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鮎川参考人 私は今三宅さんと
本多さんの御議論を静かに聞きまして、第三者として
意見を申します。三宅さんの言われる
縦貫道路に肋骨をつけるということは、私は非常におもしろいと思います。その肋骨をつけるということは、多元的な問題を解決する
一つの
方法だと思うのです。
本多さんの言われるのは、
縦貫道路だけのような話でありますが、そうじゃないと思うのです。それがやはりあってどうなるかということを
考えないと、三宅さんのおっしゃることには合わぬようにも私は感じております。でありますが、今の五島慶太さんの
計画しておられますような、
東京付近から江ノ島まで行くというターンパイクのようなものは、そろ
ばん勘定は、これは民間企業としてのそろ
ばん勘定であるし、
日本全体の
国民所得を
考える問題としては私は少いと思うのです。その
意味では、私設の会社がやる場合と国がやる場合では、
経済の立て方が、いわゆる普通のそろ
ばんとは違って出ると思うのです。ごく平易に申しますと、たとえば水車を
一つどうしてもつぶさなければならぬが、今日の
情勢からいうと、その水車を
一つつぶすために一億円の賠償をしなければならぬということのために、非常に高くかかるからして、これはだめだ、
経済価値はないからやめるということがよくあるのです。私はそれは違うと思うのです。それはなぜかならば、もしも
一つの電力会社が、民間の金を集めてその株式の配当なり
利益をその線だけで、その面でもって解決しようとするならば、その水車
一つつぶすのが非常に大きな問題になると思うのです。しかしながら国全体としてこれを
考えた場合には、
経済が違ってくると思うのです。それはお互いが、甲の人は非常にもうけて、不当なもうけをする。乙の大衆には、非常なそれが税金なり何なりとなって害を与えるというものでも、それすらも、やってあとの効果がどうかということをそろ
ばんに入れないと、それだけの問題では、私はいわゆる国としての
経済を論じるわけにいかぬと思うのです。いつも間違いますのは、私鉄等で
一つの株式会社をこしらえて株式の
利益をはかり、あるいは社債の
利益をはかるという
やり方と、そういうものは損があっても全体としてどのくらいもうかるかということは、最後の締め上げを見ぬとわからぬと私は思うのです。ごく極端に申しますと、商品を
一つ作りまして、それをお互いが共食いで買ったり売ったりするという場合には、あるいは値段が高いと消費者が損をする場合、しかしながらこれは製造家はもうけるが、国としては損をしてももうけてもこれは同じことです。それはお互いが損をした、得をしたというのでは、国全体の冨の上からいいますと何も変っておらない。左の手で持っておるものを、右の手にやったというにすぎない。しかしながらもしこれが外国貿易になった場合に、安売りをして、そうして一たん安く出たものは、他国の人がもうけて
日本人が損をする場合には、これは大きな問題です。海外貿易をやるような場合と、お互いが国内で商品をやりとりする場合と、これは非常なセンスが違ってくると思うのです。そういうことはよくあるです。この
道路の問題も同様に、
国道式の問題で
考えるかどうかということになりますと、私は今ちょうど
研究をもう少し進めてみたいと思うて、今の
縦貫道路のような問題がどういうふうになるだろうかというのを、できるだけ勉強しようと今やっておりますが、おそらくこれは現在のものに協力ができはせんかと思うております。それはなぜかというと、いわゆる
国土の
開発——毎年水害のために非常な
日本は損をしておる。これは自分自身が、一人々々がどういうふうになるかということを
考えないものですから、九州あたりで毎年水害になっても、
東京の人はあまり
考えないです。それは実にそういうものです。だけ
ども国全体から
考えると、非常な大きな目に見えぬ損をしておるのです。そういうものはやむを得ないとして臨時出費をしますけれ
ども、実は非常な損をしておるのです。そういうものを根本的になくす、半減にするとか、あるいは少くとも三分の一に減ずるということができるならば、これは非常に大きな副産物ができるのです。しかしながらそれは
一つの
水力電気会社がやるとかいうことになると、
経済の立て方が違いますから、ディメンションが違ってくるわけですから、
考え方が、すでにそろ
ばんの入れ方が違っておるのですから、損益は別の式が立つわけです。それでありますから、私は今の肋骨問題なんかになると、治山治水という問題が
一つ出てくると思うのです。現在の
道路を改修したからといって、それは治山治水のためには何ら貢献をする力はない。あるいは途中でいろいろなことをやりましても、それは上から非常に水害があって、今のような
情勢でありますと、砂防工事ということは、徳川時代からいって、非常に今日ではネグレクトされておるために、毎年大きな洪水が出て、決壊しておるようなわけであります。これは根本から
一つ治めていかなければならぬ、そういうことを解決するには、この肋骨問題というのは非常に私は役に立つと思う。これは、
自動車の
交通量でもって今あるものを動かすという問題とは全く別の問題で、そういうことは、現在の道を幾らか便利にしたのでは解決はつかぬ。源を治めるのでなければならぬ。そういう
意味において、
縦貫道路を持っていって肋骨をつなぐことは、その方からいうと大きな副産物があると私は思う。おそらくその方が大きいのじゃないか。
自動車の
交通量を
考えて出す結果と、損益の問題と、
ほんとうにやってみたら何倍かその方がもうかりはせぬか。これは答えを出すことは、皆さんが首肯されるようなソリューションを与えることは非常に困難です。しかし不可能ではない。非常に高度な方程式を使えば必ず出ることであります。今のアメリカでやるようなコンピューターを使って、
電気の機械を使いますれば、どのくらい損をした得をしたということは、二時間、三時間でわかる。それを今までのそろ
ばんや筆算でやるならば、おそらく六カ月か八ヵ月かかる。それが二時間、三時間でできる機械がありますから、
多元方程式を解くことは割合楽になってきた。その点やってみていいことです。だから
一つのプランを作ってみて、それにいろいろな人が携わって、それからディライブすることによって、必ずしもできぬことはない。全体の人がどのくらい
利益を得るか、治山治水によってどのくらいの川をせきとめることができるか、あるいはダムができれば、
水力電気自体としてはもうからぬでも、それによってほかでもうかる。それは
国民所得の上に全部かかる。
国民所得というものを
一つのべースに置いて、それがもうかるか損をするかということを私は
考えなければならぬ。皆さんがこうやってやられるのも、
地方的な問題じゃないと思う。そういう場合には、
自動車の
交通をやっておる人のインテレストを
考えるべきではない。
日本の全体がどのくらいそれによって
利益するかということをやるのが、この問題じゃないかと思うのです。私の今まで申し上げたのは、そういう問題じゃないのです。ただ
一つの
交通の問題で現在のものをどうするかということだけでは、これは平面的の問題で、立面的の感じじゃない。ですから、今言うたようなことで、方程式は非常に複雑になって、多元的になる。それを解決する場合には今の方程式じゃいかぬと私は思う。それはよほど
考え方を深く
考えていただきたい。そういうことをやるならば、もう少し
研究が要るのじゃないかということを申し上げるわけです。私は今実は、自分の方ではなかなか経費がかかって容易にできませんから、そういうものがないのです。森林原野を開拓するのと治山治水をやるのと、つまり寒冷地を耕して幾らかでも麦をよけい作るということのためにやるのと、現在
交通量の多いところをやるのは、これは全然無縁の問題です。これは比べることは至ってむずかしいと思う。比べられぬ問題だと思う。極端に言えば、おもりと長さを比べるようなものじゃないかと私は思う。これはよほど頭の整理をしてかからぬと混雑してしまっていかぬと思う。普通の常識からは、なかなか私は割り切れぬ問題だと思う。非常に複雑になって参ります。ですから今の治山治水、これが一番大きい。何としても大きい。それで山のてっぺんの方に近いところをやれば、今、未利用の山林というものを
開発して、そうしてまた植林ができます。今のようなことでもって、この小さい角度では、なかなか山林を開拓するということは大へんな経費がかかっていかんことになる。これは今の
自動車の
交通量からは出ない問題だと思う。そういうものをやるには、まず今の川を伝って、川を修復していくということは、百年河清を持つことになりはしないか。何らか新しい
交通網をこしらえる必要がある。
なお私が申し上げたいのは、まず耕地をつぶしちゃいかんとか、田を何するのはいかんという
考えはやめていただきたい。これは田をつぶそうが、あるいは現在の耕地をつぶしてしまっても、そのためにそれ以上の効果が上ればいいじゃないか。必ずしもイデオロギーにとらわれる必要はないと私は思うのです。米が足りなければ外国からもとる
方法はありますから、それにはこちらの耕地なり、その他治山治水をよくして、それによってもうけたのでカバーすればいいわけですから、必ずしも鎖国的のことを
考える必要はないと私は思う。だからそういうふうな、絶対に田をつぶさないというような、あまりかたいことをお
考えにならないで、つぶしてもかまわぬ、ときにはつぶしてしまってもやむを得ない。
経済にその方が非常に得だからやるということでないと、どうしてもつぶしちゃいかぬということは私は少し
考え過ぎじゃないか、こう私は思う。よけいなことを申し上げました。