○
穗積七郎君 簡単明瞭だ。よく聞いておきなさいよ。われわれは、臼井さんも御承知の
通り、ヴォルコフ、ラツイス両
議長の招待で
向うに行ったわけなんです。従って、
向うの受け入れ機関は、
ソビエト最高
会議ですから、われわれの要望なりあるいは手続なり日程なりにつきましては、すべてその最高
会議の事務局の責任者であったドーミン君を通じて話をしたわけです。それでわれわれが着きましたのが九月二日の午後二時ごろで、すぐ四時ごろからクレムリンで両
議長がお迎えの会をしたいから、来てもらいたいということで行った。そのとき両
議長から、あなた方がおいでになって感謝いたします、そして、このことは両国の友好親善のためと、懸案問題解決のために有益だと思うから十分話し合いをしてみたいし、見てもらいたい、ついてはあなた方はお客さんですから、お見えになってから日程を組むべきだが、そうしておると数日を空費することになるから、あらかじめこちらで日程を組んでおきました、これは最後的決定ではなく、お客さんの御希望があれば、それをくんで修正しますという
あいさつがあった。私は必要なことだけを説明いたします。それがすべての
あいさつではない。それから
ハバロフスク訪問の申し込みなんですが、日程を見ると、さっきあなたがおっしゃった
ように、われわれの希望するところの
収容所等の
視察日程が入っていない。
ハバロフスクその他に、われわれは出発前に幹事会で案を練って、会いたい人、見たいところ、
訪問したいところは全部文書で送っておったのにもかかわらず、それが出ておらなかった。それでわれわれは、九月二日夕方に着いて、すぐ私は
個人としてドーミンにその意思を申しました。
収容所をぜひ
訪問させてもらいたい、これは
日本国民の熱なる希望であるから全員行きたいという話をした。それで明けて三日の日に幹事会の決定として、正式に両
団長の了承を得て、ドーミン氏に日程について打ち合せをしたいから来ていただきたいということで、稲葉秀三君が当日の当番幹事でしたから、稲葉君の
部屋へ他の幹事全部四人が集まってドーミン氏を呼んで、そこで正式に申し入れをしたのです。これは九月三日のことです。そうしたら、それはよくわかりました、そこで念のためお尋ねいたしますが、第一、
イワノボの
訪問は、貴国の
訪問者の方は多数行っておられる、そしてこれは全部自動車で行かなければなりませんが、そういうことだから全部いらっしゃいますか、あるいは少数の代表だけいらっしゃいますかと、う
質問があった。そのときに、当時自由党の幹事であった伊藤君、民主党の幹事であった稻葉君等が、それでは三十八人、随員を入れて四十二人全部行きますと言った。距離はモスクワ郊外といいますが、大体距離をはかってみますと、
イワノボまで約東京から名古屋の先あたりまでありますが、それを自動車で飛んで、しかも途中で自動車を乗りかえて行かなければならぬ。これは南原総長が前に行かれて、その間の
事情をよく言っておるが、これは迷惑だから少数にしたらどうだ、しかもあなた方の政党である深川タマエさんが、実は最後に病気で行かなかったが、そういうからだの悪い人とか、他に
視察の希望のある人もいるから、
イワノボだけは代表ではどうだという発言をドーミンにされた。私はそれはいかぬと即座に言った。ちょっと見苦しかったが、それは全員希望しておりますと言って、すぐ稲葉君に耳打ちをして、引き揚げ問題というのは国民の熱烈なる要望だということを
向うに
印象づけるために、せっかく日程に載っていない
イワノボ、
ハバロフスクの
訪問を要求しておいて、全員行かぬで代表だけで行けばいいということは、口では言っておるけれ
ども、国民の引き揚げ問題に対する熱意を疑われるから、迷惑でも何でも全員行こう、あっちではちゃんとお客さんの欲することは何でもやると言うのだから、そのかわりに、
向うの
諸君が来たときには、
向うの要望
通りに日程を組んでお迎えしたらいいじゃないか、そんなことを遠慮する必要はないと稻葉君に耳打ちした。稲葉君が伊藤君に耳打ちをして、伊藤君が山田君に耳打ちをして、そこでぐずぐず言っておったが、全員参ります、だから自動車もその配車をしてもらいたいということでやった。それが九月三日のことです。それからわれわれは御承知の
通りレニングラードに参りました。レニングラードから帰ったのが九月八日、明けて九日に再び結果を聞いた。われわれの要望である
視察または
訪問の箇所の
許可はおりましたか、おりていなかったら督促してもらいたい、これはわれわれの熱なる要望であるから、初めから文書で出した
通りである、途中で思いついた
訪問じゃないのだということで、九月九日に正式に幹事会を通じてまた申し入れました。これが第二回。ところがまだ返事がありません。その日の晩に飛行機でスターリングラード地区並びにウクライナ、コーカサス地区に立ってもらいたいということであったから、それでは立ちましょう、立ちますが、われわれは国会
諸君の招待であるが、政府の代表と両国の懸案の問題についてぜひ話し合いたい、
収容所訪問は欠くことのできないわれわれの
視察要望であるから、ぜひともいれてもらいたいということを重ねて強く要望して、スターリングラード地区に立った。帰ったのが九月十七日の晩です。明けて十八日に再び正式な幹事会において、これはすべて団を代表する
意見として言っておりますが、両
団長の強い熱意もありましたから、そういう意味で重ねて要望したわけです。それでもなおかつまだ返事がこない。そうしてさきに言った
ように、前日の十九日の日になって、あしたの八時から
イワノボに行ってもらうことになりました、ですから全員御用意下さい、全員いらっしゃいますかと言ったら、あなたの党の深川タマエさんは、私はちょっとからだの工合が悪いからやめるといっておやめになったから、私が、一人でも欠けては
日本人の引き揚げ問題に対する熱意が疑われると思って、ドーミン君にすぐ、深川さんの行かないのは不熱心のためじゃない、病気のためだから
誤解してもらいたくないということを申し入れた。だかう自動車は四十二人全部乗れる
ような配車をしてもらって行ってきた。帰ってきたのはあくる日、朝八時にモスコーのホテルを立って夕方の五時半に着いた。それから一時間半の面会をして七時に終って、それから三十分で食事を終えて、すぐ自動車で引き返して、夜明けの四時半ごろモスクワのホテルに帰った。帰ってからすぐ、私がうとうとする間もなく、朝の八時ごろドーミンがやって参りまして、幹事会を開いてもらいたい、申しげ上げたいことがあります、本日お昼にクレムリンにおいて
フルシチョフ、ブルガーニン氏と会談をしていただくことになりましたから、御用意下さいと言ったから、そこですぐどういう話をするかということで幹事会を開いた。それについては、さっきの
ハバロフスク訪問についての問題がありますから申しげ上げますが、この場合においては、幹事会においてわれわれが今まで希望したことについて話し合いの日程も出てこない、また
収容所訪問も
向うが言ってこない。これはさっき臼井さんが言われた
ように、黙して語らずということは拒絶の返事じゃないか、これは外国のエチケットを知っておられる
ような方がそういう推測をせられた。私はそんなばかなことを言うな、われわれは招かれてきたんだ、だてや酔狂で見物にきたのではない。
ハバロフスクの
訪問と引き揚げ問題を、
フルシチョフ、ブルガーニンあるいはその他の
名前もずっと書いてあるけれ
ども、モロトフは当時アメリカへ行っておったから会えなんだが、貿易大臣、漁業大臣、
内務大臣、赤十字社の社長、これが急務じゃないか、お客さんを呼んでおいて、主人が最初の日に、日程については御希望
通りにいたしますから十分やってもらいたいと言っておったにかかわらず、そんなことを言うなら、一日でも二日でもすわり込んでおれ
——われわれと相前後して久原房之助氏が
北京に行っておった。ところが久原房之助氏は、周恩来、毛沢東に会うまではおれは帰らぬと言ってすわり込んでおった。そのくらいの心臓でいこうと言ったら、実はあなたの方の稲葉修君や伊藤郷一君が反対した。それに山田節男君は社会党でありますが、オックスフォードかケンブリッジで学んだ人で、それは
穗積君ちょっと悪いと言うから、いや悪くない、われわれは国民の輿望を体してきたのだから、
留守家族に対しても、国会に対しても、国民に対しても、そういうことを要望するのは当然だ、何を言うのかとがんばって、そこで私はこれはぜひきょうの
会見の中で、強く、断固要望として言ってもらうか、ここであきらめるかどうかという分岐点に立ったのが九月十八日のことです。そこで私は強く要望しておいて、あくる目になって
イワノボの
訪問から帰ってきたら、
会見の通知があった。それで
会見内容として話すことについて、われわれはこちらから五つの問題を出しておきました。第一は領土問題、第二は漁業の問題、第三は貿易の問題、第四は引き揚げの問題、第五は国連加監の問題、さらに時間があったら文化協定の問題について話し合いをしたい。これは私が文書に書いてドーミンに通告しておきました。それは九月三日のことです。そこでもし貴国の
指導者がわれわれとこのほかの問題について話し合いたかったら、勝手に議題に追加してもらって差しつかえない、われわれは十分その問題についても、あなた方の方の提案される議題についても話し合いをする用意を持っておるから、あなた方の方もわれわれの要望について話し合いしてもらいたい、そういうことだった。それから
収容所のことについてもそうだ。
会見の通告があった。そこでわれわれは幹事会を開いて、そこで五つの問題について話をし
よう、それについては政府代表の
交渉団ではないから、国民の
意見をそのまま反映することが必要だということで、そこで各党から
一つの問題について一人ずつ代表的に話したらどうだ、三十八人がばらばらに発言してはみっともなくなるから、あらかじめ打ち合せておいて、話をしたらどうだという
意見を出した。そうしたら保守党のあなた方の幹事さん
諸君は全部反対された。それはいかぬ、そういうことでなくて、
団長にのみ発言してもらおうという
意見だったが、私はそれはいかぬと強引に言ったので、幹事会は十一時ごろでありましたが、すぐホテルで
議員総会を招集いたしました。そこでその案を提案いたしましたら、与党の方が多数反対されて、実は私の提案は葬られて、両
団長のみ発言するという取りきめになった。問題は何かといえば、こちらから提示した五つの問題、さらに時間があったら文化協定、しかしながら
向うの時間の通告は約四十分ないし五十分という通告であったから、そこでその
議員総会で緊急動議を出して、これに追加して言ってもらいたいことは、
ハバロフスクの
訪問をどうするか、ここであきらめるのか、強く要呈するのか。実は何回臼井さんが申し入れたかと言ったが、幹事会、
団長了承の上、団を代表して正式に申し入れしたのは、さっき言った日付の三回でございます。二十一日
会見前に申し入れたのは三回でございますが、実は私はあらゆる機会に、それこそ記憶にないくらい幾たびか、
団長の了解を得てドーミンに申し入れしてあります。それから、御承知の
通り、外務省は、これは議会だけではいかぬ、
収容所の問題は政府の所管であるというので、外務省はズーザ君にも申し上げるということであった。ところが返事がないから、そこで実は
議員総会で緊急動議を出して、それでこの問題については最後に
北村団長が団を代表して、
北村個人ではない、団を代表して、全員の強い熱意でございますと言って通告した。討議の問題以外に、最後にこのことについては、強く
一つフルシチョフ、ブルガーニンに主張しょう、こういうことになった。皆さんの中には、われわれが伺うと、実は社会党のみ行ったことが云々というふうにおっしゃっておられるが、実は
事情はこういうことです。そうして私は二十一日の
会見を終って……。(発言する者あり)なぜ聞かないんだ、人を呼んでおいて。重復したことは言いません。そこで、その申し入れをして、そのとき初めて、われわれは国会を通じてやるべきやつを、それを私はドーミンにも了解を得ておいた。礼儀上ですよ。国会を通じて政府へ要望すべきで、全部今までの伝達はそうだった。政府との面会も、国会を通じてきた。われわれの受け入れ団体が国会ですから。それで貿易大臣、漁業大臣、赤十字社社長という
ようなのも全部国会を通じて返事をした。ところがこの場合は、礼儀に反するかもしれませんがドーミンに断わって、直接政府当局の責任者に話してみ
よう、これに対する
向う側の返事した態度は、引き揚げ問題に対するソ連側の態度を判断する有力な材料になるという判断をして、実はそのことを申し入れた。そうしたら、そのときには、御承知の
通り、
速記にも残っておりますが、その問題についてはわれわれも、
イワノボだけでなく、
ハバロフスクへ行く熱意についてはよくわかりますが、その所管は
内務大臣がやっておりますから、最後的な確答はいたしませんが、
内務大臣と打ち合せて、御希望に沿う
ように努力したいと思うと言う。そこでわれわれも可能なりという判断をした。よく聞いて下さい、可能なりという判断をしたんですよ。そこでその言葉をどうとるかが問題だ。
北村さんがそれをどう解釈されるか問題だ。われわれの政治的直感は、これは可能性があると判断した。それですわり込んでおれというのが私の方針だった。そこですぐ幹事会を開いて、ぜひこれは待ってい
よう、大丈夫だ、二、三日知らぬ顔をして、その返事があるまで待ちましょうといって申し入れたのだが、それを振り切る
ようにして、あくる日、二十二日に
北村団長外全部お帰りになってしまった。われわれは実はまだ残った問題がありました。残った問題が討議の中であった。特にさっき言った
ような方式で、両
団長のみが短かい時間で話をするということで、あの
会見では
日本側が言い足りないという
印象を私も持ちましたから、これはこのままで帰っちゃいかぬ、モロトフ、
フルシチョフ、少くともこの先生らには、もっとわれわれの真実のこまかい要望も伝えておかなければいかぬというので、そういうことで実は考えておった。そこで
ポーランド行きのことについて、私は実は日をかせぐ意味で
ポーランドへ行ったのです。
ポーランドへ行ったのは、こっちの希望ではありません。
ポーランド大使館から、われわれに対してぜひ来てもらいたいという要望があって、そこで
北村団長了承の上で行った。二日間滞在して帰ってきたら、
あとは
団長の報告の
通り。そのときにあなたの方の
加藤高蔵君がコーカサス地帯へ行ったときに酒を飲み過ぎて、または食い過ぎて胃潰瘍になった。それで飛行機で飛んできて、クレムリン病院に入れられた。そこであなた方の
団長は、この
加藤高蔵君を置いていってしまった。
加藤高蔵君はさびしがって、あの人はあれで、伺うとまことに純情で、お坊ちゃんだそうです。酒屋の若だんなだそうだが、とても純情で、われわれが見舞にいくと喜んで、そこで御
心配なく、あなたが退院されるまでは必ずわれわれはおるし、また事務局の
諸君も、手不足だけれ
ども、一人は必ず残すから、
心配ない
ようにと言って、
ポーランドへ行って、帰ってきたら、その日退院した。その日の夕方さっきの話があったので、
あとはお聞きの
通り。
加藤高蔵君に、
電報を打つとき一に、あなたの
名前を入れておきましょう、それでいいか、と言ったら、
加藤君はいいと言っておったんです。それでヨーロッパへ行く予定もあるから、失敬する。こういう
事情であったことは、私よくわかっております、社会党が抜けがけしたのではないということは、
あとでそんなことを言う人があったら、帰ってから、私が必ず説明しますと言って、まことに御親切な取扱を感謝するといって、涙を流しておったんです。
ハバロフスクヘは保守党の
諸君は来れなかったが、
電報を打って、もし行けなかったら、そのことを伝えてもらいたいと言ったから、さきに言った
ように、
ハバロフスクの
訪問では、私が全部を紹介して、それから
団長が
あいさつした。保守党の
諸君がこういうわけで来られなかった、だから了解してもらいたい。そう言って、二日前に届けてあったたばこを配ったんです。このたばこは、われわれだけのおみやげではございません、
訪ソ議員団全体のおみやげでございますから、そのおつもりでお受け取りいただきたい、こう言うと、拍手と涙で感謝されたんです。これが事実なんです。それから、第二に、今のあなたの
質問に入りますが、さっき
野溝団長が報告された
通りに、代表的な
質問は
——この間
参考人として呼ばれた佐々木君も私の友人です。また
イワノボには、私の親戚の小畑元
少将もおりました。
ハバロフスクには私の友人が三人おりまして、瀬崎、副島、それからこの間ここへ来た佐々木君。だから
事情をよく知っておるんです。代表
質問が、さっき
団長が言った
通り、六つばかりありました。それは団の一般
質問だから整理しておきましたといって、
坂間代表から言われたから、その
通り答えた。そこで、ちょっとそこの模様を申し上げておきたいんです。あなた方は、戦争中に
日本の牢に入ったことがありますか。私は実は入ったことが二、三べんあります。
日本人で、
日本の牢屋の経験のある人なら、牢屋というものがいかにひどいものだということをすぐ想像されるでしょう。それからまた、私も初めての
ソビエト訪問なんですから、
ソビエトは何のかのと言っても、非常にえげつないことをやっているのじゃないかという先入観で行ったわけです。そうしたら、たとえば
石野君が思ったよりよかったと言うのは、こういうことです。私もちょっと申し上げておきたい。第一に、
イワノボでは、写真を所内でとれる、
日本の
新聞も去年の春から許されております。それから雑誌も、あまり思想的、政治的でないいわゆる娯楽雑誌は許されておった。ちょっと皆さんに大事な点だから、聞いておいてもらいたい。いいですか、さっき陳情の問題、要望書の問題がありましたから、
内容のことについて判断を誤ってはいかぬから申し上げるんですが、
イワノボの
諸君は、全部将官または将官待遇の
諸君、インテリゲンチャである。しかも
新聞を読むことが許されているんです。だから
日本の国内の終戦後の情勢についても、大体知っておられた。
日ソ交渉のことについても、
日本の
新聞を通じて、実は予想外によく精密に知っておられた。ところが対照的なのは、
ハバロフスクへ参りますと、ここは今言った
ような元将官の
諸君もおられます。それから私の友人の副島君は将官待遇を受けておった。そういう
諸君もおりますが、他の大多数は御承知の
ような人々です。だからだろうと思いますが、ここでは許されていない。同じ国の
収容所で、
日本の
新聞が許されておらぬのです。だから知識、認識、感覚すべてが終戦当時のまま十年間過ぎておるので、今の時勢に対しては、いわば浦島太郎の
ようなお気の毒な状態でした。だからさっき言った
ような、わかり切った
ような
日ソ交渉の見通しはどうでございましょうか、
日本の経済は、アメリカの飛行機にあすこもここもたたかれて焼かれたということは聞いたが、その後立ち直っておりますか、
日本は
民主化されたというが、世の中はどんなになっておりますか、エロ、グロが非常にはやっているということが紙の端で推測されるが、青年
諸君はどんな
気持でやっておりますか、こういう
ような
質問をしているわけです。実際知らざることに対して非常な熱意なんしです。だから一例を言いますと、われわれが行ったら、見ただけで泣いてしまった。お互い見ている
日本人八百六十九名は、十年間一緒の連中だから、終戦後十年たって、
日本の
祖国から来た
日本人を初めて見たというので、私のそばへ来て、さわってみる。ちょうどいなかの山の中の女の子が人形を初めてもらった
ように、これが
日本人かというわけだ。そういうことで、あらしの感謝
感激だ。われわれは二時間半の間泣きの涙、こういうことはうそじゃありません。そういう
質問が行われたんです。ところがこれは全部
向うの報告ではありませんから、申し上げておきますよ。演出によったものではない。そんなことは知っておりますよ。あなた方だって知ってるでしょう。
日本でも、県知事さんが小学校へ行くといったら、小学校では二、三日前からえらい騒ぎです。村長が来るといっても大騒ぎして、教室全部整理しますよ。そんなことくらいわれわれだって、牢屋の経験があれば知っておりますよ。警視総監が来るといったときには、その留置場なり牢屋の中はてんてこ無いです。だからそんなことは常識ですよ。そんなことでごまかされてくるほどわれわれの目はなまくらではないという自信をわれわれは持っておった。しかし、真実を聞く必要があるというので、そこでさっき言った
ように、面会時間二時間が
向うとこっちの対面時間、しかも
向うの人間が張り番をしておって、それで面会させるということはおもしろくないから、実はきょうは他の
議員諸君も来られればよかったが、各府県の
諸君が全部来られなくて、遺憾ながら八名しか来ておりません、従って府県を私が申し上げますから、たとえば私は受知県出身で東京に住んでおりますから、東京の
方々、それから愛知県の方だけでなく、東海四県の静岡、愛知、岐阜、三里の
諸君には、私から直接郷里のことでわかっておることはお話ししますと言って、そういう名目で面会時間をもり三十分要求したのが
許可されたわけです。これが非常に益している。このことは、われわれが目で見てよかったというのでなく、真実を聞かしてもらいたいと聞いているわけなんです。だから、
向うの方がうそを言ったならばそれは別ですよ。しかし、
抑留者は
日本人だから、
日本人同士で信頼していったならば、真実を話してくれるに違いありません。これはわれわれの目で見てきたことですから、われわれが言っておることは全部ほんとうです。そこで聞きますと、まず第一に違っておることは、
新聞がない。それから、所内で写真をとっておみやげにし
ようとしたんです。なかなか短い時間見ただけでは詳しく知らせるわけにはいかぬから、写真をとって、国のおみやげにし
ようと思って、写真をとろうとしたら、
向うの係官が来て、この
収容所では、まだ写真をとることが許されてないから、写真機は自動車の中に置いておいてもらいたい。ところがここにおります山口君が機敏にも、外からぱちっととったのが、あの全景の写真です。
新聞に
発表されておりますから、見たでしょう。これは木造の粗末な建物で、
ハバロフスクの郊外にあって、自動車で十五分くらい町続きのところです。そこへ行ってみたら、さっき言った
ように、
新聞がない、写真がとれない。これが違う。いろいろ話をしたりしている間に、こっちも泣き、
向うも泣く。一番先に泣いたのは、女だから
戸叶さん。泣きの涙で途中で話ができなくなってしまった。私もどっちかというと、大きな声を出しますけれ
ども、人情もろい方だから、ぼろぼろ涙を出した。そうしておったら、言いにくいことを言い出してきたんです。
手紙をことづけてくれといって、あらかじめ予想して、さっき言ったたばこに書いたりして、書いてきた。みんなの
手紙を持ち出してきたんです。そこには国家の責任者がおりますが、これが最高の責任者。それから
向うの所長は、少佐くらいのところで、非常に好人物な、年とった
——これは戦争の役に立たぬから、こういうところにおるんだろうと思うが、そういう軍人で、そのほかに一人の鋭い、やや
日本語のできる男、これが直接の係官だと思う。昔の軍隊でいうと、いつの時代にもいる意地の悪い特務曹長、こういうたぐい。それから刑務所にいると、中には意地の悪い刑務係長がいる。そういうのだろうと思うが、それがぼくのところへすぐやってきて、ここの所内の取締り規則として、所内の
諸君の通信は一ぺん所長に見せなければならぬことになっておりますから、所長に一ぺん出してもらいたい。そうして、全部見た上で全部差し上げますということだった。それは牢屋として認めるか認めぬかは別です。
向うは
戦犯として解釈しておるから、
戦犯収容所であるならば、これは当然なことである。われわれ牢屋の経験からいけばそうだ。それももっともだというので、私は団員にもみんなにもわかる
ようにそのことを申しました。ところがその非常に苦しい
祖国を愛する
ような陳情や話が出て、泣きの涙になったら、そこにおった国会の責任者のドーミン君は、さすがにこれは非常にいい男で、東洋人の人情のわかる人でしたが、さっと立って席をはずして上まった。これはかってに話してくれということなんです。そうしたら、さっきまでうるさいことを言っておった男も何も言わなくなった。そして、その外回りのところにも係の兵隊がおったのですが、それらも全然聞いて聞かず、見て見ぬふりをしておった。従ってあけっぱなしの話ができた。私は自分の牢屋の経験からいって、こんなことを言って
あとでひどい目にあいやせぬかと
心配するほどひどい発言があった。それから
手紙についても、済んで所内を見学してもらいたいといって回っている間に、私
どもに寄り添う
ようにして
手紙を持ってくる。われわれには
向うの通訳がついておる。さらに
向うの係がおる。それでもわれわれが受取ってポケットに入れているのを見ても、見て見ぬふりをしている。ただ最初に言ってきて、
団長に断わったやつだけは出したが、これも全部
あとで飛行場に持ってきて渡してくれた。さっきの六建隊のもそうです。
向うの解釈からいえば、都合が悪いから押えておけということになるが、それもまたこっちに返してよこした。そのほかのものは、検閲も何もありません。みんなが見ておる間にポケットに全部入れました。そこでこの
収容所はどうですか、
病人はどうですか、
労働状態はどうですか、こう言っておるのを、通訳の
諸君がおったって全然通訳しない。ですから自由自在です。所内の制限はない。
日本の牢屋で、巡査が見ておるところで、巡査の立ち会いで面会をして、話を聞いてきたのとは違いますよ。所内を見学したら二時間済んでしまった。その状態については、さっき御報告の
通りです。
あと大事な欠けたことについて申し上げますと、予定の二時間が参りましたが、私は府県別の対面をしたいから、ぜひ延ばしてもらいたいと言ったら、それでは三十分延ばしましょうといって、三十分延ばして三々五々散らばって、私の方は東海地区四県の方はみんな集まる。それから東京の
諸君も私が東京に住んでおるというので集まって、静岡が焼けた、浜松が焼けた、名古屋が焼かれたそうだが、その後どうなっているか、子供はどうでしょうか、あるいは県庁の方、町の方、村の方は
留守家族に対してどういうふうな態度をとっておるかと事こまかに聞かれました。それから
食堂へ行って、三百グラムの飯、または副食はどうですかということについても、実は全部
向うの監視なしの状態で聞いてきた話でございます。さらに問題は、実は中に共産党員と思わしき
——われわれそういうことはなれているから、発言すればすぐわかる。八百人以上の方がおられた中で、発言を聞いてみると、大体われわれが目の子勘定をしてみて、共産党と称しておられる、所内でやや対立的感情におられる方が一〇%足らずと判断をいたしました。この判断は、当らざるといえ
ども遠からずという結果を、帰った
諸君から報告を受けております。きょうはわれわれは国民を代表して来たので、政党の問題で来たのではない。引き揚げの問題は人道上の問題だから、どうぞ所内でけんかをしたり、
意見の対立はやめてもらいたいと
野溝団長は押えた。だから共産党の
諸君の言うことを聞いてきたのではありませんよ。府県別の会談もやって参りましたし、
手紙も自由自在に検閲なしに受け取ってきた。話も自由自在という状態でございます。さらにわれわれかつて牢屋の経験をした者でも予想外だったと言うのは、こういうことです。所内において団体を組織するとか、三人寄って相談をするという
ようなことは、
日本の牢屋では絶対許されませんよ。それから村田情報機関、これはあなた方から
質問が出てないから私から申し上げておきますが、村田情報機関というのは、満州における警務庁の
諸君が中心になって、副島君が起草をして、若い将校たちを集めて、帰ったら
一つ仲よくし
ようじゃないかという親睦会を作った。そうしたらそれが特殊な人たちだけの集まりたったものですから、何か
ソビエトに対する反感、または反革命的な
気持を持っておるのではないかということで調べを受けた事実がある。それに対しても陳情があった。そういうことは
日本の牢屋では絶対にできぬことです。うそだと思ったら一ぺん入ってごらんなさい。しかも
監視人のある中で、一体
ソビエトがわれわれを
戦犯に問うておるのは不当だという
ような発言も、自由自在にあった。そしてわれわれは帰るからいいが、君らは
あとに残っていじめられぬかと言ったら、そんなことは大丈夫だ。そういう状態ですから、われわれは予想外だと思ったのです。飯が足らぬことについても同様でございます。だからだれもいいなんて言っておらぬが、
日本の牢屋の経験のあるお互いだから、予想したよりはいいと思ったのです。それから三百グラムもいい、油も副食物も大体いい、栄養は足りますかと言ったら、足ります、不健康な者なら困りますが、大体八時間
労働ならばたえられます、こう言っておった。ただ訴えたのはビタミンの問題、これは
ソビエト全体の問題でございましょう。ビタミン、野菜が足らぬというのが多い。くだものは非常に貴重なものです。これは事実、中山さんなんか国際知識が豊富だから、冷静客観的に
一つ想像してみて下さい。うそじゃないですよ。それは牢屋では、くだものは食わさぬということではないんです。臼井さんだってそうじゃないですか。零下六十度のところで、ミチューリン農法でリンゴができる
ようになった。これは
日本では一山十円でも売れない。田舎の子供だってかじりやしない。それほど寒い、零下六十度の農業地帯で、リンゴができる
ようになったということは、それほど喜ばしい
ような状態ですが、ビタミン、くだもの、野菜その他が足りないというのは明瞭なんです。今、木村
委員から賢明なる御
質問があったから、そういう予備知識のもとに聞いてもらいたいと思うのです。こういう陳情があった。第一の陳情は、
病人、老弱者を帰してもらいたい。実は健康者はそとに出て、今のところは八時間の建築
労働に従っております。
向うの建築
労働というのは、御承知の
ように、大した重
労働ではありません。ブロック建設で、二トン半のクレーンで、見ている間に苛み木の
ようにやってしまう。ちとの者は麻袋を編む作業を所内でしている。それから、
坂間さんとかその他の将校は
労働に服していない。二、三人だけが、特に海軍
少将の黒木さん、あれはロシヤ語ができるものだから、ロシヤ語の通訳をしている。プラウダを翻訳して、
食堂に
日本に関する記事が全部出ておった。だから、そういうことを
一つ了解しておいてもらいたい。そのときに聞いてみたら、健康者ならこの
労働にたえられないことはないが、ただ老衰者と
病人の境の者が、きょうは重
労働に服しないで所内
労働に服したいと言ったときに、必ずしも希望
通り許されぬことがあるから、これはぜひ
交渉、陳情してもらいたいということでした。その次は、死んだ人の遺骨を早く帰す
ようにしたもらいたい。これが第二の要望。第三の要望は、ビタミンが足りないから
——これはわれわれだけではなく、
ソビエト全体足りたいのだが、われわれとしては、ビタミンを送ってもらってこれを飲みたい。もう
一つはカルシウムが足りぬ。だからビタミン不足症状で、歯槽膿漏が起きたり、血圧が高くなる人が多いから、ぜひこれを陳情してもらいたい。
向うの
諸君にちょっと聞いてみたら、こういうことがある。
向うの取り扱いとしては、所内へ一ぺん入れたら、病院でもそうですが、病院では患者の家庭から持ってきた薬などは全然受け附けません。全部
医者にまかして、所内の健康状態その他については、政府が責任を持っているから、そとからの薬は困りますというのが
向うの答えであった。しかし、それに対してこういう陳情をした。
日本の薬は毒薬でもないから、自殺する
心配はないから、ぜひ飲ましてもらいたい。銘柄は武長のビタミンであるとか、その他のちゃんとしたものであるから、飲ましてもらいたいと申しました。このビタミンの陳情があって、その次の陳情は、所内で写真をとらしてもらいたい。その次の陳情は、
手紙が月に一回往復することが許されているが、それがとだえがちである。これは実は、
ソビエトの政府が押えてよこさないのか、家族がよこすのが疎遠になるのか、どちらかだから、帰ってこのことを言って、もし家族がよこさぬならもっとよこしてもらう
ように、また一月一回の文通が来ないというのは、政府が押えて来ないのなら、
ソビエト政府に陳情してもらいたいということ、さらにつけ加えては(「簡単にやれ質疑の時間がなくる」と呼ぶ者あり)
質問しないでも、説明すれば済んでしまう。そこでその次に
手紙の回数は今まで月一回だから、これをふやす
ようにしてもらいたい。それから
日本の
新聞が読める
ようにしてもらいたい。(「発言する者」多し)よく聞いてもらいたい。
日本の
新聞をよく読める
ようにしてもらいたい。それから雑誌についても、われわれが、
ハバロフスクでは今まで許されておると言ったら、ぜひ読ましてもらいたいと言っておった。その次にモスクワのラジオは聞いておるが、
日本のラジオについても、われわれは
ソビエトの
抑留者だから、無理は言わぬが、娯楽物ぐらい聞かしてもらいたい。
日本の音楽が聞きたい、こういうことであった。その次には、それから、さきに言った
ように、外国人が十数人おります。この人たちは国籍は外国人だが、
日本政府の要請によって、実は協力した
諸君だから、帰るところがなかったら、ぜひ
日本へ引き取ってもらいたいということ、それから見舞品も、これらの外国人の
諸君にも渡る
ようにしてもらいたいということ。大体それだけですが、私は帰ってから幹事としてそれを全部整理いたしました。それから後の十月の九日でしたか、日赤において、
留守家族の
諸君と最初にお目にかかった。そのときに、
留守家族諸君から、要望として、はだ着を受け取ってもらいたいとか、
手紙の度数を多くしてもらいたいということがありましたが、これは
向うの要望とこちらの要望と一致しております。全部私が整理して、日付は必要があれば調べるが、ちゃんと帰りに、さっき言った
ように
野溝団長から……(「それは
あとでいい、もうたくさんだ」と呼ぶ者あり)それを責任者であるドーミン君には申し上げた。ドーミン君はそこで、われわれが帰ったら、そういう要望については
一つ正式な機関を通じて政府に申し入れましょう、伝えましょうという返事だった。しかしわれわれは国へ帰って、ドムニッキーに面会を申し入れて、これこれこういう要望があるから、
一つあなたは政府の出先機関として責任を持ってやってもらいたいということを要望した。そして、その結果実現したことが二つある。中国の
諸君は、われわれはそういうことを帰った
あとで聞いたが、全部帰ったそうだ。中国の
諸君、は非常に感謝している。それからビタミンが
許可されたことも
あとで聞きました。大体この辺で一応終ります。