運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1956-05-19 第24回国会 衆議院 文教委員会 第42号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十一年五月十九日(土曜日)    午後一時四十八分開議  出席委員    委員長 佐藤觀次郎君    理事 加藤 精三君 理事 高村 坂彦君    理事 坂田 道太君 理事 米田 吉盛君    理事 辻原 弘市君 理事 山崎 始男君       伊東 岩男君    伊藤 郷一君       久野 忠治君    杉浦 武雄君       並木 芳雄君    町村 金五君       山口 好一君    河野  正君       小牧 次生君    小松  幹君       高津 正道君    平田 ヒデ君       小林 信一君  出席国務大臣         文 部 大 臣 清瀬 一郎君  出席政府委員         文部事務官         (初等中等教育         局長)     緒方 信一君  委員外出席者         文部事務官         (大臣官房総務         参事官)    斎藤  正君         文部事務官         (初等中等教育         局教科書課長) 安達 健二君         専  門  員 石井つとむ君     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  教科書法案内閣提出第一二一号)     ―――――――――――――
  2. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 これより会議を開きます。  内閣提出教科書法案及び議員提出教科書法案一括議題とし、前会に引き続き質疑を行います。小松幹君。
  3. 小松幹

    小松委員 私はめったにこの文教委員会には出て参りませんが、教科書法案が今日の情勢で、しかも強引に与党、政府の方から出て参っておるということを承わりまして、つぶさにその内情も検討いたしました。よって佐藤文教委員長にとくとお願いをして質問の時間をいただいたわけでございます。大臣から非常に懇切な御答弁をいただいておりますが、どうか腹の底から真実の、ただ政府答弁という意味でないお答えを願いたいと思っております。  教科書法案に入る前に大臣一つお尋ねをしておきたいのは、先般文化放送A級戦犯釈放第一声に立たれたときの言葉に、これは同僚議員である高津正道委員から一応は質問をされたと思います。そこで同席したという意味からも、あるいは録音構成の中におって同調されたという意味から、どういう心持ち、心理であったかということをお尋ねしたいのです。特にA級戦犯でかつて文部大臣をされて陸軍大将であった荒木貞夫氏が、われわれは出獄後逆コースを組織的に推進するのだ、その例としてジャングルに入って道を迷ったときに、道を開くのには一度元来た道を逆コースをとっていくことが一番いいんだということを言われておる。あなたは何年か後の文部大臣であり、先輩である荒木貞夫文部大臣敗戦後の日本に再びこの言葉を吐いたということは何か暗示するものがあると思う。このことについて現在の文部大臣であるあなたの所感を承わりたいのです。
  4. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 このことをお答えいたします前に、あの放送の性質をちょっとあらかじめ申し上げておきたいのであります。あれは一つの部屋に荒木なりあるいは橋本なり私なりがおってやった座談会式のものではございません。別々に訪問をして得た録音テープをはさみで切って継ぎ合せたものです。それで荒木さんが何を言われたか私は少しも知らないのです。その後あの録音を謄写版で刷ったものを手にしまして、初めて荒木さんの言葉を知りました。私は荒木さんとは社会観教育に関する観念は一にいたしておりません。荒木さんはもとの教育勅語を主とした教育を礼讃しておられるようでありますが、私はそうは思っておらぬのであります。すなわちこの録音構成のことを一つ申し上げたい。それからもう一つは私の言うたことで二つ御注意願いたいのです。言うたこと全部を書かないであと先を切っております。それゆえに用を足しておらぬのです。もう一つは切ったほかに問いを変えておるのです。別の問いにして私の答えを書いております。そういうふうなものであることを御承知下さいまして、今の元荒木大将の言ったことをどう考えるかというので、今も半ば申し上げましたが、荒木さんの社会観と私とは違っております。しかしながら最後に私の言葉のうちにこれらの人は有力な人でまだ命が残っておる以上は、国のためにお尽しになるということは妨げるものではない。力の強い人、有力な人、たとえば、ものにたとえれば、下関の方に行くのに早い機関車は、青森の方へ向けてもやはり同じ力が出るのだから、これらの人を差別することはよくない。憲法十四条の信条、性別、経歴によって区別されないというあの規定を心の中に置いて、私答えたつもりでございます。
  5. 小松幹

    小松委員 私も大臣の言われた意見の切れ端かもしれませんけれども、記録を読みまして今あなたが答弁なさった意味のことはある程度納得しました。いわゆる戦犯でろうが、逆コースの人間であろうが、それを決定的に否定するということはしないという大臣のお言葉ならば、それはそれでいいと思う、しかしながら私はそれだけならば、これはだれでも私は言い得る言葉であろうと思う。少くとも今日の憲法下において、われわれが基本的人権なり生くる権利なり、もの言う権利なり、思考する天与の権利を否定する何ものもないということは当然過ぎることなんです。ところがあなたは一国の文教行政責任者として、少くとも日本文教行政のいくべき道に立っておる最高の人である。かように考えたならば、私はこの席に出たとしても、ただA級戦犯人たちが言っておることに対して単なるその思考が、あなたの言葉を聞けば東洋制覇をして解放しようという考えであったのですから、その意味では当時聖戦と名づけたのです。当時の軍人諸君がこういう考えを持っておったことは当然であると、あなたは軍人の持っていた聖戦なる気持を肯定しておる。そこまではよいとしましても、それだけに話をとどめたのでは私は文教行政責任者としては片手落ちだと思う。たとえばあなたは弁護士でございます。殺人を犯したときに、殺人を犯したというその人が死んだという現実に対して、これはいわく因縁があって原因がいろいろあったのだ、複雑なる家庭事情があったのだ、だからといってその原因に対してこの殺人は白だということはできないと思う。情状酌量してみるということはいえると思う。こういう意味から考えるならば、私はもう少し今次の戦争というものの犠牲と日本の犯した戦争への反省というものの上に立ったならば、私は軍人が抱いておったところの聖戦なるものの考え方、頭脳が結果としてどういうものを導き出したかということを静かに反省してみる必要があると思う。その点について舌足らずかもしれませんけれども、あえて原因だけをほめてその結果に対して批判もしなければ、あなたは聖戦というものに同調しておるといわなければならない。こういうように私は私なりに判断したのでありますが、あなたはあくまでも職業軍人が抱いておったところの東洋を解放するのだ、大東亜共栄圏を確立するのだという聖戦という美名のみをもって全部を支配しようとするこの戦争概念、これで貫こうと考えておられるかどうか、その点をお伺いしたい。
  6. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 あなたは録音構成A級戦犯」というのをお持ちでしょうか。
  7. 小松幹

    小松委員 私は「マイクの広場」という記録を持っておるわけです。
  8. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 小松さんに御了解を得なければならぬことは、これは第二段から始まっておるのです。ここまでに非常に大きな省略があるのです。私のところに来たのは、私が東条弁護人であったからといってその感想を聞きに来ました。その前に、感想としてあの当時からすでに十年になって、私の相手をしたキーナンも死んでしまったということが書いてあります。その次に私が私の弁護をした東条そのほか七被告が処刑されて死に、平沼さんもおかくれになり、東郷さんも死にました。松岡も死んだのですが、松岡は私は飛ばしております。東郷さんもおなくなりになり、感慨無量でございます。こういうことを言って、東条はどういう考えを持っておったか、あの戦争をどう思うかという問いがありまして、東条国民に対しては非常に相済まぬことをした。これは東条の歌があるのです。「千々に裂くともいとはじな」八つ裂きになってもかまわぬという歌があります。しかしながらアメリカに対しては自衛権を持っておるという主張を彼は持っておった。こういう主張をしましたら、自衛権だけじゃないかという反論があったそうです。初まりは自衛権であったけれども、一たん戦端を開いた以上は、大東亜共栄圏、すなわち白人東洋制覇を解放して大東亜共栄圏を作ろうと東条がしておったんだ、そういう戦争を遂行するのであるから、総理大臣であり、参謀総長東条聖戦と言ったんで、その下に戦争をしておったものは、あの当時はこれを聖戦と思ったのは、これは無理からぬ、こういうことを言ったのです。これも少し言い過ぎかわかりませんが、その意味で、当時――当時という文字が必要です。「当時聖戦と名づけたんです。当時の軍人諸君がその考えを持っておられた」――過去形を使うております。「持っておられたということは了とすべきであります。」すなわちそのときにそういう考えを、橋本にしろ、荒木にしろ、その戦争をそうだといってしておるのだから、当時持っておったということは、過去のことじゃが、とがむるに足らぬことだ、そこで今残っておる以上は、むろんそういう考えを持っておって、今の目から見れば誤まっておるけれども、当時持ったということをいついつまでも責めて、政界で働くな、こういうことを言ってはならぬ、こういう意味で言っておるのであります。あと先が抜けておりますから、私も大へんこれは残念に思っておるのです。
  9. 小松幹

    小松委員 そうした大臣の、いわゆるこういうA級戦犯釈放後の第一声考えの今日のズレと、いまだに戦争への指導者であった自分たちの謙虚な反省というものを持たないこれらの人に対して、おそらく知性と現在の政治情勢社会情勢を熟知しておる大臣が同調なさることはよもやないと思っておったわけでありますが、今のことを聞いてやや違っておるということを確認いたしました。  そこで、私はこのことを一応別な議題といたしまして、本論の教科書問題に入って参ろうと思いますが、やはりこれは前提意識ですから、大臣、悪く思わないでいただきたい。どうも大臣は、明治時代の頭に固執して、お年のせいかもしれないが、一つ考え思惟というものに固着しておる。俗な言葉で言えば、融通がきかな過ぎてどこかがんこ一徹だという感じを持っておるわけです。そう思っておるのははなはだ悪いかもしれません。これは大臣、お怒りにならぬで下さい。私はそういう感じを持っておるわけです。そこで一つ私が注文したいのは、大臣政界指導者となり、一国の文部行政を担当する任に当るならば、やはり事教育に関する以上あまり頭がこちこちであっては、特にこの教育問題というものは解決できぬのではないか。一つ思惟単純思惟はオールマイティである、こういう考え方は当らない。自分意見もあるけれども、必ずそれに反対するもう一つ意見というものもあるのである。その意見というものを十分受け入れて善処するだけの雅量と度胸とがなくてはならぬ。特に教育の問題というものは前進しなければならぬ。今日の段階で教育がとまっておるならいいけれども、世界は日進月歩である。ずんずん前進していかなければならないならば、やはりそういう融通性というものをお持ちになっていただきたいと思うのですが、この見解なり、私がきわめて粗雑な大臣観を持っておるかどうかしりませんが、その点についてまず最初に大臣所見を承わっておきたい。
  10. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 今の問いにお答えする前に、今小松さんの御発言によって、私がこの録音構成の真相をかくのごとき公けの会議で弁明することを得たのは大へんありがたいことと思っております。私はこれは非常に残念に思うておりましたが、これを公けに弁明する機会を得なかったんです。この通りに読めばこれは悪い文章です。いかにも昔の大東亜共栄圏思想を今日において私がこれを推進するといったような観念が起きまして、私の事務所内部においても議論を生じているんです。大へんありがとうございました。  それから、その次に反対意見でございまするが、私は私なりに大へんこれを尊重するつもりでおるのであります。ちょうど酔うた者が自分の酔うたことを知らない、年がいっておりながら老朽しておることを知らないでおることもあるのであります。友だちや家族に、おれの頭があまりがんこ一徹になっておるというのじゃったら忠告してくれ、いつでも政界から引退するからとまじめに言っておりまするが、まだ御健康じゃから働いて下さいと皆言うてくれるのでやっておりますが、しかし反省はしております。そういうことを言うのがはやもうちっとかたくなっておるのかもわかりませんけれども、十分に皆さんの御意見は承わります。
  11. 高津正道

    高津委員 関連してちょっと。前後の言葉があったという御弁明でありまするけれども、戦争を始めたのは自衛のためであり、そうして戦争最後は、白人東洋制覇をしておるからそれを解放するための戦争であった、このように当時の軍人諸君考えておったということはよろしいと、こういう表現でありますが……。(「よろしいじゃない」と呼ぶ者あり)それでは原文を読んでみましょう。正確でいい。「あの戦争をやったときはですね。自衛ということで起ったんです。自衛ということで起りましたが、しかしながら起った以上の結末として、白色人種東洋制覇を、これを解放しようという考えがあったんですから、その意味で当時聖戦と名づけたんです。当時の軍人諸君がその考えを持っておられたということは了とすべきであります。」そういうことをわざわざ言わなくてもいいのに、その当時の軍人の行動を正当化するためにわざわざそれを持ってくるところが、ほかの人とあなたとの違いなんですよ。今そういうように戦争の始まりをも、中途からの意味をも、そんなような意味があったということをわざわざ文部大臣録音を前にして言う必要がないんですよ。前後の文句がどうあろうとも、このような言葉文部大臣の口からマイクに向って吐くということが、私はやっぱり問題だと思います。現在の政府はあなたをちっとも除外しないでかかえておるのでありますが、こういうようなことを、東条思想を、そしてまたその軍人諸君思想を、よかったんだ、あの当時はあれでよかったんだというようなことをわざわざ文部大臣の口から今あらためて言う必要はないんです。これは大きな悪い影響があると考えますが、その点についての大臣の御所見はいかがでありましょうか。
  12. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 このテキストに書いてあるこの通りなれば私は悪影響があると思います。これを撤回さす、あるいは再びこの録音構成をやらさぬように申し込んだのでありまするが、私の意思に反してその後にまたやっております。これは非常に遺憾なことであります。しかしながら私がここに言いましたのは、あの当時は十二月八日にあの通り真珠湾攻撃があって、それから後日本国内宣伝というものは、一たん起った戦争だが、やはりオランダが今のインドネシア、ジャワ、スマトラを制圧し、イギリスが香港を制圧し、アメリカがハワイを制圧してから、この東洋白色人種制覇になっておる。これを日本にはちっとも他意はない。領土的野心はないんだ。大東亜共栄圏を作って、アメリカの圏、昔の英帝国の圏とロシアと日本世界に四つの圏ができるんだ。大東亜共栄圏を作るんだということは、たびたび政府も報道し、国内大政翼賛会というものができ、一国こぞってそれで思想を塗りつぶしておったのであります。その政府軍人として働いた軍人は、当時その思想に浸っておった。おそらくは死んだ人もそう思うて死んだと思います。弾に当ったけれども、大東亜共栄ができるんだといって死んだ人もたくさんあるのであります。でありますから、橋本君その他がその当時そう考えておったのは了とすべし、――ここにはよろしいとは書いておらない、了とすべきだ。この言葉が入るのは、当時そう思っておったからといって、今参議院候補に立ってはいかぬ、国会に出てきてはいかぬというのは無理だ。その当時はそう思っておった。実は私もその当時はそう思っておったのです。大政翼賛会に入って、大東亜共栄圏ができればいいことだなと思っておりましたよ。だけれども、それは一つのイリュージョンであった。今日本東亜共栄圏を作るなんということはだれも考えておりません。それは戦争に負けて、わが国の今日の国是は、世界文化国家を作ろうということなんです。日清日露戦争のころから大東亜戦争に敗けるまでは、日本は、少くともあるときは東アの安定といい、あるいは極東の保全勢力といい、あるいは大東亜共栄圏といって、同じような思想明治、大正ずっときたことは事実です。けれども、この敗戦の洗礼で国家は変って、今度は文化国家の建設ということが国家の目標になりました。だから今日から見れば、これは間違っておったのです。過去の一夢です。でありまするから、当時軍人諸君が、という言葉が明らかに書いてあるのです。しかし読む人がよく読んでくれませんから、このままの発表は有害なものであります。それは私は率直に認めます。けれども私どもの言うた考え、今日の私の心境はそうじゃございませんことを、高津さんもよく御了承承わりたい、かように思います。
  13. 高津正道

    高津委員 その当時の戦争日本側の解釈あるいは宣伝、そのことを今文部大臣の職にある人がわざわざ持ち出すのはどういうわけなんだ、持ち出さないでもいいじゃないか、こういう質問に対する御答弁にはなっていないようでありますが、なおまた申しますと、満州日本があのように料理するのは王道楽土を築くんだ、日韓合併朝鮮の幸福のためなんだ、こういう説明で臨むのであって、領土野心がないのだということは、いつも言う言葉でありまして、そういう名義で戦争を進めるものである、自衛のためと称して侵略をやるものである、われわれにはこういうように考えられるのであります。満州朝鮮の実例を見ても、大東亜戦争意味というものがわかるのであります。初めは自衛のため、終りは白人東洋制覇を打倒するためである、こう当時考えておったんだといって、わざわざ戦争をジャスティファイするような言葉を、過去の形でそれは了とするのだという表現を用いるにせよ、わざわざ文部大臣マイクの前でそういうことを言ったということが問題だ。それに対する御答弁にはなっていないと思います。今一度大臣の御所見を承りたいと存じます。
  14. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 それは私が自分演説会なり、座談会なりを開き、または自分で進んで新聞に投書したんであったら、今の高津さんの攻撃はその通りであります。ところが、これはある新聞社放送局の経営のものがきて、そして私に問うのです。問う以上は答えないわけにいかぬ。そこで全体がよくわかるように、当時の東条心境をずっと話して、そうしてまた当時の軍人がこういうことを考えておったんだから、政治なんぞやるべきものじゃないという意味質問があったに対して、この答えができておるんです。問う人がある以上は、あやまちなき正確な事実を答えるのが当然であります。ところが私が言ったあの人たちは前非を悔いておるんだという部分は抜いてしまうて、これを書いておらぬのです。それを御了承願いたいと思います。私は社にもそのテープがあるんじゃないかと思います。私は東条の立場をたびたび説明しております。あの人の死ぬときの歌は「身はたとえ千々に裂くともいとはじな栄える御代を落せし我は」と言って、この非常に負けた戦争をしたことを天皇陛下に対して済まぬ、国民に対して済まぬといったような歌を作り、字を書き、たびたびこれを表現しているのです。それが世の中にあまり出ておりません。そのことを言って、東条は初めに自衛だ――これは勅語にもあるのです。自衛のためやむを得ない。しかしこれは朕の志じゃないということを書いておられます。自衛だといって起したけれども、一たんやった以上は後へ引けませんから、大東亜共栄圏ということになって、国内にこれを宣伝したんで、その空気の中の軍人が、これが聖戦だと思ったのは無理からぬ。聖戦と思えばこそ命をささげているのであります。問う人があって、その答えをするということはやむを得ないのです。答えなかったらまた他の誤解を受けます。こういうことなんです。  もう一つ私言いますが、この質問者はちょっと妙なことで来ている。私に何か反動的なことを言わそうと引き出しに来ていると私は考えておったのです。そこで私はなんぼ聞いても、僕の意見は言わぬぞ、東条がどうしたという問いなら答える。僕自身の意見は言わぬ。言わぬのは言えないじゃないんで、三分や五分で僕の思うことを言うたら、非常に誤解を生ずる。君の社でせめて三十分でも一時間でも時間をくれたら、よく私の戦争観というものを言うけれども、清瀬戦争観は言わぬと言って、二度三度私は拒絶したのです。来た人の顔で私は新聞会見ということを知っておりますから、非常に注意しております。
  15. 高津正道

    高津委員 同僚諸君に時間を費して悪いですが、問う者があるから真実を語らねばならぬ。われわれ委員質問しても、そのことは言えませんという答弁をあなたはしておられる場合があるし、外交官でも他の政治家でも、手を横に振ってノー・コメントで逃げる手もあるのに、わざわざ録音にあのくせのある声、さびのある声をはめ込まぬでもいいじゃないですか。(「死んだ子の年を数えるようなことを言うな」と呼ぶ者あり)すべて事は未然に論ずる場合もあるが、今文部大臣の職にあるものが、あの戦争のときの説明をそのまま録音に入れるということが問題だ。それは悪かったとはちっとも思わないのですか。そんなことを宣伝されちゃ困りますよ。
  16. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 私は政界にあり、また文部の職にあるので、正しいことは新聞ラジオ等放送世の中に知らせるのは、いいことと思っております。今でも放送協会その他の放送機関お尋ねがあったら、必ず正しいことは放送いたします。そうして全体として私は正しく放送したつもりでありまするが、遺憾なことは、私の言うたことの一部分を切ってしまって違う問いをくっつけていることがいけないのです。それでこんなことになった。この問いは、今度の太平洋戦争戦争が中心だと思うのですがというのです。こんなことは言いはしませんよ。これはつけた問いです。ですからこれは偽造の放送なんで、非常に私は迷惑しております。これは全体として悪いのです。報道道徳というものに反している。当日直ちに私の秘書官をして、これではいかぬといって抗議を申し込みました。
  17. 小松幹

    小松委員 この問題については、大臣も深く間違いであったということを釈明されておるのでありますから、これは責任をどうということを考えておりません。  続いて教科書問題に入りたいと思います。  教科書のこういう法案が出たということの意義を、大臣提案理由にいろいろ述べておりますが、常に時の政府なり時の権力の座にあるものが、庶民大衆に与える教科書に目をやり、あるいは教科書制度というものを法律化し、あるいは与えんとするときにはいかなる考えであるかということをつくづく考えるわけであります。うそかまことか知りませんが、秦の始皇帝が、自分の絶対権をしこうとして、自分反対の側の書物を焼いたという例があります。私はわざと近く徳川時代の、封建時代をとってみますが、徳川時代の学問というものは、三代将軍のときごろから朱子学という一つの漢学に固定されてきた。ところが一般庶民の間には往来ものがはびこった。いわゆる商売往来とか、何とか往来というものが出た。そこで庶民経済力庶民のそうした民主的な意見も出ようし、素養も上ろうし、あるいはレジスタンスの気持も上ってくる。そこに目をつけて八代将軍吉宗室鴻巣に命じて六諭衍義五常和解というような書物をわざと寺小屋に配布したという、この徳川封建時代教科書問題があるわけです。明治になってからも明治十九年の時の文部大臣森有礼が自由民権思想と海外思想の普及に一つのレジスタンスを感じたかもしれませんけれども、教科書検定制度を打ち出してきた。私があえてこういう例を引いたというのは、時の権力におもねり、政治の座にある者が、庶民大衆に与える教科書、持ちもの、読みものを考えるときには、必ずそこに政治的な一つ観念がある、伏線があるという歴史的な事実に対して、今日教科書法案清瀬文部大臣によって提案され、しかも強引にやられておるところに、歴史のページの上から全く問題があるとして、特殊なケースとして見ることができる。ありきたりの政治権力者と同じ考えの上に立っておられる考えかどうかということを静かに考えておるわけです。こういう観点から大臣に伺いますが、このたび教科書法案を出して教科書の問題に手をつけたその魂胆、心事あるいはお考えの中には――あなたが政党政治の多数の上に立って庶民教育をどういうふうに持っていくかという考え方について、私が引いた既往の例に基いてこれとは違うというならば、違うのでもいいからそこの心事を承わりたい。
  18. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 まことに行届いた御質問であります。私は古来の政治家が失敗いたしているように、教科書を自己の権力で作ってこれを国民にしい、思想の統制をやろうという考えは持っておりませんです。自分のことを申してはなはだ恐縮でありますが、私はいわゆる自由主義者であります。すべての思想を自由にしようというのが根本の私の哲学であります。それゆえに教科書の国定は考えておりませんです。なるべく国民の自由なる選択を尊重したいということであります。ただ戦後特殊な事情でわが国の教科書にはいろいろ欠点があったことは、過般衆議院の行政監察特別委員会においても証明されたところであります。また内閣で教科書に対する世論調査をやりました結果が現われておりますが、それでも教科書の改正を望んでおるのであります。そこで中央教育審議会に私の前任者が諮問されまして、いわゆる中教審案なるものが、私就任してから間もなく出てきたのであります。これを尊重して、分量的には言えませんが九割以上これを尊重いたしましてこの案を作ったのであります。この案はやはり文部大臣責任において検定制度はとっておりますけれども、検定審議会の議を尊重して、検定審議会なるものが政府の権力には遠慮しないで自由に検定されたものを検定教科書とする。しからばそれをどう採用するかといえば、政府から選ぶのではなくて、地方で自主的に選ばれました教科書選定会議なるものができて、それを都道府県の委員会が採用するというのであって、国の権力で教科書の内容をきめたり、いわゆる国定をやったり、国の直接の権力で検定するということはいたしておりませんです。これらの点は、小松さん御所属の社会党の教科書法案がここにきておりますが、これも大体同じようなことなんです。(「違うぞ」と呼ぶ者あり)ただ社会党と違いますのは、教科委員会といって別の委員会をこしらえてそこに責任を持たされております。私の方は文部大臣責任、これが二つ違う考えなんです。社会党の御案も私は傾聴すべき点は多々あろうと思います。ただしかしわが国のような議院内閣制度をとった国においては、最終は国会の監督を受ける、すなわち内閣の責任者責任をとる、これは捨つべからざる点であると思いまして、さようにいたしておるのであります。イギリスの教育制度においても、一九四四年までは日本の教科委員会とでもいうべきボード・オブ・エデュケーションという委員会で、委員会議長が文部大臣の役をしております。大体あなた方の組織と似ているのです。その後イギリスのような自由主義国であっても、バトラー法ではミニスター・オブ・エデュケーションというものを置くことになりました。文部大臣自分でやりはしないけれども、審議会でやってもらうのでありますけれども、責任は閣僚の一人がとる。これは捨てておりませんです。そのほかのところは大へんよく似ている案であります。
  19. 小松幹

    小松委員 私はそういうことをお尋ねしたわけじゃなかったのですが、まあそれは後の答弁にも関係しますからいいですが、私の用いておるのは――あなたはこう言っているのです。事務当局が審議会から答申されたから――あり来たりの事務処理の上でこれを出したのだというような言い方をされておるのです。そうならば、今までも私が例をあげましたけれども、過去の少くとも明治以後の日本の検定制度の上に現われた、時の文部大臣なりが教科書問題に手をつけた例は多々あります。明治十三年の河野敏鎌の小学校令から十九年の改訂からいろいろありますけれども、あなたの言われるケースはこれらのいわゆる歴史的なケースとは全然違っておるということをはっきり御答弁なさっておるのかどうか。それを伺っておる。
  20. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 私が今回りくどく言いましたのは、あなたのお問いに対してやはり民意は尊重する組み立てだということを具体的に申したのと、それから民意を尊重するということはあなた方の党派とあまり違いはないのだということを弁明のつもりでくっつけておるのであります。今回の案も明治以来の変化をたずねてみれば、今あなたが簡単に御指摘下さった通り、まず教科書の制度ができました明治十九年から三十五年までは大体検定の傾向でやっております。検定でやってみると明治三十五年にあんな大事件が起りましたから、この事件を契機として国定にやったのであります。国定も戦争中、さっきも問題になりましたが、国家主義が盛んになって学校を国民学校と名づけ、国定がますます厳重になりましたが、敗戦の結果一時地理、歴史、修身は教科書が一年ほどの間なくなったことがあるのです。そこでまだ占領最中でありしましたが、アメリカの占領下において再び検定制度を復活いたしました。この検定には、あるいは機構において幾分疎であったのか、教科書にいろんな間違いがあることが指摘されまして、それを一々わが党においても検討しました。そこでこの歴史の変化からいって、やはり検定制度が一番いい。国定に戻すことはよくない。検定に戻す以上はたくさんの人が検定する。今度は四十五人も審査官を置きますから、共通した基準のためにいずれ検定基準というものをつけて、そこで検定をやるということになろうと思います。その検定基準はなるべくは数の少い疎なることを私は予定しておるのであります。これは検定審議会で一番初めの仕事としてやって下さることだろうと思います。こういうことで歴史上の立場としては、非常に新案を考えたのじゃありませんけれども、明治三十五年の大失敗で検定が国定になったように、今度戦後のこれを機として正しい検定制度を作っていこう、こういう法律でございます。
  21. 小松幹

    小松委員 あなたは国定にしないとこうおっしゃる。私はおそらくその通りだと思うのです。先般の質疑の中でも野原君よりは、これは国定への伏線だということも言いましたけれども、私は資本主義社会のこうした機構の中において一つの出版業、発行業というものは、資本というものの土台におるなら、特殊な一つの盛り上る政治形態、ファシズムの傾向か何かが起らない限りは、国定には移行しないと考えておるのです。おそらくこれはやりこなさぬだろう、国定に持っていくのにな容易ならぬことだろうということを私は知っておる。しかしながら、だから国定への移行ができない、検定だからいいんだということを率直に言えない。というのは検定制度だからいいということは、国定よりもそれはいい。けれども検定の中にも国家権力を導入するすきなり大きなパイプが導入されておるのだということを言いたいわけです。その例としては、三十五年から三十七年にいわゆる教科書事件が起って国定になった。そのときの政治情勢というものは、明治三十七、八年戦役という大きな戦いを推進していくところの力のバック・アップがあったために国定に一気に行くことができたけれども、平穏なときにはなかなかそう一気にはいけない。とするならば、私はやはり森大臣明治十九年ごろの検定への移行というものが、今日の清瀬文部大臣の検定制度とよく似合っていると私は考えるのです。それならばあの明治十九年の検定制度は明らかに検定制度なのです。ところがその検定制度の教科書制度の中にも多くの文部省の権限、いわゆるパイプがぶち込まれて、自由民権思想も押えて、そのときから修身の教科書はずっと変えられてきておるわけです。修身の教科書の内容に一番はっきり出てきておるこの考え方からすれば、あなたと森文部大臣とは年令的にも時代的にも違うけれども、考え方の基準は同じではないかと疑われる節もあるわけなのです。(「とんでもない」と呼ぶ者あり)とんでもないという御意見もございます。なるほど今から何十年も前の森有礼のいわゆる検定制度を打ち出した考え方とは似ても似つかないかもしれませんけれども、具体的にここに出てきた教科書法案なるものを見たときに、何と文部省の権限の拡大強化が検定制度の裏に流されておるかと考えたときに、これがあなたの頭脳いかんでは、森文部大臣以上の国家統制を検定制度の中にやり得るということを考えたときに、あなたは森文部大臣と思考的にも考え方の上にも、具体的に出されたこの教科書法案の一体どこが違うかを指摘して一つ釈明願いたい。
  22. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 明治十九年に教科書検定条例が発布されて自来二十数年間も検定が行われました。しかしこの当時は日本教育は法律ではなくことごとく勅令でやっておりました。それからもう一つはその数年後に出たのがあの教育勅語でございます。一方日本の社会制度はドイツ流の国家思想が導入されておるのであります。こういうエレメントが三つも四つも重なりましてあの当時の教科書が一方においては国家主義を鼓吹し、他方においてはあなたの御引用になる朱子学の哲学から出たあの服従道徳が鼓吹されたことは、これは検定制度一つから来たのじゃなくて、さようなる社会情勢が集まってあの検定教科書ができたのでございます。今度は戦後はどういうことになったかというと、戦後の新教育はこれと反しまして、人間の個性を尊重する、個人の価値を尊重するということが新教育の根本になっております。学校の教授法も、昔のヘルバルト教授法と違って、詰め込みと違って、自発的の練習で引き出すという、そういう新空気になりました。新教育になりました。社会情勢はどうかというと、民主主義が謳歌される時代でございます。新憲法においても、一番変ったのは基本人権ということなんです。昔は個人の人権を法律で与えられ、これが権利者であると思った。今はそうじゃない。人は生まれながらにして自由なり、個人に主権がある。この自由権の一部分を国家に出した。これを除いては他人に譲渡すべからず、英語ではインエーリアナブル、捨てんと欲しても捨て得べからざる基本人権があるという哲学の上に今日の社会が築かれておるのであります。今日のこの社会を森有礼の社会に出すということは、没せざる日を扇をもって招くと同じことで、不可能なことであります。私はやはり今日の検定制度は、この時代に照応したものとなろうと思います。検定の責任は、なるほど形式上は文部大臣でありまするけれども、八十人の審議会委員を作るのでありますので、この委員の選定が大へんなことです。この人選を誤まりましたら、進運をはばむことになりますから、もしこの案が両院を通過して法律になりましたら、まず第一にりっぱな、民間の人が承認する八十人の審査委員を設けたいと思います。また学者も教育家も、教科書審査委員になるということを最上の名誉にするくらいな空気を作っていきたい。そうしていい教科書を作りたい。教科書がいいか悪いかは、これからのゼネレーション、次の時代の日本国民を決定するものでありますから、これは非常に大切な案と思っております。ただ私の力の及ばざることを恥じております。
  23. 小松幹

    小松委員 教科書というものが、次の時代の日本の子供なり青少年の力になるものであるというそのお考え、その通りと思います。だから私どもも重要視しておるわけなんですが、私は何も今から何十年前の、明治十九年にあなたを引き戻して考えておるわけじゃない。そのときの政治情勢から考えて、いわゆる教科用図書教育令なるものが出たときの大臣の心持と、いわゆる今日教科書法案を出したあなたの気持とは、政治権力を導入しようとする考え方において同じものがひそんでおるのではないかということを尋ねたのであります。もちろんそのときはヘルバルト一点張りであり、その後にはデューイの教育学が生まれて、今日は基本的人権、個性の教育になっておる。この教育法の、いわゆる哲学の変更とともに教育学の変更なり、教育技術の変更ということは、日進月歩違ってきておる。しかしながら政治教科書を扱うということは、秦の始皇帝のときでも今日でも同じなんです。数千年前でも百年前でも、今日でも、政治教科書に当るということは同じことなんです。森有礼が十九年に検定制度を打ち立てたときは、大きく自由民権思想を弾圧するという、そうして教科書を通じて国家統制をやろうとする、この考え方に立っておったとするならば、政治家であるあなたが、教科書法案に目をつけて強引にやろうとするという魂胆の中には、こうしたものがひそんでおるか、ひそんでいないかということを、真正面に政治家としてのあなたに聞いておるわけなんです。ただ教育学や教授法がどう変ったという末梢的なものを聞いておるわけではないのです。その点は歴史は繰り返すという、あるいは歴史に出てくるものは違ってくるかもしれないけれども、そのメンタリティは変らないということも言い得るわけなんです。この点について大臣の所感を伺いたい。
  24. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 私は政府の力、政治の力で教科書の内容に影響を及ぼそうという考えは毛頭ございません。現に八十人もの政府と関係なき独立の教科書審議会を作るのでございます。しかしながら責任をとらなければなりませんから、そこで選定されたものは検定の結果を尊重して、私はそれを承認しますけれども、私はその席へ出てくちばしを出そうとは思っておりません。独立の見地で八十人もの選定審議会の委員さんが良心的に御選定下さることを期待いたしておるのであります。また今日の世の中政府教科書に口を出すなどという形跡がちょっとでもあったら、世間は許すものではございません。私は教科書の内容に政治的のことを導入しようという考えはちっとも持っておりません。どうか御安心を願いたいと思います。
  25. 小松幹

    小松委員 一応大臣の率直な御答弁でありますから、それから先はこっちの考えなりあるいは思い過ぎかもしれませんから、もう多くは申し上げませんが、今日こうした検定教科書法案が出たというのには、やはり今の政治情勢というものが考えられるとするならば、ちょうど三十七年の国定教科書へいったときの――歴史のことを繰り返しますが、そのときはいわゆる教科書のスキャンダルがあった。明治三十七年の教科書大疑獄があった。ところが昨年から行政監察委員会でいろいろ言われておるのにも、やはりそうした教科書行政の間におけるところのものがあったかなかったかは、私は行政監察委員でありませんから知りませんが、そうしたことが存したということでこうしたものが出たとするならば、そうした教科書の発行なりあるいは採択なり販売する経路におけるところの疑獄事件というものが、これの一つのデッチ上げの根拠となったかどうかというようなこともまた反省されるわけなんです。だから一つは十九年の検定制度の考え方と三十七年のこの大疑獄によって一気に国定に持っていくところの条件が今日一緒になって出てきたような気がするわけです。その点について大臣はどうお考えになってこの法案をお出しになったかということ。
  26. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 今小松さん御指摘の通り歴史は繰り返すと申しますか、よく似た社会情勢が現われてきております。あのときは教科書疑獄-当時の出版会社の金港堂を中心とし、それから学校の校長、府県会議員、代議士も連座いたしました。皆で百何人の被告を見たと思います。今と違って当時としては非常な大疑獄で、それがために一世を衝動したのでございます。今回はさような刑事疑獄としては重大ではございませんが、教科書に何かひそむというので、公正取引委員会の通牒が出ております。公正取引委員会が通牒を出すというのは、教科書といったようなものにしてはよくよくのことであります。向うも非常に遠慮して、政府文部大臣に向って公正取引委員会が通知をするといったようなことは、これは非常に大問題と考えなければなりません。今日教科書の数は一カ年に二億三千六百万冊の教科書が出る。そこでだれが悪いという、被告は指定しておりませんけれども、教科書についてはすべての目と耳が集まりまして、国家の最高機関である国会で行政監察委員会の調査を得た。その当時は夏でありましたが、行政監察委員会は――世間も非常にこれを重視し、国会内でも大問題になりました。そういう状態のあとで出てくる、すなわち空想で出てくるのじゃなく、事件が生んだ法案であるということもよく似ております。このあやまちを再びせぬように、これらのことを十分に頭に入れまして、慎重なる前任者はこれを中央教育制度審議会、中教審にかけて、御案が出ました。これと相前後して内閣でも世論調査をしましたら、世論はすべて教科書を改訂してくれということでありましたから、それらを勘案してこの案となったのでございます。前車の轍を後車が踏まないように、第三の教科書事件がないようにいたしたいと私は考えておる次第であります。
  27. 辻原弘市

    ○辻原委員 関連して。今小松君の歴史的な教科書制度に対する発展の問題から大臣がお答えになったのでありますが、私はその点に若干ふに落ちない点があります。それは明治の時代に至って、十九年あるいは三十五年ないしは三十六年、それぞれ教科書制度が変遷を見ておるようでありますが、その中で、今小松君の提起された、明治三十五年であったと私は記憶しておりますが、いわゆる金港堂事件、これが当時一世を震駭した。教科書にからまる疑獄事件というよりも、むしろ政界、官界あるいは文化人、知識人等を網羅する、まことにおそるべき疑獄事件であったことを、われわれは歴史の上において承知をいたしておりますが、そういう経過が、この教科書の問題には過去にあった。今またそういうスキャンダル問題が、刑事事件ではないけれども、現行の制度の中に存在しておる。この金港堂事件のごとき大疑獄事件を引き起さないために、前車の轍を踏まないために、今回の教科書法案なるものを提案したんだ、こう大臣は今きめつけられた、お答えになられたわけなんです。一つ私の質問を聞いておいていただきたいと思いますが、そうでありますか。私はもう一ぺんその点を確かめておきたいと思います。その点を明瞭に承わっておきたいと思います。私は行政監察委員といたしまして、当時関係もしました。そのことを今申し上げようとは思いませんが、いろいろな背景を持って教科書法案が提案されたと思いまするが、金港堂事件のごときスキャンダル事件を再び起すまいということを大きな理由として提案されたということなれば、若干私は質問をいたさなければならぬと思うのであります。だから、そういう歴史的な過程から、再び事件を起すまいという深い配慮のもとに法案を提案した、その法案もまたそういう形において構成したということは事実でありますかどうか、承わっておきたい。
  28. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 それは事実でございます。それが唯一ではありませんが、それは事実です。これは採択から起っておることでありますから、採択の制度をきめる上においては、そのことを頭に持っております。  それからもう一つは、内容のことは検定に関すると思って、検定の規定と、発行、供給の規定と、価格と、この四つが今日の時代の要求と思いまして、採択のことの研究は、やはり疑獄事件の起らないようにしようという配慮で法を立てております。
  29. 辻原弘市

    ○辻原委員 大臣は私の質問をあらかじめ想像されて、今お答えなさったのだろうと思いますが、私が今回の法案の中で一番心配をいたしております点は、今大臣も言われた、採択の問題からこの教科書の問題が将来どのように発展していくであろうかという点であります。先ほど提起された金港堂事件なるものは、当時検定から国定へという移行期にはありましたけれども、問題は検定とか国定とかいう形よりも、起った原因は、私の知るところでは、また一般識者が指摘しておる点は、当時の採択の方法にあった。これは大臣もよく御存じでいらっしゃるだろうと思いまするが、当時の検定制度のもとにおける採択は、これは当時の社会組織の上から、都道府県一本で行われておった、こういうふうに私は理解をしております。しかもその都道府県一本の採択を行うに当っては、今度の法案に出てきている、いわゆる教科書選定協議会なるものと名称は違うけれども、ほぼその構成、内容、権限等において相ひとしいいわゆる選定委員会なるものが構成せられた。しかもその人数は今日の法案よりも若干少かったように思う。その構成を問題にしていきますと、問題が別の方向に発展いたしますので、それはさておきまして、そういうような形態の中に生まれたのがあの大疑獄事件であります。それと今の教科書制度の中で問題がある――確かにわれわれも問題なしとしないのであります。従ってそういう点については、私どもが提案をいたしました代案の中においても、相当量考慮をしておるつもりであります。しかし問題のケースが違う。たとえば大臣が今述べられた公正取引委員会の警告なるものでありますが、それは明治三十五年の金港堂によって起された疑獄事件などとは全然性格も違う。どこに採択権があるかという問題に至った営業上の問題なんです。疑獄ではございません。営業上の公正であるか不公正であるかという点について疑義があるという、いわゆる採択権の所在が法的に不備なために起っておる問題であります。あるいは駐在員等を常置して教科書会社が売り込む。しかしそれは疑獄というものではなしに、情にほだされて、まま教科書の採択が不公正になるのではないかという一つのおそれであります。それと金港堂事件とを比較してみましたならば、性格、規模また関与した者等においてはこれは大きな開きがあるのであります。問題は結局採択というものを地域を限定して、統一的に採択をやる、きわめて採択が安易に行われるようにしている組織形態、いま一つはその採択を最終的に決定する人たちが限定されておるというところにいわゆる疑獄なるもの、この人たちを射落せば、少くともこの県における教科書採択が決定せられるんだというように、問題の焦点がしぼられてきておるところに疑獄事件の発生する余地があるのであります。そういう原因のもとにあの金港堂事件が三十五年に起った。たまたま当時の風潮から、そのことに籍口いたしまして、日露戦争直前のあの軍国体制の中に一挙に国定へと持っていったというのが、私は正確な歴史的判断であると思う。ところが現在は少くも採択については法制上統一方式をとっておりません。これはそれぞれ当該学校の自由にゆだねておる。その採択を統一しよう、また選定委員会を設けて、その採択に当るものが明瞭にしかも小範囲に限定しようとするのが、今度の教科書法案なんです。だから疑獄事件を心配するならば、現行法よりもむしろ今日政府が提案しているところの政府案にあるとわれわれは非常に心配しているわけです。従って大臣が先ほど、そういうような歴史の事実があった、現在も多少そういうようなにおいがあるから、それを防ぐためにやったということには、私はどうしても承服いたしかねます。統一採択をやり、あるいは選定委員会を設けて限定すればするほど、疑獄事件はなくなると考え大臣考え方の根拠というものを、私は承わっておきたいと思います。
  30. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 人間界のことでありますから、この法案を作れば疑獄事件が一切なくなるといったようなことは、予言できませんです。そこで問題はどういうふうにすれば一番よかろうかという相対的のこととお考え願わなければならない。しかしこの問題は疑獄事件さえなかったらいいのだということじゃない。いい教科書を選定するという実質上の要求も考えてみなければなりません。この方がいいと考えながら、一方の疑獄事件ばかりをおそれておるというわけにも参りません。あなたの方のお考えは、一つの学校の校長が教員全員と相談して、学校ごとに作れ、こういうことなんですね。これも失礼だが疑獄事件を全部なくなす案ではないと考えます。一つの学校の教員、校長全部を買収することは比較的容易です。もっとも、この場合は学校だけのことですから、結果は小さいですね。けれども買収しやすいことはこの方がしやすい。そのゆえに――あなたの案に反対というのじゃありませんよ、反対はほかにあるのですけれども、今回の案は関係者が非常に広くなっております。教科書採択には、少くとも教員も校長も教育委員会の委員も、それから教育長も指導主事も議員も、そういうふうな各種のもので構成されまするし、それを最後にきめるのは都道府県の委員会であります。関係者が非常に大きくなり、その中には教育について監督する者と監督される者という反対の立場の者も入っております。明治三十五年の場合は知事さえ買収すればいけたのです。最終決定者は知事です。その下に書記官、校長というものがありますが、あのときの決定者は知事さんが第一です。今度はそれとはだいぶ違っておるのであります。その上に二十八条というものを入れまして、採択関係者などに利益の供与とか、あるいはその他組織的の利用とか、採択の公正を誤まるおそれがあったならば、これは相当の処分はできるということで、一般の刑事法のほかにこれだけのことをしておるのでありますから、さようなる事件が最小限度に制約されることを希望いたしております。疑獄事件が教科書に対して再発するということは非常に忌むべきことでありますから、いい方法があったら何でも採用するにやぶさかじゃございません。
  31. 辻原弘市

    ○辻原委員 まあ大臣のお説の通りなら心配もいらないし、まことにけっこうこの上ないということを申し上げたいのでありますけれども、しかし実際は大臣の御説明のようなことにならない場合がしばしば起ってくるのであります。それは人間のやる仕事でありますから、百パーセント問題を防止するということは不可能に近いかもわかりません。それだからこそ、その確立をできるだけ少くするための配慮というものが、われわれにとっては必要なのであります。その観点からいえば、少くとも権限を持っている者を分散しておくという形がいいのです。買収するということは、営業上成りたつという利害損得の関係なんですから、よし買収をやってということは、一つのものを売って、中古エンジンのようにそれが百何十倍にもなるというときに、初めてそれに関するいろいろな買収あるいは涜職という問題が起ってくるのであります。今のように学校単位であった方がより買収がしやすいと申されるが、これも私にはわからない。積極的に買収の意図をもって採択を一手に占めようという場合には、その行為というものは表面に現われれば処罰を受けるのですから、営業採算上よほど利益の膨大なものでなければ決意いたしません。だから普通の営業の形においてやれるような行為はおそらく買収というものは伴わない。それが普通の営業の常識をはるかに越えて、それによって何十倍、何百倍の利益があると見たときに初めて買収というものが起ってくる。そうすれば権限を持っておる者を分散しておけばおくほど、買収行為というものは起しにくい。これは大臣もおわかりだろう。範囲が狭まれば狭まるほど買収行為というものの公算、確率というものが多くなってくる。そこに問題がある。選定協議会、教育委員会、この範囲にいわゆる採択権者あるいは採択に関与する者が限定されてきている。そこに将来一つのむずかしい問題が起るのじゃないかという要素がある。しかももう一つは、少くとも今度の法案によれば、郡市ないし府県一本にして一ないし二種類の教科書というものが選定され採択され教科書会社の利益となって現われてくる。この二つの要素をもって採択行為というもの、選定行為というものを行うところに、将来現行よりも大きな疑獄事件の発生する余地をこの法案ははらんでいるということを、私は指摘せざるを得ない。その点について大臣は、提案されているのですから、起りますという答弁は申されないと思いますけれども、しかし私の申していることはきわめて常識論であります。従ってあなたの、買収あるいは忌まわしいそういう涜職事件を少くせんがために、歴史の轍を踏まないために、この法案は現行よりもよりよく作られているということの小松君に対する御答弁は、かりに私が百歩譲ってそれは相対論だといたしましても、現行とこれと相対的に考えましても、この方がよいという議論にはならぬじゃありませんか。この方が現行よりもより少くなる可能性があるというならば、私は具体的にその点を説明いただきたい。それならば私は次の問題への心配が一つ解消するのです。現行よりも買収行為、こういった忌まわしい唾棄すべき不公正採択というものが将来起り得る余地が少くなるんだという、具体的なこの法案構成上からのいわゆるロジックというものをお示しいただけば、私はこの政府提案にかかる法案一つの価値を見出せると思うが、どうでございましょうか。
  32. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 この案でウオター・プルーフといいますか、これなら違反は絶対ないという保障はできないのです。ものは比較であり、わけても人間の心がこういうことである以上は、これは相対的にごらん願いたいと思います。しかしながら現在は大体学校においてすることにはなっておりますが、一々の学校ではなかなか行えないと見えて、現在の状態では事実上やはり郡市の単位でやっているのです。それは調べたものがありまするから、もし述べてよかったならば局長より述べさせていただきます。大体今の郡市単位というこの法律で法定したのとほぼ同じになっておるのです。今法律なしに自発的にやっておるのですから違う場合もありますが、そこは大した違いはない。今度この法律では、やはり法律上発行者または登録教科書供給業者の行為を制限しております。もうすでにお調べ下さっておると思いますから読みませんけれども、第二十八条がそれであります。採択の公正を誤まらせる行為をしてはならぬ、それならばしたらどうなるかというと、登録の取り消しを受けたり何かするのでありますから、そういう悪いことをしないような予防措置をして――登録といいますとただ書くのではなくして、悪いものは登録しない拒否権があるのです。一たん登録されても悪いことをすればそれから削除されるようなことがあるのです。そういうことで、発行者とかあるいは今でいえば特約でありますか、登録教科書供給業者の行為を制限する規定を二重または三重に作っておりますから、これで相当の効果を生じますのと、それから選定権者というのは、教員と教員を監督する委員会と、すなわち立場の違うものをあわせてとっております。それから、地方委員会のみならず最後には県の委員会で最後の決定をするといって立場のやや異なるものを一緒にしておりますから、どこかを買収するとばれるということもあるのであります。そういういろいろなことをかね合いましてこういう不正が再び起らぬようにいたしておる。最後のことは何というても刑事制裁です。検察、警察であります。そういうことでありますから、現在のままでほっておくよりも、やはり規制をする方が疑獄を少くする役には立とうと思う。このほかにもっといいことがあったらどうかお知らせを願いたいのです。あなたの方では学校でありますので、全国に分散しておりますから、全国買収、一県買収はできませんけれども、学校だけの買収は非常に容易なんで、校長と教員を買収すれば一ぺんにできるのです。
  33. 辻原弘市

    ○辻原委員 この点は一般の間でも非常に問題にせられている点でありますし、おそらく与党の間でも法案作成の過程においては相当論じられたと思います。従って公式にこの種の問題が委員会で述べられたことがございませんので、特に関連ではございますがお許しをいただいて若干問題を明らかにしておきたいと思います。  今大臣は学校の買収は可能だとおっしゃいました。私はこの買収が起るか起らぬかの可能性はあくまでも架空論でありますから続けようとは思いませんけれども、しかしこれは御認識を願いたいと思うのです。往々選挙の際に買収違反行為というものが出ます。しかしその場合に買収行為をやろうとした者の相手方というものは、相当数大体地方において得票を相当量得せしめることができるであろうと考える、俗な言葉でいえばボスを対象として買収行為が行われておるのであります。そうして一票心々持っている、一票の行使力しかないであろうと予想される人々に対しては事実上の買収行為というものは起っていないのであります。私はそれと同じ論理になると思うのであります。これは学校だけの採択であります。ところが選定委員会あるいは教育委員会、こういうものを合体したものは、これは表現が適切じゃありませんけれども、非常に多くの力を持っているわけです。どこを焦点にするかといえば、多くの力を持っていて、その打ち込んだ一つの買収に要する力以上、その買収行為によって威力を発揮できるであろうと判定されるから買収行為というものが起るのです。従って学校ごとの全国買収などということは、選挙事犯と同じように、そういうことを起そうと考える可能性というものはきわめて少いと思う。これは私は断定してもいいのじゃないかと思う。例外として起り得ることはあっても、どちらに可能性があるかという相対論になるならば、私は大臣の説を肯定するわけには参りません。この点は大臣においても一つ考えを願いたいと思います。  それといま一つは、現状は大体学校単位ということにはなっておるけれども、実際は郡市単位で採択をやっておるのじゃないか、だからそれを法制化することは現在のやり方と何ら変りない、こうおっしゃったと思う。私はそこに一つの認識の誤まりがあると思う。これは私は現地において調査をしたことがございます。それはなぜかというと、今度の法案においては採択の関係者というものは、法的に少くとも都道府県の教育委員会に持たしておる。それを補助する役割として、採択の主たる関係者として選定委員会というようなものを設けておる。それから教員というものは、この間少しく論争いたしましたように、この法律の法的な根拠としては採択権は何ら与えられていない。現行法においては採択権は否定されてないがために、現実に教員の採択権、学校の採択権というものが事実上認められてくる、慣行として今日に至っておると私は考えておる。そこで今度はこの法案によれば、少くとも採択に関する事項は教員が切り離されるわけです。そして権限というものは選定委員会、それから都道府県教育委員会に集中されるという形態です。それと現在行われておる郡市での採択というものは、それではどこが違うかという問題をお考え下さったことがあるか。これは私しばしば強調いたしておりますように、足を持っておる場合であれば、ピラミッドの頂点の上において物事がやられる、これは民主主義であります。ところがそうじゃなしに、ぽっと上から任命される者によって運営される場合には、これは非民主的なやり方であります。現在の採択のやり方は、私は九州の場合と相当調査いたしましたが、確かにでき上った形は郡市で採択しているところが相当数ありました。それはどういうやり方をやっているかといえば、それぞれの学校の教員、校長、さらには教科の関係の主任、こういう人たちが研究会を構成して、その積み上げてきた意見によって、その意見を代表する人たちが最終的に協議会を作って意見の交換をやって、その総意によってそこに何種類かの教科書をきめる、それを選択するのは学校の自由だというやり方が多いのであります。おそらく文部省の資料もそうだろうと思うのです。そこに少くとも採択協議会あるいは選定委員会の独自の考えによって教科書が一種類にしぼられるというふうなことは、現行においてはあり得ないのであります。そういう大きな開きがある。それをもって同じようなやり方だから今回それを法制化したんだということは、一つの事実を知って他の事実を隠蔽しておるものだということを申し上げざるを得ない。この点については私は大臣もそうだろうと思うけれども、文部省においては調査が行き届いておると思うから、私の申し上げることに相違があるならば一つおっしゃっていただきたい。
  34. 緒方信一

    ○緒方政府委員 採択の権限は現行法におきましてはその学校の属しております教育委員会にございますので、従ってお話のございましたように、最終の段階におきましては教育委員会が採択をいたしております。これは間違いありません。ただその採択をする方法といたしまして、実際的な要請からいたしまして統一的採択が行われておる現状にございます。そのやり方は今お話のようにいろいろな方法がございます。ある地域ごとに教科研究会等もございますし、あるいはまた逆に県の段階で研究の結果一定の推薦リストと申しますか、そういうものを作って、その中から採択をする、そういうこともございます。形態はいろいろあるようでございます。ちょっと読んでみますと、郡市の段階で選定したものに基いて選ばれたというのは、二十六都道府県にわたっております。この郡市の段階で選定したというその中にも方法はいろいろあると存じますけれども、下からの積み上げ方式もございますし、そうじゃなくてその段階で初めから一定の基準を作って研究して、それで選ぶというところもあるようであります。それから県の教育委員会が、ただいま申しましたように推薦図書のリストを示して、その中から採択を行う、こういうのもございますし、県の教育委員会が方針なり図書のリストを示し、さらに郡市の段階で選定またはそれの調整をして、その中から採択が行われている、こういうのもございます。それから今度は逆に各学校ないし市町村の選定を上に持ち上げて、郡市及び県の段階で調整する、こういうのもございます。いろいろそういう形式はございますけれども、実情といたしまして大体郡市の段階等で統一的な採択が行われておるのが実際の実情でございます。
  35. 辻原弘市

    ○辻原委員 今私が申し上げましたし、また局長からの答弁のありましたように、表面上の形式は違っても、内容が非常に違うのです。ですから現在形式的に郡市の間で統一採択をやられておっても、実際の採択をする本元というのは学校にあります。あるいは個々の教員にあります。その教員の意思というものが、積み上った形において採択をされるという形態ないしはあなたが後段に言われた、一応県の段階においてある程度のものを選んでそれを推薦する形でさらに研究を重ねて、しかる後に採択をする。こういう下から上っていくか、なお上からきてもう一ぺん下におろして上に上るかという、形は違いますけれども、いずれも必ずそれぞれの実際の現場において扱う教員の意向というものによって、教科書というものが採択されておるというそういう現状、今度はその一つ下の方を切ってしまって、上だけ法制化しておるわけです。いずれにしてもそれは権限を持つのですから、下の方の意見があっても申し述べることは自由でありましょう。しかし事実上権限としての採択には、今回以降この法案が成立した暁においては、権限を持つ教員が採択に関して意見を申し述べるということは、わずかに学校運営上校長に意見を申し述べるという程度のものであって、それは従来のものとは非常に大きく異なってくるということが指摘できるだろうと思う。そういうところに私は買収の問題、疑獄の問題の可能性を考えてみても、よりこういうふうに採択というものを限定し、また採択権者というものの範囲を狭めるということにおいての可能性が出てくるということを、これはあなた方の方でも十分お考えを願わなければならぬし、われわれはその意味においても、この検定採択方式というものについては、これは賛意を表するわけにはいかぬ、こう考えておるのであります。さらにこれはいささか私は言うことをはばかるのでありますけれども、歴史の過程からという質問が発端でありますので、こういうふうな意見も私は一つの極端かもわからぬけれども、耳にすることがあるのです。それは日露戦争の前夜において疑獄が起った。そして日露戦争に入るやいなや教科書というものを国定に持っていった。これは歴史の現実であります。   〔委員長退席、山崎(始)委員長代理着席〕 一部には非常に国定論者が相当数あった。しかしにわかに国定という段階へ進むことは非常にむずかしい。そこで一たびは現行の検定というもののその形を踏襲して、しかしながらある程度その検定の制度の中においても国定と同じように運用においては妙味の発揮できるように、その窓口というものを縮める。さらに採択の問題においてこうした疑獄の起りやすいような形態をとる。そうするならば将来考慮できることは、その検定採択方式に連なる検定制度のもとにおいては、かかる事件が発生をいたしましたという歴然たる事実を天下に示すことができる。だから結論としては検定制度はだめなんだ。このことを防ぐためには国定でなければならぬという、明治三十五年から三十七年に至る歴史を繰り返そうとする、実にその奥深い魂胆があるのではないか、こういうような臆測ですけれども、これは私が申しておるのではありません。そういうことを非常に心配されている向きがあるのであります。これからの歴史の中に私はよもやさようなことはあるまいと思うけれども、そういう歴史は繰り返すという心配を大臣もしていらっしゃる、私はそういう意味において歴史は繰り返すのじゃないかということを非常に心配しているわけであります。こういう点について断じてそういう底意はございません、こういうふうに大臣はおっしゃって、まあそういうような相当うがったというか、極端というか、心配する向きに対しては、やはり速記にとどめて将来に対する保障を大臣が与える義務が私はあるのじゃないかと思いますので、一つ最後にその点の御答弁を承わっておきたいと思います。
  36. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 私は今回失敗するような法律を作って、その失敗を楽しもうなんという考えは持っていませんので、私の今の力で国のために最善なりと考えたものを提案しております。ことに教科書または別の教育委員会法でも直ちにお互いの子供に影響するものであります。それを試験台にして、一ぺん失敗しておいて、この次にこれをやろうというような、重大な遠謀深慮は持っておりませんから、これだけはぜひ御信用を願いたいと思います。
  37. 高津正道

    高津委員 万一大きな疑獄が起った場合には、その場合の責任のとり方というものはどうなるでしょうか。私は気をつけてその点を見守っておると、大きな疑獄が起きるに違いないという憂いを持っておる者の一人であります。それから行監の結果を大いに参酌して、そうしてこの法案を用意したというお言葉がありました。ただそれだけではあるまいけれども、非常に行監の審査と結論とがこの法案に大きい関係を持っておる。スキャンダルをなくしたい、定価を安くしたい、偏向を是正したいということが提案理由説明の中の重点であると考えますが、定価を安くすることは現行の行政措置で十分なし得ることであって、それはだれにも異論はないのです。何らか政府が特別な郵送料だとか、税金だとか、それらの点の考慮をこの法案でする用意を持っておるならば、それは定価を安くするということができるが、すでにこの法案がまだ法律になっていないのに、最高価格からいろいろな行政措置で定価を安くされた事実もあるのでありまして、この法案はその分は私は理由にならないと思うのです。それで問題になるのは疑獄、いわゆるスキャンダルと、それからもう一つは偏向の是正、それから新たに出てきたものが何かといえば、それらのことも行政措置で相当できると思うのだが、ここで採択地区を大きくする、全国に七割も郡市単位で行われておるのに、その分を法律化そうとしないで、一県を一つの採択地区にもなし得るような、そういうような点をこの法案に盛られておるのであります。辻原委員が指摘されましたように、一つ一つの校長及びその学校を買収するような、そういうような危険なことは容易にやれるものではない。三百円ずつどろぼうが百回とるのは、どの分がばれても困る。しかし一ぺんに三百万円とれるというのでは、そこは大いにねらわれる危険性があるわけで、そういうような危険なものがこの法律だ。そして一たびそういう大きなスキャンダルが起きたならば、必ずそれを理由にこれは制度が悪いというので、国定に持っていくということは、ことにある一定の思想を持った大臣や官僚がそれをすぐねらわないということは私は言えないと思う。きわめて危ないふちに教科書制度が今歩いていっておるのだ、われわれはこのように考えておるのであります。それらの諸点の質問と、もう一つ、いま一度はっきりしておきますが、万一そういう大きなスキャンダルがあった場合、われわれは摘発に大いに心がけますよ。そしてスキャンダルがあった場合、あなたはすでに大臣ではなかろうが、責任はだれがとるのですか。私はスキャンダルがあったら何かそれを利用しようという考えは毛頭ありませんと言っても、スキャンダルが暴露した場合にはあなたは責任感じられなければならぬと思う。その場合責任はどこへいくのです。
  38. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 今多数の問題を提起されましたが、そのうち一番初めと終りに仰せられましたスキャンダル、教科書に関する疑獄が起った場合にどう責任をとるのかということであります。この疑獄などというものは過去の経験によっても、その形態、形式、動機、結果にいろいろ違ったことがあるのであります。それゆえに事件々々によってこれは考えなければならぬことであります。しかし私はこの法律をいいと信じて出したのでありますが、そのスキャンダルが法律にどこか欠陥があって起ったスキャンダルであったら、私は生きておる限り責任を感ずるのであります。しかしながらそのときすでに閣外にあれば、また道徳的の責任感じて罪を天下に謝するといったようなことのほかはないかもわかりません。それは起った場合のことでございます。ただしかしどんなに完全な法律を作っても、スキャンダルはスキャンダルです。あり得ることでありますから、特にこの法律が悪かったから起ったという場合には、私は生きておる限り天下に罪を謝したいと思っております。  それから本の価格の引き下げをこの間行いました。この法律ができませんでも、経済状態もやや安定したのでありますし、昔は紙がなくてやみの紙をあさったという時代もありましたが、安定いたしましたから、今日のことでできるだけのことはしようと思って、わずか一割に足らぬ金額でありますが、父兄の御負担を軽減しようとはかりました。この法律を実行しますれば、またもう少し下げることができゃせぬかと楽しんでおります。この間のは、この法律によらぬ今年の経済事情でやったのであります。  それから採択地区が広くなって、場合によれば一県にもできるような場合も含んだような規定をするのはどうかということでありますが、今日の教育法は、世間でいう地方分権といいますか、なるべく地方の希望を重んずるということが一つの要請でございます。そこで日本は小さい国でありますけれども、地方へいけば千種万態の生活様相を示しております。小さい範囲でないと教科書は統一することはできぬというところもございましょう。あるいは郡でいえば二郡くらいは、昔は一郡だったのを、何郡は東、何郡は西と分けた、あるいは北と南というように分けたところがあれば、二郡を一緒にしてよろしい。今度の町村合併で大きな市もできましたでしょう。市と言っても実は郡を大部分含んでおるような市がございますから、これらは市とそのもとをなしておった郡と一緒にするということもございましょうから、それらを地方の委員会その他の世論で自由におきめになればよかろう、全県一区ということは非常に珍しい場合で、非常に小さい県で、しかも住民の生活がほぼ同じような生活状態だというような場合、これを禁ずることは無理であろう、こういうことで地方の裁定にゆだねておるのであります。何もスキャンダルがやりたいといって大きな地区をこしらえたのではございませんから、御了承願いたいと思います。  今お示しになったこと、ほぼこれでお答えになっておるかと思います。足りませなんだら再質問をお願いします。
  39. 小松幹

    小松委員 あと質問者があるそうですから簡単に御質問します。  私があえて歴史の事実から質問したというのはわけがあるのです。というのは、ここであなたと私と与党、野党という形で話し合いをすれば、お互いに考えは別だ、並行線というような形になりますから、歴史の上でもう判定が下っている事実から申し上げたならば、御反省もできると思って申し上げているわけです。そこで今度の法案を見ると、文部省の権限が非常に拡大されていることは事実なんです。大臣の権限は、末梢的なことを言えば報告、現場の立ち入りまで法律で認めている。そうなれば、ここに批判として生まれてくるものは――文部省の権利が法律的に拡大されておるということは、その裏には文部省というものが絶対のものであるという一つ考え方、あるいは完全絶対ではないとしても、よりよいという考え方が前提だと思っているのです。それと、猜疑心かもしれませんが、それを通して自分の意図通りにやるというような考え方が裏にあるかもしれませんが、それは憶測でございますから別として、とにかく表に出たところは、文部省が教科書制度そのものに大きく責任を持っておるかわりに権限が拡大されておる。これはその前提に、文部省が一番えらいのだという立場、公正だという立場、正しいのだという立場が常にひそんでおる、かように考えております。先ほどの検定制度の問題にしても、大臣はこれを握っておる。かつて終戦後の検定制度は地方教育委員会が握ったものです。ところが紙の割当がなかったために、紙の割当が一応潤沢になるまではというわけで改めたのがずるずるになって、ついに臨時措置法が出てきた。こうなったときに、文部大臣がこうした絶対権を握ることがいいのか、あるいは地方教委なり、あるいは私どもが出しておる教科委員会という別個なものがこの権限を持つのがいいのかということは、私は考えなくてはならぬと思う。何も大臣がえらくない、考え方が間違っておるというわけではないが、大臣の一個人の判断というものが国の教科書なり、国の思想なりに影響を持つとするならば、行政措置からはずして教科委員会という別個な一つのセクションにゆだねて責任を転嫁しておく方がいいのじゃないか、あるいは終戦直後の検定制度のように、地方教育委員にその責任を移管しておく方がいいのじゃないか、こういう考え方があるわけなんですが、大臣はその点についてどのようにお考えになりますか。
  40. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 本日小松さんの御発言から大へん有益な実態上の研究を進めることができて感謝しております。今のことも非常に大切なことなんです。この案でも、それから別の教育委員会法の案でも文部省の仕事がふえておることは事実でございます。終戦後の教育法制は、地方分権とか、あるいは地方自治とかということが非常に強調されました結果、ややともすると全く独立の委員会が各所にできていっておりまするが、どの主義、どの主張でもそれ一本じゃいけないので、やはりほかの希望というものもあって、そこでおのずから落ちつくところに落ちつくのであります。わが国のような一つの民族で、――日本にはカストというものはすっかりなくなり、またアメリカのような黒人社会というものもなくなり、同一民族で言語もすべて同一で、しかも長い伝統のある歴史を持っておる国でありますが、こういう国の教育は、やはり一定の水準を保っていかなければなるまい。これもごく画一的じゃいけませんけれども、一つの水準で子供がすくすくと大きくなるようにする、これを教育水準といって、教科書の検定にしろ、あるいは教育の指導カリキュラムにしろ、やはりある程度を維持する、すなわち基準を守るということも一つの大きな要求であります。学力差をあまりつけないように、こういうことが言葉は違いますが、各方面から希望されておるので――言い方、説明の仕方によっては違いましょうけれども、小松さんのお考えもそれには御同意下さると思うのであります。果せるかな社会党の方の案でも教科委員会というものを別に作る、一つのボードであります。そこで教科書を検定する責任も負い、教科内容をそこでいろいろきめることになっております。これも確かに一つの考案です。一つ委員会で日本教育の均整なる発達を保とうということ、私の方ではそういう特別の外郭団体または委員会を作らないで、やはり直接に文部大臣がこれは責任を負う。しかし文部大臣責任を負うといいましても独裁的にやるというつもりではなくして、現に教科書については教科書検定審議会というものがあって、表向きには言えませんけれども、検定審議会の検定は、実はうのみにするつもりであります。そんなことは記録に載ることはよくありませんけれども、そこで公正な審議をやってもらって、しかし今の日本国家制度はややイギリスに似た議院内閣制度でありまするから、どの行政でも失敗があったらだれかスケープゴートで責任を負う人間がなければならぬ。それを文部大臣と見立てまして、文部行政は、たとい九分九厘までは審議会でおやりになっても最後の承認判をついた以上は、それに間違いがあったら文部大臣責任を負うて国会――この場所でいわゆる不信任案が提出される。ここで悪いことができぬようにしようというイギリスの経験によっておるのであります。わが国でこれが円満にいけるかどうかは歴史が教えてくれると思いますが、まあ人類の最近二、三百年の経験から言えば、イギリスの制度には非常に妙味がありますからかようにいたしたのでございます。先刻もちょっと言いましたが、イギリスでも今から十年ほど前まで、一九四四年まではあなたの方のボードとちょっと似たような制度をとっております。しかしあのときにボードの長官がやはり内閣に出ておるのです。だからもしあなた方のような御案で委員会の委員長が内閣に出るというのだったらやはり議院内閣制を貫くのです。その場合はもう文部大臣は要りませんから、文部省を改めて、大臣をやめて、そうして教科委員会の議長が閣議に出る、こういうことになればイギリスの昔の案と同じようになるのです。どちらがほんとうにいいか悪いかは、今からの歴史が教えてくれるところでございます。
  41. 辻原弘市

    ○辻原委員 ちょっと今の点に関連して簡単にお伺いしますが、この間から一つの外郭委員会を作ることは、これは議院内閣制の趣旨に反する、イギリスの場合には、その当該委員会の長が内閣に列席しておったので議院内閣制が貫かれておるということですが、そういう論法から社会党の場合には、これは与党の中の質問にもあったように思うのですが、議院内閣制の今日においては、考え方ではあるけれども、その趣旨に反するということを言われるのですが、私はその点どうも御答弁を納得することができないのです。と申すのは、たとえば文部省にある文化財保護委員会、これは今日文部省の、少くとも権限を分散した外郭委員会であると私は思う。相当の文化財に関する権限を持つ委員会であると思います。私どもが立てた案は、ほぼその精神においてはこの種の外郭委員会と同様な権限、同様な構成を持つものと実は考えておるわけです。そういたしますと、文化財保護委員会もこれは議院内閣制の趣旨に反するという建前なんでしょうか。これはどうですか、一ぺん明瞭にしておいていただきたい。
  42. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 今の文化財保護委員会は外局ではありますが、やはり局長として私の支配下にあるのであります。あなた方の方のことはあなたに教えてもらわなければなりませんが、教科委員会というものはもう少し離れたものじゃないでしょうか。これは私が説明するのじゃない。あなたに御教示を願いたいと思うのです。
  43. 辻原弘市

    ○辻原委員 私は、大臣がしばしば繰り返されるので、十分われわれの案を御検討下さった上で、そうして御答弁願っておるものだと実は考えて、これは一回ならず、二回、三回と御答弁がありました。しかもまた与党の方からそういう質問があって、どうも肯定されるやに、このままでいきますとなりますから、従って私は問題を明らかにしておきたい、こう思って質問したのですが、大臣があまり御研究下さらないままにそういうふうに判定されておったものでしょうか。これは私どもの方から一ぺんお伺いしてみたいのです。(「今の点を明らかにしたらどうか」と呼ぶ者あり)これはもう法案を見ればすぐわかると思うのですが、説明せよというなら二、三時間やりましょうか。
  44. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 これはそうはおっしゃるけれども、あなたの方の御案ですから、あなたの方で、教科委員会というのは、外郭の団体で文部大臣の支配は受けぬ独立のものを考えておられるのだろうと私は思っておるのです。御案はよく読みましたけれども、せっかくの案でありまするから、文部省の局に毛のはえたようなものというのではなくて、もっと大きなものをお考えになっているのじゃないか。それだったら私は非常に値打のある案だと思う。昔改進党もそんなことを考えたことがあるのです。私は一つ考えだと思っております。けれども、やはり今回の案はそれによらないで文部大臣責任を持たす、こういう案になっておるわけであります。責任を持つ以上はやはりこちらからの幾らかの指導権というものがなければ、離れたものが責任を持つというわけにはいきませんから……。
  45. 辻原弘市

    ○辻原委員 私はそのまま申し上げておりますので、法律に規定しております通り、教科内容あるいは検定事項について権限を持っている委員会であります。独立しているということは、これは制度全体の中から出てくる精神であって、法律上いわゆる管轄というか所轄というか、そういうものについては、これは文部大臣と外局である文化財保護委員会との関係と変っていないと思うのです。私どもはそういう考え方構成をしておるわけです。また先ほど大臣が文化財保護委員会の事務局長は文部省に所属するというお話でしたか、監督下にあるというお話でしたか、御答弁があったと思うのですが、だから、この教科委員会の事務局というものが生まれると思うのです。しかしその場合に、事務局と教科委員会との関係、それからその事務局と文部大臣との関係、こういうものも私は文化財保護委員会の構成とは変らないと思うのです。何人にするとかそういう内容は変ってきますよ。しかし構成上の大臣との関係、いわゆる法律上の権限というものは変らない。それは私は文化財保護委員会の法律を見ればはっきりしていると思うのです。文化財保護委員会の法律でも、われわれが規定した法律以上のこまかい点は規定しておりますけれども、しかし一番上にくるピラミッドの構成上の権限については変っていない。
  46. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 行政的の事務局とかそういう仕事ではなくて、たとえば教科書の検定でしょう。その検定はしかし文部大臣に伺いを立てないのでしょう。教科内容もそこでおきめになる。あるいは事後の通知ぐらいはありましょうが、決定される時分には文部大臣の決裁はないでしょう。そこが違うのです。国家の行政は国のお金でやることですからいけいけになっておっても、教科委員会の最後の決定について文部大臣の協議も認可も何もなしに独立でおやりになる。そこがあなたの方のみそであるのではないか。また同時にほかの行政外郭委員会と違うところなんです。文化財の方は行政ばかりですから、あそこですることは決裁を仰いでくるものもありますよ。それから国会へも事務局長が私と一緒に来るのです。答弁の方針も相談してやっておるのです。けれども、今度の事務局は、そうなりましょうけれども、一番最終の仕事、これは検定を許すか許さぬかということは文部大臣に関係ないのですから、そこが違うだろうと思うのです。
  47. 辻原弘市

    ○辻原委員 文化財保護委員会の委員長は、大臣の指揮監督を受けますか。
  48. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 法制上は別として、文化財の保護についてはやはり私の方へ連絡がありまして、予算もこちらからとって差し上げておるのです。事務局長はこの通り始終ほかの局長と一緒にやってきております。けれども、そういうこまかなことは変えようと思えば、いつでも変えられるわけです。あなたの方の案のねらいは、文部大臣とは別に教科書の検定をする、教科内容をきめる、そこが違うからして違うと言っておるのです。今文化財の保護でいろいろなことをやっておりますが、ごく行政事務ですから……。
  49. 辻原弘市

    ○辻原委員 わかりました。わかったというのは肯定したのではありませんよ。お話がわかったということです。確かに事務局長は大臣と一緒に来ることもあるでしょう。それから予算も文部省がとっておるでしょう。われわれのもやはり予算は文部省がとるのです。事務局長も文部大臣と一緒に来ることもあるであろうと思います。問題は、大臣が言われる権限なんです。もちろんわれわれの場合にはイントネーションはちょっと強いかもわかりません。これは強くなければならぬので強いかもわかりません。しかし構成上は――これは私の理解なんですから誤まっておったら御指摘下さい。文化財保護委員会は、普通の行政の所轄庁と違って、いわゆる大臣の管轄下に置かれる部局と違って、少くとも法制において独立した権限を行使できるごとくなっておると私は理解するわけなんです。もちろん連絡はするでしょう、あるいは合議等をやるかもわかりません。しかし私は、大臣の決裁を常時必要とし、大臣の指揮、命令、監督を受けて文化財に関するいわゆる行政事務を執行しておるとは理解しがたいわけなんですが、その点はどうでしょう。われわれのも大体そういうことだと思っておるのです。そういたしますと同じなんですがね。
  50. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 同じく組織法の外局でございますから、行政上は同じことですが、権限で、あなたの方のねらいは、一番上の教科書の検定はそこでしてしまう。この検定をしてよろしいかと言ってくることはない。独立のものなんですね。そこに私は重さの違いがあると思うのです。一般の文化財を保護するという単純な行政と、進んで新たに教科書を検定する、それには文部大臣の容喙を許さぬということとは、そこにだいぶ重さが違う、かように思っておるのです。
  51. 辻原弘市

    ○辻原委員 だんだんはっきりしてきました。今度は一つ教科書課長に伺いましょう。行政組織法で御研究願えたと思うのですが、われわれのものも行政組織法上は文部省の外局であります。文化財保護委員会も文部省の外局であります。私が申したように全体の構成からイントネーションは変ってくるかもわかりません。しかし組織法上同じであるとするならば、その委員会と大臣との関係というものは変っていないと思うのです。
  52. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 それはそうでしょう。
  53. 辻原弘市

    ○辻原委員 そういたしましたら、大臣、これは現在文部省にある文化財保護委員会とその立てりを同じくするいわゆる外局である、こう私が申し上げて誤りありませんでしょうか。
  54. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 誤りありません。
  55. 辻原弘市

    ○辻原委員 そういたしますと、四本建か三本建かという話がしばしば出てきたが、いわゆる議院内閣制のもとにおける逸脱しない行政組織であるということはお認めになりましょうね。その点はどうも先般からの御答弁では、何か議院内閣制度における一つの行政組織としては若干異例なものであるような印象を受けておったわけですが、これは私どもも大臣にそういうお話を申し上げる機会が今日までなかったことは非常に遺憾であったわけですから、この際おわかりいただけましたならば、この点ははっきり認めておいていただきたいと思います。そうでなければ、われわれのせっかくの考え方が、今日の議院内閣制度のものでは採用できない架空抽象観念論であるときめつけられる危険性が多分にありますので。
  56. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 あなたの方の案も、よく研究されまして、今の日本国家行政組織法に合せてお作りになっております。決して違法な構想じゃないのです。しかしながら教科書の検定でも教科内容の御決定でも、文部大臣に相談しないでするというところにみそがあるのです。これは大きなことでしょう。日本教科書、学校の教育内容をそこできめる。そして文部大臣には相談はしておらぬ。相談を受けずして文部大臣責任を事実上とれませんからね。そうか、そんなことは僕は知らぬ、新聞で見ておるだけだということで国会で不信任案をやられても困りますから、もしもああいうことであったら、せめて教科委員会の会長か何か内閣に出てくるか何かしないというと、それにあやまちがあったときにどうするか。昔の参謀本部みたいに国会に独立した一機関となりはせんかと私は言うのです。例は悪いが腹を立ててはいけませんよ。独立いうことでかりに参謀本部みたいだというのですけれども、内閣に系統を持たぬところの別の委員会を置くのはどうだろうか疑問なんです。私もかつては考えたことはあったが、こっちは教育委員という名前をつけましたが、決してそれを荒唐無稽の考えというのじゃないのです。教育の独立性ということでだれも考え得るところでありますけれども、何か一番上の人が出てきて、場合によればここにすわることがあるのじゃないとちょっと困りはせんか、そこのことなんです。
  57. 小松幹

    小松委員 今のはお互いに立場を認めれば法制的に組織できることなんです。だからそのことは、私の案にすれば、議会に呼び出す方法もあります。こういうふうにできる手もあります。一応今文部省の権限が強化されて、二重検定式な拒否権まで持ったということは、これはあなたが形式的に拒否するのでしょうけれども、おそらくそれを調査する文部省のお役人さんが下検分をして拒否するのだと思うのですが、その点は調査員が検査するのかどうかそれをはっきりしておいていただきたい。
  58. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 二重検定とおっしゃる第七条の非常に大きなあやまちがあるとかいったような場合に、審議会に諮問して拒否するということは、あの規定のことであろうと思います。それは審議会にかけないでやろうというのですから、審議会以外の文部省の調査員あるいは調査官という名前になりましょうが、今度は四十五人とりますが、そういうところで一応の調査をいたしまして、これは検定基準をまるっきり見ておらぬ、よく地方によって、自分考えることが一番いいというので、ずっと道徳などを各学年に配当してあるところの基準などはまるっきり知らないで書いてきておる。善意は認めるけれども、これじゃいかぬというものを見つけようというのです。それもただ単にのけやしません。のけるときに審議会に一ぺん諮問をするのです。諮問をしてのける。どうしてそれをのける必要があるかというと、そんなものがたくさんあるために、ほんとうにいけそうなものまであとになってしまう。そういう場合のことなんです。
  59. 小松幹

    小松委員 そういうことならわざわざ法律でする必要はない。今までさえも事前審査もあった。CIEがおってOKをとるときでも、事前検定を何回もくたびれるほどしたのです。事務的にできるのです。事務的にできるようなことをわざわざ法律できめたというのは、権限を強化するということ以外に何もない、これを法律的にはっきり打ち出されるということは単に事務的処理でできるということと違うのです。そこであなたの説明したのは何も法律の強行で拒否権――拒否権というものは大事なものです。それを拒否という立場において事前に一応調査官なる者が見て拒否をするというが、指導要領は全くのけにしてしまって無知もうまいないいかげんな検定教科書を金を使ってまで作る者はないのです。あなたがそういう極端な例を使うのです。そういう極端なことというものは、あるいはいつか教科書課長が御答弁した中で、保健衛生の保健のところが抜けておったからこうこうだということであったが、おそらく今までの調査員は、一時間十円で一時間に十ページも二十ページも検定していけばおそらく誤字、脱字の程度もよう見えないくらいです。こういうものでいいかげんなことを前にやっておいて、そのしりぬぐいに法律をもって拒否権を定めるということはちょっと行き過ぎじゃないかと思う。私は絶対悪いとは言いませんよ。行き過ぎじゃないか。そのことがやがては教育の内容の面にまで及んで、これはどうもあやしいといってチェックされるようなことが過去にもあったわけです。これは今後ますます事前審査というものでチェックができるのだ、私はこう考えるのですが、その点は行き過ぎじゃないですか。
  60. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 今行政的に従前はできたとおっしゃいましたが、CIEなどが背後におってやった時分にはそれもできたかもしれません。教科書の検定を印紙を張って出した場合に、これ、君悪いから持って帰れといったようなことは権利を侵害しておるのですよ。それよりも教科書検定の申請をしたら――申請する権利はあるのだから、文部省の役人だけがこれを持って帰れじゃなくて、公然と審議会に諮問しまして、これは悪いということになって、それに納得しなかったらその理由書も差し上げるのです。理由書を見てこれはいかぬと思ったら行政訴訟もできるので、人権を重じたと思っております。今まで通りの慣例でやっておればそうでありますが、一たん新たに法律を作ろうといえば、やはり民主政治、合法主義という憲法主張に合せてこれをやっておるのであります。しかし小意地でもってどんどんやって文部省の権威を拡張するということじゃございません。正直に申し上げますが、この案でも別の案でも文部省の仕事のふえていることは事実なんです。仕事がふえたことを権力拡張とおっしゃれば、言葉は違いますけれども、そういうことはあるのです。けれどもこの法律は、私はそういうふうな権力拡大という意味で立案したのじゃございません。やはりこれをやる方が、ほんとうに――正しい正しくないということを初めからきめるのはいけませんけれども、正当の価値ある申請者の申請をすみやかにすることと、御本人についても悪ければ悪いということを早く言ってやった方がいいのであります。それをたくさんの善だといってそういうのを一々あほう正直に審議会の八十人に回してから初めてきまるというよりも、今度は審査を厳密にしますから、その一段初めの段階において審議会委員に諮問して少し抜いていこう、こういうわけです。
  61. 小松幹

    小松委員 あなたがお出しになったのは善意かもしれません。悪意に満ちて出したとは私は言っていない。ところが法律の権限によって拒否権が存在するということは、あなたは善意識で出したかもしれませんが、次に大臣がかわられてあなたより以上反動的な大臣が出た場合に、この拒否権をどのように利用するかわからぬ。現に国連でも拒否権を持っておる。拒否権を悪いところにぽんと使われたのじゃ何もできなくなるでしょう。だからあなたは善意識であっても、法律の上で拒否権を存在させることは、自後に大きな禍根を残す。だから行き過ぎではないかといっておる。その法律の部分はあなた一代のものじゃない。あなたが幾ら善意で出したのだといって答弁しても、法律で厳然として存在しておる以上、大臣がかわり、もし文部官僚が保守反動になったとすれば、その扱い方というものが大へんなことになる。この点どうですか、行き過ぎじゃないですか。
  62. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 同じようなお答えをしてあるいは御立腹かわかりませんが、この拒否のためには審議会に諮問するのです。悪い拒否の仕方なら審議会がそれを許してくれません。なおまたその拒否については裁判出訴をします。それを便にするために拒否の理由書も出すのであります。これでよほど乱暴な者が文部大臣となり、軽率な者が次官、局長となっても弊害を救う道はできておるのであります。しかしながらこの趣意はこの法案全部がわかりましょうからむやみなことを保守反動でやるということはなかろうと思います。保守反動というのは、この内容のことですから、内容でこれをやることはないのです。事実が誤まっておる。この間言った通り、楠太正成が大和の吉野で死んだ、そんなことを書いてはいけませんよ。あれは湊川です。そういうような事実の相違とか、あるいは誤植、誤記が非常に多いとか、そういうことであります。あなたのおっしゃる内容ということになると、それはやっぱり審議会に持っていって御審議願う。それを文部大臣がやるというんだったら非常に世間の非難を受けると思います。
  63. 高津正道

    高津委員 関連して。今、大臣はきょうの御答弁の中で検定審議会委員の決定はうのみにするという重大な、われわれその点だけは喜ぶ答弁を聞いておるのであります。もう一つ、審議会の集まりには私は顔を出しませんという答弁をされて、速記に明らかに残っておるので、これも私は大きい収穫であったと思います。ところで今の御答弁を聞いておると、第一次試験である文部省が受け付けてそれを拒否して、その拒否する理由は審議会の方でそんなに何千もあるのではお困りであろうから、そんなに多く数を持ってこないようにするために、自分の方で悪い分はこれは悪いと言って拒否するのだ、こういうことを言われました。それから、しかしそれはまた審議会の許可を得るんだ、そういうことも言われる。すると審議会の事務量を少くするために、審議会はおくれないように第一次関門でこれは悪いと思うものは拒否する。しかしそのことをまた審議会にいいか、悪いかを審議させるのですか。それでは審議会の手数は同じ事務量じゃないですか。そこをお伺いします。
  64. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 高津さんには議論じゃとても勝てませんから、事実を申し上げるのです。先刻、審議会に顔を出さぬと言ったんじゃないのです。審議会の審議に口を出さぬと言ったのです。審議会ができますれば、会へ行ってごあいさつもしなければなりません。諮問事項を出すときだったら諮問事項を出して、その説明をしなければなりません。けれども、それについて御審議なさる時分に、それはいけませんという口出しはせぬ、こういうことであります。これからうのみにすると言ったのは、おそらくは多くの場合うのみになりましょうと言ったので、全部うのみにするということではございません。これは十年に一ぺんあるかどうかしりませんけれども、私が責任を負わなければならぬことでありますから、よくよくのことで間違いがあれば再調査を願うようなことにこれはあるのです。全部うのみということではありません。  それから今度は話が違って、七条の拒否の場合、結局審議会が審議するなら同じだとおっしゃいますが、七条の場合は諮問するんです。ほかの場合は審議会に御審査願って、多くの場合はそれでパスをする、こういうふうなことで、やはり諮問の場合と、御審査願ってこれに基いてやるという場合とは丁重さが大いに違うのであります。
  65. 高津正道

    高津委員 審議会には第一次試験で通ったものだけを向うで扱うのか。審議会で扱うのだ、こう私は理解しておったのですが、第一次関門で拒否したものについて、拒否したことがいいか悪いかをやはり審議会にかけてきめるような御答弁に私は聞いたので、それでは審議会の事務量を減すことにはちっとも役立たぬではないか、こういう私の質問なんです。   〔山崎(始)委員長代理退席、委員長着席〕 それからそこへは諮問と検定と二つ持っていくんですか。その区別などをもう少しよく承わっておきたいと思います。
  66. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 これと似たようなことで少し言い回しが違うんです。二度じゃないので、申請が出ましたら、一応目を通しまして、そうして拒否してから、諮問じゃなくして、こういうのが出てきましたが、一応調べました。ところが毎ページ大へん誤記もあります。あるいは三つも四つも世間の認めている科学上の真理とか、公認された歴史とか、これが違います。これは一つ再考、すなわち本人に返したいと思いますが、どうでございましょうかということを諮問しまして、そうして審議会の方で、それはお前たちの言う通りじゃ、一ぺん返せ、こうおっしゃったら返します。すべてのものを二度やるのでもなく、また拒否してから、拒否がよろしいかということを諮問するのでないので、拒否前にそういうことをお願いする、そういう意味であります。
  67. 辻原弘市

    ○辻原委員 ちょっと関連して。これは前に言ったやつなんで、大体はっきりしていると思ったんですが、だんだん話がまたもとへ戻ってきそうですから、もとへ戻らぬようにそこをはっきりさしておいていただきたいと思います。それは先ほど大臣の言われた七条の場合には諮問するんじゃ、それから八条の場合、一般の検定の場合ですね、検定の場合はこれは審査をお願いするのだ、そこに違いがあるのだ。それは法律案についてのわれわれの質問に対するお答えとしては非常に不正確であると思う。というのは、検定審議会そのものが諮問機関であります。だからそこへゆだねる事項は、これは大臣と審議会との関係は諮問事項なんです。だから法文上明記されてあろうとなかろうと、それは私は諮問をしておるというこの事実には変りはないと思う。大臣、そうでしょう。これは正確にお答えを願っておきたいと思う。
  68. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 これは決議機関じゃなくして、諮問機関として仕立ててあるのであります。しかしながら第八条を見ますと、教科書検定審議会の議を経て合格、不合格をきめる。第一議を経なければ絶対にできません。議を経た上には大体はその議に従って文部大臣が決定するのであります。これは形は諮問機関でありまするけれども、強い諮問機関なることをお考えおきを願いたい。そしてそういうことを、同じく諮問ではありまするが、誤記とか事実の誤まりで拒否をいたしたいと思いますが、どうでございましょうかということを、これは言葉、場所を限定して諮問するのです。そういうことでございます。  なお、私の言葉が足らぬ時分には人をかえて、局長からその関係をもう一つよく説明してもらいます。
  69. 辻原弘市

    ○辻原委員 局長の答弁はちょっと待って下さい。大臣、軽い意味、重い意味、そういう諮問の仕方があるのですか。
  70. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 ありますよ。
  71. 辻原弘市

    ○辻原委員 そうすると、七条の場合には軽い意味で諮問するということになりますね。そうですか。
  72. 緒方信一

    ○緒方政府委員 審議機関に……。
  73. 辻原弘市

    ○辻原委員 政府委員ではない。大臣答弁してもらいたい。
  74. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 こういうことこそ一つ技術的に局長にやってもらって、そのあとで私が追認すれば、私が言うたことと同じことになるんですから……。
  75. 辻原弘市

    ○辻原委員 それじゃ、その点だけ答えて下さい。
  76. 緒方信一

    ○緒方政府委員 審議機関にかけます場合に、これは従来の立法例から申しましても、そのかけ方の違いによりまして書き分けております。諮問をしてという場合、議を経てという場合、これはおのおのその度合いが違うのであります。立法例としてもそうなっております。そこで議を経てという場合には、先ほど大臣からお答えがございますように、その議を経なければ絶対にできないというのが第一であります。それからさらにその新論を十分尊重する。よくよくの場合はこれは別でございますけれども、その議に従ってやるというのが原則でございます。ただ諮問をするという場合には、その度合いから申しますと、軽い意味でございます。これは端的に申しましてそう相なると存じます。その違いがこの七条と八条に書き分けてあります。
  77. 辻原弘市

    ○辻原委員 この間そうはっきり答えてくれれば、長く加藤さんからしかられるまで関連質問をやらなかったんです。そうすると七条の場合は軽い意味の諮問だ、重い意味と軽い意味の違いはどこにあるかという解説をいただいた局長の御答弁では、議を経るというのは、これはほとんど絶対的なものだ。大臣の先ほどのお答えは、十年に一ぺんも拒否することはないだろう、こういうことです。そうすると七条の場合には議を経るとは違って、単に諮問するという軽い意味なんだから、これは拒否する場合があり得る――軽いんですからね。拒否する場合がしばしばあり得る、こういうことになりますね。これはどうですか。
  78. 緒方信一

    ○緒方政府委員 これはいやしくもそういう機関を作りましてそれに諮問をいたしますからには、その結論を尊重することは当然のことと存じます。しかしながら法律の規定といたしまして、この二つ書き分けております度合いを私は先ほど申し上げたわけでありまして、議を経てというのと諮問をしてという場合には、それだけの区別がある、こういうことを申し上げたわけであります。諮問をしてというのを非常に軽く見て、その結論を全然顧みないということはありません。
  79. 辻原弘市

    ○辻原委員 答弁があとさきになってはいけませんよ。先ほどから私はあなたに、これは重いんだ、こっちは軽いんだというから、それじゃ軽いのと重いのとどう違うかといえば、重い場合には、その議を経てというのはほとんど絶対的なものだ、確率からいうと九九%だと言う。だから今度は、軽いというからにはその確率は重い場合の九九%より下ってくる――だから私はしばしばという言葉を使ったんだ。そうしたらこれはそうじゃないと言う。法律の形式上、議を経てというのも諮問するというのも内容においてはこれを尊重することにはいささかの変りもございませんということになってきた。そうすると軽さ重さが全然なくなるじゃありませんか。一体どういうことなんです。
  80. 緒方信一

    ○緒方政府委員 最初に申し上げたのは、両者の比較を相対的な関係において私申し上げたのであります。しかし諮問を全然顧みないといったような御趣旨のお話でございましたので、そうじゃないということを次に申し上げたのでございまして、私は前後矛盾しておらぬと考えます。
  81. 辻原弘市

    ○辻原委員 大臣その点どうですか、ちょっと私もわからなくなってきたんです。重いか軽いかと言えば、重さ軽さがあると言うから、それはどう違うのかと言えば、変りがないと言う。これじゃ全然わかりませんよ。一つ大臣からその点を解明してもらいたい。
  82. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 ただいま局長の言った通りでございます。重い軽いはあるんです。けれど、たとい軽い場合でも、いやしくも人に諮問する以上は、答えてくれた人の意見は尊重しなければなりません。
  83. 辻原弘市

    ○辻原委員 そうしたら実際上どういうことなんですか。実際の場合に……。実際上、八条の場合に検定の調査をやって、そして議を経るものの事項を審査して、一応委員会の決定を経るわけです。そうすると片一方も諮問という形になるが、これは重いか軽いか、とにかくその議を経るわけです。そり議を経る場合に一応結論が出てくる。そうすると同じようにやはりこれを尊重するということになるんですね。
  84. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 今局長の説明した通りでございまして、第八条の教科書検定審議会の議を経て、あなたのおっしゃる通り、特別の例外のない場合はその議の通りにします。片一方の方は、こういうあやまちがありますが、これは一々検定委員さんに送らないで、却下さしていただきたいがどうでしょうかと言って、いや、それはいかぬ、やはり審議会にかけろとおっしゃれば、そうですかと言ってその意見は尊重します。さようなことでありまして、いやしくも人に諮問する以上は、諮問しておいて答えを無視はできません。そういうことでございます。
  85. 辻原弘市

    ○辻原委員 そこで問題は、これは高津委員質問に戻るわけです。というのは、同じようにその委員会の結論というものを尊重する。しかもその尊重するということは、権威があるから尊重するのだということになれば、私はその諮問あるいは議を経るという言葉の――いわゆる法律上の言葉の違いはあっても、実際に取り扱う形としては同じでなければならぬ。というのは、これは拒否しようと思うんですがどうですか、とやった場合に、権威あるということならば、八十人も委員がいるわけですから、八十人の委員がやはり審査をしなければいかぬ。審査をしなければ、これは文部省の言うがごとく誤まりがあるか、拒否すべきものかどうかという判定は出てこない。そうすると多少の差異はあっても、事実上事務なりそれを審査する分量というものは、そう大きな差異はないということになる。これが先ほどの高津委員の御質問であった。いや、差異はあります、とあなたの方から答えられる。――時間がないからついでに私の方で答えておきますが、そのことをあなた方が率直に述べればいいと思う。どの点が今のようなおかしな論理になってくるかというと、問題は、七条の場合は、これは文部省がやるんです。諮問をするというのは確かに大臣が率直に言われた通り軽いんです。しかし私は法律上軽い重いというのはおかしいから質問したんです。ほんとうはあなたの言われるように軽く取り扱っているのです。そこで文部省において受け付けたものを審査したその結論というものを主体にして、いかがですかとやるわけです。そうして審議会がことさらに調査をやらない、審査をやらないということが前提になって検定拒否事項の第七条というものが生まれたんです。ですから明らかにこの八条によってやる審査の場合、七条によって発動する委員の取り扱いは、事実上においては大きな差異が私は生まれてきておると思う。その結果は、いわゆる検定拒否については九〇%まで文部省の意向が支配をするということなんです。文部省の意向が審議会の委員を支配するということなんです。問題はそこにあるわけです。だからあくまでも七条の場合には、大臣の言われたように審議会に諮問をするということは、極端に言えばこれは単なる形式であります。一応民主的な形をとるというその逃げ道を、諮問をするという言葉でこれをカバーしているにすぎないのであって、極端に言えば、そんなものはあってもなくても実際の扱いには相違がないということを七条は物語っているのです。この点はどうですか。重いと言われますか。
  86. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 大へんいい御説明ですが、私の考えていることと少しニュアンスが違うわけです。言葉少なに私申しますが、この八条の議を経て決定するという場合は、議を経ることが条件であると同時に、ほとんどそれがバインディングである。向うの方が先に成否を決定しておられるから、議を経てそれを私が決定する、こういうんで、あなたのおっしゃる通り、審議会が主になることは事実であります。こちらの諮問するのは、こちらの調査官がこれはひどいと思いますがということを言い出して、そしてどうでございましょうかといって、それを見てもらうのであります。諮問するのであります。しかしながらいやしくも諮問した以上は、それに従うことは同じことなんです。そういうところに重いと軽いが出てこようかと思います。あなたのお考えは、ややそれに同じような並行線ですが、あなたの言葉が強過ぎて、それだけをそのまま承認すると、あとで困ることがあると思いまして、少し緩和して答えておきたいと思います。
  87. 辻原弘市

    ○辻原委員 大臣がそう言われましたので、私か強いというのは語気が強いのではございません。それは法文が強いのです。その法文の中に、これは再三再四言っておりますように、文部省が扱おうとどこが扱おうと、実際問題においては、それぞれに付加された権限というものの違いがなければ、これは私はそう重い軽いはないと思います。ところが七条の場合には、文部省が扱う。しかも従来とは違って、四十五人の調査官というものを文部省に置くんですから、その人たちが目を光らして、しかも誤記、誤植ということだけを先ほどから大臣は言われておりますが、その次にあるのが問題なんです。誤記、誤植というのは、これはだれが見てもこの黒白ははっきりいたします。しかしその次の検定基準に著しく違反しているかどうかという、この著しいかどうかの判定は、あげて文部省の手にあるということで、あげて調査官のその四十幾つかの目にあるというところに問題がある。その人たちのいわゆる役所に連なった頭――教科書検定の第一関門というものが、この箱根の関所が、そういう形で置かれているというところに、自由に出入りができない、自由に教科書が行き渡っていかないという問題があるわけなんです。ですから、繰り返してわれわれが主張しておりまするように、そうさしたる事務の相違がないなれば、同じように重いか軽いかの違いはあろう。私も今の法律の構想からいけばあるということは認めます。しかし重く扱うか軽く扱うかは審議会にゆだねたらどうだろうかと私は言うておる。七条は、文部省で、これは悪い表現になるが、独占的にやられてはたまらぬ。八十人の少くとも一応民主的に構成された機関というものがあるんだから、そこでやるべきだ。審査の一般のものと誤記、誤植あるいは検定基準に違反しているかどうかという、そういうおそれのあるものとの区別は、審議会でやって、そうして普通のものであるならば普通の審査をやろう。そうして明らかに誤記、誤植があって、これは審査に至らないと判定するならば、これはその委員会が軽重を判断して取り扱えばけっこう事足りるじゃないかという議論がそこから生まれるわけです。問題は私の語気が強いとか何とかいうことじゃなしに、この著しく検定基準にという、この検定基準の解釈いかん、この検定基準を申請された新教科書に当てはめた場合の解釈に実に大きな幅があるというその心配のために、主観に基いて教科書が審議会の審査にまでも至らぬという事態は、これは少くとも現行教科書の自由発行の制度にもとるではございませんか、そういう危険があるではありませんかということを指摘しているわけなんです。しかもその関門を通るときに、少くとも主観が働いて好ましくないと考えられる教科書がそこで除外されていく、内容が規制されていく、こういうところに国定化への心配があるということを申し上げておるのである。そういうような批判が間違っているということであるなれば、あっさり七条は、隣り合せになっておりまするから、これは一つ引っ込めて、そして八条でやるようにお改めなされば、そうした検定拒否の問題も誤解の生まれることもないと思います。これはけっこう運用において解決できる問題である。ことさらにこういう問題を誤記、誤植になぞらえて出してきたところにくさいな、くさいなと言われる原因があるのです。以上のことを申し上げておきます。
  88. 小松幹

    小松委員 これは法律的に考えたら、やはりこうしたものを出すことが、あなたは誤記、誤植を水準の維持というて、先ほど辻原君が言われる通り言っておりますけれども、誤記や誤植というものは、何も法律によらぬでもできることなんです。将来に禍根を残す一つの大きなポイントである。私は文部省の調査官なりお役人なりを全面的に信頼していない。ということは、これは一つのお役人だ。大臣の頭が変ることによって目の玉のひっくり返るように変るのです。だから月給をもらっているお役人の考え方思想なんというものはどうでもなる。そういう意味から考えて、今作ったあなたたちはそれでいいかもしれぬ。時の政府なり大臣の変りによって、この拒否なるものがいかように変ってくるかということは想像される。だからこれは行き過ぎだ。善悪ではない。行き過ぎだ。撤回する意思がなければやむを得ませんけれども、これは行き過ぎだ、こういうふうに考えております。そこでそれに関連して、水準の維持とかあるいは間違いだとか言っておりますが、これは形式的なことだけを言っているのですか。水準というものを、たとえば算数の九九は二年生に教えるとか三年生に教えるとか、あるいは当用漢字は六年生までに教えちまうとか、そういう一つの形式的な指導方法の割り振りか、あるいは誤記、誤植、字の誤りあるいは標準漢字、当用漢字というようなもののみを言っているのか、教育の内容も――先般もいろいろ民主党の方から「うれうべき教科書」というものが出て、全くとんでもない解釈を教科書に下している、こういう点から考えて、単なる表面的な、形式的なもののみを拒否するという意味かどうか、その点を伺いたい。
  89. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 単に形式的だけというわけには参らぬのでございます。ここにあります通り「その他検定基準に著しく違反する」――違反するやいなや、接近のものはこれを調べなければなりません。だれが見ても、それが検定の基準に著しく違反する。検定の基準は、新法の基準はできておりませんが、今の基準の一番第一は教育目的であります。すなわち教育基本法にありますことであります。自主的にして健康な国民、また平和的国家、平和的社会の一員となるに適する者、人格の完成、勤労の尊重、責任の尊重、すなわち日本教育法が夢みている人間像の完成ということが一番大切なことであります。もう一つは、立場が公正であるかどうかということを第二の要点としております。第三には各教科の目的とする、今あなたのおっしゃった事柄であります。国語、算数、理科、図工、その他に向って計画している段階もあります。どういうことに今度改正になるかしれませんけれども、そういうことをまるきり知らずして、道徳といっても、教育勅語のことをそのまま書いてきたというたようなことでは、やはり実質でありますけれども、これは検査したところが通るはずはない、こういうことを意味しているのであります。
  90. 小松幹

    小松委員 説明はさような説明であろうと思います。著しくという言葉が、法律的にいえば非常に将来悪用しようとすれば悪用できると思うのです。教育というものは画一的であってはならぬ。教材にしてもバラエティに富んでいれば教育の個性がいろいろ違う。教育の個性が違うところに、持っている教材についてもバラエティに富んでいるところに、教育のいろいろな形の創造ができる、人間像の創造も私はできると思う。それをあなたが今使った言葉、公正な立場といったような抽象的な言葉によって一つの型にはめられるというようなこともあるわけです。いい教科書等には、その著者は多くのうんちくを傾けるものだ。そのうんちくが今言ったような言葉によって拒否されるということならば、時勢に合うし、時の権力に追従し、大臣あるいは文部官僚に追従する教科書ができる。これが検定されるということは過去の例から見てもわかる。福沢諭吉先生のその著書なり著わした教科書なり言葉なりというのは、今日だれも否定することはできないと思う。大臣も福沢諭吉先生の私的行動は別として、著わした著書等については否定されるべき要素は、私は今日の段階ではないと思う。ところが明治二十何年時代の福沢諭吉先生の検定教科書は全部文部省から破棄されている、そういう歴史的事実がある。福沢諭吉先生が自分のうんちくを傾けた教科書が、時の権力者である文部大臣なり文部省から全部検定を破棄されて一つも通っておらぬという例がある。その当時の文部省の役人は善意であったかもしれぬ。しかし今日から考えたら、何と明治二十年代の文部省の役人は頭が悪かったのだろうということになるわけです。そういうことは歴史の事実に問うてみなければわからぬ。今日あなたたち文部省の役人が唯我独尊でやれると思っているけれども、何と文部省の役人は頭が悪いやつだったということになるかもしれません。そういう歴史的な過程においてそういうことが判断される。検定制度においても、だれが責任をとるかということになる。この点で法律的に拒否の権限を文部大臣に与えるということは行き過ぎであると私は考える。この点大臣はどう考えますか。
  91. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 世の中の制度はだれでも言うことでありまするが、運用いかんによるのであります。やはり通常の場合を考えてみなければなりません。今言を励ましていろいろの場合を御推定になりましたが、文部省の役人と一がいにおっしゃるけれども、昔の官僚は今はないのです。昔の官僚は天皇から権力を受けた官吏でございます。今の公務員は、民主政治、人民から委託を受けた権限を行使して憲法第十五条第二項により国民全体のために責任を負う役人、公務員ばかりでございます。私のために仕事をするのではなく、みな一瞬一刻国民のためを思って仕事をしておるので、役人を見れば直ちに人権じゅうりんが専門だとばかりお考えになるのも私は少し行き過ぎと思います。これが一つです。  それからこの拒否の原案はなるほど役人が持ってくるに相違はないのです。しかしながらそれが行き過ぎないように、第二関門として今辻原君のおっしゃった審議会に諮問いたします。これだけの安全装置ができている。しかしてその諮問もアービトラリーにいかぬように、どういうわけでおれの方だけをそんなに拒否したかという疑いがありましたら、これは第九条でそのわけを書くことにしております。それを拒否した理由を承知したいと開き直れば、ちゃんとそれは書くのです。それはおそらく誤記があるとか、検定基準に違うということを書くでありましょうが、それはけしからぬと思えば、行政訴訟特例法というものがありまして、東京なら東京地方裁判所に出訴ができる。その判決に不服ならば高等裁判所に上訴もできる。さらにいけなければ最高裁判所に出訴の権利をも保護することができるので、福沢先生の教科書文部省が一掃したというようなことは、今日では行われませんです。しかしながら世の中のことば非常に誤謬が多いので、事実は小説よりもなお奇なり、(笑声)とても奇妙な事件が起らないということは保障することはできませんけれども、まず人間の常識、終戦以後の新教育、新時代ということを見れば、非常な弊害はなくて行われるだろう。非常な弊害がなくてこれが行われるのだったら、何千というものに正直に手間取って、ほんとうに待っている人の審査が非常におくれるということはよくないことでありますから、この二つの兼ね合いですみやかにいいものを作りたいということと、それからその権利は尊重しなければならぬという二つの要請の兼ね合いでこういうことを考えております。ここはあなた方の批判に対して答えるべきよりも、御質疑に対して私どもの心持を解明するのが必要であると思いますから、これだけを申し上げておきます。
  92. 小松幹

    小松委員 大臣は遠からずおやめになるから大臣の善意のほどはあえて問いませんけれども、法律というものは大臣をおやめになっても変るものではなく、将来どのように運用されるかという問題なんです。そこに私がさっきから尋ねているように、政治権力者が教科書を通じてというこの命題を歴史の事実から考えてみたときに危険性がある。危険性があるならば、こうした文部省の権限を拡大するような拒否権というものを法律に存在させておけば、悪用しようと思えばどんなようにも悪用ができる。あなたは特に文部省の役人を非常に擁護された。これはけっこうです。文部省のお役人さんを擁護することはいいと思いますけれども、文部省というワクの中にいると頭の中が堅くなり、バラエティに富まなくなる。そのためにどうかすると頭の中がこちこちになってくる。今日終戦後から出された文部省と銘打った検定のシリーズものを見ても、実際教科書会社と文部省の役人が一緒になって、電話一つで出版会社に飲みしろをかせがせている事実がある。そうしてアメリカのCIEからレポのいいものを持ってきて出版社に流して、自分が銘を打ってだれにも知らせぬ。指導要領を作る前に豆本だけ最初に作らせている事実が幾たびかある。福沢先生は、いずれ官の委託に応じ月給をもらって筆をとるような者は属吏以下の者であるから、官辺に阿付追従するのは当りまえだ、だから変幻常なく教科書行政というものはこうした権威のもとに文部官僚によって拒否されるのだということを随筆に書いておりますが、時代こそ違え今日の文部官僚がそれほど公明であるとも思えない。人間ですから私たちも公明でないかもしれないし、つまらぬ者かもしれないが、法律によってそういうものを確定することだけはやめてもらいたい。人間間違いもあります。考え違いもあります。時の情勢の流れにさおさしていく意味では、生きるために説も曲げなければならぬ、あるいは言いたいことも言えぬかもしれない。しかしそれを法律で擁護したようなものが教科書制度の上にはっきり現われているということは、おそるべき教科書制度の前提であると私は考える。私は今ここで文部省の役人はオールマイティでないと言ったけれども、そうかといって悪人である、こう言ったわけではないのですけれども、間違いもある。間違いのある者に権利を持たしておくということは危ない。そういう意味で拒否権だけはどうかとめておいてもらいたいという意見を申し上げておる。その点いかがでございますか。
  93. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 御意見は御意見として拝承いたします。ただ私どもはさような官僚の専恣横暴をやらすためにこれをやったのじゃないのであります。第一に、さっき申しましたそんな悪いものであったら審議会の諮問の席ではやもうとまってしまいます。そんなに目に見えて人の権利をじゅうりんするようなものであれば、それを諮問したらとんでもないことだといって諮問委員会でしかられてしまいます。しぶしぶでも諮問委員会がそれじゃ役人の言う通りにやっても、本人が不服であったら理由を言えといって開き直ってきます。それに不服であったらまた訴訟の道も開けておるので、福沢先生のときと違って新憲法以後においてはいやしくも権利侵害なら出訴の道を設けております。歴史は繰り返すが、同じことを繰り返すのじゃない。ちょうど螺旋のように動きつつ繰り返すので、今ではそんなことはなかろうと思います。
  94. 小松幹

    小松委員 そうです。同じことを二度やるようなばかはない。ケースが違うだけなんです。内容は同じでも形がいろいろ違って拒否権というものが生きてくるわけなんです。こういう意味において私は将来を危惧するがゆえにこういうことを言っておるわけです。そうして非常に心配される点がそこの一点に集中される。過去にこの委員会で質問されております。しかし文部省の権限の拡大という、この教科書制度に一本大きなパイプが打ち込まれたということが、私は一番大事なあなたとわれわれの意見の違いであると思う。この点については今後十分気をつけてもらわなければならぬと思います。同時にあなたに質問しておきたいと思うことは、公正ということが非常に誤解されるわけです。私は今高等学校の歴史の教科書あたりも、これは検定になると思いますが、これは形式的な面でありますが、いわゆる南北朝正閏論というものがあります。教師用書を納本させるようにしてございましょう。南北朝正閏論、南朝が正しいか、北朝が正しいかというようなことはこれは教科書の表には出ていない。出ていないけれども教師用書にはちゃんと反対意見というものが出ておるわけなんです。それから皇統二千六百年は間違いである、これは数理的にも科学的にも間違いであるといういわゆる――学者の名前は今ちょっと思い出せませんか、この説が戦前にもあったわけです。あったが、この二千六百年が間違いであるという説はその後一つ教科書の表には出ていない。けれども特殊な教師用書には出ておるわけなんです。人間が学問をして真実を追求していくというのは、疑いを持ってその疑いを解剖することによって研究の結果が生まれてくるわけなんです。ただ与えられたものをそのままオーソリティとして受け入れていくならば何をか言わんや。追従の学、いわゆる訓話の学以外にないと思う。訓話の学でない――泰平の学でないところに疑いを持って一歩突っ込んでいくためには、教師用書には反対意見も書くべきである。こういうような考え方をするならば、個々の教師用書というものまで文部省が手を入れ、あるいは納本させていろいろ意見を加えるならば――私はその教師用書にもいろいろの説が出てくると思う。こういう観点から教師そのものの頭脳をワクにはめていかれる危険性があるとするならば、この教師用書に対する考え方は一体どんな考え方を持っておられるか。教師用書の納本までさせて文部省の権限を拡大せねばならぬという原因はどこにあるのか。その原因を私はただしたい。
  95. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 ただいまの教科用図書の検定基準は昭和二十八年に告示されたものであります。今度法律が変ればおのずから検定基準も変るものと思っております。ただいまの検定基準ではあなたのおっしゃる通り立場は公正であるかということを検定の基準の一つにいたしております。あなたも御承知で御質問なさっております。それに注釈を加えて政治や宗教について特定の政党や特定の宗派に片寄った思想、題材をとり、またはこれによってその主義や心情を宣伝したりあるいは非難したりしておるようなところはないか、これを調べていくということを検定基準にやっております。あらためて基準を作りましても立場の公正は必要なことでありまするから、文字は違いましてもこういう要求はあることと思います。しかしこの基準ができまして、この基準に当てはまるか当てはまらぬかは文部大臣自身が手を下すのじゃなくて、審議会で独立の見地でお定め願うのです。審議会の委員といえども人間でありまするから、あやまちを保しませんけれども、まず合議制で、今度は八十人を十くらいのグループにわけまするが、一つ教科書は少くとも学者八人以上の目を通すのであります。そこで適当な結果が生まれようと思います。この教師用の手引き書のことでございますが、これは法律には五十六条に規定いたしております。そこでこれは文部省令の定むるところによって、学校はすみやかに文部大臣に提出するということになっておるのであります。提出の部数とかあるいは方法とかいうものについては、いずれ文部省令を出すつもりであります。それを見ましてよくよくこれがいけなければ発行者、著作者に相談をする、こういうふうなことになるのであります。
  96. 小松幹

    小松委員 何のために文部省が教師用書まで納本させてそれを審査しなければならないかというところに疑問があるというのです。私はそれを聞いておるのです。何のためにそういうことをしなければならぬのか。必要性は何にあるのかと聞いておる。
  97. 緒方信一

    ○緒方政府委員 五十六条の趣旨でございますが、この法文をごらんになってもわかりますように、教師用指導書が教育基本法の精神に沿わなかったり、学校教育法に定める学校教育の目的の達成に支障がある、そういう個所があるというような場合におきましては、教科書の検定をいたしましてその内容の適正妥当を期している趣旨から申しましても、その教科書を解説し、その教科書使用についての手引きになりますこういうものによりまして検定の趣旨も没却されるということに相なりますので、十分慎重に見て、そうしてもしそういう場合があったら、今大臣からもお答えになりましたように、発行者に対しまして訂正を勧告する、かようなことでございます。内容につきましていろんな学説等が出ることは、これはけっこうでございましょうけれども、しかし検定基準あるいは学校教育法、教育基本法等の精神に沿わない、こういうことであれば、やはり学校教育の目的を達成します上に支障がありますので、勧告をする、こういうことでございます。
  98. 小松幹

    小松委員 あなたの御意見ですが、あなたは大そうえらいですけれども、少くとも現在教育に従事している者はそんなあなたたちのような親心というか、ばあさんらしいような、じいさんくさいような考え方によって教育などしていませんよ。これはよう聞いて下さいよ。いいですか。教師用書を教育基本法に従ってやるのだというような、私は言葉は悪いけれども、そういうことを言うのはおかしいですよ。教育に従事する者は、教育基本法などは終戦後一字一句暗唱して教えられている。日記当番をさせられて一字一句間違わずに覚えさせられた。あなたたちよりもより以上によく知っている。ですから、宗教や政治というものを入れたらいかにいかぬかということを知っている。その教師の頭脳をあなたたちはそういうような簡単な役人らしい考え方で判断するから、こういうことになる。教師用書なんというものをあなたたちが見て一体何になりますか。教師用書というのは教育者の豆本じゃないのですよ。もっと、哲理もあろうし、科学もあろうし、その中に歴史的な史実も含まれている。反対意見もある。そうした学問の真髄というものが教師用書に加わっていなければ、ただ単なる英語の豆本みたいなものを教師用書に持ってきたら、それは今どき教育者は使いませんよ。そんな中学校の生徒の英語の豆本みたいなものは使いません。教養のある先生がこれを持って教壇に立つようなことはしませんよ。教師用書というものは、もう少し反対意見や学問の真理、学問として世界的に確立しておる学問、あるいは裏話、そうしたものもつっ込んで、真実というものをしっかり学問的に把握して、教師が自信を持って教壇に立ったときに、初めて教育が可能なんです。あなたたちは教師用書というのは豆本ぐらいに思っておる。そういうような考え方でこれを納本させて、教育基本法に照らしてこれがいいか悪いか見てやります――ちゃんちゃらおかしいというのだ。そんなこと、実際の話が教育者はばかにしておりますよ。そんな考え方で法律を作るから、教師用書まで納本させろというようなばかな法律を作ってくる。教師用書を納本させて何になりますか。あなたたちがそれを見て何がわかりますか。実際の話が、高等学校の科学の教科書、あるいは今日の世界の原水爆の問題を書いてあるのに、納本させて、これに文部省の役人がどれほどさじかげんをやれますか。実際のところ教師用書を納本させるという考え方は、一つ考えによって統制しようという考え以外に何ものもない。そんな考え方で教師用書を納本させるということは、私はもう一つつっ込んで言えば、文部省のあなた方のメンタリティを言うならば、これは教科書全部に現われている権威だ。オーソリティというものを振り回しておるのだ。日本教育の為政者というものはすぐにオーソリティを振り回す。昔は天皇のために、あるいは教育勅語のためにという前提に必ず立つ。今日は教育基本法というオーソリティを必ず持ってくる。大臣文部省の役人もオーソリティは教育基本法にと必ず持ってくる。教育基本法にというオーソリティを持ってくることに、権威を持ってくることによって一切を潜伏しようという考え方に立っておるならば、そういう考え方ならば、教育基本法よりも憲法をもっとオーソリティにしなさい。憲法を改正しようというものが何で教育基本法を尊重しますか。大臣、その点を答弁して下さい。憲法をオーソリティにしないで教育基本法だけを金科玉条に考えておる趣旨を問います。
  99. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 憲法を尊重することはむろんのことであります。この法律のどこを見ても、日本憲法を軽んずべしということは少しもないのであります。しかしながら学校の教育も非常に重要なことであります。  今文部省の公務員についての御論がありました。あなたが御熱心のあまり強い言葉をお使いになったと了解いたしておりますので、お言葉について私ども何も反撃する考えはありませんが、しかしながら教育目的の達成に支障がある個所があったり、あるいはまた検定の趣旨に著しく違反――教科書自身は検定基準に合っておるけれども、その仲介書たる手引書が検定の趣旨に非常に反しておるということになるとどうでございましょう。しかしこれは文部省の役人が出版者を呼び出して注意するというのではございませんよ。これは検定審議会に諮問して、発行者に訂正を勧告するということでございます。勧告は忠告で、従うと従わないとはその人の自由でございますけれども、教科書会社の人も日本人であります。日本の進歩発展を念願することはみな一つでありますから、日本のオーソリティである教育界の先輩耆宿ともいうべき検定審議会に諮問いたしまして、これは変えてもらった方がよかろうという時分に勧告をするということは、善意の勧告として受け取られるのであります。初めから文部省の役人がむちゃくちゃなことばかりやるといったようなことを予想して、それを描いて御議論下さると、えてしていいことでも過ぎてはかえって弊害があるので、これを平静に使うことはいいことで、昨年以来、また過日の行監等においても指導書、手引書について注意せいという意見は出ておるのでありますから、やはりこれはある方がいいと、私はかように考えております。
  100. 小松幹

    小松委員 やはり私の意見は、教師用書まで法律によってこれを文部省に出させて、いろいろ検定基準だとかあるいは教育基本法だとかいうようなことを言わないでも、そのくらいな常識はあるのですよ。あなたたちは絶対の一つの御幣、お札を教育基本法に持っておるが、大臣教育基本法よりも憲法の方を大事に思ってはいただけませんかと尋ねておる。どうですか。
  101. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 その通りであります。日本で一番大切な法律は憲法でございます。これは守りたいと思っております。
  102. 小松幹

    小松委員 それでは少くとも日本で権威というお札は憲法でしょう。しかるにあなた自身は憲法を、ときどき妙なことを言ってマッカーサー憲法だ、へったくれだと言っておりますが、これはどうなんですか。そうして憲法については難くせをつけるけれども、教育基本法は絶対の神様みたいに言っておるが、一体どっちが正しいと考えるか、どっちが位が上でしょうか。
  103. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 それは憲法です。ちょっと待って下さい。今の憲法が改正されるまでは絶対にこれに服従、尊重するつもりでおります。しかしながらこの憲法はわが国の占領期間中にできたものでもありますしいたしますから、これに改正の余地はあるものと思っております。しかしながら、改正されるその日の瞬間までは、厳密にこの憲法を擁護しようと思うのでございます。
  104. 小松幹

    小松委員 それでは教育基本法も同時に変えるつもりですね。それはどうですか。
  105. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 この教育基本法に書いてあるのは、平和主義、それから人権の尊重、この二つの原則からできておるのであります。たとい日本憲法が変りましても人民主権のこと、平和主義のこと、人権尊重ということ、この三つは私は変るはずはないと思っております。この三つが変らぬ以上は、たとい憲法は変りましても、今の教育基本法は変るものじゃなかろう、かように見込んでおるのであります。
  106. 小松幹

    小松委員 それじゃとにかく憲法が変るまで憲法を標準にしてもいいとおっしゃるならば、あなたはこの前私とユネスコ問題で論戦したときも、どうもへんてこりんな考えだった。ユネスコの問題であれしたときは、どうも平和教育はしたがらぬ――憲法第九条ですか、戦争放棄の条項なんというのは、平和教育をどんどんやっちゃ悪いような言い方をしておったが、一体教育基本法は尊重するけれども憲法はどうでもいいんだ、オーソリティは教育基本法だ、これは変えぬのだ、こうおっしゃるのですか、どっちですか、どうもはっきりしない。
  107. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 あのときも私は、平和主義の教育はいいんだ――ただしかし、通俗でありまするが、今平和運動というものに、えてして一種の特殊なアトリビュートがつくんですね。そういう意味の平和運動、平和主義は困るというただし書きはつけておるので、ほんとうの平和運動、平和主義、恒久平和ということなら私は賛成であります。ただ私は、言わない方がいいと思いまするが、このごろ平和を守る会とか何とかいったような、別の意味に平和を解する人がありまするから、そこでただし書きをつけておるのでございます。
  108. 小松幹

    小松委員 ここで平和論争をしようとは思いません。  そこで、ここには文部省の人もおられるが、文部省が教育の指導をする場合に必ずオーソリティというものを持っておるのです。地方の学校に行ったら、文部省推薦とか、文部省主管とか何とかいうと、絶対の神様の書類みたいに言っておるのですよ。それで何とかいう講習会には、文部省の役人が旅費かせぎと、夏の休みあたりは講習費かせぎでみな出てきましょう。そしてこの守り本尊の教育基本法によって、めったに出さぬような、ニュース・ヴァリューのようなあれを押しつけて教育しておる。だから今日の学校教育における文部省の立場というものは、非常にオーソリティを押しつけられておるのです。ヴァラエティに富んで、いろいろな角度からこの教育内容なりあるいは真実の研さんというものがなされないで、何かといえばすぐに文部省の考えだ――はなはだしい校長になりますと、文部省の一口々々というものを金科玉条に考えておる場合があるわけなんです。こういう現在の未開発の日本の社会にあって、教師用書まで文部省が差し入れされたんじゃ、私は日本教育というものは箱詰めになる、重箱になると思う。どうかこの点は一つ、法律は何ぼ野党が言うても変えないとするならばやむを得ません、教科書は検定をとっても、しかし少くとも教師用書だけは真実を書き、いろいろヴァラエティのある学問の内容というものを克明に書かせていただきたい。そうでなくては、納本しろと言うと納本するような――あのAという出版会社はどうも左がかっておる、右がかっておる、編さんがどうか、公正でないということになると、出版会社は生活です、何百万円、何千万円かかっておりますから、しっかりしたものを出すことというわけで、遠慮して、書きたい項を書かない。だから大学教授の著者が、このことは歴史の裏話として真実をはっきり出したいと思っても、出版会社の方が遠慮します。これは事実なんです。だから教師用書にあまり手を加えないでいただきたい。そして真実というものを――あの戦時中でさえも、二千六百年は間違っておるという本があって、わずかに一、二冊の書物を、私たちは図書館に行ってその真実書物を見、南朝が正しいか北朝が正しいかという意見も、南北正閏論を、みずから図書館に行って特殊な書物によって研究したことを考えたときに、やはり教育というものは、いろいろな格好の論説なり意見なりというものを聞かしてやりたい。こういう意味で、教師を啓蒙する意味において、私は教師用書にあまり文部省が干渉してもらいたくない。それも教壇に立って、かわいいかわいい子供を教育する場合に、何も自分思想の持ち主であるからといって、それを教壇上からいたいけない子供に教育するようなあほうはおらない。遠慮しいしい、そしてコントロールしていくのです。これは良心ある教育者のすべてです。特殊な一人や二人があったって、大勢を支配するものじゃない。角をためて牛を殺すという話もありますが、そういう考え方でこの法律が出たとするならば危険きわまりない、私はこういうふうに思って、将来のために、文部省の権限を拡大されたこの法案、特に教師用書あるいは拒否権の問題については、いささか危惧の念を持つ。このことについての大臣の率直なお考えと、撤回する意思があるかないか、それだけを質問として、一応終ります。あとは採択の問題を一つだけ尋ねます。
  109. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 今小松さんからいろいろ法律の運用その他について御表明のことは、敬意を表して守りたいと思います。角をためんと欲して牛は殺したくないのであります。  最後の、撤回する考えも、この点を修正する考えも、遺憾ながら今持っておりません。
  110. 小松幹

    小松委員 そこで採択の問題に移りますが、終戦後検定本が初めてできたときに、ちょうど何といいますか、みんなが競馬の列に並んで、一瀉千里でずっと走ったと思うんです。ところがもはや十年たって、大体優勝はきまった。検定という、最初はめくら撃ちで、だれもかも検定本にかかっていったけれども、もはや資本の点と、組織、実力の点と、なわ張りの点で、大体検定のなわ張りというものは安定したのです。今日まで、安定するまでには、末端に行政監察とかいろいろあったと思いますが、今後は現状を維持しても、今日までのようなことは起り得ない。もう優勝劣敗できまったのです。勝負あったのです。だから大きい図書会社というものは、何といっても地盤を築いたのです。だから動かすべからざる地盤と、なわ張りと、組織と、一つの方向性を持ったのですから、今までのようにそんなにひどい競争はしなくてもいいわけです。ところが文部省に採択の権限、発行のそういうものが登録されてくると、これはもういよいよ資本家の安定勢力たり得る。これから先は末端で小さく競争しなくてもいい。先ほどからここで質問があったが、文部省の役人の足を一木ばんとぶち折りさえすれば、――大体自分のなわ張りががっちときまっておるのですから、目ざすは文部省一本です。だから危険があるのです。採択の面においても危険がある。今まではどれが勝つかわからぬ。いろはのいの字からやったのですから……。ところがずっと出て、早いものはがっちりとなわ張りしてきたから、今後は学校にちょくちょく出入りして、指導員を派遣したりなにかしてごきげんをとる必要はあまりない。今後はもうもっぱら文部省のごきげんをとれば、――大体大図書会社は安定勢力を持って、これは公正取引委員会から考えても公正な独占企業になってしまう。この独占企業と文部省が合体するわけです。おそるべき大疑獄を予想せざるを得ない。これははっきりわかっておるのです。今までさえも、文部省の裏幕を話せば、もうとんでもない。あの豆本を作るにしても、――私の知っておる出版会社へ当ってみても、文部省には困る、電話一本で飲みしろを払わせられて大へんだと言っておるのです。実際の話が、電話一本で、きょうは何をやるからツケはお前たちに回すぞ、そう言われると、いやと言えない。文部省から豆本の材料をもらわなければならぬから、文部省出入りの出版会社は、文部省様々なんです。それに持ってきて、今度は教科書というものが固定して、文部省の権限の中に入るならば、採択の面において何をかいわんや。文部省の大臣の足をひっつかまえるか、あるいは教科書課長の足をひっつかまえるか、指導員、調査官の足をひっつかまえるか、これさえ離さなければ問題はないわけなんです。この点で私はおそるべき教科書文部省の中から生まれてくると思う。この点採択の面でいま一度もとに返して――今より先は、そう心配せぬでいい。もう勝負があったのです。教科書会社は勝負があったやつを、どかしたりけ落したりするようなことをせぬで、今のままにほっといても、そんなに競争はしないのです。自然の競争はありますよ。ありますけれども、その競争というのはもう大した競争はない。今までは、縄張りが一つもない、ゼロから始まったのですから競争がありました。この点大臣どう考えますか。今度出しているこの教科書法案文部省の権限が採択の面について拡大されたが、こんな心配はございませんか。
  111. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 この案では、教科書の採択に関して文部省または文部省の公務員は関係することはございません。最後の決定権は各府県の教育委員会において持っております。その以前に選定協議会というものがあって、実質上は選定協議会でいたすのでございます。しかしながら官庁の風紀というのはいかなる場合でも厳正でなければなりません。及ばずながら私は、今あなたがおっしゃったようなことが毛頭でもないように、みずからも戒め、また部内も戒めたいと思っております。
  112. 小松幹

    小松委員 特にこの三十六条に「報告及び立ち入り検査」というのがあります。出版会社に法律でしかも文部省の役人が何を立ち入り検査するのかと思いますが、出来高はどのくらいあるかということを検査するのかもしれませんけれども、これは執達吏か税務署以外には、あまりそういう営業実績などについて立ち入り検査はしません。それを教科書に限って立ち入り検査をするというようなことは、一体文部省のどんなお役人が立ち入り検査するのですか、それをはっきり言っていただきたい。
  113. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 教科書は非常にたくさん需要があるものであります。またこのごろ折々あるように、海外から引き揚げなどで帰ってさましたら、急にそれだけの補充もしなければなりません。その予備の本を持つ義務がありますけれども、ややともすると怠りがちであります。それゆえに、われわれの方の案でも、社会党がお作りになっておる案でも、やはりこれだけの権限は持って、どうなっておるだろうか、いつでも子供がいい教科書をすみやかに得られるような予備手段は、国家のために講じたいと思っております。人の工場へ行ったり、人の倉へ行って検査することは、愉快なことじゃございませんけれども、やはり日本教育の安全のためにやるのでございます。その方法はここに書いてある通りの公正な方法でいきたいと思っております。
  114. 小松幹

    小松委員 私はこういうことが法律の前面に出るということを非常に悲しむのです。悲しむということの一つのわけは、やはり法律の面にそういうことを規定せねばならないような社会情勢なり、あるいはこうした情勢をかもしたというその現実に対して、いささか悲しむという事実もあります。それがまず一つであります。同時にもう一つは、法律によって文部省の方が立ち入り検査するということが行き過ぎでないかということも、また非常にさびしい気がするわけであります。ここまでしなければ日本教科書行政というものは成り立たないのか、立ち入り検査までしなければ日本教科書制度というものは確立しないのか。もう少し大衆というものに善意を持っていただきたい。法律をもってそういうきめをしておくということは、一般大衆なり国民は愚なるものである、間違いを犯しやすいものである、立ち入り検査をしなければ言うことを聞かないものであるというような前提意識を持ってこういう法律が生れたとするならば、これは善意なる法律でなく警戒法律である、私はこういうような感じがしてならない。この法律を今後悪用するならば、どんなにでも悪用できる、こういうことを考えるのですが、大臣所見を伺いたい。
  115. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 今大衆という言葉がございましたが、大衆すなわち教科書の使用者を保護するために――教科書会社は多く資本主義制度でありまして、もうかることが一番いいのでありまするから、予備本などはなるべく少くしておりますので、大衆の利益のために資本主義経営に向ってこれを検査する。悪意じゃございません。あなた方の方も大衆を保護しようというお考えで、教科委員会の諸君がこれと同じような権限を行うことを規定されております。これに私の方は敬意を表しておるのです。しかしながら人間の権利をも保護しなければなりませんから、職員は身分を示す証明書を携帯して、にせ者じゃないぞということを示して、特に貯蔵の本はございますか、こういうふうなことをやるのでございます。これに全く大衆本位の規定でございますから御了承願いたいと思います。
  116. 小松幹

    小松委員 私の今日質問言葉の中に、文部省のお役人さんのことについて、いろいろ言葉が悪かったり、事実でありますけれども、それを公表したいろいろな悪ふざけな言葉について取り消しておいた方がかえっていいと思います。あるいはちゃんちゃらおかしいというような言葉を使いましたけれども、これは俗的な言葉として取り消しておきます。  最後に私は大臣にお伺いしたいのは、今後の教科書検定の基準というものを考えるときに、将来の日本の子供を育成する、こういう考え方に立つならば、日本人の一つのあり得べき姿、人間像というものをしっかり描いてそこにポイントを合わせなければならないとするならば、一体将来の日本人の育ちいく道――遠き将来かもしれませんが、人間像というものについて一体どのようなお考えを持っておられるかということと、さらに過去の教科書は、先ほど言ったように権威にたより過ぎておる。オーソリティというものを持ち過ぎている。天皇のために、あるいは何のためにと必ずオーソリティを出して子供の教育をしておる。さらに単純主義であったと思う。二者択一である。これでなければこれ、これでなくてはこれという考え方の前提に立っている。だからバラエティに富まない単純主義の上に立って教科書というものが編さんされている。さらに立身出世主義の上に立っている。末は博士か大臣か――末は代議士にならなければならぬという教科書はないと思いますが、末は博士か大臣か、今でも盛んに立身出世主義をあおっている。権威主義です。私は教科書の基準になる心事、メンタリティは必ず人間像と関係があると思う。こういう二点について、少くとも教科書法を打ち出したときの文部大臣である清瀬大臣が、将来の教科書の基準となる人間像について一言ここで言っていただきたい。同時に、その教科書の中ににじんでいく心事、メンタリティというものをどこに求めているか。この反省の上に立って率直に申し上げて、それを聞いて私は記録の上にとどめたい、かように考えます。
  117. 清瀬一郎

    清瀬国務大臣 私は、教養と育成、この二つを縮めたのが教育と思っております。すなわち、いかなる日本人を作るか、いかなる教養ある日本人を育成するかということがもとでありまして、あなたの言葉を拝借すれば、日本人の現在及び将来に望む人間像を描いて、それに接近せしめることが教育と思っております。ただいま教育の基準として示されたものが教育基本法でございます。ここにありまする通り、平和的な国家及び社会の形成者を作るのでございます。平和的な国家及び社会の形成者としては、自主的精神に満ち、心身ともに健康な国民でなければなりません。平素の心がけとしては、真理と正義を熱愛して個人の価値を尊び、勤労と責任を重んずる、こういう人でございます。ただ私が少し注文をつければ、この教育基本法は、まだわが国の独立しないときに編さんされました。すなわち、独立国家国民としての資格、教養を得るということが、ここにはありませんけれども、付加されれば一番いいかと思います。
  118. 佐藤觀次郎

    佐藤委員長 本日はこの程度とし、次会は公報をもってお知らせいたします。  これにて散会いたします。    午後五時三十一分散会