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1955-06-17 第22回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第5号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十年六月十七日(金曜日)     午前十一時十八分開議  出席委員    委員長 高岡 大輔君    理事 臼井 莊一君 理事 堀内 一雄君    理事 中山 マサ君 理事 神近 市子君    理事 戸叶 里子君       赤城 宗徳君    眞崎 勝次君       眞鍋 儀十君    田村  元君       仲川房次郎君    稻村 隆一君       楯 兼次郎君    柳田 秀一君       受田 新吉君  出席政府委員         外務政務次官  園田  直君         外務省参事官  寺岡 洪平君  委員外出席者         外務事務官         (アジア局第二         課長)     小川平四郎君         厚生事務官         (引揚援護局引         揚課長)    坂元貞一郎君         厚生事務官         (引湯援護局援         護課長)    大崎  康君         厚生事務官   田島 俊康君         参  考  人         (沖繩遺族連合         会常任理事兼事         務局長)    金城 和信君         参  考  人         (元満州開拓青         年義勇隊訓練本         部総務部長)  近藤 安雄君         参  考  人         (元満州開拓青         年義勇隊鉄驪中         隊長)     箆  兼雄君         参  考  人         (中国人俘虜殉         難者慰霊実行委         員会委員長)  大谷 瑩潤君         参  考  人         (中国人俘虜殉         難者慰霊実行委         員会事務局長) 赤津 益造君     ――――――――――――― 六月十六日  海外抑留同胞帰還促進に関する陳情書  (第二二三号)  同  (第二五六号) を本委員会に送付された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  ソ連地区残留胞引揚に関する件(日ソ交渉に  おける残留胞引揚問題)  遺家族援護に関する件(沖繩義勇隊及び元満州  開拓青年義勇隊の処遇問題)  中共地区残留胞引揚に関する件(中国人俘虜  死没者遺骨送還)     ―――――――――――――
  2. 高岡大輔

    高岡委員長 これより会議を開きます。  ソ連地区残留同胞引き揚げに関する件について議事を進めます。  この際、日ソ交渉におけるソ連地区残留同胞引き揚げ問題について特に発言を求められておりますので、これを許します。臼井莊一君
  3. 臼井莊一

    臼井委員 目下ロンドンにおいて進められております日ソ交渉の問題のうちで、一番当委員会関係のある、ソ連における抑留の問題であります。これについては、昨日の外務委員会で、そのほかの案件と合せて、外務大臣からお話もあったように聞いております。外務大臣がきょうはおいでになれないようでありますから、次官にその概要について私からも少しお伺いしたいと思います。  この十四日の交渉において、ソ連からの回答は、抑留同胞のことについては戦犯の千余名を残して在ソ抑留同胞は全部釈放済みである、こういうことだったように新聞記事によって承知いたしておるのでありますが、この釈放済みという意味は、ソ連政府としては別に抑留していないけれども、自由にソ連の中にまだいる者はあるのだ、こういうふうにも解されるのでありまして、この点においてわれわれの考えと非常に隔たりがある、行き違いがあるように思うのであります。ことに、戦犯というものは、われわれとしては少くとも日ソ間においてはないという解釈をいたしておりますが、これはまああちらの解釈でありますからいたし方ないとしても、この点について、政府の方の情報あるいは通信等によりまして、もう少し詳細に一つお話を伺いたいと思います。その点をまずお聞きしたい。
  4. 園田直

    園田政府委員 本日も重大な問題で、大臣が出席すべきはずのところ、参議院の審議と、早急に迫られております余剰農産物の問題でそちらに出席しておりますので、代理でお答えをいたします。  先般もいろいろ御質問いただきましたが、その当時はまだ自由を持ちませんし、また、今におきましても、向う交渉経過中でもございますし、いろいろな申し合せ等もございますので、許された範囲において概略を御報告申し上げたいと考えます。  まず、ソ連地域送還問題については、日本国民全体の重大な関心事であって、今日までなお多数の残留者がおって、しかもその現状が何ら明らかにされていないことは、まことに遺憾でありまして、政府は、これら残留者理由のいかんを囲わず即時かつ無条件に釈放さるべきであるという建前のもとに、本問題の解決日ソ国交正常化前提条件考えて、ソ連即時善処方を強く要望しておる次第でございます。日ソ交渉については、国民世論の大多数の支持があり、国会内においてもその通りでございます。その交渉において、諸懸案の解決を先にすべきか、国交調整を先にすべきかという点については、委員会においてもいろいろ御意見があるように聞きますが、この抑留同胞送還問題については、一致した意見で、即時送還せしめるという国民並びに国会の御支持のもとに、二回の折衝においても強く要望しております。  ソ連地域邦人送還の経緯及び現状は大体次の通りでございます。  終戦当時、満州北鮮千島南樺太ソ連占領地域には軍民合せて二百七十二万六千名の邦人が居住しておりました。ソ連はこれから各地の日本軍人武装解除を行いまして、約五十七万五千人と推定される邦人をシベリア、外蒙、中央アジア等に移送しまして、収容所に拘置して、建設、雑役その他の労役に従事させておったものであります。  ソ連地区からの邦人送還は、昭和二十一年十一月二十七日の米ソ暫定協定及び同年十二月十九日の米ソ協定によって開始せられ、昭和二十五年四月の集団引き揚げの停止に至るまで約四十七万一千人の引き揚げが行われました。しかして、ソ連側は、昭和二十五年四月二十三日、タス通信をして、ソ連から送還された日本人捕虜命部で五十一万四百九名で、このうちには一九四五年直接戦闘地域で釈放された七万八百八十名は入らない、未送還の者は刑を旨い渡された者または戦犯容疑調査中の者千四百八十七名、病気治療送還される者が九名、中国人民に対して重大犯罪を犯し中共政府に引き渡される予定の者九百七十一名である旨の発表を行わしめると同時に、集団引き揚げを停止いたしました。  その後、昭和二十八年十一月、モスクワにおいて日ソ赤十字社代表間に日本人送還の打ち合せが行われ、捕虜四百二十名、一般人八百五十四名が送還されることになり、その結果、同年十二月及び翌二十九年三月の二回の引揚船によって千二百三十一名の引き揚げを行いました。また、その際ソ連側から、服役中の軍人千四十七名のリストを手渡しをして、中共渡し予定の九百七十一名のうち、二名は死亡し、九百六十九名は昭和二十五年中に中共側に引き渡したとの言明がございました。  しかるに、ソ連抑留邦人に関する個人的資料については、前申しました千四十七名のリスト以外にソ連側から何ら提供されていないので、日本政府では、未帰還者留守家族より未帰還の届けを提出させまして、帰還者の提供した残留者並び死亡者等に対る証言等によって総合整理を行い、未帰還の事実の確認された者を登録いたしました。その結果、一九五五年五月一日現在において、死亡を確認された者を除外した未帰還者の集計は大体次の通りでございます。  氏名の判明した生存確認数は、ソ連が千三百六十三名、千島樺太が八十九名。氏名の判明した状況不明者は、ソ連が九千五百名、千島樺太が千六百九十名。総計いたしまして、ソ連が一万八百六十三名、千島樺太が千七百七十九名でございます。  今申しました状況不明者につきましては、日赤より数回にわたってソ連赤十字社安否照会を依頼いたしましたが、これに対し、本年四月までに三回の回答があったのみであり、しかも、これらの回答当方の希望に沿わない不十分なものでございました。  日本政府としては、国交正常化のため日ソ交渉が行われているこの際、重ねてソ連当局に対し抑留邦人即時かつ無条件に釈放せられることを強く要望するものでございまして、しかして、状況不明者についてはさらに綿密な調査が遅滞なく実施をせられ、また死亡者についてはその氏名死亡日時及び場所並びに死体埋葬所等通報が行われるとともに、遺骨引き渡し等についてできる限りの便宜が供与せられることを強く要望いたしております。  折衝概略を簡単に申し上げますと、最初の会談におきまして、わが方の松本全権は、引き揚げ問題を筆頭にいたしまして数カ条の日本政府としての国民的要望提案いたしました。その中には、概略今申しましたような趣旨のもとに、国民全部の熱烈なる支持のある引き揚げ問題を、人道的見地から、ほんとうにソ連日本国交調整をしようという気持があるならばこれをまず解決してもらいたい、それから国交調整の相談に入りたいという趣旨を述べまして、それに続き、ほか数カ条の提案を行なったわけであります。これに対して、第一回の会談では、ソ連側は何ら具体的な意思表示をすることなしに、数点の質問を行なっております。その質問の中には、すでに解決されたものもあり、中には簡単に解決されるものもあり、中には長期にわたらなければ解決されないものもあるという意味のようなことを申しておりましたので、われわれの方では、すでに解決済みのものもあると言うた意味は多分この引き揚げ問題をさしておるのではなかろうかという気持をもって見ておりました。が、いかなる場合におきましても、先般中山委員から御指摘を願いました通りに、断じてこの引き揚げ問題だけは主張を譲らずに、皆さん方全会一致支持を得て強く折衝をしたいと決意をいたしておったところであります。なお、その際全権は、先般全権出発前に日比谷で行われた抑留同胞引き揚げ大会並びに出発の際の飛行場で見送られたる遺族代表の方々の見送りの写真及び手紙等も呈示いたしまして、これは何ら政治問題でもなければ国交調整かけ引きの問題でもない、人道上の問題であるから解決を願いたいという点を付記して、終ったあと雑談等におきましても、そういう意味を申し述べたようであります。  しかるに、今度第二回目の会談におきましては、いろいろな条件提案を今度は向うの方からの要求事項を提示してきた模様でございます。この条件の中には、あるいは領土問題その他の問題が列挙されておりますが、この提案された数カ条の中には、引き揚げ問題は全然書いてございません。そうして、向うでは、引き揚げ問題に関しては、捕虜はすでに日本送還済みだと自分たち解釈しておる、しかも今残っておるのは戦争犯罪人だけであって、この戦争犯罪人の問題も、そのほかのいろいろな問題が解決をして正式に国交調整されるならば、これは簡単に友好裏解決されるであろうという意味主張をしてきておるようでございます。これに対しまして、わが方の全権は、まず第一番にこの問題を再び取り上げまして、数回にわたる総理大臣並びに外務大臣の演説ばかりでなく、各党の委員の方、議員の方からの直間の要旨等もこれを呈示いたしまして、そうして、それは違うのであって、われわれの持っておる資料及びすでに帰ってきた者からの情報収集等によっても、今なお残留しておることは事実であるし、しかも、今ソ連の方で戦争犯罪人と言わるる人々も、われわれは戦争犯罪人解釈するわけにいかぬのであって、これは即時釈放するとともに、行方不明の人間等調査をして、そうして先ほど申しましたいろいろな資料――日時、人名あるいは埋葬個所等の御通報を願い、人道上の問題を解決することによって、初めてソ連日本の間に友好の雰囲気がかもし出されて、それによっていろいろな困難なる問題も解決するであろうと、強く主張をいたしております。これにつきましては、すでにわが方も、われわれの主張であるばかりでなく国民全般主張でもあるし、各委員から強く要望をされ、御指摘をされた問題でもございますので、この問題についてはあくまで強く主張せよという訓令並びに激励電報を送っておる状態であります。  簡単でございますが、以上経過の御報告を申し上げます。
  5. 臼井莊一

    臼井委員 ただいま次官の御説明で、従来の経世並びに目下交渉中の熱意というものはよくわかったのでありますが、ただ、ソ連側としては、戦犯だけについては千余名ある、しかしその他は釈放済みだということで、何らソ連が押えているのではなくて自由にいるのであるから仕方がないというような意味にとれるようにも思うのですが、もとより、向うで結婚したりなどいたしまして、職業の関係でいたいという人もあると思うのですが、しかし、こちらの方にぜひ帰りたいという人がほとんど大部分でありましょうし、しかもその実態の内容が一向わからないために、われわれとしても、遺族としても、非常に不安であり、また不満を持っておる、こういうことなのでありますが、ただ、次官お話の中に、国交調整ができるならば、この戦犯等の問題についても自然に解決されるであろう、こういうようなお言葉があったのですが、私のこの言葉解釈によると、どうもソ連としては少くとも戦犯問題については先にこれを解決しようというような誠意がないようにも思われるのでありますが、この点について、何か私の言葉の聞き違いででもあれ、ば何でございますが、その点いかがなものでしょうか。
  6. 園田直

    園田政府委員 第一回目の会談でわが方が述べた引き揚げ問題に対する向う回答は、先ほど申し上げました通りに、向うから提案した個条の中には入っていなくて、向う見解として、平和条約が締結され、国交調整ができれば、残留日本人を釈放するような日本に有利な措置がとられるであろうというような意味発言向うはやっております。
  7. 臼井莊一

    臼井委員 そうすると、やはり私の解釈いたしているように、この問題は戦犯並びに抑留同胞あるいは在ソ同胞というものを全部解決しようというところまではもちろんまだ至っていないように思いますが、この点は、当初にお話し下さったように、日本としては戦犯というものはもちろん考えられないのであって、ソ連が一方的に日本に対して宣戦を布告した、しかもその戦闘の期間というものはごくわずかであって、日本人からソ連に対して特に戦犯的なことを行うだけの余裕も余地もないはずであったわけでありますので、この点を一段と強調していただきたいと思うとともに、もう一つお伺いいたしますが、二十四日の回答を全般的に見ると、昭和二十六年のサンフランシスコにおける平和会議ソ連グロムイコ代表修正案を出したのでありますが、そのときの条件と申しますか、あれと大体似たように見られるのでありますが、そのときにおいても、日本人抑留した問題とか、あるいは戦犯等の問題についてはほとんど触れていなかったのではないかと思うのでありますが、この点は他の政府委員でけっこうでありますから、その点についてお伺いしたいと思います。
  8. 園田直

    園田政府委員 お説の通り、触れておりません。
  9. 臼井莊一

    臼井委員 そうしてみると、われわれの考えから見ても、その点については向うで特にそれを秘していたのか、あるいはまたその当時においてはもう少し帰そうと思っていたのか、その意図はよくわかりませんが、当方とすれば、当然軍人すら直ちに日本に帰すというその当時の条件によってわれわれはポツダム宣言を受諾したのでありますが、これについてはソ連としても当然その責任がある、かように考えておりますが、政府においてもそういうお考え交渉されておるのでございましょうか。
  10. 園田直

    園田政府委員 その通りでございます。なお、念のために申し上げますと、今度提案した個条というものは、仰せ通りに、かつての修正案とほぼ同様なものでございます。ただ、日本が、引き揚げその他の問題、特に引き揚げ問題は一般国交調整とは別個の問題である、こう取り上げておるのに対しまして、ソ連も、一般国交調整とは別個の問題である、そういう見解を持っておるようであります。従いまして、提案の中には全然触れておりません。また修正案の中にも以前もございませんでした。また今度も、別個の問題である、そう言っております。そこで、わが方としても、向うから出された提案に対して意見やその他のことは述べないで、それの検討に入る前に、ソ連の方でも別個の問題であると言ったのであるから、これは早急にやってくれ。ソ連の方では、いや、それは国交調整ができれば有利に展開していくのではないか。こういう時期の問題についての食い壷いが出ているわけでございます。
  11. 臼井莊一

    臼井委員 提案の中に含まれていないということは、日本としては、その提案折衝に入る以前の問題として当然この抑留問題を解決したい、こういうことに対して、ソ連の方では、何か逆に、国交調整全部の項目解決するしないにかかわらず、平和に対する宣言とか――それも向うでは一つ方法考えているかもしれませんが、そういう方法とか、あるいはある程度の交渉がまとまった上でこれは自然に解決できる、こういうふうに、そこに何か相当の食い違いがあって、項目に入れてないのは、こちらではそれ以前に解決すべき問題だ、向うの方では極端に言えばむしろそのあとにおいて自然に解決できる、こういう解釈の違いのように思われるのであります。  もう一つ、今朝のNHKのニュースによると、抑留問題は十四日の折衝においても相当交渉が進んでおる、こういうニュースを放送したということを聞いたのであります。そういたしますと、十数項目以外にすでに日本側意図するようにこの問題を話し合っているようにも聞えるのでありますが、その点はいかがでございましょう。
  12. 園田直

    園田政府委員 前段は御解釈通りでございます。  なお、十四日の会談において引き揚げ問題の話が進んでおるという意味はわが方の全権は他の問題に対してはほとんど意見の開陳をなさず、引き揚げ問題のみを主張したという話し合い進行状態をさすものと考えます。
  13. 臼井莊一

    臼井委員 以上の御答弁を伺いますと、日本としては、とにかくこの問題をまず第一に解決したい、こういう熱意を持ってやっておられるようでありまするし、ソ連としても、何でもこれはあと回しにする、こういう意図でもないようでありますので、一つ政府善処熱意を信頼して、私はこの程度にしておきます。
  14. 堀内一雄

    堀内委員 関連して。ただいまの政務次官答弁の中に、日ソ交衝前提条件として在留同胞引き揚げ問題をあげておるというお言葉がありましたが、今のソ連側提案から考えてみまして、言葉は悪いかもしれませんが、かねてわれわれが心配しておった、在留邦人をおとりに使って、またはこれを人質に使って交衝を進めてくるのではなかろうかという、その通り状態になってきておるようでございます。ただいまの次官の御答弁の中にも、その辺はどこまでも他の交衝前提条件としてやるというふうにお答えになっておるのでございますが、日本政府としては、依然として、日ソ交衝の優先的な前提条件としてこれを解決して、しかる後に他の問題に入るという方針に変りはないのでございますか。
  15. 園田直

    園田政府委員 前々から御注意をいただいておる点でもございますし、先般の委員会でも御注意をいただきましたし、ただいままた重ねて御注意をいただきましたが、政府といたしましても、前からそういう点も予想しておりますし、なおまた、これは国交調整とは異なる人道上の問題でございますから、これだけはいかようなる場合にも極力主張をして、この解決を見て初めて他の面に進んでいきたいという方針だけは決して変りません。変らないばかりでなく、全権に対しても、間違いはございませんが、重ねてそういう点は電報を打っております。
  16. 臼井莊一

    臼井委員 今の御答弁に御期待申し上げます。なお御努力願います。
  17. 高岡大輔

  18. 柳田秀一

    柳田委員 従来、山岡から在華同胞引き揚げのときにはいわゆる三団体というものがこの受け入れの衝に当ったのでありますが、ソビエトにおける抑留戦犯の場合には日本赤十字社が主になって、いずれも直接に政府政府責任において担当されたのではなかったのであります。鳩山内閣になりましてから、今後は積極的に政府の方でこういう引き揚げ問題等の衝に当りたいというような御発表があったように記憶しておりますが、なおソビエトのみならず中国にも同胞が残っておるのは事実であると思います。これの引き揚げに関して、この受け入れは、やはり従来のように民間団体おまかせになるのか、政府責任においておやりになるのか、どちらでありますか、その点を伺います。
  19. 園田直

    園田政府委員 政府責任においてやるべきであると考えております。
  20. 柳田秀一

    柳田委員 そういたしますと、ひとりソビエトのみならず、中国においても同様でございますか。
  21. 園田直

    園田政府委員 中国の場合には国際情勢ソ連の場合とは少しく異なっておりますが、しかし、いろんな了解を得て事務的にいろいろ準備を進めておりますから、中共引き揚げについてもそうようにしたいと考えております。
  22. 柳田秀一

    柳田委員 そういたしますと、ソビエトとのこのたびの国交回復折衝相当日時がかかるであろうということを予想されておるわけで、今の次官お話は、そういう国交調整がついたあとに帰ってくるようになるのか、その国交調整の方のめどが一応ついたとき、あるいはつく過程において帰ってくるようになるのか、これはその折衝によらなければわからぬことでありますが、いずれにしても、まだ国交調整が完全にできてない、すなわち相手国ソビエト日本、あるいは中国日本においてもまだ正常な国交を回復してないというような状態でありますが、そういうような状態においても、なおやはり、従来の三団体あるいは日本赤十字社等民間団体おまかせになるのじゃなしに、政府責任においてこの引き揚げの衝に当られる、こういうふうに解釈してよろしゅうございますか。
  23. 園田直

    園田政府委員 お説の通りでございます。
  24. 柳田秀一

    柳田委員 くどいように申しておきますが、ただこういうようなうわさを聞くのであります。どうも、政府としては、三団体にまかしておくのはあまり好ましくない――その三団体の中に日赤も入っておるのですが、日赤ならばよろしかろう、従って三団体を多少敬遠されて、日赤の方にまかそう-。これは真意かどうか知りません。あるいは一部誤解の向きがあるかもしれませんが、そういうような考えもないではないらしい。これは一つの感情問題もありますし体面問題もありますが、三団体は、向うから日本に、帰還せしめるときの一つ前提条件として指示してきたわけでありますから、そういう意味において、ひとり日赤だけにやらすという意味じゃなしに、政府責任でやるということでございますから、これで私の質問は打ち切っておきます。
  25. 園田直

    園田政府委員 仰せ通りでございまして、これは人道上の問題でございますから、政府責任をとるのが当然であると思いまするし、国際情勢もすでにソ連その他とも正式に話し合いを進める段階でございますから、政府責任をとってやるべきだという考えから申し上げておるのであります。
  26. 柳田秀一

    柳田委員 大へんくどいようでございますが、それでは念を押しておきます。そういう態度は、ひとりソ連のみならず、ソ連中国では多少違いますが、中国においてもやはり同様に政府責任においておやりになるということはよくわかりましたので、重ねて要望いたしておきます。御答弁は要りません。
  27. 高岡大輔

  28. 中山マサ

    中山(マ)委員 私はここに政務次官にお願いと申しますか質問があるのであります。  一口にソ連戦犯以外はもう帰したということを言っておりますが、その戦犯としての犯罪を構成する理由向うから私は出してもらいたいというような感じがいたすのでございます。それは、御承知の通り、わずか一週間か十日ばかり満州へなだれ込みまして、そうしてわが同胞を連れて帰ったのでございますから、戦犯になりようがないと私は思うのであります。急に襲われて拉致されたという話を聞いておりまするし、どういうことでそういうような何十年もの戦犯犯罪が構成されるか、これは、人道上と申しましょうか、犯罪を構成する理由をはっきり私どもは知らせいてただきたいと思うのであります。  また、まことにひどいと思いますことは、ある医者が、自分がお世話をして、そうして死亡した人たちの名前を持って帰ろうとしたら、ナホトカまで来たときに、そういうものを持っていたという点によりまして、二十五年の刑を言い渡されて、せっかく帰国ができるという希望を持って出てきた者がまた送り帰されたというようなことを、帰還者の口から私どもは聞いておるのでありますが、そういうささやかな、これこそ人道的には当然なことで、遺族となる人たちに、もう待ってもだめだ、こうしてこういう状態死亡したということを報告しようという、ほんとうにこれは当然だと思うようなことすら、あちらでは犯罪を構成するもとになるらしいのでございますが、いわゆる戦犯とか犯罪人とかいうような定義をされております人たちは、やはり法廷においてそういうものが証拠としてしっかり出されなければ、その人に判決を与えられないのが通念でございますので、今度の交渉において、どういうことで戦犯という刻印を押されたのか、軍人であるがゆえにとりもなおさず戦犯であるのか、そういうところもぜひはっきりさしていただかないと、私どもとしてはどうしても納得のいかないことが非常に多いように思います。この間ドイツの放送局の特派員でブリッセンという博士が私にインタビューに見えたのでありますが、ドイツにおいても、名前も何も全然出してこない者をどっと帰したことがある、実に向うのやり方は不可解なことが多いとおっしゃっておりましたが、私どもの残留同胞の中にもそういう人が多くあるのではないかと思うのであります。この間帰って参りました赤羽文子さんの話によりましても、自分は獄窓から出されてから五年たっても帰されなかった、当然帰してくれるものと思って要請をしなかったところが、その間に五年もたってしもった、ソ連側はいわゆる願いを出した者を帰すという建前をとったということで、こういうふうな了解事項の違いから、いまだに抑留されている人もあるのではないか。こういうわけで、そういうことも徹底的に残留同胞に対して通達をしてもらって、早く要請をしなければ帰れないということを広報活動としてやってもらわなければ、そういう赤羽文子さんのような場合も私はほかにあるのではないかということを心配しておりますが、政府としては戦犯者に対するところの刑の執行の理由というようなものをお確かめになったことがあるかどうかということを伺いたいと思います。
  29. 園田直

    園田政府委員 仰せ通りでございまして、今日までの段階においては、今度の会談ばかりでなく、その他の場所においても、ソ連側から、いかなる法理論的根拠から戦争犯罪になるかという点については、一言も明確にされていないばかりでなく、話題としても上っておりません。従いまして、そういう点が今後の進展によって論議の中心になって展開されてくるであろうと推察をしております。そういう点については全く御同感でございますから、出ておりまする全権もよく心得ておりまするが、さらに、外務省といたしましては、単にソ連との折衝ばかりではなく、日本国民支持や、あるいは他の世界各国にもこういう点を訴えまして、人道的な正しい批判と支持を受けたいと考えております。
  30. 中山マサ

    中山(マ)委員 もう一つ、これはお願いでございますが、今までずっとソ連抑留されたことに対する日本見解、また向う見解発表の様子を資料として委員にお配りいただけるようにお願いをいたします。また、先ほど御説明になりました人員でございますが、そういうことも資料として御配付願いたいと思います。
  31. 堀内一雄

    堀内委員 私は、政府当局のこの問題に対する交渉経過並びに今後の方針をお伺いしまして、これに敬意を表する次第でございまするが、さらに成功を祈る意味におきまして、この際、本委員会または本会議において、国民代表意味において全権を激励する処置をいたしたいと思うのでございまするが、委員長より委員会にお諮りを願いたいと存じます。
  32. 高岡大輔

    高岡委員長 お諮りいたします。ただいま堀内一雄君から松本全権に対して激励の電報を打ちたいとの御発言があったのでありますが、いかが取り計らったらよろしゅうございますか。
  33. 柳田秀一

    柳田委員 ちょっと速記をとめていただきたいと思います。
  34. 高岡大輔

    高岡委員長 速記をとめて下さい。   〔速記中止〕
  35. 高岡大輔

    高岡委員長 速記を始めて下さい。
  36. 柳田秀一

    柳田委員 ただいまの堀内委員からの御発言趣旨にはわれわれも賛成であります。しかしながら、その細部の案文あるいは時期等は、いずれ理事会をお開き願いまして、そこでおきめ願う、かようにお取り計らい下さればいいのじゃないかと思います。
  37. 高岡大輔

    高岡委員長 ただいまの柳田秀一君からの御発言に対して、さよう決定してよろしゅうございますか。
  38. 堀内一雄

    堀内委員 私は、皆さんの御同意を得たならば、その具体的な問題については理事会にお諮りしてやっていただく意味において申し上げたのでございますから、今の御意見に賛成であります。
  39. 高岡大輔

    高岡委員長 了承いたしました。  戸叶里子君。
  40. 戸叶里子

    戸叶委員 この間の外務委員会で、重光外務大臣は、なかなかこの交渉は手間取ると思うけれども、大体二カ月の予算をとって松本全権が行かれた、こういうふうにおっしゃいました。今の政府からのお話を承わっておりましても、いろいろな交渉に先だって、前提条件としてこの引き揚げ問題を解決するということをはっきりおっしゃったのですが、そうなりますと、二カ月以内にこの問題は大体解決するという強い腹をもって臨んでおられると思いますが、この点をはっきり伺いたいと思います。
  41. 園田直

    園田政府委員 二カ月の予算を持って参りましたのは、二カ月で解決するから二カ月の予算を持って行ったわけではありません。事務上、本予算の成立前でございましたから、とりあえず二カ月の予算を持たしてやったわけでございまして、交渉の見通しについては、今のところ、二カ月で済むものか、あるいは半年になるものか、そういう点はまだ見通しはつけておりません。
  42. 戸叶里子

    戸叶委員 私も大体交渉が二カ月で解決しないということはよくわかっておりますけれども、交渉前提条件としての引き揚げ問題でありますし、それからまた人道上の大事な問題でありますから、少くとも二カ月以内に解決するくらいの腹をもってぜひ臨んでいただきたい、こういうことを私はお願いするわけですが、その点いかがでしょうか。
  43. 園田直

    園田政府委員 よくわかりました。御意見十分くみまして、向うの方にもその意味のことを電報で発しておきます。
  44. 高岡大輔

    高岡委員長 他に御質疑がなければ、午前中の会議はこの程度にいたし、午後は一時より参考人から事情を聴取することといたします。  暫時休憩いたします。    午後零時六分休憩      ――――◇―――――    午後二時十一分開議
  45. 高岡大輔

    高岡委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  この際お諮りいたします。午前中の会議におきまして堀内委員より提案されました松本全権に対する激励電報を送る件につきましては、理事会において協議の結果、次の案文を作成いたしましたので、これを朗読いたします。   日夜の御健闘を謝す同胞引き揚げ問題は人命に関する案件であり一日の猶予も許さず、すべての案件に先だち解決し、もって両国親善の礎石たらしめるよう、なお一そうの御健闘を請う。   昭和三十年六月十七日     衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会  以上の電文をもって委員長より松本大使に伝達いたしたいと思います。また、打電等の手続きについては委員長に御一任願いたいと思いますが、御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  46. 高岡大輔

    高岡委員長 御異議なきものと認め、さよう決定いたします。
  47. 高岡大輔

    高岡委員長 それでは、これよりただちに、遺家族援護に関する件(沖縄義勇隊及び元満州開拓青年義勇隊の処遇問題)及び中共地区残留同胞引き揚げに関する件(中国人俘虜死没者遺骨送還問題)について、参考人より事情を聴取することにいたします。  本日ここに御出席願いました参考人の方々は、大谷瑩潤君、赤津益造君、近藤安雄君、箆兼雄君及び金城和信君の諸君であります。  事情をお伺いいたす前に、一言参考人各位に対しごあいさつを申し上げます。参考人の各位には、御多忙中のところ御出席願いまして、委員長より厚く御礼申し上げます。本委員会は、御承知のように海外同胞引き揚げ及び遺家族援護について調査を行なっておりますので、参考人各位より沖縄義勇隊、元満州開拓義勇隊、及び中国人俘虜遺骨送還問題についてそれぞれ事情をお伺いいたし、調査の参考に資することとしたので、各問題の要点について詳細にお話し願いたいと思います。  まず初めに、沖縄義勇隊の処遇問題について金城和信君よりお伺いをいたします。参考人金城和信君。
  48. 金城和信

    ○金城参考人 私は沖縄の遺族連合会事務局を預かっております金城和信でございます。東京に参りましたのは、沖縄の勤皇鉄血隊、通信隊の十七才未満の者の処遇についてお願いに参ったわけでございます。それにつきまして、今まで陳情申し上げた事情を申し上げます。さらに、私、この学徒隊の親として一言申し上げたいと思います。私は親でございます。  勤皇鉄血隊、通信隊戦傷病者は、事実に基きすべて軍人として取り扱っていただきたい。日本政府が沖縄の戦没者に対し深い同情を寄せられ、行政が分離されているにもかかわらず他府県と同様に援護法を適用せられることは、まことに感謝にたえません。沖縄戦は人類史上かつて類例のない激戦であり、三十五万の住民中から十五万の犠牲者を出し、血の島として世界に知られ、その惨状は言語に絶しました。それがまた前例のない国内戦であったため、予想もされなかった事態が生じました。十五、六才のうら若い女学生が看護婦として従軍、十五、六才の中学生が通信隊となり、女子青年が急造爆雷を背負って敵戦車に体当りし、国民学校児童が手りゅう弾を握って敵陣に突入する等、現実にあったとは考えられないほどの悲惨事が起ったのであります。それゆえ、援護法は、沖縄戦の実態を十分に調査し、その事実に基いて適用されるべきであります。沖縄男子中等学校四、五年生は鉄血勤皇隊に編成され、沖縄師範学校男子部、第一中学校、工業学校、商業学校、開南中学校は球部隊に所属し、中南部の戦争に参加しました。第二中学校、第三中学校、農林学校の一部は宇土部隊に所属し、水産学校、農林学校の一部は村上隊に所属し、北部に参戦しました。中学校二、三年生は通信兵として志願し、厳格な適性検査を受け、合格者は軍に入隊し、有線、無線、暗号、情報等の特殊教育を受け、最も重要にして危険な任務を負わされました。これら鉄血勤皇隊員、通信隊員は二等兵の階級章を与えられ、、兵器、装具、被服その他一切の給与も軍人としての処服を受けたのであります。いずれの隊も入隊式をおごそかに挙行し、上官より、皇軍の軍規を守り、軍人としての本分を守り、任務を遂行すべしとの訓示を受け、国難に殉じた暁は靖国神社に祭られるとの激励を受けたのであります。純情無垢な彼ら青少年学徒は、ひたすらに命のままに軍人として行動し、最後まで郷土防衛に奮戦しました。戦死した者は、第二中学校三年生通信隊員石川清松君等のごとく多く一等兵に昇進、あるいはまた師範学校男子部鉄血勤皇隊員久場良雄吾等のごとく一階級特進の恩典に浴した者もあります。なお、捕虜となった十七才以下の通信隊員が多く一般軍人とともにハワイの捕虜収容所に送られています。これらの学徒がすべて軍人であったことは、ごうも疑いをいれない厳然たる事実であります。  このたび厚生省と南方連絡事務所と協議の結果、男子学徒は十七才以上は軍人として十七才未満は軍属とすることは、明らかに厳然たる事実を否定したものであり、まことに遺憾にたえません。鉄血勤皇隊員及び通信隊員中戦死した者は千百五十余名、そのうち七割以上が十七才に達しない少年であります。鉄血勤皇隊員がすべて軍人として同一の行動をとったことは申すまでもありません。通信隊員はほとんど全員十七才未満の少年であります。友軍の日の丸機一機も飛ばず、全く制空権を敵に握られ、陸海空相応しての敵の猛撃を浴びながら、十四、五才の少年通信隊員は、砲弾雨飛の中に身を挺し、だぶだぶの軍服をまとい、軍靴をはいて、切断された電線をつなぎ、あるいは伝令となり、危険な任務を負うて活躍しました。通信隊の任務がきわめて重要であり、その遂行には危険を伴い、しかも彼らが年少者であったため、その犠牲は特に多く、通信隊員はほとんど全滅しております。四月十六日、徳丸中尉の率いる第三中学校通信隊は本部半島において全滅し、六月二十三日、水産学校通信隊員は傷尻摩文仁において瀬底正賢君一人を残して全員壮烈な戦死を遂げ、第二中学校通信隊のごときは、わずかに数名を残して百五十名が全滅しております。通信隊は、鉄血勤皇隊とはいささか性格を異にし、一切学校職員の参加も許さず、連絡さえ拒絶し、秘密暗号等の特殊教育を施して、純然たる軍人として軍に編入されました。鉄血勤皇隊員が軍人として資格を持つ以上に、通信隊員ば軍人としての資格を具備し、軍人として行動しています。通信隊員が十七才に達しない理由をもってほとんど全員が軍人として取り扱われないことになれば、これは明かに事実にもとり、きわめて不合理であります。もし、十七才という年令を基準にして、十七才以上は軍人とし、十七才以下を軍属とするとき、同一学年で同一部隊に属し、同一行動をとり同一場所に戦死した者が、一人は軍人、一人は軍属として取り扱われるという不合理も生じます。かかる取り扱いは、現地軍の実施した事実を否定し、純真な青少年を欺くの結果となります。殉国の至情に燃えて散華したこれら青少年に対し、国家は当然事実に即する措置を講ずべきであると思います。  青少年の英霊を欺くことなく、沖縄戦の実情に即し、事実に基いて、鉄血勤皇隊、通信隊戦傷病死者全員を軍人として取り扱われんことを懇願いたします。  これは、私ども親と、それから生き残りのあの当時の先生と、また生き残りの学友が相集まって、事実はこうであったということを作り上げたものであります。私、親といたしまして、なぜ軍人にお願いしたいかと申しますと、沖縄の特殊事情と申しますが、私たちは不幸にして生きておるという考えまで起るくらいであります。自分の国土を全員をあげて守り切れなかった、私ども実に気のひけるような責任感に打たれております。決して軍人がどうのこうのというようなこともありません。皆さんが沖縄においでになりまして、あの牛島閣下、長参謀閣下の霊に毎日草花が絶えない、香華が絶えないことをごらんになってもわかると思います。法はいろいろあるだろうと思いますけれども、議員様方がほんとうに親の訴えをお聞き取り下さいまして――わずか五百数名でございます。さらに、援護金受け取りにしましても、沖縄の実情は、この年金を受け取るような者は何者かということになりましたときに、これも半数くらいであります。実際に適用される沖縄の遺族は十五万だの何だのとありますけれども、この法によっていろいろと年金な・り恩給なりにありつく者は、一家が全滅したりして、恩給法、援護法によるものがたくさんあるわけではございません。だから、あの女子学徒あるいは十七才以上の子供たちが軍属あるいは軍人にしていただいたことに対しても、ほんとうに私たちは手を合せて感謝しておるようなわけであります。なお、御無理とは思いますが、この十五才木満の者のあの事実、私もあの戦で一緒になっておりましたが、あのだぶだぶの洋服をつけ、そしてあの通信隊が、電線が切れますと昼間出て、砲撃のあと、それから飛行機のもとでつないでいる。だれもみな壕に入っておりますけれども、この通信隊は昼間出てつないでおります。また、夕方になりますと、艦砲射撃が幾らかとまったときには、私などのおる壕にもこの少年兵が訪れてきます。訪れてきて、幾らかのお握りを与えますと、自分で食べずに、班長のもとに持っていって、班長に宮ばれたいというあの気持、実際まのあたり私どもは見ております。親としまして、私たちは決してなくなったことにつきまして恨んでもおりません。何もしておりません。私たちはお国にささげたという当然の気持でございます。だが、しかしながら、一緒に行動したところの人たちが、十七才というところを境にして、年が一日でもあるいは一年でも二年でも違ったというただその境界のもとに、同じ列に列することのできないことを、非常に悲しんでおります。だから、何とか皆様方の御同情あるいはお知恵によりまして、立法するなり何なりお願いしたいのであります。  それから、もう一つあります。その当時ちょうど私の子供が東京におりましたので新聞の切り抜きもございますが、これにも出ているように、あの当時の太田文部大臣から、沖縄の第一中学校の学徒と師範学校の学徒には表彰状も参っております。私たちは壕の中におりまして万歳を唱えて感激したものでございます。これをつけ加えて申し上げます。
  49. 高岡大輔

    高岡委員長 この際質疑がありますので、これを許可いたします。堀内一雄君。
  50. 堀内一雄

    堀内委員 ただいま金城さんの切だたる当時の事柄のお話を聞いて、ただ感激のほかないのでありまするが、ここでちょっとお伺いしたいことは、軍人と軍属との差ということでございます。今、御遺族の立場そのほかから考えまして、軍人でも軍属でも国家的施策としての扶助料というような問題においてはおそらく違いがないだろうと思いますが、ただ、靖国神社へ祭る云々という問題において、ここにいささか違いがあるのではないかと存じます。実はわれわれも今靖国神社の問題について検討中でありまして、かたがたその辺のお考えをお伺いできれば非常にけっこうです。
  51. 金城和信

    ○金城参考人 あの当時の実情はそういうことでございましたが、なぜ軍人として取り扱っていただきたいと申しますかというと、これは精神的の問題であります。遺族年金とかそういうものじゃなくて、精神上の問題でございます。親心としまして、またあの当時一緒だった生き残りの学友たち、先生方としましても、何とか一つ御尽力願いたいと思うわけです。
  52. 堀内一雄

    堀内委員 そうすると、軍人として、十七才以上の人と同じように階級というようなものを御要望になるということでありますか。
  53. 金城和信

    ○金城参考人 どうせ階級というものがつかなければ軍籍には列しないと考えております。またその当時完全に二等兵として取り扱われておるのでございます。さっきも読み上げました通り、あのだぶだぶの服をつけて、そうして軍司令官からも少年兵だとまでも言われておるというふうな状況でございまして、いわゆる国士を守る意味においてほんとうの軍事教育を受け、そして軍隊として扱われたその事実を私は申し上げておるのでございます。
  54. 堀内一雄

    堀内委員 結論は、軍人としての階級ということと、靖国神社に合祀する、その三点でございますね。
  55. 金城和信

    ○金城参考人 そうでございます。
  56. 高岡大輔

    高岡委員長 次に、元満州開拓青年義勇隊の処遇問題について近藤安雄君より伺うことといたします。参考人近藤安雄君。
  57. 近藤安雄

    ○近藤参考人 私は、元義勇隊の関係者でございまして、現在神奈川県の相模原の開拓組合内におりますが、隊の関係者の一人といたしまして、青年義勇隊のやって参りましたことと、それの性質を申し上げまして、今度の援護法で何らか国家の処遇の方法をお考え願いたいと存ずるわけでございます。   〔委員長退席、臼井委員長代理着席〕  満州開拓青年義勇隊と申しますのは、内地では満蒙開拓青少年義勇軍と申しまして、樺太から沖縄まで全部の府県に割当がございまして、当時大頭亜省が主管でございましたが、各小学校に割当をいたしまして、高等小学校を終えた十六才から――大体は十六才の卒業当時の生徒でございますが、中には十七才、十八才の生徒も入れまして、理想といたしましては一府県で一個中隊を編成して、毎年三万人ずつ満州に送出いたしました。基本訓練を一カ年間、実務訓練を二カ年現地で訓練をいたしまして、理想的な満州開拓の戦士を作り上げたいという考え方で、いわゆる二十カ年百万戸満州移民計画の重要な一部分として、昭和十三年に始まったのであります。内地では内原の訓練所で三カ月の訓練を受けまして、渡満をいたします。現地の各地にあります大訓練所というところで一カ年訓練を経まして、今度は小訓練所に参って二年の訓練をするのでございますが、私どもは将来優秀な百姓を作りたいということでやったのでございますが、当初から義勇隊には片手に銃、片手にくわというような合言葉がございまして、大訓練所の所長は全部将官級の軍人でございました。各中隊には教練指導員が配属をされまして、関東軍の訓練計画、教育計画の監督のもとに、現地におきましては二十四時間訓練でございまして、軍隊の生活と全然変りのない生活をしたわけでございます。  だんだん戦争が苛烈になって参りまして、十八年ごろになると、鞍山が爆撃を受けましたところ、重要な重工業の従業員であった満鮮人が一回の爆撃で逃げてしまった。これでは戦争に勝つことができないというので動員されたのが義勇隊でございました。私は訓練本部の職を勤めておりましたが、関東軍から呼び出しがございまして、義勇隊が現在何万いるかと聞かれました。当時渡満したのは七万くらいでございましたが、訓練所にいるのは三万くらいであると言うと、それなら三万人を出せということを言われたのでございますけれども、訓練所の生活は自給自足でございまして、馬もたくさん持っておりましたし、畑も大体一人が三町歩くらい経営しておりましたし、病人もございますから、全部出るわけにいかない、少くも半分くらい現地にいて守っていかなければ、いつ帰ってくるかわからないし、また行った人々の糧食も送らなければならないから、半分はぜひ残してもらいたいということを申し上げました。終戦当時におりました義勇隊が大体三万人くらいでございますが、そのうち南満の重工業地帯、本渓湖、金州、鞍山、撫順など重工業地帯のあらゆるところに出ておりました者が、大体二万二千名くらいであったと記憶いたしております。そのほか、全満に四十数カ所の補給所、いわゆる物資の集積所がございましたが、この警備にも一カ所四十名ずつ二カ年以上から出ました。そのほか、飛行場でございますとか、あるいは給油所などに、私どもは大へんいやがったのでございますけれども、次から次に義勇隊が動員されました。もちろんこの訓練生は、日満両国で予算も組んでおりましたが、被服から何から全部満州国で扱っておりました。これは日満両国の議定書に基く制度でございますから……。それで、親たちに対する責任もあって、危険なところには従事させられないということを言ったのでございますけれども、戦争の苛烈な状態はそれを許さないということで、三分の二くらいの者が出ておりまして、病人と低年次の生徒が訓練所に残っておりましたが、これに対しましても、終戦の一年前くらいから、どうしても酒石酸を必要とするので、山に入って山ブドウをとってもらいたいという話が出まして、訓練所にいる者はほとんど山に、ヒルに吸われながら、地下たびを破りながら山ブドウの採集に入ったのでございます。また、終戦の前には、今度は松根油をとるため松の根を掘ってもらいたいということで、これまた山に入りました。だから、訓練所にいるとはいうものの、戦争目的遂行のために私どもは全部、訓練所長の命令である、閣下の命令であるということで生徒に命令いたして、ほとんど全部がそれに従事をしておったわけでございます。  なおつけ加えて申します。昭和十六年に大東亜戦争が始まりましたとき、いわゆる関特演、関東軍特別大演習で満州の官民の大戦時編成が行われたのでございますが、その前後から国境建設計画――国境地帯の四十キロは青少年で固めなければいけない、一般開拓団ももちろん国防の用をなすけれども、青少年義勇軍は足手まといがないということで、全満に小訓練所が六十三カ所ばかりございましたが、いずれも義勇隊の訓練所は国境地帯に配置をされたわけでございます。八月の上旬に戦争が始まりましたが、私どもは非常に早く訓練所を配置しておりましたところから信任を受けまして――訓練所も丈夫な人間がたくさんおりますれば、完全武装団体でございますので、平素からきびしい訓練を受けておりますから、決して負けるものではございません。しかし、大部分の屈強な者が南満及び軍の補給所その他に出ておりましたし、軍がいち早く南満方面に撤退されまして、北満にはいくらも残っていない。訓練所には付近の開拓民、在留邦人を収容いたしまして、それでも大訓練所は正々堂々と引き揚げて南満に南下したのでございますが、小さな訓練所は襲撃を受けましてかなりな犠牲者を出しました。全部の義勇隊が八万六千人くらいでございますが、そのうちで三千七十名くらいが現在はっきりわかっております確実な死亡者でございます。なお未帰還の行方不明が三千名くらいございますが、これはどうなっているかわかりません。  義勇隊の性格でございますが、前の援護法のときには、義勇隊は自発的な意思に基いて満州へ行ったのである、だから軍人でもないし軍属でもないから、何にも国としては考えられないのだというふうなお話があったりでございますけれども、私どもには、これははなはだ疑問である。当時私どもが知っているところでも、義勇隊の壮行会には必ず宮殿下がおいでになって日比谷で壮行をする、みなが万歳万歳で東京駅まで送ってくれた、校長なりあるいは県知事がみんな出ろ出ろといって送り出す――。生きている人間は別にどうしてくれということは言うておりません。きょうも私のところヘ二十八年に帰ってきた元義勇隊の生徒が来て、今東京都の王子寮にいるそうでございますが、旋盤工の訓練を受けたが卒業してみたら就職口がない、昔あなたを知っているので、あなたも今開拓団員だから、どこかに入植さしてもらいたいという相談を先ほど受けたのでございます。今帰っております者はおのおの仲よくしまして何とか各方面に活躍しておりますが、死んだ者に対しては、何かわれわれでできるのであればやってあげたいけれども、そいつができないので、これは国で考えていただくのがいいと思います。  この前援護法が改正になりましたときに、幸いにいたしまして、義勇隊がソ連と交戦し原住民と戦いまして都会地に避難の途中に戦死した者については適用し、三万円の弔慰金を出そうということになったのでございまして、大へんありがたいというふうに考えたのでございますけれども、ただ、問題のございますことは、これは私どもにも欠点があったのでございますが、内地の方は満州の地名がよくわからない、それに、まだ未成年の子供を国にお預けし、われわれが預かっておって、名も知らない何々屯であるとか、あるいはどこそこで匪賊の襲撃を受けて殺されたということがはなはだ言いにくい結果、大部分の者が名のわかっているハルピンでありますとか吉林でありますとかいうようなところで死亡したということにして、内地へ帰って戸籍を抹消いたしておるのでございます。ところが、外務省のお調べによると、吉林では戦闘がなかった、あるいはハルピンでは戦闘がなかったと言う。実際問題といたしますと、命からがら逃げて参りまして、そしてほんとうに一銭も金がなく、終戦後早い者で一カ年間の引き揚げをいたします間は、在留邦人の多くの人は衣服の売り食いをしたり退職金をもらったりしてかなり裕福に暮せたのでございますけれども、奥地から避難してきた義勇隊の者は、難民収容所におきましても、使役として非常に使われ、また義勇隊の者は女の人方に大へん同情が深く、たとえば水くみであるとかあるいは運搬であるとか警備に立つというふうなことは、大がいどの収容所でも義勇隊の者が担当をいたしまして、一方、自給自足でございまして、自分たちは、日本人会がありましても、金なり物なり、働ける腕があるというので、給与がもらえない、そして一番達者であるから一番悪い宿舎に入れられる、それまでにかなりからだがいたんでおりますから、また非常に密集生活をしておりましたものですから、病気が出て死亡者が多くなったということでございます。当時の状況を御存じの方たちは、義勇隊の行動に対してはいずれもほめていただいているわけでございます。引き揚げて参りましてからも、開拓団に入植をしております者は非常にまじめによくやっております。また、秋田の生徒でございましたが、山田君というのはボストンのマラソンで優勝なんかもしておりますように、大がいの者が内地に帰ってからは非常にまじめによくやってくれておりますが、ただ、寄るとさわると、死んだ者に対して何かしてやってもらいたい-。当時、校長先生等にいたしましても、私どもが帰って参りましたときには義勇隊の生徒は家へ来てくれるな、家へ来てくれるとどうも誤解を受けて自分の首が危いというふうなことで、敬遠をされまして、義勇隊の生徒は非常にむくれかえったのでございますが、私どもは、義勇隊の訓練なり何なりを忘れてはいけないというふうなことで戒め合って参りました結果、今日まであれだけ悲惨な扱いを受けたが、会社の若い労務者でありますと、かなり事故を起したのでございますが、義勇隊の生徒が内地に帰りましてから事故を起している件は一件もないのでございます。  義勇隊の当時の実情は、ほんとうに完全な、そして名目のない少年兵であった。軍の補給所に行っておりました者は、訓練期間が終りますと、軍属になりたい者はなれということでございましたが、本来が百姓を目的として行った者でございますから、軍属になることをがえんじなかったというのが多いのであります。義勇隊は武装もしております。服は兵隊と同じ黄色い服でございます。大隊、中隊、小隊というふうな編成がございまして、軍需工場へ参りましても、山ブドウの採取に参りましても、とにかく原地民は全部少年兵と言うておったわけでございまして、私どももまたそういう誇りを持ってやって参りまして、今日まで悲鳴は全然あげていないのでございますが、あまりに今まで国として冷たいのではないかと思います。金額の点は申しません。一つ今回はぜひ国家として何らか、よくやったという意志を表明していただきたい。お願いをいたします。
  58. 臼井莊一

    臼井委員長代理 次に、箆兼雄君より事情を伺うことにいたします。
  59. 箆兼雄

    ○箆参考人 私、大阪の箆でございます。昭和十三年の第一回の義勇隊のときから、指導員といたしまして、小さい十四才、十五才、十六才の子供と一緒に終戦ちょっと前まで――途中で応召になりましたが、それまで一緒に暮して参りました。小学校を出たての十四才――まだこのくらいの背丈の子供、くわの柄の力が背が高かったというような子供を約三百名連れまして大阪から出たのでありますが、内原で約三カ月の基本訓練を受けまして、たごを引きずってかつげないような子供が、巻ぎぎゃはんを巻きまして、戦闘帽をかぶって、りりしく、出るときは東京の区内、大阪の市内を行進し、壮行会を受けて、勇躍父兄の見送りも受けて出ていったのであります。そのときは見送りの方は全部涙を流して送ってくれました。そして、勃利の大訓練所にちょうど六月の中ごろでありますが着きましたときに、行って聞いたところが、二日前に勃利の守備隊が匪賊に襲撃されて、二日ほど身動きができなかったというような情報で、列車から下してもらわずに、すぐに兵器を――兵器というのは小銃でありますが、小銃と軽機関銃を三丁もらいまして、すぐその場から歩哨に立ち、警備に当ったのであります。それから列車の中で一晩疲れたのを休めて、あくる日雨の降る中をトラックで勃利の大訓まで約十里の道を行ったのでありますが、迎えに来てくれた先遣隊の少年たちは、それもちょうど同じなんですが、三日目、馬の輸送でここの岡で匪賊とわれわれは激戦したのだ、匪賊を一人殺して何とか命拾いをしたというようなことで、そういう険悪な中に私たちはようやくそのような小さい子供と一緒に入っていきました。そのようにして、行くときからすぐに兵器を持った武装団体のようになってしまったのであります。  それからすぐに建設にかかりました。農耕なりあるいは家の建設にかかりましたが、軍も非常によく応援してくれました。郵便物なんかは軍事郵便に当初扱ってくれました。それから、子供のことであるから非常にかわいそうだというので、軍の甘味品を訓練所の方に回してくれたのであります。当時の義勇隊の訓練生の待遇は、被服なり食糧は全部国家の方でしてくれまして、月額三円の小づかいが渡っております。その小づかいも大体日用品等に充てまして、ほとんど子供たちは金を握らずに生活しておった、そういうふうな状態であります。それで、一個中隊に対して軍から五、六人の将校以下下士官兵が来まして、一週間の軍事訓練をみっちり毎年やっておったのです。昭和十六年の関特演、関東軍の特別大演習のときには、私はちょうど教練指導員でおりましたししますので、その中の訓練生を五十名すぐ出してくれ、そして指導員一名つけということで、私が行きまして、宝清県から大和鎮に至る湿地の道路建設作業、それを、軍の隊長は滝川中尉でありましたが、その方と下士官、兵が各班に責任者につきまして、約三カ月間軍のまかないを得まして作業に従事しました。その途中に、まだそれでは十分でないというので、宝清県の飛行場の整備に約二カ月間、私の留守中に出ております。そういうふうにして、軍の協力は何から何までというわけでもありませんが、できるだけ協力させられて参りました。しかし、その働きぶりは兵隊でも驚くほど純真で、義勇隊訓練生は非常にかわいがられておりました。  話が飛びますけれども、その当時、そういう状況でありましたので、訓練生がなくなりますと、拓務省から、昭和十五年現在におきまして、匪賊なんかに襲われて死んだ戦死の場合は百円、病気で死んだとかあるいはいろいろな事故で死んだ者には五十円の弔慰金、それから日本の青年団からは三十円及び十円、それから満拓とか満鉄、いろいろありますが、陸軍省からも十三円の弔慰金が出ておるのであります。それから関東軍からも、戦死の場合は五十円、その他の場合は二十円、そういうものを合わせますと、当時で五百九十三円の弔慰金を訓練生がなくなったときにいただいておる。そうして本籍地では準公葬で盛大にお弔いをしてもらったというようになっております。病気で死んだ者も二百六十円の弔慰金をいただいておった。そういうふうな特殊な扱いを受けておったのであります。  それから、これは少し違うかもしれませんが、こういうような資料がありますので、ちょっとお読みしたいと思います。   青年義勇隊の兵役に関する件  曩に関東軍参謀長より示達せられたる(関参満発第四六〇号)義勇隊訓練生の現役志願者取扱に付ては左の通り実施せられたし  一、昭和十五年度を以て三ヶ年の訓練を終了する訓練生中現役志願年令に達し現役志願を申出たる場合は充分本人の身心の発育状態家庭の実情等を調査考慮の上現役志願を為さしむるを適当と認めたるものについてのみ家庭と連絡し父兄の承諾書を添附し当該地区徴兵検査日時迄に検査官に出願せしむべし但し其の人員当該訓練所訓練生中本年度徴兵適令者総員の四%を超ゆるときは其の超過人員に付ては次年度に延期出願せしむべし又本年度を以て三ヶ年の訓練期間を終了するに至らざる者については訓練終了迄出願を延期せしむべし  二、義勇隊訓練生の現役を含む各種召集等は総て関東軍隷下部隊に於て服務せしむることに定めらる而して以上の示達令状等は関東軍兵事部長を経て本人に伝達せらるる筈に付将来原籍市区町村長等より直接内地部隊入営若くは召集令状等交付を受けたる場合は速に情を具して関係機関を通じ関東軍兵事部長に返送し取消を願出づべし  一般開拓民開拓団指導員義勇隊指導員等も右に準ず  三、義勇隊訓練生及び開拓団員家族にして将来開拓民たる希望を有する者徴兵検査の結果服役確定せしときは直ちに関係機関を経て関東軍兵事部長に届出で関東軍隷下開拓地壮丁としての取扱を受くべし こういうふうに開拓地壮丁としての取扱いというのがあったと思うのであります。今のは参考のために読ませていただきました。  それから、私が十八年の暮れに大阪送出の訓練所の中隊長にかわりまして、泥秋訓練所に参ったのであります。泥秋は小興安嶺のふもとでありますが、それにかわって行きました。そこでは、前と同じてありますが、ちょうど訓練が三年目になりますので、開拓団に移行する移行中隊長会議に私が列席しまして、いろいろと人植地なり相談があったのでありますが、そのとき関東軍の参謀が出てきてまして、非常に戦局は苛烈になってきた、関東軍も大きい声では言えないが手薄になっている、それで移行する訓練生の半数を各補給所の警備、それから現地自活その他に一つ回してもらいたいということが要求せられまして、当時、私たちといたしましては、すぐどういうふうにするんだということでだいぶもんだのでありますが、結局、細部にわたっては訓練本部から指示するということで、参謀はただそれだけ承知してくれということで引き下ったのでありますが、その後訓練本部から私の泥秋の訓練所に言ってきたのが、約半数の九十六名、ハイラルの第二千六百四十部隊、自動車廠でありますが、その自動車廠の博克図の分遣隊といいますか分廠、そこに行ってくれということで、その前に将校と下士官が連絡に参りまして、人選をいたし、そしてうちの藤原という指導員を一人つけまして、十一月の初めに軍役奉仕隊として出したのであります。そのときの私の記憶では、大体間違いないと思うのですが、半数は団に移行するが半数は軍役奉仕に出る、その軍役奉仕に出るのは軍属として取扱います、大体七十円から七十五円くらいの月給を払う、しかしまかないはそのうちから軍の方に差し出してくれということで、約半分くらいの経費で大体まかなっておったと思うのであります。残った経費は開拓団に移行した暁にそれを資本にして開拓をやったらいいじゃないかというようなことで、全部一括した経理をしておりました。そして出ていっておる間に昭和二十年の八月の終戦になったのでありますが、その行っておった連中は、十八才以下の者は博克図付近の防衛のためにすぐ派遣されまして、十八才以上の者は、兵隊と一緒にシベリアまで連れていかれまして、向うで死んだり、あるいは帰ってきたり、いろいろしておるわけであります。  それから、終戦の八月のソ連参戦当時のいきさつでありますが、その前に私が応召になりましたので、これは帰ってきた訓練生から聞いたことであります。これは何回も聞いておりますので事実に間違いないと思います。その前に、泥秋訓練所は、入植するために――まだ入植しておりませんが、するために、東満総省の頭道というところに行っております。そうしてそこで建設なり農耕をしておりましたところが、どうも満人がたくさん丘の上からマーチョを連ねてやってくる。おかしいということで、すぐ警備に立っておった訓練生が銃をもって追っ払いに行ったところが、そのときは逃げたのであります。その翌日八月九日には、どうも日本の飛行機じゃないような飛行機が訓練所の上に飛んでいる。おかしいというので、すぐ県公署の方へ連絡しましたところ、ソ連が参戦してきた、宝清地区の駐屯部隊から、軍隊は図佳線――佳木斯から図們に通っているあの線路を抵抗線にして戦闘するから、訓練生及び開拓団の者はそれ以西のところに行け、そこで訓練生は常にその図佳線において軍の命によって動くようにということを警備電話で言ってきたことを初めて知りまして、あわてて分散している訓練生を集めて、そうして付近の開拓地の婦女子等を全部護衛しまして、勃利の方に向って、あれは道がないのでありますが、その山の中、川に沿って、途中、死ぬような思いといいますか、何百キロの道をさまよったのであります。その途中いろいろ戦闘しておりますが、それは戦闘概要に出してあります。そのときに婦女子のほとんどは行方不明になっております。それから訓練生の十数名の者は戦死しております。戦闘概要に書いてあるのですが、大体、開拓団及び義勇隊の避難途中の悲惨な記録ということは、私が今さら申し上げるまでもなくよく御承知のことと思いますので、省きますが、そうして、八月九日に出発して九月十四日に、日本の参謀とソ連の参謀とが、牡丹江の西北の部落のところで日本の兵隊と一緒に匪賊といいますか反乱軍と交戦しているときに出てきて、日本は負けたんだということで、そこで武装解除を受けた。そういうふうにして、途中行方不明になった者、及びばらばらになった者なんかが栄養失調になったりぼろぼろの服を着てようやく町にたどり着き、当時の新聞で御承知と思いますが、開拓団はこじき部隊だ、義勇隊は麻袋部隊だと出ておりました。その通りであります。そして町で次々と病気になり栄養失調にたたられて死んでいったというような状態になっておるのであります。  近藤参考人から申し上げましたように、われわれが義勇隊訓練生に志願して行くときは、学校の先生が、大体大阪だったら一個中隊編成するのだということで、校長会議をやり、あるいは地方の町村長会議などいろいろやりまして、いかにしてそれを集めるか、半強制的に非常に勧めてくれたのであります。そして行くときは満蒙開拓青少年義勇軍と書いた白だすきをかけて勇躍して出て行ったのであります。途中なくなった者は前に申しましたように準公葬で弔慰金ももらったのでありますが、戦争に負けてそういうふうにみじめに帰ってきた、あるいは帰る途中なくなった者に対しましては知らぬ顔をしておる。お前は勝手に行ったんだというような仕打ちをされておるのでありまして、なくなった方及び未帰還の方の父兄からは、われわれに対してあるいは学校の先生に対して、非常にやかましく、うちの子供が行かなかったら生活にも困難しなかっただろう、あの子は長男だ、あの子は非常にしっかりしておった――事実、義勇隊に志願した子供は、私から申すのも何ですけれども、非常に進取の気象に富んでおり、覇気のある子供たちで、前に近藤参考人からも申されたように、普通の青少年と少し違ったところがありました。それをなくした親たちの嘆き、あるいは兵隊に行っておったならば公務扶助料なり遺族年金をもらえるのに学校の先生が無理に勧めたがためにうちの子供はいまだにそのままだ、あるいは生きているか死んでいるかわからないと言って嘆くのが非常に多いのであります。それで、この国会におきまして何とか一つそういう死んだ子供たちのために国家の恩典を与えていただきたいと思いまして、下手ながら申し上げた次第であります。
  60. 臼井莊一

    臼井委員長代理 御苦労さんでした。  次に、中国人俘虜死没者遺骨送還問題について大谷瑩潤君より事情を伺うことにいたします。参考人大谷瑩潤君。
  61. 大谷瑩潤

    ○大谷参考人 今日は衆議院の海外同胞引揚特別委員会のお招きによりまして、われわれ中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の者に、その事情を聴取してやろうというおぼしめしをもって、ただいまからその説明をさしていただきますることは、私どもまる三年にわたってこの事業を遂行して参りました者といたしまして、心から感謝を申し上げる次第でございます。この事業につきましては、この前一度海外同胞引揚特別委員会で参考人としてお呼び出しをこうむったときにも申し上げてありますので、大体の事情は御了解願っておるのではないかと思いますが、その後実は事業も多少進行いたしましたので、かたがた御迷惑でもその後の事情を加えてお聞き取りを願いたいと思うのでございます。  そもそも、われわれがなぜ実行委員会というものをこしらえてその事業を開始したかと申しますと、御承知の通り、今度の大東亜戦争の末期におきまして、日本の労働力が非常に減退いたしました結果、軍の方針として、日本内地における事業を中国人に労働さして進行していこうということで、このことを内閣において決議いたされまして、それがきっかけとなったところに実はこの問題の端緒があるのでございます。今お手元に差し上げてございますプリントの中にもあると思いまするが、昭和十七年十一月二十七日の閣議決定、これで中華の労働者を内地に移入して労働をさせようということが決定されたのでありまして、その後テスト・ケースとして試験的に一千名程度の中国人を日本へ連れてきたのであります。ところが、その成績は非常に実績が上ったそうでありまして、その結果、昭和十九年二月二十八日の次官会議の決定をもって、再び全面的、本格的にこの中国人をこちらへ移入するということになりまして、約四万数千人が日本へ連れてこられたのであります。しかし、表面は非常に体裁よくできておりまして、三カ年の契約でもって一応終るということになっておりまするし、また現地の大使館あるいは現地軍、国民政府というものの指導でもって希望者を募集するというような工合に発表されておったのでありまするが、事実においては、軍の捕虜は申すに及ばず、一般人の中でも体力の充実しておる、よい体格を持っておる者を家庭から引き抜いて捕虜同様にして日本へ連れてこられたというような事情にあったということであります。そうして、日本国民総動員計画の産業中で鉱業あるいは土木建築業及び重要なる工業その他の事業場にこれを配分して働かすということになったのであるそうでございます。しかしながら、その収容された中国人の生活はまことにみじめでありまして、申すまでもなく日本国民でも戦時の末期におきましては非常に生活が窮屈であったのであります、ましていわんや、こういう捕虜待遇をもって敵国の中国人として移入された人でありまするからして、相当の重労働、並びに防諜関係あるいは逃亡の防止というような面では非常に厳重なる取扱いをこうむったということがどうも事実のようであります。その結果は、ついに不満、不平が起りまして、そうして、あるいは逃亡を企てたり、あるいはまた傷害事件が起る、あるいはサポタージュが起るというような、事業場におきまするいろいろのアクシデントが、ついにかような嘆かわしい結果を生むようなことになって参りまして、あるいは銃殺あるいは撲殺というようなことで約六千数百名の人たちが各地で命を失ったというような事情にあるのでございます。  そこで、まず第一に問題として起って参りましたのが花岡事件でございまして、これは、土地の者は申すに及ばず、外務省当局あるいはまたその後日本に滞在しておられる華僑の方々、そういう方々の間から、遺骨に対する取扱いの疎漏、粗末という点に対して、これでは、終戦後の日本国民が戦争に対する総ざんげということを標傍し、そうして道義を高揚して再び戦争をなくしようということを海外に声高らかに張り上げて、憲法を改正して、しかも軍力、兵力というものは一切これを持たないという平和国家としての面を強く打ち出しておるにもかかわらず、戦争の跡始末としてもかくのごときことを放置しておくということはまことによろしくないことであり、道義の上から申しげても許すベからざることであるということから、まず花岡のその遺骨を東京へ持って参りまして、そうして東京の浅草本願寺で丁重なる慰霊法要を行いまして、これを中国の方へお送りすることにしようじゃないかという議がまとまったのであります。   〔臼井委員長代理退席、委員長着席〕  そこで、日本赤十字社日本平和連絡会、日中友好協会、日本労働組合総評議会、日本仏教連合会、日本仏教鑚仰会、日中貿易促進会議、、平和推進国民会議日本国民救援会、在華同胞帰国協力会、海外戦没者慰霊委員会、東寺、東京華僑総会、こういう団体が発起人となりまして慰霊実行委員会を結成し、ただいま申し上げたようなことを心の底から国民のざんげ行として遂行して参ろうということに話が決したのでございます。そうして、さっき申し上げました慰霊法要を行うに対しまして、実は私が仏教徒でありまする関係上、私に委員長を持ってもらいたいというようなことで御交渉を受けたのが、そもそも私の関係いたしました最初でございます。実は、この問題は、私不肖ながら参議院議員として国会議員の議席を汚しておりまするけれども、こういう問題を政治問題化して参るということには私は絶対反対でございまして、真に国民の道義運動、ざんげの行としてこれを遂行して参りたいというのが私の委員長を引き受けました最初からの念願であり、また今日まで約三カ年間全くその精神に基いて事業を進めて参ったつもりでございます。  そこで、第一回の慰霊祭を行いますことは、大へん皆さんの御理解でもって盛大に勤めることができまして、一応それで私の委員長たる責任は終ったのでありましたが、その後、これを中国の方へ送り帰すという仕事が重大な問題であるから、ぜひ委員長を続けてやれということになりまして、実は私も慰霊祭だけであとは野となれ山となれというような気持は持っておらなかったものでありますから、引き続いて今日までこの仕事に関係をさせていただいておるのであります。ただ、その当時日本政府といたしまして非常に心配されましたことは、中共をめぐる国際関係がいまだ回復しておらないということに対しまして、台湾政府がこれをどう見て参るか、またこれに対してどう批判を加え行動に移していくかということに対しまして、非常に神経を使われた外務省の心境であったように考えられるのであります。それとともに、この問題は今まで眠っていた子供を起すようなものでありまして、外務省の調査によれば、これが各地で六千からの数字になるが、こういうものをあっちこっちで整理して中国の方に送るということになると、また新しく戦犯問題が起る、あるいはまた賠償問題等が持ち出されるのじゃなかろうかというようなことで、外務省の方としては非常な神経過敏になっておられたようであります。けれども、われわれといたしましては、支那海を通って送還いたしまする場合に、台湾政府として、軍の戦力の輸送をするのでなく戦争後の跡始末としての御遺骨を宗教的に送り帰そうというような船に対して、じゃまをするとか、あるいは安全保障をしてないからこれを攻撃するとか、そういうようなことは決してあるまい、終戦のときに、過去の日本のあやまちは一切これをとがめないという大きな東洋道徳的なことを海外に声明し、日本にもそれを声明された蒋介石総統としては、このような行事に対しまして、そういうような乱暴な取扱いをされ、また船に対して攻撃を加えられるようなことは絶対ないものであると信じ、かつまた、かりにそういうことがあって、われわれ捧持団が船とともに、遺骨とともに海底に没しましょうとも、われわれ日本国民としてはどうしてもやらなければならない道義的事業であると感じまして、しいて外務省にお願いをいたしまして、第一回送還船を出していただくことになったのでございます。その第一回は、一九五三年七月二日、黒潮丸という五百トンに足らない船、これで行けという外務省からの御命令でございまして、われわれこれに乗船して捧持して参りました者は、お手元のプリントにありますから、名前をあげることを略させていただきますが、たとい支那海のようなところでも、七月二日のあの荒天に死を賭して四百数十トンの小さな船で遺骨を運びました心情というものは、これは一つ皆さん方も御理解と御同情をもってお考えを願いたいと思うのであります。  あまり長くなりますから簡単に申し上げますが、その後各地で、今申し上げましたような団体がそれぞれ手分けをいたしまして、遺骨の捜索並びにそれの収集等を実行いたしまして、そうして第二回には、わが同胞をお迎えに参りまする興安丸というあの引揚船を、一九五三年八月二十六日に第二次船として出していただいたのであります。これが五百七十八柱あちらへお送りをいたしました。第一回のときは五百六十柱。第三回は一九五三年十月二十九日、二百三柱お送りをすることができました。これみな興安丸でありますが、第四次には、一九五四年十一月十六日に八百七十六柱、これだけをお送りすることができたのであります。総計いたしまして二千二百十七柱でございます。ところが、まだ未処理の分が、これも表で差し上げてございまするが、約四千三百三十五柱残っておるのでありまして、この中には、風雨にさらされ、あるいはその土地の風水害のために地形が改変されたものもありまして、全部が全部わかっておるということは申し上げられませんが、大体わかっておるのがその表の上に載っておる各地の数でございます。今年になりまして、福島県あるいに秋田県等におきましても約二百五柱の遺骨を収集いたしたのでありまするが、まだ、手が足りませんのと経費が非常にかかりまする関係上、われわれの焦燥しておりまするほどに十分なる集骨ができないような事情でございます。  かようにいたしまして、今日なおこの事業を継続いたしておるのでございまするが、一九五五年四月末現在の全国の遺骨の状況は、そこの表の次のページにございます通り、北海道、茨城、長野、岐阜、大阪、兵庫、九州、福岡、そうして東京を中心としたものでありまするが、実は、この東京の遺骨に対しましては、はなはだ申し上げかねる事情がございまして、われわれが実行委員会を結成いたしまする以前から宙に迷っておる遺骨でございます。日蓮宗常楽寺というお寺に収容されておった遺骨が三百から千までの間の数であったのでありましたが、ある団体がこれを取り上げまして、そうして現在ではその団体の保管のもとに慰霊されておるという事情でございまするが、これは遺骨収集事業のほかに相当いろいろのうわさを生んだ遺骨でございます。かようにいたしまして、現在各地でそれぞれの団体が尽力をいたしてくれておりますので、今年中には、今日現在わかっておりますものだけは収集することができるのではなかろうかと思うのでございます。ゆえに、今年中に何とかしてこれを中国の方へお送りをするということでこの事業も一段落をつけたいというのがわれわれの念願なのであります。  その次の事業場の表をごらん下さいますと、これはさっき申し上げました人たちを使った場所が書いてございます。それからその次の図面でございますが、これは遺骨が散在しておる表でございます。  そこで、最後に申し上げたいことは、この遺骨というものは果して中国側から送り届けてくれという要求があるのかないのかというようなことに対しまして、さきの内閣では非常な追及を受けたのでありましたが、御承知の通りに、昨年の十月一日の中国の国慶節に、私ども十四名の者が文化人として招待を受けました。今日御出席になっておりまする神近先生は婦人団体の団長としてその当時あちらへおいでになったのでありまして、私も中国で親しくお目にかかったような次第でございます。その節に、ちょうど議員団の方と一緒に文化団体の者も周恩来総理にお会いする機会を得たのでありましたが、私はぼんやりしておりましたけれども、その会場へ入りまする入口で、私の手を周恩来氏がかたく握られまして、大谷さんはわれわれの烈士の遺骨送還して下されまして、われわれ中華民国の国民として非常に感謝をいたしております、どうぞこの上ともよろしく願いますということを申されたのであります。私は普通のあいさつの握手であると思っておるにもかかわらず、そういうことを申されたので、中国における総理ともいわれるような人が、われわれとしてはまことに微々たる仕事であると思っておったのにもかかわらず、かくも認識を深めておられるのかということを思いまして、私もどぎまぎして、やあ一向行き届きませんでというようなことを申したようなことであったのであります。神近先生も御承知でしょうが、議員団も参りましたし、また労働組合の方もおいでになりましたし、また婦人団体の方もおいでになりましたが、総理が一具に心から手を握って感謝をしてくれたという仕事は、私は戦争後これが初めてでないかというようなうぬぼれたことすらも考えるほどに、この問題に対しましては中国では関心を持っております。なおかつ、御承知の中国紅十字会の会長李徳全氏に、私が参りましたときにあちらでお訪ねしてお会いしました。そうして、まずわが同胞引き揚げをお願いし、戦犯の釈放をお願いし、ひいてはわが同胞遺骨送還中国からしていただきたいということをお願いし、最後に、中国人の遺骨をお届けいたしておりまするが、これに対して、お受け取り下さる上にどういうお気持でそれをやって下さりますかということを尋ねましたが、いや、私どもの国の烈士でありまするから、丁重にお迎えして、そうして、全部終りましたときには、場所を選んでそこに慰霊搭を建てまして、そこへ奉安をするつもりであります、ですから、なるべく早くこれを完結していただきたい、かように申されたのでありまして、その後日本へ来られましたが、そのときに、私どもといたしましては、まだ残っておりました遺骨をまた浅草本願寺へ奉安いたしまして、その一行を迎えて実は慰霊祭をいたしたのであります。そのときに、慶承志副団長が、あいさつの中で、日本戦犯者の遺骨を送り届ける用意があるからこれに対して受け入れをしてもらいたいということを、公衆の面前で初めて発表されたのであります。これは、申すまでもなく、われわれのこの小さな仕事に対しましても、向うとしては、日本の遺家族の方方、が心から待ち受けておるわが同胞遺骨を送り帰さなければならぬという道義の上に立って、これを処理し、これを発表されたものと私はかたく信じておる次第でございます。  かようにいたしまして、この事業もおいおい進んで参ってきておりまするが、昭和二十九年八月、参議院の厚生委員会において中岡人捕虜殉難者の遺骨送還に関する小委員会というものをお作り下さいまして、社会党の竹中勝男先生に小委員長になっていただきまして、この問題に対しまして深く掘り下げ、そうしてまた今日までの事情を聞き、将来のこれの処理という点に対しましてわれわれの希望をとくと聞いていただきまして、委員会で御協議を願っておる次第でございます。私どもといたしましては、この遺骨問題が今日までこうやって実行委員会によって処理されて参りましたが、これは全くわれわれ民間人の手においてなされてきたことでありますが、今日は、内閣も変り、ソ連中共等における国交回復の点に対しましても、鳩山総理は熱意を持って現に日ソ関係調整には実行にお入りになっている次第であります。遠からずして中共との問題も台湾政府の了解の上に進められることと思いますが、こういうときにまできたからには、これは国家的事業でありまして、私は一民間人の処理すべきものではないと考えておるのでありまして、零細ながら民間の寄付金をつのりつつ今日までこれを遂行して参りましたけれども、これから先は国家がこれを取り上げていただきたい。われわれは、今までやってきたことに対して何ら条件を申すのではなく、真に国家事業として最後の仕上げまで国家の手でやっていただきたいということを念願しているものでございます。これらの点については、いろいろ思想問題もあるし、国交調整の今日といたしましては、いろいろのお考えもあろうかと存じまするが、道義的な立場に立って国家の手においてこれを処理していただきたいということが、われわれ実行委員の念願なのでございます。  そういうような事情で今日まできておりますので、これを衆議院の方の皆さん方にも申し上げまして、超党派的にお考え願って、完全にこれが終了されますことが、やがては中共日本との国交回復の上に何かのお役に立つではないかとすら考えるような事情もございますから、どうぞ一つ、よく御審議を願いまして、御支持をお願い申し上げたい、かように存じている次第でございます。はなはだ失礼をいたしました。
  62. 高岡大輔

    高岡委員長 次に、赤津益造君より事情を伺うことといたします。参考人赤津益造君。
  63. 赤津益造

    ○赤津参考人 ただいま、会を代表する大谷委員長から、この事業の経過現状あるいは中国側がこの事業についてどう考え、どういう関心を持っているかということにつきまして、あらましを述べられましたが、私はそれを若干補足する程度にしておきたいと思います。  この事業は、全く民間の団体あるいは個人が相寄りまして、何としてもこの日本のしかけた戦争によって国内及びアジア、また広い地域にわたって迷惑を及ぼしたこの戦争の跡始末をわれわれの手ですることが日本人の道義上当然なすべきことである、これをなすことによってわれわれが再び中国初めアジアの人たちと手を握り合える、これをぜひやらなければならぬというような気持から、宗教界も労働界も、その他の団体も、今までここ三年にわたって協力して進めてきた次第であります。中央には大谷委員長を中心とする団体がございまして、各地にも同じように地万の慰霊実行委員会というものが持たれておるのであります。  仕事は、各地の実行委員会が、それぞれ、山に入り草を分けてということで、朽ち果てた塔婆を探し出して、そこから掘ります、あるいは、土盛りの跡をたずねて、そこから掘り出す、あるいは、現在でもそういうところがあるのでありますが、白骨が散在しているところを探し出して仕事を進めておるのであります。各地方とも、県仏教会、あるいは市の払教会が率先して参加してくれております。また、今日まで二千二百十七体を送りました関係の各県では、どこでも、県の知事さん、日赤の支部長さんがこの事業に参加していただいており、遺族会の方には特に御熱心に御協力していただいております。そういう方々の御奉仕があって初めてわれわれのささやかな寄付金あるいは分担金で今日までやってこれたわけであります。これなくしては、われわれのような微力の者にこれだけの仕事はできなかったろうと思います。そういう点を考えますと、この仕事は、まさしく、国民のざんげの気持と、それから、もう再びアジアにおいて戦争は繰り返すべからずというような気持が、その熱心となって現われておるのだと思います。現在も北海道で発掘が行われております。関東に近いところでは、茨城県の日立鉱山、それから岐阜県には現在、三カ所発掘の準備が進んでおります。大阪でも先ごろ一部が発見されまして、中国の貿易代表団が来ているときに慰霊祭が持たれました。兵庫にも一部出ております。また、九州では、この犠牲者の中に原爆死した人たちが三十数名もあるというので、これをことしの原爆の慰霊祭には合葬したいという運動が長崎県で起っております。そういう工合で、すべて、ただいま申し上げたような地方の方々の宗教会、その他各団体、県庁初め地方自治体の方々、それから遺族会の方々も含めて、もう帯び戦争によるこういう悲惨事は繰り返すまいという気持が集まってこれをやっておるという次第でございます。  それと、先ほど大谷委員長から、東京に関する特殊な遺骨について触れられましたが、これは三百ないし一千の見込みということにここにもあげてありますが、この当事者が現に東京におるのでございます。それを牛込の常楽寺というところに納めたわけなんですが、それが、保管した方々の中でいろいろな対立が起きまして、それを千葉県へ持っていって、それをまた今度神道系の方々が埼王の浦和へ持っていっておるというような工合です。こういう事業は、政府も船を出して送還が行われておるのであるから、どうか一緒に参加してくれないか、あなた方が今が今まで保管して下さった御苦労、御苦心に対してはわれわれは尊重する、一緒にやっていただきたいと申し述べておるのでありますが、どういうものか、われわれのところへ一緒に合流していただけない。そうして、それが何体あるか、それからどういう人の遺骨であるかということをはっきり言ってくれないというものがあるのであります。その人たちの言うところによりますと、のど仏だけを数えても八百数十体あるだろうということです。なぜ三百体と言いますかというと、これは、その人たちがどこそこの関係の会社からの者が来ておるということを申しますので、その関係死亡した人の数を加えると最低三百幾ら。それから、その人たちが申すのは、のど仏の数を数えても八百数十体あるだろう、あるいは記憶によれば千二十体くらいあるのではないかということも言われておるので、こういう数字を掲げておるわけでありますが、これに対して、私たちも、東京にあるのでありますから、何とか早く合流していただいて、あるいは一緒にお送りしたいと思って、一昨年から焦慮しておるのであります。そういう関係のところに御相談に行きましたら、遺骨を種にして何かをしようというような者はすなおには出さぬから、何か告訴でもしたらいいだろうというふうなことを言われますが、われわれの事業の趣旨といたしまして、そういう荒々しいことはなるべく避けたい、自発的にやっていただきたいと思いまして、今日まで何とか自発的に一緒にやってくれることを念願しておるわけです。ところが、その人たちの申すには、これには外務省の方々が関係しておる、だから、われわれは外務省がしろと言われれば一緒にやってもいいというようなことを言われるわけでございます。それで、われわれも、その人たちのところへ行きまして、外務省のどういう人がかつて関係したかというようなことにつきまして文書などを二、三点見せてもらいまして、その写しはもらってきておりますが、とにかく、政府がこの問題で政府責任で処理するという声を一つおかけ下されば、こういうものもすぐさま出てくることになるかと思います。ですから、あと四千幾ら残っているといいましても、そのうちの千前後のものは立ちどころに出てくるというような工合で、これをわれわれのような民間の手でやっておりますと、一月で片づくものが半年になり一年になります。民間で現在もやっておりまして、ことしも何とか千体前後のものは少くとも第五次としてお送りしたいと思いますけれども、民間の力にも限度があります。それからまた、そこにあることがわかりましても、われわれがそれを出せと言うことはできかねる事情がありますので、こういう問題は、いつまでもほうっておくわけにいきませんし、一日も早く政府責任において処理されるという御方針が確立しますれば、直ちに解決する問題だと思います。  それから、御参考までに申し上げたいことは、これまで四回にわたって二千三百十七体をお送りしたのでありますが、それに要したわれわれの資金は非常に微々たるものでございます。中央が二十八年の二月からこの六月までに費した金は二百五十二万ほど、地方の実行委員会で二年間に使った金が、今まで中央に集まっている資料をただ集計しただけのものが千百万ばかり、もっともまだ報出口の来ていないものが、五、六カ所ありますが、これを総計しましても千五百万円そこそこの金で、しかもこれだけのことをやれたのは、振り返ってみまして、やはり国民の皆さんの御熱心と御協力があったればこそと思うのであります。これを、日本丸あるいは大成丸で海を越えて同胞遺骨を集めているあの事業と対比しましても、私たちのやってきた仕事は決して小さなものでなかったということを、いささか自負しているわけでございますが、それは、大谷委員長が言われたように、中国がわれわれの想像している以上にこの事業に関心を持ち、また感謝をしておる、そして、私たち同胞の遺家族が自分の家族の帰還遺骨帰還を一日千秋の思いで待っていると同じように、あるいはそれ以上にこれを待っておるということを思いますときに、日本人の立場としまして、一日も早くこの事業に有終の美を飾りたいもので、これを私たちの手でやらせていただきたいということは決して申していないのであります。これを一日も早く政府責任においておやり下さることにより、今後のアジアの平和、あるいは国交回復、そういう問題もやがては具体的日程に上るものではないかと思いますが、そういうときに、日本人の道義的立場が、これをやっておることによって非常に上るものと私たちは信じて疑わないわけであります。そういう意味で、一日も早く政府責任においておやり願いたい。もう山は見えております。三分の一送り帰したわけであります。そして、現在若干のものはすでに発掘され、発掘が進行しております。そして、残ったものが全部あるとは限らぬでしょう。中には、終戦後生存者が帰ったときに持って帰っているものも若干ありましょう。それからまた、政府が一声かければ立ちどころに出てくるものもあるのでありますから、あとの労苦はそう大したものではなかろうと思います。  それで、費用でございますが、費用も、われわれの方には今まで調べた資料もございます。それから、政府でおやりになる場合も、一応これに御協力申し上げる態勢もあるわけでございます。ですから、いろいろな形の奉仕ということも十分考えられますから、何千万円とか億とかいう金がかかるわけのものではないと思います。これだけのものを今年一ぱいでとにかく調査をし発掘するならばどれだけかかるということを計算した表を未処理部分というところに掲げておりますが、全部がこれでやれるとは言い切れませんけれども、一千万円もありますれば大体のことは片づくのではないか。おそらくこれをそんな小さな金でようやれるかという御直間があるかもしれませんが、それは、やり切れるということはここでは申されませんけれども、大体のことはやれるのではないか。今までの経験上からそう申せるわけでございます。また、周恩来総理は、日本国民に対して、過去のことは一切水に流そうということも言っておる。また、李徳全女史は、お互い顔を合せれば三分の情がわいてくる、いろいろな話はそこから解け出すということも言っております。そしてまた、日本国民の努力に対して、私たちも戦犯死亡者遺骨送還について協力したし、また戦犯以外で中国でなくなった人たちの遺骨送還につきましてもできるだけの努力はする用意があるということを言っておられます。そして、重ねて、われわれが今やっております中国人の殉難者の遺骨送還一つ御援助願いたいということを呼びかけてきておるのであります。  私の補足はこれで終ろうといたしますが、これに関連しまして、この委員会の席上をかりて訴えさせていただきたいことがもう一つあるのであります。それは、中国においてなくなった同胞遺骨送還についてでございます。これについては、大谷委員長は東本願寺さんでありますが、東本願尊さんだけでも、七十数カ所の別院とか説教所とか、そういうものを中国全土に置いており、そこで保管していた遺骨の数も莫大なものであります。それからまた、どこへ訴えていいかわからないというので、私たちが中国人の遺骨送還をやっているから、そして中国紅十字会の李徳全さんもそういうことを言っているということを聞いているから、何とか工夫はないものかというので、私たちの方へ日本人遺骨送還について配慮してくれという訴えが元の吉林日本人会、ハルピン日本人会、チチハル日本人会から出ております。吉林日本人会だけでも、責任ある者が名簿を現に持っておるもの三千数百、どこへ埋めてあるという地図、それから写真も添えてあります。しかし、吉林日本人会で処理した数は、それにとどまらないで、総数六千五百くらいになるだろうということを申しておりますが、今ハルピン、チチハルなどはなお資料を整理中だということでございますが、これをどこへ訴えていいかわからぬということを私のところに訴えてきているということでございます。しかも、それについては、中国紅十字会は、資料があれば十分それを検討して協力する用意があるということも言われておるわけであります。こういうこともあわせて、双方の国民人道主義の精神に立って協力していくならば、戦争の災いを転じて福となすことができるのではないかと、そう考えておる次第であります。
  64. 高岡大輔

    高岡委員長 これにて参考人よりの総括的な事情聴取は終りました。  この際参考人に対する質疑の通告がありますので、逐次これを許します。柳田秀一君。
  65. 柳田秀一

    柳田委員 参港人にお尋ねする前に、ちょっと外務省のアジア局長に伺いたいのですが、きょう午前中に政務次官にお尋ねしましたが、今後、日ソ、日中の未帰還の問題は、三団体日赤等じゃなしに、政府責任を持ってやっていきたい、こういう御答弁でありました。従って、それと同様の意味におきまして、こういう日本にあるところの中岡人の御遺骨もこちらから送り帰す、あるいは大陸に埋もれました日本人の御遺骨を送り帰してもらう、こういうことは政府の手においてお互いにやってもらう、こういうふうにわれわれも希望し、また、きょうの午前中の園田政務次官の御答弁も結局そういうところにいくのではないかと思いますが、きょう政務次官にお尋ねしましたところでは、中国に残っておる人々、ソビエトに残っておる人々は、今後政府の手でこういう引き揚げの事務は責任を持ってやっていきたい、こういう御答弁であったのです。従って、従来民間の方でやっておりました遺骨送還の問題は、これは日本から送り帰すだけでなしに、やはり中国からも送り帰していただかなければならぬと思っておりますが、これはやはり政府責任においてやられるおつもりがあるかどうか、確認をしておきたいと思います。
  66. 小川平四郎

    ○小川説明員 今朝園田政務次官から引き揚げについて御発言がございましたが、先方にあります遺骨につきましては、そういう段階になりましたならば、当然御一緒に処理していきたいと思います。内地にあります華人の遺骨につきましては、従来いろいろ経緯がございまして、参考人の方々からもいろいろお話がございましたが、これにつきましては、こういう動乱のあとでなくなられた方々の遺骨、遺体の送還という問題は、いろいろ考え方はあると存じますが、私個人といたしましては、一たんそこに葬ってあるならば、そこに眠っていただいて、そのままにしておいた方がいいのではないかと思っておりますが、これはいろいろ考え方もあることでありましょうし、特に宗教上のいろいろお考えもあることと思いますので、これをそういうような趣旨で送り帰すということにつきましては、けっこうなことだと思っております。ただ、政府がこれを行いますかどうかにつきましては、これは先方におります残留邦人あるいは遺骨の問題とは別でございまして、ただいま直ちにこれも政府が行うのだということは、ちょっと申し上げられないと思います。
  67. 柳田秀一

    柳田委員 今の御答弁で、考え方はそういう考え方も私は成り立つと思うのです。どちらもその地において丁重に遺骨を葬る――。しかし、双方の希望しておるのは、お互いそれぞれの国に遺骨を安置する、こういうことを希望しておるのですから、これはやはり希望に従った方がいいと思います。そこで、中国に眠っておられる御遺骨向う政府の方で送ってもらう、日本の方は政府で送らないというのは、片手落ちだし、送らないという御答弁ではないと思う。この点はちょっときょうは政務次官に聞き漏したのですが、これは課長だけの御答弁でも責任を持ってお答え願えぬかもしれませんが、少くともこの段階においてソビエト及び中国からの引き揚げ政府責任で今後やるのだ、こう言明しておられる以上は、また同時に、今参港人から話を聞きましても多くの御遺骨が大陸に眠っておられるから、それはやはり中国政府で送り帰してほしい、これは国民の率直の声はそうであろうと思う。同様に、日本に眠られました中国人の御遺骨もやはり政府責任で送り帰されるべきだ、こういうことは当然だと思うのです。この点は、これ以上課長と押し問答をしまして、課長としてはそれ以上御答弁できないと思いますから、これはいずれ外務大臣政務次官から直接に御答弁をお願いしたいし、強く要望したいが、やはりこれは今まで大谷委員長初め御遺族の方々の御努力で話がここまで進展してきたのでありますが、日本の方から、残っている四千体というものはすみやかにお届けして、同時にわれわれも自分の義務を果すとともに、また中国側にも、こちらの権利というか、それらを要求するのが至当であると考えます。  そこで、なお四千体ほど残っておられる、日蓮宗の常業寺に一千二百体ほどある云々という今の参考人のお話はおかしい。うそではないかと思う。これはどういうふうな団体がこれを保管しておられるのかということが第一点。今明らかになった点では、何か外務省が関係しておられるかおられないかわからぬが、おられるやの発言がありましたが、それは別として、送り出すということになれば、何か参考人のお話では外務省の方の圧力がかかっているやに承わったのでありまして、多少物騒だと思いますが、その点で、まず参考人から、どういう団体がこれを保管しているのか、さらに、外務省がそれに関与したとするならば、どういう点に関与したのか承わり、さらに、それに対して外務省の方から、そういう事実があったのかないのか、その点を明らかにしていただきたい。
  68. 赤津益造

    ○赤津参考人 ただいまの柳田先生の御質問に対しまして、私たちのわかっている範囲を申し上げます。この遺骨については、目華労務協会という団体、これは、華中方面及び華北に関係していますが、主として華中方面から日本へ、北海道から九州にわたって多くの事業場にいわゆる華人労務者を入れた団体でありますが、北海道ではたとえば北海道炭艦汽船、井華鉱業これは住友系でございます。三菱の九州勝田炭鉱、港湾関係では神戸の港湾荷役、室蘭等々の事業場では、終戦前に死んだ中国人の俘虜、一般市民、労務者の遺骨を日華労務協会の理事長の伊藤幸太郎という人に託したということになっているのであります。そのことは本人からも私たちがこの会の創立当初聞いております。ところが、その扱った遺骨が何百体であったか、あるいは千をこえるものであるかどうかということについては、私たちもしかと聞いておりませんし、またはっきりした資料を持っておらのでございますが、その伊藤幸太郎という人が牛込常楽寺というお寺にこれを委託したということは事実のようでございます。ところが、その常楽寺の住職は小野寺壽道さんという人ですが、その人は終戦前は応召して出征していた。そのあとを番をしていた小川日浄という和尚さんが、何か伊藤幸太郎という日華労務協会の責任者がこの遺骨を種にして非常に好ましからざることをやっておるというので、宗教家の立場からこの遺骨は伊藤幸太郎という者に渡せないというので、こっそりこの遺骨を千葉県の自分のお寺へかついで持っていったわけです。ところがそれがまた、神道教というこれは神道の教派らしゅうございますが、そこの吉原楚越という方がこの小川日浄という日蓮宗の坊さんに圧力をかけて、この遺骨をよそへ持っていった。それは埼玉県の浦和であります。浦和の吉原という人の祭壇にこの一部を置いてあるわけであります。私たちどうしてそれを知ったかと申しますと、その牛込の常楽寺から、このままにしておけないといってかついで行ったという御本人の小川という和尚さんが、われわれの仕事の続いておることを新聞などで見まして、実はこういうことで私のところで遺骨を預かっておるのだ、これは日華労務協会の理事長をしておる伊藤幸太郎なんという者には渡せないから、何とか一緒に送れるようにしたいものだと言って、じかじか私たちのところに参りました。それでは、今までの御苦労はまことに非常なお骨折りでした、それについては私たちも一つお参りさしていただきたいといって、お参りすることになって車に乗ったのでございます。それは千葉だというので、千葉の方向へ行きましたら、途中で、実は千葉ではないのだ、浦和だというので、東北街道を自動車で浦和まで持っていかれまして、神道教の吉原何がしというところへ案内された。そこには確かに遺骨箱が飾ってあるのであります。そこで、私たち礼拝いたしまして、どういう事情でこうなったのかとお尋ねしたときに、実はかつて外務省の官房長をされた大江晃さんという方、アジア第三課長をされた後宮さんという方この方々は今外地に出ておられるようでありますが、この人たちが、各関係会社に、君のところの関係死亡者遺骨はこれから政府責任を負うから伊藤幸太郎に渡してくれ、あとは一切心配をかけないからという添え状あるいはサイドにサインしている手紙が渡っている、そして、本人たちが、これは内容証明で来たので間違いないものだということから、われわれそれを知っているわけであります。その写真などもわれわれとってきておりますが、しかし、肝心の遺骨は、浦和の祭壇に参りまして、ここに全部あるのですかと言うと、これは一部だ、あとのところははっきり言えない、そういう非常に奇奇怪々な工合で、一部の遺骨が持ち回られている。これはわれわれの民間団体の力あるいは交渉ではなかなからちがあく性質のものではないのでありまして、政府あるいは国会の力を借りて、円満に一カ所に集結しまして、一日も早くお送りしたいというのが私たちの念願であります。その写真ですとか証拠は、いつでも御希望がありますれば私どもの方で出す用意がございます。
  69. 小川平四郎

    ○小川説明員 ただいまの件につきましては、実は私は東京にそういうおかしな御遺骨があるということを初めて伺ったのであります。今の御説明で、そういうことがあったのだということを知ったわけであります。従って、外務省の者がどういう形で関与しておったかということも実はわかりませんので、なお帰りましてから調べてみたいと思います。
  70. 柳田秀一

    柳田委員 別にどうこうと言うのではございませんが、ただ、大谷委員長以下こうして熱心におやりになっているのでありますから、できたならば政府の力ですみやかに一カ所に御安置申し上げて、そしてしかるべき機会に早く日本政府責任において無事にお送りすると同時に、こちらとしてはそれだけのことをしておいて、そして大陸に放置されている遺骨を早くそれぞれの親元なりにお迎えするということについて外務省は本腰を入れておやり願いたい、これだけ要望しておきます。なお、今の点は、多少物騒だと思いますから、外務省の方でお調べ願いたいと思います。
  71. 高岡大輔

    高岡委員長 受田新吉君。
  72. 受田新吉

    ○受田委員 金城さんはお子様を沖縄の作戦でなくされた御遺族でいらっしゃるのですね。
  73. 金城和信

    ○金城参考人 そうです。
  74. 受田新吉

    ○受田委員 当時二等兵の階級に列せられて軍役に服したというのですが、十五才未満の人々に対するその階級の付与、軍服の支給その他は、全部軍の命令であったのですか、あるいは軍命令そのものに何か欠陥でもあったのですか、お伺いしたいと思います。
  75. 金城和信

    ○金城参考人 お答え申し上げます。通信隊はちょうど中学の二年と三年でございます。だから大部分は十七才未満でございますが、これは、身体検査をしっかりやりまして、頭のいい者から通信隊に送るというので、厳選をして、それから軍に行ったわけであります。軍に行きまして、そこで、私どもはっきり見ておりますのは軍服もちゃんと着ておりますし、それから二等兵のえり章もつけて、すべてが軍と同じようにみなやられておりました。それから私は、親でありますのですけれども、そういうところはよくわからないので、これは、大体生き残りの学生の同僚と、その当時の先生方が集まりました結果によって、こうであるというところをさっき読み上げたわけでありますが、実際もう戦争にすぐなってしまいましたものですから、私なんかの見たのは、軍服姿で二等兵の記章をつけて歩いているのをしっかり見ておるわけであります。だぶだぶの服を着て、そして擬装網をかぶって歩いている、これが真実であります。その当時のことは、事実その通りでございます。その点を申し上げます。
  76. 受田新吉

    ○受田委員 田島さんがおいででありますのでお伺いしたいのです。兵役法によらずして召集といいますか動員されたこれら小さい学徒の軍隊上の身分は、現地軍にある程度の権限が付与されておったのかどうか。それと、二等兵という階級章をつけておったということ、あるいは制規の軍服が支給されていたということは、大東亜戦争の末期においては各地に見られた実例であるかどうかということをお伺いしたい。
  77. 田島俊康

    ○田島説明員 召集をいたすというようなことは、それぞれ各時期と地域に応じましてそういう軍政に関する権限を委任されておった地域がございます。ただし、その召集されます対象は、申すまでもないのでございますが在郷軍人でございます。実際召集をいたします際に、在郷軍人にあらざる方を、たとえば、かつて在郷軍人であった四十五才を過ぎたような方を誤まって召集したような事実が過去においてあったのでございますが、そういう場合は召集したと同じように取り扱うというような法律上の規定もあったのでございます。そういう関係でありまして、現地軍司令官にまかされておったというような形式的な問題だけを考えますれば、中学二年生とかいうような、育ってみますれば小さい子供でございますが、そういう者を直ちに同じような軍人だと言うようなことが果してできますかどうか、そういう点についてはさらに深く研究する必要があろうかと思いますが、とにかく、さっき金城参考人からお述べになりました通りの事実があったのであります。服を云々というようなこと、これもあったことと私どもは今までの調査では考えております。現に、そういう小さい子供をいくさに出すというようなことは、ああいう沖縄というような特殊の地形、特殊の戦闘の状況においては、そういう処置もあるいは免れなかったかもしれませんが、そういう子供を召集しますとき――召集と申しますか、軍の戦闘に協力させますときに集めまして、うちへ帰って聞いておいでなさいというようなことがいろいろやられたようであります。そして、軍と行動をともにするのでありますので、軍の持っておりました予備の服を落せるというようなことは当然あったろうと思います。ことに、私現実に知っておりますのは、これも先ほど金城さんのお話にありましたが、北部の山中に村上御兄弟という、これは主としてゲリラ的な戦闘をした部隊ですが、そこに入っておりました者がこういう状況であったということを、現にそこの生き残りの人から聞いたことがございます。そういうことから推しまして、軍では、もう最後の状況でございますし、被服の手持ちというようなものがもちろんあったろうと思われますので、そういうものを支給いたしまして戦闘に参加させたというようなことは当然考えられるようでございます。
  78. 受田新吉

    ○受田委員 十五才未満のようないたいけな動員の対象になった人々、そして軍服をつけ、記章をつけて、死ねば靖国の官に祭られるのだというような立場で動かされた人、これはまことに史上声涙ともに下る一つの悲劇でありますけれども、そうした人々に対しては、例の援護法三十条と思いましたが、弔慰金の対象にはしてあるのでございますか。
  79. 田島俊康

    ○田島説明員 実は、これは有給の軍属とみなすこともある場合においてはでき得るのではなかろうかと思うのでございます。今の軍人とみなすかどうかは別にいたしまして、年令の若い者でも有給の軍属とみなし得る者が相当あるのではなかろうかと私は考えております。
  80. 受田新吉

    ○受田委員 これは、特殊の地域に起った、われわれにとってはおおい隠すことのできない悲壮な立場の人々でありますが、今、金城さんが、なくされたお子さんの父としてお読みになられたあの文章には、われわれも深く胸を打たれた。とにかく、国の重大段階においては、特に沖縄作戦の場合などは、中央の指令を待つまでもなく、現地において即時即妙の作戦を展開しなければならないでしょうし、また島がいつ全滅するかという段階においての現地の最高責任者の処断も感情に走る場合もあるでしょうが、とにかく、形の上でりっぱな軍人もしくは準軍人として動いた場合には、広く国家の補償の対象とするというのが原則ではないかと思うのですが、いかがでしょう。田島さんに一つ……。
  81. 田島俊康

    ○田島説明員 ただいま受田先生からお話がございましたが、まことにその通りだと思うのでございます。従いまして、今の金城さんの御希望等につきましても、これは十分検討を加えなければならぬ問題でありまして、一がいに小さいからだめだというような誓えは、ただいまのところいたしておらないのでございます。ただ、これは、地域から考えましても、沖縄の特性というのは十分考えられますが、単に沖縄だけであろうかどうかというような点につきましても、いろいろ問題がございますので、その点は、いろいろな点をあわせ考えまして、ただいま係の方で研究をいたしている問題でございます。
  82. 受田新吉

    ○受田委員 近藤さん、箆さんの御発言によって、満蒙開拓青年義勇軍の戦争末期における情勢及び戦後における情勢を伺うことができました。私たちもこの満蒙開拓青少年義勇軍というものを何回か送り出した責任者の一人であるのですけれども、この人々が、みずから進んで満蒙開拓義勇軍に入ったのであって、国家の至上命令によって動いたものではないという意見によって、目下国家補償の線からはずされているわけです。しかし、顧みて、第一線でいかに御苦労されているか、特に戦争末期においては軍と同様の行動をしておられる、そうして、はなばなしく戦死をされた人がいる、今日これらの方々の中にはソ連中共残留している人あるいは行方不明になっている人がたくさんあるという現状を見ると、戦争末期あるいは戦後において軍と全く同じ立場に立っている方なんです。これらの方々の身分の問題ですが、お二人にお尋ねします。軍属という身分の付与を何らかの形でされたような実例はありませんでしょうか。現地軍かあるいは満州に派遣されている日本の官吏、そういうような立場の人を通して、何か国家の、玉上命令的な形で身分上の変更があったような実例はありませんでしたか。
  83. 近藤安雄

    ○近藤参考人 軍の補給所でありますとか、飛行場でありますとか、直接軍に関係したところに参りました者は、軍属待遇ということであったのです。といいますのは、義勇隊は両国の予算で給与の全部をまかなっておりましてそれに訓練所から職員がついて参って、一切自給自足をいたすのでございますから、向うでは取扱いは軍属として取り扱う。但し、訓練所に残っておって酒石酸の原料を取りに山に入るとか、あるいは軍馬の受領に参るとかいうような者については、これは訓練所の訓練生として扱われておったのであります。ところが、実際問題といたしまして、訓練生、の方から考えますと、補給所及び飛行場その他の警備に参りました者も、重工業地帯の警備なり従業員として参りました者も、訓練所に残って山に入ったりしてそうした作業に従事した者も、訓練生の方から見ますと、ひとしく関東軍の意向を受けた所長の命令のもとに動いたのでありまして、形式上は軍属と言えないかもわかりませんが、われわれの方から見ましても、訓練生から見ましても、受ける者の感じは同じようであったのでございます。
  84. 受田新吉

    ○受田委員 現地軍における作戦計画の一環として、あなた方がこちらにおける徴用令のごときもの、あるいは学徒動員令のごとき国家総動員法に基く勅令による動員に準ずるような形の動かされ方をしたと認めてよろしゅうございますか。
  85. 近藤安雄

    ○近藤参考人 その通りでございます。われわれの独断とか、あるいは百姓の訓練である義勇隊の目的のもとに動いたのではございません。全くの作戦上の必要に基いて、軍の命令に基いて動いたのでございます。
  86. 受田新吉

    ○受田委員 軍へ待遇、軍属待遇としての御行動であったことをお伺いしたわけでありますが、皆さんの中に、満蒙青少年義勇軍という形で出られたので、蒙古に行かれた方もたくさんあったと思いますが、その方面に関する状況を、お知りの限度内において御答弁を願いたいと思います。
  87. 近藤安雄

    ○近藤参考人 満州内の蒙古軍でありますが、蒙古の軍官学校に訓練生の中から優秀な生徒を出してもらいたいというふうな関東軍からの要望もございまして、からだの大きな優秀な生徒をたしか百名くらい興安にありました蒙古の軍官学校に派遣をいたしまして、二カ年くらいその軍官学校で訓練を経て、優秀な蒙古軍の将校とか下士になった例もございます。それから、内蒙の太原でありますか、私もよく存じませんが、山西炭鉱の方に一個中隊派遣をした例がございます。これは、終戦当時、もう行きっぱなしでございまして、とうとう満州には帰って参りませんでした。それから、軍馬の受領あるいは軍馬の輸送のお手伝いで上海から揚子江の上流に参った者もございますし、また間島省あたりまでわれわれの方から派遣した者もございます。
  88. 受田新吉

    ○受田委員 満蒙青少年開拓義勇軍の中から、現地において軍人として召集せられたような人はありませんか。
  89. 箆兼雄

    ○箆参考人 召集ではなしに、年令がきたときに現役で出ております。  それから、前に私が兵役に関する件で読んだところにありますように、現役志願の壮丁は四%以下に引き下げて、それ以上はさせておりません。それだけ開拓地に義勇軍を置いておかなければいけないということで、現役志願は壮丁の四%以上はさせないということがはっきり出ております。  それから、これは今の御質問の前になりますけれども、私がおりました龍頭の訓練所の警備の担任は、要するに虎林山線の興凱駅から宝清の町に至る道路の警備を担当するのだ、一旦日ソが戦端を開いた場合にはそれをやるのだ、それについて教練指導員の私に警備計画を出せ、こういうふうに、はっきりとしたお前たちにさせるのだというのではなしに、警備指導員である私に警備計画を出させております。そうして、教練の訓練に来ておった将校から、大体龍頭の訓練所にはこういう警備の担任を与えるからよく研究するように、そうして最後に私にその警備計画を出せということでした。だから、そういうふうにして、具体的に書類なり命令ではありませんけれども、軍としてはちゃんとそういうふうな計画を持っておったのであります。  それから、もう一つ、前にも読み上げましたように、そういう計画があるものですから、私たちははっきりと書類とか命令では受け取っておりませんが、日満議定書によりまして、関東軍も陸軍省も、それから拓務省その他から、戦死した場合は約六百円、戦死でなしに病死した場合は二百六十円の弔慰金を出すというようにされておるのであります。
  90. 受田新吉

    ○受田委員 近藤さん、箆さんの御関係の中から満州国軍に軍人として入った人はございませんか。
  91. 近藤安雄

    ○近藤参考人 満州国軍に入った者はございません。満州国軍をやめて訓練所の馬の指導に来られた人が一人ございましたが、他にはございません。
  92. 受田新吉

    ○受田委員 田島さんにお伺いしますが、当時の関東軍は、ただいま御説明の中にあったような、満州開拓青少年義勇隊の最高幹部に対して作戦上の協力を求めた事実が、何らかの形でこちらの方へ報告されておりましょうか。
  93. 田島俊康

    ○田島説明員 当時の規定によりまして、関東軍司令官は国家危急存亡の時には満州国内にあります日本人全部を指揮し得る、――平時においてはもちろんそれぞれの権限によって分立いたしておりますが、開戦後はあらかじめ準備された体制に置かれておったと私は承知いたしております。
  94. 受田新吉

    ○受田委員 例の未復員者給与法、特別未帰還者給与法当時から今日の未帰還者留守家族等援護法に至るまでの過程において、この青少年義勇軍の関係者に対しては漏れなく考慮が加えられておるでありましようか。
  95. 田島俊康

    ○田島説明員 先ほどからるる御説明がございましたように、開拓義勇隊の処遇は現在まで大体どういうふうにいたしておるかと申しますれば、なくなられた方につきましては、徴集によって軍に入られて全く軍人としての扱いになっておられる方、それから、先ほどもお話がありました補給所その他の軍の機関に入られた方もございますが、そういうように軍の有給の軍人軍属としての扱いの方がございます。ただ、先ほどから酒石酸の原料採取やらいろいろな話がございましたが、そのほかにも、いわゆる勤労奉仕隊として南満の特に飛行機工場その他に勤労奉仕に出ておられた方々は、現在の法律によっては見られない、こういう関係になっておるのでございますが、そのほかに、戦闘に直接関係いたしますれば、今のように軍人軍属という身分にかかわりませず、戦闘に協力をされた方、あるいは集結地まで帰られます途中匪賊の襲撃等に対して自衛戦闘をやってこられた方をも含めて、戦闘参加者として取り扱うようにいたしております。  なお、先ほど未復員者給与法あるいは特別未帰還者給与法云々というお話がございましたが、そういう扱いになっておりますのと軌を一にいたしまして、軍人軍属としての身分が確定しておられます方は当然未復員者給与法の対象になっておりましたが、若干の方は特別米偏選者として向うに行っておられる方もございます。軍の機関に、たとえば先ほどお話がございました補給所の警備員として行っておられて、そのまま向うに連行されたというような方は、未復員者でございます。
  96. 受田新吉

    ○受田委員 大谷さんは終始中国人の俘虜遭難者の慰霊の責任者として御尽力いただいておるのですが、私、この書類を拝見しまして、当時から非常に不審に思っていたことがあるのですが、二十八年九月以降日本赤十字社がこの組織体から脱落しておるわけです。これはどういう事情であったか、御存じの限度内で御答弁願いたいのです。
  97. 大谷瑩潤

    ○大谷参考人 これにも出ています通りに、二十八年の八月の二十七日ごろに脱落したのでありますが、これは、実は、赤十字に三団体邦人引き揚げの事務所がございまして、そこへわれわれが常に連絡をして、遺骨送還のためいろいろお願いをしたわけなんです。それは、興安丸に乗せていただく関係上、どうしても交渉を持たなければならぬ。ところが、その当時に三団体で秘密会議をされたわけです。その秘密会議の最中に、これはわれわれの若い人たちの不用意であったのですが今秘密会だから入っては困ると言われたにもかかわらず、若い人たち、実行委員会委員が、だあっと押しかけてその中へ入り込んだわけです。それを赤十字社の方では非常に憤慨されまして、そういう暴力行為といいますか実行的にこちらの意思を曲げて行動をとられるというようなことがあっては、これから先非常に困るというので、そういうことならもうわれわれはメンバーから脱退をしたいということが一つ理由です。もう一つは、経費の点において、それぞれの団体が負担して醸金をして下すっておったのですが、その醸金の高が日赤が一番多かったのであります。自分たちはできるだけこうやって醸金をしておるのだから、自分たちの言うことに対して皆さんも一つ了承して、あまり無視したような行動に出てくれるなというようなことを申されておったのですが、経費の点でそういう負担をよけいかけるということはわれわれの方としても申しわけがないことであります、普通の参加団体としての責任額だけお持ち下さったらけっこうですから、その点は一つ将来は減額されても、メンバーとして残っていただきたい、こういうことを申し上げたんですけれども、どうも負担も多いことであるし、仕事の性質上、日赤の意思の上において、自主的な行動の上において援助はするけれども、メンバーとして加わることだけは許してもらいたい、こういうことで、脱退の届を島津社長の名前で私の方へお出しになりました。そこまでおっしゃられれはどうも仕方がない、こういうことで、それから参加団体として名前は削除いたした、こういう事情でございます。
  98. 受田新吉

    ○受田委員 中国人の俘虜の方がこちらでなくなられてふるさとの土を踏もうとしておられるのに、一番大事な人道尊重の団体である赤十字社がこれに関与しておられないというのは片手落ちの感が濃厚です。特に、昨年享徳全さんをお迎えするときなど、日赤が中心になって動いておる。その李徳全さんの日本を去られるときの言葉の中にも、こちらも遺骨送還考えるが、日本から中国人の遺骨を帰すことも考えてくれという声明もあったくらいなんです。そこで、日赤が実行委員会の中に復活するような努力をされて、経済負担、財政負担が多過ぎるならば減額されてもいいのだし、また表面上のいろいろな仕事の分担が多過ぎれば、これまた減らされてもいいのですから、とにかく日本赤十字社という国際的に相通ずる人通主義、博愛主義に立つこの団体だけはこれに存置しておかれないと、実行委員会の性格の上から育って非常な片手落ちが起ると思うのですが、日赤に対して実行委員会復帰の御要望をなさる御準備はないですか。この点、大谷さんと赤津さんのお二人にお伺いしたいと思います。
  99. 大谷瑩潤

    ○大谷参考人 実は、今おっしゃる通りでございまして、日赤がこれを脱退してくれたということは、私どもとしては仕事の上に非常な大きな影響がございます。ところが、各地へ参りますと、御承知の通り日赤の支部長は大てい知事がやっております。そんな関係がございますので、地方の宗教団体並びに労働者組合、そういう人たちの援助によって実行されておるような県では、その日赤の支部長をしておる知事すらが、やはり慰霊祭やなんかのときには名前も出してくれていますし、経済的な援助も与えてくれておって、実績の上で地方では日赤は脱退しておらぬ形になっておるのです。ただ、本社の方でそういう工合になっておりますから、実は、昨年来、脱退をされましたその翌月から、再三葛西副社長のところに参りまして、私どもは、もとの通りにわれわれの実行委員会のメンバーに入っていただきたい、――今おっしゃる通り、負担の点はいかようになりましても、名義として加わっていただかなければ困るということを実は再三申し上げたのでありますが、さっき申し上げたような暴力的な行動がありましたものですから、実はもう脱退したことを赤十字の理事会に報脅した、そのために、今またそれでは入ろうかということもどうかと思うので、何かの機会に相談しよう、こういうことであったのであります。しかし、私どもといたしましては、さっきも申し上げた通り、これは国家的事業として実はやっていただきたいのだが、まだ国交が回復しておらぬから、今直ちに国教として乗り出してやるということは不可能でしょう、ゆえに、その実行機関として、われわれが手を引きますかわりに日赤がこれを引き受けてやっていただく、その費用等は国家から日赤に補助していただいて、そのルートでこれはやっていただかなければならぬということも、実は葛西さんにまでお願いしたのであります。そうしたら、葛西さんの言われるのには、民間団体からの直接の交渉ではそれに乗ることはできないけれども、外務省なり厚生省なりから、こういうことがあるから日赤でやれ、そうすれば私の方で費用の点は補助していこうというような工合に、政府からの呼びかけがあれば、自分たちの方は喜んでこれを引き受ける、もちろん、今おっしゃった通り、国際的な団体であるから、当然こういうことをやってもおかしくはないと思うから、そういう工合に一つ取り運んでもらいたい、こういうことであった。それで、実は私、今ここにおいでになる中山先生が政務次官をしておいでになる時分に、厚生大臣の草葉隆圓君のところに参りまして、実はこういうことを言うておられるのだから、厚生省の方でこれを一つ何とか考えてくれないかということを申し込んだのであります。ところが厚生省へ参りますと、それは外務省の管轄だと言われる。外務省に行きますと、それは厚生省の管轄だと言われて、常にいやがられておりますのがこの実行一委員会なんです。ですけれども、私自身別に共産党になったわけでもなし、また思想的にもまだ共産主義になったのではないのでありまして、真に宗教的な立場からこれを解決していきたいという念願よりほかないものですから、そう各省であっちに持って行けと育ったりこっちに行けと言われたりせずに、どうか話し合いでこれを日赤で引き受けていただくように御努力を願いたいと言っておったのが、最後になって内閣がかわった、こういう事情にありますので、今の内閣にはまだ申し上げてありません。今度機会を見ましてお願いに上りたい、こう実は考えておる次第でございます。
  100. 赤津益造

    ○赤津参考人 脱退のいきさつにつきましては、いろいろございますが、大体大谷委員長から申し上げた通りであります。それにつきまして、私たちの方に直接には原因があったということで、日赤の方には丁重に何回もおわびも申し上げて、一つ誠意を了としていただきたいということをお願いしたわけでございますが、しかし、一たんそういうことになりましたので、なかなかもとに戻らぬというような残念な事態になっております。それで、赤十字社といたしましても、本社は今後独自の立場で慰霊の実行、遺骨送還の実行に協力する所存であるということは申されておるのであります。
  101. 受田新吉

    ○受田委員 朝来委員会が長きにわたり、また参考人の方もお疲れでありますから、質問を簡単にして打ち切りますが、この中国の俘虜の方々の御遺骨送還する問題は、中共地区残留者の引き揚げ問題とからませて、できれば興安丸その他の船があちらへ行くときに御遺骨を送り出し、そうしてわれわれの同胞をお迎えするというように、その船を双方が利用し合うように当初から計画を進められていたと記憶しております。それで、三月に中共から同胞が帰られるときにその行きがけに御遺骨を集まっただけでもお帰しするというような形に準備が進められなかったものか、それに対しては何か外務省の関係の問題があるのか、あるいは経費の問題があるのか、どういう事情があったのか。すでに収集された遺骨相当数あったことをさっきからお伺いしておりますが、それならばそういう船が行くときにお帰しするようになさればいいと思うんです。その間の事情をお知らせいただきたいと思います。
  102. 大谷瑩潤

    ○大谷参考人 それは、今おっしゃる通りなんです。経済的に考えれば、それが一番いいと私は思ったのですが、外務省へ行って伺いますと、台湾政府との契約がありまして、同胞を迎えに行く船には人も物も一切乗せてはならない、それを無理に乗せれば安全を保障しない、こういうお約束があるのだそうです。それがために、外務省としては、興安丸とか同胞引き揚げの船にこれを積んで行くことは違法になるから困る。こういうことで、第一問の黒潮丸が出ていったわけです。小さい船ですけれども、あれが向うへ行って一週間なりおって帰ってくるというのは非常な費用です。そんなことにかけるよりも、興安丸で行った方がよかったのですが、そういう事情で、迎えに行くときはみな、から船で行かなければならぬ、帰るときに同胞を乗せて帰る、こういうことにお約束がなっているそうであります。それが一つと、それならなぜその後輿安丸に積んだかとおっしゃいましょうが、そのときには、赤十字船としてあの船を向うへ航行していただいてあの赤十字の十字も、青いのでなく、赤い十字をつけて向うへ行きまして、そうしてそれに遺骨を乗せて持っていく、そのかわり、向う、で受け取ってしまえば、向うから帰るときは引揚船としてしるしを変えて帰ってくる、こういうようなことになって、遺骨送還のときに興安丸を御利用下さるというところまでの御理解を賜わったものですから、第二回目からの興安丸はそういう名分で向う遺骨を届けることができた、こういう事情にあります。
  103. 赤津益造

    ○赤津参考人 ただいまのことにちょっと補足いたします。この三月の最初の興安丸、このときになぜ遺骨を送ることができなかったかということについてでございますが、これは全くわれわれの無力によるものであります。昨年、ここにありますように、八百七十六柱を送ったのであります。その後五十柱がただいま札幌の束本願寺別院に収納してございます。けれども、あとは、これすべて交通不便な山の中に入るとか何かしなければならないので、時間と費用がいるものであります。一回の送還を終えますには、中央地方とも精根が尽きてしまうわけです。それを、昨年の十一月に第四回を終りまして直ちに、三月までにこれを掘るということは困難でございまして、ことに北海道のごときは雪が降っておりまして作業が全然できない状態でございます。その他のところはまだ会社側がこちらの交渉にすなおに応じてくれないとか、いろいろな事情がありまして、実は仕事が間に合わなかった状態であります。それが現在ぽつぽつ進行しておるという状態であります。
  104. 近藤安雄

    ○近藤参考人 先ほど義勇軍とそれから蒙古軍及び満軍との関係で御質問がございましたけれども、誤解があるといけないと思うので申し上げます。義勇軍は関米軍の命令を受けますけれども、満軍、蒙古軍とは全然関係ございません。それで、蒙古軍の軍官学校から頼んできて、生徒が軍官学校に行ったように申し上げましたが、これは、自発的に義勇軍の身分を脱落いたしまして、親の許可を受けて当時行ったので、義勇軍は純日本の子供であり、大使館と関東軍の指図のもとに動いておりまして、満軍及び蒙古軍の指揮命令というのは全然別個でございますから、誤解のないようにお願いいたします。
  105. 受田新吉

    ○受田委員 小川さんにお尋ねしますが、先ほどから大谷さんが、経費の問題で、外務省へ行けとか厚生省へ行けとか、お互いに責任のなすり合いがされて、思うようにならない、また赤十字社は政府々々と言う、結局自分はどこへ行ったらいいかという悩みを訴えておられましたが、こういう場合の財政的援助に対して、外務省と厚生省との関係、特にこうした引き揚げ問題あるいは遺骨送還に関する経費の問題、日赤に対する補助の問題について、何か厳粛なワクがはめられておるのでありましょうか、お伺いしたいと思います。
  106. 小川平四郎

    ○小川説明員 ただいまの件につきましては、先ほど大谷先生のおっしゃいましたのは、やや前のことでございまして、実は一番初めのお話のときに出ました。昨年の夏に、参議院の厚生委員会の中に遺骨委員会がございますが、この委員会一つ解決の線を出したのでございます。御承知のことと存じますけれども、そのときは李徳全さん声付の来る前でございましたので、その前に一応いろいろ準備をするということでございまして、日赤が一切引き受けたらどうか、そして、遺骨慰霊実行委員会の方は、いろいろ事情もございましょうが、この際一切日赤にまかせて、実行委員会は解散するというような線で解決したらどうだという解決策を参議院の小委員会で出して下さいました。私、記憶しておりませんが、おそらく厚生委員会の決議にもなったのじゃないかと思います。ところが、そのときに慰霊祭の準備が進んでおったとかいうことで、実行委員会の方で全面的には賛同しかねるということがあった模様で、結局それは実行されませんでした。そのときには、日赤の方も、いろいろ前からたまった借金のようなものも少しあったようでございますが、そういうものも何とか工面して引き受けてもよろしい、非常に進んではなかったようでございますが、引き受けてみようということを言っておりました。そのときには、私ども外務省の方も、厚生も、委員会に呼ばれまして悪鬼を求められましたので、そういうラインで解決して下さるならばけっこうである、もし日赤の方で困るようなことがあれば何とか援助しようという話をしたことがございます。従いまして、どちらが援助する、金のワクがどちらにあるというようなことは、両方とももちろん予算を持っておりませんけれども、その場合にどちらが負担するかは決定できる問題であると思っております。一静初めにお話になりました草葉厚生大臣のころのことは私は詳しく全知っておりませんけれども、その後にそういう新しい動きがございました。それだけ申し上げます。
  107. 受田新吉

    ○受田委員 小川さん、先ほど、こちらに残された中国人の遺骨送還に対して、政府としては積極的に協力することを考えなければならないというような意味でしたか、とにかく結論をお出しになっておらなかった。この点については戦犯あるいは中国残留者帰還日本国民が期待していることだし、そして中国に残っている遺骨送還も期待しているのですから、こちらに残っている中国人の遺骨も一向うに帰すということに対しては、国交回復というものとは別に、人道的立場から政府が思い切って積極的な協力をしてあげるというあり方はいかがでしょうか。
  108. 小川平四郎

    ○小川説明員 従来政府が関与して参りました部面は、先ほど御説明のありましたように、船を出しましたことと、それから興安丸を利用したことでございます。ただ、各所に祭られてあります遺骨政府の手で集めましてこれをお送りするということは、私といたしましては、そこまで政府がするべきものであるかどうか、むしろこれは日赤のような人動的な局地あるいは宗教的な見地からやられる方を政府としてできる範囲で援助するという方法がいいのじゃないかと考えております。現在といたしましても、先ほど申し上げました昨年の参機院の御決定のラインというものが私は一番妥当なラインじゃないかというふうに考えております。
  109. 受田新吉

    ○受田委員 そこへ結論が出たようですが、大谷さん、赤津さん、政府日赤その他を通じで援助されるという態勢について小川さんとしては努力するように言っておられますし、一つ積極的に政府日赤その他を通じた形での御協力をお願いされて、早く取り運ぶようにされたらどうかと思います。   これで質問を終ります。
  110. 高岡大輔

    高岡委員長 ほかに御質疑がなければ、これにて参考人よりの事情聴取を終ります。  参考人各位には長時間にわたり詳細に実情を御説明下さいまして、本委員会といたし遺家族援護及び引き揚げ問題調査の上に非常に参考になりましたことを委員長として厚く御礼を申し上げます。  本日はこれにて散会いたします。次会は公報をもってお知らせいたします。    午後五時十八分散会