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参考人(小畑富子君) 私は小畑でございます。今日は私どもがかねて望んでおりましたように、この
引き揚げ問題につき非常に関心を持っていただきまして、初めて留守
家族の声を国会を通して全国民の皆さんに訴える
機会をお与え下さいましたことをありがたくお礼申し上げます。
先ず留守
家族の
状況と、留守
家族会の活動につきまして申し上げます。
終戦後すでに十年
たちました。私ども留守
家族は
満州からの
引揚者が大
部分でございまして、戦後の混乱のさ中に突如として
一家の中心を奪われ、身
一つでほうり出されまして、まことに筆舌に尽せぬ苦労を重ねて参りましたが、肉親の帰還を唯一の希望として一生懸命にがんばってこれまで過ごして参りました。留守
家族手当として月々基本額が二千三百円で、これに扶養
家族の中で六十才以上の老人と、十八才未満の
子供のある場合は四百円ずつ加算されます。しかしまだ
家庭を持っていない方、また
抑留者が二男、三男である場合は、この手当をも受けることができないのでございます。もちろんこれだけではとうてい生活をささえることはできませんので、若い方は会社、学校等にお勤めされたり、あるいはお商売に、また洋裁、和裁、編みものなどの
家庭内のお
仕事や、寮母、家事手伝いなどの住み込みと、あらゆる職業に携わって、どうにかこれまで生活を立てて参りました。お子様の多い方は五、六人も抱え、またある方はそのかたわら御主人の御両親を扶養してできるだけ生活扶助も受けずにやっておられる
方々ばかでさございます。私どももこれまでがんばり続けて参りましたけれども、十年間の忍耐もすでにぎりぎりのところまで来ております。ことに病気の場合には、ほかに働き手のかけがえがございませんために、どうしてもゆっくり静養することもできませんので、この状態がこのまま続くようでは、ほんとうにもう今にも倒れそうだと言われる方も相当ございまして、またすでに病の床に倒れて療養所のベッドの上で呻吟している
方々も相当あるのでございます。ことに御老人がお残りの方は、たよりとする方はお帰りにならず、だんだんにお働きになることもできず、ほんとうにお気の毒でございます。実は昨年の十一月
ソ連の革命記念日に当りまして、会員の希望者から嘆願書をお預りいたしまして、約二百通それぞれ翻訳していただきまして、
ソ連の当時首相であったマレンコフ氏に送りました。その中の
一つ二つを拾いまして御披露申し上げたいと存じます。戦争が如何に惨酷で、非惨で、哀れで——と、これらのあるだけの言葉を並べても言ひつくせぬほど恐ろしく、すべてを破壊することであるかということを私は身をもって体験し、戦い敗れてやがて十年を迎える今日、いまだにその苦しみの中に喘いでおります。そして夫も同じ苦しみのなかに、どんなに身の悲運を嘆き釈放の日を待ち望んでいることでございましょう。戦争のために兄弟と感児のすべてを亡くし、経済的にも精神的にも、ただ一人の頼りである夫は戦犯としていまだに帰らず、私は七年という永い間病床に臥して身も心もすっかり疲れ果ててしまいました。然し不幸中の幸いとでも申しましょうか、ただただ貴国の
保護の下に“夫が生きている!!そして何時かは帰って来る。”と云うことだけが私の
生命をささえていてくれます。何時癒るとも知れない病床にあって、ひとときとして夫の身を案じ、御情ある釈放の日の訪れを祈らないときはございません。どうかこの寄り辺なき、病める妻のために、特別の御情を賜はり、一日も早く赦していただけるやう、心のかぎりお願ひ申し上げます。そしてこの切なる願ひがかなえられたら、その喜びは筆舌につくせぬ感謝となり、やがては微力ながらも、その感謝の
気持ちは真の平和のために捧げられることを信じます。最後に重ねて、釈放送還の御情を賜はることを幾重にもお願ひ申し上げます。
もう
一つは、
子供の手紙でございます。
マレンコフ首相様
私のお父様は五一二〇の五一収容所にいます。お母様は病気で二カ月ほどやすんでいましたがお母様がやすむと家がこまるのではたらきはじめました。からだが丈夫ではありませんからすぐにつかれてしまいます。お父様がいらっしゃればお母様を丈夫にしてあげられます。どうかお父様が帰れるようにして下さい。お願いし致します。
まことにどれを読みましても心打たれるものばかりでございまして、どうぞ留守
家族の心情をお察しいただきたいと存じます。私どもは二十五年までは、解氷期になりますとぼつぼつ帰還の噂も出まして、とにかく冬来りなば春遠からじだと来る年々をはかない希望を持って待ち続けておりましたが、二十五年四月のタス
通信によって、一時
引き揚げは全くとだえ、
通信も全然なくなりまして、ほんとうに心細い
思いをいたしました。
引き揚げ促進については、戦後ずっといろいろな引揚
団体の御尽力で運動していただいておりまして、私どもも積極的に御協力いたしたかったのではございますが、何分にもその日の生活に追われておりまして、心ならずもその
方々におすがりしておりましたが、二十八年になり、南方からは戦犯として服役しておられた方も全部
帰国せられ、いよいよ残るは中共と
ソ連のみとなりまして、私どもは矢もたてもたまらず、一昨年の夏ひよっとした
機会にこの留守
家族会が成立いたしまして、留守
家族としての最善を尽して何とか一日も早く目的を遂げたいものと焦慮いたしております。会員は北は北海道から南は鹿児島までですが、人数は五百人です。第一の目的は、もちろん
引き揚げの
促進であり、その他
抑留者への慰問激励、あるいは留守
家族の慰め、励まし合いや相互扶助などやりたいことはたくさんございます。自来おおむね月一回日赤の講堂を拝借して例会を開きまして、お互いに
抑留者からの
通信を見せ合って情報の交換をいたしましたり、その折々で
ソ連へお出かけになった方のありました場合や、帰還者を迎えました折には、必ずその
方々の御
出席を願って、留守
家族打ちそろって
状況等を伺うことにしております。だんだんに世間が落ちついて参りますにつれまして、私ども留守
家族は取り残された感じがいたしておりますので、同じ
境遇の方が集まりまして持つ半日はまことにこの上ない慰めでございます。ときとして映画会を催したり、またそのお集まりの
機会を和用して全員署名の嘆願書を差し出したりなどもしております。地方会員に対しましては時折印刷物をお送りして連絡をとっております。もう少しせめて月一回の会報でも出したいと
思いますけれども、何分私どもの会はすべて留守
家族だけでしておりまして、家事の合間に、あるいはお勤めのかたわらの時間をさいてやっておりますので、なかなかこれ以上に連絡をとることができません。私どもの動きにつきまして、時折、
新聞、
ラジオ等で報道せられますと、必ずその反響が何本かのお手紙となって返って参ります。そして地方の会員からは「私も何かお手伝いしたいけれど、なかなか上京もできないし、ぜひ在京の会員が活発に動いて下さい」とのおたよりがよく参りまして、私どもも大へん心強く、また一方責任を感じまして、また元気を出しております。およそ留守
家族くらい
新聞、
ラジオに敏感なものはないと存じます。どんな小さい記事でも事
ソ連引き揚げに
関係のあることについては、きっとたれかがそれを見つけておられます。
次に私どもの一番心を痛めておりますのは、消息のない
方々のことでございまして、これもあらゆる
機会をとらえまして
ソ連に嘆願書を送り、あるいは日赤の安否調査にお取次して御調査を願ったり、未帰還調査部をおわずらわせしたり、あるいは一昨年以後
引き揚げられた
方々で結成されている在ソ同胞帰還
促進会にお願いして、もしやたれか消息を御存じの方でもないかと問い合せをしたりしております。なお
通信をぜひ
許可せられるように、この嘆願ももう幾度出したかわかりませんが、今年に入りまして漸次有
通信の
方々が増している
状況で、うれしく思っております。ときには慰問小包に適当な品々を一括して買い求めて分け合いましたり、いなかで小包の出せない
方々にかわって小包をお出ししたりもいたします。また会員の御
意見は成るべくすみやかにそれぞれの機関に陳情しております。ほんとうにのれんに腕押しの感じはいたしますが、これまで
ソ連の首相あるいは赤十字社長、収容所の所長などに何本嘆願書を書いたことでございましょうか。その他インドのパンディット
女史、英国のチャーチル首相、またはローマ法皇などと、すがれるところはどこにでもお願いもいたして参りました。
次に、在ソ同胞との
通信状況のことを申し上げます。一たんとだえた
通信も二十七年夏ころからぼつぼつ来始めまして、このごろは大体月に一回往復はがきが参っております。これは場所によっては三、四十日で届き、あるいはまた二月から三月かかる所もあります。返信はすぐに出してもなかなか届きません。このごろは航空便が大へんに早いとのことでございますけれども、なかなか料金が高くてみな航空便にすることもできません。小包は一昨年の二月から月一個ずつ出せることになりましたが、その後数の制限もなくなりましたけれども、この方は一そうお金がかかりますので、なかなか留守
家族には負担になります。これは大体二カ月くらいで
通信の現在来ております所には確実に届いているようでございます。去る三月、一昨年
発表の日赤名簿を対象として全留守宅に問い合せの往復はがきを出しました。収容所の移動の
状況を調査する目的でございましたが、ついでに小包発送数もしるしていただきましたところ、その発送数はきわめて低調で、二カ年間に二十個以上の方はほとんどなく、全然送れぬ
家庭もあり、その他三個、五個という
状況でございます。昨年二月にジュネーヴ赤十字
委員会からのお申し出で小包を送られぬ
方々を選んで約二百個ずつ三回も送っていただいた由で感謝しております。
抑留者から小包は不要と言って来る人も多いのですが、これは留守宅への遠慮からだと伺いました。
次に、お願いの
事項につきまして申し上げます。せんだって請願書をもってお願いいたしました通り、
抑留者は十年間の無理が積り積って健康状態もきわめて悪くなっている様子でございますし、精神的ささえも今日のこの
機会を逸しましては、とても続かないのではないかと、まことに憂慮にたえません。私ども留守
家族は必死の
思いでこれからの日ソ交渉に、いな、それに先だっての交渉をむしろ期待しておるのでございます。これまで政府としては、陰の
援助はしていただいたことと存じますが、表向きは赤十字社間の
お話合いによってのみでございましたが、今度はどうしても政府
自身の手で全面的にその問題を解決していただきたいのでございます。
抑留者も留守
家族も帰れる、帰って来るということをのみ唯一の心のささえとしてがんばっておるのでございます。一日おくれればそれだけ犠牲者がふえることでございます。何とぞ一日も早く、一人残らず
帰国できますように国会を通して国民の声として強力に政府に働きかけていただきたく、くれぐれもお願い申し上げます。
なお先刻の嘆願書をもう
一つ御披露いたします。
ソ国に抑留されています丘本嘉太郎の妻で御座います。結婚生活九カ月、ちょうど九年前の六月に妊娠六カ月で夫と別れました。今では父知らずの男の子も三年生になっております。幸い一昨年七月に初めて
通信があり、「夫は生きていて下さる」「お父ちゃんは帰ってきて下さる」ということで私どもはどんなにか生きがいを感じたことでしょう。きっと帰ってきて下さるまで苦難の道を克服して強く生き抜こうと、覚悟を新たにしたことでした。お陰で毎月元気なたよりが参り、夫と会うような
気持で便りを待ち楽しんでいます。はがきが来ると夫のように思って何度も何度も読み返し、抱きしめたいような
気持さへわくのでした。
子供も顔も知らずですが、父の帰る日を楽しみに「お父ちゃん帰らはったら買うてもらうね」とか、「してもらうとか一言って暮しています。夫の両親も亡くなり今はただ母子二人になって昔からの家を守って夫の帰りを千秋の
思いで待ち佗びています。どうぞなつかしい父、夫を私どもの許へお帰し下さいますよう切にお願いいたします。
人類は異なっておりましても、親子、夫婦の愛情は同じことと存じます。私どもの
気持をお察し下さいまして、私どもの家にも、夫婦、親子揃って暮せます平和な日が訪れますように、一日も早く夫をお帰し下さいますよう重ねて御願い致します。
それからこれはそのお子様の手紙でございます。
ぼくがまだおかあさんのおなかにいる時おとうさんは、遠い遠いシベリアへいかれました。ぼくはおとうさんのお顔を知りません。長い間おとうさんからたよりがありませんでしたが、このごろは、毎月一かい来るのでうれしいです。ぼくの写しんもとどきました。おとうさんは、ぼくの写しんを見て、一ばんうれしかったそうです。ぼくも、一日も早くおとうさんを見たいと
思います。写しんで見るおとうさんはだまっておられます。ぼくは、毎朝写しんに「おとうさん早く帰ってきてください」とおいのりします。お友だちのおとうさんはみな帰っておられます。ぼくのおとうさんだけまだです。ぼくはお友だちのようにおとうさんといっしょによそへつれていってほしいと
思います。おとうさんとおかあさんといっしょにごはんをたべたいと
思います。だから、早く帰してください。ぼくがごんたをいうと、おかあさんは、「かしこうならんと、おとうちゃんはかえらはらへん」とおっしゃいます。ぼくはごんたを言わず、かしこうべんきょうをしていますから、どうかおとうさんをぼくのおうちへ帰してください。
こんなにも待っておられた丘本さんの御主人は、お気の毒にも今はなき数に入られた由を、今度お帰りになりました
方々から伺いまして、ほんとうに私どもはお慰めの言葉もないのでございます。しかし私ども留守
家族の一人一人がいつ同じ
境遇にならないとだれが断言することができましょうか。それだけにこの方のお悲しみがひとしお胸にこたえるのでございます。どうぞくれぐれも御善処をお願い申し上げます。
なお手当については、せめて最低生活の保障の線まで引き上げていただきたいと存じます。また先日もあるお母様からお手紙で、抑留せられているのは二男のために、私は何のお手当もいただけず、先日の興安丸への託送小包も送ってやれなかった。長男も子だくさんでとてもそこまで手が届かず、せめて手当でもあれば作ってやれるのにという
お話でございまして、数にしまして大して多くもないことでございましょうし、ぜひこうした
方々にも恩典を与えられますようお願いいたします。
なお小包の発送手続はなかなかに複雑で、いなかの郵便局では局
自身もよく理解していない向きもあるらしく、何とか手続の簡素化をお願いしたいと
思います。なお小包につきましては、ぜひ今後も継続して各機関からお送りいただきたく、御配慮をお願い申し上げます。物心両面の好影響は非常に大きいものがあると存じます。留守
家族は日ごろから手一ぱいの生活をいたしておりますので、いよいよ帰還ときまりましても、なかなかに遠路舞鶴まで出迎えもむずかしく、
家族旅費の全額を負担していただければまことに仕合せと存じます。とかく日ごろは
引き揚げ促進に重点的に集中いたしまして、いよいよ
引き揚げ話が始まってからではいつも間に合わぬ状態でございますので、この際ぜひ御推進のほどをお願い申し上げたく存じます。
その他相互扶助の点もいま少し強化したいと存じますが、何分にも無力な留守
家族の集まりでございますので、先生方の御
援助をひとえにお願い申し上げます。せんだってさる
団体からのお申し出でケヤ物資を敢闘しておる母子世帯に上げたいとのお申し出を受けまして、大へんありがたく、しかるべき
方々へお取り次ぎいたしたのでございますが、こうした
機会がございましたら、ぜひ留守
家族も加えていただきたいと存じておるのでございます。
以上、長々と申し述べましたが、
抑留者からの
通信には、この節すべて今回の交渉に期待する旨の記されていないものはない状態でございまして、必ず何とか解決の道を見出すことができますよう御配慮いただきたく、国民運動にまで盛り上げていただきますよう重ねてお願い申し上げます。
以上をもちまして終ります。