○
世耕委員 お取扱いになったチャタレイ事件は、起訴して、最高裁判所に移しておるというふうな今の
お話でありますが、それと比較して今度の谷崎氏の小説はどう判断なさいますか。御判断になる前に、私が申し上げますれば、チャタレイよりももっと深刻だと思います。もっと露骨だということです。文学的価値ということについては私は批判する資格はないかもわかりませんけれ
ども、文学的価値から見て、チャタレイ夫人のあの方が文学的価値が深いんじゃないか。むしろ、きのう
松原政務
次官がおっしゃったように、これは春画を文章に表わしたものだ。私は、むしろ、逆に言えば、春画を描いてその上へ説明を加えたものだ、りっぱな春画だと思う。こういうものを放置しておいて、
——私は今ほかの方と話をしたのだが、汽車のかまをうんとたいておいて、汽車を走らせなければどうなる。きっと爆発しますよ。非常に人情の機微の重大な問題だと思う。私は、これをすぐ告発しろ、検挙しろ、そういうことを端的に申し上げるのではない。それほど軽率な態度で私はここで論じているのではございません。しかもこれは何十万部と売れているじゃないですか。なお、念のために申し上げますが、帰ってここをお読みになったなら、
——今読むことだけはやめますけれ
ども、妙なところをなめて、そうしたら近眼鏡を腹の上に落したのがこの絵じゃないですか。その説明をしているんじゃないですか。りっぱな春画ですよ。それも、いわゆる近代的な思想から見て、それほど取り立てて論議するのは間違いだというなら、それまでだと思う。それをここではっきりしてあげなければ、私は
取締り当局がはっきりした態度で臨めないんじゃないかということなんです。だから、りっぱな
法律が幾つも現にできていながら今日実行できないのはなぜかといえば、結局実施できないような
法律をこしらえたということに原因しておる。それは
社会の
実情を無視した
法律を作った結果であるということが言える。これをわれわれは二度繰り返したくないということです。
なお、今度は政務
次官にお尋ねいたします。「太陽の季節」は読んでないということですから、急所々々だけをお読みいたします。まず、この広告の評の中には、沈滞の文壇に波紋を投じてときめく青春の凱歌をあげた芥川賞受賞の問題作、こういうので出ております。それから、伊藤整という人が評していわく、近代文壇に現われた新進作家で、その第一作から石原慎太郎君ほど問題を投じた人はいないと思う、作家石原君の出現は
社会問題のような形を呈しておる、これなんです。
社会問題を呈しておる。しかし、この人を作家として見れば問題は単純である、彼は
日本の生きている放置された若さというものを
ほんとうに発見して描いたものである、それが真実に目をふさぐことになれている多くの人々にショックと自己発見へのきっかけを与えたものである、こういうふうに批評しております。これは純文学として取り扱うか
社会問題としてこれを取り扱うかということに分れ目があると私は思うのですが、この批評は私は端的にして要を得ていると思う。この「太陽の季節」の主題の登場人物の中に女子大英文科のグループというものが一応浮んできております。青年層から言えばやや知識階級に属する連中なんです。これらの者の性の状況をここに描写しているとも思われる。「成る程英文科の女子学生達は互に勝手な外国名をつけて呼び合っている。彼女達の名は、エルザ、サリー、マリ、ミッチー」という名前で呼び合っているということが書き出しの中に出ている。世界共通の性の問題が、いろいろな
方面につながりがあるということを申し上げたのは、こういうところにもすでに片りんを現わしていると思うのです。「彼は女が初めてなのを知った。サリーは泣いている。」というような書き出しが出ております。もう一つは、私はこれが果していいのか悪いのかということについて問題にしていきたいのは、
自分の恋人といいますか、愛人を兄貴に五千円で売っているじゃありませんか。そうして、契約書を付して、この女には指一本も触れないという契約をした。それから、もう一つは、女性をすなわちおもちゃと思っているということなんです。性の問題はもう
玩弄物と彼らは
考えている。この作者は東京の官立の商科大学の大学院の生徒じゃなかったかと私は思う。あるいは記憶が間違っておるかもわかりません。しかも、その中で特に、この子は、いろいろな点で、むしろ
性行為の火遊びからついに妊娠して、その手術の結果が思わしくなくて、胎児四カ月を腹に持ちながら掻爬手術が不成功で腹膜炎を起し死んでいる。けれ
ども、実際を言うと、これは創作ではなくして現実を語っている。これは今の現状なんです。決していいかげんな小説ではないということがここに言えると思います。これも読みたくないのだが御参考までに読み上げてみましょう。「部屋の英子がこちらを向いた気配に、彼は勃起した陰茎を外から障子に突き立てた。障子は乾いた音をたてて破れ、それを見た英子は読んでいた本を力一杯障子にぶつけたのだ。本は見事、的に当って畳に落ちた。」と書かれている。これが何十万部と今販売されて、上級の中学生から高等学校の生徒は喜んで読んでいる。これも文学的価値としてそのまま放置していいでしょうか。刑法の
存在、風紀
取締り、わいせつ罪の
取締りの法の
目的は、私はどこにあったかということをまず尋ねてみたい。これは文学的価値ありとかりに評価するとすれば、われわれはこれから作らなければならぬ
法律もよほど
考えなくちゃならぬことになる。
法律は
社会の常識を取り入れた
法律でなければ実施しても効をなさぬというのが私の
法律に対する一つの見解です。誤まっておれば別でございますが……。
そこで、私が昨日
委員長にお願いしたのは、この「太陽の季節」を書いたのは大学を卒業した二十五才か六才の青年である。青年の性に対する思想を代表した本がこの「太陽の季節」なのです。中央公論の方は、ことし七十一才になる老小説家の書いたいわゆるエロ文なのです。私はそう見ている。エロ文なんという言葉は適当じゃないかもしれぬけれ
ども、エロに関係している、セックスに関係していることです。だから、これは、端的に言えば、二つの年令を代表した著者が偶然
売春法を審議する時代に現われたのだから、この著者を本
委員会に呼んで、果して
社会に対するある一つの示唆を与える、性に対する新たなる見解を与えるためにしたのかどうかということを聞いていただく方が、役所でこれは文学的価値があるかないかというて御判断なさるよりも、御本人
自身に聞くことが私はかえって一番近道だと思うので、ここへ
参考人なり何かの形式で出てもらうことを実は要求したのです。神近市子君は、私が
参考人を申請したのに対して、おそらく来ないだろうというようなことをおっしゃったが、私は来ないというような卑怯な
人たちじゃないと思う。進んで来るであろうということを私は想像します。また来るべきなのです。いわゆる性に関する新しい見解と新しい主張がこの著作の上に現われたとするならば、せっかく国会においてその出席を求めたら、喜んで来べきだ、私はかように思う。それで要求したのです。不幸にして前回はいわゆる文芸人と称する
人たちは病気、旅行その他のために出てこられなかったが、今度は私は出てきてくれるだろうと思う。それで要求したのであります。私のねらいは、そういうようなこの性の問題を根本的に掘り下げて、そうして、これならば実行しても納得することができる、また青年男女諸君も性に関する認識を十分深められるチャンスを得られるであろう、そういうものを求めたいがために実はおしゃべりを続けておるような次第であります。文部省の
社会局長がお見えにならないようでありますから、御出席の政府
委員に一つ今の問題の御回答を願いたいと思いますが、特に性教育を通して見た近代文壇の青年男女に対する影響というようなことをお聞きしておきたいと思います。