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1956-05-11 第24回国会 衆議院 文教委員会公聴会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十一年五月十一日(金曜日)    午前十時二十九分開議  出席委員    委員長 佐藤觀次郎君    理事 赤城 宗徳君 理事 加藤 精三君    理事 高村 坂彦君 理事 坂田 道太君    理事 米田 吉盛君 理事 辻原 弘市君    理事 山崎 始男君       稻葉  修君    北村徳太郎君       久野 忠治君    杉浦 武雄君       塚原 俊郎君    並木 芳雄君       野依 秀市君    濱野 清吾君       町村 金五君    山口 好一君       河野  正君    小牧 次生君       高津 正道君    平田 ヒデ君       小林 信一君  出席国務大臣         文 部 大 臣 清瀬 一郎君  出席政府委員         文部政務次官  竹尾  弌君         文部事務官         (初等中等教育         局長)     緒方 信一君  出席公述人         慶応大学助教授 山本 敏夫君         神奈川大学教授 高山 岩男君         中央教育審議会         委員      森戸 辰男君         学習院大学講師 古川  原君         教科書協会制度         専門委員会委員         長       水谷 三郎君  委員外出席者         文部事務官         (大臣官房総務         参事官)    齋藤  正君         文部事務官         (初等中等教育         局教科書課長) 安達 健二君         専  門  員 石井つとむ君     ————————————— 本日の公聴会意見を聴いた案件  教科書法案内閣提出)  教科書法案辻原弘市君外八名提出) について     —————————————
  2. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 これより内閣提出教科書法案及び議員提出教科書法案について、文教委員会公聴会を開会いたします。  申すまでもなく、両法案わが国における学校教育根本につながる重要法案でございまして、本委員会におきまして慎重に審査をいたしておるのでございますが、その重要性にかんがみ、広く各界の公正な意見を反映せしめ、委員会における審査の万全を期すため、本日ここに公聴会を開会いたすことになりました次第でございます。  まず本日の公聴会の議事の進め方について申し上げます。すなわち公述の時間は各人二十分程度とし、質疑は各公述人につき三十分以内とし、公述及びこれに対する質疑山本敏夫君、高山岩男君、佐藤幸一郎君、森戸辰男君、古川原君、水谷三郎君の順序で一名ずつ進めることにいたします。  それではこれより公述人公述及びこれに対する質疑に入りますが、この際一言ごあいさつ申し上げます。  山本公述人には御多用中にもかかわりませず、貴重な時間をさいて御出席いただき厚く御礼申し上げます。何とぞ両法案につきまして、あらゆる角度から忌憚のない御意見を御発表下さいますようお願いいたします。  なお、公述その他につきましては、お手元に配付いたしてあります注意書要領でお願いいたすわけでございますが、念のため申し上げます。公述人の御発言委員長の許可を得なければならないこと、その発言内容は、意見を聞こうとする問題の範囲外にわたらないこと、また公述人委員に対して質疑をしてはならないことになっております。以上、お含みおき願います。  それではまず山本公述人より御発言願います。山本公述人
  3. 山本敏夫

    山本公述人 教科書法案につきましてここに意見を申し述べる機会を得ましたことを、まことに仕合せに存じております。  まず政府案につきまして反対の理由を申し述べます。この法案によりましては、教科書行政の民主的な安定が確保されませんし、また教科書内容の政治的な中立が侵される危険もあり、教育自主性教員の自発的な主体性が阻害されるおそれがありますので、政府案反対をいたします。  第一に検定について申し述べますが、検定基準につきましては、当委員会におきまして、三月二十三日、緒方局長がこういう答弁をしております。検定基準のうち指導要領の中心的な部分はこれを取り上げていかなければならぬと考えています。——そのほか、教科書内容的な基準根幹となりまする学習指導要領を作る機関並びにその手続につきまして、法律改正をする用意は全くうかがわれないのであります。新法案によりまして、検定基準のことは文部大臣検定審議会にはかってきめることになっておりますが、その教科書内容基準に実質的に最も大きな関連のある学習指導要領作成主体とそのプロセスにつきましては、大体現行法のワク内でこれをやることになるのであります。そのための新しい法律改正をやってない。学習指導要領は、文部省設置法附則の6によりまして、初中局がこれを作成することになっており、その教育課程学校教育法施行規則二十五条によりまして、指導要領基準によって教育課程が作られるというふうになっておりまして、これは昨年のいわゆる高等学校コース制問題等によって表面に打ち出されてきました、最近の文部省カリキュラム行政根本考え方であります。この考え方につきましても、われわれ日本教育学会委員会におきまして、相当疑義があることを明らかにしております。すなわち現行法委員会法四十九条に「教科内容及びその取扱に関すること。」というようなことが含まれておりますので、その間の関連につきましてわれわれ学会において考究をいたし、その結果も発表しておるのであります。  そういう問題があるのでありますが、その法理的な問題は、この場合におきまして、今度は新しい委員会法が作られる、こういうことで現行法の四十九条の方はかりに引っ込めたといたしましても、要するに教科書内容基準文部省設置法附則の6、それから学校教育法施行規則二十五条そのほかによりまする従来の、最近の文部省カリキュラム行政の線に沿って筋が通されることになると思うのであります。ことに今の委員会法が改められればそうなります。われわれ日本教育学会におきましては、カリキュラム大綱なり学習指導要領内容的基準を作る機関そのもの民主化——国の場合におきましては、文部大臣が任命するに当りましても、その委員は国会の同意を要するというような線を教科書制度要綱において打ち出しておる。地方カリキュラム委員会には教師が参加すべきであるという線も出してはおるのでありますが、こういう教科書内容根幹を定める問題につきましては、新しい一連の法案におきまして何ら措置が講ぜられておらないのであります。一方議員提出法案におきましては、初等教育及び中等教育教育内容等に関する法律案というものを別に用意いたしまして、これによって教育課程大綱なり学習指導要領を作る主体とその手続民主化しておるのであります。われわれといたしましては、学会が最も関心を持っておりまする教科書内容基準そのものを実質的にきめるところの学習指導要領作成につきまして、現行のままでこれをやっていく、われわれ教育学会で述べましたような事柄につきましてまるでほおかぶりでやっていく、ただ検定ならいいだろう、検定をやかましくさえすればそれでいいだろうというような建前でこの法案ができておる。一方検定手続につきましても、その審議会構成検定拒否、あるいはこれは予算措置がすでに講ぜられておりますところの常任調査官の多数の設置というようなことによりまして、国家統制というよりも文部大臣統制がこの検定手続に及ぶのであります。基準内容、実質となりまするところの学習指導要領初中局で作られまして、それによって書かれる教科書内容常任調査官などによりまして内面指導が実際にはされる、検定手続文部大臣統制下においてでき上りまするような、そういう教科書、それは内容の面におきまして準国定、半分以上国定のものになると思うのであります。従って検定基準と方法において、非民主的であると思うのであります。  第二に採択の件でありますが、この採択につきましては、中教審答申の線よりもさらに非民主的な統一的な引きしぼりがしてあるのであります。中教審答申につきましては、採択地区についてはこうあります、たとえば郡市単位など一定の地域においてとあるのでありますが、政府案県単位をも許して、指導の仕方で県単位に引きしぼり得るようにしてあるのであります。また教科書の一区域内におけるところの種類にいたしましても、中教審答申におきましては、できるだけ少い種類とこう申しておるのに、政府案におきましては一地区内におきまして一科目一種をかたく固執いたしまして、二種にするには特別の場合、政令の定めるところによらなければならないといたしておるのであります。またその採択権にいたしましても、中教審答申におきましては、これを地教委に置きまして、六・三の学校現場になるべく密接をさせる、そうしてこの答申をよく読みますと、やはり現場選定が行い得るような配慮が強いのであります。ところが政府案採択権県教委に置きまして、これがこの選定委員会構成そのほか重要な教科書採択に関するところの行政的な措置をする。採択権県教委にある。教育学会の案は、教員会議の議を経て校長がきめるとしてあります。それから議員提出の案におきましても、教科書採択は、学校校長教員全員意見を聞いて行うというふうに、議員提出法案の十三条にあります。ところが今申し上げましたように、政府案におきましては教員教科書について自分の意向を示す、それを明らかにする、それを表示するところの法律的な保障というものが全然ないのであります。第二十四条の、「校長から翌年度に使用することを希望する教科書申出をさせ」という、この校長からというこの校長につきましては、文教委員会におきまして私も傍聴いたしておったのですが、この二、三日いろいろ解釈がございましたが、結局校長教員から意見を聞かなくてもよいということに文部省解釈をいたしておるのであります。しかるに政府案の二十七条におきましては、教員が常時教科書研究をするための施設を置かなくちゃならぬという条文がある。校長及び教員並びに教科書採択関係者とありまして、教科書研究教員は常にしておかなければならぬ、しておかなければならぬというと強過ぎますが、しておくことを建前としておる施設を整える、その条文があります。それから二十八条には校長教員採択関係者とありまして、採択についての不正行為の取り締りの条文がある。そういたしますと、教員教科書の勉強はいつもしておけ、校長から御下問があったらそのとき答えろということになる。それから採択関係で縛られるときは縛られる、こういう建前であります。私は海外のいろいろの国の教科書行政につきまして関心を持って調べておりますが、こういうような、教員自分意思教科書に対して表示できないというような、それを表示することを保障していない、こういうような採択制度というものは、私はほかの国にあまり例がない、これは非常に非民主的だと思うのであります。教科書採択制度につきましては、わが国でもいろいろな変遷がございまして、これはごく簡単に申しますが、明治の二十年以来何回も変りました。しかし、その二十年のころにおきましても、選定委員会には必ずこの現場教員を入れる。それから教科専門家選定委員会の中に入れるという措置をいたしました。ところがこれが何回か改正されまして、だんだん現場教員が少くなってしまった。それからもう一つは、二十年のこの教科書選定規定におきましては、一地区で一科目数種といたし、しかもそのほかに検定を終えておりませんものでも、届出をすれば使えるとしてあったのです。ところがだんだんこの選定委員を数を減らして、現場教員をどんどん除外して、初めのうちは現場教員が非常にたくさん入ったのですが、それを除外して、一つの県で一科目一種に引きしぼってきたのです。その引きしぼりを最も強く打ち出しましたときに、あの明治三十五年の金港堂事件というのが起りまして、そのために発行会社大手筋のものはほとんどそれにひっかった。あの当時は不正行為をした会社教科書は五年間学校採択してはならないという規定がありましたので、そのために実は供給が全く不可能になり、それが直接の原因になって、明治三十五年に国定に変るところのきっかけとなっているのであります。私は自民党の方々が保守合同をなさいましたそのすぐあとで、一県一科目一種ということを強く党の方針として打ち出されましたときに、一番頭に来ましたのはこの問題なのであります。私だけでなく——私だけがそういうことを考えるのなら教科書会社に対して失礼だと言われるかもしれませんが、そうではなくて教科書協会も昨年の十一月三十日に、陳情書というよりはビラをたくさん刷りまして、こういう事件がありますからあまり引きしぼりはしないでほしいということを述べている。今度は一つの県ではありませんが、郡市単位にもなり得ますが、しかし生徒数ということから考えたら、やはりこれは大きな問題であります。私は不正を防止するといったような点からいいましても、もちろん教育的な見地からいいましても、教科書採択を大きな地区種類を少くしてひきしぼるということは最も悪いという考え方であります。従って議員提出法案の第十三条の「教科書採択は、学校校長教員全員意見を聞いて行う。」ということがよろしい、こういうふうに思うのであります。先ほどの二十四条のような、校長教科書について意見を聞かなくてもよろしいというような解釈、一体何ゆえ教員自分が使う教科書について意思表示ができるという保障をはっきり与えないのか、二十七条、二十八条と矛盾もしておりまするし、この点につきましては私はどうしても納得がいかないのであります。しかも新しい地方教育行政法案によりますと、その四十三条におきまして県費負担の教職員は上司の職務上の命令に忠実に従わなければならないとあるのであります。また御承知のようにこの地方教育行政法案によりまして、指導主事上司命令によって仕事をする建前になっており、また教師教科書以外の教材につきましても学校を通して教育委員会届出をし、または承認を要する、こういうようなものとあわせ考えてみた場合に、この教科書法案というものは現場教員自主性自発性を非常に阻害する、与えられたところの教科書によって仕事をするということになるのであります。  なおこの採択県教委にひきしぼって参りましたことにつきましても私は危険があると思う。なぜならば教育委員会といっても一番実質的な仕事をするのは教育長でありますが、その県教委教育長の任免につきましては、新しい法案によって文部大臣承認が要る、それから五十二条の措置要求というようなものが背後にあります。これらのことをあわせ考えました場合に、教育長なり県教委なりが中央からの圧迫を受ける、その影響がやはり教科書採択に対してないとはいえないのであります。  しかも、これは少し先のことになりますが、自民党憲法調査会問題点というものが公表されております。これも教科書関係があるから申し上げるのですが、憲法九十三条の地方首長公選ということを緩和することを十分に研究すべきだということが、自民党憲法調査会の最近の御発表が出ておりまするし、また参議院の内閣委員会におきまして、山崎巖氏が地方首長公選というものは日本の実情に合わないと思われるような節もあるから、これは研究に値するということも言っておられる。一方内政省設置法案というものが出ておるのであって、将来内政大臣知事を官選し、官選知事教育委員を選ぶ、そういう線が出てこないとはいえないのであります。これはやはり将来教科書採択に閣係が出てくる問題であります。もしそうなればこれは明らかに国定であります。  現在のこの法案におきましても国定の道がすでに法文に温存されておるのであります。それはここに出ております法案の第二条でありまして、この法律において教科書とは「文部大臣が行う検定に合格したもの又は文部省著作名義を有するものをいう。」とある。これは緒方局長の言葉を使いますと、現行教科書発行に関する臨時措置法の第二条の「文部大臣において著作権を有するものをいう」、これと教科書の定義についてほぼ同じであるという説明をしておられる。しかしこれはそう簡単に済ますことはできない。なぜなら現行法は、大臣が言っておられるように、その名称の示す通り臨時立法の形式をとったものであります。ところが検定国定かということについては御承知のようにあれだけの大騒ぎをいたしまして、そのあとでこの教科書法案をお作りになった。それはなるほど職業課程とか、盲ろうあ学校教科書とか、どうしてもいたし方ないものもあるでしょう。あるならそれを厳密に限定規定をすべきものであります。現に議員提出されました案におきましては、はっきりと限定規定をしておる。職業教育の限られたもの、それから盲ろうあ学校のものというふうにはっきりとしておるのであります。そういう規定をやはりすべきである。大臣の提案の御説明検定制度を維持いたして参りますとありますが、私どもは正直に言いまして、こういう限定規定のない国定教科書発行が可能な条文を残しておくことに対しましては、非常に危惧を感ずるのであります。その例が、これと法律建前は違いましたが、昭和十八年に中学校なり師範学校なりの教科書標準からだんだん国定になっていったということがありまするし、もっと近くは占領中の末期でありましたが、標準教科書という国定本文部省が出そうとして司令部に押えられたという問題もあるのです。ですからこの問題につきましては、われわれといたしましては非常に関心がある。しかも国定教科書を出す手続につきまして、それを審査するとかそのほかのことにつきまして何ら規定がない。ただ文部省著作という名義があればそれで教科書になるというようなそういう法律を作るということは、全く官尊民卑、官僚独善でありまして、私は私学の一人としてどうしても承服ができないのであります。  次に発行供給の問題でありますが、中教審答申におきましては、発行者のみ登録となっておりますが、政府案供給者登録させる。時間がありませんから簡単にしますと、なお中教審答申におきましては、発行者供給業者は法令及び委託契約に従って、共同して供給義務を負うものとして、その義務を履行させるための措置を講ずることとありまして、発行者供給上の最終責任を果させるような苦心、工夫が中教審の場合の答申にはあるのでありますが、文部省の場合はこれが不明確であります。両方を分けまして、それを登録制にして、分断してコントロールするのであります。こういう供給発行につきましての登録制は、ほかの国にほとんどない。東ドイツとか中共とかロシヤというようなところでなければ、ここまではやらぬのであります。要するに、この日本教育学会の線よりも、中教審答申というものは、実はまだ十分に民主的なものでないので、われわれはこれに対して、中教審答申にもはなはだ不満足なのであります。先ほど申し上げた学習指導要領基準作成機関プロセス、それから採択についての教員意思を組み入れる制度、これらについてわれわれとしては非常に不満足なのでありますが、それでも中教審の場合におきましては、選定協議会教員を入れろということをはっきりしておるのでありますが、文部省選定協議会についてはそういう保障もしていないのであります。  結論として言いますと、政府案検定基準となりまする学習指導要領作成についての民主的な考慮が払われてない。また学習指導要領基準性拘束性を強めまして、そして教科書内容の不安定、中立性をそこなうところの危険が私はあると思う。というのは、二大政党で大臣がかわれば、その大臣の考えがやはり強く動きますので、初中局学習指導要領を作るということだけにしておいては、その指導要領内容というものがやはり大きく動くのであります。そうさせないように教育学会におきましては、その委員会なりあるいは議員提出の案では、五人委員会というようなものを置いて、委員の任命について議会の承認まで得て、内閣がかわってもぐらぐら根幹が動かないようにしてある。これはまた従来の例から言うと、ずいぶん動いておるのですが、これが動きますと、教科書内容が右往左往する。教科書編集に当る者も現場教員も、子供もやはり非常に大きな迷惑をするのであります。  ところでこの議員提出の案でありますが、これは日本教育学会教科書制度要綱の精神にも、大体において合致しております。
  4. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 山本さん、まことにすみませんが、あと質疑のときにやっていただきますから……。
  5. 山本敏夫

    山本公述人 それで議員提出の方の案につきましては、種々こまかい点においていろいろ問題点はあります。たとえば時限立法であるとかいう点もありますけれども、それらは将来修正が可能でありますので、私は議員提出の方の案をとるものであります。  ちょっと時間をとりまして失礼申し上げました。
  6. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 以上で山本公述人公述は終りました。これより山本公述人に対する質疑に入ります。質疑を許します。平田ヒデ君。
  7. 平田ヒデ

    平田委員 ただいまは私ども政府提出法案に対しまして非常に疑問に思っておる点につきまして御解明下さいましたことを、まことにありがたく存ずる次第でございます。そこでただいまの御説明には重複いたさないようにお伺いをいたしたいのでございますけれども、第二節の検定審議会のことについてでございます。教科書検定審議会でございますか、この中に「検定審議会は、八十人以内の委員で組織する。」それからまたこの法案の中には出ておりませんけれども常勤調査員四十五名というものは、初中局の中に置かれることになっておりまして、常勤調査官でございますか、この四十五名が窓口の仕事をするというようなことになっておるようでございますけれども、この点について、いわゆる検定拒否というような点等も勘案されまして御意見を承わらしていただきたいと思います。   〔委員長退席山崎(始)委員長代理着席
  8. 山本敏夫

    山本公述人 常任調査官でありますが、これは名前は調査官でありますけれども、四十五名も常勤でおるということになりますと、これは実際に教科書を書いた者の経験から通して言えるのですが、現在におきましても、いろいろ内面指導があります。それは決してただ単なる悪い意味でばかり行われているとは言えませんでしょう。しかしずいぶん内面的な指導があるわけであります。発行者といたしましては、編集に非常に費用のかかるものでありますし、万一不合格になっては大へんということで、ずいぶん足まめに運んで、やはりこの常勤調査官指導を受ける。これは指導を受けるのはいいこととも言えますが、われわれの従来の経験から申しますと、それがただ字句とかそういうことでなくして、重要な概念の考え方などにつきましても、いろいろやはり指導があるわけであります。ところが教科書業者は非常にそういう点に敏感でありますので、そのためにずいぶん内容統制が行われておるのが現状であります。ところがこの常勤の四十五名というのを置きますと、それがよけいに激しくなってくると思うのであります。それからこの常勤調査官ばかりでなく、今の検定審議会もありますが、これも一種の大臣統制が免れないような制度になっておるのでありますが、しかし先ほど申し述べましたように、教科書を書いてくる、さかのぼってその内容的基準になるところの学習指導要領作成主体なり手続民主化という点からいたしませんと、この政権の移動というようなことで、絶えず大きくゆすぶられるということになると思うのであります。そういう教科委員会というようなものが議員提出の案にはあるのでありますが、そういうものがありませんだけに、こういう調査官なり委員ができましても、これはやはり指導要領に従ってということで、あるワク内で仕事をいたすことになりますので、教科書内容が不安定になり、政治的な中立を保つのが非常にむずかしい、それが侵される危険があるというふうに思うのであります。
  9. 平田ヒデ

    平田委員 そこで第七条の第一項でございますけれども、ここには「誤記、誤植」この点については先ほど御意見を承わったのでございますが、その中に「検定基準に著しく違反することにより、」という項目がございます。これはこの前いろいろな問題があったときでございますけれども、これはいわゆる偏向の内容をめぐる問題と関連しているのではないか、そう思うわけでございます。そこで先生に特にお伺いいたしたいと思いますことは、教科書というものは、これは申し上げるまでもございません、子供たちのものであり、また教師のものでもなければならないわけでございまして、いわゆる偏向といわれるものの内容、その実態、具体的な事例を御存じでありましたらお伺いをいたしたいと思うのでございます。しかしこれは主観的にはいろいろな問題もございまして、一方から見てこれはいいと思う、一方では悪い、そういう論争といったようなことで、決して悪い点だけというわけではございません。
  10. 山本敏夫

    山本公述人 まず偏向という言葉をお使いになりましたが、偏向と一口に言いましても、偏向教科書ということでパンフレットなどが出たりいたしまして、御承知のようにずいぶん問題になっておりますが、偏向というものを定める基準ですが、私は一般に偏向という言葉が、あのパンフレット問題以後ある一つのきまった言葉になっておりますので、どうしてもその言葉に拘泥するのですが、私は一つの党の人たちがごらんになって偏向だといっても、そはれ教科書基準として厳密な意味において果して偏向と言い得るかどうかということについてまず疑問があります。それだから先ほど申し上げたように、教科書基準となるところの指導要領、同じことを言うようでありますが、これはどうしても大事だ、それを定めるところの委員は学界の案のように、あるいは議員の御提出に、なりました案のように、非常に民主的な手続を要する、国会の承認を得るというようなことでやることが必要だ、それに照らして偏向というのなら偏向といってもいい、さもなくて偏向というのは、私はその偏向の基準性が実を言うと非常に危ない、こういうふうに思いますから、よく言われておる偏向という問題については私はあまり触れたくないのです。かりにある事例がありましても、これは御承知のように行監委においてすでに田中次官からも答弁があったように、それは文部大臣検定を経てできた教科書なのです。使用して差しつかえないということでできた教科書なのだから、全体的に偏向しているということは言えないはずなのです。これは行監委の場合はそれできまっているのです。(「形式的にね。」と呼ぶ者あり)形式的という……。(「内容的に学者らしく。」と呼ぶ者あり)内容的に言いましても先ほど申したように偏向の基準ということをきめるのは、よほどその機関そのものから、たとえば二大政党が対立しているのは事実でありますから、片一方が偏向と言ったから偏向というのではこれは水かけ論なのです。ですから先ほど申したような機関を設けて、憲法教育基本法というようなものによりまして基準ということを考える、これが大事なのです。パンフレットの問題につきまして偏向とか、ある個所についていろいろ問題がありましたが、それについては水かけ論のような状態になっておるのは事実でありまして、私はその一々の事例などにつきまして、個別のことについてはお答えすることを差し控えます。しかもその事例を引けばある教科書のことを言わなければならぬ、これはよほど慎重にしなければならないので、教科書のどこの会社のどうのというようなことを非常に軽々しく書いたり言ったりしておりますが、「文芸春秋」などもそれを書いたりしておりますが、これはもう採択の時期が迫っておるのですから——私は少しも偏向教科書関係ない、著作者として関係ないのですが、これはやはり慎重を要することであって、個別の事例について引くことは私は御遠慮をいたします。  それからこの七条の条文は実は著作者も発行者も非常にこれについて危惧の念を持っておりまして、検定拒否が事前にされるということにつきましては、非常に大きな内面統制ということがあるのではないか、それがきびしくなるのではないかということで非常常に危惧しておることは事実であります。それだけを申し上げておきます。
  11. 平田ヒデ

    平田委員 ただいまの偏向ということにつきましては、私もこれは一方的に軽々しく言うべき問題ではないと思うのですけれども自民党から出されましたああいった問題を、しかも日本じゅうにばらまくというようなことは自民党、与党の方も十分反省されなければならないと思います。(「自民党じゃない、民主党だ」と呼ぶ者あり)名前はともかくといたしまして、事実それを民主党が出されていらっしゃるとしても、合同されたのですから言葉の小さなことくらいは問題にならないと思いますが、そこで先生は先ほどの公述の中に、世界における先進国の教育制度について研究をしておったとおっしゃったのでございますけれども、いわゆる西欧先進国における教科書制度について一応承わりたいと思います。時間もおかかりになることと思いますから重点的でけっこうでございます。できるだけ新法案と比較しながら御説明いただければ大へん仕合せに存じます。
  12. 山本敏夫

    山本公述人 西欧の教科書の行政、制度について新法案と対照してというようなことでありますが、これは実は別にこまかに書いたものが私著述であるのでそれをごらん願いたいのですが、時間の関係で簡単に申しますと、一つの典型的な例としましてイギリスをとってみることにします、というのは大臣文教委員会でイギリスのに非常に近いというようなお言葉がありましたので。それはいいと思うのですが、第一指導要領といったようなものの拘束性がそんなに強くないハンドブックのようなものがあります。それから一つづりの指導書がありますが、イギリスの場合はこれは検定でもない、地方の認定でありまして、それも一科目一種ではない、リストにたくさん載っけてある、そして採択は全く学校の自由であります、発行者供給者に対する登録制というようなものもない、無償配付は副読本そのほかにまで及んでおります。要するに財政的な、無償などについての補償は、国の責任として十分な考慮はしておるけれども内容統制ということは極度にこれを控えておる。そして内容のコントロールを避けております。日本の場合はその点実は逆で、基準ということがやかましいのであります。たとえば高等学校の場合でも、設置基準教員定数を守れないような財政処置しかしていない。ところがコース制指導要領の中へ入れて、あれに従わなければ懲戒処分になるといったような、金のかからない内面的な基準の方だけは、非常にやかましく言っておる。ところが、今西欧ということでお尋ねがありましたのですが、私スカンジナヴィアの国々も見ました、またドイツ、フランス等におきましても、そういう内面統制というものは、大戦前は別でありますが、戦後においてはこれを差し控えるようになってきておる。非常に中央集権だといわれておりまするフランスでも、教科書は認定でありますし、中学の段階においては教員が自由に選べるようになっておる。それからドイツは、非常にランドで分権的になっております。日本の場合におきまして、実は戦後のいろいろの混乱があって、価値観の倒錯というようなものが、これは戦後の客観的な情勢としてあったわけでありますから、指導要領なりカリキュラム大綱なり、基準をきめるということは、日本の場合は私は必要だと思いますが、それはさっき申し上げたようなことでやらなければいけない。そして財政補償は無償などという点においてすべきでありますが、内面統制ということをすることは、極度に控えなければならない。さもないと、西欧のやっておるやり方と、あべこべのことをやることになりはしないか、そういうふうに思うのであります。今西欧ということでお尋ねがございましたから、それで申し上げたわけでございます。
  13. 平田ヒデ

    平田委員 あとこれ一問で終ります。いわゆる教科書行政を通して見た西欧でございますか、外国の国々の自由あるいは平等といったものの扱い方について、お伺いいたしたいと思います。
  14. 山本敏夫

    山本公述人 教科書制度を通して見ました自由と平等でありますが、これは民主国におきましては、平等の線は補償の線で打ち出している。すなわち財政補償を十分にしまして、どんな貧しい子供でも、教科書も副読本も参考書も、無償でこれが当てがわれる、そういう財政的な平等を、平等の線で打ち出しておる。ところが自由は、内面的な自由は教育自主性主体性に関することであります、また子供の自発性なり教師自主性に関することでありますので、その教科書内容については自由を確保する。すなわち財政補償において平等を十分にして、内容において自由を確保するということ、これが民主国のやるべきことである。ところが日本の場合はそれが逆でありまして、今度の法案においても無償の補償というものが、年次計画においてはっきりしていない。その年度々々の予算でなければそれがはっきりしないようなことになる。一方議員提出法案におきましては、年次計画がはっきりしております。むろんこれは多ければ多いほどいいのでありますが、そういう点におきましても、私は政府案に対して不満なのであります。教科書制度を通しての平等と自由ということは、財政補償、内面の統制ということに関連させまして、平等と自由ということを考えれば一番はっきりいたすと思うのであります。
  15. 山崎始男

    山崎(始)委員長代理 高村坂彦君
  16. 高村坂彦

    ○高村委員 山本公述人のいろいろ御体験等を通じての御高見を拝聴いたしまして、御共鳴申し上げる点もないではございませんが、一番心配しておられます教育の政治的な中立教育自主性ということについて、条文をいろいろ御引例になって御心配になっておられるのでありますが、私は若干の疑問がございますので、その点をお尋ねいたしたいと存じます。教育中立性を保たなければならぬということは当然でございまして、この法案でも、そういう点は御指摘になりませんでしたが、政府案としても非常に肝胆を砕いておる。いかにしたら今日の日本教育中立性が保てるかということに肝胆を砕いておることは、皆さん条文をごらんになってもおわかりでございますが、たとえば抽象的に中立というのではなしに、現在の日本教育の現状がどうなっておるかということを前提として、中立というものを考えなければならないと思うのです。従って今日の日本教育は、一体国家の干渉によって中立が侵されておるか、あるいは外部の勢力によって中立が侵されておる例が多いかということの現実をわれわれがどう見るかということによっていろいろ変ってくると思うのです。従って抽象的、観念的な理念でなしに、現状を基礎として中立を保つにはどうしたらいいか。それにはやはり教育委員会法でもいろいろ考慮をし、また教科書法案でも、教科書の現状をいろいろ分析した行政監察の報告、その他一般の事実を基礎にして中立を保つべき考慮をいたしておるわけでございます。そこで外部からの教科書中立を侵すことに対して、一体どうして保ったらいいかということについて、国民教育の責任を持つ立場にある文部大臣としてのある程度の権能と申しますか、そういうものを規定しているわけでございますが、これについてもおのずから限度があるので、限度を過ぎれば行き過ぎでございますが、この教科書法案の限度は、今日の教科書の現状から見て、これは私は適当であると考えるのですが、今日、教科書中立を外部から侵しておると、現状をわれわれはそう見ておりますが、これに対して公述人はどういうふうに見ておられますか、その点を一つお聞きしたいと存ずるのであります。  それから、社会党の案を大体御支持になっておるような御意見でございましたが、社会党の案は、今日の日本の政治が御承知のように大体三権分立的になっております。従って内閣が、ある程度の国民の選ばれた党を代表して内閣を作って、これが万般の政治について責任をとることに相なっておるわけでございます。ところが占領下におきましては、憲法もあり、いろいろな法令もございましたけれども、そういうものを超越した権能を持った占領軍司令官というものがおりましたから、こういうものが一つ統制をとっておりましたけれども、今日の状態のもとにおいては、教育についても、私はその責任はやはり内閣が持つということでなければならぬ。この持つということは、何も内閣が、教育内容に、中立を侵すまで干渉するということは私は許されぬと思いますが、中立を保つための程度の責任を持ち得るだけのことは、やはり内閣の責任であると思います。ところが観念的に申しますと、社会党でお出しにたっている案は、あたかも四権分立的になっている。これはちょうど教科委員会というものが、教育内容については全部中央指導するというような行政に相なっておるようでありますが、こういうふうになってくると、一体三権分立のもとにおける日本の政治の運営というものがどうなるのか。内閣教育に対する、政治に対する責任というものは一体どうなるのであるか、こういうことについてのお考えを伺ってみたいと思うのであります。  それから中央地方との関連でありますが、これも限度問題で、私は遠心力と求心力というものは、おのずからそこに調整がとれなければ一つの形がうまくまとまっていかぬと思うのであります。今日やはり日本国家がまとまっていく以上は、ある程度中央地方との求心的な力が必要であろうと思う。それを全然ばらばらにしてしまいますと、これは国家として体をなさない。こういうふうに相なるので、何らかの中央からの地方に対するある程度の指導と申しますか、場合によっては必要があれば監督もするというようなことも必要であろうと思うのでありますが、この点については私は教育の点についても同じだろうと思うのです。お話の、現場教員教科書に対して非常な関心を持ち、またその改善に力を尽してもらわなければならぬことは当然でございますが、これもやはりたとえば現実の今日の中小学校の場合を見て、校長教員が、ややもすれば対立して、そこに法律で権限を認められなければそういった現場教員としての意見を発表できないというような現状にあるかどうか。私はそうではないと思う。やはり校長現場教員は、お互いに対立関係ではなくて一体となって行われておるし、将来もそれを期待し得ると私は思っておりますが、公述人は将来校長教員というものは対立して、法律でその権限を認めなければ教員校長に対して教科書についての意見を申し述べることができなくなるということが起るというような考えをお持ちでありますかどうですか、この点も公述人のお考えを承わっておきたいと存じます。私はこの点はどうもそうならぬ。将来は円満にいくし、かえつて法律でその権限を明定してみてもぎこちなくなっていくこともあり得る。また教員がたくさんおるのでございますから、一人の教員意見がそのまま上に出るわけでもございませんから、その辺はやはり校長のところで調整してやるということが、私は実際問題として妥当であろうと思うのでございます。この点についてのお考えを承わりたいと存じます。  それから教育中立性でいま一つお聞きしておきたいと思いますことは、今日二大政党が対立している。もしも、現在の政府の考えで教育が行われるということになれば、また政権がかわるとその内容が変ってくるという御心配があるようでございます。これはわれわれもその心配をいたしますが、しかしこの程度の教科書に対する国の発言権によってさようにはならない。これは良識によって運営ができると思うのであります。しかしもしもそれが内閣がかわることによって根底からひっくり返るおそれがあるから、時の政府が教育に対して責任を持つような態勢を作ることはいかぬ、こういうことであるならば、私はちょっと疑問があるのでございます。と申しますのは、二大政党で国家がまとまって政治をやっていくというからには、どうしても二大政党の間に、憲法であるとか、防衛であるとか、教育であるとか、そういうようなものについては、基本的には共通の広場がなければできないと思う。従って共通の広場のない二大政党でもし日本の今後の政治が行われるというならば、そこに根本的に疑問があると思う。それは混乱の要素が政治自体にあると思う。何も教育が変ったからといったような小さな問題ではないと思う。従ってそういう点においては、むしろ政治全体として共通の広場を持つような二大政党ができるように、国民全体、政治家全体が考えることが先決であって、この二つが対立しているから将来政権がかわったら根本的に変るのではないかという心配は、ものの本質を突いたものではないじゃないかと思いますが、この点についても、公述人のお話がありましたらいま一応御高見を承わりたいと存じます。
  17. 山本敏夫

    山本公述人 いろいろお尋ねがございました。最初におあげになりました政治的中立の問題でありますが、これはもう私何回も繰り返しているように、教科書でいえば、その内容においての政治的中立ということが大事なんで、それには学習指導要領が実質的に基準になるので、それを作る機関なり、それを作る手続民主化が行われなければならぬということを申しました。それが中央の場合です。地方の場合におきましては、地方の住民の代表なり、その土地の学識経験者、教員というようなものを広く入れまして、これが相談して教育課程内容をきめるというようにするのが望ましい。それで政党政治であって、憲法には行政権は内閣に属すとあるわけでありまして、確かに行政権は、教育につきましても、中央の場合において内閣に属しております。しかしながらこの基本法の第十条におきまして、教育は国民全体に対して直接に責任を負って行われなければならないとあるし、そうして教育行政はその趣旨に基いて行われなくちゃならぬとあります。なお憲法におきまして、地方自治の条章があって、御承知のように地方自治について組織及び運営については、地方自治の本旨に基いた法律でなければ作れないというようなことにもなっている。ですから内閣地方の自治ということから考えましても、内閣が唯一の行政機関ではない。またその行政を中央においてやりますに当りましても、教育基本法十条などによって、国民全体に対して直接に責任を負って行われなければならない。すなわちそこにほかの土木行政とかほかと違っている点が非常にはっきりと念を押されております。それから地方自治の条章を受けて現行教育委員会法ができて、一般公選によってこれがようやく地につこうとしたわけですが、それが今度は瓦解になるわけです。  それからこの公分母はないのではないかと言うが、公分母はある。日本の場合においてこれを求めれば、戦後いろいろの価値観が混迷し、またこれはほかの国では宗教で公分母がありますけれども、欧米の場合はクリスチャニティ、東南アジアの場合にはいろいろの民俗的な宗教という公分母があるのです。それが日本の場合においてはないのです。その共通的公分母は何に求めるかといえば、教育の場合におきましても、憲法教育基本法に求める以外に共通の広場としてはないと思うのです。ところがその憲法解釈につきまして二大政党の間では非常な違いがある。たとえば憲法の九条などについて、これはそれにも関連が出て、平和というような考え方についても、ずいぶんずれがある。それだから国の学習指導要領を作る機関は、文部大臣の統括下にある初中局にしておいては教育内容中立性が保てない、それだから五人委員会のような国会の承認を得て作るそういうような、機関を必要とする、日本の場合は特に必要とする。イギリスのような場合にはそれが必要ないのです。ある意味においての一つの安定した価値観があって、公分母がいろんな面においてある。それがないから、日本の場合においてはそういう教科委員会というものが必要にもなってくる。そういうことを中央ではし、地方においては地方の住民の多くの人、そのほか学識経験者や何かがかわり得るようなそういう委員会を作って、そして現在のあの委員会法を保持してやればいいんです。それを根底からおやりにならない。そういう点において危惧をなすっておられることがますます危なくなっていくように見えるのであります。  それから校長教員関係でありますが、私は何もこれを権利、義務で縛るとは言うんじゃない。法律を政府の方でお作りになるのがむしろいけないと言っている。すなわち県費負担の教職員の服務の規定をはっきりとこの新しい委員会法によっておきめになって、それには上司命令に忠実に従って仕事をしなければならぬ。それから指導主事においても上司命令に従って指導主事仕事をするということにもなっておる。それからさっき申し上げました二十四条の解釈も、校長教員に対して教科書のことについて聞かなくともよろしいというような解釈をなさる、それでは校長教員の間がごく自由になごやかにいくことにならないのです。命令、服従の関係を新しい法案でお作りになろうとする、それがいけないということを言っておるのであります。
  18. 高村坂彦

    ○高村委員 ただいま御説明いただきましたのですが、若干まだ十分理解のできない点がございます。お話のごとく教育基本法には国民全体に対して直接責任を持つことが規定してございますが、私は国民全体に対して直接責任を負うということは、これはいろいろ解釈もできるでしょうが、今お話の内閣といいますか、文部省の外にある五人委員会よりも、やはり文部大臣の方が全国民に対して責任を負う立場に立っておると私は思う。これは非常な矛盾ではないかと思うのですが、一方は公選された代議士が直接選んで作った総理大臣が任命した文部大臣である。ところがその文部大臣がさらに国会の承認を得ることになっておりますけれども、選任した五人委員会公選でも何でもないのです。そういう人たちが教育指導要領等を作る、それが教育基本法の国民の全体に対して直接責任を負う立場に立つのだ、こういうことはどうも私は矛盾だと思うのです。この点が一点。  それから私ども先ほど申し上げましたように、現在二つの政党があって、それがいろいろ憲法についても所見を異にしているということは事実であります。この五人委員会というものができれば、そこでそういうことが調整されて、それを揚棄したような考え方日本教育が行われる、こういうふうな御説明に承わりましたが、果してそれが可能でございましょうか。またそれで一体いいのであるか、私はそこに非常な疑問を持つ。これはやはり今日の自由民主党なり日本社会党の諸君がいろいろ切瑳琢磨することによっておのずからそこに共通の広場を見出していかなければならぬ。そうしてそこにおのずから落ちつくところに落ちついて、日本の方向というものが漸次きまっていくと思うのでございますが、あなたのお考えによりますと、そういうことではないのだ、今言ったような五人委員会等がそういう役割をむしろ離れてやるのだというふうにも受け取れましたが、これはあるいは私の聞き間違いかもしれませんが、その点はどうでございましょうか、もう一ぺんお尋ねをいたします。
  19. 山本敏夫

    山本公述人 文部大臣中央教育行政の責任者であるということは、これは私否定しておりません。五人委員会を作るにしましても、その五人委員会を任命するのは文部大臣であります。ただ公選にしろといっても、これは無理でありまして、全国の公選でわざわざ五人委員会委員など作れるはずのものではありません。ですから公選なんということは、これは考えません。そこで五人委員会教科委員会委員を作る場合に、文部大臣が国会にかけて非常に慎重な手続をする。そしてこれをいわば文部省の外局的なものにいたします。しかしこれはやはり文部大臣の管轄に入るわけです。全くそれが独立した機関ということは考えられないのであります。この行政のやり方に申すまでもなく中央では均衡を保つ以外にないのであります。それから地方におきましては特に国民全体に対し直接に責任を負うという趣旨をはっきりして、地方でもこれが教育行政の根幹だから——これは中央でも根幹であります。中央だって文部大臣教育基本法の十条にさからうところの教育行政はできない。地方においてもそうであります。ところが地方委員会法設置の経緯から見ましても、委員会法の第一条はこれを受けている。そしてああいう委員会ができて、国民全体に対して直接責任を負うところの行政機関というものを作ったのであります。ですから、高村先生のおっしゃった政党政治というものを決して私は認めないのではない。むしろ後段のお話にありましたように、切磋琢磨というお言葉がございましたが、はなはだ失礼でありますが、そういうことで政党政治がますます発展していくということを望むものであります。  それからさき申し上げましたような、内閣に行政権が属すという解釈も十分にできている。それから地方自治の関係、基本法十条との関係、これらの関係説明は先ほどから十分してあると思うのであります。
  20. 高村坂彦

    ○高村委員 ただいま私が申し上げた点からお答えがちょっとずれておったようでありますが、私は先ほど国民全体に対して直接責任を負うという教育基本法の建前からして、五人委員会というものはかえってその建前に反するではないかということをお尋ねしたのです。その点が一つ。  それから今日の日本教育、特に国民教育を支配する力——国民に責任を持たない立場のものがそれに対して力を及ぼしつつあるという実情を私は憂えている。たとえばある県で日教組の大会がございます。そうすると、共産党や社会党の方には案内状が来ますけれども、われわれには参りません。そういう日教組の人たちが講師団というものをお持ちになっていらっしゃる。またそうした人たちが教研大会を開かれて、中共からも人を呼ぼうという計画までされる。そしてそこで日本教育内容というものを指導しょうという動きが出ておるのです。こういうことで果して一体先ほどおっしゃったような日本の全国民に直接に責任を負う教育というものが期待できるかどうか。私はそれに対して非常な危惧を持っておるものです。今日そういった全国民と関係のない、いわば職員団体である日教組が、もしも日本教育内容について指導的な立場をとるということになれば、これは非常に危険である、こういうふうに思っておるのです。そういう動きが現にあるという事実をお認めになりますか。またそれはこういう工合で実はあっても、教育基本法の精神にも何ら反しないし、望ましいことであるとお考えであるか、その点一つ公述人の御所見を承わりたいと存じます。
  21. 山本敏夫

    山本公述人 申し上げるまでもなく、教育基本法の第十条を一番よく受けておるのは教育委員会法でありますから、そちらの関連が一番深いと思います。しかし五人委員会を置くことが基本法の十条に反するとは思いません。趣旨からいって、教育が、またひいては教育の行政が国民の全体に対して責任を負う、そういうふうに行われるというこの精神は、五人委員会を置くことによってむしろはっきりする、こういうふうに思います。  それから日教組の問題でありますが、私講師団のものでもなければ、それから中執のものでもないので、内部からこれを見ることができません。それでこの日教組というようなものが教育内容についていろいろ研究したりいたしますことは当然であって、職員組合じゃないかというようなお話もありましたが、そういう組合であるからむしろ文化的、教育内容についての研究をすべきではないか、そういうふうに思うのです。それであって、何か外部の考え方からこれを押えるというような考え方でなくて、教員なり生徒なりのほんとうに望むことを政党の方が十分施策して下さることが一番いい方策であります。非常に具体的に申して大へん失礼でございますが、大へん率直に申し上げます。これは私個人の実感であるので申し上げますが、たとえば、今内閣をおやめになったから申し上げたくないのですが、吉田さんが五回も内閣をお作りになった、しかしその間にわれわれ生徒なり教員のそばにおる者として、生徒なり教員がほんとうに喜ぶような施策がなされておらないのです。これは問題です。そこでそういうところがやはり難れてくる問題なのであります。
  22. 高村坂彦

    ○高村委員 ちょっと最後に一言だけ。ただいま御説明がございましたが、私はどうもまだ十分理解ができないのですが、日教組は職員団体だがそういうものが大いに研究し大いに切磋琢磨する、これは私はけっこうだと思うのです。そういうところから教員全体に対して、こういったような教科書を使った方がよかろうとか、あるいはこういうふうな内容教育をする方がよかろうということを指令をするとか出すということは、これは私は非常な間違いだと思うのです。ことに教科書採択基準なんというものを出しておる。それも、これが国民の大多数が支持している一つ考え方を持っておるならいいのですけれども、何としても今日国民の大多数の気持は、私は共産党は支持しておらぬと思います。そういう共産党の人たちだけを呼ぶようなそういう指導を日教組がするということは、教育が偏向になるおそれがある。こういうことを国民が心配するのは、これは無理からぬことだと私は思う。そういう点で、日教組なんかがそうしたことをやるような行き方に対しては、教育中立性ということを主張される方は特にこれに関心を持って、そういうことのないように努力をしてもらう必要があるように考えるのですが、そういう点について山本公述人の御意見は、あるいは私が今申し上げたような御意見だったのかもしれませんけれども、ちょっと違ったように感じましたので、一つはっきりさせていただきたいと存じます。
  23. 山本敏夫

    山本公述人 教科書採択基準ということについて指令が出ているかいないか、これは私はおそらくそういう指令は出てないと思います。それはあるいは何かの参考というようなことがありましても、現状の教員主体的な批判力というものは相当に強くなってきているのです。ですから何かそういうものが出ましても、それによって左右されるとか、非常にどうこうされるというほど——日本教員というものはだんだんと主体性が強く、批判力を持ってきているのです。それから共産党云々と言いましたが、これは民主党のパンフレットにも、私はあの著作者ではありませんけれども、いわゆる偏向教科書著作者は共産党の回し者だというふうにとれる書き方をしておりますが、この点はやはり十分慎重を要することでありまして、あのパンフレットに共産党と非常に関係があるようなことを書いておりますのは、私はこれは誤まりだ、その方が行き過ぎだと思っております。
  24. 山崎始男

    山崎(始)委員長代理 高津正道君。簡単にお願いいたします。
  25. 高津正道

    ○高津委員 お尋ねいたしますが、私はこの法案を見まして、中央集権という点で非常に大きい欠点を持っておる、こう考えるものでありますが、今高村委員のお話を聞いておると、国の指導監督の力を強める、必要がある、与党の議員もそのように言われておるのであって、全く逆コースであると考えておるものでありますが、各国の国の行政権力と国民との関係を見ましても、それはどういう方向をとっているかといえば、民主主義の徹底に向って進んでおるのだ、こういうように私は考えるのであります。言いかえるならば国民の権力が伸びておるといえる。国対国の関係、すなわち外交の面で申しましても、熱戦の危険性というものはジュネーヴ会議でそれが相当押えられてきた。また冷戦的な対立も今度のNATOの理事会でアメリカの敗北でこれも少くとも相当解消したというか、その方向へ向って進んでおるのだ。一方最近一番目立っているのはアジア・アラブにある後進国、それらがみんな独立に向って進んでおる、これを一口に概括すれば、国際的にも民主主義的な方向に進んでおるのだ、このような世界の情勢に逆行する法案を、今日本の国会では政府と与党とで出してきておるのだ、こういう逆コースは阻止しなければならぬし、間違った方向をなぜとられるのであろうか、こういうように考えてこの中央集権という一点でこれはひどい逆コースに進みはじめたものだと考えておるのでありますが、先生の御意見はどうでありましょうか。
  26. 山本敏夫

    山本公述人 中央集権の傾向がありますことはこの教科書法、それからこれと姉妹法のような地方教育行政法案、これに一貫しております。しかもそれは内容統制をやる、国民の考え方に対する統制をやろうということでやはり出る、そういう面におきまして両法案に共通性がある。そして戦後の各国の趨勢、ことに民主主義国といわれておりまする国々の趨勢から見まして、さっきも申し上げましたように教科書の無償そのほかの財政補償は十分にするけれども、内面統制はこれを避けるというふうな傾向がありますことは事実であって、こちらの場合は補償が薄く内容統制がきついという点で、民主国の各国の趨勢に逆行するものであると思います。
  27. 山崎始男

    山崎(始)委員長代理 これにて山本公述人公述及びこれに対する質疑は終了いたしました。  山本公述人には両法案について教育学の専門的立場から貴重な御意見をお述べ下さいましてありがとうございました。  次に高山公述人より公述を承わるのでございますが、一言ごあいさつを申し上げます。  高山公述人には御多用中にもかかわりませず御出席をいただきまして厚くお礼を申し上げます。何とぞ両法案につきましてあらゆる角度から忌憚のない御意見を御開陳下さいますようお願いいたします。なお公述その他につきましてはお手元に配付いたしてあります注意書きの要領でお願いいたします。  それでは高山公述人の御意見の御開陳をお願いいたします。高山公述人
  28. 高山岩男

    高山公述人 私は日本大学及び神奈川大学教授高山であります。  結論を最初に申し上げますると私は政府案に賛成でございます。次に少しくその理由を申し上げることにいたします。教科書と申しますものは実は本来はつまらぬものであります。しかしまた一面から申しますると実に重要なものになるのであります。大学の学問研究の場におきましては実はほとんど教科書というものを使いません。たとえば哲学でありまするならばプラトン、アリストテレスとかカント、ヘーゲルというふうな人の本を教科書に代用いたしているのであります。これには深い理由があるのでありまして、要するに学問の研究の場であるという場合には研究する者もあるいは学生も相当高い程度にありまするから、そういう一般的な教科書というものは必要がないわけであります。つまり一種の学問上のアリストクラシーの立場に立つのであります。ところが小学校、中学校義務教育なりあるいは高等学校程度の学校になりますると、話が全然違ってくるのでありまして、この場合には大体平均的なことを前提にいたさなければならぬのであります。つまり教員なり生徒なりが特定の優秀な者である、あるいはさらに学問研究の場であるというのとは性格が違いまするから、ここに一般的な基準あるいはひな型的な模範を示すものとして教科書というものが非常に必要となってくるわけでありまして、つまりこの場合にはアリストクラティックじゃなくしてデモクラティックであるという水準性、平均性がものを言ってくるわけであります。でありまするから、そういう学校においても、先生に特殊なすぐれた教育的天才がございまするならば、あえて教科書というふうなものを重んずる必要はないのでありまするけれども、これはデモクラシーの理念とそむくことになりまするので、やはり一般的水準というものをその前提といたして教育するということがどうしても当然のことになるのであります。そこで一体そういう下級の学校におきましてどういう教科書教科書として適格であるか、あるいは適格な教科書の中でどういう性格のものが優秀であるか、こういう問題が出てくるのであります。  その条件分析をごく簡単に申し上げてみまするならば、これは何といいましても第一には教育的観点に立つということが最大の重要な点であります。言いかえますと決して学究的ないし学問的観点に立つものではないということであります。学問の上からならばいかに優秀な本でありましても、これが教科書としては不適格だということが幾らもあり得るのであります。教科書として不適格であるといって、学問上これがすぐれているということを否定することには断じてならないのでありまして、ここに観点の相違から価値の相違がおのずから出てくるのであります。次には、そういう教科書は従って新説とかあるいは奇矯なる説とか少数説というものはとるべからざるものでありまして、教科書の立場からいたしまするならば、中正穏健な一般に通用いたしますような説を取り上げるというのが当然のことになるのであります。つまり偉大なる平凡が教科書というものの生命でありまして、非凡であることがかえって教科書というものの欠陥になるのであります。さらにはノーマルな少年なり児童なりの精神発達に害があることが避けられなければならぬことは、これは申すまでもないことであります。たとたばいかにチャタレー夫人が文芸作品として上乗のものでありましても、これを教科書の中に採用するということは良識として必ず避けられるはずであります。それとちょうど同じように・マルクス、エンゲルスの共産党宣言であるとか、あるいはレーニン、スターリンの著書であるとか、さらにはヒトラー、ムソリーニの著書を教科書として採用する、あるいはその部分を入れるということは、良識ある国民はどこでもやっていないだろうと思うのであります。  そこで第二に重要な条件といたしまして、イデオロギーに対して中立であるということが、教科書というものには、教育学的観点からもまた当然要求せられるものであります。イデオロギーから自由である、こういうことがやはり教科書の重要な生命になるわけであります。でありまするから、以上の事柄からいたしまして、教科書というものができますには、教育的な観点から相当制限なり制約なりというものを受ける、あるいはみずから課してくるというのは当然の話でありまして、もし教科書というもののそういう教育学的観点からいたします自己制限というものが、言論の自由を棄損するとか、あるいは学問の研究を弾圧するとか申しまするならば、これはおよそ教育というもの、あるいは特に教科書というものの性格を知らざる論でありまして、とほうもない非常識な議論となるのであります。  そこでちょっと教育に対する統制ということについて一言申し上げますると、およそ文化国家ないし近代国家でありまする上は、教育を盛んならしめるために国家が尽力するというのは、これまたきわめて当然のことであります。もしそういう働きを国家がいたさぬ場合には猛然として国民がこれに反対いたすわけでありまして、事実教育に尽力しない国家がありまするならば、これは近代以前のきわめて野蛮な国家であると申すよりほかないわけであります。では国家が教育を育成する、教育の指興に尽力するという場合にいかなることが目ざされているかと申しまするならば、申すまでもなく広い意味での教育の環境なり条件なり、つまり教育が成功いたしますための環境、条件を整備するということに一言でいえば尽きるのであります。だから正当な環境、条件を作成していく、もし不当なる環境、条件が発生いたしますならばこれを除去することが国家の重大な使命になるわけでありまして、育成もしないし、あるいは逆に育成を阻害する勢力が出てきた場合にも、放置しておくというならば、これはまことに野蛮な国家であるか、あるいはアナーキな状態であると申すよりほかないのであります。  ただこのことは、申すまでもなく教育内容面に出たって国家が干渉するということとは質の全く違った事柄でありまして、国家が環境、条件を整備するということは、教育内容に政党色を入れるとか帯ばしめるということでないことは、これは申すまでもないのであります。これが教育中立性ということが重大なゆえんでありまするが、とにかく国家の教育に対する関与の面が実は環境の整備という点にある、それと教育内容に対する関係というものは質的に違っているという点は区別を要する点であります。混同を許さない事柄であります。実は教育中立性というものはデモクラシー国家のみの特徴でありまして、全体主義国家におきましては、それが左翼の全体主義であろうとあるいは右の全体主義であろうと、全然中立というものはなく、存在する余地はないのであります。つまり一党一派のイデオロギーによって環境、条件を整備すると同時に、また内容も思想的に統制する、これがわれわれがこの二十年この方見てきていた事実であります。そういう意味合いからいたしまして、国家が環境、条件を整備するという政治上の働きないし環境、条件を阻害する力を排除するというふうなことをいたしますことが、直ちに教育内容にわたって干渉を加える、中立性を棄損するという工合に申しまするならば、これまたはなはだ奇矯な誇張ないし奇妙な詭弁でありまして、この間にはっきりした区別を、——決してアナーキ状態が国家としてとるべきものでないということは、われわれの注意を要する点であろうと思うのであります。  それからさらに統制といいます場合に、多くは官僚統制あるいは国家統制という工合なものが注意せられまして、しからざる統制というものが行われ得る可能性がある、また現に各国において行われつつあるという事実が、多く見のがされておるようであります。実は何も国家の官僚による統制だけでなくして、あるいは資本主義的な統制もありましょう、商業主義的な統制もございます。これがジャーナリズムを通じ、あるいはラジオを通じて行われる場合もあれば、さらに集団の力によって、特には組合の力によって思想統制を隠然と行うということも、このマス・コミュニケーションの発達いたしました現代においては、いと容易に行われ、また現に行われておるのであります。この第二の方面の統制というものを、故意か無意識か無視するということは、今日の世界情勢から申しまして絶対に許されないわれわれの注意すべき点でありまして、もし統制というものがいかぬといたしまするならば、国家統制、官僚統制のみならず、こういういわば民間による統制というものも教育から排除する必要があるのであります。戦前には御承知のように文部省に教学局があり、さらに付属機関として日本精神文化研究所があり、そこに御用学者がたくさんおりまして戦前、戦時の教学統制をやったわけでありまするが、それにかわるようないわば民間文部省というふうなものの宣伝局なり御用学者が出ていないか、こういう点をわれわれは考えてみる必要があるのでありまして、正直に申せば、相当遺憾な点が戦後の日本にあるのじゃなかろうかと私は思っております。そういう意味で実は単に国家統制だけが憂うべきものではなくして、やはりそういう意味の統制も、また教育の中性を依存する上には排除するということが必要であり、それを念頭に置いてのやはり環境、条件整備の国家の力というものが加わることも、これまた至当のことだと思っているのであります。  そこで少しく現在の制度のもとの教科書が、どういうような工合になっているかという点について簡単に申し上げてみますると、私は社会科以外のことについては申し上げる知識も、ま資格もございません。この社会科にしぼって申し上げてみますると相当問題があるのでありまして、特に世間で問題になっておりますイデオロギー的な偏向性というものが、かなり多くの教科書には見られるように思うのであります。今実情について詳しく申し上げることができませんが、たとえば多数の教科書の中には日本というものの個性を非常に軽視する傾向が強く見られるのであります。十九世紀のヨーロッパの理論であります一般的な発展段階説をそのままに日本に応用しても、ヨーロッパと同じような発展を日本もとるべきものであるというふうな理論的前提のもとに書かれているものが多いようであります。でありますから、明治維新は民主革命が不完全であった。もし完全であったならば、今日のような悲運に日本が陥るようなことがなかったというような調子でありまして、日本というもののユニークな個性というものを明らかにするという傾向が非常に少いのであります。あるいはさらに日本の過去をいたずらに暗黒化するという傾向も相当多くの教科書に見られる事実であります。何と申しますか、封建時代の日本などでは年がら年じゅう切り捨てごめんが行われていたかのような印象を子供に与える文章が相当見られるのであります。戦前の日本は封建的であった、日本は軍国主義であるというような調子で非常に誇張した書き方が多いのもかなり大きい特徴であります。でありまするから私らが読みまするならば、どうして祖国に対する愛情なりあるいは憂いなりが生ずるかが理解できないのであります。つまり少年を絶望に追いやる傾向のものがはなはだ多いのであります。あるいは大衆というものが歴史を作るというふうな調子から、英雄史観を排斥する傾向がかなり多いのでありますが、これまたけっこうでありまするけれども、しかしそういう調子の教科書が今度は突如として百姓一揆の統領とか反戦平和主義者のみが英雄扱いを受けるというような奇妙な行き方がとられている傾向も見られるのであります。その他いろいろあるのでありますが、私は現在の社会科教科書、あるいは特に歴史などにつきましても、歴史の教科書というものは修身化されていることに非常に疑問を持つものであります。一方では科学的に歴史を書くのだ、こういう趣旨や標榜をいたしているにかかわらずいたずらに歴史というものを評価し審判いたしておるのであります。つまり勧善懲悪であります。日本が間違ったとか日本の発展のコースがゆがめられたというふうな文字が相当使われているようでありまして、歴史に筆誅を加える、道徳的立場から審判を加える、こういう修身化、修身に化する現象が随所に見られるのであります。申すまでもなくこういう工合に歴史を道徳的修身にするということはこれは儒教の考え方でありまして、日本においては江戸時代の特徴であります。文芸の中に勧善懲悪を入れるというのが儒教の立場からの、たとえば馬琴などに見られます文芸の特徴でありまして、デモクラシーの時代に歴史にそういう修身を入れてくるというふうなアナクロニズムはとうてい私たちには理解できないのでありまするが、これがはなはだ進歩的たという考え方日本教育学界なり思想界では行われているようであります。しかしこの封建的な社会科の修身化という現象は申すまでもなく左右の全体主義において行われている現象でありまして、現代の世界においてそういうアナクロニズム的現象はナチズムとコミニズムの特徴であります。  社会科というものが大体社会改造化という工合に、まあ革命化という工合には申されないと思いますが、社会改造化という建前に立っていると見えまして社会問題というものをごく簡単に割り切られている。人生問題、社会問題というものがむずかしいものであるというふうな注意はほとんど一言もないようでありまして、これは二千数百年にわたって哲学者なり宗教家なりが議論をしてきましたそのむずかしい問題が日本の社会科教科書にかかりますと、実に簡単に解決されているのであります。私は哲学を専門といたした者でありまするが、今まで何千かの本を読んだことがばからしくなるくらいであります。ただ一冊日本の社会科教科書を備えておきまするならば、人生、社会の問題万般が簡単に割り切れるようであります。たとえば戦争があるのはなぜだ、戦争を欲する者がいた、これを除けば世界が平和になる——きわめて神話的な童話的な考え方が、これが進歩的という名のもとに教科書にあるのでありますから、私ら哲学をやる者はまことに驚嘆いたして、その知恵の深いのに驚かざるを得ないのであります。  さらに一言非常に重大な点は、権利を重んじまして義務というものを軽視しているという傾向が非常に多いのであります。これは新憲法それ自体がそうでありまするけれども、しかし社会公共の福祉のために個人の権利の行使に対して相当制限、抑制を加うべきである。そういう倫理的な義務というものをば社会科が説かない。説いても非常にこれが少いということはおそるべきことじゃなかろうかと思うのです。単におそるべきというだけには尽きないのでありまして、申すまでもなくこれは社会主義以前の思想であります。自由放任、自由主義の結果生じた社会悪をば是正しようというところに社会主義のいろんな主張が発生いたしましたことは御承知の通りであります。従って社会主義の実現というものが単に野放図な権利の行使、自由放任じゃなくして、そこに当然公共のための義務が重んぜられることは申すまでもないことであります。ところがそういう社会主義の発生するはるか古い時代の思想に立ちまして、教科書というものは権利一点張りの主張をしている傾向が強いのでありまして、一方では非常に進歩的なつもりでありながら、時代おくれの百年以前の主張に立って、社会主義的な立場を身につけて教科書を書くというふうな傾向が少くないことは、私にはまた非常に理解できがたい点であります。  実はこういう教科書といたしまして、現在の水準から見まして品位も品格もはなはだ低い、現代の思想水準から見てはお話にもならぬという恥かしいしろものが堂々と検定の関門を通過している、フリー・パスをしていきますのはどういうものなのか。かねがね私もこれを疑問に思っていたのであります。それにはいろいろな理由があると存じます。教科書基準となるものにも欠陥がございましょう。根本は戦後の日本の思想界の虚脱的な混乱にあることは申すまでもないことであろうと思いますが、一つ検定制度の不備にあることは何といいましても明瞭な事実であります。つまり現行の検閲制度のもとではこういう恥かしいアナクロニズム的なものをば阻止しようといたしましてもできないようにしかけがなっているのであります。そこからいたしましてどうしてもここに専門——と申しまするのは、教員をやりながら片手間にやるという兼摂でなくて、専門の、専属の調査員というものが必要であるということは私もつくづく最近感じた次第であります。検定審議会というものを何らか拡充強化するということは、何といたしましても必要であるというのがやはり私の実感でございまして、もしここに片手間に審査をやるというふうな組織でありますならば、きわめてお粗末のものになって、やはり現在の欠陥というものは防ぎ得ないように思うのであります。そういう意味で実は政府案は拝見いたしたのでありますが、いろいろの今日までの経験をよく反省して苦心しているところが見えるように存じます。常設の教科書研究施設を置くというふうな点にいたしましても、さらに教師用に不適切のものがあった場合、文部大臣が勧告するというような点も、あるいはまた教科書の申請者から説明ないし意見を徴するというふうな点、あるいは不合格決定の理由書をやるというふうな点も、非常に私は妥当だと思うのであります。  社会党の反対案が提出されておるようでありますが、大体政府案根本には違いはないようでありまして、現行制度の欠陥を認めている点においては、ほぼ同じことであるように思います。ただざっと拝見いたしましたところでは、教科書選定委員会というもののかわりに、文部省外局の独立機関として教科委員会というものをお考えのようであります。こういうものを置くことの是非、法律上の議論は、私のあまり興味のない点でありますが、ただこういう機関が先ほどから申しますように、専属の専門員でない、つまり兼務いたします片手間の仕事であるというのでは、私は少しも実質上の効果が上らないという工合に考えるものであります。そこにほんとうの専門の者が多数いて、これに常時当るというのでなければ、私は効果がないように思うのでありまして、そうなりますれば実は憂える官僚統制というものが、どちらの面からも出てくる危険性はあるわけであります。そういう意味では政府案にいたしましても、あるいは社会党案にいたしましても、公正妥当な常識家を委員としてやるということが最大の大切な点であるように私は思います。  最後に、ただ採択地区の問題で政府案が郡市の広い地域を中心といたしますのに対して、社会党案はあくまで各学校別にお考えのようであります。これも非常に議論のあっていい点だとは思いますが、ただ私の一言申し上げたいのは、官僚統制とか国家の中央集権化に反対である、こういう立場からの、そういう思想上の理由をもっていたします反対についてであります。地方自治がすなわちデモクラシーである、中央集権化の排除がすなわち民主主義であるという公式は、これは必ずしも万国に当てはまるものではございませんので、アメリカその他の特定の前提を持っている条件で成功いたすことと存じます。しかし今私の申し上げたい点は、実は地方分権、地方自治がデモクラシーであるということが方程式として成り立ちますのは、実はすでに過去の事柄であったということであります。つまり国民の共同性というものが、はっきり前提として国民の内部に強くあった時代の事柄でありまして、これが階級的異質性によって徐々に崩壊しました今日の段階においては、もう一度何らかの形で穏健な中央集権的方向へもっていくということが、これはもう世界各国とも避け得られない状態になっているのであります。これこそ第二次大戦前のいわゆるデモクラシーの危機を経験した文明国みなともに悩むところでありまして、今日そういうデモクラシーの危機、特にこれを助長いたしますものがマス・デモクラシーでありますが、それ以前の、内部に国民の共同性が前提され、対立政党も事重大な点になりますならば直ちに超党派的な行動ができましたような時代を念頭に置いて、そうしてデモクラシーというものは地方分権だということは、私はとらない。むしろ階級的な異質性を越えた新しい国民共同性を盛り立てていくというのがデモクラシーの危機を経験しました今日の世界的な課題でありますから、すでにリベラル・デモクラシーの立場に立ちますようなデモクラシーはすなわち地方分権である、地方自治の強化である、こういう旧思想の上にもし考えられるとするならば、私は実は賛成できないのでありまして、やはり日本の特殊な事情から考えまして、相当広域で教科書というものが使われることこそ、今日かえって日本の国民共同性を再建するためにも役に立つのではないか、こういう考え方をいたしているのであります。  以上のような理由によりまして、私は政府案に賛成でございます。
  29. 山崎始男

    山崎(始)委員長代理 以上をもって高山公述人公述は終りましたので、これに対する質疑に入ります。質疑を許します。高津正道君。
  30. 高津正道

    ○高津委員 食事の時間が迫っておりますので、きわめて簡単に質問をいたします。御答弁も簡単でけっこうでございます。今先生は右であろうと左であろうと、全体主義国においては教育には中立性というものはない、教育中立性があり得るのは民主主義国の特徴であって、そこが美点のように言われ、そうしてその内容はどういうような内容であればいいかというと、新説や奇矯の説や少数の説をとらず、多数の説でいくのだ、こういうようなお話があり、検定に当る人間も専門の人が多数いて、そうしてそれは常識家であることが必要だ、——ここだけではちょっとわからぬのでありますが、前のお話と一緒にしてみますと、先生のお話は資本主義のワクの中で、この資本主義社会の中の中立、こういう意味でありますけれども、われわれから考える場合には、五十一のものがあれば五十一が多数で、四十九はみんな消してしまって五十一で塗りつぶすのだ、そして奇矯の説を排し、少数の説を排し、多数の意見教科書へ書くのだ、こういうような意味に受け取れるのであります。現在の社会は原始共同体から発展して、それから封建制の時代に進み、言い落しましたが、この封建制の前に奴隷制がもう一つ入りますが、そうして資本主義制へと入ってきた。そうして資本主義も最後の段階にきて、いよいよその弊害が露骨に現われている。それは資本の集中であり、弱肉強食であり、貧富の懸隔であり、財界の政治支配であり、労使の対立であり、失業であり、売淫であり、こういう弊害が百出しているのです。この中にあってこの制度を守っていこうという政治勢力、そうして財界から牛耳られている政治勢力、この第四の資本主義社会制度という段階から次の社会へと、みんな次から次へ移行していくのであるが、その場合にスターリンの独裁が非常に排撃された形を考えてみても、それが集団指導へといわれるのだから、あの道はわれわれは何としても避けなければならぬ。スターリンの独裁が三十数年も長く続いて、そうしてそれを今に至って排撃する。これは排撃されなければならなくなったのですが、そういうような道をわれわれは避けて、次の社会へ進まなければいけない。それをなめらかに次なる社会へ移行させなければ、資本主義というものは、少々の修繕や改善でどうにもなるものではない。先生の御意見によれば、多数の意見教科書に盛らるべきであって、それが中立性であると言われた。それは資本主義擁護者の中立性を全体的に押しつけようとあなたは言われるのであって、今動きつつ、移行しつつあるところのこの現社会に、一方の支配階級の注文するがごとき中立性を盛ればいい教科書なんだ、それは検定でパスさせるべきもので、その他のものは押えればいいという、そういう御意見のように集約されるのであります。これは全く御用学者であり、あなたが学習院大学へ入ろうとされた場合に、清水幾太郎君たちがこれを入れてはと言って拒否したのは、ああこの人であったかと……。(笑声)今気づいているのであります。これは脱線でありますが、今までの検定制度において五人の人間を見ると、その五人はABCDEと名前を隠してあります。ところがこの五人以外にF項というものがある。そのFという者は元来いない。幽霊のようなものである。しかしそれがなかなかに権威があって、そうしてこの教科書が悪いということをいろいろ書いてくる。とにかく覆面の人物、批判する人物がいるのである。だれであろうかだれであろうか、というので、それを各社の出版者が持ち寄ってずっと研究してみると、それが実に高山教授の署書に見られると同じせりふできているので、Fなる人物をずっとしぼってみると、あなたの人相が浮び上ってきた。(笑声)F項パージといって、出版界では非常におそれておるのでありますが、私はこの席で初めてお目にかかるのでありまして、私は御用学者というものはかくのごときものであろうか……。そしてあなたの学長は、ここにおられる米田吉盛委員であります。  もとへ戻りまして、資本主義を擁護し、資本主義社会の多数、それを書きさえすれば、その他の少数派の意見というものを押えなければいかぬと言うが、それでは現在の社会をほんとうに教えることはできないことになるだろう。そんなことで教科書がずっと推し進むと、こちらが五一%になった場合は、くるっとまた教科書が変る。その社会には、やはり多数、少数奇矯の、今度は資本主義の方が奇矯になり少数になりますから、その場合はあなたは学説をころっとそれに合せて、社会主義の教科書でなければいかぬという論理を主張されることになる。このように聞き取るのがほんとうの受け取り方だと思いますので、あなたの御見解を承わりたいと思います。
  31. 高山岩男

    高山公述人 大へんな御講義をいただきました。実に古いお考えのようでございます。私は何も資本主義を、社会主義をと言うのでもなく、その中立で、実は第三の道を盛んに主張するものであります。その中立というのは、何も資本主義社会の、そのブルジョア政党の間の中立ということじゃないのでありまして、実は資本主義政党なり社会主義政党なりの、その間の中立を考えるのであります。これは資本主義時代の、先ほど国民兵同性が内部にあった時代と申しましたが、そういう時代ほど容易でないことは、これはもう申すまでもないことでありますが、なお階級的異質性を越えた国民共同性というものがなければ、これは国家が成り立たぬのでありまして、これが作り得るという確信のもとに教育というものは立たなければならぬのであります。それを、いよいよもって国民共同性を分離するような方向に、分裂に導くような方向に持っていくことは、これは教育としては何としても避けなければならぬ点であります。  あとマルキシズムの御講義に対しては御答弁する必要はございませんが、ただF項何とかいうことにつきまして、大へん誤まりが伝えられているようでありますから、一言申し上げておきますが、私がF項の主人でも何でもございません。あの審議委員会内容は、各人の名誉のために漏らさぬことになっておりますから申し上げかねますが、私が何も主張したのじゃございません。委員会主体の責任になっております。第一あの審議委員会というものはロボットではないのでございまして、つまり調査員からきます調査を、自動機械のごとくにする事務機関ではありませんので、非常な責任を課せられております。一方からは非難を受け、また他方からも非難を受けるという責任の立場にありますからして、その責任相応の立場において、調査員の問題としてきているところを調査する。そしてその上に的確な判断を下すというのが当然のことでありまして、何も調査員の判定だけが全体をきめるというしかけにはなっておらぬようであります。巷間調査員のほかに審議委員会がこれを否決したように伝わっております。そういう場合も全然なくはございませんけれども、あくまで調査員の調査を尊重した上に、検定委員会の責任の限度内において、これを厳重に審査をいたしただけの事柄でありまして、何も私一人の責任ではなく、また審査委員各自の責任ではございませんので、その全体の責任であることだけを一言申しておきます。
  32. 高津正道

    ○高津委員 時間がなくてどうも恐縮ですが……。
  33. 山崎始男

    山崎(始)委員長代理 一つ簡単に……。
  34. 高津正道

    ○高津委員 明治維新の場合に佐幕論でずっときて、それが今度勤皇派というものが興るわけです。その中間に、中立の場というのが公武合体説です。公武合体説が、小選挙区法案を出したり、教育法案を出したり、NHKにまで国家統制の手をつけようとしたり、そういう多数がこう上ににのしかかってきている場合に、旧式だといわれる修身科的な、勧善懲悪的な、そういうものがあちこち文章に現われてくるのは当然で、現われなかったら大へんだと思うのです。あなたは資本主義から次の社会へ、資本主義が完全に今のような場が作られて、完全に最後までずっといついつまでもこのままでいくものだと思うのですか。とても修繕や少少な手入れや、こううやくばりなどでどうにもなるものではない。これは男性の特権から女性が解放され、地主の特権から耕作農民が解放され、大国の独占から小国、中国が解放され、そして資本家の独占、特権から働く大衆が解放されると、今こういう時代だと思うので、そのように変っていくというその方向が、この学者にしてわからないはずはないと思うのでありますが、(「わかり過ぎている」と呼ぶ者あり)わかり過ぎておってこういう議論をなさるとすれば、実にわれわれには理解ができないのでありますけれども、それはどうですかね。世の中は次へどうしても変らなければならない。それを、ある程度出てくるのを織り込んでおけば、その変化、転換というものがなめらかになるのですよ。一色で塗りつぶして、資本主義の最大公約数あるいは公分母を教科書で全部押してずっと行くと、下に欝血して、嫁のへや五臓六肺をかけめぐりという言葉がございますが、いやはなはだ失礼でありりますけれども、それで非常に暗黒な、大へん激越な階級闘争を醸成する結果になる、あなたの教科書方針で教科書が作られれば。そういう点はお気づきにならないでしょうか。私の質問はこれで終ります。
  35. 高山岩男

    高山公述人 二十七、八年前私は第三高等学校で教授をいたしておりましたが、ちょうどそのときによく学生がそういう議論をやっておりました。
  36. 山崎始男

    山崎(始)委員長代理 これにて高山公述人公述及びこれに対する質疑は終りました。  高山公述人には両法案に対する貴重なる御意見を開陳下さいましてありがとうございました。  以上をもちまして午前に予定しておりました公述人公述及びこれに対する質疑は全部終了いたしました。  午後二時より再開することとし、この際暫時休憩いたします。    午後零時五十二分休憩      ————◇—————    午後二時十九分開議
  37. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 休憩前に引き続き文教委員会公聴会を開きます。  午後はまず森戸公述人より公述を承わることとなっております。  森戸公述人には御多用中にもかかわらず遠路わざわざ御出席下さいまして、厚く御礼申し上げます。どうか両法案につきまして、忌憚のない御意見を御開陳願いたいと存じます。なお公述その他につきましては、お手元に配布いたしてあります注意書要領でお願いします。  それでは森戸公述人に御発言を願います。森戸公述人
  38. 森戸辰男

    ○森戸公述人 私は広島大学の森戸でございます。教科書の問題につきましては、いろんな点で私は関心を持っておりますが、実は現行検定制度は、私が文部省におるときに始まったのでございます。それからもう一つの因縁は、中央教育審議会でこの問題が扱われましたときの特別委員の一人で、おまけに主査を言いつかりまして、この問題に取り組まざるを得なくなったのでございます。そういうようなわけで、私自身非常に関心を持っておるのでございます。もちろん中教審におきましても、教育改革の重要な一環として、教科書の問題は慎重に審議をいたしたのでございまして、総会を四回開き、特別委員会は五回開きまして、答申を決定いたしたのでございます。その間、教育学者や教育委員会の方やPTAの方や日教組の方や全高教の方、教科書協会並びに教科書供給協議会の方々においでいただきまして、御意見を聞きましたし、また文書の上では、関係のいろんな団体からの文書も拝見いたしました。日本教育学会教科書制度要綱とか行政監察委員会教科書制度調査報告、公正取引委員会の諸文書なども拝見いたしましたし、また審議会の会員の中には私立の中、高等学校長、公立の高等学校長、小学校長などがおられまして、そういうような意見を十分に承わりながら答申案を作ったのでございます。  かような形でできました答申の基本の考え方はこういう立場に立っておるのであります。教科書教育において占める地位についてでありますが、教科書に対する考え方は、教育主張によって多少の差異はありますが、教科書を他の一般の教材と異なった重要な教材として認めていることは大体一致しているところであると思います。教科書は未成熟の児童生徒に組織的、継続的に使用せられるものでありますから、児童生徒に与える影響が多大でありますことは、論をまたないところであります。従って教科書内容は、国の教育目的に合致していることはもちろん、児童生徒の発育段階に適し、有益適切であることが必要であります。とりわけその立場は政党や宗派にとらわれない中立公正なものでなければなりません。一方教科書はすべての児童生徒に使用せられるものであり、しかも現在では有償なのでありますから、経済的面において家庭の負担をあとう限り軽減するため、十分な配慮がなさるべきであります。このような種々な理由から教科書検定発行採択供給については公正が確保され、何らかの法的規正の設けられることが必要とされるのであります。  ところでわが国現行教科書制度は、既往の国定教科書制度におけるように、国が教育内容を一方的に統制するようなことは好ましくないという見地から、民間の創意工夫によって教科書作成され、これを国が検定し、さらにこれを各教育委員会、各学校などが地方の実情などを考えて採択するという制度を採用したのであります。この現行制度は、戦後の教育改革の一環として実施されたものでありまして、新教育の大きなねらいである民主主義原理にのっとった、いわば新教育の一特色をなすものであります。従って新教育遂行途上にある今日においては、現行制度の基本的性格は維持さるべきものと考えます。すなわち国定制にすることも自由裁量にすることも適当ではないと判断いたしました。しかし教科書に関する現行の法規は、占領下という特殊事情や用紙事情の窮迫などという状況のもとで、早急の間に定められた臨時措置に基くものでありまして、私は当時文部省におりましたので、よくその間の事情を存じております。従って今日になってみますと、法的にも幾多不備な点があり、またその後における内外事情のいろいろな変化もありましたので、その実施面にもいろいろな問題が起っておるのでございます。かような事態を背景として、それに対処いたしますには、教科書発行検定採択供給が、そのおのおのの分野で公正かつ効果的に役割を果し、またそれがおのおのの間に円満妥当な調整が行われるとともに、不都合な結びつきがないようにして、教科書内容と価格の適正を確保していかなければならないと考えて、かような改善が早急に行われる必要を認めたのであります。  なお審議会を独立の機関にすること、発行供給機関を一元化してこれに公共性を与えること、教科書を無償とすることなどという重要な改革は、十分考慮に値いするものでありますけれども、これを実行するにつきましては、国の政治組織や経済、財政その他関連する面が広く、その研究に相当の時日を要しますので、今回はこれを取り上げないで、将来の研究に待つことにいたしました。本審議会としては当面改善を要請されており、早急に実行することの可能と考えられる事項について、意見をまとめたわけでございまして、かような立場から中教審答申はできたのでございます。  そこで、ただいま読みましたことでもわかりまするように、私どものとりました立場は、現行制度というのは戦後教育改革の一環として、その基本的の政策は堅持さるべきであるということでございます。従って国定とか自由裁量は適当でないと考えたのでございます。しかし占領下の特殊の事情にできたことであり、しかも早急の間に定められた、いわば臨時措置でございますから、十年近くもたちまして、それを本格的な立法にする必要に当面したということは、わかるところでございまして、さらに不備の点もあり、内外の事情の変化もあり、また十年近い経験でいろいろと問題のあるところを改善すべきものについての示唆も得られたわけでございますので、こういうふうな立場から問題を、基本的な制度を維持しながら改善を企てたわけでございます。しかしその場合理想的な根本的の改革は、中教審としては取り上げることをいたしませんでした。それは財政面とか経済面等にいろいろと大きな影響のあることでございますから、それだけを取り上げることにつきましては相当に慎重でなければならぬと考えたわけでございます。たとえば検定審議会を独立の行政機関にする。あるいは発行供給を一元化して公社的なものにするというような考え方、あるいは義務教育教科書を無償制として無料のものにする。こういうような考え方につきましては、これはそれぞれ重要な政策ではございますけれども、政治的にも経済的にも影響するところが多いので、当面の問題としてこれを取り上げることはいたしませんで、当面の改善を要請されており、しかも急速に実行することの可能なものと考えたものについて意見をまとめたのでございます。  この中教審答申の特徴とするところは、第一には、国定を目ざしておる人は一人もなかったということでございます。将来日本教科書国定にするがいいという考えを持たれ、そういう意見を発表された人はなかったと記憶いたします。  第二に、しかし同時に自由発行とか自由採択というものは現状のもとではどうも適切でない、こういう意見でございます。それは、日本の民主主義の発達段階がまだその程度に及んでいないのではないか。たとえば英国などのような状況に比べては、日本の民主主義の発達段階はそれほどまでいっていないのではないか。これは皆様方がよく御存じのところと思うのでございます。さらに日本の国民経済の状況とか父兄の負担の面から考えましても、自由にたくさんの本ができればいいのでございますけれども、それは経済的になかなか困難ではないかというようなことから、自由発行、自由採択というものも適当でないと考えたのでございます。  第三には、編集、検定発行採択供給の各部面が、公正、的確に能率的に、また円滑に調整されて行われるようになるとともに、その間に悪い結びつきがないように注意をいたしたのでございます。たとえば編集、発行採択、あるいは供給採択面でしばしば言われておりまするような、好ましくない結びつきがないように注意を払ったのでございます。  第四には、教科書検定機関である審議会を行政上の独立機関とはしなかったのでございます。教育中立性を保つのには、教科書検定機関を独立の行政機関とするがよいという意見もあるのでございますけれども、それはとらなかったのでございます。  第五には、採択につきましては、これは教師の自主的採択が妥当である。こういう意見もございました。けれどももっと広い範囲で採択に当っては、最もその面での知識、技術、熟練を持っておりまする県教委並びに地教委等の協力により、もちろん学校の先生方とその上に立つ校長さんの教科書に対する選択というものにつきましては、十分これを尊重しながら、しかもその上に地教委並びに都道府県教委の協力またその他の学識経験者の協力をもって採択が定められることが妥当であると考えたのでございます。  第六には、発行者につきましては——これは供給者についても同様でございますけれども、欠格条項を設けまして、だれでも出版をしてよいということではなく、一定の欠格条項を設けて登録制を行うことにいたしました。  第七には、供給について一元的な公社制度の主張もございましたけれども、これはいろいろな事情も考えまして採用いたしませんでした。現行の特約取次の制度を活用し、これに公共性を与え、公的規制を加えていこう、こういう立場をとったのでございます。  なお義務教育教科書の無償制はとらないことにいたしました。だれもこれは願わしいものと存じておりまするけれども、今日の経済財政の問題と関係がありますので、これは慎重な考慮を要すると考えまして、準要保護者の子弟に対する教科書の無償の給与は定めましたけれども、義務教育教科書のすべてを無償制にするということにつきましては、だれもそれは望ましいとは存じておりましたけれども、今日の段階で直ちにこれができるというふうに定めることにちゆうちょいたしたのでございます。  以上の特徴は、社会党の案との関連におきましてお考えいただくことのできる点でございまして、私はさらに一般的に答申案の特徴をあげますれば、その他いろいろありまするけれども、今言いましたのは、二つの法案に対しての判断になるような形で特徴を申し上げた次第でございます。その点で少し詳しく申し上げれば、検定機関の問題でございまして、私ども文部大臣検定権の行使を適正ならしむるため現行審議会を拡充強化する、その委員は学識経験者、教職員その他の中から中正かつ適切なる方法によって選任するものとすること、という方針に立ちまして、政党政治の影響が及ぶことを防止するため、独立の行政機関を設けて、これに教科書検定とともに教科内容等に関する事務を行わせるべきであるという意見もあったのでございます。これは日本教育学会の主張でございまして、社会党の案もそれに沿うておるように存じております。しかし教育の政治的中立の問題はひとり教育内容教科書検定に限らず、教育全体にかかるものであります。だからそれは責任内閣制度との関連において、国家行政組織全体に関する根本問題にも触れる問題であります。そこでここでは、検定の最終的責任は現行通り文部大臣にあるといたしたのでございます。けれども文部大臣検定の適切中正を期するためには、現行審議会の機能をさらに拡充強化する必要があります。そのためにはたとえば現行の十六人の委員会を拡大し、各教科ごとに分科会を設けることなども考慮されます。またこの審議会委員にその人を得ることは最も大切なことでありまして、選任方法を具体的に示すことも考えてみました。けれども適切なものを示すことが困難でありましたので、ここでは学識経験者、教職員等のうちから任命されることしまして、その任命は中正適切な方法によって行われるべきであるといたすにとどめました。この具体的方法といたしまして、たとえば選考委員会を設ける方法とか、中央教育審議会意見を聞く方法とかも考えられますけれども、かような具体的な方法は示しておりません。なお教育課程の審議と検定の審議とを一つの組織にした方がよいという見解がございます。これも一面からはその方がよいとも考えられますけれども、同時に両者は異なった仕事であります。またその間には密接な関係がありますけれども、むしろそのためからも、従前通り両者を別々の審議会にした方がよいと考えたのでございます。  なお検定につきましては従来通り文部大臣、国においてこれを行うこととしまして、都道府県においてこれを行うのは適切でないと考えたのでございます。これも日本教育学会で、都道府県の教育委員会にも教科書検定を行わせる方がよいという意見があり、社会党の案にもかような方向が示されておるのでございますけれども、しかし都道府県ごとに検定が別々に行われますることは、教育水準の維持という観点から好ましくない結果を招来するおそれもあります。それでありまするから、むしろ現在通り国家がやるのが適当であるというふうに考えました。さらに都道府県教育委員会もやることが適当であるとかりにいたしましても、その現状、能力等の点から見ますと、現実問題としてもはなはだ困難であるように思われるのでございます。かようなふうにして文部大臣——国において検定を行う、こういうことにいたしたのでございます。  それから採択の点につきましては、これは検定のあり方とともに非常に大事な点でございますが、これにつきまして公立の中小学校におきましては校長の権限を明確にするとともに、たとえば郡市単位等、一定の地域においてできるだけ少い種類教科書を使用するようにすること、このためには次のような採択方式が考えられるといたしておるのでございます。このように考えました理由は、現在教科書採択現行法令では、公立学校においては所管の教育委員会、国立または私立の学校においてはその校長が行うことと解釈されております。従って各学校ごとにばらばらの採択も可能となる制度であります。ところで公立の中小学校におきましてはそれが義務教育であり、教科書及び教科の共同研究、転校等の便宜をはかり、地域的一体感を増すとともに、教科書の需要の調節及び価格の低廉化をはかる上におきまして、自然的、社会的、教育的等の諸条件の類似する一定の地域においては、できるだけ少い種類教科書を使用するように調整をはかることが必要であり、好ましいと考えました。特に個々の学校ごとに、あるいは市町村ごとに教科書採択を行うことは、大都会は別といたしまして、その能力等からいたしましても困難な場合が多いのであります。さらに全国各府県における教科書採択状況の実際を見ましても、大部分の府県におきましては——三十二府県でございますが、圧倒的な多数が郡市単位の地域で教科書採択を調整し、あるいは選定を行なっている状況でございます。これは自然発生的に行われるようになったものでございますが、その発生を招来したのは、それには相当の必然的な理由があるものと想像されるのであります。以上のようなわけで、公立の中小学校教科書はたとえば郡市のごとき一定の広さを持つ地域を単位にして、できるだけ少い種類教科書を使用することにいたしたのでございます。  次に、採択につきましては、できるだけ現場学校意見を反映させることが、教師教科書研究に対する関心と熱意を持たせるため必要であります。従って広地域で統一する際にも、学校意見を基礎として決定するような方針がとらるべきだと考えました。なおこの場合、学校としての意思を決定する場合、ある学校としての意思を決定する主体と責任を校長とし、校長の権限を明確にする必要があると考えますると同時に、この点におきましては、地域で最も充実した組織を持つ都道府県教委指導助言してはならないと考えたのでございます。  なお発行者の欠格条項と登録の制度供給につきまして一元的な公社制度をとらなかった理由その他もございますが、それにつきまして一々御説明をいたすことは省きまして、かような形で私ども答申案ができておるのでございます。私どもは諸方面の意見を聞きまして公平に判断をして答申案を作成したと考えておりまするし、個々には委員の中でいろいろ違った意見もございましたけれども、最後には少くとも出席者の全会一致でこれが採択されたのでございます。その発表されるときの新聞の論評に見ましても、おおむね妥当であるというような意見であったように記憶をいたしておるのでございまして、現状のもとでは、望ましい民主的な改正の方向を指示しているものと私どもは考えておるのでございます。  これが答申案についてでございますが、さて政府案はいかがなものであるか、私は大体におきまして答申案に準拠しておるというふうに考えておるのでございます。幾分答申案から離れた点もあるのでございますけれども、一部の人が言いまするように、はなはだしく答申案を歪曲しておるものであるとか、あるいは非常に反動化したものであるとかいうふうには、私にはどうも考えられないのでございます。たとえば政府案の違っておる重要な点を申しますれば、採択地区につきまして、郡市単位等の地域が適当であろうというふうに私ども答申をいたしておるのでございまして、大体その趣旨には立っておりまするけれども、しかし例外といたしまして、県単位のものも認められるというふうに規定されておるのでございます。もちろんこれは例外でございまして、おそらく比較的地理的、社会的、文化的条件の似た小さな県のことでございましょうけれども、私ども県単位というような形は広過ぎるという見地をとっておりまするので、かような例外はできるだけ認められないようになることが望ましいと存じておるのでございますが、すべて県単位にするというのではもちろんございません。  それから第二には、できるだけ少数の教科書を選ぶということになっておりますが、これが一つということになっております。できるだけ少数ということは、押し詰めれば一つでございますけれども一つというと無理なところもあるから、厳格に一つだけではいかないで、多少の余裕を置いて、場合によれば二つなり三つある場合もよかろうということを考えた表現であったのでございます。この点政府は厳格に一つとしておりまして、あとに多少のゆとりをつけて特例を設けております。けれども、大体一つということになっております。  それから、採択者が地教委であったのが県教委ということになっておりまして、これも一つの大きな違いであるように思います。けれども県教委の協力というものが、採択地域をきめる点等に及ぶということ、また採択協議会につきましても、県教委がいろいろアドバイスや指導をするということになりますれば、県教委採択をするというふうになりましても、これは非常に民主主義から離れたというわけではないように思われるのでございます。というのは、教科書の採定は採択協議会により、協議会はそれぞれの郡市単位あるいはそれを併合したものにおける教育関係者、教育委員、学識経験者が集まって、しかもその地方における校長の提案したところを基礎にしていたのでございますから、県教委が専断的にきめるということは不可能であろうと存じております。  かようにいたしまして、政府の案は重要な点で多少の変更はございましたけれども、しかしこれをはなはだしく歪曲したものとする主張には私は賛成することができないのでございます。これを要しまするに、政府案中教審答申に基きまして、現状に即して民主的な教科書制度を確立しようと努力したものと考えられるのでございまして、一部の人が、これは部分的改正ではなくて、民主的教育制度根本的に変えようとするものであるという批評を加えておりまするのには、私は賛成することができません。しかし同時にこの制度は相当の弾力性を持っておるのでございまして、誤まってこれを運用されますれば、多くの危険が含まれておることもまたいなみがたいのでございまして、人々でこの点に注意を払っておることも理由のないことではないと私は思うのでございます。ことに検定審議会委員の中正なる任命ということにつきましては、政府は十分なる注意を払いませんと、そこにこの制度の中立的な、私どもの期待しておるものからそれる危険があるのでございます。こういう法案が成立しまする場合には、当局者は特にこの点に強い関心を持っていただきたいと思うでございます。  最後に、わが国の民主主義が進み、国民の経済生活が改善されますれば、社会党案が目ざしておりまする自由な編集、発行採択というものが可能な時代も参りましょうし、また教科書の無償制ということが実現される、何人も期待するものが実現されるという時代も来ることを私は望んでおりますし、また合理的な組織で教育の中立制が確保されるような制度が確立されることを私は皆さんとともに強く期待しておる次第でございます。
  39. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 以上をもちまして森戸公述人公述は終りましたので、これに対する質疑に入ります。質疑を許します。辻原弘市君。
  40. 辻原弘市

    辻原委員 ただいま森戸先生から非常に詳細にわたっての御公述を承わりました。われわれにとりましては大先輩でいらっしゃる森戸先生が、当委員会公述にわが党の推薦にあらず自民党の推薦でお越しいただきましたことは、まことに私個人といたしましても今昔の感にたえない次第であります。  最初に承わりたい点は、先生が触れられました戦後の教育改革の万般については、これは今日日本教育制度としては、少くともその基本原則というものはあくまで貫いていかなければならぬ、こういうお話についてであります。先生は、戦後二代の内閣にわたりまして、大臣として、実に重要な教育改革の衝に当って参られました。私どもは絶えず教育問題が改変されようとするときには、少くとも当時先生が国会において述べられました、あるいは委員会等において答弁をされましたそれらの、当時真摯に検討を加えられた政府を代表する御意見の中で、一体戦後の教育の方向というものをどういうふうにつかんで、これを新しい教育制度として具体化されていったかということを巻き返し繰り返し検討を重ねておるわけであります。最近におきましては新教育委員会法という名前のもとに提案されました教育委員会制度の改革に当りましても、私ども昭和二十三年に先生が提案されました教育委員会制度の提案の御趣旨、こういうものを深く検討をいたしまして、それと対比して今日改革せられようとする委員会制度というものが、その当時先生が趣旨とせられたことが根本において貫かれておるかどうかという点を吟味いたしたのであります。このことは本日の本論ではございませんけれども、しかし識者の多く、また私どもの見解からいたしまして、少くともこの教育委員会制度の改革というものは、先生が提案されました趣旨とはほど遠い形において行われようとしていることは、これはきわめて明瞭な事実になって参ったのであります。このことはまず先生はお認めになられるであろうと思いますが、こういう見解に対して、そこにいらっしゃる清瀬文相に対しましても、しばしば私どもは見解をただして参りました。ところが言外におわされることは別といたしまして、速記録にとどまる大臣の公式な御答弁といたしましては、決してこの教育委員会制度も、当時の森戸大臣が提案した、いわゆる民主教育の理念というものを逸脱するものでは決してあり得ないんだということを強調されておるのであります。ここに私どもが非常に危惧する点は、先生が先ほど中央教育審議会において教科書の問題を検討をして答申案を出した。その出した最も大きな根本原制というものは、これは戦後の教育改革の根本である。いわゆる民主教育というものを基底として、それに改善を加えたものであるという、そういう表現をされておりまするし、また答申案を概括して見ますると、前段にはそういうふうに記載せられておるのであります。また先ほど先生の御公述もさように拝聴を私はいたしました。このようにその根本原則は逸脱しないんだ。すなわち検定制度という、戦後初めて日本の国にこれを中核として、最も今までの教育史上においては民主化された教科書制度というものを取り入れた。その考え方というものを否定しないで、いわゆる国定あるいは国定を目ざす方向というものを排撃して、この中教審答申案というものを作成したのだと言われる。ところが私が前段に申し上げました教育委員会制度、これはだれが常識的に考えてみましても、当時の教育改革の方向とは軌を一にしていないことは、これはもう明瞭で、むしろ一部に言われる逆の方向にこの教育改革というものを行っている、こう端的に申した方が世人にはわかりやすい、そういうしろものであります。しかしこれを公式答弁に求めてみると、先ほど申しましたごとく決して逸脱していないんだという答弁が大臣の口からなされるわけであります。これらの問題を考え合してみますると、抽象的に検定の方針を堅持をして中教審答申が作られた。従って検定をさらに自由化する方向に将来理想として持っていける、そういうときがあるんだと最後に先生が結ばれたようにわれわれも期待するのでありますけれども、しかし一たび政府案を手にいたしまして見ました場合には、果して先生のお考えになるような方向をたどっているかどうかということに、われわれは多大の不審を持つのであります。こういう点につきまして私は何がしか、もう少し世論に対して納得を与えるような御解明があってしかるべきものだろうと考えまするが、先生の御所見はいかがでございますか、承わっておきたいと思います。
  41. 森戸辰男

    森戸公述人 ただいまの御質問でございますが、初めに、どうも自民党から公述人に選ばれるのはおかしいという話ですが、私は今は党に属しておりません。そして中央教育審議会の一員でございまして、社会党がもし御希望になりますればあえて拒否いたしません。けれども中央教育審議会の一員といたしましてはこの問題につきまして、ことに主査としては一応出て説明する義務を私は感じております。その点は私は党を離れておりまして、今日では党派的には政治のことを考えておりませんので、その点を御了承いただきたいと思います。  それから基本原則につきましては、私は日本教育民主化ということが教育改革の基本でございまして、これはあくまで堅持されなければならぬと考えておるのでございます。けれども原則の適用につきましてはいろいろと問題があるのでございまして、ただ抽象的な民主主義の原則ということではなくて、具体的な事情に即しながら民意がよく制度上に反映されるというふうに常に関心を持っていかなければならぬのでございまして、公式的な民主主義というものよりは一段進んだ段階に今日あるように私は考えておるのでございます。この点もよく皆さんの御了承になっているところと存じます。  それから教育委員会法との関係でございますが、教育委員会法につきましては、実は今日午後に私参議院で公述人に呼ばれまして、これも緑風会から呼ばれたのでけしからぬとおっしゃられるかもしれませんけれども、そういうわけでございまして、そのときに申し述べたいと思っておるのでございますが、私自身も実は教育委員会法と教科書法とはよほど違うというふうに思っております。世の中にはこれを一くるめにして教育法案というふうにして、抽象的な形で批判をしておる方もございますけれども、私は政治的な態度というものでみんな一くるめにして、これはいかぬ、一つのものをやるのだからみないかぬじゃないか、そういう態度もわかりますけれども、少くとも学問的な態度はそういう十ぱ一からげの態度ではなくして、それぞれの法案について客観的な立場で批評すべきであると私は存じておりますので、教育委員会法につきましては他の機会に述べるといたしまして、少くとも教科書法案につきましては、私の考えるところではこれは民主主義を根本的にくつがえそうとするものではない。もしさようなものでございましたらばまっ先に反対をいたします。そういう点でございますから、私は政治的な政党の立場でする場合と、そうでなく客観的な制度として考えていく場合には、それぞれの法案について実質的な判断を下していくべきだと思いますし、世の中にもだんだんとそういうやや冷静な態度が増してきまして、教育委員会法案につきましては非常に反撃が強いのでございますけれども、二法案ということでなく最近では教育委員会法案だけ取り上げておるところもございまして、むしろ二法案一つにして考えておるのが例外の傾向になっておるような方向でございます。そういう意味で私はこの法案につきましては、大体この答申案が発表されたときに一般の世論がこれを見ましたと同じように、多少の修正はございまして、この修正は必ずしも望ましいとばかりは考えられないのでございますけれども大綱におきましてはその精神にのっとっておりますので、一般の世論もこれを理解していくのではないかと思います。こういう点では、ことにこの国会のごとき重要な地位にあられる方々が、この法案を正しく見て、その正しいところを十分生かしていただき、足りないところがあるならば、これを改めていただくことで、民主的な方向に向って検定制度を確立しようとするこの法案を正しく伸ばしていただくことが妥当なのではないかと、私は考えておる次第でございます。
  42. 辻原弘市

    辻原委員 教育委員会法の問題と教科書法を先生は分離をされまして、教育委員会法の問題については必ずしも教科書法と同じような政府案に対する賛成の御意見を持っていらっしゃらないようであります。私は本来ならば、こうした公述の機会に、先生の委員会制度、ひいては民主教育根本の方針というものについて、当時検討せられました問題等について承わった方が、むしろ適切であったかと思うのですけれども、しかしわれわれの見解によりますれば、教育委員会法ないしは教科書法、これを分離して、教科書法については、いささかの世論があるからと申して、これが簡単に政府案のごとくとり行われるということに賛意を表することができないのであります。その理由を私は一つ具体的に申し上げたいと思うのであります。  たとえば先ほど先生も指摘されました中教審答申政府案との食い違いの中で、採択地域の問題、これは政府案では中教審答申よりも区域を拡大いたしまして、都道府県の範囲ということを一本法律の中に加えております。先生の御説明によりましても、これは例外的な措置である、こう申されておるのでありますが、表面に現われていることはただそれだけであります。しかし私は、こういう中教審と異なったものが何がゆえに法案の表面に現われてきたかということを、それこそ冷静に考えてみなければならぬ。それは今日自由民主党となりまして、保守党におきましては、自由党民主党が合同して一つになっておりまするが、わずか半歳以前においてはこれは別々の政党であったわけであります。しかも当時政権をとっておりました民主党におきましては、民主党における党の政綱として、いわゆる国定教科書なるものが文教政策の中心スローガンとして掲げられておったのであります。そういう国定への方向というものが当時大きな底流として動いておったことは事実であります。しかも教科書法のこの案が作成される過程におきまして、この採択地域の問題をめぐって、できるだけ地域を拡大することがより望ましい。それは私をして端的に言わしめるならば、拡大すべきがよろしいという方々は、さらに将来は国定の方がよろしいという議論にこれは通じておったのであります。これらの論が党内において合同後に甲論乙駁のあったことも周知の事実であります。そういう点から、ここに中教審答申採択地域というものが、そのまますなおな形においてこの法案の中に盛り入れられない。いわゆる採択地域のこの広さというもの、採択地域の単位というものについて、見解の異なったのがかくのごとく調整せられて、例外としては都道府県の範囲において認めるということに相なったのであります。私はそういういきさつから考えてみまして、先ほど先生も、法案の運用に注意しなければ、あるいはとんだ結果が出るという憂いなきにしもあらずということを申されましたが、まさにその通りであります。表面書かれているいわゆる法文というものは、これはまさかちらちらしっぽを外に現わして世論を刺激するような形に作られるほど、立案者は愚かではないと思う。それをいかに巧みに伏せて将来運用の余地を残しておくかということに私は種々の立案の技術があると思う。そういうことをわれわれは心配しておるのであます。従ってこの法案がいかなる方向を指向するのか。先生が申された、将来検定の自由化、あるいは採択の自由化の方向に指向する、そうした底流をもって法案が作られ、そうした考え方を是認して政府によってこの教科書制度というものがとり行われるというならば、それは国民の世論の中において心配する向きも少くなるでありましょうし、またわれわれ野党の側にありますところの教科書関心を持つ者としても、そうした相当量の危惧の念を払拭してくれるだろうと思うのであります。しかしそうではない限りにおいて、一応の体裁は整っておりましても、私どもはこの法案に賛成することができないという理由が根本的に生れてくるのであります。しかしながらそれは私は単に抽象的に申し述べるのではございません。そこで具体的に一、二の点を指摘いたしてみたいと思うのであります。  先生が賛成なされるゆえんのものは、主査とされて中教審答申案を取りまとめられた経過があり、その責任の上において、ほぼこの答申案に沿って作られたものであるがゆえに、これは多少の部分的な相違はあっても賛成であるという結論をお下しになっておられたようであります。その先生が多少異なるのはやむを得ないとするのが、果して多少であるのかどうかについてわれわれは検討を下してみたい。それに対する先生の御所見も伺ってみたい。まず第一に、先ほど御説明のありました、教科書は官僚の手によって作るべきものでもなく、また一部の人の手によって作るべきものでもなく、国家権力を背景にして作るべきものでもなく、これはあくまで公正、中正に作る。しかもこれは重要な教材として現場教育者がこれを使用し子供が使うのである、こういう前提に立って考えたときに、それらの教育現場の意向を十分注視しなければならぬ。だんだんそういうところから考えて参りますると、法制上大臣検定権というものを認めておっても、その大臣検定権というものが適正に行使されなければならぬ。その適正に行使するためにはかくかくの措置をとるということを述べられておるのであります。そこでこの適正行使という点が強調せられておりまするし、具体的には審議会の機構を拡充いたまして、審議会が公正、中正に行われるがごとくこの検定制度というものを持っていきたいというのが先生方が念願せられた中教審の結論であろうと思うのであります。いろいろの論はありまするが、一応の過程としてそこに落ちつかれたと思う。それに対して政府案は一体どうかということであります。大臣の諮問機関、一般の諮問機関と違って、さらに内容にわたる精細な調査検討を加えて諾否の決定権を持つこの審議会というものは、より民主的なものでなければなりませんし、より中正なものでなければならぬ。そういう前提を持って作られておるのであります。ところが今回具体的に中教審の中でとられておる、たとえばその調査機構の問題についても、若干政府案中教審の食い違いなしとしないのであります。それが表面上は若干でありますが、事運用に至りました場合においては相当の開きができる。八の字のように、最初の開きはわずかでありますけれども、運用によってはその開きというものは漸次大きくなるということを指摘して、私は先生のお考えを承わりたいのであります。それは、審議会は非常勤の調査員を置くということを原則にいたしておるようであります。しかしながらそれのみでは従来の実績、経験から見て不十分であるから、この際さらにそれに加えて、常勤調査員というものをこの審議会の機構の中に加うるべしということを述べられておるのであります。これに対応するがごとく、政府においては本年度の予算案で四十五名にわたる常動調査官というものを予算化いたしました。ところが政府案によりますと、法案には出ておりませんけれども、近く文部省設置法の一部改正をもって文部省の職員としてこれを置くということであります。身分の帰属はもちろんそういうことになるのが一応の筋だと思いますけれども、一体それをどういうふうに活用するかということを常識的に考えてみました場合に、おそらく中教審のお考えとしては、審議会の専門的な手足の機構としてこれを駆使し、活用していこうというお考えだろうと私は思います。それは従来の相当膨大な調査員も、覆面ではありましたけれども仕事はやはり審議会の機構の中に包括されて運営されておった。あげてその責任は審議会が持つということになっておった。もちろん最終的な形式的責任は文部大臣にあったでありましょうけれども、実質的責任というものは審議会にあった。ところがその考え方が必ずしも踏襲せられないで、文部省初中局の中にこれらの専門的調査官を置くという。そこにも私は大きな開きがあると思う。ただそれだけでありますと、まだこれはそうおっかなびっくりする必要はないとおっしゃるかもしれませんが、それに加えてどういうふうなロジックが次に現われるかといいますと、検定の項であります。中教審答申案の検定の七カ条にわたる項目というものは、率直に申し上げましてこれはまことに常識的であります。しかしこれらがどう組み合わさるかによって問題がいろいろの形において提起される。この答申案の中には、法案第七条にあるがごときいわゆる検定拒否という問題は出ていないのであります。裏話は私は知りませんけれども、正式に提出された案を見ますれば、それらのことは載っていないのであります。ところがこの政府提案にかかる教科書のうちには、従来の教科書制度の中にはなかった検定拒否制度というものを設けておるのであります。しかもその検定拒否をだれが取り扱うかといえば、これは文部省が扱うということになる。もちろん形式的には審議会の議を経るということになっておりますけれども、実際の運用に当っては、これは窓口でありますから文部省が取り扱うということになるわけであります。そこでいわゆる検定の諾否の以前に第一関門としてそれらの点が検討される。そうして拒否される場合が出てくるのであります。しかもそれらの拒否を取り扱う場合に、直接の担当者となるのはだれかといえば、今回常置されるところの調査員である、そういうことに相なって参りますれば、中教審では審議会の機構を拡充して最も民主的な形、中正な形において検定業務というものを行わせるという趣旨に出たものが、政府案に返ってきました場合においては、これは文部省の機構を強大にいたしまして、しかも検定については審議会以前に文部省がその内容にタッチをする、そういうような形に誤まってきておるというところに大きな問題があるのではないかということであります。これらは単に法案をそのまま読んでみますればそういうふうには出てこないのでありますけれども、問題はいろいろの条文から生まれる機構を組み合わし、これを実際問題に当てはめてみますと、そういう形のものが生まれるのであります。これが果して大臣検定権を適正化ならしめ得るものであろうか、いわゆる文部省の独断に陥らせないように今回教科書制度というものを改善する、さらには将来教科書検定の自由化の方向を目ざすいわゆる改革案であるかどうかに、私は多大の疑問を持つのであります。これに対する明快な御解明がいただけましたならば、われわれとしても検討するにやぶさかではございません。お考えを承わっておきたいと思う。
  43. 森戸辰男

    森戸公述人 今の御質問でございますが、初めの方にございました政府党は国定教科書を指向しておる、国定教科書を作ろうとしておる、こういうお話でございましたけれども、新聞やいろいろな評論にはそういうことは出ておりますが、実際に私の関係しておる範囲の方々からはそういう意向は少しも聞きませんでした。ですからこれは方向についての世の中の想像であろうと思うのでございますが、しかし私も自民党の方の心の中まではわかりませんから何とも言えません。少くとも教科書問題で聞きました範囲では、将来国定を目ざすんだというような考え方は一度も聞きませんでした。これは私も断定はいたしかねますけれども、おそらく私はそういうことはないと思っております。  それから大臣審査権についてでございますが、私どもはこれが適正に行使されることを期待いたしておりまして、ことに検定審議会委員選定につきましては、公平に中正になさるべきであるということを強く要望をいたしておるのでございます。これは法律の中には見えておりせん。規則その他でできるものと思いますけれども、それはそういう面で確保されるようにということを期待いたしておるのでございます。  調査員につきましては、従来は非常勤の調査員でございまして、数も千余名をこえまして、みんなよくやっていただいておったと思いますけれども、しかし場合によりますれば全部が必ずしも十分に統一のある審査がなされたというわけではございませんから、従って今度は検定制度をもう少し権威のあるものに拡大強化していくという点では、いわば片手間の調査員だけではなくて、専門に調査する人をある程度は置かなければならぬ。しかしそれでも足りない部分もあるから、これは非常勤の調査員の方にも協力をしていただく、そういう形で調査の実際が行われていく。従来は審議会はほとんど通り抜けだというような形もございましたけれども、今度は実際的の検定の責任を持つというふうなことが明らかにされておるのでございます。ただ文部省に置かれます専門の調査員につきまして、これをどういうふうに配属するかという問題が、官庁機構の問題として存在するのでございまして、これは文部省の役人になることは間違いないのでごいまして、関係の近い部局にまた配属されるということも間違いないと思います。ただ私どもの期待は、審議会の手足になって働いていただく、調査の現場仕事をしていただいて、その結果に基いて審議会は判断し、そうしてその議を経て大臣が最後の決定をする、こういうふうになるものと私どもは期待いたしまして、調査員が審議会から離れて、文部省一つの機構の中に入るということを私どもは期待いたしてはおりません。しかし役所の配属としては文部省の役人になり、関係の部局につくということはやむを得ないかもしれませんけれども、働きの形といたしましては、審議会に属するもの、審議会の実際的の検定の事務を行なっていくものという形になるのが妥当な形だと考えておるのでございます。これはしかし私が言っておるのではございませんで、答申はそういうふうに考えておるのでございます。  それから先ほど申しました拒否の問題につきましては、これは私どもはそういうことは答申はいたしません。ただ答申の場合に、あまり僅少の誤まりでさらに検定を受けるということは煩を増すわけだから、そういうものについては検定をやらないというふうに考えたのでございます。これは発行者にとりましては非常に気の毒なこともございますので、全部の本が通って一部分がいけなかった場合に、それが受け付けられないと大へん気の毒なこともございますので、そういうことも考えまして、これは拒否ということを、行わないことにするというと何ですけれども、こういうところが不都合だから一つ直してきてはどうですかというようなことで、そこに余裕をむしろとったということが趣意であろうと私は考えておるのでございます。これは私が答申をしたのでございませんから、わかりませんが、答申のきびしさをむしろ緩和したのではないかというふうに想像されるのでございます。
  44. 辻原弘市

    辻原委員 前段の検定調査員の運用については、私と同じように解釈をしていただいているように理解をいたしました。しかしこの点が、指摘をいたしましたように、また先生から承わりましたごとく、中教審答申と政府原案での運用とが必ずしも一致をしておらないということも一つお考えを願っておいていただきたいと思います。  それから検定拒否の問題でございますが、確かに先生のおっしゃられましたように、これはごく簡単に直してくれればよろしいから、もう一度提出しなさいというような、いわゆる運用の上に当ってほんとうに白紙で、親切心でもって運用される場合には、これは相当な制約を課しておりましても、そのこと自体問題にならないと思います。しかし逆にそれをもってこれを悪意にと申しますか、目的をもって運用をしようとするならば、運用ができるという場合、検定審議会という民主的な機関の中においてそれをやろうといたしましても、これは衆知を集めた衆意の上に立つ取扱いでありますから、さしたる問題は起らないと思います。しかし行政府である、しかも権限を持つ文部省が直接そのことをやる場合におきましては、おのずから取り扱う者の頭によって左右される余地を残しておるというところに問題があると思います。たとえば今日、いわゆる検定教科書検定するその場合に、絶対条件というものを課せられて、教育基本法、さらには憲法の精神にのっとっているか、どうか。平和というようなきわめて簡単なものの考え方についても、あるいはさらにそれに関連する憲法第九条の解釈、こういうものについても今日議論が分かれておるのであります。その解釈論において正当に解釈できるものとできないものとがあるのであります。そういった場合に、その絶対条件に照らして、そこにありまするように、「その他検定基準に著しく違反すること」というような場合に、もしかりに憲法第九条の解釈にいわゆる自衛軍備を否定していないんだということを根底の理念に持つ者が、そのことを記載している教科書を見た場合に、もしその軍備を否定すると書いてあった場合には、これは検定基準に違反すると解釈するかもしれない。これは、ごく一例でありまするが、しかし現実に往々ありがちなんです。そうした場合に、そのことは検定基準により——単なる誤まって記載したとかあるいは植字が誤まったとかいうような、物理的な誤まりならば、これは問題ないかもわかりませんが、しかし少くとも第七条の検定拒否し得る条件は、いわゆる内容、思想、こういうものをはらんだ実に広い範囲において拒否できることになっておるのであります。ここにそういうきわめてデリーケトな解釈のしようによって、これをもって基準に合致しないとも判定できる。しかし乙の者がやる場合には、これは基準にいうところの教育基本法の精神に合致していると解釈ができる。そういうことをいわゆる文部省の府において取扱いできるということは、これはもうすでに検定のいわゆる実質内容審査権というものが、審議会以前にその第一関門というものが設定されているのではないですかと私は申し上げるのであります。しかしこれは時間がありませんからあまり申し上げませんが、その点について先生は善意に善意にこのことを解釈せられております。これは先生のお人柄によるのかもしれません。しかし法案を作るわれわれといたしましては、やはり問題は、将来の運用ということの余地があるかどうかについてこそ、私は重要だと思う。法律の表面にかかっておることの中には、一方を刺激するがごとく、また世論の注目を引くような表現の仕方、そういう法律作成というものは、私が最初に申し上げたように、しないものであります。そこから出てきているところのいろいろなロジックというもの、これに問題があるということを絶えず考えて、われわれは法案に対する賛否の意見を戦わさなければならぬ、私はかように考えております。今申し上げました点は、明らかにそういう余地を残しているということについても一つ先生にお考えをいただきたいと思います。  時間がありませんので、さらに私は二、三の点を指摘しておきたいと思いますが、これは重要な今の問題に関連してであります。やはり答申案の中にはそのことは触れておりますが、今度政府案の中にはない部分であります。これは検定権の保障という問題であります。拒否されるといういわゆる検定権は、これは場合によれば、侵害という点がある。少くともそういう措置をとるならば、一方においては、今度は完全に保障する、それを救済するという取扱いというものを常識的に規定しなければならぬと思います。答申案では、第四項にそのことについての一部が述べられております。ところが政府案は、単に説明書の交付ということで、すべての侵害に対する保障は、あげて将来の裁判にゆだねておるのであります。ここについても私は先生が大体同じである、こう申されておりますけれども、こうして逐一比較対照していきますと、重要な要素においては相当異なっているということを発見せざるを得ないのであります。その点についても御見解を承わっておきたいと思います。  時間がないようでありますから、次に採択の項でありますが、これも先ほど採択地域をどう設定するかについて、多少の食い違いというものを先生は認められておりますが、さらにそのほかに私は一点、重要な点があると思います。それは採択地域、それから先ほど私があえて申し上げました国定化の方向への心配という問題にもからみつく点であります。それは答申案では、採択地域は郡市の単位に区切りまして、しかも採択権者は市町村といたしております。ところが政府案採択権者と都道府県の委員会に持っていく。それから例外とは言いつつも、都道府県単位採択地域を設定できるごとくいたしております。この両者の関係から見ました場合には、政府原案というものは、おそらく答申案のお考えでは、郡市の単位というものが、これが絶対とは申しませんけれども、現状においては、これはもう最大の単位とお考えなさったに違いないと思います。ところが政府原案においてはそうではなしに、そこからにじんでいる考えというものは、例外とは言いますけれども、やはり都道府県単位ということに落ちついているようであります。それらの大きなへだたりがあるということを、私はここで心配をしておるのでありますが、これについて先生はどのようにお考えになりますかどうか。採択地域が設定されて、その中でかりに郡市の採択地域でありましょうとも、その最終決定権というものは、都道府県の教育委員会がするがごとくなっているのであります。そういたしますれば、そこにウエートとして市町村の教育委員会主体になって、都道府県の意見を聞くという場合と、都道府県が主体になって、市町村の意見を聞くという場合とはおのずからウエートが違う。その場合は広域の立場において、できるだけ同一種類のものを採択しようという傾向に動いていくことは明瞭であろうと思います。こういう点についても、具体的な現実問題としては相当の開きがあるということを、先生はお認めになりませんかどうか、これらの点についても承わっておきたいと思います。
  45. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 辻原君、簡単に願います。
  46. 辻原弘市

    辻原委員 それからだんだん条項を追って参りますと、随所に運用の面等においては食い違ってくる面があります。しかし時間もないようですので、それ以上の具体的な点は指摘いたしませんけれども、今まで採択の項について若干指摘いたしました点だけでも相当の食い違いがあるということを私は考えるのであります。この点先生の御所論を総括的に一つ承わって、私の質問を終了いたしておきたいと思います。
  47. 森戸辰男

    森戸公述人 最後の点でございますけれども採択に関しては三つの違いがあるということを私申したのであります。一つは、たとえばでございますが、郡市単位というところに県というものはなかったのが、県も含まれる。しかし例外的に含まれるということでございました。それからもう一つはできるだけ少数というのが、一つになったということであります。それからもう一つは、地区選定協議会採択するというのが、都道府県教委採択をする、こういう三つの違いができたわけであります。これはそう小さな違いということではないということも先ほど申し上げた通りでございます。しかし同時に政府案におきましても、私は県単位を本筋とするということではないと思います。こういう条文の書き方でそれを本筋にするといえば、これは私はインチキだと思うのです。ですから、そうではなくて、また法律はそういう形で作ったり、運用されるということは、私ははなはだ本筋ではないと思う。私は人がいいのでありますか、善意で、これはやはり例外的に非常に小さな県で、それから地理的にも割合に単一的なところで、そういう場合もあるかもしれないので、そういう場合にはきわめて例外的に考えるということであろうと考えておるのでございますけれども、少し人がよ過ぎるかもしれません。私は法律はそう読める性質のものだと思います。それから選定委員会はその地域の選定協議会採択するということが、都道府県の教育委員会ということになっておりまして、都道府県の教育委員会というものが強いウェートを持つようになっております。これは教育委員会の大きな方向といたしましては、どこに重点が置かれるかという問題につきまして、世界諸国の、アメリカ自身の傾向から見ましても、少し上位のものに重みが加わってきておるわけであります。ことに教科書選定、そういうような教育的な知識その他を必要とするものにつきましては、だんだんと上の委員会に重みがかかってきておるのでございまして、そういう意味で、これは人事の問題もそうでございますけれども、都道府県教育委員会がある程度の重みを持つということは、教育委員会制度全体を考えて、必ずしも不当ではないと思うのでございます。けれども、今日の、ことに中教審答申建前といたしましては、それが独断できめるということは私どもは決して考えておらないのであります。この条文によりましても、これは選定協議会の議を経てと申しますか、そういう形であって、まず学校の先生の意見を聞いて、校長が本についての一定の要望を出す。それを選定協議会で集めて、その基礎の上に選定協議会が妥当な教科書を選ぶ。そのきまったものについて県教委がそれを形式的な採択をするのであって、県教委がそれを無視して勝手にきめるということではないのでございますから、実質的には私は選定協議会の決定が生きてきておるのであるというふうに考えられるように思うのでございます。ですから、この点でもし県教委選定協議会の言ったことを否として勝手なものを押しつけるということでございますれば、これは非常に問題であると思いまするけれども、この法文から読みますれば、そういうことではないようでございますので、これは一つの大きな変更ではございますけれども、それによって非常に大きな弊害のできるものとも考えておりません。以上で、ございます。
  48. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 小林信一君。
  49. 小林信一

    ○小林(信)委員 森戸先生にお伺いいたしますが、単刀直入に御質問することをお許し願います。私は教科書制度というふうなものはあまり詳しく規制をして取締りをすべきものでない、こういう考えでおるわけなんですが、しかし中教審の意向なり、あるいは先生の御意見なりを承わっておりますると、今教科書問題についていろいろな弊害が生じておる、あるいは戦後の事情からまた新しい事情が生まれておるので、これに改正を加えなければならぬということが出ますと、中教審もそれに従いましていろいろと詳しく検討をしておるようだし、また先生もそれについて一々御研究なさっておるようでございますが、先生は文教行政もいたしましたし、また実際学校に今おられてその面を担当しておるわけでございますが、やはり教育というものは長い目で見て、教師の責任とか、あるいはその衝に当る人たちの自覚とかいうふうなものでよくなっていくというところに教育のよさがあるのではないか、それを一々法律で取り締ってあやまちがないようにして万全を期するというような教育は、やはり昔の教育に帰るようなおそれがなしとしな、こういうような考えを持っておるものでございます。そこでそういう考えから私の考えを申し上げて先生の御意見を承わりたいのですが、先生が先ほどお述べになった中に、採択の面でございますが、共同研究をいたす面からして、あるいは価格の低廉をはかる上からいって、あるいは供給の問題からいって、ある地域的な単位採択が必要である、それはすでに三十二府県においても郡市の共同採択が行われておる、こういう自然発生的なものからしても当然のことであるというふうにして、先生は郡市の共同採択を御主張になっておるのですが、それなら自然発生というそのものをなぜ教育的にお取り上げになってそれを強く生かしてくれなかったか、そうゆうような自然発生的なものから見ても、規制をしてよろしいというふうな御意見をお述べになられたのですが、私はもっと教育的に考えたら、今ここに多少の問題がありましても、そういう自然発生的にいく傾向というものを私たちが守っていくところにほんとうの民主主義教育が生まれるんじゃないか、こういうふうに考えるわけなんです。それをいたずらに取り締る、規制をするというふうな形になったら、どうなるかというところで、私一つ問題を先生に投げかけるわけなんですが、先生方は郡市を単位として統制をしようとなさったのですが、今回の法案県教委単位にしてそこで一府県一種類というふうなことが強制されるわけなんですが、採択最終責任教育委員会にあるというような点から考えまして、これが出ましたからといって、必ずしも今までのような悪との結びつきというような問題は解決できないと思うのです。私は一そう業者とその衝に当る人たちの間にそういう問題が熾烈に行われるのではないか、これは避けられない問題だと思うのです。そうなってきたら今度はどうするかということになるのです。先生は先ほどそこをうまく運営するというふうなことで言われたのですが、私は今までの過程から考えてこの問題は解決しないと思う。業者は生きるか死ぬかというような問題になる。今までのように分散した人たちに呼びかけるよりも、今度は一県においてきまるのですから、ここへはあらゆる業者がどんな手段を講じても採択されるように運動しかけていくと思うのです。今までの日本教科書問題を考えてみても、最初は自由採択である、それが府県単位になり、それがうまくないから国定になる、こういう歴史を繰り返しておるわけですが、私はそういう点から考えれば、もうどうしようもない、ここまで持っていったけれども、仕方がないから国定——国定とは言わないかもしれませんが、国定にする以外ないということになるのではないか。そういうことを私は憂慮するものですが、当初申しましたように、あまりこういう規制をしなくて、教師あるいは教育に当る人たちの自由、そういうふうなものを伸ばす方向に政治は力を入れて、あまりこういう取締法というものを作るべきじゃない、こういう考えでございますが、これに対して先生の御意見を承わります。
  50. 森戸辰男

    森戸公述人 たとえば英国などはこの点できわめて自由な制度になっておるのであります。ところが英国の民主主義の発達は末端まで相当に浸透しておるのでございまして、そういう制度のもとでは、それから経済状態がこれを許せば、発行についても採択についても自由でいいのであります。めんどうな制度を設ける必要はないと思います。ところが日本の民主主義の発達の段階は、これは私よりもよく御存じと思いますけれども、残念ながら英国のようには参っておりません。これは国会の運用についても皆さん方のよく御体験になっておるところであろうと思うのであります。これは国会だけでなく、一般の社会においてもさようでございます。従って教科書についても、ことに、大学の講義とは違って、影響力の多い子供の教育に使う教科書につきましては、これを自由な形にしておくのには、今日の日本の状態ではまだ早いであろう。またこれに反して、ソ連とか中共とか東南アジアのある国のような形で国定一本できめていくよりは私は民主主義的に進んでおると思いまして、ちょうど国定でもなく自由制度でもない検定制度が今日の日本には妥当であろう、現段階では妥当であろうと考えておるのでございます。ただ私ども日本の経済が豊かになり、日本の民主主義が進んで、教科書についても発行編集採択自由な状態がくることを、そうして社会党の教科書法案にあるような状態が実現されることを深く期待しておりますけれども、残念ながら今日の状態はそこまでいっていないのではないかということが私どものおそれておるところでございます。これは必要以上に慎重であるとお考えになるかもしれませんけれども、抽象的な議論は別といたしまして、今日の日本の状態を見ますれば、自由制度にしておる英国と比べますと、民主主義の発達段階が違うのではないかというふうに感ぜられるのでございます。  もう一つ、都道府県が教科書採択するということは、都道府県が一本にするというようなふうにも聞かれるような御発言でございましたけれども、これはそうではなくして、協議会がきめたもの、それに基いて都道府県の教育委員会が認めるということでございまして、拒否権をふるって勝手に自分の思うように県一本にするということがこの法律に書かれておるのではないと私は考えております。少くとも答申はそういうふうなことを言っておりませんし、この政府案も読みますればそういうふうには読めないのではないかと思うのであります。そういうことがあるかもしれませんけれども、まずこの法文でありますれば、そういうふうな、都道府県教育委員会が勝手に一本の教科書にして国定に向わせるというふうなことはやや杞憂じゃないかと私は思うのでございますが、いかがでございましょうか。
  51. 小林信一

    ○小林(信)委員 見解が違うかもしれませんが、先生は日本の民主主義は未成熟であるから、あまりそういうところを解放的にしてはいけないというお考えなんですが、一面にまた日本くらい官僚統制の好きなところはないのです。やはり私たちはこの両者に気をつけていかなければならぬと思います。いずれか、官僚統制の形にいくのか、民主主義の方にウェイトがあるのか、ここに問題があるのです。確かにそれは未成熟であることは事実ですが、一面日本が政治を簡便にやりたいというところから、官僚統制的な傾向というものが非常に根強くあるわけなのですから、これは私たちは気をつけていかなければならぬのです。教育者としてはそこに新しい民主主義を作る一番大きな責任を持っているのですから、教科書といえども、その教科書採択なり、あるいは検定なりにおいて、そのものの民主主義でなくて、日本全体の民主主義を育成していくという点からも、何かそこに世論の批判というふうなものを強く受けながら民主主義を貫いていく、そこを養成することが大事じゃないかと私は思うのです。先生の御見解は、未成熟な民主主義の方にウエイトがおありになっておいでですが、私はまた官僚統制のおそろしさというものを日本においては考えなければならぬというふうな点からお話し申し上げたので、いささかそこに見解の相違があるかと思います。しかし最後の県単位云々という県教委の問題は、私は県教委そのものを言ったのでなくて、採択の方法が都道府県において一種類という形に規制されるときは、業者の競争が非常に激しくなって、それが県教委でなくても、協議会であっても、あるいは各学校長に発言権がありましても、ここにあらゆる手段を講じて不正行為が行われはしないか。私はそれは今までよりももっとひどいのじゃないかと思うのです。そういうふうなときに収拾の道はどこへ持っていくか。それはいろいろ検討されるかもしれませんが、めんどうくさいから国定にというふうなこともありはしないかとこういうわけです県へ持っていったから県教委へ持っていったから、次には国定ということでなくて、もう幾らせんじ詰めても、制度の上でもって取り締ろうとする以上は、結局そういうところへ持っていかなければならぬので、個々の教師の責任というふうなものへ持っていく。民主主義を育成するという面へ私たちが持っていかない限り、そういう傾向になるおそれがあるわけなのです。私はそういうところを先生にお願いしたかったわけです。  与党の方でだいぶ時間を制約されるようですから、従いまして簡単に次の問題を御質問申し上げます。委員長あと何分ですか。
  52. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 すでに三十分になっております。辻原君がだいぶ長かったものですから、一つ早くお願いいたします。
  53. 小林信一

    ○小林(信)委員 自分の与党の方へばかり時間をたくさんやって、無所属へ時間をくれぬというのは不公平ですから、その点は委員長御考慮を願います。(「先生の都合があるのだ」と呼ぶ者あり)先生の都合もですが、先生のような方と大いにここでもってこちらが啓蒙していただいて、ほんとうに検討することもまた大事ですから……。
  54. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 参議院は五時からだから、そう心配することはないと思いますが、できるだけ早くお願いいたします。
  55. 小林信一

    ○小林(信)委員 それからこれもごくお粗末な質問でございますが、先生が採択に当りまして現場意見を尊重するということは強調されておりましたし、そしてその教科書を取り扱う者が関心を持ち、熱意を持つということが教育上重大だ、こうおっしゃられておるのですが、この法案によりますと、先生は非常に善意に解釈していかれるから、何とかなりそうなような気がしますが、今までのあり方からこれまでに転換すれば、私は逆の熱意をなくすような形になるおそれがあると思うのです。その点で先生が特に校長の権限を云々すればというような御意見があったのですが、私たちの法案から受ける印象というものは、現場のいわゆる教科書を取り扱う先生の意見というものは取り上げられないような形になるおそれがあると思うのですが、そういう点は心配ないわけですか。
  56. 森戸辰男

    森戸公述人 先ほどの問題で、教科書が県一本になると、いろいろな面で業者などが働きかけていろいろな不正行為ができるであろうという話でありました。これはある程度ごもっともだと私も思うのであります。そこで県一本にはしないで、答申としては郡市単位にしてたくさんにするという方向をとったわけでございます。しかもその中でも一つ委員会とか一つ校長とかいうようなことでありますと、学校の方はそういう方はないと思いますけれども、しかしそういうような疑いを人がかける心配があるから、これは県教委地教委学校の代表者等が集まって協議会を開けば、一本のものよりはいろいろなところに目があるから、そういう面では割合に危険が少いのではないかということが、郡市単位協議会を作る、こういう考えになったわけなのでございます。それからその場合に教師意見が通らぬではないかというお話でございます。これは一つは専門の教師はグループを作っておりますから、そういうグループの代表がやはり協議会に入るということがございますし、それから一般的には校長というのはただ抽象的な校長としてではなくて、その部下におる教師意見を聞き、それから特定の教科書であれば、その専門とする教師意見を聞いて協議会に臨みますから、そういう点では校長によって教師というものが代表される、こういうふうに考えてきたのでございます。それからこれは先ほどからおっしゃっておられまして、ごもっともなことで、規制する制度ではなくて人間が大事であるということは、まさに教育の大事なところでございますが、私もまさにその通りに考えておるのでございますけれども、同時に人間が大切で、人間が自由に働けることが大事だと考えるとともに、今日の状態では民主主義が未発達だと私が言ったようにおっしゃいましたけれども、未発達というよりは発展段階が違ので、英国などに比べるとまだそこに行っていないので、そういう点を考慮しながらやはり身についた民主主義にしないと、形だけ抽象的に発達しておるけれども、よく身に合わない民主主義では、かえってほんとうの民主主義としての働きをしないという面もございますので、その点では全く自由であるということではなくして、ことに学校教育教科書のような問題につきましては、ある程度の公の立場による規制というものも、非常に望ましいものではないのですけれども、やむを得ないものであるというふうに考えておるのでございます。ただ人間が働くのをじゃまをする、教育の本質的な働きをじゃまをするようなものになってはならない、それを伸ばすような規制というものは、私は今日の段階では必要だと考えておるのでございます。
  57. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 小林信一君。なるべく簡単に願います。
  58. 小林信一

    ○小林(信)委員 ただいまの御意見を承わりましても、校長というものを書いておけば、それで学校全体、教師全体を代表することができるというようなお考えですが、それは先生非常に甘いお考えだと私思うのです。果してそうなればいいのですが……。それから不正行為の問題もあるかもしれぬというくらいの御判断ですが、私はもっと熾烈なものになると思うのです。それは今ここでもってお話しても仕方がないのですが、そういう場合にさっき先生は発行者も気の毒だというお言葉があったのですけれども、やはり教科書制度を考える場合は業者のことも考えていかなければいけないと思うのです。あまり冷淡な仕打ちをして一部の大きな発行業者だけ残すというようなことも、これはただその会社の金の力でもって教科書採択されるような形になって、いい教科書という大事な面をおろそかにするおそれもあるわけですから、そういう点も考えていかなければならないのです。おそらく今度は、非常にたくさんな会社がございますが、この会社は相当に整理されて、ほんとうに金の力を持っておる大業者しか残らないような形になります。そうしてそれが常に不正を手段としてこれを販売するというふうなことになってはいい教科書というものは少くなってくるのじゃないか、そういう意味からしても、こういう法律を作ることは非常に危険だと思うのです。それも大したことはないというふうなお考えでおられますが、中教審そのものにも将来非常に大きな責任が生まれてきはせぬかと思うほど、私は心配しておるわけであります。第六条の検定を受ける場合に今度は見本の本を持っていかなければならぬ、こんなところは先生はどんなふうにお考えになっておりますか知りませんが、非常に業者のことを考えない、あるいはこれを整理しようというような考えで出したことだとも考えられるのですが、非常に危険な言葉ですが、それは私はこういう法案を作る場合業者の問題を考えなければならぬということでお話申したのです。  私、最後に一つこれだけは特に先生にお考え願いたいのですが、検定基準の問題です。先ほど当初に先生の御説明がありまして、検定基準というものはそう変るべきものでない、そしてこれは不偏不党なものでなければならぬというお話があったのですが、今度のこの法案を見ますと、第十一条に、種目または検定基準の変更により、そしてその従前の種目は検定基準による教科書を使用することが適当でないと認めたときはという言葉があって、その場合にはその教科書は使わせないというふうになるのですが、検定基準というふうなものが現在使っておる教科書を使ってはいけないというふうな形になるような変更というものがあり得るのかどうか。これはある場合もあると思うのです。それは程度を高くしたり低くしたりすることはあるかもしれませんが、しかしここら辺は教科書を使っていけないという程度までの、そんな変更は私はおそらくないと思うのですが、ここには先生は疑問を持っておられないかどうか、それだけをちょっとお伺いいたします。
  59. 森戸辰男

    森戸公述人 初めの問題ですが、この法律あるいは答申によると大きな業者だけが残って小さな業者はつぶれてしまいはせぬかという御心配があるようでございますけれども、必ずしもそうではございません。私どもはねらいとしては中ぐらいな業者が立っていける、一番最下等な、一番底にあるものまでも十分にいけるということ、これは何ら欠格条項とかいう基準を設けないがいいのですが、ある程度最低線は引いたわけでございます。しかし中ぐらいのところがやっていけるように、いろいろなことを考えたので、大き過ぎるものについては相当に不満があるのではないかと私は思っております。  それから基準についてでございますが、検定基準については検定審議会が作ることになるわけでございますから何とも言えませんけれども、非常にこまかいようなものではなくて、むしろ大筋の、大綱がはっきりとわかるようなものになればいいんじゃないかと思いますけれども、これは私何とも申されません。そうしてその検定基準が、時代が変り、また教育のいろいろな研究の背景が変りますれば、検定基準というものがある程度変ることも予想されますので、そういう場合に教科書はそれに応ずるようなものでなければなりませんので、そういうことに対する変更と言いますか改訂と言いますか、そういうものがされなければならぬ、こういうことであろうと思います。ですからやたらに大きな、検定基準が天から地に変るようなことは、これは大きな時代の変りがあれば別といたしまして、ないのではないかと思います。できるだけ安定をした、そうしてはっきりとした、しかも幅のあるものが検定基準になるというのではないかと思うのですけれども、これは検定審議会がお作りになることでございますから、どういうものができるか私にはわかりません。
  60. 小林信一

    ○小林(信)委員 これで終りますが、私も先生と一緒に文部委員をやったことがございまして、先生が現在の与党の諸君に涙を流して委員会で説得これ努めたときに一緒におったことがあるわけでございますが、今その立場を異にして、その涙をもって与党に非常に御協力なさっているわけで、感無量でございますが、(「ものによる」と呼ぶ者あり)しかしそのときの状況というのはそんな簡単に、ものによるなんていう問題ではなかったわけです。そこで先生、今業者の問題をちょっとお話になったのですが、中くらいのものがよくて、そこらで線を引くとか何とかおっしゃったんですが、その業者の大きい小さいとか残る残らないということより、いい教科書を作る出版社を残すという法案でなければ私はいけないと思うのです。  それから最後の問題ですが、こういう第十一条のようなものを作っておけば、大きな変革がなければ、変革したために教科書の使用が不可能になるようなことはないとおっしゃるのですが、これは社会科をよして修身やあるいは地理、歴史というものを作るという場合に予備された条項ではないかと私は思うのです。それにもすぐ適用されるものですが、そういう点もやはり警戒しないと、何がひそんでいるかわからないわけです。私はそういう最悪の場合まで考慮して先生に御質問申し上げたのです。非常にありがとうございました。
  61. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 高津正道君。
  62. 高津正道

    ○高津委員 私は森戸先生の公述に対しては、質問はすまいと考えておったのです。それはあなたと私との間に見解の対立が現われるということを、どうも私情的におそれる気分があるのであります。しかし公的にはやはりそれはよいことだと考えるべきだと心の底の方から私に教えるものでありますから、心は千々に砕けますけれども、あえて質問をすることにいたしました。  あなたの所属されます中央教育審議会意見として多くのことを語られましたが、その中の一つとして、教科書は国の目的に沿うものであるべきだというのがありました。こう点についてお尋ねをするのであります。その場合の国の目的とは何ぞや、あなたがそれをどう考えておられるか、これは根本的な質問であります。国の目的を私が例示的にちょっと考えてみますと、国民生活の水準向上という点に重点を置くか、戦争に抱き込まれないようにするということに重点を置くか、アメリカの圧力を排除して独立したアジア、アラブの諸国と調子を合せて、日本が完全独立を目ざす点に重点を置くべきであるか。圧力は加わってないと言われるかもしれないが、アメリカの圧力は内政干渉もあるし、外交への干渉も顕著であります。内政干渉をただ一つだけ言えば、ニクソンがやってきて、あの憲法を変えるのはアメリカに遠慮する必要はない、アメリカはわれあやまてりと思っているんだなぞと言って、日本憲法改正論に油を注いだのであります。これは内政干渉です。この間ごく最近こういうなまなましいのがあります。最近日本の青年団体の幹部を中国から招きましたので、外務省に対して旅券の交付を申し出、いろいろな人に運動をしたのでありますが、その青年たちは大麻国務大臣に助けを求めたのであります。すると、中国はだめだめ、アメリカへ行くならすぐわしが全部君らをアメリカヘやってやる、こういう言葉があったのを青年から報告を受けたのでありますが、旅券交付のような問題にまで、そこまで日米はすでに相談済みなのであるかと、こう私は感じたのであります。その他内政干渉は山ほどあります。次にわが外交への干渉は、たとえば中国貿易の拡大を国民の大多数が望んでおるが、それをアメリカが妨害しておることは隠れもない事実であります。あるいはまた再軍備を督励する、数カ年の計画を、もっと早くとか、これじゃだめだ、もっとりっぱな計画を示せとかいって迫っていることも、だれ知らぬものもないのであります。その他時間がないから省略いたします。(「教科書関係がない」と呼ぶ者あり)深くものを考える者からいうと、大いに教科書関係があるのであります。それで富国強兵とまではいいませんが、再軍備に重点を置いていくということも、一大項目として考えられるのであります。憲法改正を急ぐかどうか、これも大きな問題であります。しかしその他はこれを省略しましょう。  それでおよそ国政というものは、国の目的の実現にあるべきでありますから、国の目的という言葉は国政の目標と呼び変えて考えることができると思うのであります。国政のあり方は、政府は今占領政策を是正というスローガンで出ております。与党はそれをバック・アップしておるのであります。そこからもろもろのものが出ておる。この教科書法案も確かにその一つであります。そこから憲法調査会法案も出ておれば、小選挙区制も出ておるし、今森戸先生がここで公述されておるときに外部からわあわあという声が聞えるのは、小選挙区一人一区制をつぶそうという派と貫こうという派の争いがこの部屋まで聞えてきたように、占領政策を是正でくる派と民主主義を守ろうという派と、こういうきわどい戦いが行われておるのであります。  そうしてまた外交路線の国政のあり方は、今三つの国是が生存競争をしておると私は見ております。それは、ソ連との国交を回復し、貿易を盛んにするということまでは異論はないが、国際間に日本が進んでいくのに、日本とソ連との提携ということを中軸にして渡っていこうというのが共産党の考え方であろうと思います。われわれはこれをとらず。もう一つ考え方は、私はよくこういう言葉を使いますが、アメリカの戦闘艦に九千万の人口を乗せた木造船の日本丸をつないでいけば、国際間の荒波を乗り切れるというような、日米提携の線をくずすまい、もっと強化をしよう、首相の演説も外相の演説も常にそうであります。このアメリカとの提携を固くしていこうという外交路線。第三の道こそわれわれの主張でありまして、すなわちソ連とそのように深く組むということは間違いです。国をあやまる。国の現在をも将来をもあやまる。アメリカと組む場合も同じであって、日本の行くべき道は第三の道であり、自主中立の外交路線でなければならぬ、こういうのがわれわれの外交方針であって、三年も四年も前からずっとこの意見はわが党の奉ずるところであり、どの路線が日本の国民大衆をより多くとらえるであろうか、支持を受けるであろうか。  言うまでもなく、日本は世界の蒸しぶろの中にあるのでありますから、私はこういうたとえを使います。ここに茶わん蒸しがある。外部の熱に対してどんなにがんばろうとも、われわれの陣営にあったあなたが、今や向うの側に回られるような、そのような例外がいかにあろうとも、この国際間の熱によってだんだん、だんだん中のシイタケもギンナンもカマボコも、必ずりっぱに食べられる程度にまで蒸されてくる。国際間の……(「命がなくなる」と呼ぶ者あり)しかも、そう言えば、命がなくなるという不規則発言がうしろから聞えますが、石の落ちるように、加速度がついて最後はますます速度が急速になる。今までは長くかかったかしらぬが、これからは案外早くなります。セイロンも立ち、シンガポールもイギリスから離れ、マレー連邦もそうです。その他は言いますまい、時間がないのですから。そのように民族独立、自主中立の線が世界に大きくなっていく。ソ連と米国とか抗争するのを中間のこの勢力が押えて平和のかけ橋になり、ついに彼らは、ちょうど議会の衛視が大量に両方の中にどんどん流れ込んでくると、争うものが争えない、なぐるものがなぐれないような形になるように、第三勢力が両方を争わせないようにする、こういう姿が現われておるのであります。  それでありますから国の目的はいろいろある、国政のあり方はいろいろあるのでありますが、そのいずれが教科書をきめる根本の立場であるべきであるか、国の目的、国政のあり方(「教育基本法」と呼ぶ者あり)これは教育基本法の逆コースで、中央集権化で、関門を三つこしらえてありますよ。四十五人の、文部大臣の意を迎え、文部大臣にあごで使われるところの、初等中等教育局に配属されるそれらの者がまず目を通して、そこでキャンセルする。キャンセルというか、ビートーですな。だめだと言う。これが第一関門です。第二は審議会の関門です。しかしそれは彼ら四十五人がみな手足で、それに専門でやっておりますから材料を提供します。そこで第二次試験です。それから第三の関門がさらにあります。それは法文の中に現われておる文部大臣拒否権であります。そうして検定のあるようなものでも途中でその効力を失わせる権利も、文部大臣はつかんでおる。これ第三次試験であります。このようにして中央集権をどんどん企てておるものがこの教科書法案である。それを見抜く目をあなたはお持ちになっておる方であると思う。ものはわかっておるはずであります。(笑声)しかしわれわれは聞き及んでおります。学術会議において両派が論争しました。その一方の、教育法案反対の声明を出すまい、この団体は慎重な態度であらねばならぬという森戸先生の荘重な演説によって、とうとう教育法案反対の決議ができないようにさせる力をあなたは持っておられたのであります。(「学者の良識だ」と呼ぶ者あり)自由党の方々は横の方から学者の良識であるとこうほめておりますが……(「学者の良心だ」と呼ぶ者あり)学者の良心だと、いろいろにほめておるようでありますが、しかしこの目的は、そうして国政のあり方はどこに置くのがいいのであろうか。憲法改正のために、憲法改正の島に渡るのはただ一つしか道がない。その橋をかけるのが小選挙区制である。その橋がかけられたら軍隊がどっと渡ってくるから、どんなことがあってもその橋はかけさせてはならぬというのが社会党の立場で、こういうようにわあわあという声がここまで聞えてくるこのような瞬間に、あなたのような有力なる日本的な学者が、アメリカへ何べんも往復されて、世界の事情のよくわかっておる学者が、この場合に旗をわれわれの側へではなく、彼らの側に振られることははなはだ残念に思う次第であります。  質問の趣旨は雑駁であるようだが、焦点はちゃんとはっきりおわかりになっておると思います。お答えは一分でもけっこうであります。
  63. 森戸辰男

    森戸公述人 非常に愉快なお話でございました。見解の違いは大いに明らかにしていただければけっこうだと思っております。中心の御質問は、国の目的はどうかということでございます。これはもう皆様よく憲法を御存じでございましょうが、平和な国を作り、民主的な国を作り、福祉、文化の国を作るということが、新しい日本の掲げた目標でございまして、教育もこの目標に向って国民を育成していくということにあると思うのでございます。そういうふうな形で教科書も考えられるということが、私は中教審答申の目標としておるところだと思います。ただ、たとえば平和につきましてもいろんな考えがございます。ただいま高津委員からのお話は一つの党派的のお考えでございまして、違った考えも、発言はなさらぬけれども、他面にはおありになるような顔をしておられました。ですから、そういう政党的な違いや政治の問題を教科書に盛るということは、私は教科書としては避けたいのでございます。しかし日本の国の向う目標、ことに憲法が明らかに示した目標につきましては、私は十分教科書を通して次代の国民が教育されなければならぬと思います。繰り返して申しますけれども、ただいま高津委員のおっしゃった一つの一方的な見解と政党的な見解というものは、他面それの逆の見解もございますけれども、そういうものが教科書の中にどういう形ででも持ち込まれるということはできるだけ避けたがいいのではないか、こういうように私は考えておるのでございます。  なお学術会議のお話も出ましてはなはだ恐縮でございますが、関係はございませんし、ここで弁明する必要もございませんけれども、学術会議は本来学問と技術の研究を目的としておるものでございまして、教育は本来学術会議の中心の課題ではございません。それからもう一つは、政治問題の非常に激しい中に一方的な形で介入するということも望ましいことではございません。しかしこれはして悪いということではないのであります。教育の問題でも、政治的に激しい問題でも、学術会議がもし取り扱うならば、皆が確信を持って取り扱う、決意を持って取り扱うような態度でないと、皆がよく法文も読んでいない、内容も知らないで、皆が言うからそれに賛成するというような決議は、学術会議としては慎しむべきものである、こういうように私は考えたのでございます。ことに学者というものは冷静でなければならぬと私は思います。熱情は持つけれども、学問的の態度においては冷静でなければならないと思うのでございます。法案の審議につきましても、私はできるだけ感情を押えて、客観的な形で法案を見るような態度を少くとも学問の場にある者はとらなければならぬと思ってそういう立場をとっているのでありまして、この点もよく高津委員も御了解のことと存じておりますので、答弁にかえまして申し上げた次第であります。
  64. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 これにて森戸公述人公述及びこれに対する質疑は終了しました。  森戸公述人には両法案に関する貴重な御意見を御開陳下さいまして、ありがとうございました。  次に、古川公述人より公述を承わるのでございますが、この際ごあいさつ申し上げます。  古川公述人には御多用中にもかかわらず貴重な時間をさいて御出席いただきましたことを厚く御礼申し上げます。何とぞ両法案に関してあらゆる角度から忌憚のない御意見を御開陳下さいますようお願いいたします。  なお、公述その他につきましては、お手元に配付してあります注意書要領でお願いいたします。古川公述人
  65. 古川原

    古川公述人 専修大学教授、学習院大学兼任講師古川原でございます。なお現在の職業はその通りでございますけれども、もう一つお断わりをしておかなければならないと思いますのは、昨年の今ごろまでは中教出版と申します教科書会社編集長をしておりました。在任中にふなれで部下の指導がまずかったために、ごく誤植の多い教科書を作って、文部大臣を初め大へん御心配をいただきましたことは、まことに私の個人の不徳のいたすところでございまして、文部大臣のみならず、採用して下さった生徒、教師に御迷惑をかけたことを申しわけなく考えているものでございます。現在は教員養成の仕事の一部をしているわけでございます。  教科書の問題が非常に大きくなって参りましたそのもとは、内容がずさんであり、粗雑であるという批判がだんだん出て参りましたこと、もう一つには、父兄の負担が非常に多いということ、その父兄の負担と申しますのは、定価が高い、あるいは転入学の際に教科書を買いかえなければならぬという不便がある。なお定価の問題と関連いたしまして、兄弟で古本を使用するということもできない。こういうような世間の問題が取り上げられまして、そして今度の政府提出並びに議員提出の両方の法案ともにこのことを考えておられる。こう了解するわけでございます。  なお発行業者あるいは供給業者という立場から伺ってみますと、これは法規が、教科書発行臨時措置法その他ばらばらになっておりまして、あるいは省令とか規則とかいうようなもので非常に散らばっておりますために混乱がある、こういうような問題もやはり教科書法としてまとめられます一つの原因になっていると考えるのでございます。そういう意味におきまして、このどちらといわず教科書法が一つ法律としてまとめられますことは、私はけっこうなお考えであると考えるものでございます。  ただ非常に冷淡に第三者的な、国籍不明と申しますか、非常に観念的に考えますと、教科書の問題でこんなに法律が整備されるということは、おそらく他の諸外国にはあまり例のないことでございまして、これはやはりただいま森戸先生もおっしゃいましたように、日本民主化の未成熟というところに原因があるのかとも考える次第でございます。  だんだんと条文に従いまして意見を述べさしていただきたいと思うのでありますが、けさからずっと三人の公述人、並びにこれに対する御質問等を伺っておりまして、なるべく重複を避けて意見を申し上げたいと思うのでございます。  検定という問題でございますが、検定が厳密であるということは教科書内容をずさんでなくする、ただいままで問題になっておりましたいろいろな欠陥をなくする意味においてやはり必要なことであると考える次第でございます。しかしこれも、何も外国の例に従う必要はないのでありますけれども、外国におきまして検定制度というのはあまり例を見ないのであります。ことにいわゆる文明国というところには検定制度は非常に少い。これも先ほど森戸先生のおっしゃいました日本民主化の成熟の程度ということと関連しておると思うのでございます。現在においては、検定はやはり厳重にしていただかなければならない。ところでこの厳密なる検定ということは、やはり検定をする人が中正であるということがどうしても必要な条件になって参ります。頭の中だけで考えたことを言うとおっしゃるかもしれませんが、もし一方的な立場から厳密な検定をすることになれば、これは非常に心配な結果を生ずるわけでございます。そこでこの検定機関といたしまして検定審議会——政府案にございます八十人の委員会と、社会党の提出されました教科委員会、あるいは中央教育課程審議会ですか、こういうものを比較してみた場合に、私はやはり政党から中立であるという意味におきまして、つまり両政党の共通の広場に画然と足を据えているという安心感を、少くとも教育界に与える意味におきまして、社会党案に賛成をしたいのでございます。ただいま森戸先生がおっしゃいましたように、運営がたくみにいきますならばどちらでもいいようなものでございますけれども、どうしてもやはり法律というものは、ある場合には悪用されるということも予想する必要がございますので、政党から中立のものであるということを特にこの際は強調していただきたい。ことに両政党の御意見が非常に尖鋭化している現在におきましては、私はどうしてもこの点が十分に必要であると考えるわけでございます。   〔委員長退席山崎(始)委員長代理着席〕 ことに政府案におきまして、先ほど山本公述人もそのことを強調しておりましたが、学習指導要領作成ということ、これもぜひ政党から中立したその広場において作成していただきたい、こういうことをぜひお願いしてみたいのでございます。教育界の現場の気持といたしましては、これは必ずしも現実に根拠があるわけではないのでございますけれども文部大臣がかわられるたびに学習指導要領が変るんだというような印象をかなり強く受けておる。また教科書発行業者たちもそういう印象がないわけではない。こういうことからやはりこのことは政党とは関係なしにずっとつながった形で計画的に改訂もされる、あるいは新たに編集もされる、そういう立場をとっていただきたいと考える次第でございます。  もう一つの重点は採択のことでございます。ただいままでもいいろいろお話がございましたが、ちょっと妙なものの言い方をいたしますが、教科書というものは一体だれのものか、このことを、よく教科書は子供のものであると簡単に言われるのでございますけれども、実際に教科書というものは、まことに奇妙なものでございまして、子供は非常にこの教科書を大切にいたします。たびたび新聞でも伝えられますし、もちろん申し上げるまでもなく御承知のことでございますが、大水が出たり、大火災がありましたときに子供は何ものをも捨てて教科書をかかえて逃げて行くのであります。従って火災のあと教科書が焼けたろうというので教科書をそこへ送りますと、非常に不要になって返ってくる、つまり子供は命の次に教科書を大事にしているというまことに可憐な美談がたくさん伝えられておるわけでございます。しかし考えてみますと、教科書というものは子供が自分が好きで買ったものではございません。これは学校が選んでそうして親が金を払って、そうして子供のものだと言われているのでございます。これは非常にほかの持ち物と違っておるのでございます。そこで考えてみますと、教科書というものは一体だれのものか、子供のものだというのは最後の結果だけを言っておるのでございまして、これは私はやはり教師のもの、教師自分の考えによって選んで、そうして子供を教育する場合にその道具として使っておるべきものでございます。従って教科書というものは、学校が選んでそうして学校が買って、学校が保管するというのが最も自然な姿だ、こういうふうに考えるのでございます。これを教育学会教科書制度要綱というものに発表してございますが、学校に置くということにいたしますと、先ほど申しました父兄の負担ということが著しく軽くなってくるのでございます。全部が国費とかあるいは地方費でもって買い上げられて備えつけられるということが理想でございますけれども、必ずしもそういかないでも、やはり現在におきまして、学校の備品を相当PTAが負担をして備えておる実情を考えますと、教科書学校の備品として、PTAの援助も受けて、できるだけ国費または公費を増していくことにしまして、これを学校に備えつけておきますと、先ほど申しました転入学の不便という二とは全く解消するわけでございます。それから古本が自然に使用されるわけでございます。こういうことも一つ、どちらの法案にもないのでございますけれども、お考えの中に入れていただく必要があるんじゃないかと私は切に考える次第でございます。  現在の日本教科書は大体一年間使うということを目標にして作っておりますけれども、しかし古本使用が問題になるということから考えましても、これは少くとも一年半ぐらいの——つまりあるものは二年、あるものは一年という意味で一年半ぐらいの生命はあるのだと考える。また学校備えつけということが本体になれば、発行業者もいろいろと研究されるでありましようから、従ってこれは生命が二年、三年と伸びてくる。アメリカにおきましては教科書の生命は一冊三年だということが常識になっております。三年という常識で買っておりながら五年も持つということがアメリカで学校備えつけ方式を推奨されておる理由になっておるわけでございます。御参考までに申し上げておきますが、アメリカにおきましては州ごとに考えますと、全体の半分の州が学校備付の方式をとり、四分の一が学校が持っておって一冊々々全部子供に貸してしまうという貸付制、八分の一が校費で買って子供にいわゆる無償給与をする、残りの八分の一が観たちが自分で買う、こういう方式になっておるわけであります。これに対する教育学君たちの反対論だけを御紹介申し上げますが、一つは、もちろんすぐ御心配いただけると思います衛生上の問題であります。人の使った本をまた使うということによって、衛生上の考慮がある。しかしこれは消毒の方法によって、現在はほとんど問題がなくなりつつある。もう一つの反論は、教科書というものは、子供がこれから一生の間過ごしていく間に、蔵書という、本を買って持っているというよい習慣を養う第一歩である、教科書は子供の蔵書の第一冊である、従って蔵書という習慣を養うために、教科書自分で持っていた方がいいのだという議論がありますけれども、しかし蔵書というものは自分で選ぶべきものでございまして、子供は教科書を選ぶ力を持っておりません。まだ教科書を読めるか読めないかわからない子供が、この本がいいか、この本が好きかをわかる理由はないのでございますから、これはあまり理由にならない。蔵書はほかの形でするべきである、こういうふうに言われておるわけでございます。  なおこまかい点を幾らか考えて参りますと、検定審議会が八十人という大きな人数で、もちろんこのことによって検定は厳密になるのでございますけれども、先ほどの政党からの中立性ということを強く考えますと、もし政府案がこのまま通されるといたしましても、やはりこの審議会委員の任期というものは、はっきりと規定していただかなければ困るのではないかと私は考えておるわけでございます。  さらに検定拒否の問題は、先ほど来いろいろ問題にしていただきましたが、私も検定拒否の問題は非常な危険をはらむという意味で、あれは条文からは取っていただく、文部省の御親切な御指導があれば、それで十分役に立ち得るだろう、こういうふうに考えるのであります。  なお非常に欠けておると思いますことは、これは教科書法できめるべきか、著作権法の問題になりますか、わかりませんけれども、現在著作権の問題が教科書には特殊な場合として起ってくるわけでございます。著作権の使用料を払うべきだということについては、発行業者たちもみなお考えのことでございますけれども、しかし使用料の問題と関係なしに、使用が拒否される場合を考えますと、検定制度においては非常に教科書を作る困難が出てくるわけでございます。漢字の問題もございますし、かなづかいの問題もございますし、いろいろな問題が起って参りますので、なるべく著作権者は教科書に使用される場合は拒否しない方がよろしい、こういう条文教科書法に載せるべきか、あるいは著作権法の方に載せるべきか、これは私は法律専門家でございませんのでわかりませんが、どちらかにお考えおきを願いたい、こういうように考えておるわけでございます。   〔山崎(始)委員長代理退席、委員長着席〕  なお学校教育法の二十一条に、教科書を使用しなければならない、こういう言葉があるのでございますが、これはやはり教科書を用いるという一つの学習指導法を学校教育法できめておるということに、私は疑問を持ちますので、やはりあの条文はどういうふうに変えたらよいのか、これも専門家でございませんからわかりませんが、教科書を使用する場合は検定を経たものでなければならない、こういうふうにあるのが教育の本体ではないかと考えておるわけでございます。先ほど山本公述人も指摘いたしました文部省著作教科書というものには、やはり制限を明記しておいていただく必要がある、こういうふうに考えるわけでございます。
  66. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 以上をもちまして、古川公述人公述を終りました。  これより古川公述人に対する質疑に入ります。小林信一君。
  67. 小林信一

    ○小林(信)委員 先ほど森戸先生に私がお尋ねしておるときに、一緒にお聞きしていただいたので、これに関連して私御質問申し上げるのですが、今度の検定で第六条に、検定を受ける場合には見本本を持っていけということが書いてあるのです。これは前の教科書制度からいいますと、最初は原稿審査をして、それからその次は仮刷りみたいなものですが、最後にまた製本を持っていく、この三つの段階になっておったと思うのですが、それを今私が質問をしておる最中に、何か持っていかなければならぬじゃないかというふうな、簡単なやじが飛んだのですが、この点は私は非常に重大な問題で、ことに公述人はこういうことに携わった御経験があるようにお伺いしておるのですが、これが前の制度と今度の制度では、どういうふうに業者に影響を及ぼすか、御意見を伺いたいのです。
  68. 古川原

    古川公述人 この問題は、確かに見本本を完成して組み上げまして、そうして印刷をして、製本をして持っていくということは、発行業者にとってはかなりの負担でございます。ただいままで原稿審査という方針がとられておるわけでございますが、その中でさし絵の部分を製版して持っていけということが、あとになってきまって参りました。確かにさし絵がわかりませんと検定はしにくいのでありますから、従って製版をするということがきめられておりますけれども、これに関しましても、業者の一部には非常に強い反対がある。それは小中の業者を圧迫するものだということで、かなり反対があったと思うのでございます。この点に関しましては、後ほど公述されまする水谷さんが御専門でございますので、なお詳しくお答えがあると思いますけれども、私も見本本で出すということは、中小の業者にとってはかなり苦しいことである。なおただいままで著者が出版社を持たずに、原稿でもって教科書審査を受ける、そうして合格した後に出版社を探すということも、これは実際は行われないのでございますけれども法律上はあり得ることになっております。このことは、著者という形からはもちろんできなくなります。以上でございます。
  69. 小林信一

    ○小林(信)委員 重ねて質問申し上げて失礼ですが、なぜそういう制度に改めたか、つまり業者にとっては非常に苦しいものですが、その苦しいことをあえてするような意図、こういうふうなものが、今までそういうことに御経験があるとおわかりになると思いますが、おわかりになりましたらお伺いしたいと思います。
  70. 古川原

    古川公述人 これは政府案を代弁することになるようでございますけれども、現在誤記、誤植の点が非常に問題になっております。誤植の点を検定を通ったからというので文部省が攻撃を受けられるということは、文部省としては非常にお困りだろうと思う。その点で多分見本本をというお考えだろうと思うのでございますけれども、現在も原稿審査に合格しましたものにつきましては、文部省がその見本をごらんになっていらっしゃいます。この制度でも十分活用していただきましたならば、誤記、誤植の点も——これは発行業者も一生懸命にやらなければならないのでございますけれども、その上に文部省も責任を負えるような形になり得る。現在も見本本の審査ということはあり得るのでございます。
  71. 小林信一

    ○小林(信)委員 それから引き続きまして第七条でございますが、先ほど森戸公述人の御意見を承わっておりますと、ここではことに一と書いてあるところですが、検定に合格する見込みがないと認められる図書に対しては、文部大臣審議会に諮問をしてこれを拒否することができるというふうなことでございます。これに対して大したことはないだろうというふうな先ほどの公述人の御意見ですが、これはやはり悪用される——悪用と言っては変ですが、これをきつく適用されるような場合にはどんなことがあるかということも、私たちが非常に心配しておるわけなんです。今までの検定においてもそういうふうなことがうかがわれないとも限らないのですが、今後こういう条文が出たとするとどんな危険があるか、最悪の場合を予想してで一つ説明を願いたいと思うのですが。
  72. 古川原

    古川公述人 最悪の場合を予想すれば、気に食わないものは「その他」の中に入れて全部拒否してしまう、それ以上は申し上げられないわけであります。
  73. 小林信一

    ○小林(信)委員 話を聞きながら失礼でございました、今こちらで気違いになったときは困るということなんですが、最近そういうノイローゼが多い時期でございますので、どういう文部大臣が出ないとも限らないと思う。それがこういう条文を盛っている場合に、先ほどの質問等をお伺いしていますと非常に危険だと思うわけでございます。  それから私が先ほどやはり前の公述人にお伺いしたのですが、「検定基準の変更により、」という第十一条の問題でございますが、私自分でもここは大したことがないようにも思うし、また非常に心配にもなるわけでございます。現在の社会科の問題等が修身あるいは地理、歴史というふうに分割されるような傾向もないとは限らないわけです。そういう場合にこれは適用できる措置じゃないかとも考えているのですが、御見解いかがですか。
  74. 古川原

    古川公述人 それはおっしゃる通りだと思います。たとえばこの種目ということ、これは現在で申しますと、中学校以上の国語の教科書に文学編と言語編とありますが、それを種目をやめて総合編だけにする、あるいは総合編というものがあるのに文学編と言語編だけにする、こういうことになれば、かりに今までの文学編、言語編でなければならないとすれば、総合編が検定の効力を失う、こういうことは考えられるわけでございます。社会科の問題が非常にデリケートでございますので、あえて国語の例を取り上げましてもそういうことは考えられる。このことは、私自身は第十一条というものを、これによって非常に危険があるというふうには感じておりません。
  75. 小林信一

    ○小林(信)委員 それから、もう小さいところだけお伺いしてまことに申しわけないのですが、先生が先生の立場でありながら発行方面の業者、検定の方について特に経験がおありになるのでお伺いするのですが、申請をして、それから決定されるというふうなところに期間なんというものが必要はないでしょうか、あるでしょうか。
  76. 古川原

    古川公述人 先ほど申し忘れましたが、これはやはり期間というものを法律できめていただいた方がいいと思うのでございます。現在は、もちろん法律ではございませんけれども、四週間でございましたか六週間でございましたか、忘れてしまいましてまことにどうも職務不熱心みたいでございます。一年たつと忘れてしまいますが、四週間とか六週間とかいう内規が発行者に示されておりまして、その期限がくるころには、始終日参して催促をするというようなことになっております。これは悪用の危険は確かにあるのでございまして、検定合格、不合格、わからないままに時間切れになるという場合は確かに考えられます。
  77. 小林信一

    ○小林(信)委員 そういうふうなところが諸所にうかがわれるのです。同じような問題で分科会で許可することができるような形になって、審議会でなくてもいいようなふうになっておるのすでが、こういう点は検定を受ける立場からするといい傾向ですか、悪い傾向ですか。
  78. 古川原

    古川公述人 受ける立場からというのは、どうもちょっと私、現在実感が伴わないのでございますけれども、先ほどの最悪の場合を予想しろ、こういうことであればこの分科委員の人を悪い気違いであった文部大臣がお選びになる、そうすれば、その気違いになった文部大臣が選んだ委員だけできめたことが審議会全体の決議になる、こういう心配は確かにあるわけであります。
  79. 小林信一

    ○小林(信)委員 わかりやすくこうやってお話をするわけでございますから、先生も一つ気にとめいなで——こういうふうに話を具体的に申し上げるとよくわかると思うのですが、さらにそれに関連しまして第九条に、文部大臣が不合格になった者に対しては、理由書をつけて云々ということがあります。はなはだ丁寧な条文で、いいようになっておりますが、ここまでいくならば、その理由書に対して不服があった場合は不服の申請ができるというようなことは必要ないかどうか、お伺いいたします。
  80. 古川原

    古川公述人 それは申請人が審議会に出席して公開の討論をする、こういうような方式は確かに必要じゃないかと考えるわけであります。現在までのいろいろな問題の中に、確かに検定調査員の覆面性の問題が出ております。どなたがどうおっしゃったのかわからない。先ほどの問題のF項パージのいろいろな憶測というものもそういうようなところから出てきておるのでありまして、なるべく公明に行うということがこの法案の御趣旨であるとすれば、やはり落ちた者に不服があったときに、公開の討論会を規定していただくことは必要だと思います。
  81. 小林信一

    ○小林(信)委員 そういうところが、理由書まで出して丁寧に不合格の理由を言うというのですからいいようですが、そこまでいくならば、あくまでこの法案というのは整理されなければいけない。私もそこのところを非常に心配しておるのですが、そういう点をごまかすところが多いようです。  それから教科書検定審議会のことでございますが、この審議会委員の任期というふうなものが書いてないのですが、これも最悪の場合を予想して申し上げるのですが、どういうふうな意図から出ているか、あるいはそういうことは法の建前上どうしても必要であるか必要でないか、お伺いしたい。
  82. 古川原

    古川公述人 このことは先ほど私の公述のときに申し上げました通り、私はどうしても任期を定めてもらいたい。私も何か文部省の社会教育審議会児童文化委員というのを拝命したことがございますが、委員会の通知がこなくなったときが委員でなくなったときでありまして、自分でもよくわからない。こういうことがもしこの検定審議会までに及ぶようでございますと、これはいろいろな悪い場合が予想されます。やはり任期を入れていただかなければいけないと思います。
  83. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 高津正道君。なるべく簡単に願います。
  84. 高津正道

    ○高津委員 あらゆる産業に大名というか、大手筋なるものが生まれて、その産業の主導権を持ち、大へんな勢力をふるうのでありますが、それはいわゆる大資本を持ったものであります。石炭、製鉄、砂糖、造船、ビール、みなそうであります。紡績のようなものでも十大紡、それから新紡が二十五で、新々紡が九十四というようになっておりますが、十大紡ともなれば——東洋紡、大日本紡、鐘紡、呉羽紡、日清紡とこれがビッグ・ファイブでありますがそれが通産省を使って昨年いわゆる業界の操業短縮の強制を行なって、ばたばたと他を倒す操作をしたのであります。そのような作用があるのであります。すなわち強いものが勝つ。弱いものの肉を強者が食らうという原理が資本主義では作用するのでありまして、この法律案の通った場合に、教科書業界に非常に大きな影響が現われるに違いないのであります。私は経済面だけをとらえて申しますけれども、出版業からいえば、学校図書、東京書籍、双葉、教育出版、大日本図書、中教というような順序かと思います。本年はどういう戦術によったか、東京書籍が第一位に上ったかとも聞いています。おそらくそうだろうと思います。その八十も九十もある出版業者の中で、さっきの森戸辰男公述人は、下の方は危ないぞ、成り立たなくなるかもしれぬという引導を渡されましたが、私はそんなに中以上がみな残るのじゃなくて、上から残るのだ、力のあるもの、資本力のあるものが残るので、おれは七位だと思っている人も、七位までは残ると思っておっても、その人間も、今度の教科書法案採択地区を一県にしぼるのも許されておるので、一県一採択地区にすることも許されておるのでありますから、そのような競争場裡に小さいのは乗り込んでいって負けるに違いないのであります。名古屋市が現にその一採択区にしておりまして、それを決定するのは委員が票数で決するのでありますから、どれが採択されるかという場合には、もう何票委員を買えば、われわれの側につかめば勝てるという場合には、最後のつばぜり合いになれば、おそろしい高値を呼んで、まるで将来の憲法改正の案が出たときのものすごさを暗示するかのような、そういうような話さえわれわれは承わっておるのであります。大きなこの角逐戦には中会社も臨み得ないので、強い者が勝って地盤を築き、そこに根をおろしまして、生き残る者はほんの少数。二、三年を経ずして落伍者になって、われこそは岩崎彌太郎という希望を持っておった者も、その全部が累々たる死屍として横たわるのではあるまいかという不安を持つものであり、そうした確信を持っております。必ずそうなるに違いない。この業界だけは資本主義の苛烈なる原則は適用しないものである、いいものが勝つのだとは言っておれぬ。やはり資本力だというように私は考えるのであります。この業界だけは例外であってちゃんとみな残るのだ、十位も十五位も残るのだというように御判断されますか。それはいよいよの最後は一つになりますよ。最後は一つだが、それが二、三年のうちに二つか三つかになる、こういう危険性を感じておりますが、先生の御意見はいかがでございましなうか。遠慮なく正直なところをどうぞおっしゃって下さい。(「象牙の塔だからわからぬよ」と呼ぶ者あり)
  85. 古川原

    古川公述人 私は象牙の塔におりませんから申し上げられます。弱肉強食ということが教科書出版にも適用されることは確かであります。ただし教科書出版業というものは、企業的にそう大きなものではございません。小学校、中学校高等学校全部の教科書の定価通りに計算して百六十億でございますから、大きな紡績会社とか肥料会社の一会社にも及ばない。こういうものを九十何社でやっておるのでございますから、かなり小さい方だと言うことができると思います。そこで政府案によります採択地区は一県一つになりませんでも、とにかくここに考えられていることは、やはり教科書会社の数を減らしていこう、教科書種類を減らしていくということは必然的に会社の数を減らしていこうということになるわけであります。そういう御趣旨が見えますので、当然これは採択地区の少くとも郡市よりの拡大、こういうことから脱落して参りますものは十分に予想されるわけであります。ただしそれは今の私どもの常識で考えてみまして、必ずしも大資本が残り中資本がつぶれるという形ばかりではなく、やはり地方的な地盤を持っている出版社はそれだけに残れるのではないかということも考えられるわけです。必ずしも高津先生のおっしゃいましたように大資本だけが勝つとは言えないのではないか。ただしそれが喜ぶべき傾向であるかどうかということは別問題であります。私が採択地区反対するのは、教員養成の立場から、教員の自由が奪われていくという事情から反対しておるのであります。
  86. 高津正道

    ○高津委員 現在政治の急務はスキャンダルをなくすることにあるのだ。それにはどうすればいいか、政治家や政府やいろいろなもので対策をみな考えておりますが、なかなかそれがむずかしいのであります。そういう場合には、道ではないが、検察庁が大いに活動してくれればいいのにと、かねてかたきのように思っている者でさえ、時としてそういうことを考えることさえあるのであります。一県単位、たとえば九州で大分とか佐賀とか宮崎とか、それらは一県一採択地区に大体なろうという情報をわれわれは得ております。福岡はまあ少し多く、静岡も多く、東京はもちろん多いのでしょうが、そのような大きな採択地区になって激しい戦争が行われれば、スキャンダルが大きく大きくなって、大部分けが人が出るというその争奪戦、採択権者、採択委員をどうして自分にかかえ込むかという運動をせねばならぬ事情があるので、その運動が激しくなり、やむを得ずして——わが社が破産するのでありますから、死の宣告を受けねばならぬ。それではというので非常に激しくなって大きなスキャンダルが生まれる可能性がある、今は小口である、こういうように私は考えるのでありますが、その点名古屋布の例まで私は引いたが、先生のお答えには大部分が漏れておりましたので、枢密院の話まで引き出して先生の御注意をあらためて喚起し、その部分に対するお答えもいただきたいと思うのであります。
  87. 古川原

    古川公述人 私も教科書仕事に携わった者として、スキャンダルが拡大するということは予想したくないのでございます。ただしただいま御指摘にありましたように名古屋のように非常に大きな人口のところがまとまっておるということになりますと、確かにいろいろなうわさが生まれてくるのであります。従ってあくまで採択地域の拡大ということは、教育的な意味におきましてもまた今御指摘のスキャンダル防止という意味におきましても、私は反対いたします。
  88. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 これをもちまして古川公述人公述及びこれに対する質疑は終りました。  古川公述人には両法案に関する貴重な御意見を御開陳下さいましてまことにありがとうございました。  この際申し上げます。本日の公述人として予定しておりました佐藤幸一郎君より事故のための出席いたしかねるとの電報が参りましたので、佐藤幸一郎君の公述及びこれに対する質疑はとりやめとなりましたので御了承願います。  次に水谷公述人より公述を承わるのでございますが、一言ごあいさつを申し上げます。水谷公述人には御多用中にもかかわりませず御出席をいただきまして、厚く御礼申し上げます。何とぞ両法案につきましてあらゆる角度から忌憚のない御意見を御発表下さいますようお願いいたします。なお公述その他につきましては、お手元に配付してあります注意書要領でお願いいたします。  それでは水谷公述人の御意見の御開陳をお願いいたします。水谷公述人
  89. 水谷三郎

    水谷公述人 私は水谷三郎と申しまして、社団法人教科書協会に属します実教出版株式会社の専務取締役でございます。  私ども業者といたしまして、現在の教科書に関する法律が非常に臨時暫定的なものでありますので、いろいろと不都合がございますので、早く一つ法律にまとめていただきたいという念願を前から持っておりました。従いまして今回新しい教科書法を御立法になるということは、まことにそのことはありがたいことであります。むしろわれわれとしてはおそきに失したとさえ思っておるのであります。ただ今回の二つの教科書法案を拝見しまして、業界としまして非常に残念に思っておることがあるのであります。と申しますのは、法律知識がないからかもわかりませんが、全文を通じまして非常に取締り条項が多いのでありまして、教科書事業のようなものの保護とか育成という点についてあまりお考えをいただけなかったということが非常に残念であります。しかしながら法律が早く出ますことについては私どもは賛成であります。一体どんな点が業者として不安であるかといいますと、まず第一に政府案採択地区の問題であります。先ほど来古川公述人からいろいろお話もありましたが、私どもとしましてはやはり採択地区がどうしても必要ということならば、あまり大きな単位でやっていただきたくない。できるだけ小さい単位、本来社会党の方にありますように、学校長の採択がいいのかもしれませんが——そうして私どもも従来そういうふうな主張を続けて参りましたが、現状を見ますと、現在は自由採択の原則がありますが、その自由採択の現状において全国の約七〇%くらいの小学校が大体市とか郡の単位採択をやっております。それは古本使用の問題でありますとか、転校生の問題あるいは地域的に広がります研究会の運営の問題からそういうことになってきたようでありますが、一面これを考えますと、採択地区を設けるということになれば、市とか郡、そういう単位が一番格好がいいんだ、一番適切なんだ、という証拠にもなるのじゃないかと思う次第であります。法律案によりますと自然的、経済的、文化的な条件さえ教育上考慮できるならば県一本でもいいというふうな文句がありますが、県一本でもいいということは、県を二つにしてもいいのだ、小さい県は一つでいいんだが、大きい県は二でもいいんだ、三つでもいいんだということになると、非常に大きな地区になるおそれがあります。大きな地区になりますと、先ほど来お話のあったようにいろいろ心配ごとが起ります。これも仮定の上に立ちますが、たとえばある会社が、ある年、非常にたくさんの採択を得た。それが前年の二倍、三倍であったという場合には、その会社はその能力を非常に急激に増加しなければならぬ。採択が大体八月、九月ごろ行われまして、供給が翌年の一月ごろから始まるわけでありますが、それまでの間にその準備をするということは並み大ていのことではないのであります。しかしながらそれも永続性を持つ、そういう繁栄ならばそれはだれも喜んでやりましょう。しかしながら数年後には必ず採択変更期が参ります。そのときに逆に三割ないし五割というような激減をいたしました場合には、その会社はただ単に遊休設備を持つだけではなくて、それが一つのつまづきになるおそれが十分にあります。そういうことが年々たびたび起りますと、われわれの業界が非常に不安定なものになっていく。そういう点でわれわれは大地区というものに対して非常な不安を持ちます。幸いに最近におきましては、この業界は比較的安定性を持っておる業界のように、特に金融筋では見ておるのであります。それがそういう結果になりますと、業界全体としての破滅にいくのではないかと思うのであります。元来が教科書というものは宣伝とか何とかによりまして需要量のふえるものではありません。逆に最近におきましては就学児童が年々多少でも減っております。将来は今のところ生産率からいってふえるという見込みはないのであります。その中でお互いに食い合いをしておるのでありますから、競争がほかの業界と違った特異性を持っております。そこで大地区になりました場合に、今のような心配が出て参りまして、業界全体が不安定になるということは非常にこわいのであります。まあできるだけわれわれとしては小さい単位でもって採択地区を作っていただきたい。これは地方教育委員会におまかせになっておりますが、そういうふうなお考えのもとに採択地区の点をお考え願いたいと思います。  次に教科書センターが設けられますことは私どもは非常に歓迎するのであります。と申しますのは、これは従来からこのことを常設展示場という名をもって主張して参ったのであります。これは非常にけっこうでありますが、ただこれは教科書センターを設けまして、そこに教科書だの教材だのをそろえただけでは意味がないのでありまして、これが十分に利用されるように運営されなければならない。と同時に、このセンターを中心に各科目研究会というものが公けに設けられまして、絶えずここで先生方の研究が行われ、組織的な研究の結果は定期的に管内の学校に流れるということが、教科書採択の上に非常に有効であると思う。こういうことが盛んに行われることによって、先ほど来問題のスキャンダルの問題もある程度制御できるのではないかと思うのであります。従いましてこういうものが一定の運営費を持たなければならぬと思うのでありますが、この点について将来ともに御配慮願いたいと思うのであります。  それから私ども業界としまして、採択地区の問題と同じように、あるいはそれ以上に非常に心配しておる問題が供給問題であります。現在の発行業者は子供の手に渡るまで供給義務を課せられております。これは臨時措置法によってであります。ところが今度の新しい法案によりますと、われわれは登録供給業者の手に渡さなければならないというふうになりまして、そこの辺から供給義務が免除されておるように感じるのであります。もちろん教科書は売り切るということはできませんから、どうしても最後の一冊までを供給しなければならぬ。現在までわれわれは十分な努力をして参りましたが、今後はそのことが少しむずかしくなるのじゃないかと思うのであります。私どもが現在供給について全責任を持っておると申しましても、全国の数万の学校並びに数百万の児童生徒一人々々に教科書を手渡すことはできないのであります。従いまして、この仕事を各府県の供給業者に代行させております。従って一人々々のところまでは手が届いていないのでありますから、供給業者にその供給義務を肩がわりさせてやろうというお考えだと思います。そのことは非常にありがたいのでありますが、もしそうなりますと、供給業者とわれわれとが取引をする場合に、売り切り制でなくてはならなくなるのであります。売り切り制にしますと、一方において法律供給業者は完全供給義務をしょわされておりますから、なるべく十分な予備品を持とうとし、それをもし買えといえば十分に持てませんから、結局私どもがその負担をしなければならぬ。それをたくさんに持つことは、結局定価の面で相当の影響が出てくる。あるいはたくさん持ったために返本が多くなる。返本というものは定価にどうしても織り込まれるわけでありますから、この点で従来われわれのやって参りましたことは、供給業者の末端、小売り業者に至るまでわれわれがいろいろ指図をしまして十分な調節をやって参りましたが、このことが今度は全部供給業者の責任になるわけであります。こういう面で、経済的な面と、それから定価の面が心配になります。  それからもう一つの問題は、教科書登録供給業者というものはだれでも登録を受ければいいことになっておりますが、そう簡単に参るものではないと思うのであります。どうしても府県に一つ、二つというふうな地域的な独占ができるのだと思います。私どもとしましても、一つの県に三つも四つも乱立しているということは非常に困るのでありますが、そうかといって、たった一つだけということは、非常に心もとないのであります。そう申しますと、はなはだ何だか供給業者との間がうまくいっていないようでありますが、それはそうではないのでありまして、現在のところ大部分の府県におきまして、さしあたって心配なことがあるというのは少いのであります。経営者たちも大体において信用ができるのでありますが、過去におきまして、きわめてまれではありましたが、非常に困る人間が代表者になり、ずいぶん乱暴なことをした、あるいは赤字を作ったという例があるのであります。将来はそういうことはあまりなかろうと思いますし、業者の方も十分に法の精神をわきまえましてやってくれることとは思いますが、長い月日の間にはその供給義務義務が権限になるおそれがあるのであります。こういうことはとかく起りがちだと思いますから、その点を非常に心配しておるのであります。  経済問題といたしましては、ある供給業者が危なくなった。それを気づいたときにわれわれがどうこうするというのではもうおそいのでありまして、危なくなる以前にわれわれが何らかの措置をとらなければならないのであります。しかしながら一方におきまして、雑誌などならば、あの業者には売らないということで済むのでありますが、教科書は時期には子供にどうしても渡さなければならない。その時期に供給業者が不始末をしてくれると大へんなことになるのであります。こういう点を十分にお考え願いまして、法の運用並びに政令、省令等で十分な救済をお考え願いたいと思う次第であります。  定価の問題は昨年以来盛んに問題になりました。もちろん宣伝費はできるだけ削減したいと思います。今度の法律にはそういう点がだいぶ含まれておるようでありますが、これは省令、政令が出ませんとはっきりいたさないと思いますが、もう一つわれわれが非常に困っておる問題は、検定基準の基礎になります学習指導要領というものがありますが、これが非常にひんぱんに手直しが行われる。手直しというのは小改訂であります。そのたびごとに教科書をかえなければならぬというようなことがありまして、われわれはその方面で毎年いろいろな科目の改訂のために追い回されておる。そういう学習指導要領の安定という点について、特に今回の法律に基きまして、なるべく至急に安定させていただきたいと思います。  定価の引き下げ対策といたしましては、そういう面がもちろん必要でありますが、ページ数の再検討、あるいは印刷方式の再検討、紙の問題というものを、新しくできます検定審議会において御検討願うということをぜひお願いして、それによりまして新しい定価基準を作っていく、これは合理的科学的に作っていただきたいと切望するのであります。  時間がございませんので非常に簡単に申しましたが、大体われわれといたしましては、今度の法律に右申しましたほかにも、多少のこまかい点で不安を持っております。不満ではございません。不安でございます。しかしながら二つの法案のうちどちらがいいかとおっしゃいますと、これは政府案に賛成せざるを得ないのであります。と申しますのは、社会党案には、たとえば採択の問題であるとか、あるいは教科書センターの運営費の問題とかいうようなことについて、二三いいところがありますが、あの法律は三十八年三月三十一日に失効するのであります。それ以後は地方検定発行供給の権限が移るのだそうでありますから、そうしますと、これはわれわれとしては非常に困るのであります。もっぱらこれは業界の事情でございますが、四十六の都道府県にそれぞれ別々な基準に従って手続をしなければならぬ。検定も、供給も、それから発行についても、それぞれの手続をしなければならぬ。これは非常に大へんなことでありますし、検定基準に多少の違いが出ますれば、やはりそれに合せるような内容のものを作らなければならない。そうしますと、勢いその県なら県だけの非常に小さい部数に限られますために、定価は相当に高くなると思うのであります。それから定価が高くなりますと、結局現地におきましては、県一本がよかろうというようなことになりまして、これは県が定める、つまり県定になるおそれがありまして、結局最後にはわれわれは締め出しを食らうおそれがあるからであります。  われわれといたしましては、以上申しましたようないろいろな点がありましても、法律が一日も早く出てくることが非常に望ましいのであります。と申しますのは、中教審答申が出まして以来、世間がこの問題を非常に注視しまして、関係者はすでにこの法律が実施されるものだという前提のような空気に包まれておるのであります。それから一方教科書センターというものが近く開設されまして、今年度の採択はこれを中心にやるようになります。それから三十二年度の採択というものが目睫に迫っておるのでありますから、いつまでもこの中途半端な状態にわれわれがおるということは、非常に落ちつかないだけでなくて不安なのであります。なるべく早く法律が公布されることを切望する次第であります。
  90. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 以上をもちまして水谷公述人公述は終りましたので、これに対する質疑に入ります。質疑を許します。高津正道君。なるべく簡単に願います。
  91. 高津正道

    ○高津委員 郡市単位で従来採択が行われたのが全国の七〇%にも及ぶから、それを法律で生かすようにした方がよかろうというお説は、非常にもっともだと思って拝聴しました。お尋ねしますが、供給業者というものが、新たに法律の上にはっきり出てきたのであります。その特約供給という、各都道府県にある——しかし、配送業者というか、大取次といわれている別の日教販、教販、中央社というようなものがありますが、あれをやはりこれにうたうべきだろう。相当量扱っておるし、大会社で利用しておるのもあるし、中小で数十社利用しておる状態でありますから、あれをまま子扱いにしないで、この法律の上に載せておけば、水谷さんの憂えられた、今の特約業者は供給はいいけれども、長い間に悪い人が現われたりなどするようなことがあると非常に心配だ、今までならばわれわれが責任を持って、われわれが相当の権利を持って向うを上手に見てやったから誤まりなきを期し得たんだが、この法案によればその点に不安があるというように伺ったのでありますが、その憂いは、今の大取次をここで法律の表面に載せれば、ある程度防げるのじゃないか、こう私は考えるのであります。あなたの御意見はいかん。これが一つの質問です。  もう一つは、いわゆる供給業者義務を負わせてあるが、多くは一県一社というようになるであろうから、その場合は義務は、供給業者の特権ということに変ってくるおそれがあるそのような地位はなかなかいい地位でありますから、政治家を動員してその地位の争奪戦などが起る危険性はないか。あなたのお説を聞きながらそういう考えが浮んだのでありますが、そういう危険性ははらんでおらぬものであるか、その点をお伺いいたします。
  92. 水谷三郎

    水谷公述人 大取次と申しますのは、現在日教販、教販、大阪屋、中央社というようなものが教科書を扱っております。そのうち教販会社教科書専門にやっておる以外は、全部雑誌図書が主業でございます。教科書の場合には、中小の業者が、これに配送と同時に供給業務を委託しておりますが、大体は配送をするのがおもな仕事となっております。従って大取次をこの業者の中に加えたらどうかということは、現在のままでは、配送以外のところをやります場合には、大会社としては屋上屋になります。地方の業者を抜いて、いきなり小売屋へ大取次が送るという場合には同じ列に置かれますが、地方の特約を経由する場合には一つの段階がふえるわけであります。私どもとしましては、大取次がはっきりした性格を持ってくれない限り、同列に置いていいかどうかという点は、まだ議論が結論を生んでおりません。  それからもう一つ、私が取り越し苦労をいたしました、将来義務が権限化するというような心配につきましては、お説の、政治家を利用してどうこうというほどの大きな商売でございません。一番大きな北海道におきましても、せいぜい六億円くらいのものでありまして、そのマージンとしてはたかが知れております。小さな県では、扱い高が一億にならない県が相当あるくらいのものでありまして、そういう疑いは、今までのところではちょっと感じられません。
  93. 高津正道

    ○高津委員 今、定価をきめる場合に、印刷方式だとかあるいは紙の検討だとかいろいろなことの示唆を与えられましたが、図画とか音楽教科書のような特定のものは除いて、あとを全く一種類の紙にしてしまってはどうか。あなたの説によるならば、一年間に宣伝によってどんどん販売量が増すというようなものではなく、安定した数字でありますから、ほぼ見当がつく。その用紙は他にも転用できるのであるから、余ってもいいのであるし、大体の見当がつくのであるから安定した需要が年々あるわけであります。それで紙を一本にしてしまって、それを製紙会社に作ってもらうことにすれば、相当定価を下げる余地がそこに生まれるだろう、こう私は考えるのであります。ただし学校図書でアメリカからあのような特殊な膨大な機械を輸入されておるので、その機械にはまらない紙がもしそれに選ばれるならば、学校図書は破産しなければならぬ。それはきわめて明らかです。それらのことを勘案されて紙を一本にしぼったら——これは思想統制じゃありません。そうすれば定価の面に非常に役立つだろう。こういうことを私は思いますが、これに対する御見解いかん。  それからこの法律がなくても、定価決定のための最高価格の決定は文部省でやり得るのであって、この法律が衆議院をまだ通過しないのに文部省ではちゃんとそれをやっておる。だから定価を安くするための法律案だという宣伝は、この法律はなくてもやれるのですから……、私はそう考えます。それに対する御意見は求めません。  それから現在の最高価格の算定の方式は、いわゆる単価計算で積み上げ方式でいくやり方がよいと思われますか、それとも行政整理の場合のように各省一率に五%ずつ人員を減せというようなやり方がいいか、それに対する御見解はどうでしょうか。  それからもう一点、この法律案が出るということが業界に知れ渡るや、鬼のいぬ間の洗たくという意味で、今のうちに検定をとっておかぬといけないというので、業者の方ではどんどん今検定申請を出して、ある社のごときは二十も三十も出しておられるということを聞くのであります。だからこの法律が出なくてももうにらみをきかせておるのであって、今度出たならば検閲が三つの関門ができる、大へんなことになるだろうと、あなた方は非常におそれておられる。その実情を一つ聞かせてもらいたい。  それからあなたが吉川公述人に対しての私の質問をそこでお聞き下さってのあなたの見解、適者生存ではなしに強い者勝ちの、大資本が勝って被害者は想像以上にたくさん出るだろう、上が七つ残るとかそれはあなたは言えませんから、相当被害があるという言葉でもどういう表現でもいいのですから、そこのところを聞かしていただきたいと思います。
  94. 水谷三郎

    水谷公述人 紙の統一の問題は私個人としましてはちょっと見解が違っております。と申しますのは、現在のわれわれのやり方は、内容の競争をいたしておりますし、造本の競争をいたしております。大体この二、三年で紙の規格は言い合わしたように一点に落ちついて参りました。現在では同じような紙をどうしてうまく作るかあるいはどうして安く買うかの競争をやっております。従ってこれを業界で一本にまとめまして一定の規格を製紙会社に交渉しますと、逆に製紙会社に乗ぜられるおそれがある。改良にはならぬと思います。むしろきめるならば、最高の紙質をきめるべきだと思います。  それから定価積み上げ方式というのは、これはアメリカさんがいらっしゃったときに作ったものでありまして、非常に合理的なようでありまして実際には非常に不合理な点も現われたために最高価格制がとられたわけであります。ところが最高価格制をとりましたその瞬間におきまして、前年の実績を平均してお作りになっただけに現在の状態が出ておるわけであります。ですから今回新しくお作り願うときは、もっと科学的に実際の原価計算を十分にたんねんにやっていただいてお作り願うことが必要だと思います。  それからことし検定の出願が多過ぎた、新しい法律のあれをのがれようとしたという御見解だと思いますが、それは逆でございまして、本年検定を受けましても、旧法で受けたものは三十五年三月三十一日までしか通用しないのであります。今よけい出すということは愚なんであります。むしろ三十五年四月一日から使われるようにこれからたくさん作るべきだと思います。むしろ現在あるものを三十五年四月一日までに検定をとるということの方がわれわれとしては非常に重要なのであります。だから本年よけい出したというここは何かの聞違いではないかと思います。  それから新しい法律によって業者の弱肉強食という傾向が出るかということは何とも私としては申し上げかねますが、金のあるものが必ず勝つという商売ではないと思います。古川公述人も大体そういうふうな意見だったと思います。研究組織が十分に利用されまして、内容が十分に検討されますれば、たとい小さな会社のただ一点の教科書でもよければ使われる。その点はあると思います。ただ金がどっさりあって人手がどっさりある人の宣伝力というものは小さい人よりもはるかに大きい、この点は認めます。だが小さいのがみななくなってしまうという高津先生の御意見にはちょっと賛成いたしかねます。
  95. 高津正道

    ○高津委員 今度採択のための委員会がそれぞれの都道府県で作られるわけであります。そして多数決できまってくるのでありますけれども一つの種目の中で二つの種類の本が競争をして二位に落ちた、五十一対四十九、他の県ではそれが五十五対四十五、いろいろな比率でどこでも落ちるということになりますと、その二位の本は、全体的に見ると相当の人気を持っていて、どでもかしこでもいい教科書だと認めるもののある証拠です。だが、あちこちで一位に抜かれてどうも二位に落ちる。少数意見というものは、ちようど現在の小選挙区のように、二位の本というものは、非常にあわれなる、ほんとうに惜敗というか、念残だ残念だという状態で落ちる。これは業界としてもわれわれ第三者から見ても、非常に気の毒で、非常に同情するのであります。あなたはいいものが勝つと言われるが、そこにもうちょっと資本力、政治力を利用すると——それを上げたいと思うので大きいスキャンダルが生まれるというのですが、そこはあなたは認められないけれども、それはかわいそうじゃないですか。その場合どうですかね。
  96. 水谷三郎

    水谷公述人 一つのブロックで一つしかとられないのでございますから、必ず二位というものはできるわけであります。二位がかわいそうなばかりでなくて、十位もかわいそうだと私は思います。そういうことで、なるべく小さく採択地区を分けていただきまして、甲のところで落ちたが丙のところで出てきたということになれば、まあ一位が全国で一位になるとは限りませんから、小さい採択地区を作っていただきますれば、二位のものも五位のものも浮び上る機会があると思うのでございます。
  97. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 これにて水谷公述人公述及びこれに対する質疑は終りました。  水谷公述人には、両法案に関する貴重な御意見を御開陳いただき、まことにありがとうございました。  これをもちまして両法案について予定されておりました公述人公述及びこれに対する質疑は全部終了いたました。  本日は五人の公述人より長時間にわたりいろいろと御意見を御開陳願ったのでございますが、これにより両法案についての問題点をより明確になし得ましたことは、委員会における今後の審査に多大の参考となるものと存ずる次第でありまして、ここに厚くお礼申し上げます。  それでは以上をもちまして両法案についての文教委員会公聴会を終ることにいたします。  これにて散会いたします。    午後五時五十七分散会