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参考人(
久米庸孝君) 初めに
自分がどういう
人間かということを申し上げます。それから
自分の申したいことを申します。
昭和十三年に
東大理学部物理学科を卒業して、初めに七年間、
昭和二十年ごろまで
帝国海軍におりまして、その間、
海上気象の
調査、
観測、
研究、それから船の上で使いますいろいろな測
器類の
検定とか
整備とかそういうこと、並びに
海上気象の
予報、船の上で、
自分の船を
台風の危難にあわせない、そういうようなことをやっておりました。
昭和二十年に
中央気象台に入りまして、自来十年間、主として海の上の
気象通報を出す、そういう
仕事を現実にやっておりますほかに、
商船大学の
船舶運航研究所の
研究員を兼務しておりまして、あそこの
研究員に週に一回
海上気象の
講義をいたしております。それから
世界気象機構という
機構がございまして、そこに
海士気象分科会というのがございます。それの
日本委員の一人としてやっております。そのほか、
日本学術会議の中に
海難防止特別委員会というのができておりまして、その
特別委員をやっております。
海上気象を
自分の
専門として、それも
研究の面ではなくむしろ
実施面の方を私の本職といたしております。そういう
人間の
意見だということを御承知置き願います。
突然お呼び出しを受けましたので、プリントの用意をすることはできませんでしたが、図を持って参りましたから、そちらの方の
委員長のおられます席の方からは非常に見にくくて申訳ございませんけれども、図によって
説明をしたいと思います。
ここに
天気図の
図面——図面と申しましても、毎日書いてる
天気図じゃなくして、実は
商船大学の
講義用のものをそのまま持って参りましたので、少しモデル化されておりますけれども、御
参考にしていただきたいと思います。一番
最初にこういう図を見ていただきます。ここにありますのは、ふだん
天気図をごらんになっていない方はちょっと見にくいかと思いますけれども、ここのところに、まん中に大きなまるい図形を書いてございます。これは
台風であります。
これはマージという
台風でございまして、一九五一年、
昭和二十六年の夏に来ました
台風で、戦後現われました
台風の中では、終戦の直後に来ました
枕崎台風という
台風、それに次ぐ巨大なものでありまして、室戸大風とかそういうものにほぼ匹敵する最近現われた最も大きな
台風であります。直径千二百キロ、この
台風は幸いなことに戦後の
日本にはやって参りませんで、
朝鮮を通りまして、戦前ならば大へんだったのですが、現在の
日本人にはほとんど記憶されておりませんけれども、ちょうど
朝鮮戦争のまっ最中
朝鮮を通りましたので、豪雨と泥濘のために両軍の
機動部隊、
機械化部隊がその中に没し去りまして、戦闘が三日間停止した、そういう
台風であります。
この
台風のときに、この付近を通っております
船舶がどういう行動をしたか、そういうことを表わすのがこの図でございます。ここにこういうふうに黒くぼちぼちが並んでおりますが、これが
台風の通過した
経路であります。六時間置きの位置が書いてございます。ここにいろんな色でもってたくさん
経路を書いてございます。これは
日本の
気象電報を打っております一級
船——一級船と申しますのは、これは
皆さん方の方が御
専門かと思いますが、
外国航路に往き来するような大きな船であります。それの
台風に影響があると思われる
範囲のものだけを引っぱり出しましてここに書いたものが、これであります。現在
日本の、先ほど
松平先生からもお話がありましたが、外へ出ております
船舶は、
中央気象台に
気象電報を打つ義務が負わされております。現在どのくらいのデータが入ってくるかと申しますと、ほぼ戦前に復帰いたしておりまして、大型
商船一級船、それから打ってくる電報は、私正確な統計は存じませんけれども、大体同時にこの
範囲、ここが百八十度でありますが、この
範囲に同時に入っている
日本の
船舶は大体、大型
商船百隻、
漁船五百隻と見てよかろうと思います。
無線機を装備しております
漁船は千五百隻ありますが、そのうち三分の一が
海上で実働
状態にあると
考えまして、
商船百隻、
漁船五百隻のうち約七十隻から、同時に入電いたします。ですから、各時点ごとに
海上の船から同時に電報を受けることができます。
また、そのコースがどこにあるかと申しますと、大部分はここから、
日本の港を出ましてからバシー海狭を通過しまして、南シナ海を通ってマラッカ、インド洋、イランへ参ります。一部はヨーロッパまで参りますが、大体インドどまりであります、一部はフィリピンへ参ります。このコースは、非常にたくさん船が絶えず就航しております。
日本から最短コースをとりまして、アメリカ航路、濠洲へ行く船、大体ここのところがブランクになりまして、こことここに
商船が通過いたします。そのうちの一部がここに現われてくるわけであります。
ここにちょっとこれは見にくいかと思いますが、この
台風がやってきましたときに、こういう船の刻々の位置が——私ども
天気図で毎日やっておりますが、どの船がどう行動しているかということは、私どもの手元で毎日、当直に当っておりますと手にとるようにわかります。それで船のコースを追跡します。どの船が危険に瀕するか、どの船は大丈夫か、そういうことを常時監視しているわけであります。そういたしますと、この
台風に
関係のある船を選び出すことができます。それをあとから調べたのがこの図でございます。
これを見ますというと、どういうことを船でやっているかと申しますと、北から南へ行く船、こういう船は、初めのうちは普通の航海速力で走っております、十ノットで。……それから
台風が接近いたしますというと、速度を上げまして——速度を上げるということはどうしてわかるかと申しますと、六時間ごとの位置が少しずつ離れます。ですから、この間速度を上げているわけであります。ここを速度を上げまして、
台風の来襲に先だって
自分の船を進めて、港へ入る、そういうことをやります。それから逆に北から南への船がたくさんございますが、そういう船はどういうことをやるかと申しますと、ここからやってきまして、たとえば桃色の線が入っている船があります。これは日枝丸であります。三千七百トン。これがここへやってきまして、ここまで来ますというと、ここの所で、これは数字が入っおりますが、小さいのでごらんにくいかと思いますが、ここの所に来ましたときに、
台風がちょうどここまでやってきております。このまままっすぐに行けばぶつかる。ここのところで約二十四時間ほど、しばらく行ったり来たりして
台風待ちをするわけであります。それからここに、たとえば黄色い船があります。燈色の船があります。この船はこう来て、バシー海峡を通過いたしますけれども、まっすぐ
日本に行かないで一度南へ下りまして、このスケールはこれのちょうど二倍になっておりますから、この大きさをここへ持って参りますと、
台風の大きさはこうなります。
台風の外側をずっと回りながら、
台風が通過したあと北へ上るわけであります。それからここに赤い船があります。この赤い船は東邦海運の利根川丸であります。七千トン。この船はここまでやってきましたときに
台風が接近しましたので、南へ下りまして、
台風が行き過ぎた後北へ上る。それから青い船はフィリピンへ行っておりますが、宝隆丸でありますが、ここの所で非常に速度を上げております。ほとんど全速を出しております。ここの所へ来まして、
台風圏外を出たところで速度を落しております。
今言ったことをもう少しわかりやすくするために、こういう図をごらん願います。これは、この図の中から利根川丸のコースと、それから宝隆丸のコースと、それから
台風のコースと、その三つを取り出すとこういう図ができます。これで、このままではちょっと船がどういうことになったかわかりにくい。そこでこういうことをやります。
台風がこう動くのですけれども、その
台風がかりにとまっていたと仮定する。そうしてその
台風に対する刻々の船の方位と距離をこの図の上に写しております。そうしますと、
台風の中心に対するこの船の相対運動が出て参ります。この図を作ると、船がどういうことをやったかということが非常によくわかる。そこでその図をかきますと、このようになります。この図を見ますと、たとえば利根川丸はこういう巨大な
台風に対して、こう来てこう来て、
台風に対してこう相対的に運動して逃げたのだということがわかります。
台風の左側のうしろ、左うしろの正面は
台風の最も静かなところであります。静かといっても相対的であるけれども、
台風の中では最も安全なところで、しかも非常に巧みに抜けた、非常に巧妙な航海術をやったことがわかる。
台風が
一つ来ると、この付近の船は皆こういうことをやるわけであります。たとえば利根川丸がもしもこういうことをやらなかったとすれば、やらないでまっすぐ
自分の予定のコースをこう来たらどうなったかというと、このときの速度をそのまま外挿いたしまして、船の本来の航海計画に従って外挿いたしますと、どうなったかということを書きますと、大体このようになるわけです。
台風の中心に入って非常な危難を受ける。昨年は辰和丸が南シナ海で遭難しましたが、そういうようなことが起りかねない。それは船体自体の強度もありますし、船長の航海術もありますから、何も沈むとは限らないわけですけれども、
台風の中心を通って損害を受けないということはないわけですから、何らかの相当大きな損害を受けるということになる。その損害を未然に防いでいるわけであります。
たとえばこの利根川丸は七千トンでありますから、トン当りの単価を今二十万円といたしますと、大体十四億の船であります。もし沈んだとすれば、これでもって十四億の金が消えてなくなったことになる。それは船自体の値段もそうでありますが、それに積んでいる物資、それから特に船員の生命、そういうものを
考えますと、金では換算できない。
台風が
一つ来ますというと、こういうふうに十くらいの船がみんな
台風から逃げることによって、適当な避航法をやることによって損害を防いでいる。そのために何百億、全部をトータルすると何千億になるかもしれぬと思いますが、物資その他を入れると……。そういうような損害を未然に防いでいるわけてあります。
どうやってそれを防ぐかと申しますと、これは別に我田引水を言うわけではなくて、
自分の毎日やっている
仕事だから御
説明するわけですが、
中央気象台が
船舶無線通報というものを出しております。一番こちらの図をごらんになりますとわかりますが、話がちょっと飛びますが、現在世界中の海にブランクのところを作らぬようにしよう、どこの船が地球上のどの海を航海しても、必ずどこかから
気象通報が受けられてそれによって安全に航海できるようにしようというので、これは
気象通報事業が始まりまして以来の長年の理想ですが、それが完成しましたのは一九四六年の、今度の第二次大戦の終った翌年に初めて完成いたしまして、世界中が完全に協力するようになった。中共から電報が来ないので、ソ連からもよこさないというので、誤解される方があるのですが、ソ連はそういうようなことはございません。ソ連は他の各国同様に全く完全な
気象通報をやっております。また地球上の区域を、国境を撤廃いたしまして、世界中の
気象台が分担して、互いに
自分の方の海面を受け持って、どこの国の船でもその海面に入るときにはそこの
気象通報を受ける。そういうシステムが一九四六年に完成しております。
日本の担当している区域はどれだけあるかといいますと、東経百度の線、ここにちょうどシンガポール、マレー半島、ここの線であります。南支那海を入れたものでありますが、百度で切りまして、片方は日付変更線で切ります。それから赤道で切りまして、北緯六十度で切ります。地球のほぼ八分の一に当りまするこういう海面であります。これが
日本の
中央気象台の責任分担区域ということになっております。
こういうこともよく、内地のことだけを、陸上の生活だけを
考えておられる方は、そういうインターナショナルの責任を負うということは、今の
日本の戦後貧乏になったこういう国では無理だ。オーバー労働だ。そういうことはどこか金持の国にやってもらったらいいと、そういうことを言われる方も相当あるのですが、実はそうじゃいなのでありまして、なるほど区域は広い。広いけれども、この区域にいる多数の
船舶のうちの大部分は
日本船であります。先ほど申しましたように、この
範囲で操業しておりますのは約五百隻ありまして、
皆さんの御承知かどうか知りませんが、現在ではアラスカのすぐそばまでカニをとりに行っております。それからここのオホーツク海の中ではタラをとっております。ここではサケ、マスそれからクジラ、それからニシン、それからカツオをこの海面で全部とっております。マグロに至りましてはこの南方海域全部と、それからカリフォルニア沖で、最近この海域が放射能で汚染されまして危険になって以来、南半球に行って、南緯二十度から三十度、ニュージランド付近までマグロをとりに行っております。ここの南支那海のトンキン湾まで底引きに行っております。ベンガル湾でも底引きが、それからスマトラの南部、この
天気図からはずれて、南半球に行っておりますが、そこでもマグロをとっております。そういう船が、ここの中の大部分は
日本船であるということと、われわれの
日本の船が
外国の
気象台の担当する海面に行きまして、そこで操業をしている。そういう所で操業をしている船が、
外国の
気象台から安全な
海上警報を受けるわけでありますが、それを受け取る場合に、人に任かせて、われわれの方は何もしないということは許されない。海の上に国境はないのですから、区域わけによりましてそれぞれ責任
範囲の
海上警報を完成することによって、
自分の国の船が
外国へ参りまして、
外国の海へ行って航海するわけであります。
外国の海というわけじゃないのですが、
外国の
気象台の責任
範囲になった海へ行って、そこで安全に操業するためには、われわれも義務を果さなくちゃいかぬ。
そこで、そういうようなウォーニングをやるためには、何をするかと申しますと、こういうような
天気図をわれわれは書くわけであります。
自分の責任
範囲の
天気図を毎日四回書く。六時間おきに四回書いて、それから
日本のごく近い所、本州を中心としました狭い
範囲は一日八回書いている。そういう
天気図をもとにして、そういうウォーニングを出している。ウォーニングが正確であればあるほど、船の危難は減るわけであります。
台風というものは一年に二十五から二十六ほど、できます。
日本へやってくるものは、一年に
二つか三つしかないが、太平洋上には毎年二十個以上の
台風が出ますですから、そういういう
台風の出るたびに、その付近にはああいうふうに、
天気図に見える
商船だけでも十隻ある。
気象電報を打たない
漁船に至っては、何十隻から何百隻いるかわからぬ。今ごろからカツオになると、小笠原近海にはカツオ船が何百隻と出ております、焼津、三崎、枕崎から。そういうところへ
台風が
一つやってきますと、何百隻という船が引っかかる。その船は全部
中央気象台の
気象通報によって、
台風がどっちからどっちへ動いて、どれくらいの風速を持っておる、そういうことを知って今後の操業計画を変更する、あるいは航路を避退することによって、その安全を保っている。
そういう魚をとりに行くのも、何も面白半分に行っているのじゃない。われわれの国は、農業生産六千万石しかありません。それで八千万から九千万近い人口が生きている。一人生きていくためにはどうしても、一人一石の割の農業生産を必要としますから、残りの分はどうしても工業生産及び水
産業にたよらなければいけない。その工業生産を国内で発展させるためには、
外国貿易がどうしても必要なのでありますから、結局水
産業と
外国貿易、
海上の船、それの安全をはかることなくしてわれわれは生きていけない。だから、われわれはこういう
天気図を正確に書きたい。
天気図が少しでも正確になればウオーニングがそれだけ正確になりまして、たとえば三百隻の船を助けて、一隻だけやり損って遭難さした。そういうことが少しよくなれば、その一隻がなくなるかもしれない。毎年毎年少しでもよくしていきたい、そういうわけで
海上の
観測点を少しずつふやしてきたわけであります。島の上に作る、あるいはそういう
商船の電報をたくさんふやしてくれということをたのみまして、やってきた。
ところが、
商船の
観測がたくさんありさえすればそれで十分かというと、実はそうではないのであります。これは
海上における
気象の
観測というのは、非常に厄介なものでありまして、厄介というのはちょっと語弊があるかもしれませんが、正確な
天気図を書くには、ぜひとも正確な
観測をするためには、
商船上の航海士が
自分の船の保安のために片手間に
観測をしておるというだけでは、どうしても正確な
天気図は書けないのです。これは
一つ一つ、たとえばバロメーターその他のこまかい問題をお話しする余裕がありませんけれども、ほかの問題にたとえて申しますれば、たとえば私はここに
一つ時計を持っておる。この時計は精工舎の非常に安い時計であります。一日に二分も三分も違っておる。こういう時計を持った船ばかりが外へ出ておると、こういうことになります。これは別に船が悪いのではない。そういう
商船士官が無能なわけではないのですけれども、船に使用し得る計器というものにはある程度簡便なものではないといけませんで、たとえば気圧計
一つとりましても、
中央気象台のような所、あるいは
気象台の
観測所のようなものは、水銀晴雨計を用います。水銀晴雨計でありますというと、十分の一ミリまで正確にはかれます。なれた
観測員でありますと、目分量で百分の一ミリまではかる。ところが、一般の
船舶に水銀晴雨計を装備してそれではかれということは、技術的に無理なんでありまして、一般にアネロイド晴雨計というものを装備いたします。アネロイド晴雨計といいますのは、これはたとえば一週間も
海上を航行しておりますと、その間に一ミリニミリという違いが出て参ります。たとえ
専門の
人間が使ってもそういう誤差を作っていきやすい。これは機械自身の性能から来るのでありまして、やむを得ない。だから、どこかの港に入ったとき、あるいはどこか非常に優秀な
測候所のある島を通過するとき、そういうときにその船の持っている気圧計がそういう標準的な
観測とどれくらい違っておるか、そういうことを比較いたしまして、この船はいつでも一ミリか二ミリ高く出るとか、この船は三ミリ低く出るとか、そのわずかの差を
検定することによって
観測が正しく行くわけであります。これはたとえば風の
観測においてもそうであります。
中央気象台のような所でありますというと、ロビンソン風速計を使いまして風の平均の強さというものを正確にはかっております。ところが、
海上の
船舶にそういうめんどうな
観測をしろということは
要求できないのであります。ですから、そういうところの船は非常に簡便な、ほんの数秒間じっと見つめておれば、一応目盛の上に風速が出てくる、そういう計器を使用いたします。そういう計器というのは相当の誤差を持つ。従って、たとえばどこか
気象台の
測候所のあるような島の付近、あるいは
気象台の
定点観測船のあるような地点を船が通過するときに、それをチェックいたしまして、その船の風速、それから気圧、そういうものを
参考にして
天気図を引いていく。
そこで、
海上における
定点というのは現在どれくらい分布しておるかと申しますと、大体
定点観測を
最初にやりましたのがフランスでありまして、フランスはもともと
気象事業を
最初に作った国でありまして、ナポレオン三世がフランスで一番
最初にやったのですが、それで
昭和十三年だったと記憶しますが、記憶違いかもしれませんが、あるいはその前後であります。大西洋のまん中にカリマレ号という
観測船を派遣しまして、それが
定点観測の
最初です。大西洋のまん中に何とかして
測候所に相当する船を
一つ置こう、それを基準にして大西洋の解析をやろう。解析というのは
天気図を分析することでありますが、それをやりまして、それがもとになりまして、今度の第二次大戦のあとで大西洋では非常にそれが発達いたしまして、現在ここに十一点出ております。ここがアメリカ、ここがヨーロッパでありまして、ここに十一点並んでおります。これはアメリカ、カナダ、ヨーロッパ各国が共同いたしまして、アメリカは一番金持ちですから
自分の国で五はい出しております。そのほかではカナダが出している、イギリスが出している、フランスが出している、それから北欧三国が出しております。それからイタリアのような国は船は出さぬで金だけ分担しております。そういうやり方で十一点作って、大西洋を完全にカバーしております。これがどういう意味をもつかということは、あとで東大の岸保さんがほんとうの意味を
説明すると思いますが、こういうことをやっているわけであります。こういうことをやって大西洋にブランクというものをなくしてしまった。これで大西洋の
天気図というものが非常に正確に書ける。ウォーニングが非常に正確に出せる。こういうことをわれわれは太平洋の方でもやりたいというわけであります。
この日付変更線からこちらが
日本の責任分担区域でありまして、しかもその中にある船の大部分は、これは単なる国際責任というのではなくて、実は大部分が
日本船です、だから、そこの保安をやるということはわれわれ自身に直接影響する問題であります。ですから、ここの中にはインターナショナルに予定されている点は四点、SVXTというこの四点あります。日付変更線の右側にも四点あります。これはPQMNの四点。この中で現在われわれが非常に困っているのは、例の一昨年の
定点観測の廃止のときに、アメリカはVは残しておりますが、北方のSは撤去してしまった。XとTは日米共同でやっておったのでありますが、そのうちのTだけは
海上保安庁の手でやられておりますけれども、Xの方うがなくなってしまった。そのためにここの所、千島沖からカムチャッカ、アリューシャンにかけまして
天気図の精度が落ちるのです。落ちると申しましても程度問題でありまして、たとえば非常に熟練した
予報官、現業経歴十年も持っているような
予報官が書きますと、そう違いはない。しかしそこまで到達するには、大学を出た
人間を十年も十五年も教育しないとできない。そういう
予報官というものはそう簡単にはできないのであります。われわれはもっと簡単に、そこにたとえば
観測点さえ置けば、どこの
測候所のどんな
予報官が書きましても正確なものができる、そういうものにしたいのです。特にこの海面に
日本船がおらぬというなら別です。ところが、そうじゃなくて、現在でもここに北洋船団が三百隻出ております。そのうちの五隻くらいはすでに沈んでおります。
とにかくわれわれは毎日
海上に警報を出しております。
自分の責任
範囲にある船が沈むということは、医者が
自分の患者を見殺しているようなもので、夜も寝られぬです。だから、あれをやめたためにそういうことが起ったとは申しません。申しまけんけれども、ああいうことをやめるということは、そういうものが死んでゆくのを見殺すということなんです。それがわれわれにはたえ切れない。だから、海の上にそういう正確な
観測点をぜひ置いてもらいたい。これはあとから学術的にはどういう意味を持つかということは岸保さんがやりますが、単に学問的な興味のためにやって、論文を書いて博士になるためにやっている、そういうわけのものではないのでありまして、もともとがその日その日の
日本の水
産業並びに貿易の安全をはかるために役に立っておったものをやめられたということが、われわれはたえがたいのであります。そこのところを
一つよく御了解願いたい。そういう意味でお話をいたしました。終ります。