○小口参考人 小口偉一であります。職業は東京大学助教授。住所は文京区駒込追分町三十九番地。
私は、宗教学という一つの学問を研究いたしておりますので、この学問の領域内で
意見を申し上げたいと思います。従って、先ほどの大宅さんのような非常に端的な割り切ったお答えはできないかと思います。と申しますのは、私
どもの研究いたしております態度は、世の中にあるあらゆる宗教現象をきわめて公平に客観的に取り上げて参ります。それは信仰的な
立場とは違いまして、この宗教はいい宗教である、この宗教は悪い宗教であるというような価値判断はいたしません。これが学問の限界でございます。そういう点で、それはおもしろくないということになるかもしれませんが、これは、そういう学問である以上、いたし方ないので、それ以上のことになりますと、個人的な
意見、それをもとにしての
意見ということになると思います。それで、その点につきましては、後に御質問をいただければ、十分個人的な見解を申し上げたいと思います。
最初に、宗教学的な
立場からこの新興宗教一般をながめて参りますと、第一に、既成宗教との違いという点で一般に取り上げられています。
どこが違うか。この点は、ジャーナリズムなどによりますと、インチキ宗教が新興宗教だ、逆に申し上げれば、新興宗教というのはすべてインチキだというふうに簡単に割り切ってしまっている。しかし、これは学問的な判断ではないのでありまして、一つの
立場から見れば他の
立場はすべて淫祠邪教だということが言えるような
立場と非常によく似ているのであります。従って、既成宗教は正しくて新興宗教はすべて誤まっておるという結果は学問的には出て参りません。まず、その点では、どこからが新興宗教かということも問題になると思いますが、時間をとりますから省略いたしまして、戦前には、つまり、かつて宗教団体法の時代においては認められていなかったけれ
ども、後に宗教法人法になって認証されたような団体、それを一応新興宗教と考えていいかと思います。そういたしますと、新興宗教の経営の点においても、実は戦前からあったものが多いのであります。戦後雨後のタケノコのように出てきたという表現がよくとられておりますけれ
ども、よく
調べてみると、実際はそうではなくて、戦前からあるものであります。立正
交成会は霊友会からの分れでありますけれ
ども、この霊友会は在家の日蓮主義でありまして、幕末の本門仏立講、今日本門仏立宗と申しておりますが、この仏立講の一つの流れであります。つまり、在家主義の日蓮主義者の集まりであります。そういう点で、他の新興宗教においても、その流れを追求していくと、戦前に戻るものが多い。その点で、どこからどこまでを新興宗教であり、どれを既成宗教とするかという点については、学者の間でも異論があるかと思います。その点は常識的にとっていただけばよろしいかと思います。
今日の問題としては、立正
交成会の布教方式というものがあまりよろしくないのではないかということが取り上げられているようでありますが、実は、宗教における伝道、布教というものには強制力がどうしても伴います。多少の強制をしなければ伝道ができない。なんじら悔い改めよというのは、今改めなければ罪があるぞと言うのと同じことでありまして、これは、たたりとは少し違い、もっと深い一種の罪悪観でありますから、違いますけれ
ども、キリスト教などにもある。そして、ある熱情によって初めて他人を
自分の信仰に導くことができます。それで、伝道、布教には多少の精神的な強制がある。しかし、実際の典型的な非常にうまくいった伝道というのは、あるいはそうではなくて、求道と伝道、道を求める者と道を伝える者、つまり求道者と伝道者の気持がぴったりいけばうまくいきますけれ
ども、なかなかそうはいかない。道を求める人と伝えようとする人とぴったりいくかどうかというところに問題があるので、なかなかうまくいきません。それで、伝道者が多く働きかけることになる。たとえば、街道で説法する、あるいは家庭を訪問するというようなことが行われる。その家庭を訪問してやる方法というのは、今日の新興宗教には非常に多いから、それが問題になるのだと思いますけれ
ども、いわばそこに伝道布教の方法としての問題が横たわっているわけでありまして、伝道そのものに強制力がある、多少の強制力を伴うものだということだけはお認め願えるのじゃないかと思います。しかし、その場合に、従来の宗教といいますか、一般に既成宗教といわれるものは、積極的な伝道をあまり行なっていない。キリスト教などは多少違いますけれ
ども、仏教などは、既成の仏教の教団ではあまり積極的に行なっておりません。このごろ行われなければいけないという
意見が出ておりますけれ
ども、あまり盛んではない。これは、私
どもから見ますと、既成の宗教というのは、商売人でいうと、店を広げてお客さんのくるのを待っておるような形です。あるいは、お得意様があるから何もしなくても商売ができるのとよく似ておる。つまり、檀家制度というものが江戸時代に確立してしまって、それが廃仏毀釈によって多少変化しましたけれ
ども、今日までそれが存続してきている。その点で、特別の布教
活動を行わなくても、すでに地盤が確立している。神社などは、神社神道の場合には、それが特定の地域社会と結びついていく。従って、何ら宗教
活動というものを行わなくても、ある
程度までは持続できるというような形態ができ上っているわけであります。そうして、日本国民の大部分が既成の宗教に何らかの形で所属している。所属はしていなくても、関係を持っているような形になる。つまり、個人では信仰していなくても、家の宗教というような形で、どっかのお寺の檀家になるというような形が一般的であります。新興宗教はその後に出てきたものでありますから、すでに獲得された基盤の中に入っていかなければいけないわけです。そこで、今までの宗教がやっていたような方法で、つまり新しく店を開いて、そしてお客さんの来るのを待っているという形では、どうもうまくいかない。そこで、いわばこれは行商している。私は、そういうような、ちょっとやゆ的な
言葉ですけれ
ども、新興宗教の布教方法は行商的であるというふうに考えております。ほかのところに行って、前のよりはいい宗教であるからこちらへお入りなさい、こういう説き方をしている。その中にも、もっと極端なのになりますと、行商が押し売りになってくるのがあります。暴力的な宗教だといわれているような日蓮正宗の創価学会などは、多少そういう傾向がある。そういう点で、新興宗教として、既成の、確定している、固定した地盤の中に入っていくためには、積極性を持たなければいけない。そこでどうしてもそうした行商的な態度が出るのですが、そのときに、前のよりこちらの方がいいからと言うときの
説明の仕方、つまり信仰に入らせる方法として、日
本人が伝統的に持っている信仰の態度、私
どもはこれは呪術的な宗教と言っておりますけれ
ども、一種のおまじない的な宗教の態度にアッピールするように行うわけです。たたりがあるとか、罰が当るとか、何々の因縁でというような表現は、すべて、新しくできたことではなくて、日
本人が古来持っている一つの宗教意識なのです。しかし、それはキリスト教などにはあまりない。言わば原始的な意識だということが言えるかもしれません。とにかく、日
本人の一般的な宗教意識というものは、かなり原始的なものを持っている。その原始的な態度にアッピールして、適応していったのが、この多くの新興宗教の布教方式ではなかったかと思います。ですから、そういう点で、宗教の伝道というものにおいては多少の強制力が伴う。しかし、その場合に、新興宗教の大部分が利用している布教の方式には、伝統的な宗教、つまり、私
どもが学問的な
立場から呪術的宗教と呼んでいるものに適応しようとする態度が見られるのではないか。そして、ここに近代社会における宗教としてのあり方という点での問題が横たわっているのではないかというふうに考えております。
そういう点で、そういう基盤がある限り、つまり、非常におくれた社会、あるいはおくれた社会意識を持っている人が大ぜいいる限りにおいては、新興宗教的なもの、つまり、近代知識人の
立場から見ると非常につまらない宗教だと思われるようなものが、なお入っていく、伸びていく余地があるのではないか。そういう点では、そういう宗教はいけないというふうに頭から言って弾圧するというような形、つまり、戦前の宗教団体法がとりましたような方法ではなくて、むしろ他の面から民衆を指導していくことが必要ではないかと思います。たとえば、入信の動機という点におきましても、これは新興宗教に限りませんけれ
ども、病気が機会で入る人が非常に多い。キリスト教の場合でもで六〇%くらい病気でという人がいます。これは日本だけではありません。外国でもそうですし、こういう場合な
ども、医療制度、あるいは社会保障制度というものが確立するならば、そういうようなことはだんだん減ってくるのではないかと思う。そういうふうに考えて参りますと、新興宗教というのは、今日においては他の社会的な施設が行い得なかったものの代用品となっているという感じを受けます。ですから、その点においては、
行き過ぎがある場合もありましょうし、また、教団の方針として行おうとしていたものが、末端において行われなかったというようなこともあるのではないか思います。特にこの点はかなり多くの宗教に見られまして、教団幹部が考えていることと、末端でやっているものとの間の教理の説き方の違いというものがかなりあります。天理教の場合を申し上げますと、天理教では、布教師が、肺病になった人をつかまえて、あなたは心がすなおでないから、はいと返事をしないから肺病になっている。返事をしないからへんとう腺炎になったというようなことを言います。私も直接聞いているから、これは確かです。しかし、幹部の人にそういうことを言えば、そんなことを言うはずはない。これははっきりそう言っている。ところが、そういう幹部とか知識人によって固められているところと、末端の農村などでもって布教している人との間における違いというものがかなりあるということは、どこの新興宗教、あるいは幕末から起ってきた新興宗教に近い新しい宗教の中には、まだそういうものが多少あるのではないかというふうに考えております。
もし御質問をいただけましたら、各個に申し上げたいと思います。