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1955-07-15 第22回国会 衆議院 行政監察特別委員会 第13号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十年七月十五日(金曜日)     午前十時三十七分開議  出席委員    委員長代理 理事 山中 貞則君    理事 佐々木秀世君 理事 高木 松吉君    理事 濱野 清吾君 理事 南  好雄君    理事 山田 長司君 理事 神田 大作君       菊池 義郎君    牧野 良三君       松岡 松平君    山本 勝市君       山本 猛夫君    米田 吉盛君       鹿野 彦吉君    篠田 弘作君       福永 一臣君    高津 正道君       辻原 弘市君    大西 正道君       西村 力弥君    小林 信一君  委員外出席者         証     人         (東京教育大学         教授)     石山 脩平君         証     人         (日本P・T・         A全国協議会会         長)      塩沢 常信君     ————————————— 七月十五日  委員木村文男君、森下國雄君及び山本勝市君辞  任につき、その補欠として草野一郎平君、菊池  義郎君及び牧野良三君が議長の指名で委員に選  任された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  小、中学校における教科書関係事件     —————————————
  2. 山中貞則

    山中委員長代理 これより会議を開きます。  篠田委員長は健康を害されておりますので、暫時私が委員長職務を行いますから、御了承をお願いいたします。  前会に引き続き小、中学校における教科書関係事件について調査を進めます。直ちに証人より証言を求めることにいたします。  ただいまお見えになっておられる方は石山脩平さんでございますか。
  3. 石山脩平

    石山証人 そうです。
  4. 山中貞則

    山中委員長代理 この際証人に一言申し上げますが、現在わが国において小中学校における教科書は多種多様にわたり、大小出版業者が乱立の結果、これが検定並びに採択等に関しとかくの風評も生まれ、これらが学童並びに父兄に及ぼす影響等を懸念し、世上大いに関心を抱いておる向きもありますので、義務教育の本旨にかんがみ、これが真相を明らかにすることはきわめて意義のあることと考え、本委員会は本件の調査に着手した次第であります。証人におかれましては率直なる証言をお願いいたします。  証書を求める前に証人に一言申し上まげす。昭和二十二年法律第二百二十五号、議院における証人宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証人証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならないことと相なっております。宣誓または証言を拒むことのできるのは、証言証人または証人配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係のあった者及び証人の後見人または証人の後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するとき、及び医師歯科医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁理士弁護人公証人、宗教または祷祀の職にある者またはこれらの職にあった者がその職務上知った事実であって黙秘すべきものについて尋問を受けたときに限られておりまして、それ以外には証言を拒むことはできないことになっております。しかして、証人が正当の理由がなくて宣誓または証言を拒んだときは一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは三月以上十年以下の懲役に処せられることとなっておるのであります。一応このことを御承知になっておいていただきたいと思います。  では、法律の定めるところによりまして、証人宣誓を求めます。御起立を願います。  宣誓書の御朗読を願います。   〔証人石山脩平朗読〕    宣誓書  良心に従って、真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。
  5. 山中貞則

    山中委員長代理 それでは、宣誓書署名捺印して下さい。   〔証人宣誓書署名捺印
  6. 山中貞則

    山中委員長代理 これより証言を求めることになりますが、証言証言を求められた範囲を越えないこと、また御発言の際にはそのつど委員長と呼んで委員長の許可を得てなされるようお願いいたします。まず委員長から概括的に証言を求め、次いで各委員から証言を求めることになりますから、御了承を願います。なお、こちらから御質問申し上げておりますときにはおかけになっていてけっこうでございますが、お答えの際にはごめんどうでも御起立をお願いいたします。  まず証人の略歴をお述べ下さい。
  7. 石山脩平

    石山証人 申し上げます。昭和五年京都大学哲学科卒業、続いて東京高等師範学校東京文理科大学、それは現在の東京教育大学でありますが、そこで助手、助教授教授と勤めてきまして、昭和二十年十月に文部省教科書局編修課長に就任しました。そして昭和三十二年の八月に文理科大学教授に帰りまして、自来東京教育大学教授として今日まで勤めてきております。以上であります。
  8. 山中貞則

    山中委員長代理 次に、証人は終戦直後教科書制度国定制度より検定制度に移行したころ文部省教科書局に勤務しておられたと聞くのでありますが、教科書国定制度検定制度について、所見がおありであるならば、述べていただきたいと思います。
  9. 石山脩平

    石山証人 メモ程度のものを見ながら申してよろしゅうございますか。
  10. 山中貞則

    山中委員長代理 どうぞ。
  11. 石山脩平

    石山証人 私は、自分経験と最近の情勢とを考えまして、まず結論的に申しますと、教科書検定制度国定制度に比べて大局から見てその長所が多いと思います。  その二、三の点を申しますと、まず、国定時代教科書検定教科書と比べますと、一見してわかりますことは、その内容もその体裁もはるかにまさっておると思います。そうしてそれは児童生徒父兄たち検定教科書に対する一種の魅力として直観的に感じておられることが推察されます。国定当時私が編修課長として最も悩みましたことは、優良な教科書を作ろうとする場合に、その原稿を執筆する人もしくはさし絵を書いてもらう人たち文部省の名において協力を依頼する場合に、あまりにも文部省執筆者を遇することが低いために実に頼みにくかったことを覚えております。部下の監修官も口をそろえてそのことの苦悩を訴えておりました。今日、私は、現実において原稿料とかさし絵画家に払う料金がどういうことになっているか、はっきり存じませんけれども、少くとも政府が国定制度のもとにかつて出した、また将来そうやるかもしれないことを想像しますと、はるかにその点は差がある。検定自由競争を基礎にした執筆依頼さし絵依頼装丁依頼、こういうものは、関係者に一そう熱意と意欲を持ってもらえるだけの条件があるように思います。多分そういうことが検定教科書魅力というものに結果してくるだろうと思います。  第二に、教科書をめぐりまして、それに関係する人たちが、教科書に対する関心熱意が自然に強くなりまして、その点、国定で作る教科書に比べると、その熱意関心の広まる範囲検定においてはるかに広くなっているのであります。  第三に、従って、それをめぐりまして、一般国民父兄を初め一般関心教科書に対して非常に広くなり、かつ強くなっております。それは一面においていろいろな風評なり問題を起すほど、つまりそれほど強くなっております。  私は、このいろいろな点から考えまして、大局から申しまして、教育民主化の一翼として、検定制度という教科書あり方国定に比べるとやはりまさっていると思います。以上は大局から見ての判断でありますが、細部の点は必要があれば後ほどまた申し上げます。
  12. 山中貞則

    山中委員長代理 次に、現行検定制度に対する弊害が言われておりますが、証人はいかなる点に弊害があると思われますか。また、その弊害是正についてはどういうふうにお考えでございましょうか。
  13. 石山脩平

    石山証人 実はいろいろな風評を聞いております。私は事実がどの程度であるかということは存じませんが、少くもそういう風評が起っておるということ、そのこと自体がすでに一つの考えさせられる問題でありますが、私は、一体児童生徒の読物としての、しかも必ず読まなければならないところのこの教科書というものが、商品として、つまり営利事業の対象として扱われるためには、おのずから限度があると思います。一方においては自由競争の原理を認めて、そのためにこそ検定制度長所として私たちはそれを賛成できるのでありますが、そうであればあるほど、それがかえってあまりにも激烈な競争のために弊害を生ずるとなれば、その自由競争の原則を認めながら、その自由競争の仕方について、普通の商品よりももう少し、いやはるかに多くの制限を加える必要があり、それが妥当だと思っております。その制限はいろいろあり得ますが、端的に申しますと、世間に言われるようなあまりぼろいもうけができるような条件は、教科書に関する限りは問題でありまして、やはりこれは、原価計算、またその定価つけ方、そういうものをめぐって、少くも現在の検定教科書よりも、はっきりした数学は私しろうとで申し上げられませんが、大まかに二割近くぐらいは定価が下げられるはずだ、そのように国が最高価格決定について考慮すべきだと思います。  しかし、そのためには必然的に伴う条件が必要でありまして、第一に、よく問題になります展示会でありますが、あれは、教科書会社及びその著者などの意図を現場教師に知ってもらうために、また採択の資料にしてもらうために重要な一つ施設でありますが、それにしても、しばしば言われますように、展示会で短期間のしかも外観だけしか見られない程度のそれは、施設としてはなはだ不十分でありまして、やはりこれはもう少しゆっくり内容に立ち入って検討できるための配慮が必要であります。たとえば、よく言われますように、やはり常設的な施設にしたい。ただ、その施設に出すための教科書が非常にたくさんの費用を要することになると、かえって矛盾してくるわけでありますが、その辺もっと専門家によって技術的に検討される必要があると私は思いますが、とにかく、学校図書館あるいは学校図書室というようなものがもし適当な数で計算でできれば、それを目標に各発行所からそこへ送る、こういうことが可能ならばそれもけっこうと思いますし、あるいは、それがあまり数が多くてかえって定価の引き下げに効果がないというならば、もう少しブロック別なり何かで範囲を広げまして、たとえば郡市単位くらいに教科書図書館教科書図書室を設けまして、比較的近くの者が比較的ひんぱんにそこに通い、研究できるようにするような施設に、できればしたいと思っております。  それは展示会をめぐってでありますが、もっと重要なことは、採択をめぐっての浪費——浪費と申しますのは、今までの展示会制度が不十分なためということは表向きの理由でありますが、事実上はおそらくはあまりにも激しい商業上の競争のために合理的な経費以上が使われるだろうという予想のもとにあえて浪費と申しますが、そういう浪費をなくするために、第一には、いわゆる地方駐在員あるいはそれに類するような参与とか嘱託とか、要するに教科書会社宣伝のために使っている人で、しかも直接に現場先生にひんぱんに接触できるような形になっておるいわゆる駐在員と称するもの、それに類するものを私は全廃したいと思っております。その対策として、つまり現場先生方周知方をはかるためには、やはりもう少し具体的な詳細な図書目録というようなものを配りたい。今までも当然出ておりますが、もう少し著者意見なりあるいは編さんの趣旨なり、あるいは特に力を入れた重点なり、そういうことを、あるいは著者側、あるいは発行者側において十分それを良心的に表現しまして、ある一定の条件で、それをちょうど選挙で申しますと選挙公報みたいな意味を持ったものとして、解説付教科書目録というものを親切に作って、それは無料で現場先生に配布したい。  それから、いわゆる研究会という名におけるいろいろの催しが問題になってきておるようでありますが、私は、以上申しましたような駐在員全廃あるいはまたいわゆる展示会強化改善目録強化、そういうことをして、なおかつ現場先生に一そう十分に周知してもらいたい、単に周知するというよりも、むしろ教科書について積極的に研究してもらいたい、そのための研究会意味があると思いますが、従来その名において多くの問題を生むようなことがありましたので、私は、研究会をもしやるならば、それは教育委員会を通じて、言いかえれば教育委員会主催において、教科書に限らず、むろん教科書を含めてけっこうでありますが、それに関連してもっと広く教育研究会というものを公明な立場催して、それに先生方研修の機会を持たして、そこで自然教科書といったような具体的なものに結びついてのいろいろな研究解説批評等、そういうことがあってしかるべきだと思います。そうして、いわゆる研究機関全廃とは申しませんが、その主催者立場をもう少し公にすることと、それからまた、その内容を、いかにも教科書宣伝というような、あまりにも露骨な直結した商売の色彩を持たせないで、教師研修という大きな中の一環として、むしろ大きな研修立場からの催しとして良心的な研究会が持たれることは、私はむしろ希望するのであります。  その他いろいろありますが、一応私は、さっき申し上げたように、大局から見、国定制度はよくないが、検定はまさっておる、しかし検定にも弊害があるからその是正をしたいということに即しての説明として、以上申し上げました。
  14. 山中貞則

    山中委員長代理 次に、教科書編集され、またこれが採択されるまでの過程におきまして、いろいろと問題点があるわけでございますが、次の諸点について御意見を承わりたいと思います。まず、教科書編集について、先ほど表面的に触れられたようでございますが、教科書編集そのものについて、いま少し御意見がありますならばお聞かせを願いたいと思います。
  15. 石山脩平

    石山証人 編集と申しますか、企画と申しますか、あわせて編著と申しましょうが、その編著という側から所見を申し上げますと、検定制度のもとにおける編著あり方は、国定に比べればやはりはるかにすぐれております。関係者が多いこと、そうしてまた、よい意味での競争がありまして、自然内容良心的になり向上してくるということは事実であります。ただ、その場合に問題点一つは、編著者はあくまでも編著者であるべきであって、むろん、その人の経験なり経歴から申しますと、その教科書関係してそれを批判もし評価もあるわけでありますから、理論的には、その点だけ考えれば、編著者が同時にある場合にはある条件のもとに審査にも参加する、あるいはまた採択についても重要な意見を持つということはあり得るでありましょうが、しかし、私は、検定制度に伴う弊害を一方強く考えますので、編著者審査もしくは調査と申しますか、いわば検定仕事ですが、その検定仕事及びその採択仕事に全然タッチすることはできないということ、厳重にしたいと思います。ただ、そのために、世間の若干の声によりますと、非常に多くの会社が大勢の編著者をかかえてしまうので、その方にむしろ経験や見識を奪われてしまって、自然、世間の言葉に従えば、二流、三流の人が審査もしくは採択に当るというようなかっこうになる、こういうことを言われております。私はそういう考え方は自分としては賛成しません。全国で相当多くの会社があることは事実でありますが、それに関係しておる編著者がまた何千人かに上るかもしれません。しかし、私は、それよりもはるかに多くの数が教育界にありまして、審査においても採択においても決してその人なきを憂えることは当らないと思います。編著者と、それかも審査及び採択という性質の違ったもりは、むしろ角度が違い、それに応じて独特の資格なり観点、立場が要求されるのでありまして、むしろ私は、いわゆる編著者よりもさらに有能なる、現場から、またはその他の別な意味からの経験者から、多くの審査員採択員が出ることは可能でもあり、必要でもあり、むしろ望ましいと思っております。ですから、私は、編著者審査採択には全然タッチできないということを、道義的にも常識的にも当然と思いますが、むしろ制度的にも確立してほしいと思います。編著者に関しては大体今大ざっぱにそれだけを申し上げます。以上であります。
  16. 山中貞則

    山中委員長代理 次に、教科書検定事務についてお伺いをいたしますが、たとえば検定を公開してやるべきだという意見もございますし、また、現行検定に対する批判としては、実際上から考えて、検定そのものが無意味と思われるような内容もしくは質の教科書文部省検定として生徒の手に渡っているということで、その事実等がいろいろ明らかになっているわけでございますが、そういう問題について御見解を承わりたいと思います。
  17. 石山脩平

    石山証人 今委員長から紹介されました世間の声のうち、私はなるほどそうも思われる点もありますが、しかしもうちょっと検討を要する項目だと実は思います。と申しますのは、検定、つまりそのできた原稿審査に当る人と、その権限と言いますか、あるいはその手続と申しますか、その点において率直に申しますと、私は世間に対しては不明朗な点があると思います。第一、千何百人と推定される調査員、つまり検定に当る人、点をつける人、その人たちがだれかわからないし、どういう資格、どういう経歴、変えて申しますと、果して適当な人であるかについての疑問を抱かれ得るような点もありそうな形が現に行われております。それから、その千何百人分人審査にかかる前に、文部省は、一応原稿を集めて、整理して、おそらく事務的な整理でしょう、分類なり番号をつける程度でしょうけれども、そういうことをして、いわゆる審査員に回すと思いますが、その場合に、先ほど委員長が申されましたように、これは明らかに好ましくないと思うような内容の傾向なり、その程度から見て好ましくないとわかっておっても、審査員にとにかく全部回す、こういうような意味での例としてのお話と思いますけれども、この点が私は自分ながらはっきりと事実がわかりません。ほんとうにそうなのか、もしそうであるとするならば、文部省で単に事務的に整理して審査員に渡すのではなくて、その前に、文部省自身が、もっと審査というものに権限を持ったスタッフを作りまして、そこでまず、審査員に渡す前に、いわゆる当局の責任として第一関門を審査する、そういうことが、もし、今委員長が申されましたようなことが事実ならば、必要だと思いますが、自分自身そうも考えたこともありますけれども、しかし、それはまた逆に官僚統制、悪くすれば思想統制というような傾向になりやすいので、これは私は実はいいか悪いかということについて十分な決定はできません。しかし、私の希望としては、それにかわるものと申しましょうか、そういうことの心配をまとめる上においての制度として一つ考えたいことは、やはりこの審査員が任命される以上は、審査員権限であって、前もって役所で優劣その他をつけての扱いはよくないと思います。従って、審査員そのものに十分な権限と信用度とを持たせることが必要でありまして、そのために、私は、審査員を隠しておかないで、どういう人間がやるかということをはっきりと公開してほしい。そのためにはまた、その公開された人の審査についての力と良心とを十分信頼してもらうために、その手続としては、私は何かの方法審査員資格審査をすることが必要かと思います。それは、たとえば、その例でありますが、巷間二三伝えられる不満の例を申しますと、あの人は審査をすべき人でないと思われるということを著者なり第三者なりが言うておりますということがあります。あるいはまた、極端な例を申しますと、ある種の審査員のごときは、ある種と申しますのは、現場からというより、むしろ大学あたりから出たようないわゆる学者側審査員と申しましょうか、そういう部類の人の中に、うわさによると教科書がよって準拠すべき学習指導要領すら読んでおらないと思われるような人があるんじゃないか、そういう審査の仕方があるんじゃないか、そういう疑問を持っての不満が訴えられております。実は、最初私も証言しましたように、険定制度長所は、より多くの人が教科書についての積極的な関心を持つことが長所でありますので、当然、学習指導要領はもちろんのこと、検定に関して審査に必要な事柄は十分前もって研究し、心得ておくべきでありまして、それこそ審査員の根本的な資格であります。そういうことにおいて、世間のある意味での風評を起させないためには、やはり審査員の公開及びその審査員になる人の資格審査を何かの方法でして、その資格審査の結果、これこれの人が何年何月から何年何月まで教科書審査を委嘱される、こういう手続にしてほしいと実は私個人としては思っております。  なお、審査、いわゆる検定に関してちょっと申し上げたいことは、今の制度では、たしか府県教育委員会から推薦した人あるいは文部省学識経験者として委嘱した人、こういう人を合せて一つ検定審査に対する機関があるのであるが、それは実際の採点者じゃなくて、隠れた採点者採点したものを、いわば集計されたものを、その現物とは関係なく、結果の採点だけを見て、どういう関係か知りませんが、それで何かしら決定をするわけでありまして、私はそういう真の審査員と、もう一つ違った意味審査員とか調査員とか、そういうものが二重にあるような気がしますので、後の方はオープンでありますが、しかし事実上ははなはだ実情に遠いうらみがある。前の方は隠れておるのでありますから、いろいろな風評を生むもとになる。こういう意味において、私は、すべて一括して、資格審査によって合格した人がオープンな資格において委嘱されて、そうして検定審査に当る、こういう制度にしたいと思います。以上であります。
  18. 山中貞則

    山中委員長代理 次に、教科書採択権、いわゆる法的な採択でございますが、その採択権の所在と、それから、行われておりまする採択の方式、そういうものについて御意見をお述べいただきたいと思います。
  19. 石山脩平

    石山証人 これは実は、おそらく検定教科書制度のうちで最も多くの問題点が生じやすいところであります。結局は採択のいかんによって運命が決するわけでありますから、そこに、業者の実に真剣な、あまりにも真剣なためにむしろ度を失した程度競争が行われるということはむしろありがちなことでありまして、従って、私は、編著者審査員に対する以上に、さらにもっと厳粛に採択に関する制度を確立し、従ってまたそこに相当な条件が必要だと思っております。  一般的にはそうでありますが、具体的に一、二のことを申し上げますと、さっき第二に申しましたように、編著者採択においても採択そのものにタッチしない、言いかえれば採択採択委員会でやることを私は考えていますので、採択委員にその編著者審査員をやらせない。つまり職能的にはっきりわけておく。  それから、採択にややもすると無形の力として働きやすいものが供給の面でありまして、いかにほしいものを採択しようとしても、供給が保証されないと現場の人が非常に困りまして、その供給に対する現物不満から、またいろんな試みなり競争が行われまして、これがまた教科書問題の風評のもとになっていると思います。従って、私は、いわゆる供給責任者というものはいかなる点においても採択にタッチしてはいなけい、採択委員には絶対に供給関係者はつながりを持ってはいけないと思う。  それから、私、採択委員ということを申しましたが、実は、採択につきましては、一般国民の間に教科書の種類が多過ぎて転校その他に困るということが訴えられておりますし、一方また、あまりにも乱雑と言えるような競争を多少でも整理する意味もあるのでしょうが、しかし放任しておくともっと多くなりがちなので、採択単位と申しましょうか、地域的、ブロック的なある単位というものを大きく都道府県ぐらいにしぼろうという声があるようであります。私は、その採択単位というものがどのくらいの大きさがいいかということについては、技術的に専門的に結論が出ませんけれども、大まかに申しますと、現実的には、採択単位をあまり大きくきめる、大きなブロックできめるということは、私は検定制度の根本精神に反すると思います。それこそ国定への道と非難されるゆえんであります。ですから、都道府県単位は大き過ぎる。私ども、率直に申しますと、現場先生がほんとうに常に顔を合せ話合いをして教科書についての研究ができるような単位というものは、大まかに申しますと昔のいわゆる郡市単位と申しますか、今でもありますが、郡市単位として、新しい市は非常に大きいけれども、それならまた若干市を分けてもいいが、とにかく郡市単位くらいの大まかな標準にして、同じ郡市では同じ教科書が使われることを目標にして、それで採択をすべきだと思います。そのためには、その単位においてどういう人が何人くらい採択委員になるかということに自然なってきますが、その辺のことも技術的に十分私は申し上げる資格はありませんけれども、しかし、それは都道府県の教育委員会責任を持って、その都道府県内の小ブロックとして、面積、人口、学校分布あるいはその文化の程度、色彩、そういうものを十分考慮した上で、わが県においてはどこそこをもって第何単位にするといった見解で、二十なり三十なりの小ブロックができて、教育委員会の承認のもとにそのブロックごとに採択委員会ができて、そこで採択をする。その結果期せずして同じ種類のものが同じ都道府県で一致した結論が出れば、あるいは県単位と似たような結果になるかもしれません。あるいはまた、さまざまの採択が行われて、いわゆる府県単位よりはもっともっと多様な採択の結果になるかもしれません。あえて結論を申しますと、一人々々の教師採択すべきであって、その採択された教科書の種類なり数は多様になるのが検定制度の精神でありますが、しかし、そうかと申しましても、やはり世間の声、実情を十分考えていかなければなりません。そこで、私は、今申した程度単位採択委員会を設けて、しかもその府県の教育委員会単位のもとに作られた小ブロックの採択委員会責任といいますか良心をもって採択をする、そのためにこそそういういわば小ブロックくらいを単位としての教科書研究教育研究熱意を持って行われるべきであると思います。  要するに、編著者審査員採択者との働きを画然と区別すること、そして、今申しましたように、最後の採択権に実情に即しながらも具体的なコントロールを設けて、そこに教科書に伴う最も風評の種となりやすい採択について強力な統制ある——すべて統制が必要であって、むろんそういう法律ができれば罰則を伴った法律でありますから、そういうものを私は常に考えて採択の合理化と明朗化ということにもっともっと力を注ぎたいと思っております。
  20. 山中貞則

    山中委員長代理 教科書発行会社の行なっております宣伝活動と申しますか、そういう動きについて、先ほど、駐在員制度あるいは教科書を中心とする講習会、研究会等についての御意見を承わった次第でございますが、まだ他に、会社から献本という名義によって展示会以前に各学校に教科書が寄贈される、こういう制度等もあるわけでございます。これには先ほど少しくは触れられたようでございますが、御意見がありましたならば、さらにお聞かせ願いたいと思う次第であります。
  21. 石山脩平

    石山証人 つけ加えてだけ申し上げます。展示会以前に献本が行われるということは、必要もないし、むしろそれは悪評の種になるおそれがあります。それから、採択すべき教師教育上の熟慮をほんとうに持っておりますならば、じかに献本を受けなくても、さっき申しましたようなブロック別なり施設において積極的に公然とそこで教科書研究をすべきであって、自分の手元にもらわなければまじめに読めないというようなことでは、私ははなはだ残念であります。従って、そういう気持、そういう風は、教育研究強化向上によって一掃したいと思います。従って、展示会に類するもの以前の直接の献本は、私は厳禁したいと思います。  それから、なおつけ加えて申したいと思いますことは、これは重複するおそれもありますが、同時に教科書検定制度長所であるべきものが逆に短所になるおそれがあることが一つ。従って、現場先生方にははなはだ失礼な言い方でございますが、教師を怠慢にすると思うのです。国定はさらに怠慢にする。検定も怠慢にする。その怠慢をなくして、勤勉ならしめるためには検定の原則を認めながらも、さっき申したような多くの厳粛な条件を加えて、その下でフェア・プレイ、公正な競争、公正な採択をして、現場教師の見識を発揮しなければならぬ。そのためには、献本を待たずして、公然と行われるその施設の機会を通じて、積極的に研究もし、判断もし、意見を言うべきであって、私はスキャンダル的な悪弊を伴いやすいと思われる献本制度を非とするのみならず、それはかりに世間に言うほどスキャンダル的なものでないと仮定しても、教師があまりにも教育研究に対して積極性を欠いて、受身で、だれか便を与えるのを待っているというような態度については非常に遺憾に思っております。その意味を含めて、展示会以前の献本を厳禁したいと思います。  以上であります。
  22. 山中貞則

    山中委員長代理 次に、教科書の価格について所見を承わりたいのでありますか、ばく然とした意味教科書が高過ぎるという声もあります。反面、本委員会において教科書発行会社等の関係者から証言を求めました回答においては、明瞭に高くはないという証言をしておられる向きもあるわけであります。そこらの点について、先ほどちょっと触れたのでありますが、文部省最高価格決定等も含めまして、教科書の価格について証人の見解をお示し願いたいと思います。
  23. 石山脩平

    石山証人 私は、先ほどもちょっとお断わりしましたが、技術的、専門的に確信ある数字を出すことは不可能でありますが、大ざっぱな見解として、今よりも、価格は下げ得ると見通しております。と申しますのは、先ほども申しました、検定制度の運用に伴うさまざまな条件をまじめに実行する場合、その結果、今教科書会社が使っておる宣伝費の相当多く、むしろ大部分は節約されるはずであって、それだけは少くとも定価が安くなり得る可能性があります。  それから、なお、価格について率直に申し上げますと、教科書の価格のきめ方、またそれに対する受け取り方について、一方では当局にぜひ尽力を願いたい点もありますし、もう一つは、一般父兄に、これもはなはだ口はばったいことでありますが、反省を求めたい点があります。両方に向って申したいことがあります。  第一は、当局の方で義務教育無償という近代民主教育の根本原則を頭に置くならば、少くとも究極の目標、つまり最後の理想的な到達点としては、どうしても義務教育教科書は全額国家が負担すべきであって、直接父兄の負担すべきものでないという原則を私は考えております。しかし、実情において、特に国家におけるさまざまな経費のことを考えた場合に、現在よりもなお多くのものを教科書のために国家が負担してもらいたいということは希望であり、そのために、価格のみならず、ある条件のもとには、究極の理想へ行くための漸進的なステップにおいて幾つかの段階を考えたいと思います。第一は、何と申しましても、厚生省方面から厳密な検討をした上で、生活保護を要する家庭には教科書の負担を免除すべきであって、それは国家が負担する。それから、そこまでいかなくても、父兄の生活の実情をよく見得るところ、たとえば、市町村教育委員会が今のように続くとすれば、比較的実情を調べやすい関係教育委員会において実情を調べまして、その委員会の承認のもとに、これこれの家庭に対しては教科書は国安もしくは地方で負相するというような制度を設けたい。それから、さらにだんだん国民の生活が改善されてきますならば、第三のステップとしまして、一時試みられました新入生の教科書の無料配付、そういうことを国家でやってほしい。これは約束でもありましたからやってほしい。要するに、要生活保護家庭、次には市町村その他の教育委員会認定による条件にかなうものを免除する、その次には新入生は全部の義務教育教科書を国家が負担する、そういう順序と申しますか、漸進的な道を経ていきたいと思います。  第二に、私が一般父兄に対して率直に申し上げたいのは、教科書が高い高いと言われるけれども、しかし、ほんとうに高いと言えるかどうか。あるいは、父兄の生活費全体のバランスから考えて、子女のための命のかてとしての教科書自体がそんなに声を大にして叫ばなければならないほどの痛手であるかどうか。程度問題でありますが、先ほど来の第一、第二のステップを考えた上で、一般父兄が子供の教科書に対してそんなに大きな負担を訴えるのは、ちょっと声が高過ぎはしないか。はなはだ通俗な言い方で恐縮でありますが、パチンコへ行っても三百円や五百円を使う人があるし、いわんや、どこかで一ぱいやれば二千円や三千円はすぐ消えるのであります。あるいは、因襲的な冠婚葬祭のために、農村や山村などで巨万の仕度をして嫁入りさしたり、あるいはまた形式的に流れた葬祭に多くの金を使ったり、そういうことを考えますと、やはり生活の合理化、新生活運動の徹底によって、一体われわれが使う金はどういう方面でどのくらいのバランスで使うことが合理的であるかということを慎重に反省を求めて、国家が究極の目標としての義務教育教科書の無償交付の貫徹に至るまでの過渡期においては、やはり父兄の方も、教科書に関しては逐次反省して、そしてその他の冗費を省いてもこの教育に対する負担をしてほしい、そういうくらいに考えておりますので、私は、教科書が高い高いという一般の声に対しては、無条件に手放しでそれを受けることはできません。  当局と父兄の両方の努力、しかも漸進的な努力によって、一歩々々それは解決すべきだと思っております。以上であります。
  24. 山中貞則

    山中委員長代理 次に、小中学校における教科書内容でございますが、検定基準で要求いたしておりまする、いわゆる基本となっておりますところの公正な立場というものを保持しておるとお考えでございましょうか。もし所見がありますならば、お述べを願いたいと思います。
  25. 石山脩平

    石山証人 つまり、公正ということは、言いかえれば教育の政治的な中立性というものに近い概念であります。もっと私たちの専門的な分野で申しますと、それぞれの教育段階、初等教育なら初等教育、高等教育なら高等教育、そういうような教育段階が、教育の根本の方針として、どういうところをねらっておるかという、その段階に応ずる根本方針に忠実であるのか、それが公正であって、それを逸脱すれば公正を欠くわけであります。  そこで、たとえば義務教育の段階において、これは基礎教育、基礎教養の段階でございまして、私は、あえて、わかりやすいために、多少語弊があるのを覚悟しながら申しますが、公正ということを言いかえて、わかりやすく受けとってもらうために、基礎教育義務教育の段階の根本方針は、いわゆるイデオロギー以前の教育、言いかえれば階級的意識過剰に陥らないことが根本である、こうあえて申します。これは非常に誤解されやすい言葉でありますし、いろいろ説明を要しますけれども、ここでイデオロギーというのは、おもに最近の経済や政治や、それに伴ってまた社会問題まで伴う一つの考え方でありまして、しかもそれをいわゆる階級的な地盤に結びつけて、そうして、たとえばAとBというイデオロギーがあると考えて、AよりかBによりたいと思う人はAを敵視する、そうでない人は逆にBを敵視する、敵味方に分けて、敵か味方かという気持をもって教育の方針をきめて、それを腹において教科書を作る、もしくはそれが用いられている、こうなると、義務教育の段階において特に警戒すべき公正、中立性の原理に抵触するおそれがある。あえて申しますと、私の聞いたうわさで、はなはだ相済みませんが、内容が実に傾聴すべき内容ですから、出所や確実さはあいまいでありますが、私は内容に敬意を表して紹介するのでありますが、ある革新政党を指導する有力な方が、自分は政治家としては階級政党の立場から闘っていく、しかし子供にはなるべく階級というものを意識させないように教育してもらいたい、こういう意味のことを言われたということをまた聞きに聞きまして、私はかなりこの公正ということの一つの具体的な考え方に近いんじゃないかと思いまして、自分でも何か事あるごとには、そういうふうに考えております。教師として、あるいは研究者としては、自分のいろいろな関係から見て、期せずして、もしくは意識的に、あるイデオロギー、ある階級的な立場、そういうものに立つ、もしくは立つと見られておる立場に立つということもあり得るし、またそれは悪いとも思いません。しかし、教科書あるいはそれを運用する立場に立っておるときには、——それはやはり、青年期以後において、だんだんいわゆる一人前になってきて、具体的に生きた問題にタッチして、そして現実に自分の一票をもって意思を表示する場合、これはどちらかに票の入るのは当然であります。しかし、子供にだけは、いかなる立場に立つにしても、これは悪いとか、これは敵であるということでなくて、こういう立場の人はこういうふうに考えておる、こういう人はこういう考え方で行っておる、そのためにこういう問題が起っている、そのことを広い視野で考えて子供たちがそのときに決然たる一票を投ずるように公正に指導する。義務教育の段階においては、いろいろな立場、いろいろなあり方を客観的に、いわば第三者的立場でよく説明をし、納得さす。最後のとどめの言葉は、こうだけれども、しかし諸君は、具体的にあることを決する場合には、すべての学習内容を十分考えた上で、最後には自分責任と自由とにおいて決然と決断するようにしてくれ、こういうふうに、最後の決断を主体的な自由な立場に置いて、それに行くまでの教育あり方としては、そういう最後の決断が文字通り自由に行われるための教育をふだんからやってほしい。それが外観上は現実にいわゆる生きた問題と遠ざかるような感がないでもございませんが、それは私は義務教育の段階においてはむしろ当然だと思います。  本日の委員会義務教育教科書に関する問題が中心のようでありますから、それ以上の段階については私はきょうは申しません。以上であります。
  26. 山中貞則

    山中委員長代理 委員長よりの尋問はこれにて一応終了いたします。  これより委員諸君の発言を許しますが、これまで通り、努めて重複を避け、十五分程度でお願いをいたすことにいたします。委員長の手元まで発言通告が参っておりますので、順次これな許可いたします。濱野清吾君。
  27. 濱野清吾

    ○濱野委員 ただいま委員長の尋問に対して証人はきわめて明確にお答えをしておるようでありますが、このお答えにつきましては、私ども、建設的な意見でもありますし、共感を得ているわけであります。  そこで、一点お伺いしておきますが、編著者検定者と採択者を画然とさせることが、最も明朗になって、悪評が飛ばずして、そうしなければいけないということをはっきり証人は言い切っております。そこで、本委員会におきましても、これらの事実問題について、かねて多数の証人が相当証言をしておりますが、今回の証人はこれらの事実を知ってお答えなさったかどうか、一、二の事実でもけっこうでありますから、ここまで言い切る前提となる事実を、御承知でございましたならばお答えを願いたいと思います。
  28. 石山脩平

    石山証人 実は、私は、検定制度を望ましいあり方に運用するためにはと言って、その条件を付して申したのでありますが、むろんそのためには若干の事実というものを頭に置いております。第一私自身も事実と考えます。私は、現在、教科書会社としましては、教育図書株式会社関係しておるというよりも、その方の編著者スタッフの研究をするための教育文化研究会という会ができていまして、その方の関係で間接に編著者に接触をします。概して申しますと、どの教科にはどういう適当な編著者があるか、そういうことを選びもし、推薦もし、またその編著者において何か編集上必要と思われることがあり、もしくは私どもの方でそう考えた場合には、相談しまして、いろいろ編集上の基本方針などをやっております。しかし、現在の制度において、私は具体的にだれということを申しませんが、多分その編著者の中の若干は審査の方の仕事をされておるのじゃないかということを推定されます。私は具体的にそれを検討しませんし、はっきりしたその人の証拠を持っておりませんが、どうもそういう感じがする。これは現在の制度においていろいろとうわさを生みやすいことであるから、将来そういうことがないようにすることを希望しておるわけであります。それから、ほかのことは、私、直接関係いたしませんので、十分な証拠を持ったわけではありませんで、推定もしくは世間風評程度を私が心配の種にしているわけでありまして、すでにこの委員会でも、何回目かのときに、ある団体なりある会社などについて、これこれの人が、審査でしたか採択てしたか、とにかく編著者立場でない場合においても何かそれに関係しておる人が何人かいたということの証言があったやに伺っておりますが、そういうことが多かれ少かれ現在の検定制度のもとにあると私は思います。それがやはり問題の種になりますので、私は、そういう若干の例を頭に置いた上で、これからのあり方としてはそれをせつ然と分けることが必要だ、こう申したのであります。
  29. 濱野清吾

    ○濱野委員 もう一点お伺いしで、おきます。  証人は、委員長尋問の第七順におきまして、義務教育は基礎的な教育であるから、イデオロギーがあってはいけない、階級的にAB互いに相憎む態度でするというようなことは、すなわち公でもなければ正でもないという御趣旨の御説明がありました。この点傾聴すべき問題だと私どもは考えておりますが、今日の義務教育のたくさんの教科書のうちに、証人が憂えているような現実の事実があるとするならば、その事実を一、二点指摘していただきたい。   〔山中委員長代理退席、高木委員長代理着席〕
  30. 石山脩平

    石山証人 残念ながら、私は、検定を通過して現に使われておる教科書に関して、今私が申したようなことを事実としてあげることができません。あえて申しますと、検定がとにかく通ってしまった限りにおいて、そんなにひどく、それ自身をじかに憂えるほど、私の申した証言にじかに該当するほどのいわゆる偏向といわれるような教科書は私は目の前に見たことはありません。しかし、私は、そういうことがうわさされているということは聞いたことがあります。こういうのが現に使われているじゃないかといって、それを問題にしたその人の声は聞いております。なお、私のばく然たる証言で相済みませんが、検定審査をパスしたものについては私今申したのでありますが、むしろ、検定に当った人の受けた印象としては実はこれこれだから高い点はつけられなかった、結果においては失格した、そういうふうにとれるような検定審査たちのばく然たる声の一つに、たとえばあまりにも階級的な立場を連想させるような調子のものがあれば、自分はそれは賛成できない、こういうふうなことを言うている人があります。私は、くどく申しますが、パスしたものについてははっきりした証拠をあげることはできませんが、そういうような声なりうわさは頭に置いて、教科書に関してもやはり警戒すべき一つの条項として、いわゆる階級意識の過剰とか、あるいはいわゆるイデオロギー的なものがあまりにもはっきり出過ぎているというようなことがあってはいけない、その意味条件を申したのであります。
  31. 濱野清吾

    ○濱野委員 ちょっと答えにくい尋問かもしれませんが、この証言ができたらお願いいたします。社会科のうちに日本の歴史、外国の歴史、ことに文化史などがたくさん盛られております。編集者のうちには、それは一つの歴史観であるから、結果においてマルクスのイデオロギー的な階級的な記述であってもやむを得ないというようなことが言われていることもお聞きの通りであります。そこで、正直なそうした歴史観というものを編著者が書くような場合であっても、それが結果から見るならば基礎教育の本旨である証人の言う趣旨に反することに相なるが、この点証人はどう見るか。これは非常に重大な問題であります。そこで、証人はかなり建設的な意見が多いのでありますから、この機会に、そうした事実にぶつかったような場合どうすることか公正であるか、この点の証人意見を承わりたいと思います。
  32. 石山脩平

    石山証人 おっしゃる通り、はなはだ答えにくい問題であります。答えにくいという意味は、事柄自体が非常にむずかしい問題でありまして、私は今の御質問に対して少くとも二つか三つの点に分けて所見を申し上げます。  第一は、今御質問なさった方がおそらくは頭に置かれたと思いますが、編著者が、科学としての歴史あるいは事態の歴史的な見方として、いわゆる歴史観というものがあって、その場合に一つの例としてマルキシズム的な歴史観がある、その場合にそれを教科書でどう扱うかという問題と、またそれを扱うことの結果が、私がさっき申したような原則に反しやしないかという御質問と、二つに分けて考えまして、私は、まず、編著者が、研究者として思想家として、マルキシズムはもちろん、あらゆる歴史観について十分検討する自由と責任があることはもちろんでありますが、その意味で、いやしくも社会科を書き、まずその一つの歴史的分野のごときものにタッチする編著者は、もちろんマルキシズムその他の歴史観について広く公平に研究することを要求します。同時に、それを教科書に書くというためには、教科書に書くための、教科書からくる条件があります。それは、初めから何も著者の結論的なことを子供に押しつける意味立場でなくして、あるいは結果はそうなるかもしれませんが、いやしくも教科書に扱う以上は、やはり歴史の見方にこういう見方がある、そういう見方をすればこの現象はこういうような解釈がつくんだ、その結果こういう問題も起るんだ、こういうようなことを客観的に、それこそ科学的に解説し、わかりやすく知らせるべきだと思います。同時に、しかし教科書はただの読みものではない。ただの著者の論文ではない。そうではなくて、さっき申したように、基礎教育の段階にある少年、青年たちに、ほんとうに民主的な社会人としての決断と行動とを、自分のほんとうの主体的な自由にして責任ある判断においてなし得るような、そういう態度を作ることが根本の方針でありますから、そこで、いかなる歴史観を紹介しても、紹介のしっぱなしではなくて、こういう歴史観について世間にはこういう問題もあればこういう論争もあるんだ、しかし諸君は、これをただ、世間がこう言うから、あるいはこんなことを言えば笑われるとか、そんなことじゃなしに、ほんとうに自分のそのときの段階において自分の全能力、最高の英知をしぼって判断して、そうしてそのときの最善に向って決断し行動すべきだということの、民主的な国民としての最も大事な態度は必ずつけ足してその叙述を終るべきであって、それなしに、ただある立場のいわば書きっぱなしと言いましょうか、その通りやってもいいかのような、著者としては無責任なそういう態度で突っ放してておることは、私はいけないと思う。そこで、もしかりに私が検定審査するとすれば、私はいかなる歴史観が紹介されようとも、公平に、すなおに、その紹介された歴史観そのものがほんとうに客観的に説明されることをまず第一の条件にしまして、次には、著者は、これを義務教育の段階における児童、青年の態度、行動において好ましい方向に呼びかけるために、いわゆる主体的な民主的な人間としての教育に役立つような方向において大事な著者良心的な意見を添えて出すべきである。それ以上のことはあまりくどくなりますので、以上で一応……。
  33. 高木松吉

    ○高木委員長代理 山中貞則君。
  34. 山中貞則

    山中委員 証人は、先ほどの委員長の尋問に対する証言におきまして、ただいま濱野君も御質問になったようでありますが、義務教育教科書というものは、著者が、あるいは編者が、いかなる思想、立場、角度の持ち主であろうとも、その本人の持つ基本的な自由というものを教科書内容に反映さしてはならないものであるということを言われました。私どももそのような態度であるべきであると考えます。ただ、証人としては、そういう心がまえというものを述べられたようでございますが、私はここに一つ具体的な事例を述べますので、証人はそういうものについて御承知であるかどうか、また、それについて御承知ならば、どういう見解をお持ちかを答えていただきたいと思うのであります。  というのは、御承知でもあると思いますが、日本の先生方の組合でありまする日本教職員組合——日教組に、講師団というものがおられるわけであります。その講師団の方々が、いろいろと第一線の教育者の集団であります組合に対しまして、助言指導等を、求められるままにいたしておるわけでありますが、たまたまその講師団に属する人々で教科書編著者になっておられる方がだいぶおられるということを、私どもとしては現実の問題として指摘をしなければならない実情にあります。ところが、その人々の考え方というものが、いわゆる先ほど申されたような小中学校義務教育教科書がイデオロギー以前のものであるということにおいてなされておる限り、われわれとしては何ら干渉するところでなくして、むしろ喜ばしいことであると思いますけれども、しかし、反面において次のような事実もあるわけであります。日教組において各年度ごとに教育研究大会というものを催されるわけでありますが、その際におもにその大会を指導されて参りますのは講師団の方方であるそうであります。ところで、その講師団の方々が御指導になって行われた教研大会というものの結果について、私ども、個人の立場からの考え方、あるいは私どもの立場による批判というものはありますが、これは避けることにいたしまして、共産党の「前衛」という雑誌がございます。これに、長野におけるところのことしの教研大会は非常な成功であった、わが党の方針通りにこれが行われて、いわゆるわが党の勝利であるということを謳歌いたしました。さらにまた、この教研大会においてわが党のおさめた戦術的具体的な勝利というものが、新しく誕生すると思うところの労働運動の形である、具体的な現われであるということで、賞賛をいたしておるのであります。この事実につきまして、共産党は共産党で勝手に言うことは自由である、こういう見解を持つ方もあるわけでありますが、しかし、その講師団の中には、私どもの知っておりまする範囲では、共産党員である方もおられるようでありまするし、また共産党と実質上変りないような思想の持ち主の方も含まれておるようであります。そういたしますると、単に共産党がわが党の勝利というひとりよがりの戦術的謳歌をしたという程度のものでも、われわれとしては、事教育に関する問題でありますので、これを看過するには非常に重要な問題だと思います。これは一つの例でございまして、証人がこういうことを御承知かどうかは存じませんが、もし御承知でありましたならば、あるいは御承知でなくて私の話によって初めて耳にせられましたことでありますならば、そのことについて証人の見解をお聞かせ願いたいと思います。
  35. 石山脩平

    石山証人 お答えします。  まず、御質問にはなかったけれども、関係がありますので、私自身の立場を申し上げます。私は、かつて、今の御質問の日教組教研大会をめぐっての講師団の一人であります。特に第一回の日光大会においては、その直前まで講師団として議にあずかり、出発のまぎわになって不幸にも病気をしまして、ついに出席できませんでした。自来私は講師団としては加わっておりませんが、自分の親しい人たちがその団に加わっておりますので、自然私は非常な関心を持ってその人たち及びその人たちを通して日教組の動きについて注意をしております。  今御指摘になりました長野県の共産党の云々という、それについては、私はその事実は存じません。しかし、それに関連して申したいことは、私の見るところの日教組は、いわゆる共産党とは一線を画するということを常に明言し、そのように努力しておられるように私は聞きもし、信じもしております。私は、現在の小林委員長が一、二の席上においてその問題に触れて公式に発言されたことを聞いております。世間しばしば、日教組の幹部の何人かが共産党の方向に日教組をひっぱっていく、こういうようなうわさはあるけれども、しかし、日教組は共産党とははっきり一線を画しておるのだということを委員長が明言しております。私はそれを信頼しております。  それから、講師団について申されました。講師団というのはたくさんありますので、私はだれがどうといって一一申すことはできません。私の知っております講師団については、この人が共産党のイデオロギーを持っておると明言できるような人は今のところはありません。しかし、もしそういううわさなりそういう傾向なりが憂えられるような状況があるとすれば、私は友人としてその講師団に忠告をしたいと思います。つまり、政党としての共産党そのものを別にどうこう申しませんが、いわゆる特定の政党を支持しもしくは反対するというような、そういう意味のことから考えますと、教科書及びそれに関連する教育の考え方について、今御質問がありました点について、ほんとうにこの講師団が明瞭に支持する立場もしくは反対する立場というものをはっきりと証明されるような立場でおられるならば、それは私は教育の中立性の原則に反すると思います。ですから、私は、おそらくそういう人たちはそういう批判なり非難があることをよく御存じでしょうから、御自分としては、個人としての立場は別として、日教組の講師団の資格においては十分にその言動を慎まれるのではないかと信じております。ただ、しかし、私は今の御質問に関連しまして率直につけ加えたいことがあります。私は第一回のときは不幸にして病気しましたが、その後ずっと関心を持ちながらきておりますが、私の見るところ、つまり、ラジオや新聞を通して教研大会の様子を見聞したり、あるいはまた親しい講師団の人に会って様子を開いたり、あるいはその大会に出席した教員に会っていろいろ聞いてみますると、一回、二回、三回、四回と、回を重ねるに従って、この教研大会というものは私の望ましい方向に進んでおると思います。討議の態度も、ただ発育の競争とか、あるいは宣伝的なことではなくて、やはり落ちついて真剣に地道に問題を討議する、そういう態度が次第々々に熟してきまして、最近においてますますその傾向は強いと思います。これは私は非常に喜んでおります。ただ、しかし、実を申しますと、何回でしたか、三回か四回か、どちらかまたがるかもしれませんが、講師団ではなくて、開会式なんかで祝辞を述べるとか激励されるような、その来賓の一、二の方、私の記憶では二人くらいありますが、その人の言われたことをラジオその他を通して伺いますと、これは、ちょっとどうか、もうちょっと教研大会にふさわしいような態度と、従ってまたその表現をもう少し慎んでもらいたい、そうでないと、せっかく私が喜びを持って見守っておる教研大会自体の空気に対してかえって悪い印象を与えやしないか、少くとも誤解を与えやしないかというおそれのあるものがありますので、そういう来賓の一、二の方のそういう祝辞のときに、せっかくの日教組団体の空気にマッチするならいいけれども、かえってマッチしないために多くの誤解を起しやすいとすれば、私は、何よりも日教組自身、青いかえればその教師たちに対して非常に気の毒と思います。  時間がございませんから、もしもっと具体的に申せと言えば私は申しますが、一応これで終ります。
  36. 山中貞則

    山中委員 ただいまおっしゃったことの中で、私どもは講師団の一人ではないかと思うのですが、まずその前に、前提として、私は講師団全員がそうだと申し上げておるのではありません。おっしゃる通りの意味でございますが、ただいまも一番最後におっしゃいました問題で、たしか静岡の大会だったと思いますが、清水幾太郎さんが行かれまして、時たまたま、賛否それぞれの立場はございましたが、教育二法というものが問題になっておったときでありました。そのときに、この悪法には反対しなければならぬ、あなたたちがどのように反対しても、日本には五十万の教育者を収容する刑務所と申しますか施設はないのだから、安心して闘え、こういうようなことを言われた。私は清水幾太郎さんは講師団のお一人ではないかと思っておったのですが、来賓としてでも、そういうことを言われたわけでありましょう。
  37. 石山脩平

    石山証人 私が考えました一、二と申しましたうちの一つは、今おっしゃったその例であります。ついでに、ちょっとつけ加えておきますが、私は、自分の郷里が静岡である関係もありまして、そのころ特に静岡大会には深い関心を持っておりました。私の聞きました範囲内では、地道な討論、落ちついた討論、そして建設的な研究、そういう方向に少くとも私の存じておる限りの講師団の大勢は指導の重点を置いていたのでありまして、私それを信じております。従って今申されましたような、かりに法律ができても従う必要はないとか、あるいは五十万の人を収容する刑務所はないとか、そういう言い方は、私が教研大会の言葉としては慎しんでもらいたい態度と表現と言うことの適例であります。私はそれは五十万の教師に対してはなはだ不満な表現だと思います。私の聞きました教師の中には、自分たちは五十万の一人かもしれぬが、その一人といえども刑務所なんかに行くのは御免だ、われわれはもっと真剣に考えておるのだ、そういう表現をした人がありますので、私は、その声こそかえってほんとうの声であって、それにそぐわないような祝辞ははなはだ迷惑千万だと思います。以上であります。
  38. 山中貞則

    山中委員 最近のことでございますが、日教組では本年度の教科書展示会の前に教科書採択の基準というものを作成をいたしました。これについて、日教組自体が、講師団の緊密な連絡を得たという前提と、それから、文部省の近来の教育指導要領は民主主義に逆行するおそれか高まってきたので、これに対してわれわれ教育者としての立場から批判するのだという意味の前提がありまして、それが流されておるわけでございますが、その流し方と申しますか、内容は、社会科に重点を置きまして、その他二、三の職業課程等がございますが、他の教科には触れずに、社会科に重点を置いてこれが流されておるわけであります。私ども、立場の違いによって批判の角度は違いますが、もし偏向ありとするならば一番著しいものは社会科ではなかろうかという、これは相当の証拠もあって懸念いたしておる事実もありますが、この事実から考えますと、先ほど証人採択に直接間接関係を持っておる者がいわゆる編著範囲内に立ち入ることは自分としては反対であるということを言われました。また私もそうなくてはならぬと考えておる一人でありますが、しかし、日教組の教科書採択基準というものが展示会の前に流されることになりますと、この事実について、たとえばこれを事前に察知して取り入れて教科書を販売していたものは有利になりましょうし、あるいは、たまたま日教組の指令に流された基準にどこかにおいて合致しない点の含まれていた教科書は、その構成団体の人々が採択権限を持っておりますがゆえに、全くその一年を棒に振るというようなことも起るおそれがあると私は考えておるのでありますが、そういう意味で、この事実を御承知であったかどうか、あるいは初めて聞かれたのでもけっこうでありますが、そういうことについては証人はどういう見解をお持ちであるか、お聞かせを願いたいと思います。
  39. 石山脩平

    石山証人 その問題は承知しております。その採択基準なるものを私は読んだことがあります。しかし、今お尋ねのような懸念を私は持っておりません。と申しますのは、あれは何も、採択の基準として発表したからといって、これによってやれという行動的な規制まで持ってくるものではなくて、これを参考にして採択のときにその考えを練り研究を進めるという一つの資料でありまして、あれによって、それをさらにあの方向とは違った方向に発展させて採択される人もあろうし、あるいは逆に、あの通り、ほとんどあれに近い立場でやる人もあろうし、あるいは、もっとそれとは別に、あれは一応の参考として読んだけれども全く別の立場でやるという人もありましょう。あの日教組が出した採択の基準なるものは、教育団体が現場教師教育的な判断と行動についての一つの参考資料として提案しサゼスチョンを与えたのであって、それ自身は悪いとは思いませんし、できれば、ああいうことはどの方面からも出てきて、そして、なるほど教科書採択についてはこういう考え方、こういう観点、こういう原則があるといういろいろな参考の材料が現場教師に与えられて、その上でさらに生体的な自由な判断によって採択されるのが望ましいのでありまして、一応の採択の基準というよりも、——教科書の編さんの基準がやがてまた採択の基準になり得るものも持っておりますが、それも実はかなり抽象的でありまして、あえて申せば、そんなことはあってもなくてもいいくらいの表現がせられないとも限りません。しかし、むろん基本的には文部省の基準は大事な基準でありまして、私も決してそれを軽く見ませんけれども、表現された面だけでは抽象的であり、悪くすると御用化されるおそれがある。それで、もう一歩突っ込んで、具体性を加えた意味で、さまざまの教育団体が意見として、参考資料として出すことは望ましいのであって、できれば私個人としても出したいくらいに思っております。ただ研究不十分で確信がありませんので、そこまでいきませんけれども……。
  40. 高木松吉

    ○高木委員長代理 証人にちょっと申し上げます。委員の方は一人十五分しか持ち時間がありませんから、簡略に要領を尽すようにお話していただきたいと思います。
  41. 石山脩平

    石山証人 はい。以上で私のお答えを終ります。
  42. 山中貞則

    山中委員 証人の御存じの方、あるいは学校を一緒にしておられる方かもしれませんが、梅根悟さんという先生がおられると思います。さっき証人からお答えいただきました採択権の所在あるいは方式等についての御見解は、私ども十分了解いたしましたが、梅根先生の御主張は少しく立場が違うように思います。この方が証人関係ないとおっしゃればそれまで、打ち切りますが、ごく身近におられるようなのでお尋ねいたしますけれども、梅根先生は、中小学校の今の採択制をもっと拡大して、中小学校の生徒自体に選ばせる、野放しと言えば悪い表現になるかもしれませんが、全く自由にしておいて生徒自体が自由に採択できるように改訂すべきだ、こういう御主張を持っておられるわけでありますが、もしおそばにおられてそういうことで討論でもされたことがありますならば、お聞かせをいただければ幸いでございます。
  43. 石山脩平

    石山証人 梅根氏の見解は新聞その他で発表されていますが、ただいまのお尋ねの方は自由採択という点だけを特に印象強く受け取られたように思います。私の受けた印象においては、梅根学説の重点は、教科書というものは一人々々が買うのでなくて学校に備えつけるんだ、従って、これはいろいろな種類の教科書が備えられるわけで、現在の教育、特に社会科のごとき教育においては、一つ教科書によって学ぶよりも、いろいろな教科書を参考にしながら議論もし考えを練るのがいいのだから、その意味で、その日その日の学習そのものが、あたかも一人々々の生徒によって教科書の評価がされるような結果になるということを言うのであって、現在の採択の権利、採択決定を子供にやれ、しかもそれによって子供が選んだ一つ教科書決定的にその学校で採用される、そういう意味での、現代の観念における採択権を個々の児童にゆだねたという学説とは了解すべきでないと私は思っております。
  44. 山中貞則

    山中委員 もう一点だけ伺います。先ほど教科書定価の問題について御証言を賜わったのでありますが、一般国民のいわゆる支出の現状から考えて、教科書に対する支出のウェートというものは、そういう高い高いという声は、声として少しく高過ぎるきらいがある、こういうことを言われた。その点についてはいろいろと考え方も違うと思いますが、それに関連いたしまして、教科書の値段が高過ぎる高過ぎないは別として、もしこれを下げる余地があるとするならば、宣伝費等の問題において、あるいは基本的には文部省の価格決定の際において処置すべきであるということを言われました。私は、いま一つここに供給機構の問題において考えるべき点があるのではないかと思います。御承知でもありましょうが、現在の供給機構といたしましては、特約供給所と取次供給所の二つに分れておりまして、正規の供給はそこを流れておりますが、特約において四%、取次において一二%のそれぞれの手取りは、これは公然ときまっておるわけでございます。ただし、実際に教科書供給いたします場合、児童の手に渡します際のいわゆる仕事の面から考えますと、特約供給所は収次供給所の上に立って集約した形の教科書会社との連絡はいたしましょうが、しかし、それが収次供給所だけでできないことかと言えば、私は、ある意味においては、あるいは範囲のいかんによっては、できることだと考えます。また、教科書会社から児童、生徒教科書が渡っていきますその過程を考えると、実際には特約供給所というものは素通りと申しますか通らない。駅からあるいはトラックなりで取次供給所の方に行くというような形があるようであります。といたしますと、そこに特約供給所が正当なる所得として表面はっきりいたしております四%というものだけでも、私はそのままこれを存置することについての一つの疑問を抱かざるを得ないのですが、もしこれが廃止できて、なおかつ教科書の公正なる完全なる供給生徒にでき得るとするならば、ここに四%の浮きが出てくる。それだけ教科書の値段が下げられるという正当な根拠がここにあるのではないかと考えられるが、もしそのような機構面までも御承知でございましたならば、それに対する御見解を承わりたいと思います。
  45. 石山脩平

    石山証人 お尋ねにお答えできるほど正確には承知しておりませんが、私の聞いた範囲を総合しますと、特に今おっしゃられたそのことを受け入れますならば、そのような特約というものはやはり中間搾取の重大なものであって、私はこれは存在さすべきでないと思います。しかし、それはおそらく、単なる集計とかじゃなくて、やはりこのもとは、特約をさせることによって現場への供給面が責任を持ってやれるという、その責任感とその機能とを前提としての産物だと思います。それがいつの間にか今おっしゃったようなああいうものになったとすれば、これはすでに存在価値を失っておる。そしてそれは学生協その他のものが供給の一そうよくできるための試みとして生まれたゆえんとも聞いております。そういう考えから、結論的に見ますと、供給面についても一応現在の制度を徹底的に検討して、そして、教科書制度の立法措置をするならば、その場合には、編著者審査員採択者はもちろんのこと、供給面までもっと出直して考えて、それに今よりはるかに公的な責任を持たせるというような、そういう機構においてこれを改善したいと思います。
  46. 山中貞則

    山中委員 今の御見解はそれでけっこうでございますが、そういう特約供給所のあり方について批判的な先生方自分の手で良心的に配給しようじゃないかというので学生協その他が生まれたというふうにお受け取りになっておられますが、この学生協についてはいろいろ問題があります。しかし、それは先生に直接承わることを必要と認めませんのでやめまして、学生協の誕生しましたことはそういう意味があったかもしれませんが、実際に私が言っておるのは、いわゆる手数料をもって定価を引き下げる余裕はないかということを論題にしております。そうすると、学生協は同じなのです。特約供給所としての四%もとっておりますし、実際には学生協としては自分たちの手足があるわけでありますから、取次供給所を必要としません。従って、やり方によっては、——実際そうやっておるところもあるのですが、一二%の取次供給所の手数料というものは、労せずして、供給所を通さずにかえってよけい所得しておるという矛盾も、手数料だけから言えばあるわけであります。従って、今言われたようなことは、私の申し上げておりまする値段を安くするための手数料の面では全然関係ないむしろ不当所得が学生協の方に多いということは知っておいていただきたいと思います。
  47. 高木松吉

    ○高木委員長代理 高津正道君。
  48. 高津正道

    ○高津委員 特約供給所は中間搾取機関であるから、それでその供給面においても徹底的に検討することがいい、そういうような資本主義の骨格を掘りくずすような議論が出るかと思えば、また非常に——申しますまい。  それで、私は具体的な問題でイエス、ノーでお答えを願いたいのでありますが、不公正な取引が学童の用いる教科書の販売供給の上に行われては私は非常に困ると思います。非常に有力な、あなたも御存じの学校図書なるものがあって、そこの現役の取締役が中央教育審議会の委員になっておる。しかもそれは最近のできごとである。その人を行政監察のこの委員会において調べてみると、そこの社長の責任のある回答によって、一万八千五百株というような株主でさえある。そのような人が中教審のメンバーに入っておるということは、教科書制度の上から見て非常に悪いことだと思うから、自主的にやめてもらえばいい、これは問題になれば子供にもわかることでありますから、教育全般に影響があるので、私はそういう見解を持っておりますが、学者として教科書問題を相当詳しく研究しておられるあなたはどのようにお考えでありましょうか。
  49. 石山脩平

    石山証人 中教審の委員という資格が現実に教科書問題にどういう関連があるかということについての事実審理が一そう重要だと思います。ただ中教審の委員になったということ、そのことでこれを教科書と結びつけ、従ってまた、私の議論とする各種団体の関係者立場を区別したいという議論に結びつくかどうかということは、その事実のせんさくを待たなければ答えられない。
  50. 高津正道

    ○高津委員 それは初等中等教育局長の答えと全く同じお答えなんです。私は、そここそ、教科書問題の、いや社会科の問題とか地理、歴史をどうするかというような大まかな線をきめる本元であって、そこへそういう関係業者が乗り込んで行ってはいけないと、こう考えますが、それじゃ、次にお尋ねいたします。  あなたのお説を聞いておると、階級性が過剰であってはいけない、それは保守であろうとあるいは革新であろうと、そのいずれを問わない、こういう御意見でありますが、聞いておれば、その言葉だけにはだれでも同感しなければならない。ではあるが、現実の社会というものはもっと具体性のあるもので、明治維新のそのときに、寺小屋であるけれども、その場合、先生に、勤王がいいのか佐幕がいいのかと聞く。現在は、千数百万の中小学の児童がいて、みんな社会科で教えられるから批判力が割合あるわけでございます。それゆえに、ストライキの問題を質問するでありましょう。近江絹糸の場合どちらがいいか悪いかという旗はちゃんと上っておりますけれども、審判は下っておりますけれども、それを聞いたときに、あなたが教壇に立っておられれば、モデル的な答えはそれは答えるでしょう。おれは言えぬのだ、これでもよろしいが、そのときのモデル的な答えを教師が示すだろうと思います。それで、悪いというなら悪いというモデル的なお答えを一つやってみてもらいたい。保守と革新とはどっちがいいのですか、世界は米ソが対立しておると申しますが、どっちがいいのでしょうか、あるいはまた、軍事基地がむやみに拡張するといいますが、それに反対運動がだんだん起っているようでありますが、あれには反対するのがいいでしょうかどうでしょうか、あるいはまた、原水爆禁止の署名運動が二千数百万名の多きに達しておりますが、それには家のお父さんなどは兄でもいいですが、署名していいのか悪いのか、そういう具体的な問題がどんどん出たときに、あなたの抽象論ではさばき切れないと思う。それだから、今はこの歴史の非常なる転換期でありますから、このような変動の時代には、どちらかへ少しずつはみ出る者があるわけであります。そのときに、教育の政治的中立性ということをぐんぐん押せば、革新を切って現在の制度のままを弁護する議論ならば通用するということになって、そのこと自体、自分は中立性と言いながら保守の味方をしておるのだということがわからねばならぬわけでありますが、しかし、それは理論になりますから、今のようなモデル的な教師の答えのあり方をここでお示しを願えれば幸いに思う次第であります。
  51. 石山脩平

    石山証人 私がたとえばある中学校の三年生の社会科を教えると仮定します。その場合に、近江絹糸のようなストライキが起っていると仮定します。賛否両論さまざまの議論が沸いていると仮定します。私は教壇に立ちます。なぜこの争議が起きたかということを自分の全力を尽して材料を集めてその経過を分析します。それが私の仕事の八分通りです。あとの二分通りは、そのときの私の分析の結果、これは経営者側においてこういう不当な扱いがあったことは遺憾に思うということを言い、一方また、もし分析の結果、この不当な点を是正したいという働く人の立場において、それを今ストライキに訴えて何日かを休むか、あるいはまた、さらに別の方法といいますか、あるいは手段についていろいろのことを考える。その場合に、こういうこともあり得る、ああいうこともあり得るという分析力があれば、その方からも分析の結果を出して、そうして、本来民主主義においては働く者の権利からやっておるストライキの権利は十分理解し、認めなければならぬ、しかし、そのストライキの権利を行使するためには、その社会の全体機構から見て、どの程度、どういう方式でやったらいいかということを考えなければならぬ、そこで、自分としては、今、これこれの分析の結果、賃金の増強なりあるいは待遇の改善において、少くもこういう点はやめろ、あるいは仏教崇拝をしいるのはやめろ、あるいはこういう不完全な寄宿舎制度はこういうふうに改善せよということは当然と思うということを申します。そうして、おれはそう思うが、しかし、おれはそう思うのであって、諸君はさらによく考え、よく研究して、諸君自身の考えを出してくれ、こういうふうに最後を結びます
  52. 高津正道

    ○高津委員 それについて言えば際限がありませんが、あなたは、自分研究できるだけ研究して、そうしてその研究の報告を聞かせて、とこう思うが、あなた方の取捨選択は自由である。およそ、政党が大会を開く場合、労働組合が大会を開く場合、執行部の報告というものが大きいウェートを占めるのであります。その執行部に反対する者は、その時間を短縮させるようにしたり、あるいはヤジを飛ばしてなるべく聞えないようにしたい。なぜならば、その報告は理路整然たるものであって、それをずっと聞けば先入観念ができ上ると思うから、それを妨害するということになるのでありまして、あなたは、近江絹糸の場合には、寄宿舎制度がこんなに悪い、非常に封建的だと報告されて、その結論はその経過報告できまってしまうのであります。だから、近江絹糸のような有名なものでなくても、——あなたは小中学でないから困りますが、そこでストライキをやれば、それを子供が問うわけであります。だから、あなたが、教研大会の経過をずっと見ておると、第一回より第二回、第三回と、傾向はだんだんよくなりつつあって、偏向がないのだから、われわれの見るのは、現状の線程度、その傾向を見ればいい、その傾向はよくなりつつある、それならばこれを問題にすべきではないと言う。その態度は私は非常におもしろいと思います。それを問題にする者が非常にたくさんおるのであります。私はそういう考えをもってお尋ねを申すのであります。  それから、定価の問題でありますが、あなたは二割くらいは現在のままでも定価を下げ得る余地がある、下げるべし、こういう御意見でありますが、それは政府の財政的措置などを伴わないで今のままでもという意味に受け取れたのでありますが、税金とか輸送費とか、財政的措置が加わるならば、それはさらに二割の上を下げる余地がある、こういう御議論として承わってようございましょうか。
  53. 石山脩平

    石山証人 私は、専門家でないために、先ほどの証言の中で全部を尽したわけではございません。私は二、三の条件のもとに引き下げは可能ということを申し述べましたが、実は、輸送とか、今おっしゃったような点まで含めて私は考えております。
  54. 高津正道

    ○高津委員 現在千二百名ないし千四百名の調査員が選ばれるのでありますが、その選ぶ権限を持っておるのは文部官僚であります。それで、たとえば売春禁止法の審査会を設けよう、その場合に、選ぶメンバーによってもう結論かきまってしまうのです。社会保障制度の審議会を作る、そのメンバーを政府が選べば、それで方向が初めから出るのであります。それゆえ、中央労働委員会などの場合は、使用者代表、労働者代表、いわゆる学識経験者というような限界を置いて、官僚独善の弊害の現われないようなことが考えられてあるのでありますが、現在の政府は民主党でありますが、現状のままでも、政府の変るごとに教科書がどっちへでも動くような弊害があると私は考えるのであります。これに対する石山証人の御見解を承わりたいと思います。
  55. 石山脩平

    石山証人 ただいまのお尋ねの中で、委員会というものがあるとして、その委員会の構成の仕方によって結論がきまってしまうというような意味でのお尋ねでありますが、私はお尋ねの趣旨自身に疑問を持ちます。日本の多くの委員会が果して会議を開く前から結論がきまっているようなかっこうで開かれるかどうか。私の経験によれば、私はたくさんの委員会に出席しますが、そのつどそのつど、その提案の理由を聞き、ディスカッションを聞いて、自分もディスカッションしまして、その結果決断するのであって、あらかじめお前はどういう方向に結論を出すかということを自分でも前もってきめることはできませんし、いわんや、第三者からお前はこうだろうなんて推定されることははなはだ迷惑でありまして、人間がある組織の中で決定的に動くときまってしまうならば別でありますが、民主主義は、絶対的な自由、個人的な主体性を尊重しますから、委員会制度があるということ自身は、これは国会にもありますが、特別委員会制度があるということは、委員の一人々々が事態に即して主体的な決定をするためである、あらかじめその構成メンバーもしくはその所属団体によって結論がきまっておるような、そういう委員会ならば、私は委員会の価値ははなはだ少いと思います。
  56. 高津正道

    ○高津委員 それは、この分はどっちへころんでもいいという委員の選び方、それから、枝葉末節の部分を研究するような場合には、具体案を持って臨まないから、その場でいい意見が出れば、それに賛成する人が多くなってそれが多数決で勝つという場合でありますが、外交委員会とか重大な問題になれば、政党は本性を発揮いたしまして、自分らの意見が敗れるような委員を選ばないのが事実であります。しかし、それは論争になりますから……。
  57. 高木松吉

    ○高木委員長代理 高津君に申し上げます。時間が経過いたしましたから、簡略に願います。
  58. 高津正道

    ○高津委員 それから、あなたの説を聞いていると、パチンコに費す金を教科書の方に回せばいいのだから、教科書の値段の高い高くないというようなことにあまり拘泥しないように、そういうような国民の心構えが生まれることが望ましいのだ、こういう片言隻句をとらえるわけではありませんが、あなたのものの考え方がそこに現われておるので、かくて私の質問となるのでありますが、新生活運動が徹底したならば、そうすればというような文句もありますけれども、私は、全日本に上から下まで賄路が充満してもう窒息するような状態になっておる場合に、これを改革するのは新生活運動の趣旨を徹底させるという方法でもなかなかできないのであって、血を見るという意味はちっとも含まないで全く革命的な政権が現われるならば、一挙に問題は解決する、こう考えるのであります。心がけを入れかえさせればものがよくなるのだと、まるで宗教家のような御議論でありますが、経済制度、政治制度法律、資本主義をわれわれは今むちゃに倒そうとは全然考えておらぬので、この資本主義の制度のもとでの合理的な方法があればと探求しておるものでありまして、そういうような気持で今まで御質問申し上げたのでありまして、そういうような者はここにはおりませんから、いろいろ非礼にわたる部分があったかもしれませんが、私は、これだけをつけ加えて、途中ですが質問を終って、次の委員に譲りたいと思います。
  59. 高木松吉

    ○高木委員長代理 神田君。
  60. 神田大作

    ○神田(大)委員 簡単に二、三お尋ね申し上げたいと思います。  検定基準ということが教科書内容に対しまして大きなワクとなっておるのでございますけれども、証人石山さんに、現在の検定基準というものがこれでいいかということを、まずお尋ね申し上げます。
  61. 石山脩平

    石山証人 細部にわたっては修正を要する点があるかもしれませんが、大局において私はあれがいいと思っております。いいということは、あれだけでいいのじゃなくて、あれはいいが、あれだけでは十分でないということを考えております。
  62. 神田大作

    ○神田(大)委員 今検定基準に対しまして文部当局にこれを改訂したいというような意向があることも聞いておるのでございます。それが、われわれから見ますると、戦前のような思想的な背景を多分に持ってそういう方へ改訂したいというような動きを聞いておるのでございますけれども、こういうことに対しまして証人はどうお考えになりますか。
  63. 石山脩平

    石山証人 お尋ねの改訂の方向について、私は何ら聞いたことはありませんし、存じておりませんが、もしおっしゃるように戦前の方向に向っての改革というならば、いわゆる改悪であり、逆コースでありまして、私はそれは賛成しません。問題があるとすれば、むしろ漸進の線——民主日本建設の線から見て賛同はしながら、なおかつ、民主主義の名において何か行き過ぎなりもしくは混乱があって、この点はもっと筋を立てていきたいとか、あるいは注意を促していきたい、そういう意味での改革は希望し、また賛成しますが、根本において今お尋ねのような方向ならば、それは否とします。
  64. 神田大作

    ○神田(大)委員 今、検定基準のことにつきまして、この検定基準にのっとらないような教科書教科書として出版されておるということを言われておるのでございますけれども、そういうことはわれわれとしてはあり得ないことであろうと思うのでございますが、証人はそういう点に対しましてどうお考えになっておりますか。
  65. 石山脩平

    石山証人 今お尋ねのことは、私は内容はよく存じませんが、もし事実あるとすれば、それは、検定審査員がその検定基準に準じて審査すべきものを、その大事なものさしを忘れ、もしくは見そこない、あるいは不十分に見たのであって、それは検定審査員の責任である。しかし、さっき私が申しましたように、私の見た限りにおいて、検定をパスした教科書については、私は基準に背反しておるという結論を出すまでのものを印象としては持っておりません。
  66. 神田大作

    ○神田(大)委員 方向をかえてお尋ねしますか、文部省教科書関係の役人が調査員に対しましていろいろと干渉しておる、たとえば奴隷制度というような言葉とか、あるいは農民一揆というような言葉——これは、歴史的に農民一揆とか奴隷制度とかいうものは現実に存在しておりまして、歴史を知る上においては重要な熟語だと思うのでございますが、こういう言葉をとれば検定をさせるということで、そういう言葉が入っている教科書に対しましては、調査員を圧迫いたしまして、この検定を通さないというような干渉をしておるというようなことをわれわれは聞いておりますが、そういう事実を証人は御存じでございますか。
  67. 石山脩平

    石山証人 現実にだれのどの教科書のどこの文句がどういう意味で問題視され撤回を求められたかという、そういう正確な事実は知りませんか、今のお尋ねのようなことがあったということをしばしばいわゆる風評として聞いております。それに対する私の見解は、第一段は、果してその注意を促した人がこの奴隷とか農民一揆という言葉だけを取って言ったのか、あるいは、第一として、前後全体を通じてそれを貫いておる立場が何か検定基準に背反するような傾向にあるからというので注意されたのか存じませんが、第一の場合ならば、そういう字を使うことは当然であって、それを抹殺する必要はない。ただ、第二の場合、つまり、そういう言葉が出た背景に、その教科書の前後を通じての全体的な傾向において、いわゆる検定基準の精神に反する感があったから修正を求めたというならば、それはむしろ修正を承知すべきであって、事態そのものをもっと具体的に検討する必要がありますので、私は、風評に基く限りは、条件つきで二つの場合を想定して答えるほかはありません。
  68. 神田大作

    ○神田(大)委員 そうすると、少くとも文部省の官僚が調査員に干渉しておるということは、証人も大体事実であるというようにお認めでございますね。
  69. 石山脩平

    石山証人 干渉という言葉がわかりませんが、私は現に教科書編著した人を知っていまして、ある人が書いた原稿がいわゆる付せんをつけられて、ここは再考を促すとか、あるいはここはできれば変えてもらいたいとか、そういうな、指示といいますか、勧告といいましょうか、そういうものを受けたという事実は知っております。
  70. 神田大作

    ○神田(大)委員 教科書検定というものは、検定基準に載っておるものを調査員が調べて、それを検定調査審議会といいますか、それで決定することであって、文部省の官僚がこれにくちばしをいれるということは制度として厳禁されておると思うのでございますが、そういうことになりますと、この教科書検定のワク外にありながら文部官僚が教科書の制定に対して大きな力を持っているというふうにわれわれは考えるのでございまして、そういうことは非常に遺憾だと思っておりますが、証人もまことにまずいというようにお考えでございますか。
  71. 石山脩平

    石山証人 おっしゃる通り、いわゆる官僚がその役職におることのために干渉するということはいけないと思います。しかし、私が申したような指示とか勧告というようなことが出てきたのが、今の付せんをした人、呼び出した人その人自身の官僚の立場からの見解ではなくて、審査員の声を反映して、それを伝える意味編著者に言ったならば、それは官僚の干渉とは見まん。
  72. 神田大作

    ○神田(大)委員 ちょっと証人にお尋ねするのは筋が違っているかもしれないが、ここまで聞きましたから、だめ押しをしたいと思うのです。これは、教科書検定基準というようなものがあり、教科書検定の規則というものがありまして、そうして、教科書検定というものは、教科書調査審議会によって、調査員調査したものに公平に検定というものを与えるのであって、私は、たとい審査員の意向であろうとなんであろうと、文部官僚がその間に入ってそれに指示を与え、それに対しましてとやかく干渉するということは、これはやはり法令違反だと思うのでございますが、その点、証人はどうお考えになりますか。
  73. 石山脩平

    石山証人 私はこの行政事務の詳細な運営の手続を、はなはだ相済みませんが、実は熟知しておりません。ですから、私が考えていますような、審査委員会の声を編著者に伝える場合に、どういう形で、どういう段階で、だれがどう伝えるかということについて、そういう事務手続についての詳細なことを知らない限りは、私は申し上げられません。しかし、今申したように、ただ文部官僚といわれる人たち自分の一個の意見でかれこれするということは確かによくないので、それはおっしゃるまでもなく、民主主義的な政治機構において官僚制度を排除して出てきたこの根本精神から見れば、おっしゃるような意味の干渉ははなはだいけないと私は思います。
  74. 神田大作

    ○神田(大)委員 われわれもそう思うのでして、そういうふうに検定に干与し、あるいは採択に干与し、あるいは民間の教科書会社にいた者が文部省に入ってこの検定採択やあるいはいろいろと教科書の問題に関係しておる、あるいは文部省にいた者が民間の教科書会社に行って教科書会社の重要な地位についておるというようなことがたくさん行われておることも、これも教科書問題を混乱させておる一つの大きな原因でありますので、これをお尋ねしたわけであります。  次にお尋ね申し上げます。そういうような検定基準をめぐり、採択をめぐり、あるいはこれらの教科書をめぐっての文部官僚やそういう人たちのいろいろな動きに対して、これを粛正しなくてはならないとわれわれは考える次第でございますが、先ほど証人も申しましたように、ここに教科書問題として大きな問題は、農水会というものが名目化されておる、ただ形式的に行われておる、しかも採択ということが教科書の大事な制度であるにもかかわらず、それのかぎを握る展示会が形式化しておるということは、これは非常に大きな欠陥だと思うのでございます。これらの採択等に関しまして、先ほど証人が、県単位のような大きな単位によって教科書がまとまるということは、これはいわゆる検定制度をくつがえすものであるからまずいが、郡単位のものあるいは市単位のものであれば差しつかえなかろうと言われたことは、非常に大事なことだと思う。私は、たとい郡単位にいたしましても、市単位にいたしましても、制度として上からこれがきめられることに対しましては非常に疑問を持つものでございます。ただ、しかし、りっぱな展示会がなされ、各職場の先生たちが自主的にみずからいい本を選ぶことができて、そして、この教科書のどれを選ぶかというような研究が進んで、自然と民主的に自主的に市単位一つになるとか、あるいは郡単位一つになるとかいうことならば、これは非常にいいことであると私は思うのでありますけれども、制度として、この郡は一つ教科書にしろ、この郡は一つ教科書にしろというように、制度上においてはっきり上からきめる制度に対しましては、私は賛成できないのでございます。証人はその点についてどうお考えでございますか。
  75. 石山脩平

    石山証人 今お尋ねの、上からきめる形はよくないとおっしゃったことは私は賛成します。つけ加えますが、現に現制度のもとにおいても、各学校の先生意見を出して、それをだんだん集めていって、上の方にもう少し大きな単位でまとめ得る限り結果においてまとめるということになっておるようであります。たしか東京と新潟県でしたか、私正確には存じませんが、少くも二地域くらいは下からという原則がよく行われておるように、私は聞いております。それは望ましいのであります。しかし、郡市単位と申しましたのは、かりにそういうことを申しただけでありまして、今言われました上からという好ましくないことは、どっちがよけい行われやすいかといいますと、県単位というのは大き過ぎて、好ましくないことが行われやすいのであります。郡市くらいならば、下からと言われる原則が比較的よく行われやすいという見解であります。
  76. 神田大作

    ○神田(大)委員 そうすると、証人が特に言われたように、展示会制度といいますか、あるいは展示会制度がもっと進歩いたしました制度になって、職場で子供に教えるという責任を持つ先生たちが、教科書選定に対して十分に研究をし、りっぱな教科書が何らの制約も受けずに選定できるというような段階になって初めてある一つの地域というものが一定の教科書にまとまっていくというようなことに対しましては、賛成されるわけでございますね。
  77. 石山脩平

    石山証人 その通りでございます。
  78. 神田大作

    ○神田(大)委員 それでけっこうです。
  79. 高木松吉

    ○高木委員長代理 松岡松平君。
  80. 松岡松平

    ○松岡(松)委員 証人にお尋ねしたいですが、先ほど、証人は、現在発行されている教科書はおよそ基準をはずしておるものはないと認めるとおっしゃった。ところが、これは具体的に相当基準をはずしておると思われるものがあるのです。その一例をここで一つ読み上げますから、御判断願いたいと思います。  ここに、実教出版株式会社というものが発行しておる宮原誠一という人の編さんで、「日本と世界」という歴史を中心としての改訂版の中の百四ページに、蒙古襲来のところを書いたものがあります。その一節を読みます。「元の使いが来たとき、わずか十七才で執権になった北条時宗は、元のおどかしをきっぱりはねつけ、すぐさま、鎌倉に来ていた西国の御家人を国もとに帰らせて、守りを固めさせた。ところが、公家では、元が攻め寄せてくるときいて、あわてふためき、神主や僧を集めて「敵国降伏」をいのるだけで、何の対策ももっていなかった。一二七四年、元の大軍はたくさんの軍船をつらねて朝鮮を出発し、途中、対馬や壱岐でひどいらんぼうをしたうえ、ついに博多湾に攻め入ってきた。大鼓やどらを打ち鳴らし、大きな音をたててはれつする火薬をなげつけながら、ぞくぞくと上陸してきた蒙古軍をむかえて、北九州の武士たちは勇敢に戦った。このとき、さいわいにも大暴風雨がおこって、たくさんの軍船が流されたり、こわれたりしたため、蒙古の軍はさんざんなめにあって引き上げた。第一回はこうして追い返すことができたものの、まだゆだんはできない。時宗は博多湾の近くに、五〇kmにわたって石のとりでを築かせた。北九州の農民たちは、蒙古人に二度とふたたび、自分たちの土地をふみにじらせてなるものかと、土を運び、石を積みあげ、食料を集め、いっしょうけんめい働いて、武士たちをはげました。それから七年目の一二八一年夏、宋をほろぼした元は、前よりももっと大がかりに、また博多に攻め寄せてきた。武士たちは、みんなでつくった石のとりでによって奮戦した。蒙古軍は、むりに連れてこられた中国人や朝鮮人を使った寄せ集めの軍隊なので、士気もあがらず、そのうえまた大暴風雨にみまわれてさんざんに敗れ、たくさんの兵隊を残してにげ帰った。元のために軍船をつくらされたり、むりに兵隊にとられたりしていた中国や朝鮮の人々は、元の軍が日本から追い返されたことを知って勇気をふるいおこした。フビライが、二回の失敗にもこりず、三たび日本を攻めようとして、食料を集めさせたり、船をつくらせたりしようとしたとき、中国の人々は力を合わせ、反乱をおこし、それをさまたげた。そして、ついにフビライが日本を攻めることを中止したとわかったとき、みんなでおどりあがって喜んだ。」——これは中国人が喜んだのですよ。「そのときの中国の人々の喜びの声はかみなりのようにとどろいたと中国の古い書物に伝えられている」、この一節をお読みになって、へんぱであるとお考えになりますか、それとも、基準に合一するものであり、中正かつ厳正妥当なものとお考えになりますか。
  81. 石山脩平

    石山証人 私はへんぱと思いません。
  82. 松岡松平

    ○松岡(松)委員 これをあなたはへんぱにお思いにならないのでありますか。私どもは、中国が参加してきた蒙古との一つの連合軍であると理解しておるのですが、この文章でいくと、蒙古軍が中国人や朝鮮人をあたかも奴隷のごとく使ってきたように書いてある。これについて私は非常に異論がある。第一、日本にも史録が残っておるのに、日本の史録をさておいて、中国の史録をかりている。これは中国の学校ならいいですが、日本の学校で中国の書物だけでやって、これで、片寄っていないということは、ちょっといかがでしょうか。
  83. 石山脩平

    石山証人 それは日本の教科書でありまして、日本の子供に向って、日本が隣近所の侵略的な国家からどのような目を受けたかということを事実として知らしたのでありまして、もしその事実が間違っておれば、それは事実として訂正をしますが、日本の教科書にそういう元のことを書いたということ自身、決して私は片寄っていると思いません。
  84. 松岡松平

    ○松岡(松)委員 私のお尋ねしたいのは、この蒙古襲来というのは、日本民族にとっての忘れることのできない一つの画期的な事実です。この事実を子供に伝えるに当って、中岡の文献だけを紹介して、日本の文献を何も語らず、ことに、これを見ると、まるで中国人というものは神様みたいだ。「中国の人々の喜びの声はかみなりのようにとどろいた」と書いてある。こういうことは誇大に宣伝するということ以外に何らの意味はないと私は思うのですが、いかがでしょうか。
  85. 石山脩平

    石山証人 私としては、それは、その表現を通した限りにおいては、誇張とかあるいは誤まりとか、そういうことを今決定することはできません。ほんとうに調べて、それが誤まりがあるとか、あるいはそれと違った事実がたくさんあるにかかわらず、ある点だけ出したから、結果において誇張になったというならば、そういう点を論議すべきであって、私は、著者がいやしくも検定基準に通るために書かれたものにおいては、相当に典拠を調べ、考えたと信じておりまして、これが非常に問題になるべきへんぱなものだということを決定すること自身、早きに失すると思います。
  86. 松岡松平

    ○松岡(松)委員 それでは、角度を変えてお尋ねしますが、現在の教育の中心は、学校の先生の頭脳が中心になっている。教材はむしろ補助機関になっている。従って、学校の先生のイデオロギーというものは重大な役割を持ってくるのでありますが、かつての日本の教育制度は、教材を主体にして、先生は補助的役割であった。これを証人はどういう姿が正しいとお考えになりますか。
  87. 石山脩平

    石山証人 おっしゃる通り、かつては教科書という形において与えられた教材というものが、いわば決定的な力を持つかのように扱われ、またそういう事実もあったことは、旧教育の好ましからざる特徴だと思います。新教育になりまして、言葉はやや誇張かもしれませんけれども、教材のために教育するのじゃなくて、人間がほんとうに成育するための材料としていわゆる教材を出すのだから、その意味で、いわゆる教材というものがどのように生きた教育の力を持つかということになりますと、その根本的な力は子供自身であります。それをほんとうにどう生かすか、どのような意味で受け取るかということは、子供自身であります。その場合に、教師は、子供たちがどういう態度で、どういう手続を通ってその自分の態度なり行動を決定すべきかという、その手順、方式について指導する責任があります。しかし、相手は未熟ですから、そこで手順や方式だけでなく、実は教師がほんとうにみずから考えてよいと思うならば、自分はこれがいいと思うがと、そこまで言っても、しかし最後はやはり子供自身の決定——これは決して甘やかすとか何とかするというのじゃなくて、そうでなければ、ほんとうに自主的な人間ができないのでありまして、その点だけは、私は新教育の根本精神として貫きたいと思っております。
  88. 松岡松平

    ○松岡(松)委員 証人のお言葉は、まことに理想としては私どもうなずけるのですが、現実に先生はみな思想を持っております。おのおの違った思想を持っているときに、教材を補助的に使われますと、その違った根本のイデオロギーというものが、各教育を受ける子供たちに非常な影響があります。言いかえるなら、ここにあらましのイデオロギーをあげてみると、仏教的な世界観、あるいはキリスト教的世界観、儒教的な世界観、自由主義的な世界観、社会主義的な世界観、マルクス・レーニン主義のいわゆる共産主義的な世界観というものがあるとして、少くとも先生たる者はそのどちらかの世界観を持っていると思いますが、そのイデオロギーが、子供の教育の上に大きな侵透力を持つと私は思うのです。そうすると、せっかく教材において中正、公平、妥当な線を出しておっても、先生教育ということが主体になって参りますと、勢い教育がへんぱに流れ、あるいは混乱を起すことは、免かれないのじゃなかろうか。そこで現在三千種からの教科書ができておるのですが、中身はみなそれぞれ違うのです。こういう教育あり方というものは果していいのか。これは大学あるいは高等学校の生徒ならば私は一応うなずけると思う。しかしながら、小学校や新例中学の子供たちに果してそういう教育方法でいいか悪いか、私は非常に問題があると思うのです。いわんや、三千種から中学、小学にあるに至っては、混乱もはなはだしいものができてくる。私が今一番憂えているのは、日本の若い子供たちの中に思想的な混乱が起りつつあるし、また、その教育の教材を見ても、起る可能性、危険性は十分に出ていると思うのですが、証人はどのようにお考えになっておられますか。
  89. 石山脩平

    石山証人 お尋ねについて、二、三の項目に分けて申します。第一に、教師の世界観が重要な力を持つということのお説には同感であります。しかし、だからこそ、教師の世界観というものが教育の上に現われる——児童、生徒に対して現われる形においては、教師としての十分なる自粛が必要であることはつけ加えられた条件であります。実は、小学校、中学校、大学、すべてを通じまして、今日の教師で世界観を持たないような教師はないし、また望ましくないと思います。つまり、人間の生きる道、人間を取り囲む人生、世界について、どう見るかという根本的な態度、根本的な見方が世界観でありますから、その意味で、世界観を持たない人間というものは生きる資格のない人間であります。しかし、この世界観が十あろうが二十あろうが、それだけ人間は十ある二十あるのではなくして、実は人間が多くあるのでありまして、世界観の形では幾つかに分けられるかもしれませんが、実際の生きる態度、生き方というものは、実に千差万別であります。ただ一つ、望ましい態度であるか望ましくない態度であるかという区別だけがあるのであります。望ましい態度というものは、みずから考え、みずから判断し、自己の責任において行動するという態度において世界観を持つのが望ましいのであって、そうでなく、どこかから与えられ、どこかから指令され、どこかからプロパガンダされ、どこかから外面的な力で誘われたりして生きる態度をきめるという、そういう態度は非難されるべき態度であります。その二つの点は明瞭であります。しかし、望ましい態度を決定するための手がかり、その足場、その参考として、なるべく多くの機会に、なるべく経験的には違った世界観をよく吸収して、消化して、その上で決断をすべきであって、途中のプロセスにおいて一方的な押しつけをせられたり、受けたり、もしくは軽率な早のみ込みの決断をしたり、そういうことはいけない。はなはだ回りくどいようですけれども、小学校はもちろんのこと、いかなる段階においても、教師自身がすべての生徒への影響力が多いことを十分考えるがゆえに、生徒に与える世界観的な与え方においては、自分の個人としての決断を早々出さないで、むしろそこに至るまでの必要な条件として、なるべく多くの特徴ある世界観を取り扱って、そうして視野を広め、考え方を融通あらしめる、それが一番必要である。今私の知る限りで、教師において最も必要で、そうして欠けていることは、あまりにも早く一方的もしくは単純なる決断にはやりやすい、しかも主体性においてでなくて、他からの誘惑や圧迫に近いものによってなりやすいということが一番大きな欠点であって、それこそ防ぐべきであると思います。
  90. 松岡松平

    ○松岡(松)委員 そうしますと、証人のお考えを要約すると、子供みずからの責任で、子供みずからの啓発されていく知能の力によって、みずからの思想を持っていくように教師は善導すべきである。押しつけてはいけない、しかし知らしめる必要がある、こういうことになるのですか。
  91. 石山脩平

    石山証人 ええ。
  92. 松岡松平

    ○松岡(松)委員 そこで、問題になるのは、こういうことなんでございますが、現在、かりに世界のどの国の政権を見ましても、どちらかの世界観に基く一つの政権なんです。ロシアの政権は共産主義のイデオロギーに基いて政権ができた。イギリスは、現在は保守党が政権を握っておるが、これは自由主義な世界観に立っておる。ここに、私は、一つの社会の中心運営というものについて見ると、結局デモクラシーというものは最大公約数によって生み出されてくるとすれば、その運営は結局社会がきめる。社会がきめるといったって、その多数できめる。そうなってくると、自由主義的な政権のもとに政治が運営されており、経済の中心がそこに来ているとすれば、教育もまたこれに随伴せざるを得ないのじゃないでしょうか。ロシアに行けば共産主義的に随伴してきます。これはやむを得ない。これはどういうふうにお考えになりますか。
  93. 石山脩平

    石山証人 お尋ねのお言葉の中に私はすでに問題点が含まれておると思います。一つの国家が、なるほど外から見ると、あるいわゆる主義によって固まっておるように見えますが、私はそういう見方自体に一つの問題があると申します。特に教師としては、教師がみずから考え、かつ生徒に向って何かを説く場合には、単純にどこの国は何々イズム、こうきめてしまわないで、表面上そう言われておるけれども、中身はどうだろうか、——ほんとうにこれは、さっきも申しましたように、レッテルが十あるだけ、それだけ実体が十あるように思わせるようなやり方は非常に軽率であり、単純過ぎ、非教育的でありまして、むしろ、同じ看板のもとであるが、実際はどうなっているかといって、——おそらくは、お言葉を利用するならば、社会主義的、そうしてまた極端に言えば共産主義的な方面から来た政策と、それから自由主義的な、あるいは資本主義的な、そういう方から来た方策とが、実際はレッテルがあるほど画然と分れておらないで、おそらくはある程度、ある仕方で複雑にまじる、それが結合して行われているのだろうと思います。ほんとうは、そういう点について、実態をもっと客観的に即事的に考えもし、教えもすることが必要であります。  さて、御質問の第二点として、民主主義のお話がありまして、多数決云々と申されましたが、私は、民主主義の実際の運用、たとえば議会とか、あるいは会社とかその他において実際に何か事をきめる場合に、そのときに、そこの多数の人の意思によってきめる多数決、マジョリティ・ルールというものが当然起って参ります。これは根本的な原則でなくて、次善的な、セカンド・ベストの原則でありまして、実は人人が主体的にほんとうに一人々々が決定するのですが、しかし、具体的な運用において、現にこの方策をどうするか、現にこの法律をどうするかということは、比較的多数によってきめなければ一歩も進めません。しかし、今多数できめても、ほんとうは主体性に究極の決定権があるわけでありまして、その証拠には、やがてまた討議を重ねて改正するかもしれない。絶対の権力はめいめいの主体的な個人に保留されておるのでありまして、それをまた具体的に運用する場合の方策として、民主主義においては多数決という方式をとるのでありまして、これは固定した決定的なものではなくて、いわば方法として第二の善としての、秩序と方式と運用とのために生まれた技術としての多数決というものだと思います。
  94. 高木松吉

    ○高木委員長代理 松岡君に申し上げますが、持ち時間が経過しておりますから、簡単に願います。
  95. 松岡松平

    ○松岡(松)委員 もう一点です。  最後にお尋ねしたいのですが、あなたの御趣旨はよくわかるのですが、さて具体的に教育を行うに当って、厳正中立といっても、社会科の一つの教科をとらえてみますと、共産主義の理論を持っている場合のものの見方、考え方と、単に自由主義的なものの考え方と見方とでは、大へん違ってくると思うのです。一つのストライキの問題を考える場合に、ときによってストライキは革命の手段です。ところが、単なる自由主義的なデモクラシーの考え方でいくと、ストライキは経済的な一つの紛争、また弱者である労働者の企業者に対して自分の要求を貫徹する手段であると考えられるが、ゼネラル・ストライキの段階に来た場合に、これは少くとも政治的ストライキの特徴を持って参ります。私は、ここで考え方が非常に違ってくると思う。これが社会科の教材なんかの場合に問題が起りやすいし、また変ってくると思うのですが、分析という言葉を先ほど証人もお使いになりましたが、この分析にしても、方法論が違いますと大へん違うのです。単なる唯物論と唯物弁証法とでは、その分析の方法に違いがあると私は思います。これをどういうふうにお考えになるのでしょうか。
  96. 石山脩平

    石山証人 まず委員長に伺いますが、教科書の問題に直結することでなくても、証人の発言が逸脱してもよろしいのですか。
  97. 高木松吉

    ○高木委員長代理 あなたは学者ですから、学者としての意見を述べて下さい。かまいません。
  98. 石山脩平

    石山証人 それでは、教科書と直結しないかもしれませんが、間接にはむろん関係があると考えますから、今委員長のお許しによって、私の学問的な見解を主として申し上げます。  第一に、ある個人をとった場合に、なるほど、その個人として、いわゆるイデオロギー的な立場から言うと、いずれかの極端な明確な立場をとっている人もあります。しかし、大部分の個人の内面的な中身から申しますと、私の見る人間解釈においては、いわゆるイデオロギーとかイズムというものは、いわば人間の気持を解釈する場合の目のつけどころとしてあるカテゴリー、範疇としての役目を持つもので、それ自身は抽象的なものであって、実際の人間のあり方、ありようというものは、実は一つのカテゴリーでつかまえるにはあまりにも複雑で豊かである。だから、認識の方法としては、はっきりとした色彩を持ったいろいろなカテゴリーを、それを一つだけとらないで、それを集めて、しかもただ寄せ集めるのじゃなくて、人間の考え方、行動は、こういう面から見てこういう特徴もある、こういうふうにつかまえられる面もある、こういうふうにして、カテゴリーを十分使って、一応人間の構造のそれぞれの部面の性質をはっきりさせるためには、理論的にそのイデオロギー的な立場で行っていいと思います。しかし、実際の行動、実際の生活そのものは、実はそうではなくして、大多数の人の生活がそうであるように、さまざまの、カテゴリー的な目から見れば一方的に翻り切れない複雑なものを持った姿で行動が行われるのでありまして、従って、認識の第一の段階としては、カテゴリーではっきり色彩を出す。第二の段階は、それを総合し、かれこれ集め検討して、今日の前の自分でもいい、自分のその具体的な人間の考え方や行動は果してどのようなものかということをもっと微に入り細をうがって考えなければならぬ。そして、主体的に判断して行動した場合に、その現われた結果は何々主義として使おうと思ったその期待に反して、そうでなくて、実はさまざまな要素が人格の主体において統一された姿で、その人独特のあり方で出てくるのでありまして、そこで、私がカテゴリーは十や二十分れても実際の人間は千差万別であるということを言ったのはそこであります。従って、だからこそ最後の決定力はめいめい一人々々の人格にあるのだという結論になります。しかるにもかかわらず、その人間がある法律を作るとかある予算をきめるとか、そういう場合に、現在の段階においてこれよりもこの方がベターであるという考えに同意するのは当然でありまして、その結果次善的なものとしてのその場の決断が多数決ということに従うのは、社会生活の技術として許されるし、また必要なことである、こう考えております。  要するに、問題はもっと複雑でありまして、認識の段階、人間存在の相互における関係の分析、あるいはまた近代のいわゆる精神科学の認識の方式、そういう問題にいろいろ関連してきまして、実はそこまで走ることはあまりにも時間をとり過ぎますので、この辺で一応終ります。
  99. 高木松吉

    ○高木委員長代理 大西正道君。
  100. 大西正道

    ○大西委員 証人はわが国の教育学界の大先輩であるし、最高権威者であります。私は、本日は、その意味におきまして、この行監の最終的な結論として教科書行政に関するいろいろな改革すべき問題が当然出て参りますので、その問題につきまして二、三証人の参考意見を聞きたいと思うのであります。  初めに、他の委員の質問を聞いておりますと、これは若干私も問いたださなければならぬように考えておりましたが、前委員の御質問の、蒙古襲来のあの記事に対して、偏向ではないというような見解を示されましたことは、まことに私の見解と同じような見解を持っておられますので、その点につきましてはもう省略していきたいと思います。  まず第一にお伺いしたいのは、今問題になっております現行検定制度を改めて国定にするというような風潮に対してであります。国定検定かという取り上げ方についてはいろいろむずかしい議論もございましょうが、雑駁に申しまして、今ある検定制度国定ないし準国定国定への一歩前進のような態勢に持っていこうとするような動きがたいへんあるのでありますが、証人はこの国定検定の問題についていかような見解を持っておられるか、国定が望ましいと考えられるか、今ある検定制度は若干の不備はあってもその根本精神においてはこれを助成、完成していくべきものだと考えておられるか、簡潔に一つお答え願いたい。
  101. 石山脩平

    石山証人 今申されました第二の場合の意見に私賛成をいたします。
  102. 大西正道

    ○大西委員 それは、検定の基本線を堅持していく、こういうことでありますね。
  103. 石山脩平

    石山証人 そうであります。
  104. 大西正道

    ○大西委員 それでは、今政治問題ともなっておりますが、国定ではないのだが、しかし、種類が多過ぎるから検定の種類を、あるいは一種とか三種とか五種とか言う人もおりますが、検定で合格させる数をある程度しぼったらどうか、こういう意見があります。もう一つは、採択の面におきまして、これは証人も触れられましたけれども、今の松村文部大臣は、試案として、都道府県一本の採択にしたい、こういうことを言っておるのであります。私の見解からいたしますれば、検定という概念から、これに合格させるものを三種ないし五種にしぼるということは、検定でないと思うのであります。それは選定だと思うのであります。検定というものは、基準を示して、その基準に合えば五種でも百種でも、また、なければ一種もなくてよろしいのであります。これを一種ないし三種に限定するということは、これは、名前は検定であり、国定制度じゃないのだと申しましても、私は、これは国定への一歩前進であり、こういうことをどんどん続けていきますと、これは国定になると考えるのであります。また、採択の面におきましても、これを都道府県一本にしぼるということは、これはやはり私は国定への一歩前進ではなかろうかと考えるのでありますが、まず、この検定の場合に、これを数種に限定するということについて、今証人の言われた検定制度を堅持してこれを育成していくという立場からは、どういうふうにお考えになりますか。
  105. 石山脩平

    石山証人 検定国定ということを論ずる根拠に、数が少ければ国定だ、多ければ検定だ、こういうふうに聞えるような考え方は、私はあまり賛成できません。と申しますのは、今お尋ねの中にもありましたように、結果において、数が縮まるかもしれない、あるいはふえるかもしれない。けれども、建前が、先ほど来の証言の中でも申しましたが、本来は現場教師自身がほんとうに力を持って、その人たちの力がもとになって制度が運用されれば、いわゆるこれは検定的な精神であり、それに反して、数は百あろうが、一つあろうが、その現場先生意見を求めずにとったところの意思がもとになってできれば、それはいわゆる国定の線に属するものである。従って、私、けさほど来の証言において、原則上検定制度に賛成する、しかし、問題は検定国定かというだけの問題ではなくて、検定に賛成をするが、しかし、現状においていろいろな評判やら非難もあったようだから、そこで、条件をつけ、ある種のコントロールをした上で検定制度を生かす、こういう一種の私の提案でありまして、原則的にはあくまで私は検定制度に賛成し国定に反対します。ただ、問題は……。
  106. 大西正道

    ○大西委員 御証言中ですけれども、時間が制限されておりますので、私のお伺いしたことを端的にお答えいただきたい。あなたの見解、それにもいろいろ解釈をつけたいところもございましょう。あなたの学者的ないろいろな立場を述べられるのも私の参考になりますけれども、端的にお答え願いたいのですが。今言う一種とか三種とか五種とかいうふうに検定の数をしぼるということは、これは賛成でございますか、そういうことは望ましくないわけですか。
  107. 石山脩平

    石山証人 賛成いたしません。
  108. 大西正道

    ○大西委員 それから、都道府県を一本にした採択ということについてはいかがでございますか。
  109. 石山脩平

    石山証人 都道府県を一本にするということも私は賛成いたしません。
  110. 大西正道

    ○大西委員 そこで、私の見解と大体同じような証人の見解を承わったのでありますが、ここで採択の問題で一つあなたの見解並びに学界の採択に対する解釈というようなものを聞きたいのですが、これはずっと問題になっておりますが、採択権がどこにあるかという問題であります。文部省はなかなかはっきりしない答弁をいたしております。しかし、教育的な観点から、教育学界におきまして採択権はどこにあるのが望ましいと考えておられるか。文部省では、教育委員会にある、その際は学校の校長並びに先生方意見を聞く、こういうことを言っておるのであります。形式的には教育委員会の方にある、あるいはまた、そうではないという意見があるというわけで、この問題について今の法規はばらばらでありますから、この採択権というものを明確にすることが今日のこの教科書事件を解決する一つの根本的な問題であろうと思うのであります。そういう観点からも、採択権の所在がどこにあるか、これは学界でどういうふうに考えられておるか。これは、今ある法規その他に拘泥なくお答え願うと同時に、もう一つは、法規に対しての一つ批判をお聞かせいただきたいと思います。
  111. 石山脩平

    石山証人 学界と申されましても、学界の決定的な結論が出ておるわけではありませんで、事実は学界に属する人たちの個人の意見と申しますか、その前提で申しますと、おそらく、私はもちろんのこと、多くの人は、採択権の所在がどこかと聞かれれば、それは教科書を毎日使っている教師にあると答えるでありましょう。これは民主的な教育制度の当然の帰結であると考えております。また現在の制度においてもそうなっているのでありまして、そのためにこそ展示会が行われ、またそのためのいろいろな催しがあるのでありまして、なるほどこれは教育委員会決定するというふうに見えるかもしれませんけれども、またそうなっておるかもしれませんが、私自身は、教育委員会というものが採択に関して現場教師の一人々々の意思を代行するのではなく、むしろ、一人々々の意思を努めて反映しやすいような方策を講じ、しかも現実の手続として注文や供給やその他の面においてその現場意見を中継して扱う便宜上教育委員会はその事務に当る、こう解釈しております。またそうあるべきだと思います。要するに、お尋ねにありましたように、採択権は理論的にも現実的においても私は個々の教師にある、こう考えております。
  112. 大西正道

    ○大西委員 この前に文部省の初中局長の緒方証人を呼んだときに、同証人は、採択権文部省にあり、こういうことを言っておるのであります。今の証人の見解によりますと、現在の法規のもとにおきましても採択権現場教師の方にあり、こういうように考えておられるし、私もそういうふうに考えるのでありますが、証人立場から申しますならば、文部省の初中局長の見解は間違っておる、正しくない、こういう結論になると思うのでありますが、それでよろしいのでしょうね。
  113. 石山脩平

    石山証人 さように考えます。
  114. 大西正道

    ○大西委員 もう一つお尋ねしたいと思うのでありますが、検定制度が実施されましてから、かなり長い期間を経ておるのでありまして、ある者は、ますます偏向が出てきたとか、あるいは教科書がずさんだというようなことも言われております。しかし、私は、そういう若干の問題点もあろうが、検定制度発生の当時よりはだんだんと教科書はよくなりつつある、こういうふうに考えておるのであります。これも大ざっぱなことでありますが、証人は、この検定制のこれまでの歩みを顧みられまして、だんだんよき方向に向いつつあるというふうに見ておられますか、それとも悲観すべき状態に逆行しつつあると考えておられますか。
  115. 石山脩平

    石山証人 けさほどの証言において、それにちょうど該当することを私は申した覚えがありますが、検定制度のもとによい方向に向っていると私は思います。ただ、それにもかかわらず、風評があり、問題点が起ってくるのは、検定制度がいけないのじゃなくて、検定制度の運用についてまだ多くの不心得があり、未熟な点があるからそうなったのであって、だからといって検定制度そのものをやめることはよろしくない、こういう考えであります。
  116. 大西正道

    ○大西委員 検定制度一つ問題点は、似たような教科書が多い、せっかく検定制度を実施されながら、どれもこれも似たようなものがたくさん出ている、こういう意見がありますが、私もこれには同感であります。似たような独創もない教科書を何がゆえに作らなければならぬか、編集者、発行者の教育的な良心をわれわれは疑いたくなるようなものがたくさんあるのであります。私はこの点についてお伺いしたいのであります。私の見解をまず申し上げますれば、教科書というものは編者、著作者の一つの創造なりと考える。さらに芸術的な一つの創造物なりと考えておるのであります。ところが、そういう面から見ますと、今の教科書の中には、あまりにもありきたりの、個性床のない、教育的な良心と灼熱した一つの何がないという、これを遺憾に思うのでありますが、この点について証人はどのようにお考えになりますか。
  117. 石山脩平

    石山証人 お尋ねの中で、教科書はむしろ著者の創造であるべきだ、こうおっしゃいました点につきましては同感であります。そういう考えを持って著作すべきだと思います。しかし、一方、教科書ということからくる制約が、先ほども申しましたように、基準とか、あるいはさかのぼればいろいろな法規的な制約もありまして、そういうことの上に立っている以上は、普通言われる創作、たとえば創作家が小説を書く、詩を書くのとは、かなり事情が違うのでありまして、そういう教科書なるがゆえに加わった制約のゆえに、結果においておっしゃる通り独創性が乏しく見えるような、そういう教科書ができることはやむを得ない。すなわち、結果においては遺憾な点があるけれども、一方また教科書の性格から見れば、むしろそれが当然だとも言えます。あえて申しますと、教科書の精神が多くの人に十分理解され、またそれがほんとうに妥当なものであるならば、むしろ似た教科書ができるのが当然でありまして、千差万別ということはかえってそれはまだどこか精神の浸透の仕方が不十分だと言えないことはありません。しかし、私は、そんな、形式的に多いからどう、少いからどうというのではなくして、形は独創性は乏しいように見えるかもしれませんけれども、しかし、よくみると、やっぱりそれは、ある制約の中にありながら、著者自分の持ち味を、しかも主観的な意味の持ち味でなくて、ほんとうにこれはいいと思うその線を出そうとしているのが事実でありまして、採択する教師の方でも、もしほんとうに見る目があれば、外観上の類似にもかかわらず、やはり微妙な個性的なものを見わけて、そこに判断を下すべきであるし、下し得ると私は思っているのであります。
  118. 高木松吉

    ○高木委員長代理 大西君に申し上げます。時間が過ぎておりますから、そう考えて、一つ簡略に願います。
  119. 大西正道

    ○大西委員 それでは、採択の問題は都道府県一本というようなことが好ましくないということははっきりしましたが、あなたの御意見では、郡市単位くらいというようなことを言っておられました。これも一案かと思いますが、私は、それでもなお、あなたがその採択権教育者の個々の各人にあると考えられますと、ここにも一つの矛盾が出てきはしないか、無理が生じはしないかと考えるのです。一応教育の地域性というようなものを考えても、郡というものは一つの生活単位としては考え得べきものだと思いますが、やはりこれも強制すべきものでなくして、やはり建前は、あなたが採択権教育者にありと言うこの考えを貫くことにおいて、なるべくならば、この郡単位というようなこともこれは奨励しない方がいいのではないか、こういうふうに思うのです。これは、いろいろなこまかしい意見よりも、その点については積極的に主張しないという御意見ならば、それでよろしい。もし都道府県よりはもしやるならば郡市くらいの方がよかろうという御意見ならば、それでもよろしゅうございます。
  120. 石山脩平

    石山証人 簡単に申し上げます。私はかりに郡市単位くらいと申したのであります。しかも郡なら郡で一種ときめたつもりはないのでありまして、教師たちが比較的接触しやすいし話しやすい単位として、現在においては郡市単位かいいだろう、その結果、そこで審議して、採択といいますか、同じ科目について二種なり三種なりの採択をすることまでを予想する。と申しますのは、郡といい市といいましても、地理的な状況、文化的な状況において相当な開きがありますので、そこで、同じ市でも二種くらいのやや性格が違った種類の教科書採択することが必要であって、その意味で市で選んだ二種のうち、さらに最後の採択はその学校の先生が選ぶ、こうなると思います。
  121. 大西正道

    ○大西委員 これは今もちょっと、前委員から具体的な内容の例をあげて、これが偏向でないかというような質問がありましたが、これは個々の問題でありますが、この前の証人のときも、詳細に内容をあげて、そうしてこれが偏向なりということの証言がありまして、あまりにもそれが一方的で、ソ連中共のことをよく書いてあるから偏向である、アメリカや何かのことがよく書いてあったらこれが偏向じゃないというような考え方、社会主義的なことについての賛辞があればこれは偏向であって、資本主義の問題についてほめてあれば偏向じゃないという、こういうような考え方は私はおかしいと思うのであります。この点は、私は証人が今証書されました御見解と同じような考えを持っておりますけれども、(発言する者あり)——黙って下さい。あとで言って下さい。問題は教育の中立性の問題であります。今は社会主義か資本主義かであります。社会主義か自由主義か、こういうような問題の取り上げ方は、われわれの考え方から言えば、社会主義とか資本主義とかいうのは一つの経済上の問題である、独裁主義か民主主義か自由主義かというのは、私は政治上の問題だと見ておるのであります。こういうふうに考えて参りますと……。
  122. 高木松吉

    ○高木委員長代理 持ち時間が経過しておりますから、簡略に願います。
  123. 大西正道

    ○大西委員 こういうような問題で、教育の中立性についてどのように考えるか。私は、今教育の中立性が政党政治のもとにおいて取り上げられるゆえんは、ただ右と左とのまん中、社会主義と資本主義のまん中、米ソのまん中、こういうものではなくて、教育の本質から、時の政治権力から自由であり独立である、今の保守党の政権のもとにおいても、憲法を守るべきだということが当然の義務なれば、これを堂堂と言うことが私は教育の中立性なりと考えるのです。おそらくこの点は教育学者である証人も同感されると思うのでありますが、私の言う教育の中立性ということについて、これは政治的権力からの自由であり独立であるということを御承認願えますかどうか、その点を最後にお伺いして私の質問を終ります。
  124. 石山脩平

    石山証人 理論的に申しますと、おっしゃる通り、特定の政権に奉仕しないで、国民の全体に奉仕するという原則が中立性でありまして、それ以上のことは、私は、現実の政治情勢に対してどの程度の、どういうやり方が中立であるかどうかということについては、もっと多くの時間と具体的なケースをたくさんあげた上でないとお答えができません。
  125. 高木松吉

  126. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 証人にお尋ねいたしますが、小中学校教科書というものは、まだ人間的に完成されていないほんとうのひな鳥の児童を育てるのですから、どこまでも教科書そのものも公正でなければならない。それで、われわれも、その方向に進ませるように念願しているのであります。今までいろいろな証人をおいで願いまして証言をいただいたのでありますが、その中には、現在の教育が片寄っているという証言もございました。それからまた、先ほど松岡委員のお答えに、ああいう行き方は片寄っていないという御証言もいただきました。そこで、たくさんありまして、公正なものもたくさんございましょうが、もしその中で一つでも偏向したものがあるとするならば、われわれ議員としてはこれが是正をいたすように努力しなければなりません。  そこで、一つお尋ねいたしたいのでありますが、戦争という解釈にこういうことがあるのであります。「日本の軍国主義はますます勢いを得ていった。強大な軍隊を背後にもつ陸海軍の指導者や、それと結びつく財閥や官僚たちが国の政治を思うままに動かすようになり、重い税金に苦しむ国民の不平をそらすために、戦争をした。外国の侵略に備えると称して軍備の必要を説き歩いた。そのうえ政府は、国民の平和思想の発表や政治の批判を封ずるために、警察だけでは足りなくて、憲兵までも使ってだんあつした。こうして日露戦争に続く第一次世界大戦となり、山東出兵、中日戦争、太平洋戦争になった」と、こう書いてあります。この書き方は、これは一つのものの考え方としてはあると思います。しかし、税金に苦しむ国民の不平をそらすために戦争をほめたたえたとか、それが戦争になっていったとかいうことは、戦争を解釈する一方的な一つの考え方であって、戦争というものはこれが全部の原因じゃないと私は思います。たとえば、日本の置かれていた宿命とでも申しましょうか、御承知の通り、こんなちっぽけな島に当時朝鮮台湾を入れて一億からの人口がいて、年年百万ずつ増加していった。生活が苦しくなった。海外に出ていった。しかし、アメリカを初めとして諸外国は、日本の移民奨励に対して反対し、移民禁止法を各国が出した。外に人が出られなくなったから、今度は国で物を作って国内産業の奨励となって、人にかわって物を世界の市場に売るようになった。そこでいろいろ紡績業も発達した。陶器業も盛んになった。こういうふうにして、物を売って生活しようとすると、これに対して各国は、日本の民族の置かれている立場を理解することなく、日本商品のボイコットとなった。あるいは経済の封鎖となった。あるいは日貨の排斥となった。こういうことも私は一つの戦争への原因となったと思います。これがまた全部だとは申さないのであります。だから、戦争を解釈するには、ただ税金に苦しむ国民の不平をそらすために戦争に導いたなどという、こういう考え方は、私は一方的な非常に偏狭なものの見方だと考えるのであります。これは中学社会の第三学年用下となっておりまして、長田新という人が書いているのですが、こういう、日本の戦争というものはただ税金に苦しむ国民の不平をそらすために戦争したというような解釈について、あなたの学者の立場からの御証言を願いたいと思います。
  127. 石山脩平

    石山証人 一方的とおっしゃいますが、私は、むしろ、お尋ねの言葉の中にあった一部分とか一面とか、そういうことで賛成します。ほかにも戦争の原因及びその解釈には多くの要素を入れて考うべきであって、過去の世界史的な現実において、どこでも常にさまざまな要素が結びついて戦争が起きた、だから、戦争の解釈には、おっしゃる通り、あることだけを取り上げないで、ほかのことも入れて考える。しかし、問題は、だからといって、こういうファクターがあったのだから戦争が起きてしまった、だからどうもやむを得ないというような、あげっぱなしの書き方でなくして、過去にそうであったが、これからはそういう場合にどこに呼びかけ、どういう機構を通し、どういう事態を通して、——自分たちの望ましい生活のあり方を築き上げるには、過去と違った将来の新しいやり方について、今世界がどういう方向に進んでいるのか、そこをとらえて考える。言いかえれば、過去の戦争解釈については多面的に公平に考える、だからといって、戦争賛美とか戦争是認の結論に行かないで、だからこそ現在及び将来のやり方においてほかの線に向って行くべきである、そう思います。
  128. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 証人のおっしゃること、その通りだと思います。そこで、私は、こういう一部的な——一方的でなくて一部的な考え方で戦争を論じた場合は、やはりそういう子供にある程度弊害を起すと考えますが、あなたは、学者として、こういうことでは片手落ちだというようなお考えがありますかどうか。
  129. 石山脩平

    石山証人 教科書の表現に関する限り、おっしゃる通り片手落ちと言い得ると思います。同時に、だからこそ、教科書はすべてでなくして、教育のほんとうのおもな力は教師にある。それを使う教師がそれをどのように使い、どのように補い、どのように正しながら行くかということは、教師の教養の問題、研修にかかってくる問題でありまして、教科書にすべて完全によることはむしろむずかしい。ただ、部分的にせよ、今のような点が修正されるなら修正してもらいたいと思います。思いますが、だからといって、その教科書のあるところを見て、これは全体的に偏向だということの判断は早過ぎるので、そういう意味での教師責任研修とにむしろ希望を託するほかはないと思います。
  130. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 証人にお願いいたします。時間がありませんので、一つ解釈の方はなるべく縮めてお願いしたいと思います。次に、教育全般の問題でございますが、たとえば、いろいろな教科書があって、いたいけな児童にいかにしてものを教えるかということは、これは教育の根本的な問題でありましょう。そこで、私、こういう考えを持っているのであります。たとえば、民主主義だ、自由主義だ、これはけっこうでございますが、自由主義も民主主義もやはり個人の集まりであり、社会の中の個人でありますし、その社会があるいは国を形成し、民族があるのでありますから、この教育の根本方針が、日本のように戦争に負けて非常に混乱しております今日、教育ということと人を完成さしていくということを総合して考えますと、日本の教育者が児童を教育するに当っては、何か一つの目標を置くべきであるか、ただ完成した社会人を作っていくのが現在の教育の仕方であるかどうか、われわれはそういう点に対しては全くのしろうとでありますから、学者としてのあなたから、どういうところに日本の教育は今目標を置かなければならぬかという点に対してのお答えをいただきたいと存じます。
  131. 石山脩平

    石山証人 目標を置くことは必要でありますが、その目標というものをもし言葉に表現すれば、むしろきわめて抽象的な一般的な表現になるべきであって、具体的な個々のもについてかれこれと決定することは、かえって教育の目標設定の原理にそむくのであります。教育の目標というのは次々と発展し築かれていくような流動性を持っておる目標設定であって、決定的な形の目標設定は少くとも民主主義的な教育に反する。そして、私は、あえて申せば、現在の教育の目標をどう表現するかといえば、民主主義的な原理を立てて、いまだ民主主義的に未熟な世代を一歩々々成熟さしていきたい、そういう表現になる。きわめて抽象的でありますが、それ以上のことは、いろいろ具体的なことで補うほかはありません。
  132. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 これは古い考え方かもしれませんが、やはりわれわれは日本の国民であります。日本の国民として、国民の人間的な完成の一つの目標というものは、僕は持たなければならぬと思うのです。たとえば、日本の国を文化国家に築き上げていくとか、産業経済の確立に全力を尽すとか、われわれは独立民族の国民としていくのだ、こういうことがなければならないと私は思うのであります。先般私はソビエトの映画を見たのでありますが、非常にうらやましかったのであります。映画に出てくる小学校の生徒も、あるいはキャバレーで遊んでいる人も、職場で働いている人も、スターリンをたたえる歌、あるいはレーニンをたたえる歌を歌っている。そして非常に民族の団結と自分の国を愛する祖国愛というものが燃えております。しかし、終戦後の日本人の考え方は、祖国愛とか愛国心とか言うと、すぐ反動的なものの言い方のように誤解したり、また軍国主義が再来してきたのではないかというような誤解をたまたま招くのであります。その国に生を受ける者はその国を愛するということは、おそらくどんなイデオロギーを持つ国でも私は同じだろうと思うのでありますが、あらゆる教科書を見ても、民族の独立と祖国愛、愛国という言葉がないのであります。あるのかもしれませんが、われわれの目に入ってこないのであります。そういう点に対しては、日本人というものが、今まで議論されていたように、民主主義だ自由主義だといって、人に迷惑をかけても自分が自由主義だとかってな解釈をするような点があったり、一つの理想だけを抱いて理想に進むことはけっこうですが、日本の置かれている経済状態の現実を忘れざる将来の理想でなければならないと私は思うのです。戦争に負けて苦しんでいる日本の現実の姿から刷り出して、この国を建て直そうという民族愛というものが私は教育の中にも当然必要じゃないかと思います。証人立場から言って、どういうお考えでありますか、承わりたいと思います。
  133. 石山脩平

    石山証人 結論として、お尋ねの通り、日本人が日本という国を地盤としてその国を盛んにし、りっぱにするための目標というものは、きわめて必要でありまして、むしろそれは、教育の目標の段階においては、あえて申せば第二段の次元と申しますか、最高の段階は人間一般、およそ人間としてその人間の性能を円満に調和的に発展させたいというその目標がまず第一段で、その人間一般に望ましいそのあり方が、民族という一つの宿命と言おうか、あるいは現実と言いましょうか、とにかく議論を越えて存在する制約としてありますから、その民族の一員としての人間完成という意味で、第一段として人間一般に要求されたかくかくの多くの条件あり、さらに、日本民族として見た場合に、第二段に日本人が直面するいろいろな難点や課題というものを持ち出して、それとの結びつきにおいて第一段のヒューマニズム的な考えを日本民族の教育の目標として一そう具体化する。今度はさらに、だからといって、日本人はどこへ行っても画一だというのじゃなくて、日本といっても、地域的な特色もあれば、あるいは現代という時代的な特色もあるから、さらに第三の次元における目標というように、だんだんと一般的なものからより具体的なものへと立体的な縦の構造においてそれぞれ目標設定がなさるべきであって、民主的人間が愛国的な日本人かという、そういう二者択一的な問題設定の仕方自身は、私は少し粗雑に過ぎると思います。
  134. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 その問題はこの程度にしておきまして、採択の問題に入りたいと思います。  採択は、証人のお考え方によりましても、やはり教壇に立っておられる教員が採択権を持つべきだ、また現在そういう形になっておる、こういうことで、これは私もそれでよいと思うのであります。ただ、たとえば、先ほどから言った日本の現実の姿を見ると、日教組あるいは教職員組合、この形が私の考えでは決して公正なやり方をしていないのであります。たとえば選挙などに当ってもはっきりしております。これは私はこの際はっきりさしておいた方がいいと思いますが、教員組合とか何とかいう地方の人たちの全部とは申しませんが、その大部分は、——先ほど山中君は講師団の中に共産党員云云ということを言っておりましたが、共産党ということでなしに、大部分の人たちは現在社会党を推しておるようであります。たとえば、選挙を見ますと、教育二法が出てからはだいぶ変って参りましたが、日教組は現に中央から指令を出しております。その指令の全部と言ってよいほど大部分が革新政党といわれる政党に動いておるのであります。そうした例をたくさん私は持っております。こういうように、一方的な、政党に所属はしていないが、その政党に非常な好意を持っている人が大部分であり、また、好意を持っていなくても、中央からの指令で動かされる立場に置かれている教員でございます。先ほどから申しますように、社会主義であろうと資本主義であろうと、個人の思想は自由でありますが、しかし、そういう人たちが一旦教育に携わる場合は、そういう個人の思想は一時忘れて公正妥当な行動をとらなくちゃならぬと私は考えます。だから、現在の日本の教職員組合というものは、はっきり申しますと、社会党員ではなかろうが、あるいは共産党員ではないでありましょうけれども、保守的な考え方の人というものがほんとうに少い。こういう姿に置かれておる教員が、そういうものの考え方で採択をしたということになれば、これはまた教育全体が偏狭になっていくんじゃないかというように考えるのでありまして、理論からいけば、あなたのおっしゃる通り、確かに現場に立っている教員が持っていられるのはけっこうです。しかし、現実はそうじゃないのであります。現実は片寄っているのであります。だから、現実の日本においてもなおかつそのままの姿で教員だけに採択権を与えてよろしいかどうかということを私は疑問に思うのでありますが、証人のお考えを承わりたいと思います。
  135. 石山脩平

    石山証人 採択の事実について日教組がある方向に片寄った意味採択をしている、あるいはさしておるかのようなお尋ねがありましたが、私の印象では、そう思いません。むしろ、私は、日教組という団体はありますけれども、その個々の教師は文字通り数十万でありまして、また、教科書に関して申しますと、発行会社また編著者という面から見ましても、実に多くの人が関係しておりまして、もし、おっしゃるような意味での日教組がある一面的な方向に採択を誘うと仮定しても、その場合に、関連する著者や発行方面があまりにも多種多様でありまして、日教組がそうしようと思っても、動きがつかないのじゃないかという観測をしております。私は、日教組が悪く言うような、ある会社の発行している教科書が相当多数採択されておるという事実を聞いております。そうすれば、日教組がある自分の欲する方向に採択をきせるような動きをしているとは、結果において思われないのであります。
  136. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 証人は思われないかもしれませんが、私は思っております。たとえば、供給方面でもこういうことがあるのです。もし日教組と言うのに対して誤解がありますならば、教職員組合の一部と言ってもよろしいのでございます。採択のいろいろな問題が新聞や雑誌にも出ておりますが、このいろいろな実例をあげる時間がありませんが、たとえば、供給の場合、従来の特約店があった、その特約店のやり方が非常にまずいというので、学生協が生まれた、そして学生協が供給に携わった、すると、旧来の特約店が、発行所会社に行って、それじゃ困るから、われわれにも扱わしてくれと言った、そうすると、この会社はこれを断わった、しかし、いろいろなことがそこであって、話し合いがついて、従来の特約店にもある程度扱わせるようにした、ところが、職員組合から、その利潤の五〇%、半額を一つおれの方によこせということで、五〇%の利潤をトンネル会社のようにとっている学生協もあるのです。それは学生協が名前が変りましたが、そういうように、供給のやり方においても、会社自体も教員のきげんをそこねては自分の本が売れないのです。何とかするためには教職員の方々のきげんをとるわけです。あるいはまた、教職員関係から上ってきた社会党の代議士の人たちなども、盛んに教科書会社からは待遇されております。いろいろごちそうになったり金をもらったりというようなことがあるのです。(「でたらめ言うな」と呼ぶ者あり)これは事実みんなあるのです。私は今までの証人証言を基調として言っているのであります。そういうような非常に片寄った供給のやり方もありますし、あるいは、本を作るに当っても、われわれが見ると社会主義的なものを謳歌しているような事実があるのであります。そうすると、片寄ったという結論に私はなるのであります。  そこで、証人と私とここで議論をしてもいたし方ございませんが、こういうようなことから、たとえば千葉の市川あたりで教員がごちそうになったというような忌まわしい問題も起きてきたわけでありますが、こういう姿を見ても、供給のやり方も、あるいは本の作り方も、今のやり方でよろしいと証人はお考えになるかどうか、結論的な、いいか悪いかということに対しての御見解を承わりたいと思います。
  137. 石山脩平

    石山証人 現状でよろしいとは思いません。けさほど来、現状のいかなる点をどういうふうに是正しようと思うかという意味委員長の御質問に答えまして、私は何カ条かを出しまして、その中に、採択の機能が供給の機能と結びつかない方がよろしいという一項を加えたわけでありまして、もしお尋ねなさった方のお考えのような事実があったとすれば、それは今の私の原則によって将来是正さるべきである。また、現在の事実そのものにつきましては、私は不幸にして正確に知りませんので、ひょっとしたら、今日教組に関して学生協などの関係からおあげになったその例が、あるいは似たようなことが日教組にあらざる他の方面にもあるかもしれぬから、単に日教組が採択の面に対して非常にいけないことをしているように印象づけられることは、どうも公平には受け取れないと思います。むしろ、現在の全般的な陥りやすい傾向としてともどもに警戒して、将来そういうことがないように是正する方針を立てるべきだということを一般的に申すほかはないのであります。
  138. 高木松吉

    ○高木委員長代理 佐々木君に申し上げますが、持ち時間が相当経過いたしましたから、簡略に願います。
  139. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 私は各証人に価格の問題について同じような質問を繰り返してきたのでありますが、どうしても現在の小学校や中学校の本が高いという観念を私は今でも捨て切れないのです。それはどういう点からそういうことを申し上げるかというと、この前石井証人にも申したのですが、普通の嗜好物や何かと違うので、小学校の教科書というものはどうしてもなくてはならないもので、たとえば人間の食事と一緒のことなんです。これを買わないで学校に行くわけにはいかない。どうしても買わなくちゃならぬものですから、最も安くしなければならぬということが私の根本的な考え方であります。先般の証人にも私は例をあげたのですが、ちょうど私らが小学校に通っておるときにも、——これは間違ってはいかぬと思って、この前調べました。そうすると、私のときの修身の値段が三銭でした。国語の値段が六銭でございました。その時代のほかの物価指数を調べてみると、はがきが一銭五厘でありました。それから、先日鉄道運賃の例もあげたのですが、一キロ当りの当時の価格と現益の価格を比較すると、百八十倍に鉄道運賃がなっております。はがきが、一銭五厘が五円ですから、三百数十倍になっております。そうすると、三銭や六銭だった本が今八十五円、九十円で、物価指数から言って千何百倍になっておるわけでしょう。本だけはなぜこんなに高く売らなければならぬかと私は思うのです。先ほどから運賃がどうだとかなんとか言いますが、本の運賃なんというものは、一軒々々に新聞を配達するようなものではございません。この運賃なんというものは、汽車でどっと積むのですから、全国に二億四百万冊も輸送するのですから、運賃は一冊にすれば、何銭にもならぬのです。それよりも、根本は、要するに、発行所が相当の利潤があるということ、要らない経費をたくさん使っておるということ、こういうところに私はあると思うのであります。その点について、証人から現在の本は高いという証言をまだ得ておりません。ただ、先ほど言ったところの線でいけば幾分安くなるであろうという御証言はいただいておるのですが、そんなことでは私は承知できないのです。ただ経費の四%とか五%とかでなく、できるならば現在の半額くらいまでいけるというような考え方を持っておるのです。実例をあげますが、この間教職員組合が夏休みの、おさらいの本を実費頒布だと称して十八円で頒布をやっておるのです。本屋さんに行って、どのくらいかかるかと聞いてみました。これはほんとうのざら紙ですから、紙代は大体四円かかる、印刷や何かが四円で、八円だと言う。その他製本なんかはわずかなものです。宣伝費を使ったって、おそらく十円かからないだろう。そして、これが十八円で児童に実費頒布だと称して売られておる。もう一つ業者のやっておる夏のおさらい帳をとってみました。この方はざら紙とは違ってまっ白で、こっちの方が全然いい。紙から言っても、印刷から言っても、また裏に色彩を入れてやっております。これはもうける方の会社で、青葉書房ですか、ここで出しております。これは幾らかというと、二十五円です。発行所から各学校へおろすのにどのくらいでおろしているかといったら、十三円から十五円でおろしている。こんな商売は私は初めてだ。もちろん一割、二割という利潤ならいいけれども、十三円でおろされたものが二十五円で売られている。私は、こういうものがすべて学校の教員が悪いと喜べのではなくて、今どうしてもなくてはならない小学校、中学校の本を利用して、発行所も、あるいは供給する人も、たまたまいろいろな新聞に出たようなことが学校の先生の一部にでもあるとするならば、これらの人がぐるになってこれらの本を食っているということなんです。しかも、日本の置かれている経済状態から言うと、非常に日本の国民の生活は困っておる。ことに労働組合の人たちは〇・一五とか、あるいは〇・二五とか、いろいろ夏季手当や年末手当の十円か千五百円をもらうのにも、ストライキをもって要求しているような苦しい生活です。そういう人たちが、こんなものに暴利を取られて、子供が三、四人いれば、年に三千、四千と取られる。こういうところにも私は日本の労働者の生活を幾分でも楽にすることができるものがあると思う。日本には恵まれざる人が多いわけであります。本の価格に対してもっとみんなが真剣に取り組まなければならぬと思うのでありますが、なあに、そうしたものは大したものでないという意味証言も今まで発言されております。それからまた、こんなものは枝葉末節だという考え方の人もあるようであります。しかし一冊十円、二十円としても、これが二億四万冊というような教科書の数になる。そのほかにこういうものを数えますと、おそらく三億冊以上の数になるというならば、たとい三円違っても一円違っても莫大な数になるのであります。私は、こういう点から、価格のことをこの委員会ごとに叫んできているのでありますが、証人は、こういう私の言い方をお聞き願いまして、なるほどこれは高いな、これはどうしても安くしていかなくらやならぬといりようなお考えになりましたかどうか、それとも、今までこの本の価格というものに対しては御研究がなかったか、関心がなかったか、価格というものは教育の全般から見るとそれほど大きな問題でない、こういうお考え方でございますか、そういう点に対しての価格の部面に対する証人の御証言をいただきたいと思います。
  140. 石山脩平

    石山証人 価格については、けさほどの証言で申し上げましたが、全国民に供給する建前から、当局者の政治的な努力によって、なおさら価格が安くなるべきであるし、またなり得る、私の見解では、父兄が負担するにしても、少くとも現在よりも二割程度は下げ得る、それの主たる理由は、浪費宣伝費の節約による、しかし、さらに、子供の必需品を商品として扱う場合は、他の場合に比べて一そう厳粛な態度と、その自粛に相当するコントロールが必要だということは、けさほど申した通りであります。その場合に、子供の必需品と申しましてもいろいろの種類がありますので、できれば、児童文化の研究会などで、正規の授業に資するような教科書を最高位に置いて、次に今あげました学習書を第二位に置き、また教育用具として必要な顕微鏡とか、そういうような種類のものを含めて第三のところに置く。それ以下のものにつきましては、あればけっこうだが、なくてもそんなに差しつかえない。すべて要求を満たすということはできないし、する必要もないというようなものを第三位以下に置きまして、そのウェートのかけ方を専門的に研究して、第一、第二のランクに入ったものについては極力コストを少くし宣伝費を少くしてやる。第一、第二のグループの商品は、商品価値として自由競争をさせるには値するけれども、今までのような相当多くのマージンをもって自由競争ができるような仕組みはよくない。やればやりがいがあるが、そんなにずるいもうけのできる仕事ではない、そういう通念を第一、第二のものについては普及したい。それがお尋ねに答える趣旨としては当ると思います。
  141. 高木松吉

    ○高木委員長代理 西村力弥君。
  142. 西村力弥

    ○西村(力)委員 だいぶ時間も過ぎて、証人に対しまして非常に申しわけありませんが、簡単に御質問申し上げますので、御答弁も簡略にお願いいたします。  教科書の最初の出発は、検定がなるかならないかというところにありますが、その絶対条件として、教育基本法、学校教育法の目的に合致しているか、あるいは特定の政党に偏向していないか、その次は指導要領に合致しているか、こういうことがあげられておるのでありますが、この指導要領がたびたび変改せられる、あるいはまたその指導要領のきめているところが非常に詳細にわたり過ぎている、こういうことがあるわけでございます。あまりにも改正されるということは、教科書発行についても、あるいはそれがひいて父兄の負担にも影響いたしますし、また現場教育指導の方法なり方針なりに対しても非常な影響をすることになりますので、その点はいかぬと思います。また、あまり詳しいことも、現在の教育の方向から言って好ましいことではないと考えるが、証人の御意見一つ伺いたい。
  143. 石山脩平

    石山証人 指導要領のあまりにもひんぱんな変更というものは、教科書の発行にも重要な影響を及ぼすことは、私、認めます。従って、本来——本来と申しますのは、平静な時代において、指導要領、また教科書というものは、今までのようにひんぱんな修正は必要とすべき理由もないと思います。むしろ、教育というものは、特に基本的な段階においては、大原則的なものはほぼ持たないのでありまして、私は、せいぜい、大ざっぱに申しますと、一週期、一つのピリオドとして、大体六・三合せて九年間ぐらいは、指導要領の全面な改正は必要じゃない、その間はむしろ指導要領は改正しないで、何か緊急やむを得ない部分的な変更は、別な形で、通達なりその他においてできると思います。しかし、終戦後今日までの約十年に近いこの新教育のスタートの特殊な現象として、過去数年間は特殊な時代でありまして、実は、私の推察を申し上げれば、新教育の指導方法についてもいろいろやってみて改めなければならぬような時代だったと思うのです。従って、今までひんぱんに指導要領が変ったということは、実はその結果やむを得なかったことなんです。そこで、これからはもう少し落ちついて、よくよく必要がなければ根本的な変更をしないということで、おっしゃる通り、もう少し落ちついたコンスタントな性格を持った形で、しかし永久の歴史の進歩というものをはばんではいけませんから、大ざっぱに一週期を大体九年ぐらいに置いて根本的な改正をしたらどうか、こう思っております。
  144. 西村力弥

    ○西村(力)委員 指導要領の内容を克明に規制づけていくというか、そういう点についての御意見はどうですか。
  145. 石山脩平

    石山証人 本来指導要領というものは、内容にわたってそんなに詳細に克明な規定をすべき性質のものではありません。むしろ現場先生が肉をつけ枝をつけて具体化すべきであって、根幹に関する限りは、もっと単純にして、しかも基本的なはっきりしたものにしたいと思っております。
  146. 西村力弥

    ○西村(力)委員 ただいま申しました絶対条件の第一番目、学校教育法あるいは教育基本法、この目ざすところは、やはり真理と平和を希求する人間を作るのだ、あるいは自主的な精神を育成していくのだ、こういうことにあると思うのです。そういう観点から教科書の絶対条件としての作用も発揮されなければならないと思うのですが、そういう点から言いました場合、事実というものを教科書はやはり隠蔽してはならないではないか、事実は事実としてこれを掲げていく、そしてまた教育もその現実の前まで勇敢に児童生徒を連れていくことが必要だ、その先どういう工合に判断するかは自由としても、現実の前まではやはり連れていかなければならない、こういうことを私は考えます。そういう考え方は証人に御賛成いただかれると思うが、先ほどのイデオロギー以前の問題であるというようなこと、あるいは階級意識過剰に陥らせてはならないというようなこと、こういうことと、事実は事実として見させる、あるいは見る、あるいはそれを把握する能力を養うというような教育でゆかなければならぬと思うのですが、その関連は、先生はどういう工合にお考えになりますか。先生のおっしゃった意識過剰云々、イデオロギー以前の問題、こういうことの関連はどういう工合にお考えになりますか。
  147. 石山脩平

    石山証人 真理と平和を目がけての教育は、もちろん大原則として守るべきであります。そしてまた、その真理ということに関連して、事実は事実として認識させるということも当然必要だと思います。私があえて、イデオロギー以前だとか、あるいは階級意識過剰を戒めるとか、そう申したわけは、まさに、その事実を事実としてつかむ場合に、ややもするといわゆる階級的、イデオロギー的な偏見のもとにとらわれやすいおそれがあるから、そしてまた、基礎教育の段階においては、特にそういうことに警戒を要する時期であるから、その意味で、真理と平和を希求し、事実をすなおに知らせるためにこそ、私は先ほど証言のうちで、言葉は適当でないがという断わりのもとに、イギオロギー以前とか、階級意識の過剰を戒めたいと申したのであります。
  148. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それでは、教科書検定する場合、そういう真理を探求する自主的精神云々の原則に立った場合、この教材は暗い明るいという基準は認められるかどうか。これは暗いからいけないというようなことは認められるかどうか。
  149. 石山脩平

    石山証人 暗い明るいという問題は、実は微妙な問題で、なかなか判定も困難でありますが、私、率直な感想を申しますと、明るい暗いという、現実の事案を明るく見るか暗く見るかということは、その事実を見る場合のいろいろの要素のとり方で、いわゆる好ましからざる要素がたくさん映ってきて暗く見える、あるいはむしろ喜ばしい面がよけい映ってきて明るく見える、こういう意味で、認識自体にどっちかに傾きやすいということはありまして、それもやはり、視野の拡大、材料の忠実なる整理によって、幾らかでもそういう事実以上の暗さ、事実以上の明るさを戒めるべきだということは一般的に言えます。しかし、さらに第二として、教育立場から申しますと、たとい現実につながる事実が事実として暗い面があっても、いや、あればあるほど、あすを求め将来を目ざす教育としては、問題は、その暗い事実をどうして明るくするか、どうすれば明るくなるかということについての建設的な方向に一歩々々教育を営むべきであって、そういう将来の方向づけとしては私は明るいことを求めます。
  150. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それでは、具体的な問題について御意見を伺いたいのでございますが、先生も御存じだと思うのですが、読書新聞によると、文部大臣賞を受けている「山びこ学校」の「母の死とその後」が、暗いという断定のもとに反対されている。あのしいたげられたる山村の生活を克明に書いて、その中には、両親を失いながらも本人は生き抜いていこうとするところの、ほんとうの計画的なことを書いているのですが、これが暗いといって教科書から抹殺されている。これは調査員がそうしたのだろうと思うけれども、その陰にはどういう手が動いているかわからない。そういううわさも先生はお聞きになったと思いますが、こういうことは、検定制度育成というか、日本の教育の根本から見まして好ましいことではないと私は考える。それからまた、「人間の尊さ」という教材をずっと書いて、これから卒業するのだから皆さんしっかりやっていかなければならぬということを書いたあとに、「死の灰」「ほうしゃのう」の詩を載せた。ところが、その「死の灰」「ほうしゃのう」の詩は削除された。こういうことは日本の現実から見ましてだれにとっても重大問題でありますが、こういうことを子供の教科書に出すということは暗いというわけで削除されている。その削除の経過を見ましても、調査員がどう言おうとも、文部省としては絶対許さないというような口頭の指示があったというようなことになっている。こういうことに対しましての先生の御見解はいかがでありますか。
  151. 石山脩平

    石山証人 事態がいかにもおっしゃる通りであるならば、それは遺憾だと思います。審査員が、これは暗いから削る、こういうことだけの判断で削るということはよくないので、もう一歩突っ込んで、事案はこの通り暗い、暗いから暗く書いたとそこで認めて、もし審査員なりあるいは文部省なりが希望を添えるとすれば、私のいわゆる教育立場から希望を添えるとすれば、事実はそうだが、しかし、将来どのようにして明るい方面へ行こうかと努力しつつあるか、しようとするか、あるいはしなければならぬかということをつけ加えてやれば、これは私が審査員ならば合格させたいと思います。
  152. 西村力弥

    ○西村(力)委員 その事実があればという前提でございますが、これは、新聞や何かに載っておるが、事実であるかどうかという問題になると、証人がなかなか出て来ない。出ればまた文部省からやっつけられるから、おれの著書はこうやられたということは、残念ながら証人に出そうとしても出せない。だから、A社とかB社という名前で出てきている。だから、この点は、あるという仮定の上に立って、もしあればこの教科書内容に対する官僚の介入というものをどうやって排除していったらいいだろうかということについて、御見解がございましたら伺いたい。
  153. 石山脩平

    石山証人 教科書審査をめぐって、いわゆる当局者——今官僚とおっしゃいましたが、その事務を扱う人、または編著者、それから発行者また採択者、そういうすべての関係者意見の交換、その了解を進める努力がはなはだ不十分でありまして、現在の検定教科書制度の育成をはばんでおる重大なマイナス条件は、関係者の間の相互の意思を疎通させるための機会均等な姿というものが不十分である。私は、その意味でこそ、研究会のごときもののいい意味で活用、かつまた編著者その他の者についての資格審査まで持ち出しましたが、ああいうことは実は公然とその地位を明らかにして、役目を明らかにして、同時にまた、それらの人がその職責をよりよく果すための相互の接触研究というものをひんぱんにやらせる、こういう条件のもとに、今御質問の遺憾な事実は漸次に是正されると思います。
  154. 西村力弥

    ○西村(力)委員 この前、民間のこういう方面の権威者と称する人を当委員会証人として来てもらったのでありますが、その場合に、教科書の偏向ということを具体的に取り上げていました。その点に対して、先ほど松岡委員が御見解を問われたのですが、それは偏向と思わぬと断定されまして、どうも的がはずれたような格好でございましたが、私もその点をお尋ねしたいと思います。
  155. 高木松吉

    ○高木委員長代理 西村君に申し上げますが、持時間が経過いたしました。どうか簡略に願います。
  156. 西村力弥

    ○西村(力)委員 これは実教出版の「一般社会」でございますが、ここを取り上げて言っている。ストライキの問題でございますが、組合員がストライキを続行しているときに職場に入って働く人をストライキ破り、スキャッブという、これは雇用者に買収された組合員である、これだからいけない、こう言っているのですが、御見解を承わりたい。
  157. 石山脩平

    石山証人 いわゆる第三組合を企業家側に買収されたインチキなものであるというふうな断定を一般に植えつける意図で書かれたとすれば、それはやはり偏向です。一面的な見解だと思います。
  158. 西村力弥

    ○西村(力)委員 ところが、そのあとに、「これは雇用者に買収された組合員であることもあるが、多くの場合は、失業者など、高い賃金で雇用者に雇われた人々である。」、こう言っているのです。ところが、彼は、「雇用者に買収された組合員である」、そこだけを言っておるのです。あとずっと追って、「失業者など、高い賃金で雇用者に雇われた人々である。」、そこまで書いているのをことさらに隠蔽しておる。だから、ここまで書いていれば何も差しつかえない、さようにお考えでございましょうか。
  159. 石山脩平

    石山証人 だからこそ、私は、そういうものの判断において、その個所だけ独立に扱わないで、もっと全体を見た上での判断をしてもらいたい、こういうことをたびたび申し上げたのでありまして、その角度から御解釈願って、私は全体的な総合的な解釈のもとに判断すべきだということだけを申し上げて、証言内容にします。
  160. 西村力弥

    ○西村(力)委員 中教出版の「あかるい社会」というのでございまするが、日露戦争の場合に反戦運動をやったという人に堺利彦に幸徳秋水と書いてある、これはまことに一方的だという証言があった。ところが、その次に、「若死にたもふことなかれ」と言った与謝野晶子が入っている。こういう人を除いて、堺利彦、幸徳秋水、大逆罪ということで、そこばかりアッピールする。それを保守党の諸君は非常に利用して、だからこれはまことに現在の教科書は偏向性を持っているという判断に立とうとしておる。実際反戦運動をやった人がむしろ少きに失した。それを、ことさらに一方の二人をあげて、他をあげないで言っているのはけしからぬ。先生にこう言っても仕方がないですが、こういう場合に、思想的な立場云々を問わずに、よく戦った人人の全部をあげているならば、これは決して一方的なものではないと思うのですが、イエスかノーかと聞くわけです。
  161. 石山脩平

    石山証人 イエスであります。
  162. 高木松吉

    ○高木委員長代理 西村君に申し上げます。持ち時間が相当経過いたしましたので、そのつもりで簡略に願います。
  163. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それから、「あかるい社会」の六年の下では、釜山に上陸して京城に行くまでの間に、「広い田んぼをつききった大きな道路を外国の軍用自動車がすなけむりをあげて走っていくすがたも見えます。」、こう書いているところをあげて、これはけしからぬ、日本が現在置かれているところから、軍事基地反対なり、アメさん帰れなり、そういう思想を植えつける教科書だ、こう言っている。ところが、これだって、やはりあとをずっと読んでみると、北鮮には中国義勇軍が来ておる、南鮮には国連軍が来ておる、こういう工合にちゃんと書いておるのです。全体的には決してそうじゃない、かように私たちは判断するのです。だから、こういう工合にそこだけを取り上げて意図的な解釈をするなんていうことは、絶対に正しいことではない、かように思うのですが、先生の見解を伺いたい。
  164. 石山脩平

    石山証人 御質問者のおっしゃった趣旨に同意します。
  165. 西村力弥

    ○西村(力)委員 それで、現在の教科書には、一方軍事基地あるいは従属国というような用語は一切払拭されている。こういうことでありまするが、これはことさらにそういうことをある権力をおそれてやっておる。こういうことを私たちは残念に思わざるを得ないのです。それで、今言ったように、朝鮮の例にかこつけて、外国の自動車が通っているということを書かざるを得ない。あるいはフイリッピンの問題にしますると、「インドネシアの北にあるフィリピンも、多くの島島でできている国です。この国はもと、スペインやアメリカの植民地でしたが、第二次世界大戦後独立して、フィリピン共和国になりました。しかし、ここは、いまもアメリカ軍の基地になっています。」、基地という言葉はこんなところにしか発見できないのです。こういう状態にあるのを、一々一方的なことを取り上げてこの町の教育大学者は証言をしている。今先生が申されましたように、全体的な立場において把握しなければならないということになりまするが、今私が取り上げました個々の例につきましては、全くその通りであるという御証言を賜わりましたので、感謝申し上げまして終ります。
  166. 高木松吉

    ○高木委員長代理 石山証人に対する尋問はこれで終了いたしました。  証人には長い時間にわたって御苦労でございました。  午後は三時半より再開し、証人塩沢常信君より証言を求めることにいたします。  暫時休憩いたします。    午後二時四十九分休憩      ————◇—————    午後三時五十七分開議
  167. 高木松吉

    ○高木委員長代理 休憩前に引き続き会議を開きます。  直ちに証人より証言を求めることにいたします。  ただいまお見えになっておられます力は塩沢常信さんですね。——この際証人に一言申し上げます。現在わが国において小中学校における教科書は多種多様にわたり、大小出版業者が乱立の結果、これが検定並びに採択等に関しとかくの風評も生じ、これらが学童並びに父兄に及ぼす影響等を懸念し、世上大いに関心を抱いている向きもありますので、義務教育の本旨にかんがみ、これが真相を明らかにすることはきわめて意義のあることと考え、本委員会では本件の調査に着手した次第であります。証人におかれましては率直なる証言をお願いいたします。  それでは、ただいまより小、中学校における教科書関係事件について証言を求めることにいたしますが、証言を求める前に証人に一言申し上げます。昭和二十二年法律第二百二十五号、議院における証人宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証人証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならないことと相なっております。宣誓または証言を拒むことのできるのは、証言証人または証人配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係のあった者及び証人の後見人または証人の後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するとき、及び、医師歯科医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁理士弁護人公証人、宗教または祷祀の職にある者またはこれらの職にあった者がその職務上知った事実であって黙秘すべきものについて尋問を受けたときに限られておりまして、それ以外には証言を拒むことはできないことになっております。しかして、証人が正当の理由がなくて宣誓または証言を拒んだときは一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは三月以上十年以下の懲役に処せられることとなっておるのであります。一応このことを御承知になっておいていただきたいと思います。  では、法律の定めるところによりまして、証人宣誓を求めます。御起立を願います。  宣誓書の御朗読を願います。   〔証人塩沢常信君朗読〕  良心に従って、真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。
  168. 高木松吉

    ○高木委員長代理 それでは、宣誓書署名捺印して下さい。   〔証人宣誓書署名捺印
  169. 高木松吉

    ○高木委員長代理 これより証言を求めることになりますが、証言証言を求められた範囲を越えないこと、また御発言の際にはその都度委員長の許可を得てなされるようにお願いいたします。まず委員長から概略的に証言を求め、次いで各委員から証言を求めることになりますから、御了承下さい。なお、こちらから質問をしておるときはおかけになってよろしゅうございますが、お答えの際は御起立を願います。上着をお取りになって下さい。気楽にして御証言願います。  証人の略歴をお述べになっていただきます。
  170. 塩沢常信

    ○塩沢証人 昭和二年日大専門部政治科卒業、それから、職歴は、昭和二年から昭和八年まで東洋生命保険会社在職、それから、昭和十年合資会社大和鋳工所設立、昭和十三年解散、昭和十三年から十六年まで東京貯蓄銀行在職、昭和十六年大政翼賛会結成と同時に入会、その間、総務班長、講演班長、宣伝部副部長を経て、解散と同時に退職、昭和二十年大日本政治会民間側常任理事として就任、終戦と同時に、大日本政治会の解散と同町に退職、以後杉並映画劇場の経営に当っております。
  171. 高木松吉

    ○高木委員長代理 日本PTA全国協議会には関係ありませんか。
  172. 塩沢常信

    ○塩沢証人 PTAの経歴は、杉並第二小学校PTA副会長、同会長、東京都杉並区小学校PTA連合会副会長、同会長、東京都小学校PTA協議会副会長を経まして、現在東京都小学校PTA連絡協議会会長、東京都PTA総協議会会長、日本PA全国協議会会長、全国学校給食推進協議会会長に就任し、現在に至っております。
  173. 高木松吉

    ○高木委員長代理 それでは、日本PTA全国協議会の組織と事業内容とを詳細にお述べになって下さい。
  174. 塩沢常信

    ○塩沢証人 日本PTAの組織は、単位のPTAが集まりまして、各都道府県の中に協議会が組織されております。これが集まりまして、日本PTA全国協議会というものを編成いたしております。その中には、各県の理事が一名ずつあり、その理事が出てきて、理事会で総会にかわるべき仕事内容決定いたしております。それから、総会においての役員の改選、予算の審議、あるいは決算、事業計画等の審議は、各府県のPTAの会員十万人に対して一人の代議員が出てきておりますが、それが総会を構成してその内容を審議いたしております。PTAの本部には、会長のほかに、本部の副会長が二名、それから地区の副会長が八名おり、地区の副会長と申しますのは、各ブロックに一名ずつで、それに会計、書記、これだけがおります。会長、副会長、会計、書記は、総会におきまして、地方から出てきた代議員によって選出せられ、それから、地区の副会長は、そのブロックにおいて選出されまして、八名のうち四名が二年ごとに改選されます。仕事内容は、各単位PTAが行なっておりますと同じような悩みの問題、あるいは国に帰って教育関係法律を制定していただくとかあるいは教育予算をふやしていくように運動していくこと、もう一つは、国際的な立場から一切のものを超越して日本と各国との友好に努めていくということが大きな目的であります。
  175. 高木松吉

    ○高木委員長代理 現行教科書検定制度について、何かお考えがおありになるでしょうから、お述べになっていただきたい。
  176. 塩沢常信

    ○塩沢証人 教科書検定の問題は、私ども父兄側にとりましては、教育関係はほとんどしろうとなものですから、あまりこまかいことはわかりませんが、ただ、今の教科書が非常に値段が高くて困るとか、転校した場合にこれが間に合わないとか、あるいは子供か一人卒業して次の子供に教科書が使えないとか、そういうような声が全国的に単位のPTAの中に今あるのでございますが、それにはやはりいろいろの理由があると思います。検定制度と申しますと、今の国定かあるいは民編かという問題にかかってくると思いますが、多くのPTAのまとまった意見というものは、千五百万からの会員がございますので、一本になった線というものは出せない。ことに、PTAの組織が父兄先生という関係にありますので、なかなか一本の線は出せない。しかし、その中にはいろいろ声がございまして、洞窟に賛成する向きも多少ございますが、多くはやはり民編という線が非常に強いように思います。
  177. 高木松吉

    ○高木委員長代理 現在発行されている教科書の種類というものは相当多いし、中には内容がほとんど同じようなものがあると賜いているが、証人はこれらに対する考え方はどういうお考えですか。
  178. 塩沢常信

    ○塩沢証人 現在の教科書が多いということは、確かに多いようでございます。私が現に展示会に行ってみましても、種類が非常に多いので、どの本がいいかという選定に非常に苦しむような状態でございます。しかし、教科書がこのように多くなってきたという中には、各教科書会社競争が非常に激甚であったために、その内容国定時代に比べて著しく進歩しているのではないかという感じが見てとられております。それから、展示会を見ましたときに、もう少し本の種類が減らなければ困るのじゃないだろうかという感じがいたしましたが、これは、いろいろの法律その他によって減るべきではなくて、自然に悪書が追放されるという方向に持っていくことが正しいと思っております。
  179. 高木松吉

    ○高木委員長代理 現在の展示会制度ですが、教科書採択上にどういう影響と言いましょうか、実効があるかどうか。これに対する御批判がありましたら、一つ聞かしていただきたい。
  180. 塩沢常信

    ○塩沢証人 教科書の問題は私どもにとりましては非常にむずかしい問題でございまして、私ども父兄には新教育ということがなかなかのみ込めないのです。新教育教科書関係というようなことを考えてみますると、教科書の問題はますますむずかしくなってきます。どの線が正しいのかということに非常に苦しむわけでございます。ただ、私ども父兄立場から言いますと、先ほど申し上げましたように、教科書の種類が少い方がいい。これは、いろいろな理由から見て、たとえば転校した場合に内容が違っておるというようなこと。それから、もう一つ、私の調べたところによりますと、一つ教科書編集方針の中に統一がとれておらないというのか、縦の連絡あるいは横の連絡というものがとれておらない。ある教科書会社の例、たくさんございますが、調べた方に伺ったのですが、国語の四年に出てくる文字が、同じ二年の社会科の本に出てくるというような、各学科と学科との連絡がとれておらない。それから、各会社において一年間にやるべき学科の内容はきまっておりますが、それが一学期か二字期か三学期かわからしない。それが全くまちまちのために、他に転校して行った場合に、教科書内容で子供か非常に困るということが父兄の中から出ております。教科書の中の字が一定されておらないということは、ここにたくさんの例が出ておりまして、足という字が、文部省の予定では三年に教えるようになっているようですが、一年の教科書に載っているのは三社、それから二年の上巻に出てくるのが四社、それから五年の下巻に出ているのが一社というようになっております。なお、行政監察委員会の行の字を調べてみましても、文部省では三年で教えるようになっておりますが、三年の上で教えているのが四社、下で教えるのが二社、二年の下で教えるのが三社というような例があるのでございます。ほとんど見ていきますとそういう例が非常に多いので、子供が他の学校に行った場合に、こういう点で非常に困難を感ずるのではないかという感じが非常に強いのであります。これはよその教育委員会調査で出てきたものですが、そういう点で、検定が、何かもう少し一つの基準というものがきまって、その中で大体一学期なら一学期で教えるものはまとまっていくような行き方になった方が都合がいいのではないかというように思っております。
  181. 高木松吉

    ○高木委員長代理 そこで、現在の展示会制度で完全な採択ができますか。
  182. 塩沢常信

    ○塩沢証人 展示会を私は見に行きまして、もっとも、学校のある午前中でしたが、学校の先生方がおいでになっているのは非常に少かったということです。それから、種類が多過ぎて、私自身見るのに困ったという感じ。それから、いらっしゃっている先生で非常に熱心に調べておる先生もございました。その先生に御意見を伺ったのですが、その先生は、地域差あるいは個人差というものを見て本を選ぶことに今の制度が一番いいというようなことを言っておりました。また、それを管理している人に聞きましたら、展示会の中で先生が選ぶ場合、非常に困難らしい。ということは、先生のおいでになるのが非常に少いということ。それから、常設してある展示会の中に先生の来ないのが多い。常設の展示会は大した効果はないという感じがいたしまして、展示会はもっと何らかの方法を考えなければいけないのじゃないかというふうに思っております。
  183. 高木松吉

    ○高木委員長代理 教科書採択についてとかくのうわさがあると聞いているが、そういう事実はございますか。ございましたら、具体的な事実をあげて説明していただきたいと思います。
  184. 塩沢常信

    ○塩沢証人 教科書採択につきましては、私どもPTAの役員などにはそういうことがなかなか耳に入らないのであります。ただ、いろいろなうわさを耳にする。私どもの知っているものの中に、たとえば教科書の売り込みに先生方が金品の贈与を受けた、あるいは本を採用するに当ってそういうことを受けたということを一部聞いておりますので、それは鹿児島県のPTAの会長からの話でございましたが、刑事事件になっているという話です。それから、山梨県の方で、そういう問題で、昨年でしたか、新聞にも大勢の先生の名前が出ているというような、表面に現われたものしか私ども伺っておりません。
  185. 高木松吉

    ○高木委員長代理 教科書の価格は高いとお思いになりますか、それとも安いとお思いになりますか。
  186. 塩沢常信

    ○塩沢証人 教科書の価格ということは非常に問題でありまして、教科書の値段を批判します場合に、よく私どもは聞くのであります。単行本、雑誌に比べれば非常に安いということを聞くのであります。しかし、私は、教科書が単行本、雑誌と比較されるほど商品化しているところに問題があるのじゃないだろうかという感じがいたしました。私ども父兄立場から申しますならば、教科書の値段がもっと下ってほしい。それは、現在の教科書の販売の制度というか、販売競争に基くところの販売政策の上に使わるべき費用、あるいは宣伝というようなものが加味されて非常に高くなっているじゃないか。そういうものが除かれるならば一割ないし二割の値下げができるのじゃないかということが感ぜられるし、また父兄はそれを願っているわけであります。
  187. 高木松吉

    ○高木委員長代理 教科書内容は公正な立場を保持しているとお考えでありますかどうか。なかなかむずかしい問題でありますが……。
  188. 塩沢常信

    ○塩沢証人 教科書内容の問題につきましては、まだ会員方からいろいろの批判を聞いたこともございません。ワーク・ブックに対しましては、国会の問題になっているようなものも聞いていますが、教科書自体については、内容については何も聞いておりません。私ども見ただけでも、さほど感じた教科書は使っておりません。
  189. 高木松吉

    ○高木委員長代理 委員長よりの尋問はこれで一応終了いたしました。  これより委員諸君の発言を許します。本会議関係も考慮いたしまして、四時半ころまでに尋問を終了いたしたいと思いまするから、きわめて簡単に皆さんにお願いいたします。高津君。
  190. 高津正道

    ○高津委員 お尋ねいたしますが、価格を一割、二割下げる余地があろう、下げた力がよかろう、こういう二つの御意見がありましたが、それは、国庫の財政的措置を含めておっしゃっているのですか、それらを除いて業者の中でそれができるだろう、こういう御意見でありましょうか。
  191. 塩沢常信

    ○塩沢証人 私の申し上げましたのは、たとえば一年生に対して国が無償で教科書を贈ってお祝いしてやるというような制度が設けられておったのでありますが、内閣がかわり文部大臣がかわったりしますと、それが中止されたり、継続されたりすることがある。一たん決定したら、そのままに国は実行していただきたい。それから、もう一つ教科書の買えない準生活保護児童、その人たちに対してはぜひ無償でやってほしい。私どもは、ほんとうは、義務教育無償の線で、使う教科書を国家で全部出していただきたいというのが念願でございますが、ただ、国家財政のこともあるだろうという私どもの考え方から、無償の線に進む第一歩として価格を下げてほしい。しかも、その価格の下げ方に対しては、教科書会社の方のいろいろのそういう節納によって、無理のない下げ方をしていただきたいということを申し上げたい。
  192. 高津正道

    ○高津委員 その小中学校教科書の出版会社が九十幾つありますけれども、あらゆる産業と同じように、ここにおいても大手筋の少数の人が九割くらい出しているのであります。それで、その中の一番有力なるナンバー・ワンが、自分のうちの会社の現役の取締役であり、自分会社の株を現在一万八千五百株も持っておるというその者を、文部省のいわゆる中央教育審議会の委員に送っておるのであります。こういうことは不公正取引になろうというので、本員は大いに問題として、どうしてもやめてもらわねばならぬという見解を持っております。だんだんこの問題が大きくなるだろうと思う。学者を呼ぶと、その場合に非常に臆病になって、何ともよう言わないのでありますが、あなたは、こういうようなことはやめた方がいいであろうという、そういう考えに御同意下さいましょうか。こういう問い方よりも、やめた方がいいとお考えでございましょうか。
  193. 塩沢常信

    ○塩沢証人 私ども、そういうことはよく存じませんが、もし教科書を作る会社の者が中央教育審議会の中におるということになると、とかくの疑惑は免れぬので、やはりそれは避けた方がいいというふうに考えます。
  194. 高津正道

    ○高津委員 現在、調査員と申しますか、(「誘導尋問をしてはいかぬよ」と呼が者あり)——誘導尋問はしておらぬ。全国のPTAの会長だよ。——千二百名ないし千四百名という調査員があって、そうしてそれが検定をパスするかしないかをきめるのでありますが、それの任命権を文部官僚がみんな握っておりますから、日教組に入っておる者は、これはどうもアクチヴで困るから、それを除外しようというと、まるで違った調査員が構成される。この調査員という制度によって、時の政府が思うように動かせるようになっておると私は思うので、そこに何らかの規制をしなければいかぬだろう、——中央労働委員会の場合は、労働者側、使用者側、第三者と、そういうようなワクがあるわけでありますが、ずいぶんそこは勝手にできておって、今のままでも国定と同じような方向へあやつろうと思えばあやつれる、こういうような欠陥がありと思うのでありますが、そういうように政府だけでもやれるようになっておるということを、塩沢証人はどのようにお考えでありましょうか。
  195. 塩沢常信

    ○塩沢証人 今の制度がどういうことになっているか、私どもはよく存じませんけれども、私どもは、いずれの場合でも、いわゆる国家の権力者がその自分の考え方を教科書に盛り込むようなことはないようにしなければいけないということが、私どもの常に考えているところでございます。従って、私どもが非常に残念に思いますのは、たとえば中教審なりあるいは教科書のそういう問題に父兄の代表が加わっておらないというのが非常に残念に思うのでありますが、左せず右せず中道を歩んでいただくことが、われわれの願いであります。
  196. 高津正道

    ○高津委員 教科書の出版も、商業採算のもとにやれるように、資本主義制度のもとだからやらせているのでありまして、政府の法的措置以外の商業プロパーといいますか、商業だけの採算の中で、これは教科書だ、一割安くしたらよかろう、二割安くしたらよかろう、こう言ってみな希望的にいろいろ迫られるのでありますが、それでいいのかどうか。私は別に反対じゃないのですよ。しかし、そんなことを言ったところで実現はできないのです。法律で押える以外は、道徳的にもっと下げられよう下げられようと言って実際下っても、また上ってしまうと思うのです。法律でどうするというならいいけれども、道義心で、これは教科書だ、もうけるなと言っても、一時は下るであろうが、あらゆる産業、砂糖でもセメントでも、あらゆるものがみな、大手筋がほんとうに握ったら、独占価格を遠慮なくやるから、法律でいく以外にないのですよ。それで、みんな精神主義で議論をなさっておられるが、あなたは、法律で何とかせよ、一、二割下げるような措置を講ぜよ、こういうお説なんでしょうか。
  197. 塩沢常信

    ○塩沢証人 私ども父兄は、法律で値段を下げるとか、そういうようなことは問題にしておらないのであります。私どもは、教科書が高いのじゃなくて、教科書も高いと申し上げたい。結局、私ども父兄の負担しております教育費というものが非常にかさんでいる。従って、給食費も下げてほしい、教科書も下げてほしい、あるいは参考書も安く買えるようにしていただきたいということでございまして、法律によって下げてくれとか何とかいうかたいものじゃなくて、でき得る限りいろいろな冗費を省く点によって下げていただきたいということであります。
  198. 高木松吉

    ○高木委員長代理 塩沢証人に対する尋問はこれで終了いたしました。  証人には御苦労でありました。  次会は公報をもってお知らせいたします。  本日はこれで散会いたします。    午後四時二十七分散会