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永井委員 それはあとで伺うことにいたしますが、私がここでいろいろなにをするのは、たとえば
北海道が災害にあった、そこに私が選挙区を持っておるから、その選挙区のためには熱心で、選挙区向けの放送をするんだというような、そういうけちな
考えで私は質問しているのじゃありません。また
大臣にいろいろなにしたり、
大蔵省当局に申しますのも、私はことしの
現地の
凶作のこの悲痛な状態というものを見るにつけましても、
政府の代表として農林
大臣代理が行かれた。また正力
大臣の所管の
開発庁からも次長が
現地に行かれた。
農林省からも渡部
農林経済局長初め官房長等も行かれた。衆参両院の農林
委員も行かれた。自民党も行った、社会党も
現地に行った。そうして
罹災農民に対しては、気を落さないでしっかりやってくれ、自分たちは皆さんの
窮状はわったから、これに対処する措置は中央で十分やるからといって、それぞれの人たちがそれぞれ
現地において約束をしてきておるわけです。また同胞として、今晩食べるものもないというような
窮状、それから夜寝る夜具も持たないというような、あの悲痛な開拓
農民の
窮状を見たならば、この現在の
状況を見てでも、政治がいかに正しく行われないで、こういう無事な民が正しく自分の天職に努力しながらこういうような悲痛な状態でそのまま放置されているかということについて、政治家としてわれわれの良心がうずくわけです。しかも三年連続の
凶作を受けて、ことしは何十年来ない大
凶作を受けている。この大
凶作を処置する
態度としては、従来の例がごうであったからとか、あるいは
政府の
責任においてこうやるとか、野党だから
政府の措置に対して攻撃するとかいうことではなくて、ほんとうに政治が国民の苦しみに触れ、喜びに触れて、そうして一体の
関係で政治が正しく行われるというためには、それぞれの
立場におる者がまじめにこの問題を処理しなかったならば、国会が国民の信任を失います、
政府が国民から信任を失います。そういうことがあってはならないのでありまして、やはりこの
凶作に対する
政府なり議会なりの現状の把握の仕方、及びこれに対処するところの政治の具体的な表現というものは、
予算の
総額なり
予算の内容によって実証する以外にはないわけです。
言葉の上だけではどんなに慰めたって、お気の毒ですと悲痛な顔をして涙をこぼすようにして慰めたって、そんなものでは腹はふくれないのです。ですから
予算が
政府なり、議会の具体的な政治の表現であるから、
予算の最終
決定の
段階に来ておるから、この
数字の
計算の
基礎がどうあろうと、何であろうと、この集計された
予算の
総額によって、四百億に近い
被害を受けた
農民の本年の
生活をささえることができるかどうかということを当面論議しているわけです。農政の問題として今後いろいろ論議する恒久対策その他の面についてはいろいろ問題を持っております。しかし事は農政以前の問題で次元が違うのです。われわれは食うに困っておる人たちをいかにして救うかという農政以前の社会問題として今論議している。それが、単にこういう
基礎によって、前例によってこうやった、こういう
大蔵省当局の答弁だけであって、この結果が
農民を正しく救うことができるのだという確信のある答弁は
一つも得られないのです。そこで正力国務
大臣がここに来られて、二十九億の予備費から支出することを
要求しているということですが、
要求しているというその事実は認めます。しかしその結果が得られなければ、
政府の政治的な
責任というものは果せないわけです。それから道民はそれによって救われないわけです。こういう問題はなおほかの同僚諸君も言われるから、私は具体的な問題はあとに譲りますけれ
ども、この問題を処理しようとすれば、これだけの
予算で処理できる、これだけの
予算でなければ処理できないということも成り立つわけです。問題はそれによって羅災
農民が救われるか救われないか、政治が正しく行われているかどうかということの
価値批判がそこに生まれるだけのことだと思うのです。シナでは災害が起ると、従来はどうやっておるかといえば、災害が起ったところの町村長なり知事がこの何千という羅災
農民の集団をここに集めて、この者たちは水害によって災害を受けた気の毒な者であることを証明する、天下のそれぞれの為政者はこれに対して適当に同情と処置をしてもらいたい、こういう紙一きれを与えて旅に出す、この村から追い出すのです。そうすると隣村へ行ってこの書類を見せる。そうしてその村に長く滞在されるとその村を食いつぶされますから、そこでその村は大急ぎで町村長がおかゆを作って丁重にもてなして、次の村へ送ってやる。次々と送ってやるわけです。そのうちに、出発のときには二千人おったのが、半年もすると千五百人になり、千人になり、五百人になって、だんだん雲散霧消していく。その羅災民はどこかに消えてなくなってしまう。災害が起ればみんな一札つけて送り出す。こういうやり方でも問題は解決するのです。解決するというなら
予算は一銭もなくったってできるのです。しかしそういう解決の仕方でいいかどうかということなんです。一兆何千億という
予算を使っておるのです。予備費も何十億というものを持っておる。しかも聞けばこの予備費から治安費を捻出しようというような――これはうわさかどうか
大蔵省から明確に聞きたいのですが、そういう
予算さえ出そうとしておる。そうしてこの何百万という羅災
農民に対する
予算はこれだけしぼった、しかも冷酷な
計算の
基礎によってしぼった。これで実際に救われるか救われないかということは別問題です。
計算の結果としてこうなりましたという、生きた政治でない。
窮状に
基礎を置いた
予算というものでない、生きた
予算でなくてこの
数字はみんな死んでいる。冷酷むざんな血がこの
数字の中に流れておる。あたたかい同胞としての血が少しも流れていない。こういう
予算で一体いいのですか。僕は国務
大臣の決意を聞きたいと思う。