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参考人(
塚本寿一君) お
ふたりの方からの
お話で大体尽きている
ような
感じで、私申し上げることはないのでありますが、なるべく重複を避けて、ただ私が
政治記者でございますので、
一つ政治問題、社会問題、経済問題になっている、今
政治問題としても大きく
考えなきゃならない段階に入っていると、か
ように
考えますので、私はそういった角度から見たところを申し上げてみたいと存じます。
私も実は非常に不調法で、こういった問題についてはやったこともございませんし、
競輪に限らず、
賭けごとはともかく、そういうことはきらいな方でやりませんので、実体に触れた観察ができないかもしれませんけれ
ども、しかしそういった
政治問題として扱った場合、これは大いに真剣に
考えております、重大問題として……。いろいろ情報を収集しておるわけでございます。さ
ようなわけで、この根本的な問題としては、お
ふたりの
お話の
通り、これはない方がいいにきまっていることだと私は思います。しかしこれは
法律を作る場合と、それから改正をする場合と、この二つの角度から
考えてみたいと思いまして、これから新しく今の段階で作るという場合は、私は根本的に
反対を申し上げなければならぬと思うのでありますが、ここに改正論を取り扱う場合には、
最初の根本法ができました当時の事情等も
考え合わせまして、それからそれによって起る社会的影響等も
考え合わせまして結論を出さなければならぬと
考えまして、いろいろまあ
考えておるわけでありますが、そういった意味においては、私は非常に大局的な見解に立って判断を下さなければならぬという大まかな結論を持っております。つまりこの今の
競輪の悪いという評判を受けているところが何に
原因しているかというと、結局のところ、
人間性の弱点でもってそれをことさらに悪用するということ、端的に言えば、八百長問題だとか、何とかいう点が非常に
新聞なんかに扱われる。従ってその
原因が、結局は
競輪があるからということになりますし、また先ほど
船田さんのおっしゃった
ように、
家庭不和の
原因もそういうところにあるというふうな、結局根本法を制定したときの
地方財政の充実という観点と、それから
自転車業の奨励という
ような点の
目的の点からはずれた
方向の方の、派生的な問題の方が非常に大きな問題となって、今日賛否両論が非常に激しくなり、むしろ賛否というよりも、否定的な
方面に向っていると思うのでありまして、この点を
一つ根本に振り返って
考えてみたいと思います。
あの当時は、たしか各政党の共同提案になってできたと
承知しておりますが、そういった
ような
状態のものを今日改正して、まあ改正して存続するのがいいかどうかという問題になっておりますが、この点で第一に、
競輪というものが大衆娯楽の中の範疇に入れていい問題かどうかという点になりますというと、そういったいろいろ社会不安を起しております点を是正して行けば、今の段階では大衆娯楽のある線に沿うている
ような点も
見える。それですから大衆娯楽が云々という点から言えば、根本的にいろいろ悪い点をとって、そして
最初の
目的の
地方財政と
自転車業の
振興という点の
目的を達成する
一つの
方法として、あるときまでこれを認めるということも、今の段階ではやはり
考えられる筋だろうと思うのであります。しかし、この不道徳な行為をどうしても改善する余地がないか、こういうふうによい面、悪い面のバランスを見て参りますときには、私はこれは運営の
方法によっては改善し得るという
一つの
考え方を持っておるものでございます。
ところで、この今申し上げた
ような
一つの娯楽機関として認めるかどうかという点は、
パチンコの問題がこれまた全面禁止という話が先ごろ
一つの
政治問題として取扱われましたときにも、これを全部中止したならば、結局まあ大衆の娯楽としておるものがやみにひそんで行く、結局なお悪い
ような、社会的害悪を流す
ような事態がかもし出されはせぬかということを
お話しになって、今の
ような悪い点は直すけれ
ども、まあまあ認め
ようというふうになった
ように私も
承知しておりますし、私もこれは一理あるというふうに
考えておるものでございます。従ってその
考え方が、この
競輪の問題にも、なるたけ早い機会に根本的な
考え方を案出して、そして取り除きたいという
気持ではありますけれ
ども、現在の段階において、いわゆる大衆娯楽の線がいかにもこの今の過渡的な社会現象、
政治現象の間にあっては、これを急激にやめた場合にどういうことになるかという
ようなことも
政治的に
考えられるわけでありまして、非常に甘い
考えでありますけれ
ども、これは
一つのやはり
考え方の根本に触れることじゃないかと、か
ように
考えるわけでございます。要するに、この今
批判の対象になっておりますことが、これが主催者、あるいはいわゆるファン、または選手という
ようなものが、
ほんとうにこれは大衆娯楽としての線に沿う
ように
努力するということになれば、これはその
目的を達し得るのじゃないかと、か
ように
考えるわけでございます。それで、私個人のこの全廃か、改善かという線は、大体今述べましたことでもっておわかり願ったと思うのでございますけれ
ども、されば、現状よりももっとふやしてもいいかという
ようなことになりますと、これは
最初に申し上げました
通り、理想的な形態としてはこれを下げなきゃならぬ立場でありますから、現状よりはふやす必要は絶対にないという
考え方でございます。
それからちょっと具体的の例となって、平日開催禁止云々という
ようなこと、つまり存続の意味からのみ入った問題でございますけれ
ども、これは非常に形式論でないかという
ようなことを
考えるわけなんで、大体日曜とか、祭日という点は、これは大多数の者が休むということにきまっておりますけれ
ども、最近の生産
状況、いろいろな観点から見ては、日曜、祭日、平日というものの、休日という観点からは、これは一がいにきめつけることはできないと思います。月曜、祭日だというので、その日に限ってやると言えば、休日出勤の者のいわゆる大衆娯楽的な価値というもの、これはできなくなる
ような立場になりますので、そういった意味の日にちでもって制限するという
ようなことは、私はかなり形式的な点じゃないか。だからむしろ主催者側で、金の入る点が少いとか、多いとかいうので御判定もある
ようでありますけれ
ども、これはファンの方でも、また主催者の方でも、また選手の方でも、三者一体になって
考えるべき問題だろうと思います。
それで結論的に申しますと、私はそういう立法の場合と改正の場合という点については、非常になまぬるい
考えではありますけれ
ども、徹底的に悪い点を改善して、そうしてこの全廃した場合の社会的影響というものを合わせ
考えて、そうしてこの改善案を立てて進めて行くというふうなことを
考えるわけでございます。と同時に、国会の御決議に対する私の希望でございますが、こういった国の各種の時事、社会問題、経済問題、ことに
政治問題となっている場合の結論を出す場合、賛成、
反対というのは、私は賛否をはっきり言うことは割合に簡単なことじゃないかと思うのでございますが、その結論を出します場合の
反対も賛成も、大体最大公約数というものは打ち出せるものじゃないか。たとえば廃止するにしましても、これを存続するにいたしましても、国会で御決議になったものに、賛成論者は非常に不満かも知れない、あるいは
反対の者から言えば不満かも知れないけれ
ども、しかし最大公約数を打ち出された結論が、この問題に対する最後的な結論だということが
一般国民に対して出た場合には、その影響というものが比較的少くて済むのじゃないかという
ような
気持がいたします。
もう
一つ、娯楽というものの
考え方について、消極的に悪い面をのみ打出す、勿論悪いことはしちゃいけないのですけれ
ども、これがある程度許さるべき
状態における問題を、おとなの問題とし、また青少年の問題、あるいは児童の問題として
考える場合に、これはおとなだからやるものだ、これは
子供だからやるものだというふうに、
一つの何と言いますか、昔の
言葉で言えば死守という
考え方も積極的に
考えてもいいのじゃないかという
ようなことも関連して
考えられるわけなんです。実は私
新聞を編集いたしておりますと、それは大きなニュースとして扱われる社会的罪悪の問題は、それはそうしょっちゅうある問題ではないので、
全国のうちで異例の問題を扱うわけなんですが、それによって及ぼす影響というものは大きいわけで、それをのっけないというか、のっけないよりも、むしろそれをのっけて、それに対するいましめとするという傾向が
終戦後のいわゆる
新聞のあり方、ジャーナリズムのあり方になっておりますために、こういう事実があったならば、たとえば
競輪場でいろいな事件があった。これはおとなとしてみっともない問題だという
ようなことに関連して、
一つの教育の仕方というものもあり得るわけなんで、実にちょっと
考えますと、そんなことがあり得るという問題でありますが、
政治の実態というものは、今理想を目指しながら、理想に近づける過程における現在において、非常にある意味の過渡的な、何と申しますか、進め方をしなければならぬことも
考えられるわけでございまして、私はこの法案に対しましては、「当分の間」ということを、なるべく最短期限に短縮して、しかも過渡的な、先ほ
ども大蔵さんが申された
ような、
自転車の発達等に、あるいは
地方財政の見地に立って
考える
一つの
方法としてのまあやむを得ざるものとみて、改善方策を徹底的に打ち立てていただきたいということをお願いして、そうしてこの大衆娯楽の健全な
一つの範疇というものも打ち立てる
一つの
考え方の資料としてみたいと、か
ように
考えるわけであります。