○
参考人(逢坂和雄君) 私は
終戦時におきまして東満の敦化に駐屯しておりました
ところの九八三一部隊に勤務しておりまして、その当時
終戦後直ちに
ソ軍が駐屯して来ましたので、私が部隊長より通訳官になれというような命を受けまして、
ソ連との
交渉中に通訳の任務を執行しておりました。
ところが私の前にやりました忙中、私はもとはカトリックの司祭でありましで、当時敦化に非常に朝鮮人のカトリック信者が多かったゆえに、私に軍務のかたわら彼らの宣撫に努めておったのであります。この宣撫が
ソ側の方より見ていわゆる
諜報行為であるような。見方をされまして、と申しますのは、その宣撫中に私が
知り合いとなった
ところの朝鮮人が私を密告したのであります。この密告によりまして
ソ側が私をもってスパイ行為の張本人であるというような烙印を押さしめたのであります。それによりまして五十八条の六項、すなわち
ソ連の刑法によりまして、スパイというような決定によって十年の刑を四五年、すなわち
終戦当時ですからして、二十年の十月の三十一日にスパスクという
ところにおきまして、第五軍の屯営地の軍事
裁判によって科せられました。そうしてその年の終りに、カラカンダの炭鉱
ラーゲル、
一般のロシヤの
囚人の働いております
ところの炭鉱
ラーゲルに入りまして、一年間炭鉱
作業に従事しておりました。後からだを害しまして、健康を害しまして附近のアクノレンスカヤ・オブラスチと称する
ところにあります農場
ラーゲルに移りました。そこにおいて半年畑の仕事に従事しておりました。どういう
理由か知りませんけれども、半年後に私をそこの
ラーゲルのワクタと申します、これは軍隊で申しますれば衛兵所というようなことになりましょう、衛兵所において呼びますので、行ってみました
ところが、お前は前に何をしておったか、私は軍隊におりましたときには宣撫員というようなことをやっておったのである。しかし軍隊におらないとき、すなわち
地方においては何をしておったか、
地方においては私はカトリックの宣教師をしておったのである。よろしい、ではしばらく待てと言われましたので待っておりました
ところが、後に再び呼ばれまして、これからお前を警戒兵なしの
ラーゲルに移す。今まで私のおりました
ところは、ロシヤ語で申しまするとパトコンヴォイと申します。これは警戒兵つきの
ラーゲル、今これからお前は、ラスカヌヴォイと申しますと、これは警戒兵なしの
ラーゲルに移すということで、その付近の、やはりみな私の移りました
ところの
ラーゲルはあまりほど遠くありません、その付近の
ラーゲルに移されたのであります。その
ラーゲルと申しますのは、仕事はかごを作ること、かごを作る仕事をやったのであります。比較的に軽
作業であります。かごを作る
ラーゲルにおきましてこれもまた半年、半年後に
ハバロフスクに来ますまでの
ラーゲル、すなわち牧羊
ラーゲル、羊を飼う
ラーゲルであります、羊を飼う
ラーゲルに来まして、五〇年の二月の十七日まで至ったのであります。すなわち五〇年の二月十七日と申しますると、私が刑が明けて今回帰還に至りますまでの
ラーゲルであります。そこに来ました。でありますから、私が中央アジアであります
ところのカラカンダにおりましたときにはほとんど
日本人は私一人でありまして、ほかに
日本人と称する者はいなかったのであります。もちろん他方の
ラーゲルにはおりましたでありましょうけれども、私はロシヤ人の中にただ一人おりまして、長い間
日本語を使いませんからして、五二年の、ただいま申しました
ところの二月の十七日に来ましたときには何か
日本語を使うのが非常にもどかして困ったことがあります。そういったような
状態であります。中に私と同じような人もありましたろうと思いますけれども、しかし初めて
ラーゲルに来まして、
日本人に会いましたときに非常に再びを感じたのであります。ほっとしたのであります。その間、まあ
ラーゲルと申しますと
囚人ラーゲルの
給与というものは、現在
ハバロフスクの、
日本人の
ラーゲルに比べまして当時の
囚人ラーゲルの
給与でありますが、
給与に比しまして幾分かよろしいというような感じを受けたので、あります。その当時はまだ
ハバロフスクの
日本人、
ラーゲルにおきましても米は支給されておりませんでした。米を支給されましたのは一昨年でした。一昨年八百名でしたか、帰還しました後に米がわれわれに支給されたのでありまして、その当時はすべて三食が三食とも
雑穀を支給されたのであります。ただ私が
ハバロフスクの
ラーゲルに来ましたときには、
囚人ラーゲルにおけるような
給与、まあたとえて申しますれば、
囚人ラーゲルは朝三百グラムのパンと
スープです。昼に若干身が入った
ところの
スープ、これをロシヤ語ではボルシチと申します。それを与えられ、それにさじ三ばいくらいしますとすぐなくなってしまうようなカーシャ、すなわちかゆであります、
雑穀のかゆ、それにパン三百グラム、それが
毎日の昼の飯の全部であります。これは日によって変るいうようなことはありません。いつも同じことであります。それから夜は
囚人ラーゲルにおきましては
スープだけであります。そういったようなのが
囚人ラーゲルの
給与であります。ただ
日本人ラーゲルに参りまして違った
ところは、朝、夕、晩とこの三回にわたりましていわゆるカーシャ、これは
雑穀のかゆでありますカーシャが与えられ、そのかわりにパンは三百五十グラム、パンと申しましても黒パンでありましてはなはだ粗雑なものであります。こういうようなものが与えられる。しかしながら今まで私は五年間、すなわち
ハバロフスクに来ますまでの
生活を
囚人ラーゲルで送りましたからして、初めて
ハバロフスクに来ましたときには、この
給与が私にとっては非常にいいものだと思われておった。
ところが長い間、まあ
ハバロフスクに来まして以来、建築
作業あるいはその他の雑役ですね、私はあまり
体力の強い方でありませんでしたので、雑役に従事しました。
ところがこの
給与では重
労働に耐え得られないというような確信を得られたのであります。なるほど先ほども
竹矢さんが言われましたように、現在大体において健康
状態は良好と申しますけれども、このような
給与によって冬越しをし、あるいは来年まで、持ち越すということは非常に困難であるかと思います。ただいま私どもにと申しますか、残余の残っております
ところの者に必要なものは、耐寒は適する
ところの
食物すなわち脂肪分ということであります。脂肪分が
向うにおきましてはこの
給与では非常に不足しておる。それからビタミン、これは第一にあげなければならないことであろうと思います。このビタミンというのは特にこのごろ、先ほどもちょっと言われましたようでありますが、えたいの知れない発熱
患者が、まあそうたくさんはありませんけれども、私の知っております
ところでは五名ほど出ております。その次に手足のしびれ、麻痺を来たしておる
ところの
患者が、続出ではありませんけれども、まま見受けられるようになってきました。それから第三に高血圧です。これはいわゆる
労働とそれから
給与との均衡が保たれないがためにくる
ところのもの、あるいはそれに要するやはりビタミンのCか何かの不足によって生ずるとこの高血圧
患者が、まあ相当数と申しませんが、かなり生じておる。これはずっと以前からの現象であります。私も
ハバロフスクに参りまして気がついたことは、私は以前低血圧であったのでありますが、その当時、私が
帰ります前まで百七十五、私はことし四十四才でありますのに百七十五、こういったような血圧になっております。こういうようなことでありますからして、残余の残っております
ところの人々は、
皆さんの御協力によりまして何かこういったような方面に御支援をいただくことができますれば、この一冬を過ごし、やがてときが来まして帰還の喜びを無事に受けることができるのじゃないかと思うのであります。
ただいま申し上げましたほかのことについては、私の
意見も
武藤氏並びに
竹矢氏の御
意見と同じであります。ただ
一言申し上げておきたいことは、
訪ソ議員団が参りましたときの
状況を、時間がありませんから概略述べさせていただきまして終りたいと思います。
〔
理事山下義信君退席、
委員長着席〕
当時私は九月の二十三日に刑を終りまして、しばらくの間仕事には出ておりませんでした。議員団が第一分所、すなわち
ハバロフスクにあります
ところの第一分所を訪問されましたのは九月の二十九日。
ところが、今までありましたように、
ソ連におきましてはだれか来ますと、しきりに
ラーゲルと申します分所ですな、収容所内を飾ります。あちらこちら飾ります。そうして目につくような破損個所は修理させます。なお収容所内の土地には砂を敷きまして見苦しくないようにする習慣があります。これはただ人々に見せるためのものでありまして、ふだんは全く何も施さないというような
状態であります。いわゆる見せかけの芝居をやるようなことになっておるようであります。私が刑が明けましたのは二十三日、二十三日の次の日二十四日に本部つまり
ラーゲル、収容所内の本部に用事がありまして参りました
ところが、団長、これはわれわれのいわゆる
労働団体というものの長であります。つまりブリガーダというものを総括した
ところの長であります。団長の言うには、あすから
向う三日間において
ラーゲル内の清掃、
掃除です、
掃除やら装飾やらいろいろなものを終ってしまわなければならないから忙しいというような話でありました。当時
訪ソ議員団が来ておられるというような話を
ソ側の新聞やらその他のラジオなどで聞き及んでおりましたので、あるいは議員団がこのわが
ラーゲルに来られるのではないかというような
意見がみんなの間にありました。私もそう思っておりました。
ところが、
ソ側の方におきましては、そういったようなことについては一まつも触れない。何事も私どもに申さない。その議員団の参られましたのが一十九日でありまして、すなわち二十八日の夕刻私どもにたばこの光が配船されたのであります。これはソビエト側の方は何も申さなかったのでありますが、配給した方の側は、これは議員団側からのおみやげであるというようなことでありました。ソビエト側の方ではこれについて何も申しません。ただ、たばこがきたから分けてやれ、こういったようことであったらしいのであります。ではあしたはおそらく議員団が来られることであろう。私どもは十年間
日本から来ました
ところの
日本人に会うたことがありません。非常に胸がおどるような思いをして待っておりましたのであります。さて二十九日が参りまして、いつものように人々が
作業に出る、仕事に出る準備に取りかかっておった
ところが、
作業隊の
考えでは、きょうは議員が来るならば
作業に出たらこれは議員に会えない。議員に会うことができるならぜひとも会いたいというような
意見を持っておったようであります。それで各
作業隊の現場長というものがありまして、おそらくそのときは
作業場が四つありました。四カ所の
作業場の現場長が
ソ側の職員に、きょう代議士が来られるから、きょうの
作業は取りやめにしてくれと申しました
ところが、当時、今もやっておりますが
地区本部長と申しまして
三つの
ラーゲルを統括しておる
ところの
地区本部長が、お前たちにだれがそんなことを言ったか、新聞も言っていないじゃないか、あるいはラジオも
報告していないじゃないか、どこからそんなことを知ったかと言った
ところが、現場長の一人がきのうの光がものをいうておるじゃないか、あの光はまさしく
日本からきたものだ、議員団が持ってこなければだれが持ってくるのだ、もしも
小包が来たような場合ならこれはわかるけれども、
小包でなくて光がわれわれの間に配給されるということは、おそらく議員かだれかでなければならないはずだと言った
ところが、いやとに
かくきょうはお前たちは仕事に出ろという話であった。それから現場反たちがわれわれは仕事に出るかどうかということについて一ぺん班員に聞いてみようと言った
ところが、ある班におきましては、きょうはまあ
代表者だけを残して
あとは
作業に行こうかと言った
ところ、ある班は、いやそんな弱いことではだめだ、きょうは全部居すわって議員に会わなければならないというような
意見、とに
かくそういったような
意見まちまち、ごうごうとしておりまして時間がたってしまいました。
ラーゲルの方では、話が前後しますが、
ラーゲルの所員は、一応電話を議員団の泊っております
ところのホテルにかけたようであります。その現場長のうちは大体皆ロシヤ語のわかる
人たちでありますから、電話の内容を半分ばかり聞いたようでありますが、その内容と申しますのは、きょうは都合が悪いからあす御訪問願えないだろうか、こういったような電話の内容であったかのように聞いております。
ところがどうやら議員の方もきょうでなければならないというような、これは議員が来られまして
あとで聞いた話でありますが、議員のある人がそう言われておりました。
ソ側の方でも何か都合が悪いからあすにしてくれないかというのだが、こっちの方でも北京にも行かなければならないし、ひまがない、ぜひともきょうでなければできないという答えをしたようであります。
ところがそんなようなことで、私はその間のことにつきましてあまりよく聞いてもおりませんけれども、そういったようなことを聞きました。いよいよ議員が来るから出迎えしろ、ただし議員に対する質問市預ということは坂間元
少将、その当時からわれわれの一分所におられます
少将を通じて質問をしろ、ただし政治向きのことについてはこれをなすことを許さないといったような
ソ側の命令なんです。それで一人がそれでよろしいと言っておった
ところが、野外劇場が
ラーゲルにあります、いろいろな催しがありますと野外劇場でやりますが、冬は寒いものでありますから、中の食堂で、やりますけれども、野外劇場においてそういったような催しをやります。その野外劇場の前に全員、これは全員と申しますると、その中には
日本人ばかりでなく、朝鮮人とか、満人も若干おりますが、とに
かく全員集合しまして議員団を迎えたのであります。議員団は
ラーゲルすなわち分所の所属の楽団によりまして「さくらさくら」という音楽に迎えられまして、野溝代議士、以下八名の
方々が着席されたのであります。まず坂間
少将のごあいさつがありまして後、各代議士が自己紹介をされました。坂間
少将の司会によりまして、
日本の戦後における政治
状態あるいは教育経済
状態、特に日ソ
交渉がどういうふうになっておるかというようなことについての質問をしたので、あります。それについての、まあ日ソ
交渉につきましては五カ条ということがありますが、一々説明しますと時間を取りよすからこれは省略しまして、ただ各代議士の答弁によりますと、ただいまにおいては日ソ
交渉を妨げる何ものもない、非常に好転しておるというようなお答えでございました。それで私どもも非常に日ソ
交渉というものはよく、いっておると非常に期待をかけておったのでありますが、どうもその効果は現われなかったのであります。それからこんな問いがありました。天皇の御近況について、天皇はどうされておられるか。
ところが最後に至りまして、時間がだいぶ短かかったものでありますから、ある人が立ちまして、私はその人の
名前を忘れてしまいまして申し上げませんけれども、われわれが
抑留されておる、その救出運動については、国策を曲げてまでもわれわれを救出することを望んでおらないのである、まず
国家永遠の計である
ところの国策というものを無視してまでもわれわれを救出して下さらないでいい、私どもは国策のというよりも、
国家の犠牲となるつもりで来たものであるから、どうかその永遠の計である
ところの国策を無視してまでも救出してくれと願うのでないということをお含みおき願いたい、こういうようなことを申した人がおります。でその
考えはわれわれは、もちろん以前はそういったような
考えを持っておった。
ところが
ラーゲルのうちに十数名のいわゆる民主党といいますか、民主グループといいますか、われわれはデモ、デモと申しておりますが、いわゆる浅原一党、浅原を筆頭とする、
ところのグループがあります。彼らは
終戦当時四五年以降ですから、四七年ですか、においては非常にいわゆる
思想教育に彼らは力を尽したと言えば、きれいに聞えますけれども、そのためにわれわれ悩まされたものである。それが今そういったような力はありませんけれども、とに
かく彼らの行動並びに言辞
一つ一つが
ラーゲルの
生活のガンになっておるということは争われない、今までそういうふうになっておる。とに
かくソ側とわれわれとの間に
一つのみぞを作る、みぞを作るといいますよりも何かの妨げを作る。われわれの行動を
ソ側に通じてわれわれの
生活を暗くするというような役目を持っておるものである。こういったような人々がおるのでありますが、
ところが今申しました、言葉のすぐ
あとで例の先ほど申しました浅原が立ちまして、私どもはその当時非常に暑かったのでありますけれども、せっ
かく議員が来られたので、私今ここに着ておりますが、こういうような粗末な着物でありますけれども、とに
かく上着をまとうておりました。彼らは暑いといってみなその上着を脱いでいわゆる襦袢、
シャツのままで腕組みをしてこう立っておったように見えたのでありますが、浅原が、私はただいまの言葉に特に反対の立場から
一言述べさせていただきたい、こういったような前置きで彼一流の説を述べようとしたようであります。そのときいわゆるデモクラートの一党のほかの
人たちはみなやめようということになりまして、その場が非常にけんけんごうごうとしてちょっと収拾のつかないような
状態になりかけた。そのときに野溝代議士が立たれまして、まあ思想のいかんは問わず、とに
かく皆さん仲よくしていただきたいというのが私の念願でありますというような取りなしと申しますか、そういうことを言われたので、双方静かになったというような
状態であります。そういうようなことがありまして、とに
かく会が終りましてから各人が
自分の
名前を紙に書きまして、伝言がありますものは伝言、そういったものを書きまして代議士にお渡ししたのであります。それからなお少し時間が残っておったというので、各県別に、代議士が各県より出ておりますから、各県別に人々が集まりましていろいろなお聞きしたい事項、お頼みしたい事項をお頼みしまして、それが私ども十二時ちょっと過ぎでしたか、この代歳出が来られたのは。とに
かく終りましたのが四時半ごろでしたか、そのころまでとに
かく昼飯なしに私ども非常な感激をもっておりましたので、昼飯を忘れてしまいまして、その会合を終ったのであります。そうして各代議士は、まあ代議士も非常に感激しておられたようなふうに見受けました。それまでの間に、代議士が来られましてすぐに会合が始まったのでなく、
ラーゲルの各バラック、ことにきれいに
掃除してあるバラックを見せまして、そのほかのバラックには行かなかった。それから食堂はきれいでありますから食堂に案内しまして、その当時食堂に売店、今も売店がございますが、これをマガジンと言っております。マガジンには普通バター、砂糖はありません。
ところがそのときに特に町の店をあさり回りまして、そうしてバターとかチーズその他のものを買い集めてマガジンに陳列しました。
ところが代議士に対してその
所長が言うには、ここにはバターでも何でもあります。ここにおる
日本人が思いのままのものを買えると言うた
ところが、そこにまあちょっとおりました
ところの朝鮮人が、いやこれはきょうだけのことです。あすになったら皆引き上げて行ってしまいますよと言うので、代議士は少し笑っておられたようであったのですが、そういうことがありました。その他のことにつきましてはまあ代議士が回られたのは病院であったかと思います。病院にも行かれた。私はそのときには知りませんでしたけれども、病院に行った。病院というのは
ラーゲル内にあります。病院というのは二つの棟に分れていまして、二階に大体重症
患者、下の方にあまり目に見えない
ところの
患者がおるのです。
ところが初めはそのいわゆる軽症
患者に会わせまして、そのほかの棟のあれには重症
患者がありますのでそれには会わせなかった。そのほかの棟はただいま修理中であるからお見せするにはなかなか迷惑がかかるだろうから、まあこれは割愛して下さいというようなあいさつだったらしい。
ところが、その代議士の
日本人のサニタルと申しますか、
ソ側のドクトルの補助をやっております男が代議士の袖をつついたわけです。そのことがわかったときに、そうしたら代議士の一人がすかさず二階のほうに上って行ってしまった。皆代議士がそれに続いて二階に上った。二階には重症
患者が
一ぱいおったのであります。それにやはり会って来たという話をいたしました。とに
かくソ側のやり方は、
自分の立場を保護するためにいろいろなカモフラージュを使っておる。
それからいろいろな
交渉をしますときに、ある者にはこうしろ、同じ問題についてある者にはこう答えて、他の者には同じ問題についてほかのように答弁する。とに
かく言辞が一致しておらないという点であります。とに
かくいわゆる真意がないというような点に一致すると思います。でありまするからして、外交上におきましても、おそらくそういったような点に注意しないと誤まることが多々あると思います。これはほかのことでありますけれども、そういったようなふうに感じます。
はなはだ御
参考にはなりませんでしたけれども、時間がございませんから、これによってやめさせていただきます。