○大谷参考人 今日は衆議院の海外同
胞引揚特別
委員会のお招きによりまして、われわれ
中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の者に、その事情を聴取してやろうというおぼしめしをもって、ただいまからその説明をさしていただきますることは、私どもまる三年にわたってこの事業を遂行して参りました者といたしまして、心から感謝を申し上げる次第でございます。この事業につきましては、この前一度海外同
胞引揚特別
委員会で参考人としてお呼び出しをこうむったときにも申し上げてありますので、大体の事情は御了解願っておるのではないかと思いますが、その後実は事業も多少進行いたしましたので、かたがた御迷惑でもその後の事情を加えてお聞き取りを願いたいと思うのでございます。
そもそも、われわれがなぜ実行
委員会というものをこしらえてその事業を開始したかと申しますと、御承知の
通り、今度の大東亜戦争の末期におきまして、
日本の労働力が非常に減退いたしました結果、軍の
方針として、
日本内地における事業を
中国人に労働さして進行していこうということで、このことを内閣において決議いたされまして、それがきっかけとなったところに実はこの問題の端緒があるのでございます。今お手元に差し上げてございますプリントの中にもあると思いまするが、
昭和十七年十一月二十七日の閣議決定、これで中華の労働者を内地に移入して労働をさせようということが決定されたのでありまして、その後テスト・ケースとして試験的に一千名程度の
中国人を
日本へ連れてきたのであります。ところが、その成績は非常に実績が上ったそうでありまして、その結果、
昭和十九年二月二十八日の
次官会議の決定をもって、再び全面的、本格的にこの
中国人をこちらへ移入するということになりまして、約四万数千人が
日本へ連れてこられたのであります。しかし、表面は非常に体裁よくできておりまして、三カ年の契約でもって一応終るということになっておりまするし、また現地の大使館あるいは現地軍、
国民政府というものの指導でもって希望者を募集するというような工合に
発表されておったのでありまするが、事実においては、軍の
捕虜は申すに及ばず、一般人の中でも体力の充実しておる、よい体格を持っておる者を家庭から引き抜いて
捕虜同様にして
日本へ連れてこられたというような事情にあったということであります。そうして、
日本国民総動員計画の産業中で鉱業あるいは土木建築業及び重要なる工業その他の事業場にこれを配分して働かすということになったのであるそうでございます。しかしながら、その収容された
中国人の生活はまことにみじめでありまして、申すまでもなく
日本の
国民でも戦時の末期におきましては非常に生活が窮屈であったのであります、ましていわんや、こういう
捕虜待遇をもって敵国の
中国人として移入された人でありまするからして、
相当の重労働、並びに防諜
関係あるいは逃亡の防止というような面では非常に厳重なる取扱いをこうむったということがどうも事実のようであります。その結果は、ついに不満、不平が起りまして、そうして、あるいは逃亡を企てたり、あるいはまた傷害事件が起る、あるいはサポタージュが起るというような、事業場におきまするいろいろのアクシデントが、ついにかような嘆かわしい結果を生むようなことになって参りまして、あるいは銃殺あるいは撲殺というようなことで約六千数百名の人たちが各地で命を失ったというような事情にあるのでございます。
そこで、まず第一に問題として起って参りましたのが花岡事件でございまして、これは、土地の者は申すに及ばず、外務省当局あるいはまたその後
日本に滞在しておられる華僑の方々、そういう方々の間から、
遺骨に対する取扱いの疎漏、粗末という点に対して、これでは、終戦後の
日本の
国民が戦争に対する総ざんげということを標傍し、そうして道義を高揚して再び戦争をなくしようということを海外に声高らかに張り上げて、憲法を改正して、しかも軍力、兵力というものは一切これを持たないという平和国家としての面を強く打ち出しておるにもかかわらず、戦争の跡始末としてもかくのごときことを放置しておくということはまことによろしくないことであり、道義の上から申しげても許すベからざることであるということから、まず花岡のその
遺骨を東京へ持って参りまして、そうして東京の浅草本願寺で丁重なる慰霊法要を行いまして、これを
中国の方へお送りすることにしようじゃないかという議がまとまったのであります。
〔
臼井委員長代理退席、
委員長着席〕
そこで、
日本赤十字社、
日本平和連絡会、日中
友好協会、
日本労働組合総評議会、
日本仏教連合会、
日本仏教鑚仰会、日中貿易促進
会議、、平和推進
国民会議、
日本国民救援会、在
華同胞帰国協力会、海外戦没者慰霊
委員会、東寺、東京華僑総会、こういう
団体が発起人となりまして慰霊実行
委員会を結成し、ただいま申し上げたようなことを心の底から
国民のざんげ行として遂行して参ろうということに話が決したのでございます。そうして、さっき申し上げました慰霊法要を行うに対しまして、実は私が仏教徒でありまする
関係上、私に
委員長を持ってもらいたいというようなことで御
交渉を受けたのが、そもそも私の
関係いたしました最初でございます。実は、この問題は、私不肖ながら参議院議員として国
会議員の議席を汚しておりまするけれども、こういう問題を政治問題化して参るということには私は絶対反対でございまして、真に
国民の道義運動、ざんげの行としてこれを遂行して参りたいというのが私の
委員長を引き受けました最初からの念願であり、また今日まで約三カ年間全くその精神に基いて事業を進めて参ったつもりでございます。
そこで、第一回の慰霊祭を行いますことは、大へん皆さんの御理解でもって盛大に勤めることができまして、一応それで私の
委員長たる
責任は終ったのでありましたが、その後、これを
中国の方へ送り帰すという仕事が重大な問題であるから、ぜひ
委員長を続けてやれということになりまして、実は私も慰霊祭だけで
あとは野となれ山となれというような
気持は持っておらなかったものでありますから、引き続いて今日までこの仕事に
関係をさせていただいておるのであります。ただ、その当時
日本政府といたしまして非常に心配されましたことは、
中共をめぐる国際
関係がいまだ回復しておらないということに対しまして、台湾
政府がこれをどう見て参るか、またこれに対してどう批判を加え行動に移していくかということに対しまして、非常に神経を使われた外務省の心境であったように
考えられるのであります。それとともに、この問題は今まで眠っていた子供を起すようなものでありまして、外務省の
調査によれば、これが各地で六千からの数字になるが、こういうものをあっちこっちで整理して
中国の方に送るということになると、また新しく
戦犯問題が起る、あるいはまた賠償問題等が持ち出されるのじゃなかろうかというようなことで、外務省の方としては非常な神
経過敏になっておられたようであります。けれども、われわれといたしましては、支那海を通って
送還いたしまする場合に、台湾
政府として、軍の戦力の輸送をするのでなく戦争後の跡始末としての御
遺骨を宗教的に送り帰そうというような船に対して、じゃまをするとか、あるいは安全保障をしてないからこれを攻撃するとか、そういうようなことは決してあるまい、終戦のときに、過去の
日本のあやまちは一切これをとがめないという大きな東洋道徳的なことを海外に声明し、
日本にもそれを声明された蒋介石総統としては、このような行事に対しまして、そういうような乱暴な取扱いをされ、また船に対して攻撃を加えられるようなことは絶対ないものであると信じ、かつまた、かりにそういうことがあって、われわれ捧持団が船とともに、
遺骨とともに海底に没しましょうとも、われわれ
日本国民としてはどうしてもやらなければならない道義的事業であると感じまして、しいて外務省にお願いをいたしまして、第一回
送還船を出していただくことになったのでございます。その第一回は、一九五三年七月二日、黒潮丸という五百トンに足らない船、これで行けという外務省からの御命令でございまして、われわれこれに乗船して捧持して参りました者は、お手元のプリントにありますから、名前をあげることを略させていただきますが、たとい支那海のようなところでも、七月二日のあの荒天に死を賭して四百数十トンの小さな船で
遺骨を運びました心情というものは、これは
一つ皆さん方も御理解と御同情をもってお
考えを願いたいと思うのであります。
あまり長くなりますから簡単に申し上げますが、その後各地で、今申し上げましたような
団体がそれぞれ手分けをいたしまして、
遺骨の捜索並びにそれの収集等を実行いたしまして、そうして第二回には、わが
同胞をお迎えに参りまする興安丸というあの引揚船を、一九五三年八月二十六日に第二次船として出していただいたのであります。これが五百七十八柱あちらへお送りをいたしました。第一回のときは五百六十柱。第三回は一九五三年十月二十九日、二百三柱お送りをすることができました。これみな興安丸でありますが、第四次には、一九五四年十一月十六日に八百七十六柱、これだけをお送りすることができたのであります。総計いたしまして二千二百十七柱でございます。ところが、まだ未処理の分が、これも表で差し上げてございまするが、約四千三百三十五柱残っておるのでありまして、この中には、風雨にさらされ、あるいはその土地の風水害のために地形が改変されたものもありまして、全部が全部わかっておるということは申し上げられませんが、大体わかっておるのがその表の上に載っておる各地の数でございます。今年になりまして、福島県あるいに秋田県等におきましても約二百五柱の
遺骨を収集いたしたのでありまするが、まだ、手が足りませんのと経費が非常にかかりまする
関係上、われわれの焦燥しておりまするほどに十分なる集骨ができないような事情でございます。
かようにいたしまして、今日なおこの事業を継続いたしておるのでございまするが、一九五五年四月末現在の全国の
遺骨の状況は、そこの表の次のページにございます
通り、北海道、茨城、長野、岐阜、大阪、兵庫、九州、福岡、そうして東京を中心としたものでありまするが、実は、この東京の
遺骨に対しましては、はなはだ申し上げかねる事情がございまして、われわれが実行
委員会を結成いたしまする以前から宙に迷っておる
遺骨でございます。日蓮宗常楽寺というお寺に収容されておった
遺骨が三百から千までの間の数であったのでありましたが、ある
団体がこれを取り上げまして、そうして現在ではその
団体の保管のもとに慰霊されておるという事情でございまするが、これは
遺骨収集事業のほかに
相当いろいろのうわさを生んだ
遺骨でございます。かようにいたしまして、現在各地でそれぞれの
団体が尽力をいたしてくれておりますので、今年中には、今日現在わかっておりますものだけは収集することができるのではなかろうかと思うのでございます。ゆえに、今年中に何とかしてこれを
中国の方へお送りをするということでこの事業も一段落をつけたいというのがわれわれの念願なのであります。
その次の事業場の表をごらん下さいますと、これはさっき申し上げました人たちを使った場所が書いてございます。それからその次の図面でございますが、これは
遺骨が散在しておる表でございます。
そこで、最後に申し上げたいことは、この
遺骨というものは果して
中国側から送り届けてくれという要求があるのかないのかというようなことに対しまして、さきの内閣では非常な追及を受けたのでありましたが、御承知の
通りに、昨年の十月一日の
中国の国慶節に、私ども十四名の者が文化人として招待を受けました。今日御出席になっておりまする神近先生は婦人
団体の団長としてその当時あちらへおいでになったのでありまして、私も
中国で親しくお目にかかったような次第でございます。その節に、ちょうど議員団の方と一緒に文化
団体の者も周恩来総理にお会いする機会を得たのでありましたが、私はぼんやりしておりましたけれども、その会場へ入りまする入口で、私の手を周恩来氏がかたく握られまして、大谷さんはわれわれの烈士の
遺骨を
送還して下されまして、われわれ中華民国の
国民として非常に感謝をいたしております、どうぞこの上ともよろしく願いますということを申されたのであります。私は普通のあいさつの握手であると思っておるにもかかわらず、そういうことを申されたので、
中国における総理ともいわれるような人が、われわれとしてはまことに微々たる仕事であると思っておったのにもかかわらず、かくも認識を深めておられるのかということを思いまして、私もどぎまぎして、やあ一向行き届きませんでというようなことを申したようなことであったのであります。神近先生も御承知でしょうが、議員団も参りましたし、また労働組合の方もおいでになりましたし、また婦人
団体の方もおいでになりましたが、総理が一具に心から手を握って感謝をしてくれたという仕事は、私は戦争後これが初めてでないかというようなうぬぼれたことすらも
考えるほどに、この問題に対しましては
中国では関心を持っております。なおかつ、御承知の
中国紅十字会の会長李徳全氏に、私が参りましたときにあちらでお訪ねしてお会いしました。そうして、まずわが
同胞の
引き揚げをお願いし、
戦犯の釈放をお願いし、ひいてはわが
同胞遺骨の
送還を
中国からしていただきたいということをお願いし、最後に、
中国人の
遺骨をお届けいたしておりまするが、これに対して、お受け取り下さる上にどういうお
気持でそれをやって下さりますかということを尋ねましたが、いや、私どもの国の烈士でありまするから、丁重にお迎えして、そうして、全部終りましたときには、場所を選んでそこに慰霊搭を建てまして、そこへ奉安をするつもりであります、ですから、なるべく早くこれを完結していただきたい、かように申されたのでありまして、その後
日本へ来られましたが、そのときに、私どもといたしましては、まだ残っておりました
遺骨をまた浅草本願寺へ奉安いたしまして、その一行を迎えて実は慰霊祭をいたしたのであります。そのときに、慶承志副団長が、あいさつの中で、
日本の
戦犯者の
遺骨を送り届ける用意があるからこれに対して
受け入れをしてもらいたいということを、公衆の面前で初めて
発表されたのであります。これは、申すまでもなく、われわれのこの小さな仕事に対しましても、
向うとしては、
日本の遺家族の方方、が心から待ち受けておるわが
同胞の
遺骨を送り帰さなければならぬという道義の上に立って、これを処理し、これを
発表されたものと私はかたく信じておる次第でございます。
かようにいたしまして、この事業もおいおい進んで参ってきておりまするが、
昭和二十九年八月、参議院の厚生
委員会において中岡人
捕虜殉難者の
遺骨送還に関する小
委員会というものをお作り下さいまして、社会党の竹中勝男先生に小
委員長になっていただきまして、この問題に対しまして深く掘り下げ、そうしてまた今日までの事情を聞き、将来のこれの処理という点に対しましてわれわれの希望をとくと聞いていただきまして、
委員会で御協議を願っておる次第でございます。私どもといたしましては、この
遺骨問題が今日までこうやって実行
委員会によって処理されて参りましたが、これは全くわれわれ民間人の手においてなされてきたことでありますが、今日は、内閣も変り、
ソ連、
中共等における
国交回復の点に対しましても、鳩山総理は
熱意を持って現に
日ソ関係の
調整には実行にお入りになっている次第であります。遠からずして
中共との問題も台湾
政府の了解の上に進められることと思いますが、こういうときにまできたからには、これは国家的事業でありまして、私は一民間人の処理すべきものではないと
考えておるのでありまして、零細ながら民間の寄付金をつのりつつ今日までこれを遂行して参りましたけれども、これから先は国家がこれを取り上げていただきたい。われわれは、今までやってきたことに対して何ら
条件を申すのではなく、真に国家事業として最後の仕上げまで国家の手でやっていただきたいということを念願しているものでございます。これらの点については、いろいろ思想問題もあるし、
国交不
調整の今日といたしましては、いろいろのお
考えもあろうかと存じまするが、道義的な立場に立って国家の手においてこれを処理していただきたいということが、われわれ実行
委員の念願なのでございます。
そういうような事情で今日まできておりますので、これを衆議院の方の
皆さん方にも申し上げまして、超党派的にお
考え願って、完全にこれが終了されますことが、やがては
中共と
日本との
国交回復の上に何かのお役に立つではないかとすら
考えるような事情もございますから、どうぞ
一つ、よく御審議を願いまして、御
支持をお願い申し上げたい、かように存じている次第でございます。はなはだ失礼をいたしました。