
学術の
研究ということだけでなくして、
国家目的あるいは産業の方向などに
大学教育を向けるように考える必要がありはしないか。こういう三つの点を特に今度できる
審議会で審査をしてもらいたいという御
答弁であった。三月六日の
衆議院における
内閣委員会において、
委員である
西村代議士の御
質問に対して
鳩山総理大臣の御
答弁は、「
教育の
基本となるべき
道徳の基準、学生特に
大学教育に対する国の
責任と
監督の
明確等をやはり
検討していきたい」と思っておられるということが、この
臨教審設置の
目的として述べられております。初め申しました
通りに、この問題について
中央教育審議会に
諮問ができないわけじゃない。しかもなさろうと思えばできるはずであり、現に
教育制度、ことに
大学制度の
検討は
中教審自身が取り上げて
検討を加えてきた問題でありますから、第一、第二の点についても
中教審に
諮問なさればできる事柄であります。
中教審の
委員が、これらのことについて
諮問に応ずるだけの能力がないかというとそういうことは能力があると申し上げていいと思うのであります。しかるにかかる重要な問題を
中教審からはずしまして、
臨教審の方に
おかけになるのには、
政府におかれまして特別の何か具体的な必要を感じておられるのだろう、こう思います。
教育基本法は御承知のように戦後における
日本の
教育憲法とも称すべきものであって、
民主主義教育の
根本を掲げておるものであります。たとえば親に孝行するとか、隣人に対して親切をするとか、
国家に対して
忠誠を尽すとかいうことは、
民主主義であればできないかというと、決してそうでなくて、
民主主義に基いた隣人に対する
道徳、
国家に対する
道徳なるものができてくる。
戦争前においてはこのような
道徳を
民主主義に基かずして教えた、あるいは教えようとしたところにたくさんの無理なこと、あるいは形式的な上っつらだけのことなどがありまして、それでほんとうに身についた
隣人愛あるいは国に対する
忠誠ということができなかった。ただ押しつけられた形の上での
道徳はありましても、実行が伴わなかった。それではいけない。やはり
人間というものを理解し、
人間を尊重するということが
民主主義の
根本であります。それから出た
社会道徳あるいは
家庭道徳、あるいは
国家道徳というものがなくてはならないということが、戦後における
教育の大方針でありまして、それに基いて
教育基本法というものができました。かつて
天野文部大臣のころに、
国民道徳の
基本を示すことが必要だというふうなお考えがありまして、いろいろ世間でも問題になりましたが、またその前には、終戦直後、明治天皇のお出しになった
教育勅語、もしくはそれにかわるものを出したらどうかという話もありましたが、すべてこれらの考えが成熟しませんで、それで今の
教育基本法ができまして、
教育基本法によって
民主主義的な
人間の人格、観念を養成するということが最も急務であり、それに基いて、あとは特に言わなくても、親に孝行、国に
忠誠ということが自然にできてくることである。そういうことで
教育基本法は維持されて参りました。それがにわかに
改正される。
日本が
自主独立の建前からいろいろ法制を再
検討するという名のもとに
教育基本法をも修正し、これにただいま申したような
民主主義でないといわれる何かをつけ加えるということは、
教育の
基本をくずすものである。
清瀬文部大臣が言われたことの中に、
民主主義だけではいかんと、
民主主義プラス何かが必要だというふうに言われております。その
プラス何かということが、私
どもにとっては非常に危険に感ずる。そこにこの
戦争前の
国家主義というふうなものが顔を出してきますと、せっかく戦後始まりました
民主主義の
教育理念、
教育基本というものがゆがめられ、水増しされ、あるいは力を失ってくる危険がある。それで、これは
大臣の御
答弁の中から二、三のことを拾って申したのでありますが、
教育基本法の
改正は、
やり方によっては、つまり
臨時教育制度審議会の
やり方によっては、非常に
教育上危険なことになるだろう、おそれがあるということであります。
第二の、
教育に対する
国家責任を明確にする。で、これは簡単に申しますと、
戦争前においては、
日本においては
国家と
教育があまりにも緊密に結びつき過ぎておりました。それで
教育に対する
国家の
監督、指導というのが非常に力強く行われておりました。そのために、事のないときは大
へん教育の能率が上ったように見えましたけれ
ども、一たび事が起ってきますと、たとえば
戦争前の状況とか、
戦争中の状況とか、戦後の混乱とか、そういうことを考えると、
政府が指導し、
監督するその
教育というものが、
人間を作るのにはなはだ不十分である。従って、国としても基盤の脆弱な、いわゆる
道徳的のバック・ボーンとも申されるものが十分具備されておらない、国の言うことなら何でも聞く、そういうふうな
人間だけを作ることになるだろう、そういう反省からいたしまして、
国家と
教育を、強くいいますと分離したわけであります。これはなかなか大きな問題でありますが、三権分立の思想からいいますと、立法、行政、司法が分離されております。
国会も
政府も
司法権に対し干渉しない、それでも国はちゃんと立っていくし、それでなければ、国は正しく治まっていかない。
教育の問題は、
一般行政の事務の中で非常に特別な位置を持っておる。というのは、政治の都合で朝令暮改、たびたび改めるべき事柄ではなくて、
教育には先ほど申しましたように
中立性と
持続性という、長い目で見て育てていかなければならない特別の任務があります。そこで
政府の干渉、
監督、指導から離れたところに、
国民自身が
教育について
責任を持ち、関心を持っていくというそういう
制度ができるわけであります。これが
民主主義における
教育の位置だと思うのでありますが、
日本では戦後の改革で、
文部省は
サービス機関となりまして、指導、
監督の
権限が大へん少くなりました。
義務教育は、地方は地方の
教育委員会がいたしますし、
大学は
大学の自主的な
行政管理ということを主張いたしまして、
文部省は
サービス機関になった。これは戦前の
官僚行政、
官僚統治から見ると非常な変革でございました。戦後はどうかと申しますと、今日までのところ、
文部省は良識を持ちまして、あまり差し出たことはしないし、できるだけの努力をして、
日本の
教育をもり立てるようにやってきたように思われます。しかるに今、それが一歩を進めまして、
文部大臣が
教育を
監督するような態勢を作り上げるといえば、
教育の事業の
一つには
中央集権化、
一つには官僚的な統制という傾向が見えてきまして、そして
教育という仕事に対して不適当な態勢ができるおそれはないか。これも
臨時教育制度審議会がどのような
答申をするかということにかかっておるのでありますけれ
ども、先ほど申しましたように、
中教審を差しおいて今度の
審議会を作るようになる特別の
目的はそこにあるということを掲げておりますので、これは具体的にあるいは内容的にどうなるか、私
どもといたしましては大
へん懸念をいたしておる点であります。
第三は、
教育制度、ことに
大学制度の
検討とありまして、
大学というものの任務あるいは性格と、これは
日本に
大学が多過ぎるとか、まだ足りないとかいうそういう議論ではなくて、
大学の
目的、任務、性格ということに触れてこの
臨時教育制度審議会においては
諮問が出るような御
説明であります。これは非常に大問題でありまして、そうして、そうすると第二の
国家の
教育に対する
監督態勢というものとをあわせ考えますと、私
どもが多年主張し、またそれが世界的に考えて一番いい
立て方であるところの
大学の自治、学問の自由というものに対してどういうような影響が起ってくるかということを心配いたす。それは
鳩山総理大臣の三月六日における
衆議院の
内閣委員会の御
答弁で見ましても、一そう心配になるわけであります。もう一度申しますと、
教育の
基本となるべき
道徳の基準を
検討する、学生特に
大学教育に対する国の
責任と
監督の
明確等を
検討する。
大学に対して国が、すなわち
政府が
責任と
監督を明確にするということは、私
どもにとりましては聞きのがすことのできない御発言であります。そういう
趣旨のもとに
臨時教育制度審議会を
お作りになって、かかる問題を
諮問されて、どのような
答申が出てくるかということは、この
出方一つによっては
日本の今まで築き上げてきました
教育民主化といいますか、
民主主義国における
教育の
根本理念に関係するのでありまして、ゆゆしいことだと思います。それで、
臨時教育審議会が作られましても、果して期待に沿うだけの活動がおできになるだろうかということであります。
第一には、これには二カ年という短い
存続期間が予定されております。二カ年の
期間で先ほど申したような
大学の自治、学問の自由に関する問題とか、それから
教育に対する
国家の
責任とか、
教育基本法改正とかというような
根本問題を二カ年という短い
期間で果して十分の御
研究ができるか。そうしてその二カ年の短
期間において
予算の裏づけは、お配りいただきました資料によりますと、昭和三十一年度の
予算には八十三万六千円計上されておるだけであります。
中央教育審議会の経費は三十一年度の
予算が百六十万円、
中央教育審議会の経費の半分であります。
委員の数は倍であります。こちらは四十人であります。取り扱う問題は、そういうような永久的な、永続的な影響を及ぼすような
根本的な重大問題を御
研究になって、果して十分な
答申ができるだろうか。
中央教育審議会は現在において二カ月に三回総会を開きます。それからそのほかに
特別委員会ができまして、数回開催をいたします。
最初は一月に一度でありましたが、それでは少いというので二カ月に三度ということになっております。で、かなり勉強いたしまして、いろいろのことを
諮問に答え、あるいは
研究をしてやって参りました。それでも十分なことはできません。まして
予算が半分でありまして、
委員は、人数はふえますけれ
ども、当然これは部会に分れるようになることでありますから、
会議開催の回数もそうたびたびはあり得ないでしょうし、不十分な調査のもとに、時の勢いでもって速成的に
根本的な改革を強行される、無理押しをされるというようなことになれば、それは
日本のために最も憂うべきことではないだろうか。
それからもう
一つ、この
臨教審の
設置に期待があまり持てないというおそれがあるということを申し上げたいのは、
政府は
中央教育審議会をどれだけ重んじておるかということであります。それでごく最近のことを申しますと、今は
国会にかかっておりまする、まあ俗称でありますが、
教育委員会制度改正についての
法案を
中央教育審議会に
おかけにならなかったのであります。そうして三月十九日の午後、諸
新聞社の記者は
文部大臣と
共同会見をいたしまして、そのときに
大臣のお話になったことが翌朝の新聞に出ました。これはすべての新聞が同じ記事を書きましたから、
大臣はそうおっしゃられたのだろうと思ってもよかろうと思うのでありますが、
教育委員会の問題は
中教審にかけた、昭和二十八年の何月にかけた。そしてその
答申は、の必要がないという
答申だ。それでその
中教審の
答申を採用するかしないかは
政府の自由である。こういう御
説明でありました。それでかりに前に
おかけになったとしても、それはもう三、四年前のことでありまして、その間情勢も変っておるし、また
委員の
顔ぶれも変っておりますし、さらにもう一度、しかも
結論が、
答申の案が
政府の欲するところと違っておりまするので、もう一度
研究しろといって御
諮問なさるのが当然であると思います。この点については私のみならず、
中教審の現在の会長の
天野貞祐君も、そのほかの
委員たちも一様に、まあ一様と申しますか、大部分が不満であります。これは私明言してよろしいと思います。しかるに三月二十六日の
中教審の総会に出席されました
文部大臣の御
説明によりまして、あの問題は
中教審にかけたかったのだ、かけたかったのだけれ
ども、いかんせん、この時間的の余裕がつかなかった。本年十月に
教育委員会委員の改選があるので、それに間に合わせるように法律を
改正する必要があった。そしてこの
通常国会の劈頭において
法案を提案しないというと
審議未了になるおそれがあるから、ああいう重要な問題は、
通常国会の劈頭に提案する慣例になっておるので、遺憾ながら
中教審にかけなかったのだという御
説明でありました。それに対していろいろ
質問が出ましたが、あの
制度の
改正法案が
衆議院の
内閣委員会に提出されましたのが二月の二十何日かであるようであります。それで
通常国会開会後二カ月の間、
期間がありまして、
政府はいろいろ
研究し、考えておられたのでありましょう。その間どうして
中央教育審議会を開いてお諮りにならなかったかということは、
中教審の
委員は納得できないのであります。時間の余裕がなかったということは理由にならない。これは
天野会長も私にそう百われましたし、その席上ではなかったですけれ
ども、ほかの
委員からもそういう
質問がありましたが、
大臣の方からはお答えがなかった。何かほかの理由があって
中教審を素
通りになすったのだろう。私は
天野貞祐会長に対して、あの問題は
中教審にかけるようにおっしゃって下さいということを言いました。ところが、本年の一月でありましたか、いや、あれは
中教審にかからないで、
国会の方へかけるのだという御
説明であって、とうとう
中教審の問題としては取り上げられなかったのであります。で、何かそこに理由があって、
政府の方で御都合があって、
中教審にかけないで、
法案が
国会に提出された。その理由が何であるかとということは、これは
揣摩臆測の域に入りますから、私は申し上げることをいたしませんが、
中央教育審議会が無視されたということははっきり申されるのであります。ある人が揣摩憶測いたしまして、
中教審にかけるとどうも反対をしそうな
委員がおる。やっかいだから素
通りしたのではないだろうかと言う人さえもおるぐらいであります。それで
中教審は、現在
短期大学制度の
恒久化ということを
諮問されて、
答申をするために
臨時委員会を開いて準備しておりますが、これも
教育制度の
根本に関する六・三・三・四の
制度の
根本に関する
検討であります。しかしそのことがまだ
答申にならないうちに、
学術、文化の交流に関する件というのが新たに
諮問されまして、それで
教育委員会制度とか学校体制とか、
教育基本法の問題とか、そういうことについては
中教審に
諮問しない。
学術文化の交流というような、まあいわば
文部省の局長
会議ででも
研究ができそうなことを
中教審に
諮問なさるということは、
中教審を無視するもの、あるいは軽んずるものではないか。すなわち
中教審の性格が全く違って運営されるように思いまして、
最初広範な範囲にわたって積極的に
研究し、意見を述べる、またそのように実行して参りましたことが、今や
中教審は全く政治的の意味の少いような問題について
諮問をされる。それで政治的な重要な問題については
中教審は
諮問をされない。少し皮肉にお聞きかもしれませんけれ
ども、
中央教育審議会に対して、それほどこれを無視して、
政府に都合の悪いような問題は
諮問しない。
中教審の
答申と全然違うことを採用なさるということであるならば、
臨時教育制度審議会というものを
お作りになっても、果してこの
審議会を
政府は重んぜられるかということについて疑いを持たざるを得ないのであります。
以上三つに分けまして、
中教審があるのに、
制度的に新たに
臨教審を設ける必要はないのだろうということと、事の重大な問題を短かい
期間で
答申を期待されるというその
やり方が、戦後の
民主主義的な
教育の
根本をゆがめる何か危険性がありはしないかということのおそれと、第三に
臨時教育制度審議会を
設置されましても、果して御期待するような活動ができるかどうか疑わしいという三点を申しまして、私は反対意見であることを申し上げた次第であります。