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大久保参考人 私は昨年の十二月に神戸を出帆いたしましたぶらじる丸に便乗いたしまして、
移民諸君とともに
アマゾンに参りまして、
アマゾン及び南
ブラジル地帯、さらにボリビア、パラグアイ、アルゼンチンの
日本人植民地を視察いたしまして、この六月下旬にこちらに帰って参ったのであります。
特に現地に参りまして、私の痛感いたしましたことは、今までの視察者の方は、ほとんどかけ足で各
植民地をお回りになっておるようでありますので、私はむしろ重点的に
植民地を選定して、その実態を
調査いたしたいという計画で参ったのであります。現地に入ってみますと、
植民地内部に足を踏み入れた人は、内地からたくさんの視察者が今日まで見えたけれども、私が初めてである、こういうことを
移民諸君から聞いたのであります。私が回りました各
植民地はそういった状態で、
移民の
生活をしております家に実際に寝泊りをしてその実態を調べてきたわけであります。
その
植民地の概観を申し上げますと、先ほど
上塚さんからお話のように、
アマゾンは一昨年の暮れからようやく入りかけたばかりでありまして、まだ一つの試験期間だと私は見ております。現地におきましては、いずれの
場所にも
相当むずかしい問題があるように私は見ております。この点については後ほど申し上げます。南
ブラジルは、パラナ、
サンパウロ、リオデジャネイロ州の
日本人農民の
生活の実態に触れてきたのでありますが、先ほどお話のように、現地
ブラジルは悪性インフレに悩まされておりますが、その一面農産物は割合相場が安くなっております。このため一般に農家の
生活は必ずしも楽であるとは言い得ないのであります。特に
サンパウロ州の実態を見てみますと、全
農業生産の六、七〇%は
日本人農民がその実権を持っておりますけれども、どちらかというと現在の段階では、
ブラジルの
農業は投機的な
農業でありまして、無肥料、無灌水でその
土地からとれるものだけをとると、次の新しい
原始林地帯に移っていく、こういう形で経営しております。そのために
農業が非常に不安定である。それから作っております作物の実態を見ますと、品種改良が非常におくれております。そういうような点から見まして、南
ブラジル地帯について現在の
日本の
農業技術を身につけた
人たちが行けば、
サンパウロ州あたりの
農業をさらに
発展させる大きな作用を持つのではないか、こういう点について非常に明るい見通しをつけてきたのであります。
それからボリビアの方に参りますと、ここはまだ試験段階でありまして、昨年の八月、九月に沖縄
移民が約四百名入っております。これが昨年の十月ごろから原因不明の悪疫にかかりまして、約半数の百八十五名が罹病して十四名が死亡する、こういう悲惨事が起っておりまして、現在
植民地をどんどん移動しておりまして、大体今体今月末ごろまでには移動が完了するようであります。
日本人植民地は小森プランとか西川プランとか落合プラン、こういうものが今準備を進められておりますが、これについてはまだ海のものとも山のものとも判断がつかない状態であります。
それからパラグァイにおきましては、
昭和の初期に拓務省がブラ拓に委託をして作りましたコルメーナ
植民地がありますが、このコルメーナの
植民地が、今までの
日本がやってきました南米における
植民地の典型的な姿を持っておると私は考えております。それはコルメーナ
植民地ができましてからすでに三十年近くなっておりますけれども、鉄道沿線に通ずる自動車
道路が今もってできておりません。しかも三十年近い間略奪
農業を続けました結果、一時は生産が上って
生活も非常にゆとりができたのでありますが、現在はだんだんと
土地が荒廃して生産力が低下しております。このために非常に
生活不安が起りつつあります。しかも内地から新しい
移民を入れる
条件もありませんし、結局パラグァイ人の間に一つの離れ小島という形で残されておりますために、
日本人の
生活程度がだんだん低下するにつれて、
日本人は
向うにおります原住民のようにはだしで歩く
生活を覚えて参ります。一方パラグァイ土人の方は
日本人から分化的なものを譲り受けて、彼らはくつをはく
生活を覚えてくる。こういうふうにお互いが作用しながら
日本人全体の
生活程度、文化程度が低下していく、こういうようなことが戦前の
移民政策の典型的な現われとして現在出ておるのであります。この点は
アマゾン移民については十分反省をさせられる問題だと私は考えております。
それからパラグァイの南のチャベス
植民地でありますが、ここは
土地は非常によくて生産力もあるのでありますが、パラグァイ
政府自体が
財政が乏しいために、パラグァイ
政府の援助は受けることができません。従って自力で密林の中に入っておりますために、現在交通の問題でありますとか、医療
施設の問題であるとか、教育の問題であるとか、そういった面に非常な苦しみをなめておるのであります。
アルゼンチンにおきましては、
日本人は大体北部のミシオネス地域で現在マテ茶と紅茶を作って非常に成績を上げております。しかしアンデス山脈のメンドーサにおきましては、主として果樹園を作りまして、ここでは非常に成績をあげておりますが、アルゼンチンとはまだ
移民協定も結んでおりませんし、呼び寄せ以外には入れませんので、アルゼンチンに対する大量
移民ということは、現在では考えられないと思うのであります。
そこで当面の問題であります
アマゾンに話を返しまして、この
アマゾンの問題点でございますが、私が回りました地域において概括的に申し上げますと、先ほど申し上げましたように、試験的な段階でありますために、
アマゾンの各
植民地における苦しみというものは
相当なものであります。しかしこれは試験期としては、あるいは当然であるかもしれませんし、また密林というものになれない、熱帯
農業というものに無経験の者が飛び込まれた以上は、あの程度のものは出てくるのじゃないか。特に内地の開拓農民の
生活の実態と比較いたしましても、気象
条件等の特殊的な
条件はありますにしても、大体同じような苦しみをなめておると私は考えております。特にフィリピンのダバオに、四十年前にマニラ麻を作るために入った人が、ベレンの郊外に一家族、モンテアレグレに一家族、アグアフリアに一家族あります。その
人たちの体験を聞いてみますと、四十年前にダバオに入ったときの
自分たちの
生活条件、入植
条件から考えるならば、現在の
アマゾン移民の
条件は非常にいい、こうい結論を出しております。しかし四十年前のものの考え方と現在のものの考え方、さらに四十年前の
農業技術なり
農業機械の問題、そういうような点から考えまして、四十年前と比べていいからといって、現在の
アマゾン移民のこの苦しみが当然であるということは、私は言い切れないと思うのであります。
特に
アマゾンで考えられます問題は、国内の開拓であるとか、あるいは南
ブラジル開拓におきましては、もしそこがうまく行かなければ、発達した交通網といろいろあります
産業の中に、どんどん逃げ込んでいくことができます。ところが
アマゾンにおいては、一旦入りましたならば簡単にほかに変るということが非常にむずかしいのであります。従って、一たん入りましたところに、低い生産力の
地帯、あるいは
施設の悪いところに入りまして、そのまま居すわるというと、結局
日本人自体の
生活が現地の土人と同じような
生活程度に落ちてしまう。先ほど申し上げましたパラグァイのコルメーナのような状態が、もっとひどい状態で現われるおそれがあるのであります。これを防止していきますためには、どうしても後継部隊をどんどん送っていくということと、さらに必要な
施設を改善するための資本が導入されなければならない、こういうふうに私は考えます。
その具体的な問題を申し上げますと、まず
農業技術の点でございますが、全然熱帯
農業に経験のない者が入りまして、何を、いつまくか、こういうことすらもわかっておりません。幸い
植民地におります
日本人通訳と称する、以前アマゾニア
産業研究所の、高等拓殖
学校を出ましたような人が現地の指導者として指導しておりますので、割合うまくいってはおりますけれども、実際に農民の話を聞いてみますと、
自分たちの
農業技術の先生は現地のインデアンで、インデアンに種まきの時期やどういうものをまくかというようなことを聞きながら初めはやっていかなければならない、こういうようなことを言っております。それから
上塚さんの話にもありましたように、一体何を作れば食えるのか、こういう点が全然わかっておりません。戦前に海興でありますとか、あるいは南拓その他YMCA等のいろいろな植民が
アマゾン地域に入っていったのでありますが、その大
部分何を作ったら
生活ができるかという苦しみの中に耐え切れないで逃げ出したり、あるいは
相当な犠牲者がその間に出ておるのであります。現在
コショウで有名なトメヤスの組合を見ましても、一番よく入りましたときには三百五十家族の
日本人が入っておったのでありますが、これが米を作ってみたり、カカオを作ってみたり、あるいは野菜を作ってみたりしてどうしてもやっていけない。そのうちに集団的なマレッタであるとか黄熱病によって多数の犠牲者が出る。そうしてついにいたたまれなくなって大
部分の人が逃げ出して、約六十家族余りの人が残って、その
人たちが今日の
コショウというものを発見して育てていったわけであります。従って六十家族の成功の裏には約三百家族の犠牲というものが、長年にわたって払われておるという事実であります。
それからその当時ありましたモンテアレグレの南拓の
植民地を見ましても、現在残っておりますのはたった一家族しか残っておりません。
アマゾン地域に散っていきました
人たちは、現地のインデアンの女をめとったりいたしまして、子供の教育もできないままにほとんど土人化している状態が現われております。この点につきまして、特に営農指導面においては、
相当な
施設を考えていかなければならないと思います。
さらに加工技術及び
施設の問題であります。これは現在ベレン近郊では
相当野菜の生産が豊富になってきております。
アマゾン地域の住民は大
部分が土人でありまして、点々とあります都市に若干白人がいる程度でありますために、野菜の消費量は至って少いのであります。従って、ベレンにおいてさえもすでに過剰生産の気味がある。ある
移民は、
自分のトマトが生産過剰になってきているので、何とかしてトマト・ケチャップを作りたい。しかしそれを勉強するための資料もなければ、技術もない、
施設を手に入れようがない、どうしたらいいのだ、こういうような苦しみを述べておったのであります。こういう点について、将来加工技術なり加工
施設を送り込んでいかなければならない。
もう一つは、
農業の機械化の問題であります。現在の
アマゾン移民はくわ一丁かついで行く、いわゆる裸
移民であります。ところがあの密林
地帯の
農業開発というものには速度が必要でありまして、くわ一丁の開拓を続けていきますと、密林であるとか、雑草であるとか、そういったような気象
条件に伴う阻害がどんどん進んで参ります。そういたしますと、せっかく勤労精神を発揮して戦っていっても、結論的にはそういった
アマゾンの気象
条件によって
農業が押えつけられてしまう、こういうようなことが起ります。さらに各
植民地を回ってみますと、大ていの
植民地で一人あるいは二人の犠牲者が出ております。それは
山切り、ふなれな密林の
伐採作業のために死んだり大けがをして動けなくなった人がおります。こういう点にしましても、
農業機械化をはかれば、その犠牲者は最少限に防がれていくのじゃないか。こういったような
施設が必要でありますが、今もお話がありましたように、
ブラジル自体が一九五五
年度においては、
予算の一律三割の削減をやっております。私がアグアフリアに参りましたときも、すでに
植民地の職員の首切りが始まっておりました。こういうような状態において、
ブラジル連邦政府側の
植民地において、これらの
農業技術、営農指導、加工の問題、
農業機械化等への資金の投入というようなことは、とうてい考え得られないのではないか、こういうふうに考えたのであります。従いましてこれ以上
移民を
アマゾンに送るといたしますならば、どうしても受け入れ体制の強化をやっていただきたい。
そのために第一に考えなければならないのは、
植民地の
土地条件の選定の問題であります。これは現在の
連邦政府植民地は、
農業の立地
条件というよりも、
ブラジル側の行政的な要求によって作られた
植民地がほとんどであります。従って
場所によりますと非常に土質が悪くて、生産力の上らないところがあります。そういうような
農業に適しないようなところでさえも、
向う側は
植民地として入れる場合があります。こういうようなところに大量に
移民を送ることはとうてい考えられないのでありまして、今後
移民を入れますためには、われわれの方でその立地
条件を十分考えて、適地に入れていくような体制を作っていかなければならない。
それからもう一つは、指導農場の設置の問題であります。これは
ブラジル連邦政府に対して、こちら側で
日本人の技術者を送る等のことは思いもよらぬことであります。従って私が現地の
人たちといろいろ研究いたしました結論は、
アマゾン地域の中間
地帯に農場を設定いたしまして、ちょうどこれは
サンパウロのカンピナスにおきます東山農場のような形に持っていって、農場自体の自立経営ができ、その農場経営の中において、いろいろ品種改善の問題であるとか、営農改善の問題であるとか、あるいはさらに成績が上っていきますれば、
アマゾンに入っていく青年たちの訓練所をも併設する。こういう形に持っていって、その模範農場の経営と、
アマゾンにおります
日本移民との結びつきを考えていきますならば、非常にうまくいくのではないか、こういうふうに考えております。
もう一つ、
日本の
移民を前進させますためには、今申しますように、海外の受け入れ体制を強化するということがもちろん必要でありますが、もう一つ国内の体制を強化していただきたい。国内の募集選考の業務は、
海外協会
連合会と府県の
海外協会が行なっております。
海外協会
連合会には現在
相当の補助も行っておるようでありますが、府県段階には全然補助が来ておりませんので、府県段階では非常に仕事の推進に困っておるのであります。その結果どういうことが起きるかといいますと、私が一緒に参りました
移民の実態
調査をやってみますと、ある人は
移民の許可を受ける際に五万円の寄付金を
海外協会に強要された。ある人は許可を受けるために、当局に対して二十五万円も使わなければならなかった、こういうような不祥事が起ってきておるのであります。
移民の募集選考ということは非常に重大な仕事であるにもかかわらず、それが任意団体にまかされておる。その
財政的な基礎は何ら考えられていない。上からただ仕事だけ押しつけられておる。こういうことでは、内地の募集選考がうまくいくということは考えられないのであります。
結論的に申しますと、
アマゾンの資源は豊富なものがある。それから気象
条件は、私が参りましたのはちょうど真夏でありましたけれども、その
条件は私の体験をもってすれば、そう内地で想像するほどひどいものではない。十分
生活に耐え、労働に耐えるだけの
条件である。そういう点から見ましても、
アマゾン地帯は今後世界の宝庫として、無限の資本と無限の労働力を要求しております。こういう点において私は非常に将来性はある、ただそれを前進させるためには、先ほど申し上げましたようないろいろな
条件を整えた上で、やっていただかなければならないと考えております。
最後に今後の
移民の問題について私の考えておりますところを少し申し上げさせていただきたいと思います。それはリオデジャネイロで、CIMEと
向うで言っておりますが、欧州
移民機構の問題を
調査いたしました。ここで非常に私が感じましたのは、国連から派生いたしましたこの欧州
移民機構が、
関係国の出資金によって
移民の経費をこの団体が負担をして、どんどん送り出しておるという事実であります。
ブラジルにおきましても、一九五三年には一万二千二十九名、四年には一万六千百六十五名送り出しております。それから一九五五
年度でこの欧州
移民機構の事業計画を見ますと、年間の
予算が四千五百万ドルで、十三万五千人の
移民を送り出すようになっております。この
移民に対しては、渡航費のほとんど全額をこの団体で持ちまして、本人はわずか一割程度の経費しか要らないわけであります。こういった国連がやっております欧州
移民機構のワクを拡大して、アジア民族もその中に含めていただくような外交
折衝をやっていただくことが必要ではないか。特に昨
年度の
ブラジル移民の実態を見てみますと、
農業移民として入った者はわずかに一千百二十八名しかありません。あとは工業
移民とか、呼び寄せ
移民になっております。従って
ブラジル政府が
農業移民を要求する限りにおいては、
日本はその面においてこの欧洲
移民機構というものを地域を拡大してもらう要求を出しても、決して
ブラジルに対してもマイナスにならない、こう考えております。
それから現在ローマにありますカトリックの法王庁において
移民の
委員会を作って、要するに人口過剰
地帯の人口を未
開発地に送るような運動を起しております。御
承知のように南米地域はカトリック教を基礎にしておりますので、このカトリックの
移民委員会等に対する働きかけをもっと積極的にやっていただくならば、
日本の
移民の将来はもっと
発展するのじゃないか。
それからもう一つ、
日本自体も
移民協定を積極的に講じていただきたい。現在
移民協定を結んでおりますのは、イタリアとかオランダに限られております。しかしヨーロッパ
移民の実情を調べてみますと、ドイツにおきましては、国内で非常に労働
条件がいいために、
ブラジルの
移民の収入の倍くらいの収入があります。このためにドイツ人はほとんど
移民に行く必要がない。それからオランダ、オーストリアは現在完全雇用が十分できておるために、
移民ということを考える必要がない。こういうような状態が現われておりまして、現在南米
移民はポルトガルとかイタリアというような国に限られておるようであります。こういう点から見ましても、国内の労働情勢というようなものを考えまして、結局外交的な政策をもっと積極的にやっていただくことが、
移民発展の前提になるのではないかということであります。
もう一つは貿易と
移民との
関係でありますが、現在南米諸国は、第二次
大戦中において経済力、政治的な地位が非常に高まったために、最近では国家主義的な意識が非常に強くなって、国内の必需品は国内で生産するという
傾向が現われております。一例をあげますならば、ボリビアのごときは、国内で生産いたします工業製品の規格にきまったものは、輸入を禁止しております。
日本人の小森という人が現在くつ下を作っておりますが、その工場も見ました。その小森さんの工場で作っておりますくつ下の規格は、全部輸入禁止になってきております。従って、その工場はわずか百台の機械しか持っておりませんけれども、独占的な価格で売り出していける、こういうような強みがあるわけであります。そこで私は考えますのは、
移民にぜひ機械を一台ずつ持っていくような態勢にしていただきたい。そうすると、
アマゾンに二千家族行くと仮定にするならば、二千台の
農業機械が入っていく。そうすると、その二千台の修理であるとか、いろいろな工場がそれに付帯してできることになると私は考えます。
それからもう一つは、
移民の
農業を基礎とした工業化をやっていただきたい。
サンパウロ州で私が痛感いたしましたのは、極端な例をあげますと、養蚕の九割九分は
日本人やがっております。ところが、
日本人が絹織物をやっております機械台数はわずかに六十四台でありまして、九割九分は、トルコ人であるとか、ユダヤ人が加工をやっております。そのほかの、綿にしましても、あるいは落花生にしましても、せっかく
日本人がその七、八割は作っておりながら、かんじんの加工の段階にきますと、外人資本に押えられて、思うように引きずり回されておる、こういうことであります。それからチャベスの例をとりますと、パラグァイのチャベスに参りましたときに、今チャベスでは綿花を作っておりますが、エンカルナシオンの製綿工場の主人が参りまして、
日本人が綿を作っておるのを見て、非常に手をたたいて喜んだ。つまり、
日本人が綿を作ってくれれば
自分の工場がうんともうかるのだ、こういって喜んで帰ったといっております。こういう点から見ましても、
日本人の非常な努力によって作り上げた農産品を中心とする工業化をぜひはからなければならない。
もう一つは文化的な政策でありまして、
日本のいろいろ優秀性が伝えられておりますけれども、現地に入ります
日本文化というものは、非常に低俗なものばかりであります。最近
サンパウロ州にパチンコが入って参りましたし、
日本人の店でかける音楽といえば、お富さんとかいうような歌が盛んにはやっております。こういう低俗な文化を幾ら紹介いたしましても、
日本のほんとうの優秀性というものは認められない。そのためには、私は現地にぜひ図書館を作っていただきたい。それは
日本移民がこの図書館によって勉強して
自分の
農業経営を向上させると同時に、英文の
日本の文献を送りますならば、外人が
日本の優秀な技術であるとか機械というものに着目をしてくると思います。その点はアメリカが非常に合理的な政策をとっております。こういう点も大いに私は進めていただきたいと考えるのであります。
結論的に申しますと、
移民業務は、窓口は外務省であってよいと思いますけれども、
移民の本質的な問題については、
移民政策と貿易政策、文化政策、こういうものが総合的に一貫されて成り立つものであって、これらの点について今後の考え方を国内においても一そう
発展させていただきたい、このように祈念するものであります。