○
中山参考人 私は、
ビルマの一
仏教の性格と、
ビルマの
仏教界と私
どもの
仏教界との戦後の
関係、最近の
遺骨につきましての先方の
気持を、わかりました点を申し上げようと思っております。
大体
ビルマは
仏教国でございまして、憲法におきましても
仏教は特別な位置を付与せられておるのでございます。
住民の九〇%は
仏教徒でございまして、
ビルマ人といえば
仏教徒ということになっておると、
ビルマ人みずからが申しているくらいでございますが、われわれの
大乗仏教と違いまして、あちらは
原始仏教でございまして、二千五百年前、
釈尊の当時、阿難とか、
目連とか、
舎利弗とか、そういう
人たちがいたときのようなその通りの
格好をして、それに似た
出家の
生活をしているのであります。
物質生活というものを非常に卑しみまして、要するに、
物質生活というものはわれわれの仏性を曇らすものだ、従ってわれわれの
理想とするところは
涅槃寂静の
精神の自由であるという
立場で、彼らの
理想は三衣一鉢の
出家の
生活が一番の
喜びとするところのものでございます。従って、
ビルマ人は、どういう人でありましても、
子供のときに一度はお寺に入りまして、不殺生、不邪淫、不妄語、不飲酒というような五戒、八戒さえ守って、そうして二カ月なり三カ月なりを過ごす。これは、
子供自身の
喜びでもございますし、また親の誇りでもあるのでございます。その中で仏縁のある優秀なものが残りまして
仏道修行を続けるというのが
向うの
仏教でございます。従って、肉体というものは
精神の入れものである。これが滅びてなくなれば、これを埋葬いたしますが、
日本のようにりっぱなお墓を建てるわけでもございません。死体に対しては、
日本のようなうるわしい
感情はないのであります。
遺骨につきましても、一般のものは火葬いたしません。少くとも、
修行に一生をささげたようなりっぱな
坊さんであれば、これは火葬をしてその
遺骨を尊ぶということはございます。その最も大きな例は
釈尊でございまして、
釈尊の
遺骨に対しましては、絶対の敬意を払い、心を込めましてこれをあがめて、仏塔を随所に建てておるのでございます。
そこで、この
遺骨の問題でございますが、
終戦後、
世界仏教徒会議が
昭和二十五年の五月にセイロンで行われました。そのとき私たまたま
インドの
世界平和者会議に
高良さんと
一緒に行っておりましたので、そちらに回りまして参加いたしましたが、そのときに
ビルマの
代表が来ておりまして、なかなか活躍しておりました。そのときに、
日本も独立をしたら、
一つ世界仏教徒会議をやってもらいたい、第二回の
仏教徒会議は
日本でというような希望がございましたので、
昭和二十七年、幸いにわが国も独立いたしましたので、さっそく
東京並びに京都におきまして第二回の
世界仏教徒会議を開いたのでございます。そのときにも
ビルマの
代表は大勢参りまして、
ビルマとは大
へん親しくなったのでございます。越えて昨年は、第三回の
世界仏教徒会議を
ビルマで行おうということになりましたので、それに先立ちまして、五月に、
ビルマでは仏滅二千五百年記念の
仏典の編さん、校訂並びに
現代語に翻訳というような、
仏典結集と私
どもの
言葉で申しますが、
歴史的な第六回目の
結集をやるというので、
世界中の
仏教徒並びに学者を集めまして、盛大な
発会式をやったのでございます。そのときには、わが
長井真琴博士並びに
曹洞宗宗務総長佐々木泰翁師二人が国賓として招かれて、大
へんな厚遇を受けて帰ってきたのでございますが、間もなく
先ほどお話の
ウ・チョウ・ニェン夫妻が九月に
日本に参りまして、私
ども共立講堂で盛んな
歓迎会をやったのでございますが、その
団長夫人は
日本の第二回の
世界仏教徒会議にも参っておりまして、われわれは非常に親しく、そしてその暮れに行われます第三回の
ラングーンにおける
世界仏教徒会議についていろいろ打ち合せをいたしました結果、ほかの国ではせいぜい二十名、平均して十名くらいというのを、
日本は特に六十八名の
代表を受け付けてくれまして、
日本航空の
柳田社長の好意で
日本の
飛行機を一台チャージしてくれましたので、
為替関係も非常に楽になりまして、
日本からかようにたくさんの
代表が来たということは、
日本の上
歴史から申しましても非常に珍しいことでございましたが、
ビルマの
連中といたしましても非常な
喜びでございまして、
戦争中の
気持を払拭して特別にわれわれを歓迎してくれたのでございました。
そのとき私
どもを送ってくれました
仏教徒も、また行きます私
どもの胸のうちにも、
ビルマの山野に眠っております十八万の
犠牲の
英霊のことを思い、まだ帰って来ない八万幾らの御
遺骨に対しましては、
向うへ行くのであるから、何とか
格好をつけて来たい、どこに御
遺骨があるか、どういう
方法でもってこっちに持って来られるか、そういうことも胸に刻んで参ったのでございますが、
向うに参りましてさっそく間接に話をいたしまして、私
ども考えておりました、
ビルマの
戦争犠牲者と、われわれの
英霊と合せて
怨親平等での
合同慰霊祭をしたいという
申し出に対しまして、ちょっと待ってもらいたいということになったのでございます。それは、
ビルマの大衆は、
日本人といえば
兵隊を思い、
兵隊といえば、中には
日本の
兵隊を喜んでいる者もありましょうけれ
ども、大多数は、
日本の
兵隊といえば、びんたであり、あるいは略奪であり、あるいはいろいろな乱暴なことをする人であると思っている。しかも、御
承知のごとく、
ウ・ヌー、オンサン初め、 アンティファシスト・ピープルス・フリーダム・リーグというようなものを立てて、
日本のファッショに
反対をした政治的な
歴史もあるのであります。従って、苦に返って
戦争当時の
犠牲者云々ということを今言うと、せっかく
日緬協定ができて平和的になって、
日本から、
兵隊ばかりでなく、やはり
技術家も来る、また平和の衣を着た
坊さんが大ぜい六十何人も見えているので、
ビルマの
人たちは、なるほど
日本にもこうしたりっぱな平和な
人たちがいるのかと思って喜んでいるところであるから、そういうことをやられては、また昔の
日本のことを思い出して、寝た子をさますことになるから、やめてもらいたいというような
お話がありましたので、私
どもは非常に意外に思いまして、ただ、
ラングーン郊外並びに
マンダレーまで参りましたので、
マンダレー郊外に
部隊が残しました
同胞の
犠牲の
英霊のお墓の前にそろいまして、香華をささげ、お経を上げてお祈り申したのであります。ことに、そちらの地図にもございますが、
マンダレー付近のあの
イラワジ上流百マイルを
仏教遺跡参拝のために上下いたしまして、
川蒸気で行ったのでありますが、デッキの上で
曹洞宗管長高階老師を囲みましてお経を上げまして、持って参りました
地蔵菩薩の三万枚の絵姿を川に流しまして、いわゆる地蔵流しの法要をいたしたのであります。御
承知のごとく、
ビルマは五月から十月まで
雨季でございまして、十一月からずっと毎日々々いいお天気で絶対に雨は降らないのでありますが、そのときたまたま一天にわかにかき曇りまして雨がぼつぼつ落ちまして、われわれの衣に当ったのであります。
一緒に行きました参議院の
赤松女史、その他の
皆さんも、全くこれは
英霊の
心持ではないかと思って、われわれも胸迫ったことでございました。
イラワジ川の
河畔におきまして、
河畔の砂利を拾い、あるいは激戦の地といわれたところに行きまして、そこの石をふところにして持って帰りまして、これを粉にして、小さい錦の袋に入れて、三月十四日の護国寺のわれわれの
報告会並びに
慰霊祭には
ビルマの御
遺族をお呼びして、お渡ししたのが、せめてもの私
たちの心根でございました。
しかるに、こちらにいらっしゃいます
黒川さんが、四月の
インドの
平和者会議の後に、
ビルマをお回りになって、
ビルマの
赤十字副
社長にお会いになり、また反
政府軍の
ボスなどにもお会いになったところ、向もでは
遺骨のことについて
協力しようというような
お話だということを伺いましたので、さっそく私は
黒川さんに来ていただきまして、いろいろ
お話を伺い、非常に喜んだのでございます。幸い私
どもが大ぜい参って平和な姿を見せてきたために、だんだん
気持もゆるんだというようなうぬぼれも出まして、これならば
ほんとうにありがたいと思っておったのでございますが、それがだんだん進みまして、いよいよ
ビルマ戦没者慰霊会を
発会しようというような話まで、
高岡先生初め
皆さんの御
熱意が盛り上って参りましたので、さっそく私は
向うへ
手紙を出しました。と申しますのは、五月の中旬に、私
どもの宗派から、十二名の若い
僧侶と一人の尼さんの十三名が、
ビルマの
ウ・ヌー首相の招請で、
向うへ
戒律仏教の一年間の
修行に参るというのであります。その
送別会の席上で私は
黒川さんの
お話をしまして、私
どもが行った範囲ではむずかしかったらしいけれ
ども、最近好転したとも思われるので、
ビルマの人の
気持をそこなわないように気をつけながら、その
遺骨のことを聞いてもらいたいと言っておきました。なお、私
手紙を出しまして、今度はこうした
慰霊会が発足するようになって、
総理大臣の官邸で官民あげての意向を盛り上げるのだから、果してそちらの方でできるかどうか、もう一ぺん聞いてもらいたい。同町に、私
終戦以来懇意にいたしており、
日本にも参りました、
検事総長であり、現在では
最高裁判所の判事をしております
ウ・チャン・トーンという若い
閣僚でございますが、これが
ビルマの
仏教会を牛耳っておる方であります。
ビルマの
仏教会は、
仏教が国教であります
関係上、
国家機関としてやっておりますので、みなそうした
閣僚級の
連中が
主任になってやっております。その中の
主任の
事務総長のチャン・トーン氏に、こういうことを聞いておるのだが、できれば
事情を知らしてもらいたい、
終戦十年
遺族の
心持を思うと、ほんとに私
どもは寺として檀家のお骨であるから
責任が重いのだといって、
手紙を出してやりました。不幸にして
ウ・チャン・トーン氏は
国際司法官会議でアテネに行ってしまいまして、
返事はとれなかったのでございます。とうとう十一日には間に合いませんので、私はあの会を
発起人会としていただきまして、
発会式は一昨日に延ばしたようなわけであります。
その後、私の
手紙を
ビルマにおります若い
僧侶たちにあげましたところが彼らも非常に感激いたしまして、
自分たちの
委員を作りまして、
仏教会の
会長、
最高裁判所のウ・トーン氏に会いまして、その
報告が来ております。会いましたところ、そういうことならば、決してわれわれは
反対もしないし、むしろ
仏教会あげてそういう
心持になるのをわれわれは援助しよう、そういうはっきりした
返事をもらったのでございます。なお、いわく、これはどうしても国際問題になるからして、
国家と
国家との話し合いもつけてもらいたい、われわれ
仏教会としては、
国家機関であるから、できるだけのことはするけれ
ども、われわれは
国家の
責任者でないのだから、その点を
一つよろしく
頼むということをことずけてきたのでございます。ところが、最近の
外務省の
お話を伺いましても、また厚生省の
皆様の
お話を伺いましても、御
調査の結果、あちらの方では、まだ正式には言って参りませんけれ
ども、こちらへ参りました
ウ・ソー・ティン外務次官兼
アジア局長は、個人の
立場としてはなるほど同情にたえない、しかしこれは
国防省に
関係することだから、
国防省に相談してから
返事しようということになったそうでございます。御
承知のごとくあちらでは治安がまだ非常に悪いのでございます。私
ども参りまして、
ラングーンから
マンダレーに行きますまでの
汽車は、
ドイツ製のりっぱな
寝台車でございまして、
日本にもないくらいのりっぱな車でございますけれ
ども、私
ども参りますと、夜間は
ぺンマナ辺でとまってしまうのであります。夕方着いて翌朝までは危なくて夜行の
汽車が走れないというような、われわれ想像もできない
状態でございます。いわんや、奥地に参りますと、
黒川さんのお会いになりましたような
ボス連中が、鉄砲をかまえて今の
政府に対して
ゲリラ戦をしているような
状態でございまして、
国防省ということも出たのでございましょう。結局私は相当な危険があると思います。しかし、私
ども仏教徒として、善の者として、衣を着ていけば、何とか政治を離れた
立場も得られやしないか、またその
立場をもって行かなければならぬと思っているのでございます。最近
ウ・ヌー首相も、
世界一週の旅をアメリカで終りまして、
日本に一週間ほど滞在するそうでございますが、そのときには、私
どもビルマ慰霊会の恵を体しまして、幸い私のところの
仏教会の
会長が
名誉会長というような御指示もいただきましたので、
ウ・ヌー首相にわれわれの衷情を述べまして、無理にとは言わないけれ
ども、最近の
ウ・ヌー首相の
言葉の中に、
日本占領後の
ビルマを見ましても、
日本に対する憎しみで一ぱいであったというような
言葉が出ておりますので、私
どもは彼の
感情も顧慮しながら、また
終戦後の御
遺族の切々たる
心持をも胸にしまして、話をしてぜひお願いしたいと思っているのでございます。しかし、大体の今の見通しでは、同じ
仏教国でございますし、われわれが話をすれば、われわれの
申し出を断わることは今ではなかろうと思う。現に、
外務省の
お話を伺いましても、はなはだ明るい
気持でございます。
黒川さんの
お話がやはり
ほんとうであるように思われますので、私はこの際
政府におかれまして積極的な御施策をとられんことをお願いする次第であります。
向うにおります若い
僧侶たちは、たとい草に伏し木に寝ても、そのことをいたしたい。カレワを中心にして四万、シッタン川で三万の
英霊が沈んでいるとか、そういうことを
向うの
日本人会の席上で聞きまして、非常に感激しておりました。どういうことでもいたします。ただ
修行の妨げになるとか、また
修行のために来たのに、
遺骨を探しに来たのかと思われても困りますが、その誤解さえなければ、どういうことでもします。こう申しているのであります。重ねて私は
政府の積極的な御支援と積極的な施策と御交渉の進展をお願いしたいと思います。
大
へん長くなりましたが、以上で終ります。