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植原委員長 それならばこれから御
報告申し上げますが、
バンドン会議は先月の十人目に
バンドンで開かれました。出席した国は
主催国の五カ国、
パキスタン、
インド、
ビルマ、
セイロン、
インドネシア、それと
アジア、
アフリカにおける二十四九国、合せて二十九カ国でありました。私は
国際会議をのぞいたこともたびたびありますが、今度の
国際会議ほど異彩のあるものにぶつかったことはありません。と申しまするのは、
アジア、
アフリカの人民は御
承知の
通り有色人種であって、しかも
世界の人口の約三分の二を代表するところの二十九カ国、大きい国は中共、
インド、
パキスタンを主といたしまして
アフリカのイエーメン、
ゴールド・コースト等の
国々まで集まったのでありますから、
有色人種の
世界の
一大国際会議と申すべき
光景で、おそらく
人類の
歴史が始まって以来かかる
会議の開かれたことはこれが初めてでありましょう。ある
意味からいって
人類の
歴史の新しい一ページを作るもの、これによって、過去においてはほとんど
世界を支配する者は
欧米の
白色人種のように思われたのでありますが、この
バンドン会議の
光景を見ますると、偉大なる
有色人種の
会議だ、
アジア、
アフリカの
国民は覚醒したのだ、ここで
アジア、
アフリカの
諸国のみならず、
世界のすべての
人類の
歴史において新しい一ページが開かれるのではないかというような印象を受けました。その多くは、第二次
世界戦争以前においては
植民地として取り扱われておった
国々なのであります。それが
独立国、あるいは半
独立国の形で立ち上ってここに
一大国際会議を開くに至ったということは、まさに
世界の壮観だとも考えられました。この
会議について
アジア、
アフリカのすべての国は、非常な興味を持っておったに違いないですけれども、
欧米諸国はさらにこの
会議に対して非常な
関心を有しておったように私には感ぜられました。
アジア、
アフリカ以外の
世界のあらゆる国は、この
会議の劈頭においてこの
会議に対して祝電を送ってよこしたばかりでなく、
世界各国から集まった
新聞記者などの
光景を見ますると、
アジア、
アフリカの
諸国自体がこれに対して
関心を持っておったよりは、
欧米諸国の方が強い
関心を持ったのではないかというような
感じさえ与えられるようでありました。と申すのは、この
会議において、
世界がはなはだしく緊張している今日、たとい国は小なりといえども二十九カ国、
世界の
人類の頭数からいえば約三分の二にも当る
有色人種の国家が一つの
ブロックを作って他の
ブロックに対抗するようなことになったらば、
世界の緊張はゆるめられずしてかえって強められるじゃないかというような
感じを持ったのではなかろうかという疑問さえあったのであります。
そこで
会議の実際は何が
目的か一どこにこの
会議を導いていくのであるかということについては、私
自身が第一に抱いた
関心事でありました。この
会議がさきに申したボゴールに集まった五カ国の
主催によって開かれたことは明らかだが、一昨年の
コロンボ会議の継続であるかどうか、そのきめた
目的は何であったかとせんさくしてみましても、はっきりいたしません。
アジア諸国の
友好関係を作り、できるだけ互いに協力するような態勢を作ろうとするようにも思われた。そして
各国がそれぞれ自国の立場や、その考えていることを率直に述べて、互いによりよく了解し、より強く協力するためだというふうに思われました。けれども、御
承知の
通りこの
会議周辺に前から浮んでおりました
空気は、決して楽観すべきものではなかった。
パレスタインの問題が出たらどうなるか、
台湾海峡の問題がどう取り扱われるかというような
空気が会場の内外に浮遊しておりました。
パレスタインの問題が出たならば、
アラブ民族と
ユダヤ民族と、
ユダヤ民族を支持する
英米等との国のあつれきがかなり強く出てきやせんか、また
台湾問題はどうかというような
感じもありました。また
コロンボ会議の
関係から
インドの
ネールや
周恩来がいわゆる平和五原則なるものを提出したらば、その
審議はまた荒れるのではないかというような
感じもありました。そういうような点から考えまして、御
承知の
通りに大きい国として
ネールと
パキスタンを代表しておる首相のモハメッド・アリとは決して平和に済まないかもしれぬ。また
周恩来と、フィリピンがその
雄弁をもって鳴っておる
ロムロを特に国務大臣に採用した、その
ロムロと
台湾海峡の問題などで論争したならば、かなり激しい
議論になって、この
会議は荒れるじゃないかというふうにも
感じられたのであります。ところが
会議というものは妙なもので、
会議は十八日に始
まりました。
最初各国代表者が順次
演説をするはずでありましたが、その前夜
主催国がにわかに
会議を開いて、十人目の
議事の
運営を全く変えたのです。十八日に
演説する者は
スカルノ大統領と
総理大臣のアリ・サストロアミジヨヨだけ、
各国はその
演説の草案を提出してこれを記録にとどめる。そして
各国の
代表者は
演説をしないということにきめて、これを通告したのであります。非常に妙な
状態だと思いました。これは推測でありますからそれがほんとうであるかどうかわかりませんが、集まった
各国の
代表者の顔ぶれと
空気とを見て、これが思い思いの
演説をしておったらば、その
演説が端緒になってあるいは
会議を紛糾せしめはせぬかということを、
ネールなどが考えたではなかろうか。
ネールはみずから五カ国の
主導者をもって
任ずるもの。私は
ネールはこれを心配して
議事運営をにわかに変更したものじゃないかというような
感じを持ちました。ところが十八日になってそのことを
各国に通告したところが、
各国はみな
反対した。どうしても用意したところの
演説だからするということで、結局
主催国の定めた
議事運営の方法は、また逆戻りをして、
各国とも
演説をするということになったのです。そういうことになったから十八日の開会の時刻も遅れたし、当りまえで言えば十八日の午前九時からおそくまでやったらば、全部の
首席代表の
演説が終るはずでありましたけれども、そのごたごたのために時間がおくれて、
大統領と
インドネシアの
総理との
演説で、あとごく少数の人の
演説ができないようになって、
演説の
順序はABCの
順序でされるのに途中から始まって、
ロムロの
演説が
周恩来の
演説より先になった、
ロムロは
共産主義に
反対するところの
演説をあの
雄弁でやり立てたのです。その結果翌日今度は初
まりのAの方に戻って来て
演説をするようになって、
周恩来が
演説をするようになったときに、これはかなり
ネールの
意見もあったではないか、
周恩来が来る日に予定を延ばして
ビルマに寄っていろいろ打ち合せをしたことの事実等を考えれば、
周恩来は
ネールに言われて翌日の
演説をそっくり
——ネールに言われたか事態がよくわかりませんが、これは私
ども外から見て言われたのじゃなかろうかと思われる節がある。なぜそういう節があるかと言えば、
インドの
国際会議を代表しておる
メノンは、初
まりから終りまでいかなる総会においても
委員会においても
ネールの
そばを離れたことはない、この
メノンが始終
ネールの
そばにおって助言し、
欧米の
国際連合の
空気を相当
ネールに吹き込んでおったのではないかと政治的に考えられます。そこで
周恩来は初め提出したところの
演説をそっくりかえて、翌日
演説したのは
ロムロの
演説にこたえる
演説と見ていいような
演説をした。ということは、
ロムロはこの
会議は
各国が
議論をしたりけんかしたりするために集まった
会議ではない、もちろん二十数カ国がおのおの違う
歴史を持ち、国情を持っておる、従って違った
意見の出るのは当然だが、その異なった
意見をみんな述べて、そうしてよりよき了解を得て、
協調して
アジア、
アフリカの
各国民の
発展に寄与せんとするために集まったものであろうと思うと述べ、前日提出した
周恩来の
演説とその日にした
演説とはかなり内容が違って、
周恩来の
態度は非常に
協調的になったのです。だから、ある
意味からいえばあやまちの
功名と申すか、
議事運営で全部の
演説をするのをしないようにきめた。それが
ネールのさしがねと思い、みんなで
ネール目当てに
反対してひっくり返してしまった、そうして
会議が新たに進んだというような点から考えて、その
空気のもとにおいて、かなり
協調の
空気が醸成されたので、ある
意味からいえば、私はあやまちの
功名だったと思う。それ以来
会議はずっとなごやかになり、この二十九カ国が、この
会議を失敗に終らせてはいかぬと、みんな反省し自省し、隠忍して、そうしてこの
会議を成功ならしめなければならぬという
空気に変って、
各国の
態度がかなりやわらいだように私は見てとりました。
そこで大会の
各国の
代表演説も無事に終り、
文化委員会と
経済委員会と
政治委員会の
三つに分れて
委員会が開かれて、
会議が進められることになったのです。
政治委員会というのは、
各国の
代表者の
会議であります。その前に、実は
パレスタインの問題が
委員会の席で起りましたが、この
パレスタインの問題に対しては、レバノンとかシリアとか、
アラブ民族を代表して、
パレスタインから逃げ出した者、追い出される者、これらの
人権を尊重したり、生命、財産を安全にしたり、これらの者に居住の地を与えないという
理由はないと、
先生たちが
議論するときは、テーブルをたたいてやり、それは盛んなものです。青筋を立てて、繰り返し繰り返しやるところは、なかなか
遠慮会釈もなく、みんな
議論を述べます。それのみならず、そういう問題になれば
人権の問題にからまるから、コールド・コーストの
代表者のようなところでも、リビアのようなところでも一言なかるべからずで、この
会議の
政治委員会は、かなり言論が風発して盛んなもので、炭のようにまつ黒い
ゴールド・コーストや
リベリアを代表しているような者でも、
英語でなかなか
雄弁に
人権の問題、
植民地化反対の問題、
帝国主義反対の問題を言うときには、実に元気のいい
雄弁で、彼らの主張を論断するところは、むしろ敬服に値するものだと思いました。
周恩来はしばしば
議論しますが、
ネールは、いつでも
協調の役目に立って、なるべくこの
会議をうまくまとめていきたいというようで、最後の
発言者ともいうべきでしょうか。ところが、小国のいわゆる。
パキスタンを中心とした、一面からいえば
ネールに対する
反対の
空気もかなりあることが
議場面に現われてきて、
ネールが発言するとそれに対して直ちに発言して、それを反駁するというような
光景は、実にこの
国際会議において初めて見る
光景じゃないかというようなおもしろい
会議でした。
トルコの
首席全権は都合のいいときは
英語で話して、少しむずかしい問題になると
フランス語で話して通訳させるというように、これは自由自在でして、
割合に冷静な
会議の中でいつでも一番冷静な
議論をする
人間は
トルコの
首席全権だと思うくらいな冷静なバランスの取れた
議論をしたのです。
そういうような
状態で
会議は進みまして、おそれたところの
台湾問題も出ることなく、ただこの
会議において一番目立ったことは、これは
日本人には
想像できないのですが、コロニアリズムとインペリアリズムの問題が出たときには多くの国は実に熱心に論じます。なぜかなれば、多くはその
経験を経た国です。
人権擁護、
人種差別撤廃、
植民主義、
帝国主義に対しては実に強い
反対がどの国にもある。そうして
リベリア、チュニジア、モロッコの問題に対しては、名は言いませんけれども、フランスに対して非常な強い反感を持って、どうしてもこの
植民主義を一掃しなければならないという
議論をするときには、それに呼応する声がかなり盛んです。ナセル・
エジプト首席全権などもそういう問題に対してはかなり強い
議論をいたします。またニューギニアのエーリアの問題、あれもみんなの同意を得て、
オランダの勢力をあれから駆逐しようという、
植民政策について
反対する点についてはまた
インドネシア自身もかなり強いものであることを
感じたのです。
人権の問題、
植民主義の問題、
帝国主義の問題については
アジア、
アフリカの小さな国は、
想像もできないほど真剣です。そうして非常な
熱意を持ってそれを論ずる
光景は、そういう
経験のない
日本人の実に
想像も及ばないところだと
感じました。そういうようなわけで、
政治委員会は
台湾の問題が出なかったから、非常に盛んに
議論したのは
パレスタインの問題だけで、大体今申す
三つの
人権擁護と
植民主義と
帝国主義に対する非常な
熱意を持った盛んなる
議論が戦わされたのみでありました。
文化委員会の方は、これは
割合に
議論はなく、
日本の
首席全権の言葉でこの
会議に初めて上ったことでありますが、みんな注意はしておっただろうけれども、
宗教にせよ、
文化にせよ、
世界の一番偉大なるものの
出発点は
古代の
アジアと
アフリカの大陸だ。しかるにそれが東西に流れて、
古代の盛んなる
状態を継続しなかった。途中に
科学文明のためにそれらがやや押される気味があって、そうして今日の
状態になっておる。これをもう一度思い直して
アジア、
アフリカの
人間が、元の
宗教や
アジアの特殊な
文化をせんさくしてこれを復興せしめて、そうして
アジア、
アフリカの
民族のさらに
文化的の
発展をはかるということについては、ほとんど
異議がなくき
まりました。これは
日本の顧問の
藤山愛一郎さんの思いついた
提案でありましたが、
アジア、
アフリカに対しては、
文化のいかなる
方面の
研究者に対しても、
アジア、
アフリカの
文化賞というようなものを一年に一度くらい出すことをやってみたらいいだろうという
提案がありまして、これは実は非常に歓迎されました。そういうことによって
アジア、
アフリカの
民族が互いに
文化の向上をはかって、たとい映画であろうとも、演劇であろうとも、
科学であろうとも、美術であろうとも、工芸であろうとも、
宗教であろうとも、あらゆる
方面で特殊な
研究を遂げたり非常な貢献した人に対して、一年に一度
審査を遂げて、それに
ノーベル賞のような賞を与えるようにしたらば、
アジア、
アフリカの
文化の向上に非常に役立つだろうというようなことで非常に賛成を得ましたが、さてその約十万ドルの賞金をどうして集めるか、そうしてだれが提出するか、その
審査をどういうことにするかということで非常に
議論が分れまして、これは特別に他日
研究しようということで
決定はいたさなかったけれども、非常な注目の的になったことは事実であります。
経済の問題については、エカフェの
会議のあとだからこれは
日本の朝海君も非常な便宜の立場で、ここではある
意味において
割合に小さな国が
アジア、
アフリカのソリダリティを作って一そう協力を強くして
アジア、
アフリカの経済的提携をはかろうかというようなことがかなり唱えられましたけれども、そういうふうになったら、今日経済的に一番有力な英米の援助を受けられないようになったり、これに反感を持たれるようになってはいけないというので、経済的に協力という
意味は、第一には
アジア、
アフリカの
国民がやはり
世界のあらゆる
国民と協力して、
アジア、
アフリカの経済的資源の開発をはかり、協力してその発達をはからなければならないじゃないかという結論に到達して終りました。
そこで、いわゆる
コロンボ会議の五原則の問題は出ずして、それがついに十原則の問題となってき
まりました。その十原則の問題は、やはり
人権尊重、
民族自決、
植民地主義排撃、あるいは
帝国主義排撃、領土の不可侵、主権の尊重、内政干渉を許さないという大体五原則の述べた方向ですけれども、それの言葉づかいはかなり違って十原則となって現われて、それが
国際連合の憲章の原則と
目的に準じての十原則、
アジア、
アフリカの二十九カ国の声明となって現われることになじました。経済に対しての協力、
文化に対しての協力、その他の問題に対しては平和十原則を声明することを全会一致できめて、そうしてこの
会議が初めはかなりあらしを呼び起しはせぬかというようなふうでありましたけれども、結果はまことに穏やかに、そして帰りがけになって
各国の
代表者と話してみまするに、まあ、よかった、みんな大成功だという成功を喜んで帰途についたというがこの
会議の
状態ではないかと思います。
大体何の用意もない思いつきのままを私が申し上げて御
報告したことをどうかお許し願いたいのであります。なお質問でもおありになったらお答えいたします。