○
宮澤喜一君 ちょっとそれに関連いたしまして、これは
日本国内の意思が必ずしも統一したものはございませんし、フィリピンの
考え方は、さらにまたそれとも本来離れておったものでございましょうから、非常に
外交交渉がおやりにくいだろうし、それなりに苦心がおありになるということは十分お察しいたしますから、私も羽生
委員と同じように、今
内容についてもちろん承わるつもりはないし、これは行政権の明らかに範囲内でありますが、ただ私どもとして
考えておく必要がございますのは、最後に
協定がどうにかの形でできまして、それが
国会の
承認を求めるという形になりましたときに、行
政府の意思と立法府の意思とが非常にかけ離れる結果になるということは、本来ならば避けた方が望ましいわけでありますから、そこで、そういう観点からだけお伺いをいたしますが、おそらく今の民間ベースの
借款というような問題について、その性質その他それをフィリピン側の
考え方と
日本側の
希望というものをどういう形ででも
一致させなければならぬ。本来ならば非常に
一致しにくいものでありますから、それをネリ
大使と
日本側の卜部
事務所長代理でありますか、いろいろな文書の形を通じて
一致させるように御苦心をなすっていらっしゃるだろうと思うのです。そこで今やっておいでになることは、ただいまの局長のお話から伺いますと、これがかたまっていけば、
協定文に入る云々ということでありますから、
協定文以前のことをやっておいでになる。両方の
考え方を
一つにしよう。でありますから、おそらくこれは口頭だけでなくて、何かの形の文書、少くとも書きもので両方の
考え方をまとめようとしておられるのだろうと想像いたしまするが、これはお答えは必要でございませんが、想像いたしますから、そこでどうしても何か上手な表現を
考えなければならぬということに帰着をしてくるだろう。私はしろうとでございますから、専門のことはわかりませんけれども、そういうふうに
考えざるを得ませんので、そういたしますと、どちら側かに無理が出てくる可能性がある。それが向う側がその無理を最後までかぶってくれれば、
わが国としてはそれでよろしいわけでありますけれども、場合によって無理な点を表現で適当に通してしまうということに帰着しやすいのではないか。こういうことを申し上げるのは、あまり適切な例ではございませんけれども、先般タイとの間に
一つ係争が起っておるわけで、これは表現に
日本側の落度があったというふうには思いませんけれども、しかし疑いやすいような表現をできるだけ避けなければならぬということのまあ
一つの例に近いものになりはしないか。昨年
外務大臣がアメリカに行かれましたときの最後の共同声明の
日米両文をめぐっていささかの問題が世上にあったわけでありますが、そういう過去の例にもかんがみまして、及び現在
外務省のやっていらっしゃる
交渉というものが本質的に非常にむずかしい無理を含んだものでありますだけに、どうか将来に問題を残さないような形で両者の意思というものをまとめることに御努力を願いたい。そう言ってはなんですが、昔でありますと、東南アジアの国に対しては、多少勢力
関係から
日本として若干の無理をして通したということがあったわけでございますけれども、そういう立場にございませんし、あとに問題を残しますと、せっかく
友好的にまとめたはずの話が、先般のタイの問題のような結果になってきやすい。私も抽象的にしか申し上げる
方法がありませんし、何でありますけれども、そういうことを、特にこれは言葉づかいの問題でありますけれども、今の卜部さんとネリ氏がやっておられることが、今後
協定文を書かれ、そしてそれを将来解釈する上でのおそらくガイディング・プリンシプルになりますので、
日本側として疑いを生ずるような表現はできるだけ厳密に避けていっていただきたい。それじゃ話がまとまらなくなるぞとおっしゃるのでありますか、どうでありますか、そういうことでありますと、まとまった話というのは、そもそもはなはだまとまりが怪しいということにならざるを得ませんので、これは御質問を申し上げるよりは
希望でございますが、もし御感想があればお述べをいただきたいと思いますし、おありにならなければそれでけっこうです。