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加茂参考人 参観は大体撫順を発しまして、三等寝台車十一両を連結して、約三百二十何名行きましたが、衛生車あるいは食堂車、ラジオをつけて、いわゆる客
扱いをしてくれました。そうして車掌さんもお客さんと呼んで、客
扱いをして、相当感じのいい
取扱いを受けました。そこで北京から漢口、それから武漢三鎮、それから浙江の杭州、上海、南京、天津、ハルピン、元の新京、鞍山、奉天とか撫順、こんなふうな都市を参観させられました。同時にその近郊の農村あるいは工場、商業
方面の
関係あるいは
労働者の社宅の
関係というような
状況を見てきました。大体藩陽におきましては、私藩陽におきまして元警察署長をやっておりましたので、親し藩陽の
状況を知っております。しかし
日本の資本の入ったいわゆる奉天の鉄西地区は、戦争に必要な物資を生産する工場が相当ありましたが、この
方面はあげて平和産業に切りかえた。たとえば三井が軽工業として機関銃の修理、大砲の修理あるいは電線
関係とかいろいろ戦時物資を生産しておったものでありますが、あげて農具または旋盤機械いわゆる母機を生産しておるというふうに変っておった。これは私
どもの見た範囲では、なるほどこれは平和産業に切りかえたものであるということを認めました。撫順に参りまして、撫順は大体満鉄の経営で、これは満鉄のドル箱ともいわれたのでありますが、これまた私
どもは撫順における液化
作業は、
日本がそのままやっておったときよりもなお生産力は低下したのではないかというふうに考えておりましたが、
中国側の説明によりますと、いろいろ
ソ同盟の援助を受けまして、新しい機械を据え付け、また
中国人の力によって一五〇%も増産することができたという
報告を聞きました。また保健衛生あるいは
労働者の
待遇関係というようなことにつきましても、
日本がやっておった当時に比較いたしますと、非常な
待遇の向上を見ております。たとえば職工は小さい社宅におりましたが、現在では文化的なアパートに住んでいる。ガス、電気、寝台付の宿舎をもらって最も低廉な三円または 三円五十銭の家賃を支払うなら、現在文化住宅に住むことができるというような
状況から見ましても、
労働者階級の
待遇が非常に変っておるということも見ました。生産におきましても、
日本が経営しておったときよりも一五〇%も向上しておるというようなことがほんとうだとすれば、やはり今までの世界を新しく変えたという面から、また
中国の
労働者が目ざめて自覚ある生産に従事をするならば、かくのごときこともあるであろうということを感じることができました。新京に行きますと、東洋一といわれている自動車製造工場か大体九分通りできておりました。
大体十月までには新しい
中国の手によって、初めて十月一日の国慶節には北京に顔を出すというようなことでありました。私
どもが行った当時は、まだ九分通りの完成でありまして、生産するところまでいっておりませんでした。しかしながら、ロシアから百台なら百台のいろいろな自動車のでき上ったものを持ってきて、それを分解して、さらに作り直すというようなことによって、職工
たちのそうした自動車製造の技術を鍛練しておるということを現在やっておる。毎日三台、四台というものを、同じものを分解しては新しいものに作りかえて、この
作業をやっておるということを聞きました。大体これができ上るならば、月三万台できるという生産能力を持っておるものであるというようなことも聞きましたので、その
方面から申すならば、相当の飛躍だということを感じました。またハルピンの亜麻工場、これは、昔
日本かやっておる当時は全然なかったのでありますが、ロシヤの技術を入れまして、これも相当な規模の大なるものでありました。職工が約一千五百人くらいおりまして、月生産力がどのくらいであったか忘れましたが、大体亜麻を工業用に使う生産、あるいは
一般の商品として出すような生産をやっておったようでありますが、その規模の大なることは、相当工業上の発展に寄与するものが多いものであるということを聞きました。また、北京郊外から約四時間ばかり北の方に行きますと、官庁ダムというのが建設されております。これは
日本が
中国におる時代には、やはり
日本の技術をもって、あの永定河のダムを建設しまして、水力電気をやるということで、相当の機械を持ち、あるいは材料をもって作ることになっておりましたが、何分にも特殊な泥濘の
関係その他で、
日本の技術ではどうも満足な建設はできなかったのである。従ってこのダムの建設は、中途にしてやめたのであります。その材料はいまだにそこに残っておりまするが、あの材料は
日本が建設に使用したのであるができなくして、中途にしてさじを投げたものである。それをわれわれ
中国人民は、こうしてわれわれの手によって、このダムを建設するものであるというような
状況も見ましたか、古来
中国は、歴史において、あの永定河の災害をとめることができなかったので、われわれの時代において、われわれの手によって、この永定河のダムを建設したものであるというように誇らかにわれわれに告げておるということを感じました。なるほど、私
どもはほんとうに
中国人民のそうした技術に対しては、やはり見直さなければならぬというような考えを持ったのであります。また紡績工場におきましても、
日本側その他から接収したものは機械を変え、生産力を上げて生産にいそしんでいるというような
状況も見て参りました。そういうふうなわけで、従来私
どもが考えておった
中国人というものは、そうした工業に関する技術、あるいは農業に関する農民の技術等あらゆる面において相当立ちおくれているのではなかろうかと考えておったのが、かくのごとく、解放後短期間に、こうした社会的改造または社会的建設をやっているのは、これは先ほど申したように、私
どもの
中国人民に対する見方がやはり古い頭ではなかろうかというふうに考えざるを得ないのであります。