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高山公述人 私は
日本大学及び
神奈川大学教授の
高山であります。
結論を最初に申し上げますると私は
政府案に賛成でございます。次に少しくその理由を申し上げることにいたします。
教科書と申しますものは実は本来はつまらぬものであります。しかしまた一面から申しますると実に重要なものになるのであります。大学の学問
研究の場におきましては実はほとんど
教科書というものを使いません。たとえば哲学でありまするならばプラトン、アリストテレスとかカント、ヘーゲルというふうな人の本を
教科書に代用いたしているのであります。これには深い理由があるのでありまして、要するに学問の
研究の場であるという場合には
研究する者もあるいは学生も相当高い程度にありまするから、そういう一般的な
教科書というものは必要がないわけであります。つまり一種の学問上のアリストクラシーの立場に立つのであります。ところが小
学校、中
学校の
義務教育なりあるいは
高等学校程度の
学校になりますると、話が全然違ってくるのでありまして、この場合には大体平均的なことを前提にいたさなければならぬのであります。つまり
教員なり生徒なりが特定の優秀な者である、あるいはさらに学問
研究の場であるというのとは性格が違いまするから、ここに一般的な
基準あるいはひな型的な模範を示すものとして
教科書というものが非常に必要となってくるわけでありまして、つまりこの場合にはアリストクラティックじゃなくしてデモクラティックであるという水準性、平均性がものを言ってくるわけであります。でありまするから、そういう
学校においても、先生に特殊なすぐれた
教育的天才がございまするならば、あえて
教科書というふうなものを重んずる必要はないのでありまするけれ
ども、これはデモクラシーの理念とそむくことになりまするので、やはり一般的水準というものをその前提といたして
教育するということがどうしても当然のことになるのであります。そこで一体そういう下級の
学校におきましてどういう
教科書が
教科書として適格であるか、あるいは適格な
教科書の中でどういう性格のものが優秀であるか、こういう問題が出てくるのであります。
その条件分析をごく簡単に申し上げてみまするならば、これは何といいましても第一には
教育的観点に立つということが最大の重要な点であります。言いかえますと決して学究的ないし学問的観点に立つものではないということであります。学問の上からならばいかに優秀な本でありましても、これが
教科書としては不適格だということが幾らもあり得るのであります。
教科書として不適格であるといって、学問上これがすぐれているということを否定することには断じてならないのでありまして、ここに観点の相違から価値の相違がおのずから出てくるのであります。次には、そういう
教科書は従って新説とかあるいは奇矯なる説とか少数説というものはとるべからざるものでありまして、
教科書の立場からいたしまするならば、中正穏健な一般に通用いたしますような説を取り上げるというのが当然のことになるのであります。つまり偉大なる平凡が
教科書というものの生命でありまして、非凡であることがかえって
教科書というものの欠陥になるのであります。さらにはノーマルな少年なり児童なりの精神発達に害があることが避けられなければならぬことは、これは申すまでもないことであります。たとたばいかにチャタレー夫人が文芸作品として上乗のものでありましても、これを
教科書の中に採用するということは良識として必ず避けられるはずであります。それとちょうど同じように・マルクス、エンゲルスの共産党宣言であるとか、あるいはレーニン、スターリンの著書であるとか、さらにはヒトラー、ムソリーニの著書を
教科書として採用する、あるいはその部分を入れるということは、良識ある国民はどこでもやっていないだろうと思うのであります。
そこで第二に重要な条件といたしまして、イデオロギーに対して
中立であるということが、
教科書というものには、
教育学的観点からもまた当然要求せられるものであります。イデオロギーから自由である、こういうことがやはり
教科書の重要な生命になるわけであります。でありまするから、以上の事柄からいたしまして、
教科書というものができますには、
教育的な観点から相当制限なり制約なりというものを受ける、あるいはみずから課してくるというのは当然の話でありまして、もし
教科書というもののそういう
教育学的観点からいたします自己制限というものが、言論の自由を棄損するとか、あるいは学問の
研究を弾圧するとか申しまするならば、これはおよそ
教育というもの、あるいは特に
教科書というものの性格を知らざる論でありまして、とほうもない非常識な議論となるのであります。
そこでちょっと
教育に対する
統制ということについて一言申し上げますると、およそ文化国家ないし近代国家でありまする上は、
教育を盛んならしめるために国家が尽力するというのは、これまたきわめて当然のことであります。もしそういう働きを国家がいたさぬ場合には猛然として国民がこれに
反対いたすわけでありまして、事実
教育に尽力しない国家がありまするならば、これは近代以前のきわめて野蛮な国家であると申すよりほかないわけであります。では国家が
教育を育成する、
教育の指興に尽力するという場合にいかなることが目ざされているかと申しまするならば、申すまでもなく広い意味での
教育の環境なり条件なり、つまり
教育が成功いたしますための環境、条件を整備するということに一言でいえば尽きるのであります。だから正当な環境、条件を
作成していく、もし不当なる環境、条件が発生いたしますならばこれを除去することが国家の重大な使命になるわけでありまして、育成もしないし、あるいは逆に育成を阻害する勢力が出てきた場合にも、放置しておくというならば、これはまことに野蛮な国家であるか、あるいはアナーキな状態であると申すよりほかないのであります。
ただこのことは、申すまでもなく
教育の
内容面に出たって国家が干渉するということとは質の全く違った事柄でありまして、国家が環境、条件を整備するということは、
教育内容に政党色を入れるとか帯ばしめるということでないことは、これは申すまでもないのであります。これが
教育中立性ということが重大なゆえんでありまするが、とにかく国家の
教育に対する関与の面が実は環境の整備という点にある、それと
教育内容に対する
関係というものは質的に違っているという点は区別を要する点であります。混同を許さない事柄であります。実は
教育中立性というものはデモクラシー国家のみの特徴でありまして、全体主義国家におきましては、それが左翼の全体主義であろうとあるいは右の全体主義であろうと、全然
中立というものはなく、存在する余地はないのであります。つまり一党一派のイデオロギーによって環境、条件を整備すると同時に、また
内容も思想的に
統制する、これがわれわれがこの二十年この方見てきていた事実であります。そういう意味合いからいたしまして、国家が環境、条件を整備するという政治上の働きないし環境、条件を阻害する力を排除するというふうなことをいたしますことが、直ちに
教育内容にわたって干渉を加える、
中立性を棄損するという工合に申しまするならば、これまたはなはだ奇矯な誇張ないし奇妙な詭弁でありまして、この間にはっきりした区別を、
——決してアナーキ状態が国家としてとるべきものでないということは、われわれの注意を要する点であろうと思うのであります。
それからさらに
統制といいます場合に、多くは官僚
統制あるいは
国家統制という工合なものが注意せられまして、しからざる
統制というものが行われ得る可能性がある、また現に各国において行われつつあるという事実が、多く見のがされておるようであります。実は何も国家の官僚による
統制だけでなくして、あるいは資本主義的な
統制もありましょう、商業主義的な
統制もございます。これがジャーナリズムを通じ、あるいはラジオを通じて行われる場合もあれば、さらに集団の力によって、特には組合の力によって思想
統制を隠然と行うということも、このマス・コミュニケーションの発達いたしました現代においては、いと容易に行われ、また現に行われておるのであります。この第二の方面の
統制というものを、故意か無意識か無視するということは、今日の世界情勢から申しまして絶対に許されないわれわれの注意すべき点でありまして、もし
統制というものがいかぬといたしまするならば、
国家統制、官僚
統制のみならず、こういういわば民間による
統制というものも
教育から排除する必要があるのであります。戦前には御
承知のように
文部省に教学局があり、さらに付属
機関として
日本精神文化
研究所があり、そこに御用学者がたくさんおりまして戦前、戦時の教学
統制をやったわけでありまするが、それにかわるようないわば民間
文部省というふうなものの宣伝局なり御用学者が出ていないか、こういう点をわれわれは考えてみる必要があるのでありまして、正直に申せば、相当遺憾な点が戦後の
日本にあるのじゃなかろうかと私は思っております。そういう意味で実は単に
国家統制だけが憂うべきものではなくして、やはりそういう意味の
統制も、また
教育の中性を依存する上には排除するということが必要であり、それを念頭に置いてのやはり環境、条件整備の国家の力というものが加わることも、これまた至当のことだと思っているのであります。
そこで少しく現在の
制度のもとの
教科書が、どういうような工合になっているかという点について簡単に申し上げてみますると、私は社会科以外のことについては申し上げる知識も、ま資格もございません。この社会科にしぼって申し上げてみますると相当問題があるのでありまして、特に世間で問題になっておりますイデオロギー的な偏向性というものが、かなり多くの
教科書には見られるように思うのであります。今実情について詳しく申し上げることができませんが、たとえば多数の
教科書の中には
日本というものの個性を非常に軽視する傾向が強く見られるのであります。十九世紀のヨーロッパの理論であります一般的な発展段階説をそのままに
日本に応用しても、ヨーロッパと同じような発展を
日本もとるべきものであるというふうな理論的前提のもとに書かれているものが多いようであります。でありますから、
明治維新は民主革命が不完全であった。もし完全であったならば、今日のような悲運に
日本が陥るようなことがなかったというような調子でありまして、
日本というもののユニークな個性というものを明らかにするという傾向が非常に少いのであります。あるいはさらに
日本の過去をいたずらに暗黒化するという傾向も相当多くの
教科書に見られる事実であります。何と申しますか、封建時代の
日本などでは年がら年じゅう切り捨てごめんが行われていたかのような印象を子供に与える文章が相当見られるのであります。戦前の
日本は封建的であった、
日本は軍国主義であるというような調子で非常に誇張した書き方が多いのもかなり大きい特徴であります。でありまするから私らが読みまするならば、どうして祖国に対する愛情なりあるいは憂いなりが生ずるかが理解できないのであります。つまり少年を絶望に追いやる傾向のものがはなはだ多いのであります。あるいは大衆というものが歴史を作るというふうな調子から、英雄史観を排斥する傾向がかなり多いのでありますが、これまたけっこうでありまするけれ
ども、しかしそういう調子の
教科書が今度は突如として百姓一揆の統領とか反戦平和主義者のみが英雄扱いを受けるというような奇妙な行き方がとられている傾向も見られるのであります。その他いろいろあるのでありますが、私は現在の社会科
教科書、あるいは特に歴史などにつきましても、歴史の
教科書というものは修身化されていることに非常に疑問を持つものであります。一方では科学的に歴史を書くのだ、こういう趣旨や標榜をいたしているにかかわらずいたずらに歴史というものを評価し審判いたしておるのであります。つまり勧善懲悪であります。
日本が間違ったとか
日本の発展のコースがゆがめられたというふうな文字が相当使われているようでありまして、歴史に筆誅を加える、道徳的立場から審判を加える、こういう修身化、修身に化する現象が随所に見られるのであります。申すまでもなくこういう工合に歴史を道徳的修身にするということはこれは儒教の
考え方でありまして、
日本においては江戸時代の特徴であります。文芸の中に勧善懲悪を入れるというのが儒教の立場からの、たとえば馬琴などに見られます文芸の特徴でありまして、デモクラシーの時代に歴史にそういう修身を入れてくるというふうなアナクロニズムはとうてい私たちには理解できないのでありまするが、これがはなはだ進歩的たという
考え方が
日本の
教育学界なり思想界では行われているようであります。しかしこの封建的な社会科の修身化という現象は申すまでもなく左右の全体主義において行われている現象でありまして、現代の世界においてそういうアナクロニズム的現象はナチズムとコミニズムの特徴であります。
社会科というものが大体社会改造化という工合に、まあ革命化という工合には申されないと思いますが、社会改造化という
建前に立っていると見えまして社会問題というものをごく簡単に割り切られている。人生問題、社会問題というものがむずかしいものであるというふうな注意はほとんど一言もないようでありまして、これは二千数百年にわたって哲学者なり宗教家なりが議論をしてきましたそのむずかしい問題が
日本の社会科
教科書にかかりますと、実に簡単に解決されているのであります。私は哲学を専門といたした者でありまするが、今まで何千かの本を読んだことがばからしくなるくらいであります。ただ一冊
日本の社会科
教科書を備えておきまするならば、人生、社会の問題万般が簡単に割り切れるようであります。たとえば戦争があるのはなぜだ、戦争を欲する者がいた、これを除けば世界が平和になる
——きわめて神話的な童話的な
考え方が、これが進歩的という名のもとに
教科書にあるのでありますから、私ら哲学をやる者はまことに驚嘆いたして、その知恵の深いのに驚かざるを得ないのであります。
さらに一言非常に重大な点は、権利を重んじまして
義務というものを軽視しているという傾向が非常に多いのであります。これは新
憲法それ自体がそうでありまするけれ
ども、しかし社会公共の福祉のために個人の権利の行使に対して相当制限、抑制を加うべきである。そういう倫理的な
義務というものをば社会科が説かない。説いても非常にこれが少いということはおそるべきことじゃなかろうかと思うのです。単におそるべきというだけには尽きないのでありまして、申すまでもなくこれは社会主義以前の思想であります。自由放任、自由主義の結果生じた社会悪をば是正しようというところに社会主義のいろんな主張が発生いたしましたことは御
承知の通りであります。従って社会主義の実現というものが単に野放図な権利の行使、自由放任じゃなくして、そこに当然公共のための
義務が重んぜられることは申すまでもないことであります。ところがそういう社会主義の発生するはるか古い時代の思想に立ちまして、
教科書というものは権利一点張りの主張をしている傾向が強いのでありまして、一方では非常に進歩的なつもりでありながら、時代おくれの百年以前の主張に立って、社会主義的な立場を身につけて
教科書を書くというふうな傾向が少くないことは、私にはまた非常に理解できがたい点であります。
実はこういう
教科書といたしまして、現在の水準から見まして品位も品格もはなはだ低い、現代の思想水準から見てはお話にもならぬという恥かしいしろものが堂々と
検定の関門を通過している、フリー・パスをしていきますのはどういうものなのか。かねがね私もこれを疑問に思っていたのであります。それにはいろいろな理由があると存じます。
教科書の
基準となるものにも欠陥がございましょう。
根本は戦後の
日本の思想界の虚脱的な混乱にあることは申すまでもないことであろうと思いますが、
一つは
検定定
制度の不備にあることは何といいましても明瞭な事実であります。つまり
現行の検閲
制度のもとではこういう恥かしいアナクロニズム的なものをば阻止しようといたしましてもできないようにしかけがなっているのであります。そこからいたしましてどうしてもここに専門
——と申しまするのは、
教員をやりながら片手間にやるという兼摂でなくて、専門の、専属の調査員というものが必要であるということは私もつくづく最近感じた次第であります。
検定審議会というものを何らか拡充強化するということは、何といたしましても必要であるというのがやはり私の実感でございまして、もしここに片手間に
審査をやるというふうな組織でありますならば、きわめてお粗末のものになって、やはり現在の欠陥というものは防ぎ得ないように思うのであります。そういう意味で実は
政府案は拝見いたしたのでありますが、いろいろの今日までの
経験をよく反省して苦心しているところが見えるように存じます。常設の
教科書研究施設を置くというふうな点にいたしましても、さらに
教師用に不適切のものがあった場合、
文部大臣が勧告するというような点も、あるいはまた
教科書の申請者から
説明ないし
意見を徴するというふうな点、あるいは不合格決定の理由書をやるというふうな点も、非常に私は妥当だと思うのであります。
社会党の
反対案が
提出されておるようでありますが、大体
政府案と
根本には違いはないようでありまして、
現行制度の欠陥を認めている点においては、ほぼ同じことであるように思います。ただざっと拝見いたしましたところでは、
教科書の
選定委員会というもののかわりに、
文部省外局の独立
機関として
教科委員会というものをお考えのようであります。こういうものを置くことの是非、
法律上の議論は、私のあまり興味のない点でありますが、ただこういう
機関が先ほどから申しますように、専属の専門員でない、つまり兼務いたします片手間の
仕事であるというのでは、私は少しも実質上の効果が上らないという工合に考えるものであります。そこにほんとうの専門の者が多数いて、これに常時当るというのでなければ、私は効果がないように思うのでありまして、そうなりますれば実は憂える官僚
統制というものが、どちらの面からも出てくる危険性はあるわけであります。そういう意味では
政府案にいたしましても、あるいは社会党案にいたしましても、公正妥当な常識家を
委員としてやるということが最大の大切な点であるように私は思います。
最後に、ただ
採択地区の問題で
政府案が郡市の広い地域を中心といたしますのに対して、社会党案はあくまで各
学校別にお考えのようであります。これも非常に議論のあっていい点だとは思いますが、ただ私の一言申し上げたいのは、官僚
統制とか国家の
中央集権化に
反対である、こういう立場からの、そういう思想上の理由をもっていたします
反対についてであります。
地方自治がすなわちデモクラシーである、
中央集権化の排除がすなわち民主主義であるという公式は、これは必ずしも万国に当てはまるものではございませんので、アメリカその他の特定の前提を持っている条件で成功いたすことと存じます。しかし今私の申し上げたい点は、実は
地方分権、
地方自治がデモクラシーであるということが方程式として成り立ちますのは、実はすでに過去の事柄であったということであります。つまり国民の共同性というものが、はっきり前提として国民の内部に強くあった時代の事柄でありまして、これが階級的異質性によって徐々に崩壊しました今日の段階においては、もう一度何らかの形で穏健な
中央集権的方向へもっていくということが、これはもう世界各国とも避け得られない状態になっているのであります。これこそ第二次大戦前のいわゆるデモクラシーの危機を
経験した文明国みなともに悩むところでありまして、今日そういうデモクラシーの危機、特にこれを助長いたしますものがマス・デモクラシーでありますが、それ以前の、内部に国民の共同性が前提され、対立政党も事重大な点になりますならば直ちに超党派的な行動ができましたような時代を念頭に置いて、そうしてデモクラシーというものは
地方分権だということは、私はとらない。むしろ階級的な異質性を越えた新しい国民共同性を盛り立てていくというのがデモクラシーの危機を
経験しました今日の世界的な課題でありますから、すでにリベラル・デモクラシーの立場に立ちますようなデモクラシーはすなわち
地方分権である、
地方自治の強化である、こういう旧思想の上にもし考えられるとするならば、私は実は賛成できないのでありまして、やはり
日本の特殊な事情から考えまして、相当広域で
教科書というものが使われることこそ、今日かえって
日本の国民共同性を再建するためにも役に立つのではないか、こういう
考え方をいたしているのであります。
以上のような理由によりまして、私は
政府案に賛成でございます。