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吉田(賢)
委員 私は、一切を超越するという観点に立って、今の綱紀問題を論じておるのであります。あなたが部下をかばう――部下と言うとあるいは少し語弊がありますけれども、
国鉄公社の多数の従業員の立場をお思いになるという、その心情はわかります。また
大臣の立場として、被
監督の立場にあるすべての人にあたたかい気持を持って臨むという、そういう気持の発露としての今の、一般論として全体に綱紀弛緩とは思えない、それぞれその職務に一生懸命になっておると思う、これはもっともだと思います。ただしかしこの際は、やはりこの重大なできごとがあったのだから、綱紀問題も重要
原因の一つではないか、こういう観点をはずしたら大へんだと私は思います。一々それをどうこう言うわけではありませんけれども、やはり問題の重点だけははずさないように一つ進んでもらいたい。綱紀問題に遺憾なしというようなことを前提にしてお扱いになりましたら、また不可抗力だとか、それに近いものだということに内部からなってきますよ。そうなったら大へんですよ。でありますので、やはりこの綱紀問題は、この背景をなすところの一重要要素である、こういうような観点から
大臣としてこの問題に対処されることは、最も
国民の望むところであります。でありますので、これは当初の
責任論との関連において私は申しておるのでありまするから、あなたの気持もわかりますが、一つ善処されんことを願いたいのであります。
もう一つ伺っておきたいことは、こういうことがあるのじゃないだろうかと思うのです。たとえば対策といたしまして、
弔慰金か見舞金が五万円か出された。それでもう一万円は四鉄の局長名でいただいた。六万円出されたという問題であります。私は
人命を金で買うという思想があったら大へんだと思います。いやしくも
人命は最高のものでなければならぬ。最高のものが五万円、六万円で買えるというような
考え方があったら大へんであります。とかく
人命を
損傷しました交通
事故等におきましては、やれ生存年令が何ぼだから十万円が妥当であるとか、いや十五万円が妥当であるとかいうようなことが論ぜられております。これはやむを得ざる損害賠償の計算の結論だと思いますけれども、こういうふうな
人命を物質的に換算するという思想が根本にあるのじゃないか。こういうようなことがたとい一名たりとも、一名の
国民の命がなくなるやいなやの問題でも、
ほんとうに全政府が全能力を上げてその防御に当るというくらいな、生命尊重の思想が行政府には一貫しておらなければいかぬと思う。そういうようなことについて、普通の生命を尊重をしないところのだらしがない自動車運転手のような、そんな中にみなぎっておるところの生命を金でかえる、損害賠償をすればいいじゃないかというような頭があったら大へんであります。でありまするので、およそ損害賠償には基準があるとかいうことが、先ほど山口君の
質問に対してちょっと出ておりましたが、基準とかなんとかいう問題は末の問題であります。やはりまっ先に
国鉄といたしましては相当な
弔慰をしなければならぬ、こういうふうに
考える。根本にそういうようなお
考え方があるのじゃないか。それで
洞爺丸の不幸な
事件が起り、ここにまたすでに現われた七十数名の生命がなくなるというような
事件が起るのじゃないか。あちらこちら至るところで
犠牲者が生じておるのじゃないか、こういうことを実はおそれるのであります。もちろんそれはないと思います。もしありとすれば大へんでございます。生命は最も尊重されなければならない。生命なくして一体何が残りますか。何にも残りはしません。だからそれを評価する――評価という言葉もあるいは適当ではないかと思う。私はそれくらい生命に対する実に峻厳なとうとさを自覚するというところに出発してこない
考え方、思想があるのが、こういう
事件を起すに至ったのじゃないか、
人命を尊重しないのじゃないだろうかということを実は心配しているのであります。こういうようなことについての
大臣のお
考え。またしからば一体そういうようなことについて、平素
国鉄なんかが具体的に何か少しやっておるのだろうか。
人命を預かっている。それはもちろん預かることはわかり切っておる。わかり切っておりますけれども、とかく損害賠償多いとか少いとかいって、たとえば青函の遭難のときにもずいぶん問題になっておる。これはやはり生命に対する
考え方が根本から違う。でありまするから、死者に対して霊を弔うというような気持に一脈通ずるごとくに、生命は最高のものなりというような
考え方で、常にこういう運輸に携わっておらぬところに、この
原因があったのじゃはいかというふうに
考えますので、
大臣の所見を伺っておきたい。