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1956-02-23 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第6号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十一年二月二十三日(木曜日)     午前十時五十五分開議  出席委員    委員長 原 健三郎君    理事 臼井 莊一君 理事 木村 文男君    理事 中馬 辰猪君 理事 中山 マサ君    理事 堀内 一雄君 理事 櫻井 奎夫君    理事 戸叶 里子君       稻葉  修君    大橋 忠一君       高岡 大輔君    田中 龍夫君       田村  元君    野澤 清人君       濱野 清吾君    眞鍋 儀十君       松岡 松平君    赤路 友藏君       受田 新吉君    河野  正君       中井徳次郎君    中村 高一君       三鍋 義三君    森島 守人君       石野 久男君  委員外出席者         議     員 穗積 七郎君         厚生事務官   田島 俊康君         参  考  人         (参議院議員) 野溝  勝君     ————————————— 二月二十三日  委員逢澤寛君、仲川房次郎君、保科善四郎君、  眞崎勝次君、井岡大治君及び下川儀太郎辞任  につき、その補欠として稻葉修君、松岡松平  君、濱野清吾君、野澤清人君、赤路友藏君及び  森島守人君が議長指名委員に選任された。 同日  委員森島守人辞任につき、その補欠として中  村高一君が議長指名委員に選任された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  参考人出頭に関する件  ソ連地区残留胞引揚に関する件     —————————————
  2. 原健三郎

    原委員長 これより会議を開きます。  本日は、ソ連地区残留胞引揚に関する件について調査を進めます。  この際、お諮りいたします。本引き揚げ問題に関連いたしまして、過般、訪ソ議員団団長として、ソ連国内視察され、またイワノボ収容所及びハバロフスク収容所において、在ソ同胞に会って帰られました野溝勝君より、その視察状況等を聴取いたしたいと思いますが、本委員会参考人として事情を聴取することに御異議はございまいませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 原健三郎

    原委員長 御異議なしと認め、さよう決定いたします。  なお、訪ソ議員団の幹事として、野溝団長と同行せられた穗積七郎君を衆議院規則第四十六条により、委員外の発言として本委員会において事情を聴取することに御異議はございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  4. 原健三郎

    原委員長 それでは、さよう決定いたします。     —————————————
  5. 原健三郎

    原委員長 それでは、これより訪ソ議員団野溝団長より、本委員会関係のあるハバロフスク収容所抑留同胞実情等について事情を聴取することといたし、穗積七郎君よりは、委員質問に応じて、当時の状況を補足的に説明を願うことにいたします。
  6. 野溝勝

    野溝参考人 委員長から、先般国今議員団を代表してイワノボ並びハバロフスク等収容所慰問訪問したととに対するその経過について、話してもらいたいということでございますろから、私から申し上げたいと存じます。  なお、本委員会におきまして、過般来引揚者の方々からそれぞれ参考意見を聞いておられたようでございますが、その問いろいろ誤解もあるようでございますので、私はこの際あらためて事実を申し上げまして、委員諸君の御批判に訴えたいと思います。  私ども訪ソ議員団といたしまして、いろいろの目的がございました。その目的のおもなるものを申し上げますると、平和友好国交回復、さらに抑留者訪問慰問、これらがおもなる目的でございます。  そこで、本委員会抑留者の問題に関してでございますから、その点だけを申し上げます。特にハバロフスク抑留者の問題につきましては、ソ同盟最高幹部懇談をする前に、一応私どもといたしまして、イワノボを九月二十日に訪問いたしました。イワノボは、三十名の抑留者の方がおりまして、特にここには、山田乙三元大将後宮大将塩沢中将、その他多くの外交官等々も入っておりました。ここでは大体が抑留者方々に会う時間は短い時間でございましたが、しごく血色がよく、ほとんど病人はないようでございました。そうして、特にその方々労働時間は三、四時間でございまして、むしろ労働時間が少いという点において意見炉述べられておりました。その三、四時間の労働時間は、何をするかというと、大体部屋の掃除、それからトマトを作っておる野菜畑いじり、そんな点であって、大した重労働というものはないと言われました。ひまがあり過ぎるという点から、むしろ日本にちなんだ公園などを作られておりました。そういうような話がごさいましたが、ただこの人々の言われた中に、先日までドイツ捕虜が相当おったのであるが、そのドイツ捕虜方々には、ドイツからの慰問品等が非常に多くあって、うらやましいようである。そこにいくと日本のは比較的少くて、何だかさみしさを感ずるというようなお話がありました。この点は、一つ日本の国としても考えてもらえぬかというよう意見がありました。あとはその諸君懇談をしまして、それぞれ部屋を見て帰ったというだけでございます。特に誤解を受けておるようで申し上げますが、ソ同盟機関紙でございますプラウダ等におきましては、自由民主党加藤君の談話、それから久野君の談話も出ています。それから労農党石野君の談話も出ております。その談話内容は、意外だったということになっております。うそか真かは知りませんけれども、意外ということは、想像しているよりはよかったというふうに解釈して間違ないと思います。大体イワノボに対しましては、その程度で、あと質問に応じたいと思います。  次に、ハバロフスクの問題ですが、ハバロフスクにつきましては、すでに私どもが国を出発するときから、日本から行かれた方々の中には、なかなかハバロフスク収容所訪問慰問することは不可能だ、何ゆえか知らぬけれども、これは秘密じゃないか、何か理由があるのじゃないかというようなことをたまたま聞かされておりました。それは、私どもソ同盟に行く前に、学者グループの南原、大内、茅の諸君等が行ったのでございますが、このときも許されなかった。さらにその前には、高良君たちが行きましても許されない。こういうようなことで、日本の多くの方々が行っても許されない。であるから、おそらくわれわれが行きましても許されないものと思って、そう言われたと思いますけれども、私どもは、先ほど申しましたように、特にソビエト、中国の訪問目的炉平和友好国交回復収容者慰問等をかねて行ったのでございますから、それが目的一つである以上は、とれに全力を上げることは当然でございます。特にブルガーニン、フルシチョフ、この方々と二十一日クレムリンにおきまして、北村野溝団長を初めとして、議員団一行会見をいたしまして、その席上、両団長とも、抑留者の引き揚げの問題とハバロフスク訪問に対しましては強い要望をいたしました。そこでこのハバロフスク訪問慰問に対する許可要請の件に関しましては、フルシチョフ氏から、なるべく期待に沿うように努力したいと思う、しかし内務大臣と相談をしてということを申されました。そこで一行がその会談を終って引き揚げてきてから、一応議員団会議と申しましょうか、議員総会みたいなものを開きまして、この両指導者との会見後における今後の態度について、打ち合せをしたのであります。そこで、たまたま自由民主党方々の中から、もう目的は達したから、引き揚げたいという意見がございました。社会党、労農党共産党等諸君の中からは、目的を達したといえども、まだハバロフスク訪問許可を得ておらぬから、許可を得るまで待ってはどうかという意見も開陳されました。ところが、自由民主党諸君の中には、努力すると言われたのであるから、多分明日にも許可されるものと思うから、急いでハバロフスクに行きたい、行く途中において許可が来るだろうという早合点をした方もあると存じます。しかしわれわれは、さようなことは非常に危険であるからという意見を申し上げたのでございますが、それ以上言っても、一応最高幹部と会って意見を申し述べた以上は、もう目的を達したから、われわれは引き揚げるのだという意見自由民主党の方方から強く出されましたので、私どもも、これに対しては、それ以上申し上げることはできませんでした。そこで、この点が大事なところでございますから、私の意見をはっきりお含み願いたいのであります。その後、私どもは別れまして、北村団長一向は翌日立ったのでございますが、私どもは、いずれにしても許可が明日にもおりて慰問ができるならけっこうだ、こういう気持から別れたのです。しかしわれわれは、今申した通り、一まつの不安を感じておりましたので、この許可のおりるまで待つことにいたしました。その間、ポーランド方面あるいは各地を視察してくることにしたのでございます。ポーランドの方に回りましても、それが気がかりでございましたから、絶えずモスクワにおるところの書記並びにそれぞれの案内者諸君と連絡をとりまして、許可がおりたか、おりないかという安否を絶えず問いただしておりました。ポーランド方面から引き揚げて参ったのは、二十四日でございますが、たまたま二十五日の午後九時、ソ同盟最高幹部会事務局長ホーミン君が私の部屋へやって参りまして、それには森島外交部長も同席されました。ただいまハバロフスク訪問許可がおりました。まことに貴国のために御同慶にたえませんというあいさつをされましたので、私はそれはあり炉とうと言って、感謝をしました。この許可炉おりたのは二十五日の午後九時でございますが、自由民主党北村君が出発したのは二十二日でございますから、許可のあったこの三日間を、途中におるといいましても、イルクーツクあたりにおればおるのでございますけれどもソ同盟当局調査では、もうイルクーツクにはおらぬらしい。そこで、これは北京におると思いまして、許可のあったことを電報で知らせる方が間違いないと信じ、私は何も頼まれたものではございませんが、特に抑留者に対する問題については各党一致で決議されておりますので、私といたしましては、書記に命じまして、直ちに団長北村あてに、ただいま許可おりた、すぐ引き返せという電報を打つことにいたしたのでございます。たまたま自由民主党加藤君が病気で寝ておりましたので、この方に話をいたしまして、この方の名前を入れた方が北村君初めその他の方の感じもよいだろうと思い、私はその点を強く話しましたところ、加藤君も名前を使ってくれという話がございましたから、私の団長のほかに、加藤君の名前を入れて北京ホテルあてに打ったのでございます。そこで私どもは、少しくその電報を打って時間の余裕を置いた方がいいというわけで、二十五日に許可がおりたのだから、二十六日立てば立てるのでございますが、二十七日午前五時に出発することにいたしました。二十九日の四時ごろハバロフスクに到着いたしました。そこで三、四時間休みまして、向う市ソビエト委員諸君案内で、さらにソビエト事務局から随行したドーミン書記方々とともに参りました。これからがいろいろと誤解と申しましようか、問題の起っている点でございますから申し上げます。  私どもハバロフスクに着きまして、その問いろいろ聞いてみたのですが、どうも先に参りました北村団長一行方々が来る気配が見えませんので、私どもだけで、遺憾ながら収容所訪問することになりました。一行は九名でございます。  そこで収容所の前に参りましたところ、収容所長からの注意があった。それを一つ聞いてからというので、収容所長からの注意を聞きました。聞き終るか終らぬうちに、私ども気持を打ったのは、中から聞えるさくらさくら、やよいの空に見渡すかぎりというラッパの吹奏でございました。何とも言えぬ感激に打たれまして、私ども収容所長の言の終るか終らぬうちに、その収容所のたまり場にかけつけました。そこには抑留者の多くの方がいたのでございますが、聞くところによると、第一収容所が八百六十九名、第二収容所が百二十名、第三収容所も同じくらいということでありました。それを集計いたしますと千百名くらいになりますが、作業に出ている人もありますので、大体は八、九百名おったと存じます。まずそこに参りましてお会いしたのでございますが、このことにつきましては、先般、本委員会におきまして、戸叶代議士から種々申し述べておられるので省略いたしたいと思いますけれども、せっかくの委員長からの御意見もありますので、この際、委員諸君に私の見た角度からお話し申し上げたいと存じます。まず、私どもは、前もって設けられている部署についたのでございますが、その際、参考人陳述速記にもあります通り、あるいはその他の文献にもあります通り坂間訓一元少将一同にかわってあいさつを申し述べられることになり、その坂間君があいさつを述べました。そのあいさつの中で、いろいろありましたが、きょう来られたことについては、何とも言えない感激に燃えております、あなた方に会えることは、日本の土を踏んだような気がしますというよう感激に燃えるあいさつがあって、本論に入ったのです。あなた方に御意見を申し上げるのに、わずか二時間内外では、とても一千名近い者が一々意見を申し述べることは許されないから、大体まとまったおもなる質問意見を代表していたしますから、それについてお答えを願いたいということでありました。まとまった意見として、その坂間君が代表して述べたことは、私としては、一同を代表している意見として聞くことは当りまえだと存じます。その坂間氏が代表者となって意見をまとめた点についてお答えを願いたいというのでございますから、坂間氏の意見は、大体総体的の意見として見ることは当然であると思います。その意見の第一は、日ソ交渉経過等について、特に戦犯問題等が含まれておるところから、これらの問題について訪ソ議員団が触れられた見解について、経緯についてお聞かせ願いたい、これが一つ。第二は、日本経済状態がどんなふうになっておるか、その動きをお知らせ願いたい。第三は、留守家族遺族状況をできるだけお知らせ願いたい、これがおもでございました。あと教育事情についてどうとか、あるいは民主化の問題などについてもどうという話がございました。これがその代表者坂間君の意見でございまして、これに対して、私初め各議員から、いろいろの角度からこまかく話がございました。この問題に関しまして、あらゆる角度から話をされました。特にざっくばらんに言うならば、日本経済事情という点については、あまり心配をかけてはいけないという心づかいと、またいろいろとデマも入っておることと思いますので、この点はむしろ私どもは、実は社会主義者としての分析の立場からでなくてもっと謙虚な人道主義的な気持において、多くの議員諸君が発言された点は了承願いたいと思っています。もっとざっくばらんに申しますならば、日本経済事情は順次好転しておるということを申し上げた。それは、新聞も見なければ、十有余年も会わないでおる同じ民族方々でございますから、必要以上の心配をかけることはよくないと思いましたし、また私ども訪問は、社会主義の拡張に行ったのではございません。さらに私はそのあいさつの中で、冒頭においてこういうことを述べました。私ども訪ソ議員団は三十八名、随員を合せて四十余名であるが、それが全部諸君慰問をすべく参ったのでございますけれども、それぞれ視察用途関係で班を分つことになりまして、私どもだけが参ったことを御了承願いたいということを、私は冒頭において申し述べたのでございます。私はこんなことを政争の具にすべきものではないというように考えております。それは、帰ってきてからのことはともかくといたしまして、その場においてさようなことを印象づけるのはよろしくないと考えたので、そういう点は、高く諸君から評価してもらえると私は思っています。かくいたしまして、そのあとこの参考人方々意見の中にもありますが、本委員会速記録に述べられたよう意見を吐いた方もありますが、中には、この速記に出ておらぬよう意見もまたございました。しかしそれらは個人的な意見でございまして、まとまった代表的な意見といたしましては、最初あいさつされた坂間君の意見を私は総合的代表意見と見るのであります。そういう点におきまして、私が以上述べたことについて、御了承願いたいと存じます。  次に、特に申し上げたいことは、これは戸叶さんによっても言われておりますが、その中には、国の権威を失墜するようなことまでして、日ソ交渉を進めなくてもよろしいというよう意見を、この参考人の中からもある人は述べたということを言われております。私はそういう意見もあったと思います。しかし同時に、早く帰りたいから、一日も早く交渉を進めてくれという意見もございました。こういうよう意見を一々取り上げておりますならば、これは千何百人というものの意見を一々聞いてみなければならぬことになりますので、やはり集約したところの代表意見といたしまして、坂間君の意見を中心にして皆さんにお伝えするということを私どもは考えて参りました。さらにその後、時間が二時間前後でございまして、時間がありませんので、そのあいさつが終りますと、直ちにそれぞれ班を分ちましてお会いいたしました。しかし干名近くの人に十人近くの人が会うのでございますから、なかなかそう深い記憶もございません炉、それらの方々に対してはまずことづけ、ないしはなくなった方々の遺髪、遺骨あるいはその他のすべてのものを預かっていくから、一つそれを渡してもらいたいということを申し述べました。  それから続いて、私ども病室食堂を見学いたしました。その当時病室はあまりきれいとは申されません。しかしああいうへんぴな場所における病室といたしましては、りっぱなものではございませんが、衛生だけは考えておられると思いました。設備は別にいいとも思いません。しかし衛生的には十分注意が払われておりました。それから病人方々は二十二、三人でございまして、多くは心臓ないしは血圧障害方々でございました。医者に聞きましたところ、野菜等が不足しておるというふうに考えますので、という話でございました。それは日本人の医者か助手か知りませんが、さような答えがございましたので、そういう点についても、特にソ同盟収容所関係並びに市ソビエト執行部に対しても、強く要望して参りました。それから薬品などにつきましてもいろいろ聞いてみたのでございますけれども、十分近代的のものを使っておるという話はございましたが、ビタミンの不足ということも聞かされましたので、こういう点については特に注意を払ってもらいたいということも要求して参りました。  食堂に参りましては、三百グラムの米、これは朝晩にやっておるということを聞きました。そのほかパン食一回を支給しておるということであります。  ところで、私ども——今日こそ引き揚げた方々の中にはいろいろ言われる方もありますが、その当時その収容者方々に対しては、だれにも言うわけじゃないから事実を話してくれということを申し上げました。ところが——いろいろ話をしようと思ってもしなかった人もあるかもしれません。それは、私は数多い中だからそういう人もあると思います。また私ども訪問する前は相当やかましかった点もありますので、うっかり言って、あとで何か圧迫されてはかなわぬという不安もないとは私は申さぬのでございますけれども、しかし別に一々向う監視人が、私ども個人々々についているわけではないのでございますから、話そうと思えば話せるのでございます。現に、中にはひもじくはないけれども一つもうまくないという話もあったのでございます。それから薬などの注文についても、手紙のことについても、あるいはその他新聞などの点についても、それぞれ話があったのでございますし、さらに大堀君の監視人を切った事件、それについては、監視人があまりひどい仕打をしたので、興奮して、さような行動をやったというようなことも話され、この点こついては特に大堀君だけの罪ではない、一方的にどうこうすることは間違っておると思うから、こういう点についてもソ同盟当局に話してくれというようなこともそれぞれ話されたのでございますから、参考人方々が陳述される中に、いろいろ言われておるようでございますが、もしさようなことがあったといたしますならば、私どもに話していただけると思うのであります。  さらに、私どもは、手紙など委託を受けたもの等に対しましては、途中でこれを抹殺するとかあるいは思想的に気に食わぬからというので処分したりするようなことは絶対にいたしません。  こういうようにして引き揚げてきたのでございますが、引き揚げる際に、一行の見送りを受けました。その中に黒木元少将だと思うのですが、その方から、われわれはあなた方の訪問されたことによって、必ず近い機会に祖国に帰れるという自信を持つことができました、祖国に帰ることができましたならば、この余命を祖国のために尽したいと思います、何分国民諸君によろしくお伝え願いたいという感激の言葉がございました。私からも特に申し上げました。お互い何がゆえにかように苦しんでおるかということについては、角度は違うけれども、それぞれの考えを持っておられると思う、しかし意見が違いましても、それによって、民族間が血で血を洗うようなことは絶対にしては困るということを私は強く言って参りました。さようにいたしましてお別れをしたのでございますが、戸叶委員からもお話申し上げました通り、一日も早く全部が祖国に帰りたいという気持ちは一致しておるのでございますが、その問いろいろな意見がございまして、祖国に帰らんために何でもかでも無条件でよろしいというよろなことは言っておらぬというよう参考人意見もあるのでございます。しかし、人はいろいろ表現されているのでございますけれども、いかにも帰りたくないよう印象もこの記録によっては受けるのでございますが、私ども印象では、そういうことはむしろ従的なものでございまして、主動的には、一日も早く帰りたいということを強く印象づけられましたし、またさように私どもは考えました。かくいたしまして、引き揚げて参りました。  まず香港に参りまして記者会見をいたしまして、今回の訪ソ議員団一つとしての抑留者戦犯等の問題についても、発表いたしました。その際またいろいろなことが伝えられておるのでございます。私どもといたしましては、特に名簿発表につきましては、その際差し控えたという点は事実でございます。しかしそれはどういう点かというならば、名簿といいましても、実は各人がそれぞれ書いた名前ないしは住所などを預かった、いわば手紙ないしは名刺等を預かりました。しかし名刺といいましても書いたものでございます。預かったそれら書類を照し合せなければわかりません。そういう点については、そんな短時間でそれができるものではないのでございます。それをなるべく完全なものにし、発表いたしたいと思いました。特に発表のずさんから、留守家族遺族方々心配をかけるようなことがあってはいけないので、特に細心の注意を払うために、さようの処置をとることは当りまえなことでございます。むしろこの点は私から、団員諸君に向いまして、この発表については個人々々が発表することを控えてもらいたいと言って、その間努めて早く集録するようにしてもらいたいということで、香港におきましては、この発表を押えたことは事実でございます。その他の点につきましては、香港発表した通りでございます。  続いて羽田空港に参りまして発表したことが、内容の点について問題があるようでございますけれども、この点も一つ委員各位の御了承を得たいと存じます。羽田空港に着いたときは、夜九時半でございます。そうして何せあの雑踏でございまして、遺族の方も、留守家族の方も来ております、新聞社は来ております、出迎えは来ております。実に雑踏な風景でございました。その間私ども新聞記者諸君に誘致され一と申しましょうか、同行を強く求められまして、記者会見をやったのでございます。私どもはその記者会見の中で、もちろん抑留者問題等については言い尽せなかった点もあったと思うのであります。しかし言い尽さない点につきましては、私どもが持ってきた記録によって十分それを知っていただきたいということを申し述べました。さらに、その際に、たまたま厚生省の瀬戸引揚課長、田島事務官、この諸君一つ名簿などを見せてもらいたいと言うたのでございますが、今申した通り新聞社の諸君にも会談中でありますし、さらにそれだけでわからぬ点もありますので、明日にしてもらいたいということを申して、名簿は渡しませんでした。  なお、その際に、向う抑留者から委託されてきた文書の中に、野溝団長たちは都合のいいところだけ発表して、都合の悪いといいましょうか、悪いとは言わないが、とにかく国民に伝えてくれという文書を故意に発表しなかったかのごとく印象づけられたような記録もあるのでございますが、この点につきましては、決してさようなことはありません。私が前段において申し上げました通り抑留者問題の中心は、何といいましても、坂間代表のあいさつを中心にして報告すべきのが正しいと思っております。その他の意見につきましては、もちろん私どもはそれは伝えました。伝えなければ、週報あたりにこういって出ておるわけがないのであります。それがどこかに漏れて——決してぶちゃったものでなければ、捨てたものでもありません。その間、もちろんいろいろな文書の中には、薬のことを書いてあるのもありましょうし、あるいは今申しました通り、国民に告ぐとかいうのも、個人的には週報に出ておるようなものもあったのでございます。しかしこういうのにつきましては、今申しました通り、一括いたしまして、約五通ばかりでございますが、別にこれはたくさんでございませんから、一括して新聞社の諸君にも話しました。しかし何せあの雑踏でございまして、単に引揚者の問題だけではございません。特に中国との賠償金の問題、あるいは貿易の問題、さらには国交回復に対する領土の問題、見解、あるいは漁業の問題等に対する新聞記者との一問一答もありますし、なかなかたくさんの中でございまして、ただわれわれは抑留者の引き揚げの問題だけに行ったのでないのでございますから、その点に対する欠けた点もないとはいえないのでございます。でありますから、その点については、山口書記あと四時間くらい残って、新聞記者の諸君のいろいろの質問に対して答えるように、特に書面を預かってきた君でございますから、山口君を中心に残しておきました。かようなわけでございまして、それからあとわれわれは留守家族方々とも、遺族方々とも赤十字においてお会いいたしました。その際は、これまた幹事でございます穗積君から、詳細にその間の経緯については報告されたのでございます。さらにそのあとで・書類等は一括して山口書記から私が引き取り、保管をいたしまして、私の手元に置きました。そこで別にこれを拒否しておったわけではありませんから、その間でももしいろいろな問題がありますならば、取材するかしないかということは記者の御自由でございますから、私のところに書類もありますので、もしそれを取り上げるというのなら、いつ何どきでも私はお渡ししたのであります。さらに赤十字における留守家族方々に対する発表のときにも、穗積君からしたのでありますが、新聞社の方もおいでになりましたから、それに関心があるならば、それを取り上げたと思います。こういうわけでございまして、虚心たんかいにやったのでございます。われわれといたしましては、そのような点について、意識的にこれをどうのこうのしたことは毛頭ありません。さような点は、委員各位におきましても、あらゆる角度から私は十分御検討を願いたいと存じます。  最後に一言申し上げておきたいのでございますが、この書面につきましては、全部これを厚生省の未帰還者調査部の方へ出してあります。  大体以上でございまして、この際委員長からせっかくのお招きでございますし、それからまたこれは委員諸君が関心を持っておられる問題でありますので、私は申し上げました。さらにいろいろの点につきまして意見があると存じます。そのことについては、私は虚心たんかいにしなければならぬと思っていますので、こういう点につきまして、もしありますならば、それぞれあらゆる角度からお聞き取り願いたい。私のほかにここに当時の私一行穗積幹事、戸叶あるいは森島あるいは赤路あるいは労農党石野君等がおりますし、これらの方々からもいろいろの発言もあることと思います。さらにイワノボ方面は、臼井さんも十分知っております。  以上をもって、私の発言を終ります。
  7. 穗積七郎

    穗積七郎君 今までの野溝団長からの報告は、全部私の記録と合っておりますが、その中で、もしあとで厳密にお尋ねになりますといけませんから、ちょっと野溝団長が思い違いしておられる点を最初に申し上げておきたいと思います。  そこで、ラウンド・ナンバーで、大体間違いありませんが、もしあとで役所の方もおられるといけませんから、正確に申し上げておきます。第一ラーゲルにおりますものが八百六十九名、これは日本人です。それから第二、第三のラーゲルが、さきに団長の報告の通りおのおの百二十人くらい、これはそのほかがあります。それからこの八百六十九名の中に婦人が三名、子供が一人、これは正確に申しますと、向うにおります日本人の代表者の方から伺った数字ですから、大体間違いないと思います。そのほかには現在外国人でありますが、それは外国人でありながら、日本の当時の戦争に協力せしめられ、または協力した者、その数字を申し上げておきます。これは八百六十九名のほかに、朝鮮人が六十四名、中国人が六十三名、蒙古人が十九名、白系ロシア人その他八名。そしてこれらの全員の八百六十九名の平均年齢が、昨年の九月現在で四十四才です。それだけちょっと正確に訂正さしていただきます。
  8. 原健三郎

    原委員長 この際、石野久男君より発言を特に求められております。これを許します。石野君。
  9. 石野久男

    石野委員 ただいま野溝参考人からの発言の中で、イワノボ収容所を見て参りましたその節のことがプラウダに出たと言っておられました。その中で、私の名前も出たのでありますが、私の発言が意外にひどかったというような意味のことを言っておるというようなことを先ほど野溝参考人から話がありました。これは何かの感違いであろうと思います。それはあと速記録を見ていただきたいと思いますが、私は、御承知のように当番幹事としまして、あの日はいろいろと収容されている方々に対して両団長あいさつするときの司会をいたしました。その後プラウダの記者と確かに会ったような記憶をしております。そのときは、こういうことを言ったと思うのです。皆さんは思ったよりも健康である。そして血色もよかった。そして、これらの人々が確かに郷愁を感じていることは事実です。早く帰りたいということを非常に皆さんが言っておりました。この人たちを私たちが総括的に見たところでは、この人たちは、一日も早く帰りたいということを念願し、かつその当時はアデナウアー氏がすでにソ同盟との間に話し合いをまとめておったと思います。同時に収容されておりましたドイツ方々が帰るということもほぼ確定されておった。従って、この人たちは年内に日ソ交渉は解決するだろうなどいうことを非常に強く各人が言っておったことを私は記憶しております。こういうことを含めまして、思ったよりも皆さんが非常に健康であるし、よかったということを言ったように私は思っています。しかし先ほど野溝参考人からの話によりますと、意外にひどかったというように私は聞きました。もしこれが私の聞き違いであれば別でありますが、速記がそういうふうでありますれば、訂正していただきたいと思います。
  10. 野溝勝

    野溝参考人 その点は、今、石野君の言った通りであります。私は石野君の言われた通りの表現をしたように思います。
  11. 原健三郎

    原委員長 これより質疑を行います。質疑は通告順によって発言を許します。臼井莊一君。
  12. 臼井莊一

    ○臼井委員 ただいま、本日の参考人としての野溝参議院議員から、イワノボ並びハバロフスクにおける状況の御報告がありました。いろいろあちらへおいでになられて御奔走された御苦労に対しては、私もお礼を申し上げるにやぶさかでない。この際厚くお礼を申し上げます。ただ今のお話の中にいろいろ問題が含まれております。逐次御質問申し上げたいと思うのですが、おもにハバロフスクの問題ですが、この訪問について、第二団長としての参考人のお話によりますと、二十一日にクレムリン宮殿で、北村第一団長からぜひハバロフスクヘやってもらいたいということを強く要望した。これは私たちも聞いておりますし、ただその前にあちらへ参りましてから、また行く前から、ハバロフスクにはぜひ行かなければならぬ、イワノボはすでに四回にも及んでいるのだからということで、ハバロフスクヘぜひ行きたいということが一同の非常に熱望したことでありました。これは当所に着いてから、すぐにあちらの当局へ申し込んだというふうにわれわれ承知しておりますが、その前に何回ぐらい申し込みましたか。その点を一つお伺いしたいと思います。
  13. 野溝勝

    野溝参考人 今、臼井さんから、特にハバロフスクに対する慰問訪問については、二十一日に北村第一団長から強く要請があったというお話でございますが、さらにその前からもわれわれは熱望してきたということでございますが、それはまことにけっこうなんでございまして、確かに二十一日も北村第一団長から話がありました。それはその通りでございます。
  14. 臼井莊一

    ○臼井委員 いや、その二十一日の前に、いつごろから何回ぐらい申し込んだか。私どもはあちらに着くと直ちにそれを数次申し込んでいるというふうに了承しているのでありますが、ただいまのお話では、帰る前の日に申し込んだというふうに承わるのですが、その点を一つお聞きしたい。
  15. 野溝勝

    野溝参考人 これは前から要要してあったかもしれませんが、あなたも御承知のように、正式の会見というのは二十一日なんです。ですから二十一日に申し込んだということは一番簡単でいいと思ったから私はさように話をしたのです。(「それはいけない」と呼ぶ者あり)いけないことも何もないのです。そういうことについて、別に私は何も否定しているのではありません。そういう経過でございます。
  16. 臼井莊一

    ○臼井委員 御否定はされておりませんが、最初のお話によると、何か出発の前の日に正式に申し込んだのではすぐ返事のしようがないじやないかというふうに聞えるのですが、それはもっと前から団員の熱望として、直接フルシチョフあるいはブルガーニン氏に申し込んだのではないけれども、あちらの正式な機関にぜひハバロフスクヘやってくれということは、団として正式に申し込んだと私は了承しているのですが、その点についてお伺いをしたい。
  17. 野溝勝

    野溝参考人 それはもうすでに幹事会においてやっておるのでございますが、そういうこまかいことはどうですかな。私は別にそれを否定しておらぬのですから……。(「大事なポイントですよ」と呼ぶ者あり)   〔穗積七郎君「それは正確に記録してあるから説明してやる」と呼ぶ〕
  18. 原健三郎

    原委員長 穗積君に発言を求めておりません。
  19. 臼井莊一

    ○臼井委員 それは私は相当重要だと思うのです。団としては、いかにも申し込みをないがしろにしていて、そして出発予定日の二十二日を控えた二十一日に初めて正式に申し込んだよう印象を与える二三は、非常に遺憾です。それは当然その前にいろいろ申し込んだ。たとえばひとりフルシチョフ氏にハバロブスクを訪問ようと申し込んだのではなく、そのほか各学者に合本いたいとか、あるいはスターリングラードは予定になかったけれども、ぜひ行きたいという申し込み、この点については、最初に最高議会、クレムリンに私たちが行ったとき向うで予定を示された。そのソ連当局の示された予定については、こちらの希望はあらためて申し込むから、できるだけ希望に沿ってもらいたいということを北村団長から明白に言ってある。そこでわれわれとしては、ハバロフスク訪問したい、スターリングラードも予定にないけれども入れてもらいたいということを申し込んで、その申し込みに従って、スターリングラードヘも行けたというふうに私どもは承知しておる。従って、ハバロフスク訪問を団として正式に申し込もうという決議をしたことを私覚えておりますので、帰る前の日の二十一日に申し込んだのだけが申し込みでなくて、その前にも申し込んだか、それを一つ伺いたい。
  20. 野溝勝

    野溝参考人 私はここじゃ強く言えませんが、もちろんその前に、たとえば見学の場所もどうしようとか、あるいは収容所を何カ所にするとか、ハバロフスクをどうしようとか、イワノボだけでなく、あそこをどうしょろというこまかいことは、幹事会において打ち合せをやってきたわけなんです。ですから、私は決してそれを否定しておりません。ただこうなった、こうなったというこまかい幹事会のことを私が一々質疑に立つことは、——幹事に聞いてもらいたい、またあなたもすでに幹事の方から聞いておるし、あなたも幹事をやられたのだから……。(臼井委員「私はやりません」と呼ぶ)いや臨時にやられたこともあります。石野さんもいるし、だから私は決して幹事会のそういう努力は否定してはおりません。ただソ同盟の最高指導者との正式の会見で申し込まれたのを、公式会見として取り上げ、私はお話ししただけであります。
  21. 臼井莊一

    ○臼井委員 私はなぜこういうことを申し上げるかというと、普通の者でもハバロフスクにぜひ行きたいということを非常に熱望していた。ところがその熱望をソ連当局がもっと早く許可をおろしてもらえば、希望がいれられた。ところがソ連当局の許可がおそくて、すでに保守党の者が北京に着いたあとでその許可がおりたというところに大きな問題がある。そこで、せめて保守党の北村団長以下の方がイルクーツクに行かれるまでに許可でもおりれば、ハバロフスク訪問ということも楽にできたのだろうというふうに思う。聞くところによると、北村団長も、いよいよ北京に向いますときにも、いまだにその許可がおりないのははなはだ遺憾であるというので、それを通訳に伝えて立ったということを聞いております。そこで私は、常にわれわれの希望というものはフルシチョフ氏に直接言わなければ効果がないので、そういることをその日に申し込んだので無理だったというように一般に印象づけるといけませんから、私はその点を明らかにしたい、こういうように考えております。しかし今の野溝参考人も、前に申し込んだということを否定されてはいないようで、ただブルガーニン首相とフルシチョフ氏にいわゆる直接に申し込んだのが二十一日である、こういうふうに解釈いたしますので、その通りであれば、私はそれで終了いたしておきます。
  22. 野溝勝

    野溝参考人 臼井さんの質問がよくわからないのですが、私はそのこととあれとは別に関係ないと思うのです。たとえば、そのときに北村君たちが先に行って、それがもしわからないということがありましても、出発前日に総会をやったんですよ。総会で、まだ許可がおりないから、許可がくるまで待とうじゃないかという意見も出たわけですから、そういう点は静かにあなたも考えてもらいたい。それもあとで幹事会の報告を願うことにいたしましょう。そうすると、その間の事情がよくわかってくる。それから臼井さんに一つ申し上げておきたいし、委員の皆さんにもこの際御理解を願いたいのですが、北村君が、もしそういう事情でどうも許可がこないから飛び出したということでございますならば、そのあとに残った方もあるのでございますから、欧州あるいは西欧方面に行かれた方もあるんだが、その方も欧州に行かないで残っていてくれればいいと思うのですよ。そういう点はかえってこちらが理解できないのでございます。
  23. 臼井莊一

    ○臼井委員 そういう点については、議論ですからこの点は……。(穗積七郎君「臼井さん、明らかにしますよ」と呼ぶ)それは明らかにしてもらう必要があると思います。この点はそのときの幹事であったわが党の方もありますし、それから北村団長にもその点を伺いましたが、二十一日前にどういう手続をとったかは、いずれ後日明瞭になるというふうに思うのであります。またその、もっと待っていればということ、その点もありましまうが、しかし、許可がおりるのかおりないのかわからないのに、荏苒と待っているわけにもいきませんし、ことに二十二日の予定というものがついているのに——それでわれわれがどうしてポーランドまで行かなかったかというと、一応二十二日で招待の予定が全部終えた。さらにもっと東欧方面にも招待してくれというような希望を社会党の方が申し込まれたいとか、したとかというお話がございましたが、しかしわれわれとしては、一応もう予定のあれを終了したのだから、さらにその上もっと招待で、どっか方々回りたいということは、これは少しエチケットにも反するしということで、とにかくわれわれは二十二日で一応は予定通り一つ終了する。しかしハバロフスクはぜひ行きたいということを、再度ですか再々度ですか、結局最後のクレムリン宮殿において北村団長から強く要望されて、フルシチョフ氏もこれについては考えよう、こういうお話であったのであります。その点については、後ほどまた何回程度当局に申し込んだかということを明らかにしていただくことにいたします。  そこで野溝参考人にお伺いしたいのです。いろいろ引き揚げてこられた方のお諸等を伺いますと、イワノボ等は別として、ハバロフスクにおいては、特に非常に待遇も悪くて、栄養失調の状態の者が相当ある、病人も相当ある。たとえばイワノボにおいてさえ、ただいま野溝さんは、ほとんど病人がないというお話でしたけれども、椎名さんという中気のような方もあるし、そのほかの方々もおられた。このような方をすみやかに帰してくれということをわれわれも当局に要望したような状態であり、血圧も相当高い人があるということをわれわれ聞いたのであります。ところがハバロフスクにおいては、この点は非常に待遇も悪くて、循環器系統や血圧が高い、こういうようなために、いわゆる栄養的に調和を得てない患者がたくさんあるというふうに聞いておるのであります。この点についてどういうふうにお感じになりましたか、もう一度一つ明瞭に伺いたいと思います。
  24. 野溝勝

    野溝参考人 最初の点を明らかにしておかなければならぬから、明らかにしておきます。二十一日で大体公式な目的が終ったというのですが、今、臼井さんの陥っしやったように、北村団長がそのくらい真剣に、ハバロフスクだけは終始一貫、慰問してきたいというのがわれわれの念願であったというのでありましたならば、最後まで努力するということでございましたから、許可のおりるまで待っていただくことが正しくはなかったでしょうか。私はむしろその点におきましては、あなた方にこちらから聞きたいくらいなんですが、私はむしろ遠慮してお答えしているくらいでございますから、十分御理解を願いたいと思う。  そこで、二十一日に許可をおろさないのが悪い、悪いといっても相手が許可をしなければだめなんでございますから、それまで私どもも実は忙しいこともありましたけれども、努力して参った次第でございますので、さような点は、御了解願いたい。  なお、これについて何回交渉したかということにつき宝ましては、穗積幹事をもって答弁させることに、この際委員長において御了解願っておきたいと思います。  それから次に、この点は臼井さんがちょっと聞き間違いじゃないでしょうか。私は、先ほどハバロフスクにおける病人は二十二、三人くらいであったと思うということを申したのでございます。この点ははっきり、一人もないとは申しませんから、御了承願いたいと思います。しかしその間一人や二人の数の間違いがあることは、お許し願いたいと思います。
  25. 臼井莊一

    ○臼井委員 いや、イワノボです。
  26. 野溝勝

    野溝参考人 イワノボにおいては、私はほとんどないということを聞きましたので、もし間違っておりましたならば、厳密なことはわかりませんから、あとで調べることにいたしたいと思います。しかし私の聞いた範囲では、そう病院も案内されませんし、そういうのもあまりないということを特に抑留者方々から聞きましたので、さよう申しました。
  27. 臼井莊一

    ○臼井委員 最初の話にばかりこだわるようですが、この点は、待っていればいいじやないかという話ですが、われわれは、到着してから申し込んだ。そのときの話に、結局ハバロフスクについては、ソ連当局はいいともいけないとも一言も言わぬというのが幹事からわれわれの受けた報告なのだ。結局外交辞令としては、返事のないのはいけないという返事だということをわれわれさえ聞いた。要するにハバロフスクへ行くということは前々から申し込んであるが、これについてはソ連当局は援助するとも何とも言わぬ。言わないことは、それを許可しないのだということに了解するより仕方がないというくらいまでわれわれは話を聞いたのでありまして、ことにイワノボ訪問のときには、非常に道が悪いので、団から代表だけ送ってくれ、こういう話だった。しかし一同の熱望もありましたので、希望者はみないいということに急にその翌晩でしたか変更になった。それで急にそれでは全部でいいということになったので、これではもうハバロフスク行きはあるいは最後までも許可しないかもしれない、結局それと引きかえにイワノボへ全部やるということの希望で置きかえられたのかもしれぬ、こういうくらいにまで私たちは話をしたくらいでありまして、その点は前から申し込んであったと了承しておりますが、その点私の考えが違えばまた別であります。  そこで、健康の問題ですが、これは非常に私は大きな問題だと思うのです。というのは、抑留者をああいうふうに置いて、国内法にかかるからということで、戦犯と称して抑留しておくということは、われわれから見れば、これは人道問題である。一つの人質ではないか、こういうことが、これは私どもばかりではなく、新聞等の論調を見ても、そういうことは書いてあるのです。従って、あそこに抑留されておる方々の健康については、われわれは非常な心配をいたしておりまして、引揚者の方が帰られると、詳細にそれらの報告をいろいろ参考人としておいでいただいて聞いておるのであります。その状況をいろいろ見ると、決してよくないよう状況であります。たとえば、これは厚生省で、舞鶴へ引き揚げてきた第三次、第四次、第五次の引揚者について調べますと、第三次、四月二十日、八十九名、ソ連地区から引き揚げてきた。そのうち三十五名が診断を受けられましたが、そのうち十五名というもの、四二%が循環器の病気であるということ、そのほか結核とかいろいろございますが、とにかく栄養に関係のある病気としての循環器の系統が四二%の十五名、第四次にいたしましても、九月二日三十六名帰られたうち、二十名診断を受けられたうちで十一名、すなわち五五%というものが循環器系統の病気である。それから第五次すなわち十二月十三日、四十三名中三十名受診されました。結局十三名が診断を受けられなかったのですが、その三十名のうちの半分、五〇%の十五名が同様に循環器系統、そのほかいろいろ脚気とか結核とか呼吸器病とか消化器とか神経系統とかいうような、眼科、婦人科までの病気の方々もほかにありますが、とにかく全体を通じて受診せられておるうちの半数近くの人が循環器系統である。この循環器病というのは、血管とか心臓が悪いとか、あるいは高血圧であるとか、こういう故障の病気で、結局ビタミンの不足とか栄養状態の欠陥から起るものであるということをわれわれは承知しておるのであります。こういう点になりますと、どうも栄養の状態がよかったということは了承できないのでありまして、また重労働に対する必要量の六割から七割くらいのカロリーしか給与されないということを私たちは聞いているのです。たとえば一日三百グラムの米を給与されているということを伺ったのですが、結局、量ばかりでなく、質の問題炉非常に悪いということは、これまた引揚者の参考人の話によってもわかるのであります。現在給与されていられる方が、それでも働いているじゃないかというけれども、これはおそらく数万人のうちから生き残った千数百名であるかもしれない。この人たちの話を聞きますと、重労働をするにはもちろん足りないけれども、もう自分たちは要領を得たから、無理な労働は避けて、ひまなときはぶらぶらしている、そうして自分のからだをできるだけ生き長らえるようにセーブしているんだ、それでもビタミンが足りない、こういうふうに言っておるのでありまして、この点につきましては、十二月十五日の当委員会におきまして、第五次引揚者を舞鶴に迎えられた大橋忠一委員が、この状態について明瞭に伝えられておるのであります。その点は私からあらためて申し上げるまでもないと思いますけれども、これらはお読みになったでございましょうか。
  28. 野溝勝

    野溝参考人 十分読みました。
  29. 臼井莊一

    ○臼井委員 まだ御承知ない方もあるかもしれませんが、この大橋忠一委員の報告によっても、「非常に病人が多く、四十三名のうち十三名の病人が埠頭に上陸されましたときは、全く痛々しい姿でありまして、われわれも胸が迫って、実は涙が出たのでございます。非常に中風の患者が多い。これは多分野菜不足から来る現象ではないか。現にソ連におられる方の中にも、これがためになくなった方もあり、また現に寝ておられる方もある。」こう言っております。それからまた当委員会において、ソ連地区から引き揚げられてきた武藤秀吉参考人も、この点を明瞭に述べられておる。「大橋委員から御報告がありましたように、現在病人がたくさんあります。その原因は、一にビタミンBの不足だということは、向うの主任軍医の報告で、皆さんに申し上げてくれという言であります。」あるいは当委員会において佐々木正制参考人も、「血圧患者が非常に多くあります。百七十以上の血圧患者は、二百名を突破しております。」こういうようなことが出ておるのであります。これらについては、参考人は承知しておりませんでしょうか。
  30. 野溝勝

    野溝参考人 私はよくは存じません。しかしこれは引き揚げの際における舞鶴の事情及び向ろの事情、ともに含んでの御意見だと思うのでございますが、御質問をされておる臼井さん自身がすでにイワノボにおいでになったのでございますから、あなたもよくその間の事情はおわかりだと思うのです。現地におきましては、私どもの目では、病人というものはなかったというふうに思っております。(「イワノボのことじゃないですよ、ハバロフスクですよ」と呼ぶ者あり)ぼつぼつお答えしますから、静かにして下さい。  それからハバロフスクにおきましては、先ほど申した通り、二十二、三人だと思います。その際に、大体この病気は心臓障害、血圧症状が多いということを言ったつもりであります。その中には、野菜が不足しておる、ビタミンも不足しておるという意見であったということも私申したはずでございます。しかし一々、長くおってそこで調べたわけではございませんから、大体聞いたところを参考にするより仕方ないと思うのであります。そういう点でございまして、しかし病床には二十二、三人の人がおっただけでございまして、病床がほかにあったかもしれませんけれども、見なかったのでございます。見たところを真実に語ったのでございまして、見た以外のことは不真実なので、答えることはできません。
  31. 臼井莊一

    ○臼井委員 ただ真実を語られるとおっしゃるけれども、世間に発表する上においては、責任をもってごらんになった以上は、よほどそういう点も慎重に考えなくちやならぬ点があるのじゃないかと思う。と申しまするのは、あちらから帰って来られた人の話を聞いても、ソ連側でいろいろやられていることが非常に演出的であるということなんです。たとえば、イワノボにおいてさえも、いろいろ相当の整備をされたということを聞いております。しかしイワノボは始終日本人が見に来ているので別ですが、ハバロフスクあたりでは、非常にそういう点が演出されたようです。東京新聞の十二月二十日の記事にも、大きく「すべてが演出だった」「訪ソ議員見学の抑留所」「重患者は二階に押込む」「外務省筋調査」「偽装の日本人墓地作る」というふうにあって、こういう点が相当演出的にやられておるということは、われわれも行くからには、よほど裏の裏まで見通してこなければ、ただ顔色を見て、興奮して、赤いからといって、あれは血色がいいというようなことだけに断定できないと思うのであります。この点について、いろいろ参考人の記事等読まれたというお話でございますが、今日におきましても、野溝さんは、やはりおれの印象の方が正しいのだ、引揚者のおっしゃることや、こういう記事はうそだというお考えであるか、どうですか。
  32. 野溝勝

    野溝参考人 これは、失礼な話でございますけれども、臼井さんも一緒に視察されたのでございますから、すなおに質問をされておるのだとは思いますが、私もすなおに申し述べておるつもりですから、お聞き取り願いたい。今申した通り、演出がどうのこうのということは、私はないとは言えないと思います。それはあるかとも存じます。しかし私どもといたしましては、やはり見たことをすなおに報告することがよいと思います。主観で決定的に報告することはどうかと思います。その点については、見ないことを見たらしく言えませんし、また誇大に発表すべきものじゃないと思います。先ほどからお話し申しました通り、私どもの見たことに対して、視察報告に対して、あるいは引揚者の方々の中には、割り切れぬものがある、ことに議員団の報告の中には、真実にその抑留者の生活を語っておらぬとして、自民党の委員方々には、割り切れぬというふうにお考えになっていると思うのですが、先ほどからくどく申した通り、どうしてみても、団長代表者意見を中心にして報告することを第一に考えている。その他のことについても、私は持ってきた書類はあからさまに出しておいたのであります。それを取る、取らぬということについては自由であります。それを取らなんだから、あるいは私たちの考え方が一方的だ、演出にいわゆるごまかされておる、ないしは惑わされておるというふうに解釈されておるのではないかと思うのですが、もしさような解釈をしておるとするならば、私の不徳であって、いたし方ないと思います。私は見たままないしは主点を申し上げるのでございますから、さよう御了承願いたい。なお、今申したように、演出をどう見ておるかというようなことでございますが、それは私といたしましては、あるともないとも言えないと言う以外には、何ともお答えできません。   〔「委員長委員長」と呼ぶ者あり〕
  33. 原健三郎

    原委員長 臼井君に発言を許しました。
  34. 臼井莊一

    ○臼井委員 それで、私がどうしてこういうことをお伺いするかというと、参考人は各地でいろいろの演説をやられ、あちらの報告もやられる、こういう立場におられる。しかも参考人団長として……。   〔「委員長委員外でも発言はできるだろう」「いや一応聞きなさい、あなたは委員外でしょう」「こらっ」「こらとは何だ、国会議員をつかまえてこらとは何だ」と呼び、発言する者多く、議場騒然〕
  35. 原健三郎

    原委員長 静粛に願います。
  36. 臼井莊一

    ○臼井委員 今言ったように、野溝さんは各地で今まで御報告されていると思う。今後もやはり各地で御報告されたり、演説をされる場合に、聞く方の身にとっては、こういう問題は非常に重大だと思うのです。というのは、日ソ交渉等も行われていて、国民感情というものがいかにあるかということは一番重要な問題で、私たちとしては、戦犯とか抑留者という問題を、人道的な問題としてこれを取り上げている。従ってこれに対して、待遇が果してあなたのおっしゃる通りよい待遇であるというようなことを一般に言うことは、少くともあなたの考えで、おれの見たところではというようなことを言っても、国民はそうは感じないのです。やはりあなたを信用されておるので、よほどその点の認識を——私は何もあなたを責めようとかなんとかいうのではないので、やはり演出的なやり方を見せられたのだから、そのまま報告するより仕方がないじゃないかというような考え方というものは、われわれがあちらへ招待され、ソ連の考え方というものはそうでないにしても、よほど裏の裏というものを考えてやらなけれ、ば、むしろ国民に対する報告において非常に申しわけない点ができるのではなかろうか、こう思います。特に政府においても栄養の点を心配いたしまして、予算を組んで、慰問品を今送りつつある状態です。また議員も、ここにおいて一つ慰問品を送ろうじゃないか、こういうときにおいては、やはり問題が非常に大きく響くのであります。ところが、香港に到着いたしましてから、十月六日付の新聞におきましても、朝日新聞の大久保特派員が香港から報道したところによると、野溝氏談として、「戦犯達の待遇は決して悪くないという印象を受けた。一日八時間労働で日曜は休日となっている、食糧は、一日米三百瓦とパンが配給されており肉、野菜、魚等の副食物も適当に配給されている様で、栄養の点は気がくばられている様だった」と、こういうような御発表をされていて、決して待遇が悪いというふうに書いておられない。しかし一方において、また同日の毎日新聞香港加藤特派員からも、野溝氏談として、「戦犯の生活として、カロリーは科学的に計算されているという事で、皆んな元気そうな顔付であるのにホットした。顔付は、普通人並でラーゲルとしては普通といってよいだろう。」こう言いながら、最後のところで、やはりあなたの印象としても、あるいは聞いたところによっても、御不安があるのでしょう。「ソ連人一般の悩みでもあるが、冬に生野菜が欠乏するのをかこっていた。食堂、調理とも清潔で、ここには罐詰等も配給があり集合所にも使われていた。」こういうふうに矛盾するお話もあるが、大体どこにおいてもそう言われておる。ことに参議院議長の河合さんに御報告したときに、何か抑留者の健康状態はよろしいというようなお話をされたというのですが、そういうお話をなさいましたか、どうですか。
  37. 野溝勝

    野溝参考人 これはあとでまたこまかいことについては、先ほど私が申し上げました通り委員長一つ幹事会における経過等についても、参考に、この際委員諸君にお話ししておくことが必要でございますから、やはり穗積幹事にあとで発言を許してもらうことを願います。  今、臼井さんから栄養上の問題についていろいろ長々と御質問があったのでございまするが、この点も、私が言うよりは、臼井さんが重々目で見てこられたのですから……。
  38. 臼井莊一

    ○臼井委員 ハバロフスクは見ませんよ。
  39. 野溝勝

    野溝参考人 大体において抑留者の待遇はいいというふうに印象づけておる、こういうようなお話でございますけれども、私はいいと決定的に申した覚えはありません。抑留者の中には、大体において今のところ飢餓に陥るようなことはないと思う。心配ない。しかし、大していいということも言えないが、どっこいどっこいというところじゃないかというような表現を私はしています。そこで、大体において、決して悪くないということは、これは、御承知の通り、悪くないと決定的に言ったのじゃないことを御了承願いたい。決して悪くないということは、大体常識的におわかり下さると思う。まあある程度だという程度を表現しておると私は思います。それからいろいろ新聞社の例を取り上げられましたけれども新聞社の例の中にも、あなた自身が申されております通り、大体において野菜の不足しておることは私は申して曲るし、さらに今申したように、何も決定的にいいということも言っておらぬのでございますから、十分御判断願えると思います。しかし、悪いというならば、私はこの前と比較しなければならぬと思うのです。私は前と比較していえば、前より少しはよくなったということを言っておる人もある。それからまた、それが決定的にいいというならば、普通の栄養分以上を与えるというようなことが保証されなければ、決定的にいいとも言えないのでございますから、私は慎重に表現をしているのだから、さように御了承願いたい。なお、私自身の表現などにつきましては、今、御意見もありました通り、この点の表現が非常にめんどう、なんでございまして、私は十分慎重にやっておるつもりでございます。
  40. 臼井莊一

    ○臼井委員 この点は、単に事象の上っつらだけをごらんになって、それで世間に発表されるということは、国民のソ通観というものに対しても非常に影響するし、外交にも相当影響する問題があると思う。たとえば、今あなたのおっしゃられたように、野菜が欠乏していたということは、要するにビタミンが足りないということなんですね。ビタミンが足りないということは、栄養の調和が得ないということになる。ただ量だけを食べさせられても、やはり血圧とか循環器系統に影響を及ぼして、非常に健康をそこねる、高血圧になるということになります。また待遇についても、われわれの調べたところにおいては相当悪いので、この点は人道問題として、すみやかにソ連から日本に帰してもらうように強く交渉する必要がある。しかも人道問題でありますから、外交問題あるいは日ソの平和条約の問題というようなことを離れてやることが必要だと思う。これを日ソの平和条約にからませてやるということは、世間でいうところの人質政策をソ連がやりつつあるのではないか。これは私は人道問題だと思う。そういう点について、現在のソ連のやりつつある政策が、人質政策であるかどうかという点について、野溝さんはどうお考えになりますか、一つお伺いしたい。
  41. 野溝勝

    野溝参考人 最初の、外交問題にも非常に重大であるから、そう軽々に発言しないようにということですが、この点は全政治家ともそろって当てはまる言葉じゃないかと思うのです。私などは見てきて言うのだからまだ直実性がある、具体性があると思うのです。見てこないで言う人こそ危険だと思うのであります。私はそういう点で、まだ見てきた者の方が具体性がある、かように自信を持っております。この点はいかがでございますか。むしろこちらからお聞きしたいぐらいでございます。  それから、今の抑留者ソ同盟の人質政策だという御意見でございますが、人質政策であるかないかということは、決定的には申されません。しかし私どもといたしましては、国交回復いたしまして、抑留者の引き揚げを強力に要請するという点については、御意見全く同感でございます。
  42. 臼井莊一

    ○臼井委員 ただいまお尋ねがあるから申し上げるのですが、私は見てきてなくて自分の意見を申し上げるのではなくて、単に見てきたどころではない、十年間もあちらで体験をされて、生死の間を坊律して、やっと生き残って帰ってこられた、まことに御同情にたえないその参考人意見を私は言うのでありますから、決して私はこう思うのだというのではない。参考人の武藤さんにしても、みなはっきりそう言っている。それをあなたが、待遇がよくないことをそうおっしやるならば、言いたいが、武藤参考人がここでおっしゃったことは、現在病人がたくさんあります、その原因は、一にビタミンBの不足だということは向うの軍医云々、しかし「わかもと」とかなんとかいう薬は送ってもらっても取り上げてしまう、薬という名がつけばみな取り上げる、ハバロフスクではビタミンを送ってきてさえも取り上げるということなんです。それで当委員会では、これは大きな問題であるというので取り上げて、政府にも要望いたしまして、今度はたしか、お菓子にしなくても、ビタミンであれば送れるというふうになったということを聞いたのであります。栄養剤さえ取り上げるというようなことで、取り上げても、よくテストして大丈夫だということがわかったら、これをまた抑留者に渡すのであればこれはよろしいのですが、そういうことをしないということ、これは私は決して待遇がいいということは言えないと思う。これは何も私が独断的に、単なる色めがねでソ連を見て言うのでなくて、引揚者の方がおっしゃるのです。これは長い間抑留された方が本委員会でみな言っておる。いつでも委員会で問題になる。ですから、これは単なる私のあれではなくて、むしろ上っつらをごらんになったのは、そう申しては失礼でありますが野溝さんの方です。わずか二時間か二時間半の御観察よりは、信用しなければならぬというので、むしろ野溝さんにお考え願いたいということを申し上げる。  それから、人質政策の問題については、私はことさらこれを人質と言いたくないのですが、ソ連が平和条約、戦争終結にひっかけてこれを帰さないということは、われわれ炉、これは人道問題だし、一方的にソ連からしかけられた戦争であるから、すみやかに帰して、もし罪があるならば、他の国でもやっているように、国内においてこれを調べる、また巣鴨へでも一時入っていただくこともできるのに、向うへ留置したままで、平和条約が締結できなければ帰さないのだ、こういうことは、どうしても人情的には一番弱いところの肉親の情において、国内に早く帰せ帰せ、平和条約あるいは領土問題などどうでもいいじゃないか、早く帰せ、そういうあれを沸き立たせて、平和条約の一つの取引の具にしておるのではないかというふうに私は一つの大きな疑惑を持っておる。この疑惑を、むしろソ連として、今回だいぶスターリンに対して反省されたように、日本との今度の戦争に対して反省して——日本が中立条約を守っておる際に、しかもうしろから襲いかかってきたソ連のこの不信的な行動に対して、スターリンに対して反省するよりも、私はこの日本に対する今度の戦争に対して、ソ連は反省すべきだと思う。幸いにしてその反省をされたら、それとの平和条約、将来お互いに仲よくしていこうということには、われわれ賛成でありますから、それならまず日本気持をなだめるために、人道問題であるこの抑留者をまず帰して、そうして日本気持もやわらいで、こういう感情の摩擦のないようにしてから、具体的の問題について話し合ったっていいと思う。それを領土問題にひっかけて、あるいは漁業問題にひっかけて、平和条約が締結できなければ——平和、平和と言うけれども、われわれは手を握りたいと思っている。しかしこれには前提条件がある。そういう点から見ると、どうも私はこの点は、昨年九月二十三日の時事新聞の夕刊にも「ソ連の人質政策、共産国に人道はないのか」というのですが、これは時間がありませんから、私は読み上げませんが、新聞だって堂々と取り上げているのです。われわれ政治家としては、やはりそういう国民の気持を取り上げて、率直に対処していかなければならぬというので、はなはだ失礼な言でありますけれども、その点を申し上げたので、野溝さんが人質政策でないとおっしゃられるのならば、これは見解の相違で仕方がありませんけれども、これらをるる申し上げればいろいろな点があって、私はどうもそういう点については野溝さんと見解を異にしています。  そこで先般当委員会に出されました手紙が、いまだに正式には発表されていないようでありますが、この機会に一つ委員長はその手紙の全文を朗読されて、御発表をお願いいたします。
  43. 野溝勝

    野溝参考人 この点は、臼井さん聞き間違えないようにお願いしておきたいと思います。抑留者の真実性の問題については、私は武藤さんなりあるいは佐々木さんなりの陳述を対象にして申し上げたのではないのでございます。それらの方々は、やはりそれらの方々としての経験の上から、いろいろのことを話されたのでございますから、その中には真実があると思うのでございます。しかしまた、見方によっては、私と少し違うところもあるのでございます。しかし私はそれは否定しておりません。けれども、私の言うのは、いわばそういう経験や見たことのない人よりは、見てきた者の方が十分その間はわかるのではないかという意見を申し上げたのであります。それから人質政策について私が肯定しているかのごとく言われておりますが、私は肯定も否定もいたしません。そういう点につきましては、私どもといたしましては、まだそういうことが人質であるかないかということにつきましては、具体的にここでまだ突き詰めて結論を出しておりません。そういう点を申し上げたのであります。
  44. 原健三郎

    原委員長 ただいま臼井君から、本委員会に提出された野溝団長に委託された手紙でありますがそれを委員会に提出されたのをもとにして印刷にしてありますから、読み上げる煩を省いて一つごらんいただきます。
  45. 臼井莊一

    ○臼井委員 朗読は省略しましても、これは一つ速記録に記録をとどめていただきたいと思いますから、この点を一つお願いいたします。
  46. 原健三郎

    原委員長 御希望ならとどめましょう。
  47. 木村文男

    ○木村(文)委員 私は野溝参考人に……。(「議事進行、議事進行」と呼ぶ者あり)発言中だ。許可を得たのだ。発言中だ。野溝参考人は、国会議員の代表として訪ソせられ、そしてその主要目的として、ただいまの参考人の陳述にもございました通り、四つの重要な項目をあげておられますが、そのうちの特に当委員会に最も関係の深い抑留者の問題についてお取り上げになっていただいたことは、私の大へん意を得たことでありまして、国民の代表として、そこまで心を配られて、直接ハバロフスクあるいはイワノボ等を御訪問、御視察あるいは御慰問等をしていただきましたことを、衷心から敬意と感謝を申し上げます。さて、私が主としてただいまからお尋ねをいたしますことは、ハバロフスクをたずねられた際における状況、あるいはその後における団長としての参考人がどういうような処置をとられたかということにつきまして、巷間伝えられるところによりますと、非常に疑惑をもって見られる点があるし、また誤解を受けている点もあるやに考えられる点もでございますし、この点につきましては、先ほど参考人が非常に心痛せられて、誤解誤解という言葉を幾たびか使われて、その誤解を解こうと努力なすっておることも私はうかがえたのであります。従いまして、何とかして当委員会を通じまして、しかも長い間国会議員の席を持ち、しかも社会党としては重鎮であるところの立場におられる野溝さんのことでもありますし、せっかくの御希望でもあるように考えられますので、私はその誤解を解きたい。そしてまた留守家族方々にも、全国民にも、あるいはまたハバロフスクにあるいはイワノボに、その他の各地に抑留せられておるところの人々にも、その疑惑を解いてやろうという気持で、私は率直なるお尋ねをいたしたいと思います。従いまして、あるいは敬意を失するような言辞もあるかもしれません。その点は一つ前もって御了承願っておきたいと思います。時間もございませんので、便宜上、私は一問一答の形で行いたいと思います。明瞭にお答えを願いたいと思います。まず第一にお伺いしたいのは、訪ソ議員団のうちの、あなたの傘下にあるところの、ハバロフスク訪問せられた議員団は、抑留者方々からどんな御依頼を受けられてきたかということをお伺いしたい。
  48. 野溝勝

    野溝参考人 御依頼といいますか、先ほど申したような点に対してでございます。繰り返し申すようでございますが、たとえば遺髪、遺骨それから今申しましたよう名刺あるいは手紙、それらでございます。
  49. 木村文男

    ○木村(文)委員 ただいまの参考人お答えによりますと、手紙、遺骨であるというようなお話でございましたが、その手紙、文書等のうちで、個人あてのものを除いて、議員あての、一般公的に託されたものはどれくらいございますか。
  50. 野溝勝

    野溝参考人 一般公的とは何のことでございますか。よくわかりません。
  51. 木村文男

    ○木村(文)委員 私の一般公的と言うのは、たとえば、個人々々にあて手紙でなくて、木村文男というよう個人あて手紙でなく、たとえて申しますと、ただいま配られた日本議員団各位殿とか、あるいは日本青年に告ぐとかいうような公的な意味を持つ、大きな大衆を相手に、あるいは国を相手に、議員団長といったような公的な意味にとられるようなものは、どのくらいお預かりになったか。
  52. 野溝勝

    野溝参考人 それは先ほど申し上げました通り、大体五、六通でございまして、すでに援護局、引揚者の関係の方に出してあります。それからいま一つ申し上げますが、ここで木村さんに御理解願っておきたいのは、議員団といっても、いわば私ども訪ソ議員団という解釈でこれを考えている場合もありまし、またその解釈によっては、公にも発表すべきものだと思うようなものもありますならば、それは公に発表します。さもないようなものは、私はいつ何時でも見ていただくように、自分の部屋に置いて公開しています。
  53. 木村文男

    ○木村(文)委員 ただいまの参考人のお話によりますと、また先ほどの冒頭における参考人の御説明によりましてもうかがわれるのでございますが、どうもそこは私と意見の相違があると思います。つまり、野溝参考人が考えております託されたものは、それは自分の責任である、そしてその取扱については、自分の自由であるというように聞き取れるのでございますが、私ははなはだそれは不本意なお考えだと思う。なぜ私がそう申し上げますかというと、そもそもあなたが訪ソされたそれ自体の資格というものは、招待されたには違いございませんけれども、これはまた一面からいうと、国会議員として、両院の議長から委嘱されて、国会を代表しての訪ソであると私は考えますが、そうでなかったんでありますか。
  54. 野溝勝

    野溝参考人 今、木村さんのお話でありますが、私は自分でどうでも処理していいというようには考えておりません。私は国会議員団として訪問した。議員団長として扱うべきものであるというふうに解釈したものもありますし、あるいはそういう解釈ができなくて、むしろこれは一般的に公開すべきものであるというふうに解釈したのもあります。いずれにいたしましても、そういう解釈はありますが、それにしてもオープンがよろしいというわけでございまして、一つでも秘密にしたことはありません。新聞記者が来られた場合は、これを見て下さい、これだけのものを預かってきております、また政治家が来た場合には、これこれのものを預かっております、見て下さいというふうにしております。それから第二の点につきましては、議長との関係などの話がございました。議員団長としての資格の点についての御意見がございましたし、先ほど臼井さんから議長との関係云々という話がありましたが、私はそういう点につきましては、国会議員団で行ったのでございますから、議長に対しましては報告もしておりますし、なお議長に対しましては、敬意を表していることは間違いございません。
  55. 木村文男

    ○木村(文)委員 そこで私は野溝参考人にお尋ねしたいのでありますが、あなたは、第五次の引揚者からの報告によりますと、今、委員長から配られました、あなたが託されて参りました書類でございますが、たとえば、千葉市の荒巻忠泰君などからそれぞれ、日本代議士殿、議員団長殿宛、議員各位殿、祖国日本議員団の皆様へ、日本青年に告ぐ、視察官殿、日本国訪ソ国会議員団各位などというような文書がございますし、またこのうちで、あなたの方から御提出になっておるのもございますが、これらのものについては、あなたは公的であると考えませんか。
  56. 野溝勝

    野溝参考人 木村さん、私はこれらに対しては、一応新聞記者の方々に公開しておりますし、すでに提出しておるのでございますから、その当時はそれでよかったと思っていた。それから特に必要なものでありましたならば、前にそれぞれ政府関係に提出したのでございますから、それは委員会において当然取り上げてしかるべきものだと思っております。
  57. 木村文男

    ○木村(文)委員 発表の仕方はいろいろの方法があると今の参考人からのお話でございますが、その取扱いにつきましては、私は公的な立場において行き、そして公的な立場において委託され、そしてそれの発表——後ほど私はまた再び申し上げますが、その中には、たとえば高知県出身の田村義彦氏の文書の中には、明瞭に、「祖国の皆様へお伝へ下さい」、こう書いてある。あるいはまた安井武雄氏のごときは、「日本青年に告ぐ」というような、こういう日本青年全部を相手にしてのものがあり、また「一日本人より」として、匿名のもとに、帰国後御記憶にとどめて今後の御善処を伏願するなどというよろたもの、全日本の同胞の真心に外し泣いて喜ぶと書いてあるものもある。こういうようなことを私は考えますると、その発表の仕方は、ただ単にあなたが先ほどからおっしやるように、たとえば、置いておいてこれを発表したとか、週報に、出ているのがまず発表した証拠であるとかいうようなことでなく、団長としては、まず第一に議長にこういう重大な託された書類については報告しなければならぬということが一つある。のみならず、直ちに当委員会のごとき機関を通じ、あるいは国会の本会議の発言を求めて、これを国民に、議場を通して発表するというようなことを当然取り計らわなければならぬと考えますが、あなたの考えはどうでしょう。
  58. 野溝勝

    野溝参考人 先ほどからお答えした通り、数多い中ですから、大体坂間さんが代表として意見を中心にしてやってきた。あとの一千名近くの人々が個人的に言ったのを、一々どういうふうに取り扱っていくかということについては、なかなか私は判断ができかねるものでございますから、私は公開主義を選んできたのでございます。正式に向うの代表からこれをどうしてくれろという文書ならば、私も正式に議長に届けますけれども、さもないものに対しましては、口頭をもって言う程度以外にはできないのでございます。なおそういう点で慎重を期して、政府の方へも預かった文書を出したわけでございます。さよう御了承を願いたいと存じます。
  59. 木村文男

    ○木村(文)委員 厚生省等に出したと言いますが、私の調査によりますと、あなたは、名簿は提出していますけれども、それも一たん断わって、その後名簿を提出しています。これらの書類は、提出の要求があっても提出してない。私の調査ではそうなっておりますが、どうなっておりますか。
  60. 野溝勝

    野溝参考人 それはまことに心外な話でございます。私が先ほども申しました通り、田島君ですか瀬戸君ですか知りませんが、あの雑踏の中で新聞記者と懇談しているときに、しかも留守家族の人も来ているのですから、それらの方とその名簿を引き合せて話をしなければなりません、その最中に名簿を貸してくれと言うのは非常識だと思うのです。しかしそれでも私は落ちついて、あとですぐあなたにお渡ししますからと言っておきました。今お断わりしたというお言葉でございますが、それは取り消していただきたいと思います。それから木村さんから、厚生省でなくて、ほかのものに対して発表することも避けているらしく考えているようなお話でございましたが、さようなことは絶対ございません。
  61. 木村文男

    ○木村(文)委員 私の調査によりますと、あなたの秘書に対してもこれをお願いしてある、それを断わられている事実がある。現に厚生省の枢要な人が——後ほどこれははっきりいたしますけれども名簿はもらいましたが、手紙等のものはちょうだいをいたしておりませんと言っている。私の調査によりますと、そうなっております。これはいずれ委員長を通して、本人を証人として後ほど呼んでいただくように手配をしてもらいたいと思っておりますから、その際御対決を願いたいと思います。  それからあなたは羽田空港発表したと言われる。またあなたの方の戸叶委員香港でも発表したと言われておる。ところがその発表は、私の調査によると、正式な、公的な発表をしていないと思われます。この重大な、当委員会に出した五通でさえも、正式にこれを発表しておるかどうか。先ほどのあなたの御説明によりますと、記者会見によって、口頭で、あるいはその後事務員ですか、書記ですかに預けたというようなお話もございましたが、正式な団長としての立場においての発表の仕方は、私はしてないと思う。このことについては、あなたもお手元にお持ちのようでありますが、日本週報の三百六十一号ですか、記者がはっきりあなたは発表しておりませんと書いておりますが、この点についての御見解を伺いたい。
  62. 野溝勝

    野溝参考人 私は公開するというのは、新聞記者会見というのが一番公開のものだと思っております。この専情については、一時間でも早く知らせたいという気持でやったのでございまして、その内容について取材をどうするかということについては、新聞社の考えでございますので、何ともいたし方がありません。なお公開の席上というその公開をどういうように考えるかという御意見でございますが、私は何でも早く知らせるということが一番よろしいと考えておりましたので、さような処置をとりました。今申しましたように、実際のことを申しますると、木村さん、なかなかせわしい中に整理したり物を届けたり遺族会見したりしている時間は——われわれ議員は寸暇もない、てんてこ舞いで、一分一秒を争って努力しておったわけでございますから、あるいは少しの技術的な不足があるかもしれません。しかしそういう点は常識でございますから、どうぞ御了承願いたいと思います。
  63. 木村文男

    ○木村(文)委員 私は団長の御心労もみなわかります。お手紙の御整理のことも、何千通もあったろうと思いますし、よくわかります。しかし、そのうちであなたが最後までお持ちになっており、今われわれに配られた原稿、これだけの重要なことをお預かりになってきて、それを公的に、つまりあなたがこれを発表しないで、ただ口頭で、あるいはあなたの演説でそれが発表だとお考えになるということはどうかと思う。記者会見をやっても、これだけを抜き出して、特に国民に知らせてくれという血の叫びをあなたがお考えになったら、日本の国会を代表し、両院議長の委嘱を受けて、あなたも取り上げたこの施設慰問あるいはそういう使命の四つの重要な一項目として取り上げている項目にこたえた姿を、国民大衆あるいは国会に報告しないで、団長としての任務が果されたと思うかどうか。私はほんとうから言うと、はなはだ失礼でございますが、むしろこれを責めたい。あと個人のものは、少しくらい調査のためにおそくなってもいい。こういう重大な国民的な血の叫び、国民の訴えをわれわれに提出しない。国会の機関にも提出しない。どのくらい忙しいおからだか知らないが、当委員会の開会を要求してまでも、この機関を通じて国民に報告する義務があると思いますが、その点を伺いたい。
  64. 野溝勝

    野溝参考人 これは非常に重大問題でありまして、私はむしろ感謝こそされ、さような言説は心外と思う。木村さんの発言の真意はどこにあって、発言されているのですか。先ほどは私に感謝したかと思うと、今また責めたいと言うのはどういう意味か、さっぱりわからない。私あてにだけでも、訪問慰問されてうれしいという感謝の手紙が、留守及び遺家族の方からも何百通も、これだけ来て詰ります。これは私の分だけに来たものでありますが、あとで見て下さい。訪問慰問しただけでさえも非常な感謝を受けておるのでありまして、せっかく苦労を冒して目的を達してきたのに、何ぞや、あなた方保守議員の方は早く帰った。私どもは忙しくて、社会党の統一を前に控えて非常に重大な問題があるけれども、この主目的を果さなければ帰らないという悲壮な決意でこれにこたえて参ったのであります。私はそういう意味において、真剣にこの目的を果すために努力して参りました。そういうわけでありますから、この預かった文書を隠そうという気持などは毛頭ありません。そんなけちな気持は持ちません。ただあなたのおっしゃるように、その間なぜこれを国会に発表しなかったかということについては、国会に発表した方がよいと思いましたけれども、当時は休会中でありましたので、その他の方法をとった。今申したように、新聞記者に一番先に発表したのです、新聞記者がどこをどう扱うかそれは知らぬが、特に新聞記者に聞かれた中心は、日ソ交渉経過、特にブルガーニン、フルシチョフ氏と会ったことの経過日本経済の実情の問題、留年家族等の状況の問題、あるいは教育民主化問題等についておもに聞かれたということを主に話しました。そのほかに今のような話もしたのであります。そこで、それをどう取り上げるか取り上げないかは、新聞記者諸君の見解によることであります。私は早く発表した方が一般的にわかるという意味で発表したのであります。それがために、特に山口書記は、一晩じゅう寝ないで、新聞記者との会見補足をさせたのであります。そのとき問題になっている文書も出しておったのでありますから、さよう御了承願いたいと存じます。
  65. 木村文男

    ○木村(文)委員 私は冒頭においてあなたに敬意を表した。これはほんとうに私はあなたに敬意を表しました。それは訪問してくれた、慰問してくれたそのことそれ自体であります。そのあとの始末については、国家的な立場から考えなければならぬような文書の委託を受けながら、その発表の仕方についてのあなたのおとりになった点について、お責め申し上げておるのです。それだけではない。たとえば、そのときさえこういうことをあなたに抑留者諸君が言われておると思う。ここにはかって日本のために協力したことによってというわけで、朝鮮人あるいは中国人あるいはまたその他の第三国人がおるから、これを一日も早く帰すように努力してほしいというようなことまで、あなたにことずけてある。そういうようなことも、あなたは団長として、国家的な意味においても善処する重要な責任があると思う。この問題についても、どういうふうにしてあなたは御努力な、されたか、それをお聞きしたい。
  66. 野溝勝

    野溝参考人 それにつきましては、事務的なことでありますから、穗積君から一つ答えてもらうことにいたしたいと思います。
  67. 穗積七郎

    穗積七郎君 きょうは引揚特別委員会諸君が、熱心に、在ソ同胞抑留者のことについて調査をされることにまず敬意を表しておきます。それからわれわれが非常に疲れた中を、昼夜を分たず、二昼夜飛行機で飛んで、朝の四時に着いて面会をして、しかも向う許可は二時間ということだったが、私は幹事をしておりましたから、特にあと府県別の面会まで言って、そのために約三十分延ばしてもらった。それですぐまた飛行場にかけつけて帰ってきたわけであります。そのことを感謝されたことに対して、一応お礼を申し上げます。そこできょうの委員会目的は、今まで明らかになっていなかったことをぜひ明らかにしたいということでしょうから、どうぞ一つ都合の悪いことは答えさせないというようなことはしないで、さっきから質問のあった点、まだ未答弁の問題について、順を追うて明らかにしていきたいと思います。(木村(文)委員委員長許可したのは、野溝君の言った点だけだ」と呼び、その他発言する者多し)木村さん、ちょっと聞きなさい。(木村(文)委員「これは団長としてのそれを聞きたいんだ。だからあなたが補足するんなら、団長の言われたことに対してのみ説明して下さい。」と呼び、発言する者多し)補足して説明するから聞きなさい。そして私は、事実をありのままに正確に発表する。そうすれば、あなたが余分な質問をしなくても済むようになる。もう、時間は午後一時を過ぎている。だから今まで疑問として残っている点について、具体的にお答えをいたします。  まず第一に、さっき臼井さんが疑問とされた点について、事実を申し上げておきます。
  68. 原健三郎

    原委員長 なるべく簡単に願います。
  69. 穗積七郎

    穗積七郎君 簡単明瞭だ。よく聞いておきなさいよ。われわれは、臼井さんも御承知の通り、ヴォルコフ、ラツイス両議長の招待で向うに行ったわけなんです。従って、向うの受け入れ機関は、ソビエト最高会議ですから、われわれの要望なりあるいは手続なり日程なりにつきましては、すべてその最高会議の事務局の責任者であったドーミン君を通じて話をしたわけです。それでわれわれが着きましたのが九月二日の午後二時ごろで、すぐ四時ごろからクレムリンで両議長がお迎えの会をしたいから、来てもらいたいということで行った。そのとき両議長から、あなた方がおいでになって感謝いたします、そして、このことは両国の友好親善のためと、懸案問題解決のために有益だと思うから十分話し合いをしてみたいし、見てもらいたい、ついてはあなた方はお客さんですから、お見えになってから日程を組むべきだが、そうしておると数日を空費することになるから、あらかじめこちらで日程を組んでおきました、これは最後的決定ではなく、お客さんの御希望があれば、それをくんで修正しますというあいさつがあった。私は必要なことだけを説明いたします。それがすべてのあいさつではない。それからハバロフスク訪問の申し込みなんですが、日程を見ると、さっきあなたがおっしゃったように、われわれの希望するところの収容所等の視察日程が入っていない。ハバロフスクその他に、われわれは出発前に幹事会で案を練って、会いたい人、見たいところ、訪問したいところは全部文書で送っておったのにもかかわらず、それが出ておらなかった。それでわれわれは、九月二日夕方に着いて、すぐ私は個人としてドーミンにその意思を申しました。収容所をぜひ訪問させてもらいたい、これは日本国民の熱なる希望であるから全員行きたいという話をした。それで明けて三日の日に幹事会の決定として、正式に両団長の了承を得て、ドーミン氏に日程について打ち合せをしたいから来ていただきたいということで、稲葉秀三君が当日の当番幹事でしたから、稲葉君の部屋へ他の幹事全部四人が集まってドーミン氏を呼んで、そこで正式に申し入れをしたのです。これは九月三日のことです。そうしたら、それはよくわかりました、そこで念のためお尋ねいたしますが、第一、イワノボ訪問は、貴国の訪問者の方は多数行っておられる、そしてこれは全部自動車で行かなければなりませんが、そういうことだから全部いらっしゃいますか、あるいは少数の代表だけいらっしゃいますかと、う質問があった。そのときに、当時自由党の幹事であった伊藤君、民主党の幹事であった稻葉君等が、それでは三十八人、随員を入れて四十二人全部行きますと言った。距離はモスクワ郊外といいますが、大体距離をはかってみますと、イワノボまで約東京から名古屋の先あたりまでありますが、それを自動車で飛んで、しかも途中で自動車を乗りかえて行かなければならぬ。これは南原総長が前に行かれて、その間の事情をよく言っておるが、これは迷惑だから少数にしたらどうだ、しかもあなた方の政党である深川タマエさんが、実は最後に病気で行かなかったが、そういうからだの悪い人とか、他に視察の希望のある人もいるから、イワノボだけは代表ではどうだという発言をドーミンにされた。私はそれはいかぬと即座に言った。ちょっと見苦しかったが、それは全員希望しておりますと言って、すぐ稲葉君に耳打ちをして、引き揚げ問題というのは国民の熱烈なる要望だということを向う印象づけるために、せっかく日程に載っていないイワノボハバロフスク訪問を要求しておいて、全員行かぬで代表だけで行けばいいということは、口では言っておるけれども、国民の引き揚げ問題に対する熱意を疑われるから、迷惑でも何でも全員行こう、あっちではちゃんとお客さんの欲することは何でもやると言うのだから、そのかわりに、向う諸君が来たときには、向うの要望通りに日程を組んでお迎えしたらいいじゃないか、そんなことを遠慮する必要はないと稻葉君に耳打ちした。稲葉君が伊藤君に耳打ちをして、伊藤君が山田君に耳打ちをして、そこでぐずぐず言っておったが、全員参ります、だから自動車もその配車をしてもらいたいということでやった。それが九月三日のことです。それからわれわれは御承知の通りレニングラードに参りました。レニングラードから帰ったのが九月八日、明けて九日に再び結果を聞いた。われわれの要望である視察または訪問の箇所の許可はおりましたか、おりていなかったら督促してもらいたい、これはわれわれの熱なる要望であるから、初めから文書で出した通りである、途中で思いついた訪問じゃないのだということで、九月九日に正式に幹事会を通じてまた申し入れました。これが第二回。ところがまだ返事がありません。その日の晩に飛行機でスターリングラード地区並びにウクライナ、コーカサス地区に立ってもらいたいということであったから、それでは立ちましょう、立ちますが、われわれは国会諸君の招待であるが、政府の代表と両国の懸案の問題についてぜひ話し合いたい、収容所訪問は欠くことのできないわれわれの視察要望であるから、ぜひともいれてもらいたいということを重ねて強く要望して、スターリングラード地区に立った。帰ったのが九月十七日の晩です。明けて十八日に再び正式な幹事会において、これはすべて団を代表する意見として言っておりますが、両団長の強い熱意もありましたから、そういう意味で重ねて要望したわけです。それでもなおかつまだ返事がこない。そうしてさきに言ったように、前日の十九日の日になって、あしたの八時からイワノボに行ってもらうことになりました、ですから全員御用意下さい、全員いらっしゃいますかと言ったら、あなたの党の深川タマエさんは、私はちょっとからだの工合が悪いからやめるといっておやめになったから、私が、一人でも欠けては日本人の引き揚げ問題に対する熱意が疑われると思って、ドーミン君にすぐ、深川さんの行かないのは不熱心のためじゃない、病気のためだから誤解してもらいたくないということを申し入れた。だかう自動車は四十二人全部乗れるような配車をしてもらって行ってきた。帰ってきたのはあくる日、朝八時にモスコーのホテルを立って夕方の五時半に着いた。それから一時間半の面会をして七時に終って、それから三十分で食事を終えて、すぐ自動車で引き返して、夜明けの四時半ごろモスクワのホテルに帰った。帰ってからすぐ、私がうとうとする間もなく、朝の八時ごろドーミンがやって参りまして、幹事会を開いてもらいたい、申しげ上げたいことがあります、本日お昼にクレムリンにおいてフルシチョフ、ブルガーニン氏と会談をしていただくことになりましたから、御用意下さいと言ったから、そこですぐどういう話をするかということで幹事会を開いた。それについては、さっきのハバロフスク訪問についての問題がありますから申しげ上げますが、この場合においては、幹事会においてわれわれが今まで希望したことについて話し合いの日程も出てこない、また収容所訪問向うが言ってこない。これはさっき臼井さんが言われたように、黙して語らずということは拒絶の返事じゃないか、これは外国のエチケットを知っておられるような方がそういう推測をせられた。私はそんなばかなことを言うな、われわれは招かれてきたんだ、だてや酔狂で見物にきたのではない。ハバロフスク訪問と引き揚げ問題を、フルシチョフ、ブルガーニンあるいはその他の名前もずっと書いてあるけれども、モロトフは当時アメリカへ行っておったから会えなんだが、貿易大臣、漁業大臣、内務大臣、赤十字社の社長、これが急務じゃないか、お客さんを呼んでおいて、主人が最初の日に、日程については御希望通りにいたしますから十分やってもらいたいと言っておったにかかわらず、そんなことを言うなら、一日でも二日でもすわり込んでおれ——われわれと相前後して久原房之助氏が北京に行っておった。ところが久原房之助氏は、周恩来、毛沢東に会うまではおれは帰らぬと言ってすわり込んでおった。そのくらいの心臓でいこうと言ったら、実はあなたの方の稲葉修君や伊藤郷一君が反対した。それに山田節男君は社会党でありますが、オックスフォードかケンブリッジで学んだ人で、それは穗積君ちょっと悪いと言うから、いや悪くない、われわれは国民の輿望を体してきたのだから、留守家族に対しても、国会に対しても、国民に対しても、そういうことを要望するのは当然だ、何を言うのかとがんばって、そこで私はこれはぜひきょうの会見の中で、強く、断固要望として言ってもらうか、ここであきらめるかどうかという分岐点に立ったのが九月十八日のことです。そこで私は強く要望しておいて、あくる目になってイワノボ訪問から帰ってきたら、会見の通知があった。それで会見内容として話すことについて、われわれはこちらから五つの問題を出しておきました。第一は領土問題、第二は漁業の問題、第三は貿易の問題、第四は引き揚げの問題、第五は国連加監の問題、さらに時間があったら文化協定の問題について話し合いをしたい。これは私が文書に書いてドーミンに通告しておきました。それは九月三日のことです。そこでもし貴国の指導者がわれわれとこのほかの問題について話し合いたかったら、勝手に議題に追加してもらって差しつかえない、われわれは十分その問題についても、あなた方の方の提案される議題についても話し合いをする用意を持っておるから、あなた方の方もわれわれの要望について話し合いしてもらいたい、そういうことだった。それから収容所のことについてもそうだ。会見の通告があった。そこでわれわれは幹事会を開いて、そこで五つの問題について話をしよう、それについては政府代表の交渉団ではないから、国民の意見をそのまま反映することが必要だということで、そこで各党から一つの問題について一人ずつ代表的に話したらどうだ、三十八人がばらばらに発言してはみっともなくなるから、あらかじめ打ち合せておいて、話をしたらどうだという意見を出した。そうしたら保守党のあなた方の幹事さん諸君は全部反対された。それはいかぬ、そういうことでなくて、団長にのみ発言してもらおうという意見だったが、私はそれはいかぬと強引に言ったので、幹事会は十一時ごろでありましたが、すぐホテルで議員総会を招集いたしました。そこでその案を提案いたしましたら、与党の方が多数反対されて、実は私の提案は葬られて、両団長のみ発言するという取りきめになった。問題は何かといえば、こちらから提示した五つの問題、さらに時間があったら文化協定、しかしながら向うの時間の通告は約四十分ないし五十分という通告であったから、そこでその議員総会で緊急動議を出して、これに追加して言ってもらいたいことは、ハバロフスク訪問をどうするか、ここであきらめるのか、強く要呈するのか。実は何回臼井さんが申し入れたかと言ったが、幹事会、団長了承の上、団を代表して正式に申し入れしたのは、さっき言った日付の三回でございます。二十一日会見前に申し入れたのは三回でございますが、実は私はあらゆる機会に、それこそ記憶にないくらい幾たびか、団長の了解を得てドーミンに申し入れしてあります。それから、御承知の通り、外務省は、これは議会だけではいかぬ、収容所の問題は政府の所管であるというので、外務省はズーザ君にも申し上げるということであった。ところが返事がないから、そこで実は議員総会で緊急動議を出して、それでこの問題については最後に北村団長が団を代表して、北村個人ではない、団を代表して、全員の強い熱意でございますと言って通告した。討議の問題以外に、最後にこのことについては、強く一つフルシチョフ、ブルガーニンに主張しょう、こういうことになった。皆さんの中には、われわれが伺うと、実は社会党のみ行ったことが云々というふうにおっしゃっておられるが、実は事情はこういうことです。そうして私は二十一日の会見を終って……。(発言する者あり)なぜ聞かないんだ、人を呼んでおいて。重復したことは言いません。そこで、その申し入れをして、そのとき初めて、われわれは国会を通じてやるべきやつを、それを私はドーミンにも了解を得ておいた。礼儀上ですよ。国会を通じて政府へ要望すべきで、全部今までの伝達はそうだった。政府との面会も、国会を通じてきた。われわれの受け入れ団体が国会ですから。それで貿易大臣、漁業大臣、赤十字社社長というようなのも全部国会を通じて返事をした。ところがこの場合は、礼儀に反するかもしれませんがドーミンに断わって、直接政府当局の責任者に話してみよう、これに対する向う側の返事した態度は、引き揚げ問題に対するソ連側の態度を判断する有力な材料になるという判断をして、実はそのことを申し入れた。そうしたら、そのときには、御承知の通り速記にも残っておりますが、その問題についてはわれわれも、イワノボだけでなく、ハバロフスクへ行く熱意についてはよくわかりますが、その所管は内務大臣がやっておりますから、最後的な確答はいたしませんが、内務大臣と打ち合せて、御希望に沿うように努力したいと思うと言う。そこでわれわれも可能なりという判断をした。よく聞いて下さい、可能なりという判断をしたんですよ。そこでその言葉をどうとるかが問題だ。北村さんがそれをどう解釈されるか問題だ。われわれの政治的直感は、これは可能性があると判断した。それですわり込んでおれというのが私の方針だった。そこですぐ幹事会を開いて、ぜひこれは待っていよう、大丈夫だ、二、三日知らぬ顔をして、その返事があるまで待ちましょうといって申し入れたのだが、それを振り切るようにして、あくる日、二十二日に北村団長外全部お帰りになってしまった。われわれは実はまだ残った問題がありました。残った問題が討議の中であった。特にさっき言ったような方式で、両団長のみが短かい時間で話をするということで、あの会見では日本側が言い足りないという印象を私も持ちましたから、これはこのままで帰っちゃいかぬ、モロトフ、フルシチョフ、少くともこの先生らには、もっとわれわれの真実のこまかい要望も伝えておかなければいかぬというので、そういうことで実は考えておった。そこでポーランド行きのことについて、私は実は日をかせぐ意味でポーランドへ行ったのです。ポーランドへ行ったのは、こっちの希望ではありません。ポーランド大使館から、われわれに対してぜひ来てもらいたいという要望があって、そこで北村団長了承の上で行った。二日間滞在して帰ってきたら、あと団長の報告の通り。そのときにあなたの方の加藤高蔵君がコーカサス地帯へ行ったときに酒を飲み過ぎて、または食い過ぎて胃潰瘍になった。それで飛行機で飛んできて、クレムリン病院に入れられた。そこであなた方の団長は、この加藤高蔵君を置いていってしまった。加藤高蔵君はさびしがって、あの人はあれで、伺うとまことに純情で、お坊ちゃんだそうです。酒屋の若だんなだそうだが、とても純情で、われわれが見舞にいくと喜んで、そこで御心配なく、あなたが退院されるまでは必ずわれわれはおるし、また事務局の諸君も、手不足だけれども、一人は必ず残すから、心配ないようにと言って、ポーランドへ行って、帰ってきたら、その日退院した。その日の夕方さっきの話があったので、あとはお聞きの通り加藤高蔵君に、電報を打つとき一に、あなたの名前を入れておきましょう、それでいいか、と言ったら、加藤君はいいと言っておったんです。それでヨーロッパへ行く予定もあるから、失敬する。こういう事情であったことは、私よくわかっております、社会党が抜けがけしたのではないということは、あとでそんなことを言う人があったら、帰ってから、私が必ず説明しますと言って、まことに御親切な取扱を感謝するといって、涙を流しておったんです。ハバロフスクヘは保守党の諸君は来れなかったが、電報を打って、もし行けなかったら、そのことを伝えてもらいたいと言ったから、さきに言ったように、ハバロフスク訪問では、私が全部を紹介して、それから団長あいさつした。保守党の諸君がこういうわけで来られなかった、だから了解してもらいたい。そう言って、二日前に届けてあったたばこを配ったんです。このたばこは、われわれだけのおみやげではございません、訪ソ議員団全体のおみやげでございますから、そのおつもりでお受け取りいただきたい、こう言うと、拍手と涙で感謝されたんです。これが事実なんです。それから、第二に、今のあなたの質問に入りますが、さっき野溝団長が報告された通りに、代表的な質問——この間参考人として呼ばれた佐々木君も私の友人です。またイワノボには、私の親戚の小畑元少将もおりました。ハバロフスクには私の友人が三人おりまして、瀬崎、副島、それからこの間ここへ来た佐々木君。だから事情をよく知っておるんです。代表質問が、さっき団長が言った通り、六つばかりありました。それは団の一般質問だから整理しておきましたといって、坂間代表から言われたから、その通り答えた。そこで、ちょっとそこの模様を申し上げておきたいんです。あなた方は、戦争中に日本の牢に入ったことがありますか。私は実は入ったことが二、三べんあります。日本人で、日本の牢屋の経験のある人なら、牢屋というものがいかにひどいものだということをすぐ想像されるでしょう。それからまた、私も初めてのソビエト訪問なんですから、ソビエトは何のかのと言っても、非常にえげつないことをやっているのじゃないかという先入観で行ったわけです。そうしたら、たとえば石野君が思ったよりよかったと言うのは、こういうことです。私もちょっと申し上げておきたい。第一に、イワノボでは、写真を所内でとれる、日本新聞も去年の春から許されております。それから雑誌も、あまり思想的、政治的でないいわゆる娯楽雑誌は許されておった。ちょっと皆さんに大事な点だから、聞いておいてもらいたい。いいですか、さっき陳情の問題、要望書の問題がありましたから、内容のことについて判断を誤ってはいかぬから申し上げるんですが、イワノボ諸君は、全部将官または将官待遇の諸君、インテリゲンチャである。しかも新聞を読むことが許されているんです。だから日本の国内の終戦後の情勢についても、大体知っておられた。日ソ交渉のことについても、日本新聞を通じて、実は予想外によく精密に知っておられた。ところが対照的なのは、ハバロフスクへ参りますと、ここは今言ったような元将官の諸君もおられます。それから私の友人の副島君は将官待遇を受けておった。そういう諸君もおりますが、他の大多数は御承知のような人々です。だからだろうと思いますが、ここでは許されていない。同じ国の収容所で、日本新聞が許されておらぬのです。だから知識、認識、感覚すべてが終戦当時のまま十年間過ぎておるので、今の時勢に対しては、いわば浦島太郎のようなお気の毒な状態でした。だからさっき言ったような、わかり切ったよう日ソ交渉の見通しはどうでございましょうか、日本の経済は、アメリカの飛行機にあすこもここもたたかれて焼かれたということは聞いたが、その後立ち直っておりますか、日本民主化されたというが、世の中はどんなになっておりますか、エロ、グロが非常にはやっているということが紙の端で推測されるが、青年諸君はどんな気持でやっておりますか、こういうよう質問をしているわけです。実際知らざることに対して非常な熱意なんしです。だから一例を言いますと、われわれが行ったら、見ただけで泣いてしまった。お互い見ている日本人八百六十九名は、十年間一緒の連中だから、終戦後十年たって、日本祖国から来た日本人を初めて見たというので、私のそばへ来て、さわってみる。ちょうどいなかの山の中の女の子が人形を初めてもらったように、これが日本人かというわけだ。そういうことで、あらしの感謝感激だ。われわれは二時間半の間泣きの涙、こういうことはうそじゃありません。そういう質問が行われたんです。ところがこれは全部向うの報告ではありませんから、申し上げておきますよ。演出によったものではない。そんなことは知っておりますよ。あなた方だって知ってるでしょう。日本でも、県知事さんが小学校へ行くといったら、小学校では二、三日前からえらい騒ぎです。村長が来るといっても大騒ぎして、教室全部整理しますよ。そんなことくらいわれわれだって、牢屋の経験があれば知っておりますよ。警視総監が来るといったときには、その留置場なり牢屋の中はてんてこ無いです。だからそんなことは常識ですよ。そんなことでごまかされてくるほどわれわれの目はなまくらではないという自信をわれわれは持っておった。しかし、真実を聞く必要があるというので、そこでさっき言ったように、面会時間二時間が向うとこっちの対面時間、しかも向うの人間が張り番をしておって、それで面会させるということはおもしろくないから、実はきょうは他の議員諸君も来られればよかったが、各府県の諸君が全部来られなくて、遺憾ながら八名しか来ておりません、従って府県を私が申し上げますから、たとえば私は受知県出身で東京に住んでおりますから、東京の方々、それから愛知県の方だけでなく、東海四県の静岡、愛知、岐阜、三里の諸君には、私から直接郷里のことでわかっておることはお話ししますと言って、そういう名目で面会時間をもり三十分要求したのが許可されたわけです。これが非常に益している。このことは、われわれが目で見てよかったというのでなく、真実を聞かしてもらいたいと聞いているわけなんです。だから、向うの方がうそを言ったならばそれは別ですよ。しかし、抑留者日本人だから、日本人同士で信頼していったならば、真実を話してくれるに違いありません。これはわれわれの目で見てきたことですから、われわれが言っておることは全部ほんとうです。そこで聞きますと、まず第一に違っておることは、新聞がない。それから、所内で写真をとっておみやげにしようとしたんです。なかなか短い時間見ただけでは詳しく知らせるわけにはいかぬから、写真をとって、国のおみやげにしようと思って、写真をとろうとしたら、向うの係官が来て、この収容所では、まだ写真をとることが許されてないから、写真機は自動車の中に置いておいてもらいたい。ところがここにおります山口君が機敏にも、外からぱちっととったのが、あの全景の写真です。新聞発表されておりますから、見たでしょう。これは木造の粗末な建物で、ハバロフスクの郊外にあって、自動車で十五分くらい町続きのところです。そこへ行ってみたら、さっき言ったように、新聞がない、写真がとれない。これが違う。いろいろ話をしたりしている間に、こっちも泣き、向うも泣く。一番先に泣いたのは、女だから戸叶さん。泣きの涙で途中で話ができなくなってしまった。私もどっちかというと、大きな声を出しますけれども、人情もろい方だから、ぼろぼろ涙を出した。そうしておったら、言いにくいことを言い出してきたんです。手紙をことづけてくれといって、あらかじめ予想して、さっき言ったたばこに書いたりして、書いてきた。みんなの手紙を持ち出してきたんです。そこには国家の責任者がおりますが、これが最高の責任者。それから向うの所長は、少佐くらいのところで、非常に好人物な、年とった——これは戦争の役に立たぬから、こういうところにおるんだろうと思うが、そういう軍人で、そのほかに一人の鋭い、やや日本語のできる男、これが直接の係官だと思う。昔の軍隊でいうと、いつの時代にもいる意地の悪い特務曹長、こういうたぐい。それから刑務所にいると、中には意地の悪い刑務係長がいる。そういうのだろうと思うが、それがぼくのところへすぐやってきて、ここの所内の取締り規則として、所内の諸君の通信は一ぺん所長に見せなければならぬことになっておりますから、所長に一ぺん出してもらいたい。そうして、全部見た上で全部差し上げますということだった。それは牢屋として認めるか認めぬかは別です。向う戦犯として解釈しておるから、戦犯収容所であるならば、これは当然なことである。われわれ牢屋の経験からいけばそうだ。それももっともだというので、私は団員にもみんなにもわかるようにそのことを申しました。ところがその非常に苦しい祖国を愛するような陳情や話が出て、泣きの涙になったら、そこにおった国会の責任者のドーミン君は、さすがにこれは非常にいい男で、東洋人の人情のわかる人でしたが、さっと立って席をはずして上まった。これはかってに話してくれということなんです。そうしたら、さっきまでうるさいことを言っておった男も何も言わなくなった。そして、その外回りのところにも係の兵隊がおったのですが、それらも全然聞いて聞かず、見て見ぬふりをしておった。従ってあけっぱなしの話ができた。私は自分の牢屋の経験からいって、こんなことを言ってあとでひどい目にあいやせぬかと心配するほどひどい発言があった。それから手紙についても、済んで所内を見学してもらいたいといって回っている間に、私どもに寄り添うようにして手紙を持ってくる。われわれには向うの通訳がついておる。さらに向うの係がおる。それでもわれわれが受取ってポケットに入れているのを見ても、見て見ぬふりをしている。ただ最初に言ってきて、団長に断わったやつだけは出したが、これも全部あとで飛行場に持ってきて渡してくれた。さっきの六建隊のもそうです。向うの解釈からいえば、都合が悪いから押えておけということになるが、それもまたこっちに返してよこした。そのほかのものは、検閲も何もありません。みんなが見ておる間にポケットに全部入れました。そこでこの収容所はどうですか、病人はどうですか、労働状態はどうですか、こう言っておるのを、通訳の諸君がおったって全然通訳しない。ですから自由自在です。所内の制限はない。日本の牢屋で、巡査が見ておるところで、巡査の立ち会いで面会をして、話を聞いてきたのとは違いますよ。所内を見学したら二時間済んでしまった。その状態については、さっき御報告の通りです。  あと大事な欠けたことについて申し上げますと、予定の二時間が参りましたが、私は府県別の対面をしたいから、ぜひ延ばしてもらいたいと言ったら、それでは三十分延ばしましょうといって、三十分延ばして三々五々散らばって、私の方は東海地区四県の方はみんな集まる。それから東京の諸君も私が東京に住んでおるというので集まって、静岡が焼けた、浜松が焼けた、名古屋が焼かれたそうだが、その後どうなっているか、子供はどうでしょうか、あるいは県庁の方、町の方、村の方は留守家族に対してどういうふうな態度をとっておるかと事こまかに聞かれました。それから食堂へ行って、三百グラムの飯、または副食はどうですかということについても、実は全部向うの監視なしの状態で聞いてきた話でございます。さらに問題は、実は中に共産党員と思わしき——われわれそういうことはなれているから、発言すればすぐわかる。八百人以上の方がおられた中で、発言を聞いてみると、大体われわれが目の子勘定をしてみて、共産党と称しておられる、所内でやや対立的感情におられる方が一〇%足らずと判断をいたしました。この判断は、当らざるといえども遠からずという結果を、帰った諸君から報告を受けております。きょうはわれわれは国民を代表して来たので、政党の問題で来たのではない。引き揚げの問題は人道上の問題だから、どうぞ所内でけんかをしたり、意見の対立はやめてもらいたいと野溝団長は押えた。だから共産党の諸君の言うことを聞いてきたのではありませんよ。府県別の会談もやって参りましたし、手紙も自由自在に検閲なしに受け取ってきた。話も自由自在という状態でございます。さらにわれわれかつて牢屋の経験をした者でも予想外だったと言うのは、こういうことです。所内において団体を組織するとか、三人寄って相談をするというようなことは、日本の牢屋では絶対許されませんよ。それから村田情報機関、これはあなた方から質問が出てないから私から申し上げておきますが、村田情報機関というのは、満州における警務庁の諸君が中心になって、副島君が起草をして、若い将校たちを集めて、帰ったら一つ仲よくしようじゃないかという親睦会を作った。そうしたらそれが特殊な人たちだけの集まりたったものですから、何かソビエトに対する反感、または反革命的な気持を持っておるのではないかということで調べを受けた事実がある。それに対しても陳情があった。そういうことは日本の牢屋では絶対にできぬことです。うそだと思ったら一ぺん入ってごらんなさい。しかも監視人のある中で、一体ソビエトがわれわれを戦犯に問うておるのは不当だというような発言も、自由自在にあった。そしてわれわれは帰るからいいが、君らはあとに残っていじめられぬかと言ったら、そんなことは大丈夫だ。そういう状態ですから、われわれは予想外だと思ったのです。飯が足らぬことについても同様でございます。だからだれもいいなんて言っておらぬが、日本の牢屋の経験のあるお互いだから、予想したよりはいいと思ったのです。それから三百グラムもいい、油も副食物も大体いい、栄養は足りますかと言ったら、足ります、不健康な者なら困りますが、大体八時間労働ならばたえられます、こう言っておった。ただ訴えたのはビタミンの問題、これはソビエト全体の問題でございましょう。ビタミン、野菜が足らぬというのが多い。くだものは非常に貴重なものです。これは事実、中山さんなんか国際知識が豊富だから、冷静客観的に一つ想像してみて下さい。うそじゃないですよ。それは牢屋では、くだものは食わさぬということではないんです。臼井さんだってそうじゃないですか。零下六十度のところで、ミチューリン農法でリンゴができるようになった。これは日本では一山十円でも売れない。田舎の子供だってかじりやしない。それほど寒い、零下六十度の農業地帯で、リンゴができるようになったということは、それほど喜ばしいような状態ですが、ビタミン、くだもの、野菜その他が足りないというのは明瞭なんです。今、木村委員から賢明なる御質問があったから、そういう予備知識のもとに聞いてもらいたいと思うのです。こういう陳情があった。第一の陳情は、病人、老弱者を帰してもらいたい。実は健康者はそとに出て、今のところは八時間の建築労働に従っております。向うの建築労働というのは、御承知のように、大した重労働ではありません。ブロック建設で、二トン半のクレーンで、見ている間に苛み木のようにやってしまう。ちとの者は麻袋を編む作業を所内でしている。それから、坂間さんとかその他の将校は労働に服していない。二、三人だけが、特に海軍少将の黒木さん、あれはロシヤ語ができるものだから、ロシヤ語の通訳をしている。プラウダを翻訳して、食堂日本に関する記事が全部出ておった。だから、そういうことを一つ了解しておいてもらいたい。そのときに聞いてみたら、健康者ならこの労働にたえられないことはないが、ただ老衰者と病人の境の者が、きょうは重労働に服しないで所内労働に服したいと言ったときに、必ずしも希望通り許されぬことがあるから、これはぜひ交渉、陳情してもらいたいということでした。その次は、死んだ人の遺骨を早く帰すようにしたもらいたい。これが第二の要望。第三の要望は、ビタミンが足りないから——これはわれわれだけではなく、ソビエト全体足りたいのだが、われわれとしては、ビタミンを送ってもらってこれを飲みたい。もう一つはカルシウムが足りぬ。だからビタミン不足症状で、歯槽膿漏が起きたり、血圧が高くなる人が多いから、ぜひこれを陳情してもらいたい。向う諸君にちょっと聞いてみたら、こういうことがある。向うの取り扱いとしては、所内へ一ぺん入れたら、病院でもそうですが、病院では患者の家庭から持ってきた薬などは全然受け附けません。全部医者にまかして、所内の健康状態その他については、政府が責任を持っているから、そとからの薬は困りますというのが向うの答えであった。しかし、それに対してこういう陳情をした。日本の薬は毒薬でもないから、自殺する心配はないから、ぜひ飲ましてもらいたい。銘柄は武長のビタミンであるとか、その他のちゃんとしたものであるから、飲ましてもらいたいと申しました。このビタミンの陳情があって、その次の陳情は、所内で写真をとらしてもらいたい。その次の陳情は、手紙が月に一回往復することが許されているが、それがとだえがちである。これは実は、ソビエトの政府が押えてよこさないのか、家族がよこすのが疎遠になるのか、どちらかだから、帰ってこのことを言って、もし家族がよこさぬならもっとよこしてもらうように、また一月一回の文通が来ないというのは、政府が押えて来ないのなら、ソビエト政府に陳情してもらいたいということ、さらにつけ加えては(「簡単にやれ質疑の時間がなくる」と呼ぶ者あり)質問しないでも、説明すれば済んでしまう。そこでその次に手紙の回数は今まで月一回だから、これをふやすようにしてもらいたい。それから日本新聞が読めるようにしてもらいたい。(「発言する者」多し)よく聞いてもらいたい。日本新聞をよく読めるようにしてもらいたい。それから雑誌についても、われわれが、ハバロフスクでは今まで許されておると言ったら、ぜひ読ましてもらいたいと言っておった。その次にモスクワのラジオは聞いておるが、日本のラジオについても、われわれはソビエト抑留者だから、無理は言わぬが、娯楽物ぐらい聞かしてもらいたい。日本の音楽が聞きたい、こういうことであった。その次には、それから、さきに言ったように、外国人が十数人おります。この人たちは国籍は外国人だが、日本政府の要請によって、実は協力した諸君だから、帰るところがなかったら、ぜひ日本へ引き取ってもらいたいということ、それから見舞品も、これらの外国人の諸君にも渡るようにしてもらいたいということ。大体それだけですが、私は帰ってから幹事としてそれを全部整理いたしました。それから後の十月の九日でしたか、日赤において、留守家族諸君と最初にお目にかかった。そのときに、留守家族諸君から、要望として、はだ着を受け取ってもらいたいとか、手紙の度数を多くしてもらいたいということがありましたが、これは向うの要望とこちらの要望と一致しております。全部私が整理して、日付は必要があれば調べるが、ちゃんと帰りに、さっき言ったよう野溝団長から……(「それはあとでいい、もうたくさんだ」と呼ぶ者あり)それを責任者であるドーミン君には申し上げた。ドーミン君はそこで、われわれが帰ったら、そういう要望については一つ正式な機関を通じて政府に申し入れましょう、伝えましょうという返事だった。しかしわれわれは国へ帰って、ドムニッキーに面会を申し入れて、これこれこういう要望があるから、一つあなたは政府の出先機関として責任を持ってやってもらいたいということを要望した。そして、その結果実現したことが二つある。中国の諸君は、われわれはそういうことを帰ったあとで聞いたが、全部帰ったそうだ。中国の諸君、は非常に感謝している。それからビタミンが許可されたこともあとで聞きました。大体この辺で一応終ります。
  70. 臼井莊一

    ○臼井委員 重要なる質疑がまだ残っておりますが、だいぶ食事時を過ぎましたから、三十分間ほど休憩を願って、また続行することに願いたいと思います。
  71. 原健三郎

    原委員長 午前の会議は、長くなりましたので、この際暫時休憩いたしまして、休憩後は引き続いて、二時半ごろから質疑を続行いたします。暫時休憩いたします。    午後二時四分休憩      ————◇—————    午後三時五分開議
  72. 原健三郎

    原委員長 これより会議を開きます。休憩前に引き続き、ソ連地区残留同胞問題に関し、野溝参考人に対する質疑を続行いたします。木村文男君。
  73. 木村文男

    ○木村(文)委員 参考人が午前の私の質問に対してお答えになった中に、坂間代表の意見は、これは公式に取り上げる意見であって、あとのことについては、そのときによって参配したいと思うというような意味の御発言のように私にはとれたのでありますが、私をして言わせるならば、坂間代表があなたに対して言われたことは、これは意見ではなくして、あなたに対する質問であった、こうとるのです。あなたも先ほど、代表としての質問をいたすというようなことで、坂間代表から何項目かをあげて私に尋ねられた、こういうようお答えがあったのでありますが、私はその通りだと思うのです。それをあなたは、それは意見であると、錯覚でも起しているようなお話であったように私はとるのでございますが、かりに百歩を譲りまして、あなたが、坂間代表が言ったことが意見だとしたとしても、——私は質問だと思いますが、意見だといたしましても、これはわずか二時間の間に全部の意見の大まかなことをまとめたにすぎないのであって、これが全部のこまかい意見であるとは私は解し得ないと思う。そこであなたに託したと言われているところの、特に委員長が先ほど配られましたこの五通の文書は、これこそ私をして言わせれば、これは彼らのほんとうの叫びであり、ほんとうの意見であると私は思うのです。その証拠には、たとえばあなたが方々に行って演説をしている中に少数の意見ということを言っておられる、後ほど私はその証拠を出します。それは後ほどに譲っていただきたいが、そこで、少数の意見というように言っているのでありますが、それは私は少数の意見じゃないと思う。その証拠には、この文書の中に、六建作業隊一同というのがあります。例をあげますが、この六建作業隊というのをあなたはおわかりかどうか。まずその内容について御調査になってきたかどうかをお伺い申し上げたい。それから私の意見を申し上げます。
  74. 野溝勝

    野溝参考人 まずそのことをお答えする前に、午前中に中国並びに朝鮮等の外国の者で、同様留置されておる諸君についても、大方の努力を頼むという話があった。それに対してどうしたかという御意見でございましたが、もちろん私は日本に参って話をするよりは、むしろ中国人である以上は、中国において要請した方がいいという気持から、特にそういう問題についても中国政府のあっせん方を、周恩来さんその他に頼んで参りました。そこであなたがよく資料として言われたりする週報の中にも、佐々木正制という人の名前ではっきりしております。これは、木村さんも御了承だと思うのであります。「ソ連にいる中国戦犯は十二月中には中国に送還されるといわれていた。収容所側も、そのようにいっていた。これについて、中国人はハバロフスク訪問した国会議員団が、その公約通り毛沢東主席、周恩来総理にその釈放を頼んだ結果であるとして、大いに喜んでいた。」こういうようなことも記録されておりますので、私はその問題については、さように努力したということだけを御理解願いたいと思います。次に、今の御質問の点でございますが、六建作業隊の一同名前による文書を知っておるかというのでございますが、それは承知しております。
  75. 木村文男

    ○木村(文)委員 今私がお尋ねしたのは、六建作業隊というものの内容について、おわかりでありますかと申し上げたのです。
  76. 野溝勝

    野溝参考人 それは、文書によって、あるいは週報によってこういうことを詳しく承知したのであって、あまり詳細には内容は知りませんでした。
  77. 木村文男

    ○木村(文)委員 それでは私からその内容を詳細に申し上げましょう。六建作業隊というのは、先ほど穗積代議士からの委員外発言の中にもありましたが、私の調査によりますと、ここに収容されているのは八百六十九名でありますが、そのうち六建作業隊に収容されているのは三百五十名でございます。その三百五十名は、全部の収容者の四割以上を占めている。そうしますと、これは少数の意見ではない。六建作業隊員があなたに託した一同というのは、坂間代表が言うた意見だとかりに百歩を譲ったとしても、それ以外に、この重要な血の叫びの文章は、全収容者の四割を占めている六建作業隊員としての血の叫びなのです。あなたはそれを発表したとおっしゃるけれども、公式には発表していない。あなたは公人として行ったのだから、公人として発表しなければならぬ。そこが私とあなたの意見の相違かもしれませんけれども、ここを私はあなたに追及したいのであります。あなたは国会議員として行ったのであるから、国会議員として託された以上は、これを発表してもらわなければ困る。そこを一つ、あなたの良識ある判断によって、こじつけた御答弁ではなく、はっきりしたことをお聞きしたい。これでも、あなたは少数意見だから発表しなくてもいいというお考えなのか。私は忙しかったから、発表するのに手間取りましたと言われるけれども、今発表するのではいけないと思う。こういう多数の意見があるにもかかわらず、あなたはこれを公式に発表していない。羽田で発表したと言いますけれども、公式には団長としてあなたは発表していない。この一事をもってしても、そのほかにまだたくさんある。あなたが今広げておられるその託された手紙の中身は、それは公式のものなんです。公式の叫びなんです。公式に全日本の国民に訴えておる叫びなんです。はっきりそれは文章の中に盛られておる。それをあなたは公式に取り上げないでおるところに、国民としての批判的な気持もあり、また新聞でもあなた方をかれこれ言っているし、あるいはあなたが手元に持っておられる日本週報でも、現に攻撃しておる。こういうような結果になっておるということは世論なんです。社会党は、常に品に世論を尊重しなければならぬと言っておる。その社会党に所属しておる、しかもその幹部であるあなたが、団長としての責任においても発表しなければならなかったのを発表していないから、その辺はどういうわけであるかということを私ははっきりさしていただきたい、こう言っておるわけです。
  78. 野溝勝

    野溝参考人 これは非常におしかりのような御意見でございますが、その発表の仕方に対する相違という点についておしかりを受けるならば、これはいたし方ございませんが、私は先ほどから申しました通り発表はしておるのでございます。特に私先ほども語気を強く申し上げましたごとく、私は感謝こそされますけれども、私はそうえらいしかられるよろなことはないと思います。ただ、その間における少しの行き違いがあるならば、それは好意ある御忠告でいいのじゃないか、こう思っております。特に私が申しげしましたごとく、われわれが帰りましてから、感謝感激の書面も何百通と参っておるのでございます。そういう点から見ても、判断ができると思います。さらに週報などについて例をあげられまして、おしかりのようでございますが、週報を私はよく見たのですが、おしかりもありますが、同時にこういうことも書いてあります。「その後もこの日の感激を語り合って楽しんだ。社会党といろと、なにか恐ろしいものに感じていた昔の人達も、いまの社会党は違うといって、社会党に好意をもつものもでてきた。」ということをちゃんと書いてあるのでございます。週報の一月十五日号でございます。そこで十ページにあります。木村さんもよくごらんだと思います。佐々木正制という人が書いております。でありますから、全部が全部批判ばかりしておるのではないのでございまして、この点でもよく御熟読願いたいと思います。私は、発表の点につきましてはいろいろありますが、新聞記者会見において発表することが、一番早く国民にわかるという意味において、私は記者会見においてその話をしたのでございますが、何せ記者の諸君も、ほかの問題というか、ほかの方の焦点が強く質問等の中に入っておりますので、さような点についての取材の扱い方がウェートが少かったのではないか、こう思っております。なお世論の点について御質問がございましたが、六建作業隊は、内容的にはよくわかりませんけれども、その意見書でありますか、書面の来たことは、私は決してこれを軽く扱うというようなことは考えておりません。一同同じょうに扱っておったのでございます。それから特に木村さんから、坂間団長中心にものを考えておるが、坂間団長の見解というものは、意見でなくて質問だというのでございますけれども、特に代表して意見を述べ、質問をいたしたいと思います、こういうことでございますから、私は、その質問を、意見もともに含まれておるというふうに解釈しております。
  79. 木村文男

    ○木村(文)委員 それではもう一つ念を押しておきたいのですが、あなたに文書を託した六建作業隊員というのは、あなたは少数だとお考えになっていますか、そこを明確にしてもらいたい。
  80. 野溝勝

    野溝参考人 それは先ほども申し上げました通り、大体二時間ないし二時間余の間に皆さんにお会いしたり、そしてまたお互いの郷里並びに友だち、国のこと、次から次といろいろ話が出まして、何十、何百という人と会っておるのでございますので、六建作業隊がどういう内容かということは、木村さん、一つこの点はその立場になってお考え下さるならば、その内容などについても、なかなかそうわからぬと思うのでございます。でありますから、少数であるか多数であるかというようなこともよく調べておきませんでした。
  81. 木村文男

    ○木村(文)委員 前後しましたが、私、先ほど、私の調べた内容を御参考に申し上げた。つまり四割を占めている人で、しかもあなた方の御慰問になられた収容所の主力をなすところの隊なんです。これを考えますと、あなたはよほど公的に大きく取り上げなければならなかったと僕は思う。その点についてのお考えを一つ率直に承わっておきたい。
  82. 野溝勝

    野溝参考人 これは木村委員に申し上げるのでございますが、私はものを二様に扱おうという考えは毛頭持っておりません。しかし団長意見質問というものをやはり中心にしてものを考えておることは事実でございますが、預かってきた書面を無視したり、あるいは放棄したりというふうには考えておりません。そういう意味において、六建作業隊というものを重視したか重視しなかったかという御意見に対しましては、私はただ六建作業隊ばかりでなくて、預かってきたものすべてを大事にいたしました。
  83. 木村文男

    ○木村(文)委員 あなたは先ほど週報第三百五十一号、一月十五日号の、参考人であった佐々木君のことを引用になりました。私は大へんけっこうなことだと思います。もしかりにあなたはこの佐々木君のことを真実とするならば、この際私はあなたに次のことを朗読して、——これは佐々木君の発言でございます。そして私は、ほんとうの日本民族としてのあなたの立場において、あなたの御意見を承わっておきたい。佐々木君は、三十年の十二月十五日の当委員会参考人としておいでにたり、その重要な個所だけ朗読いたしますが、次のことを言っております。ちょうどあなた方の来た日ですよ。よろしゅうございますか。五ページでございます。「ちょうどその日は非常に暑い日でありました。間もなく議員団が平られたのでありますが、これこそわれわれが現実にこの目で見た、生々しい祖国のかおりを持ってこられた、この十年間におけるたった一度の日本人でありました。迎える者はもちろん、議員団の方々も全員涙を流しておられました。しかし迎える私たちは、今その光景を思い出しても、浅原一派の者を除いたあらゆる日本人は——戸叶さんもここにおられますが、みな泣いておりました。われわれは言葉もなく、かたずを飲んで皆さんをお迎えしたのであります。その感激は、今度舞鶴に上陸をして、皆さんのお出迎えを受けた感激以上のものでありました。そして祖国とわれわれの結びつきを、われわれはその議員団を通じてはっきりと知り取ったのであります。議事が進行されまして、坂間さんが一場のあいさつをされ、あとから希望事項を申し述べられました。そして尾崎元中尉が立って、われわれは人質としてここにとらわれておるのだ、われわれは自分の責任、自分の任務をよく知っている、ソ連がこの際いかなる横車を押そうとも、国策の大綱を誤まってくれるな、これがわれわれ日本人としての自覚である。そのとき万雷の拍手をもってそれが迎えられたのであります。次々と三人、五人の人たちが立って、国策の大綱を曲げてくれるな、なぜそういうことをわれわれが血の叫びとして申し上げたかというと、十年のわれわれのソ連の滞在で、ソ連がいかなるものであるかということをわれわれは身をもって体験しております。それは日本におる国民よりも、われわれの方が、ソ連はどういう国であるかということを知るがゆえに、われわれは血の叫びとしてそれを申し上げたのであります。もちろん十年の歳月は、短かい歳月ではございませんでした。一つの子供が十になり、大学ならば二つの科を卒業し、大学院に二年も残ることのできる貴重なわれわれの人世でありました。しかしわれわれは、帰りたいという希望を胸に抱きながらも、なぜ、国策の大義を曲げてまでわれわれの問題を考えてくれるなどということを叫ばざるを得なかったかということを、皆様はよく考えていただきたいのであります。もちろんわれわれは、今日留守家族のことを思うならば、彼らと生命をともにし、彼らの苦悩を知れば知るほど、この席上から皆様に、国策の大義を曲げてまで引き取ってくれるなと、帰還した私自身はとても言うことはできません。私個人気持なら、まず人命を救出していただきたいとお願いしたいところであります。だが、われわれの悲壮な気持は、個人的なものである。われわれの生命が国家につながっているということを、われわれは十年の体験によって知ったのであります。そのことも皆様はよく御理解を願いたいのであります。」まだいろいろございますけれども参考人として十年の歳月の間の苦労をしのびながら、また今なお抑留所におりまする抑留者の人たちを思いながら、この叫びをこの委員会において叫んでおりますが、これをお聞きして、会見した当時の模様を考えてみて、あなたのお預かりして参ったところのその文書を、正式に、公式に国民の代表として、しかも団長の責任において発表しなかった、その点において欠けるところがあったとあなたは率直に認めませんか、この点を私はお伺いしたい。
  84. 野溝勝

    野溝参考人 先ほど申した発表の技術等の不手ぎわの点についてのおしかりならば、私は大いに考えなければならぬし、その点について不徳の点があるならば、私は大いに反省をいたします。しかし何ら他意のないことにつきましては、先ほどくどくど私が申し上げたところで御了解できると思うのであします。確かに佐々木さんが申し上げたように、尾崎君の御意見もありました。しかしまたその他にも意見がありました。ありましたけれども、しかしおもな意見質問に対しては、坂間さんをもって中心に考えるということを申し上げたのであります。それから、この文書の取扱いについて、これほど切々たるところの内容のこもっておるものを、なぜ一体そういうように簡単に扱ったかという意味だと思うのでございますが、決して私は簡単に扱ったわけではないのでございます。先ほど申した通り、一番先に私はこれを公開することが一番いいと思ったのですよ。ですから記者会見の際にこれを出して話をしたのでございますけれども、記者の諸君が、それに中心がなかったといいますか、それを取材するウェートが少かったと思います。でありますから、特にその点につきましては、その手紙名簿を持っておる山口書記をして、納得できるまで一つ話相手になり、あるいは質問に対して答えてくれということを申した。特に夜明けまで山口書記新聞記者諸君会見しておったのでございます。その点で十分おわかり願えるだろうと思うのでございます。
  85. 木村文男

    ○木村(文)委員 今のお答えで、野溝参考人は、こういうことをおっしゃった。今朗読されたような尾崎元中尉の意見もございましたが、その他にもございました、こうありますが、尾崎さんが言うたときに——この朗読した文書によりますと万来の拍手が起きた、こう言っている。先ほどの穗積代議士の委員外発言の中に、集まった者八百余名、こういうお話がございましたが、あなたも大体それくらいのように認められたようである。そうしますと、あなたがほかにも意見がありましたというのは、ほかの意見に対して万来の拍手があったかどうか、これをお伺いしたい。
  86. 野溝勝

    野溝参考人 まず万来の拍手を受けたというのは、私どもが行ったときに、さくらさくらのあの音楽の音を聞いた瞬間こそ、言い知れぬ感激と拍手に燃えました。あとも拍手はございましたけれども、別にこのときは万来の拍手かあるいはそのほかの拍手が少数の拍手かということにつきましては、拍手があったかないかということにつきまして、その比重をどういうふうにするかということは、私としてはつきかねます。
  87. 木村文男

    ○木村(文)委員 あなたが実際団長としてその席に臨んで、ほかの連中の——たとえばここに浅原一派、こう朗読の文句の中に書いてあります。先ほど穗積代議士の委員外発言をされた際にも、われわれの体験からすると、共産党員とすぐわかる。共産党員らしく見受けられた者が約一〇%くらいある、こう言っておりますが、かりにその浅原一派なるものが少数であるかどうかということをあなたが言いかねるというのは、どういうことですか。
  88. 野溝勝

    野溝参考人 今、拍手の点はどうかと聞かれましたから、拍手のことを申したのでありまして、浅原というのは今初めて出てきたのでありますから何でありますが、浅原君であるかどうか、私はあとで記録を見てわかったのであります。私は共産党員が何名いるかということはわかりませんでした。
  89. 木村文男

    ○木村(文)委員 私がなぜこれをお尋ねするかというと、あなたはほかの意見もありましたと言って、こういり大事なことを発表しない、これを私は追究している。それをあなたに申し上げている。それに対してあなたの答えは、必ずオープンでやっているのだというようなことを言います。大多数の意見であるといって坂間代表を取り上げている。そういう意味で、あなたは少数だということによってこれを発表しなかったのか。私は、あなたが発表したと言われるとは思われない。何ら公式な手続を踏んでいない。ここを私は追究したいためにあなたにそれを申し上げているのです。
  90. 野溝勝

    野溝参考人 発表の技術の点について不手ぎわだというおしかりならば甘んじてお受けいたしますし、今後反省しなければならぬと思うのでありますが、決して少数意見なるがゆえに発表しないということはないのであります。これは先ほどからるる申し述べた通りであります。
  91. 木村文男

    ○木村(文)委員 それでは、後ほどこの問題についてもっと詳しい資料を出して、説明を求めたいと思います。
  92. 臼井莊一

    ○臼井委員 関連して。ただいまの問答を伺っておりますと、一体この手紙を少数の意見だというふうにお考えになりますかどうか、その点をはっきり明言していただきたい。
  93. 野溝勝

    野溝参考人 先ほどからお答えした通りで、これを少数の意見だとか、大多数の意見だというふうには、その点私は気は使いませんでした。
  94. 臼井莊一

    ○臼井委員 この手紙を少数の意見だとか、あるいは大多数の意見とかいうことは考えないというあいまいな態度というものは、私どもには解せない。というのは、ただいま木村君からもお話のありましたように、六建作業隊というのは、三百五十名の大きな隊員である。しかもこの手紙の中には、「之は私共大部分の者の真意であります何卒此の意志を祖国の朝野に御伝え下さい」、こう書いてある。これから見ましても、大部分——の少くとも六建作業隊の手紙については、これは決して少数の意見だか、大多数の意見だかわからぬというような考え方をしたところに、これまたどうも発表の点において欠くるところがあったのではないかと思うのでありますが、いかがですか。
  95. 野溝勝

    野溝参考人 先ほど申し上げました通りで、臼井さんも御理解願えると思います。八百六十九名中三百五十名であるかどうかということは、私はこちらへ来てわかったのであります。向うでは忙しい時間の間で、わかりません。  それから私は特に多数であるか少数であるかということでなしに、預かった文書は大事に扱うのが当然だと思います。紙切れ一枚、一行でも、その留守家族方々にお渡しするという真実性を持って臨んだわけであります。それでございますから、たとい少数でも多数でも、預かってきたものについては、同様に発表すべきだと思います。ただ発表の技術の不手ぎわについては、十分その御忠告を受けます。
  96. 臼井莊一

    ○臼井委員 発表の仕方について伺いますが、何か発表の仕方の技術がというお話でありますが、私は技術ではないと思う。この手紙を拝見しますと、あて名は「日本国訪蘇国会議員団各位」となっております。また「一日本人より」として「議員各位殿」、それからさらに「祖国日本議員団の皆様へ」ということになっている。また「日本青年に告ぐ」という手紙があったということを伺っておりますが、そうしてみると、これは単なる技術の問題ではなくて、結局お帰りになってからあて名のところへ届けたと同じに、やはり少くとも議員なり、それから国民にあてたものに対してはそれを伝える。しかもこの六建作業隊については「此の意志を祖国の朝野に御伝え下さい」とある。しからばあなたは祖国の朝野にお伝えになるような方法をとったかどうかお伺いしたい。
  97. 野溝勝

    野溝参考人 この点は私、先ほど申し上げました通り、いち早く報道機関を通して発表し、それによって知ってもらうということがいいと考えまして、記者会見の際にも、これらを呈示したのでございます。しかし先ほど申したように、記者諸君も取材の取り方につきましては、これに重点があったのかなかったのか知りませんが、取り上げ方が少かったと思うのでございます。そういうわけでございまして、これは議員団とあるから、多くの議員に知らせる方法をとればよかったのでございますけれども、今申した通り遺族留守家族の人のことで頭一ぱいで、かつ非常に忙しく、つい追われておりましたし、新聞並びに雑誌を通して広く扱われるというように考えておりました。さらに少し時間がおくれましたけれども、厚生省の方にも、引き揚げ関係の方にも、預かってきた文章は提出したのでございます。
  98. 臼井莊一

    ○臼井委員 ただいまのお話で、発表の仕方と言うけれども、たとえば羽田において発表されたと言うけれども、一体こういう手紙があるというので、その一つでも朗読されたのでございましょうか。ただこの間、戸叶君の発言によりますると、何かその上に置いておいたという程度ですから、内容のウエートが少いと思ったので、新聞記者の方が取り扱わなかったのじゃなかろうかということですが、少くともこれだけの内容であれば、新聞記者の諸君がその内容を知れば、これはトップ記事にでも取扱うべき大きな内容を含んでいる問題だと思います。ところが、それを新聞記者諸君の気のつかないよう発表の仕方で——あなたは発表とおっしやるけれども発表じゃなくて、ただ単にそこに置いておいたのだ、置いておいたんだから、見ない方が悪いという態度というものは、われわれには了解できない。この点いかがですか。
  99. 野溝勝

    野溝参考人 先ほど申した通り、とにかくわれわれは努力してハバロフスク収容所へ参って慰問したのですから、決して冗談事には考えておりません。真剣にその姿ありのままをお知らせしたいと思ったのでございます。ただそれは、今もお話のありました通り新聞社の方々がそれを発表しなくても確かに雑誌にも出ていますし、引揚者の方々が来る前に、佐々木さんや武藤さんが来る前に週報には出ておるのですから、そういう点については、十分われわれは努力したつもりです。
  100. 臼井莊一

    ○臼井委員 ただいまのお話で、週報に御発表になったと言うが、いつ記者の方を呼んで、そういう御発表をされたか伺いたい。
  101. 野溝勝

    野溝参考人 いや、週報に発表したというのじゃない。週報にも出ておりますと言うんですよ。ですからそれが全然新聞社の諸君に知られなかったということはない。だれか新聞社か雑誌社の方には、知っている方があったと思います。
  102. 臼井莊一

    ○臼井委員 出ているから発表したということにはならぬと思う。スクープされて出る場合も私は出ると思う。たとえば、しまっておいても、それでも出たから発表したということにはならぬ。発表と記事が出ているということは、私は別問題だと思う。この点はいかがですか。
  103. 野溝勝

    野溝参考人 そういう御意見ならば申しますが、あのとき記者に対して経過を話して、出品書記がこれに対して読み出したのです。ところが、それについては時間もかかることだから、それは大体幾つかのグループに分けて、そして回して読むことにするから、こういう御意見もありましたので、そういう点について、私どもは誠意を持って答えた点を認めていただきたいと思うのであります。
  104. 臼井莊一

    ○臼井委員 私は、先ほど来お話のように、自分は苦労して行ってきたということについては、冒頭にお礼を申し上げておいたし、あなたの誠意を何も疑うわけじゃない。疑うわけじゃないけれども、しかしこういう重大な、あちらの抑留者の方の血をしぼるような声というものを、自分のほんとうに尊い気持を国民に知らしてもらいたいというのが、私は真意だろうと思う。ところが今のお話によると、新聞社の諸君がウエートを少く見たからああいう発表の仕方をしたと言うのですが、私はあれは発表じゃないと思う。なお当委員会にお出しになったとおっしゃるけれども、当委員会にあなたの方で進んでお出しになったのじゃない。これは十二月十五日に佐々木参考人がおいでになって、当委員会——ここにも書いてあります。「そこで私は帰ってきて、あの当時の訪ソ議員団の人たちが、どういうふうにハバロフスク状況を伝えていられるか、私は非常に興味がありました。二、三の新聞を拝見してみると、私には若干の不満がございます。しかしわれわれは、好遇されておったのでもなく、いい暮しをしておったのでもなく、抑留されておったということをよく考えていただきたいのであります。一部の君たちが、われわれは、国策はどうでも、まず帰してもらいたいという、その一部の人たちというのは、今私が申し上げた人たちであるということを御承知願いたいのであります。」というのは、先ほど木村君のおっしゃった十三名かの、いわゆる民主グループという、それこそほんのごく一部の人であるということを、ここにちゃんと言っているのであります。また言葉が続いて、「また訪ソ議員団方々に、われわれの知っておるのでも、数人の人から、これを日本国民に伝えていただきたいという文書のあったことを私は記憶しております。それが果して国民の皆様に、この血の叫びが伝わっておるかどうか、私は不幸にしていまだこの報道を見ることができません。」実はこれが本委員会で大きな問題になった。一体そういう手紙があったのか、こういうことで、当委員会で問題になって、戸叶委員からいろいろお話がありましたが、どうも解せない。これは一応明確にすべき問題である。こういうことで本委員会では取り上げるとともに、そこで手紙も、私の要求によって当委員会に出た。この委員会が開かれると同時に、あるいはその前に発表になったのじゃない。しかも皆様がお帰りになってから二カ月有余たってからです。そういうお取扱いをしていたというところに、私は大きな問題があると思うのです。この点について一つ意見を伺いたい。
  105. 野溝勝

    野溝参考人 この点につきましては佐々木さんの報告の中にもあります通り、やはり若干の不満の点がありますが、前段においては非常に感謝もされておりますし、全国の留守家族、訪ソしてくれたことについても感謝をされているのでございますから、私はそう不満の点ばかりではないと思うのであります。しかし今、臼井委員が申されましたごとく、預かってきた文書の発表の仕方について、非常に遺憾の点があるという点に対しては、これは佐々木さんの意見を代表して申されたと思うのでございますけれども、そういう点については、私の方で新聞を通して早く発表したいと思った努力を、あなた方はそれではだめだという御意見の食い違いでございまして、そういう点については、私が先ほどからるる申し上げている通り、技術のやり方の問題でありまして、私どもの、新聞発表ということよりは、それは一応印刷して議員に手渡したらいいじゃないかという、それも一つの方法でございますし、またそれをあわせてやった方が私はよかったとも思うのでありますが、そういう少しの技術の不手ぎわの点については、むしろ好意ある忠告を願いたい、かように私は思っております。
  106. 臼井莊一

    ○臼井委員 それは好意あるとか好意ないとかいう問題じゃなくて、あなたの方では発表された、たた杉林云々とおっしゃっているけれども、われわれの方では発表されていないと思っている。つまりあて名に届いていない。要するに国会議員にも正式に発表していない。それから議長にもお届けになっていない。それから国民の朝野にも届く方法をとっていない。こういうことで、しかも当委員会においでになって、こういうものがあったというので進んで御提出になったなら、これも一つ発表かもしれません。そうして、これを当委員会で取り上げて、どういうふうに発表ようかということが問題になるならいいですが、そうでなく、これを発表しないでいて、あなた方が発表されたと言うところに大きな問題がある。単に技術でなくて、そこに大きな意図があったか、誠意の欠如があったか、その点が私は問題になると思うのですが、この点について私たちは非常な不満を持つとともに、もしこの発表の点において、あなた方の方で悪いと思ったら、これは国民に陳謝すべき問題だと思っている。この点については結論になりますから私は申しませんが、発表をどうしてそういうふうにしなかったかということをもう一度お伺いしたい。
  107. 野溝勝

    野溝参考人 発表しなかったことはないということを私は申し上げておるのでありまして、委員会にも十分理解してもらいたいと思いまして、厚生省の引き揚げ関係の方に出したわけでありますから、計画とか意識してとか変な気持は毛頭ありません。
  108. 稻葉修

    ○稻葉委員 私は、この訪ソ議員団の当時民主党の幹事として一緒にソ連を訪問したわけでありますから当時の第二団長及び社会党の左派の幹事である穗積さんに事実がどうなっておるかという点について、一つ確かめておきたいと思います。  訪ソ議員団向うのヴォルコフ、ラツイス両議長に、九月の二日だったと記憶しておりますが、クレムリンで、到着直後向うのプランを示された中には、イワノボ訪問についても、ハバロフスク抑留者訪問についても、向うのプランにはありませんでした。
  109. 穗積七郎

    穗積七郎君 さっき報告済みだ。
  110. 稻葉修

    ○稻葉委員 そこで再三議員総会を開いて、議員の一致しだ意見で、北村団長から三度向うに、ハバロフスク行きのことについて許可をするようにという要請をしたことも事実ですな。
  111. 穗積七郎

    穗積七郎君 それも報告済み。
  112. 稻葉修

    ○稻葉委員 それでフルシチョフ、ブルガーニン会談のときに、北村団長から特にハバロフスク行きについて……。   〔「時間の関係から、そんなことを言っても困るよ」と呼ぶ者あり〕
  113. 穗積七郎

    穗積七郎君 総会のときに、代表を出して強く要望しました。
  114. 稻葉修

    ○稻葉委員 そこでフルシチョフの発言は、自分はハバロフスク戦犯のいることを知らないと言って、内務大臣を呼んで、ほんとうに議員団の言う通りにあるならば、なるべく訪問ができるように処置する、こういう言明を与えたので、われわれはハバロフスク行きのことについては非常に熱意を持っておりましたから、当時ポーランドの招待もあったけれども、これは御辞退を申し上げて、なるべく一日も早くハバロフスクに行きたいと思っだ。そうして、そのときみんなの意見としては、あのフルシチョフの言明によって、おそらく許可はおりるものと思われたかどうであるか。
  115. 穗積七郎

    穗積七郎君 思った。それもちゃんと報告済みだ。
  116. 稻葉修

    ○稻葉委員 そこでわれわれは向うの外務省の接待員及び通訳を通じて、許可はおりるだろう、きょうはなくても、お立ちになってけっこうです、おそらくイルクーツクから国境を離れるまでにはおりるでしょう、途中お楽しみでお帰りなさいというので帰ったが、とうとうなかった。そこで残念ながら帰ってきたが、あなた方はせっかく行ってこられたんだから、先ほどそういうものがあるならば——団はまだ解散していないのです。モスクワを離れるときに団を解消したのではない。団の解消は日本へ帰って、みんながそろってから解散するということになっておるのであるから、団員にあて手紙は第二団長として持ってこられたならば、その後われわれが集まった機会もたくさんあるのだから、そういう機会に第一団長に、こういうものを預かってきましたという報告がありましたか、ありませんでしたか。
  117. 野溝勝

    野溝参考人 その点については、先に帰った方々も、すでに帰ってきて発表したことがあるのでございますから、経過については、むしろ私は団長は対等だと思います。別に甲乙つけるべきではない。とにかく私の方でも話さなければならぬと思っておりますけれども、先に帰った団長等も帰国したわれわれと会って発表その他の連絡のなかったことは、御承知の通りでございます。あとは事務的なことでございますから、その点についてはまた穗積君の方から——あなたも幹事でございますから、両方の幹事の間でお話願った方がいいと思います。
  118. 臼井莊一

    ○臼井委員 今、お話の通り、われわれも団員であるけれども、団員にももちろんしない、団長にもしない、対等であるからしなくていいというその根拠は、私には納得いかないのです。対等であるかないかは別問題にしても、私はこの手紙そのものを軽視したからそういうふうになったのだと思う。重大視すれば、そういう取扱いはできないはずだ。重要な問題であれば、これはまず帰って来て第一団長にも報告し、議長にも出す、こういうのが順序なのに、新聞記者もうかうか見のがすようなやり方をしたというところ、あなたの方でこの手紙を軽視したといこうところに大きな問題があると思う。れはいかがでしょうか。
  119. 野溝勝

    野溝参考人 それは先ほどからもお話申し上げた通り、一番先に新聞社に発表することが、早くて、公開されて、それで人民間の批判もできるという意味においてやったのでございまして、その点については、たまたますべてのことが掲載されなかったことは非常に遺憾でございますけれども、その点については、何も悪意があったわけではございません。私は、もちろん第一団長が先に帰りまして、それらの問題についてはいろいろ発表された点も聞いております。でありますから、すでに発表されたごとについて、とにかく私どもが羽田へ帰って来るのはわかっておりますから、そのときに、先に来た方は迎えに来てもらって、打ち合わせてもらって、どうするというのならまた話もわかりますけれども、そんな連絡もなく、混雑の中でございましたので、何でも早く発表した方がよろしいというわけで、私は責任を果したつもりでございます。その間におけるやり方について不手ぎわだったとお、しかりならば、私はおしかり通り聞いておきます。
  120. 松岡松平

    松岡(松)委員 野溝さんにお伺いしたいのですが、一日本人より議員各位あて手紙によりますと、その第二項にこういうのがある。「今次戦犯釈放問題に関し将来の日本の方向国策を曲げる事あるべからず。即ち吾等国を思ふ誠心拾年の古と寸毫も不変ざればなり。祖国の為めには喜びて此の地に骨を朽ちせしむる覚悟あり。」  これは御記憶ですか。
  121. 野溝勝

    野溝参考人 それは読みました。
  122. 松岡松平

    松岡(松)委員 そうしますと、この議員各位殿という意味は、あなたはどういうふうに御理解になったか。
  123. 野溝勝

    野溝参考人 もちろん私どもは自分たちの訪ソ議員団を中心に考えておりますので、訪ソ議員団というように考えておりましたが、議員各位ということについては、さらに広範にも考えられましたので、私ども新聞を通して発表することが先決と考えました。
  124. 松岡松平

    松岡(松)委員 今のあなたのお話によると、訪ソ議員団を中心とするが、日本国国会議員を含めての意味だと御理解になったというわけですか。
  125. 野溝勝

    野溝参考人 訪ソ議員団を中、心に私は考えました。
  126. 松岡松平

    松岡(松)委員 そうすると、訪ソ議員団のみに限定してお考えになったのか、もう一ぺん明確にしてもらいたい。さっきの言葉と今の言葉と違ってきておるようだが……。
  127. 野溝勝

    野溝参考人 それは訪ソ議員団が中心でございますが、議員各位ということになれば、また別の意味で広範にも考えられる、こ、う言ったのでございます。
  128. 松岡松平

    松岡(松)委員 そうすると、今の議員各位ということは、日本国の、つまり衆参議員を含むというふうにお考えになったと理解してよろしゅうございますか。
  129. 野溝勝

    野溝参考人 私は先ほどから何回も申したのでありますが、もちろん訪ソ議員団を中心にして考えております。しかし考えようによっては、広範に考えられると言ったのであります。
  130. 松岡松平

    松岡(松)委員 これは今のものの判断をしておるのではなく、あなたのこの手紙をとられて見られたときの心の動きを聞いておるのですから、それをお答え願いたい。
  131. 野溝勝

    野溝参考人 その通りであります。今申した通りであります。
  132. 松岡松平

    松岡(松)委員 それでは、あなたはこれをお読みになって、これは日ソ交渉の上に影響があるものとお考えになりましたか、なりませんでしたか、それをお答え願いたい。
  133. 野溝勝

    野溝参考人 先ほども申した通り、私どもは行くときに平和友好国交回復、これが中心の目的でございますから、そういう点においては、もちろんあらゆる点において努力をいたしました。
  134. 松岡松平

    松岡(松)委員 そうだとすると、この手紙日ソ交渉の上にかなり政治的な影響をもたらす一つの素材であると私は思うのですが、野溝さんはこれ一ついて何かお考えになりますか。
  135. 野溝勝

    野溝参考人 松岡さんに十分理解してもらいたいと思うのですが、訪ソ議員団の中でも、確かに平和友好国交回復のやり方については、必ずしも意見が一致しておらぬと思うのです。しかし、大体の目標は以上の点で一致していたわけでございます。でありますから、そういう点については、お互い角度々々は違いましても努力して参ったのであります。ただいまこの文書が日ソ外交上にどういう影響をするかということについて考えたかというのでございますが、私どもはその太い線のみを中心に考えておるのでございまして、かような点一々を部分的にどう扱うかということの解釈は、深く研究するような時間もまだございませんでした。
  136. 松岡松平

    松岡(松)委員 この週報にもあるのですが、この中で見のがすことのできない問題が、一つ今申し上げたところにあると思う。つまり抑留者は自分たちの身のことは、骨を朽ちさせてもかまわない、国策を曲げては困るという、太い線がここに出ている。これは今申し上げたこの中に、「祖国の為めには喜びて此の地に骨を朽ちせしむる覚悟あり。」とある。そこで、この週報にもその点が強調されているのです。つまり抑留されておる人たちは、自分たちの身をかばおうとしたり、つまり言いかえれてみると、この手紙の文意からいうならば、国策というものをそれによって曲げては因るのだと言っている。ところが今、日本の中にいろんな意見があるのです。領土問題よりは人間を帰すことが先決だという意見もあります。しかし領土問題は譲ってはならぬごいう意見もあります。そういう場合に、この抑留者が果してどういうことを考えているか。自分たちの骨は朽ちてもかまわないから、国策を曲げては困るのだと言っている。この貴重な叫びを——先ほどから伺っていると、野溝さんほどの政治家が、これを国民に知らしめる方法としては、私は了解ができない。少くとも私よりあなたの方が政治家としては先輩です。団長として行かれて、この書類をもらわれて、この抑留者の魂の叫びを伝えるということは重大な問題ですよ。それを、あなたは先ほどから言うているが、羽田において、あの雑踏している中でこれだけの貴重な文献を新聞社に出したからといって、新聞社がこれをとりようがないではありませんか。雑踏しているのですよ。あなたは翌日でも翌々日でも、これを印刷されて新聞社に回されれば、必ず取り上げられる問題ですよ。しかもあなたは河井議長に報告しておられる。そのときの報告は、みな元気だったという報告でありた。河井議長が私に語っていますよ。あまりにも意外な報告で驚いている、後に帰ってきた人の話と野溝君の話と違っているので驚いているということを言っておられる。河井議長もそういう感を持っておられる。あなたがこの文書を議長に報告せられたときに提出されれば、少くとも一般への公示はできるはずです。簡単な問題です。あなたはこれをガリ版に刷られなくても、そのなまなものを議長に出されただけで、議長は必ずそれを発表の方法をとります。また従来、外国へ議員団として行かれた方は、そういう方法をとっておられるはずであります。しかるにあなたは、この場合に、この手紙をあなたの手元に置きながら、週報が出、委員会において佐々木君が内容を明らかにしてから、十七日になってようやく提出されたというのは、どういうお考えでありますか。それから厚生省の当局にも出したようなことを言われるが、私は調べましたが、提出は受けておらぬとはっきり言っております。これに対するあなたの政治家としての良心ある御答弁を伺いたい。
  137. 野溝勝

    野溝参考人 非常におしかりのような御意見でございますが、先ほどから私は、重々申し上げておるのでございますが、もう不手ぎわな点につきましてはおしかりをお受けいたしますし、それからさような点については、御忠告も十分受けたいと思います。ただしかし、誠意のある点だけは、決して私は悪意というような点ないしは意識的ということはないのでありますから、その点は前もってお断わりした通りであります。そこで特に国策を曲げてはいかぬというのですが、松岡さんの御意見でございますが、これは人々によって違っておると思います。私どもは国策を曲げてまでも、日ソの交渉を進めていけというようなことは、私ども考えておりません。特にこの国策という点については、政治家であるならば御理解願えると思うんです。私どもには私ども一つの国策の方針があるのでございますから、そういう点につきましては、松岡さんも御了承できると思うんです。あなたの党の方の国策の考え方と、私の党の国策の考え方とは違う点もあると思いますから、その点について、ここで国策論を戦わしてみても、私は結論がつかぬと思うのでございます。それから、発表の仕方についてはたびたびおしかりを受けておるのでございますが、何回も繰り返して申した通りであります。  それから河井議長に対するあいさつの中で、河井議長からどうも意外だったという話を聞かれたというのでありますが、河井君におきましては、私には御苦労さまと言っただけで、その際私に対する何の質問もございませんでした。ただ私がさような点について一一文書をもって報告しなかったという技術の不手ぎわにつきましては、御忠告は甘んじて受けます。それから、厚生省に文書の提出がなかったという話でありますが、厚生省といいますか、取引関係には出してあるのでございます。時間の点で少しおくれたという点はあるかもしれませんが、出してありますから……。
  138. 松岡松平

    松岡(松)委員 厚生省にお出しになったのは、委員会に提出せられた後ですか前ですか。
  139. 穗積七郎

    穗積七郎君 十月十七日です。
  140. 野溝勝

    野溝参考人 それはこちらに来ている田島さんに出したそうです。
  141. 田島俊康

    ○田島説明員 名簿でございますよ。
  142. 松岡松平

    松岡(松)委員 この手紙のことを聞いているんですよ。
  143. 野溝勝

    野溝参考人 それは山口書記が預かっておりますから……。
  144. 松岡松平

    松岡(松)委員 あなたのおっしやるのは、この手紙じゃなくて、名簿なんでしょう。   〔「議事進行」と呼び、その他発言する者あり〕
  145. 原健三郎

    原委員長 まだ発言中ですから…。
  146. 野溝勝

    野溝参考人 その点ははっきりしておかなければいかぬと思いますが、それは名簿を出した際に、同行の山口書記がその書面のこともあわせて話しましたところ、田島事務官の方から、それはあとで打ち合せに来るということであったそうでございます。
  147. 松岡松平

    松岡(松)委員 今のお話でわかる通り、提出されたのは、名簿だけということは明らかになりました。あとは不明であります。そこで、私の先ほどの御質問に対して、ただいま野溝さんからお答えがございましたが、はなはだ遺憾であります。なるほどあなたの方の政治的な立場、あなたの方の党のお考え方と私どもの考え方、私どもの党の日ソ交渉に対する考え方は違っております。ところが、おそらくこの手紙発表になることが、あなたの政治的立場あなたの党の立場に不利だとお考えになったからでしょう、そうじゃないのですか、率直にお答え願いたい。つまり、抑留者は、自分の骨を埋めても国策を曲げるなと言っているのです。これが大事な問題であります。あなたはこれを見られて、これを発表しては、あなた方の政治的立場やあなた方の党の唱えておられる日ソ交渉の方針との間に食い違いが生ずるであろうとお考えになったから、これをあなたの手元に抑留せられて、発表を差し控えられたのではないでしょうか。この点率直にお答え願いたい。
  148. 野溝勝

    野溝参考人 非常に興奮されたようでございますが、冷静に一つ、……。   〔「出さないで出したとはなんだ」と呼び、その他発言する者多し〕
  149. 原健三郎

    原委員長 静粛に願います。
  150. 野溝勝

    野溝参考人 あと速記を見て下さい。松岡さんの御意見でございますが、国策が違う、考え方が違う、そこで意識的にこれをサボったのではないかというふうに問われるのでございますが、私どもがそんた意味で行くならば、最初から、私並びに穗積君からも話されましたごとく、わざわざ電報を打つようなこともやらないだろう、むしろ私はハバロフスク訪問したときに、一同方々に向ってあいさつする中にも、われわれだけではない、三十八名の議員の中で来れないのは、おのおの任務があって、よそへ回ったのであるから、さよう御了承願いたいということを、ちゃんとはっきり言ったのでございます。そこで私はまずそういうことのないことを、十分御了承願いたいと思います。それから次に、発表について、国策、の点において違うから意識的だというふうに具体的に申されたのでございますけれども、私どもはそんなけちな考えを持ってこの重大使命の折衝に当っておるのでないことを御了承願いたい。特に先ほどからくどく私が申し上げた通り、技術的な不手ぎわな点に対する注意というものは受けるのでございますが、もう少しく冷静になって、この間の経緯というものを御了承願えれば、私はわかると思うのであります。
  151. 原健三郎

  152. 野澤清人

    野澤委員 今まで各委員野溝参考人とのお話を聞いていまして、私も野溝さんと一緒にソ連まで参った男でありますが、きょうの問答を聞いていますと、かなり極端なせんさくがお互いに続けられておると思うのです。そこで草むらの中から大砲のたまが飛び出して落ちてしまって被害があったのに、そのたまはどこから出たかというので、今探している。実際これは国会議員としては当然かもしれぬが、私もかつてシベリアの捕虜生活を三年した男なのです。その捕虜手紙を中心にして、これだけの議論をしなければならぬところに、日本国民の情なさがあると思う。そこで私は、野溝さんがどういう考えでこれを発表したとか、国策の線に沿うて、反対的な考え方からこれを捨てたとか、こういうことをせんさくすることは、むしろ大砲のたまを撃ってしまって、その大砲のたまのありかを探してみるのに、ソ連の方にがん首が向いているのか日本の方にがん首が向いているのかというようなことで、たまを探しているようなものです。これはせんさくすることは御自由ですから、ごゆっくりおやりになった方がいい。それよりも、私は二十一日間、野溝さんと行動をともにしていたのですから、そういう形でせんさくすることは、どっちを向いてたまを撃ったか、どこの品から出たかということよりも、その当時における野溝さん自体の心理状態がどうであったかということが、国会議員としての大事な問題じゃないかと思う。過去にさかのぼって幾らせんさくしたって、お互いに品の達者な連中が上手に言いまくったって、きりがつかない。要は、結論として、野溝さん自身が大局から見て、日本国家にも国民にもまことにそこつでございましたと言って一言わびてくれれば、こんな委員会は長くやる必要はないと思う。要はあなた自身の精神状態が、今日雑誌でたたかれたり委員会でたたかれたりするから、いろいろサギをカラスと言いまくらなければならぬ。それよりも、二十一日間の行動をゆっくり考えれば、結論は簡単です。他意も何もなかったとあなたは言う。誠心誠意やったというなら、あっさりここで、まことに手続上も私の取扱い上も至らなかったと言って、国民にあやまってもらえばそれでいいと思う。ただそれだけを考えられて、解決がつく問題だと思うから、はっきり肯定してもらいたいと思う。
  153. 野溝勝

    野溝参考人 野澤さんにお答えしますが、午前中にもさよう意見もちょいちょい出たのです。感謝感激雨あられと言いますけれども、私は今日まで政治生活三十八年の間で、こんなに感謝感激されたことはないと思います。その点におきまして、私は皆さんに御理解願いたいと思う。私のところだけでも何百通の感謝の手紙が来ております。その他の人のところへも来ておるのでございます。行った方のところへ来ております。そこで、特に野澤さんから、禅問答のようなことを言ってみてもだめだ、だからとにかくその当時の精神状態をはっきりしろというむずかしい精神鑑定の論争でございますが、この点はもうはっきりしておるのでございます。私は日本人でございます。私は祖国ソビエトとは考えておりません。あくまでも祖国日本でございます。それでおわかりになると思います。
  154. 野澤清人

    野澤委員 よく語るに落ちると言いますが、私はあなたのその当時の気持だけを申し上げた。ソ連を祖国とあなたが考えているとは申し上げたわけではない。精神が分裂しておるのだと私は非難したのじゃありません。ただ、たまが出たときのあなたの精神状態ということだけを指摘したのです。それもあなた自身がそういう解説をつけるところに、あなた自身の本質的な誤まりがあると私は思う。こういうふうな問答を繰り返すからこそ時間が長びく、あっさりやったらいいじゃないか。私は決してあなたを侮辱しているのではない。また三十八年の歴史を聞いているのではない。三十八年前は、私はまだ赤ん坊だったから、そんなことを聞いているのではない。要は、今度帰ってきたときに、あなたがあれだけ熱心に汗をかきかきソ連を回ってきた、その真剣な気持はよくわかる。わかっているが、今ここでもってサギをカラスと言いまくるから、あの当時の気持に返って、あっさり行き届かなかったということを陣謝したらいいじゃないか。それをあなた自身が自己弁解するから、最も悪い素質を暴露したものだと私は思う。
  155. 野溝勝

    野溝参考人 野澤さんにお答えいたします。野澤さんのような、特にソ同盟事情をよくわかり、特に日ソの国交の問題についても非常に複雑な点もよくわかっておる方でございますので、私に聞くよりは、野澤さん自身がわかって下さると思います。私は先ほどから、松岡さんあるいは木村さん、臼井さん等にも詳しく申し上げました通り、私もやはり人間でございます。欠点の多い者でございますから、やはり不徳の点もあると思います。そうして技術の点に対する欠点もあると思います。そういう点については、私も十分反省いたしますが、ほかの点につきましては努力してきたつもりでございますので、さよう御了承願いたいと思います。
  156. 野澤清人

    野澤委員 いろいろ不徳のいたすところ、私も至らないところも多々ありますと言って率直にお認めになることは、実に日本人らしくて堂々としていると思う。そこでせっかく不徳のいたすところをお認めになるのなら、きょう議論になっています手続上の問題、発表問題等については言いわけをしないで、率直にやられた方がいいと思う。その他のことについてはと言うと、何か含みがある。そんなことでなしに、帰ってきたときに実際そこつだった、申しわけなかったと言えば、野溝第二団長は大政治家だと思う。どうかそういうところまで言っていただきたいと思います。
  157. 野溝勝

    野溝参考人 これは私は先ほどから何回も申し上げたのですが、技術の不手ぎわの点については、人間でございますから注意します。こう言ったのです。しかし発表については、いち早く全国民に知らしたい、こういう気持から新聞記者諸君にその際発表したのでございますから、さよう御了承願います。
  158. 木村文男

    ○木村(文)委員 午前中の私の質問に対して、あなたは厚生省の方にはちゃんと出してある、それは名簿でしょうと言ったら、そうでない、こう言っておる……。   〔「議事進行も許さぬのか。」と呼び、その他発言する者多し〕
  159. 原健三郎

    原委員長 私語を禁じます。
  160. 木村文男

    ○木村(文)委員 それは、今の山口という方と田島さんの関係によって、これが明らかに出ていないということはわかったのであるから、あなたは私に対してああ言った立場からいりても、取り消しするとともに陳謝してもらいたい。要求する。
  161. 野溝勝

    野溝参考人 それはあなたの言うこともよく聞き取れなかったから、その間にわずかの違いがあるといっても、それは問題にするほどのことはないと思うのです。今言う通り、私としては名簿のほかに、書記が渡してあるかと思ったのですが、それはその場合の過程において、あとでお渡ししょうということになったそうでございますから、さような点については、松岡さんにお答えした通りであります。
  162. 木村文男

    ○木村(文)委員 そこであなたに私はお聞きしたいのですが、あなたは、午前中の臼井委員質問に対してこう言っている。私はどこへ行っても、決して待遇の問題とかあるいはまた栄養の問題とかについてはよいとは言っていない、こう言っているが、ところが札幌における演説の際にどういうことが起きたかということは、あなたの胸三寸にお問いになったらわかると思う。私はこれは詳細に調査してある。そこであなたの言うのは、この通り、今の厚生省の一事をもってしても——あなたの行く先々のことを全部調べてある、そのつもりで答えなさい。そこであなたは、その際に札幌において何と言っているかというと、大へんなことを言っている。栄養は絶対に悪くありませんとはっきり言っている。待遇も悪くありませんと言っている。そこで、第五次で引き揚げてきた人が、あなたに食ってかかって、論争が起きたことをあなたは認めませんか。これが一つ
  163. 野溝勝

    野溝参考人 私は演説をしたことはないが、演説といえば演説にとれますが、懇談をしたわけでございます。札幌に行って懇談をいたしました。そこで私の言ったことは、先ほど穗積幹事が言われたことによって大体御理解頼ったのではなぜでしょうか。私どもは、戦争前にずいぶん牢獄にぶち込まれましたので、そういう感じがありますので、特に私の表現におきまして、自分たちが想像しておったよりはまあいいような感じがいたしますという意味の気持で表現したのでございます。でありますから、絶対にいいということは言っておりません。まあいい方だと私は感じて参りましたということを申しました。速記にとってありませんから、私自身の表現は、あなたがどういう意味でそういうことをおっしやるか、また私自身は懇談的な要項もあるから御了承願いたい。  それから、その際に一人発言をして、あなたに攻撃した人があったが、それを知っているかという御意見でございますが、それは多分薬のことじゃないでしょうか。薬の点については、抑留者から強く意見が出ておるかと聞かれたから、私はあまりなかったということを言いました。しかし絶対ないとは言いません。特に一番必要だったのは写真とかあるいは手紙、それから昔自分が子供の時分から好きだった郷里のものを送ってもらいたい。これが何よりである。それからあとは、新聞であるとかあるいは小包であるという話をしました。それから薬品の中で、特にあなたは薬品について大体間に合うらしく表現をされたが、ビタミンは不足しておることは承知かと言うから、それは承知していると言いました。しかしそれらについても、医者の言うのには、十分薬で間に合わして陥る、こう言いました。そこでまた、こういう意見がございました。しかし、それについて、帰ってきてから、一体どういうことをしたか、こういうよう意見でございました。多分そんなように聞いております。そこで私どもは、ソ同盟の出先機関に向かって、ビタミン等の不足しておることを申し上げ薬の送付についても、あるいは小包の送付につきましても、届かぬことのないように十分御留意を願いたいということを申しまして、その結果、最近におきましては、特に薬なども向うへ送れることができるようになりましたということを話しました。
  164. 木村文男

    ○木村(文)委員 あなたはこうおっしゃっておる。今の発言のようでなく、収容者は、栄養失調とは見てこない、私などよりもずっと血色がよい、こういう発言をしておられる、よろしゅうございますか、こう発言していませんか、まずこれを一つ聞きます。
  165. 野溝勝

    野溝参考人 それは、栄養失調というものの判断ですね。価値判断の問題になってくるのですが、……、(「あまり俘虜をおもちゃにするなよ。」と呼ぶ者あり)いや、そんな気持はありません。その点については、私は栄養失調というふうには考えられませんので、さように申しました。病気で入院しておるとか、治療を受けている人々、これらの方々は、もちろん実際病気でございました。しかしほかの点については、三百グラムとパン食等をやっておるのでありますから、私は以上の表現をいたしました。
  166. 木村文男

    ○木村(文)委員 それから、あなたはその席上において、油類、被服にも不自由もない。食事にしても、たとえば油類はちゃんと欠かさずに給与されておる、こう発言せられておるが、これは事実ですか。
  167. 野溝勝

    野溝参考人 私は、そういう具体的なことは度忘れしたことがあるかもしれませんが、またあとで御質問願いたい。油類もやっておるようです。こう言いました。
  168. 木村文男

    ○木村(文)委員 それからもう一つは、医療設備について、あなたはこういうことをおっしゃっておる。薬にしても、ビタミンにしろ、一切備えてあるから、心配して送るような必要はない、こう断言している。
  169. 野溝勝

    野溝参考人 いや、医者の言うのには、ビタミンも薬も十分用意してあるから左聞きましたから、その点は私もある程度安心をしておりました、こう言いました。
  170. 臼井莊一

    ○臼井委員 今の野溝君のお答えによると、各地で非常に状況がいいようなことをおっしゃっておる。私はその事実は、実は初めて伺う。私は実はそういうことを心配して、ほんとうのあちらの状態を、単に表面をごらんになったばかりでなく、各地の俘虜のほんとうの状況を国民に知らせて、救援の手を皆で差し伸べるようにしなくてはいかぬというので申し上げた。ところが、先ほど松岡委員からも申し上げましたように、この国策の問題について、あなたは六建作業隊も、多数だか少数だかわからぬという御意見だったけれども、六建作業隊の文書の中に、国策について述べております。「特に私共所謂「戦犯軍事俘虜」に関する問題が若しも交渉の上に暗影を投ずるがごときことあってはなりませぬ。勿論一日も早く祖国に帰還し其の復興に参与することが私共の唯一の希望であったのでありますが、然し乍ら之が両国交渉の障碍になるに至っては、事此処に終わんぬであります。之は私共大部分の者の真意であります。何卒此の意志を祖国の朝野に御伝え下さい。」と、実にわれわれ国民としては涙なくしては読むことのできないようなことを述べておる。六建作業隊ばかりでなく、「議員各位殿」豊山という手紙につきましても、先ほど松岡委員が申し上げましたように、「今次戦犯釈放問題に関し将来の日本の方向国策を曲げる事あるべからず。即ち吾等国を思う誠心拾年の古と寸毫も不変ざればなり。祖国の為めには喜びて此の地に骨を朽ちせしむる覚悟あり。」という、こういうりっぱなものを、なぜ国民に周知するような方法をとらなかったか。さらにまた「祖国日本議員団の皆様へ」という中にも、「どうか祖国の皆様立派な国を作って下さい。飽く迄も所信に向って邁進して下さい。私達のために無理されたり又国策に変向を来すと云う様な事は決して有ってはなりません。」といっておる。この手紙にみな出ておる。そこで松岡委員がおっしゃったのは、あなたの御意見というものは、手紙と違うがゆえに、発表において——あなたは発表と言うけれども発表しなかったという結論に達するよう状況ではなかったかということと、もう一つは木村委員から申し上げたように、この中にも栄養に関する問題が非常に書いてある。栄養に関する問題についても、「即ち今日拾年以前と異なり体力甚だ劣り毎月一名の死亡者を出正す。高血圧心臓病胃腸患者等その過半数を算す。今冬の酷寒を思へば思ひ半ばに過ぐ。」というようなことが書いてある。待遇にいたしましても、「吾等の身分に対する国際公報を受けあらず。病人の正当なる取扱ひを受けざるのみか総べて作業忌避者として諸種の法に処せられ又小包の内容品の不当なる差し押え及び非文化的検閲等々只に一、二の例を挙げたるのみ。」というようなことが書いてある。そこであなたの御意見と、この手紙内容が違うがゆえに、われわれにもお示しにならなかった。また羽田において発表したと言いますけれども、その発表新聞に出ていない。新聞に出ていなければ、さらに第二の方法を講じて、これを忠実に発表しなければならぬ。私は野溝さんの人格を決して疑うのではない、りっぱな方と思っております。しかし、祖国を離れて十年、幽囚の暮しをされていて、皆さんがおいでになったから、国会議員というものを信頼して、国会議員こそわれわれのほんとうの思いを伝えてくれるというので、このような血の出るよう手紙を書いたのだと思う。私がこういうことを申し上げるのは、何もあなたを責めようということじゃなくて、この血の出るよう手紙がもしこのまま埋もれてしまったとしたならば……、(発言する者多し)そこに私たちは大きな問題があると思う。それであなたのやり方に対しても責めざるを得ない。でありますから、先ほど野澤君のおっしゃったように、確かにあなたも手続上においても欠けるところがあったというなら、その内容に対する問題は別としても、これは私は国民に対して相済まないことをした、俘虜の方の多くの意見はこういうものであるということを、本日発表になったのを機会に、ほんとうに発表になったのはきょうなんですから、この機会に、私は国民に陳謝すべきものであると考えるのであります。その点について答えて下さい。
  171. 野溝勝

    野溝参考人 先ほどからたびたび同じようなことを繰り返されておるのでございますが、先ほどから私何回も申しておりますように、大体抑留者方々を、われわれといたしましては、最初の申し合せ通り、なるべく早く釈放したいということについては、これは全部が一致しておるのであります。われわれは真実の上に現われて行動したことをまず御了解を願いたいと思います。そこでその努力をしてきたのでございますが、帰国してから書面の発表のやり方について足らなかったというような点についてのおしかりだと思うのでありますが、足らない点については、先ほどから何回も申したと思いますが、こうした点を発表したらよかった、あるいはこういうことをやればよかったという点については、このやり方について足りない点は、私どもこれを反省するつもりであります。
  172. 木村文男

    ○木村(文)委員 野溝参考人に、私のこれは最後の質問になると思いますが、あなたが午前中にお答えになりましたときには、きっぱりと、栄養の問題についても待遇の問題についても私はいいとは言っていません、こうおつしやっておる。ところがさきの山口市における演説会の席上においても、あなたはそれをおっしゃっているし、ただいま私が申し上げた札幌市においても、これを言うているし、もう一つは、これは待遇とは違いますが、書類の提出の問題についても、すでに厚生省の問題がある。政治家というものは、言うことと行うことに、いわゆる信義が必要だ、それがなければならないと思う。そういうところから考えても、あなたに先ほどから忠言といいますか、日本民族としての立場に立って、切々の言を吐いて、臼井委員が、率直にとの事実を認めて、あなたはあやまる気はないか、こういうことを何かの魂胆があってやっているのか、こういうようなところまで突っ込んで言っている。こういうような面から見ても、あなたは午前中からここへ出られて、私が指折り数えて三つの錯誤が出たということによっても、明らかにあなたが団長としての責任を果してないということになるが、この点は率直に認められないか。
  173. 野溝勝

    野溝参考人 それは、木村さん、佐々木参考人の文書の中にもあります通り、決定的に、私は栄養の問題がいいとは言ってないということをちゃんと書いてあるでしょう。私は決定的に言っていませんよ。そういう点について、十分一つ速記録をごらん願いたいと思います。それから文章の提出についてまた御意見がございましたが、先ほど申した通り、同じことを何回も繰り返しておりますから、矢ほどの答弁て一つ御了解を願います。
  174. 木村文男

    ○木村(文)委員 私の言うのは、午前中のそういうよう間違いが事実ここにある。のみならず、あなたは午前中に、栄養問題と待遇問題については私はいいとは言っていない、こうおっしゃっている。それが札幌市におけるあなたの発言、山口市におけるところのあなたの演説、こういったようなところにおいて、あなたははっきりこれを否定しているんだ。そういう発言をあなたは今認めたでしょう。そういうことによって、あなたが政治家としての信義を守る意味においても、私は率直にここに自分が興奮のあまりというか、あるいはまたそのときの場によって、自分が曲げて発言をしているというようなことを認めるわけにはいかないかと言うんだ。事実だから。
  175. 野溝勝

    野溝参考人 それは先ほど言った点でおわかりにならないのですか。私は栄養の点についても、必ずしも悪いとのみは言えないと言いました。あなた速記録かなんか持ってきたのですか。私は速記録で言われるならば具体的ですけれども、ただ個人手紙だけではどうかと思います。その点については、非常に問題が残ると思います。それから先ほど来申した栄養の評価の問題ですが、病気で入院しているか、さもなければ科学的な判断によってどう、ということならば評価もできるのでございますが、さもなければ、まあ動いて、ある程度活動ができて、顔色がある程度になっていれば、全然悪いとも言えませんからね。そういう点について表現したのでございまして、佐々木参考人の発言の中にもあります通り、私の発言が決定的にということは言っておらぬ。そういう点で御了解願います。
  176. 臼井莊一

    ○臼井委員 もう一つ、事実について詳しくお伺いしたいのですが、参考人はここに出ている手紙——まずこの国民とか代議士とかいうものに対して、これは全部でありますかどうか、この点をお伺いいたします。
  177. 野溝勝

    野溝参考人 この点は先ほど申し上げた通り訪ソ議員団を中心に考えておりました。
  178. 臼井莊一

    ○臼井委員 それでは、この文書はあなたが預かっていらっしゃったのですかどうですか、一つお伺いしたい。「(ハバロフスク第一収容所元陸軍下士官三十九才)一筆以て啓上申上げます。先ず、態々遠路来所せられました事、並に日夜国事に御尽力せられある事を、衷心より感謝するものであります。昭和二十七年、高良婦人来所の時にも、斯くあった様に、それ以上に虚飾された一夜漬の収容所です。決して此の様な環境に抑留日本人が、過去十年収容されたものでも又、現在されて居るものでもありません。表裏殊に裏面を深く観察せられ、ソ同盟の実相を正しく国民に指導せられ、日本再興の大計に過誤なき様、念の為申上げる次第です。寧ろ私達一人一人の丸十ケ年、一切の自由を奪われ、傷めつけられている蒼顔をしっかり見つめて御帰りなられん事を切に御願申上げます。尚、皇軍の元将校にして」云々と書いてあります。「昭和三十年九月二十九日、佐藤栄三、日本代議士殿」という手紙があるのです。この点は本委員会に出ておりませんが、お預かりになってきたのでありますかどうか。
  179. 野溝勝

    野溝参考人 その点については、山口書記の方に預かった文書しか受け取っておりませんから、それらについては、山口書記からお答えいたします。
  180. 臼井莊一

    ○臼井委員 これはこういう手紙なんですよ。しかも「日本代議士殿」というので一雑誌に出ているんだけれども、これはうそじゃないと思う。この手紙は一体どこにどういうふうにされたか、伺いたい。
  181. 野溝勝

    野溝参考人 穗積君の方からお答えいたします。
  182. 穗積七郎

    穗積七郎君 この委員会は、お互いに国会議員として、同僚としての超党派で引き揚げ問題等を審議しようということですから、従って、もう少し議事の進め方を……。(発言する者多し)順を追って整理していきたいと思うんだ。   〔「預かったか預からないか」「答弁答弁」「静粛々々」その他発言する者多く、議場騒然〕
  183. 原健三郎

    原委員長 静粛に願います。
  184. 穗積七郎

    穗積七郎君 最初に、私に対する質問に答えますが、北村第一団長に報告をしたかどうかという稻葉委員の御質問で、これはまことにけっこうな御質問でございますから、重要な点ですから、私から正確にお答えしておきます。実は、九月二十一日で大体当初予定のソビエトにおける日程が済んだときに、先ほど申しましたよう事情によりて、北村団長を中心とする各派の議員が一路北京を通って日本へ帰るというのが一団です。それからもう一つは、ポーランドへ行くのと、それからすぐ西ヨーロッパへ行くのと、大体大まかに分けまして三班に分れた。そこで、実はこの三班は全体の訪ソ議員団の第一団、第二団、第三団としたらどうかということだったのです。そのときに稲葉さんの御意見は、これは第二団、第三団として認めがたい、本隊はあくまで北村団長を中心とする東京帰りの団である。しかしお互いにこうやって来たんだから、一つ友誼的に話をして、そうして第二団も少くとも認めたらどうかということで、実は確定的にここで話がきまらなかった。しかしそれが団を構成して、そうして各地へ分れて訪問することは認めよう。そうして今度は、本国へ帰ってからの発表はどうするかということもちゃんと打ち合せた。——こういう御質問があろうと思って申し上げるのですから、ここからよく聞いて下さい。発表については、実は一番先に第一団であります北村団長を中心とする団が帰られるから、そのときに最初に声明を発表しなければならない。これは全体の訪ソ議員団を代表して声明を発表しょう。その文案は、モスクワで別れるときに、各派共同でやろうというので、二十一日の夜おそく、実は審議して発表した。これは北村団長を中心とする第一団だけの声明ではございません。それから第二団はポーランドへ参り、第三団は西ヨーロッパへ行って、そこで私どもの提案は、そういう取扱いにするなら、団の解団はモスクワでするのか、全部が東京へ帰って、しかも西ヨーロッパへお回りになる方は、実は個人的な御旅行もあるようだから——これはおもに自由党の方々を中心とする議員団でしたが、そのすべての方々がお帰りになってから、そこで正式に団を解散するかどうかということについては——また報告についても、訪ソ議員団としての責任ある報告をすることもそのときに関連いたしますから、そこで帰ってからの取扱いについて相談をいたしました。そうしたら、大体団はモスクワで解散しないで、そこで事実上少くとも第二団は認めて、そして第二団長が入っております議員団が帰ったときに、東京で一ぺん正式に解散式をやろうじゃないか。そしてお互に、できたならばあとで感想も討議しようじゃないかというような友誼的な申し合せが行われたわけでございます。そこで、実は第二団の野溝団長初めわれわれの行動は、一体訪ソ議員団全体の団であるのか、または分れていった八名の議員団だけの議員であるのか、それについては、今言った事情で、確定的な解釈は統一されていなかったのです。ところが当時の稲葉幹事が今見えて、これは明らかにわれわれが当初要求したように、訪ソ議員団全体の中の一部の行動であるから、従って北村団長も責任があると同時に、聞く権利がある、こういうお話であった。従ってわれわれは、少くとも報告をすべき友誼的な義務は感じてもよろしいとう解釈なので、この解釈は実は今初めて稲葉さんから伺ったのです。あなた方は初めから、われわれ第二団または第三団は、訪ソ議員団の正式な第二団、第三団として認めがたいという態度をとってこられた。その間のことは、今言ったようにあいまいであったのだが、今初めて、この第二団も正式な責任がある、すなわち発表については北村団長も責任があるということを言っておられるわけです。この発表において手落ちがあるならば、野溝団長並びにわれわれ八人だけでなくて、北村団長訪ソ議員団の第一団長としての重天なる責任があるとあなたの品から言っておられるわけだ。そこで、そういうことを大体頭の中に入れて、聞いていただきたい。(「報告しないで北村さんに責任があるなんていうことがあるか」と呼ぶ者あり)私は報告の事実をお話しいたします。そこでハバロフスクへ参りまして、あすこでいろいろな意見や陳情があった中で、保守党の諸君がきょう言ったように、誤解に基いたり推測に基いて、われわれが、ためにせんためにこの発表をとめたというようなことをお考えになられては、かえって困る、迷惑しごくだというので、これはぜひありのままに発表すべきではないかという、実は申し合せをしております。そこで最初に参りましたのは香港です。香港に参ったときに、……(発言する者あり)臼井さん、お聞きなさい。あなた十月六日の新聞を見ましたか。(臼井委員「見た」と呼ぶ)その中でこういうことを言っている。文書のこまかい現物の発表は、むろん帰ってから報告しなければならないが、事実だけは事実であるからというので、野溝団長談話の中で、あるいはまた、他の議員談話の中で、われわれは国の犠牲になってもいいから、国策を曲げてもらっては困る、われわれは帰りたいことは帰りたいが、われわれを帰すためには、万一国策に影響するようなことがあれば、それは忍びがたいから、そういうわれわれのことは考えないでやってもらいたい、こういう趣旨のけなげな意見がありましたということが一点、もう一つは、日本人が、日本人だけのことでなくて、戦争に協力した外国人のことまで思いをいたしてやっておるということは、お互いに日本として、われわれはりっぱな友情だというふうに特に強く感じましたから、その二点について、香港から直ちに発表いたしました。隠蔽はいたしません。ところが香港における発表は先ほど言ったように、書類名簿等が未整理でございますから、現物のこまかい発表は本国に帰ってからする、新聞社もその方がよかろうということで、別れて羽田に来た。羽田における発表から見ても、先ほどから問題になっておる六建作業隊の意見書を中心とする文書等については、一応発表いたしました。それから帰ったので、直ちに第一団長である北村さんのお宅に電話をかけまして、無事に帰りました、皆さんが希望しておられたハバロフスクには、私どもが行って参りました、報告もありますから、報告もいたしましょう、同時に団は、われわれの解釈では、モスクワにおいて解散したのではない、少くとも第二団長野溝さんがおられた団が帰ってから、そこで欧州を回った諸君の帰りの様子を見て、一ぺん正式に議員総会を開いて、そこでお互いに話し合って、正式に解散式をやりましょう、また出かけますときに、引き揚げ団体、あるいは漁業団体、貿易団体等との関係もあるから、それに対する報告もいたしましょうということを申し入れた。そういうことで、私は帰ってからすぐあなたにも電話をかけ、北村さんにも電話をかけた。あなたは多分お国に報告演説会に帰っておられたのではないかと記憶しております。北村さんは当時おられた。稲葉君が帰ってから相談して打ち合せをしようということだった。ところがそれより前に、留守家族諸君が来られて次の日曜日である十月九日に、日赤において大会をやるから、報告をしてもらいたいということであったから、報告をした。そのときは、ハバロフスクには行かれなかったけれども北村団長にも来ていただきたい、ここにおられる当時右派の中村高一君にも来ていただきたいということで、御招待を申し上げて、日赤において会見をいたしました。そのときに、私はこういう重大なことは隠してはいかぬというので、私どもの報告の中では、六建作業隊のものは代表的です。……。(「わかった」「簡単簡単」と呼ぶ者あり)稲葉さん、よく聞きなさい。私は六建作業隊のものはここにありますから、見てくださいと言ったのではない。これは代表的な一つでございますと言って、正確に私は文書を出して朗読して、このほかにも類似の意見書もありますから、どうぞ自由にごらん下さい……。(「少数意見だと言ったろう」と呼ぶ者あり)少数意見だなんてだれが言った。そんなことは言っていない。そういうことで報告いたしました。それから打ち合せた結果、お帰りになってから、十一月二日に議員総会をやって、正式な報告会をしようじゃないか、こういうことでした。そうしたら……。(「もういい。わかった。」と呼ぶ者あり)都合の悪いことに耳をおおうてはいかぬ。静粛に聞き給え。(「あしたやれ」と呼ぶ者あり)卑怯だ。(「卑怯とは何だ」と呼ぶ者あり)卑怯だ。自民党卑怯だ。正確に報告しておるのだ……。   〔発言する者多く、議場騒然〕
  185. 原健三郎

    原委員長 この際、お諮りいたします。まだ質疑がありますので、なお引き続き、明日、野溝勝君に参考人として出席を願い、事情を聴取することに異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  186. 原健三郎

    原委員長 御異議なければ、さよう決定いたします。明日また開会いたします。本日はこれにて散会いたします。    午後五時八分散会      ————◇—————