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1955-05-12 第22回国会 参議院 社会労働委員会 第5号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十年五月十二日(木曜日)    午前十時二十九分開会     —————————————  出席者は左の通り。    委員長     小林 英三君    理事            加藤 武徳君            常岡 一郎君            竹中 勝男君            山下 義信君    委員            榊原  亨君            高野 一夫君            松岡 平市君            横山 フク君            高良 とみ君            森田 義衞君            阿具根 登君            相馬 助治君            有馬 英二君            長谷部廣子君   政府委員    厚生政務次官  紅露 みつ君    厚生省引揚援護    局長      田辺 繁雄君   事務局側    常任委員会専門    員       草間 弘司君    常任委員会専門    員       多田 仁己君    常任委員会専門    員       磯部  巌君    常任委員会専門    員       高戸義太郎君   説明員    外務省アジア局    第二課長    小川平四郎君   参考人    中共地区引揚者 鹿養 徳一君    同       浜野 満雄君    同       大隅 策夫君    同       丸田美佐子君    ソ連地区引揚者 藤田 了俊君    同       富永 恭次君    同       福田 雍喜君    同       山本 藤平君    同       赤羽 文子君    在ソ同胞留守家    族会委員    小畑 富子君     —————————————   本日の会議に付した案件 ○社会保障制度に関する調査の件  (紫雲丸遭難に関する件)  (引揚促進及び援護対策に関する  件) ○委員派遣承認要求に関する件     —————————————
  2. 小林英三

    委員長小林英三君) これより委員会を開会いたします。  この際、お諮りいたしたいと思いますが、去る五月十一日早朝、高松の港外におきまして起りました連絡船紫雲丸遭難事故状況につきまして、厚生省当局から報告いたしたいとのことでございますので、これを聴取することに御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 小林英三

    委員長小林英三君) 御異議がないと認めます。  それでは厚生省当局の御報告を願います。
  4. 紅露みつ

    政府委員紅露みつ君) 紫雲丸遭難者に対する救助対策につきまして、厚生省の御報告を申し上げたいと思います。  今次の紫雲丸衝突事件におきまする被害状況につきましては、現在までに判明した数字を別途お配りいたしましたが、このように多数の遭難者を出しましたことは、まことに遺憾にたえないところであり、不幸犠牲となられた方々に対しましては、心から哀悼の意を表するものでございます。  厚生省におきましては、昨朝直ちに係官を現地派遣するとともに、香川当局に対しまして、現地国鉄当局とも十分連絡の上救助の万全を期するように指示いたしましたが、別に中央災害救助対策協議会事務局からも国鉄当局に対しまして、罹災者救助に遺憾のないよう申し入れを行なったのでございます。  本件につきましては、水難救護法によりまして、遭難者救助が行われるものでございますが、さらに万全を期しまして、香川県におきましては、災害救助法を発動することに決しまして、直ちに救出者高松市内の体育館、小学校等に収容するとともに、延約六百名に対しまして、たき出しを実施したほか、被服とか日用品を支給いたしました。また、日赤、医師会の協力を得まして、三個班の医療班を編成いたしまして、負傷者救護に当っております。  以上大へん簡単でございますが、現在までに実施いたしました救助の概要を御報告させていただきました。     —————————————
  5. 小林英三

    委員長小林英三君) 次は、委員派遣承認要求に関する件を議題といたします。  来たる五月十八日から三重県下におきまして、開催予定全国児童福祉大会委員派遣して、状況を調査して、児童福祉対策に資したいと存じます。その数は三人といたしまして、人選、派遣の期間及び手続等委員長に御一任願いたいと思いますが、御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  6. 小林英三

    委員長小林英三君) 御異議ないと認めます。  よって委員派遣することとし、議長あて委員派遣承認要求書を提出することにいたしたいと存じます。     —————————————
  7. 小林英三

    委員長小林英三君) 次に、引き揚げ促進及び援護対策に関する件を議題といたします。  本問題に関連いたしまして、本日は去る三月末中共地区から引き揚げられました方々及び四月中旬ソ連地区から引き揚げられました方々代表の方と、在ソ同邦留守家族代表おいでを願いまして、おのおのの立場からおわかりになっております点及び事情等をお伺いいたしまして、今後の参考に資したいと存じまして、先回の委員会の決定に基きまして、参考人として御出席を願っております。人員の都合上、午前中は中共地区引揚者から御意見を伺い、質疑をいたしました後に、午後はソ連地区からの引揚者その他の方から意見を伺って質疑する予定にいたしております。  なお、この機会に申し上げたいと思いますが、先日の委員会におきまして、相馬委員から御発言がございました件、すなわち参考人から意見聴取の際に、発言を差し控えるべき事項、つまり禁句に関することでございますが、私は委員会審議におきましては、もしろ公正な立場から自由に質疑応答が行われまして、こういう機会によい面、あるいは悪い面が明らかにされる方がむしろ望ましいように考えるのありまして、また新聞報道関係におかれましても、一方に偏するようなことなく、中正公平な取扱いをされるものと信じておりまするから、さような方針で審議を進めることにいたしたいと思いますから、さよう御了承を願いたいと思います。  参考人の方もおいでになったようでありますから、この機会委員会代表いたしまして、私から一言参考人諸君にごあいさつを申し上げます。皆さんには祖国を離れまして、遠く異境において長い間辛酸をなめられましてお過ごしになり、今回御帰国になられたのでありますが、委員一同その御労苦に対し、衷心御同情いたし、感謝を申し上げますとともに、御帰国に対しまして深くお喜びを申し上げます。当委員会残留同胞引き揚げ促進並びに援護対策に資するために、最近お引き揚げになられました方々代表としておいでを願い、引き揚げ事情残留者状況等を承わり、今後の参考に資したいと考えた次第でございます。御帰国早々お疲れのところ、しかも今後の私生活自立に何かとお忙がしいところを御出席願いまして、まことに恐縮に存じております。何とぞ当委員会の意のあるところを御了承下さいましてよろしくお願い申し上げたいと存じます。お話を願います項目につきましては、先に御通知申し上げておきましたが、必ずしもあの項目にとらわれることなく、率直にお話を願えれば幸いと存じます。ただ時間の関係もございまするので、一人当り十五分以内の程度で御発表をお願い申し上げたいと存じております。  なおこの機会に各委員の方にお諮り申し上げます。時間の関係もございますので、午前中に予定いたしております参考人意見発表が全部済みましてから御質疑を願うということにいたしたいと存じますが、御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  8. 小林英三

    委員長小林英三君) 御異議がないと認めます。それではそういうふうにお願いいたします。なお、出席を御依頼いたしておきました諸君の中で、森正雄参考人は、本人が大阪方面へ旅行のために本日は御出席になれませんので、この旨を報告申し上げます。  それではまず鹿養徳一君からお願いをいたします。
  9. 鹿養徳一

    参考人鹿養徳一君) ただいま委員長から御丁寧なごあいさつをいただきまして、深くお礼を申し上げます。  さっそくに申し上げますが、参考人意見聴取事項の中で一、二、三、四、五、六の項目に分れておりますが、全部自分が説明申し上げると非常に時間が長くなると思いますが、どの程度に申し上げたら——十五分と申しますと非常に……
  10. 小林英三

    委員長小林英三君) この中で特にあなたの、こういうことを話したらば本会の参考になるという、お気づきの点だけを一つかいつまんで、全部をおっしゃっていただかなくても、その中でも特にお気づきの点をお話願えればいいと思います。
  11. 鹿養徳一

    参考人鹿養徳一君) では、自分個人経験しました中からの概略だけを申上げますが、私はハルピン終戦を迎えまして、一九四五年八月十五日から強制留用に会う一九四六年の八月までハルピン市中に住んでおりましたが、その当時の日本人人民委員会の会長からの依頼によって、ハルピンへ避難して来ました人たちの救済を目的とした技術営団、いわゆる工場営団を作るために技術者を必要とする、その履歴書を出せと申しますので、自分履歴書を提出いたしましたが、それが留用される原因となったのでありまして、そうしまして、一九四六年の八月から一九五三年の集団帰国が始まるまで昔の東安地区密山炭田、その近くにあります鶏西、その昔、関東軍鶏寧地区と申しましたその地区軍工部ですね、その当時の東北民主連合です。その前は東北日連軍です。俗に言う共産匪と言われた時代の部隊から留用されて、その後が東北民主連軍、それからが人民解放軍と名の変りましたその部隊留用されまして、大体八年間現在鶏西と申しますその地区で工作をさせられました。そうしてその初期は大体日本人が、新潟理研の若い人たちが、新潟理研が七月の十五日に日本を転出して満州へ疎開しました。その人たちハルピンへ着きまして一ヵ月足らずで終戦を迎えまして、そうしてその人たちが大部分担荷隊に徴集されたのです。その担荷隊に徴集された人たちがほとんど強制留用に会いまして、私の手許へ大体百七十人くらいの青年男女が集まりました。そうして第一次に鶏西へ私たちが赴任して、そのあと若い人たちが、婦人が四十二名か三名でした。男子が百二、三十名です。その人たちはほとんど栄養失調という形の人たちばかりが大体集まりまして、そこでいわゆる軍工部基本建設を始めさせられたのであります。私たちの過去においては兵器なんというものは関係は全然なかったのです。しかしやらなければ自分たちの生きていく途がないので、それを経験のない中からいろいろと向うの注文に応じて作業に従事しましたが、しかし初期に、一九四六年、七年、八年の三年間に大体二十七、八名の人たちが、原因栄養失調からくる肺結核ですね。結核におかされて、大体自分が火葬にしたのも二十一、二人ありますが、そういうような状況の中からお互いに助け合ってどうやら生き残った人たちが二十八年にやっと、昭和二十八年、一九五三年にほとんどが帰りました。その帰る当時には七百何名かが鶏西地区に、軍工部以外にも難西煤鉱管理局といいますか、石炭の管理局ですね。そこに各北満満州の在満の軍工部関係人たち帰国が迫ったので転勤させられたのだろうと私の主観では思いますが、一九五一年ごろから各地から続々と鶏西地区へ集まりました。そうして家族をまじえて七百何人かの人たちが一九五八年の夏までには帰りました。その七百何人かの中から自分と現在大森寮におります木下という人と二人が残されたのであります。その二人が何が原因であるかということは、私たち非常にいろいろと各方面へ問い合わせたのですが、返事をしてくれないので、李徳女史にも、また周恩来総理にも抗議文を出しましたが、しかし、ただ国際友誼によって君の身上を保護するのであるというような返事しか得られなくて、そうしまして、日本議員団の方が北京を訪問されましたときは、自分たちラジオを聞いておりましたが、その席上集団帰国打ち切りという李徳女史発表を聞きましたのです。実に情ないと思いますが、たとえて言いますならば、洗面鉢のメダカにひとしい自分たち境遇でした。向うの意思次第で、自分ではその洗面器以外に出ることのできない立場でした。大体八年間鉄条網の中で自分で思うような行動は絶対とれない境遇でしたから、ただ抗議を出してもそれに対する返事ももらえないままに、十一月の二十五日に突然中央から命令が来まして、潘陽です。昔の奉天に集まれ、大体私たち家族だけです。その前に木下氏は十一月の十五日に漢口へ転任されて、結局鶏西の山の中では自分ら一家族だけでありました。しかし希望によって残る人が一人おりました。それは石井肇と申す人ですが、若い人です。開拓義勇団青年でした。その人が一人残っております。そうしてあと婦人方です。中国人の奥さんになられた方で、すでに子供もおり、また、終戦前からの子供さんがおって、もう日本語がわからないという人たちが大体十五、六名鶏西地区にはいまだに残っております。そのかたがたは日本軍引揚げるときに、すでに適道の峠の上でほとんど自殺をした人たちばかりが多いのであります。その自殺をした、自決をした人たちの中に生き返ったという人たちが大部分であります。そうしてもう再び日本へは帰れないと自分自身でそうお思い込みになった人が多いのであります。そうして私たち鶏西をたつ時分にも見送った方が大分おりますが、大体十五、六人自分の知っておるのがおりました。長野出身が大部分多かったのです。長野出身の方が、あそこに長野県の開拓団があったのではないかと自分思いますが、私の知っている限り長野県の方が大多数であります。そうして私は十一月の二十五日に鶏西を出発して重慶方面へ調動されました。重慶では軍関係仕事から切り離されて一般の民間の仕事に移っておりましたのです。そうしまして、今年の二月第十次の引き揚げが始まったときに、やっぱり私と合計七人ぐらいの人が残されたのであります。大体七人ほどおりますね。なかなか許可が下りないのです。そうしまして私は半気違いのようになって何回も掛け合いに行くのですが、中国におる間は君の生命または生活保護はできるが、日本へ帰った場合は生命保護もできない、これは国際友誼の上において中国はあなたを保護するのであるからがまんをしなさい、しかし私は日本へ帰っていろいろな圧迫を受ける理由一つもないということは再三申し上げたのですが、しかし何としても、現地ではそれは受け入れてくれないのです。やむを得ませんから、書留航空郵便をもちまして、周恩来総理に二回ほど尋ねました。三回目には、着いたか着かないかわからないので問い合せる書面を出して、三回目にはやっと着いたらしくて、北京から人が派遣されて来て、そうしていろいろ私の帰りたいという事情を聞きました。それに対して私は腹臓ない自分意見を申し上げて、どういう迫害があっても、自分祖国であり故郷であるから帰りたいということを申し上げて、やっと了解をしてもらいました。そうしておかげさまでもって今度日本へ帰ることができました。  大体私自分の経歴は以上のような状態であります。そうしてなお重慶に、先日のこれは私余談に入るかもしれませんが、朝日新聞天声人語の中にS氏の帰国という問題で、自分たちが最後の一家であって、重慶には日本人はもうすでに一人も残っていないという発表がありました。九日の朝日新聞であります。それを見て私は少し憤慨いたしたのであります。というのは、私自身が二回ほど帰る機会を失って、実にさびしい悲しい思い一家七人がしました。その思いを現在重慶でやっぱり味わっている人があるのであります。それにもかかわらず、重慶にはすでに日本人は一人もいないという発表があったので、これは実に私は憤慨したのであります。というのは、私自身がこの二回の経験の中から、帰りたい帰りたい、どんなに困っても、同じ苦労するなら祖国でしたい、言葉のわかるところでしたい、人情風俗のわかる所でしたいということは、これは私たちあちらにおります者の共通の気持でありました。その人たちが二家族、一家族四名で八人の人が私の知り合いにもおります。私が帰るときに涙を流して、現地ではどうにもならないから、日本へ帰ったらば、機会があったら私たちの帰りたいという気持を伝えてほしいという切なる頼みを受けて帰ってきたのであります。私自身も十回目に帰る人たちに対しては、ぜひお願いしますということを泣きながらお願いしました。そのために十回に帰って来た方々から、ラジオをもって、まだ重慶にはこういう者が残っておるということを伝えていただきました。そして私は今度帰れたということは、この方々の御援助によるということを私深く感謝しておるのであります。ですから、私も日本人としての義務として、先に帰れたら、あとに残っている人の帰れることを考慮しなければ、これは正しくないと私は思います。そのために、私はさっそく朝日朝聞にもこの意見を提出しました。まだ重慶には残っているのであるから、信用のある新聞発表としては少し正しくないのじゃないかという、僣越ではありますが、私は投書をいたしました。  以上のような条件で、私はお話を終らしていただきたいと思います。
  12. 小林英三

    委員長小林英三君) ありがとうございました。次は浜野満雄君にお願いいたします。
  13. 浜野満雄

    参考人浜野満雄君) このたび皆々様のあたたかい御援助によりまして、われわれが無事に帰国できましたことに対して、深く感謝する次第でございます。  私は終戦当時、関東軍防疫給水部大連支部通称大連衛生研究所という衛生機関です。そこに勤務しておりました。これはおもに急性伝染病予防研究、そういう方面を担当しておったのでありますが、そこで終戦と同時に留用となりまして、初めの所属が、これが中国長春鉄路公司という、そこに所属になりまして、その後大連大学所属、次いで中国直属機関となりまして、中央大連生物製品所となって、大々的に伝染病予防研究というようなもの、製造、そういうような方面でやっておったわけであります。で、私はここにずっと昭和二十八年十一月の十八日まで勤務しておりまして、その間いろいろ帰国のことについてお願いしたのでありますが、もちろん許可されません。そして今申しました昭和二十八年の十一月の十八日から今度は保定へ転出を命ぜられました。ここで私は一年間、今度帰るまでそこで勤務しておったのであります。これは河北医学院でありまして、ここでは私は研究員という名目で、おもに伝染病予防研究ということ、及び教育方面を担当させられておりましな。まあ、そういう状況で抑留しておったのであります。大体この順番に従いまして、簡単にお話し申します。  この労働状況と申しますと、これは私は大体伝染病方面予防方面研究製造という関係から、技師としてずっと比較的優遇されて、別にこれといって食物、衣料の不足というようなものはありませんし、それから衛生関係の方としては、これは一般工人階級にもそうでありますが、われわれに対しても非常に衛生方面はよく注目をしていただきまして、いろいろな方面で、設備もよく整っておりましたし、その方面は別にこれといって申すこともありません。  それから思想教育方面でございますが、これは大連におります当時は、御承知のように勤労者組合というものがありまして、われわれ日本人思想方面教育指導というものも行なっておりました。これには職場においても、おもに時間外に教育されましたし、家庭の方においても、いわゆる隣組式において教育が行われておりました。それから保定に参りましてからは、いわゆる政治教育というようなものはほとんどありませんでした。  それから内地との通信関係でございますが、これは大連におった当時は、比較的内地通信が、まあ少いながらも行われておりましたけれども、保定に行きましてから一年有余の間、わずか昭和二十八年の十二月に一回私の郷里からあっただけで、全然ありません。帰って聞きましたところによりますと、毎月のように出しておったらしいのですけれども、結局、二十八年の十二月に一回あったきりで、それ以後受け取ってないのです。この点について、私も職場の方、及び公安局方面においてもお尋ねしたのですけれども、要領を得ず、そのままになっております。  それから被抑留者状況というのでありますが、これは私は保定に参ってからこの方面の人々との接触がありませんので、十分わかりませんです。  それから、保定における残留邦人としては、私と同じように河北医学院に勤めておりました人で、松井毅というお方ですが、これは家族八名おられます。この方は今度残留を希望しております。そうして残っておられます。その理由としましては、子弟が多く、教育に非常に困難であるというから、そういうような経済的な問題で残られたようであります。このお方に対する給与とか、そういうものは非常によく優遇されて、中国人よりはるかに多くの給料をもらって暮しております。  私の今度の引揚げについてでありますけれども、私は元来第九次で帰れることになっておりまして、もう上の方からも大体指示があったわけでありますけれども、どういう意味かわかりませんけれども、出発直前になりまして許可しないということになりまして、非常に悲観しました。家族一同非常に悲観して、子供たちも学校へ行きたくないというようなことを言い出しまして、非常に私たちも落胆したのでありますが、その後今度の引揚げの第十次はもちろん帰れない、たびたび私はお願いしましたが、十一次の場合も、面接もちろんこれは紅十字の李徳女史も了承し、そのほか私の直属機関である衛生部方面にもお願いしたんですけれども、結局これは要領を得なかったわけですけれども、そのうちに十一次が始まる直前に、上級の衛生部の方から、もう一度残らないかというような話がありまして、極力残るようにという話があったけれども、私はどうしてもこれは帰りたい、私の身体上の問題とか、いろいろ家族教育の問題、いろいろ懇願懇願を重ねまして、やっとこのたび帰ることができたわけでありますけれども、要するに帰れない理由として私は考えますのには、私の方の仕事関係が相当影響するんじゃないかと思います。で、中国としては、この予防医学方面においての人材が非常に少いということが私のこれまで帰れなかった理由一つのように考えられるのであります。  まあ大体以上のようであります。
  14. 小林英三

    委員長小林英三君) ありがとうございました。  次は大隅策夫君にお願いいたします。
  15. 大隅策夫

    参考人大隅策夫君) 今回皆様の御援助によりまして、やっと引き揚げて参りました大隅です。ありがとうございました。  私は終戦当時満鉄の撫順炭鉱機械製作所におりました。撫順炭鉱機械製作所終戦を迎えました。家庭大連にありましたものですから、終戦の年の十一月大連に帰って参りました。それで大連に帰って参りましてから、甘井子にある大革特殊鋼工場、この工場はおもに海軍関係特殊鋼を作っていた工場です。その工場に勤務するようになりまして、その工場ソ連で接収した工場で、終戦の翌年ソ連監督官というのから、帰ってはいけない、お前は残ってこの工場建設せいという話が監督官から直接あったわけです。その当時その工場監督官から残されたという人間が三十八名だったと記憶しております。三十八名の人間がこの工場に必要だから残らなくてはいけないというわけで、そこに残されたわけです。それでその当時宿舎が甘井子にありまして、当時大連でいわゆる勤労者組合、その当時はまだ労働組合という名前の日本人団体があったわけです。それでその団体方々日本人帰国問題に対して、全責任をもってやっておったわけです。その方にもいろいろお話をしたんですが、ソ連の方の監督官からの許可が出なければどうにもならないというわけで、その大華特殊鋼工場留用になってしまったのです。それから大華特殊鋼工場が一九四七年の六月、現在の中共の政府に接収されて後、その大華特殊鋼工場の隣の満州化学工業株式会社、この会社の方でその会社を復旧するというわけで、お前はもう満化の方に行ってくれ、中国政府がその大華特殊鋼工場を接収するときに、私は満州化学の方に回されたわけです。それで満化の方に勤めるようになってから、何回も何回も帰してくれるようにという申請を出したんですが、当時の帰国はずっと大連の日僑勤労者組合、そこでやっていたものですから、なかなか受けつけてくれず、満化の復旧が済んでからその問題は話そうという形で、満州化学工業、当時大連化学廠といっておりましたが、その廠長も、この工場の復旧が済めば帰してやる、そういう話で一九五三年までその満化工場に勤めでおりました。その間同じ日本人である団体大連勤労者組合、この組合というものから思想的な面でいろいろ強制的に教育はなされてきたんです。それでその日僑動労著組合の方法、結局われわれ日本人に対する教育あるいはいろいろな運動の方法について、自分として非常に意見があったわけです。それでその日僑勤労者組合の幹部の人たちにも相当ぶつかったわけです。ところがそれが一つ原因となって現在まで中国に残されたということも言えると思うのです。  それから仕事関係満州化学工業株式会社、いわゆる大連化学廠が一応建設が済み、日本人は必要でないというところまできたときに、一九五二年、大連の中共政府の責任者から、あなた方は帰ってよろしいという許可が一度おりました。それでやれやれ今度は日本にほんとうに帰れるのだという気持になって、全部準備までしたんですが、一九五二年の十二月それが国際的な事情により、取りやめた。一応私に、君は昆明まで行ってくれというわけで、自分は昆明にやらされたわけです。それで大連化学廠に一緒に働いていた方々がその当時約三十名前後、はっきり覚えておりませんが、三十名前後おられたと思いますが、その方々が全部中国の本土、いわゆる山海関から南に入った本土の方に全部調動になりまして、転勤になりました。そのときに私は昆明まで調動されて、昆明で一年間仕事をしてきたのでありますが、その間大連における企業体の私どもに対する態度、及び昆明に行きましてから私どもに対する態度は、昆明に行きますと、仕事ではなくて、一応帰るまでの期間を稼いでもらいたいというような形を自分は感じました。大体昆明まで調動された状況はそういう状況です。  それから次に、項目にあります労働状況と申しますか、これは私個人見た範囲内では、やはり現在の中国では、働かない者は食べるな、そういう形のものを非常に強く感じております。それから、そのかわり働いておれば絶対に生活には不自由しない。ただ、しかし生活と申しますけれども、生活にもいろいろ程度がありまして、現在の中共における一般生活の程度は非常に低く、賃金、食物、これは現在日本ではわれわれちょっと考えられない程度です。  それから衛生関係は、工場に勤めておりますいわゆる職工、工人ですね、こういう方々は、この工場にそれぞれ特定の病院あるいは医務室を持っております。それで工場で発生した事故は、これは工場として責任をもってその事故は処理しております。それで一応工場で発生した人身事故と申しますものは医務室に送り、医務室から工場の指定された病院に持って行って、そこで治療されるわけです。  それから、昆明に行きましてから後は、われわれ日本人に対する思想というものは、全然工廠として無関心でした。あなた方はここに来てまじめに働いてさえもらえればそれでよろしい、思想は全然抜きだというふうに廠長からはっきり言われました。ただ仕事さえしておればよろしいという形で、仕事さえしておれば、あなた方は時期がくれば帰れるから、それまで働いてもらいたい、そういう状況でした。  その次に、内地との連絡は、大連におりましたときには、一九五一年ごろまで、これは数は多くはありませんが、大体三カ月に一回くらいずつは連絡はとれておりました。それから昆明に行ってから一九五三年の九月までは、昆明で七つ連絡を受け取ったのですが、一九五三年の九月以後は連絡が全然とどまりました。それでこちらに帰ってきてから姉に聞いたんですが、手紙は相当出していた、結局手に入っておらないという形です。  その次に残留邦人状況ですが、大体昆明には、男の方が三名、婦人の方が四名、男の方といいましても、まだ 若い方で、私が聞いた範囲では、昆明に大体七年住んでいたという、そのうち小川さんという方ですが、自分も帰りたくてしょうがない、それだけれどもまだ帰れる時期が来ていない、まだ帰れない。その方は昆明の運輸庁に勤めておられる方です。それから御婦人の方は、すでに現地中国人と結婚なさって、子供さんもおり、今さら日本に帰ってもという気持でそのまま残っておられました。そのほか技術関係として昆明に残っておられる人は現在一人もおりません。  大体以上のようです。
  16. 小林英三

    委員長小林英三君) ありがとうございました。  次に丸田美佐子さんにお願いいたします。
  17. 丸田美佐子

    参考人丸田美佐子君) 今回私どもば皆様方の手厚い手によりまして、祖国日本に帰ることができました。私は今まで三人の方のお話とは違いまして、自分の希望によりまして、今まで中共に残っておったものでございます。終戦当時満州中央銀行のハルピン支店において終戦を迎えました。終戦後、八月の二十二日にハルピンソ連軍が初めて入って参りましたときに、私はハルピンの南崗という所に満鉄の社宅がございます。そこに兄の友人がおりまして、そこに大体二カ月ほどおりましたが、生活も徐々に困難となり、食物も困難となって参り、また婦人に対する強姦とか、いろいろの妨害もありまして、そこの家庭より私も出ざるを得なくなりまして、ハルピン通りにあります。つの難民収家所に入ることになりました。そこに行きまして大ぜいの婦人、男の方はほんとうにわずかな数しかおりませんでした。そこの建物は三階建でありまして、三階には前は製材会社のオフィスになっておりましたが、そこにおいてソ連軍人に殺された男の方が二、三人おりまして、まだ血なまぐさい部屋に私どもは収容されたのであります。そこにおりまして、ストーブも何もない部屋で毎日コウリャンとアズキの入った御飯をいただいて、いかになるかを案じつつ過ごしておりましたが、次第に状況もおさまり、難民所よりそれぞれソ連人の家庭とか、あるいは中国人家庭に家政婦、または小さな日本で言いますいわゆるチャオズとか、パオズとかを売っている店に徐々に働きに行くようになりました。そのときに私も難民所のあっせんによりまして、白系ロシヤ人の家政婦として一週間ほど働きましたが、何分にも栄養失調並びに今までそういう労働をしたことがないために、廊下をふくとか、部屋を三べんも四へんもふくということは非常に耐えがたい苦しみでありました。その後に満州中央銀行ハルピン支行におりました元日本留学生である山口高商出身の孫という者がその当時ハルビン支店の支配人代理をしておりまして、私も再三銀行に参る関係上知り合いでございますし、また私が満州の安東工場におりますときに、夏休み、冬休みに汽車の中でよく隅然に出会ったりしまして、名前も知っており、交際もしておりましたために、その人が何かいい職を探してあげましょう、家政婦などをしていたら、最後にはきっと何か苦しいことがあるに違いないという話によりまして、私は通りにありますその当時一番大きな上海というダンスホールに会計員といたしまして試験を受けに参りましたところ、二十何名のうちより私一人が合格をいたしまして、その当時としては非常に高給で雇われまして、たしか七百円だったと思います。そこで日常は食事も全部支給されまして、月給は全部残るのでありますが、何分にも夜おそくまであり、それに私たちに与えられた宿舎にはストーブの設備もなく、寒い冬を送ったために私も腸チフスになりまして、その後肺尖炎を引き起し、病院に入ると言いましても、非常に伝染病が多いために、馬家構の方にありました陸軍病院に収容されて行きましたが、あまりにもむざんな形でありましたために、孫が迎えに参りまして、私はあるホテルに一室を借りまして、そこで日本留学生でありました金という開業医の手厚い看護と、また孫の手厚い看護によりまして一命を救われました。その後ハルピンで孫と結婚するまでに至りまして、今回帰国にあたり三人の子供がございましたが、一人だけを残して二人を連れて帰りました。私が今度帰りましたということにつきまして、向うでも非常に残っておられる国際結婚者の方から質問がございましたが、私といたしましては、この十年間親兄弟が私を思い、再三手紙が参りまして、ぜひ帰国するようにとの勧めによりまして、自分日本終戦後の姿を自分の目で見、また向うでいろいろ聞いておりました実情と果して一致しているか、あるいは異なるかを見たいと思いまして、婦って参りました。帰るにつきましても、私はずっと長く日本にいる気持ちではなく、母や兄に安心をさせまして、また再び中共に帰りたいと思っております。  また国際結婚者の人の立場につきまして一言申し上げたいと思います。あちらに残っておられます国際結婚者と申しましても、現在残っている方はほんとうにしっかりした人ばかりでありまして、過去において五三年あたりに帰られた方は、ほとんどがもう帰りたいという意思で、あるいは夫婦という感情は抜きにして、今まで生活のために一緒になっていて、どうしてもこのチャンスに帰りたいという人はすでに帰っておられます。今に残っておられる方はやはり夫婦愛と言いますか、または子供の愛情にひかれて実際に帰れない人一か多いのであります。また帰って来ても、日本家族がおり、親兄弟がいて、あたたかい手をのべてくれる人がおれば、必ず帰ってくると思います。皆日本にとてもあこがれたり、またなつかしく思っております。皆が何も中共にいて幸福なのではありません。やはりそこには日本女性の特質とでも言いましょうか、美点とも言いましょうか、一度結婚した以上は、やはりその夫に対し愛情を感じ、または子供と別れがたいという感情が一番大きな原因じゃないかと思います。私が奉天駅頭、今の瀋陽の駅頭を離れますときに、見送りに来ておりました人たちが皆声を上げて泣いておりました。皆帰りたい気持ちで一ぱいなのです。だがしかし、それには子供というものがあります。子供は、もう終戦後できた子供はほとんど満五才から満六才でありまして、言葉も全然日本に帰ってもわかりません。それで親の立場といたしましては、日本の生活は非常に苦しいと聞いておりますし、またそういうことを知っている中共にいる夫というものも、自分のかわいい子供日本に帰すということは非常に考えさせられる一つの問題ではないかと思います。そうして国交でも回復されていますならばまたといたしまして、現在の実情では一たん日本に帰った以上、一年あるいは二年という期限をきめて必ず帰るというお約束はできないのであります。私ども今度帰って参りました第十一回の婦人たちはほとんどがそういう希望であります。また向うに渡るときがきたら、必ず自分子供のために帰りたいという希望を持っております。船の中でも皆さんに私は頼まれました。ぜひ東京に帰られたら日赤に行ってお願いし、または参議院に行って陳情をして下さいと皆からお願いをされました。私の力でできますならば、この国際結婚のためにも、ぜひともこういう日本に帰って来た、子供を置いてきたという婦人のために、ぜひとも皆さんのお力によって中共に再び国際結婚者が帰れることができますようにお願い申し上げます。  それから向うにおきましての政府関係機関以外に働いておられる方の生活の実情について申し上げます。  ただいま向うでは、お米は配給であります。特に東北地区におきましては、白米の配給というものは四斤ほどでありまして、工作員といいます政府の関係者には、十斤以上の配給がありますが、それ以外はほとんどコウリャンでございます。それでやみのお米というものは全然ありません。食物関係においては華北の地区、すなわち北京とか天津におきましては、非常に外僑というものは優待されておりまして、大体白米だけで足りるようになっております。私ども国際結婚者が日本に帰ることにつきましては、外僑係といいまして、公安局にございますが、そこの係員は、新聞に大体帰国という問題が持ち上りますと、一週間に二、三回、または夜分にも参りまして、いろいろと意見を聴取いたしまして、そうして家庭生活または経済状況を聞き合せまして、この人は中共にいるよりも、日本に親兄弟がいれば帰ったほうがいいのではないかという人には、向うから極力勧めます。そうして子供も、夫婦でよく相談して、全部母親が連れていくということは不可能であるから、まあ主人とよく御相談をなされるようにというお話がありますし、なお主人が、どうしても帰すことができないと言った場合には、公安局の方からそしの働き先に対して、上部の方よりも、その思想的に誤まっていることを教育されまして、帰りたいという希望さえありますれば、みんな日本に帰ることができます。それで中国で国際結婚いたしまして生まれた子供の籍は、全部中国籍になっておりますが、帰国するときには、出境証というものがありまして、それには中共の名前で出境が許可になります。そうして中国籍になっている子供は、日本に帰ってはいけないということは全然ありません。親について帰れるという子供は満十五才以下であります。十五才以上はその子供意見によってきまるのであります。今回も天津まで来られまして、子供さんを連れてまた瀋陽に帰った御婦人がございますが、その人の場合などは、日本に帰っても果してこの中等学校に行っている子供を、乳飲み子をかかえつつ教育していくことができるかどうかという不安のもとに、日本に帰ることをやめられて、また落陽の方に戻られました。  私は日本に参りまして一番感じましたことは、日本の乳幼児に対しての託児所がないということが、非常に私ども婦人が働くことにむずかしい立場にあると思います。日本において、中共のように乳幼児も扱ってくれるような託児所、すなわち一週間に土曜日だけ親が行って子供を引き取ってこられるような託児所、そういうものができますれば、日本で言う母子家庭というものも、母親が子供二人くらい養っていくことは必ずできると思います。あちらでは各機関に託児所がありまして、朝子供を連れて行って、連れて帰るということもできますし、その中途に三時間子供にお乳を飲ませる時間も与えてもらえます。そのほかに託児所というのは、一週間のうち日曜日の夕方六時に送って行きまして、土曜日の午後六時までに子供を引き取りに行けばいいという、そういう組織になっている託児所もございます。子供は大体満二才からはそういう所に入れます。でありますから、向うの御婦人たち子供を三人も四人も持っていましても、働くということはちっとも能率上に変りはありません。私たち帰国者のためにも、日本にぜひこういう設備の託児所がありましたならば、帰ってきた御婦人たち、または今実際に帰ってきてない人たちも、安心してお帰りになれるのではないかと思います。  では時間も参りましたから、今日はこの辺でやめさせていただきます。
  18. 小林英三

    委員長小林英三君) ありがとうございました。  それでは、ただいまから参考人の御意見に対しまする御質疑をお願いいたしたいと存じますが、なお参考人の御意見に対しまして、政府当局に関連質問があるというような場合がございますので、ただいま外務省からはアジア局第二課長の小川平四郎君、厚生省からは紅露政務次官、田辺引揚援護局長が見えておりますから、関連した質問がございましたら、お願いいたします。  それでは、ただいまより質疑を許します。
  19. 高良とみ

    高良とみ君 大連の医務従業員の方については、前からだいぶ問題があるようでありますが、一ころ医者の方、衛生予防工作の方々鉄条網を張った向うに居住されておって、家族がほかの地区から面会に行っても面会できないというようなことも、だいぶあったのですが、今の実情はどうでしょうか。もちろんこれがソビエトから中共に返されたというようなこともありましよう。大連、旅順……大連はそれほどでないというお話がありましたが、大連、旅順関係事情を少しお聞かせ願いたい。今どのくらい大連に残り、旅順にどのくらい残っておるか。
  20. 浜野満雄

    参考人浜野満雄君) 私の方の衛生研究関係ですが、例の昭和二十八年ですか、帰国の話がありましたときに、私の同僚のうち、帰国を目前に控えまして、もう御承知と思いますけれども、例の吉林とか、それから錦州とか、あるいは普蘭店という方に分散を命ぜられて、私はその当時黒河に行くように言われたのです。これは非常に遠い所ですから、私自身非常に不安に思っておりました。ところが、私ともう一人の同僚二人だけが大連に残ってもよろしいということが、あとからありました。私自身はそのまま分散せずに、二十八年の十一月までいることになったのですが、ほかの方は全部、相当苦しい立場であちらこちらに分散させられたらしいのです。その後、二十八年の十一月になって、その人たちもわれわれと一緒に中国の大陸各地に、たとえば西安、成都、貴州、漢口、そういう方面に皆移動させられたらしいのです。これは向うに帰りまして、お互いに文通しまして、帰るまでお互いに協力して文通を大いにやろうということをして、最後までやりました。結局私が一番最後に残されたわけであります。衛生研究関係では。私の方で十何人おりましたほかの方は、大がい十次でお帰りになりました、私は九次に帰る予定が、そういうふうにおくれまして、なかなか帰れそうもないので、非常に心配しまして、十次に帰る方に手紙でもって、ぜひ帰れるようにということをお願いしました。そういうような事情で、特に鉄条網を張りめぐらしてというようなことは、あまり聞きませんでした。ですけれども、とにかく今でもわからないのです。日本帰国を目前に控えて、そういう各地にその当時は大きな研究所を建てるから、そのために君たちは必要だからという名義で各地に連れていかれたが、それが実際そうではなくて、ただ仕事もなしに各地区に連れていかれたらしいのです。
  21. 高良とみ

    高良とみ君 それで旅順関係はどうなんですか。そうして、あなたが最後の医務肉係者の引揚者でいらっしゃるように伺うのですが、それでは少しも今残っておられませんか、希望残留の方のほかは、大連は。
  22. 浜野満雄

    参考人浜野満雄君) 今のところは、私と一緒に奉天におりました松井毅さんだけで、ほかの方は各地区の方に聞きましたけれども、医務関係はもうおらないはずです。
  23. 高良とみ

    高良とみ君 旅順はどうですか。
  24. 浜野満雄

    参考人浜野満雄君) 旅順は、私はあまりよく存じません、あちらの方は。
  25. 阿具根登

    ○阿具根登君 お疲れのところ非常に恐縮ですが、鹿養さんにお尋ねいたしたいのでございますが、鹿養さんのただいまのお話の中に、中国における間は生命、生活は保障するけれども、日本に帰ったら生命その他の保障はできないというようなことを再三言われたと、こういうようなことをお聞きしたと思うのですが、どういう意味でそういうことを言われたのでしょうか。それをちょっとお聞きしたいのです。
  26. 鹿養徳一

    参考人鹿養徳一君) それが私自身日本へ帰って、そういうような迫害を受ける根拠がないのです。私自身には考えられません。しかし私が携わっておりましたこの八年間の工作は中国においては確かに国防上の秘密だとははっきり言われました。私にとっては、ちっとも秘密はないと思います。技術的な問題は時間によってその秘密性はなくなると思います。ですから私はそういうことに対しては絶対納得できないということを申し上げたのです。しかし君たちは工作の性質上、日本に帰ったならば危険である、二十八年に帰国した若い人たちで進駐軍によって非常な迫害を受けた。そういう事実も自分たちの情報に入っておるから、君は帰るということは非常に危険だということをはっきり言われました。ただし、私自身はこの技術上の問題は、これはもう時間によって秘密性というものはなくなるのじゃないかという私は信念を持っております。そしてあくまでも食い下ったというとおかしいのですが、はねたのですが、あまり極端に度を過ごすと、また向うでかえってやられますから、で私は直属にはあまり強く申しませんでした。そしてその理由中央へ出した方が正しいと思いまして、中央の裁決に依頼するより仕方がないと思いまして、中央へ手紙を出しました。
  27. 阿具根登

    ○阿具根登君 それではそのあなたの仕事関係からそうであったのであって、向うに残っておられる日本人の方にそういう印象を皆に与えたということはありませんですか。
  28. 鹿養徳一

    参考人鹿養徳一君) 私個人に対してです。これは私、大体軍工部関係は、全中国で私と木下君と二人だけでした、残されたのは、この技術関係はですね。いわゆる全中華人民共和国軍工部という名目になっております。現在の第二工業部です。の管轄の技術所の中には日本人は相当おりました。しかし全部二十八年に帰りました。そのうちの二人だけは残されたわけであります。というのは私田舎におりました。私は中央ではありません。鶏西というのは非常にいなかですが、ソ連の国境近くで、そのいなかのほうにおった私たち二人をなぜ残すかということに対して、私は再三抗議したのです。もっと中央の技術所あたりにもっと重要な仕事に参加しておられる人たちを帰し、事実技術的に水準の低い自分たちをなぜ残すかということに対しては再三抗議を申したのですが、各出先機関によって大分見解が違うことは、確かに違うのです。ですから私地方において交渉しても、これはもうらちがあかないと思いまして、中央に歎願書を出しました。
  29. 阿具根登

    ○阿具根登君 どうもありがとうございました。それから丸田さんまことに気の毒ですけれども、特に女の方で一番苦しんでおられたと思いますし、ただいまのお話しを聞いても、涙が出るのですが、率直にお尋ねしますが、向うでは女の方も皆働いておられるのか。働かなければ、男の方だけの収入じゃ生活できないのか。労働条件その他の点をちょっと教えていただきたいと、かように思います。
  30. 丸田美佐子

    参考人丸田美佐子君) あちらで男の人の収入といいましても、医者とか、あるいは工程師階級になりますと、収入も非常に多くて家族を養っていくことができますが、一般の事務員、大学を出た程度の人では、家族が一年々々とふえていきますために、養っていくことは困難でございます。それですからある程度教育を受けた、中学卒業以上の御婦人であれば、みな職場に出たいという希望を持っておりますが、過去において働いてた、解放当時に働いていた人は職を得るに非常に容易でありますが、今から働こうと思う人には、非常にむずかしい条件であります。そして主人が政府の工作員である場合は、そこの機関に働くということは、過去においては非常に簡単でありますが、今は人員の問題でいろいろ節約という問題が取り上げられるようになってからは、やはりそういう優待ということは認められなくなりつつあります。一般家庭婦人が主人が病気のために働くなどという場合には、やはり労働局というところがありまして、そこの各出張所を通じまして職を探すようになりまして、自分で職を探すということはできません。
  31. 阿具根登

    ○阿具根登君 どうもありがとうございました。あとどなたでもけっこうですが……。
  32. 相馬助治

    相馬助治君 ちょっと丸田さんに、関連して……。丸田さんにお尋ねしておきたいのですが、御主人がお待ちになっておるし、また中共に折を見てお帰りになりたいという御意思と今承わったのですが、向う引き揚げてこちらに帰りまする折に、向うの政府機関並びに、民間なんかにもそういうものがあるかどうか詳しく知りませんが、要するに引き揚げを世話してくれる諸機関に丸田さんがお話しになる場合に、そういう意思をあらかじめ率直に言ってお引き揚げになっていらっしゃるのか、それともそういう意思をはっきりすることは、引き揚げに困難をきたすために、そういう問題には触れずに今般お引き揚げになったのか、差しつかえなかったら、その辺のことをお聞かせ願っておきたいと思います。
  33. 丸田美佐子

    参考人丸田美佐子君) 私は落陽で申請をいたしますときにも、将来は帰ってくるという目的てもって帰るということをはっきり申し上げて帰りました。なお、向うの係の方は、外僑の係の方は、今日本に帰ってもすぐにはむずかしいでしょうが、あなた方の実力をもって日本政府にお願いするよりほかはないでしょうというお話しでした。そして向うでは日本政府さえそれを許可すれば、中共は喜んで国際結婚者を迎えるというお話しであり、また天津の紅十字会でも、あなた方が帰ってきた場合に私たちは喜んで迎えるというお話しでありました。特に思想問題につきましては、国際結婚者にはあまり工作をしていた人は少く、また、思想方面においてといいましても、私どもはあまり教育も受けておりませんが、別に反対的行動をとったこともありませんし、積極運動に参加したことはありませんから、そういう点においてはあまり深い考慮は加わらないのではないかと思います。
  34. 相馬助治

    相馬助治君 どうもありがとうございました。そうしますと、あなたの場合は一つの特殊なケースとして、同じ立場にある御婦人方からは非常に注目されておる。丸田さんはお帰りになって、そして日本を見られて、いつこちらへ帰られるだろうというようなことを含めて非常に注目されている、こういう立場だとわれわれは了承してよろしいのですか。……私の言っておることはわかりませんでしょうか。いわば、同じ立場にある方からあなたはあたたかく見守られて、自分たちも帰れたら一時帰ってそしてまた戻りたい。あなたは日本を見て、そして帰るなら帰って来てほしいというふうに、同じ立場にある方々からあたたかく見守られて、一応こちらへお引き揚げになったか、それとも国際結婚をされているのに、将来どうなるかわからないのに、今引き揚げるというのはどういうのだろうというふうな印象が同じ立場にある方に多いのですか、いずれなんでしょうかということを、一つ立ち入ってで非常に失礼ですが、お聞かせ願いたいと思います。
  35. 丸田美佐子

    参考人丸田美佐子君) 私はハルビンにおりますときにも、日本人会に参加しておりまして、国際結婚者を代表いたしまして難民救済資金も一軒々々回って集めて参りました。そういう関係上国際結婚者は向うでは現在残っております方たちも、私に非常な期待を持っておる。少くとも日本に帰ったならば、私たち日本に帰り、親兄弟に一度会ってまた帰って来れるような明るい世界が設立されることを希望するという皆さんの厚い支援を得て帰りました。
  36. 相馬助治

    相馬助治君 よくわかりました。ありがとうございました。
  37. 阿具根登

    ○阿具根登君 ほかの大隅さんでも浜野さんでもけっこうなのですが、向うの生活状態ですが、先ほど丸田さんからお聞きしたのでは、女の方も働かねば非常に生活が困るのだ、また働く職場もあるのだ、こういうことを聞いたのですが、向うのあなた方の生活といいますか、家族をたくさんお持ちになって、どうであったか、その問題と、お帰りになりまして、日本には七十万からの失業者がおり、非常に皆さんの職もない。こういうようなことから考えまして、どういうお考えをお抱きになられたか、それらの点に触れていただければ、幸いだと思います。
  38. 浜野満雄

    参考人浜野満雄君) 私のおりました保定地区では、日本人は非常に少いのです。おりますのは私とか、今言いました松井、それから大体現在そういう高級技術者といいますと、語弊がありますけれども、高級技術者として、向うが相当優遇しております。ですからわれわれの方としては、特に生活方面では困難ということはありませんですけれども、一般中国人の方では、相当結局共稼ぎでもしないと、なかなか困難であるというような現状であります。大体そういうわけです。
  39. 松岡平市

    ○松岡平市君 お尋ねしたいことは、向うでは非常に少かったが、生活的にはお困りにならなかった。たとえばお引き揚げになって、日本の現状から考えてみると、まあ今あなたが何をしていらっしゃるか存じませんけれども、むしろ生活だけのことからいえば、帰ったほうがよかったであろうか、向うの方がむしろ楽だったのではないか、こういうふうな感じをお持ちになるのか、その辺のことを聞きたいというのです。率直に一つ、こんなことならばまた行けるようなら、もう一ぺん行きたいというふうに、生活面からだけ……、これは何といっても自分の生れた国であるから、その感情は別にして、生活面からだけのお感じを一つお聞きしたい。
  40. 浜野満雄

    参考人浜野満雄君) 率直に申しまして、現在私はまだ職についておりませんです。いろいろ今こちらにお願いしているのですが、向うがとにかくわれわれのような技術者というものは非常にたくさん入ってくることを希望しております。向うとしては少しでも国交を早く結んだらばわれわれこういうふうな、特に私の方は医療関係ですが、そういう技術者が大量中国に来てもらうということを非常に希望するということは、私が帰る直前向うの方から聞きましたし、それは衛生部の上の人でありますが、そういう状況でありまして、生活面そのものを考えますと、確かに向うにいた方が、これは精神的なものは抜きにしまして、苦労がないような気もいたしますのですけれども、それは本当に食うだけの問題です。そのほかのいろいろの面を考えてみますと、やはり故国へ帰るということ、これはもちろん絶対に私どもの希望であります。本当に食うだけというような意味ではまた別問題であります。現在の状況を考えてみますと、向うは非常に人材の払底という状態です。
  41. 長谷部廣子

    長谷部廣子君 四人の方々まことに御苦労さまでした。私一つ伺いたいのですけれども、日本人に対する現在あちらの人の感情というものはどんなでしょうか、ちょっと伺いたいのです。
  42. 浜野満雄

    参考人浜野満雄君) これは各地区によって若干違うのじゃないかと思います。私が最後に行きました保定地区はこれは率直に申しまして対日感情はよくありません。ことに公安局関係と接触しますときには、非常に何といいますか、不愉快な感じがいたします。そして今度残られましたその一例として松井という方ですが、希望して残られた方なんですが、これは公衆衛生関係ですけれども、この人は当然工場方面関係ですから、工場方面の視察を希望しているのです。生徒を実際連れて行って、そういう方面を見せて教育しようとしている。一応許可を得られるだろうと思って公安局に申し出ましたところが、全然許可しない。日本人はそういうところへ行ってはいけないというようなことでした。そのほか、これは旅行関係で、これはほかでも同じだと思いますけれども、簡単にわれわれは旅行は全然できません。たとえば私が近くの北京へ行こうと思いましても、公安局の方で一々その本人の状況を検討しまして、二週間は要すると言われております。なかなか身体の自由はできないのです。ですから私のいた保定地区というのはそういうような状態で、あまりよくないという結論になると思います。
  43. 長谷部廣子

    長谷部廣子君 それでは丸田さん、日本人に対する感情……。
  44. 丸田美佐子

    参考人丸田美佐子君) 落陽の公安局の外僑課におきましては、中国人の係員は非常に親切でありますが、朝鮮系の係員の人は非常に不親切でありまして、話なども日本語は非常に達者なために、ある程度憤慨をせざるを得ない場合が非常に多いと思います。そうして今残っている人たちも、公安局のそういう鮮系の工作員に対して非常に反感を持っております。何ゆえに朝鮮の人が、このように私たちに対して反感を持っているかということを私たちはいつも議論しているのであります。中共の方では何と言いますか、古い経験を持っている共産党員の場合にはさほどでもありませんが、新しく参加してあまり教育を受けてない人たち、特に炭鉱あたりで働いていた連中は、リーペングイズ(日本鬼子)と言って非常に私たちに反感をまだ持っているような状況であります。一般満州国の住民は非常に日本人になつかしいという感じを持って、私たちにも隣組では非常に親切にしてもらうことができます。そうして隣組の常会などありましても、私たち向う婦人も同じような取扱いを受けまして、向うでも隣組に世話をやく婦人係などという、そういう役員にも選挙されることもできます。大体この程度であります。
  45. 長谷部廣子

    長谷部廣子君 どうもありがとうございました。
  46. 有馬英二

    ○有馬英二君 私丸田さんにお伺いしたいのですが、あなたは今度お帰りになった際は、向うで結婚をされて、向うの方の夫人としてお帰りになったのであろうと思うのですが、向うで結婚の手続が済んで、向うの人であるとしてお帰りになったのでありますか、どうですか。そういうことを立ち入ってお伺いすることははなはだ失礼かもしれませんが……。
  47. 丸田美佐子

    参考人丸田美佐子君) それにお答えいたします。私どもは向うで結婚いたしましても、国際結婚調書というものがありまして、結婚してから後も、あくまでも日本人であり、日本の名前を持ちまして、そのほかに中共の中国人としての名前を使うことも許されますが、今年から国際結婚者が中国の籍をもらうこともできます。そうしてそれは北京の方のそういう管轄の、ちょっと今名前を忘れましたが、そこに書類を回しまして、そこで決裁を許されたならば、その人は中国籍に変ることもできるように、今年から変りました。今まで私たちは、大体結婚して十年にもなりますが、ずっと日本人で通してきております。そうしてその国籍を変えることを要求しましても、今までは許されておりませんでした。そうして満州国時代に結婚しておられて、国民党時代に日本の国籍でなくして中国籍に入っておられる方たちも、奉天、今の瀋陽が解放されましてから、全部一応日本人籍に変えることに勧められまして、強制的に日本人となっております。なお向う人たちは、結婚しましても、日本と違いまして、孫という人がもしも奥さんをもらった場合、その奥さんの名前が金であった場合にも、その夫人の名前は、孫の籍に入籍するということはありません。そうしてあくまでも女の人の財産は女の人の財産であり、男の人の財産は男の人の財産であって、入籍ということは認められません。そうして結婚届にも必ず孫何々、金何々というふうに書きまして、日本のように結婚して同一の名字になるということは絶対にありません。
  48. 有馬英二

    ○有馬英二君 そうして中国にお帰りになりたいという意思も持っておいでになるが、中国に帰るのはむずかしいだろうということを向うで言ったそうですが、それはどういうことでむずかしいのでございますか。これをお伺いします。
  49. 丸田美佐子

    参考人丸田美佐子君) それは日本と中共の国交が正常に回復しておりませんために、向うといたしましては、中国籍に入っているといいましても、日本人である以上、今後も一度中国籍に入っても、本人の意思により日本に帰ることを要求した場合、向うの政府は喜んで帰してくれるはずになっております。それでむずかしいという点は、結局は日本と中共が正式に国交が回復されていない、または国際結婚者を優遇して、そうして日本から中共に出す、こういう外国に行く手続、旅行証明書が発行されるかいなかということが問題であると、向うでははっきりは言いませんが、私どもの考えではそうではないかと思います。
  50. 松岡平市

    ○松岡平市君 ちょっと私大隅さんにお尋ねしたい。浜野さんのお話を聞いて私の感じたことは、浜野さんの場合は向う浜野さんの技術なり何なりが要るんだ、一番長く帰さなかった一番主たる原因はそういうことのようだと思うのです。生活にも困らないだけの支給をして、そうして非常に日本人には旅行の自由さえも与えないような待遇をしておりながら、なお向うで置いておる。帰ろうとしても帰さないという最大の原因は、あなたの技術なり、何なりが要ったんだというそのために、どうしても向うへ置きたかった、こういうことだと思う。抑留というよりも、何か処分的なことではなくて、使いたいから帰さない、こういうような感じを非常に強く受けるのです。大隅さんの場合はどうでしょう。大体そういうふうに自分でお考えになるのか。何かそうじゃないのだが、何かかくれた理由で帰さないとお考えになるのか。どうしても自分仕事に要るから役立でようと思ってなかなか帰さないということであったとお考えになるのか。その感じを一つお聞かせ願いたい。
  51. 大隅策夫

    参考人大隅策夫君) 私も大連の化学廠にいて、それで化学廠の方ではやはり一応日本人がいないと、工場建設、復旧建設ができない、こういう工合にはっきり言い渡されております。それから一応復旧建設が済んだあと建設が済んで生産に入ったあと、なおかつわれわれを残しておくということについても、中国の政府の方に廠長を通していろいろ申し出たんです。ところが政府のほうは、復旧は済んだが、今度は操作上の技術を完全に移譲してもらいたい。でその移譲が済めば、移譲が済んだ後、帰国機会があれば帰ってよろしい、そういう工合な、廠の責任者からのお話しだったのです。それから昆明の方に行く原因として、これは廠の責任者及び大連の政府機関の責任者がはっきり申されたことですが、大連及び旅順は、国際的に非常に重要な地点である、あなたは大連から直接日本に帰ってはいけない。それで一応帰る条件として、大連から出てもらいたい。そのために、自分は昆明まで転勤されたわけです。その間を通じて、やはり現在の中国状況から工場関係技術者というものは、やはり不足しておると思います。それで一応中国としては技術関係人間はできるだけ残ってもらって、その技術をできるだけ中国として利用したいという工合な意思を持って、日本人を現在まで残してきた、そういう工合に自分は考えます。以上です。
  52. 長谷部廣子

    長谷部廣子君 今大隅さん、あの方がおっしゃったことも、それから浜野さんのおっしゃいましたことも、私はほんとうだと思うのです。と申しますのは、昨年ちょっと中国に行って来ましたけれども、あちらは何の面にでも指導者が今ほしいのです。でただ工場関係だけでなしに、やはり医学の面におきましても、いろいろな教育の面におきましても、指導者がほしいわけなんです。それでやはり日本人をあちらに残しておきたいという気持は、やはり日本人の優秀さというものを向うでも認めて、そして置いておきたいのだろうというような気も私して参りました。そこで昨年でしたか、ちょうど季徳全さんがお出でになりましたときにも、もう一ぺんそのことを確かめてみたのです。そうしたら、事実上中国の方ではいろいろな指導者がほしいから、日本と早く国交を回復して、そういったようなものを日本からも与えていただきたいというようなことをおっしゃっていらっしゃいましたので、私はこれはお二人のお言葉はほんとうだと思います。  それからもう一つ、丸田さんが、国際結婚をした方はあちらに帰りたいという気持を持っていらっしゃるということをおっしゃいました。これも事実だと思います。というのは、やはり私は中国人と結婚なさいました日本の女の方とも、たくさん北京でも、上海でも、南京でも、お会いしてきたわけなんです。で、みなそう言ってお出でになります。あっちに今残っている日本人方々は、非常にまじめな方が多いものですから、やはり丸田さんがおっしゃいましたように、できるだけ早く中国にお帰りになりたい方を帰してあげるというようなことも、私は考えなきゃならない大事な問題だと思うのでございます。ほんとうにいろいろお話伺いまして、ありがとうございました。
  53. 高良とみ

    高良とみ君 おそれ入りますが、だいぶ帰ってこられたので、残留邦人地区と概数が、援護局にはおわかりかと思うのですが、今度第十一次に帰られたあとの結論として、どのくらい残留しておられるか、その地区等についての今のところの統計をお聞かせ願うと、あと引き揚げについて、今後の運動を起すために非常に参考になると思うのですが、今のあらい数字でけっこうですが、いかがですか。
  54. 田辺繁雄

    政府委員(田辺繁雄君) 残留者の数字につきましては、初め九月に今までの調査の結果を一応発表されております。その後の引き揚げに応じまして、いろいろの事情がまた変ったのでありますので、それをさらにつけ加えて調査をいたしているわけであります。ただいまそのまとまった結果を私持ってきておりませんが、昨年発表したのと大差はないと思います。氏名の判明している人であって、生存確実と思われる人は、わかっている部面におきまして七千弱であったと思います。正確な数は覚えておりませんが、七千弱だったと思います。それがどういう工合に分布しているか、その地域的なことは昨年の九月に発表した中に出ておりますか、それから帰った人を引きますと大体、もちろん帰った人が全部私のほうで把握されているというわけではございません。私の方で未帰還者として全然調査外にあった人が帰っておりますので、帰った人を全部の数字から引くと、若干違いは出てきておりますが、大体それの発表と違いはないと思います。
  55. 高良とみ

    高良とみ君 しかし、今度帰ってこられたので、大体分布状況、概数もおわかりになっているのだろうと思うのですが、この七千弱というのと、中共側が言う帰国希望者はもうないという紅十字会のそれと、その他にちぐはぐがありませんか。
  56. 田辺繁雄

    政府委員(田辺繁雄君) 私の申し上げましたのは総数でございます。国際結婚をされた方からすべての人を含んでおる未帰還者すべてでございます。
  57. 山下義信

    ○山下義信君 関連して質問したいのですが、先ほど丸田さんの御陳述については、承わって私は非常に感動いたしまして深くいろいろ感ずるところがあります。ことにその勇気を振って、国際結婚の立場の人が日本に帰ってきて、その帰ってきた理由の中に、残された人や、また帰られた人たちが再び向うへも帰って行くということの念願があなたのお帰りになった目的の中にあるということは、これは非常にいろいろな意味で考えさせられるのでありまして、端的に申しますれば、今後の引揚関係の新しい問題としてわれわれは政治的に考えなきゃならぬということを感じましたから、あなたの御陳述は非常に私にとりましては示唆に富んだ御陳述を承わった、こういうことの私の所感を申し上げておきたいと思います。  それで今のに関連してですが、高良さんからお尋ねがあったのですが、これはまあ中共の引き揚げは政府が直接やっているのじゃないけれども、しかし様子はおわかりになっていると思う。それで十一次の帰国李徳全さん、その他の人の御協力によって促進されたと言っても言えるわけですが、しかしあのときのあの二団体李徳女史等との話では集団引き揚げは一応これで打ち切りだが、しかし個々別々の引き揚げについては十分に尽力するということが約束であった。それから中共にいるところの戦犯釈放については、これも極力尽力するということも約束であった。それから今高良さんから御質問のありました中共にいるところの日本人の実情については、できるだけこれを明白にするように尽力する。たとえば中共残留日本人からの日本への道信、その他を極力進めて実情が明確になるように、一つ尽力するというような二、三のお約束が私はできておったと思う。ところが自来杳として、その李徳全さんの御尽力が具体化されて、当時お約束せられたことについてどれだけ具体的に進んだかということが実はわれわれにはわかっていない。ですからあのときの話からみると、私は一昨日だったか、日赤にも聞いてみたのですが、今ごろはもう朗報が、戦犯の釈放等についての御尽力の朗報がきてもいい時期じゃないかというようなことを関係者は待ちもうけておるというような状態、それで私は援護局長に聞きたいのですが、何かあなたの方にそういうことに関連しての、よさそうな朗報が何かありませんか。もう全然そういうことは、今のところはかけらもありませんか、どうですか。最近の情報を差しつかえない限り赤裸々に、率直にこの機会一つ政府側の持っておられる情報、あるいは見通し等おっしゃっていただきたいと思います。
  58. 田辺繁雄

    政府委員(田辺繁雄君) 仰せの通り李徳女史おいでになりましたときに、戦犯者のうちの絶対多数のものが、近く帰られる情勢であろう。その際にはその人の帰国援助するというお話しだったのであります。先ほどの問題は向うの政府の問題なんでざいますが、しかしそういうお話しがございましたので、私どもも朗報として非常に期待をいたし、また今日までお話しの通り、まだか、まだかという気持で待っているわけであります。十一次の帰還者その他の方からいろいろそういうことを、何かいい話がないかということを伺ってみますけれども、お話しの通りそういう見通しに関する話が得られない状況であります。しかしあのときのことはほんとうのことだと思いまするので、いずれはそういう朗報がくるだろうということを期待いたしております。なお、李徳全さんがおいでになりましたときに、日本赤十字その他の団体向うの紅十字との団体との間に、引揚問題についての詳しい話し合いがなされまして、それが正式に記録になっているのであります。それによりますれば、日本人にして帰国を希望するものは、すべて帰すというのが向う中国政府の方針であると承わっておりますので、その趣旨を向う残留しております日本人全部に周知徹底していただきたいと同時に、それを向こうの政府、または関係機関の末端まで周知していただきたい、と申しましたのは、先ほどのような事例も想像されますので、この点は再三機会あるごとにこちらから念を押しております。まだ先ほどいろいろお話になったような事例がございますようでございますが、そこで先般第十一次の引き揚げの際に、日赤の方もおいでになりましたので、今後の引き揚げの見通し、方法について、集団引き揚げが近い将来においてあるかどうか知りたいと思いましたので、その点向うに聞いていただいたのでありますが、その点につきましては、最も適当な方法によって帰すというお話しであったのであります。従って先ほどお話しのありましたようないろいろ個別的に便船を利用して帰す方法だけではなしに、集団的に引き揚げの配船を要請する場合もあり得ると私どもの方では考えております。
  59. 山下義信

    ○山下義信君 関連して私は外務省に承わっておきたいのですが、最近のバンドン会議で高碕代表は用周恩来首相と会見をして、引き揚げについての協力について、何か話をしたということが新聞に伝えられてある。先般の国会の報告の中にあったかどうかは私は聞き漏らしたが、それについて何か外務省の方では高碕代表から何か聞くところがあって、対処されるようなものがあるかどうかということを、外務省の御出席の方に承わっておきたい。
  60. 小川平四郎

    説明員小川平四郎君) 高碕代表が周恩来首相と会われましたときに、引き揚げ促進の問題をお出しになりまして、そのときの話の模様を承わっております。それによりますると、周恩来氏は、いわゆる戦犯としてただいま拘禁しているものも、大部分については寛大な処置をとる予定である。死刑にするようなものは一人もない。特に老人その他については至急処置するようにしたいということを言われた。こういうふうに承わっております。
  61. 山下義信

    ○山下義信君 先ほど丸田さんについて有馬委員からお尋ねがあって、言うまでもないことで今、日中が、国交が調整されてない今日、いろいろな困難が伴うことは言うまでもない。おそらく日中の国交調整の発破口というか、非常に重大任務で丸田女史のこの帰国があった。今の段階ではこういう方の、国際結婚者の、今度の十一次でも、大多数の人がもう一ぺん帰りたいという希望なんです。引揚問題は非常に大きな問題だと思うのですが、今の段階では外務省は、こういう希望に応じて旅券を出さないのですか、あるいは事情によっては何か詮議をする余地があるのですか、どういう状態ですか、今のところでは……。
  62. 小川平四郎

    説明員小川平四郎君) 今のような場合は非常に御同情を申し上げなければならぬ場合でございまして、特別の考慮をしたいと思っております。ただ、私どもの引揚問題に関します考え方は、もちろん非常に御自分から希望されまして、どうしても残ったほうがよろしいという御判断で残られる方は、これはけっこうでありましょうけれども、ただ希望残留であるというような中共側の表現によりまして、実は帰りたいのだが帰さないでいるというような事例が非常に多いように承わっております。ただいまの御証言の中にも、そういうようなケースで残られたというようなお話しもございまして、私どもとしましては、こういう、何らかの力によって、帰る希望を表明していながら、これは帰りたくないのだというようなふうに見せまして帰さないという、こういう方々をまず先に帰っていただくということに主力を注いでおります。そこでただいまの丸田さんのような、非常な特別なケースになりますと、そういう方に対しては特別の考慮をしなければならぬと思いますが、簡単にそういうことができるということになりますと、たとえば最近戦犯についても、議員団方々がバンドンに行かれたときに、周恩来が言われたそうでありますが、家族を呼んでやろうというようなことを向うから申しまして、ただいままで、実は家族にどうしても会いたいのだから帰らなければならないと言っていた者に対して、それじゃ家族を呼ぶからお前残れというようなふうに言いまして、向うへ残っておられます方が、強く帰還の理由として述べられております理由が、向うによってはぐらかされるというようなことも起るのではないか。従って戦犯の引揚問題に、ある程度のブレーキがかかるのではないかということをおそれております。従いまして、ただいまの丸田さんのようなケースについては、特別のケースとして考慮したいと思いますけれども、いましばらく引揚問題の進展を待ちましてから考慮したい、こういうふうに考えております。
  63. 山下義信

    ○山下義信君 私は旅券問題については、外務省は、ただいまの段階ではそういうことはできませんと言って軽く一蹴するものと思ったところが、今のアジア課長の答弁を聞きますと、非常に含みのある、相当考慮をしておるような答弁で、私は今の答弁につきましては、非常に今日はいい外務省当局の答弁を得たと思って、これは一つの収穫だと思っておるのでありますが、外務省の方針がそういうことであるならば、この国際結婚者の日中の間の何というか、往復というか、いろいろ引き揚げというか、また先方へ帰っていくというか、そういう人道上、あるいは日中の国交調整上、かなり重大だと思われるこの問題についての今後のわれわれの考え方にも、非常に有益な道が開かれるのじゃないかということを私は感ずるのであります。  最後に、私は、紅露政務次官に申し上げておきます。今日は政府の最高責任者が見えていないが、引き揚げ促進ということは、民主党が公約していることなんです。あらためて言うまでもないことなんです。大々的に公約している。そして鳩山さんも、かつての重光改進党総裁時代も、どこへ行っても、引揚関係者、遺族関係者にあっては、涙を流して、承知しました、すぐ帰るようにしてやりますと、盛んに公約をしております。しかし組閣以来、この引き揚げ促進について政府が努力したという形跡を私はまだ見ない。それで、どういう努力をしようとしているのか、どういう見通しがあるのかということについて、実は政府の考え方を聞きたいのでありますが今日は厚生政務次官だけれどもお見えでありますから、他日聞きますから、よく政府の首脳部にいいかげんなことにしないように、紅露次官から特に一つ突っ込んでおっしゃっていただきたい。今この席から政府がなさっておられることの施策や、将来の方針や、そういうことをここで承わろうとしませんが、適当な機会にこれは承わらなければならぬ。現内閣の、政府の公約の何というか、についての追及の一つの大きな問題ですということだけ申し上げておきますから、他日質問しましたら、十分御答弁願えるように政府の方でも特段の御勉強をしておいていただきたい、こういうことを一つ申し上げておきます。
  64. 高良とみ

    高良とみ君 山下さんの御質問にちょうど関連してきたのですが、先ほどから丸田さんのお話しを伺っていて、どうかあちらに残っておられる方に婦人の地位、あるいは民法上のもとの地位ということが昔の日本と変っているということをぜひお伝え願って、先ほどお話しのありました通り、どこへ行かれても、中共へ行かれても、ソ連へ行かれても、日本婦人がどういう人と結婚しても、アメリカ人と結婚していても日本人であるということには変りない。それが新民法の立場ですから、これは世界的なことですから、どうぞ御遠慮なく帰りたい方は、親に会いたい、兄弟に会いたいときには、堂々と日本政府に、そのために外務省もあり、そのために引き揚げにも尽力しておりますから、どうぞ御要求になりますように、従って結婚したから向うの人といったみたいな古い家族制度の考え方は、日本の新民法、新憲法のもとでは、どんな人も持っていない。ただ習慣上、向うの家の人になったのだから、中国人なんだろうというようなことを言う人があっても、それは古い時代のことだということをお考え願って、向うで泣きの涙で結婚したために、こっちの親にも会えない、子にも会えないというようなことを言わないようにお願いしたい。それと同時に外務省も人道上の問題について、つまり中国籍を持っている、結婚による二重国籍を持っている人を受け入れたのですから、この方々向うで、子が死にかけているから会いたいというようなときは、旅費等をみることはできないにしましても、帰る旅券を出してあげる義務もあるのだということを一つ御了承願いたいと思います。これは国交を回復しない国にあっても、アメリカの市民や婦人たちなんか世界中それをやっているのでありますから、そういう点で、これは特別なケースとしてお答えもありましたが、丸田さんのようなことは、せんに帰られたかたの中にもあるのであります。帰る決心で帰って来た方もあるのでありますが、どうぞそういう人道上のことは、国際的に認めたとか、終戦の宣言がないというようなこと以上に、特に便宜、またその道をお開きおき願いますように、これから東南アジア諸国との関係でインドネシアと結婚したとか、いろいろめんどうなことがあると思いますけれども、そういうときに、今までは相当処置の上に遺憾な点があったと思うのです。どうぞその点は特に御研究おき願いまして、こういう方々が帰られるときには、いつでも帰られるように、ただし旅費等は向うでみていただく。香港経由でもなんでも帰れるように御尽力を願いたいということを希望いたします。
  65. 小林英三

    委員長小林英三君) 午前中の審議はこの程度にいたしたいと思いますが、御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  66. 小林英三

    委員長小林英三君) 御異議ないと認めます。それでは午前中の審議はこの程度に終ります。     午後零時十九分散会      —————・—————     午後一時四十七分開会
  67. 小林英三

    委員長小林英三君) それでは休憩前に引き続きまして、引き揚げ促進及び引揚者援護対策に関する件を議題といたしまして、最近ソ連地区から引き揚げられました方々及び在ソ同胞留守家代表会の方に参考人として御意見発表を願うことにいたしますが、この機会委員会代表いたしまして、一言参考人の皆様に御あいさつを申し上げたいと思います。  皆様には祖国を遠く離れられまして、異郷において長い間辛酸をなめられてお過ごしになり、今回帰国になられたのでありまするが、委員一同その労苦に対しまして衷心から御同情申し上げ、また感謝を申し上げますとともに、御帰国に対しまして深くお喜びを申し上げたいと思います。  当委員会残留者引き揚げ促進並びに引揚者援護対策に資するために、最近お引き揚げになりました方々代表としておいでを願い、引き揚げ事情残留者状況等を承わりまして、今後の参考に資したいと考えた次第でございます。御帰国早々非常にお疲れのところ、しかも今後の生活樹立に対しまして何かとお忙しいところを御出席を願いまして、まことに委員会といたしましては恐縮に存じておるのであります。なにとぞ当委員会の意のあるところを御了承下さいまして、よろしくお願いを申し上げたいと存じます。  また在ソ同胞留守家族会代表の方に申し上げますが、留守家族方々が相互によく連絡をとられまして、お互いに助け合い、励まし合われまして、残留者引き揚げ促進のために血のにじむような精進御努力を続けられましたことは、まことに感謝にたえないと存じます。現在までの状況及び今後の引き揚げ促進につきてまして、御意見その他御要望等につきましてお伺いするために、今回御出席をお願い申し上げましたところ、おいでをいただきまして、まことにありがとうございました。  参考人の方からお話をいただきまする事項につきましては、先ほど御通知申上げておきました通りでございますが、必ずしもその項目にとらわれることなく、率直にお話を願えればはなはだ幸いと存じます。ただ時間の関係もございまするので、大体お一人当り十五分以内の程度で御発表をお願い申し上げたいと存じます。  次に、各委員の方の御質疑は、午前中の通り、参考人意見発表が全部終了いたしましてからお願いいたしたいと存じます。  それではまず最初に、藤田了俊君に御意見発表をお願い申し上げます。
  68. 藤田了俊

    参考人(藤田了俊君) 私は昭和二十二年三月、南樺太豊原市において、ソ沖刑法第五十八条六項、八項、九項、十項、十一項によって、不正なる取調べの結果、すなわち事実を数倍したる罪名のもとに、二十年の強制労働を受刑したのであります。そしてウラジオストック、イルクーツクを経て、クラスノヤルスクに送られ、クラスノヤルスク地区第十一号囚人収容所に約二ヵ年、その後昭和二十四年三月タイシェット地区に移動させられましたが、そこに約六カ年、主として第十三号囚人収容所におりました。ことしの一月二十六日に、昭和二十九年四月二十六日、すなわち五四年四月二十六日付の少年減刑法令によってタイシェットで裁判を受け、その結果、服役期間約満八カ年にして釈放となり、ハバロフスクにおける六カ月を経て、このたび帰国に至ったのであります。以上過去数年間の、この身をもって体験しまた見たるところの事実に基いて、在ソ日本人同胞の囚人としての服役状況を御説明いたしたいと思います。  現在ハバロフスク以外の各地では、日本人同胞はソ連人囚人にまじって服役しており、同一の規則に従ってソ連人と寝食をともにするのでありますが、そのうちで日本人は最も生活力がなく困苦しております。労働はもちろんのこと囚人に課せられたる絶対的な義務でありまして、労働することによって初めて囚人たちに生きていくための諸生活条件が与えられるのであります。収容所は、その収容所に附属している作業現場その他によって差異はありますが、平均約七、八百名内外であります。ブリガーダー、すなわち班によって編成されており、その班が労働における、また寝食等すべで生活そのものの単位となっております。一個班約三十名内外であり、班長がその中心であります。労働は班長の指揮によって行われるのでありますが、各班長は囚人の作業現場長の指図を受け、作業現場長は収容所の所長に従って作業計画をするのであります。  所長には上司から与えられた作業計画があり、それを遂行することによって成績が上り、賞与をもらうことができます。ですから、所長は事ごとに、いかにしたら作業能率を上げることができるかと、頭を悩ましております。従って囚人収容所はそこに何事も端を発し、ことさらに犯罪に対する思想的な、精神的な教育によってその更生をはかるなどのことは全然なく、ウクライナ独立を夢みて、たとえ死を賭してもなんていうところから、二十五年もらった学生その他のウクライナ人の青年等勇ましいのが多数おりましたが、反ソ分子であっても作業のパーセントを上げることによって模範囚人として認められ、たくさん金ももらえるし、減刑法令にその資格を得ることもできるのであります。  各班長は月末なりますと、現場長の認めてくれた作業報告によって、班としての作業成績とそれに伴うところのパーセントを確保します。そうして得たところの労働賃金から、収容所における食費その他の諸経費及び囚人としての国家への税金などを差し引いた残りが、現金として各人に手渡ります。そうしてそれらの金で収容所内の売店から、地方で売れ残った日用雑貨品または代用バター、砂糖類など、低級なものではあるがしかしまた欠くことのできない食糧を買って、それをもって幾らかでも栄養を補い、健康の保持に努めるのであります。班長はその場合、各班員の労働力に従って作業報告上の区別をし、班員の労働意欲の向上をはかります。あるいは自身の利益のために、といいますのは、班長の用心棒格の者たちまたは小包などをもらって班長にみつぐものたちに、多くパーセントを書いてやることをさすのでございますが、後者の場合は、もちろん不合理ではあるが班長としての立場を認めざるを得ないし、不平不満を言うことはかえって不利な結果を招く場合が多く、そんなところはよく囚人生活の一端を現わしているのであります。従って金を多くもらう者、少い者、あるいは全然もらえない者などの差があり、過去十年間の無理がすっかり健康を害してしまい、平均して体力のない、すなわち労働力のない日本人同胞は、そのもらわない方に含まれる場合が多いのであります。  ソ連国定の囚人に対する給与第二号によって支給されますものは、黒パ ン八百グラム、砂糖二十七グラム、油十七グラム、野菜四百グラム、雑穀若干、魚の場合百グラム、肉の場合六十グラム、おもなるものは以上でありますが、収容所として総合的な質、量の二〇%は労務係、現場長、班長など、またはブラトヌイ、すなわちできるだけ仕事はしないで腕で生きていこうというやくざ者たちなど、因人中の特権階級の特別料理となって奪われてしまい、もちろん日本人を含むところの力の弱い者たちに、結果として与えられるその給与事情は、御想像によるところでございます。金をもらうことができず、それらの給与でのみ伐材とそれに付属するところの重労働に従事する者は、労働と食糧のバランスがとれず、衰弱していくのであります。作業上のパーセントが六〇%以下の場合には懲罰食を受け、それは黒パン三百グラムと水だけでございます。そうしてそれが三日以上継続した場合と、作業を無断で休んだ場合には、営倉処分を受けます。営倉の給与はもちろん懲罰食であります。またそのようなことが一日でもありますと、その月はもちろん金はもらえませんし、また程度の悪い者は裁判に付され、刑をふやされます。ただ二年前から日曜日ごとに休みをくれるようになりましたので、疲れを休めるために非常に助かることは言うまでもありません。  病気の場合には、医者の証明によって休みをもらうことができますが、医者には収容所の所長から大体の定員がきめられてあり、特別患者を除いた以外の者は、たとえ熱が三十七度四分以上あっても、定員を超過しているために休みをもらえない場合があります。また医者個人の立場に基いて、休みの証明に差別をするのが通例であります。それはすべて囚人収容所は実力によって、あるいは所長の信用などによって、医者であるとか営内における事務系統の仕事、あるいは班長など、いわば階級と、従って個人の生活条件が考えられるのでありますが、お互い同士の腕力によって右を決定する場合が多く、医者がそういう連中と妥協するためであります。また民族的観念などが先立つ場合があるのは争えない事実であります。つまり医者と同民族であれば、まずまず都合がよいのであります。  それはすべての場合にはっきりしていて、余裕のない生活、お互いが赤裸々のうちに精神的に結びつき、たよりとなるのは争えない血であります。従って各人種の集まっているソ連の囚人収容所では、民族別にグループようなものが形づけられる場合が往々にしてあります。従って、それによって他民族を圧迫して自分たちの利益をはかろうとするのであります。また一たび病気となりますと、これくらいたよりのないことはなく、薬などは勿論十分ではありませんので、シベリアに、ことに日本人に多い結核患者などは、刻々と迫り来る死をただ寝て待っているのであります。すべてが非常に良心的である日本人は、とかくそのような結果になりがちなのであります。もちろんその反面、日本人はコリトールネ・ナロード、すなわち文化人である、紳士であると、各民族間に絶対的な尊敬と信頼を受けておりますが、しかしそれらが日常生活の諸条件を左右するほどの甘い環境ではありません。二年前から、ソ連刑法第五十八条によって受刑した囚人にも、労働のパーセントによる減刑があります。日本人はほとんどがその資格を得るどころか、金さえ満足にもらうことができないのであります。  作業は前に述べましたごとく、タイシェット地区では伐材とそれに附属するところの木工場、あるいは台車に丸太の積み込みなど、種々ありますが、一般に危険率が多く、言葉が十分にわからないために、作業中事故により死亡した日本人が少くありません。寒さが零下四十二度をこえる場合は原則として屋外作業は許されませんが、収容所所長の一カ月間における作業計画のパーセントを上げるため、これは前にお話ししましたが、所長の独断により作業に出される場合が多く、そういうときにはもちろん防寒被服の不完全なそしてまた寒さに弱い日本人で、凍傷にかかった方があるのであります。またそれがこじれて、手足を失った方があります。  こういった生きているというよりも、暗黒の中にうごめいているといったほうが適当な、動物的な存在に、故国日本からの家族からのたより、小包くらい、励ましかつ人間らしい気持にさせることはありません。最初の通信は去年の六月ころ初めて許可されました。夢のような話に、だれもが最初は半信半疑で、中には一笑に付してたよりを書かなかった同胞諸氏もありましたが、その後数カ月をして返信をもらうことができたのであります。しかしこれは四〇%でありまして、何通書いても全然返事がないというのがたくさんあります。しかしそれらのことが、数少い日本人たちが休日などに寄り集まって、たった一つの希望を語り合う唯一の話題でもあります。  収容所内には文化部があって、そこへ行くと若干の本とソ連新聞などを読むことができますが、日本人でロシヤ語のわかる人は、ごく少数であって、というのは、生き延びたのがせめてもの努力であります。疲労が激しいので勉強が困難なため、十年間においてすら、ロシヤ人に言わせると、片言にしかすぎない日常会話がようやくできる程度で、読書をしたりあるいは新聞を読むなどのことは、とうていおぼつかない話であります。それでも、月に二回から三回くらい上映する映画または演芸会などで、幾らか気分を転換するといいますか、しゃばのにおいをかぐことができます。  現在では労働は八時間が原則でありますが、昼食一時間、往復平均一時間、大体十時間が作業時間となります。収容所の一日は、朝六時の起床の鐘に始まり、夜十時の就寝の鐘に終わるのでありますが、作業時間を除いた残りは、狭い収容所内を自由に歩くことができます。結局考えてみると、食い気一方のガリガリの方が、それ以外に考える余地がないので、こういう生活にたえやすく、また適当であると言えるかもしれません。風呂などは一週間に一回は必ずありまして、下着を交換することができます。食事その他から考えてみましても、今まで不衛生なために病気になったという話はあまり聞いておりません。被服は私物を許されておりますが、日本人に私物のある人は皆無といってよいし、支給されるだけでは着のみ着のままですから、従ってぼろぼろな哀れな姿になりがちでありますが、素肌をさらして歩くのではありませんし、結局事は足りるわけです。ただ寒さが零下四十度をこえると、そのままではどうしても凍傷にかかりやすいのであります。「いつの日か踏まん祖国日本の土を」と、同胞はわずかにもそこに精神力をつなぎ、たった一つの希望にがんばっているのであります。  去年の九月に、タイシェット地区から約二百名の日本人同胞が帰国する、お前たち日本に帰すのだということをはっきり言われて、ハバロフスクの六分所に移動しました。現在タイシェット地区には、そのとき残されたところの百二、三十名内外の同胞がいることが想像できます。もちろんこれは私個人のそれでありまして、はっきりした確実な数を言うことはできません。ハバロフスクの六分所とは、日本人中国人、朝鮮人の刑期を満了した者たち帰国を希望した場合に収容させる分所でありまして、各地区から集まってくるのであります。朝鮮人、中国人などは、その六分所である程度人数がまとまってから、直接故郷へ帰る、すなわち引き渡されるということになります。その二百名の同胞はその後何の音さたもなく、結局れんがによる建築作業に従事して、現在その六分所におります。  当局者すなわち収容所の所長などは何かにつけて、お前たち日本から船が迎えに来たら帰るのだ。いつでも帰してやる ——仕事が少しでも余計にしてもらいたいのか、愛矯を振りまいておりますが、囚人であるところの、二十年あるいは十五年、二十五年という刑期をそのまま背負わされている人たちが、減刑法、すなわちマレンコフになってから囚人に対して種々摘発された減刑法令でありますが、六分所では全般的にさっぱり適用されず、といって興安丸が来たけれども残されてしまい、その判断に苦しむのであります。現在その減刑法に資格があり、私のように他の地区におりましたならば釈放になったのを、六分所であるがゆえにそのまま現状維持の同胞諸氏が少くありません。しかし他の地区における日本人同胞よりも希望が持てることは、言うまでもありません。それは刑期に関連のない、日ソの政治的外交による帰国の一歩手前であるということを、自分たちが勝手に想像するからであります。無理に想像するからであります。それがせめてもの希望であるのであります。  結論としまして、現在全在ソ同胞の五〇%がインワリード、すなわち医者の認めた労働不能者と病人であることが、以上述べましたところの事実を証拠づけるのであります。帰国が一日おくれることは、一人の同胞を失うのであります。私が帰国すべく別れを告げたとき、同胞は、帰ったら国民の皆さんに言ってくれ、もし国策遂行のためにわれわれが犠牲となるのならば、これは本望である、と言っておられました。これは私は伝言として話します。  なお最後に、主として五十年以降、すなわち昭和二十五年以降に、北海道の漁夫で領海を越えたために拿捕され、ごうもんの結果、スパイとして二十五年の無実の罪を負わされた人々が多く、たくさんシベリアで同じようにもだえ苦しんでいることをお忘れにならないようにお願いいたしまして、私の話を終りたいと思います。以上。
  69. 小林英三

    委員長小林英三君) ありがとうございました。  次は、富永恭次君にお願いいたします。
  70. 富永恭次

    参考人(富永恭次君) 私は終戦の当時、第百十九師団長として、吉林と東寧の中間にありまする敦化という所におりましたので、停戦の命令によってその付近に配置をされました全師団を敦化に集結いたしまして、武装解除その他の跡始末に出向いておりました。八月の末日に敦化の満鉄病院社宅に監禁をせられまして、十日後ハバロフスクの収容所に飛行機で移されました。それから約二週間を経ましてモスクワの方に護送されまして、十月の九日にモスクワ、ルヒアンカの監獄に到着をいたしました。それからそこで尋問を受けますること六年余り、昭和二十七年の一月にモスクワ軍管区の軍法会議に付せられまして、判決を受けました。それから同年の四月にシベリアのバム鉄道の沿線、今申されましたタイシェット地区に移されました、その地区で、約二カ年の間に四カ所のラーゲルを転々移されまして、最後の半年は病気のために同地区の病院に入院をしました。そこで特別法令の適用を受けまして、病気釈放になりました。昨年の十一月ハバロフスクに移されまして、そこから今回帰朝いたしたのであります。  抑留中、未決監におります六年余りは、何ら労働を課せられません。ラーゲルに到着した後は、不寝番、それからトランク削り——ドランクと申しますと、日本で壁を塗る前に竹を入れましてその上を泥で塗りますが、その竹のかわりにする小さい木の板みたいなものであります。それを削っておりました。あるいはまた野菜の選別、まき用の材木ののこぎり引き、あるいはまた雪かきその他掃除等の軽労働に服しましたが、右のような軽労働に対しては賃金を支払いません。ただドランク削りの四カ月間は、一カ月に十ないし十五ルーブルの賃金を支給されました。思想教育等については、何ら受けたことはございません。内地通信は、昨年五月病院で初めて許されました。本年三月ハバロフスクで、最初の内地からのたよりを受け取りました。ただ一回でございます。最近における取扱い態度等については、多少軽くなりまして、背中とかあるいは両ももに縫いつけてありました囚人の番号を取り、あるいはまたバラックの鉄の格子をはずしまして普通のガラス張りにする、あるいはまた消燈後入口のとびらに錠をおろさないようになりました。  この間、私は特にこの同胞、日本人に深厚なる感謝の意を表さなければならぬのであります。私らのおりましたラーゲルにおきてましては、あるときは二、三人、一番多いときは約十人ぐらいの同胞がおりましたのですが、私らみたようにからだの弱い、要するに廃人同様の者は、やはり前申しましたような作業に無理に従事させられるのでありますが、その際は常に同胞諸君が、陰になりひなたになり、援助をしていただきてまして、たとえば工場に行く間、遠いときは千メートル近くもありますが、一般の歩行が早くてとうてい私は着いていけないのであります。そのときには、私を両方でもって引っぱるようにして、その工場に連れていき、帰るときもまた同じ。そのほかあらゆる援助をいただきまして、今日までようやく生き長らえてきました。その点につきましては、この美しいわが同胞の援助に対して、常に尽きざる私は感謝の意をささげておる次第でございます。  今、この労働その他の細部につきましては、同じ地区におりました藤田君が詳細申し述べましたから、私から重ねて申し上げることはここでやめることにいたします。ただ、私は先般この帰還した者一同を代表しまして、抑留者救出並びに援護に関する陳情要綱というものを起案いたしましたが、それに関連しまして、この抑留者状況の一端を申し上げさしていただきたいのであります。  最初に、全抑留者、もし全員不可能とすればなるべく多くの人員を、すみやかに帰還せしむるべくお取り計らいを願いたいということを最初に出してありまするが、この全抑留者、もし全員不可能とすればということを書きましたのは、次の理由によるのであります。一度に帰していただければ一番いいのでございますけれども、事実抑留者中には、樺太方面に対する密航あるいは漁業のために領海侵犯したというような、純然たる国内法によって、要するに戦犯じゃなくて逮捕された者が相当あります。あるいはまた、最初捕虜でありましても、その後殺人とか横領とかという罪で、つまり戦犯以外の罪で今なお抑留されておる者がおるのであります。すなはち戦争犯罪者以外の者は相当あるのでありまするから、これらの者をすべてすぐ帰すということは、若干無理な点もあるのじゃないかと、実はおそれておるのであります。なおこの戦犯と申しましても、ソ連側のいう戦犯というのは、国際的にいうのと少し違うようであります。ただ暗号の解読に従事した兵とか、あるいは単なる憲兵という字のために、それに属しておったところの下士官兵、あるいは単に機動旅団というその名前だけで、それに属しておった将兵をみなつかまえた。あるいはまた、特務機関という名前で、勤めておったすべての軍人、軍属を逮捕しておるむきもあります。あるいはまた、単に警察官、国境警察隊というそういう名のために、何ら別に犯罪と、いうものがなくても、その名に応じて二十五年をもらった者が相当ございます。要するに、戦犯と申しましても、国際的に見た戦犯ということとは種類が違うように思います。しかしながら、ソ連としては彼ら一流の解釈のもとに、戦争犯罪人として称しておりますから、まだこちらの戦犯者が巣鴨の刑務所に相当残っておりまする以上、ソ連に向ってお前の方は全部帰せということは、少し無理があるという気持もするので、特別に、これができなければこうということを、入れてある次第であります。  それからその次に、そういう方針が順調に、早急に運ばれる場合を顧慮して、これが交渉と並行して、次の具体的要綱に向って進めていただきたいという最初の項に、昨年の四月二十二日及び五月十四日発布のソ連囚人釈放に関する緊急法令を確実にまた適正に日本抑留者に適用していただきたい、これを入れております。これはごくかいつまんで申しますと、去年の法令で、満十七才以下で犯罪をしたというのでつかまえられた人は、一応裁判を経て釈放する。つまり少年釈放。御承知の通り、あの停戦当時ずいぶん無理なひどい目に私どもあいましたので、この中には中学校の一年、二年というような幼い人たちが、つまり義人的に、見るに忍びずして、過激なる行動をやったというのが多々ありますので、こういう人はみなつかまえられて、向うへ行っているのであります。こういうのは、その犯罪のときに、満十七才未満であったら釈放するということになっております。これは向うの方でも釈放の方針で進んだようでありますけれども、まだ相当このまま残されております。その次には、廃疾者で、ひどい病気をして、どうしても何の労働もできないという者は、身体検査をしてそれがつまり廃疾者だということがわかりますれば、裁判をしてこれを釈放することになっております。それから三分の二の刑期を終えた者は所長の裁量によって釈放することを得と、こうなっております。その他こまかい刑期の計算のこととかなんとかたくさんありますが、大体この三つが大きな点であります。少年、老廃者、三分の二の刑を終えた人の釈放、三番目は所長の裁量によるということがあります。これはロシヤ人その他の東洋人にはあまり厳重でなくて、あっさりと許されて帰ったのでありますが、日本人は、最初私どものおりました地区では、普通同様にやりましたのでありますが、この十月から様子が変りまして、日本人はもう帰すのだから検査をしない、身体検査が通っておっても裁判をやめるという例がたくさんあるのであります。ハバロフスクに来てみますと、日本人の大多数のおりますこの地区では、全くこの検査をしていなかったのであります。ところが、本年の三月になって、初めてこの検査をハバロフスクで始めまして、その検査の規格が非常に厳重で、全くほかの地区とは比較にならないで、千名ばかりのうちで、身体検査で身体が悪いということでかかった者がわずかに三十何名、実際はほかの地区でありましたらおそらく二百名くらいは検査にかかるのじゃないかと思われるのでありますが、わずかに三十何名、そのうちでまず裁判の結果七、八名だけしかこれに通らないのであります。ほとんど息を失って、今にも死ぬという方もあります。また半身不随でひょろひょろになった方が相当たくさんあります。そういう者もほとんどみなかからないのであります。ほかの地区、またほかの民族に比べますと、全く違う結果を出したのであります。これは何らかの政治的意味があるかと思いますが、適正に条文通りに適用していただきたいのであります。  それから帰還者の還送回数を数多くしていただきたいということを書いておりますが、これは今のように一年に一回では、非常に向うにおる人は待ち焦がれて、何ともできないような焦躁の感にうたれるのでありまして、実際一年に一回でもやってくれればいいのですが、ここにおいでになる赤羽女史のごときは五年もそのまま残っておられた。船が来ても、まだ帰すべきものも帰さずにほうっておくのが相当あります。日本ならば一日監獄から出すのがおくれても、これは大へんな人権じゅうりん問題になるだろうと思います。向うの方は半年、一年はおろか、幾年でも引っぱっておく。それで同じ年に同じたとえば十年の判決を受けましても、みな満刑が違うのであります。ところによってはザチョット、割引がありまして、一年務めても一年半にするとか、地区によってそういう区別がありました関係上、同じ年に同じ年限の懲役の判決を受けましても、満刑はみな違います。それで一月、二月、三月と各月に満刑者がぞろぞろ出ますから、今年の一月に満期が来ても、一年船がおくれますと、ある人間は満一年はそこで待たなければならぬことになる。そういうことのないように、いま少しこの還送の回数を多くしていただくということが大事なことだと思います。  それから広大なる地区に、全ロシヤにわたって散在しておりますので、これをなし得る限り集めていただかなければ工合が悪いと思います。たとえばハバロフスクとかあるいはイワノウオの将官収容所、ウラジミル監獄、アレキサル監獄などには多数の同胞が集団的に収容されておりますが、単に一名とか二名とかというところもあるのであります。まだ通信許可されてないところもあります。消息がわからないようなものでも、生きておる入があるに違いありません。現にそういう実例があります。日本人が集まっておれば郷愁を感じ、悲哀を感ずることも少く、相助け合ってがんばり合います。帰すとなっても、まとまっておれば、方々から寄集めるという手数も要らず、早く進みます。死にましても、だれかがこれを確認しております。以上申しますようにいろいろの利点がありますから、どうしてもこれは集団にしておいていただかなければならぬと思います。  そのほか、数多く書きましたけれども、以上のことだけ私は所見として申し上げておきます。
  71. 小林英三

    委員長小林英三君) どうもありがとうございました。  次に、福田雍喜君にお願いします。
  72. 福田雍喜

    参考人(福田雍喜君) 自分は今回樺太から引き揚げて来た福田雍喜であります。自分昭和二十年六月六日に事務見習としてエトロフに渡って、そして終戦になりまして、エトロフ島にロシヤ軍が進駐しましてから約二年間、地方人として働いておりました。その後、四八年の一月三十日、ソ連の人民裁判において新刑法の第三条で五年間の刑を受けて、そうして樺太に連れて行かれて、樺太で服役をしておった次第であります。樺太で五年間の服役を終って、五十三年の一月三十日に刑を終り、南樺太の敷香の町に帰住を許可されて、そこに行って六月までの間、ソ連の国営食糧営団の小麦をかついだり、グルシク——仲仕みたいなことをやっていました。その後自分はある人の世話で、歯科技工士の見習いとして約一年と一カ月間、敷香の町で働いておりました。そこで技術もすっかり覚えましたために、自分で独立をしてやろうと思って、豊原へ帰住を許されて、豊原へ出て、そうして豊原でもって約三カ月間独立をしてやっておりましがた、ムイカ収容所で敷香の帰住違反で五四年の九月二十二日に裁判を受けて、また一年間の刑を豊原の刑務所で過ごした。刑務所にいる間に、そこで今度あまり予盾過ぎるので、控訴をしまして、半年の刑を減刑してもらい、三月の二十二日に刑を終り、そうして社会に出ている間に、自分日本に帰してくれという嘆願書を二回も出しております。それで来たと思うんですが、それでもって出たら、すぐ向うのバストロ係のほうで今回引き揚げがあるからハバロスクへ行けという旅行証明をもらい、そして今回の引き揚げで帰ってきたわけであります。  自分は樺太でもって地方人として約一年九ヵ月以上も向うで働いておりましたから、向う日本人一般人の抑留者の状態を少し申し上げたいと思います。  向うの労働状態。日本人は何しろロシヤ語があまりわかりませんし、事務をとるとかということは全然できませんから、みんなおもに普通の労働をしておるというわけです。中には山中に入って伐採をやったり、ある者は鉄道に入ったり、ある者はまた小麦をかついだり、建築をやったり、いろいろな仕事をやっております。賃金の状態は、一カ月間に約千ルーブルから千三百ルーブルを、普通平均にもらっております。夏など建築などをやる場合になりますと、余計働いたりしますと、二千ルーブル以上も働いた場合もあります。そうして向うに住んでいる人たちの食物、栄養等の状態は、まず三カ月くらい働いたら、背広の一着も買えるという状態です。酒を飲んだら別なんですけれども、酒を飲まぬでしんぼうしたら、生活状態はそんなに悪くない。衛生や健康状態は、向うはすべてが国営の病院になっておりますので、病気の場合でも、なんでもロシヤ人と同等な取扱いで、全部タダで病院に収容してくれまして、思想教育、そういうものは向うでは全然なかったです。ただ三カ月に一ぺんくらいは働いている職場に、向うの本部あたりから来て、帰化をしろ、帰化をしろという宣伝を勧めるわけです。  内地との通信向うではラジオを聞くことは許可しておりますけれども、手紙を出すことは、全然樺太は、ほかの地区はわかりませんけれども、樺太は許可しておりません。内地事情というものは、向うに住んでおる方々はよくわかっておると思います。ただ通信、手紙を出せないから生きているかいないかということは、全然わからないけれども、向うに現在残っておる人方は、四九年の九月最後の引き揚げ後、満刑になって地方人となっておる人が約百数十名おります。はっきりした数は実はわかりませんけれども、まあそのくらいはいます。それに一般地方人として、これは国際結婚をした人——ロシヤ人とか朝鮮人と結婚をした日本人の女とか、それにまた家族持ちで残った方々が一千人以上もいる。自分は樺太にいたのは、敷香、豊原だけにしかおりませんから、ほかの地区は全然総合的にわかりません。  そういうような状態で、それに何しろ向うでは、一々帰化をしろ、帰化をしろというものですから、若い者はラジオも聞いたりなんかしておりますので、帰化の嘆願書を出したりして、帰化した人方もおります。しかしこちらに今まで年をとった母なんかがいる人は、帰りたい、帰りたいとみんな願っている次第ですけれども、向うはほかの地方と違って、樺太は別個に取扱われて、何しろいろいろな事情で、自分から進んで帰してくれという嘆願書を書く人が少い。どうしてかというと、向うに残っている人方は、思想犯でかかった人方は、全部本国に送られて、ただ普通一般の食糧に困って、そこら辺の職場で働いていて、物を拾って無実の罪で入ったとか、それからヤミをやって入った人方が多い。それで自分から進んでいろいろなことを申し出た場合には、またそれで刑をきるのじゃないかというおそろしさがあって、だれも自分から進んで書く人がいないのですが、大半以上はやはり帰国をみな希望しているようですけれども、何しろ自分の意思というものを発表しないものですから、わからないのです。それにスターリンが死んだ後、向う現地人との結婚関係においても、帰化しなくても自由に、ロシヤ人であろうと、朝鮮人であろうと、結婚を許可されている状態であります。それでたくさん結婚をしたりなんかした人がいます。それに日本人は特にまじめに働くものですから、どこへ行っても待遇されて、よい給料をもらって働いているわけであります。  今後の引き揚げの見通しというものは、何しろ自分個人としては、どういう工合に樺太がなっているか、全然わかりません。  このくらいで、何かほかに聞くことがありましたら、お答えします。
  73. 小林英三

    委員長小林英三君) ありがとうございました。  次は、山本藤平君にお願いします。
  74. 山本藤平

    参考人(山本藤平君) 私は終戦当時は、樺太の鉄道局業務部長をいたしておりました。進駐後翌年の四月まで、在来の鉄道局の組織そのままで業務を実施いたしました。ただ、ソ連側の鉄道機関としましては、軍の輸送司令部が大佐を長として設置されまして、それの指示に従って働いて参りました。二十一年の五月から、ソ連鉄道局長以下鉄道幹部が多数入り込んで参りました。この人々に業務を引き継いで、鉄道局長以下私たち三人の部長は監察というような職名をもらって、局長の特命事項をいたしておりました。ちょうど二十一年の五月ころから樺太における検察の組織が非常に強化せられまして、鉄道にも、鉄道憲兵隊と私たちは呼んでおりましたが、当時のゲ・ぺ・ウの機関が設置せられまして、もっぱら鉄道関係の検察に当っておりました。最初は主として鉄道部内における事故関係者を取調べまして、三年、五年、長きは十年、単なる鉄道事故の責任者、あるいはその中にはわれわれの判断からすれば、当然不可抗力であると思われるような者たちまで、こういう体刑を言い渡されまして、相当数逮捕せられていったのであります。うち、七月には施設部長、九月には鉄道局長が拘引せられまして、その後に業務部長である私と総務部長、二名仕事をいたしておったのでありますが、常にまわりにつきまとっていることがよく察知せられました。警戒をしていたのでありますが、二十二年の一月に、ついにテロ思想容疑者として検挙せられまして、結局それは事実がなかったために、サボタージュ指導、スパイという罪名をもらって私は七年の刑を言い渡されました。二十二年の十二月に樺太を出てシベリアに送られました。途中中継所を経て二十三年の二月にカンスクという土地の、シベリア本線のイルクーツクから七、八キロくらい西であります。そこの収容所に収容せられまして、鉄道の貨車積み込みをさせられておりました。主としてここは製材所でありますから、枕木あるいは原木を貨車に積み込む仕事であります。それから二十四年の三月にソ連の政治犯の取扱いが変りまして、政治犯を一般犯罪者と分離いたしまして、付近の……、政治犯五十八条関係でありますが、ちょうど日本の俘虜の方々引き揚げられてあいておりましたバム鉄道の沿線に移りました。それから二十八年の十月までバム沿線におりました。主として鉄道の線路工事あるいは伐採というような仕事をいたしておりました。二十四年の十月に、ちょうど私たちのおりました収容所が解散になりまして、所員全員西方のオムスクに送られました。当時日本人は同じ収容所に約十名でありました。オムスクで二十九年一月——昨年一月でありますが、刑期が満了いたしまして地方に出されることになりました。当時はすでに第一回の引き揚げが済んだあと第二回が目前に迫っている時期であります。それは収容所の中におきましては、近くあるということのみでわかりませんでした。当然帰れると思っておりましたところが、クラスノヤルスクに送りつけられまして、そこから三百キロばかりエニセイ河に沿って北上いたしましたストレルカという小さな町にある建設事務所の人夫として送られました。ここは枕木工場建設中でありまして、一部操業しており、第二工場及び付帯の自動車道路の建設がおもな仕事でありました。そこの人夫といたしまして、道路工事及び枕木工場建設の基礎工事等に従事いたしまして、本年の二月七日帰国の通知を受けるまでそこで働いておりました。  収容所の内部における労働状態その他いろいろ藤田さん以下、こまかいお話がありましたから、ただ私自身に関することを一、二申し上げるだけにしてとどめておきたいと存じます。収容所内におきましては、三カ月に一度、後に半年に一度になりましたが、軍医の健康診断がありまして、これによって体位を一級、二級、三級、四級というように決定いたします。一級、二級は頑健な者でありますから主として重労働に向ける、三級は軽労働、四級は労働をいたしませんで、ときに雑役に使われることはありますが、一般的な労働はいたしません。私は大ていの場合三級でありました。ときに二級になったこともありますが、ほとんど三級で通してきたのであります。自分としましては、若いときから健康には自信を持っているつもりでありますが、何分にも当時食糧その他の関係で衰弱していることが多いのでありますので、二級以上にはなれなかったわけであります。しかし三級といえども、先ほど申し上げましたようにバム沿線は原始林を開いて鉄道をつけたばかりの場所でありますから、ほとんどが伐採あるいは土工というような重労働ばかりしかありませんので、必ずしも等級通りには行っておりません。これはおそらくよその管内におられた方でも同様であろうと思います。従って非常に過労に加えまして、食糧不足、あるいは食物になれないせいもありましょう、衰弱することが多いのであります。私も二回入院いたしました。しかし病院に行って検診を受けますと、血圧も低い、熱もない、血沈も良好である、レントゲンの検査異常なし、胃液の検査、消化力旺盛なりということで、さっぱり病気らしいものはございません。こういう病気なくして病院に入らなければならない状態の人がたくさんございます。平素の生活状態が幾分でもおわかりになることであろうと思います。なお、幸いにして向う伝染病が非常にまれでございます。チフス、赤痢、コレラ等はほとんど聞いたことはございません。ただ身の回りで一度だけ例の発しんチフスが発生したということが一人だけございました。これはシラミが菌を媒介するというので、シラミの駆除には非常に厳重な方法をとっております。着類は入浴のつど熱気消毒をするというようなことで、厳重に警戒をいたしております。そういう関係も手伝ってか、非常に伝染病が少い。この点だけは非常にけっこうでございました。所内におきましては、別にわれわれに対して思想教育をいたしません。ただ最近図書を相当備え付けております。その中にはマルキシズムの原理からいろいろな共産主義の書物、原文のものはもちろんのこと、日本語版まで相当な数を持っておりますという程度で、これに対する働きかけは、所内におきましても、わずか一年でありますが、社会に出ましても働きかけを受けたことはございません。  それから内地との通信連絡でございますが、これは非常にまちまちでありまして、私などは収容所の最後としましてはオムスクにいたのでありますが、その一月まで全然許可されませんでした。そこを出て地方に参りまして、先ほど申し上げましたエニセイの沿岸でありますが、まず第一に警察に行きまして、日本と手紙の連絡ができるかを問い合せましたところが、まかりならぬという仰せであります。その後収容所におります友だちから手紙が来まして、日本から手紙をもらっただけでなしに、小包までもらったという話が書いてありましたので、さっそくまた願い出ましたところが、やはりまかりならぬの一言で追っ払われました。おそらくこれは地区によっての取扱いがまちまちになるのでなくて、中央からの指令が不徹底なためであろうと存じます。この例はまだほかにもございます。たとえば今回の帰国に際しましても、刑期が終って地方におる者で、同じ場所におって片方には通知が来、片方には来ない。現に赤羽さんなんぞも最初は通知がなかったのであります。そこで田舎の警察では要領を得ませんので、クラスノヤルスクの本部に行きまして交渉し、調べてもらうことにいたしまして、あるいはそこで書類が下積みになっておりましたのか、または中央からの指令が不備であったのか存じませんが、やはり帰るんだと言われて帰って来られた、こういう例もございました。広いシベリアの奥地にはなかなか中央の指令は徹底しかねるように見受けられました。私は向うから手紙を出すことを許されませんでしたが、東京の家族から十数回にわたって手紙々出し、小包も数回出したそうでありますが、ついにこれも一遍も向うでは受け取りません。こういう状態でありますから、向うに現におられる方々でも手紙を出しても返事が来ない、あるいは着いた模様がないというようなことで非常に心配しておられます。この辺何かどこにそういう穴がありますのか、お調べができるんでありましたら、お調べを願いたいと存じます。  社会に出ましてからは、これは私、刑が終って出るのでありますから、相当な自由を与えるものと予想しておりましたが、現地に着きますと、現地までは鉄砲を持った兵隊が護衛いたしてきました。これはソ連人あるいはバルト三国の者もおりましたが、一行十五名でありましたが、これに対して二名の兵隊が護衛して参りました。着きました所は小さな町でありますが、その小さな町に居住制限を受けました。そこから一歩も出ることは許されません。特にそこの県庁の所在地に用事があり、要求をされた場合には警察の証明をもらって行くということで、居住地は非常に極限せられております。なお月に二回警察に呼び出されまして、そこで点呼を受けて署名して帰るということをいたしておりまして、一応社会人と言っておりますが、完全な自由人ではございません。これは日本人だけでなしに、彼らもまた、ソ連人あるいはウクライナ人とかロシヤ人全部身分証明書——身分証明書と旅行証明書を兼ねたようなものがあるのであります。その。パスポートをもらっておらないのであります。そこでの仕事は私は土工でありますが、給与は、ちょうど一カ年おりまして、最後に全部のしめをしてもらった、もちろん毎月もらうのでありますが、一カ年に八百ルーブルでありましたが、これから税金、家賃、電燈料、寝具料、それから所を出るときに六百円の前借をして、これは衣類でありますが、出ましたために、結局食糧、それからほんの作業衣を買う程度で一ぱいでございました。なお私たち引き揚げました当時、あそこはクラスノヤルスクでありますが、あるいはマカダン方面、各方面からの方々お話を伺ってみますと、その当時はほとんど社会におる人は、向う残留を希望する方以外には残っておらない。知っている限りにおきましては、残っていないようであります。しかし、終戦直後に十年の刑を受けられた方々が非常に多うございますから、もし、この次の引き揚げ機会が早急になければ、またわれわれと同じようなコースをたどる人が相当できるんではなかろうかと存じまして、ちょっと御参考までに申し上げたわけであります。  雑駁でありますが、これで終りといたします。
  75. 小林英三

    委員長小林英三君) ありがとうございました。  次は赤羽文子さんにお願いいたします。
  76. 赤羽文子

    参考人(赤羽文子君) 私は赤羽でございます。私は大連ソ連の領事館で、領事、副領事以下四、五名の者に日本語を教えておりました関係上、終戦後直ちにソ連に捕われまして、大連、奉天、チタの未決監で十ヵ月過ごしました。チタの未決監におりますときに、書類裁判によりまして、政治犯として五年の刑を言い渡されました。一九四六年、すなわち終戦の翌年カザフスタンのカラガンダの近くのアクモリンスクのラーゲル、すなわち刑務所に送られました。刑務所、収容所といいますか、同じだと思いますが、そこには女囚人が約一千名ほどおりまして、隣には男のラーゲルも続いてございました。ラーゲルは小さな村のようなもので、囚人はそのラーゲルにおる者が生活するために皆いろいろの仕事をしておるのでございます。私は刺しゅう工場で働いておりましたが、栄養不足でルイレキになり、八時間労働が六時間となり、続いて四時間になり、そして、二年の病院生活を余儀なくされ、そのとき栄養不足のため左の耳が全然聞えなくなりました。女のラーゲルも男のラーゲルも組織においては変ったところは別にございませんが、私はそれに、五年前にすでにラーゲルを出ておりますので、そのラーゲル生活に関してはもうおっしゃったんでございますから、申し上げないことにいたしておきます。  一九五〇年、私は、一応自由を与えられまして、鉄条網の外に出たわけでございますが、五年の刑を終え、日本に帰してもらえるはずだったんでございますが、流刑、すなわち島流しといいましょうか、それを受けて、クラスノヤルスク地方に送られました。そしてロシヤの自由民、普通の人と一緒に生活をしていたのでございます。私の住んでおりました所は、クラスノヤルスクから汽車でカンスクに参りまして、そこからバスで四、五時間行くと小さい町に着きます。そこから七十五キロ入った川沿いの小さな、人口三、四百という村でございます。五年の刑を終えまして、私の行ける所は、七十五キロ離れたその小さな町に行けるというのが最大距離でございました。その周囲は果てしない松と白かばの森林で、全村あげて森林伐採作業に従事しておりまして、私のように筋肉労働に適しない者の行く所ではなかったのでございました。私は最初掲示板書きをさせられました。材木を切るときにいろいろ危険が伴うので、その危険を注意するのでございます。また祝日のためのスローガン——能率増進激励のスローガンを書き、そのようにして生活をし、私は村唯一のペンキ屋であったわけでございます。三月には半年降り積ったシベリアの雪は厚く、かたくなっておりますが、その雪かきもいたしました。川の水が解けて六月になりますと、冬の間準備しておいた高く積まれた材木をころがして川に流し込みます。私はそのときリューマチで苦しんでおりましたが、やはり、かり出されました。このような仕事はロシヤ婦人にとっては何でもないのでございますが、筋肉労働のできない自分には大へんな仕事でございました。彼らも私に力がないために、彼らにとって大へん不利なので、私と一緒に仕事をするのをいやがっていたわけでございます。麻袋修理もいたしましたが、これは皆一時的臨時の仕事で落ちついて生活はできなかったのでございますが、そのうちに便所掃除の仕事を与えられましたときは、月給二百七十ルーブルで私も非常に喜んで、つましく生活するには十分でありました。最後私は一年半以上託児所の保母として働き、月給三百十ルーブルもらい、もし、日本に帰れないようなことになったら、死ぬまでそこに働きたいと思いました。またそこで働くよりほかに適当な仕事が私にはないのでございます。そこは冬でも屋根の下で働けるというのが非常にいいことなんでございます。三百十ルーブルと申しますと、日本で幾らになるかと申しますと、あらゆる物価が同じ率で計算できませんので比較するのはむずかしいのですが、もちろんその中から収入税、国債、子なし税を引かれます。子なし税と申しますと、独身税とは違って、結婚していても子供のない者は払わなければならないのです。しかし、その子なし税は、外国人というので、一九五四年あたりから返してくれました。すなわち外国人は法律上ソビエト人と結婚を許されていないので、子なし税があり得るわけがないのでございます。託児所は、生後三カ月から三才までの幼児を預って、保母一人で二十人分子供のめんどうを見ております。私の印象では、ソビエトの人たちは、個人としては非常に気持のよい人たちでございました。しかし、ただ一つ不愉快なことがございました。それはこういうことです。向う人たちが、あなたは日本に帰れると思うのですが、いやあなたは決して帰れない、私の言葉を記憶していて下さい、と言うのです。これは何を示しているのでございましょうか。私はそれはソ連政府の国民に対する態度の反映ではないかと思うのです。私はラーゲルにいる間新聞を見るのを避けました。もちろん、新聞といってもソビエトの新聞ですが、また政治外交に関して質問したいときでもがまんしていました。シベリア流刑中、自由になってからでございますね、ラジオを通して日本の声を聞くことができたのですが、そんなことが原因しまして日本に帰れなくなっては大へんだと思って聞かないでがまんしていたようなわけでございます。それは私がばか正直だからとか、臆病だからそういう態度をとっていたというのでは決してないのでございます。  私は一九五四年、すなわち昨年、外国人に与えるパスポートの一種、無国籍者の居住権と申しましょうか、そういうものを与えられました。しかし、私の行ける所はその七十五キロ離れた小さな町へ行けるのみでありました。そのパスポートには、最後の国籍は日本と書いてありましたので、私は機会が来れば、外交関係がよくなれば、きっと日本に帰れると思っておりました。しかし、日本人の中には、ロシヤ語がわからなかったり、またパスポートの知識が不十分のために、ソビエト人のもらう普通のパスポートをもらいまして、今度友だちの日本人帰国できても、自分帰国できないという状態にある日本人もおり、こういう方が一人おられるか、まだほかにおられるかは私は知りません。刑が終りましてラーゲルから釈放されている抑留者の多くは、この一、二年に帰国できなければがまんの緒も切れてしまうのです。そしていつ帰れるか、帰れるかと首を長くして待つのをやめて、腰を据えてシベリアに落ちつかして、シベリアで自分も仕方がないから家庭を持とうと思っておられるようです。戦争中ならいざ知らず、平和になって十年も不自由な不自然な生活を続け、ことにラーゲルを出まして一応自由を与えられて、それを続けるということは、非常に困難なことでございます。私のようにからだの弱い者でもシベリアで生きることは生きてきたのでございます。しかし帰りたい、ぜひ日本に帰らなくてはならないと思っておりました。それはラーゲル生活でも、また流刑中でも、聞いたことでございますが、ロシヤの人たちで、ソビエトに籍がある人で、夫が政治犯だったために刑を受けてラーゲルにいるという女性がたくさんラーゲルにいるのでございます。また一度自由になって家庭で平和に暮しておっても、また政変があって流刑を受けている人もあるのです。また父が政治犯で子が流刑になっております。そしてもし日本のような国に行けるのなら自分日本に行って暮したいというような口吻も聞くのであります。それは当然だと思うのです。それで私が日本人なるがゆえに日本に帰りたい、親きょうだいがいるから日本に帰りたいというほかに、日本に帰りたいという大きな理由があったのであります。ロシヤにいてはまたどんなことになるかわからないから、ぜひ帰りたいという気持ですね。健康のある、筋肉労働のできる者はソ連で暮すのには、物質上では決して困っていないのです。日本人の中でも、私のように三百ルーブルかせぐ者は少くて、先ほど申し上げましたように千ルーブルも働ける方もあるのです。しかしそれは皆筋肉労働者の場合でございまして、その方たちがいつも千ルーブル以上もらえるというのではなくて、ある月は三、四百ルーブル、仕事がないときもありますし、いろいろ収入の方は動いております。今度一緒に帰って来た人々の中に二人の方がインバリッドのドム、すなわち日本で申しますと養老院というのとちょっと違いまして、病弱者の家と申しますインバリッドの家から二人帰って参りました。一人の方にお話を伺いますと、インバリッドの家というのは病院のようなものでございまして、食物が足りないとおっしゃるのです。ほかのそこにいらっしゃる人たちは小包をもらって補っているそうで、その日本の方には小包がないのであって、そこに働いておるドイツ人のおばさんなどが同情しまして、何かと持ってきて下さったそうであります。  一般の生活について申し上げますと、ロシヤ人でも前科のある者、ことに政治犯は、都会においては親類に敬遠されております。そうして手紙を出すときには遠慮した方が、子の勤め先にも関係するからという工合でございますが、いなかにおいては非常に気楽でございます。私のいた村は人口三、四百ですが、そのうちの三分の一は流刑の人たちから成っておりまして、私ども政治犯の前科者にも、肩身が狭いということは決してございませんでした。シベリア土着の人たち、ロシヤ人との結婚、すなわちソビエト人との結婚は、外国人である以上、すなわちソビエトの国籍を持っていない者は法律上できないのでございますが、同棲するという意味においてはだれも文句をつけることはないのでございます。職は優先的に現地人に与えられて、流刑を受けておる人のよくこぼすところでございますが、それも筋肉労働の場合においては当てはまりません。  民衆運動のあったことは、今度帰還するに際しましてハバロフスクのラーゲルに一時収容されましたときに、民衆運動があったということを教えられたのでございますが、思想教育を私たちに積極的にするという傾向は一度もございませんでした。それもハバロフスクのラーゲルのように多数の日本人のいる所とは違いまして、散在して日本人が生活しておるのですから、効果がないからではないかと思っております。  最後に帰国するための私の努力及び経路を申し上げます。五年の刑が終えましてラーゲルを出ても日本に帰されないので、まあ平和条約によって国交が平常にならなくては帰れないからと思いまして、日本通信などは考えもいたしませんでした。一九五三年スターリン死後恩赦によりまして、五年までの刑を受けた者はどんな政治犯でも取り消されるということがわかりまして、日本に帰るということを心待ちするようになりました。一九五四年、昨年興安丸の来るのを三月の始めモスクワのプラウダ紙によって知り、どんな日本人がその帰還者に選ばれるかを私は知りまして私はその資格を十分持っておるから、その興安丸で帰国できると思いまして、呼び出しを毎日待っておりましたが、通知がなく、興安丸もそう長く停泊しておるはずはないから、置いてきぼりにされたとわかったのでございます。同じ年、すなわち昨年六月流刑中の政治犯で前科五年の者に青い色の証明書が交付されました。それに、前科は取り消され、流刑もなかったものとして取り消すということが書いてありました。それで私は直ちにモスクワのソ連赤十字社とソ連の外務省に嘆願書を出しましたが、何の返事もございませんでした。それからウラジオストックのアメリカの通商代表を通じて日本家族に連絡方を頼みましたが、それも返事がございませんでした。去年の十二月の初め無国籍のパスポートをもらったときに、日本に帰りたいなら引き取るという手紙が家から来ない以上は帰国できないとソ連側が申しますので、いえ、日本は家がなくても国家が引き受けてくれるからと、そう言ったのでありますが、わかってくれないのであります。私は期待をかけませんでしたけれども、原籍長野の方に手紙を出しまして、東京におる姉の所にその手紙が参ったということを、私はナホトカで知ったわけでございます。そのようなわけで、私は一度も小包も手紙もソ連ではもらわなかったのでございます。私が実際嘆願書を出しているのに、今度帰る場合には、私が嘆願書を出していないからという理由で危ないところで残されるところだったのでございます。詳しいことは略しまして、私とともに同じ村で一九五三年から働いていた一人の日本の男の方がおられました。そのお方は無国籍のパスポートももらっていないし、流刑中の人で、私より刑も重く嘆願書も出したことがない人なんですが、その人に私よりも先に帰国呼び出しが参りまして、その人はするすると帰れるようになったのに、私は途中何度も引きとめられ、私の名前が名簿に載っていないからというので、嘆願書を書くようにとさえ言われ、さっそく書いて出しましたが、全くロシヤという国は広いのでありましょうか、わけがわからないのでございます。私のほかに呼び出しのなかった人で、嘆願書の返事をもって、第一に帰還さしてやるという約束をもらっておりますので、無理に自分のお金で飛行機でナリムスクから飛んで来られて帰れた人もございます。嘆願書が大きな役割をするということは確かでございまして、ロシヤはそういう国で、ロシヤの人たちが、あなたたちは書いて書いて書かなくちゃいけないと、こうおっしゃるのです。どこに書くか、それは赤十字社か、外務省か、あて名ははっきりわからないのです。抑留者自身が書くとしても、ハバロフスクのように日本との通信のある人に教えることはむずかしくなくても、地方、すなわちラーゲルを出た人にこれを伝えることはむずかしいことでございます。  私の報告はそれまででございます。
  77. 小林英三

    委員長小林英三君) ありがとうございました。  次に、お引き揚げになった方でなしに、留守家族会の代表ということで小畑富子さんにお願いいたします。
  78. 小畑富子

    参考人(小畑富子君) 私は小畑でございます。今日は私どもがかねて望んでおりましたように、この引き揚げ問題につき非常に関心を持っていただきまして、初めて留守家族の声を国会を通して全国民の皆さんに訴える機会をお与え下さいましたことをありがたくお礼申し上げます。  先ず留守家族状況と、留守家族会の活動につきまして申し上げます。終戦後すでに十年たちました。私ども留守家族満州からの引揚者が大部分でございまして、戦後の混乱のさ中に突如として一家の中心を奪われ、身一つでほうり出されまして、まことに筆舌に尽せぬ苦労を重ねて参りましたが、肉親の帰還を唯一の希望として一生懸命にがんばってこれまで過ごして参りました。留守家族手当として月々基本額が二千三百円で、これに扶養家族の中で六十才以上の老人と、十八才未満の子供のある場合は四百円ずつ加算されます。しかしまだ家庭を持っていない方、また抑留者が二男、三男である場合は、この手当をも受けることができないのでございます。もちろんこれだけではとうてい生活をささえることはできませんので、若い方は会社、学校等にお勤めされたり、あるいはお商売に、また洋裁、和裁、編みものなどの家庭内のお仕事や、寮母、家事手伝いなどの住み込みと、あらゆる職業に携わって、どうにかこれまで生活を立てて参りました。お子様の多い方は五、六人も抱え、またある方はそのかたわら御主人の御両親を扶養してできるだけ生活扶助も受けずにやっておられる方々ばかでさございます。私どももこれまでがんばり続けて参りましたけれども、十年間の忍耐もすでにぎりぎりのところまで来ております。ことに病気の場合には、ほかに働き手のかけがえがございませんために、どうしてもゆっくり静養することもできませんので、この状態がこのまま続くようでは、ほんとうにもう今にも倒れそうだと言われる方も相当ございまして、またすでに病の床に倒れて療養所のベッドの上で呻吟している方々も相当あるのでございます。ことに御老人がお残りの方は、たよりとする方はお帰りにならず、だんだんにお働きになることもできず、ほんとうにお気の毒でございます。実は昨年の十一月ソ連の革命記念日に当りまして、会員の希望者から嘆願書をお預りいたしまして、約二百通それぞれ翻訳していただきまして、ソ連の当時首相であったマレンコフ氏に送りました。その中の一つ二つを拾いまして御披露申し上げたいと存じます。戦争が如何に惨酷で、非惨で、哀れで——と、これらのあるだけの言葉を並べても言ひつくせぬほど恐ろしく、すべてを破壊することであるかということを私は身をもって体験し、戦い敗れてやがて十年を迎える今日、いまだにその苦しみの中に喘いでおります。そして夫も同じ苦しみのなかに、どんなに身の悲運を嘆き釈放の日を待ち望んでいることでございましょう。戦争のために兄弟と感児のすべてを亡くし、経済的にも精神的にも、ただ一人の頼りである夫は戦犯としていまだに帰らず、私は七年という永い間病床に臥して身も心もすっかり疲れ果ててしまいました。然し不幸中の幸いとでも申しましょうか、ただただ貴国の保護の下に“夫が生きている!!そして何時かは帰って来る。”と云うことだけが私の生命をささえていてくれます。何時癒るとも知れない病床にあって、ひとときとして夫の身を案じ、御情ある釈放の日の訪れを祈らないときはございません。どうかこの寄り辺なき、病める妻のために、特別の御情を賜はり、一日も早く赦していただけるやう、心のかぎりお願ひ申し上げます。そしてこの切なる願ひがかなえられたら、その喜びは筆舌につくせぬ感謝となり、やがては微力ながらも、その感謝の気持ちは真の平和のために捧げられることを信じます。最後に重ねて、釈放送還の御情を賜はることを幾重にもお願ひ申し上げます。  もう一つは、子供の手紙でございます。  マレンコフ首相様  私のお父様は五一二〇の五一収容所にいます。お母様は病気で二カ月ほどやすんでいましたがお母様がやすむと家がこまるのではたらきはじめました。からだが丈夫ではありませんからすぐにつかれてしまいます。お父様がいらっしゃればお母様を丈夫にしてあげられます。どうかお父様が帰れるようにして下さい。お願いし致します。  まことにどれを読みましても心打たれるものばかりでございまして、どうぞ留守家族の心情をお察しいただきたいと存じます。私どもは二十五年までは、解氷期になりますとぼつぼつ帰還の噂も出まして、とにかく冬来りなば春遠からじだと来る年々をはかない希望を持って待ち続けておりましたが、二十五年四月のタス通信によって、一時引き揚げは全くとだえ、通信も全然なくなりまして、ほんとうに心細い思いをいたしました。引き揚げ促進については、戦後ずっといろいろな引揚団体の御尽力で運動していただいておりまして、私どもも積極的に御協力いたしたかったのではございますが、何分にもその日の生活に追われておりまして、心ならずもその方々におすがりしておりましたが、二十八年になり、南方からは戦犯として服役しておられた方も全部帰国せられ、いよいよ残るは中共とソ連のみとなりまして、私どもは矢もたてもたまらず、一昨年の夏ひよっとした機会にこの留守家族会が成立いたしまして、留守家族としての最善を尽して何とか一日も早く目的を遂げたいものと焦慮いたしております。会員は北は北海道から南は鹿児島までですが、人数は五百人です。第一の目的は、もちろん引き揚げ促進であり、その他抑留者への慰問激励、あるいは留守家族の慰め、励まし合いや相互扶助などやりたいことはたくさんございます。自来おおむね月一回日赤の講堂を拝借して例会を開きまして、お互いに抑留者からの通信を見せ合って情報の交換をいたしましたり、その折々でソ連へお出かけになった方のありました場合や、帰還者を迎えました折には、必ずその方々の御出席を願って、留守家族打ちそろって状況等を伺うことにしております。だんだんに世間が落ちついて参りますにつれまして、私ども留守家族は取り残された感じがいたしておりますので、同じ境遇の方が集まりまして持つ半日はまことにこの上ない慰めでございます。ときとして映画会を催したり、またそのお集まりの機会を和用して全員署名の嘆願書を差し出したりなどもしております。地方会員に対しましては時折印刷物をお送りして連絡をとっております。もう少しせめて月一回の会報でも出したいと思いますけれども、何分私どもの会はすべて留守家族だけでしておりまして、家事の合間に、あるいはお勤めのかたわらの時間をさいてやっておりますので、なかなかこれ以上に連絡をとることができません。私どもの動きにつきまして、時折、新聞ラジオ等で報道せられますと、必ずその反響が何本かのお手紙となって返って参ります。そして地方の会員からは「私も何かお手伝いしたいけれど、なかなか上京もできないし、ぜひ在京の会員が活発に動いて下さい」とのおたよりがよく参りまして、私どもも大へん心強く、また一方責任を感じまして、また元気を出しております。およそ留守家族くらい新聞ラジオに敏感なものはないと存じます。どんな小さい記事でも事ソ連引き揚げ関係のあることについては、きっとたれかがそれを見つけておられます。  次に私どもの一番心を痛めておりますのは、消息のない方々のことでございまして、これもあらゆる機会をとらえましてソ連に嘆願書を送り、あるいは日赤の安否調査にお取次して御調査を願ったり、未帰還調査部をおわずらわせしたり、あるいは一昨年以後引き揚げられた方々で結成されている在ソ同胞帰還促進会にお願いして、もしやたれか消息を御存じの方でもないかと問い合せをしたりしております。なお通信をぜひ許可せられるように、この嘆願ももう幾度出したかわかりませんが、今年に入りまして漸次有通信方々が増している状況で、うれしく思っております。ときには慰問小包に適当な品々を一括して買い求めて分け合いましたり、いなかで小包の出せない方々にかわって小包をお出ししたりもいたします。また会員の御意見は成るべくすみやかにそれぞれの機関に陳情しております。ほんとうにのれんに腕押しの感じはいたしますが、これまでソ連の首相あるいは赤十字社長、収容所の所長などに何本嘆願書を書いたことでございましょうか。その他インドのパンディット女史、英国のチャーチル首相、またはローマ法皇などと、すがれるところはどこにでもお願いもいたして参りました。  次に、在ソ同胞との通信状況のことを申し上げます。一たんとだえた通信も二十七年夏ころからぼつぼつ来始めまして、このごろは大体月に一回往復はがきが参っております。これは場所によっては三、四十日で届き、あるいはまた二月から三月かかる所もあります。返信はすぐに出してもなかなか届きません。このごろは航空便が大へんに早いとのことでございますけれども、なかなか料金が高くてみな航空便にすることもできません。小包は一昨年の二月から月一個ずつ出せることになりましたが、その後数の制限もなくなりましたけれども、この方は一そうお金がかかりますので、なかなか留守家族には負担になります。これは大体二カ月くらいで通信の現在来ております所には確実に届いているようでございます。去る三月、一昨年発表の日赤名簿を対象として全留守宅に問い合せの往復はがきを出しました。収容所の移動の状況を調査する目的でございましたが、ついでに小包発送数もしるしていただきましたところ、その発送数はきわめて低調で、二カ年間に二十個以上の方はほとんどなく、全然送れぬ家庭もあり、その他三個、五個という状況でございます。昨年二月にジュネーヴ赤十字委員会からのお申し出で小包を送られぬ方々を選んで約二百個ずつ三回も送っていただいた由で感謝しております。抑留者から小包は不要と言って来る人も多いのですが、これは留守宅への遠慮からだと伺いました。  次に、お願いの事項につきまして申し上げます。せんだって請願書をもってお願いいたしました通り、抑留者は十年間の無理が積り積って健康状態もきわめて悪くなっている様子でございますし、精神的ささえも今日のこの機会を逸しましては、とても続かないのではないかと、まことに憂慮にたえません。私ども留守家族は必死の思いでこれからの日ソ交渉に、いな、それに先だっての交渉をむしろ期待しておるのでございます。これまで政府としては、陰の援助はしていただいたことと存じますが、表向きは赤十字社間のお話合いによってのみでございましたが、今度はどうしても政府自身の手で全面的にその問題を解決していただきたいのでございます。抑留者も留守家族も帰れる、帰って来るということをのみ唯一の心のささえとしてがんばっておるのでございます。一日おくれればそれだけ犠牲者がふえることでございます。何とぞ一日も早く、一人残らず帰国できますように国会を通して国民の声として強力に政府に働きかけていただきたく、くれぐれもお願い申し上げます。  なお先刻の嘆願書をもう一つ御披露いたします。   ソ国に抑留されています丘本嘉太郎の妻で御座います。結婚生活九カ月、ちょうど九年前の六月に妊娠六カ月で夫と別れました。今では父知らずの男の子も三年生になっております。幸い一昨年七月に初めて通信があり、「夫は生きていて下さる」「お父ちゃんは帰ってきて下さる」ということで私どもはどんなにか生きがいを感じたことでしょう。きっと帰ってきて下さるまで苦難の道を克服して強く生き抜こうと、覚悟を新たにしたことでした。お陰で毎月元気なたよりが参り、夫と会うような気持で便りを待ち楽しんでいます。はがきが来ると夫のように思って何度も何度も読み返し、抱きしめたいような気持さへわくのでした。子供も顔も知らずですが、父の帰る日を楽しみに「お父ちゃん帰らはったら買うてもらうね」とか、「してもらうとか一言って暮しています。夫の両親も亡くなり今はただ母子二人になって昔からの家を守って夫の帰りを千秋の思いで待ち佗びています。どうぞなつかしい父、夫を私どもの許へお帰し下さいますよう切にお願いいたします。   人類は異なっておりましても、親子、夫婦の愛情は同じことと存じます。私どもの気持をお察し下さいまして、私どもの家にも、夫婦、親子揃って暮せます平和な日が訪れますように、一日も早く夫をお帰し下さいますよう重ねて御願い致します。  それからこれはそのお子様の手紙でございます。   ぼくがまだおかあさんのおなかにいる時おとうさんは、遠い遠いシベリアへいかれました。ぼくはおとうさんのお顔を知りません。長い間おとうさんからたよりがありませんでしたが、このごろは、毎月一かい来るのでうれしいです。ぼくの写しんもとどきました。おとうさんは、ぼくの写しんを見て、一ばんうれしかったそうです。ぼくも、一日も早くおとうさんを見たいと思います。写しんで見るおとうさんはだまっておられます。ぼくは、毎朝写しんに「おとうさん早く帰ってきてください」とおいのりします。お友だちのおとうさんはみな帰っておられます。ぼくのおとうさんだけまだです。ぼくはお友だちのようにおとうさんといっしょによそへつれていってほしいと思います。おとうさんとおかあさんといっしょにごはんをたべたいと思います。だから、早く帰してください。ぼくがごんたをいうと、おかあさんは、「かしこうならんと、おとうちゃんはかえらはらへん」とおっしゃいます。ぼくはごんたを言わず、かしこうべんきょうをしていますから、どうかおとうさんをぼくのおうちへ帰してください。  こんなにも待っておられた丘本さんの御主人は、お気の毒にも今はなき数に入られた由を、今度お帰りになりました方々から伺いまして、ほんとうに私どもはお慰めの言葉もないのでございます。しかし私ども留守家族の一人一人がいつ同じ境遇にならないとだれが断言することができましょうか。それだけにこの方のお悲しみがひとしお胸にこたえるのでございます。どうぞくれぐれも御善処をお願い申し上げます。  なお手当については、せめて最低生活の保障の線まで引き上げていただきたいと存じます。また先日もあるお母様からお手紙で、抑留せられているのは二男のために、私は何のお手当もいただけず、先日の興安丸への託送小包も送ってやれなかった。長男も子だくさんでとてもそこまで手が届かず、せめて手当でもあれば作ってやれるのにというお話でございまして、数にしまして大して多くもないことでございましょうし、ぜひこうした方々にも恩典を与えられますようお願いいたします。  なお小包の発送手続はなかなかに複雑で、いなかの郵便局では局自身もよく理解していない向きもあるらしく、何とか手続の簡素化をお願いしたいと思います。なお小包につきましては、ぜひ今後も継続して各機関からお送りいただきたく、御配慮をお願い申し上げます。物心両面の好影響は非常に大きいものがあると存じます。留守家族は日ごろから手一ぱいの生活をいたしておりますので、いよいよ帰還ときまりましても、なかなかに遠路舞鶴まで出迎えもむずかしく、家族旅費の全額を負担していただければまことに仕合せと存じます。とかく日ごろは引き揚げ促進に重点的に集中いたしまして、いよいよ引き揚げ話が始まってからではいつも間に合わぬ状態でございますので、この際ぜひ御推進のほどをお願い申し上げたく存じます。  その他相互扶助の点もいま少し強化したいと存じますが、何分にも無力な留守家族の集まりでございますので、先生方の御援助をひとえにお願い申し上げます。せんだってさる団体からのお申し出でケヤ物資を敢闘しておる母子世帯に上げたいとのお申し出を受けまして、大へんありがたく、しかるべき方々へお取り次ぎいたしたのでございますが、こうした機会がございましたら、ぜひ留守家族も加えていただきたいと存じておるのでございます。  以上、長々と申し述べましたが、抑留者からの通信には、この節すべて今回の交渉に期待する旨の記されていないものはない状態でございまして、必ず何とか解決の道を見出すことができますよう御配慮いただきたく、国民運動にまで盛り上げていただきますよう重ねてお願い申し上げます。  以上をもちまして終ります。
  79. 小林英三

    委員長小林英三君) ありがとうございました。  それではただいままでの参考人の御意見に対しまして質問をお願いいたしたいと思いますが、なお関連質問がございます場合には、外務省から小川アジア局第二課長がおいでになり、それから厚生省からは政務次官と田辺援護局長が見えておりますから……。
  80. 相馬助治

    相馬助治君 皆さん長い間御苦労さんでございました。今回帰還されたお方々は、ソ連地区の各収容所から若干ずつ帰還された方、又その他の地区から、ハバロフスクの第六分所に移送されて、そこからいずれもお戻りになったと、かように承知しておりますが、それに連関してあとあとのために、二点ほど伺っておきたいのでございます。  第一点は、刑期満了あるいはまたその他の事情によって釈放になっておりながら、今回帰国できなかった方がおいでになるかどうか。それらの事情についてお知りでしたらば承わりたいと思うのでございます。  それから第二点は、ハバロフスクの第六分所に昨年秋以来移送されて参った方々は、移送前にすでに刑期が満了になったり、あるいはその他の事情によって釈放になった方ばかりであるか、あるいは刑の執行中ではあったけれども、何か特殊な事情で帰ることができるようになった方をも含んでいるかどうか。この二点について承わりたいと存じます。委員長からどなたでも。
  81. 小林英三

    委員長小林英三君) では藤田君お願いいたします。
  82. 藤田了俊

    参考人(藤田了俊君) 質問第二項について御説明いたしたいと思います。  去年の九月に二百名の日本人が移動しました。それは刑期終了者、満期した方々ではありません。突如本部から呼び出しが来まして、何の誰兵衛、支度しろと、そういうことになって、タイシェットに集結し、と言いますと、各分所々々に分れておりましたから、各分所、たとえば私のおりました第十三号収容所では、日本人二十九名のうち二十三名が行きまして六名残りました。私も残された一人です。そこで各分所から集まって参りまして、タイシェットで二百名にまとまり、そこでお前たちは帰すのだということを言われたのです。これはあとから聞きました。おとどしもこのような例があります。そしておとどし、その時に呼び出された方々は帰っております。ですからその刑期、たとえば二十五年であるとか二十年であるとか、刑期の長短に関連がないようであります。で、その人選には、私たちはいろいろと想像をめぐらしたのでございますが、全然見当がつきません。残された者のうちに十年の刑がもう二カ月で終る者もおりましたし、又少年減刑法令の資格になって、もうすぐ裁判になって釈放になる者もおりましたし、行った者のうちに二十年、二十五年の者もおりました。以上です。
  83. 富永恭次

    参考人(富永恭次君) 私からちょっと……。従来帰った者を分けてみますと、次のようなことになっておりまして、向う発表でも明瞭になっております。第一番が、刑期期間が全く終了せる者、その次には刑期はまだ残っておりまするけれども、スターリン死後のあの特赦令、あるいは臨時に発布せられた特別法令の適用を受けて釈放される者と分けております。刑期は残っておりますけれども、特別の釈放令を適用せられて帰って来た者、第三番目は刑期がまだ残っておりまして何ら特別の法令も適用したわけではないのですけれども、最高裁判の判定による釈放というのがあります。で、今度帰って来た人は、各方面からハバロフスクに集まった人は、おそらくは三種類の人がみな集まってきたのだろう。そのうち一、二は今度帰ってきたわけですが、帰すと言って残された人は、つまり第三番目の最高裁判の判定による釈放であったろうと思う。その証拠には、お前は帰るのだということは大体非公式にも言われてきておりまして、新しい服もみんなもらい、すべてもう帰るのだということで通知をされてハバロフスクに来たのであります。来てからも帰すから帰ってよろしいということまで言われておったものであります。しかるに最後に、去年の暮ごろからこれはどうも変ったらしくて、つまり第一、第二の者だけ帰しまして、最高裁判の判定による釈放というものは一時とめられたらしく思われるのであります。いろいろな、こういうふうに待遇せられる向きがあるのですけれども、一番顕著なもので私が知っておりますのは、モスコーの将官収容所から来た黒木少将というのがおられます。これはこの間言われまして、お前たちを帰すというときには、何と言って帰したろう、正式に何かサインでもして直接最高裁判の判定による釈放ということを明瞭に言われたか言われないかということを非常に気づかっておる向きがあるのでございます。しかるにこの最高裁判の判定というものは、別に裁判も何もせぬで、向うの心組みで釈放するのでございますから、今までは、帰す直前にそれを言うだけで、それまでは何とも言わずに、口頭で非公式にただ帰すのだということだけ言って帰しておるのであります。で、おそらくは何度も申しますが、今度集まってきた人は、ひとしく集まってきて残された人は第三番目の最高裁判の判定による釈放、これであろうと思われます。第一、第二の者は今度は帰りました。  それから初めの御質問の刑が満了してまだ残された者がおるかということは、私は具体的にだれがいるかということはここで申し上げかねます。しかしちょっと聞きますというと、まだノモンハン時代の者が残っているとか、あるいは張鼓峰事件のときの者も相当残っているという話はあります。その人たち自分の発意で向うに残るのか、あるいは無理に残しているのか、その点は私ははっきりいたしません。今度帰ってくるはずの者で、自己の発意で残った者は二名確実におりました。それはわかっております。こちらは帰る意思があるにかかわらず、刑が満了したのにかかわらず、残っている者がいるかどうかという御質問に対しては、確実に私はお答えはできません。
  84. 相馬助治

    相馬助治君 今の富永さんの、刑期満了になって、しかも帰れないという者があるかどうかは確実に答えられないというのは、何かほかに事情があるから答えられないというのか、よく正確な資料がないから答えられないというのですか。
  85. 富永恭次

    参考人(富永恭次君) 私ははっきりだれかれが残っているかは知りませんので……。
  86. 相馬助治

    相馬助治君 わかりました。
  87. 富永恭次

    参考人(富永恭次君) それで何度も申しますけれども、刑の満了というのと刑期の満了というのとは違うようになっておりまして、赤十字の協定でも、刑期の満了というのは、期という字がとってありまして、刑の満了と書いてあります。刑の満了ということは、そのうちに刑期の満了ということも含むわけであります。
  88. 相馬助治

    相馬助治君 皆さん方の御証言を聞いて、特に深く感じ、また赤羽さんの話を聞いておって、なおそのことを予想外のこととして、深く感じたことは、統一的な行動が向うにとられていないという、このためにまことにお気の毒な人が、当然帰れる人が手続上その他で残っているということが予想されると思うのです。そこで国会でもこういう事実をつかんで、力を合せて、帰還を促進させたいというのが念願ですから、そこで、私は富永さんに一点承わりたいと思いますととは、赤羽さんのお話を聞いていて、帰国するための努力及びその経路というお話がありました。非常に参考になりました。富永さんの場合には、帰還者名簿記載の理由によりますと、老令作業に耐えず、危惧をされると、こうあるようでありますが、老令作業に耐えず、しかも今日向うに残されている人、老令ではないけれども、病弱作業に耐えず、しかも現実にはいまだに向うに残っている人、かような人が多かろうと存じまするが、富永さんの場合には、個人として、帰国するためのいかなる努力を払われ、そうしてそれがどういう経路で成功されて、今日の帰還となったのか、一つお漏らし願いたい。
  89. 富永恭次

    参考人(富永恭次君) 私は別に帰還するために何らの努力はいたしませんが、昨年発表されました臨時の法令で、老だけではないのです。病弱にして作業に耐えない者は、医者の診断によってその資格を得たならば、さらに裁判にかけて、その結果、釈放することができるという条文がある、たまたま私は昨年の春から高血圧で、脳溢血症状で入院いたしました。そのときにちょうど検査が始まりまして、身体のほうはとても廃疾者で役に立たぬということで、それに合格したのであります。その後裁判官が来まして、そのときに幸か不幸か、私はちょうど発作を起しまして、ほとんど人事不省の状態でありました。枕頭において裁判官の判決を受けたのです。そのとき何も言えませんから、ただもう無言のまま、向うは枕頭にいて可決しまして帰すことになったのであります。  第二の御質問の、たくさんまだ残っておるかとおっしゃるのは、その通りであります。まだハバロフスクに行きましても、廃疾、まさに死なんという人がたくさんおるわけです。こういう者は検査に当然かからなければならぬのに、かりにかかっておりましても、裁判で前罪科が重きゆえに釈放しないという判決をしたのです。これは前犯罪のいかんにかかわらずという文句があるのであります。それを無視しまして、そういう規定を加えてありまして、その法令と現実の問題を合せまして、非常に私は不法なる結果を来たしておると思っております。
  90. 相馬助治

    相馬助治君 富永さんにもう一点お尋ねしておきたいのですが、実はこの間留守家族代表の方から陳情を受けましたときに、本日御証言なさっている小畑さんの言葉だったと記憶いたしますが、何か事情が許さないならば、巣鴨の刑務所まででもいいから戻したい、自由の身でなくてもいいから内地に戻したいという、こういう切々たる言葉を聞きまして、私どもは実はまだ何とも返事のしようがなかったのです。そこで富永さんにお尋ねしたいのは、お立場上どうしても向うの比較的指導階級、権力を持ってどうにかなる連中ともお話しする機会等もあったのではないかと推測されますので、今後国会等が動き、そして政府が動いて、向うと交渉をしていく際において、こういう点はこういうふうに主張し、こういうふうな点はかようなる誤解があるから、かようにその誤解を解き、こういう点については、とうてい交渉しても困難であるが、こういう点については、こういうふうに交渉すれば引き揚げは可能だというような点がございましたら、この際率直に私は承わりたいと思うのです。なお、このことは非常に重大なことでございますから、もちろん赤羽さん、山本さん、福田さん、藤田さんからもお気づきだったならば、われわれは御指導を受けたいと思います。
  91. 富永恭次

    参考人(富永恭次君) 私は向うの監獄におる間、ラーゲルに行きましてからも、一向向うの有力者の人たちお話しする機会もめったになかったのでございまして、その辺の看守から踏んだりけったりされてひどい目にあいました。全く人格を無視されたことをされまして、仰せの通り向うの有力者と話をするという、そういう機会は絶対に持ちません。しかしながらあとから……
  92. 小林英三

    委員長小林英三君) 富永さんに、話し中ですが、こちらに聞えませんから、もう少し大きく……。
  93. 富永恭次

    参考人(富永恭次君) あとの御質問のどういうことをしたならば、なるべく早期に、有効にこれらの人の帰還ができるかという点、私は、残っておる方は、正式の裁判を受けずに、向うでは特別裁判と言っておりまして、証拠も証人も何もなくて、単に呼んで判決だけを受けた人が大部分です。一応調べまして、別に証拠もない、確証もないけれども、共産党の代表者、それからゲ・ぺ・ウの代表者、それから司法省の役人、このトロイカという三人組の裁判で勝手に判決をいたしまして、お前何年、十五年、二十年、こういうことをやったのがほとんど大部分でありまして、正式の裁判を受けた者は数えるほどしかないのです。この今言った特別裁判を受けた人は、ほんとうに罪科のない人と存じております。前に申しました暗号の解読に従事した単なる兵隊、あるいは憲兵であったがための犯罪として、下士官、兵を残しております。あるいは単に警察官あるいは国境警察隊の隊長あるいは隊員、別に何の罪科もないのに、そういう残酷なる判決を受けておる人が大部分であります。この裁判法は先般やめになりました。そのときに、この裁判によって判決された人はやり直すという話がありましたが、そういうことはなくて、今日までになりましたけれども、こういうのは、判決をやり直す、あるいはこれをみな立派に証拠があるならば、証拠をあげて裁判せよということが言えますれば、これによって裁判された人は釈放が非常に容易ではないかと思います。しかるに証拠も何も、確証はないのです。ただ向うの一方的な認定によって、こういう判決を受けておるのです。  ただ巣鴨に連れて行くというようなことは、どういう手続で向うに申し出ていいかちょっとわかりませんが、やはり巣鴨は、国際裁判によって議決した機関であります。このロシヤに残っておる人は、ロシヤ自体でやった犯罪でありますから、向うがこれを聞きますかどうか、今のところ、私は残念ながらはなはだ実現の可能性は疑問に考えております。さっき申した通り、この抑留者の中には、つまり純然たる政治犯、戦犯でなくてほかの政治犯以外の者がおりますから、一律にこういうものをすぐ帰すということは、できれば一番いいんですけれども、少し無理があるんじゃないか、純然たる国内法の適用によって向うの領土に侵犯してきたとか、あるいは密入、密航してきたとか、こういう者をほかの者と一律に全部帰すということは、これは困難な点があるのじゃないかということをおそれております。これがうまくいけば一番いいんですけれども。その他今御参考になることをすぐ申し上げられないことははなはだ遺憾でありますが、また後日考えまして、何かほかにあるかもしれません。
  94. 相馬助治

    相馬助治君 どなたかございませんでしょうか。
  95. 赤羽文子

    参考人(赤羽文子君) 戦争が済みましてもう十年も平和の世が続いておりますのに、帰国できないということは、これは非常な人道問題だと思うのでございます。ソビエトの世界平和に対する関心は世界一だと思うのでございますが、その署名をして新聞をにぎわしているようでございます。その方面の人に、この人道問題たる帰国問題に対して、関心を持っていただくようにし向けていただきたいのでございます。
  96. 藤田了俊

    参考人(藤田了俊君) 理由なくしてとらわれ、理由なくしてこのたび帰国したと言われたのは、たしか第二次に帰国された長谷川さんでありました。結局御存じのように、去年の九月にダイシェット地区から移住しました二百名の日本人その他を考えてみましても、在留同胞は政治的な意味を含むところの人質的な存在であるということをはっきり言うことができると思います。簡単にいいますと、なめられているのです。頭から。で、具体的な方法につきましては、私は知識がありませんし、述べることができません。しかし人道的なものに訴えて、赤十字社を通じてということは、ソ連の赤十字社が果して地方の方にどの程度反映しているか、どの程度の権限を持っておるかということは、全く疑問であります。その点をお含みおきのほどをお願いいたすものであります。
  97. 赤羽文子

    参考人(赤羽文子君) 先ほど申し上げるのを忘れたんでございますがハバロフスクのラーゲルでお医者さんをしていた方でございますが、昨年たしか興安丸で帰ることになったときに、ナホトカまで行ったのです。そのとき検査をされて、その方が死亡者名簿をお持ちになっていたかどで残されまして、二十五年の刑期をもらって、今ハバロフスクのラーゲルにいらっしゃいまして、私のところに、私が一時ハバロフスクに収容されましたときにおいでになりまして、そのことをおっしゃっていらっしゃいました。ちょっと申し上げます。
  98. 高野一夫

    ○高野一夫君 皆さんのだんだんの御苦労になりましたお話を伺って、いたく感銘いたしましたが、二、三藤田さんと福田さんにお伺いしておきたいと思うのでありますが、先ほど福田さんは、一般人たちの間にまじって、社会人としての御生活の御経験があるように伺いましたし、また結婚に関する話もちらと伺ったように思いますが、この結婚問題につきましては、多くは日本人の女が向う現地人の男と結婚した例の方が多いんだろうと思いますが、またロシヤの女と日本人の男と結婚した場合も相当にあるものかどうか。そうしてまたその双方において、あるいは比較的平穏な生活が行われているものか、それとももう仕方なしに、生きんがためにあきらめのそういう生活であるかどうかという点について、御見聞になった点がありますならば、一つ伺っておきたい。  それからもう一つは、釈放されましてから、一般の社会の間にまじって御生活になる場合に、現地のソビエト人との交通、行き来、談話というようなものは自由にできるものかどうか、許されておるかどうか、居住の制限がありましても、その制限の居住の地区においては自由に交際、往来ができるかどうか、こういうことを一つ伺いたいと思います。  それから藤田さんに一つ伺いたいのでありますが、あるいはこれは富永さんに伺った方がいいかもしれませんが、御両所いずれからでもけっこうでございます。ソ連から第一次、第二次、第三次とお引き揚げになりまして、だんだん様子を伺いますと、非常に事態が変化し、相違しているように考えます。たとえば第一次の場合、第二次、ことに今回の場合、思想的傾向と申しますか、ソ連における生活状態、あるいはソ連に対する批判、物事の考え方というものが、格段の相違があるように感じております。この相違が一体どこから来たのか、第一次の場合なんかは、たとえば兵隊が非常に集団的に生活をしておったから、思想教育がうまくできたのかどうか、最近は散在しているからそれがむずかしいのかどうか、あるいは最近は向うが冷淡になってやらぬのかどうか、こういうような点もいろいろあるものと思うのでございますが、あるいはまた年がたつに従って、現地にいる、向うに抑留されたり、あるいは一般の生活をやっている日本人の方で批判する月が次第に肥えて来られた関係であるものか、この辺についての一つ御批判、お考えを伺いたいと思います。  それからもう一つは、われわれが常識的に考えますれば、ソビエトのごとき国においては、労働はもちろん神聖なものであって、心楽しく労働するのがほんとうであろうと考えております。にもかかわらず、その労働を刑罰の手段に使うということについて、私どもは非常な矛盾を感ずるわけでございますが、こういうような矛盾が現地人の間において感じられているものか、そういうことをごらんになったことはないかどうか、あるいはまた向うにいる日本人の間でも、そういう矛盾を感じなかったものであるかどうか、こういう点について、御意見一つ聞かしていただきたい。
  99. 福田雍喜

    参考人(福田雍喜君) ほかの方にいた人はわかりませんが、自分は樺太の敷香、豊原間のそこの地区にいたのでありますが、結婚の問題ですが、結婚は向うで国際結婚をして、朝鮮人とかロシヤ人と結婚した日本人の女たちが、日本人も少くなってきますと、彼らは虐待的に出てきて、日本人の女もそれに耐えかねて、刑を終って出てきた日本人の方に引かれて今度は結婚するような状態です。それにまたロシヤ人と結婚するのもやはり生活上の問題でありまして、やはり一人で生活していると何も楽しみもないし、また結局酒ばかり飲んでいて、生活状態も苦しくなるために、やはり結婚していると、家庭を持つと飲むのもがまんして生活を立てていく。それに引き揚げの見込みもまず樺太はあまりなかったものですから、それに旅行問題ですが、旅行は樺太は刑を満期して出る場合、向うの方で指定するのです。やはり居住地です。指定してそこだけに旅行する、自由に。南樺太はどこへも行けたのです。一年間働いてお金をためた場合などは豊原へ出て遊んだり、そういうこともできますし、旅行の制限はないわけです。ただ居住地の制限はあるわけです。まあそれだけですね。あと何か御質問ございましたら……。
  100. 高野一夫

    ○高野一夫君 日本人の女がロシヤの男と結婚するというようなのと、それからロシヤの女が日本人と結婚するというような事実と申しますか、大ざっぱに、あなたが御関係になっておいでになった樺太の状態だけでもけっこうですが、あるいは十対一になるのか、半々になるのか、その辺の例はどんなものでしょう。
  101. 福田雍喜

    参考人(福田雍喜君) 現在自分のいた敷香管内では、やはり二十人近くの日本人がおりましたが、去年の六月に敷香から出たのですが、そのときでは、ロシヤ人と一緒になっている方々のほうが日本人よりも多いです。
  102. 高野一夫

    ○高野一夫君 ロシヤの男と…−。
  103. 福田雍喜

    参考人(福田雍喜君) ロシヤ人の婦人方日本人が……。日本人の女はあまりたくさんおりませんから。
  104. 藤田了俊

    参考人(藤田了俊君) 質問にお答えいたします。私の知っている範囲では、ソ連当局からの思想的な教育思想教育というものはあまり聞いておりません。ただ事実としてありましのは、軍人捕虜はこれは日本人だけが一収容所に一緒に生活しておりました。従って労働も、その他すべて日本人同士であります。その間一部の者が音頭をとって民衆運動なるものをいろいろやりました。そうしてそれによって帰国の優先権を得る。中には真の主義者もいたかもしれません。しかし、そのことのほうが大きな問題であったように思えます。そうして中にはそんなのが高じてくると、ついに自分自分がわけがわからなくなってしまって、同胞までも売る。そうすることによって自分立場がよくなる。よくなるということは、ああいう苦しい生活でありますから、所長の信用を得る、あるいはちやほやされると、非常に生活条件に都合がいいことがあります。楽ができます。食べ物が十分食べられます。そういった意味でもって、ついにしまいには自分自身で主義者のような感じがしちゃって、日本まで来てもつまらぬことを言って歩いている。これは私個人の見解でありますが、結局そういったところでありまして、従って彼らのソ連における実情、囚人としての日本人同胞の生活というものは、だいぶんカモフラージュされる場合が多々あります。それで最後の方に言われました、じゃ、今の者たちはそういう者が少い。これはたしかあなたが言われたように、それに対する批判の目が肥えたといいますか、そういった場合もあるんじゃないかと思いますが、しかし実際としまして、これはもしそういった芸当や、踊りまで踊って日本へ帰えることを欲しないという人であるならば、そうでなくちゃいけないのだと思います。以上であります。
  105. 高野一夫

    ○高野一夫君 もう一つあったのですが、次に富永さんにお伺いしてみたいのでありますが、今の藤田さんのお話を伺いましても、第一次のときのあの引き揚げ、いわゆる軍人捕虜の何と申しますか、非常に気違いじみた引き揚げということから考えましても、むしろソビエトに対する批判を毅然としてやって、そうして国へ帰られてからも十分ほんとうの真相に近いような話を聞かしていただける人は、むしろ民間人の方に多くて、そうして当時軍隊の流れであった軍人捕虜の集団は、今の藤田さんのお話にあったような傾向が非常に強かったような感じをわれわれ受けるのでありますが、これについし、何らか富永さんの御批判はありますまいか。
  106. 藤田了俊

    参考人(藤田了俊君) 私は決して軍人でも何でもありません。私は民間人でありまして、向うにおりましても、ソ連人と同じようにソ連の囚人収容所に服役しておりました、まる八カ年。従って軍人さんからの教育を受けた覚えもありませんし、私個人の冷静な判断による話であります。その点誤解のないようにお願いします。
  107. 高野一夫

    ○高野一夫君 あなたのはよくわかります。
  108. 富永恭次

    参考人(富永恭次君) 戦後の捕虜の期間、それから最近の抑留の期間の間に漸次空気が変ってきておるというような御質問でございますが、それについて私一言お答えをいたします。私は幸か不幸かそういうデモ運動のあったことは承知しておりません。今度初めてハバロフスクに来て、当時のいろいろなデモクラ運動の実情を聞きまして、非常に驚き、またわれわれの教育がいかにも浅薄であり、突っ込んだところまで十分にその教育の責を尽しておらなかったということを非常に慙惜した次第でありましたのですが、戦後の敗戦の直後におきまして軍隊におきます非常な混乱を起しまして、判断の正鵠を失ったという点が多々あったように思います。この状態でソ連領に行きまして非常に混乱をしておるときに、またソ連側の熱意が非常なる強度なるものもありまして、これにいろいろな政治教育をしたように思われます。で、このときに重点をもったのは、つまり天皇制破壊、天皇制打倒というところでいろいろな政治教育をし、またわれわれの抑留された連中もこれに向ってある者はその主義によって動き、ある者はこれに抵抗して、ここに非常な争闘を演じたわけでございます。この場合にソ連側の戦術としましては、自分の言うたことを守った者は早く帰してやる、これが非常な魅力を持って抑留者連中を支配したようであります。実際は腹の中はそうは考えぬけれども、いずれにしても早く故国に帰りたいという心持から、必ずしも胸中はそうでなくても、つまり擬装的にこの連動に参加した連中がずいぶんあるのであります。で、やっておるうちに、初めはこう思ったですけれども、自然に麻酔剤をかけられたように、それに本気でなった連中もあるように思います。それで一時はこれが非常なる勢力を得て、これに対抗する者は反動派として非常なる迫害を受けて、これがために命を捨てた上級幹部も相当おるようであります。実例をここで申しますことはあまりにはばかりますけれども、実際において反動派と称せらるる上級の幹部連中は非常にいじめ上げられまして、肉体的に非常なる過重なる仕事をさせられ、休憩するひまもなく連続してやられまして、ついに命を落した者もあるのであります。そういうふうでありまするが、これはだんだん平静になるに従って、またその勢いが変ってきまして、大部分のそういう運動をした者は早く帰っていく、あとに残った者は大体においてそうでない者が残っておる。中には今にやはりソ連の政治を謳歌して、これを自分の行くべき道として考えておる者も絶無ではございません。実際においてあります。しかしながらそういう人はだんだんに少くなりまして、また残っておる人はますます昔考えておった道徳観念、思想観念そのままにますます反対にその方に拍車をかけて、ソ連に対する反感を強めていっておるような傾向もございまして、今おりますハバロフスクの日本人集団の兵を見ますというと、一部向うに対する同情者がありますけれども、その他大部分という者は、やはりもとの思想でもとの道徳観念を把持しておるところの連中だと私は観察して来ました。それでこちらに帰ってきます者の思想が、やはり先ほどおっしゃったような傾向に自然なってきておると思います。これは必ずしも旧軍人はどうだ、軍人でなかったからどうだということは私は考えておりません。向うにたくさん旧軍人もおり、一般の方も残っておられますけれども、その間の思想において、軍人であったからどう、軍人でなかったからどうというようなことは、私はあまり感ぜられませんでした。
  109. 高野一夫

    ○高野一夫君 御意見は御意見として伺っておきますが、もう一つ、私は富永さんに伺いたいのですが、これはわれわれが平生考えまして非常に不可解と申しますか、不思議に考えておることがあるのでございます。これはあなたにお伺いするのはまことに苛酷な質問かとも思いますけれども、それはあしからず一つわれわれの疑問を解く意味においてお聞かせ願いたいと思うのでありまするが、終戦当時に無条件降伏をしたり、武装解除をしまして、そうして向うの捕虜になったその場合には、私は将官も佐官も一兵卒も、もはや区別はないのじゃないかと考えております。同じ捕虜であるならば、大将であろうとも、一兵卒であろうとも武装をはずした以上は、無条件降伏をした国の旧軍人として私は同じ立場に立つべきじゃないか。これはソビエトの扱いかどうかしりませんが、大将なら大将、佐官なら佐官、一兵卒は一兵卒並みに私は扱っておるやにわれわれはいろいろ風聞で聞いておるわけなんです。護送の状態にいたしましても、あるいはラーゲルにおける取扱い、待遇に関しましても、将官はやはり将官、一兵卒は一兵卒と厳然とした旧軍人時代の区別をつけて待遇を受けて、向うがするのでありましょうが、そういうような場合に、日本の方の将官の方々が、もはや旧軍人なんだから、ことに捕虜になったのだからというようなことで、みんな一兵卒として同じ立場においてそういう捕虜としての生活に甘んじ、待遇を受けるべく向うに進言をした、あるいはそういう考えをお持ちにならなかったのであるかどうか、こういうことを一つもう一ぺん、これは一つ妙な質問かもしれませんが、あしからず御了承になって、お聞かせ願いたい。
  110. 富永恭次

    参考人(富永恭次君) 今の御質問、御趣旨の点において私は全く同感でございまして、一たび捕虜になりました以上は、やはり一緒になって兵士のする苦労を同時に上級者の方も同じくやるべきだということは必要だと考えます。向うがああいうように分けましたのは、国際法的に、将官はどうだとか何とかいうことは国際法上明文かあるいは慣例かどうかしりませんが、やはり将官には労力は課してはいかぬとか何とかいういろいろな慣例あるいは条文があるかもしれません。そういうことによって取扱うものであろうと私は考えますが、しかし精神としては、これはこういうものを設けずに、つまり上下ひとしく同じ苦労をしなければならないものと考えております。ただ私の今の将官ラーゲルといいましても、特別の方だけがそこに集まっておるので、一般には全部集まっておるのではありません。現に私どもは何ら間違いなくソビエトの奥地に送られて、ひとしく同じ待遇のもとに今日までやってきたものであります。それでこういう立場におられる方々が、一つ兵と一緒にやっていただきたいということを願ったかどうか、こういう気持はわかりませんが、私は今おっしゃった通り、どこまでもからだはききませんが、精神的な気持においては、おっしゃった通ににやはり特別の待遇を受けるべき必要はないと思っております。ことに、まだ何も犯罪を受けぬ純然たる兵士という時代はとにかくとして、一たび判決を受けて罪人になった以上は、ますますこんな区別はあるべきはずはないと私は思います。どこにその基礎をおいてああいう待遇をしておるのかと、実は私どももふに落ちない次第であります。
  111. 松岡平市

    ○松岡平市君 一言だけお聞きします。先ほど赤羽さんのお話のうちに、ドイツの婦人が物を恵んでくれたというようなお話がありましたが、そのドイツの婦人日本人と同じようにやはり抑留されておる婦人かどうか。そのほかの方々日本と相並んだ敗戦国のドイツ人の抑留者あるいは俘虜というようなものがどういうふうに取扱われておるかということについて、何か御見聞がおありになるならば、この機会お話を願いたい。どういうふうになっておるのか。日本人とどういうふうに違うかとか、あるいはもうおらぬとか、そういう者については自分たちはうわさは聞かなかったとかいうようなことについて、何か皆様方がお耳にされたこと、目に触れられたことをお話願えれば幸いだと思います。
  112. 赤羽文子

    参考人(赤羽文子君) 病弱者のうちに、病人の方がいらっしゃるときに、ドイツ人の婦人が恵んで下さったというのは、どういう婦人かということは、私は全然存じません。帰る途中に伺ったお話でございます。それから私がシベリアにおりましたときに、ドイツ人の家庭が非常に私に親切にして下さったのです。そういう方はどういう人かといいますと、強制移住を受けて全然ラーゲルにいなくて、レニングラードならレニングラードに住んでいた人たちが直接シベリアに送られて行ったのです。戦争後です。そういう人たちがかなりおります。そういう人たちを今度スターリンのなくなったあと恩赦を受けたときに大体流刑は軽くなって、全然取り去られたというわけじゃなくて、クラスノヤルスク地方に住んでいた人で、前は私どものいた村から七十五キロ離れた小さな町にしか行けなかったが、クラスノヤルスク地方全体に行ってもいいというようなことになった程度で、全然自由にはなっておりませんです。そういう方たちは。
  113. 松岡平市

    ○松岡平市君 どなたかドイツ人のことで……。
  114. 山本藤平

    参考人(山本藤平君) 私たちはドイツ人の俘虜には直接に接しておりません。ドイツ人の俘虜の中から刑を受けて同じ刑務所に入って働いていたものはこれは多数ございます。しかし二十八年の六月ごろからドイツ人はどんどん帰られまして、はっきり帰られたかどうかは存じませんが、収容所を変えるのだと言って非常にたくさん出ていきました。そして二十八年の十月に私たちが、これは日本人ソ連人も各国人がタイシェット管内からオムスクに参ったときに、ドイツ人だけは近く帰国するから今回は移動させないというので中継所へとめられまして、移動先に参りませんでした。その後オムスクに着いて見ましたが、よその方から集まった者の中にもドイツ人はおりませんでした。それから約一年だけでありますが、ほんの狭い町に居住しておりましたが、現地でも前にはドイツ人がおったが、今はおらないということで、ドイツ人には会いませんでした。終り。
  115. 松岡平市

    ○松岡平市君 そのことについて、私はこの機会に外務省に伺いたい。ドイツ人の俘虜、抑留者というものについて何か情報を持っておられるか。もし今おっしゃるごとく、少くとも二十六、七年ごろ帰してしまったということかどうか。情報をお持ちならばちょっとこの機会に、そういうことをお聞きしたいと思います。
  116. 小川平四郎

    説明員小川平四郎君) ドイツ人の捕虜につきましては、昨年の九月にジュネーヴで国連の俘虜委員会がございましたときに、ドイツの代表から資料をもらいました。それによりますと、今正確に数字を記憶しておりませんので、正確な数字は帰ってからお届けできますけれども、約八万人の捕虜がソ連にいる、それから一般市民は、これも私非常に正確に記憶しておりませんが、約一万二千人ぐらい残っているという資料をドイツの代表からいただいて参りました。ドイツはそのほかの戦争中の行方不明者がなお百万以上未帰還になっておる。これは東独の関係もございますので、正確な数字はつかんでおらないのですが、今の八万という数字はドイツのちょうど日本の未帰還調査部のようなところで赤十字がやっておりますが、調べました数字で大体わかっておる数字は約八万でございます。
  117. 富永恭次

    参考人(富永恭次君) 先ほどの御質問にちょっと補足いたします。初め将官と大中佐官将校と全部向うで分けましたのは、軍隊の組織、編成をこわしまして無力にするための一つの手段でございました。武装解除するとすぐに将官と大佐と中佐以下の将校、それから准士官、下士官、兵、こう分けまして、兵隊の集団には将校を入れませんでした。これはむろん向うの、一つの組織力をなくして何らの力のないものにする手段でございました。違った意味において向うは分けましたようでございます。その場合に、おれは兵隊と一緒にいたいとたとえ申しましても、これはとうてい許されなかったという実情でありました。
  118. 横山フク

    ○横山フク君 先ほど赤羽さんのお話にあったと思いますけれども、パスポートですね、そのパスポートが赤羽さんのは最後は日本ということになっておった。それで帰れたけれども、ソ連語がよくわからないために、ソ連国人と同じパスポート、居住証ですか、そういうものをもらった人があったというお話がありましたけれども、今度帰られた人はみんな最後は日本というパスポートの人だけであったかどうか。あるいはソ連国人と同じ居住証の人の中に帰れた人があったかどうか。そのことと。もう一つは、嘆願書を書くことが、非常に帰還することに有利であったというお話がありましたけれども、あちらに十年……最初から書けた人ばかりではなかったと思いますが、十年いらっしゃる間に、あるいは教わりながらも皆さんが書ければ書けるだけの力になっているかどうか。そうした行く先や何かすべて書けるかどうか。それからもう一つは、自分の発意で残った人が二人ある、これはあなたのお話じゃなかったでしょうか、ということを伺いましたけれども、その人はどういう人か、どういう理由であったか、というようなことをお話し願いたい。この三つを教えていただきたいと思います。
  119. 赤羽文子

    参考人(赤羽文子君) パスポートと申しましても、その表紙に「無国籍者に与える居住権」ということが書いてあるのです。その中に最後の国籍は日本とこう書いてあったのでございまして、私と一緒に帰っていらっしゃった方の中にもそういうものをおもらいになった方がいらっしゃいますけれども、そういうのを皆さんがお持ちになってはいらっしゃらなかったようでございます。そうして全然まだそれをもらうだけの時期になっていない方もたくさんいらっしたようでございます。  それから嘆願書を書くのは、何もロシヤ語じゃなくても、日本語で書いても差しつかえないということを私は知りました。ですけれども、向うにいらっしゃる方は、それを日本語で差しつかえないかどうかということをはっきり知っていらっしゃる方もまた少いし、やってみなければわからないわけでございます。で、ソ連語の力と申しましても、そうでございますね、若い方はどうにか書けるようになれるようでございます。まあ努力なさる方はですね……。ちょっとむずかしいようでございます。で、ハバロフスクのラーゲルにいらっしゃる方は、あそこには図書室にいろいろ参考書も、勉強の本もございますから、かなり勉強なさっていらっしゃいまして、ソ連語の力も非常についていらっしゃいますけれども、地方に出ていらっしゃる方はその便はないものですから、ソ連語はただ耳から聞くというようなのがおもでございますから、書く力のある方は少いのでございます。それだけ申し上げておきます。
  120. 富永恭次

    参考人(富永恭次君) 最後の第三点について私がお答えいたします。二人残っている一人のことは、その正確な動機、気持ははっきりわかりませんが、一人は私のはっきり知っている者でございまして、それはこの終戦の前年に軍隊の私的制裁のつらさに耐えかねて敵の方に脱走をしました人でございまして、そうしたときてにこちらの陣地の配備の状況その他の秘密に基く事項向うに陳述したというようなことが、非常に本人の良心にとがめて、いつもざんきにたえない点があったらしいのであります。それからまた在所中に友だちに相済まぬようなことをちょっとしたことがございまして、要するに良心的にどうもこれに耐えられぬという動機がございまして、別に向うの政治を謳歌して残った人じゃございません。一人の方ははっきりしたことはわかりません。
  121. 相馬助治

    相馬助治君 私先ほど富永さんにお尋ねをした件また蒸し返してお尋ねをしたいと思いますことは、当委員会がお忙しい皆様をお招きしてお話を承わりますというのは、全くわけのわからないなぞの国のソ連を相手にして今後引き揚げ促進する場合に、どういうところに手がかりを求めようか、そういう大きな希望と期待を持って皆様方の御出席をわずらわしているわけです。そこで私は特に富永さんに個人にこういうことを突っ込んで尋ねたいと思いますことは、あなたの場合は師団長であって、中将であって、しかもソ連に引きとめられた場合におきましても、これはソ連自身においても名前がマークされていた立場にあったと思います。そこで私はあなただけがこのたび老齢作業に耐えずということで帰郷をなさったことでありますからして、先ほどお尋ねをしたことと同じことになるのですが、帰るために何か特別の努力をされましたかということについては、特別のことをされないということでわかりましたが、それ以前に師団長という立場から、特別に戦争中における国家の機密事項に対する尋問その他というものがあられたかどうか。このことをお聞きする理由は、同じ軍人の方がそういうことを尋ねられたけれども、いわば軍人精神をもってそういう国家の不利益になるというようなことを拒否されたがために、それらが理由となって今日も帰られない方があるのではないかということも一部でうわさされますがゆえに、富永さんの場合はそういう尋問がされたかどうか。並びにソ連のこの戦犯その他を処罰される場合に、あなた自身が師団長であったということから、特別な協力を求められ、それに協力をしたというような事実があるかどうかというようなことを承わりたいのでございます。  と同時に、私は一点富永さんに同情申し上げておりますことは、率直に申して、あなたの評判はきわめてまずい。いわゆるフィリピンから引き揚げられたときのことがいろいろジャーナリストの諸君によってうわさされております。おそらく、あなた自身にしては御迷惑な思慮判断等によって不当の批判を受けている面もおありと私は思うのです。従って、ここでそのことをおっしゃって下さいというのではないけれども、この場所は、私ども議員に発言をされているのではなくて、当委員会を通じて皆様は国民に向って発言をされ、ごらんのように全部速記に載って、これは日本に永久に残る文書になっているわけでございます。そういう関係から、私は、富永さんを今日ここにお呼びしてお聞きすることによって、留守家族人たちが今後運動をしていく際において、あるいはわれわれが動く際において、あるいは日本の外務省その他引揚援護庁が動くに際しまして、何らかの貴重な手がかりを得るのではないかという期待を持っておりましたが、何にも申し上げることがないというので、まあいたく失望を私はしておるのでございます。申すことがない場合には、申し上げることがないと言わざるを得ないのでございまして、その点は了承いたしますが、一つ静かに思い返されまして、こんなふうな点について、外務省自身がこういうふうに動くならば、あるいは国会はこういうふうに動くならば、留守家族はこういうふうに動くならば、これは引き揚げ促進されるであろうというような点について、ぜひとも私はあなたの口を通じて御発言をいただきたい。たとえば、赤羽さんがおっしゃったことなどは非常に貴重です。いわゆる平和運動平和運動などといって署名して騒いでいる人たちは、人道上の問題としてソ連引き揚げの問題を大きな運動のテーマとして働きかけてもらいたい。私は身を日本社会党に置きますが、これは赤羽さんのお話を貴重なるものとして今胸に深く畳み込んでおります。そういうような意味で、それに類するどんなことでもけっこうですから、私は富永さんの口を通じて今後資料になるようなことがありましたらば、一つ大胆率直におっしゃっていただきたい。なお、ここにおいては発言がしたくないという場合におきましては、あるいはこれは文書をもって委員長に御答弁申下さってもそれは御自由でございます。ただ私は、引き揚げられまして、しかも老齢でありお疲れのところを、かようなことを申し上げるのはまことに失礼だということは十分わかってはおりまするけれども、今日一日千秋の思いをして家族引き揚げを待っておりまする遺族の人々の思いをみずからの思いとして、ほんとうにしつこいようでありまするが、重ねてお尋ねをしておる次第でございます。
  122. 富永恭次

    参考人(富永恭次君) まず第三点の質問、私に対する世間の批評がきわめて悪いということについて申し上げてみたいと思います。フィリピン航空戦に関するいろいろ私に対する悪評は、最近いろいろサンデー毎日とか何とかいうところで拝見いたしました。皆、私の不徳不敏のいたすところでございまして、私としては、この敗軍の将たる私が、別に私から御説明申すことは一言もなく、ただすべて私の不徳不敏のいたすところと、深く皆様方を初め国民の各位におわびを申すほかはございません。みな私の至らぬ不敏不徳の結果でございまして、いかなる悪評をこうむりましても、私としては何の申し上げようもございません。この点は、私は一身をもってこの責任を負いまして、すべての悪評はすべて一身に存することを覚悟いたしております。この間のサンデー毎日なんかにも、私の信頼する幕僚にあたかも罪あるがごとくに書いてございましたけれども、これは全くそうではございません。私が皆悪いために、ああいう批評を受ける次第でございます。どうかそのおつもりで、私の周囲の者に何らの罪もなければ、何らの責任もなく、すべて私が負うべき責任でございます。この点はくれぐれも御了承をお願いいたします。  それから第一番の、どういうことを尋問されたかということについて申し上げます。私は前に、若いときに、満州里の特務機関長をしておりました。続いてモスコーの大使館付の武官補佐官をして、その後、ヨーロッパ方面におきます白系ロシヤ人との連絡にフランス方面派遣された事実があります。その後、関東軍の第二課長、つまり情報課長です。続いて関東軍の第一課長、これは作戦関係でございます。そういう経路を踏み、さらにまた参謀本部の作戦部長をやり、常にロシヤには密接なる関係を有する職務にあったものでございます。従って私に対する尋問は非常に綿密、六年半も尋問を続けられておりまして、その間には国家の秘密に関すると思われる事項もございました。その一番大きなものは、つまり対露作戦計画、これの問題に対しては厳密にこまごまと質問を受けたのであります。しかしながら、そのいろいろな事項についに質問受けましたけれども、その点は言うても別に国家の損失にならないと思う点は、適当に公開をして参りましたが、しかしながら、これを言うてはどうしても相ならぬと自分で判断したものに対しては、かたく口を織して申し上げませんでした。そういうために六年半も尋問をせられておった次第でございます。とにかく、こんな強情なやつはおらぬと言うて、非常ないろいろな目にあいましたけれども、とうとう六年半過ぎてから判決をして、死刑を二回も控えて、これは各二十五年に換算、ほかにまた別の条項で二十五年、合せて七十五年をもらいまして行ったような次第で、そういう状態で実はさんざんのいじめられ方をして、シベリアのいなかの方にやられたわけでございます。ちょっと承わりますと、別に何か運動をして帰ったかというお話でございましたが、そんなことは私の考えてもなかったことでございます。  その次の御質問は何でございましたか、ちょっと……。
  123. 相馬助治

    相馬助治君 幾つも質問して恐縮しました。今後こういうふうにしたら引き揚げはうまくいくのではないか、外務省はこうしなさい、国会はこうしたらどうか、遺家族方々はこういう運動をしたらどうだろうというようなことについて、特段お気づき等のことがあったらこの際御発言を願っておきたい、こういうことでございます。
  124. 富永恭次

    参考人(富永恭次君) そういう点はよく考えまして、ぜひ上もこれは申し上げなければならね大事な意見でございますが、今のところ、どこにポイントがあって、どこを押したらどうという確実なところは今のところ申し上げられませんことははなはだ遺憾でございますが、ただこまかい具体的な事項として、この事項だけは申し上げておかなければならんということを、この在ソ抑留者救出並びに援護に関する陳情要項のうちに要点を私書きましたつもりでございますが、只今申しましたように、大きな政治的の意味からこういう手があるということについては、只今私ははなはだおそれ入りますが、ここで申し上げかねる次第でございます。御了承願いたいと思います。
  125. 小林英三

    委員長小林英三君) ほかに御質問ございませんか。
  126. 藤田了俊

    参考人(藤田了俊君) 今のことに関連しまして、これは私からのお願いとして、六月の日ソ外交調整には、代表の方にぜひとも在ソ同胞救出のことを先決問題としていろいろ考慮していただきたいと思うのであります。
  127. 赤羽文子

    参考人(赤羽文子君) あまりいろいろなことを申し上げまして、その結果、残留者のために迷惑にならないようにお願いいたします。
  128. 藤田了俊

    参考人(藤田了俊君) さっきのことに話が重複するのでありますが、私はここでもちろん主義主張のことについてお話する必要もありませんし、しかし、もし真の主義者であるならば、私個人としては少くとも尊重しております。その主義思想関係なく、福田さんがおられたのはこれは地方であって、彼は地方人として住んでおられた。私たちは囚人として、ソ連人の囚人と同じように刑務所におったということを決してはき違えないようにしていただきたいと思います。もし地方人であるならば、もちろん若くて労働力のある福田さんならば千ルーブルまたは二千ルーブルもらって生活も容易であった。その点はお含みおき願います。
  129. 小林英三

    委員長小林英三君) ほかにございませんか……本日の審議はこの程度にいたしたいと思いますが、御異議ございまいませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  130. 小林英三

    委員長小林英三君) 御異議ないようでございます。  この際参考人の各位に申し上げたいと思いますが、皆様には長時間にわたりまして、非常に貴重なる御意見の御開陳をいただきまして、今後在ソ残留邦人引き揚げ促進、あるいはこの善後対策等につきまして、国会といたしまして非常に稗益することが大きかったと思います。皆様方の御苦労に対しまして、委員会代表いたしまして衷心からお礼を申し上げたいと思います。大へんありがとうございました。   本日はこれにて散会いたします。    午後四時五十四分散会