○辻原
委員 このことも私は非常に期待を持っておったわけです。いたずらに映画
審議会が企画その他に対する統制を加えるような形に動いたのでは、これは身もふたもないし、そういうことはすべきでない。しかし今市中を横行している映画を相当量子供が見ておりますが、どの
一つを見ても、これなら幾分子供たちに
教育的な価値があるなんというものは
——非常に
程度の高いものは別ですけれ
ども、チャンチャンバラバラの小さい子役、あるいは子役に毛のはえたような者を偶像化したり英雄化したりするような映画に、全く目を奪われてしまっている。こういう点について、そういうものを規制するのじゃなしに、それよりももっといいもので指導していくということに対する世の力があっていいのじゃないか。そういうことを期待するがゆえに、その映画
審議会というものがそういう指導性をもってやられておるのかどうかを私は承わっておきたいのでありますが、係の方が見えてからその御返答をいただくことといたします。
次に、教科書制度そのものに対する過去、現在、未来、こういうことを想定いたしまして、どういうふうに教科書というものを
——まあ、これは大ざっぱでありますが、
考えて作っていったらいいのか。それは一口に言えば、この法案でいいんだ、こうおっしゃるかもしれませんけれ
ども、そうじゃなしに、われわれが
一つのものをつかまえたときに、こうありたい、過去はこうあって、こういうところに欠陥があった、そういうところを
——ただ最近市中でいろいろ出ている素朴な意見、これはもちろん傾聴すべきでありますが、そうじゃなしに、
わが国でとった教科書制度の変遷の過程から見て、一体将来教科書制度というものをどこに持っていったら一番理想的なんだろう、そういうことに対する御見解を大臣からも私は承わっておきたい。
そこで御参考に少しく昔のことをちょっと思い出してみたいと思うのであります。これはまたいずれ
教育委員会法のときにでも大臣から御所論を承わりたいと思うのでありますが、それは
日本の
教育それ自体が、大東亜戦争を
一つの境にして、それ以前とそれ以後では
教育の形態は全く根本的にあらたまっているということは、私の認識も大臣の認識も、これはひとしく間違いないところだろうと思います。教科書制度にいたしましても、私はやはりそういう認識に立つのであります。当時われわれとしては、
教育について戦時中も戦前もさしたる反省もなくしてやってきたのでありますが、それがああいう事態に至って初めて外国の諸制度等にも目を開いた。とるべきところはとらなければならぬし、また占領政策としてある部分については持ち込まれた点もある。しかしやはり戦後の民主
教育というものについては、これは遺憾せんわれわれがどう力みましたところで、いわゆる民主主義それ自体、あるいは民主
教育それ自体、あるいは民主主義による
教育方法、
教育理念、こういうものはやはり民主主義先進国に学ばなければならぬということも、これは私は事実であっただろうと思います。そういう意味合いにおきまして、
一つの指標として当時採用せられましたものが、第一次
教育使節団あるいは第二次
教育使節団の勧告であったと思います。第二次使節団は特に教科書等の問題に触れておりませんが、第一次
教育使節団の勧告を見ますると、特に教科書について力説をいたした点があります。これは過去の
日本の
教育制度、その中にあった教科書制度に対して、少くとも民主主義
教育をやろうとし、またやっておる人たちが見た場合に、こういう
考え方を持ったということは当然ではないか、こういうように私は現在においても
考えるわけであります。従いまして御参考にその部分を引用いたしてみますると、次のように述べておるのであります。「
日本の
教育に用いられる教科書は事実上
文部省の独占となっている。小学校用の教科書は
文部省において直接これを作成し、中等学校用の教科書はこれを作成せしめて
文部省の検定を受けさせることになっている。調査した
範囲では、教師は教科書の作成にも選定にも十分相談にあずかっていない。カリキュラムについて前節に論じた原則が健全な至当なものとすれば、さらに教科書作成並びに出版も一般競争にゆだねられるべきであるという原則が生れてくる。
機会さえ与えれば、教師も視学官も教材の工夫と評価とにおいて十分有能であることを示すであろう。多数の努力によってこそ、新しいすぐれた考案を発展せしめる一そうよき
機会がくるものである。主として経済的
理由により教科書の選定を全然教師の自由にゆだねてしまうことはできない。教科書の選定は一定の
地域から出た教師の
委員会によって行わるべきである。
日本の
教育者たちのみがよくこの仕事をなし得るのである。他国の
教育制度は、手引きとして役立つかもしれないが、これを盲
目的にまねるべきものではない。
日本の
教育の転換にはきわめて重大な役割を持つある教授分野が存在するはずである。」こう言っておるのでありまして、私はこういった最近の
教育の傾向、これを
考えましたときに、決して私は大臣とは申しません、よく一部には、いわゆる占領行政の行き過ぎであるとか、他国から押しつけられたものであるとか、いろいろ論議はありますけれ
ども、しかし静かに謙虚に立ち返って
考えてみた場合には、必ずしもそうとは申せない。私が今引用いたしました中にも、やはりそういった指標を与え、そうして
日本独自の制度を制度化して持っていくべきであるということを、使節団として報告をしておると思うのであります。私が特にこういうものを読みました趣旨は、民主主義というか、今日の
教育基本法に定められている、個々の人格の完成を目ざし衆知を集めた形において
教育を運用していこう、こういう形態をとる
教育の中にあって使われるべき教科書というものは、やはり衆知を集めたよいものを作り、そうして同時にその教材というものは、自分が行おうとするその
教育に最も役立ち得る教科書を教師が選定する、こういう原則をまず確立すべきことが一番かんじんではないか。従ってよく教科書についての論議の中に、いわゆる作る方を
制限しておいて、数を少くして、そして使う方の選定眼というものを勢い狭めて、そして画一的なものをもって
教育をやろうという
考え方が、非常に常識的に起りやすいのであります。私はそうでなく、極端に言えば、もう教科書は検定とかなんだとかいう制度自体よりも、ほんとうに使う方の良識というもの、あるいは独断ではなしに、それを活用する人々が真に
教育的な見地に立って
考えられるならば、いかほどの数があってもよろしい。そして選定はその人たちの良識によって自由に選定していく、こういうことが私は教科書といえ
ども理想ではないか、こういうふうに思うのであります。あなたの
提案理由の中にも書かれておりますように、これもやはり教材であり、主要なるものだけれ
ども、教材であるとする限り、教材という以上はやはり教師が使うのでありますから、それが私は
一つの理想ではないかと思うのであります。そういった原則的
事項について大臣はどういうふうに
——過去における
日本の教科書制度、また今日における教科書制度、また将来そういう理想をもって近づこうとする場合に、あなたとしては、教科書についての基本的なお
考えは那辺に置かれておるのか、この
機会に大臣の該博な深遠な御高説を承わりたい。