○美山説明員 本日、本
委員会におきまして、引き揚げ後、第一回のまとまった
報告をする
機会をお与え下さいましたことについて厚くお礼を申し上げます。
第一、ビルマ派遣団の編成について。派遣団は
政府職員六名、宗教代表二名、遺族代表四名からなっておりまして、遺族代表は栃木、三重、愛媛、長崎から選出せられました。従来の派遣団は、通常十数名の作業員を含んでおりましたが、今回はこの作業員はおりません。その作業員は、従来は戦友を充てておったのであります。
第二、派遣団の任務について。ビルマ及びインド方面の遺骨並びに
現地追悼であります。ビルマ方面の
戦没者総数十六万七千、うち派遣団出発前までに内地に送還されていた遺骨数は約八万でありまして、八万七千の英霊が未
帰還でありました。そのうち約四千が雲南省内にありまして、約七千がインパール、コヒマ等、インド国内にあったのであります。第三、派遣団の行動及び成果につい、派遣団は一月二十三日、三浦団長以下三名を先発せしめました。主力は一月三十日出発のところ、都合により一月六日に出発いたしました。翌七日フングーンに到着した派遣団は、ビルマ
政府の外務、内務、国防三省に連絡いたしまして、国内の各地区における行動について許可を受け、所要に応じて護衛をつける約束を得ました。かくて二月十一日、ラングーンを出発し、途中一泊の上、マンダレーに参りまして、マンダレー周辺及びラシオ、メークテイラ
付近の収骨を行いまして、二月十八日マンダレーヒルにおいて、第一回の追悼式を行いました。
自後、派遣団は二隊に分れまして、主力はマンダレーからミッチナに至り、モガウン、パーモ、ナンカン
付近の収骨を行い、次いでラングーンに帰りまして、ラングーン周辺並びにアキャブ
付近の収骨を行いまして、ミッチナ、パーモ、アキャブにおいて追悼式を行なったのであります。一部はカレワ、カレミヨウ、テイデム方面へ行動いたしまして、テイデムにおいて追悼式を行い、一たんラングーンに帰りましてから、カルカッタを経てインパールに至り、インパールにおいて追悼式を行なってラングーンに帰りました。ラングーンで三月十二日主力と合体いたしまして、十三日ここで追悼式を行い、十四日出発、十五日
帰還いたしたのであります。
この
最後のラングーンにおきまする追悼式は、本行動間に収骨いたしました千三百五十一体の御遺骨を奉安をいたしまして、ビルマ国内、雲南省、インド国内、ベンガル湾等の室、陸、海における全英霊八万七千柱に対して行なったのであります。
各追悼式におきましては、ビルマ側の官民の参列はありませんでした。これは宗教上の特質によるものであります。しかしながらマンダレー及びラングーンの追悼式の
状況は、ビルマの新聞に掲載されたのであります。在留邦人及び大使館員は常に必ず参列いたしまして、特にラングーンの大追悼式におきましては、大使以下全員及び在留邦人百二人が参列をいたしております。
本派遣団の成果といたしましては、ラングーン地区におきまして百十四体、マンダレー地区において百四十体、ラシオにおいて一体、ミッチナにおいて七十体、パーモにおいて四十八体、ティデムにおいて九百二十二体、アキャブにおいて二十六体、インパールにおいて三十体の遺骨を収集することができました。この一千三百五十一柱の御遺骨というものは、全英霊八万七千柱の代表でございまして、これらの全部の御英霊が御
帰還願い得たものと私は信じております。
第四、収骨及び追悼式の
状況につきましてですが、遺骨は山野に残置してありましたもの、墓地に仮埋葬してあったもの等、それぞれ状態を異にしておりましたが、出発前に戦友等より得ました情報及び
現地住民の提供する情報をもとといたしまして、収骨、発掘を行いました。いずれも十年有余を経過いたしましたため、情報の不確実のものが多く、大なる労苦をなめたのであります。特にビルマは目下乾期のために土質多くは堅硬でありまして、満州の凍結地を掘ると同様の困難さがあったのであります。雲南省の英霊に対しましては、ナンカンに参りまして、——ここは国境から半マイルから一マイルの地点でありますが、シュウエリ川が拉孟、謄越の方面から流れて参ります。この地点は約四千の未
帰還の英霊があったところでありまして、玉砕の地点でありますからぜひ行きたいのでありましたが、それがかないませんので、ここで慰霊祭を実施いたしまして、シュウエリ川の霊砂を取り、英霊にお乗り移りを願いまして、奉持して帰ったのであります。インパールにおきましては、ついにインパールの町から一歩も出ることが許されませんでした。わが軍はインパールに入ることはできなかったのでありますから、御遺骨を収集することができませんでしたが、インド側がすで収集しておったところの三十体を受領いたしまして帰った次第であります。追悼式は各地において最も
戦没者にゆかりの深い清浄の地に祭壇を設けまして、おおむね仏式によりねんごろに実施いたしたのであります。
次に、ビルマ及びインド官民の
状況につきまして申し上げます。ビルマ及びインド両国ともに官民の援助を受けたことが多いのは、感謝にたえません。ビルマにおきましては、内務省が主体となりまして、外務、国防両省の協力のもとに、国内の末端機関に至るまで派遣団の行動
予定を周知せしめ、派遣団が迫悼式に日章旗を翻すことをあらかじめ制限したる以外に、至るところに進入をし、土地を掘開し、かつ官民に協力を求めることを許可してくれたのであります。なお追悼式には、日章旗は翻すことを制限されただけでありまして、日章旗はちゃんと張りまして、そしてその前で追悼式をやって参りました。これがために許可証をくれまして、先ほどのナンカンにおきましては、米国人の経営する病院の屋上において慰霊祭を実施したのであります。このとき院長がおりませんので、看護婦にあらかじめ許可を得て入ったのでありますが、あとから院長がどうして入ってきたかと言うので、看護婦も困っておりましたが、この許可証を提示いたしまして、事なきを得た次第であります。
ビルマの大衆は、
日本軍、シナ軍、米英軍等の数度の攻防進退にあったとともに、各軍の特質を身をもって味わっている
方々であります。しかるに、派遣団の接したるビルマの大衆は常に派遣団に協力友好的であり、
日本軍隊の軍紀、
日本国民の規律を賞讃いたしまして、
日本軍人の勇敢、善良、子供に対する愛情をほめ、進んで
遺骨収集に協力し、英霊の冥福を祈ることを約束する等、真に心から
日本との親善友好を
希望することを確認し得ましたことは、まことに驚嘆に値するところであります。
第五、結言。本派遣団の行動が、衆参両院、御遺族及び全国各階層の熱烈なる支持と、報道機関の適時適切なる報道、ビルマ、インド両国官民の協力、在外公館及び在留邦人の支持によりまして、予想外の成果を得ましたことは、まことに幸いとするところであります。ここに本
委員会におきまして、深く感謝の意を表したいと存じます。
派遣団出発前に得たビルマ国内の治安
状況につきましては、行動に制限を受けるおそれありと心を痛めたのであります。治安は、ビルマの内務次官が私に言明したごとく、必ずしも良好ではありませんが、派遣団の行動する時期と地点とにおきましては常に平静が保たれたこと、ビルマ側よりも適時護衛を付する等の処置を講ぜられたこと等は、みな英霊の御加護と感銘いたしております。
次に本派遣団の派遣せられた時期は適切でありまして、もしさらに一年もおくれるようなことがありましたならば、収骨は一そう困難になったことと存じます。もとより行動期間及び
地域の
関係上、全部の遺骨を収集したわけではありませんが、予想外の多数の代表遺骨を得ましたことは幸いでありまして、今後になお残されてある
西部ニューギニア、セレベス、ボルネオ及び比島方面のことを思うときに、ビルマ方面の残存遺骨の処理は、大使館及び在留邦人の適宜の処置にまかせ、すみやかに前述未派遣の
地域の処理を行うべきものと愚考いたします。この点につきましては
最後の追悼式におきまして、私が大使館及び在留邦人にお願いをいたしまして、今後
政府から再びかくのごとき派遣団を派遣することはきわめて困難であるから、どうか残存の御遺骨等につきましては、情報を得るごとに適宜な
方法によって、祖国にこれを送還する等の処置をお願いしたいというふうにお願いをして参った次第であります。
以上、
報告を終るに当りまして、重ねて本
委員会の御支持に対し深甚の謝意を表し、あわせて将来も遺骨送還及び英霊奉讃、靖国神社の合祀の促進、あるいは
政府の建設するお墓に英霊——現在厚生省の庁舎等にありますところの御遺骨を奉安すること等につきまして御指導を賜わりますよう特にお願いをいたしまして、私の
報告を終ります。