○佐竹参考人 生光会組合員を代表いたしまして、お答えいたします。
まず第一に、私たちが入りますときに、誓約書なるものを書かせられました。その誓約書は、
今般御所生
光会療養所に御採用願いましたについては就業規則を守るは勿論上司の指示に従い友愛互譲信義協力の精神を基として公正な秩序の下に責任を重じ誠実を旨とし常に発刺たる創意を以て業務に精励し事業の発展に努力尚左記事項を厳守致します
記
一、所の建物、附属物件を愛護し万一重大過失によって棄損したときは弁償の責に任じます
一、名称の如何を問わず組合又は団体運動には参加、参入いたしません
こういうものを
最初に一札とられまして、そのあとから婦長が来ましてから、婦長の口から、組合運動には絶対に参加してはいけない、それから看護婦の場合は、患者さんと恋愛をしてはいけない、そのことを守らない場合は絶対にやめていただきます、こういうことを口約させられております。
それで、組合結成前の理由を申し立てたいと思うのです。看護婦、雑役、事務と三分析させていただきまして、看護婦は婦長の圧迫のもとにしいたげられ、採用時には、組合を作ってはいけないと、今言ったようなことを口約させられまして、月給も事務会計でなく、婦長が決定する始末で、個人に来る手紙を、婦長が先に検閲し、その後手渡され、五分間の買いものにも、婦長さん行ってきます、ただいま帰りましたとあいさつし、信用して秘密の話を打ち明けると、それを大きく広げて事務所で看護婦の悪口を言い、外出、外泊には一々許可書を取り、外泊すれば、パンパンみたいだなどと言い、またある人は、個人的交際までもしてはいけないと支配されたり、少しでも意見を言えば、感情的になり、はれものにさわるようなびくびくした勤務
状態でした。何回となく総会を開いてもらいたいと話しましたが、一部の赤の扇動だと受け付けてくれません。こうした中に、意見を言った者を陰で工作し、何とかしてじゃまになるからやめさせたいと
理事長と話し合ったりしたことが看護婦全員の耳に入り、怒りが爆発して婦長の非をなじりましたところ、経営側に泣きついて、つるし上げされたと言い、また一方的なる
見解をもって
理事長も全面的にそれを信じて、私は生光会の婦長であるから、私についていけない者はみなやめてよいとの暴言を婦長に平気で吐かせ、朝八時から日勤は五時まで、当直者は明日十二時まで勤務させ、当直料も払ってくれず、超過勤務手当も認めておりませんでした。四月より、当直料だけは認めさせました。一方雑役の
人たちは日給制で、一年以上勤務しておっても、病欠しても差し引かれ、朝七時から六時半までで、昼休みもできないほどの労働強化でした。意見を言えば、やはりすぐ首にされます。事務の人は二人で、この二年間一日おきに当直して、当直料も払われず、日曜日の休日も満足に取れませんでした。第一に就業規則は全然なく、給与体系もできておらず、最低一カ月五百円の子もあり、二千円、三千円という
人たちもおり、給与の明細もありませんでした。月給は、普通ですと事務会計から支給されるべきですが、看護婦は婦長から、雑役は
理事長の奥さんである常務
理事から支給されており、常識では
考えられないようなことばかりでした。
ここにおいて、組合結成の要望が個々に起り、四月二十六日、結成いたしました。組合員四十九名です。女三十一名、男十八名。さっそく
理事長に組合宣言に参りましたところ、無礼者とどなられ、ごみやつらとか、小娘になめられてたまるかなどと言われましたが、第一回の団交は、電光石火にやったため、四月二十八日、覚書交換に調印いたしました。ところが、これと同時に、さっそく雑役から一名、看護婦から一名、二名の首切りを、組合結成の扇動をした理由で通告し、また五百円の子は、個人的に親に手紙を出して引き取らせようと工作しましたが、これは組合員全部で撤回させました。なお、この撤回問題で、
理事長宅に組合員が参りましたところ、田無の星野刑事が来て、酒を飲んでおりましたところを組合員が見ております。これは個人的に来ていたかどうかわかりませんけれ
ども……。受付に今までいた女の子を婦長室にやり、むすこさんであるところの武啓男さんがすわり、出勤簿を事務所から持ち出し、だれだれは十時に来るとか、
一つのいやがらせをやり、組合
委員三名で交渉に行ったところ、あとからすぐ炊事で働いている吉田氏が来て、二人を手で突き飛ばし、お前らもっと静かに話をしろと言い、私もその
委員の中に入っており、横やりを入れないで下さいと話しましたところ、手首をつかみ、こっちへ来いと暴力で来ました。組合員が心配して半分ぐらい集まりますと、また、お前ら勤務につけと大声でどなり散らし、あげくのはてに、組合を妨害してやるとはっきり暴言を吐く始末で、婦長の権限をかさに着て、組合員の一人々々が、この人のために今まで苦しめられることが多く出て参り、たとえば、患者さんの食事が足りなくて取りに行くと、何年看護をしているのだと言い、ぞうきん水をぶっかけたりし、その人は泣いて自分の食事を出すという実例もあります。また、おばさん方もみなそうです。それから看護婦の手を握ったり、いやらしい格好までしている始末です。そういういろいろなこともありまして、五月十三日団交に吉田さんの問題が取り上げられ、組合側の面前で再度はっきりと、組合なんか作ったら絶対に妨害してやると言ったために、私たちせっかく組合を作りましたが、今ここで暴力のためにこわされることはどうしてもがまんができず、吉田氏解雇を要望しましたところ、
理事長はついに承認いたしました。時間の都合で、調印は後刻に延ばされ、五月十七日調印してもらうため会見したが、
理事長は出てこず、阿部
理事長代理人と称する人が来て、話しがわからないから
理事長に出てくれと言っても、
理事長はどこにいるのかわからないとうそぶき、そのあげく、計画的に車が来て、私たちをしり目にゆうゆうと帰ってしまいました。五月十九日にもう一度交渉をしようと申入書を出しました。
五月二十一日団交、六時になり、この日も
理事長は来ず、
理事長の出席を要求したが、やはり阿部氏が出てきて、
理事長はいないとの一点ばりでしたが、午後七時半、池袋から清瀬駅に行って自宅に入ったのを組合の一人が見ており、どうしても連れてきてくれと押し問答になり、組合員六名が
理事長宅に行ったところ、息子さんが田無の警察に電話し、不法侵入するからすぐ来てくれと言っており、あまりのことに組合員もあぜんとして病院に帰り、阿部さんに対し、どうしても
理事長を連れてこいと言ったところ、自宅に婦長と行き、二時間ぐらいたってから酒を飲んで帰ってきて、きょうはおそいから
理事長は会わないと言ったとのことに、組合員は、酒を飲んでよく帰ってこれると激しく抗議しましたところ、主観の相違で、酒を飲んでくることは悪いことでないと公然とうそぶかれ、くやしさで、良心に恥じない等のことをなじって婦長にも出てもらい、看護婦側から婦長に対して、もう少し責任を持って連れてきてくれと話しましたところ、五月二十二日正午十二時まで会見、七時になって田村代理人が来て、覚書とは全然異なり、婦長を失心
状態に至らしめるほど組合員が脅迫した、阿部
理事長代理人に対して同罪であるから謝罪せよ、並びに団体交渉は五名、後日をきめてやろうと、人を食ったことを書いてよこし、
理事長出てくれと田村氏にも話しましたが、東京に行って、いつ帰るかわからないと取り合わず、積り積って怒りが爆発して、組合全員、壁にビラを張り、直接絵の具で壁にも書くに至りました。五月二十三日、この壁のことを口実として、警備員と称して土足で五名の者が受付を占領しました。
五月二十四日、
理事長久しぶりに現われ、団交を要求しましたところ、午後二時から三時までの一時間限り、人員は組合代表二名、オブザーバー二名、書記一名の五名なら交渉してもよいと回答し、組合は、そんなものは団体交渉になっていないと反対し、さらに交渉を申し出ましたが、
理事長は、あすは給料日だ、おれが出なければ金ができるか、話す必要はないと、暴力団をたよりに組合員を押しのけ、姿をくらましました。阿部
理事長代理に、すぐ団交を開くよう交渉し、二十五日午後十時より二時まで山田
理事長を出席させるとの覚書を取り、二十五日に待っておりましたところ、約束は踏みにじられ、経営者側は、池袋から電話一本かけたきりで姿を見せず、団体交渉は、
理事長がやる必要がないと言ったから取り次ぐと、阿部氏は電話を切ってしまい、しかも、今までなかった給料の遅配をされ、護国団は二十六日に十二名に増加され、腕章もはっきりと護国団親衛隊と変り、裏門には鉄条網を張り、表は両方に陣取り、患者さんの面会人まで詰問し、患者さんは、ここは刑務所かとの憤りがあり、鉄条網は取りはずされました。
五月二十七日、内容証明をもちまして、鷲野
委員長外五名を、壁に書いたことを理由に企画扇動者であるから解雇すると通知し、器物破損で二十名を告訴までしております。また一名は、移動証明を持って来ないから解雇すると言って来ました。この移動証明は、以前話しました吉田夫妻も、過去一年半にわたって入れておりませんし、米も持ってきておりません。
こうして、何ごとも一方的にのしかけて参り、二十八日には私たちの夜の食事をとめ、これは組合全員の声で撤回させました。二十八日に、護国団は告示を出し、病室の安静時間にも、婦長の許可を得たからとビラを配ろうとし、病棟主治医にしかられて、安静後許可なしに病室を歩き回り、全部の患者さんからビラを突き返されております。そのあげく、おれはから手の名人だ、二、三年の監獄
生活なんか何とも思っていないと、入れ墨を出したり、すごんで見せ、私たちを恐怖のどん底に突き落し、お風呂もゆうゆうと先に入り、どっちが本職員だか、わからない始末でした。
五月三十日には、警告文を張り、五名の解雇者の移動は、いなかに強引に送ってしまおうとし、役場から断わられています。また婦長は、出勤簿をはがしてしまい、文書で白衣を返却するようにと言ってよこし、五月分の当直料もわざと解雇者に出さず、そのあげく、解雇者とは口をきかないとはっきり宣言し、六月二十五日付のはずが、意地悪くいやがらせに出ているわけです。
三十一日には、護国団の手で解雇者をつまみ出すことを計画し、皆で一部屋に固まっているよう悲壮な決意までしましたが、患者さんの方から、警告文に対しての怒りが爆発して、午後十一時までかかって取りはずされる結果になり、一応私たちの危害も免れました。
六月一日、患者さんからの要望と都労委のあっせんにより、一時退去しましたが、
理事長室は駅前にあり、二、三名は寝泊りしているそうです。
六月二日、山倉という団員が一人病院に来て、四、五名の組合員を一人ずつ呼び、六名の首切りは絶対撤回しない、たとい山田が倒れても、おれたちは断じてやると言っております。都労委のあっせんによる団交にも、幹部級の団員が来て団交の席上に入り、どっちが経営者であるかわからない錯覚にとらわれました。都労委の団交も、
理事長は二回すっぽかしを食わし、今度は、病院がつぶれても解雇は撤回しないとはっきり言って、団交を持とうともしないありさまです。
なお、阿部さん、田村さん、
理事長、秘書、奥井さん、書記、熊谷さんと称する方たちが、組合結成と同時に勤務につきましたが、阿部さんが
事務長であるということを、所長
先生初め、だれも紹介も受けずわからず、
理事である養鶴さんもわかりません。なお解雇問題も、
理事会で決定すべきであるにもかかわらず、
理事会も開いてありません。
理事である養鶴さんも、それを知っておりません。
以上であります。