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参考人(
小野清一郎君) 第一の
最高裁判所の
機構及び
権限、このことからお話しを申し上げます。
最高裁の
機構改革ということは、先年
来朝野の問題となっておりまして、数年前から法務省の
法制審議会においてもこの問題を取り上げておりますし、
他方衆議院の
法務委員会においてやはりこの問題を取り上げられまして、昨年でありましたか、すでにある
程度具体的な案も一応できて、その発表があったのであります。私はこの問題については初めから今日までずうっと
最高裁の
機構は何とか改革しなければならないという
意見を持っている一人でございます。現在のごとく長官一人、
裁判官十四人では第一、
人員が不足でございます。大
法廷は
全員で
構成しております。小
法廷は
三つに分れておりまして、しかも
民事、
刑事の区別をいたしておりません。現行の
制度では
刑事訴訟法、
民事訴訟法の
規定する
機能だけでも十分にこれを果すことができないのであります。
事件は
渋滞いたし、
裁判官は過重の負担に悩んでいるのが現在の事実であります。私は第一に
裁判官の定員を少くとも現在の二倍、すなわち三十人くらいに増員する必要がある。しかし単に増員だけを必要とするというのではございません。大
法廷は現在の十五人では多過ぎるので、そのうち七人くらいで
構成するようにすべきである。また小
法廷は
民事と
刑事とを区別いたしまして、
民事を
三つの小
法廷、
刑事を四つの小
法廷くらいでやったら、
事件が敏速かつ適正に処理されるようになるのではあるまいかとかように
考えております。これに対して
最高裁判所側は強く反対の意向を示されているのであります。その動機はよくわからないのでありますが、正面切っての
理由としては、
憲法第七十九条を
根拠といたしまして、
最高裁判所は
裁判官全員で
裁判しなければならないのであって、
裁判官の一部である大
法廷を
構成するということは
違憲であるということを申されるのであります。しかしこれは国法上における
裁判所全体の
構成と
訴訟法上における
裁判の
単位構成とを明らかに区別しない
議論であると思うのであります。この
議論をおし進めますと、現在の小
法廷の
裁判は
最高裁の
裁判ではないということに相なります。また、現に
最高裁の
裁判官のうち二、三の方ははっきりそのことを公言されているのであります。しかし、もしそうなら
最高裁は現に
違憲の
裁判を敢行しつつ、あえて、しつつあるということになるのであります。これは全く一顧の価値もない
議論だと私は思っております。
大体新
憲法ができまして、
最高裁判所が以前の
大審院とは違ったものである、
最高裁判所は
憲法の
番人である、そうして
基本的人権の
擁護者として重大な
役割を演じなければならないというような
考えが入ってきたわけであります。ところで果して現実に
最高裁判所はどれだけ
憲法の
番人たる
役割を演じているのでありましょうか、私はそれを疑問とするものであります。しかもこの
憲法の
番人という観念が
一つの何といいますか、
観念論となって
最高裁の
裁判官その他戦後の官僚及び学者の間にも強くしみ込んでおりまして、
最高裁判所が
最高の
司法裁判所として重要な
機能を持っているということを、またその
機能を何よりも
司法裁判所としての
機能を十分に発揮するようにしなければならないということを忘れているように、私は思うのであります。その
観念論が
最高裁判所の
機構改革を阻止しているというのが
現状でございます。一方においては抽象的な
憲法裁判の
機能を拒否しております。このことは私は
さし当り当然であると思いますが、
他方において
民事、
刑事の
上告審の取扱いにおきてまして全く形式的な
審査をするようになっている。しかも
最高裁の
裁判官諸公はかような
現状を維持することにきゅうきゅうとしておられるのでありまして、そうしている間に、
最高裁というものは全く宙に浮いた役にたたない存在と化しているのであります。これは
最高裁判所の性格について
一つの錯覚を起しているところからきたものであると私は思います。つまり
憲法第七十六条の
違憲審査権というものを、何か
憲法裁判と取り違えまして、
最高の
司法裁判所としての
機能というものにおろそかであるということに相なっているのであります。現在の
憲法のもとにおける
最高裁判所はいわゆる
憲法裁判所ではないのであります。抽象的な
法令の
違憲を
裁判する
裁判所ではない、そのようにできてはいないのである。そうではなくて、やはり
司法裁判所の
最高のものとして、ただ、かつての
大審院には与えられていなかった
違憲審査権を与えられているというにすぎないのであります。だからその
司法機能というものを第一に
考えなければならないのであるが、それを忘れている。
憲法裁判所を設けようというのならば、たとえば西ドイツとかイタリアにおけるように、これは全然別個に
考えなければならない問題であります。アメリカの
制度にならった現在の
最高裁判所は、そのような意味の
憲法裁判所ではないのです。もちろん現在の
最高裁判所の
機構を抽象的な
憲法裁判に利用することはできないこともないと思います。その場合には、これは問題でありますが、一種の
勧告意見制とでも申しますか、勧告的な
意見を求めることができるというような
制度も私は
考えられると思うのでありますが、それはこの場合別問題といたします。
司法裁判所としては具体的な
民事、
刑事の
事件を
裁判することが大事なんであります。その
裁判に当って
法令が
違憲であるかどうかを
審査するということはこれはもとより重要なことでありまして、そのために大
法廷を
構成するということは必要であります。しかし現在十五人の
裁判官全員で大
法廷を
構成しているということは、
制度としてはなはだ私は間違っている。どこの国にも十五人の
合議で
裁判をする
最高裁判所などというものはございません。これは
裁判官が十五人では多数に失しまして、
合議が容易にまとまらない原因となっているのであります。だから私はこれを七名くらいに切り詰めるがよろしいとこう申すのであります。なお、小
法廷は
民事、
刑事、それぞれに専門化いたさなければなりません。専門化して、それぞれの得意の
裁判官が
民事小法廷、
刑事小法廷を
構成して
裁判をするということになれば、現在よりもずっと能率がよくなりますし、また
裁判の
実質も向上すると思うのであります。
最高裁判所側は、先ほど
塚崎さんも言われましたように、
事件の
渋滞はこのところだいぶ緩和されているということを
現状維持論の論拠といたしております。しかし、いかにしてこの
事件の
渋滞が緩和されたか、その秘密をお話しいたしましょう。それは
昭和二十七年ごろ、すなわち
最高裁の
機構改革が問題となり、七千数百件の
事件に当惑していたその時分でありますが、そのころから
最高裁は
口頭弁論を経ないで
判決をする、これは
刑訴四百八条の認めるところでありますが、その方法を頻繁に用いるようになった。のみならず、それはまだよろしい、
控訴審の
規定の
準用によりまして
口頭弁論を経ないで
決定をいたして、ポンポン
上告を
棄却するということを始めたのであります。それ以来、
事件がずっと減ってきました。これは当然であります。だから、
裁判の
実質というものはそのかわり全く形式的な
審査、そうして
上告棄却、こういうことに相なったわけであります。もちろん
控訴審の
規定の
準用も、法文の上から
根拠はないのではありません。しかし非常にこれは無理な
解釈であるのみならず、かりにその
準用を許すとしても、それはきわめて明々白々な形式的な点で、
上告の
理由らしいものを備えていない場合に限るべきものであります。それを
決定で
上告棄却して、その
棄却の
決定が
判例集に載っている。それに
カッコをいたしまして長々とこの
法制の
解釈について説示を与えているのであります。こんなものは
決定でやるべきものじゃないのです。それから、
刑訴四百八条は、なるほど
口頭弁論を経ないで
判決で
上告棄却することを認めておりますが、これも
上告の
理由のないことが明白な場合に限られているのであります。ところで、今回の
三鷹事件の場合などは、
判決を見ますとわかります
通り、まさに
意見が八対七にわかれているのです。
上告棄却すべしというのが八で、
原判決を
破棄すべしというのが七であります。かように
意見が八対七に分れたときは、決して
上告の
理由のないことが明かであるなどとは申されないはずである。しかるに
最高裁判所は全く無法にも第四百八条を適用して
判決をもって、
口頭弁論を経ないで
判決で
上告を
棄却しております。これは明らかに
刑事訴訟法に違反しております。以上は第一点について申し述べたのであります。
第二の審級
制度、特に
刑事事件の
控訴審の構造について申し述べます。審級
制度は、第一審の
機構から始めて
考えていかなければならない問題であります。終戦後の
刑事訴訟法は審級
制度というものを極端に簡素化いたしました。
原則として
刑事裁判は一審限り、こういう
考え方から出発しております。
控訴審はすでに事後審だということに相なっております。これは占領軍の示唆のもとに、英米法の
考え方をとったものでございましょう。しかし英米法の第一審は
原則として陪審
裁判であるということを忘れている。また英米においても陪審にかけない簡易の
手続がございますが、その場合にも予備
審理はとにかく、簡易の
裁判、
判決をするという場合には、必ず二人以上のマジストレート、下級判事が立ち会っているのであります。しかるにわが新
裁判所法は、簡易
裁判所は全部一人制、単独制の
裁判所としております。また地方
裁判所には、
合議制の場合と、一人制の場合とを認めておりますが、現在の事実はどうであるかというと、地方
裁判所事件の大部分はおそらくは九〇%を越していると思います。一人の
裁判官で
裁判をしております。御承知のように旧
裁判所構成法及び旧
刑事訴訟法自体には、地方
裁判所というものは全部
合議制でございました。これでは
控訴率が高くなり、また従って
上告率が高くなるということは、これは当然であります。いわゆる乱上訴、みだりに上訴するということはけしからんということを田中長官の
意見として発表されておりますが、私はこれは抽象的な理論として、一応了承いたします。みだりな上訴がよろしいなどということは誰も申せません。しかしながら現在の事態に目をおおうて、現行
制度を維持しようとするために乱上訴論を持ち出すということは、全然見当違いであると申さなければなりません。戦後の新
刑訴の
制度を維持しようとなさる方は、第一審の強化ということを
主張されるのであります。これはごもっともであります。第一審が強化されれば、おのずから
控訴率が少くなり、また
上告率が少くなるわけなんです。しからばどうしたら第一審が強化されるかというに、それは少数の有能な判事が第一線に出るというようなことで
解決される問題ではないのです。地方
裁判所はもちろん、簡易
裁判所でもきわめて軽微の
事件を除くほかは、全部
合議制の
裁判とすべきであります。もしりっぱな判事のみで、一人前の職業的な判事のみで
合議制の
裁判所が
構成できないというのならば、ドイツの参審
裁判所にならいまして、民間の有識者を
裁判に参与させることを考慮すべきであります。これはある意味で広義の陪審
制度、ドイツではしろうと関与主義と申しますか、広義の陪審
制度の復活であります。御承知のように、かつてわが国でも陪審
制度を採用した歴史を持っておりますが、あれはまあいろいろその当時の社会情勢にもよりますが、失敗に帰したので、あのままを今復活するということは、差し当り問題でない。しかし、参審
制度は、参審
裁判所の
制度は大いに
考えてみる必要があると思っております。陪審制では徹頭徹尾抽せんによるのでありますから、どんな人が陪審員になるかわからない。しかし、参審員ともなれば、相当地方で学識経験のあるような人を選択してこれを参審員として選任することができると思います。現在、調停
委員でありますとか、司法
委員でありますとか、ああいう
制度はわが国においてかなり成功していると私は見ている。イギリスの治安判事というものもこれは
法律家でない者を、専門の
法律家でないものを判事として採用する
制度であることは御承知の
通りであります。何とかしてこの第一審を
合議制にすることによって、第一審の強化ということを実現したらよろしいと、私はさように思っております。
次に
控訴審でありますが、
控訴審は、もし第一審がほんとうに強化されました暁においては、事後審であってよいと思って、おります。しかしながら、現在の
状態では、事後審的な
控訴審ではいけません。数年前、幾らかこの点、
刑訴の一部改正によって改められましたが、まだ不十分であります。いわゆる事実の取調べというものを、もっと活用できるようなふうに
控訴審の
規定をもう一度改正する必要があると思っております。現在では、
控訴審において、何らの証拠調べもすることなしに、事実の認定や刑の量定を変更することが行われております。これは事実である。それは
控訴審は事後審であるという
考えからきております。私はこれは
解釈としても間違いだと思うが、実務上それが通用しているし、学者も一応それを是認している人が多いのです。しかも何らの証拠調べもしないで、たとえば第一審で刑の
執行猶予を与えられたものを、第二審でその
執行猶予を奪ってしまう、あるいは第二審で第一審よりも重い刑を量定する、はなはだしきに至っては、今ある刑を量定するというのは、
三鷹事件におけるがごとく、第一審の
無期刑を第三審で
死刑に変更する。これなどはずいぶん
考えなければならない問題だと思うのです。それが現在合法だというふうに
考えられておる。はなはだしきに至りましては、第一審で
無罪であったものを第二審で何らの証拠調べもしないで、全く記録のみに基いて
有罪にしておる例が幾つかあるのであります。それは御参考のために
判例集から二つだけ引用いたしておきますが、
昭和二十六年二月二十二日第一小
法廷決定、
最高裁判所判例集第五巻第三号
刑事四百二十九ページ以下、そこに出ておりますが、これは第一審が犯罪の証明がないという
理由で
無罪とした事実を、第三審において記録のみに基いて
有罪として刑を言い渡しておる。それを
最高裁がそれでよろしいとこう言っているわけです。もう
一つ、
昭和二十九年六月八日第三小
法廷判決、これは
判決であります。
最高裁判所判例集第八巻第六号
刑事八百二十二ページ、これは最近の
判例でありますが、
刑訴四百条但書きの
解釈としまして、
控訴裁判所は訴訟記録及び第一審で取り調べた証拠のみによって、直ちに
判決をすることができる、こういうことを
最高裁判所が認めておるわけです。私はこれはあとで御研究を願いたいのですが、御研究というよりは条文を読んでみればわかると思うのですが、
刑訴四百条というものは、
原則としては差し戻しまたは移送すべきことを
規定しております。ただ、但書きにおいて記録と、そうして
控訴裁判所で取り調べた証拠、新たな証拠によって直ちに
判決をすることができると認める場合には
破棄自判してもよろしい、こういう
規定なのであります。これは全く訴訟経済のためであります。同じことをまた差し戻し、移送してやらせてみても結局
結論が同じになるならば、
控訴裁判所で
破棄自判してもいいではないか、これだけのことなんです。それは間違いのない場合にはそれでよろしいですけれども、訴訟経済のために
人権を犠牲にするというようなことがあってはもちろんならぬわけなのであります。しかし現在のようなやり方をやっていると、結局そういうことになることは火を見るよりも明らかであります。今回の
三鷹事件の
裁判のごときは、私はその内容は十分記録を読んでいるわけではありませんが、少くとも
控訴審においてすでに誤まっている。
一つの証拠調べをすることなしに
無期刑を
死刑に変更したということは、ひとり
刑訴第四百条に違反するばかりではない。
憲法の第三十一条、第三十七条等の趣旨に反するものである、私は
違憲であると思うのでありますが、
最高裁判所のすることはいかんともいたし方がないという
現状であります。そうである以上は、少くともこの
刑訴第四二百条というものについて、このような誤まった
解釈が行われている以上は、何とか立法的措置によってすみやかにこれを改めなければならない必要があると存じます。できれば私はやはり現在の
状態ならば
控訴審を覆審にするほかない、こう思っております。
最後に、
上告審はさきに民訴一部改正によりまして、民訴の方は
憲法の違背のほかに、
法令の違背も
判決に影響を及ぼすことが明らかである限りは、これを
上告理由とすることができるということになりました。これはまことに当然のことであって、
法令違背を問題としない上梓審なんていうものは、ほんとうは意味ないと思うのです。事実の認定や刑の量定は別としても、少くとも
法律問題だけは
上告の本来の
機能なんであります。それはともかく、民訴は一部改正によってさように改善いたされましたが、
刑訴の方は依然として
憲法違反と
法令抵触だけを
上告理由といたしまして、
法令の違反を
上告理由に加えてないのであります。これは民訴と明らかに権衡を失しているのみならず、先ほど申しました
通り、日本のような成文法の国で、
法令違反を
上告理由としないで、
判例抵触だけを
上告理由とするならば、全く主客転倒とでも申しましょうか、これは英米法の影響からきているとは思いますけれども、それにいたしましても、わが国の
法制全体の建前からいって、これはとうていこのままにしておくことはできない。すみやかに
判決に影響を及ばす
法令違反を
上告の
理由に加えるように立法措置を講ずべきであります。
なお、
判例は
判例として重要であるのでありますから、その統一のために
判例抵触を
上告理由とすることは現行法
通りであってよろしい。この点先般の民訴改正の際に
法令違背を入れるかわり、
判例抵触を削除したということは大へんな誤まりであったと思います。この点については、
刑訴と民訴と合せて改正を必要とするものと存じます。
以上
お尋ねの二点につきまして一
通りの見解を申し述べたのでございます。御
質問によりまして、なお私の見解だけはいかようにも申し述べたいと思いますが、一応これで私の報告を終ります。