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1956-07-21 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第16号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十一年七月二十一日(土曜日)     午前十時三十七分開議  出席委員    委員長 原 健三郎君    理事 臼井 莊一君 理事 中山 マサ君    理事 櫻井 奎夫君 理事 戸叶 里子君       安藤  覺君    大橋 忠一君       高岡 大輔君    眞崎 勝次君       眞鍋 儀十君    井岡 大治君       中井徳次郎君    三鍋 義三君  委員外出席者         外務事務官         (アジア局第二         課長)     小川平四郎君         外務参事官   法眼 晋作君         厚生政務次官  山下 春江君         厚生事務官         (引揚援護局         長)      田邊 繁雄君         参  考  人         (ソ連地区引揚         者)      橋本 豐富君         参  考  人         (ソ連地区引揚         者)      大貫 武平君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      露木 清作君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      加茂  熾君     ————————————— 七月二十一日  委員逢澤寛君辞任につき、その補欠として安藤  覺君が議長の指名で委員に選任された。     ————————————— 六月二日  海外胞引揚及び遺家族援護に関する件 の閉会中審査を本委員会に付託された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  派遣委員より報告聴取に関する件連及び中共地  区抑留同胞引揚に関する件  ソ連地区抑留胞引揚促進に関する件     —————————————
  2. 原健三郎

    原委員長 これより会議を開きます。  ソ連及び中共地区抑留同胞引揚に関する件について調査を進めることといたします。本日は、本件に関し、残留者状況及び引き揚げ実情調査するため、先般のソ連地区第七次帰還者橋本豊富君、大貫武平君及び中共地区帰還者露木清作君、加茂熾君に御出席を願っておきましたが、参考人として事情を聴取するに御異議はありませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 原健三郎

    原委員長 御異議なきものと認め、さように決しました。     —————————————
  4. 原健三郎

    原委員長 なお、参考人より事情を聴取する前に、過日、ソ連地区引き揚げ状況及び受け入れ援護状況調査のため、舞鶴に派遣いたしました委員より、その調査報告を求めることといたします。大橋忠一君。
  5. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 これより、ソ連地区第七次引揚者引き揚げ状況及び受け入れ援護状況について、舞鶴における実地調査の結果を、私より簡単に御報告申し上げます。  本委員会から派遣されました委員は、中馬辰猪君、井岡大治君、中井徳久郎君及び私の四名でありまして、一応私より調査概要を申し上げ、他の委員より補足する点がありますときは、御報告を願うことといたします。  今回のソ連地区第七次引揚者は、総員六十二名で、その内訳を申し上げますと、元陸軍の未復員者二十一名、一般邦人三十七名、子供二名、朝鮮に籍のある者二名であります。その性別は、男子五十七名、女子五名、うち子供各一名となっております。抑留地別に見ますと、ハバロフスク五十九名、カラガンダ、ツェーレンツ、樺太各一名でありまするが、カラガンダ及び樺太抑留されておられた方々も、前にハバロフスクに移動し、帰国までの間収容されていたものと見られますので、最終残留地は、山田大将を除いては、全部ハバロフスクより帰国されたものであります。なおマリク名簿所載の有無については、軍人の部に記載されていた者二十二名、民間人の部三十七名で、名簿に記載されていない者が今回は五名帰ってきております。  さて、私たち派遣団は、去る六月八日夜、舞鶴に着き、翌九日、入港する引揚船北斗丸を迎えたのであります。午前九時半過ぎ、北斗丸から引揚者方々が、病人を初めとして、四回にわたりランチで平桟橋に上陸されたのでありますが、担架で運ばれる重患の病人の方、日赤援護局の職員につき添われた護送の病人の方、わずかな身の回り品しか持たず、粗末な紺の綿服または旧陸軍の軍服に身を包まれた方、綿のワンピースを着た婦人等さき引き揚げより幾分よくなったと思われるところもありますが、そのやつれた痛々しい姿は、抑留生活の辛苦のほどが察せられ、非常に感にたえなかったのであります。  御承知のように、今次の引き揚げは、さきに五月九日ブルガーニン・ソ連首相河野代表モスクワにおける会談の際に、ブルガーニン首相より一部日本人戦犯釈放するという言明より、十二日、山田大将を含む二十八名の釈放者名簿が、イシコフ漁業から河野代表に手交され、その後引例船北斗丸の出港までに、新しく三十四名の釈放者が追加され、合計六十二名が帰国することとなったのでありますので、引揚者の大部分は、現在までに刑期を満了した者、三分の二以上の刑期を終え、特に許された者、老人、病弱で特赦された者及び判決当時未成で服役した者に限られて帰されたようで、病人が約半数近い二十七名に上っております。病状は、高血圧九名、肺結核四名、脳溢血三名、その他心臓弁膜症肺浸潤心臓衰弱等血液循環系統呼吸器系統病気がおもで、これらの病気は、風土食糧及び激しい労働に基因するものと思われるのであります。なお、残留されておる同胞が、このように一日々々と重労働風土に心身をさいなまれ、かつ病魔に侵されて、生命をすり減らしていく現実思うとき、人道上の問題として、引揚げ問題の早期完全解決と、慰問品定時発送がゆるがせにできないことを痛切に感ずる次第であります。病人の方は、上陸後直ちに全員舞鶴国立病院に入院し、手厚い治療を受けたのであります。次に、援護局長室において日赤乗船代表より報告を聴取し、また稲見団長橋本団長引揚者代表とひざを交えて懇談したのでありますが、これらの方々の話によって明らかになりました事情について、そり要点をここに簡単に申し上げることいたします。  まず慰問品の問題についてでありますが、前回の引き揚げに際して、大成丸に積載していきました六千三百九十個の慰問品は、大体抑留者のほとんどが受領したようでありまして帰国された稲見団長より、初めて全員慰問品が渡ったので、みな大へん感激し、故国の人々に手紙を出そうと思っても、はがきの制限もあって、礼状の行き届かなかった点は残念ですと述べられました。慰問品のうち、バターは、労働等からだが衰弱しておるので、非常に役立ち、このバターからだを回復した者も相当おり、餅米の粉は、ふかしてだんご、もち等にしたりして、大へん利用価値があって喜ばれ、またビタミンはその後ソ連の医師が飲ませるようにしておりますが、栄養障害等に対しては、特に必要であるようであります。新聞につきましては、送っても全部検査の際に取り上げられたりして、なかなか届かないそうであります。非常に故国実情を知りたいために、いろいろ手段を講じまして、ごく一部を入手をして読んでおるというような状態であります。  次に、ソ連抑留同胞事情につきましては、現在ハバロフスク収容所に千三百二十一名残留されており、またマリク島津名簿に記載されていない者が約二百名程度いるようであります。イワノボ収容所における待遇と比べて、相当に苦しい生活を続けておるので、引揚者は、異口同音に、抑留者全員を早急に帰国させるため日ソ交渉の進展を強く要望されておりました。  なお、抑留者中には、もと樺太住民で、日本帰国を希望しておる者が日本人として取り扱われず、無国籍者として取り扱われている者が多く、また日本人でありながら、早く帰国したいために、朝鮮人と偽わり届けたために、日本人とわかっている者でも訂正ができず、朝鮮人として取り扱われ、帰国できないでいる者があり、このような同胞帰国は相当困難であるとの話がありました。これについては、特に調査の上、ソ連交渉の際に措置を講ずべきものと思う次第であります。  最後に、新聞等で御承知のことと思いますが、ハバロフスクにおける抑留同胞待遇改善等を要求し、作業拒否を強行し、請願運動を続けました、いわゆるハバロフスク事件のその後の事情については、後に参考人の方より詳細に述べられると思いますが、引き揚げ当時の引揚者方々も、この真相の発表については、慎重に取り扱われたようでありますので、私よりは、断食闘争にまで発展し、同胞生命まで気づかわれていたこの事件が、三月九日、内務次官パシコフ中将指揮ソ連のゲー・ベー・ウー二千名により数収容所に強制分散せられ、その結果については複雑な事情があるようでありますが、責任者は処罰しないということで一応平静に復し、作業に服しておるという報告が、舞鶴におい引揚者の方よりあったことをここに申し上げて、調査報告を終りたいと思います。     —————————————
  6. 原健三郎

    原委員長 それでは、これよりソ連及び中共地区抑留同胞事情につきまして、参考人よりその実情を承わることといたします。  まず、委員長より、参考人各位に対し、一言ごあいさつを申し上げます。参考人各位には、御多忙中のところ御出席を願いまして委員長よりあつく御礼申し上げます。本委員会は、海外に残留されている同胞引き揚げ問題の早急なる解決のために調査をいたしておりますので、この点をお含みを願いまして帰還に至るまでの概要並びに現地における実情等お話下さるようお願いいたします。  では、初めに橋本豊富君よりお話を願うことといたします。橋本君。
  7. 橋本豐富

    橋本参考人 私、橋本であります。終戦と同時に、樺太特務機関におりまして、ソ連赤軍最高指揮官であるエヒモフ少将と、軍使として会談しました。そうして、占領地における占領軍政の網が張られたときに、私は逮捕されて、豊原の刑務所に送られました。そうして、軍事裁判によって十五年を受けたのであります。一九四六年のちょうどメーデーの日に、バイカル湖の北端にクラスノヤルスクというところがありますが、ちょうど北緯七十度の地点でありますが、ずっと下っていきますと、ナリンスクというところがあります、そこに八年間労働服役をしておりました。当時の独ソ戦、大東亜戦関係禁固者、それから終身刑、十五年以上の者があすこに送られたのであります。私たち当時行きましたのは百二十名の日本人でありましたが、三分の二近くは、三年間に全部倒れてしまいました。これは栄養失調とか、あるいは酷寒における壊血病であります。この八年間を終って、一九五五年に、バイカル湖の北側にバム鉄道を建設しておるところのタイセト管下バム周辺収容所に送られてあの辺の森林伐採とか、あるいは製材工場、こういう方面服役をして、おおむねそこで一年終りました。今年の二月二十日に、タイセットからハバロフスク収容所に送られてきたのであります。私の抑留十年間の概要は、その程度であります。  後ほどお話があると思いますが、ハバロフスク事件内容については、二月二十日以降のことについて私は知っております。これで一応終ります。
  8. 原健三郎

    原委員長 次は、大貫武平君。
  9. 大貫武平

    大貫参考人 このたび政府の皆様の御尽力によりまして去る六月七日、ソ連引き揚げとして、祖国に帰ってこられた大貫であります。本日の委員会の本旨といたしまして、私の入ソ経緯というようなものは省きまして、現在ハバロフスクにおる日本人抑留者状況概要と、それからハバロフスク事件というものの終末と申しますか、そのことについて、若干触れてみたいと思います。  ハバロフスク事件は、すでに柴田さんがお帰りになりまして、立ち上った動機というものを政府の方はよく御存じのことと思います。昨年十二月十九日に起りまして、三月九日に、ソ連中央から、パシコフ中将が来ました。その前に、日本人は三月一日から断食闘争に入ったのであります。われわれは徒手空拳でありまして、あくまでも生きて祖国日本に帰りたい、そして、われわれの要求する引揚げ問題は、人道上の問題であるということから立ち上ったのでありまして、あくまでも抵抗いわゆる無抵抗で、最後手段として、ハンガーストライキに入ったのであります。これが三月一日であります。ハンガーストライキ内容を申しますと、完全な断食ではなかったのであります。むろん私たちがほんとうの断食をすれば、命がなくなってしまいます。それで、その前に大体準備しまして、一日三百グラムぐらいのパンをほしたものをまくらおおいに二週間分ぐらいためまして、そして表からは、ソ連側に対しては完全な断食をしている、内においては、三百グラムぐらいのパンと水を飲んで、断食闘争に入ったのであります。これが実情になっております。そして八百余名ぐらいおりましたが、そのうちで三百名ぐらいは病気とか老弱者とかいうことで、断食をしたらからだに悪いという者を除きまして、五百二十七名ぐらいの者がソ連に対して食糧の授与を拒否する、そして完全な断食に表向きは入ったのであります。そして大体一週間ぐらい続けたら、必ずモスクワ代表が来るという確信のもとにやっておりましたが、なかなか代表は来なかった。そのうちに中央からパシコフという中将が来まして、このままにしておいたのでは、日本人は死んでしまうというような見解から、武力でわれわれの断食を鎮圧したというような形になったのであります。その当時の状況を申しますと、十日の午前五時ごろですが——大体週刊サンケイとか産経新聞あたりで、ハバロフスク真相として出ておりますので、私がここで詳しく申し上げるまでもありませんが、二千名ばかりの武力をもってわれわれを分散させて、大体今二百五、六十名単位に、ハバロフスク四つ分所と、それから病院が入りまして五つに分けております。その後のわれわれにとっている処置というものは——やはりわれわれの請願やいろいろなことに対して、向うはわかっております。一方、日ソ交渉というものがある反面に、われわれを主としていることも向う承知している、そういうようなことから、闘争後は首謀者と目される者四十何名は隔離されております。そのほかの者は大体四つ分所に分けて、われわれが闘争に立ち上がる前より若干、待遇給与といいますか、当りはやわらかい。しかし全幅的に黒が白になったようなことは絶対ありません。ただ作業の面だけは、今まで二百名おったならば、大体百三十名ぐらいは仕事に出されているような実情でありましたが、それが逆に、二百名おりますと、七十名ぐらい仕事に行って、百三十名ぐらいは営内に残っている、作業の面においてはそういうような状況であります。今問題になっているのは、四十二名の、私らが闘争に立ち上ったときの幹部の方といいますか、そういうようなことを運動してくれたブリヤジル作業班長、それから闘争本部におった石田三郎、馬場、山中というような人を含めましてこの人たちを私らと一緒にしてくれ、何もあの人たち一人の闘争でもなし、われわれ全員の総意に基いてやったのである、決してあの人たちが扇動したのでも何でもない、そういう点から、われわれと一緒にしてくれということを再三頼んでおります。しかし、彼らは別に不遇の目にあっていない、お前たちはお前のところがよかったらいいじゃないかといって、私が六月四日ハバロフスクを出発するまでは、それは実現されておりません。その後も、それらを一緒にすると、またお前たちを扇動しておとなしいものをこういう工合にしかけるんじゃないかという見方を向うはしているのであります。しかし、われわれはそういう人たちに指導されて、ハバロフスク請願運動をやったのではなくて、各人が今までの十年の抑留生活を通じ、また終戦ソ連が私たちにいかなる手を打ってきたかということは、私たちが身をもって体験したところから立ち上ったのであります。そういう実情を述べても、今のところは向うはそれを聞いてくれません。今、監獄にいると思います。小包も手紙も、通信は許しておりますが、私たちと会うことはできない。これがハバロフスクの現在の状況であります。  それでは、それに対して未帰還日本人はどういう感想でいるかということは、日ソ交渉も間近に再び開かれる、それによってわれわれも何らかの形で解決するんじゃないかというので、この日ソ交渉というものを非常に期待しております。七月下旬、重光全権が再び交渉を始められるのですが、その前に私がハバロフスクにいるとき、河野さんが行って、漁業問題を締結した。そのときに、漁業問題というものの本格的解決は、日ソ国交調整ということをソ連新聞にうたっております。それで、河野さんがわざわざ漁業問題でモスクワに来たので、こういうことを締結した以上は、日ソ国交調整が必ず近いうちにあるのだという楽観説を持って、ハバロフスク抑留者はがんばっているのであります。その後三月、日本の厚生省、並びに一般新聞雑誌が許可になりましてハバロフスクにだいぶ入りました。それで戦後の日本状況というものも非常にわかっております。またシベリアにいる日本人抑留者は、日本の敗戦後の状況というものを、非常に関心を持って見ているのであります。そういう関係から、新聞雑誌などは、すみからすみまで読んで、日本状況の変り方をよく承知しております。そういうような状況であります。  またいずれ御質問のときにお答え申し上げます。
  10. 原健三郎

    原委員長 次に、露木清作君にお願いいたします。
  11. 露木清作

    露木参考人 このたび政府の配慮によって、中共から引き揚げてこられたことに対して、厚く御礼申します。  自分は、一九五O年の十月に、中華人民共和国の指令によって、戦犯として収容されました。その前の経歴としては、昭和十九年度、下士官教育をうけ、陸軍上等兵、その後日本が投降した後において太原警備司令部で中尉、三四後方病院大尉軍医をいたしました。大体自分経歴は以上のようなものであります。  収容された後における自分たち活動としては、中共寛大政策人道主義に基くところの生活自分たちは送ってきました。その中において現在ソ同盟ハバロフスクにおけるところの状況自分たちは異なった環境におりました。自分たち自身として不自由のない自由な生活を送ってきております。しかし、やはり一番自分たちの忘れたことのないのは、祖国日本であります。また自分を育ててくれたところの親兄弟、このことは一つも忘れたことがありません。やはり一日も早く祖国日本に帰って、親兄弟と幸福な生活を送りたいというのが、自分自身の願望だったのです。そうして日本の再建のために、日本の復興のために、働きたいという望みでありました。そのような問題も、いろいろな交渉が長引き、そうして今日帰ってきたわけであります。その中において、自分自身、家庭に対しての愛着というような点が最も大きいものでありました。  現在向うに残っておられる方は、太原で大体九十名以上じゃないかと思います。その中においては、以前の軍関係また特務機関関係、憲兵その他医療方面、こういった職責の方がおられます。年の若い方というのはほとんどおりません。ほとんど四十過ぎだと思います。一日の大体の時間割としては、朝起きてから朝食まで、自由活動をやっております。その間においては、新聞を読んでおります。それから自分の好きな書物、その内容としては、まず人民日報とか中国新聞でありま正す。また、ときたま日本状況も聞きます。今言われたように、新聞その他においては、自分たち自身も手にとって見たことはありません。慰問袋の中に入ってきた新聞であったにしろ、また親兄弟が送ったにしろ、この新聞に対しては、一応検査を受けて、そうして自分たちがこちらに帰るときにようやくもらったような次第であります。こういった中から、日本の情勢に対して関心を持っておったのであります。それなるがゆえに、日本に対しての愛着というものは非常に強かった。また写真や何かにしても、しかりだと思います。親兄弟写真を見ても、これは預けなければなりません。大体、その後においては、バスケットとかバレーであるとかの体育面演芸娯楽、こういったものをやっておりました。  病気の方は、特に多いのは肺浸潤、それから神経系統、このような病気の万が非常に多いのであります。大体管理処の中には医務処があります。その中においては、以前の軍医関係、そういった方々がやっておられます。その中においてなおらない場合においては、一般政府病院に入院いたしております。その中においては、戦犯だから、また中国の人だからというので差別待遇は見受けませんでした。僕自身も、太原の第一人民病院に五カ月入院しておりましたが、その中においても、手厚い治療を受けております。病気としては大体以上であります。死亡に対しては、僕はあまりよく知りません。肺結核等は、おそらく九〇%まで大体治っている状況であります。今度帰って来られた方も相当おられますが、そのうちやはり肺浸潤が比較的多いのじゃないかと思います。それから神経系統は底冷えとか過労のためにくるものであります。それから栄養失調など、大体そういった状況であります。やはり向うの方が一日も早く帰れるように、政府として中華人民共和国交渉し、一日も早く帰られることを望んでおる次第であります。  簡単でありますが、大体以上であります。
  12. 原健三郎

    原委員長 次に、加茂熾君にお願いいたします。
  13. 加茂熾

    加茂参考人 私、加茂熾であります。昭和二十年八月十五日に終戦になりまして、九月二日にソ連軍奉天進駐によりまして、私はソ連軍によって逮捕せられました。それから抑留生活が始まりました。取調べに当る者は、ソ連側の方では国内法規違反であるか、何のために調査するのか私にはわからないので、どういう罪によって調査するのかというふうに聞きましたか、そのことは明示しませんでした。ソ連に入りましてから、軍事捕虜というような取扱いを受け、また実際は西ウラル方面、ヨーロッパ・ウラル方面まで行きましたので、その周辺取扱いは、主としてロシヤの囚人が多くおりますので、私もやはり囚人扱いのような取扱を受けたというように感じました。しかしながら、実際の表面では軍事捕虜というような扱いをされておったようであります。そこで、いろいろな鉄道建設あるいは森林伐採その他里労働をやりまして、身体が相当痛めつけられました。翌年四月カザヒスタン州のカーメンノイゴール市、そこの収容所に収容されまして、翌年の十月までおりました。それからウズベック州のアンデッシャンのチューモア収容所保養所——その当時身体が痛めつけられましたので、そこで保養しまして、翌年の四月にやはりウズベック州のコカンドー収容所に移りました。やはり重労働をいたしまして、昭和二十四年にハバロフスク地区に参りました。ここでは大体私は年令も相当ふえておりましたので、重労働はいたしませんでした。そうして昭和二十五年七月二十一日に中共に引き渡しとなって、撫順に到着いたしました。自来日本侵略戦争犯罪人として拘禁を受けました。この点につきまして、私どもは自来中国側官憲との見解の相違である、私は日本侵略戦争犯罪人ではない、法律命令その他正規の職務を執行したものである、戦争犯罪人たるの身分にはならないと自分は考えるというふうに主張しました。しかしながら中国側は、あくまでも日本侵略戦争犯罪者として取り扱っておりました。そのことがいろいろ論議され、結局自分日本侵略戦争執行者であることを認めまして、それによって拘禁中、本年の六月二十九日、中華人民共和国最高人民検察庁起訴免除命令決定によって、即日釈放ということに決定したのであります。  その間、中国側拘禁中におきましては、大体ソ連におきましては主食はパン食であり、その他副食物におきましても、私どもには合わない給与を受けましたのですが、中国に参りますと米食を主とする、副食物は肉食を主とし、野菜その他大体われわれの希望に沿うような調理をいたしまして、むしろ私どもはあぶらが多過ぎて困る、日本人はもう少し軽いものを食べるのだ、あぶらを減らしてもらいたいと言うのですが、しかしながら中国側は、あぶらはやはり給与規定からいうならば、非常に重要なもので、勝手に減らすわけにいかないというの、中国人が優遇する意味において、そのあぶらをよけいに給与したというような実情にありますから、私どもとしては、出国が人道的な取扱いをしているものであるというふうに認めます。  また、健康保全、向上というような方面におきましても、これは大へん力こぶを入れておりました。従いまして、季節によって違いますが、大体八時間あるいは九時間夜間の睡眠をとり、三食の給与を受けまして、十分な運動等も与えられました。しかしながら、何分にもソ同盟以来相当長いので、年を追いまして患者がふえた模様でありますが、詳しいことはわかりません。患者は、重い者は入院させ、軽き者は収容所内におきまして治療をした模様であります。その後病人取扱いが変りまして、一切病人と名のつく者は、軽い者もあげて入院をさせて治療をするというふうに変った模様であります。これが昨年の十月ごろからでなかったかと思います。死亡者等に対しましても、これは収容所から離れた病院で死亡するので、どのくらいの程度に死亡した者があるか、あるいは現在の病院にどの程度に収容されておったのかについても存じません。しかしながら、私どもが今回帰りましたときに、一緒に遺骨が七柱来たことを船で認めたような次第であります。どれほどの死亡者があるのか、どういうふうになっているかについては、一切存じません。  中国側に勾留中は一切——昭和二十五年の六月ごろでありましたか、私ども九百七十三名を中国側に引き渡すことになったという決定の声明といいますか、これはプラウダであったか、ソ同盟新聞で見ました。従って、この新聞によって——今までにおいても家族はこの新聞によって伝えられて私ども中国側に引き渡されたことを知っておるだろうというふうな考えを持っておりました。しかし実際はそうではなく、全く行方不明になっておってわからなかったということでありました。自来通信も許されませんでしたしそういうふうで、私どもなどは、一方的には、そういうようなソ同盟新聞によって、回り回ってわかっておるのじゃないかというようなことを思ってはおりましたが、やはり非常な不安を持っておりました。またそういうふうで通信がないので、われわれとしても非常に不安な日を送り、ぜひ通信だけは許すように当局に申し入れましたが、許されませんでした。  越えて、李徳全が赤十字関係で参りましたときに、初めてわれわれの名簿を呈示したということで、自来それによって私どもの手元に家族から発信した通信が手に入りました。それによって、私どもの家族の一応の状態、または一部日本生活状態等につきましても観察することも得ることができました。大体、中国側の人民日報、機関紙等は毎日見ておりました。その他希望するいろいろな参考の書籍も見ておりましたが、一般日本で発刊されておる新聞雑誌等は、手にすることはできませんでした。大体以上のような経過を経て、政府のお骨折りによりまして、私どもは十一年の抑留期間を、私個人としましては二十一年目に日本に帰って来たような次第であります。
  14. 原健三郎

    原委員長 これにて参考人よりの総括的事情聴取は終りました。  これより参考人及び政府当局に対する質疑を許します。中山マサ君。
  15. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 ただいま承わっておりまして、いろいろと御苦労していただきましたことを、まことに痛ましく思っておりますし、私どもこの委員会といたしましても、戦後ずっと何とかして皆様が早くお帰りになるようにということでいろいろ努力いたしておりましたが、力及ばずして、今日まで皆様方には御苦労をかけましたことを、まことに私委員の一人として、相済まないように思っている次第でございます。  皆様方がお帰りになります前は、十年間、今まで皆様方があちらに抑留されておる間の期間があったにもかかわらず、十年後になって初めて裁判が行われ、そうしてある人々は、長い今後の懲役ということもあるということを私は新聞で読みまして、実に不思議に思ったのでございます。御承知の通り、中共ではその感が特に深いのでございます。共産主義の政権というものは、自由主義下の政権より以上に私は組織が強化されておって、すべての調査というものは徹底しているという印象を受けておったのであります。ところが、この新聞によりますと、何ゆえ今日になってこの裁判が急に取り上げられたかというと、向う側の言い分といたしましては、これがほんとうにそうかどうか、私にはわかりませんが、新聞で見たわけでありますけれども調査を徹底させるためにこれだけの年月を要したということとが向う側の言い分として出ておりました。かねがね思っておりますことは、共産主義というものは、いわゆるすべての活動が組織化されておりますことから、そういう調べというものに十年もかかるはずはないと私は思ったのであります。わが国におきましても、いろいろとむずかしい事件が起りまして、そういう調査がむずかしくて、迷宮に入っておるような裁判事件もございますけれども、私はもっと向うでは徹底したものであると思っておったにもかかわらず、皆様方お帰り願うときになって、この裁判が急に具体化してきたということに、実に一つの割り切れない感じを持ったのであります。向うにおいでになったお方といたしましては、この問題についてどういうふうに考えておられますか。なぜ今日までこういうことが十分な調査ができなかったか、その理由をどうお考えになっていらっしゃいますか。まず第一に伺いたいのであります。
  16. 橋本豐富

    橋本参考人 ソ連の刑法には三つあります。欠席裁判、オソボ・リベスシテヤニエ、民事裁判、ナロドノイ・スウド、それから軍事裁判、ウエンヌイ・トレブナル、現在この民事裁判と軍事裁判だけがあるのであります。そして概略申しますと、現在ハバロフスクにおりますところの七五%は全部二十五年であります。皆当事兵隊あるいは給水班の衛生兵であるとか、こういったものであります。いわゆる正式に裁判にかかった人、あるいは東京でありますと国際裁判、ああいった細菌裁判に出てきた人たちは十五年、十年、−年、三年であります。ところが兵隊であり、一兵卒で掃除をしておった人が、現在二十五年程度の刑であることは何かということを御承知願いたいと思います。結局刑の不当さであります。それに対して、いろいろ請願運動をやっておりますが、返事はありません。特に無国籍者取扱いをやっています。要するに、われわれの考えでは、帰しては都合の悪い人、当時関東軍の某少佐であった人が無国籍とされ、何回も日本側から証明書をもらって出しても、これは全然受け付けておりません。お前の刑が終ったら帰すというだけの返事なんであります。これがハバロフスク事件が持ち上った大きな原因であります。要するに不当な刑を、しかも兵隊である彼らが二十五年の刑を食うという、しかも十数年後の現在までこれをほっておくというのは、いても立ってもいられないというのが現在の状況であります。  それから、これはもはや御承知であると思いますが、ベリヤ事件とかあるいは大体従来の内務大臣といった者は、満足に死んでおりません。こういったことから見ると、ソ連の刑法がどんなものであるかということが、御承知願えると思います。この間まで内務大臣であったベリヤが首になって、二十四時間以内に死刑にされてしまったというところの法律の取扱い方を、皆さんが御承知願いたいと思います。たとえば細菌戦術の場合でも、今申し上げたような兵隊などは、何らそういう問題に関係がないわけであります。しかもソ連側ではこれを二十五年の刑にしております。これは一九四七年のノーブィ・ウカズ、新しい刑法によって、そうなるのであります。いわゆる本人の署名、本人の自白というものをとっておるのであります。これはどういうところから出るかというと、これはいつ殺されるかわかりません。ロシヤ語ではホイスニムというのであります。これは、勝手にしろ、どうでもなれということで、サインしてしまった。こういう心情に至ったのは、何かということをお考え願いたい。これで二十五年食ってしまって現在おります。このことについて、あのときにあんなことを言うたわけではないのですが、ただ居眠り半分になって、意識もうろうとしてサインしたことが、彼らには完全な自白署名としてとっておるのであります。まあ権威あるものは軍事裁判です。これは一応嘆願書を出します。私の場合は軍事裁判所ですが、どんな嘆願書を出しても受け付けません。それによって刑をふやすことも絶対ありません。民事裁判の場合には、一応嘆願書を出すと、二十五年を十二年六カ月に半減されて帰ってくることもありますが、大体において外国人の場合には、そのまま保留という格好になって、刑が終ったら帰すということになっております。以上であります。
  17. 露木清作

    露木参考人 中共側の戦犯に対しての問題としては、僕自身は、この法律についてはあまり詳しいことは言えませんけれども、国際法規にもはっきりきめられておるように、いわゆる平和じゅうりん、また細菌戦、毒ガス、こういったものに対しては、やはり法律上にも、戦犯とみなすというふうに書かれてあるのじゃないかと考えております。そこで僕は、日本軍当時は一兵士であります。日本軍が投降後においては、階級は大尉です。その中において、自分がなぜその十数年という間、向う戦犯として抑留されておったかという点に対しては、僕自身このように考えます。まず中共側の政策に対しては、僕自身認識というものは持っていませんでした。やはり自分が過去行なったところのものに対してこれを述べるならば、殺されるのではないかというような中共に対しての不安というものを持っておりました。そういった中から、自分自身の行なった問題に対しても、事実に基いて自白するという点がなかったのです。そういったところからいろいろな問題を考えまして、延ばしてきました。これは自分自身の問題であります。もう一つとしては、なぜそういった長い期間抑留されてきたかというならば、やはり向うの政策としては、自分自身のやった行為をまじめに認め、まじめにこれを感佩するならば寛大に処分する。しかしこれをあくまでも拒み、あくまでも拒絶する者に対しては、厳重に処罰する。このような二つの政策であります。こういった中から、やはり中共におる間において、自分たちのこのような問題が長引いてきたのも、まず第一に中共の政策をはっきり認識することができなかったからでした。それで戦争に対しての認識、いわゆる侵略罪業がいかに厳重であるか、また当然人間としてなすべき行為でない、人を殺戮するということがいかに罪悪行為であるかという点も認識できなかったからでした。だけれども、やはり中共のあたたかい態度の中で、自分たちの行為というものがいかに非人道であるか、人をもって人を殺害し、そこで一握りの軍閥、財閥、彼らの利潤追及したという侵略罪業というものがいかに厳重であるか、これはすなわち平和を破壊するという破壊行為である、こういうことで、自分自身戦犯として抑留されたのであります。だからそのような状況であります。もう一つは、中共としては、日本人戦犯に対して寛大な処理という点が述べられておりました。そのために、日中国交回復に対しては、周総理及びほかの方々から、相当日本政府に一日も早く国交を回復するように願っておられたように聞いておりました。どのような関係か、こういう問題がいまだに回復されておりません。だけれども政府の皆さん方の援助と協力によって、このたび自分たち帰ってきたわけであります。こういった中から、一日も早く向うと話し合って、そうして今残っておられる方を即時釈放運動をせられることに対しては、やはり自分らは希望するものであります。
  18. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 政府側として、私が先ほど申しました問題に対する御調査はどうなりましたか。この二十四国会の終りになぜこの調査が徹底しなかったかということについて、質問を私は田邊局長に申しましたら、お帰りになった方に聞いてみなければわからないという御答弁であったかに覚えております。厚生省としては、どういうふうな結論を出しておられるのですか。
  19. 田邊繁雄

    ○田邊説明員 中山委員の御質問は、中共戦犯者に対する判決ないしは起訴免除が、今日まで遅延した理由はどうかということであったと思います。これは中共の問題だと思います。この点につきましては、帰還者から詳細なことを聞くわけに参りませんでしたから、正直のところはっきりしませんでした。ただ、新聞に伝えているところによりますと、紅十字会の幹部の方が、何ゆえに今日まで遅延したかということを日本側で疑問にしている節があるが、これはこういう理由であるということを新聞で語っているのを私は見ました。おそらく中山委員もごらんになったかと思います。非常に調査に手間取ったのは、広大な地域で行われた関係もある、従って詳細なる資料を集めるのに時間がかかったのだ、こういうことを語っているのを見ました。いろいろ内面的な理由があるかもしれませんが、表面上、中共紅十字がそのようなことを申しておったということを申し上げます。
  20. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 第二の質問でございますが、ソ連関係の方にお尋ねしたいと思います。ソ連のスターリン死亡後、この間の共産党の大会におきましてのフルシチョフ氏の演説を見てみますと、いわゆる独裁者の態度がいけなかったのだということで、最後においては、スターリンは気が狂っておったとか、いろいろな誹謗を受けていられるようであります。こういうふうにスターリン氏に対するところの信用を失墜させるような大演説とでも申しましょうか、そういうことが行われました。私個人の考えといたしますれば、そういう最高責任者が、いわゆる常識ある為政者ではなかった。その人が行なったことは気違いじみておったところの行動であったということが、ここに一本打ち立てられましてそれが全世界の共産主義者に宣伝されました。聞くところによりますと、スターリンの肖像は、至るところにあったのがみな取りおろされ、中共におきましてもこれが取りおろされておるということを聞きますし、またスターリンの生まれたところである場所には、これに対する反感から、暴動すら起ったというようなことを、これは私新聞で見るだけでございますが、見ました。こういうことを実際にフルシチョフ氏が大演説をぶったといたしますれば、狂ったところのスターリン氏が今日までやって参っておりました政策というものも、私はやはり気違いじみておったのではなかろうか、こう推理いたしますものでございます。そうであるならば、いわゆるポツダム宣言において約束されておって、平和的な生活に入るために帰してやるべき皆様方を今日まで帰さなかったということは、一つの気違い的政策の現われではなかったろうか、こういうふうに私は考えるのでございます。一体、ソ連地区において、共産党の微笑戦術と申しましょうか、変った政策に対して、いかなる変ったことが行われておるか。ハバロフスク事件などを見ておりますると、スターリンは気が狂っておったけれども、その政策は気が狂ってなかったかのごとき、政策面ではいわゆる大した変化がきていないように思います。第三に私が考えますことは、どうもスターリンが気違いであったということは、何かそこに私どもにはわからない考えでこれがぶたれておるのである。常識的に考えれば、もしスターリンが気違いであって、そうして帰すべき人を帰さなかったのでしたら、打つべき手は、さっそくこの演説をぶつと同時に皆様方を全員釈放し、そうしてわれわれが日ソ国交調整をすることを待たずに帰すのが、私は当然であろうと思います。私がもしも為政者であって、前の為政者が気違いであったということを発表する立場に立つならば、その政策に対しても同じような批判をして、皆様方を抑留しておったことは間違いであったということで、私はさっそく帰すことになると思います。こういうものの考え方が向うであったかどうかということ。スターリンは気違いであったけれども、政策は間違っていなかったというように私には見えるのでありますが、いわゆる日ソ関係が正常にならなければ帰さぬということは、やはりこれは一つの人質であるということを考えますと、どうもソ連のものの考え方が私にはわからなくなってくる。なぜ気違いのやった政策をここで是正しないか。あとに残っておる人たちがもし正常なるものの考え方をしておる為政者であるならば、私はそうするのが当然であろうかと思うのでございまするが、私にはこれがわかりませんので、現地にいらっしゃいましたお方々は、どうこれをお受け取りになりましたか。現地の住民はこの問題に対してどういう反響を示しておるか。一部においてはこれに対して暴動をやってスターリンは気違いではなかったかのごとき印象をいまだに持っておるように私は見受けるのでございます。その政策というものに変化がきていないというところが、私はあのフルシチョフの演説を疑うところの一つの理由に私の推理ではなるのでございますが、これをどういうふうに皆様方はその当時あの地にいらっしゃいましてお受け取りになりましたか。これを伺いたいと思います。
  21. 橋本豐富

    橋本参考人 ナリンスクに約十五万の禁固刑者がおりました。五三年以後、スターリンが死なれ、ベリヤが処罰になって以後、第一番に出たのが少年刑であります。要するに私の言わんとするのは、いわゆる国内人に対しては具体的な大幅の釈放をやっております。まず受けたのが、少年刑の十八才未満の者は全部釈放する。もちろん中には悪い者もおりますので、これは大々的に釈放するわけには参りませんが、まずそういう手を打っておる。それから減刑嘆願書を全部受け付けております。これは大幅に二十年を減刑して、即時釈放になることもあります。あるいは十二年六カ月で二十五年の半分になるということもあります。それからいわゆる不具者、手足がない、こういった要保護者、こういうものは身元引受人がある場合には帰すということで 国内人に対してはどんどん釈放する。日本人に対してはどういうことをしているかというと、最近私がそのゆえで帰ってきたのでありますが、私は当然機関におりましたし、一番あとから帰ってこなければならぬ人間でありますが、病弱者とか、特によく働いた者は、三分の二の減刑をやっておる。その三分の二の減刑によって私は帰ってきたのであります。この例は初めて日本人にとられた例であります。いずれにしても、どのくらいの数がおりますか、相当の数のソ連人が、今平和産業というか、そういう方に囚人はどんどん出ております。そうして警戒も全部取ってしまいました。今までへいの回りに全部電気があったのを取ってしまった。自動小銃七十五連発を持って立っておったのをやめてしまった。国内の囚人はそういうふうに非常に緩和されております。そうしてわれわれは外国人としてタイセットにおったのです。そこにはドイツ戦犯もおりました。去年十一月に入りましたときに、私もその中におりましたが、彼らは一週間日にすぐラーゲルに通知がきて、その日から作業に出ません。ギターをひいたり、マンドリンをひいたりできるようになった。そういうふうにごきげんをとっている。そのうちに、すっかり塗った特別貨車——二十四人の寝台つきですが、町の人が楽隊つきで全部出てきて、ドイツ民族よ、ソ連民族よ、ドルジョという言葉がありますが、そういうプラカードを掲げて、彼らは帰っております。そこに残されたのは日本人一組——支那人も朝鮮人も帰りました。残ったものは日本人と白系露人、無国籍者だけであります。そうしてそれは伐採業務に服役しているのであります。そこで私たちハバロフスクに送られてきた。そういう状況から見ると、国内に対してはあまりうるさいので、相当大幅な減刑をやっておるが、日本人は外国人であるがために、そういう法の適用というか、ソ連国法に触れておりながら、一つもそういうことを具体的にやっておらぬというのが私の感じであります。あと政策とか、政府の動きというものは、小さいラーゲルの窓から見たのですから、ここで申し上げることはできません。ずさんでありますが、私の感じたことはそういうことであります。
  22. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 今、無国籍者にされておるという御発言があったのでございますが、厚生省としては、こういう人に対してどういうような方途をおとりになるのでありましょうか。現在お帰りになった方々から、彼らはわが同胞であるということをここで私らは伺ったと思うのでございますが、厚生省は、この日本人であるところの無国籍者に対して、今後どういう態度をおとりになるのでありましょうか。
  23. 田邊繁雄

    ○田邊説明員 マリク名簿と俗にいっておりますが、あの名簿に登載されておるものにつきましては、全部日本人であるということを向う側も認めておるはずでございます。問題は、あの名簿に載ってない人で、現在確実に生存しているとわれわれの方で考えている人が相当あるわけであります。その中には、刑が終ってすでに町へ出ている人が相当あるように思います。こういった人の中に、国籍関係がいろいろ複雑なものがあるだろうと思います。本人が故意に日本人であることを隠している場合もあり得ると思います。またソ連の国籍をとってしまった者もあるかもしれません。あるいは今お話のように、いろいろの事情で無国籍になっているのかもしれませんが、われわれの方では、すでにこれらの人は終戦ソ連地域内に連れていかれた確実な証拠がある日本人であるという名簿向うに出しております。これらの人々について調査をして、もし死んでいるものなら死んでいる、生きているものなら生きている、もし向うにカードがないならば、カードがないということを返事してもらいたいということを要求しているわけであります。それを帰す場合の手続は、かりに向うが無国籍になっている場合にどうするかという問題は、これはソ連の国内のいろいろな手続があるように思います。それはそれによって従来その調査をまずやって、生存していることが明瞭になった場合は、至急に帰国するために必要な手続を国籍その他に関してソ連側でとってもらいたい、こういう申し入れをしているわけであります。
  24. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 今の御報告を伺っておりますと、このたび名簿に記載されていない者が三名帰ったとありますが、これは一体どこの人でございますか。
  25. 田邊繁雄

    ○田邊説明員 私ども調査によりますと、二人は向うで生まれた小さい子供でございます。一人は朝鮮人でございます。
  26. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 そうすると、この二人は日本人で、向うで生まれた、この人たちは無国籍者として帰ってきたのでございますか。どういう名称で帰ってきたのでしょうか。その子供は、親が自分子供として引き連れて帰ってきたのでございますか。
  27. 田邊繁雄

    ○田邊説明員 その通りだと思います。
  28. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 それでは、国籍に入っておるわけですね。
  29. 井岡大治

    井岡委員 その五名について、現地でロシヤの御婦人と結婚されて、そしてその人がやはり刑に服されて——あまり言いますと問題が起りますから、それは申し上げませんが、別々にやっておられて、御婦人に子供ができたというこの子供、しかしそれはその御婦人の子供として、御主人が日本人でありましたために登録されなかった、こういう格好の方であります。ですから、この点は帰国名簿には載っても、戦犯としては載らないのがほんとうだと私は思いました。出迎えに参りましてお聞きしたことでございますが……。
  30. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 それでわかりました。私はいろいろとお話を承わっておって、まことに頭の中がもやもやとするわけであります。とにかくポツダム宣言によって約束されておったことも、判然と今日まで行われてきていない。私どもはこれをよりどころにいたしまして今日まで国連へ訴え、国内でできることはみんなしたような感じがいたしますし、政務次官もスイスの方へ行っていただき、私もまた国連本部へ行って、この問題についていろいろ談合してきた経験も持っておるのでございますが、どうもはっきりなりません。どうも人質にされていらっしゃるというような感が非常に深いのでございます。それで、農林大臣も行って下さいまして、向う方々も非常に期待を持っていらっしゃったというお話を聞きまして、私どももその期待に沿わなければならぬというので、いよいよ外務大臣も向うへ渡っていただくことになっております。実にわからないことがたくさんございます。ここに人民日報というものが渡っておった。国内からのものは渡っていない。近藤日出造さんあたりに言わせますと、人民日報というのは、向うの官報なんでございますね。われわれの国内で発行しているような新聞と同様に、一会社がやっているのでございますか。近藤日出造さんが中共へ参られまして、行く前には非常に違った思想を持っていらっしゃったようですが、お帰りになってからいろいろ書いたものを見ますと、少し思想がお変りになったのじゃないかという感じがいたします。それは第一に書いていらっしゃるのは、中共新聞はおもしろくない、これは官報である、日本新聞のようにいろいろのニュアンスがないのだということを、帰ってきて報告書の中にはっきりと書いていらっしゃるのです。今おっしゃいました人民日報は、あなたが日本にいらした時分に、日本政府が発行しておりました官報と同じようなものであるか、あるいは日本の読売とか朝日とか毎日とかほかのもののように出ておるものであるか、いわゆる官報以外には中共には新聞はないのかどうかということを伺って、その人民日報がどういうものであるかということをお答え願いたいと思います。
  31. 大貫武平

    大貫参考人 ちょっとその前に、新聞のことが出ましたので、私から発言さしてもらいます。私もソ連ハバロフスクにおるときに、シナ語を少し前からやっておりましたので、人民日報、中国青年、学習、世界の知識というシナのものを読んでおりました。人民日報は、言うまでもなく、中国の共産党紙であります。日本新聞のように、一般の社会情勢はあまり出ておりません。党の政策というものを骨子として取り上げております。従って、あすこでもって自動車事故があったとか、あすこの家庭でもってこういう自殺があったとか、そういうようなことは、日本新聞のように一切載っておりません。この点は私が見まして、そういう感じを持ちました。以前、終戦前北京におりましたときに、北京の新聞を見ておりました。そのときには、いろいろな商店の広告とかあるいは人間の募集とか、日本新聞のようにたくさん載っておりました。今は、人民日報は商店の広告とかそういうようなものは、日本新聞の趣きと全然変っております。このことだけは私よく知っております。  それからソ連新聞を見て感ずることは、やはりソ連共産党のソビエト国家でありますだけに、日本新聞と比較して違うところが若干あります。ソ連も、国内が広くて、人口が二億二千万からあるのですから、水害もあるし、自殺者もあるいは交通事故もたくさんある。しかしソ連新聞にはそういうことを一切載せません。よその国でできたいろいろの水害とかあるいはいろいろの事故——日本の東北の水害とかあるいは連絡船が沈没したとか、いろいろな労働罷業があったということは載せますが、しかし国内のことは、ソ連新聞は全然載せておりません。このことは、私がソ連で感じましたからお伝えいたします。
  32. 露木清作

    露木参考人 この人民日報がどのようなものであるかということは、自分もはっきりわかりません。しかし内容としましては、今広告は全然載っておらないと言われましたが、これは事実に合致しないというふうに考えます。歴然と広告も載っておるし、また活動館で上映されておるものも載っておるし、また人の募集も載っておるし、やはりそういうものも自分は載っておると考えます。また日本の映画が向うに来たときに、日本の映画週間として、はっきり広告されておりました。内容はあまり変らないのじゃないかと考えます。それが日本新聞とどういうように異なるか。日本においては殺人とか窃盗とかいろいろな問題が非常に多い。中共においてはそういうものがないかというと、そういうものも載っております。やはり人を殺した場合においても、はっきり載っておる。内容においては別に異ならないのじゃないかと考えます。僕自身見ましたところでは、そういう点で、今言われた点は事実と合致しないのではないかと思います。
  33. 大貫武平

    大貫参考人 今中共の方がお話しになりましたが、私は極端から極端にお話したので、そういうことが全然載ってないということはありません。しかし私がシナにおりまして、シナの新聞を以前昭和十七年ごろ北京で見ておりまして、その後ソ連で、中共政権ができて、人民日報というものを見まして、なるほど昔のシナの四千年の歴史を有する漢民族の新聞としては、非常に趣きが違うという感に打たれましたので、今ここで発言しましたので、今全然広告が見当らないとか、あるいはどこでどういうことがあったということがないということを言いましたが、そういう面であるのは、中共政権、いわゆる共産党の面におきまして、こういうものはこうであるというような批判でありまして、今までの新聞とは趣きが非常に違うということだけははっきり……。なお中共中国青年という新聞あたりも私持ってきておりますが、この点は今そちらの方のお答えと若干相違がありますから、訂正しておきます。
  34. 原健三郎

  35. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 ソ連から引き揚げてきた方々中共から引き揚げてきた方を比べてみますると、ソ連から引き揚げてきた方は着のみ着のままであり中共から引き揚げてくる人はいろいろな荷物を持ってこられる。また食事にしても、ソ連の方は食事の不平が非常に多い。ハバロフスクハンガーストライキのごときも、一つは食事の悪いことに対する抗議です。ところが中共からの方々は、今申されたように、あぶらが多過ぎて困る、われわれの好みに合った食事をしたいと言われる。大体において、ソ連から引き揚げてこられる方は、ソ連に対してあまり親切な言葉を発する方は少いのでありますが中共から引き揚げてこられる方々は、大体中共に対して好意ある言葉を発しておられるのが非常にきわだって目につくのであります。従って中共における戦犯者、抑留者に対する待遇は、よほどよいのにかかわらず、抑留者中には非常に死亡者が多い。われわれの友人の高橋康順君のこときも遺骨になって帰り、佐々木到一君のごときも、同じく遺骨になって帰っておる。死亡者が非常に多い。これはどういうものでしょうか。つまり初めのうちの待遇が非常に悪かったが、後になって非常によくなったというのか。抑留の当初と抑留中の待遇というものは引き続いてよかったのか、初めは悪かったが後になってよかったのか、その点について加茂さんにお伺いしたいのです。待遇が変ったか、変らなかったか。どういうふうであったか。
  36. 加茂熾

    加茂参考人 高橋康順さんまたは佐々木さんとは、撫順に一緒におりましたし、また朝鮮戦争当時に、中国政府の考え方で、あるいは事件が拡大した場合、ソ内、ハルピンに移動したこともありましたが、大体一緒収容所におりました。最初から給与が満足なものであったか、あるいは中途においてそうした給与が変ったのであるかの問題につきましては、先ほどお話したように、私どもはやはり米食を主とした習慣から、ソ同盟給与は合わなかった。腹が減っては戦ができないので、結局腹がすいたからパンを食ったというようなわけであって、合わないものを無理に食っておった。それに反して、中国に来ましては、米を主とした主食を与えられて、撫順におきましては、むしろ私どもの方から頼んで、三回米食を与えられたのでは、かえって帰ってから労働をするのに健康保全上芳ばしくない。従って、できるならば一食はパン食ぐらいに変えてもらえぬものであろうかというようなことも提議しました。中国当局者の言うところでは、今さしあたりパン工場もないし、今すぐにはできないが、希望に沿うようにするということで、その後パン食を一食、通常夜間、一週間四回ぐらい与えられたのであります。大体中国に入りましてから、私どもは非常に中国人を見直したというような感があるのです。なぜならば、私どもの従来の考え方では、そうした抑留者に対して、規定の、何人に対してなんぼの米をあたえて、それが足りなかったならば、それはお前の方の配給の方法が悪いから足りないのじゃないかということを私なら言いたいのです。しかしながら、そうした規定の飯をたいて、足りなかったならば、足りないところにはさらにまた追加して、またたき直してふやして配給するというようなのが、私どもが感動した一つの問題なんです。そういうことは、最初私ども中国に入った当時から、そうしたような待遇を受け、また身体検査におきましても、ソ同盟におる時分の体重と、あるいは身体の各器官の障害等におきましても、私どもの知っている範囲におきましては、相当重量もふえ、元気なからだになったように私は見ております。私自身もそうであります。そんなふうで、最初から大体人道主義的な待遇を与えており、しかも私どもの感動したのは、やはり中国人は大国人である。われわれは過去、中国人に対してつまらない優越感を持っておったのであるが、これは誤まりであったというようなことも、私どもは考え直すような感も受けました。そんなふうで、私どもに対する給与一等におきましても、そうした待遇をしたというのは、終始一貫変らなかったのである。従いまして病人あるいは死亡率につきまして、どれほどあったのかにつきましては、私は存じません。しかしながら、通常捕虜または抑留者等は、国際慣例におきまして、どれほどの率が一体普通であるのか、どれくらいの率が過剰であるのかという問題につきましても、私は存じません。しかしながら、私どもの見たところでは、それほど大した——いわゆる国際的な前例から見ましても、相当数の犠牲者が出たそうであるというようなことも聞いておりませんし、そんなふうで、私ども現在としては、給与による健康保全あるいは向上というようなことにつきましては、中国側では相当万全の策を尽したのじゃなかろうかというふうに考えております。
  37. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 抑留者に対していろいろな思想教育をやるというようなことを聞いておりまするが、人民日報その他の中国新聞、雑誌等を読ませるほか、何かそういう思想教育的のことをやっておりますかどうですか。やっておるとすれば、どういうふうにやっておりますか。その点をお聞きしたい。
  38. 加茂熾

    加茂参考人 思想教育というような、そうした画然としたものではありませんが、私ソ同盟におりましたが、ソ同盟におりましても、君たちがこうした学習をするならば、ソ同盟は援助を惜しまないものである。われわれソ同盟は決して強制をするものではないという教育を私は感じ、またそういうふうな学習をソ同盟でやりました。また中国に参りましてからでも、学習という問題につきましても、私ども、もともとそうした共産主義的な学習をしようという気持はありませんでしたが、そんなふうで、ソ同盟におきましても中共におきましても、強制してそうした思想教育をするということではなかったのであります。この問題につきましても、私どもは強制されたようには少しも感じないし、また私自身が、自由に学習するものである、強制するならば私どもはやらないというふうなことで拒んだりしたこともありました。われわれは強制した覚えはない、強制するものではないが、そうした学習を希望する者に対しては援助を惜しまないということは、中国側も言っておりました。従って私どもとしては、強制されて学習したということは感じないわけであります。
  39. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 いよいよ乗船をして帰る前に、中国の要地を旅行さして見せたと新聞に出ておりましたが、そうですか。またどういうところを見て帰られたのでありますか。そしてその感想をお伺いしたいと思います。
  40. 加茂熾

    加茂参考人 私の中国における六年間の学習というようなものは、ただいまお話したような工合でやっておりました。従いまして、私などはいわゆる世界情勢の変化あるいは事物の発展の状況などについては、全く何らの関心も持っておらない。新聞によっていろいろなことを見ましたが、帰国のことが先に立っておって、一向そういうものを見ようとしなかったというような関係もありましたし、また中国側の社会主義的改造、あるいは社会主義的建設という面においては、日本または諸外国の視察団が参りまして、いろいろ人民日報などで発表するところによりますと、かなりめざましいものがあるということを聞きました。遠藤三郎元中将でありましたか、この方などは、中国人民はなかなか偉大な力量を持っており、山をも動かし、川をも移すというようなことを言ってほめたたえておりましたが、私どもの非常に狭い抑留生活におきましてはそういう事情というものを知ることができませんでした。従いまして、新聞、雑誌、画報などにおいては見ましたけれども、これをほんとうに身につけることもできなかったし、また一方信用することもできなかったというのが私の思想であります。大部分の人がそうであったかどうかはわかりませんが、私に関する限りはそういうような思想状態でありました。こういうところで、日本と一衣帯水の隣邦である中国が、このように発展しておるというような状況を親しく私どもに見せた方が、中国の利益になる、あるいは私どもの個人の利益になるというような考えでなく、参観を許したということについては、中国政府は、皆さんが日本に帰ってから、中国の発展状況を宣伝してもらいたいというようなことは毛頭思っておらない。なぜならば、中国の発展をあなた方が日本に帰って宣伝しようがしまいが、発展しておるという事実には相違がない。だから宣伝しようがしまいが、これは私どもの望むところでないということを言っております。このことがらして、私どもを参観さして、よってもって日本に帰ったならば、宣伝してもらおうという意思はないということも、私どもはわかりました。しかしながら、私個人から言うならば、そういうふうで、新聞を見ても雑誌を見ても、これを信用することができなかった。シナ人というものに対して、昔のままのシナ人を見ておったのではないか。そういう私の古い頭では、依然として中国の発展を発展として見られなかった。停滞しているとは思いませんが、多少の発展はしているだろうが、しかしながら、国際視察団がほめたたえているような状況ではないのではないかというような疑いを持っておったというのが私の信条でありまするから、私どもとしては非常に参考になりました。たとえば……。
  41. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 どこを見られてどういう感じであったかを簡単に。
  42. 加茂熾

    加茂参考人 参観は大体撫順を発しまして、三等寝台車十一両を連結して、約三百二十何名行きましたが、衛生車あるいは食堂車、ラジオをつけて、いわゆる客扱いをしてくれました。そうして車掌さんもお客さんと呼んで、客扱いをして、相当感じのいい取扱いを受けました。そこで北京から漢口、それから武漢三鎮、それから浙江の杭州、上海、南京、天津、ハルピン、元の新京、鞍山、奉天とか撫順、こんなふうな都市を参観させられました。同時にその近郊の農村あるいは工場、商業方面関係あるいは労働者の社宅の関係というような状況を見てきました。大体藩陽におきましては、私藩陽におきまして元警察署長をやっておりましたので、親し藩陽の状況を知っております。しかし日本の資本の入ったいわゆる奉天の鉄西地区は、戦争に必要な物資を生産する工場が相当ありましたが、この方面はあげて平和産業に切りかえた。たとえば三井が軽工業として機関銃の修理、大砲の修理あるいは電線関係とかいろいろ戦時物資を生産しておったものでありますが、あげて農具または旋盤機械いわゆる母機を生産しておるというふうに変っておった。これは私どもの見た範囲では、なるほどこれは平和産業に切りかえたものであるということを認めました。撫順に参りまして、撫順は大体満鉄の経営で、これは満鉄のドル箱ともいわれたのでありますが、これまた私どもは撫順における液化作業は、日本がそのままやっておったときよりもなお生産力は低下したのではないかというふうに考えておりましたが、中国側の説明によりますと、いろいろソ同盟の援助を受けまして、新しい機械を据え付け、また中国人の力によって一五〇%も増産することができたという報告を聞きました。また保健衛生あるいは労働者の待遇関係というようなことにつきましても、日本がやっておった当時に比較いたしますと、非常な待遇の向上を見ております。たとえば職工は小さい社宅におりましたが、現在では文化的なアパートに住んでいる。ガス、電気、寝台付の宿舎をもらって最も低廉な三円または 三円五十銭の家賃を支払うなら、現在文化住宅に住むことができるというような状況から見ましても、労働者階級の待遇が非常に変っておるということも見ました。生産におきましても、日本が経営しておったときよりも一五〇%も向上しておるというようなことがほんとうだとすれば、やはり今までの世界を新しく変えたという面から、また中国労働者が目ざめて自覚ある生産に従事をするならば、かくのごときこともあるであろうということを感じることができました。新京に行きますと、東洋一といわれている自動車製造工場か大体九分通りできておりました。  大体十月までには新しい中国の手によって、初めて十月一日の国慶節には北京に顔を出すというようなことでありました。私どもが行った当時は、まだ九分通りの完成でありまして、生産するところまでいっておりませんでした。しかしながら、ロシアから百台なら百台のいろいろな自動車のでき上ったものを持ってきて、それを分解して、さらに作り直すというようなことによって、職工たちのそうした自動車製造の技術を鍛練しておるということを現在やっておる。毎日三台、四台というものを、同じものを分解しては新しいものに作りかえて、この作業をやっておるということを聞きました。大体これができ上るならば、月三万台できるという生産能力を持っておるものであるというようなことも聞きましたので、その方面から申すならば、相当の飛躍だということを感じました。またハルピンの亜麻工場、これは、昔日本かやっておる当時は全然なかったのでありますが、ロシヤの技術を入れまして、これも相当な規模の大なるものでありました。職工が約一千五百人くらいおりまして、月生産力がどのくらいであったか忘れましたが、大体亜麻を工業用に使う生産、あるいは一般の商品として出すような生産をやっておったようでありますが、その規模の大なることは、相当工業上の発展に寄与するものが多いものであるということを聞きました。また、北京郊外から約四時間ばかり北の方に行きますと、官庁ダムというのが建設されております。これは日本中国におる時代には、やはり日本の技術をもって、あの永定河のダムを建設しまして、水力電気をやるということで、相当の機械を持ち、あるいは材料をもって作ることになっておりましたが、何分にも特殊な泥濘の関係その他で、日本の技術ではどうも満足な建設はできなかったのである。従ってこのダムの建設は、中途にしてやめたのであります。その材料はいまだにそこに残っておりまするが、あの材料は日本が建設に使用したのであるができなくして、中途にしてさじを投げたものである。それをわれわれ中国人民は、こうしてわれわれの手によって、このダムを建設するものであるというような状況も見ましたか、古来中国は、歴史において、あの永定河の災害をとめることができなかったので、われわれの時代において、われわれの手によって、この永定河のダムを建設したものであるというように誇らかにわれわれに告げておるということを感じました。なるほど、私どもはほんとうに中国人民のそうした技術に対しては、やはり見直さなければならぬというような考えを持ったのであります。また紡績工場におきましても、日本側その他から接収したものは機械を変え、生産力を上げて生産にいそしんでいるというような状況も見て参りました。そういうふうなわけで、従来私どもが考えておった中国人というものは、そうした工業に関する技術、あるいは農業に関する農民の技術等あらゆる面において相当立ちおくれているのではなかろうかと考えておったのが、かくのごとく、解放後短期間に、こうした社会的改造または社会的建設をやっているのは、これは先ほど申したように、私ども中国人民に対する見方がやはり古い頭ではなかろうかというふうに考えざるを得ないのであります。
  43. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 揚子江の橋はどうですか。
  44. 加茂熾

    加茂参考人 揚子江は、武漢から武昌に渡るところの、ちょうどそのときは大気が悪くて行くことができなくて、洞五百メートルくらいの上流から見たのですがやはり橋脚はできておりました。現場には行きませんでしたが、これは近く全部完了することになっているそうであります。その後、橋脚だけは完了したような新聞を見ましたか、そんなふうで、これまた若干のソ同盟の技術は入っているかわかりませんが、聞くところ、アメリカにおきましても、以前設計したこともあったそうでありまするが、これも成功しなかったというようなことも聞きましたし、これまた中国中国人の手によって、あの長江に大鉄橋を架設するというその技術の面におきましても、これは一応国際的な標準にまで上ったものであろうということにつきまして、われわれは相当研究を要するというふうなことを参観によって得たものであります。そういうような状況からしまして、今までの中国というものの見方は、やはり見直す必要があるのではないかということを痛感したのであります。
  45. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 武部君が今度二十年の判決を見、古海君が十八年の判決を見たのですが、二人とも僕の友人なんですが、健康はどうでしょうか、ちょっと伺いたい。
  46. 加茂熾

    加茂参考人 武部さんがもともとハルピンに移動したのは、朝鮮戦争当時でありますから、昭和二十七年ごろでございますか。あのころからとにかくからだの工合が悪くて、入院しておったような話を聞いておったのですが、果してハルピンに来ておったかどうかということは、私は見ませんでした。聞くところによれば武部さんは入院しておったようであります。自来武部さんの顔を見ませんでしたから、ずっと入院しておったのではなかろうかと思います。従って、どの程度に病状が重いのか軽いのかにつきましても、はっきりわかりませんでした。古海さんは、これはしごく元気です。一緒の建物でしたけれど、大体旧将官、佐官、尉官というふうに区分してあったものですから、古海さんなどは、行政関係の高官として、将官の宿舎に入っておりまして、私ども一緒におりませんでした。しかしながら、いろいろ運動をやるのにも、古海さんが元気でやっておるということは知っております。
  47. 原健三郎

    原委員長 次に、戸叶里子君。
  48. 戸叶里子

    戸叶委員 皆さんどうも御苦労さまでございました。まだお帰りにならない人のことを思いますと、私どももほんとうに胸の締めつけられるような思いでございます。先ほども大貫さんがお話しになりましたように、ハバロフスクの皆さんがほんとうに今度の日ソ交渉の成り行きを期待しておられるということは、私どももその通りでございまして、一日も早く、一人残らずお帰りになることを望むわけであります。それで、早くお帰りになれば問題はないことでございますけれども、先ほどのお話の中にも御心配になりましたように、いわゆる四十何人かの死亡者というふうにソ連側が見ております方々が、慰問品が行き渡らなかったり、あるいはいろいろな点で不自由をしていらっしゃるのではないかというようなことをちょっとお述べになったようでございますけれども、その点はどんなふうにしていられるのか。たとえば労働時間は非常に長く強制されているとか、あるいは食糧が制限されているとか、そういうふうなことが皆さんの耳に入っているのかどうか、この点を承わりたいと思います。もしもそういうような形をしておられまして、せっかくお帰りになるときに御病気になったり、あるいはからだを非常に悪くして帰られないというような方がおありになってもいけないと思いますので、この点を伺いたいと思います。  なお続けて伺いますけれども、何か急に日本の方の政府として、それらの人に対しての待遇なりあるいはそういも人たちをほかの人たちと同じようにするということで、政府からの申し入れというようなものもした方がいいかどうか、こういう点も承わりたいと思います。
  49. 大貫武平

    大貫参考人 それじゃ、今の戸叶さんのお話に対して……。四十二名と私らと一緒にするとまた騒ぐということで、向うは既定の方針に基いて大体引っぱってしまった。これはハンガーストライキを押える前に、すでにソ連は長い間準備をして、そういう者を引っぱらない、処分は行政的な処分も司法的な処分もしないと公約をしながら、向うは四十二名を隔離し、大体三十数名を先に持っていって、その後その首謀者と目せられる者を引っぱった。これに対しては、こちらが同じ運動をやったことに対して非常に心配して、何とか一緒にしてくれ、実際今どうなっているのかということを再三再四——もしわれわれと一緒にしてくれなければ、われわれは反抗するぞというような意気を大体見せたわけです。しかし向うはそんなことはするな、お前たちさえよければいいじゃないかというような返事でした。これに対して私らの考えでは、この運動の趣旨からいって、ソ連側も大体内容はわかっておるのだから、この運動に対していろいろな請願とか、そういったものに対しては数十百冊のページを要した請願書の資料を集めて、国際連盟とかプラウダ、あるいはソ連政府、ブルガーニン、フルシチョフ、そういうところに請願書を出した。そういう内容向うがつぶさに研究して、われわれの言うこともよくわかっておる。そこでまず私たちが一番希望する即刻帰してくれ、十年たっているのだから帰してくれ、こういうことに対してパシコフのいわく、これは国交的なものであって、おれには言えない、モスコー政府でなければ回答はできない、お前の言うことはわかっている。そういう点からしまして、四十二名の抑留生活は、そう悪くないものだと考えております。それで、作業には出ない、かつその中には、おっても出られない、事実またそういうところに隔離しておる。その中におって通訳を担当された満州国の外交部におった上野さんなども、そこから出てきて第三分所におりますが、そのとき石田さんもおられたということから、ハバロフスクにおられる。この点について政府の人々にお願いをすることは、ハバロフスク一般抑留者とぜひ同じにしてくれ、その運動の趣旨からいってもあの人たち首謀者じゃないのだということが、私たちの非常にお願いしたいところなんです。これを上陸したときに、促進会の長谷川さんにもお願いしております。この点、私たち非常に切望してやまないところであります。
  50. 戸叶里子

    戸叶委員 今のお話で、食糧などで非常に差別待遇を受けていないというふうにわかったわけであります。そしてまた上陸されると同時に、政府にそういう方々をほかの人たちと隔離したという形で扱わないようにとお頼みになったのですが、政府としてはそれに対してどういうふうに手をお打ちになったか、これを伺いたいと思います。
  51. 田邊繁雄

    ○田邊説明員 ハバロフスク事件の問題につきましては、外務省からロンドンの西大使の方に事情を詳細通知いたしまして抑留者待遇改善、ことに健康の問題について十分注意するように、厳重に向うに申し入れをしておるのでございます。私もまだロンドンにおりましたときに、ハバロフスク事件に関して情報を聞きましたが、これにつきましては、向うにずいぶん厳重に申しました。今回帰られた方々からお話を聞きますと、健康上の問題については、向うの方も十分に注意はしておるようです。先ほどお話がありまして黒が白になったということはないというお話でございましたが、確かに抜本的にすべてが改善されたというところまでは行っていないようでありますが、ことに病人に対して強制労働させるという点は、改善されたようでございます。なおその後におきましても新しい資料が入り次第、外務省と連絡いたしましてロンドンの西大使を通じまして、さらにこちらの申し入れが十分徹底するようにしていきたいと思います。
  52. 戸叶里子

    戸叶委員 ただいまの御答弁ですけれども、それはハバロフスク事件がなぜ起きたかというその根本原因をただして、そういうものをぜひ直してほしいということをロンドンを通してやったことで、これは当りまえのことだと思うのですが、今私が伺いましたことは、いわゆるその首謀者として四十何人の人が隔離されておる、それに対してハバロフスク人たちは、みな決してあの人は首謀者でないのだ、自分らと同じなんだから同じにしてくれということを願っている、そういうことを帰ってきてからも、ぜひ日本政府からも向うに言ってやってほしいということを大貫さんが上陸しておっしゃったということを今おっしゃったのですけれども、それに対して政府はどういうふうにしたかということを質問したのですが、これに対してどういう手をお打ちになったでしょうか。
  53. 田邊繁雄

    ○田邊説明員 四十二名の問題についても、外務省の方から西大使の方に通告してあります。
  54. 戸叶里子

    戸叶委員 ただいまの御答弁で、四十二名の方もほかの人と同じようにしてほしいということを通告したというお話でございましたから、私はいつどういうふうな形でしたかということまでは追及いたしません。そうしていただいたものと信じますけれども、ただこういうふうに引き揚げていらっしゃった方々が、現地のとうとい経験を通して、一つずつでも解決してほしいという気持でおっしゃることでありますから、おっしゃったことに対しては、すぐにでもそれを実行していただきたいということを私はこの機会に要望いたします。  それからもう一つお伺いしたいのですけれども、この間お帰りになりました方がちょっと私に漏らしたことで、大体今までのところは向うから配給された手紙以外には出せないということになっていたけれども、何かこちらから出す飛行便なり何なりでも収容所の方に渡されるらしいということを聞いたのですが、これは事実でしょうか。そういうことはみなに徹底していないということを言われたのですが。
  55. 大貫武平

    大貫参考人 それは原則として向うの通信用紙に、内地に流れて言われた制限事項以外を書いたものは渡してくれます、また出すこともできます。しかし日本から普通のはがき——ソ連の郵便はがきのような様式にロシヤ文字で入れまして、そして飛行便などでもらっている人もあります。これはそのラーゲルでたまたま渡してくれておるので、向うが正式にこれを認めておるのではありません。たまたま渡っておるのですから、それでは一般に許しておるかというと、向うでは指示いたしておりません。またその中で、出したけれどももらっていないというのは、そういう直接通信の指定人というものは初めから申し込んであって、それ以外にやったものは大体もらっていないように思います。中にもらったのは瀬島さんなら瀬島さんのお宅からもらったというような工合に、人によっては来る、あるいは人によっては全然来ないということは、まちまちであります。しかし、原則としては、向うははがきを月に一枚、しかし月によって今月はもう一枚書かせるからはがきを書け、書きたくない者は書かなくていいということで許されたことを、私は二回覚えております。
  56. 戸叶里子

    戸叶委員 そうすると、原則としては、向う側の与えてくれたもの以外には、大体届かない、しかしたまには届くことがある、かように了承してよろしゅうございますか。
  57. 大貫武平

    大貫参考人 さようでございます。
  58. 戸叶里子

    戸叶委員 加茂さんにお伺いしたいのですけれども、今お話中にあって、私が聞き落したのかもしれませんが、ソ連に初めに抑留されまして、それから中共に渡された場合に、どういうふうな形で引き渡されたのでしょうか、その点をちょっとお伺いいたします。
  59. 加茂熾

    加茂参考人 私の場合におきましては、ソ同盟に私が引っぱっていかれるということについては、実際不愉快だったのです。しかしながら、ソ同盟では、あとでわかったのですが、いわゆる国内法によって処分するものであるという、そうした刑法百何条かの容疑者であるということで引っぱっていかれた。形においては軍事捕虜であるというふうな格好になったわけであります。しかしながら、私としては、ソ連のいわゆる百十条ですか、その法規に該当しないものであると見たわけであります。従って裁判は受けませんでした。しかしながら、私は長年中国におりましたので、その方面の容疑者として中国に引き渡されたものというふうに私は認めます。
  60. 戸叶里子

    戸叶委員 そのときに、大勢御一緒でしたか。
  61. 加茂熾

    加茂参考人 ええ、先ほど申したように九百七十三名、そのうち一名の方が出発に際しまして熱を出しておくれましたから、私ども一緒に来た人は九百七十二名でした。
  62. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 ちょっと関連して。それでしたら、今の御発言によりますと、いわゆる中共関係戦犯者で逆送された人々ということがかって言われておりましたが、そのグループになるわけですね。
  63. 加茂熾

    加茂参考人 さようでございます。
  64. 戸叶里子

    戸叶委員 それは、外務省の方にはその方々のことはわかっていたのでございますか。
  65. 小川平四郎

    ○小川説明員 当時のいわゆる中共に渡された方々ということで、名前は李徳全さんの見えるまではわかりませんでしたが、そういうグループがあるということは、わかっておりました。
  66. 原健三郎

  67. 井岡大治

    井岡委員 実は、この抑留問題に関連して、直接参考人からでなくて、きょうは厚生政務次官がお見えになっておりますから、一言尋ねたい。それはこの間、中共からお帰りになった方が非常に自分たちの今後の生業について御心配で、私のところにお見えになりまして、これは一つのケースと考えましたので、さっそく大阪府の方に行って調べたのですが、大阪府の方としては、われわれとしてはそういうケースについては十分理解を持って処置したいが、厚生省の方から通達がないとできませんので、厚生省の方で十分理解ある態度をとって、各都道府県に通達をしてもらうようにお話を願いたいと、こういう大阪府の衛生部長のお話でした。このケースがございますので、その立場に立ってお答えをいただきたいと思うのです。それは昭和二十三年六月三十日の法律第六十七号であります。これは理容師美容師法の特例でございますが、昭和二十三年までは、理容師の方々は、一応学校の課程を終えますと、国家試験を受けなくとも、理容師の免状を得、開業することができたわけなんです。これは理容師だけでなくて、美容師もその通りです。ところが昭和二十三年六月三十日以降は、国家試験を受けなければならないことになったわけです。同時に、このことは、三年間の猶予期間を設けておりますので、昭和二十六年六月三十日までは、大体当やっておられた方々は国家試験を受けなくともやれる、こういうことであります。ところが戦争の初めに召集をされ、そして敗戦後抑留された方々は、この国家試験を受けておられない、同時に届けを出しておられないわけなんです。従って、帰ってきてこれを開業しようとするならば、再び一年間の学習課程を終えて、そうして国家試験を受けなければ開業することができない、こういうことになるわけなんです。同時に、当時国家総動員法によってあと三カ月ないし四カ月の学習の期間があるにかかわらず動員を受けた人、この人には一応の仮卒業免状をを出しておるわけであります。ところがこれまた今申し上げましたように法律から来るこの恩恵を十分受けられない、こういうことで、非常にお困りになっておられる方がたくさんあるようです。たまたまこれは、医者の場合は、厚生大臣の特別認可がある場合は、国家試験を受けなくともよろしいということになっておる。現在その通達でいわゆる恩恵の措置をとっていただいておるようであります。しかし美容師とかあるいは理容師という方々は、その厚生大臣の特別申請許可ということをいまだ明確にしておられないために、同時に、通達を都道府県に出しておられないために、末端の取り扱っておる行政官としては全く困っておられる。しかもこの人方は、そういうことで自分たちは国家のために行ってそうして長い間抑留されている。もちろんこれはいろいろ事情はありましょう。ありましょうけれども、召集を受けて行ったということについては、国家の要請にこたえてそうして十年間という長い間抑留されておる、こういうことに変りはございませんし、同時に国家総動員法に基いて、学習半ばで行った人、しかも半ばといっても、あと三カ月か四カ月で行った人、こういう人に対しても当然医師と同様の措置を講じてやるべきである、私はこのように考えるわけです。もちろんこれはただ単に本人だけが言うのでなくて、十分第三者がこれを証明するものでなければなりません。こういう場合、証明する場合は、医師と同様に取り扱うようにしていただけるかどうか、この際次官の御答弁をいただきたいと思います。
  68. 山下春江

    ○山下説明員 事情まことにごもっともでございますが、こういう問題に対しては、過去におきまして、他にも非常にお気の毒だと思うものがあったのでございます。たとえば、露語が非常にうまくおなりになりまして、それで外国語大学の入学試験をお受けになりましたところが、これにパスいたしました。ところが、その方の経歴が中学校卒業後軍隊にお入りになったために、高等学校卒業課程の証明が得られなかったのでございます。私まだ厚生省へ参らないときかと思いますが、あらゆる奔走をいたしまして、ぜひこの人を特別の理由によって、大学の入学試験にパスしておるのであるから、特別な計らいをもって入学許可してもらいたいということを正規に文部省その他と交渉いたしましたが、ついにこのことが許可になりませんで、北海道の方でございますが、高等学校の三年の編入試験をお受けになりました。これも北海道庁に協力方をお願いいたしまして、三年に今入っております。来春この方は高等学校を卒業されます。そうして新規にその試験をお受けになることになっております。そこで今の理容師の問題でございますが、私といたしましては、個々のケースの方にお目にかかりまして——相当長い期間この業務から離れておいでになろうかと思われますので、あるいはすぐに特別な計らいをもちましてこの方に許可をいたしましても、業務上いろいろお差しつかえがあろうと思いますので、個々のケースの方にお目にかかりまして、私どもができますあらゆる便宜を与えまして、すみやかにその開業なさりたいと思われるお仕事に着手されることができるように努力をいたしたい。法律上からということでなく、法律はたしか議員立法でございましたので、委員会でおきめいただけば、これをまた延長の機会もあると思いますけれども、この法律だけでなく、十年間この業務からお離れになっておったのが現実とすれば、何とかすみやかに短期間で——その業務を一応おやりになっているんだから、すぐに復活できると思いますから、そういう意味で厚生省で法律解釈だけでなく、特別なお計らいをいたすことに私は絶対に御尽力申し上げまして、御失望を与えないように努力いたしたいと思います。
  69. 井岡大治

    井岡委員 お説の通りで、法律でやるとするならば、法律を改正しなければなりません。そこで短期間に開業をやる——この私のところに言われて来た方は、四年の学習で、あと四カ月で卒業される方なんです。ところが動員で行かれた。それで帰ってこられた。ところが一年間の学習をしなければいけない、こういうことなんです。しかしその学習をする場合に、今次官が言われた短期間のうもに、こういうことですが、学習をしようにも、見習い期間として、徒弟として雇ってもらうためには特別試験が必要なんです。その特別試験をするためには、これまた学校に行かなければならぬ、こういうことなんです。ですから十分アリバイのある証明をする場合は、各都道府県の衛生の方で、たとえば元の親方があるわけですから、親方のところに三カ月なら三カ月、四カ月なら四カ月の間、学習期間として認めた場合、医師と同様に、大臣の特別許可によって許してやる、こういうようにしていただけるか。その取扱い措置を都道府県に出していただかないと困る。もちろん次官のところに参ればけっこうなことでございますが、御承知の通りわずかに抑留手当一万円をもらって、親もない、子供もない、兄弟もないということになって、東京を往復ばかりをしておったのでは、たちまちなくなってしまうわけなんです。ですから、今の次官のあたたかいその思いやりを都道府県の取扱者に十分伝えていただくならば、取扱者としては、そういう厚生省の法律でなくて、いわゆるあたたかい取扱いの指示があれば、私の方はそのようにやりますが、今のところ医者だけしかありません。従って、看護婦にしても、あるいは産婆さんにしても、あるいは理容師にしても美容師にしても、全部国家試験を受ける学習を経てもらわなければ、私の方は行政官として取り扱うことができない、こう言っておられるのです。ですから今の次官のお言葉を私は全面的に信頼をいたしますし、お願いをします。そのことがいわゆる引き揚げてこられた方々に対する国民としての思いやりでなかろうかと思うのです。こういう意味で、ぜひそういう御処置をとっていただくことをお願いいたします。
  70. 山下春江

    ○山下説明員 よくわかりました。通達を出せということでございますが、各県の衛生部長に通達を出すということは、法律外のことでございますので、ただいま私がそういうふうに措置をとると申し上げられませんが、しかしながら、そういうケースの起っておる都道府県の衛生部長に対しましては、私の方から連絡をとりまして、特別の恩典をもって取り計らうようにいたします。従いまして、どうかそういうケースがございましたならば、お申し出を願います。必ずそういう取扱いをいたします。
  71. 大貫武平

    大貫参考人 今帰還者の就職の問題が出ましたのでこれはあとで私が一括してお話しようと思いましたが、時間の関係もありますので、二、三分お話させていただきます。帰還者、これは中共並びにソ連、全部共通することでありますが、まず現在ハバロフスクに残っておる日本人は、一日も早く帰してくれということは言うまでもございません。きのうの国民大会にも各代表が出られまして、いろいろお話した通りであります。その次に帰るということがわかると、まず就職の問題であります。これはハバロフスクにおりまして、抑留されておる日本人はよく知っております。戦後日本がどういう変り方をしておるとか、あるいはすでに帰った者から手紙をもらって、舞鶴に上陸すると思いがけない歓迎を受ける。また郷里に帰っても大へんな歓迎を受ける。その帰還の喜びというものはせいせい二カ月ぐらいのものである。さていよいよ自分パンのかてを求めるために就職するけれども、そうなってくると、歓迎の当時のような気分でなくなってくる。こういうのがハバロフスクにおる日本人の持っておる考え方なんです。私どもも、そういう面で大体腹には入れて帰りましたので、就職ということは、今のところは立法化されておらなくて、ただ道義的にやっていただくのでありますが、この点もう少し政府の方並びにその他のお方に極力お願いしたいと思います。私がここで一例を述べますれば、現に昨年八月に帰ってきている満州国の警察官をやっておりました人、これは私と同じで、昭和七年外務省巡査を拝命した男でありますが、これが帰ってきまして、いろいろ就職について骨を折りました。もともと福島の人間でありますが富山に奥さんがおって、富山に帰っております。彼は福島の山の中の男で、どっちかというと、人がいい。富山に帰るとどうも人が違うのか、おれがソ連から帰ってきて赤がかっているのかしらぬが、仕事を世話してくれない。しかし子供も三人おるし、家内が今まで十年間子供を育ててきたし、遊んでおられないから、パン屋の小僧をやって七千円もらって、家内と二人で働いている。こういう手紙を、私は帰ってきていただいておるのであります。むろん日本の現状をよく知っております。私たち以上に不幸な、戦後苦労されたというようなこともよく知っております。ですから、私たちが帰ってきて、金をどれだけくれとか、そういうことは申しませんが、少くとも生活のかてとなる就職というものを、政府方々に極力お願いしたい次第であります。  その次に、これは私個人並びに満州国の政府職員のことになりますが、私は関東省の特務機関の嘱託として、満州国の警備庁の属官でありました。防諜、諜報の業務を兼ねておりましたために、関東軍の嘱託をしておりました。そして満州国から俸給をいただいて働いておりましたのですが、事実上は関東軍の仕事をしておりました。帰ってくると、君は満州国の官吏であるから、恩給法が復活したけれども、気の毒だが今のところないというお話であります。これもよくわかっております。日本がこういう苦難の中に立ち上って、再び軍人並びに一般公務員の恩給を復活したということに対しては、私は非常に心強く思っております。その点私たちはまだそういう恩典がなく、実際は関東軍の一翼として、満州国の警備に当っておりました。そして日本に帰ってくると、軍人扱いでなく、私らは恩給ということの加算もない状態であります。このことについても、すでに皆さん御存じでしょうが、恩給改正期成同盟というものができておりまして運動をしているということを聞いております。この点、十分政府各位の方もお含みのほどを特にお願いいたします。
  72. 原健三郎

    原委員長 この際、質疑がなければ、これにて参考人よりの事情聴取を終ります。  参考人各位には、お疲れのところ、また炎暑の折、長時間にわたりいろいろ貴重なお話をお述べ下さいまして、本委員会といたしましては、調査上非常に参考になりました。この際、委員長より各位に厚く御礼を申し上げる次第であります。     —————————————
  73. 原健三郎

    原委員長 日ソ交渉再開に際しまして、ソ連地区抑留胞引揚促進に関する件につき、政府への要望決議案を委員長の手元において作成いたしました。この際、これを朗読いたし、御賛同を願うことといたします。    ソ連地区抑留胞引揚促進に関する決議  日ソ両国間の交渉が再開されるに際し、政府は引揚問題解決のため、左記の点につき最善の措置を講ずべきである。  一、ソ連抑留同胞の引揚問題は他の如何なる案件にも先じて優先的に解決さるべきである。  一、交渉妥結に際しては、左の点が必ず確実に解決されるべきである。   1.マリク名簿に記載されざるものをも含む生存抑留同胞全員について、その即時送還に関する具体的とりきめが行われること。   2.多数の消息不明者の究明のために両国合同調査委員会の設置など、その具体策がとり決められること。   3.確実なる死亡者名簿の発表と遺骨遺品等の送還に関する具体的とりきめがなされること。  以上でありますが、これを本委員会の決議として、政府当局に対し要望することに御異議はございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  74. 原健三郎

    原委員長 御異議がなければ、さよう決しました。  なお、政府当局に対する送付等の手続については、委員長に御一任願います。  本日はこれにて散会いたします。次会は公報をもってお知らせいたします。    午後零時五十五分散会