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1956-02-08 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十一年二月八日(水曜日)     午後一時五十六分開議  出席委員    委員長 原 健三郎君    理事 臼井 莊一君 理事 木村 文男君    理事 中馬 辰猪君 理事 中山 マサ君    理事 堀内 一雄君 理事 櫻井 奎夫君    理事 戸叶 里子君       逢澤  寛君    大橋 忠一君       高岡 大輔君    田中 龍夫君       眞崎 儀十君    眞鍋 儀十君       受田 新吉君    下川儀太郎君       中井徳次郎君    三鍋 義三君  委員外出席者         厚生事務官         (引揚援護局引         揚課長)    瀬戸新太郎君         厚生事務官         (引揚援護局援         護課長)    大崎  康君         参  考  人         (外蒙古地区引         揚者)     小山 義士君         参  考  人         (開拓興会会         長)      吉崎 千秋君         参  考  人         (留守家族団体         全国協議会事務         局長)     大塚 泰順君     ――――――――――――― 二月四日  ソ連帰還同胞帰還促進等に関する陳情書  (第一二二号) を本委員会参考送付された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  海外胞引揚に関する件  元満州開拓団員援護に関する件  留守家族援護に関する件     ―――――――――――――
  2. 原健三郎

    原委員長 これより会議を開きます。本日は、海外胞引揚に関する件、元満州開拓団員援護に関する件及び留守家族援護に関する件について、参考人より事情並びに意見を聴取することといたします。先般の本委員会の決定により、本日ここに御出席願いました参考人方々は、外蒙古地区引揚者小山義士君、開拓興会会長吉崎千秋君、留守家族団体全国協議会事務局長大塚泰順君であります。なお宍戸武男君は、病気で入院されており、出席できないとの届出があり、ましたので、御了承願います。それでは、これより事情並びに御意見を聴取することといたしますが、その前に、一言委員長より参考人方々にごあいさつ申し上げます。参考人方々には、御多忙中のところ御出席願いまして、委員長より厚く御礼申し上げます。本委員会は、海外同胞引き揚げ及び遺家族援護についての調査のため、参考人の諸君より実情並びに御意見をお伺いいたし、それを参考として、調査の万全を期しておる次第でございますので、何とぞ忌輝なく御意見及び実情をお話し下さるようお願いいたします。では、初めに小山参考人より引き揚げについての実情を聴取することといたします。小山参考人
  3. 小山義士

    小山参考人 ただいま紹介にあずかりました小山であります。生まれは長野県であります。私は昭和七年三月長野県の上田中学校を卒業して、それ以来満州独立守備隊に入営し、なお胸の病にかかりまして、現役免除になって家へ帰りました。それからあと再び満州に行きまして、新京の農林技術員養成所で書記をやっておりました。昭和十三年の四月に、満州国興安南省西科前旗いうところがありますが、そこの文書股長をやり、昭和十四年に蒙疆政府察哈爾盟公署文書股長をやっておりました。昭和十四年の十二月に察哈爾盟明安旗初代顧問として派遣されまして、そこでやはり機密文書取扱い責任者として、なお駐蒙軍の特務機関の嘱託というものになりました。この関係戦犯ということになったのであります。昭和二十年の八月十八日に逮捕されまして、外蒙のウランバートルに連行されまして、向うにあります内防省という中に未決がありますが、その未決に収容されました。それから昭和二十一年の五月七日に判決が下されまして、最高法院で十五年の刑を受けました。その次の日からウランバートルにあります中央監獄労働改造所において服役することになりました。それから昭和二十七年の十一月二十三日に、この刑期十五年を完全に終りました。これはどういうことかといいますと、向うではノルマというものがあります。仕事をやるのが一定されて、一〇〇%を一日のノルマとしております。それ以上やると、とれに対して減刑されていきます。仕事をよくしたら、結局早く減刑されて、釈放されるというふうになっておりました。私は仕事をよけいやったので、昭和二十七年の十一月二十三日に釈放されて、ウランバートルの第九手工業組合というものがありますが、そこでやはり鉄工かじ屋さんとして働きました。昭和二十九年の二月二十人目に初めて留守家族、私の妻の小山カノ江から手紙を家け取ったわけであります。さっそく向う逓信省に呼ばれまして、私はその手紙を受領いたしました。その際、その逓信省の方が、内蒙古で私どもが働いておりました当時、日本人と接触があった関係で、非常に親切にやって下さいまして、さっそく、検閲もしないで手紙を出してやるから持ってこいというので、その方にお願いいたしまして、私は三月の八日にこちらへ手紙を出しました。それが初めて日本内地手紙が届いたような次第であります。それからいろいろこちらの方で皆さんの御努力をいただきまして、日本へ帰れるような次第になったと私は信じております。昭和二十九年の六月に突然外蒙から中共に引き渡されましたが、その際、とにかく遠くへ仕事に行くからという名義で連行されたわけであります。昭和二十九年の六月五日に国境線チャカンオボソムというところで中共に移管されました。そして八日に厚和未決にぶち込まれました。そこに約四カ月ばかりおりまして、昭和二十九年の十月十二日に厚和中央監獄という場所に入れられました。そこにおいて労働改造を行われたのであります。昭和三十年の十一月九日に釈放命令が来まして、そして中国の紅十字会に引き渡されたわけであります。それから天津に行きまして、洪進山問題で船がおくれまして、一カ月天津に滞在しておりました。その際片山哲先生がおいでになりまして、一、二度お会いしました。十二月の十四日に塘沽を興安九で出発しまして、十八日に舞鶴に無事入港しました。二十二日に原籍に帰りまして、現在、皆さんのお陰で、無事にこうやって顔を合わせることができた次第であります。私の外蒙の監獄生活における生活状態というものは、どんなものであるかということを簡単に述べてみたいと思います。初め内防省未決に入った当時は、独房に入れられて一人でおりました。食事は小麦を荒くすりまして、その粒のままもあれば、皮も全部あるのを大きななべで煮ますと、のりのような御飯になります。そこへ家畜の腸を切って入れて、それを一日に、軍隊でいうメンコわんよりもちょっと小さいおわんに盛ってくれるわけです。そして一日に二回のお茶黒パンを四百グラムくれます。それがとかくパンも切れるし、御飯も切れることがたびたびありました。その未決に約九ヵ月入れられておりまして、当時私たちはほんとうに骨と皮というような状態でありましたが、われわれは最後まで、どこまでもがんばっていかなければならぬ、日本人としてやってきた以外のことは白状する必要はないというわけで、がんばっておりました。しかし、大陸における密偵網というものは、外蒙と内蒙との間は非常に素通りのような状態になっておりまして、向う密偵日本でも利用する、こっちからの密偵向うでも利用するという事実関係がありまして、日本軍側状況というものは、向う素通りでありました。その関係で、われわれの旗でやっておりました特務機関関係とか、あるいは軍に対して、軍馬の供出問題あるいは羊毛の供出問題、あるいは英米並びスエーデンあたりキリスト教会が内蒙にありましたが、大東亜戦争を遂行しておる当時でありますから、いわゆる日本の力によって密偵行為を防止しておったわけでありますが、そういう関係向うにみんな筒抜けであって、われわれのやってきたことを、向うでは、こういうこともやったのじゃないか、こういうこともやったのじゃないかという調書ができておりました。このためにわれわれもこらやって九ヵ月もがんばったのですが、ついにうまくいかないで、十五年の刑を受けて、労働改造をしなければならぬというような状態になったわけです。それから監獄生活になって、労働改造所に行きました。労働改造所はどんなふうになっているかというと、これは内防省というのがありますが、内防省の直接の関係になっておって、全外蒙の罪人が各所におりますけれども、特に政治犯だとかあるいは刑事犯においても非常にひどい二犯、三犯という人たちが入ってくるわけであります。そういう監獄でありまして、中には罪人病院があります。それから工場があります。また未決を収容するところがあります。もう一つ禁固刑、この禁固刑というのは、一部屋に十人くらいつつ込んで、かぎをかけてしまうのです。外に出ないで、仕事もしないでいるという、そろいう禁固刑の人が入っているところがあります。われわれは工場方面に働かされておりまして、鉄工としてやっておりました。ラントーという重いやつを打つのです。日本でいうと手工業ですね。その手工業のような仕事をしておりました。外蒙では、かぎがたくさん売れるのであります。なぜかぎが売れるかというと、生活程度が低いために、どろぼうが非常に多いわけです。このために、各場所かぎをかけないと、どろぼうがおって、常にものが盗まれるというようなわけで、かぎが非常に売れるわけです。もう一つおもしろいのは、一家族の間においても、お父さん、お母さん、弟というふうに一緒に住んでおるとすれば、自分のものに対して、非常に警戒をします。引き出しでも、箱でもみんなかぎをかけて、注意しなければならぬというふうな状態になっております。その当時、私が気候風土になれないために、昭和二十二年の四月から病気になりました。その当時の食事が非常に悪かったのであります。さっきも申し上げた通り御飯は、少し量は多く、黒パンが六百グラムで、少しずつ増してありますが、しかしこれはわれわれ日本人の体力を維持するだけのものではないのです、そのために、昭和二十二年の四月から病気になりまして、三十八度から四十度くらいの熱を出して、約八カ月病院生活をしておりました。子の当時も、薬という薬もない、ただ熱があるからということで、アスピリンをくれるとか、あるいは他に神経が痛いから神経痛の薬を飲ますというような状態でありまして、それが続いて約三ヵ月くらいたったときに、ブリヤート古人が、外でけんかした件で中に入って参りました。その方がお医者でありまして、日本人に対して好感を持っておるわけなんです。いわゆる外蒙古地帯といっておるのは、ハルハー蒙古人ですが、その蒙古人に対して、ブリヤート民族は非常に反感を持っておる。そういうわけで、ブリヤートの蒙古人は、日本人に対して非常な好感を持っておるわけであります。それで、私が病気のときも、その方が非常によく見てくれまして、特別な方法で、いい薬を持ってき、注射をしてくれる。そういろわけでよくなりまして、十一月に退院するようになったのです。退院するときにも、まだ身体は十分でありませんでしたけれども、上司からの命令によって、これを遂行しなければならぬ、労働しなければならぬ、しなければ御飯が食えないというわけで、退院したのです。釈放されてから後の市民生活でありますが、初め私が監獄から出されるときには、私の知人がウランバートルには一人もおりませんでした。それで困っておりましたところが、病院におりましたブリヤートの蒙古人が、私に、お前、おれのところに来い、一緒に住もうというので、その人のところに行きました。ところがあとでわかりましたがその人が共産党の党員でありまして、これは危いというのでそこを出まして、手工業組合の方の官舎に入りまして、そこで一人でやっておりました。その当時、一つの茶わんもなければ、はしもない、御飯を作るなべ、かまもないというので、非常に生活に苦しみました。カ月の俸給がわずかに三百円から四百円くらいでありまして、向うのお米の値段が、キロ二円七十銭くらいの値段であります。それでありますから非常に生活が苦しくて困りましたが、何とかして日本人の体面を汚さないような方法でやらなければならぬというので、やって参ったわけであります。向うでの一般蒙古人生活程度というものは、非常に低いわけなんです。われわれから考える、文化の程度も低い、とにかく蒙古の国はソ連がほとんど経済力を握っておるわけであります。政治方面から言っても、軍事方面、あるいは経済方面、あるいは技術方面にもソ連顧問が入って、これをリードしております。蒙古自体でできるのは、皮ぐつくらいでありまして、ほかには、自体で作る羊毛を加工して、じゅうたんを作っておる程度であります。ウランバートルにおける工場というのは、一つだけ火力発電所がありまして、そこでくつを機械で作っております。これは蒙古人がやるので、技術ソ連技術者が入って教えておるわけであります。それから肉工場がありますが、これもソ連指導のもとに肉工場を作って、カン詰を作ったり、チーズを作ったり、あるいはハムを作ったりしておるようであります。蒙古人生活というものはほとんど牧業生活でありますから、家畜からとれたもので自給していかなければならないのですが、しかし現在ではそれがとてもだめで、みなソ連に供出しなければならない。家畜の皮、あるいは羊毛、油、バター、そういうものは全部ソ連に供出して、ソ連からその製品をもらい、自分日用雑貨すべてをもらわなければならない。自分のところには一切の工場がないため全部ソ連から供給されるおけです。そこにパーセントの非常に大きな差が生じて、蒙古人生活というものは非常に苦しくなるわけです。蒙古人常食というものは、昔は肉食だけだったのですが、現在はどんなふうになっているかというと、メリケン粉アワ常食にしている。アワあるいはメリケン粉でうどんを作ったり、アワのおかゆに肉を入れて食べているというような状態になっております。なお乳でありますが、蒙古人お茶が非常に好きなんで、乳を入れて毎日四、五回飲むわけです。ところが今は乳を入れないただお茶だけ飲むというふうになっております。これもやはり統制経済になっておるものですから、自由に乳も飲めない。自分でとっている乳も供出していかなければならぬといろふうに外蒙ではなっております。さっきも申し上げたかぎの点ですが、かぎが非常に売れるということは、いわゆる供出面があまりに多いので、生活が苦しい。だからよそへ行ってものをとってこな仕れば、それを補うことができないというようなふうになっておるわけであります。そのほかに、ウランバートルには、日本兵隊さんがシベリヤから入りました。これは昭和二十年の十二月から一月にかけて、シベリア経由ウランバートルに入りました。そのときから引き揚げるまでに昭和二十二年の十月ごろに全部引き揚げたわけですが、その方たちが残しました計画書によって、官庁方面とか図書館とか劇場とか印刷工場とか、そういうものを全部計画しまして、基礎工事をやっておりました。それが現在りっぱにできまして、官庁街中心地だけは非常にりっぱになっております。舗装もされました。しかしながらそれから一歩踏み出すと、支那式の泥屋根の小さな家があり、その中に蒙古人の住む蒙古パオというのがあります。そういう蒙古パオに一般は住んでおりますが、特権階級上層部方たちは、西洋式のファンズに住む。しかし一般人はそういう泥屋根の下に住み、あるいは蒙古パオに住んでおるというふうになっております。しかしながら現在は外蒙でも建築が非常に盛んになっております。労働者の宿舎というものをどしどし作っておる次第であります。  昨年ウランバートルから中共平地泉というところまで鉄道が敷けました。集寧ともいうのですが、そのところは一昨年の一月に完成されまして、私ども外蒙からこちらへ来るときには、建設途上でありました。この途中にドロンノールゴビというところがございますが、そこに石油がたくさん出るのです。その石油は現在非常に多く出るので、外蒙だけじゃ使い切れないで、これを中共へ出すというふうになっておるというのです。外蒙の経済力は、今申し上げた通りソ連がみな握っておるために、物資も自由に入らないという点があります。必需品で非常に足りないものがありますために、やみが行われまして、この点非常に苦しいのじゃないかと思います。物資がどんどん入るといいのですが、統制をやられておるから、物資の足りない点があって、非常に生活は苦しいようです。お茶、粉、綿布、人絹、絹などは非常にたくさん入っておって、自由に買うことができますが、ミシン、時計、鉄の器具、化粧品とかいうものは少くて、非常に困っておるようです。なおくだものは、ミカンとかリンゴなどは向うでは全然できないので、中共あるいはソ連から持ってくるというふうになっております。現在、ウランバートルは十二区に分れておりまして、この十二区の区の下にホリンといって一つの町があります。その下がカシャといって組です。そういうふうな順序になっております。一つカシャに何家族おるかというと、大体五、六家族が普通であります。それから中央党本部というものがありまして、共産党本部政府官庁の中にあります。この政府官庁は四階建でありまして、これは日本兵隊さんが入って、計画を立て、計画書を作ったものであります。あとで外蒙人がこの計画書を見たところが、わからなかったそらです。計画書があまり精密にできているので、日本技術がいかにすぐれているかということを、そういうところから蒙古人に非常に認識させたわけであります。今まで蒙古人は、日本人侵略民族であるというふうな考えを持っておったのですが、そういうような点から、蒙古人が非常に認識を改めてきたという点がうかがわれます。現在も日本は米国の原子爆弾の基地を作っておるとか、あるいは罷業をやっておるという程度しか教えておりませんが、日本人向うにいい感じを与えたというのは、この建築方面において技術が非常に進んでおって、われわれにはわからない、ソ連技術者が見てもこれを解しかねたという点で、日本人の面子が非常に高くなったわけであります。外蒙といっでも、蒙古人はみんな日本のような服発をしているわけです。ただそれに帯を締めて長ぐつをはいておる。蒙古人の顔つきかういうと、あまり日本人と変りがない。われわれが監獄に入った当時は、蒙古人が非常に虐待しまして、日本人というのはとにかく侵略者であり、非常に搾取をする民族であるというので、われわれが一緒部屋に入っておっても突き出して、「このヤッポンめ」というふうな虐待を受けましたが、この日本兵隊さんたちのおかげによりまして、昭和二十四年からそういうことが非常になくなって、今も申し上げた通り感情が変ってきたわけであります。それで待遇もよくなりまして、仕事をよくやった者には、いい御飯をよけいくれるというふうになりました。  それから一昨年の六月中共へ渡される以前も、とにかく私は自由人でありましたが、やはり向うでも監視づきでありまして、どこかへ行くにも、ついてはいかないのですが、見張りをしているというような状態で、ウランバートルの町も自由に歩けなかったわけです。また言語、動作とい、うものも不自由でありまして、向うの人も、とかく何か知らない人が入って来ると、いろいろ聞いたりします。そういうふうに、向うでは、日本人に対して気をつけているわけなんです。ともかくわしども戦犯というので、監獄におったといりので、向りも気をつけまして、われわれの行動というものを非常に注意しておりました。それで、この監獄でなくなられました矢部久雄という人がありまして、この方が伝染病国立伝染病院に入院して、そこでなくなったわけです。そこで、私がそこへ行って、死んだ状況はどんな状況かというので聞きに行きましたのですが、向うでどうしても中へ入れてくれないのです。二回も行ったのですが、どういう理由ですか追い出されてしまって、とにかく中へ入って行かれない。二回も行ってお願いしたのですが、どうもいげない。それから、それでは墓場は一体どこにあるだろうというので、その墓場を見つけてみましたが、その墓場も、向うでは風葬といって死んだらそのまま持っていって、一定場所に捨ててしまうわけです。そのために、どこにどういう墓場があるかわからないのです。そんなようなわけで、この人の遺骨を持ってこれなかった。ところが、その方が死ぬ前にその方から分けてもらいました遺品がありましたので、それを持って中共へ渡ったわけです。ところが国境線において、中共に渡されるときにほとんどとられてしまった。持ってきたものは、ウランバートル記念自分で刻んだパイプと、その方が書きました記念の記録が二冊ありましたが、それもとられてしまいました。そのほかにもう一つパンツ一つ持ってきたんですが、それは自分がはいて持ってきたので、これだけは助かりました。それを遺家族の方に、こういうわけで遺品として持ってきたというのでお渡ししておきました。そのようなわけで、外蒙から中共へ渡されたときも、身体検査から始まって、持っていた品物も、ほとんどとられてしまったようなわけであります。  それから中共に渡りましてから未決に入っている当時、やはり御飯は二回でありました。これはほとんどアワ飯でありまして、ほかに、お茶はなくて水を飲んでおりました。未決から出されまして労働改造所に行きましたところが、そこでもやはり一日に二回の御飯で、アワ飯が大体四分くらい、そこヘジャガイモを入れた御飯です。お汁もない、お菜もない、ただアワ飯ジャガイモ、これだけでありました。それが二回でありまして、お茶でなくお湯が三回出ました。そして中共での教育思想改造というものを非常にやっておます。午前五時ごろ起床しまして、一時間ぐらいで顔を洗ったり、便所へ行ったりして、六時ごろから仕事に入ります。それから九時ごろになりまして朝飯を食べて、それから午後の十二時にお湯が来まして、それから午後の五時ごろ仕事が終ります。それからまた御飯になって、便所へ行ったり、いろいろ自分のものを洗ったりします。そんなようなことをやりますが、その後午後の七時から学科が始まります。この学科というのがいわゆる思想改造学科でありまして、毎晩行うのです。中共の五カ年計画教育とか、あるいは思想改造の問題について、物から連係した思想改造を行うわけです。自分たちがやっておりましたくつ縫いでありますが、このくつ縫いに当りましても、一日大体一足ぐらいやるのがせいぜいなんです。それができないと、一足のくつが縫えないということは、お前の思想が悪いから一足できないといって、頭から皆で討論するわけなんです。これに対して、皆もそれに反対するといけないから、反対しないで仕事をやる、仕事をやってもまだできないというようなことで、繰り返し繰り返しそういう討論をやっておるような次第であります。大体私のことはこんなことでいいと思いますが、もしわからない点がありましたら、どうかお尋ねになって下さい。私も十年間監獄におったものですから、浦島太郎でありまして、何も順序を立てたお話はできなかったと思います。その点御了承を願いまして、御質問によりましていろいろお話ししたいと思います。
  4. 原健三郎

    原委員長 次に、吉崎参考人より、開拓団についての事情並びに御意見を聴取いたします。吉崎参考人
  5. 吉崎千秋

    吉崎参考人 御下命によりまして、私から、満州開拓事業のありざまにつきまして御報告申し上げます。私は東大の農学部を昭和八年に出たのでありますが、すぐ、当時始まりました第一回と第二回の武装移民指導員としまして北満に渡りまして、一時匪賊の襲撃を受けまして、大きい傷をいたしましたので内地引き揚げまして、拓務省に奉職をしました。傷がなおりまして再び北満に出ました。そのときには、第二回の千振の団長として佳木斯の奥に入植をいたしておりました。そこで終戦にあいまして、めちゃくちゃになって、生き残った者を引き連れまして、昭和二十一年八月に内地引き揚げたものであります。引き揚げまして、那須の山奥に七百名ばかり連れて入りまして、そこで開拓をやっておりました。それと同時に、後ほど申し上げたいと存じますけれども満州移民でもって組織をいたしました全国開拓移民自興会というのをやって参りまして、東京と那須の方を往復をして、ただいま両方の仕事をやっておるようなわけであります。では、これから満州移民の経過を簡単に申し上げたいと思うのであります。御存じのように、昭和六、七年ごろ、農村の窮乏が非常に激しくて、百姓が大へん困りまして、私たちも学生時代にそれをずいぶん見せつけられておったのでありますが、特にその原因をなしておりました農村過剰人口の重圧というものが、非常に若い私たちの胸を締めつけておったわけであります。何とか農民を外に出さなくちゃいかぬ。自分一緒に出ようということで、かねがね考えておりましたところ、たまたまそのときに満州事変がございまして、満州といろ北の窓があいたのであります。そのときには、アメリカも移民法でもって日本人を入れない。また南米に対しましても、南米の移民審議会が日本人を入れないことに対して、ずいぶん努めてやったようでございましたけれども、そのときには日本の農民が海外に出るということはできなかった。そこで北があきましたので、御存じの加藤完治氏あたりの有識者が先頭に立たれて、満川移民の計画を樹立され、そしてこれを実行に移された。  第一回の移民は、東北から昭和七年に募集をいたしまして、昭和七年の十一月に北満の佳木斯というところに入れたのでございます。入植をしたのはそこではなくて、そこから十六里奥の彌栄というところでございますけれども、匪賊が非常に多くて、そこまで入ることができなくて、一冬そこで暮して、翌年氷がとけるとともに、現地に先遣隊を入れて、設営をやったわけでございます。それに二カ月おくれて、第二回の開拓団が私たち一緒に、さらに六里ばかり奥の、ちょうど佳木斯かも二十六里ばかり歩いて入るのでございますが、千振というところに入ったわけであります。この二つの第一回と第二回の移民は、いわゆる武装移民と申されておりまして、匪賊との戦闘に明け暮れて、三年間というものは、全然農業ができなかった。やっと四年目ぐらいから農耕を始めることができるような状態でございました。私も昭和十六年までは、まくら元に手榴弾を置いて寝ておりました。そういうふうな、全く、農業移民でありながら農業ができなかったというような状態でございまして、その間退団者もたくさん出まして、一時は全滅の危機に瀕するようなことがあったのであります。とにかくがんばらなくちゃいかぬというので、がんばってがんばり通しました。第一回、第二回のあとを追って三回が入り、四回が入りまして、いよいよ千八百名ばかりの開拓民が満州に入りました。ちょうど広田内閣のときでありましたが、昭和十一年に、満州移民、満州開拓の一応の見通しがついた。今まで試験的にやりました第一次から第五次までの移民の実績を参考にいたしまして、これから大量にやらなけりゃいかぬというので、二十カ年間、百万戸、五百万人の政策を昭和十一年に政府が立てたのでございます。これが閣議で決定をいたしまして、強力に推進をはかったのでございます。今から考えてみますと、そのときまでは、まだ日本の農民を満州に移して、満州で自立農民を作るということが、開拓政策の一番根本をなしておったのでございます。ところが、支那事変が始まりまして、昭和十四年に、満州開拓政策基本要綱というのが耳満両国の協議の上で制定をいたされました。この根本の基本要綱に沿って、満州開拓を強力に進めなければいかぬ、こういうことになって、どしどし満州日本の農民が送られたのでございます。このときの基本要綱をよく調べてみますと、今まで純然たる農業移民ということで出発をしておったのが、国防力の増強、日清の民族の融和、この二つが中心になっておるのでございます。この二つを基本理念として、満州開拓政策基本要綱が作られまして、二十カ年、百万戸の線に沿って、どしどし移民を送られることになったのでございました。  そうこうしているらちに、大東亜戦争にまで戦争が拡大されて、私たちは、現地から、南方の方がああいうふうに忙しくなれば、満州に来る開拓民はないだろうと思っておりましたところが、それどころではない、第二期五カ年計画というのを昭和十七年に決定をして、そうしてまた大量の送り出しに拍車をかけたわけでございまして、このときの第二期五カ年計画は、もう純然たる国防移民でございまして、北辺鎮護ということと、関東軍の背後を守る防衛の拠点を作る兵站基地を確立する、こういうふうな任務を開拓民に与えたのでございまして、それに、日満を通じて、日本の農民の四割をこの人的資源として確保するというのが加えられておったのを思い出すのでございます。そういう目的でもって、北満にどしどし日本開拓者が送られて参ったのでございます。  これだけの政策を遂行するためには、拓務省が中心になってやったのでございますが、農林省がこれに協力いたしまして、特に農林省としては御存じの皇国農村というのを全国に三百ヵ村指定をいたしまして、御承知の分村分郷計画をそれによって立てて、村の三分のをそっくり満州に移すことをやったのでございます。これは日本の農林省がやった仕事でございます。拓務省はこれに呼応しましてこれは後に大東亜省になったのでございますが、この満州開拓特別指導郡という郡を全国に多数指定いたしまして、そこから義勇塚の諸君を募集して、満州に送り出した。御存じの通り、小学校に国から員数を割り当てまして、満十四才の幼い少年たちを、校長先生初め、担当の先生方が、とにかく満州に行って国を護るためがんばってこいと言うので、自分の体より大きい鉄砲をかついで、宮城を遥拝して、満州に小さな少年たちがたくさん参ったのでございます。その数は一万五千人ございましたけれども、こういうことはみな満州開拓特別指導郡というのを大東亜省が作りまして、その郡の中の小学校に対して特に多数割りつけてやったのでございました。こういうふうな政策をとって満州にたくさんの開拓農民並びに義勇隊員が送られて参ったのでございます。満州に送られて参りましたところのこういう開拓たちは、どういうところに入植したかと申しますと、お手元に資料をお渡ししておきましたけれども、その中にこういう満州開拓団入植図というのがございます。これをごらんいただきますとおわかりになると思いますけれども、北辺の防衛拠点、東安省でありますとか、三江省でありますとか、興安北省でありますとか、間島省、牡丹江省、黒河省、こういうふうな関東軍の北辺の防衛拠点に集中して開拓団は配置されたのであります。いっか関東軍の参謀が申しておりましたが、北満日本開拓者の人がきを作ってソ連を防衛するのだ、こういことを公言いたしているのを聞いたことがございました。こういう目的でもって配置された開拓者が、約五〇%でございます。その次には長白山脈から小興安嶺、大興安嶺にかけまして、この内側のちょうど第二線に当るところでございますけれども、匪民分離地区という地区が設定されたのであります。匪賊と原住民を分離するために行われたものでございましたけれども、その匪民分離地区に四〇%が入植させられました。残った一〇%は交通の要点、また産業の要衝に入れられました。開拓者が入りますときに、自分が自由意思でもって土地を選定することは許されなかったのでございます。日本の米産地から満州開拓をやりに行って、向うで米を作れば特技が生かされるのでありますけれども、そういうことは許されないで、お前の村はここに入れ、こういうことを指定されて、そこから他に移転するということは許されなかった事実がございます。こういうことで、北辺の防衛拠点並びに匪民分離地区、そして交通産業の要点に配属をいたされたのでございました。  ここで行いました営農建設というものは、自由な経済活動によって行われたのではなくて、関東軍に対する食糧の兵站基地としての役割をまず果さなくてはならぬ。もちろん日本に対しましても、食糧の供出をしなければならない。私の千振という第二次の開拓団あたりは、私が団長をやっておりましたときに、毎年七万石ずつの大豆を日本に供出をいたしました。それを三カ年私は続けたのを覚えておりますけれども、七万石と申しますと一万トンでございます。一万トンの大豆を供出するということは、一つ開拓団がそれだけをなすということは、よほどのことでございます。何とか私は戦争に勝とうと思って、現地で一生懸命食糧を出そうと思ってやったのでございましたが、全満の開拓団員みんなそういう気持でがんばったのでございました。しかし、作るものは、国家に必要な食糧、特に関東軍に必要な食糧を作らなければなりません。野菜とか米とか家畜でありますとか、そういう毛のを作ったのでございまして、決して自由な生産活動というものがやり得たわけではございませんでした。しかし、このころになりますと、満州開拓も相当進んで参りまして、私たち開拓団も、昭和十七年あたりから非常な勢いで建設も進みました。汽車も通ってくるし、治安も楽になるし、生産物も上って参りまして、実にゆうゆうとした生活をやっておったのでございました。ところが、御存じの通り昭和二十年の八月九日に、思いがけなくもソ連機の攻撃を受けました。特に私たち北満におりましたので、まっ先に攻撃を受けたわけでございました。それに続いて、ソ連の戦車がやって参りました。ただいままで申しましたように、北満に人がきを開拓者が作っておりましたことと、また残念ながら関東軍の根こそぎ動員によって、団長以下ほとんどの団員も、男という男は大部分召集を食らいまして、私も、ソ連が攻めてきて――八月の九日に攻めてきたのに、十三日に私に動員が下りました。そのときには私の開拓団だけではなくて、佳木斯の省公署でありますとか、そういう市民を七千名私は引き受けて、千振に保護しておったわけでございます。その中心になっておりました私にさえも召集をよこしました。しかも八月十三日、終戦の二日前に召集して、家族たち北満ソ連の戦車の前にさらさなければならなかった。こういうふうな状態が、全開拓団で起きたわけであります。母親が子供の手を引いてソ連の戦車に立ち向いました。もちろん全滅になったのでございまして、こらんいただきますとおわかりになりますけれども、こういう防衛拠点にみな入っておりました関係で、ソ連の進攻経路をあとからたどってみますと、その開拓団の集中しておるところをみなねらってきておるのであります。そこへ持ってきて、男はおりませんし、女、子供が大部分でありましたために、全く処置がなかった。たまたま生きてそこにいた老人が、死に方をみんなに教えて、全員自決をした。こういう開拓団がたくさんあったのでございました。全部全滅をしたというのが十一開拓団ございまして、これは長野県の更級郷でございますとか、栃木県の、ちょっと名前は忘れましたが、開拓団でございますとか、近くは東京の荏原区の小山町の転業者の方々が行かれて、興安東省に入っておられました興安東京郷というものがございまして、非常に元気にやっておられた開拓団でありましたけれども、千二百名の中で三百名ほど応召して、残った九百名のうちの八百八十名ぐらいの者が、全員ここでもってソ連の戦車にやられましたし、暴民にやられましたし、また自決をしたりしてなくなった。こういう全く筆舌に尽せない地獄絵を描いたわけでございます。十名以上自決をした開拓団というものは、百個団以上に及ぶのでありまして、今でも思い出すのでありますが、小学校の子供たちが土壁に寄って、れんがを手にして暴民と戦ったという事実が、あちらにもこちらにもあるのでございます。ここにも資料を持っておりますけれども、二度と読めないような資料でございまして、世界の移民史に、これほど悲惨な結末を告げたものは、前例を見ないという惨劇に終ったのでございます。この原因を今から振り返ってみますと、何と申しましても、そういう防衛の拠点に開拓者を入れて、しかもそれを守らなければならぬ関東軍が、まつ先に逃げたということでございまして、私のところも、私は気がつかなかったのでありますが、ソ連が進攻してくる八月九日から一週間ぐらい前に、現地の守備隊あたりの家族がどんどん引き揚げていっておる。私は軍に供出しなければならぬ野菜を一生懸命やっておったわけでありますが、どうして帰るのだろうか、こういうふうに考えておったわけでありますが、そのときには、ちゃんと関東軍にはわかっておったと私は思うのであります。しかも無警告に関東軍は退却をして参りました。残った者は女、子供だけであった、こういうことであります。それにもう一つ、今から思い出すのでありますが、開拓者のわれわれが入植する土地を、軍が非常に安く原住民から買い上げた。私が入りました千振というところは、既耕地がだいぶございました。われわれは既耕地に入るなどということは考えていなかったのでありますが、その既耕地さえ、シャン――と申しますと七反二畝でありますが、一円で買ったわけであります。その当時の一円と申しましたならば、もちろん今よりは高いのでありますけれども、それにしても七反二畝を一円で原住民から買い上げるというよう右ことは、私は非常に間違っておると思いました。そのときに、私は指導員をやっていて、宗光彦という団長が関東軍にずいぶん食ってかかったのを覚えています。結局そういう無理をした悪い結果は、開拓者が負わなければならぬということであったのでありますが、事実その通りになったわけであります。これは今から考えてみましても、満州開拓に関しまして、われわれ自体としても痛切に反省しなければならぬ点ではないか、こういうふうに考えておるわけでございます。ただいままで申し述べましたところの経過によって、満州開拓の性格を考えてみたいのでございますが、最初出発するときには、先ほど申しましたように、純然たる農業の問題、農業移民として現地に入植をした。ところがだんだん戦争が苛烈になるに従って、満州移民の性格というものは、軍事目的ということをはっきり打ち出して参ったのでございます。そのことがいいことであるか悪いことかということは、今でもわかりませんけれども、実際はそういうふうになって参りました。関東軍も、満州開拓には非常な力を入れて、また非常な期待をしておったと思うのであります。こういうふうな経過をたどってきた満州移民の性格でございますが、私は今ここではっきり申し上げられると思うのは、満州開拓というものは、国が始めた政策でございます。国家が責任を負わなくてはならぬ開拓事業だと私は思うのであります。それを裏づけいたします事実としては、開拓者の自由意思によって、自由な入植がなされたのではないということと、もう一つ重要なことは、国が任命をいたしました指導員というものが、開拓者にはついておりました、私もその指導員の一人でございました。これは日清両国によって正式に任命された指導員でございますが、この指導員がついて現地で指導をしておったのでございます。もう一つ重要なことは、先ほどからちょっとお話に出ておりましたけれども、われわれの満州開拓者で、靖国神社に合祀されておる団員たちがたくさんあるのでございます。私の開拓団だけでも二十八名靖国神社に合祀されておるのでございます。もう一つ、最後の裏づけとしては、戦争前は、開拓者がなくなったときには、日清両国政府と関東軍から弔慰金をいただいておりました。もちろん花環もいただいておったのでございます。こういうことから総合してみましても、これが普通の農業移民ではなかったということ、また普通の現地における一般市民とは違っておったということで、明らかに国家の事業としてなされておった、こういうふうに私は考えるのでございます。  こういう開拓団が非常に悲しい結果を見まして、世界の移民史に先例を見ないようなことになったのでございます。ただいま少し数字を申し上げますと、その当時満州におりました開拓者並びに義勇隊員の総数は二十七万人おりました。これは満州におりました日本人の一四%に及んでおりまして、ちょうど終戦当時の数字でございますが、日本に生きてたどり着いた者が十四万六千人でございます。それからはっきり死亡が確認されました者が六万五千三百二十三人ということに、昭和二十八年の外務省の調査でなっております。なおまだ引き揚げてこない者が二万六千五百八十七人となっており、二十七万人の中の五五%の者が帰って参りまして、二七%の約六万五千人の者が現地で死亡が確認されておるのでございます。ところがこの調査は二十八年三月の調査でございまして、ただいまは死亡者が八万人に及んでおります。全体の三割が満州でなくなったということでございます。こういうふうになくなった者に対しまして、私たちは骨をそのままにして、花もささげないで帰ってきたわけでございます。この引き揚げて参りました開拓者が十五万幾らおります。われわれが引き揚げて参りましたときに、日本政府も、また満州開拓に笛を吹いたその当時の民間の指導たちも、その一部を除いては、全然われわれに見向きもしなかったわけでございまして、ほんとうにすっからかんで、がんがらをぶらさげて帰ってきたのでございます。あれだけわれわれを送り出すときに騒いで、太鼓をたたいた人たちが、きわめて冷いた目で私たちを見て、何ら世話をしてくれなかったわけでございました。自分の責任をのがれることだけにきゅうきゅうとしておった姿を見て、全く残念であったのでございます。私たちは、そういう人たち、また日本政府にもたよっておれない、こういう考えを持ちまして、引き揚げてきた開拓者だけでもって、力を合せて立ち上ろうじゃないかというので、開拓民自興会というものを作りまして、そうしてお互いに助け合って今日までやって参ったわけでございます。この十五万人余りの者をどうしたかと申しますと、その中のおよそ半分の八万人を国内開拓(入れました。帰ってきたのがおくれました関係上、入りましたところはいいところはございませんで、山のてっぺんでありますとか、非常に寒い高嶺地帯に入ったのでございますが、この八万人の開拓者はさすがに開拓ということについては一日の長がございまして、よく団結をして、とにかく今日まで歯を食いしばって食いつないで参って、ただいま開拓を進めておるわけでございます。残った約八万人の家族というのが非常に悲惨な生活をいたしておりまして、私にしょっちゅう手紙をよこすのでありますが、私たちの力では何ともならない。自分の夫を殺し、子供を殺して一人で帰って、しかも病気になって親戚の家で余命をつないでおる、こういうふうな母親たちがたくさんあるのでございます。元気な者は自興会でもって派出婦あたりにあっせんをしてやっておる者もございますが、そういうのは非常に数が少いので大部分の者は大へん困っておるわけでございます。私たちの力にも限度がございまして、何としてもわれわれのような微力ではそこまでは手が差し伸べられないので、頼まれてきた者だけにできるだけのことをしていくというような状態でございます。  ただ一つ、この満州開拓につきまして特に開拓の跡始末につきまして、非常に感謝をいたしておることがあるのでございます。これは二十二国会において、ここにおられます中山先生とかその他の諸先生方のお力によって、なくなった義勇隊に対しては弔慰金が与えられるという法律ができました。ほんとうに私たちはこの義勇隊の遺家族と涙を流して喜んだわけでございます。これによって五千人の霊が慰められる、こう思って、心から感謝いたしておるわけであります。ただ残った一般開拓者の七万五千人のことにつきましては、まだ何らの国家的の処遇がなされておらないのであります。国家の手によって向うに送られて国家の命令に従ってまつ正直に働いて参りましたところの開拓者、これを利用したのが軍であろうが何であろうが、これは開拓者の知ったことではございませんので、ほんとうに正直にやって参りました開拓者がこういう悲惨な目にあって、国として何らの処遇が一般開拓者にはなされないということ、またわれわれの気持としては、八万入の遺骨が満州の荒野にさらされておるのでありますから、せめて一輪の花でもささげて参りたい、こういう念願を十年間持ち続けて参りました。また日本の財産を全部満州に移しました。あるおばあさんは、たくあん石まで持っていった、こういうふうなこともあったのでありますが、全財産を満州に持って参りまして、営々辛苦をいたして、あそこまで築いたものを全部捨てたわけでございます。在外資産の補償ということが今やかましく言われておりますけれども、一般開拓民は、そういうことよりか、むしろ霊を慰めろ、こういうことを今まで盛んに申しましたので、私たちの在外資産の補償の問題についての運動に対して立ちおくれたのでございますが、何としても今困っておる遺家族を救うのは、この手以外にないと思っております。どうか、そういうことについても強くわれわれとしてはお願いを申し上げて皆様方のお力にすがって、この八万の霊を慰あていきたい、そうして満州移民の結論を出したいと、私は念願をいたしておるわけでございます。軍人に恩給がつきまして、この点については私たちは非常にありがたいことだと思っておりました。しかしわれわれを捨てて、われわれの家族を国境に捨てて逃げた関東軍に恩給がつく、特にその幹部連中に恩給がつくということは、何としてもわれわれとしては割り切れない気持でございます。原則として、軍人恩給ということに対して反対はいたしませんけれども、感情の上からいって、絶対に割り切れない問題として、いまだに胸の中に残っているような状態でございます。  詳しいことは、御質問いたださましたら申し上げたいと思いますが、今までの経過を申し上げまして、御報告にかえます。
  6. 原健三郎

    原委員長 次に、大塚参考人より、留守家族援護事情並びに御意見をお述べ願います。
  7. 大塚泰順

    大塚参考人 留守家族の一人として、過去十年間、引き揚げ促進の運動あるいは留守家族援護の問題で微力を尽して参りました一人でございまして現在は滋賀県の留守家族の会長と、留守家族団体全国協議会の事務局長をいたしております。以下私は引き揚げ問題の最終段階におきまする留守家族実情、あるいは心境というようなものについて、率直に御報告を申し上げまして本国会において特別のお力添えをいただきたいと思うのでございます。  一口に未帰還者あるいは留守家族と申しましても、これを一定のワクの中にはめることのできないのが、未帰還者あるいは留守家族実情でございます。一例を申し上げますと、未帰還者の終戦時あるいは現在の地域が、いろいろな地域に分れておる。あるいはソ連地域――千島、樺太、あるいは外蒙地域等を含めましてソ連地域といっております。あるいは北朝鮮、あるいは中華人民共和国、あるいは南方諸地域にも、なお、消息がわかり、あるいは消息不明になっておる未帰還者もあるのでございまして、地域別には、今申し上げましたような地域に分れております。また未帰還者の現在の消息にいたしましても、生存確実なる者、これはマリクあるいは中国紅十字会等が発表いたしました名簿、あるいは現地から参ります通信、最近の帰還者の確実なる証言によって、現在もなお生存確実だ、こういうふうにはっきり言い切れる者、あるいは生存見込みの者、あるいは数年前には生存資料があった、現地から通信が来ていた、あるいは帰還者からはっきり証言が出されておる。それから文字通り状況のわからない者、あるいは不確実だけれども、死亡資料が入っておる者、こういうように未帰還者の消息につきましてもいろいろ分れるのでございます。また未帰還者の身分にいたしましても、将官から兵に至りますまでの軍人あるいは軍属、内地から応召、あるいは現役入隊いたしました者、あるいは現地で入隊をいたしました者、それから国家公務員の身分のまま現在なお帰って来ない、あるいは地方公務員のまま、あるいは先ほど吉崎さんからお話のありました満州国開拓団、あるいは満州国の軍隊、あるいは満鉄、それから満州国の官吏、あるいは華北交通、あるいは開国団、義勇隊その他国策会社、こういう人たちは、一括いたしまして、一般邦人というワクに入っておるようであります。それから未帰還者との続き柄にいたしましても、妻もあれば、子もあれば、父母もあれば、祖父母もある、あるいは孫もある。それから生活状況からみて参りますと、比較的生活の安定したものと非常に不安定なもの、現在の留守家族援護法に基きますところの留守家族手当をもらっておる者、また留守家族手当はもらえないけれども、従来の実績を保証されまして、特別手当だけをもらっておる者、あるいは、本人にかわって普通恩給を代理受領しておるもの、こういうふうに留守家族一つのワクにはめるわけに参りませんので、一品に実情と申しましても、なかなか複雑でありましてしかも昨年来、日ソ交渉が開始せられまして、また中国関係は逐次引き揚げが進展をいたしまして現在は頓挫いたしておりますけれども、おぼろげながら、引き揚げ問題の大体の前途というものが予想せられる今日でありますので、消息不明者の問題をどうするかという問題が、一番大きな問題でございます。  その前に一言申し上げておきたいのでありますが、日ソ交渉に関連をいたしまして、留守家族の心境というものはきわめて深刻でございます。申し上げるまでもないと思いますが、先ほど申し上げましたようないろいろな実情に立っておる留守家族でございますから、長い間のしんぼう、それから長い間の苦労、まして現地の状況がよくないというような情報が入りますと、もうどうなってもいいから、一日も早く帰してもらいたい。領土問題などたな上げして、早く向うの言う通りにして帰してもらいたい、こう言う人ももちろんございます。しかしまたハバロフスクの帰還者が申されたと同じように、自分の主人だけを、向うの言いなりになって帰してもらわなくてもけっこうです。自分も一人の日本人です。消息不明者の大部分の人たちの問題が解決をしないというようなことでは、そういうことは自分としては言えませんというふうに、はっきり言い切る留守家族人たちもございます。そこで、大多数の留守家族人たちの日ソ交渉に対する現段階における気持は、決して向うの言いなりになって帰してもらう必要はないということであります。私どもいつもいろいろこれらの人たちと相談をするのでございますが、もし従来からいろいろな線で出ておりまするように、巣鴨に服役させるというようなことで一部の人たちが帰されて参りました場合には、舞鶴のあの上陸地において非常な混乱が生じる、おそらく奪還闘争を留守家族は展開するんじゃないかと私どもは憂慮いたしておるのであります。そこで日ソ交渉に当りましては、十分一つ留守家族の心情を先方に伝え、ただすべきはただし、要望すべきは要望していただいてそうして生存者の問題も、消息不明者の問題も、死亡者の問題も、十分一つ筋を立ててはっきりさせてもらいたい。それが全権なりあるいは田邊局長なりがお帰りになりまして、日本の国としてはやむを得なかったのだということが留守家族に了解ができますならば、たといどのような方式で妥結されましょうとも、留守家族はそれで一応納得すると思います。しかしあるいは生存者の問題だけが解決をして名簿外の生存者や生存見込みの者や、あるいは消息不明の人たちが解決しなかったということになりますと、非常な混乱が生じるのではないかと私どもは憂慮しながら、留守家族人たちと常に相談をし、留守家族団体としては過激にならないように、留守家族のワクを逸脱しないようにということをお互いにいましめ合っておるのが現状でございます。  そこで、冒頭に申し上げましたように、現在六万名の未帰還者がございますが、約五万名は、率直に言って最近の消息がございません。しかも古い時代の生存資料を唯のたよりにして、今日まで生き延びて参ったのが留守家族の大多数でございますので、一体いつになったら、国ははっきり生死を明らかにしてくれるんだろうということが、一番留守家族の聞きたいところでございます。しかしこれが日ソ交渉の現状、あるいはジュネーヴで開かれておりますところの日中交渉の現状、あるいは今葛西副社長が行っておられますところの北鮮赤十字との交渉の情報等から見まして非常に困難であるということはわかっておりますけれども、これ以上耐えられないというところに来ておるのが、留守家族の心情であります。過般、内閣の引揚同胞対策審議会におかれまして、夫帰還者留守家族援護法の第十三条の延期を決議せられまして、政府において、ことしの七月三十一日で切れますところの期限をなお三年間延長する、こういう決議をしていただいたのでございますけれども、現段階では、ただ調査究明の期間を三年間延長して、過去七年以内に消息のわからない者の留守家族にも、留守家族手当を支給するということだけでは、現在の留守家族はなかなか気持がそのままではおさまらない。早くはっきり生死を明らかにしてもらいたい。一体いつになったら生死がはっきりするんだということを、大きな声では皆様方のお耳には届いていないとは思いますけれども、これが大多数の留守家族の現段階における深刻な悩みでございます。なお、この消息不明の中から、逐次死亡公報が出て参ります。これも皆様方が御存じだと思いますけれども、現在では、死亡の確認ができなくても、死亡の認定資料がございますと、一方的に死亡認定をされて参ります。これがまた現在、全国で、世話課との間にいろいろ問題を生じているところでございます。一例を申し上げますと、これは私の県でございますが、一人むすこの帰りを待っておりました母親でございます。諸般の情勢から、死亡確実と判断せられるということで、三年前に、世話課の方からそういう話をいたしましたら、そのお母さんはそれから食事をとらないで、とうとう二週間目に餓死いたしました。また京都の実例でございますが、おばあさんと孫二人の留守家族でございます。過般世話課に呼び出しを受けまして、死亡認定をしたい、こういう話がございまして、おばあさんが帰ってきて、小学校に行っている孫たちにそういう話をいたしました。ところが、その晩から孫たち食事をとらない。こういう悲惨な実情がございます。冒頭に申し上げましたように、こういう家族もありますれば、また長い聞しんぼうしてきたけれども、家庭の整理上どうにもならない。一町余りの田畑をかかえて長男の帰りを待っておっても、もうこの田畑を維持することもできないからどうしてもだめなものならば、早く処理をして、次男に嫁をもらい、また娘に婿をもらって、家庭上の整理をしたい、こういうふうな留守家族もございます。  そこで、昨年、日ソ交渉が開始されまして、私どもはいよいよ引き揚げの最終段階を迎えて、私どもが中央で政府なりあるいは国会に要望をいたします場合に、私ども一つの資料を持っておかなくちゃならぬ、こう考えまして、私どもの微力な組織では、数万名全部の留守家族の気持をなかなか握るわけには参りませんので、一都二府六県を指示しまして抽出調査をやってみました。まず留守家族の気持でございます。積極的に死亡公報を出してもらおうというわけではございませんが、とにかくあきらめているというのが九%、総数は七千五百六十名でございますが、その中の六百九十名、九%はあきらめている。それから八%の六百二十四名が現状では公報を出してもらいたいというもの、それから自分の命よりも大事だと考えておる主人あるいは子供の生命に関する問題だから、何とかはっきり生死のわかるところまで国において調査究明をやってもらいたい、これが五千三百九十二名で七一%、それからこういう意思表示のはっきりしない、不明が八百五十四名で……。一%ございます。  それから、これは未帰還調査部にも、政府の方にもはっきりした留守家族の実態調査というものの統計がございませんので、一応御参考までに、私どもの集計いたしました統計表を申し上げるのでございますが、現在の留守担当者が妻であるもの、もちろんこれに子供がついておったり、あるいは中には両親のあるものもございますけれども、妻の場合が大体において二六%、それから夫の場合も若干ございますけれども、これはパーセンチ・ジに入らぬくらいでございます。それから子供だけが留守担当者になっておるという場合が二%、それから父母の場合が四〇%、兄弟姉妹の場合が一一%、その他二〇%、これは兄弟姉妹以外の三親等くらいの親族になります。あるいはおじさん、おばさん等になりますか、あるいは無縁故者等も含まれておりますが、二〇%ほどございます。それから現在、未帰還者留守家族援護法によりまして、留守家族手当、現在では二千五百八十三円でございますが、あるいは特別手当を受けておる留守家族の世帯数は四九%でございます。受けていないのが四七%、わからないのが四%、こういうふうに、抽出でございますが、集計表では出て参りました。こういうような留守家族実情でございますので、先ほどの消息不明者の調査究明をやるという問題につきましても、もちろんある程度現地から帰って参りました人たちの提供いたします情報資料等によりまして、国内的に調査究明するということが限界に達しておるということもよく了解をいたしますけれども、定員法その他の関係がございまして、中央では、厚生省の未帰還調査部の人員がだんだん減っていく。また地方では世話課の調査の責任者が減っていく。中には名前だけ置いておくけれども、相談に行っても、話もできないような係員がおる。こういうことで、一体国は三年間延長して調査究明をやる、そういうふうに言ってくれておるけれども、ほんとうにやってくれるんだろうかどうかという、消息不明の留守家族人たちの国に対するこれが憤りになっておる。聞くところによりますと、定員法の関係で、未帰還調査部の専門の調査員も減り、また地方におきましても世話課が他の課に併合されたりして、一番困難な問題に入っております現在、未帰還者の調査究明に関する国の具体的な現われがきわめて低調であるということに、悲しい思いをいたしておるのであります。  それから死亡処理の問題でございますが、死亡処理の問題も、さっき申しましたように、未帰還調査部の方で死亡確実と判断をいたしますと、死亡認定する。また先ほど申し上げましたように、いろんな事情から、この際死亡処理をしてもらいたい、こういう留守家族が希望を持ちますと、各都道府県の世話課を通じまして、厚生大臣に特別審査請求をいたします。しかし留守家族が希望するからといって、全部死亡処理を認められるというわけでもなく、また留守家族が希望しないからといって、死亡公報を拒否するということもできないというのが、現在の復員業務規程等によってとられておりまする死亡処理の方式でございます。そこで、いろいろな問題が、留守家族と復員官署との間に生じてきておるのでございますが、絶対に受け取らぬ、何と言われても受け取らぬ、こういう場合には、ある県によりましては、職権をもって戸籍を抹消してしまうというようなことも行われております。死亡公報をどうして受けないのかということをいろいろ調べてみますと、多くは、せっかく十年も待ってきたんだから、もう少しはっきりした資料が入るまで、このままで置いてもらいたい、せめて子供が一人前になって、どういうわけで父が帰ってこなかったかということを、十分子供に説明のできるまでは置いておいてもらいたい、こういうふうな気持の人たちが大部分でございます。また中には、きわめて強い人は、そんな認定資料では絶対に受け取らぬ、自分の目の黒いうちに一つはっきりさしてもらいたいということで、強く要望をする人もございます。そこで死亡認定に際しまして、十分これらの留守家族実情を尊重していただきたい。過去の国会におきまして、特に特別委員会におきましてそういうふうにおっしゃったのではないと思いますけれども、諸先生の間から、もう困難な問題だから、八月九日なら八月九日、九月二日なら九月二日に線を引いて、死亡公報を出してしまえばいいじゃないか、そしてできるだけ金をやるようにすれば、それで留守家族もおさまるのではないかというふうなお話がございましたけれども、そういうふうに簡単な、一定の法律を作って、七年間あるいは十年間生存資料の入らないものは死んだのだというふうに法律で死亡処理をしてしまうということになりますと、これまた非常に大きな悲惨事あるいはトラブル等が起るのではないかと私どもも憂慮をいたしておるのでございます。こういうようなきわめて深刻な留守家族の現状でございますので、そういう最悪の事態が参りましても、現在の未帰還者留守家族援護法あるいは戦傷病者戦没者遺族等援護法あるいは改正恩給法などにできるだけ一つこれらの留守家族をひっかけていただきまして、何とかして、国の責任であるということをはっきり具体的に示していただきた、こういうことで皆様のお手元に差し上げてございますが、この三つの法律に対しまして、どうか、この国会で私どもの要望いたしましたことを最小限度といたしまして、諸先生方のお力におすがり申したいというのが、現在の留守家族援護に関しましての留守家族団体全国協議会の、全国の留守家族の総意に基きましてのお願いでございます。  以下、時間の関係もございますので、きわめて簡単に要望の諸点について申し上げたいと思います。  まず、夫帰還者留守家族援護法でございますが、これは二十八年の国会に、従来の未復員者給与法を廃止いたしまして、留守家族等の援護法を政府が提出いたしました際に、強く私どもも要望をいたしたのでございますが、恩給法、それから恩給法の精神を受けて一年前に作られました遺族等援護法、せめてこの遺族等援護法と留守家族援護法は、立法の根拠を一つにしてもらいたいということをお願いをいたしたのでございます。なおこの問題については、昨年の七月ごろの国会で、現在の政務次官でいらっしゃいます山下先生が田邊局長に、遺家族援護法との間に均衡がとれていないじゃないかということについて御質問をいただきまして、田邊局長から説明がなされておりますが、条文から参りますと、遺家族援護法は、国家補償の精神に基いて援護を行うということになっておりますし、留守家族援護法の方は、未帰還者の置かれておる特別なる状態にかんがみて、国の責任において援護を行うということになっております。これは、私どもはこういう言葉だけの修正を求めたのではないのでありまして、何とかして、国家補償の精神で援護をするのだというふうに改めてもらいたいということを、その後毎国会ごとに要望をいたしておるのでございますが、これが今日そのままになっておる。そこで、最近の代表者会議におきましては、強い主張が出て参りまして、洞爺丸、それから紫雲丸、最近は韓国の抑留漁夫等の問題まで生じて参りました。本気で国の責任を果そらとするならば、できないことはないじ店、ないか。一体どういうわけで、十年も前の戦争の始末のできていない悲惨な未帰還者の問題あるいは留守家族の問題をやってくれないのか。国家補償の精神に基いてという立法根拠を作って、それができますと、すぐその次の第七条にございますが、留守家族手当の支給条件というのがございます。遺家族援護法に比べまして、主としてこれは二男、三男等を未復員者あるいは夫帰還者にいたしておりましても、本人との間に生計関係が、帰ってきても認められない、収入依存の関係が認められないというので、これらの両親は、留守家族手当の対象になっておりません。遺族になりますと、年金なり扶助料がもらえるが、留守家族ではもら、えないということになっておるのが第七条であります。できるだけ現在の法律のきめられた範囲内で、寛大に解釈をしていきたいというのが援護局当局の御方針でございますけれども、それではどうしても突き破れないワクがございます。そこで第七条の留守家族手当の支給条件を排除してもらいたいという要望をいたしておるのでございます。なおいろいろこまかいことを申し上げますと切りがないのでございますけれども、未帰還者留守家族援護法をお作りになります際に、大蔵省なり恩給局なりと十分な政府の打ち合せができていなかった。そのために、この三つの法律の中にいろいろな不均衡が生じてきておるのでございます。一つ実例を申し上げますと、子供と父母の場合、子供の場合は、恩給法の精神を受けて、遺家族援護法も留守家族援護法も二十才未満までは手当の対象にしてもらいたい。父母の場合なども、六十才に制限を置かないで、五十才にしてもらいたいということも言い得るわけであります。またこの父母なり子供のワク内に入らない子供がございます。また父母がございます。継母の問題あるいは籍の入っていない子供の問題、当時の戦地の実情からいたしまして、満州、北朝鮮、千島、樺太等の実情からいたしまして、養子縁組もできなかった母親もございますし、国内におきましても、そういう法的な処置をとっておかなかったが、実際上扶養をいたしました母親が非常に多いのでございますが、そういう人たちも含めまして、父母あるいは子供に関しては、できるだけ寛大な処置をとってもらいたい。これが現在の留守家族援護法の改正要綱としてお願いを申し上げたい点でございます。それから葬祭料でございますが、葬祭料は、現在死亡公報が発令されますと三千円支給されることになっておるのであります。ところが三千円で葬式をしろということは、非常に無理な話でございます。すぐにビキニの問題あるいは洞爺丸の問題、紫雲丸の問題等が出てくるわけであります。今日百姓が牛や馬の葬式をいたしましても、あるいは飼っております犬やネコ、そういう動物の葬式をいたしましても、三千円や四千円はかかる。しかも十年間も国が明らかにしなかった結果、十年以上もたって一片の、ほんとうに遺骨も入っていない木の箱を渡して、三千円で葬式をしろというのはひどいじゃないかというのが、率直な留守家族の現在の気持でございます。そこでこの葬祭料を何とかして増額をしてもらいたい、せめて最少限三万円の葬祭料にしていただきたい、三万円あれば、一応その霊を弔うだけの葬式ができるというのが、留守家族の気持でございます。それから、遺骨の引き取り経費を、死亡公報が発令されましたときに、支給される留守家族と支給されない留守家族とがございます。ソ連に連れていかれた未復員者と同様の実情でないと判断されました未帰還者留守家族は、この遺骨引き取り経費が支給されません。ソ連へ連れていかれた未復員者と同様の実情にあると認められた者に限って遺骨引き取り経費が支給され、それらの人たち以外の一般の死亡者には、遺骨の引き取り経費が支給されません。わずか二千七百円の遺骨引き取り経費を、こういうように差別待遇をしないで、未帰還者の置かれておる特別な状態にかんがみて、一律に遺骨引き取り経費を支給してやってもらいたいというのが、その次の要望でございます。それから先ほど申しましたように、大多数の状況不明者に対しましても、死亡処理をどういう方法でとられますか知りませんが、いずれ死亡公報が出るわけですが、遺族になった場合に、全然弔慰全ももらえなければ、もちろん年金ももらえないという人たちが出てくるわけでありまして、現在の日ソ交渉また日中の政府間の交渉が始まりましてから逐次出て参りますところの死亡者については、戦傷病者戦没者等遺族等援護法の第三十四条の特別弔慰金は、一律に支給してもらいたいということを強く要望をいたしておるのでございます。なお、この弔慰金の支給を遺家族援護法の中で取り上げて参りますと、その他の戦災者等に影響があるというお話がよくあるのでございますがどうしてもやむを得ない場合には、何とかしてこの弔慰金の支給規定は、未帰還者留守家族援護法の中に入れてもらいたい。引き揚げ関係いたしました者は、弔慰金は一時金でございますから、未帰還者留守家族援護法の中に規定をして、こちらの方で弔慰金を支給していただきたい、そういうふうに要望をいたしておるのでございます。それから遺家族援護法に関しましての第二点は、ソ連、中地域等において、一方的に、思想犯あるいは国事犯等、名称はいろいろございますが、戦犯者というようなことで、拘禁中に死亡いたしました一般の邦人がございます。最近の実例を申し上げますと、昨年の十二月に、先生方の代表の方がお迎えいただきました四十体の御遺骨が中国からお帰りになりました。あの中の二十三体は、元の日本の軍人、軍属てございます。従いまして、拘禁に死亡されておりまして、若干問題はあろうと思いますけれども、病名その他はっきりわかっておりますので、大体公務死の取扱いを受けまして、遺族には扶助料が出るはずであります。ところが、十七名は満州国の警察官または満州国の軍人が大多数でございまして、同じように拘禁中死亡しておりながら、これらの人たちには三万円の特別弔慰金だけが支給されまして、年金も扶助料ももちろん支給されません。これは非常に不合理ではないか。元の身分は違いますけれども日本軍に協力をいたしまして、しかも平和条約第十一条に規定されました巣鴨の戦犯者あるいはその他南方諸地域のいわゆる戦争受刑者といわれております人たちより以上古労をなめて、現地でなくなった方々でございますので、これらの人たちにも遺族年金を支給してもらいたいというのが、私どもの要望で、こぎいます。なお戦傷病者戦没者等遺族援護法の附則の二十項を見ますと、平和条約の第十一条に規定されております戦争受刑者の人たちが拘禁中になくなりました場合には、たとい無給軍属でありましても、年金は支給されております。平和条約第十一条に規定された戦争受刑者の拘禁中の公務に基く犠牲に対して遺族年金を支給するというのならば、それよりもさらに悪い条件のもとにおいてなくなられた、ソ連中共地区等において拘禁中あるいは民主裁判等を受けまして、いわゆる前職罪等によりまして処刑をされました人たちにも、当然遺族年金を支給すべきじゃないかということを、特に最近四十人の遺族の方々にお会いいたしたときに要望されており、従来からこういうことも政府に要望をいたしておったのでございますが、この点を一つ今度の国会で何とかお力添えをいたたきたい、これが戦傷病者戦没者遺族等援護法に関連いたしましての二つの要望でございます。  最後に、恩給法でございますが、恩給法の点につきましては、この前の内閣の審議会で決議をしていただきまして、恩給局でも何とか考えてくれるんじゃないか、こう思っておりますけれども、御承知のように、昭和二十八年に恩給法の一部改正が行われました際に、未帰還公務員に対しても一つの特例が認められました。改正恩給法の附則第三・一条が未帰還公務員に関連をしての条項でございますが、まず未帰還公務員が最短在職年限に達しておる場合には、退職したものと見なして本人にかわって留守家族に普通恩給を支給しよう、こういうことで、当時私どもは非常に喜んだのでございますが、そういう措置ができました。しかし、実際その適用を受ける留守家族ということになりますと、きわめて少数でございまして将官、佐官の過半数、少佐ぐらいでございますと、本人の年齢が五十五才に到達をいたしておりませんので、半額あるいは三割というような停止が恩給法の本則にございます。四十五才未満は全額停止、五十才未満は半額、五十五才までは三割ですか、そういうような削減を受けまして、事実上未帰還公務員の留守家族に普通恩給を代理受領せしめるという一種の特例を認めていただきましたけれども、これがきわめて少数の人たちにしか適用されていない。もちろん恩給法は社会保障法でもなければ援護法でもございませんから、恩給法の精神からいえば、そういうことはできないと言われればそれまででございますけれども、そこまで軍人、軍属を含めましての未帰還公務員への特例を認めていただいたならば、現在ソ連中共等において国家の犠牲になって拘禁され、また消息のとだえておる未帰還公務員は、日本の国に帰って労働力を発揮することができないのみならず、国家的な犠牲者であるから、未帰還公務員については恩給法のその本則を適用しな用い、若年停止の措置を寛大にして、全部の未帰還公務員の留守家族に、最短在職年限に到達した場合には、普通恩給代理受領をさせてもらいたいという強い要望が、現在留守家族の中で起っておるのでございます。  第二点は、先ほど申し上げましたように、公務扶助料の遡及支給の問題でございまして、どういうふうに変って参りますかはっきりいたしませんが、恩給法では、昭和二十年の九月二日に線を引きまして、昭和二十年の九月二日以前になくなったということが判明いたしました場合には、未帰還公務員でなかったものと見なすのでございましょう、公務扶助料をさかのぼって支給するのであります。恩給法の施行されました昭和二十八年にさかのぼって公務扶助料を支給する。しかも、今日までもらいました未帰還者留守家族援護法に基きます留守家族手当等は差し引かないで、留守家族手当ももらえれば、二十八年分からの公務扶助料ももらえる、こういうことになっております。昭和二十年の九月二日以後、ソ連なりあるいは中国等でなくなりました場合には、死亡の判明した日の属する月の翌月から扶助料を支給する、こういうことになっている。従いまして、先ほど申し上げましたように、主として次男、三男等でございまして、収入依存関係にないと認められて、現在まで留守家族手当をもらって来なかった両親でも、死亡公報が発令された翌月からしか扶助料がもらえない。同じ留守家族でありながら、二重取りをする者も出てくれば、死亡公報の出た翌月からでございますから、今月出たといたしますと来月からでないと扶助料がもらえないというように、同じ両親でありながら、こういうふうな不合理が生じてきております。恩給法の原則通り、死亡公報の出ました場合には、実際に死亡をされた目の翌月にさかのぼって遡及支給してもらいたい、こういう要望でございます。それでも十分とは言えないと思いますけれども、十年も長い間ヘビのなま殺しのような状態に置かれてきて、留守家族は、精神的にもまた経済的にも、いよいよ死亡公報が出るということになりますと、悲嘆のどん底に落ち込むわけでございますので、これらの手厚い処置によりまして私どもは一挙に国家保障を要求したい気持でございますが、二十年間生きていて六十万円もらいますよりも、今、五十万円もらった方が、再建のめども立つのでございますから、そういう金をよこせというような運動も従来続けて参りました。未帰還者に対する道義的な責任の立場から、血みどろの運動を続けて参りましたが、この運動を切りかえて、金をよこせというような運動にはいたしたくございません。何とかしてこれらの法律の改正について、国会の諸先生方のお力添えをいただいて、困難な未帰還者の最終段階の国内的な処理問題だけでも解決し、せめて肉親に、尊い犠牲、犬死でなかったというふうに、悲しい中にも留守家族が希望を持って、年取った両親が余世を全うし得る、また妻は子供を養育することができるようにしていただくことを心から念願するものでございます。その他南方関係の問題もございますが、これらについては、先生方もすでに御承知だと思います。南方関係家族の場合にも不均衡が生じておりますので、御質問がございますればお答えをいたすことにいたしまして、一応私からの報告を終らしていただきます。ありがとうございました。
  8. 原健三郎

    原委員長 これにて参考人より一応事情を聴取いたしました。この際質疑を許します。中山マサ君。
  9. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 一番初めに小山さんに伺います。蒙古の方で十五年の刑を言いつけられてノルマをあげて、切り上げて釈放された。そうして中共に引き渡されて、また未決に入れられて何カ月かの刑を受けた、と言われた。それはどういうわけでございましょうか。すでに刑を受けた人が、なぜ次の国に行ってまたぞろ罪人扱いをされなければならないかということがどうも受け取れないと思いますので……。
  10. 小山義士

    小山参考人 この問題は、私にもわからないのであります。実際異国の土地にありましたので、よくわかりません。これは私の想像でありますが、私のやっておりましたところは内蒙でありまして、特務機関とかあるいは蒙古人の行政をやっておりました。連れていかれたところは外蒙で、十五年の刑を終わりまして中共に渡された。ところが中共監獄に入れられた。これは、はっきりわかりませんが、内蒙古自治区政府の管内でやっておった関係で、また入れられたと私は解釈しておるのです。どうもそこのところはわかりません。
  11. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 今度新しく四カ月ですか、五ヵ月ですか、刑を言い渡されたときの判決は……。
  12. 小山義士

    小山参考人 判決はありません。
  13. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 それじゃ罪名も言われないのでございますか。
  14. 小山義士

    小山参考人 罪名も言われません。
  15. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 ただ何となしに……。
  16. 小山義士

    小山参考人 ただそこに入れられて、仕事をやらされておったわけです。向うで実際に高等法院とかで判決を受ければ、私どもとしてもうなずけるのですが、判決もなし何もなしで入れられておった。さっぱり見当がつぎません。
  17. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 それでは、あなたはいわば無罪の人でございまするが、そういうことを訴え出るような場所はないのでございますか。いわゆる無実の罪を着せられているのですから、自分は無実の罪である。すでに与えられた刑は終了したというようなことの、いわゆる人権擁護というようなことはないものでございましょうか。
  18. 小山義士

    小山参考人 共産党の支配下にありますもので、私が中共に渡されたときに、向うの取り調べておった人に聞きました。私は十五年の刑を着て終ったのだけれども、どうしてわれわれを中に入れておくのかと聞いたら、条件によっては日本に帰す。条件がかなわなかったらこの中に入れておくということでございました。条件というのはどういう条件かわかりませんけれども向うの考え次第なんでしょう。
  19. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 それは人民裁判ですか。どういう裁判ですか。一つの国から新しく来たというので、また人民裁判にかけられるのですか。それとも普通のわれわれが承知している裁判にかけるのですか。
  20. 小山義士

    小山参考人 未決の中に公判部というのがあり、公判部の中に審理をするところがあります。そこでそういうふうにやっておりました。だから中共乏して、まだそこまで進んでおらないと思うのです。
  21. 中井徳次郎

    ○中井委員 今のお話だと、あなたは中共で調べられましたのは、何か警察の関係で、裁判まではいかなかったのですか。その辺のところをお聞きいたします。
  22. 小山義士

    小山参考人 裁判までいきません。ただ向うの、中共で監視所におるときに、二、三回自分の経過の調書を取られました。それから出まして四ヵ月そこにおりまして、三回調書を取られました。それから労働改造所に回されて、そこでやはり二回か三回調書を取られました。それだけであります。
  23. 中井徳次郎

    ○中井委員 それで、あなたが勤務されておりました内蒙は、今では中華人民共和国の領土内ですね。
  24. 小山義士

    小山参考人 そうです。その関係で、やはり中共としては、外蒙においての調書と、それから中共においての調書を、合ろか合わないかというので取り調べておったのではないかと思います。
  25. 戸叶里子

    戸叶委員 今、外蒙での刑を終えられて、また中共で刑を終えられたということは、私も非常におかしく思うのです。あなた自身も御存じないようですけれども、先ほどのお話の中で、私あるいは聞き違えたかもしれませんけれども、外蒙で刑を終えられて、しばらく私の家に来ないかと言われて、そこで仕事をしていたら、それが共産党の方の関係の人だったので、ほかの方に勤めにいったとおっしゃったと思うのです。外蒙で一度刑を終えられたときに、あなたと同じような立場にいられる方、つまり刑を終えられた方がたくさんいられたかどうか、お一人であったかということがまず一つ。それから刑を終えられた人は、監視がついて、自由に動けなかったのでしょうか。それともどこの仕事につくというようなことは自由だったのですか。この二点でございします。
  26. 小山義士

    小山参考人 外蒙におきまして、監獄に入った当時は、日本人が六名でした。四名こちらへ帰りまして、それから二人なくなりました。私が一番先にこの仕事をやった関係で、さっきのお話の通り市民生活を一年半ばかりやりました。その間向う共産党の方という人が、監獄の中のお医者さんでありまして、その方が私の出るときに、私が何も知らなかったものですから、おれのところへこいというので、その方のところへ行ったのであります。その方としばらく一緒生活しておりましたところが、何かのきっかけで共藤党員であるというので、これはまたいろいろ話をしているうちに、私が日本人としていろいろ言うたことに対して、また問題を起して、監獄へ入れるということになるといかんから、まあ私が内密に別れたわけでございますね。それで、前に勤めておったところと同じところなんです。別に変ったところじゃ、ないのです。その人が仕事をしておったわけでない。ほかの、第九手工業組合というところに私は勤めて、その人のところから通っておったわけです。
  27. 臼井莊一

    ○臼井委員 小山さんにちょっとお尋ねしますが、外蒙からは何か全部帰られたというようなお話でしたが、その通りでありますかどうか。それからもう一つ、四名お帰りになって、今のお話では二名は向うで死亡されたというように伺ったのです。一名の方がきょうほお見えにならぬが、私は一緒にこちらへ出るはずの方も一緒にお帰りになったと思いますが、他の三名の方の状態についてお伺いができればと思います。
  28. 小山義士

    小山参考人 私と一緒に外蒙の監獄に入れられたのは六名でありまして、そのうちの一人が矢部久雄という方であります。もう一人の方は、金森ススムという方であります。この金森ススムざんは、肺結核でなくなりました。これは結局栄養不良、いわゆる食事があまりひどいものでございまして、強制労働を課せられるものですから、そのためにからだが衰弱しまして、前からちょっと悪かったようですけれども、結局それがもとでなくなりました。矢部久雄さんは、やはり食事の問題で腸をこわしたと思います。伝染病にかかりまして、病名は私よくわかりません、とにかく病院でなくなりました。その方たちはみんな刑期が終らないのです。そのために獄死というのですか、いわゆる外の病院で死んだけれども、獄死ということになっておるわけであります。ほかの四名の残った方たちは、いわゆる蒙疆政府という徳王の政府がありまして、その当時一緒に皆やっておったわけであります。須佐誠という方が一人おります。この方もシュリンゴールの顧問をやって、特務機関関係で入っております。宍戸武雄さんもやはり察恰爾盟の正藍旗の顧問をやっておりました。やはり特務機関とか軍の関係戦犯になっておりました。もう一人、増田琢雄さんは、山口県の方でありますが、シュリンゴールの運搬機関におりました。この四名が今度帰ってきたわけであります。
  29. 臼井莊一

    ○臼井委員 帰ってきて、そのうち二人はなくなられたのですか。
  30. 小山義士

    小山参考人 向うでなくなりました。われわれ監獄の中におりましても、自由に行き来ができないのであります。金森ススムさんは監獄の中でなくなられました。そのときに遺髪をとってありましたけれども、今度こっちに来るときに、遺髪もとられてしまいました。これはわれわれとしてもまことに残念でありますけれども、いたし方ないと思っております。
  31. 臼井莊一

    ○臼井委員 他の三人の方は、刑が終えてあなたと一緒に出たのでしょうか。
  32. 小山義士

    小山参考人 いや、ほかの宍戸武男さん、須佐誠さん、増田琢雄さん、この三名は、まだ刑期が終りませんでした。それで中共に渡されて……。
  33. 原健三郎

    原委員長 帰っておらぬのですか。
  34. 小山義士

    小山参考人 一緒に帰っております。もう一つ、私言うのを忘れましたが、外蒙では、死んだ人の取扱いは風葬をするわけです。風葬というのは、死んだ人をそのまま持っていって、一定個所に捨てるわけです。何も棺おけへ入れて捨てるわけではない。ただ持っていって捨ててしまう。だから、だれの骨かわからないわけです。私も墓場へ行って見ましたけれども、どれがどれだかわからないわけです。それでまことに残念だったのですが、いたし方ない。これは遺品でも持ってくるよりしようがないということで、一つだけ助かりましたから、それでもいい方だったのです。
  35. 戸叶里子

    戸叶委員 先ほど吉崎さんのお話を伺いまして、その中でいろいろ問題があると思うのですけれども、特に引き揚げられた方のうちの七万五千は、今、非常にみじめな生活をしていらっしゃる。こういう方々に対する援護法の改正の問題なんですけれども、ちょうど援護局の方がおいでになっていらっしゃるから、どういうふうなお考えでおられるか、一ぺん伺いたいと思うのです。またそれらの方々援護法の中に入れるとしたら、大体どのくらいの予算を必要とするか、この点も伺いたいと思います。
  36. 大崎康

    ○大崎説明員 お答えいたします。現在の援護法におきましては、先ほどお話がございましたように青少年義勇隊員につきましては、弔慰金を三万円支給しております。その他の開拓団の死亡者につきましては、戦闘に参加した者等につきましては、やはり弔慰金を支給しておるわけでございます。そのほかの、たとえば男子でありましても、一定の年令未満の子供さんとかいうふうなものにつきましては、弔慰金も支給されていないわけであります。現在の規定に関する限り、その規定の精神を最大限度に活用いたしまして、弔慰金を差し上げておるわけであります。今これ以上さらに拡大することについてはどうかというふうなお話がございました。これにつきましては、研究は進めておりますけれども、いわゆる弔慰金の対象者につきましては、たとえば徴用でありますとか、あるいは学徒動員でありますとか、国との一定の法律上の関係を前提といたしまして、その方々に対して支給するというような建前になっておるわけでありますので、困難ではないかと考えております。
  37. 戸叶里子

    戸叶委員 今、大体七万五千人の方々に何らかの方法を考えるとすると、どのくらいの予算になるかおわかりでしょうか。おわかりにならなければ、あとでもけっこうです。ついでですから、時間を省きまして、吉崎さんに伺います。そういう方々生活といいますか、大体生活保護法か何かでもって生活を維持されておるのですか、どうでしょうか。この点を伺いたいと思います。
  38. 吉崎千秋

    吉崎参考人 一部分の人たちは、生活扶助料を得ております。しかし、得ておらない者が、大部分のように聞いております。
  39. 大崎康

    ○大崎説明員 開拓団方々につきましては、先ほどもお話がございましたように、男子については、大体召集されておられますので、もし召集されておられれば、それは恩給法の適用を受けるわけでございます。七万というお話がございましたが、そのうちでどの程度召集されておりますか、私ちょっと数字をつかんでおりません。かりに七万ということでどのくらいの費用がかかるかということは、年金額にもよるわけでございますけれども、かりに年金三万円を出せば二十億何千万円かかるわけでございます。従いまして、数字は相当動くと思いますが、二十億前後の金額になるのではないかと思います。詳しいことは、ちょっと数字を持っておりませんので……。
  40. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 そうしますと、吉崎さんのお話を承わっておりますと、関東軍が下に下ってしまった、そうして御婦人及び子供たちを守るためにおるへきはずの男性も召集されて、関東軍の方へ、みすみす終戦を控えて行かなければならなかった。しかも向うに行ったときの状況を見てみますと、個人の希望が行ったものではない。そちして軍が、初めは農村の三分の一でございますか、それを向うへ移すというようなことであったのが、結局これが防衛のためであったと申しますと、ある意味におきましては、国がぺてんにかけて、向うへ連れて行ったと言われても、私はやむを得ないであろうと思うのでございます。大阪にもこの自興会の方々がいらっしゃいますから、私もよくお話を伺うのでございまするが、いわゆる学校へ割り当てて、――ちょうど予科練制度のようなものだと思います、この学校から何人予科練を出せということがあったことを記憶いたしておりますが、どうもそれと同じような傾向によってこれは出されておる。そういたしますれば、自分の希望で、もう日本では生活ができないから向うへ行くと言って行った移民でも、引き揚げてきた人たちには、一般邦人といって、何らかの手当をしてあげているという今日でございますのに、こういう国の方針に沿うて行った人が帰ってきたときには、何もしてもらわない、顧みてくれる人がなかったということに対して、私ども国民として、良心的に、涼しい顔ができるかできないか。死んだ人には、義勇隊として、まことにお粗末なお手当が出してあるのでございますが、援護局といたしましては、良心の前に、ただ涼しい顔をしておって、これは法律がないからということが言えるかどうかということを一つ聞かしていただきますれば、私どもも議員でございますから、国民の代表としてまた考えなければならない点も、これから出てくると思うのでございます。今まで十年余り引き揚げの問題をやってきておるのでございますが、初めは、国の力も弱い。それで大づかみということで、お手当もまことにお粗末であった。だんだんよくなって参りますと、帰ってきた人には、舞鶴でそこばくのものも差し上げるというようなことになってきております。国も、軍人には恩給をやっておるではないか、しかも今のお話では、人を見殺しにして引き揚げた者に恩給をやっておるというので、国民の中に恨みを持っておる人があるということは、私はよき政治ではないと思うのであります。たといいざさかでも、国の状況が悪いのだから、これでしんぼしなければならぬというところに皆様方のお心持を持っていってこそ、私は初めていい政治だと言えると思うのでございます。これはそういう含みを持って申し上げたのですから、含みを持ってお答え下さいまして、あなた方のお立場もありましょうから、そういうふうな傾向へ向っていける楽しみがあるかどうかということを聞かしていただきたいと思います。
  41. 原健三郎

    原委員長 今、政務次官がおりませんから……。
  42. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 それでは、保留いたしましょう。
  43. 臼井莊一

    ○臼井委員 関連して。援護局のお話では、戦闘に参加した者は開拓民でも出すということですが、もちろん召集になった者は軍人としての取扱いを受けるのですが、今いろいろお話を吉崎さんから伺っていますと、実際に婦人でも何でも銃を持って戦った人もあるのです。そういう点の認定は、やはりそういうものがはっきりしなければ出さないのではないかと思いますが、そういう点はどういう取扱いになっていますか。
  44. 大崎康

    ○大崎説明員 婦人でも、実際に銃を取りまして戦った人については、弔慰金を支給いたしております。(「れんがを持って戦った人はどうなんですか」と呼ぶ者あり)御質問がそういうあれでございましたのでお答えいたしましたが、実際に戦闘に参加した者につきましては、弔慰金を支給しております。
  45. 臼井莊一

    ○臼井委員 その認定ですが、ああいう混乱の際であるし、なくなった方の、戦ったか戦わなかったかという認定は、なかなかむずかしいだろうと思います。こういう点は、今、吉崎さんのお話しのように、国家の犠牲として行かれているので、一応みな戦った、こういう精神で考るべき問題も多分にあろうと思うので、そういう意味からも、十分一つ御研究をいただきたいと思うのです。
  46. 原健三郎

    原委員長 私から申し上げますが、元満州開拓民の問題、その援護等についてあらためて政府当局の意向を聞きますから、援護課長から、大臣ないし政務次官と御連絡の上、ご協議しておいていただきたいと思います。ほかに御質疑がなければ、これにて参考人よりの事情聴取を終ります。参考人各位には、長時間にわたり、詳細実情並びに御意見を述べられまして、本委員会といたしまして、調査の上に非常に参考になりました。この際、委員長よりあらためて厚く御礼申し上げます。本日はこれにて散会いたします。次会は公報をもってお知らせ申し上げます。   午後四時二十四分散会