運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1956-03-30 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第10号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十一年三月三十日(金曜日)     午前十時五十四分開議  出席委員    委員長 原 健三郎君    理事 臼井 莊一君 理事 木村 文男君    理事 中山 マサ君 理事 堀内 一雄君    理事 櫻井 奎夫君 理事 戸叶 里子君       逢澤  寛君    大橋 忠一君       田中 龍夫君    田村  元君       辻  政信君    仲川房次郎君       眞崎 勝次君    眞鍋 儀十君       井岡 大治君  出席政府委員         厚生政務次官  山下 春江君  委員外出席者         検     事         (民事局第五局         課長)     長谷川信藏君         厚生事務官         (引揚援護局次         長)      美山 要藏君         厚生事務官         (引揚援護局引         揚課長)    瀬戸新太郎君         参  考  人         (モロタイ島引         揚者)     岸  啓七君         参  考  人         (モロタイ島引         揚者)     元山  肇君     ————————————— 三月二十七日  委員加藤精三君、北澤直吉君、薄田美朝君、松  岡松平君及び三田村武夫君辞任につき、その補  欠として大橋忠一君、眞鍋儀十君、田村元君、  辻政信君及び田中龍夫君が議長の指名で委員に  選任された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  派遣委員より報告聴取に関する件  南方地域残留同胞引揚に関する件  ビルマ地域における戦没者遺骨収集に関する  件     —————————————
  2. 臼井莊一

    臼井委員長代理 これより会議を開きます。  初めに、南方地域残留同胞引揚に関する件について議事を進めますが、参考人より事情を聴取する前に、過日モロタイ島及びジャワ引揚者引揚げ状況並びに受け入れ援護状況調査のため、神戸検疫所に派遣いたしました委員より、その調査報告を求めることといたします。中山マサ君。
  3. 中山マサ

    中山(マ)委員 去る三月十九日帰国いたされましたモロタイ島及びジャワ島残留の元日本軍人引き揚げ状況等につきまして、当委員会より派遣され、調査をいたして参りました概要を、簡単に御報告申し上げます。  今回帰国いたした人々は、モロタイ島からは岸啓七君外八名、ジャワ島からは新井守一君外一名の合計十一名でありまして、ことにモロタイ島から引き揚げて参りました九名の方々は、昭和二十年二月ごろより山林生活を営み、その後、昨三十年十一月に至る十年間余りも、日本敗戦も知らずに、後で述べまするような原始的生活を続けていた人たちなのであります。  帰国船日昌丸は、予定より約一時間おくれて三月十九日午前九時大阪港に入港し、携帯品検査入国審査等上陸業務を済ませ、午前十一時上陸をいたしました。  私どもは桟橋においてこれを迎えたのでありますが、帰国者たちの十年間余の苦労の跡を深く顔に刻み、疲労困憊その極に達した姿を見て、まことに胸の詰まる思いがしたのであります。  上陸後、直ちに復員業務の都合上、一同はバスで神戸検疫所に送られ、私どももこれと同行いたしまして、午後二時から約二時間にわたり、検疫所において引揚者一同とひざを交えて懇談し、現地における実情を聞き、また将来に対する身の振り方等について希望を聞いたり、意見を述べ合ったりいたしました。  以下、その概要について簡単に申し述べ、対策として思いついた点などをつけ加えまして、当委員会調査参考に供したいと存ずる次第であります。  まず、モロタイ関係について申し上げます。今回、モロタイ島から引き揚げて参りましたのは、先ほど申し述べましたように九名でありますが、そのうち、日本人岸啓七君、赤木政夫君、原田高雄君の三名でありまして残りの六名すなわち元山肇君、前田留夫君、吉田次郎君、若松逸男君、西村太郎君、国島安一君の六名は台湾出身で、現在は中国人の身分を有する方々であります。台湾出身者に関する問題につきましては後に述べることといたしまして、主として、岸啓七君から聴取いたしましたモロタイ島における一同生活状況帰国に至った経緯等を若干説明し、いまだ残っていると思われるこれに類似した環境の方々に対す別委員会議録第十号る引揚げ促進参考としていただきたいと思うのであります。  一同は、部隊はそれぞれ異なっておりましたが、昭和十九年十一月末、ころ、前後してモロタイ島に潜入し、すでに上陸していたアメリカ軍と数回交戦し、部隊長その他多くの戦友は戦死し、昭和二十年三月ごろ山地にのがれ、それ以来山林生活を営み、当初十一名でありましたが、間もなく台湾出身日高岩男君、和田曹吉君の両名は発熱して倒れ、死亡するに至りました。  山地における生活は、全く原始的生活で、食物を探すため、毎日放浪し、その食物も一日血眼になって探しても、やっとその日食べる量しか得られなかったほど乏しかったようであります。初めは鳥類や野猪、トカゲ等をとり、肉食ばかりしていましたが、次第に身体に変調を来たし、間もなく動けなくなったので、動物の食べていた草の茎や、野生のタケノコ、木の実等をあわせて食べることといたしましたが、それでもいまだ不十分のため、後には畑を作り、原住民が残していたサツマイモ類の種子や苗を植えて、食糧の自給をはかったのでありますが、山地はあまり暑くなかったため、あまり良く育たなかったようであります。気候はちょうど日本の夏ごろの気候だそうで、もちろん塩は全く食べないで暮してきたと申されております。それでも人間は生きられるというこの方々実験者であり、体験者であるのであります。住居の方は、食物を探すため放浪していたので、一定の小屋等は建てず、野宿をして、常に移動しており、ただ雨の降ったときだけ簡単な小屋をかけて、雨を避けていたようであります。衣類の方は、軍服の損傷がはげしいので、当初は夜だけ着用していたが、そのうちついに滅失してしまったので、麻によく似た繊維を持った木の皮で糸を紡いで、それを布に織って、これをまとい、またくつもはき切ってしまってからは、その糸でわらじを作ってはいていたそうであります。  その他、漁猟に必要なもり、わなはもちろんのこと、水中めがねまで自作し、また火を起すことも、初めは竹をすり合せ、その摩擦により火を起していましたが、非常に労力がかかりますので、火打石を使うことを考え、適当な石を探し、火を移すもぐさも木の皮の繊維をほぐして自作する等、全知全能をしぼって生存のための努力を続けたのであります。  ここで考えなければならないことは、なぜ彼らがかかる想像もつかないような原始生活を営み、心身とも疲労のどん底にありながら、よく十何年間も生存を続けたか、いな続けざるを得なかったかということであります。それは、とりもなおさず、われわれ日本人幼少のころよりたたき込まれていた日本精神ともいうべきもののためでありまして、とにかく敵の捕虜になるのは死んでもいやであるとか、日本は負けることはない、必ず勝つのだとかいう思想のために、彼らは今、疲労した身体海岸に出て行っては、みすみす敵の捕虜となるばかりで、そのうち日本軍が反撃してくるものと確信し、それまで生きるだけ生きているつもりで、山林から出ようとしなかったのであります。しかし、待てど暮せど日本軍が反撃してくる様子はなく、また飛行機は毎日飛んでいたのでありますが、遠くてその国籍がわからず、海岸にはいまだアメリカ軍がいるものと思っていましたが、とにかく海岸に出て敵状を偵察して見ることとし、昨年の十一月ごろ一同は山を下ったのであります。川岸にあった原住民部落事情を聞いたが、日本が勝ったのか負けたのかよくわからず、海岸には米軍はおらないようなので、原住民にいかだを作らせ、それに乗り川を下り、海岸に出て、そこの原住民部落の巡査と会い、事情を聞いたが不明で、日本が負けたかと聞いても、負けないと言い、日本が勝ったかと言っても、勝たないと言い、ただインドネシアの国旗を示したので、インドネシアが独立したことだけはわかったような状況でありました。それでも対日感情がよかったので、少くとも日本は対等の講和条約を締結したものと思っていたそうであります。  そこで、帰国のことについてはインドネシア側にまかすこととし、同島のドルバ町に行き、そこの航空隊に十日ほど滞在したが、待遇はきわめてよかったため、いまだ日本が負けたとは思っていなかったのであります。飛行機でセレベス島のマカッサルに飛び、そこで被服等の支給を受け、憲兵隊調査等のため一カ月半滞在した後、ジャワ島ジャカルタまで飛行機で送られ、そこの移民局に収容され、間もなく日昌丸が入港し、領事館の尽力で帰国することとなったのであります。  日本敗戦については、ジャカルタ日本領事館に行ったとき初めてそれを知ったのでありまして、かかるように、モロタイ島にはもう残留同胞はいないようでありますが、その他の島々にまだ数多く残留していると思われる同胞たちは、日本敗戦をも知らず、また知っていたとしても、モロタイ島にいた人たちと同じような気持で、同じような生活をしているものと推察されます。現に岸君の話によりますと、タラカンの西川という人の話では、ボルネオで三名の日本人が山から出て来たそうでありますが、すぐまた山に引き返して行ったそうであります。当委員会といたしましても、何らかの方法で、かかる悲惨な境遇にある人たちを一日も早く救出できるような具体的方策を立てるべきであると考えるのであります。  モロタイ島から引き揚げて参りました九名のうち六名は、前にも述べましたように台湾出身人たちでありまして、日本人五名の方々はそれぞれ帰る家もあり、定着援護等に関する問題も少いのでありますが、台湾方々帰国と同時に中国籍を得、入国手続もあわせて行うこととなっており、これからは中国人としての新しい人生を踏み出すのであります。これらの方々はみないわゆる高砂族人たちで、戦時中日本のため勇敢に戦った人々で、また、日本人三名がモロタイ島における生活によく耐え得たのも、高砂族の方方が幼少より体験した生活様式を実地に生かして援助してくれたたまものなのであります。彼らの希望といたしましては、中国政府支配下にある台湾に帰り圧迫された生活を送るよりは、日本は負けたとはいえ、初めて踏んだ日本の地にとどまって、少しでも日本再建のために働きたいという純真な気持を持っております。引き揚げ当局の方針としても、これら台湾出身方々については、華僑総会代表者とよく懇談させ、駐日代表部総領事を通じて台湾の家族と書簡で連絡させ、帰りたい者はともかくとして、日本残留したい者についてはできる限り便宜をはかる予定のようでありますが、当委員会といたしましても、彼らについては、できる限り本人たち希望に沿うようにしてやるため、強力な支援をすべきであろうと存ずるのであります。  次にジャワ島関係について申し上げますと、ジャワ島から今回引き揚げて参りましたのは、新井守一君、大城吉郎君の両名でありまして、主として新井守一君から聴取したところによりますと、同君らは大東亜戦争勃発とともに、仏印、マレーを経てジャワ島上陸転戦し、敵の降伏後は兵器廠に勤務するかたわら、インドネシア人軍事教育を行なっていたのであります。日本降伏後は、部隊長に相談し、現地復員の形で兵器廠の同僚十二名とインドネシア軍に入ったのであります。当時インドネシア軍に入った元日本軍人の数は約千三百名程度とのことでありますが、その後現在でもなお約百名がジャワ島残留しているようであります。これら約百名の残留同胞は、今では大部分軍人をやめて、日本商社人人一緒に商業を営んでいるようであります。これらの人々には、みな原住民との間の妻子があるため、妻子とも帰国することを望んでおる者もありますが、手続等がめんどうで非常に時間がかかるため、帰国を断念している者も相当あるようであります。しかし、ジャワ島残留希望する者に対してさえも、インドネシア政府方針として、日本人はもとより、中国人等に対しましても、外国人であることがわかり次第、極力帰国さす方針をとっているようであります。両君の場合も、警察に何かの証明を受けに行ったところ逮捕され、移民局に送られ、有無を言わさず帰国させられたそうであります。かかるように、表面上は何ら圧迫を加えられてはおらないように見えますが、裏面では、インドネシア政府としては、外国人はすべて送還するとの方針をとっているのがうかがわれるものであります。これはおそらくは、インドネシア共和国との賠償の問題がからんでおるものと思われ、賠償の問題が解決すれば、残留希望者もそのまま残留が認められるものと思うのでありまするから、当委員会といたしましても、同胞気持よく残留できるためには、これらの原因をよく調査し、必要があれば賠償の問題を早急に解決するよう政府に要請する等の対策を講ずる必要があると存ずるのであります。  最後に、給与手当等に一言触れておきたいと存じますが、今回引き揚げて来られた方々のうち、現地復員の両名を除いた人々の旧軍人期間給与は、台湾関係者の分は神戸において、その他帰郷先のある者にはその帰郷地においてそれぞれ支払われることとなっております。帰郷先までの旅費ももちろん支給されますが、ただ、従来中共、ソ連地区から引き揚げて来た人人に支払っておりました帰還手当、すなわち、一人一万円の分につきましては、適用がないと聞いております。この点につきましては、当委員会において至急調査し、もしそうでありましたならば、人数も少いことでもあり、また前例もあったと記憶いたしておりますので、何とかこれに見合うものを支給するような便法を講じてやるべきであろうと考え、ぜひ皆様にお願いいたしておきます。  以上をもって私の報告を終りますが、幸い本日はモロタイ島及びジャワ島関係の方を参考人としてお招きいたしておりますので、なお詳細に事情をお聞きになった上、まだ灼熱のジャングル地帯日本敗戦をも知らず、また知っていても、いたずらに捕虜となることをおそれ、みずから出て来ようとしない数多くの残留同胞のあることを思い、当委員会といたしましては、これらの方々を悲惨な生活から一日も早く救出できるような強力な対策を立てるよう、今後とも一そうの努力を続けられんことを衷心より熱望し、かつ、今回引き揚げて来られた方々に対して、親身になって、定着に関する援護の手を差し伸べられんことをお願いして、私の報告を終る次第であります。
  4. 臼井莊一

    臼井委員長代理 井岡大治君より補足報告があれば、これを聴取いたします。
  5. 井岡大治

    井岡委員 ただいま中山先生の方から詳しく御報告になりましたので、あえて補足する必要はないことと思いますけれども、ただ台湾出身方々の身の振り方について、主としてこの九名を引率しあるいは統括をされておりました岸君から、内地に帰って、自分たちは一応日本人として生活はできましたけれども、その人方の身の振り方というものを一番心配しておる。しかもその人方は、親の代からいわゆるシナ人にいじめられて、そういうことで、妻子はあるけれども台湾に帰ることをあまり好まない、こういうように申されておるので、何とか適当な方法を講じていただきたいという強い要望のあったことを付して、補足説明にかえます。
  6. 臼井莊一

    臼井委員長代理 これにて、派遣委員調査報告は終りました。
  7. 臼井莊一

    臼井委員長代理 これより南方地域残留同胞事情につき、モロタイ島及びジャワより引き揚げられた参考人から、その実情を伺うことといたします。  まず委員長より参考人各位に対し、一言ごあいさつを申し上げます。参考人各位には、帰国早々、御多忙中のところを御出席願い、委員長より、この機会に厚く御礼申し上げます。  本委員会は、海外に残留されている同胞の引き揚げ問題の早急なる解決のため調査をいたしておりますので、その点をお含み願い、帰還に至るまでの概要並びに現地状況等につき、実情お話し下さるようお願い申し上げます。御出席の方は岸啓七君でありますが、元山肇君、新井守一君はまだお見えになりませんので、この点御了承を願います。  それでは、岸啓七君にお願いいたします。
  8. 岸啓七

    岸参考人 自分は、今委員長さんからお話のあった通りモロタイ島より復員した岸であります。モロタイ島の状況モロタイ島に上って帰還までの状況というお話ですけれども、さっき中山先生から大体報告がありました通りで、それ以上違ったというところもありません。どういう機会海岸に出てきたか、どういう動機をもって海岸に出てきたか、そういうところを特に皆さん方も聞きたいと思っておられると思いますので、そういうところを一つ自分は話してみるつもりです。それから、どういうわけで山におれたち十一名だけ残って密林入りをやるようになったか、その動機も……。  以前、モロタイ島に上陸した友軍は、約千五百名くらいで、それが四回五回に分けて逐次上陸しました。自分部隊は一番最後上陸したんですけれども、結局敵の上陸に相前後して友軍はその島に上ったのであります。話によれば、上陸当時からすでに糧秣は欠乏し、その間、一回は師団の方から糧秣が届いたのでありますけれども、それは千名以上の友軍を十分補うことはできずに、短時日をもってなくなってしまい、すでに当初から現地物資をもって自活しながら攻撃をやっておったような次第であります。その当時は、まだ海岸に、以前原住民が作った物資、要するにバナナとかイモとかタピオカとか、そういう現地物資原住民の畑にたくさんあったのであります。幾ら日本から送ってもらった糧秣が少いにしろ、そういう原地人食糧を利用して、少しは楽に遊撃戦を続けておったようであります。それがだんだん長引くにつれて原地人の畑にある物資にも限度があって、次々に食ううちに、なくなってしまったわけです。その間、攻撃に行って戦死あるいは糧秣欠乏による栄養失調からきた餓死、あるいは戦病死、そうしたものを加えてその数は多数に上り、二十年の四、五月ごろには、四、五回にわたって上陸した千五百名ぐらいの友軍が、自分の見た目ではわずか百名足らず兵隊が残っておったようであります。以前から糧秣を探して生活をしておったような状態からきた栄養失調で、その百名足らず兵隊が、結局五名とかあるいは四名あるいは八名、気まぐれに各部隊の気の合った者が小さなグループを組んで、あっちこっち移動自活みたいに食べものを探しておりました。そのとき、お前はどこの部隊か、おれはどこそこの部隊だ、それなら食べものを探しに向うに行こうか、それなら行こうというような調子で、どこの部隊ともきまらずに、とにかく同じ友軍というような工合で、部隊には関係せずに、十一名が組んで、その付近——その付近というよりも、みんなお互い物資を探しては、あっちこっちへさまよっておったのです。約二カ月ぐらいかと思いますけれども、そのときに、以前その付近にたむろしておった友軍を思い出して、再びその地点に戻ってきてみたところが、全然見当らなかったのであります。
  9. 臼井莊一

    臼井委員長代理 ちょっと参考人に申し上げますが、もし御必要があれば、ここにモロタイ島の地図の略図が掲げてありますから、御利用いただいてけっこうです。
  10. 岸啓七

    岸参考人 モロタイ島の地勢はここにあります通りでありまして、敵が上陸したのはドルバサバタイなど、おもに南海岸から、西海岸のワヤブラ、この辺に上陸しておりました。さっき話した通り海岸よりわずかの山地拠点を設けて、遊撃戦をもって以前は攻撃しておったわけです。戦死戦病死あるいは栄養不良による栄養失調によって餓死した者を除いて、残存の日本軍は、司令部の方からの命令で、モートル船が来て引き揚げるらしいという話が、この辺に移動自活している兵隊の中に広まったわけであります。その話も確報ではないですけれども、結局おぼれる者はわらをもつかむのたとえみたいに、自然と足はチュ川の方向に向いて、この付近自分も到着したのであります。そのときに、この辺の小さな川付近に入り込んで、ある者は小屋を建てている。それが百名足らずおったように思っておるのであります。自分たちもたしかこの辺と思いますけれども、この辺からちょっと山に五名、八名とお互いに入っておったのですけれども、おれたちは山に入って自活して、また元の拠点に、もし司令部から船が来て引き揚げてしまったら困るというので、もう一ぺんなつかしくなって帰ったところが、そこには全然友軍はおらなかったのであります。どこに行ったかとしばらくの間探してみたけれども、全然見当りません。わずかの友軍はまだおったようですけれども、ほとんどの者は見当らなかったわけであります。それで、これはきっと司令部から夜陰に乗じてモートル船が来て、みんな引き揚げたものと自分たちは推測をしたわけです。ところが現在、自分部落モロタイ島において最後まで一緒だった芳賀忠作という人が帰っておられるのであります。その人に出会って、自分と一日中話したのでありますけれども、そのいなくなったのは、要するに、ちょうど終戦で、アメリカ捜索にあい、結局連絡がとれて、アメリカ捕虜になってドルバに来たそうであります。それで自分が前に司令部からモートル船で引き揚げに来たと言ったことは、結局終戦になってアメリカ捜索に来て、みんな引き揚げたのだというように今、自分考えではなっておるのです。結局残った十一名というものは、自力で帰ることも、船がないためにできない。しかし、司令部とかあるいは幹部なんかの話では、長期作戦とか十年戦争、百年戦争とか、しかも遊撃隊高砂兵隊は、お前たちは十年おらなければ帰れないというような話も幹部から聞いておって、行く行くは必ず総反攻日本が押してくるという心が非常に強かったのであります。しかも、日本が負けるということは、結局子供のころから教えられた先入観といいますか、日本は絶対に負けないという心が強いために、どうしても行く行くは日本反攻にくるだろう、アメリカがここにおるうちは反攻にくるだろうという前提のもとに、がんばったわけであります。それから、密林生活のことはさっき中山先生の方からお話がありました通りですけれども、今度は海岸に出るようになった動機でありますが、やはりモロタイ島のほとんど西部地域、東部の方も歩いたことは歩いたけれども、ほとんど繰り返して歩いているのは、モロタイ島の西部であります。この付近を相当回っておるように思っております。ところが二年くらい前になると思いますけれども、この川の中流くらいのところにおりたときに、以前日本が入る前に原住民が作ったらしい荒れ果てた畑らしいところに、草にまじってなよなよと出ているイモのつるとかあるいはタピオカの茎などを発見したのです。それで、日本長期作戦、百年戦争といっているのだけれども、結局畑を作らなければ、長い戦争では負けるだろうという意見のもとに、畑を作るような話になって作り始まったわけです。その話も、決して、今話したみたいに順調に、一ぺんでそのままできたのじゃなくて、その畑を現に開くまでは、いろんな男同士のいきさつ、口争いというものはありました。しかし結局長期作戦の名前が勝ったためか、どうしても作るようになって畑を作ったわけであります。畑を作るにしても、簡単に品に出せないくらいの苦労はしました。ジャングルですから。そのイモの実を食べるまでも、何回も山に行って移動自活生活をして、また畑が恋しくなって帰ってみる、まだ実がならないので、また山に帰っていって自活生活をして、また畑が恋しくなって帰ってみる、なかなか実が大きくならない。自分考えでは、七、八カ月一年くらいになるのじゃないかと思うのですけれども、そのときに初めて実のようなものがなったのです。それでもある者は掘らずにそのままにしようとか、もう掘って食べろとかいう話もあったのですけれども、おれたちの命も果していつまで続くかわからないような話に一決して、掘って食べて、それから半年くらいと思いますけれども、相当——相当じゃないですけれどもイモも食えるようになって結局人間の欲から、いつまで山にこんなにして居残ってもどうかと思う、海岸に出て一ぺんアメリカの消息を見に行こうじゃないかという話が出たのであります。その話も一朝一夕にして固まったわけじゃなくて、きょうもそういう話が出る、しかし賛成しない者もおる、また次の日そういう話がある、また賛成しない、そういう日にちが一週間、十日と続いて、結局みなの意見が一致をして、初めて海岸に行くようになったわけであります。   〔臼井委員長代理退席、委員長着席〕 その間、原住民なんかとも出会いまして話を聞きましたけれども、あとで考えてみれば、ほんとうにつまらない考えになっているようですけれども、当時は悲壮な覚悟で海岸に出たようなわけであります。原住民の人とも出会いまして話をしましたけれども、向うの原住民も、一人非常にしっかりした人がおりまして、そのために、また現在のことが順調に進んだのじゃないかと思っているのです。その人の名前は、現在インドネシアの巡査部長になっているプテルランという人であります。その人は、自分考えでは、肝っ玉のある男だなと感じました。その人と出会っていろいろな状況も聞き、対日感情も非常にいいし、さっき中山先生からお話があった通り、負けたんじゃない、勝ったんじゃない、結局日本は優先的な立場で講和条約を結んで、戦争は終ったんだろう、こう考えたのであります。それに加えて、対日感情も非常にいいのですから、ますますその考えというものは強くなったわけです。そうかといって帰るに船もなし、どうしてもおれたちの身柄はこのインドネシアの国の人にまかして、一ぺんジャカルタまで行こうということに一決したわけであります。それが海岸に出る動機です。それからというものは、原住民から受けた対日感情というものは、さっき中山先生からお話のあった通り、非常によかったんであります。それ以外のお話もありますけれども、さっきの中山先生お話とそう変っておりません。ただ海岸に出るようになったその動機、それをちょっと詳しく話したまでであります。
  11. 原健三郎

    ○原委員長 次に元山肇君より、事情を聴取いたします。元山肇君。
  12. 元山肇

    元山参考人 自分元山であります。先ほどの中山先生、それから岸君のお話通りで、別に自分は申すところはありません。やはりその通りであります。ただ台湾の六名に何とかこの内地に職業でも見つけていただけませんか、そのことを一つお願いする次第であります。みんなの意見を聞いてみましたけれども台湾の六名はどうしても台湾に帰らないという確信をしておるのであります。現役入営当時、もしも満期になって無事に内地に帰りましたならば、そこで仕事をしようという前からの希望であります。それで、現在のところ台湾状況もわからない、親たちもどういうふうになっているのか、手紙も新聞も全然見ておりませんから、どうにか内地で暮らせるように希望しているのであります。簡単でありますけれども、ぜひとも内地におられるようにお願いする次第であります。(拍手)
  13. 原健三郎

    ○原委員長 次に、新井守一君にお願いいたすわけでございますが、何か都合で御出席がございませんので、省略いたします。  これにて参考人よりの総括的の事情聴取は終りました。  これより、通告順によって、委員各位の質疑を許します。中山マサ君。
  14. 中山マサ

    中山(マ)委員 ここでお尋ねしておきたいのでございますが、帰還手当は一万円おもらいになりましたかどうか。いわゆるソ連、中共から帰る人たちには帰還手当一万円が渡っておるのでございますが、南方からお帰りになった方々にも渡っておるようなことも聞きますし、この点がはっきりしていないのでございますが、あなた方には渡りましたか、その点伺っておきたいと思います。
  15. 岸啓七

    岸参考人 南方から帰った人には、そういう帰還手当というものはなかったという話は聞いたのですけれども、やはり手当として一万円はもらいました。
  16. 原健三郎

    ○原委員長 次に、戸叶里子君。
  17. 戸叶里子

    戸叶委員 私ちょっと用事がありまして、中山委員の御報告を伺いませんでしたので、質問をすることが非常に限られているわけなんですが、一、二点お伺いしたいと思います。大へん御苦労様で、どんなにか苦しい思いをしながらお帰りになったことかと、ほんとうに私ども喜んでお迎えするわけですが、ずっと逃げてお歩きになって、そうして、ところどころでお会いになった原住民方々お話をなさいますときに、言葉なんかはどういうふうになさっていらっしゃったか。それから食糧もずいぶんお困りだっと思いますし、着るものなんかもずいぶんお困りになっていらっしゃったのじゃないかと思いますが、そんなものはどういうふうにしていらっしゃったか、それを伺いたいと思います。
  18. 岸啓七

    岸参考人 食べ物の方は、やはり南方独特のジャングルでありまして、別に植えたものもないし、買って食うものもない。要するに野生のもの、ヘビ、虫、タケノコ、とにかく口に入るものは食わなければ生きられぬということで、すべて食べました。原住民と出会ったのはまだ近々でありまして、以前十年間というものは、原住民の方でも、山に日本軍がおるということを聞いて全然入らないという話も開き、また私たちの方でも、飛行機とかいろいろな状況から、まだ現に日本戦争をしておって、海岸にはアメリカが飛行場を守っておるものと考えて、こんな栄養失調のからだでは、海岸に出たらいかぬだろう、無意味なことになるだろうということで海岸にも出なかったわけで、近々になって原住民と出会ったわけです。その出会ったときというものは、こちらも全然言葉がわからず、向うもわからなかったのですけれども日本軍の宣撫班が原住民の間に入ったときに、以前いささか習った若い者もおって、十年前には相当知っておったけれども、今はみな忘れたというような原住民の話もありました。それでやはり片言まじり、おはよう、今日は、行きます、帰りますくらいの話はまだ知っておる者もありました。自分たちも、ほんとうにきまった程度の話ですけれども、あるとか、ないとか、行きます、歩くくらいは、以前インドネシアの国に入った当初に習って、まだそのくらいの程度は知っておりましたのですが、それ以外のことは、結局手まね足まねで無理々々通じさせたわけです。
  19. 戸叶里子

    戸叶委員 皆さん集団になって、あちこちずっとお歩きになったようでございますけれども、最初から見まして最後にこちらにお帰りになるまでに、どのくらいの犠牲者を出されましたか、どのくらいなくなられましたか。初めから集まった人は全部丈夫で帰られましたか、あるいは病気でなくなった方は幾人くらいおりますか。
  20. 岸啓七

    岸参考人 といいますと、山に入った十一名からですか。
  21. 戸叶里子

    戸叶委員 山に入ったのは何人くらいですか。
  22. 岸啓七

    岸参考人 山に入ったのはみなで十一名であります。そのうち密林入りをすると同時に、以前から続いた栄養失調からきたのか、発熱をして、二人の戦友をなくしました。それからというものは、そのあと続いて私たちも次々と倒れていくだろうと思っておったけれども、結局今考えてみれば、モロタイ島でなくなられた戦没者の魂か、それとも神様の助けか何か知らぬけれども、九名は大きな病気もせず、大きなけがもせずに、現在まで生きてきたようなわけであります。
  23. 戸叶里子

    戸叶委員 こちらの方は、ずっと日本に住んでいたいというお話でありましたが、きょう入国管理庁の方は来ておられないのですか。
  24. 原健三郎

    ○原委員長 今呼んでおりますから、しばらくお待ち願います。
  25. 戸叶里子

    戸叶委員 それでは、管理庁の方が来てからにいたします。
  26. 原健三郎

    ○原委員長 臼井君。
  27. 臼井莊一

    臼井委員 元山君の友だち、御一緒の戦友ですね、これはみなこちらにいたいという御希望でありますか。
  28. 元山肇

    元山参考人 そうです。ぜひ内地にいるようにして下さいとみんな希望しています。
  29. 臼井莊一

    臼井委員 お国の方には、妻子のおられる方もあるのでございますか。
  30. 元山肇

    元山参考人 ある者はおります。ある者はおりません。
  31. 臼井莊一

    臼井委員 知っている範囲内で、家庭の事情——子供さんが何人あるとか、そういうことで、国の方の事情でおわかりのことがありましたら、参考までにちょっと伺いたいと思います。そのお知り合いの友だちのことを……。
  32. 岸啓七

    岸参考人 自分がかわってお話ししていいですか。
  33. 臼井莊一

    臼井委員 どうぞ……。
  34. 岸啓七

    岸参考人 今ここにおられる元山肇さんが、妻、子供一人あります。吉田次郎さんは妻、子供二人、若松逸男さんは妻あり、子供一人、国島安一さんは妻あり、子供二人、以上であります。
  35. 臼井莊一

    臼井委員 これらの家族の方と、戦時中はもちろん連絡があったのでしょうが、こちらにお帰りになってから、手紙か何かあちらに連絡されたというような——まだもちろん返事は来ないかもしれませんが、何かそういうような方法をとられたことがあるのですか。
  36. 元山肇

    元山参考人 二、三日前、みんな手紙を出したのであります。
  37. 原健三郎

    ○原委員長 次に、大橋忠一君。
  38. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 僕は、高砂族に対しては、前から非常に親愛感を持っておるのであります。何とかして一つ助けなくちゃならぬ、こういうふうに思っておりますが、日本にこれから住まれる上において、何をして住んでいきたいのか、どうして生きていくか、日本政府に対して、滞在のほかに、生活のためにどういうことを期待しておられるか、日本政府にどうやってもらいたいか、こういうようなことを岸君からでも、どういうような考えを現在持っておられるか、ちょっとお話し願いたい。
  39. 岸啓七

    岸参考人 自分も現在まで一緒にやってきて、高砂族六名の意思なんかもだいぶ聞きましたけれども、やはり以前台湾におるときは山の自活生活であって、初めて今、文化生活みたいなところへ入っているようなもので、結局事務的な職業はどうしても考えておらぬという話であります。内地に永住できて、日本同胞一緒に仕事できるようになるのであったならば、労務関係でもいいから、ぜひとも一つどこまでも日本同胞一緒に、日本再建のために仕事をしていきたいという純真な心を以前から出しておったわけであります。
  40. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 どういうような労務ができるのですか。
  41. 岸啓七

    岸参考人 労務と言いますと、結局簡単な、とにかく教わってすぐ覚えるような、要するに力を用いてできるような仕事ですね。そういうものでもけっこう……。
  42. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 たとえば、開拓農業というようなことはできないのですか。
  43. 岸啓七

    岸参考人 ええ、開拓農業なんかでも、非常に喜ぶだろうと思っております。
  44. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 今までどういうことに経験があるのですか。
  45. 岸啓七

    岸参考人 ほとんど農業であります。
  46. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 その他のことは、まだ研究されてないのですね。あなた方長い間一緒におられて、どうしたらここで自活ができるかということについて、それ以上のことは……。
  47. 岸啓七

    岸参考人 それ以上のことは聞いておりませんけれども、簡単にでき得る仕事でもいいから、とにかく生活できるような仕事というようなことで話しておりました。
  48. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 学校はどこまで……
  49. 岸啓七

    岸参考人 今ここにおられる元山肇、この人は内地の小学校まで行きました。小学校六年卒業しました。ほかの五名は、昔台湾にあった蕃童教育所四年を卒業しております。
  50. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 現在みな神戸検疫所に住んでいるのですか。
  51. 岸啓七

    岸参考人 そうです。
  52. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 いつまで住めるのですか。
  53. 岸啓七

    岸参考人 検疫所の人の話ですけれども、職にありつけるまでは当分ここにおってもいいというような話を聞きました。現在のところ、日本におる者とすれば、家もなければ親兄弟もないような始末で、結局軍籍は日本にあった、そういう関係で、今、復員して、しかもこの六名の本心を聞けば、どうしても日本に非常にあこがれておるようですから、復員局の方でも、職のあるまではここにおってもいいというような話を聞きました。
  54. 大橋忠一

    大橋(忠)委員 世話する人は、援護局が直接これから政府としては世話するのですか。
  55. 岸啓七

    岸参考人 そうだろうと思います。
  56. 中山マサ

    中山(マ)委員 この六人のモロタイ島からお帰りになった方々は、台湾へ帰る希望がなくて、内地に永住したいという御希望を持っていらっしゃいますし、私どもといたしましては−私お迎えに行った一人でございますが、私ども同胞方々は、山の生活になれておらない関係上、自分たちが今日生きて帰れたのは、この六人の高砂族の過去の体験を生かして、このむずかしい山林の中でも生きることができたのだと、非常な感謝をしていらっしゃるわけでございます。それで、私どもこの引揚委員会としては、その感謝の感情を受け継ぎまして、何とかして六人の方々の御希望をかなえてあげたい、こういう気持を持っているのでございますが、法務省といたしましては、この問題でどういうようなお考えをお持ち下さいますか、その対策もついでに伺いたいと思います。
  57. 長谷川信藏

    ○長谷川説明員 高砂族は、御存じのように、講和条約の発効によりまして、日本の国籍を失ったわけでございまして、中国国籍になったわけでございます。それで、日本に在住する高砂族に限らず、一般の中国人対策ということは、特に私の所管でございませんので考えてもおりませんけれども、一般に帰化は許されておるわけであります。これは何国人たるにかかわらず、国籍法の要求する一定の要件さえ具備すれば、帰化は許されるわけであります。現に許可は相当やっております。また私の浅い経験からいいましても、高砂族で許可になった人もございます。ただ難点は、日本の国籍法にあるのではなくて、中国の国籍法にあるのでございます。と申しますのは、日本の国籍法によりますと、日本に帰化する者は、帰化の結果二更国籍になってはいかぬ、国籍単一の原則から、二重国籍になる者は許可できないことになっておるわけであります。従って、日本の国籍を取得することによって、当該国の国籍を失う場合でなければいかぬことになっている。現に諸外国の立法例を見ましても、自己の志望によって外国の国籍を取得した場合は、当該国の国籍を失うというのが大体文明国家の立法例であります。そういった経路をたどっておりますが、それにいたしましても、そうでない国も現に相当あるわけであります。その一つが中国でありまして、中国の国籍法の十一条によりますと、みずから志望して外国の国籍を取得する者は、内政部の許可を得て、中華民国の国籍を喪失することができる。ただし満二十年以上であって、中国法により能力を有する者に限る。こういう規定があるわけでございます。のみならず、男性でありますと、さらに兵役関係の観点から、ちょうど日本の旧国籍法のように、兵役法の観点から、兵役義務がなくならないと、国籍を失う許可を与えないということになっておるわけであります。こういう難点がございまして、台湾といいますか、中国人の帰化というものは非常にむずかしくなっておる。われわれとしましては、希望する限り、しかも国籍法の条件を具備する限り、ぜひその望みがかなえられるようにありたい、こう考えておるわけであります。ただ——これはちょっと筆記は……。
  58. 原健三郎

    ○原委員長 ちょっと速記をとめて。   〔速記中止〕
  59. 原健三郎

    ○原委員長 それでは速記を始めて。
  60. 長谷川信藏

    ○長谷川説明員 そういう状態でございます。これが一つの難点でございます。
  61. 戸叶里子

    戸叶委員 そこで、お伺いしたいのですけれども、六人の方の中には、妻子がいらっしゃる方があるわけです。その場合に、今お手紙をお出しになって照会中だそうでございますが、妻子がはっきりわかりましたときに、おそらく呼び寄せたいということになると思います。そういうような場合には、どういうことでしょうか、それは大へん困難なことになるでしょうか。妻子をともに帰化させるというふうなことをする場合に、どういうふうなことになるでしょうか。
  62. 長谷川信藏

    ○長谷川説明員 家族をこちらへ呼び寄せるには、これは入国管理局の所管でございまして、私さだかにはわからないのでございますが、やはりこちらから申請されまして、許可を得れば、入国の可能の事例もあるようでございます。そのように承知しております。はっきりは申し上げかねますが、そのような取扱いもあるようでございます。だから、そのような処置をなされば、こちらへ呼び寄せられる可能性は十分あろう。そのような場合に夫婦ともに許可をするか、こういう御質問でございますが、現在の国籍法のもとにおきましては、全くの個人的な観点から帰化の条件を調べることになっておりますから、そうしてまた、国籍の得喪等は、全く個人的に処遇されておるわけであります。しかし実際問題といたしましては、一つの家族をなす者、少くとも夫婦、親子というものはもとより独立した子供は別でありますが、そういうものはできる限り同一国籍が好ましいという観点から、むしろわれわれは積極的に夫婦一体として許可するように実際の取扱いは運営いたしております。ただ帰化条件といたしましては、日本に一定期間住所を持っておるということが要件になっておりますので、この観点から、その要件が具備されなければいけないということはあるわけでございます。もっとも、さらに詳しく申し上げれば、たとえば御主人が国籍法の要求する住所要件を具備しておられるという場合には、その方が帰化になれば、日本人になるわけであります。そうすると、日本人の妻として住所要件というものは非常に軽くなるということがございますので、念のために申し上げておきます。
  63. 堀内一雄

    ○堀内委員 関連して……。今の国籍法の関係で、国籍の問題は先ほどお話のようなことで、御本人はできている。御本人以外の妻子は、先ほどあなたのおっしゃったような条件がないのですが、その人たちは、こちらへ国籍を移すということはできますか。
  64. 長谷川信藏

    ○長谷川説明員 御本人——御主人が帰化になったといたしますと、日本人の妻ということになりますので、帰化条件は非常に軽くなるのみならず、中国の国籍法の建前でも、こういった場合には、先ほど申しましたような障害はないわけであります。
  65. 臼井莊一

    臼井委員 この帰化の問題について、ついでにお伺いしたいんですが、朝鮮の人が日本人に養子縁組みしていた、ところが帰ってきたら、それが離婚しちゃったんで、籍がないというか、何か宙ぶらりんのようなことになった、こういうあれにはやはり帰化ができるんでございますか。朝鮮との関係をちょっと……。
  66. 長谷川信藏

    ○長谷川説明員 台湾の国籍法は、中国のようなことはございませんので、日本に帰化すれば当然に台湾の国籍は失うという立て方になっておりますので、今のような隘路はございません。  なお少し詳しくなりますが、講和条約発効前に日本人の養子になっておる朝鮮人——朝鮮人と限りませんが、元日本人でございますね、そういった者は、われわれは当然日本人であるとして、現に戸籍も作られております。ただ講和条約発効前に養子離縁しておるということであれば、これはだめでございます。講和条約発効後に養子縁組みをした場合には、国籍の変動はない、やはり引き続き日本人である、このようにわれわれ観念いたしております。なお知らぬ間に養子離縁になったということであれば、その離縁は無効なんではないかという気もいたします。かりに無効であるとすれば、裁判その他の方法によりまして、その者の国籍はやはり日本人だということになりそうでございます。
  67. 原健三郎

    ○原委員長 他に質疑がなければ、これにて参考人よりの事情聴取を終ります。  参考人各位には、お疲れのところ、長時間にわたり、非常に貴重なお話しを詳細にして下さいまして、本委員会として、調査の上に非常に参考になりました。この際、委員長より厚く御礼申し上げます。     —————————————
  68. 原健三郎

    ○原委員長 この際、ビルマ地域における戦没者遺骨収集及び慰霊のため、収集団長としてビルマにおもむき、各地の遺骨を収集して来られました引揚援護局次長美山要蔵君より、その実情を聴取いたしたいと思います。美山引揚援護局次長。
  69. 美山要藏

    ○美山説明員 本日、本委員会におきまして、引き揚げ後、第一回のまとまった報告をする機会をお与え下さいましたことについて厚くお礼を申し上げます。  第一、ビルマ派遣団の編成について。派遣団は政府職員六名、宗教代表二名、遺族代表四名からなっておりまして、遺族代表は栃木、三重、愛媛、長崎から選出せられました。従来の派遣団は、通常十数名の作業員を含んでおりましたが、今回はこの作業員はおりません。その作業員は、従来は戦友を充てておったのであります。  第二、派遣団の任務について。ビルマ及びインド方面の遺骨並びに現地追悼であります。ビルマ方面の戦没者総数十六万七千、うち派遣団出発前までに内地に送還されていた遺骨数は約八万でありまして、八万七千の英霊が未帰還でありました。そのうち約四千が雲南省内にありまして、約七千がインパール、コヒマ等、インド国内にあったのであります。第三、派遣団の行動及び成果につい、派遣団は一月二十三日、三浦団長以下三名を先発せしめました。主力は一月三十日出発のところ、都合により一月六日に出発いたしました。翌七日フングーンに到着した派遣団は、ビルマ政府の外務、内務、国防三省に連絡いたしまして、国内の各地区における行動について許可を受け、所要に応じて護衛をつける約束を得ました。かくて二月十一日、ラングーンを出発し、途中一泊の上、マンダレーに参りまして、マンダレー周辺及びラシオ、メークテイラ付近の収骨を行いまして、二月十八日マンダレーヒルにおいて、第一回の追悼式を行いました。  自後、派遣団は二隊に分れまして、主力はマンダレーからミッチナに至り、モガウン、パーモ、ナンカン付近の収骨を行い、次いでラングーンに帰りまして、ラングーン周辺並びにアキャブ付近の収骨を行いまして、ミッチナ、パーモ、アキャブにおいて追悼式を行なったのであります。一部はカレワ、カレミヨウ、テイデム方面へ行動いたしまして、テイデムにおいて追悼式を行い、一たんラングーンに帰りましてから、カルカッタを経てインパールに至り、インパールにおいて追悼式を行なってラングーンに帰りました。ラングーンで三月十二日主力と合体いたしまして、十三日ここで追悼式を行い、十四日出発、十五日帰還いたしたのであります。  この最後のラングーンにおきまする追悼式は、本行動間に収骨いたしました千三百五十一体の御遺骨を奉安をいたしまして、ビルマ国内、雲南省、インド国内、ベンガル湾等の室、陸、海における全英霊八万七千柱に対して行なったのであります。  各追悼式におきましては、ビルマ側の官民の参列はありませんでした。これは宗教上の特質によるものであります。しかしながらマンダレー及びラングーンの追悼式の状況は、ビルマの新聞に掲載されたのであります。在留邦人及び大使館員は常に必ず参列いたしまして、特にラングーンの大追悼式におきましては、大使以下全員及び在留邦人百二人が参列をいたしております。  本派遣団の成果といたしましては、ラングーン地区におきまして百十四体、マンダレー地区において百四十体、ラシオにおいて一体、ミッチナにおいて七十体、パーモにおいて四十八体、ティデムにおいて九百二十二体、アキャブにおいて二十六体、インパールにおいて三十体の遺骨を収集することができました。この一千三百五十一柱の御遺骨というものは、全英霊八万七千柱の代表でございまして、これらの全部の御英霊が御帰還願い得たものと私は信じております。  第四、収骨及び追悼式の状況につきましてですが、遺骨は山野に残置してありましたもの、墓地に仮埋葬してあったもの等、それぞれ状態を異にしておりましたが、出発前に戦友等より得ました情報及び現地住民の提供する情報をもとといたしまして、収骨、発掘を行いました。いずれも十年有余を経過いたしましたため、情報の不確実のものが多く、大なる労苦をなめたのであります。特にビルマは目下乾期のために土質多くは堅硬でありまして、満州の凍結地を掘ると同様の困難さがあったのであります。雲南省の英霊に対しましては、ナンカンに参りまして、——ここは国境から半マイルから一マイルの地点でありますが、シュウエリ川が拉孟、謄越の方面から流れて参ります。この地点は約四千の未帰還の英霊があったところでありまして、玉砕の地点でありますからぜひ行きたいのでありましたが、それがかないませんので、ここで慰霊祭を実施いたしまして、シュウエリ川の霊砂を取り、英霊にお乗り移りを願いまして、奉持して帰ったのであります。インパールにおきましては、ついにインパールの町から一歩も出ることが許されませんでした。わが軍はインパールに入ることはできなかったのでありますから、御遺骨を収集することができませんでしたが、インド側がすで収集しておったところの三十体を受領いたしまして帰った次第であります。追悼式は各地において最も戦没者にゆかりの深い清浄の地に祭壇を設けまして、おおむね仏式によりねんごろに実施いたしたのであります。  次に、ビルマ及びインド官民の状況につきまして申し上げます。ビルマ及びインド両国ともに官民の援助を受けたことが多いのは、感謝にたえません。ビルマにおきましては、内務省が主体となりまして、外務、国防両省の協力のもとに、国内の末端機関に至るまで派遣団の行動予定を周知せしめ、派遣団が迫悼式に日章旗を翻すことをあらかじめ制限したる以外に、至るところに進入をし、土地を掘開し、かつ官民に協力を求めることを許可してくれたのであります。なお追悼式には、日章旗は翻すことを制限されただけでありまして、日章旗はちゃんと張りまして、そしてその前で追悼式をやって参りました。これがために許可証をくれまして、先ほどのナンカンにおきましては、米国人の経営する病院の屋上において慰霊祭を実施したのであります。このとき院長がおりませんので、看護婦にあらかじめ許可を得て入ったのでありますが、あとから院長がどうして入ってきたかと言うので、看護婦も困っておりましたが、この許可証を提示いたしまして、事なきを得た次第であります。  ビルマの大衆は、日本軍、シナ軍、米英軍等の数度の攻防進退にあったとともに、各軍の特質を身をもって味わっている方々であります。しかるに、派遣団の接したるビルマの大衆は常に派遣団に協力友好的であり、日本軍隊の軍紀、日本国民の規律を賞讃いたしまして、日本軍人の勇敢、善良、子供に対する愛情をほめ、進んで遺骨収集に協力し、英霊の冥福を祈ることを約束する等、真に心から日本との親善友好を希望することを確認し得ましたことは、まことに驚嘆に値するところであります。  第五、結言。本派遣団の行動が、衆参両院、御遺族及び全国各階層の熱烈なる支持と、報道機関の適時適切なる報道、ビルマ、インド両国官民の協力、在外公館及び在留邦人の支持によりまして、予想外の成果を得ましたことは、まことに幸いとするところであります。ここに本委員会におきまして、深く感謝の意を表したいと存じます。  派遣団出発前に得たビルマ国内の治安状況につきましては、行動に制限を受けるおそれありと心を痛めたのであります。治安は、ビルマの内務次官が私に言明したごとく、必ずしも良好ではありませんが、派遣団の行動する時期と地点とにおきましては常に平静が保たれたこと、ビルマ側よりも適時護衛を付する等の処置を講ぜられたこと等は、みな英霊の御加護と感銘いたしております。  次に本派遣団の派遣せられた時期は適切でありまして、もしさらに一年もおくれるようなことがありましたならば、収骨は一そう困難になったことと存じます。もとより行動期間及び地域関係上、全部の遺骨を収集したわけではありませんが、予想外の多数の代表遺骨を得ましたことは幸いでありまして、今後になお残されてある西部ニューギニア、セレベス、ボルネオ及び比島方面のことを思うときに、ビルマ方面の残存遺骨の処理は、大使館及び在留邦人の適宜の処置にまかせ、すみやかに前述未派遣の地域の処理を行うべきものと愚考いたします。この点につきましては最後の追悼式におきまして、私が大使館及び在留邦人にお願いをいたしまして、今後政府から再びかくのごとき派遣団を派遣することはきわめて困難であるから、どうか残存の御遺骨等につきましては、情報を得るごとに適宜な方法によって、祖国にこれを送還する等の処置をお願いしたいというふうにお願いをして参った次第であります。  以上、報告を終るに当りまして、重ねて本委員会の御支持に対し深甚の謝意を表し、あわせて将来も遺骨送還及び英霊奉讃、靖国神社の合祀の促進、あるいは政府の建設するお墓に英霊——現在厚生省の庁舎等にありますところの御遺骨を奉安すること等につきまして御指導を賜わりますよう特にお願いをいたしまして、私の報告を終ります。
  70. 戸叶里子

    戸叶委員 大へん御苦労さまでございました。今いろいろ伺いまして、ビルマの方々が今度の日本の行動に対して大へん協力的であった、私どもも聞きまして、うれしく思うわけです。いらっしゃる前には、ずいぶんいろいろなことを聞かされて、不安があるのではないかというようなことをいわれておりました。それが全面的に協力されて、全然危険ということが感じられなかったかどうかということが一つと、それからもう一つは、今後は調査団が行くというのもなかなか容易ならぬことだから、ときどき収骨された分をこちらの方へ送って下さるように協力してほしいというようにお頼みになっていらしたようですが、それについての返事はどうでございましたでしょうか。
  71. 美山要藏

    ○美山説明員 第一のことについて申し上げます。少くとも私どもが接しましたすべての大衆は、きわめて協力的でございました。時間がございますれば、具体的に申し上げたいところでありますけれども、何らの危険は感じません。しかしその危険がないというのは、ビルマの国内の治安が良好であったからということではございません。私どもが参りました時期と地点におきましては、何らの不安がなかったのであります。すなわちマンダレーからミッチナに汽車で旅行をいたしましたが、その間、私どもの乗りましたのが二月の十九日でありましたが、その前五日間というものは、この鉄道は途絶をしておったのであります。それは、その五日前に汽車が爆破をせられまして、死者が一名出まして、五日間というものはこの鉄道はストップをしておったのであります。われわれが計画しておったところの汽車が、第一列車として通ったわけでありまして、その汽車には、百十名のビルマの兵隊が乗り、そして五日間足どめを食ったところの大衆が鈴なりのようになって乗っていったわけでありまして、治安は必ずしも良好でない。たとえば、マンダレーから帰りますときに、この方面で鉄道が爆破をされまして、またこの方面を行動いたしましたけれども、常に五ないし七名くらいの追いはぎというふうなものでありますが、それが絶えず出ておりまして、この付近を行動するときは、ミッチナの旅団司令部から、大尉の指揮する一個分隊をつけてくれたわけでございます。その他この方面を行動するにいたしましても、至るところで、午後六時以降の行動を禁止せられまして、ことにナンカンはこの国境に近いために、ナンカンに入るのには二カ所の検問所がありまして、すべての者がここで検査を受けるというふうな状態でありまして、治安は必ずしもよくないけれども、われわれがおったところ、おった時期は常に平安でありまして、英霊の加護によるものと感謝をいたしておる次第でございます。  それから第二の件につきましては、お返事を受けませんで、ただ追悼式の際に、最後に私からお願い申し上げてきたという次第であります。
  72. 中山マサ

    中山(マ)委員 お願いをなさいました相手は、どういう国の人でございますか。
  73. 美山要藏

    ○美山説明員 それは、大使館の館員と在留邦人でございます。
  74. 堀内一雄

    ○堀内委員 この際美山さんにお伺いしたいのですが、先ほどモロタイ島から引き揚げた人たち参考人お話に関連して、第一にお伺いしたいのは、日本に帰化したいが、従来の経歴からいって、一般知的労働はもちろんのこととして、いわゆる農業を中心とした仕事でなければというような話でありました。その人に対しては、開拓民といったような取扱いと同じようなことになると考えますが、今日まで外地から引き揚げた人の職業あっせんといったようなことについて、農林省などはどんな御関係になっておりますか。
  75. 原健三郎

    ○原委員長 どうですか。午後厚生大臣、政務次官、田辺引揚援護局長その他厚生省の方が来られますから、厚生省関係のことは午後にお願いしたいと思いますが……。
  76. 臼井莊一

    臼井委員 一つお伺いしたいのですが、インパールの市外から向うへ出さなかったということでありますが、これは新聞等で見ると治安が悪いと伺っておりますが、やはりそういう意味ななのでございましょうか、ちょっとお伺いしたい。
  77. 美山要藏

    ○美山説明員 私、参ります際に、インドの大使館に参りまして、ぜひインパールに行きたいと申しましたところ、向うの一等書記官が申しましたことは、インパール付近にはナガ族というのがおって、これが非常に兇暴で、どこから毒矢が飛んでくるかわからぬ状態である。ゆえにここにやることは絶対にできないといって拒否いたしました。しかしながら、私どもはぜひ行きたいということで帰ったわけであります。どうもビルマの国内から見ましたインパール付近の治安の状況、また三浦団長が行ったのでありますが、三浦君の報告等に徴しましても、さほどまで治安が悪いとは思いませんし、ことに日本人に対して悪感情を持っているとは思われません。私がビルマの国内から見ました状況でも、インパールのこの方面から行きます道路は良好でありまして、この付近における管理はインパールの警察署に簡単に電話連絡をいたしまして、いつでも向うに入れる、往復ができるというような状況でありますので、その点はどうもあまり信用はできないという状態でありますが、これを取り上げて、外交上の問題にするということはお許しを願いたいと思います。
  78. 木村文男

    ○木村(文)委員 実は今、臼井君がお尋ねいたしました問題について、私もお伺いしたいと思っていたのですが、重ねて深入りしてお伺いしたいと思います。先ほどの御説明によりますと、親善友好の希望と、それから遺骨収集団に対する御処遇等についての感激と感謝の言葉があったようでありますが、今の臼井君に対する御答弁によりますると、何だかそこに国交上の問題について不安といいますか、ほど遠いものがあるというようなことが考えられるわけであります。従いまして、当委員会でも別にどうこうというわけではないのですし、われわれは先方がどういうようなお考えを持ちましても、われわれとしては友好親善を結ぼうという気持は、ひとりビルマだけに対することでなく、広くそういうような方針をとっているのでありますから、この際率直にお聞かせ願えれば幸いだと思います。
  79. 美山要藏

    ○美山説明員 ただいまの件につきましては、ビルマの大衆が、日本と友好親善を求めているということを申し上げました。その点を確認したのが、私としては驚嘆に値するものであるというふうに申し上げたのであります。  なお、ビルマ及びインド両国ともに官民の援助を受けたということは申し上げましたが、インパールにおきましても、向うの官憲も民衆も、この追悼式に列席をいたしました。インドの楽隊まで来て、追悼式におかしいのですが、楽を奏するというようなことはありました。熱烈なる支援を受けたのは、ビルマの大衆であります。その点を申し上げました。
  80. 木村文男

    ○木村(文)委員 大衆はそうでありますが、ビルマの政府当局においては、何らかそこにわれわれの心配するようなことがあるというように解してよろしゅうございますか。
  81. 美山要藏

    ○美山説明員 そういうふうには考えません。特に大衆が非常に協力してくれたのでありまして、官憲の方も、先ほど申し上げましたように、端末に至るまで、内務省、国防省から連絡が一いっておりまして、ミッチナ方面においては第七旅団司令部、アキャプ方面においては歩兵第五連隊というような部隊におきましても、またこういう方面の州の知事、県の知事、警察署長、どこでも同じであります。パーモでも同じでありますが、県の知事が私の宿舎を訪れまして、当時私は健康を害しておりましたが、どこまででもやってやる、ただし日章旗を翻すことだけはいかぬ。ナンカンも初めは計画になかったのでありますが、そういうところに行ってよろしいという許可書を出してくれました。先ほどもちょっと申し上げましたが、米国の病院長から文句がありましたが、許可がありました。官憲ももちろん援助はしてくれましたけれども、事務的でなく、心底から日本人気持を了解して、ほんとうに日本人と一体になって、ビルマも日本も一体だ、一つなんだ、日本兵隊さんは、自分の子供と同じなんだ、このためには朝晩自分が仏様に冥福を祈ってやるから、安心しろというような言葉は、官憲の間から出ないのでありまして、ビルマの大衆から出た次第であります。
  82. 木村文男

    ○木村(文)委員 今もお言葉が出たのでございますが、弔いの式場において、日章旗を掲げることは許されないということは、どういうことなのでございますか。
  83. 美山要藏

    ○美山説明員 これは大使からも話を受けたのでありますが、国内において国旗を翻すということは、非常に重要なものでありまして、大使の旗だけくらいのようであります。ただ国際的に、独立国といたしまして、向うは独立した直後でありますので、その点を非常に気に病んでおるのではないかというふうに思ったのであります。
  84. 原健三郎

    ○原委員長 この際、委員長より一言ごあいさつ申し上げます。  美山次長には、ビルマの遺骨収集団長として、炎熱のビルマ各地で収集に努力されて帰国され、ただいまその御報告に接しまして、大いに参考となりました。ここに一同を代表して、御努力に深く感謝の意を表する次第であります。どうもありがとうございました。  それでは休憩して、午後一時半から、外務大臣、厚生大臣、政務次官、田邊引揚局長に質疑をいたします。  暫時休憩いたします。    午後零時三十三分休憩   〔休憩後は開会に至らなかった〕