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1955-07-08 第22回国会 参議院 法務委員会 第14号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十年七月八日(金曜日)    午後一時三十三分開会     —————————————  出席者は左の通り。    委員長     成瀬 幡治君    理事            剱木 亨弘君            宮城タマヨ君            市川 房枝君    委員            井上 清一君            中山 福藏君            廣瀬 久忠君            藤原 道子君            吉田 法晴君            一松 定吉君            羽仁 五郎君   事務局側    常任委員会専門    員       西村 高兄君    常任委員会専門    員       堀  真道君   参考人    国立国会図書館    専門調査員   牧野 英一君    弁  護  士 塚崎 直義君    弁  護  士 小野清一郎君     —————————————   本日の会議に付した案件 ○検察及び裁判運営等に関する調査  の件  (裁判所制度に関する件)     —————————————
  2. 成瀬幡治

    委員長成瀬幡治君) これより法務委員会を開会いたします。  裁判所制度に関する件を議題に供します。本件につきましては予定しておりました五名の参考人うち団藤重光君、正木亮君の御両人は万やむを得ない事情のため、本日は出席いたしませんので、御了承を願いたう存じます。  参考人のお方にはお暑いところを御多忙中にもかかわらず御出席をいただきましてまことにありがとうございます。これから裁判所制度につきましてあらかじめ御連絡申し上げてあります諸点につきまして御意見を承わりたいと存じます。参考人の発言時間は別に制限はございませんが、大体一人三十分程度お願いできればけっこうと存じます。なお、参考人に対する質疑は三名の参考人の陳述が一応終りましてからお願いすることにいたします。それでは最初に国立国会図書館専門調査員牧野英一君からお願いをいたします。
  3. 牧野英一

    参考人牧野英一君) 別に私は実務から……第一第二の点について申し上げればいいのですね。最高裁判所機構及び権限、なかんずく刑事上告事件の処理、特に死刑事件についての書面審理とこうあります。最高裁判所機構を論ずることになりますと非常にこれは大きな問題で、とても一朝一夕にはいきません。おそらくはお尋ねの趣旨はカッコの中の特に死刑事件についての書面審理ということでおありになるかとこう拝察申し上げます。これはある程度制限を置いて、死刑裁判になるような場合には、やはり口頭弁論を受けるべきものであるという一つのことにする。私は死刑ばかりではない、無期懲役についてもそのくらいの制限を置いていいと思います。法律論としてはそういうことを考えますが、裁判所常識という点から考えますと、裁判というものは手前が論理の上で信じているというだけでは足らんので、やはり手前の言い渡すところの手続及び言い渡すところの裁判が、世の中の人の納得を得るようにしなければなりませんので、ここに裁判官としての高等常識の問題がある、こういうことを考えます。第一点についてはその程度でございます。  第二点につきましては、やはり控訴をどういう仕組みにするかということはこれまた大きな問題で、実際上どういうものでございますか、私は今まででも覆審にするがいいと思っております。やはり控訴はやり直すのだ、そうしてそういたしますればこの不利益変更の問題も、破棄自判の問題もおのずから解決ができると思いますが、しかし今のような訴訟手続の建前から申しますれば、少くとも不利益変更破棄自判をすることについては、ある程度制限を設ける、死刑または無期懲役の言い渡しになるべき場合には制限を設けるというのも一案であると思います。裁判官の信念という問題もありますけれども、これまた裁判官高等常識の問題で一端は解決すべきものである、こう考えております。その程度でございますが、あとでまた質問がおありになりますれば、お答え申し上げます。
  4. 成瀬幡治

    委員長成瀬幡治君) ありがとうございました。次に、弁護士塚崎直義君にお願いいたします。
  5. 塚崎直義

    参考人塚崎直義君) それではこれから少しくお答えいたします。ただいま牧野先輩が第一にカッコの点について特にお話がございましたが、もちろんこれは中心ではございましょうが、やはりこのお尋ねについては……今日問題となっておりますいわゆる最高裁判所機構といたしまして、今日のままでよろしいかどうか。今日は御案内通り最高裁判所の判事は十五名をもって成り立っておるのでありますが、二十六、七年ごろから全国の弁護士会におきましては非常にこれが問題になっておるのでありまして、これはどういう点にあるかというと、当時係属事件、いわゆる係属いたしておりまする事件最高裁判所には七千件もあったからといって、これらを審理するのに非常な日時を要するということはとりわけ国民の権利に属する重大問題で、二年も三年もかかって裁判を受けるというようなことであっては、これは非常に気の毒なものであるというようなところから今までのままではいくまい、旧大審院時代においてはとにかく四十一、二名の人をもって組織されておったのが、今日十五名をもってしてはなかなか困難であるためであろうというところから、弁護士会においてはいろいろ討議を経まして、とにかく人員をふやしたがいいじゃないか、ふやさなければいくまいということに一応なりました。法制審議会においてもこれを持ち出して、目下これは非常なる問題として最高裁判所との間に相当の議論を戦わしておるのでありまして、最高裁判所主張するところはどういう点にあるかと申しまするというと、なるほど二、三年前は七千件かの多くの事件係属をしておったのであるが、その後われわれの努力によって、今日では四千件くらいに減っておるのである。それからもう一つ、従来二、三年前において七千件かあったということは、その当時七千件からもふえておったということは、どういうわけであるかというと、御案内通り、その法律が変りましたし、憲法問題がいろいろうるさく出て参るというところから、判例を作らなければならない。なかなかむずかしい問題、労働問題はなかなかむずかしい問題でございまして、さような判例を作る上において、簡単にこれの結論を得るということはなかなか困難である。そうでありましょう、従来見もしなかった問題が続々として起るのでありますから、これらの解決の上においては非常に最高裁判所努力をいたしておるのであります。一回や二回じゃ済まない、結論を得るには数回あるいは十回にもわたって結論を得るというようなことで、非常に努力を要し、日時を要したために、かように七千件という事件がふえたと、こう思う。しかし今日においては大体において判例ができたのであるからして、それほど骨を折らんでもいいじゃないか、従来のように骨を折らんでよろしい、日時を要する必要もなくなるから、なに今日の状態をもって十五人でやっていけんことはないと、こういうことを主張するのでありますが、私どもはやはりこれは弁護士という立場から、御案内通り、私も連合会会長をやった責任上からいたしましても、どうしてもこの弁護士主張をここで推し進めていきたいのでありまするが、しかしこれは私一個の考えとしてはもう一つ、少しくこの点について意見があるのでありまして、これはどういうことであるかというと、もし弁護士連合会主張のように人員をふやすということであれば、今の状態ではいかぬと私は思う。どうしてもかようなことにするについては、御案内でもありましょうが、事実誤認とか、あるいは量刑問題等につきましては、量刑が重いとかいうような問題ですね、これを解決してくれとか、あるいは事実誤認、実際やっておらんのにやったというふうに認められておるのであるから、これを一つ審理してもらいたいというような、こういう問題についてはなるほど今日の法律において、いわゆる刑事訴訟法において規定はしておるのである。規定はすなわち四百十条のごとく、四百十一条のごとく規定はいたしておりまするけれども、みんなひもつきなんです。ただしとかあるいは明らかにとかいうひもつきである。しこうして原則ではなくして、これらは例外のような場合に認定されて、今日、事実問題についてあるいは量刑問題についてはほとんど不問に付しておるというような状態であるのである。これは四百八条によって御案内通り決定をもってどんどんやっておる。これはほとんど紙に印刷ができておって、もう量刑問題なら量刑問題が、これは決定で、すぐこれを決定してしまえと、決定には御承知のように理由も何も書かぬ、どういうわけであるかということは書かぬ。ただこれは上告理由にならぬというだけでけ飛ばしておるというわけであります。こういうことではいかぬのであって、根本問題にわたってこれを御研究願うにおいては、どうしてもこういうような規定ひもつきを取ってしまう。すなわち原則としてはいわゆる事実誤認であるとか、あるいは量刑の不当というような問題を最高においてもこれを取り上げて、そうして審理してもらうということが必要であると私は思うのであります。  しかし、ただここにつけ加えて申し上げておかなければならぬのは、さようにするというと、非常に事件がふえるというおそれもあるのであります。ふえるからして従って人員をふやす。ふやすならばこれらはこれに当ってもらう。いわゆる今日の十五人は憲法裁判の方に七人とか八人、九人とかにして、そうして今後ふやすところの人員というものは、すべてこれらの問題に当ててやってもらう。こういうことにしたならば、非常に私は人権が尊重されると考えるのでありまして、今日のようなことであっては、はなはだ国民基本的人権の上において、私は非常に考えさせられるところがあるのでありまして、これは多分この御質問の一部分にそういうことがあると思いまするからして、これはお答え申しておきます。  それから今の死刑事件についての書面審理ということでありますが、これがやはり死刑になるような問題について上告では、もし第二審において、控訴審において違法があるならば、これは書面だけではいかぬ、破棄する上において、破棄して事実の審理をやらせる、破棄移送をする、なるほど最高裁判所でも事実を審理することができ得ないことはない。規定の上において一審、控訴規定を援用しているようでありますから、できぬことはないと思いますが、今日までやった例もないのであります。またこれをやったのでは、今でも何かと人員が足らぬというのでありまするから、これは破棄移送するのがいいのである。破棄移送して、そうして事実を調べさすということが必要であると考えるのであります。  それから第二の問題の控訴審の問題についてでありますが、これは私はこういう考えを持っております。被告人不利益裁判を下すという場合、たとえば一審において執行猶予になっている案件を、今度はどうも執行猶予を取り消さなければならぬとか、一年の懲役を二年にしなければならぬというようなすなわち不利益裁判をする場合とか、無期死刑にするとかいうようなものはもちろんのことでありますが、ただいまのように不利益判決を下すというような場合におきましては、破棄する上において、やはり破棄自判でですね、審理も何もせずにどんどんこれを有罪の、不利益判決にするということは、それは私はいかぬと考えるのでありまして、どうしてもこれはさような場合においては、破棄自判ということは規定の上においてなるほど厳としてありまするけれども、よほどこれは考慮をしなければならぬ問題であって、重くするのであるから、基本的人権をこれは傷つけることになる。基本的人権を害することになるのであって、要するに重く罰するという場合におきましては、被告人も呼ばずに自判するのでありますから、被告人の答弁も聞かなければ、被告人弁解も聞かぬ、顔も見ることもない。そうして書面の上において、ただこれを一年のものを二年にし、無期懲役死刑にするとか、あるいは執行猶予というものを取り消して、直ちに実刑をもって臨むということの場合におきましては、これは当然私は破棄自判するという場合において、そこに被告人と呼び出して被告人に十分弁解する余地を与える。いろいろ弁解はありましょう。従ってその弁解をさせる。被告人の心情もまた聞いてみる。こういうことがほんとうのこれは今日の裁判国民の望むところの裁判ではないかと私は思うのでありまして、いわゆる今日の裁判は、先ほど牧野先輩が言われましたが、国民の納得するということを言われたが、私はさらにこれを一歩進めて、いわゆる裁判自体というものが国民裁判である、ここに基礎を置かなければならぬ。国民裁判であるがゆえに、いわゆる国民が納得するような裁判を行わなければならない。ただ自分独自をもって、自分らの考えはもう金科玉条のごとくこれを心得えて、そうして書面だけをもってこれを決定、確定するということは、どうもむしろ私は専横であると言ってよろしいと思う。これは理論の上からもし破棄する理由があるならば、どうしてもこの場合においては事実審理に移すと、被告人を直接呼んで言うところを聞かなければならないと思う。私は今日まで幾多の事例がある。ここに先輩一松委員もおられますが、ずいぶん一緒に弁論もやりました。またそうでなく、関係なくやった事件もございます。一審において死刑になった事件が、控訴において無罪になった事件控訴においてなお死刑であった事件上告において、私自身がやった事件無罪になった事件がある。上告までも、なおかつ一審、二審、上告を通じて有罪であった事件があります。これが破棄になって審理をし直した結果、無罪になったという事件も、私は何件もあります。もっとも長い間で、四十、五十年に近い年数でありますから、いろいろな事件がありましたが、そういうような事件も、実例を持っているのであり、ことにはなはだしきに至っては、最近に至ってこういうような事件があった。一審、二審、上告を通じてことごとく有罪であって、そうして刑に服しておった。よろしいですか、刑に服罪しておった。ところが服罪しておるさなかにおいて真犯人が出てきた。これは新潟県の皆川という、名前まで覚えておりますが、そういう事件があって、私は一審、二審……上告事件はやりませんでしたが、刑に服しておる時代真犯人が出て参りまして、何とか再審の訴えをしてもらいたいというので、再審の結果無罪になったという実例が現にあります。ああいう事件は必要とあれば私は切り抜きがありまするからごらんに入れまするが、さようなわけで裁判というものは非常な大切なものであって、しかも裁判をする人はどうであるかというと神様ではない。何か神様のように心得ておったなら、それは非常な間違いでありまして、どんなえらい方でも間違いを生する。ことにむずかしい事件においてはどちらであるか、白いか黒いかということについては、何人といえども悩まされる事件がときにあるのであります。かようなわけでありまするから、即断、即決的にただ簡単にこれを片づければよろしいというようなわけあいのものではないのであって、さような場合には少くともこの事実審理に移して、被告人の言うところを聞いて、目の前で直接にこれを審理するということが最も必要であると私は考えるのであります。  この点、二点だけを申し上げておきます。その他御質問があればいかようにも御質問を願います。
  6. 成瀬幡治

    委員長成瀬幡治君) ありがとうございました。最後に弁護士小野清一郎君にお願いをいたします。
  7. 小野清一郎

    参考人小野清一郎君) 第一の最高裁判所機構及び権限、このことからお話しを申し上げます。最高裁機構改革ということは、先年来朝野の問題となっておりまして、数年前から法務省の法制審議会においてもこの問題を取り上げておりますし、他方衆議院法務委員会においてやはりこの問題を取り上げられまして、昨年でありましたか、すでにある程度具体的な案も一応できて、その発表があったのであります。私はこの問題については初めから今日までずうっと最高裁機構は何とか改革しなければならないという意見を持っている一人でございます。現在のごとく長官一人、裁判官十四人では第一、人員が不足でございます。大法廷全員構成しております。小法廷三つに分れておりまして、しかも民事刑事の区別をいたしておりません。現行の制度では刑事訴訟法民事訴訟法規定する機能だけでも十分にこれを果すことができないのであります。事件渋滞いたし、裁判官は過重の負担に悩んでいるのが現在の事実であります。私は第一に裁判官の定員を少くとも現在の二倍、すなわち三十人くらいに増員する必要がある。しかし単に増員だけを必要とするというのではございません。大法廷は現在の十五人では多過ぎるので、そのうち七人くらいで構成するようにすべきである。また小法廷民事刑事とを区別いたしまして、民事三つの小法廷刑事を四つの小法廷くらいでやったら、事件が敏速かつ適正に処理されるようになるのではあるまいかとかように考えております。これに対して最高裁判所側は強く反対の意向を示されているのであります。その動機はよくわからないのでありますが、正面切っての理由としては、憲法第七十九条を根拠といたしまして、最高裁判所裁判官全員裁判しなければならないのであって、裁判官の一部である大法廷構成するということは違憲であるということを申されるのであります。しかしこれは国法上における裁判所全体の構成訴訟法上における裁判単位構成とを明らかに区別しない議論であると思うのであります。この議論をおし進めますと、現在の小法廷裁判最高裁裁判ではないということに相なります。また、現に最高裁裁判官のうち二、三の方ははっきりそのことを公言されているのであります。しかし、もしそうなら最高裁は現に違憲裁判を敢行しつつ、あえて、しつつあるということになるのであります。これは全く一顧の価値もない議論だと私は思っております。  大体新憲法ができまして、最高裁判所が以前の大審院とは違ったものである、最高裁判所憲法番人である、そうして基本的人権擁護者として重大な役割を演じなければならないというような考えが入ってきたわけであります。ところで果して現実に最高裁判所はどれだけ憲法番人たる役割を演じているのでありましょうか、私はそれを疑問とするものであります。しかもこの憲法番人という観念が一つの何といいますか、観念論となって最高裁裁判官その他戦後の官僚及び学者の間にも強くしみ込んでおりまして、最高裁判所最高司法裁判所として重要な機能を持っているということを、またその機能を何よりも司法裁判所としての機能を十分に発揮するようにしなければならないということを忘れているように、私は思うのであります。その観念論最高裁判所機構改革を阻止しているというのが現状でございます。一方においては抽象的な憲法裁判機能を拒否しております。このことは私はさし当り当然であると思いますが、他方において民事刑事上告審の取扱いにおきてまして全く形式的な審査をするようになっている。しかも最高裁裁判官諸公はかような現状を維持することにきゅうきゅうとしておられるのでありまして、そうしている間に、最高裁というものは全く宙に浮いた役にたたない存在と化しているのであります。これは最高裁判所の性格について一つの錯覚を起しているところからきたものであると私は思います。つまり憲法第七十六条の違憲審査権というものを、何か憲法裁判と取り違えまして、最高司法裁判所としての機能というものにおろそかであるということに相なっているのであります。現在の憲法のもとにおける最高裁判所はいわゆる憲法裁判所ではないのであります。抽象的な法令違憲裁判する裁判所ではない、そのようにできてはいないのである。そうではなくて、やはり司法裁判所最高のものとして、ただ、かつての大審院には与えられていなかった違憲審査権を与えられているというにすぎないのであります。だからその司法機能というものを第一に考えなければならないのであるが、それを忘れている。憲法裁判所を設けようというのならば、たとえば西ドイツとかイタリアにおけるように、これは全然別個に考えなければならない問題であります。アメリカの制度にならった現在の最高裁判所は、そのような意味の憲法裁判所ではないのです。もちろん現在の最高裁判所機構を抽象的な憲法裁判に利用することはできないこともないと思います。その場合には、これは問題でありますが、一種の勧告意見制とでも申しますか、勧告的な意見を求めることができるというような制度も私は考えられると思うのでありますが、それはこの場合別問題といたします。司法裁判所としては具体的な民事刑事事件裁判することが大事なんであります。その裁判に当って法令違憲であるかどうかを審査するということはこれはもとより重要なことでありまして、そのために大法廷構成するということは必要であります。しかし現在十五人の裁判官全員で大法廷構成しているということは、制度としてはなはだ私は間違っている。どこの国にも十五人の合議裁判をする最高裁判所などというものはございません。これは裁判官が十五人では多数に失しまして、合議が容易にまとまらない原因となっているのであります。だから私はこれを七名くらいに切り詰めるがよろしいとこう申すのであります。なお、小法廷民事刑事、それぞれに専門化いたさなければなりません。専門化して、それぞれの得意の裁判官民事小法廷刑事小法廷構成して裁判をするということになれば、現在よりもずっと能率がよくなりますし、また裁判実質も向上すると思うのであります。  最高裁判所側は、先ほど塚崎さんも言われましたように、事件渋滞はこのところだいぶ緩和されているということを現状維持論の論拠といたしております。しかし、いかにしてこの事件渋滞が緩和されたか、その秘密をお話しいたしましょう。それは昭和二十七年ごろ、すなわち最高裁機構改革が問題となり、七千数百件の事件に当惑していたその時分でありますが、そのころから最高裁口頭弁論を経ないで判決をする、これは刑訴四百八条の認めるところでありますが、その方法を頻繁に用いるようになった。のみならず、それはまだよろしい、控訴審規定準用によりまして口頭弁論を経ないで決定をいたして、ポンポン上告棄却するということを始めたのであります。それ以来、事件がずっと減ってきました。これは当然であります。だから、裁判実質というものはそのかわり全く形式的な審査、そうして上告棄却、こういうことに相なったわけであります。もちろん控訴審規定準用も、法文の上から根拠はないのではありません。しかし非常にこれは無理な解釈であるのみならず、かりにその準用を許すとしても、それはきわめて明々白々な形式的な点で、上告理由らしいものを備えていない場合に限るべきものであります。それを決定上告棄却して、その棄却決定判例集に載っている。それにカッコをいたしまして長々とこの法制解釈について説示を与えているのであります。こんなものは決定でやるべきものじゃないのです。それから、刑訴四百八条は、なるほど口頭弁論を経ないで判決上告棄却することを認めておりますが、これも上告理由のないことが明白な場合に限られているのであります。ところで、今回の三鷹事件の場合などは、判決を見ますとわかります通り、まさに意見が八対七にわかれているのです。上告棄却すべしというのが八で、原判決破棄すべしというのが七であります。かように意見が八対七に分れたときは、決して上告理由のないことが明かであるなどとは申されないはずである。しかるに最高裁判所は全く無法にも第四百八条を適用して判決をもって、口頭弁論を経ないで判決上告棄却しております。これは明らかに刑事訴訟法に違反しております。以上は第一点について申し述べたのであります。  第二の審級制度、特に刑事事件控訴審の構造について申し述べます。審級制度は、第一審の機構から始めて考えていかなければならない問題であります。終戦後の刑事訴訟法は審級制度というものを極端に簡素化いたしました。原則として刑事裁判は一審限り、こういう考え方から出発しております。控訴審はすでに事後審だということに相なっております。これは占領軍の示唆のもとに、英米法の考え方をとったものでございましょう。しかし英米法の第一審は原則として陪審裁判であるということを忘れている。また英米においても陪審にかけない簡易の手続がございますが、その場合にも予備審理はとにかく、簡易の裁判判決をするという場合には、必ず二人以上のマジストレート、下級判事が立ち会っているのであります。しかるにわが新裁判所法は、簡易裁判所は全部一人制、単独制の裁判所としております。また地方裁判所には、合議制の場合と、一人制の場合とを認めておりますが、現在の事実はどうであるかというと、地方裁判所事件の大部分はおそらくは九〇%を越していると思います。一人の裁判官裁判をしております。御承知のように旧裁判所構成法及び旧刑事訴訟法自体には、地方裁判所というものは全部合議制でございました。これでは控訴率が高くなり、また従って上告率が高くなるということは、これは当然であります。いわゆる乱上訴、みだりに上訴するということはけしからんということを田中長官の意見として発表されておりますが、私はこれは抽象的な理論として、一応了承いたします。みだりな上訴がよろしいなどということは誰も申せません。しかしながら現在の事態に目をおおうて、現行制度を維持しようとするために乱上訴論を持ち出すということは、全然見当違いであると申さなければなりません。戦後の新刑訴制度を維持しようとなさる方は、第一審の強化ということを主張されるのであります。これはごもっともであります。第一審が強化されれば、おのずから控訴率が少くなり、また上告率が少くなるわけなんです。しからばどうしたら第一審が強化されるかというに、それは少数の有能な判事が第一線に出るというようなことで解決される問題ではないのです。地方裁判所はもちろん、簡易裁判所でもきわめて軽微の事件を除くほかは、全部合議制の裁判とすべきであります。もしりっぱな判事のみで、一人前の職業的な判事のみで合議制の裁判所構成できないというのならば、ドイツの参審裁判所にならいまして、民間の有識者を裁判に参与させることを考慮すべきであります。これはある意味で広義の陪審制度、ドイツではしろうと関与主義と申しますか、広義の陪審制度の復活であります。御承知のように、かつてわが国でも陪審制度を採用した歴史を持っておりますが、あれはまあいろいろその当時の社会情勢にもよりますが、失敗に帰したので、あのままを今復活するということは、差し当り問題でない。しかし、参審制度は、参審裁判所制度は大いに考えてみる必要があると思っております。陪審制では徹頭徹尾抽せんによるのでありますから、どんな人が陪審員になるかわからない。しかし、参審員ともなれば、相当地方で学識経験のあるような人を選択してこれを参審員として選任することができると思います。現在、調停委員でありますとか、司法委員でありますとか、ああいう制度はわが国においてかなり成功していると私は見ている。イギリスの治安判事というものもこれは法律家でない者を、専門の法律家でないものを判事として採用する制度であることは御承知の通りであります。何とかしてこの第一審を合議制にすることによって、第一審の強化ということを実現したらよろしいと、私はさように思っております。  次に控訴審でありますが、控訴審は、もし第一審がほんとうに強化されました暁においては、事後審であってよいと思って、おります。しかしながら、現在の状態では、事後審的な控訴審ではいけません。数年前、幾らかこの点、刑訴の一部改正によって改められましたが、まだ不十分であります。いわゆる事実の取調べというものを、もっと活用できるようなふうに控訴審規定をもう一度改正する必要があると思っております。現在では、控訴審において、何らの証拠調べもすることなしに、事実の認定や刑の量定を変更することが行われております。これは事実である。それは控訴審は事後審であるという考えからきております。私はこれは解釈としても間違いだと思うが、実務上それが通用しているし、学者も一応それを是認している人が多いのです。しかも何らの証拠調べもしないで、たとえば第一審で刑の執行猶予を与えられたものを、第二審でその執行猶予を奪ってしまう、あるいは第二審で第一審よりも重い刑を量定する、はなはだしきに至っては、今ある刑を量定するというのは、三鷹事件におけるがごとく、第一審の無期刑を第三審で死刑に変更する。これなどはずいぶん考えなければならない問題だと思うのです。それが現在合法だというふうに考えられておる。はなはだしきに至りましては、第一審で無罪であったものを第二審で何らの証拠調べもしないで、全く記録のみに基いて有罪にしておる例が幾つかあるのであります。それは御参考のために判例集から二つだけ引用いたしておきますが、昭和二十六年二月二十二日第一小法廷決定最高裁判所判例集第五巻第三号刑事四百二十九ページ以下、そこに出ておりますが、これは第一審が犯罪の証明がないという理由無罪とした事実を、第三審において記録のみに基いて有罪として刑を言い渡しておる。それを最高裁がそれでよろしいとこう言っているわけです。もう一つ昭和二十九年六月八日第三小法廷判決、これは判決であります。最高裁判所判例集第八巻第六号刑事八百二十二ページ、これは最近の判例でありますが、刑訴四百条但書きの解釈としまして、控訴裁判所は訴訟記録及び第一審で取り調べた証拠のみによって、直ちに判決をすることができる、こういうことを最高裁判所が認めておるわけです。私はこれはあとで御研究を願いたいのですが、御研究というよりは条文を読んでみればわかると思うのですが、刑訴四百条というものは、原則としては差し戻しまたは移送すべきことを規定しております。ただ、但書きにおいて記録と、そうして控訴裁判所で取り調べた証拠、新たな証拠によって直ちに判決をすることができると認める場合には破棄自判してもよろしい、こういう規定なのであります。これは全く訴訟経済のためであります。同じことをまた差し戻し、移送してやらせてみても結局結論が同じになるならば、控訴裁判所破棄自判してもいいではないか、これだけのことなんです。それは間違いのない場合にはそれでよろしいですけれども、訴訟経済のために人権を犠牲にするというようなことがあってはもちろんならぬわけなのであります。しかし現在のようなやり方をやっていると、結局そういうことになることは火を見るよりも明らかであります。今回の三鷹事件裁判のごときは、私はその内容は十分記録を読んでいるわけではありませんが、少くとも控訴審においてすでに誤まっている。一つの証拠調べをすることなしに無期刑を死刑に変更したということは、ひとり刑訴第四百条に違反するばかりではない。憲法の第三十一条、第三十七条等の趣旨に反するものである、私は違憲であると思うのでありますが、最高裁判所のすることはいかんともいたし方がないという現状であります。そうである以上は、少くともこの刑訴第四二百条というものについて、このような誤まった解釈が行われている以上は、何とか立法的措置によってすみやかにこれを改めなければならない必要があると存じます。できれば私はやはり現在の状態ならば控訴審を覆審にするほかない、こう思っております。  最後に、上告審はさきに民訴一部改正によりまして、民訴の方は憲法の違背のほかに、法令の違背も判決に影響を及ぼすことが明らかである限りは、これを上告理由とすることができるということになりました。これはまことに当然のことであって、法令違背を問題としない上梓審なんていうものは、ほんとうは意味ないと思うのです。事実の認定や刑の量定は別としても、少くとも法律問題だけは上告の本来の機能なんであります。それはともかく、民訴は一部改正によってさように改善いたされましたが、刑訴の方は依然として憲法違反と法令抵触だけを上告理由といたしまして、法令の違反を上告理由に加えてないのであります。これは民訴と明らかに権衡を失しているのみならず、先ほど申しました通り、日本のような成文法の国で、法令違反を上告理由としないで、判例抵触だけを上告理由とするならば、全く主客転倒とでも申しましょうか、これは英米法の影響からきているとは思いますけれども、それにいたしましても、わが国の法制全体の建前からいって、これはとうていこのままにしておくことはできない。すみやかに判決に影響を及ばす法令違反を上告理由に加えるように立法措置を講ずべきであります。  なお、判例判例として重要であるのでありますから、その統一のために判例抵触を上告理由とすることは現行法通りであってよろしい。この点先般の民訴改正の際に法令違背を入れるかわり、判例抵触を削除したということは大へんな誤まりであったと思います。この点については、刑訴と民訴と合せて改正を必要とするものと存じます。  以上お尋ねの二点につきまして一通りの見解を申し述べたのでございます。御質問によりまして、なお私の見解だけはいかようにも申し述べたいと思いますが、一応これで私の報告を終ります。
  8. 塚崎直義

    参考人塚崎直義君) 補足して、これは申し上げておく方がいいと思いますが、今のお話しで、控訴審破棄して自判をするということ、いわゆる三鷹事件の話が出ましたから、これは申し上げておきますが、三鷹事件破棄して自判をやった。いわゆる全然被告人を調べずにやったということでありますが、これは刑訴の四百条によって、なるほどやれぬことはないという話でありますが、私も小野さんと同一の意見でありますが、しかしここがひもつきなんであって、明らかにという字がある。さっきのお話しは判決書等をもって見まするというと、七名の人は反対をしておる。七名の者は反対しておるのです。多数説に反対をしておる。そうしてみるというと、これは明らかじゃないじゃないかということを当然言われるわけであるが、かりに七名でなくして、しからば三名が反対したらばどうかという問題がそこに起って参りますから、私はこの問題を解決するには、こういうふうにもっていくことが必要ではないかと思うのでありますが、二審、控訴審において破棄され、そうして新しい判決を下す場合は、その判決たるや重く罰しなければならぬというような、重く罰するというような考えである場合においては、これは当然一審に移して、事実審で調べなければならぬと、こういうふうに私は端的にそういきたい。そうでなければ、二人の場合は明らかでない、三人ならば明らかであるというような議論が出ますから、この問題の解決はそこに私はあると思う。新しく判決を下す、その判決たるや重く罰しなければならぬ、ひとり無期死刑にするという場合だけでないのであって、一般的にいかなる犯罪といえども一審において科刑した刑量よりも重く今度は罰するということで、高等裁判所であるならば、その場合においては、必ずこれを自判でなく、移送して一つ調べさせ直すということが必要である。いわゆる事実審にこれを移すことが必要である、こういう原則を立てたいと私は思うのであります。そこで私はこれに牽連して申し上げたいのは、いわゆる憲法三十一条に、かくのごとき二審においての態度というものは憲法三十一条に反すると私も同様に考えますが、憲法三十一条の問題はこれはとにかくといたしまして、一体刑事訴訟法というものに流れておる精神はどこにあるかというと、これは基本的人権を尊重してやらなければならぬということは、刑事訴訟法の第一条にちゃんと規定されておるのでありまして、刑事訴訟法の一編総則第一条に厳としてこれはうたわれておるのであって、「個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。」ものである。刑事訴訟法というものはそういうところから出発しておる。刑事訴訟法全般を通してこの基本的人権を尊重して、しこうして裁判をなせということが、刑事訴訟法全体を通して流れておる一つの大精神であるということを御留意を願いたいのであります。私は単なる憲法論をもってここに申し上げるのでなく、刑事訴訟法の第一条に現にこれはあるのだ。この精神をもってすべて裁判はやらなければならぬものである。従ってかような罪を重く罰する、破棄して重く罰するという場合においては、事実審をどうしてもやって、そうして被告人を呼び出して一切の取り調べをやるというのでなければ、被告人も納得しないのです。こういうような意味において私片解釈を進めたいと思うのであります。
  9. 成瀬幡治

    委員長成瀬幡治君) 以上で各参考人意見開陳が終了いたしましたが、参考人に対して御質疑のある方は御発言を願います。
  10. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 貴重な御意見を聞かせていただいて、いろいろと新たに認識するところがあったのですが、御三方にお伺いをいたしたいのでありますが、ただいまお述べいただきました御意見によりますと、現在最高裁判所において行れております判決が、いずれも妥当でないという点が指摘されたのでありますが、これに対して、これをどういうふうにして救ったらよろしいのか。ただいまいろいろな御意見がございましたが、あるいは法律を改正するとか、それらのことは、われわれとしても十分御意見を参考として研究しなければならないことでありますけれども、しかし同時にこれは進行中の裁判、あるいはその具体的な事件としては、その判決の結果が確定し、そうしてそれが執行に移されるという問題があるのでありますから、かりにただいまお三方がお述べ下さいましたように、場合によっては憲法に違反し、あるいは刑訴第一条に違反し、あるいは刑訴第四百条に違反するということはきわめて明らかなような判決が確定して、それが執行されることによって、裁判の権威の失墜ということはおそるべき結果をきたすと思うのです。そのようなことを救う方法としてはどういう方法がございましょうか。それを伺いたいと思うのであります。
  11. 小野清一郎

    参考人小野清一郎君) 今日のお尋ねの趣旨は、もっぱらこの最高裁判所機構とか、審級制度、ことに刑事事件控訴審の構造とか、この制度の問題がお尋ねの眼目であると存じまして、三鷹事件にも触れましたが、それはわざわざ三鷹事件判決を資料として御提供に相なりましたので、それに触れたわけでありますが、それのみでなく、これは先ほども引用いたしました数々の、もっと幾らでもありますが、不当なる判例が重なっておりますので、何とかしてこの最高裁機構改革刑事訴訟法の全面的な改正を必要とするというのが私の考え方なのです。個々の司法事件につきましては、私は今日発言することは適当でないと存じます。やはり何といたしましても、制度として、最高裁判所憲法についても最高解釈権を持っているし、またもちろん刑事訴訟法裁判所法等についてその最高解釈権を持っているのでありますから、それを横車を押すというようなことは、私は弁護士であり、かつ刑法学者でありますから、今私の述べる権限内には属しないと思います。
  12. 塚崎直義

    参考人塚崎直義君) 同感です。
  13. 牧野英一

    参考人牧野英一君) 制度としては、確定判決をある程度まで調整するだけの制度憲法にも認められておるのです。恩赦という制度が……。それはその当局が自分の十分なる見識と責任においてやるならば、そういう最後の安全弁というものは法律にあるわけです。
  14. 塚崎直義

    参考人塚崎直義君) ただ、お答えしますが、根本的事実については申し上げかねますが、先ほど申し上げました通りに、ただいまのこの刑事訴訟法は、事後審理というので、原審においての判決を批判する、これを同時に悪いかということを批判して、そうして判決を下すという制度になっているのですが、やはり控訴審においては覆審にこれをしまして調べるということは、最も私は必要であると思うのでありまして、これは今日直ちにこれを正確に実行するということは困難でありましょうが、せっかくお集まりの法務委員の諸君が皆有力な方でありますからして、この点について十分御考慮を願いたいと思うのであります。この覆審制度にするということになりましたならば、私はこう思うのです。今日のごときこの今度問題になっておるような点は、よほど争いがなくなるのじゃないかというふうに考えます。覆審にするということによって、すべて解消されるのじゃないか。今日は、今の制度では上告が多いとか何とかいうのは、数が多いというのは何であるかというと、結局その一審だけでは満足できず、しかも控訴すれば今言うように控訴が事後審であるがためにほとんど事実の審理がなされんというので、もとと同じような、一審と同じ判決であり、こういうところに被告人の不満があり、国民の不満があるのでありまして、これではいかんから上告をする、上告は従ってふえるわけであります。かるがゆえに私は根本的の問題としては、控訴審を覆審裁判にしてやっていくということは非常に必要だと思っております。これは一松委員もここにおいでになりますが、昔の覆審制の時代におきましては、一審でかりに不結果……、結果を得ないというので、控訴審においてはうまくいくであろう、控訴審では取り返しもつくだろうというので大ていの者が安心しておったのでありますが、今日の事後審の制度においては、ほとんどこれが望みがうすいのであります。望みがないとは言えないのでありますが、望みが至ってうすいのであります。特に委員の御考慮を願いたいのは、この覆審制度に復活するということが最も私は必要ではないかと考えるのであります。その点だけちょっと私の考えを述べておきます。
  15. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 それぞれ貴重な御意見をありがとうございました。重ねて伺いたいのでございますが、先ほど小野参考人がお述べ下さいました御意見では、私もこの三鷹事件を個々の事件として今問題にしておるわけではないのですが、ここに一般的な場合として憲法に違反し、あるいは刑事訴訟法四百条に違反しておるというような裁判が行われておるというように判断される場合でございますね。それを救う制度上のどういう方法があるだろうかという点について伺ったのですが、従ってそういう意味において御意見がございましたら伺いたいのです。
  16. 小野清一郎

    参考人小野清一郎君) それは制度上のでございますか。
  17. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 具体的に申し上げますと、先ほどの御意見に当るような場合は、一般的に申しましていわゆる訴追というような問題に、どういう関連を持つだろうかというようなことをも御意見がございましたら伺いたいのです。それからなおもう一つ、ただいまのお言葉でございましたが、具体的な三鷹事件について意見を述べるということをお控えになっておられますが、そのお控えになります御理由をもし聞かしていただければありがたいのです。
  18. 小野清一郎

    参考人小野清一郎君) 別に差し控えるというわけでもないのですけれども、この場所は参議院の法務委員会であるということと、それから私が弁護士であり、かつ刑法学者であるということを考えまして、やはり裁判所には裁判所の立場があり、ことに最高裁判所がこの憲法及び法令解釈については最高の権威を持っていなきやならんという、これはやはり一つの日本の憲法のもとにおける、何といいますか、原則的な立場であるから、個々の司法事件について政治的に容喙するということは、私はよくないと思っております。ただきわめて極端な場合、まあさっき牧野先生の言われたような恩赦とかそういうこともあるいは考えられるのではないだろうかとも思います。しかし判決が確定したら、やはり最高裁判所判決というものは権威を持つものでなきやならん、こう思うのでございます。それだけのことなんです。もっとも最高裁判決に対して十日以内に判決訂正の申し立てができますので、何か弁護人側からその申し立てがあったようにも新聞に見えております。その結果がどうなりますか、まだ確定はしていないのですから、確定した上でもう一度考え直すということも必要になってくるかもしれません。それから制度としては、司法制度の中では一たん確定した判決でも、それは再審の訴えとか非常上告の道は残されております。   〔委員長退席、理事宮城タマヨ君着席〕 そういう道は残されておる、それはしかしこの国会の問題ではなくして、弁護側の問題だろうと思います。あるいは非常上告のごときは、これは検事総長だけが申立てができるのですから、そこへ持っていかなければならない問題だと、こう思います。
  19. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 いま一つ意見をこの際に伺わしていただきたいと思いますが、それは裁判に対していろいろな批判をすることは好ましくないというような趣旨の御意見を、裁判関係の高い責任を持っておられる方が述べられたことがございますが、昔の日本では係争中の裁判を支持したり、被告人を支持したり、あるいはどうしたりするということはいけないということがあったようですが、今そういうことはない。ところが高い裁判上の責任を帯びておられる方が裁判の批判というようなことを排斥されるようなことを言われますと、やはり一般国民の間には、裁判に対しては何も言えないのじゃないか、言わない方がいいのじゃないかという気持がまた起ってくるのじゃないかと思うのですが、これは私見を申してははなはだ恐縮でありますが、ことに最高裁判所に権威ある最も高い信頼を国民が与えるのは、裁判所並びに国民双方の努力によらなければそういうことはあり得ないことだと思います。ただ法律に書いてあれば、その最高の権威が国民の信頼を受けるということじゃないのでありまして、最高裁判所努力ももちろんですが、国民もまた努力しなければならぬ。その国民のなす努力というのは、最高裁判所判決がどういうものであっても、ただごもっともであるというようにすることが、最高の権威を高めることではないので、やはりそれに対して批判あるいはそれを磨く、いわゆる切瑳琢磨しなければならないのじゃないかと考えるのですが、現状では何か国民がそれを遠慮しなければならないような、そうしてせっかく最高裁判所判決なさったのだから、まずまずそれを信頼するという立場の方に強く傾いておるのじゃないかというように心配されるのでありますが、この機会にそういう点につきまして御三方から御教示を願えれば大へん幸福だと思うのであります。
  20. 牧野英一

    参考人牧野英一君) 裁判係属中に裁判について批判のできないことは新聞紙法にあったのです。それは今廃止せられておりますから、いわゆる法律論から言えば批評はできるわけです。先ほど私高等常識ということを申しましたが、法律の文字で許されておるから、何でも徹底的にやるというのでは、私の年来主張しておる信義、正義の原則にそむくわけです。民法第一条第二項に信義誠実の原則にのっとってやらなければならぬ。そこでこまかい法律論のことは、ことに実務に明るい二人の方からお話し願いまして、私としては議論をする余地もないので、どうも法律を運用する弁護士の方の側でも、それから裁判官の方の側でも、法律の文句をとことんまで利用して、いわゆる下等な下世話な言葉で申しますと三百的なことになる。それはどうも裁判官とか弁護士とかいう方々に向っては、これに対する高等常識の要求をしなければならぬところであります。これは具体的な法律論のこまかいところのお尋ねでございますれば、私はもうその点は引退の身の上できわめて不案内でありますけれども、判決文だけは根気よく読んでおります。上告論旨を見ましても、こんな上告論旨を出して裁判所に手数をかけて、一体弁護士として、紳士としての態度か、こう思うことも少からずありますので、これは先ほどもお話しのあった通り、上訴権の乱用であります。そうかといって、それに対抗して、そんならおれの方でもというわけで、国民の納得いかんにかかわらず、形の上で許されていることは何でもやる、これではどうも裁判にならぬと思う。その点を特に今日の裁判官には希望いたしまするとともに、その点が裁判官の徳義として発達いたしますれば、必ずしも今にわかに法律を改正しなくてもいいのですが、しかし、法律を改正しなければ、裁判官を適当な軌道にとどまらしめることができぬということであるならば、それは現に法制審議会というものがありますから、そこでこまかい点は十分御審査になった方がけっこうであろうと思います。同時に、わが国の司法制度を発展せしめるには、弁護士諸君の方でも、ちとどうも無責任な、あんな上告論旨を出して、よくりっぱな弁護士として世の中に顔向けできるなと思うものもずいぶんありますし、判決録の大部分というものは、実に情ないものであるように思います。私としては、特にわが国の司法の発展のために、上下を合せてもう少し自粛して反省を重ねられんことを希望する。あなたのおっしゃる通り、今のところでは、制度としては裁判を批評するのは許されております。しかし、許されておるから、どんなことをしてもいいというわけではない。やはりそれを批評する人がインテリである限りにおいては、インテリらしい態度をもって、穏やかにやるべきものであります。請願権に関する憲法規定なんかでも、平穏ということが条件になっておりますので、ゼントルマン・ライクにすべてやるべきであります。いたずらに世の中の人を刺激するような、扇動するような方法でやるということは、やはりおもしろくない。いささか法律家らしくないお話を申し上げるのでありますが、民法第一条第二項のためには、私五十年来骨を折りました。法律論というものは、信義、誠実の、原則をもって権利を行い、義務を履行するにあるということを訴訟法にも十分活用していかなくてはならぬということをこの際申し上げて……、やはりそれは法律論と、こう思うのであります。
  21. 塚崎直義

    参考人塚崎直義君) 今牧野先生のお話、ごもっともでありまして、同感でありますが、ただ私がこれにつけ加えて特にお願いをいたす、国民全体に、私はお願いというよりも、自粛していただきたいということをこの際述べておきたいのでありまして、なるほど裁判に対する批評は何ら禁止規定がないということをもって、裁判に対していついかなる場合においてもこれを批評するということは、これはよほど国民の良識に訴えて考えてもらわなければならぬ点であると考えます。たとえば、ここに裁判が進行中である、検事が起訴して公判に移り、まして裁判進行中である、証人を呼び出し、いろいろやっておるという場合において、これはあるかどうか存じませんけれども、この事件無罪である、あの事件はどうであるということを盛んに新聞等において宣伝されるということは、これは私は慎しまなければいかぬと思っている。いわゆる証人の証言、これに非常に影響を及ぼさせる。これは無罪事件であると宣伝されている場合において、証人に出る人はどうお考えか。無罪というのが世論である、今日は世論の時代で、世論がそういう気持ちならばこれはもう無罪だというような考えをもって、すべて証人として法廷に立つということの態度は、これは裁判の上に非常な影響を及ぼす。それからさらにそういうことによって裁判所の威信を著しく害するわけでありまして、これは国民一同において十分反省し、自粛していただきたいということを私は考える。もちろん判決があった後において、これはよろしい、これは悪いということを論ずるということは、これはけっこうでありましょう。ある程度これはやってしかるべきだと思いまするけれども、裁判審理中においてこれをやられるということは、これは非常に裁判所として迷惑なことである。実際を申しますと、端的に申しますが、これは皆さんの前で申し上げるといかがかと存じますが、これは申し上げん方がいいかもしれぬが、ある訴追委員が、裁判中に出かけて被告人を調べ、何も調べるというようなことがあったやに記憶いたしておりますが、そういうことは非常に裁判所としては迷惑なんで、裁判なるものについては、ほとんどあってなきがごときものであって、何をやっておるかということになると、国民の信頼はおのずから地に落ちるようなわけ合いになると思うのでありまするからして、皆さん御如才もありますまいが、こういう点についても一つ国民の指導者であるあなた方において、十分今後そういうことについては注意するように一つしむけていただきたいということをお願いする次第であります。それ以上の意見はありません。
  22. 宮城タマヨ

    ○理事(宮城タマヨ君) 小野さんに……。
  23. 小野清一郎

    参考人小野清一郎君) 別にございません。
  24. 吉田法晴

    ○吉田法晴君 実は今日の参考人に来ていただきまして御教示をいただきたいというのは、私からお願いをいたしたのでありますが、私のお願いしました一番最初の動機は、三鷹事件で、これは小野先生も、新聞紙上でございましたか、御意見をお述べになっておりましたが、七人の意見があったというようなことで、国民としてやっぱり割り切れないという感情は、これはみな持っておる。ただ、それを法務委員会が取り上げて問題にする仕方については、ほかの委員からも意見がございまして、裁判を批判する云々というようなことになってもいくまいという御意見もございました。ただ、そう議論をいたしませんでしたが、先ほど牧野先生あるいは塚崎先生からもお話がございましたが、民主政治のもとにおいて、裁判が昔のように天皇の名において行われるのでなくて、国民の名において行われるというならば、その国民の名において行われる裁判にふさわしいものでなければならない。そういう点については、私どもは国民の何か割り切れないというのを、どういう工合にしたらそれじゃ救うことができるか、これは現行法の運用にも関連をいたしましょう。あるいは審級制度その他の改革意見にも関連をして参ると思うのであります。そういう意味で御意見を拝聴し、大へん有意義な御教示をいただきましたが、これは小野先生にお願いします。先ほど判決訂正の申立てについて、これは実際に判決訂正の申し立てをなされておるかのように承知をするのでありますが、この刑事訴訟規則の二百七十条を見ながらここで疑問を持ったんでありますが、「判決訂正の申立についての裁判は、原判決をした裁判所構成した裁判官全員構成される裁判所がこれをしなければならない。但し、その裁判官が死亡した場合その他やむを得ない事情がある場合は、この限りでない。」と第一項に書いてある。第二項に、「前項但書の場合にも、原判決をするについて反対意見を表示した裁判官が多数となるように構成された裁判所においては、同項の裁判をすることができない。」、こういう規定を見ますと、たとえば三鷹事件の場合に七人の意見があった、それから二人おやめになって云々という実態もあるようでございますが、この条文の運用についてお教えをいただきたい。これは法の解釈あるいは実際の運営ということになりますと、あるいは塚崎先生あたりから御教示を願った方がいいかと思いますが、私どもが読みますと、但書きの中に、たとえば今回の場合に入る人がある。その場合に「反対意見を表示した裁判官が多数となるように」云々ということになりますと、あるいは但書きの適用ができなくなるのではないか。そうしますと、本文が生きて参るかということになるかと思うのでありますが、そういう点についてどういう工合にお考えになりますか、あるいは解釈せられますか、お伺いいたしたいと思います。
  25. 小野清一郎

    参考人小野清一郎君) だいぶこまかい、技術的な問題だと思いますが、規則の第二百七十条によりますと、「判決訂正の申立についての裁判は、原判決をした裁判所構成した裁判官全員構成される裁判所がこれをしなければならない。但し、その裁判官が死亡した場合その他やむを得ない事情がある場合は、この限りでない。」、以上第一項でありますが、この三鷹事件の場合は、あの判決昭和二十九年十二月二十二日の日付になっております。その当時の裁判所全員で、全員合議の上で成立した裁判であります。ところがその後たしか二人の裁判官が退官されているわけですね。すでに裁判が成立して何日かたった後に、十二月二十二日付の判決書ができたわけであります。このときすでに裁判官霜山精一は退官につき署名押印することができないとして、長官の署名捺印があります。その後さらに裁判官井上登が退官しておりますから、現在ではこの二人の方はもはや裁判官たる資格を持っていないのですね。そうすると、当時の裁判所構成十五人のうち、二人が欠けておりますから、十三人しか現在は残っていない、こういうことになるわけですね。この場合は、まさに但書きの「死亡した場合その他やむを得ない事情がある場合」に当るので、この第一項でいきますと、裁判官全員というのは十三人になるわけだろうと思うのですね。そうだろうと思います。どうも私もあまり研究をいたしておりませんので、一通りそう考えます。第一項についてもう少し考えなくちゃならないのは、「原判決をした裁判所構成した裁判官全員」というのは、果してその後に裁判官となった、この場合は最高裁裁判官となった二人の裁判官を含むかどうかですね。これがまあ私としてはどうもよくわからないのですけれども、差し当り文句の上では「原判決をした裁判所構成した裁判官全員」というのでありますから、その後に任命された裁判官は入らないと解釈すべきではないかとも思われます。  そこで第二項へ行きまして、「前項但書の場合にも、原判決をするについて反対意見を表示した裁判官が多数となるように構成された裁判所においては、同項の裁判をすることができない。」とこうなっておりますので、この場合はまさに八対七のうちの、八の方に属する二人の裁判官が退官されたわけですから、どうやら「反対意見を表示した裁判官が多数となるように構成される」ことになるわけですね。第一項でいきますと……。そうするとこの場合はたと困ってしまうのですが、判決訂正の申立てに対する裁判ができないということに相なりましょうか……、はなはだ困った事態を生じているように思うのです。しかし私はこう思いますのですが、それで一応の解釈はそうですけれども、裁判所がすでに訂正申立ての件を認めている以上は、それに対して裁判をしないということはできないと思うのですね。ですから新たに任命された裁判官が、現在最高裁判所裁判官として、その地位についておられるのですから、この第一項の方を、「裁判所構成した」というのは、構成するという意味に解釈すれば、その二人が加わればその訂正の申し立てについて判決ができることになる。そうでもしない限りは、この規則というものは動かないことになるのじゃないかと思います。これはほんの一通りの、私の思いつきと言えば思いつきでありまして、まことに困った事態……。なお研究の余地があるかと思いますが、一応そのように思われます。
  26. 塚崎直義

    参考人塚崎直義君) 別に意見と言ってありませんが、私はただいまの御意見以上にわたって申し上げることはございませんが、ただ同じことで最高裁判所の判事全員に対してここにかりに忌避の申立てをしたという場合を想像してみますと、御案内通り忌避したという場合においては、忌避された判事はこれに対してどうである、こうであるという判定ができない。これはできんことにちゃんとなっておりまして、一審等で忌避の中立てをする、その判事自体が直ちにやるという場合にただ一つある。判決を非常に延ばすためにいろいろその忌避の申立てをしたというような事実があれば、これは直ちにその忌避を受けた判事が裁判することはできますが、忌避に対してこれは忌避の申立てはできんぞということはできるけれども、そうでない限りにおいては、他の判事が忌避の申請に対しては判断を下さなければならん。ところが御案内通り最高裁判所においては十五人であって、十五人のもの全員に対して忌避の申立てをした。これはほとんど方法がないということに帰着するのでありまして、今のような場合と同じような結論に到達すると私は考える。これはどういうところからきておるかというと、これは私の想像であって、まだ研究したことも何もありませんけれども、裁判所法その他憲法等から見まして、いやしくも最高裁判所の判事に任命される者は、非常に世故に長けておる、知識も全能的な人である。そういうような人を選んだ。それから選べというようなふうにちゃんと出ているから。従ってそういう人にはまずもって間違いはないであろうというような大きな考えからきておって、先ほどの忌避の問題のごときにおいてもこれはもう方法がない。忌避の申立てをしても方法がない。他に回すことができない。今の問題でも同じように方法がないと私は考える。今の小野さんのお話しの通り、ちょっとこれは考えさせられるようなわけであって、これは裁判官というものがえらい人ばかりを任命しておる。そういう人には落度はない、最高裁判所の判事に落度はないというような大きな考え方からきておるのじゃないかと、私はこれは想像に過ぎんのでありますが、そういうようなところからきておるのじゃないかと思うのです。  これに関連して今のお話しの判決に対する問題ですが、訂正問題ですが、判決に対する訂正問題は今日までずいぶん、ずいぶんとは言いませんが、ときどきこれは申請される申立てがあるのでありますけれども、大ていこれは執行を延期させようというようなところから出てくる。いわゆる刑務所に行くのを少し延ばしてもらいたい、家の方にこういう事故があるからそれで延ばしてもらいたい、本人自身がすなわち病気であるから延ばしてもらいたいという引き延ばしのために訂正を申し立てるというのが彼此しかりといってよろしい今日の現状でありまして、従って今日まで実際において行われておるところを見まするというと、この訂正問題は御案内のように規定では決定もしくは判決の両方でやれることになっておるように記憶しておりまするが、条文を私は見出せませんが、そんなふうになっておるようでありますが、十日以内に申立てをしろ、ところが十日以内に申立てて、これはどういうふうであるかというと、従来の例によると、ほとんど二日も三日もたたんうちに直ちにこれは決定をやる、決定が大部分ですね。決定されるのです。申立ては理由がないというふうに決定される。しかしてその理由たるや、理由はもうただいま申し上げただけであって、詳しい理由というものはほとんどつけてないという現状でありますからね。こういう点からみると、先ほどの考え方からきておるのじゃなかろうか。しかし人間も神様じゃないのだから、私が先ほど来申し上げまする通りに、慎重の上に慎重をもってこれは審議してもらいたいと実は心得ておりまするけれども、現行の法規の上から、どうもちょっとちゅうちょせざるを得ないような事情であります。これだけ申し上げておきます。
  27. 吉田法晴

    ○吉田法晴君 重ねてお尋ねをいたしますけれども、小野先生も述べられました七人の意見もあり、国民として結局割り切れないものが残っておる。こういう感じをどの方の御意見を聞いても、大ぜいまあ持っておられる。そうして述べられておる。それをそれでは合法的にどういう工合に救済すると申しますか、あるいは是正すると申しますか、方法があるだろうかと、まあわれわれが常識的に考えたといたしまして、今までのお話しでは制度の改正についてはこれはまあ御意見がございました。そのほかには最高裁判所判決が下ったものについて再審の申立てもできる、あるいは判決の訂正の申立てもできる。しかしその結果はまあ最高裁判所のそれぞれの決定なり、裁判を待たなければならないということなのでございましょうか。あるいは何と申しますか、納得しがたい世論を納得させるといいますか、あるいは具現する方法について、小野先生あるいは塚崎先生も最高裁判所におられました御経験等もございますし、御意見を承われれば大へん幸いと存じます。
  28. 小野清一郎

    参考人小野清一郎君) 判決訂正の申立て、あるいは再審の請求、非常上告といったようなものは、これはあくまでも司法のルートでもって救済を求める手続でございます。その手続を尽してもなおかつ救えない場合に、行政的な方法としてはこの恩赦という方法もある。そのすべてが尽きた場合ですね、なおかつ国民として納得のいかないという場合にどうすればよいかというお話しのように伺ったのでありますが、私は言論の自由というものはもちろん無制限なものとは思いません。先ほど牧野先生は信義、誠実という言葉を用いられましたが、これは先生が昔から用いられておられる言葉ですが、もとより抽象的な言葉でいうなら、倫理とか道義という言葉を用いてもいいと思います。法律制度というものはやはり国民の倫理、道義観念の上にあるものであります。ですから言論の自由といっても、やはりどんなことを言っても、差しつかえないということではないのであって、おのずからそこに客観的な倫理道義の制約があるということはこれは認めなければならない。しかし何といいますか、倫理、道義の許す限りにおいては、言論はできるだけ自由でなければならないと思います。でありますから私は決して遠慮も何もしていないのであって、求められれば新聞紙上であろうが、雑誌であろうが、意見だけは自由に発表しております。しかし同時に国家の制度というものは個人々々の思う通りにいかないからといって、度を越した批判をすることによって、裁判に対する国民の一般的な信頼といいますか、そういうものを崩壊させるような方向へ持っていくことはいけない、こう、思います。ですから私は遠慮ではなくして、私なりの倫理なり道義観念に基いて、許される限りにおいて、自由に最高裁判所判決であろうが、何であろうが、自由に批判をいたしておるわけであります。批判はいたしておりますけれども、すでにこの手続が尽きたならば、もういかんともしがたい、力の及ばないところがありますので、あり得ると思います。それはやはりこの国家全体の組織、機構ということの上から、法律制度というものはどんなに理想的に書かれても、そういう多少の遺憾は残すものじゃないかと私は思っております。ですから批判以上のことは私としてはいたしません。あと問題は政治的にどういうことで、どういう方法をお考えになるか、それはそれぞれの立法の立場としてお考え下さることが適当であろうかと思うのであります。やはり国会というものは立法機関でありますから、立法措置ということを目ざして事柄をお考えになる方がいいのじゃないか。司法権というものの、司法というものには、司法の独自法則性といいますか、やはり最高裁判所を頂点とする司法機構というものがある。この司法機構の権威というものを、これは無視することは、国家という体制の許さないところであると思いますので、まあ、これは全くの私見でありますが、司法問題は司法事件の取扱いについては、あくまでも司法のルートで救済を求めよう、それでいかんところは、あと立法機関としての考慮をお願いする、私の立場はそういう立場であります。
  29. 塚崎直義

    参考人塚崎直義君) 言論の自由については、ただいまの小野さんのお話しなさる通りでありまして、これは当然認むべきことではありまするが、これは裁判所においても、同時に国民全体の上においても、私はこういう考え方をもっては、言論の自由だからといって、むやみやたらに何でも言ってもいいというわけではない。そこに一つの目安というか、区切りをつけて一つそののりをこえないというような態度にいくべきではないかと思います。それはどういう点をもって基準にするかと申しまするというと、これは単なる私の考えに過ぎませんけれども、いわゆる憲法においても、その他の法規においても非常にうたっておることは、基本的人権ということがいろいろ規定の上に現われておる。またこれと同様に、公共の福祉ということを考えなければならぬ。公共の福祉ということに重点を置いて考えれば、むやみやたらのことは、私は言えぬと思う。いわゆる社会の秩序を乱す、これはすなわち公共の福祉を害するというようなことであって、一々こういう場合はどうだ、こういう場合はどうだということは、私ここで申し上げかねまするけれども、良識ある人、良知に訴えてそうしてこれは公共の福祉に反する、こういうことになると、社会に害毒を流すというような場合においてはこれはとむべきである。言論の自由だから、勝手に何でもかんでも言っていいということではないと思う。これは同様な意味において、裁判所においても大いに重視しなければならぬが、同時に国民全体においてもこういう点に重点を置いて、考慮を払われんことを私は希望するのであります。これ以上私の申し上げることはありません。
  30. 吉田法晴

    ○吉田法晴君 先ほど小野先生から刑訴法四百条に関連をいたしまして、証拠調べもしないで、そして刑の変更を行う、あるいは事実の認定を変更をして刑を重くする、こういうのは四百条の誤りだ、こういうまあ御意見でございました。そこでこれはその点を四百条の誤った運営だということで争うということも、これは三鷹事件ばかりでなくて、いろいろな場合に考えられることだと思うのでありますが、先ほど皆さんの御意見を伺っておりますと、争ってもその点についての解釈最高裁判所の判断による以外にないから、そこで結局法律の改正による以外にないとこういう御意見であったかのように思うのですが、どういうことでございますか。
  31. 小野清一郎

    参考人小野清一郎君) まさにその通りであります。私の解釈するところによれば、刑訴法第四百条は原則としてこの原判決破棄する場合は、差し戻しまたは移送をしなければならないということで、但書きにおいても「控訴裁判所は、訴訟記録並びに原裁判所及び控訴裁判所において取り調べた証拠によって、直ちに判決をすることができるものと認めるときは、被告事件について更に判決をすることができる。」こういうことになっております。すなわち単なる書面審理だけでは、私はいわゆる破棄自判をすることはできないものだとこう解釈しておる。しかしながらさっき私の引用いたしました結果は、これは三鷹事件に始まったことではないのであって、先ほどあげました二つの例のもう一つもありますが、そもそもの始まりはそういう考え方はこれが一番古いのじゃないかと思いますが、昭和二十六年一月十九日第二小法廷判決最高裁判所判例集第五巻第一号刑事四十二ページ、この判決がおそらくは最初のものでありますが、この判決理由の中に右規定には、これはその刑訴第四百条但書きをさしているのであります。右規定にはそれに及びの字句を用いているからといって、控訴裁判所が訴訟記録並びに第一審で取り調べた証拠のみによって直ちに判決することができると認める場合でも、常に新たな証拠を取り調べた上でなければ、いわゆる破棄自判ができない旨を規定しているものと解すべきではなく、むしろ同規定控訴裁判所がみずから新たにかかる取り調べをなすことができ、またこれをなした場合には、それをも判決の資料となすことができる旨を規定したものと解すべきである。こういうふうに、これが最初のものと思うのです。しかしこの場合には第一審の無罪有罪とした判決ではないのでありまして、これは第一審が懲役一年六月、四年間右刑の執行を猶予するという判決であったのを、控訴審被告人懲役八月に処す。ただしこの場合は執行猶予はないですね。それだけのことであったんです。この限りではまだしもがまんができたんです。ところがこの理論を推していったものだから、さっきあげました二つの判決では第一審の無罪を第二審で書面審理だけで有罪にするというようなとんでもないことをして、それをした高等裁判所判決を、最高裁判所判例はそれでいいのだ、こういうことにしているわけです。これはどうも非常な間違いであるということを私は前から言っておるのだが、どうにもしようがない。最高裁判所裁判官諸公はこれを肯定してくれない。それは判例批評だの、それから上告理由に出したのもありますし、相当もまれているのだけれども、なおかつ三鷹判決のごときものが出てきて、今度は無期死刑にしてそれもよろしい、こういうことになれば、どうしても最高裁判所裁判官諸公を信頼しないという気持にもなるかもしれないが、どうもしかし何とも仕方ない、そういう現状であります。決して私は現在の最高裁判所裁判官を信用しないというのではありません。で、さっきも申します通り負担過重に苦しんでいるわけです。それでなるべく口頭弁論を経ないでやろうという気持が先に立っており、それで事件を片づけようとしてきた、そこが事ここに至ったのです。これは非常に深い因縁があるわけなんです。ですから、その情状は大いに酌量しなきゃならぬけれども、理論としては私は絶対に承服できない。これはむしろデュウ・プロセスに反している。こんなことをデュウ・プロセスだといったら、日本の刑事裁判は一体何だと言いたくなる。  ついでにさっきの刑訴規則第二百七十条の第一項但書きのことをもう一度考え直してみました。この但書きは、第一には前に裁判に関係しなかった裁判官判決訂正申立ての裁判に加われないということを明らかにすると同時に、しかしその裁判官が死亡した場合、その他やむを得ない事情がある場合にはこの限りでないというのであって、裁判官が退官したような場合には、今度は後に任命される裁判官判決訂正の申立てを裁判するについて、その裁判に関与できるという意味を含んでいるものと、こう解釈できると思います。さっき申しましたのと結論は違いませんけれども、成文上の根拠をここから、この但書きの字句の中からも引き出せるように思います。それを補充いたしておきます。
  32. 吉田法晴

    ○吉田法晴君 その四百条の問題について、今小野先生からお話がございましたが、他の二人に御意見を承わりたいのですが、これは裏の理由は小野先生からお述べになりました。おそらくそういう理由はありましょうけれども、だれが読んでも、文字を見ますと、「但し、控訴裁判所は、訴訟記録並びに原裁判所及び控訴裁判所において取り調べた証拠によって」……自分で取り調べた証拠によって云々と書いてございますから、自分で取り調べなければならぬということがまあ考えられるわけですが、それを先ほどのような昭和二十七年でしたかから始まって、それは必ずしも自分で取り調べなくても、訴訟記録あるいは原裁判所の取り調べた証拠によってよろしいと、自分で調べるのはまあ補充的と申しますか、補充的に加えてもよろしい、こういう判断を最高裁判所がやっておる、そうして、それが訴訟法上の判例になっているという点については、これはどうすることもできないから法律によるべし、こういうことをお話しになりましたが、ちゃんと法律に書いてあるものを勝手に解釈をして運用するということが許されるならば、これを幾ら改正しても同じことじゃないか、こういう極論も出てくるわけでございますが、おそれ入りますが、これは訴訟法上の問題ではございますが、二先生おいでになります際でございますから、承わりますことができてれば幸いでございます。
  33. 小野清一郎

    参考人小野清一郎君) ちょっと一言。いかに改正してもまた勝手に解釈されてはたまらんということをおっしゃいますけれども、そうじゃないのです。やはり立法措置でこの条文をもっとはっきりと、たとえば事実の認定を変える場合、刑の量定を変える場合には、必ず覆審をしなければならないというふうに書き改めましたら、今までの判例は一変すると思うのです。かつて、旧刑事訴訟法時代上告審における事実の審理というものがありましたね。あの場合には重大な事実の誤認を疑うに足るような顕著な事由があれば、それが原判決破棄理由となって事実審理決定というものをして、それから先は覆審になった、これははっきりそうなんです。もちろん差し戻すことも後には一部改正でできるようになりましたがね。そういうふうな機構にしたら、まさかいかに最高裁判所裁判官諸公といえども、そういう機構を否定することはできませんから、やはり立法措置の必要はあるのです。決して解釈は無限ではございませんと私は思います。
  34. 牧野英一

    参考人牧野英一君) 今のお話しで、「及び」という言葉の解釈、これは私は最高裁判所判決理由の説明に賛成なんです。もし控訴裁判所控訴審において証拠を調べたときには、それをも含めて、こういう意味に違いないのであります。「及び」とあるから証拠調べをしなければならないというふうに言うのは、例の概念法学というか、形式法学の弊害だと思います。けれども、その規定を運用するときには、やはり訴訟法においても、法律論としての信義、誠実の原則というものは動かされない、それをたてにして信義誠実の原則にそむいた判決をしてはいかんので、その規定の適用には、「及び」という言葉に拘泥しないで、もっと実体的な判例が発達してしかるべきだ、もっと実体的な議論で、こういう場合にはこの規定は適用されない、こういうふうに議論をしていくべきであろうと思う。いろいろ今問題になっている、小野君が出された判例とか、今御詮議になっている問題には、明かにその点を考慮すべきであったと思うのに、裁判所はいかにも木で鼻をくくったような態度に出たのは私は残念だと思う。すなわち、社会国民をして納得せしめるだけの理屈になっておらん、こう思うのであります。だから片方において最高裁判所判例を支持し、片方において最高裁判所判例には不十分な点がある、こう思うのであります。これは法律論の問題でございますが、今までは文句からきゅっと攻めていくというのが普通の法律論なんです。私が五十年来となえているのはそういうのじゃないのです。もっと事物の道理に従って法律をやっていく。だから世の中で自由法論と称しているものです。それはいかなる法律にも適用されるのでありまして、これは余談でございますけれども、最近に読みました本では、フランスの行政裁判所で大きな本ができまして、いかに行政法規が出て、行政裁判所判決をしたかということを明らかにしたのに基いてある人が大きな論文を、書物を書いて今問題になっているのです。すなわちこの文句はこう読むよりほかにしようがないのじゃないかと言っていきり立たないで、物の道理に従って文句を理解していかねばならぬ、この方法を私はやかましく言っておるわけであります。それをどうも弁護士の方も、裁判所の方も、少し事物の道理はほおっておいて、法律で許されておればしようがないじゃないか、こういうような議論をするのは……、私はしょっちゅう判例などではその点を支持しているのです。小野君の判例批判、この点はもっともだと思います。ただ「及び」という文字に拘泥するのは、この点は、私がやかましく言わねばならぬという点は、最高裁判所の方がもっともだと私は思っております。それからあとは小野君の言われた通り最高裁判所が今度はそれがいいと、こう言ったものですから、あとは文句だけで何でもやっていい、こう思ったところは、何か少くとも私は見解を異にいたします。
  35. 塚崎直義

    参考人塚崎直義君) 私も同感であります。申し上げることがないのでございますが、いわゆる刑訴四百条の規定によって、一面において訴訟記録と証拠によって控訴審においては判断すれば直ちに裁判できるという規定になっておるのでありますが、それはとにかくものによりけり、事件によりけりであって、私が先ほど申し上げましたような個々の原判決破棄して新らしく裁判をしなければならぬ。刑をもらなければならぬ。そうして刑をもるについては、重くもるという場合においては、必ずこれを覆審的に審理をしなければならない、直接審理をしなければならぬというこの原則を私は徹底していけば非常に私はけっこうだと思いますが、非常におもしろいことは、これにつけ加えて申し上げておきますが、今回の三鷹事件の問題になっておることをちょっと申し上げますが、破棄移送して調べなければならないということを主張しておる七人の判事の顔ぶれを見ると、非常におもしろい現象が現われておる。七人のうちで四人までは弁護士出身の判事という点が非常に私はおもしろいと思う。いわゆる弁護士出身判事、あえて判事出身の人が常識がないというようなことを私は申し上げるわけではありませんが、とにかく社会の裏面をよく心得ておる、すいもあまいも承知しておるという者はやはり弁護士だ。多年の間弁護士をやって、弁護士会においてとにかく練りに練って、そうして同僚から推薦を受けて最高裁判所の判事になった、いわゆる弁護士出身の判事、先ほど来牧野先生がおっしゃるように国民の納得する、納得するということは抽象的なことであって、どうもどの程度のことかわからんようなことでありますが、それを判断し得るのは、要するにやはり弁護士生活を長くやっておるという人において初めてこれはでき得るのであって、七人のうちにおいて四人までは弁護士出身の人である。これは非常におもしろい私は現象であると思うのでありますから、今後法律等を改正もしくは御考慮を願う上において、一つ御一考を願う必要があると思います。七人のうち四人までそうでありまして、この裁判をやり直せ、これじゃいけないということを主張して、そうして破棄差戻、もしくは移送をなすべきものであるということを主張している 私は味わうべきことだと思うのであります。こういうことが事実においては現われているのでありまして、非常におもしろいと私は感じたのであります。
  36. 吉田法晴

    ○吉田法晴君 実はきようこの公述をお願いしますことになりましてから、足らぬ勉強ではございますが、いろいろこの問題について、できるだけ努力をしようといたしましたが、その間に正木ひろし氏の「裁判官」という本を実は読んだわけであります。これは書物というよりも実は訴訟記録なり、それから正木さんの調べられましたその後の被告の陳述その他が中心になっておる。これを読んで非常に感じますことは、先ほど裁判が進行している間にいろいろ意見を述べるということはどうであろう、こういうお話しもございましたけれども、これはこの本が出ました当時は、まだ控訴審が済んで上告審が済んでおらんと、こう了解をしたのであります。ことしの三月に初版が出て、私がお借りをいたしました版が十二版でございます。ずいぶんたくさんの人が読まれた。そういう意味から言いますと、私は無実の罪で死刑に処せられている、一人は。あとは無期であったものが二審で十五年、十二年となっておりますが、ずいぶん考えさせられるものがございます。この具体的の内容についてお尋ねを申し上げるわけではございませんが、先ほどの覆審制度にすべきかどうかという点も、私はこういう間違った事実を、これは本人が刑務所に入ってから、刑に服してからではございますけれども、裁判長をひやかして事実がわからなかったということで、刑に服している被告が、自分の無罪を信じていながら裁判をされたということを笑っている。そういたしますと先ほどの、裁判が終るまでは批判をすべきかどうかという点も、私は国民的な批判にこたえるべきだ。あるいは一審、控訴審と済んだけれども、裁判官も人であるから間違いがやはりある。こういう謙虚な事実として、大へん感銘深く読んだ。多くの人もこれはおもしろいとか何とかということでなく、やはりそういう今の日本の裁判が、公正に行われているかどうか、あるいは国民裁判になっているかどうか。こういう点が、私は国民が相当多数読んでいる原因ではないかと実は考えたのであります。おそらくお読み下すっていると思いますけれども、この点について御意見を承わることができれば仕合せだと思います。  それからもう一つ、これは私どもも見るように進められて、委員会としては全員見ることができませんでしたけれども、「少年死刑囚」という映画を見ました。委員会として見ることができませんでしたが、私はこれらの問題に関連して自分で見に参りました。そうして少年が、これはストーリイでございますけれども、おそらくあのようにやはり多くの少年が死刑に処せられているということは事実だろうと思うのであります。そうして非常に考えさせられました。三鷹事件にいたしましても割りきれないものが残っている。あるいはこういう、山口の事件でございますけれども、人のやる裁判でございますから、公正を期し、あるいは最善の努力をされていると思いますけれども、間違った裁判によって、やはり死刑が行われているという例もあるだろうと思うのであります。そういたしますと、死刑を直ちに廃止すべしということにはならぬかもしれませんけれども、今のやり方でいいだろうか、こういうことを考えますが、間違って死刑にする、死刑にしてあとであれは間違っておったといってもこれは取り返しがつかないことでございますが、あるいは無期にすれば数回の恩赦、特赦等によって十年そこそこで出てくるというあれもございますけれども、命を取るということは、これはもっとやはり考えるべきではなかろうかという感じがいたします。その態様については研究を要するかもしれぬと思いますが、これらの点についてお三方の御意見を承わることができると大へん幸せに存じます。
  37. 牧野英一

    参考人牧野英一君) 今のお話を承わりながら、同時に私の立場も弁明をいたしながら補足をしておきたいと思います。  私は今日の問題で三鷹事件裁判実質的に不当な裁判であったということを申しておるつもりは一切ございません。一応この大きなものは一日がかりで見ましたけれども、実質論をいたすだけの勇気はまだございません。しかしながら今の刑事訴訟法の運転については、先ほどしばしば申します通り裁判官高等常識としていかがかということを考えております。これに対する救済は、よく最高裁判所が信義、誠実の原則をここに適用して、四百条の適用については一応はこの書面審理ができるにしても、しかしながら特殊の場合においてはできないと、こういうふうに判例をだんだん一つ一つに作っていくというのも一つの方法であります。これは今まで一つの問題について何十年間かのうちには判例が百八十度に転回をするということは、どこの国にもあることなのでありまして、それには一歩々々判例が転回していくのであります。それで裁判所がもう一ぺん、たとえば特に小野君があれだけ熱心に論じておられる議論によく耳を傾けて、相当大ざっぱに四百条を適用しないで、もう一ぺんほかに分析をしてやってみる、こういうふうに判例が変わるということが望ましいことであり、一つの方法であると思います。しかしながら裁判官にそれを期待することができなければ、今度は皆さんの手で一つ立法的な改革をしていただきたい。立法的な改革については、すでに法務省においてはそれぞれの機関があるわけで、適当な立案ができ得ることと信じます。しかしながらそれもできないということになれば、先ほど小野君の心配された通り、司法的の方法ではそれはおしまいです。今度は行政権が最後に活動をするということはどこの国でも、従ってわが国の憲法でも認めておるところで、この最後の緊急権というものはほしいままに軽々しく行使せらるべきものではございませんけれども、しかしながらやはり学者が恩赦の制度をもって安全と申しておりますが、最後の安全弁というものもどういう方法でやるか、これは一つ政治家としてお考えを願わねばならぬところであります。   〔理事宮城タマヨ君退席、委員長着席〕 もしそれ最後の死刑論に至りましては、これはまた大いに各方面から議論をしなければならぬことでございますが、私自身は従来死刑廃止論を唱えておるのであります。しかしながら単純に今、今日すぐ死刑を廃止するというようなことではございません。いわゆる死刑論の一般予防というような議論は、今日では左右できないと思いますけれども、しかしながら社会保障の制度がこれに伴っておらぬ限りは、死刑というものは容易に廃止することもできない状況にあるのではないか。従って死刑の場合における社会保障というようなことは、一つ国会等においても御考慮願いたいことと思います。人心は、被害者といえども常に死刑を要求しているのではございません。国家がしむける方法いかんによっては、だんだんに心がやわらいでいくわけでありますので、最近にこの点がイギリスの国会で問題になりましたことをつけ加えておきましょう。二月十日の事件であります。イギリスではさきに死刑を五年間行わないという案が出まして、下院は通過いたしましたけれども、上院は承知しませんでした。今度また再びこの案が出まして、今度は下院でやはり死刑停止を否決しております。記録が参りましたが、その記録をまだ少ししか読んでおりませんので根気よく議事録を読んでみますが、まだイギリスにも一般予防ということを唱えている論者があるのです。内務大臣がイルム・ロイド・ジョージ、あのロイド・ジョージのむすこさんでありますが、やはり自分は在野党のときには死刑に反対したけれども、今当局になってみると、内務大臣としてはまだ死刑は維持するという議論をしているのでありますが、しかし社会保障というものはイギリスが一番発達していると言われているのにかかわらず、同じく社会問題の貧乏と病気については社会保障ができているにかかわらず、犯罪の関係における社会保障、すなわち犯罪をやった者と犯罪の被害者等に対する社会保障ということについては、まだ議論が前途ほど遠しのものがあるように思います。ここに死刑論の要点がありますので、死刑廃止論の何といいますか中心になっているハワード・リーグ、すなわちハワード協会ではそういう意味のことを議論をいたしているのであります。単純に死刑はいいか悪いかというものではなく、広く社会問題全体にわたって、貧乏と病気と犯罪、これに対して社会保障をどうするか、社会保障によってわれわれはいわば無用な残虐な刑罰というものをやめることができるのではないか、こういう議論がだんだん発展しつつあるのでありまして、この点はついででございまするけれども、本件に関連してやはり議員の皆様方の一つ御勘考をお願いいたしたいと思います。
  38. 塚崎直義

    参考人塚崎直義君) もうそのお話しで尽きていると思います。まあ私も死刑廃止ということについては年来これを主張して参って、最高裁判所の判事をいたしております際も、死刑をするかせぬかということについては、判決の上にもちょっとわずかばかり意見を書いておいたのであります。結局これは少数意見通りませんでしたが、この死刑廃止論ということは今さらこと新しく申し上げるまでもなく、現にイタリアにおいて十七世紀のころにミラノという市において銅像のできている有名なベッカリヤが主張して以来、ずい分争われた問題でありますが、今日に至るもなおこれが争われておりながら、なかなか死刑廃止ということが更行されない。もっとも世界のある国の憲法等においては、死刑を廃止している国もありますけれども、まず大多数の国は死刑をなお存続している。死刑は実際、しかし死刑規定はあるけれども、実際において行なっていないという国もまた相当あるのでありまして、これ以上に私申し上げることはありません。まことにこの死刑等が判決として下される場合においては、よほど裁判所においても慎重に、昔ならば沐浴、斎戒、水垢離でもとって御灯をあげて判決するくらいの心がけが必要であると思います。それでないと国民は救われません。一たびこれが死刑に処せられたならば、再び生かすという、救い出すということは、これは絶対に人力をもってはでき得ないことであって、しかして裁判事例をもって見ましても、英国のごときも誤判録というのがありまするが、ずいぶん一審、二審、上告審に至っても間違ったという事例がたくさんあります。日本も同様であります。今日もしかりであります。死刑なんぞということについてはよほどこれは考えて、丁重の上にも丁重に審議を進めて、しかる上に判決を下すべきものであると私は考えておるのであります。
  39. 小野清一郎

    参考人小野清一郎君) 死刑の問題については牧野塚崎先輩の御意見実質的には全く一致しておりまするので、別に申し述べることはありません。ただ、現実の問題としては死刑廃止は今直ちに実現することは不可能であると、こう思っております。
  40. 羽仁五郎

    ○羽仁五郎君 きょう委員会の方から御意見を伺いました事件と関連しまして、一点お三方の御意見を伺いたい問題がございますが、それは自白の問題であります。最近どうもやはりいろいろな裁判の場合に、確実な証拠はつかみにくいというところから、自白を強制的になされたものではなく、任意になされたものである、従って裁判上の証拠となさるということができるというような裁判所の御判断が多いようであります。そういうことになりますと、私はやはり警察なり、特に警察などにおきましては、まだまだいわゆる日本の世界に有名なザ・サード・ディグリーといいますか、そういう拷問の復活というおそるべきものがありはしないかというように考えるのでありますが、折角憲法で自白というものが拷問を導かないような得がたい規定をされておりながら、またその拷問が導き出されるようになっては大へんでございますが、それは立法上どういうふうな問題が指摘されるのでございましょうか。またそれらの点についての御意見を伺いたいというふうにお願いをしたいと存じます。
  41. 小野清一郎

    参考人小野清一郎君) 拷問とかその他自白を強要するような捜査の仕方がいけない、悪いということは、憲法にも、刑事訴訟法にもはっきりと規定してあるのでございますが、実際にはやはり多かれ少かれ自白が強要されるという事実があることはちょっと否定できないと思いますが、これはなんじゃございませんでしょうか、単なる立法措置だけでは、拷問その他自白の強要を全くなくするということはかなり困難で、それは捜査官の教養を高め、また捜査に関する科学的な技術が進んでこなければいけないと思います。そのためには、つまり科学的捜査の方法に相当の費用をかけて、自白を強要しないでも犯罪が立証されるような方法をできるだけ拡大していったらいいんじゃないか、こう思います。なおまた刑事手続の面においても、まあできるだけ自白を強要した疑いのあるような場合には、その証拠能力を否定するというような方向に持っていかなければならぬと思うのです。ところがこれはもういやしくも任意性に疑いがあれば、証拠能力がないことは刑事訴訟法にも明らかに規定しているところなんですが、それが必ずしも、規定されていても、その通りには運用されないというところに悩みがあるのですね、矛盾があるわけです。ということはやはり捜査官にしてみれば、正義感の上から犯罪があれば、それをぜひ何とかしてその証拠をつかまなければならないという、これは当然の職務上の義務でもありますし、その捜査をできるだけたやすくするような方法を考えてやらないと、ただこの法律でもって責め立てても、それだけでは容易に改まらないと思う。しかしこの場合は、何よりもやはりだいぶんよくはなってきておりますけれども、この捜査官、ことに第一線の警察員といいますか、その素質を向上させるということですね、これが何より大事だと私は思っております。
  42. 塚崎直義

    参考人塚崎直義君) ちょっと私から申し上げておきます。結論においては、ただいまの御意見通りでありますが、なかなかこれはむずかしい話であって、今御質問のあった通り、まことに今日の時世においては、最もこれは適切にして、われわれとして考えさせられる問題でありますが、拷問とかあるいは脅迫、誘導の訊問というものは、今日の警官はもちろん、ときとしては検察官においても行うという場合がないとも限らない。ことに警察官においてはこれはあることであって、これはちょうどいい話でありますから、これをかりて、先輩一松氏もおられますから申し上げておきますが、横浜に昭和十年ごろに、神奈川県それから横浜市に起った刑事事件がありました。これは御参考までに申し上げます。あるいは余事にわたるかもしれませんが、一通りお聞き取りになって下さることもまた他日の御参考になると思うのでありますが、約百二十余名でありましたかの被告人が検挙されました。その被告人のうちには著名の人がいる。たとえば元の東京市長である永田氏の弟さんが土木部長であるとか、あるいは横浜市の高級助役がやはり被告の一人であったというようなわけで、知名の士が、それから大会社の重役等、多数の人がそこに引き出されて審理を受けるようなことになったのでありますが、これが非常なる拷問が行われているのであります。この事件の担当弁護人としては、当時東京からやはり被告人と同じように百二、三十名の人が繰り出して、横浜に出かけたのである。もう大先輩の鵜沢総明氏のごときも、またその他の著名の諸君はほとんどこぞって行ったというわけでありますが、その弁護人のうちに、ここにおられる一松老もお出かけになり、私も一緒に出かけた。これが非常なる拷問が行われたのであって、当時の高等検察庁の次席検事をしていた人が関係を……、関係といっても別に拷問したわけじゃありませんが、この事件について考慮を願った一人でありますが、非常な拷問をいたした。拷問をしたのであるが、それが被告人がうんといて、何とかしてその拷問した経過なり検事を告訴してもらいたいということを、私らに申し込んだ。先輩の大元老連中はいまだかつてかような場合に拷問を受けたとか何とか言っても、それは検事局においても何も取り上げやしないし、問題にならぬことだから、やめた方がよろしいと言う。ところがそうはいかぬ、被告人の方でもぜひやってもらいたいというわけで、ここにおられる一松老それから今村力三郎君それから私と、そのほかにもう一名おりまするが、牧田という人がおりまするが、それらの諸君がどうしても徹底的に告訴してやらなければならぬというので、告訴することについて、先ほど申し上げましたように告訴して、後にこの控訴院の、今日は高等検察庁というのでありますが、その当時控訴院の次席検事でありましたが、後にはこれは松坂君といって司法大臣になられた人でありますが、この同君に会って、こうこうこういうわけである、告訴せざるを得ないからぜひよく一つ調べてもらいたいと言った、なかなか了解のある検事でありますがために、よろしいあなた方の言う通りならぜひ調べさせようと言って調べさせた。一ヵ月もしてから後にちょっと来てくれと言うから、同僚を誘うて一松老、そのときは今村君はおらぬと思いますが、三、四人かで出かけて、次席検事の報告を聞くと、諸君が告訴状を出されたので、一応信用したからしてさっそく調べてみた、調べてみたところがどうもその事実があがらぬという、拷問したという事実があがらないから、まあ一つがまんをしてくれというような話でありました。そこで私はそれに対して質問の矢を放ったのであります。一体あなたは調べたというが、どういう調べ方をなさったのであるか、どういう証人を調べたかと言ったところが、松坂君が言うには、実は拷問をしたという警官を調べたところが、警官は一人も拷問したということは言わない。そこで私は警官は被告の立場に立つ人である、その人を調べて私は拷問しましたと言えば、これは直ちに有罪になる。だからそれは自白するわけにはいかない、認めるわけはない、それはよろしく警察においても同じ監房に他の全然関係のない事件の被疑者がずいぶん同居させられるのでありますから、それらを調べたかと言うと、いやそれは調べておらない。それを調べたら必ずその事実があがるのじゃないか。そこでそれらを調べるというと、えらい拷問を受けて、えらい傷を受けたとか、えらい鼻血を出したとかいう、いろいろの事実が現れたのみならず、一緒にいる人には朝晩何かのことで話すついでに、話をしてはいけんことではあるけれども、やはりこういうどうもえらい目にあったというような話もあったろうと思います。また御飯も従来食べておったものが、全然拷問を受けてひどく痛めつけられたがために、全然御飯も食べられぬというような実情もあると思うから、それらのことを調べてもらうということは必要じゃないかと言ったところが、なるほど……と言ったかどうか知りませんが、それでは一つそういうことを調べようということで調べた結果は、ここに一松老は御記憶があると思いますが、拷問があったという事実があって、その結果警官は行政処分、検事のうちでも東京から北海道まで何されたというようなわけで、ことごとくその拷問の事実があがりました。そうしてその結果はどうかというと、百二十何人かの被告人、これがすべて全部無罪になったという事実があります。……全部じゃない、一人か二人残りました、百何十名というのがとにかく無罪になった。一挙にして無罪になったということで、日本における刑事裁判の上において、いまだかってないことであります。それからこれは一松老は関係はないけれども、引き続いて同じような集団放火というような事件があった。やはり百何十名という被告が、これは私が担任してやったのでありますが、これがやはり拷問の結果こういう結論に到達したので、火をつけた人はたった一人であった。集団で方々に火をつけたのにたった一人であったというので、これがことごとく無罪になったというのが生きた事実であります。こういうことでなかなか拷問したというのが、ただ拷問されましたと言っても、証拠があがらぬと思うのであります。その拷問した人を調べてみても、拷問したということを言う人はないので、なかなかこれは証拠というものがあがらない。いわゆる俗語をもって言うならば、泣き寝入りという結果に今日までなっている、まことに残念なことでありますが、さような実例があります。その他東京の地方裁判所において死刑の宣告を受けた者がある。これは名前を言ってもいいですが、要らぬことでありますから申し上げませんが、そういう事件が二つありますが、控訴においてこれが無罪になった、一審では死刑になった。非常な拷問の結果自白させられて、そうして一審において有罪死刑判決を受けた、控訴院において無罪になったという事実が現に二人ある。仙台において一件同様の事件を持っております。さようなことであるが、そこまでいくには、なかなか弁護人の努力というものはひとかたならぬ努力をしている、なかなかもって容易に事実を鮮明することは困難なものでありまして、ただいま小野さんも申されたように、これはなかなか方法がないものであるのでありまして、立法でこれは何してもうまくいくかどうか……。さような場合においてはこれは結局するに私はこう思うのでありますな、検事局が……今日の刑事訴訟法においてはですよ、検事に自白している、検事の自白というものは、警察でうんといじめて自白させる、その自白の証処を今度は裁判所に出すのでありますが、出す前に公判において検事が調べた、こちらは知らぬけれども、検事の方が申請してその証人を調べる、そうすると検事に申し立てたところと全然相違している。全然反対の証言をするというと、検事は直ちに自分が調べた書類ですね、調書を裁判所に提出して、自分が調べたら、自分にはかような自白をしながら、今言うのは実際でたらめです。……とは言わんけれでも、とにかく今言うのははなはだ疑わしいという意味でこれを提出する。そうすると今日の制度のやり方をみると、裁判所は大てい検事の調書を採用して、公判において供述した証言というものはほとんど採用されないという例が至って少い。これはもう一松老もしばしば経験されたことであり、現に私が一緒やっている宇都宮の事件のごときもこの点においてわれわれは泣かされている。一緒にやっている事件である。これはある代議士、名前は申しませんが、ある当選している代議士の事件があるが、そういうようなことであって、なかなかもって……。検事が調べておいて、そうして調書というものは検事の方で握っておって、そうして検事がその証人を証人として裁判所に申請をして、その人を調べるというと、それが調べたときと正反対のことを言う、それは正反対じゃないか、ついてはこの証拠を出しますというので、自分が調べた証人の……この証拠たるや、先ほど申しましたように警察においていじめいじめ、いじめ抜かれて、そうして検事にやむを得ず同じようなことを言ったという、その書類、調書を出して、これを信用してくれ、これを証拠にするというようなことであって、それをまた裁判所においては信用して、直ちに有罪判決を下すといったようなことが、これは実例乏しからぬのであります。まことにこれは嘆かわしいことであって、国民基本的人権というものはこの点においてはなはだしく害せられているように私は私えられるのであります。この点についても有力なる皆さんのお力によって、後日これを一つ改正していただくということを、私は切にお願いいたしている次第であります。
  43. 成瀬幡治

    委員長成瀬幡治君) 牧野先生、御意見ございませんか。
  44. 牧野英一

    参考人牧野英一君) この拷問のことですね、拷問のことはもう実情を、私は世の中を離れておりますから、ただいまの現在の様子は存じませんけれども、とにかく今小野君及び塚崎君のお話のようなことはしょっちゅう耳にいたしております。法規の上から申しますれば、拷問が禁止されているどころの騒ぎではない、りっぱな犯罪なのでございますから、これは法規論を離れて、実際上の問題として御詮議を願うこと、とにかく拷問の許すべからざることは憲法を待たずして明白なことでありまするから……。ただそれだけのお答えができるだけであります。
  45. 一松定吉

    一松定吉君 各般の問題について、それぞれ最高権威者の諸君から詳細に御説明がありましたので、それらの点について私は今さら重複を避けますが、ただ私が三君に意見一つ求めてみたいのは、問題になりましたように、最高裁判所の十五人の裁判官裁判をするということで、すでに昨年には七千件という多数の事件が停滞しておった。それを今小野弁護士のお話しになったように、いろんな簡便な方法によって四千件くらいに今事件を減らしておる。しかしその減らしておるその減らし方は、国民が喜ぶような減らし力ではなかった。私はこの四千件のまだ停滞しておる事件のあるのを、今案は非常にわれわれは人権擁護の建前からして、何とかしてこれを是正しなければならぬと在野法曹として考えておると同時に、立法府にあるわれわれの立場上からも、これを大いに考慮して、これ是正する方法を講じなければならない。その点について一つ三君の具体的の方法、こういうようなふうにしたらば事件もだんだん減るだろう、そうしてりっぱな裁判を期待することができるだろうというような、具体的な方法があれば、それを一つここでお示しを願えれば、われわれが立法の上において非常に参考になろうと思うのであります。私自身には具体的の事実はありますが、それは私自身の考えであるが、他の権威者の諸君から話を聞くということは、立法府におるわれわれの重大な参考になろうと思いますから、これを一つ遠慮なく御意見をお述べいただいて、小野弁護士からは十五人を三十人にして云々というような一端を漏らされましたが、もう少しこれは具体的に、こういうようにすれば事件が減るだろう、そうして国民最高裁判所裁判に対して信頼を高めるだろうというような、具体的な方法を三君から承われれば仕合せであると考えます。
  46. 小野清一郎

    参考人小野清一郎君) 具体的な案と申しましても、そう即効薬のようなものの持ち合せのないことはまことに遺憾でございますが、事件解決が遅延するということは、最高裁だけに限らぬのでございます。第一審から第二審、第三審と、非常に訴訟が、まあ刑事もそうですが、民事なんかは明らかに権利のあるものでも、その権利をいよいよ確定判決によって実行するというまでには、大へんな時間がかかり、費用がかかり、それでもって結局勝訴はしても、もはや執行までいっても、何にも取れないというような場合もあるので、この裁判を何とかして迅速に、かつ迅速であるだけでは困るので、適正な裁判が行われるようにありたいということは、これは万人の望むところでありますけれども、これを一挙に、何か一つの方法ですべてを解決するということは、おそらく不可能であろうかと思います。漸次いろんな方法でこれを救済して、迅速かつ公正な裁判が行われるようにしたいと思うのでありますが、まず第一に、私はやはりこの審級制度というものが、あまり重複してはいけないということは、これはまあ私昔からそう考えております。それで、その意味ではできるだけ第一審を強化して、この第一審の裁判で納得がきるようであれば、自然控訴し、上告して争うということも少くなると思いますので、何と言っても、どこか納得のできないところがある場合に控訴し、また上告を申し立てると、こういうことになるように思いますので、それで第一審の強化の方法については、少くとも刑事について先ほど申し述べました広い意味の陪審制でありますけれども、ドイツの参審裁判所制度が参考になるということを申し上げました。次に、しかしいかに第一審が合議制になっても、なおかつ第一審でぜひ満足しろということは、これは人間の裁判である以上は、それはそういうことを言っても無理でありますから、控訴審、ことに刑事控訴審は第一審が強化されるならば、先ほど申しましたように、事後審でけっこうである。しかしながら、この事実の取り調べというものによって、第一審の裁判が必ずしも適正でなかった場合には、これを救済する方法もむろん講じなければならない。また法令の適用に誤まりがあったような場合には、これを正すということも必要でございます。そうして上告審は、自然に、事件が、第一審が強化され、控訴審においてある程度事実の取り調べが行われるようになれば、上告率というものがずっと減少してくるのじゃないか。御承知でございましょうが、日本の控訴率、上告率というものは、外国に比較して非常に高いんでございますね。これは国民が、何でもかんでもみだりに上訴をする癖があるというふうに考えられる向きもありますけれども、これは必ずしも日本の国民性が乱上訴するようにできているなんて、そんなことはないと思うのです。やはり第一審、第二審がすっきりとして、納得ができれば、上告までして争うということは、まあ第一、時間と費用の点からいって両方の当事者にとってむだなことでありますから、自然上告するものも少くなる。しかしそれにしても現在のよりは、ずっと上告率が少くなると思いますけれども、それでも十五人の裁判官構成する最高裁判所で、すべての上告をさばくなどということは、これは非常に無理だと思います。これはアメリカのシュープリーム・コート、最高裁判所といっても、フェデラルの、連邦の最高裁判所を主に模倣したものだと思うのですが、その連邦の最高裁判所はもっとずっと人員が少く、たしか九人であります。ところがアメリカは、もちろん日本とは人口も違いますけれども、約二倍だったかと思いますが、各州にシュープリーム・コートがあるのです。ですからアメリカ全国では四十幾つの最高裁判所がある。そのほかユナイテット・ステーツの、連邦の裁判所があるのですから、ただその連邦の最高裁判所一つあればたくさんだというような考え方は、全然お話にならない模倣の仕方なんですね。ですから私はやはり最高裁判所を、少くとも現在の二倍、まあ元の大審院判事は、四十七、八人まであったと思いますが、愼補まで入れればもっとあったこともあるかもしれません。少くとも三十人まで増員して、そうして民事刑事それぞれ大体今の裁判官任命の方法が私どうかと思うのですけれども、初めには選考委員会を設けてやったんです。これにもいろいろ弊害があったかもしれないけれども、行政権がぽっと任命する方法、あれは私はいけないと思う。やはり朝野の権威ある法曹に少くとも諮問して適当な人物を、ことに裁判官でないまでも永年法律事務に経験のある人を起用するようにしないと、私はにわかに民事刑事裁判、しかもその最後の裁判をするというような資格は、そう簡単に大学教授が行政官からは無理だと思うのです。にわかに判決を書けと言ったって書けるはずがない。もちろんそういう方々は大抵えらい人ですから勉強をして、多年その法律事務を取り扱った人以上に一、二年のうちには勉強をされるようでありますけれども、少くともその最初においては非常に苦労されるだろうと思います。その社会的な常識というか、良識というようなものは大いに買わなければなりませんが、それにしても法曹としての経験を重視して任用しなければならん。で、その選考に当っては専門家に、一つ委員会というようなものを設けて、それに諮問することが大事だと思うのですが、やはり法律の専門家でも民事刑事それぞれ得意の人がありますから、やはり小法廷を現在のように三つに限って、それが民事刑事もやるというのは、これは非常に悪制度である。やはり民事小法廷刑事小法廷と、事件が複雑になればなるほど、専門化するのはこれは当りまえなんですから、そういうふうにして、やや刑事の方が事件も多いのですから刑事は四法廷民事が三法廷くらいにして迅速かつ適正に事件解決するようにしていただきたい、違憲審査ということになったら大法廷でゆく。しかしその大法廷も現在のように十五人が議論をしては、現在もう内部において弱り抜いておるのです。私は直接、間接によく知っている。だからこれは七人くらいに限定して、せいぜい九人ですね、限定して、そのかわり責任を持ってじっくりと考えてもらうということにしたらよろしい、こういうようにいろいろな点で制度機構、あらゆる点を改正して、一挙に事件渋滞をなくするということはできないにしても、機構の改革ということは確かに必要なんです。それと同時に国民の方でもできるだけ裁判に協力をして、いわゆる乱上訴というようなことは戒める。また乱上訴というのはひっきょう理由のない上訴をするということでしょう。これはさっき牧野先生もお話しになったように、確かに上告理由なるものを読んでいる間に、こんなことで上告しなくてもいいだろうと思うのが、しかも判例集に発表された中にもあることはこれは否定できない。なおさら発表されない上告趣旨書にはたくさんそういうものがあることはこれはもう明かであります。だからそういうことは在野の法曹も大いに自粛すべきであって、初めから理由のないことの明かな上告趣旨書なんぞは書かないという建前、そのくらいの職業的な良心というか、弁護士としてのモラルを守るべきだと私は思っております。そうして朝野協力したならば、もっと迅速でかつ適正な裁判が行われるようになりはしないか、こういう希望を私は持っているわけでございます。
  47. 塚崎直義

    参考人塚崎直義君) 御質問にお答えいたします。私の考えといたしましては、まず第一に、第一審の判事に練達の士をあてられるということが必要であると思うのであります。特に裁判の運用の上において経験ある、りっぱな手腕のある人、いわゆる練達の士をこれにあてていく。ところが、今日の実情におきましては遺憾ながらこれがまだ実行されておらん。よほど最近に至って練達の士を第一線に立たせるようでございますけれども、これは一時はひどかった。もう地方裁判所の判事というと、どちらかというとあまりいい人は行かない。ときには例外はございましたけれども、大体において練達の士は少かった。最近においてなるべく練達の士をあてるというようなわけであるけれども、いかんせん、やはり人間というものは面目というか何というか、地方裁判所の判事ということになると、高等裁判所の部長をしておった人が地方裁判所に行くことになると、下に落されたような気がする。これがいわゆる従来の因習の上からもってみまして、高等裁判所の方が地方裁判所よりは判事が上である、でき物がいるというような考え方からして、どうも一審の判事に練達の士が行くことをちゅうちょするのであります。これをまずやめなければいかんのであって、その方法としては、皆さんしかるべく考えていただきたいのであるが、はなはだ何のような話になりますが、地位を上げるとか、いわゆる月給を上げるとか何とか、月給ばかりで人は動きませんけれども、何とかそこにいい考え方をもって練達の士を第一線にあてられたいということ、そういうことによってみまして、それが実現される上においては、第一審において大てい事件が片づくということになりはしないかということにも考えられるのであります。  それから第二には、やはり私は控訴審は覆審にしなければいけない。今日のように事後審というものをもってやるというもとは、どうも私としては賛成ができ得ないのでありまして、しかしながらこれが事後審でなければいかんということの議論もありましょう。しかし、覆審の場合においても、全部これは覆審にするということになると、大へん手数がかかり、時間を要するというような反対議論が出るとするならば、この場合においては、先ほどのようなことの場合、いわゆる新しく破棄するにしても重く罰するというような場合は、やはり事実審理をしなければならんとか、いろいろな考え方が出て参りましょう。三年以上の刑期のものは、しかして自白しておらない場合、こういうものに対しては、ことごとく覆審で事実を調べるというような制度にするとか、この制度のやり方はいろいろありましょう、皆さんのすぐれたおつむをもっていろいろ御研究をいただきたいのでありますが、そういうような方法をもってするならば、やはり不平が救われる、不平をいう被告人考え方が救われるのであります。従ってその結果はどうであるかというと、最高裁判所において調べるところの事件が少くなるということになるのではなかろうか、かように私は考えるのでありまして、やはり裁判というものはでき得べくんば被告人を呼び出して、面前にこれを見て、何か意見があれば意見を出し、陳述をいたすべきことがあれば遺憾なく陳述しろ、そうして防禦の方法を尽させる。これを端的に言うなれば血の通う裁判、これが必要なんです。血の通うがごとき裁判でなければ、私は国民は納得せんと思う、これを呼んで一々聞いてやるのが血の通う裁判、血の通うようなやり方をいたしていくならば、それにはすなわち覆審の方法をもってやる、事実審理として事実を調べてやる、お前は一審において判決を受けておるけれども、これに対する不服はどういう点であるかということ、これを一々丁寧に聞いてやるということが必要であります。そうすれば控訴審においてあれだけ丁寧に調べて下さったにかかわらず、なおかつ、いかぬと言うならば、これはすなわち天なり命なりであってやむを得ない。これはもう神に見捨てられておるのだから、やむを得ないというような気にならぬとも限らぬ。そこまでいかなければうそであると私は思う。従って血の通う裁判を切望してやまない。もう一度繰り返して他の言葉をもって言うならば、基本的人権を害しないように一つ努力してやっていくならば、上告をやるというようなことは、よほど少くなるのじゃないかというふうに私は考えるのであります。
  48. 牧野英一

    参考人牧野英一君) 繰り返しますけれども、司法の実務に通じておらぬ私でございますから、特別な体験はございません。ただ憲法の改正案の審議のときには、貴族院でその一人として働きました関係から、当時一体司法権はどうするかということについていろいろお話しをしました。憲法では、アメリカのフェデラルのシューブリーム・コートにならわねばならぬということはないのです。ただ最高裁判所という制度があるだけでございます。そうしてアメリカでは十人、また日本なら十五人の人がそろって裁判をしなければならぬということもないのでございまして、結局あとは裁判所法の問題になるわけであります。しかしながら裁判所法ができ上るのには、やはり一種の当時の政治上の情勢が関係をしておったのであろうと思いますが、その従来の裁判制度について、われわれは一体どういう機構の上で不平を持っておったかということを考え直して、それをどう改めたらいいかといったふうな考え一つの方法じゃないか。何も今にわかにアメリカの制度をまねしなければならぬということもなし、またアメリカのフェデラルの最高裁判所は、どういうわけでああいう制度ができておるかという、政治上、歴史上の関係を無視して、そうしてそのまま持ってくるということは、方法としてはなはだ適切なものじゃないという議論は、その当時においてすでにしてきたのであります。今日でもそうでありまして、私自身率直に申しますれば、先ほど控訴審はやはり覆審の方がいい。覆審を要しない場合があるとすれば、こういう場合には覆審をしなくてもよろしいということを、例外として書けばよろしいと思います。しかしながらぜひ今日の事後審の制度を維持しなければならぬということになりますれば、事後審は原則だけれども、こういう場合には覆審の方法によると改めるのも一つの方法でしょう。最高裁判所に至っては、一体従来の大審院というものがそんなに不信用なものであったかどうか、これを私は問題にしたいと思います。むろん大審院に対する批評というものは、私も年来長く続けましたけれども、しかしそれは大審院に対する権威を予定してのことでございまして、初めから大審院を不信用なものとして取り扱ったことは私はありませんでした。実際世の中でも大審院というものを相当に尊敬しておったと思いまするので、今日の最高裁判所がそれ以上の尊敬をかち得ておるかどうかということが問題でないか、こう思うのです。むしろ昔の大審院に立ち返って、あの制度事件をさばいていくようにする方がよかろうと思いますが、もしそれは困る、現行のこういう制度ができた以上はということであるならば、現在の裁判所法を改める方をしなければならぬでしょう。われわれは一体フランス、ドイツ、大陸の方の制度をもう明治二十年来から長らく受け継いでやっておりますので、そうしてそのドイツなりフランス、ことにドイツの裁判所制度を見まするというと、その最高裁判所制度でも、やはり従来の通り部に分れて仕事をいたしておりまする。そうして今日りっぱな成績をあげておりまするので、特にアメリカ風に改正しなければならぬというようなことはドイツではないのじゃないか、こう思っております。ドイツ人もフランス人も、しきりとアメリカの制度を研究するといっていろいろ論文を書いております。それは見ましたけれども、フランスの大審院制度を、ドイツのブンデス・ゲリヒトという制度でありますが、それを特に改めようとしているものとは考えません。われわれももう一ぺん昔の控訴院、昔の大審院に立ち返って、どこが悪かったかということを考え直して、改めたらどうでございましょうか。そうすれば相当にうまく運転がつくのじゃないか。むろん昔の大審院も相当に時間がかかりましたから、これは何とか工夫をしなければなりませんけれども、それをやめて、今日の制度にしたがために、ますます困っておるのであります。これはやはり昔の制度がいいのである。われわれの国民性に何十年かなじんでおったのであります。それはわが国の制度ばかりではない。民法、刑法その他の法律がヨーロッパの大陸流であるのですから、それに関連して、わが国の裁判制度も大陸流でやっている、それでいいであろう、これはメソードの議論である、私はそういうふうに考えております。そうして今日の制度といえども、私が最高裁判所判例を根気よく勉強しながら思いますのに、これらの諸君の皆友人でありますが、誠意を疑うということはありませんけれども、どうもこういう判決の文句を、少くともある場合においては車夫馬丁のごとき文句を書いているじゃないかという批評の起ったことも御承知の通り、これは顕著な事実であります。やはり最高裁判所の判事諸君の方でも、機構機構と言わないで、何らか少し考えていただく余地もないであろうか。しかし今の十五人でさばいていくということは無理でしょう。やはり部に分けて裁判をするということにするのがいいのであろうと、ひそかに思っておる程度であります。しかし私はこういう問題は、ふだん身を入れて研究はいたしておりませんから、ここではただ日常考えておるだけのことを申し上げる程度であります。
  49. 一松定吉

    一松定吉君 今の問題は、よく三君の御意見はわかりました。そこで最後にこれはもう五分間くらいでお答え願えると思いますが、裁判官の法服ですね。弁護士裁判官、検事は法服を着用して法廷の威厳を保ったが、近ごろはまるで上着を脱いで、ワイシャツで法廷に出たりするようなことをしている、実に見るに見られぬ。あれでは裁判の威信というものを尊重することはできないということを国民一般も考えている。この点について、一つごく簡単に、両君は弁護士であるし、牧野先生は第三者の立場から御批評を願えばけっこうだと思います。それで私どもはもう御質問もありません。
  50. 小野清一郎

    参考人小野清一郎君) 現在でも裁判官に関する限り、法服が定められておりますから、あれはぜひ着用していただきたいと思っております。法廷の威厳ということは、やはり大事なことだと思います。もしワイシャツ等で裁判官の席に着く判事があったら、それは摘発をしてその非を鳴らすべきだと思います。
  51. 牧野英一

    参考人牧野英一君) 私も同感です。現に証人として二、三度呼び出されましたが、いかにも法廷がだらしがない。
  52. 塚崎直義

    参考人塚崎直義君) これは実はこういうことになりますが、皆さん、私としても体験したことでありますが、法服はやはり私は用いた方がいいと思うのであります。フランスにも参ってみましたが、なかなか異様なちょっと変った法服を着ております。帽子なんかもちょっと変ったものをつけております。日本においても御案内のように、ひとり裁判官だけでなく、検事、検察官、弁護人もこれを着用しなくちゃならぬ、戦後において裁判官だけが用いて、そうして弁護士並びに検事が用いんことになったという理由は、ちょうど私は在官中でよく心得ておりますが、後日一つきめたいというのでそのままになっておるのでありまして、あえてその際検事、弁護士には法服を着させんようにしようという意見はあったわけではない、これはよく研究して弁護士や検事にも着させなければならない。これは検事、弁護士についての法服をきめることは、最高裁判所権限に属するような一応規定になっておるようでございますが、そういうようなわけでありまして、今日までこれを用いなかったというのは、当時昭和二十二年ごろ、いわゆる最高裁判所が出発した当時は、物資がなかったのでありまして、なかなか手拭一本買うということも容易でなかった時代でありましょう。旅行をしても、手拭などは買うわけにいかんという時代でありまして、法服を作るのには相当の金を要するというので、そのままになっておるのでありますが、しかしそれはとにかくとして、今日の実情からもってみまするというと、やはり私は法服を着る方がいいのではないかということを今日考えるのでありまして、その理由ははなはだ申してよろしいかどうか存じませんが、法廷において検事もワイシャツ一つ弁護士もワイシャツ一つ、こういう暑いときになると、そういうことが法廷にもちょいちょい見受けられるのであって、これはどうも私は法廷の威信というのははなはだしく害せられるように思うのであります。やはり法服を用いて、法服はどういう法服を用いるかということは、これはよく研究を願いたいが、用いた方がいいのではないかというように考えます。  それからもう一つ、ここに御考慮願わなければならぬのは、法服を着て証人に伺って尋問をいたしますのと、法服でない簡単な服を着まして尋問をするのと、証人に及ぼす私は影響がかなりあるのではないかというふうな気がいたします。こちらが威容を正して質問をすると同様に、また証人をしてもえりを正して答えるというようなことに、そこまではいかんでもそういうような気持になるのではないか。そうするというと、真実発見の上にも影響があるのであって、うそは言えぬということに宣誓もしているし、弁護人の今の態度を見ても、これはほんとうのことを言わなければいかんという気持になるのではないか、そういうことが全部であるとは言いませんけれども、そういうことがあるのではないかというふうに私は感じますから、法服着用についてはこれは私個人の意見であるのでありますが、着用すべきものであるというふうに考えます。
  53. 成瀬幡治

    委員長成瀬幡治君) 参考人の方々には長時間にわたり、有益な御意見の御開陳をいただきまして、まことにどうもありがとうございました。ちょっと速記をとめて下さい。   〔速記中止〕
  54. 成瀬幡治

    委員長成瀬幡治君) 速記を始めて下さい。別に御発言もなければ、本日の委員会はこれをもって散会いたします。    午後四時五十五分散会