○
柴田参考人 それでは、今お尋ねがございました請願運動の発生した原因、運動の内容についてまず申し上げます。先ほ
どもちょっと申し上げましたように、在ソ十年の
同胞の
生活は、襲ってくる強制労働とそれから給与の不十分、医療設備の不完全、医師の技術の低級なことというようなことに加えて、絶えず
帰国の希望を抱きながら、その希望がいつも裏切られておるということに対する焦燥感その他の精神苦がこれに加わりまして、各人の体位というものはだんだんに低下してきたのであります。そのために、これを何とかしなければならないという
考えが、昨年、一昨年の暮れころからぼつぼつみんなの胸のうちにきざしてきておりました。
そういうふうにきざしておりましたその前に、先ほ
どもちょっと申し上げました第六建築現場の非常ないやな空気が、大堀事件をついに引き起すようになりまして、その大堀君の嘆願運動をしましたにもかかわらず、何らその嘆願運動が聞き入れられませんで、むしろ逆に、ここにおります
小笠君もその一人ですが、その主導的な立場に立ったとソ側が認めた者七十名を第二分所に隔離してしまったのであります。この人
たちは、第六建築場におけるところの指導者であり、主力であったのであります。その人
たちが第二分所に隔離をされてしまって、第六分所は一時みんながとほうにくれるような状態になりまして、この人
たちを帰してくれという嘆願もしばしば行なったのです。それもいれられませんで、大堀君はついに十年の禁固、十五年の強制労働、計二十五年の極刑に処せられてしまったのであります。嘆願運動をしました者の数は五百名に上っておるのであります。ついに彼はその刑の申し渡しを受けて、今、監獄におります。これに対するみんなのふんまんも胸の中に織り込まれまして、悪化するところの労働条件、体位の低下というもので、いよいよ何とかしなければならないというふうに
考えておりました。これが遠因であります。大堀事件は一つのきっかけになり、その労働条件の不良と、それから体位の逐次低下していくということに対する
考え方が、今回の請願運動を起す情勢の一つの遠因となっております。
そこへ持って参しりまして、昨年の九月に——向うでは体位をそのころは一級者、二級者、三級者、四級者、病人、こう分けておりました。
作業の可能性を持っている者は一級者、二級者、三級者なのであります。四級者は、これをインワリッドといいまして、
作業に従事することを許されないのであります。休ませております。それと病人。この一級者というのはいかなる労働にもたえ得る者という。優秀な者であります。二級者というのは、やはり一級者と同じなんでありますが、若干弱いという程度です。三級者は、一級者と二級者に比較すると、軽い労働に従事させなければならないことになっておるのでありますが、その三級者の血圧の高い者、それから原因不明の熱発が続いておる者、その他胃病の者あるいは心臓の弱い者、その他これに類した若干の不自由な人は、営内において麻袋の
作業というのがありまして、これは
日本のメリケン粉を入れるような袋の、あれの大きいものでありますが、それを沿海州あたりからも送ってきまして、穴のあいたものをつくろって、また送り出して、これに対する労賃をもらうのであります。それでその仕事に従事をさせておりますと、外で二百以上血圧のありましたものが、一カ月もたつと、百七十くらいに下ってくるのであります。それからほかの体の悪い人も少しずつ回復して参りますので、営内の麻袋
作業に従事させております。その営内の麻袋
作業に従事をさせております者、それの中から三十名ばかりの者を、医者の診定に、
収容所の医者以外の人が政治的な干渉をしまして、翌日から営外の
作業に出したのであります。いよいよひどいことをするなというふうにみんな
考えておりました。なぜそういうことをするかと申しますと、第十六
収容所は自営の
収容所であります。かせぎ金をもってあそこの経費をまかなっておるのであります。そうして
作業に参ります人員というものは、
収容所の所長と、
作業の現場を企画統制しておりますところの企業体というものとの間の契約によりまして、あらかじめ予定の人員がきまっておるのであります。この人員が減って参りますというと、企業体からは追及されてくるのです。またその人員が減ることによりまして、自活自営しております
収容所の費用の収入が減ってくるのであります。そこでどうしてもかり出さなければならないことになりますので、政治的な干渉をして、外へ追い出すことになったのであります。いよいよここまで押してきたなという
考えがみんなの腹の中にあったのですが、まだみんなが
日ソ交渉に望みをかけて、従順な一日一日を送っておることによって、自分
たちの
帰国の願いは近く実現されると
考えましたから 静かにその強圧にもたえて、弱い者も出ていったのであります。ところが、越えて三カ月目の十二月十六日に再びその営内の麻袋
作業に従事しております者及び営内では、そういう人で、やはり
浴場の勤務とか、湯沸かし場の勤務、
食堂の勤務、その他これに類する営内の勤務がありますが、それらに従事しております者百十数名に医者の診断を始めたのであります。そのときに、政治部員であるところのマカロフ少佐と、それから第一分所の所長であるところのシリュウシキンという高級中尉とが、医長の診断をしておりますところに立ち会いをいたしまして、そうして医長が医学的の見地から、これは営外の
作業は不適であると診定したものを、二人の医師以外の職員が干渉いたしまして、外へ出す者をきめたのであります。そうして六十五名の者がここに政治的見地から選ばれまして、翌日から営外の
作業に出勤を命ぜられました。みなはやはり九月と同様に、耐えられるだけは耐えていかなければならぬ、そして
帰国の日を待たなければならない、こう
考えましたので、その選ばれた六十五名の中にはずいぶん出るのをいやがって、いろいろ言った者もありましたけれ
ども、とにかくきめられた以上は出なければいかぬというので、外に出したのであります。そうしますと、その日のうちにすでに血圧が高くなって、現場でふらふらになった者があります。帰ってきて熱発が非常に激しくなった者もありまして、医師の診断を受けて、明日から
作業に出ないでよろしいと言われた者が、数名に上ったのであります。翌十七日になりますと、前の日に数名休んで
作業に行かないのですが、残りの人の中から前の日に休んだ者の倍以上の数がまた出てしまった。これはいよいよそれらの者も救わなければならぬ、病院には重症患者が五名いる、こういうような情勢で、逐次押されていった日には、われわれにはあの病室に寝ているところの重症患者の姿がやがて回ってくるのだ、これではわれわれが国に帰って、待っているところの妻子を扶養するために活動しなければならない能力がなくなってしまうのだ、帰っても妻子を飢えさせなければならないあわれな姿が現われてくるのだ、また帰って国にお力を尽すこともできないあわれな姿になり、あるいはこの土地で命を落とすことになるかもしれない、
日ソ交渉は当時中断されました、われわれは、ここにわれわれの生命をわれわれで守る以外に道はない、
日ソ交渉と別個に、自分
たちは自分
たちの力で
帰還の道を開拓しなければならないという
考えのもとに、十二月の十九日の日に、朝、第六中隊において、起床と同時にその声が起きたのであります。そうして第六中隊には、
作業に行く班が六個班あります。その金田班というところからその声が起きたのでありますが、全班が直ちにこれに相応じまして、われわれは出ない、われわれの
要求を貫徹するまでは
作業に出ないということになりまして、それではそういうふうに六中隊はきめようと言っておりますと、ことを伝え聞いた各中隊の班が、ほかに五個中隊ありますが、だんだんに、われわれも出ないといって班長が申し込んで参りまして、期せずして民主グループ——さっき党史研と言いましたが、これは党史研究会、民主グループの二十七名を除いた以外の範囲は、みな
作業に出ないということを言ってきたのであります。そこで、これはソ側に交渉するのには、何とか交渉に当る者を定めなければならないということになりまして、班長がその場で——これは六中隊の廊下でみな立って話をしたのですが、何とかやらなければならぬじゃないかといって相談をしまして、それでは石田三郎氏がいいだろう、石田三郎氏に頼もうじゃないかといって、三中隊にいる石田氏を呼んできたのです。石田氏は班長ではありません。そしてみなが、こういうことになった、これを何とかソ側と交渉するためには、交渉の衝に当ってもらう者がいなくちゃならない、それで石田さん、あなたどうかやってくれないかと言って、口々に石田君に頼んだのであります。そうすると、石田君、しばらく黙って
考えておりましたが、みながそういうふうにかたく
考えてきめた以上はやろう、ただし私は、あくまで
日本人として、無血の請願運動を続けていきたいと思う、諸君もそのつもりでやってもらえるかと言ったときに、それはそうだというので、みなが賛成をして、石田氏を交渉の
代表に選んだのであります。それからもう
作業出動の時間が切れたものですから、ソ側からなぜ
作業に出ないかという申し入れがありましたときに、石田君と班長が行って、われわれは、われわれの生命を守るためには、われわれの
要求をいれてもらいたい、その
要求がいれられない限り、われわれは
作業に出ないということを申し出たのです。そうしてその日にそのほか三回にわたりまして向うの職員と安産がありましたけれ
ども、職員は、
作業に出ろ、そして点呼を受けろ、そうすれば何にもなかったことにするという話でありましたので、いやそれではわれわれは出られないといって、十九日の日には物別れになったのです。その十九日の物別れになりました夕方、石田君は各班長を集めまして、
要求事項というものは各人が思うままの
要求をする、それを向うに
要求すべきである、従って班長は自己の班の班員の一人ずつの
要求事項を書かせて、二十日の午前九時までに持ってきてもらいたいということを言いまして、班長はその晩、翌朝にかけてこれをまとめて、そうして総員の
要求事項を漏れなく石田君のところへ持ってきたのであります。そこで石田君はこれを検討、総合いたしまして、共通のものを一つとして、八項目の
要求事項にしたのであります。それが先ほど馴松君から話しましたあの八項目なんです。これを文書にいたしまして、
収容所の職員に
提出いたしまして、この
要求は
現地の官憲の不当なる労働管理と非人道的な取扱いによってわれわれの生命の危険が
感じられるのであるからして、
現地の官憲を相手にはしない、モスクワから
日本人をよく了解した
責任のある
解決をする全権を呼んでもらいたいという
要求をしたのであります。ところが、その日に
ハバロフスク州の内務監理局長と
収容所の政治部員とが参りまして、
作業に出ろ、出れば処罰にもしない、点呼も受けろというような
要求がありましたけれ
ども、これは今のみんなの意思と違いますから、物別れになりました。そうして、越えて二十二日に、今度は
ハバロフスク州の検事長という人と前日参りました監理局長が参りまして、石田君それから班長全部に面接をして、脅迫的な
言葉のみが取りかわされまして、何らこちらの
要求に応じる曙光も見出せなかったのであります。それで、
作業に出動しないからして処罰をするというような話がありまして、
作業に出るためには、帰って班員の全部の意思を聞いたらどうだということを言ったのでありますが、モスクワからの全権の来着を待って
解決をつけるという総意を受け入れている石田君と班長は、その場で相談をして、そうしてモスクワから来着するまで待とうではないか、
作業には出まいという話にきまりまして、そのことを答えたのであります。そうすると今のハバロスクの検事長は、われわれソ連は、関東軍百万を撃砕したわれわれである、
ハバロフスクにいる
日本人が八百名くらいそういうような団体的な行動をとっても、何とも
考えるものじゃないと言いながら去っていったのであります。それで、その晩罰則がいよいよ適用される、事によったら石田
代表を拉致されるかもしれない、これは無血闘争を目標とするけれ
ども、もし石田君をみんながそうやって守っているのに拉致するというようなことがあったならば、われわれはスクラムを組んで石田君を出さないことにしよう、無血であるがゆえに、スクラムを組んで拉致されないようにしていこうということにみんなの意思がきまりたのであります。そのときに石田君は——これはブリガジールが全部集まっているときの話なんです。ブリガジールというのは班長なんですが、石田君が立ちまして、きょうの情勢から見ると、あるいは今夜かあす不法拉致をされるかもしれない、しかしこの運動の趣旨は、無血闘争を趣旨としておるのであるからして、私が拉致される場合に、あなた方は何もしないで私をそのまま渡してくれ、それがこの闘争を依然として平穏のうちに
解決に導くゆえんだからと石田君が言ったのです。そうすると、その班長の中の一人が、石田さん、あなたがもしそういうふうに連れられて行った場合に、あとはだれがやりますかと言ったのです。そのときに石田君は、いや私が引かれて行ったら、あとは諸君の中からもまた私にかわってやって下さい、そうするとまた班長が、一人や二人はいいけれ
ども、次々に引かれて行って、一人も残らなかったときにどうなるかという質問をしたときに、石田君は、そこまでやっても無血で終っていこうじゃないか、こう言ったのであります。そうすると今度はほかの班長が、石田さん、この運動はなるほど無血で行こうということはわれわれ
考えているけれ
ども、ソ側がもしそのような不法な処置をとるというなら、われわれはこれに対して身をもって当ろうじゃないか、あなたの命は僕らが守らなければならない、僕らはあなたと生死を共にするつもりでいるのではないですかと言って石田君に反省を促したのであります。そうするとまた一人の者が、石田さん、そういう場合には、まずあなたが皆の前に倒れて下さい、そうしたらわれわれが次々に倒れましょう、われわれはこの正義人道に立脚した
要求を貫徹するためには、もしそのようなことがあったらば、倒れていいじゃないですか、こう言ったのです。それでも石田君は黙っておりましたが、いま一人の班長が、石田さん、私らはこの仕事が始まったときからあなたに命を差し上げているのだ、あなたと一緒に倒れるつもりでいるのだ、そんなことを今あなたが言ったのでは、この目的は貫徹されません、
考え直して下さい、石田さん、私はあなたと一緒に死にますよ、こう言ったのであります。そのときに山中顕夫君が立ちまして、諸君この問題はすでに決定されていることではないか、この運動を開始するときに、われわれは死生をともにして、生か死かということで始めたのではないか、そういうような組織的な不法行為にソ側が出るならば、それだけにわれわれは、われわれみずからこれに当る以外に道はないのではないか、石田さん、あなたは少し無血闘争ということを
考え過ぎている、当初の目的、当初のわれわれの成り立ち、進み方を
考えたら、あなたがそういうことを言われることはないでしょう、こう言ったのに対して、石田君はようやく口を切られて、わかりました、皆さんがそういう
考えがあるならば、八百人の命を失っても、
日本人としての名前を残しましょうと言って、石田君はそのときに初めて口を開いたのであります。しかし石田君はその後におきましても、これはあくまで無血の闘争でいかなければならぬと言って、はやる青年諸君を押えまして、青年諸君はすでに死を覚悟しておりましたけれ
ども、懇々と説得する石田君の熱意に動かされまして、青年諸君百二十名は、石田さん、われわれは死にません、われわれの命は国に帰ってから、国のためになくす命として生きて参りますという署名を
全員がして、石田君に
提出して、石田君も安心して今日までやっております。従いまして、この運動は開始以来百余日になりますけれ
ども、いまだ一回の武力行使もありませんし、暴行ざたも起きておりません。それからその後におきまして、五日目は罰則を適用されました。それから六日目は何もありません。七日目は所長のマルゼンコという大佐が出て参りまして、所内を回りました。それから八日目の二十六日には各人の私物の
検査がありました。その中から書類とか刃物とかいうものはないかということを調べて、そして若干の書類を持っていき、それから小さな小刀を持っていかれました。この数も若干であります。十日目の十二月二十八日には州の内務長官というのが参りまして、そのときに、
日本人はきわめて静穏に、そして秩序ある行動をとって、正当なる
要求をしておるのに、直ちに罰則を適用して、食事を減らし、文化活動を停止し、売店を閉鎖し、それから手紙を渡すことをとめるというようなことは不当じゃないかという
要求をしましたときに、この内務長官は、実は私はきょう帰ってきたばかりで、
収容所からの
報告は聞いておるけれ
ども、
日本人側の
要求事項というものを知らない、だからあすその
要求事項を私に出してくれ、それからそういう罰則を適用したのはそれはいかぬ、あすからやめさせようと言って、翌日から罰則は解除になりました。そして翌日は二十九日でありますが、二十九日から三十日、三十一日、一日、二日、これは年末と年始だから、お互いに気をつけて、何らのことなしによい正月を迎えようじゃないかということで、この間何らの事故がなくて過ぎたのであります。正月の二日まで休戦の条約ができたのでありますが、一月の一日に、十年来初めてわれわれは声高らかに国歌を歌ったのであります。みんな涙がぼうだと出まして、初めは勢いよく君が代を歌っておりましたが、後になるほどみんなの声がかすれてしまったのであります。そして、相抱いて、ほんとうに解放されたような
気持で、喜んで、十年目にほんとうに正月を迎える
気持になりました。ただし運動を継続しておりますから——いつもの年でございましたらば、十五日も前からいろいろなものを用意しまして、正月には
日本らしい正月の食ぜんをにぎわし、もちに似たようなものをこしらえ、また雑煮に似たようなものをこしらえて、いろいろなごちそうを作って喜ぶのですけれ
ども、この運動が開始中ですから、わずかに石川県の県民が送ってくれたもち米とアズキと
砂糖によりまして、小さなぼたもちを
食堂で作りまして、それを食べて正月のお祝いにしたのであります。例年は獅子も舞って参ります。自分
たちで工夫して作った獅子を持っておりまして、その獅子を舞い、それから万歳も、自分
たちでこしらえたへんてこりんな紋付の着物を着て回るのです。それからまた三味線も現場から持ってきたいろいろなものでこしらえて、これを引いて獅子が舞うのですが、そのことも今年はなくて、ただ心から解放された正月を迎え、国歌を歌った式をやって、この日を終ったのであります。それから二日も何もなし、三日も何にもなかったのですが、四日の日になりまして、モスクワから来たという
委員会が現われたのであります。それは三省でありましたが、全ソ検事総長代理兼全ソ軍事裁判検事総長を首班とする三名が来たのであります。そうして、石田
代表に会うことは認めぬ、班長は
全員集まれと言って、班長の集合を命じたのであります。ところがそこに班長が皆参りましたところ先ほど申し上げました二日目に整理された
要求事項というものは、これは総員の
決議として班長
会議で決定をいたしました。そしてその
決議に対して各班ごとに班員が一人一人署名をしておるのであります。その数か七百六十九名でありました。この班長が集合を命ぜられましたときに、その署名に入っておらない二十七名の一つの班があるのです。これがいわゆる党史研グループなんです。この
決議に参加していない班長がそこに同席をしましたので、
決議に参加をしていない人が同席するということは、われわれとしては会見の上に不合理に
考える。どうか除名をしてもらいたいという
要求をいたしましたところが、その検事総長代理なる人は、では休憩をして
考えてみるというので、三十分の休憩をされまして、再開になったのであります。再開になりましたときに、やはり堂奥研グループの班長が出ておりましたので、これでは先ほどから言っている通りに、われわれは会談をすることができないと言いましたときに、その党史研グループの班長は、私も
日本人としてここに出て発言の権利を持っている。すなわちこの運動はわれわれは不賛成であると言ったのであります。それで皆はとにかくその班長がいる限り話はできないと言って、そこを退出したのでありますが、そのときに、この検事総長代理は、では山村斑という班を五時半にここによこしてくれ、こういうふうに命じたのであります。そこで五時半に山村班は
全員奉りまして、まず質問をしたことは、どうしてあなたはこの山村班をお選びになりましたか、また山村班の発言を総意とお
考えになるのかどうかといって質問をしましたところが、いや、山村班はこの部屋にちょうど入るに都合のいい人員だったから、山村班を選んだのだ——これは病院の診療室でやられたのですが、そこはそのくらいの人員しか入らない。それから総意と認めるということは、それは認めない、こう言われたので、山村班からは各人が——この請願運動というものは、
ハバロフスクにいる
日本人だけの問題ではなく、ソ連にいるところの全
日本人の
要求と同じことであると
考えるがゆえに、その一切をわれわれは
代表に一任しておりますから、
代表に聞いて下さいということをみんな言って別れたのであります。そのときに、この検事総長代理という人は、ではあすは個人の接見を行おうと言って、個人の申し出を受けつける、なお自分の方からも指名する者があるだろうと言って、その日は終って、翌日、個人の接見が行われたのです。ところがみんなずっといろいろつらい目にあっているものでございますから、みんなが会いに行ったときに、その詳細を尽して言うものですから、非常にひまがかかりまして、朝から夕方までやってようやく二十二人の人しか会えなかったのです。その翌日からは、その代理及びその他の二名の人は来なくなってしまった。そうして折々州の内務長官というものが来まして、そうしていろいろ見ていくようになったのですが、
現地で
解決ができると思われることについては、徐々にそれを
解決していくようになったのです。たとえて申しますと、一月の五日には、二つの部屋をあけまして、そして今まで各バラックに散在しておりました血圧の高い者で入院をしないでもいい者、それから心臓の弱い者、あるいは
作業によって足が不自由になった者、手のきかない者、胃を手術で切り取ったために静養させなければならない者というような
人々を入れる保健室というのを作ったのであります。そうして二部屋に1日にちはちょっと前後して入ったのですが、約三十名の者がその両室に分けて入れられました、われわれ刑の明けた者も、その保健室に一緒に入れられたのであります。ただしこの人
たちはみんな
決議に参加しております。そうして各バラックにおいていらいらさせることをやめて、その病弱の人だけはそこへ入れるという処置を講じました。
それからまた医者の方では、今まで医長であったリトワークという人をやめさして、ほかの医長を持ってきた。それからまた
日本人の医者がおります。これは刑が明けないのですけれ
ども、その人
たちが今まで手伝っておったのでありますが、だんだんにその人
たちの診療とか施薬とかいうようなことを、在来よりもゆるやかにしました。そうして後ごろには、囚人で小日向という元軍医があるのですが、その人が、主となって、
作業に適するか適しないかということの診定までこの人がやる、そうしてロ側の所長はその認定をそのまま認めていくというところまで変ってきたのであります。
それから、さらに二月に入りますと、市中にあるところの今まで女の囚人が入っておりました病院を、女を全部出しまして、これを改造いたしまして、東洋人病院という名前をつけて、そこに一分所から百六十名の病人を入れることにしたのであります。さらにまたそれに加えまするのに、
収容所に抑留されております者は、兵隊の監視なくしては市中に出られないのでありますが、ところがこの病院は市中にあるのであります。その病院に、また刑の明けない
日本人十一名を勤務員として送り込んだのであります。それからまた今まで不足しておりました
薬品類も、逐次これを豊富にしていくというふうにしまして、
現地で
解決のできるものは
解決をしていこうという
考えで動いております。従いまして、私は第一分所は一月の二十六日に出たのでありますが、それまでにだんだんにそう変って参っておるのですが、二月の二十五日に連絡がありまして、——この連絡はいろいろな非常にむずかしい方法でやるのですが、二月の二十五日から罰則が適用された。罰則と申しますのは、二十四日に実行されました文化活動の停止、通信の不許可、娯楽の停止、食事の減量というようなことを実施したといって連絡がありまして、それで私
ども三月一日に向うを出ますまで、それは継続されておったのであります。
これが大体の現状でありまして、それでは食糧はどうかということになるのでありますが、これは普通食と病人食、それに罰食というものがあります。普通食と申しますのは、朝がスープ、スープの中にはカンラン、ジャガイモ、それに魚油または肉のあぶらが少し入れてあるという程度、ときには青いトマトが入ります。十一月過ぎになりますと、なまのキャベツはありませんから、これを塩づけにしたものを水につけて、若干のすっぱ味を出しておいて、それをスープに入れます。そのほかに、白米の御飯よりもちょっとやわらかいものが、こういう洗面器みたいなさらに八分目入っておる。その次が、昼はやはりそのスープに今度は雑穀の御飯のやわらかいようなもの、雑穀と申しますのは、燕麦、大麦、ソバ、それからヒエ、これはプショノーというロシヤ語で、ヒエと言う以外にちょっと申し上げようがないのですが、鳥のえさですね、それから小麦、これは大体におきまして
日本の大麦のひき割りに似たものが大麦と燕、麦にはあります。けれ
ども、それ以外に大麦をこまかに砕いたもの、それから小麦のこまかに砕いたもの、燕麦は砕いてありませんが、プショノーというのは、今申した鳥のえさみたいな、アワみたいな、あんなものです。あれを煮たものです。それから夜はやはりそのスープでありまして、それに白米の御飯ということになります。それで二日に一ぺんとか、あるいはときには連続しますが、特食と申しまして、これにメリケン粉でこしらえた手製のドーナツ、それから肉が若干入っておるまんじゅう——支那まんじゅう、それから西洋菓子のカステラに似たものの上に何もついておらないものというようなものが甘味品として、特食と称してつきます。パンは三百五十グラムの黒パンであります。病人食というのは、それの内容はあぶらけが多くて、そのほかに白パンで、
バターとそれから牛乳が折々つきます。それに病人食ではありませんけれ
ども、また白パンもくれませんけれ
ども、十五号食と申しまして、飯の分量が一倍半くらいあるものを食わす十五号食というものがあります。十五号食は折々どうかすると牛乳をくれたりするようですが、病人食とは若干違う。それから罰食ということになりますと、これは全くあぶらけのない、塩けもないスープです。これが一日に三べんであります。これが食糧であります。それから、このカロリーはどうなるかと申しますと、ソ側は普通食のカロリーは二千八百カロリーと言っておりますけれ
ども、吸収されないものを除きますと、二千五百八十カロリーになるのであります。ロシヤ側は、一般の労働者には、三千五百カロリーを限度としておるのであります。そういたしますと、約千カロリー一日に不足しておるということになります。千カロリーが不足したらどうなるかということは、私ちょっとその道の万に
考えていただかないとわかりませんが、とにかくそれだけのものが毎日不足するわけであります。それで、不足したのでは困るので、どうするかというと、さっきちょっと申し上げましたように、自分らが稼いだ金で、
バターは売店に持ってきませんから、マーガリン、それから
砂糖、
粉ミルクというようなものを買って補給するのであります。それが大体食糧の関係であります。
それから収入に入ります前に、どういうふうな体位の
状況かということを申し上げます。平均の年令が、今第一分所では四二・六になります。体重は、毎年の十一月にとったものでありますが、
昭和二十六年が六十一キロ六、翌年の二十七年が五十九キロ八、二十八年が五十九キロ三、二十九年が五十八キロ二、昨年三十年が五十七キロ七となりまして、約四キロ近く下っております。
それから病人の
状況を申し上げますと、昨年の十二月末現在で、血圧の患者が百七十五名、うち血圧二百以上の者が六十八名、これには年寄りばかりでなく、若い人も相当にあります。このほかに、第一分所から第三分所に送られた者の中で、血圧の患者が二十七名あります。それで血圧が二百以上で十二月の十七日の軽
作業に従事している者が十五名、つまりそれは十二月の十六日に外へ出るようにかり出されまして、外へ出ていった者のうち、軽い
作業をしておりました者が、血圧二百以上の者で十五名あるというわけであります。原因が不明で、一週間以上三十七度以上の微熱が続いている者が、十二月二十七日現在で四十四名あります。そのほかに、胃酸の欠乏しているもの、血管運動神経障害等の患者がだんだんにたくさんになってくる傾向があります。血管運動神経の障害というのはどういうことかと申しますと、風土病ともいっているものでありますが、手の先が白く色が変ってくるのであります。それから重症の患者が五名、そのうち一人は、一月二十一日に飯塚富太郎さんといって、栃木県の方がなくなりました。それから二月二十七日には、岩本さんという、鹿児島県の方がなくなられました。飯塚さんはかン、岩本さんは高血圧でなくなりました。それから十二月の二十六日ごろから所内の医者でなく、市中にあるところの医者が六人で
委員会を作りまして——これは
収容所官憲からの命令だと
思いますが、参りまして、体位の再
検査を一
人々々やったのであります。その結果が、後になって発表されたところを見ますと、九十八名が完全労働に従い得る、それから再診をする者が十七名、再
検査をする者が三十名、再
検査というものは、御承知の通り、血液
検査とか尿の
検査であります。それから治療をすれば労働可能になるであろうと見込まれるものが百十四名、合計二百五十九名でありました。約八百名の中からこの数を引いていただきますと、それが
作業に耐えられる者になる。非常に大きな数字になります。今の再診、再
検査それから治療を要する者以外の中の、われわれの見込では、大体半分くらいまでは
作業のできない者になるんじゃないかと思っております。大体におきまして二割ちょっとくらいのものが
作業に従事しておるというようなことになるだろうと
思います。これを二十八年の
状況に合せてみますと、二十八年は完全に労働に従事し得る者が九割で、労働に従事し得ない者が一割しかなかったのであります。それが五五年の暮れになりますと、そういうふうに変って参りました。その他にいろいろありますが、時間の都合がありますので、このくらいにさせておいていただきます。
それから収入について申し上げますが、収入は、みんなが稼ぎまして、そうしてその稼ぎ高に応じまして支払いがありますが、そのみんなが稼いできましたものからまず三割天引きしまして、その残ったものから一カ月の経費として、五〇年からきめられております四百六十五円というものを引かれまして、その残りを払ってもらう。そういたしますと、よほど稼がないと百円以上になりません。また
収容所の規定で、いかにたくさん稼いでも、二百円以上は
日本人には渡さない。おもしろいことは、よその
収容所では、これは労働賃金といっておりますが、
ハバロフスクの
収容所では、これを賞与金といいます。賞与金というものは、
収容所の
考え方で渡せばいいということになるわけであります。よそとは違います。ですからよその
収容所では、
日本人は稼ぎに応じて、その中から、その
収容所できめられております経費を引かれますれば、あとは全部自分のものになりますから、二百円以上になろうと、三百円以上になろうと、そのままもらえる。われわれ円と言っておりますが、ルーブルであります。そこで、よそで無制限にもらっておりました者も、一度
ハバロフスクへ入りますと、
ハバロフスクの制約通りになって、何ぼ働いても二百ルーブル以上はもらえないということになっております。そういうわけでございますから、収入は、
作業能率が悪いとだんだん下ってきまして、先ほど申しましたように、五、六十円になったわけであります。それでは四百六十五円という計算はどうしてできたのかと申しますと、あそこが五十年に俘虜
収容所として設定されましたときに、一人一日の経費が十五円、これを三百六十五倍して十二で割ったものが一カ月の経費だというように算定をされてきまったものであります。その後にずっと物価が八回も下っておりますけれ
ども、一向に下げられておりません。これは何ぼ交渉しても、何ぼ文書請願をしても、向うは下げないのであります。
それからその天引きに三割引かれたものは何になるのかといいますと、これは警護をする兵隊がたくさんおります、また費用もかかります、それに充てると同時に、ほかの
収容所の経費に充てるということになっておりますが、四百六十五ルーブルというものの中にも人件費は入っておりますし、文化費というようなものも入っておりますし、税金まで入っております。この内容につきましては、向うでは公式には現わしておりませんからはっきりしたことは申し上げられません。
それから先ほど御質問のございましたソ側のとった処置というものは、あの中に織り込みましたから、これはよします。
それから組織の形態、連絡というような日常
生活というような御質問がございましたが、組織の形態は、今、班長を
全員の意思の決定
機関にしております。その下に交渉
代表部というものがあって、これはさっき申し上げました石田君を中心に、そこに
代表部員がおるわけであります。そしてそれらが報道とか文化活動のための芸能とか、翻訳とか図書とか、さらに保健の関係上、厚生とか防衛とか、いろいろなことをそれぞれ
委員がおりましてやっております。交渉
代表部というものは、班長総会の意思の実行
機関であります。
それからこの一分所の中は、各バラックとも往来は自由でありまして、自由に行き来しております。第二分所と第一分所、第三分所と第一分所、それぞれの連絡は正規にはできません。それでございますから、第一分所がそういう請願運動に入りましたときも、第三分所には何らの連絡をとってありません。ただ第三分所では、さっき
小笠君も言われましたように、何か第一分所は仕事に出ていないようだというようなことを薄々
感じ、寄り寄り話をしておりましたが、全然わかりませんで、ただ六日に所長のマルセンコという大佐が来て、お前
たちはなぜ
作業に出ないのか、第一分所は
作業に出ているんだ、こう言ったのであります。そうすると、みんなはいつもそういうことでだまされて——だまされるというと
言葉が悪いですが、だまされているものですから、それでこいつはおかしいぞ、第一が出るわけがないのにああいうことを言うのは、自分
たちを
作業に出させるためにやっているんだ、てっきり第一は出ていない、一つの請願運動に入っているんだということがそのときに初めて第三分所でわかって、それから今度は正式にモスクワに向って、文書請願の運動が起きております。そういうわけで、両方の連絡は全く公式にはつけられません。