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久保田参考人 私が
久保田でございます。私が
東京から
旅大市に
参つたのは
昭和十九年五月で、間もなく一年しまして
大連で終戦とな
つたのでございます。終戦以来今日まで約十年間、
大連地区からは、
昭和二十二年、二十三年、三十四年と、三回にわたりましてソ連堀司令部の手によ
つて引揚者は
引揚げておりました。
家族、
子供を含めまして約千名がその後残
つたわけでございます。そこで、われわれこの千名は一昨年の十二月二日に、新華日報により、
帰国希望者は帰ることができるということを知り、ほとんど全部約九百五十名の
人々が
帰国申請をしたわけであります。私ももちろん
帰国申請をいたしたわけであります。そうして、希望により残る方が、
本人十五名、
家族を加えて約五十名あ
つたわけであります。そのうち三月十三日になりまして、
中国紅十字会の
大連の責任者から、ヤマト・ホテルの前にある人民クラブに全員集合する
ように言われまして、このたびあなた方は帰れる
ように
なつた、第一次に
大連で
引揚げる方は三百七十名ということで、その
方々の名前も全部発表に
なつた。第一回集結は二月二十五日、寺児溝における収容所、向うでは招待所と申しますが、そこに入所されました。第二船には乗れる、第二船の
昭和二十八年の四月十一日ころには乗れるだろうということであ
つたのであります。しかし、依然として動く模様はない。第三次、五月四日の奉皇島出帆の船にも乗れない。それから三箇月、四箇月たちますうちに、だんだんと模様がおかしい、どうもこれはただごとじやない、どういうわけで帰れないのか、帰してもらえないのか、招待所の人たちはみなそれぞれ当局に対して質問し、かたがた、至急に帰してもらいたい、招待所に四箇月、五箇月置かれることは非常に苦痛でもあり、一日も早く
帰りたいのだということを、政府当局並びに紅十字会に対してお願いしたわけであります。しかし、紅十字会並びに政府当局の方は、必ずあなた方は近いうちに帰れるのだ、政府を信頼してもらいたい、政府が必ず帰すから、あなた方は間違いなく帰るのだということで、再三その話があ
つたわけであります。そのうち九月となり十月となり、十月の末にな
つても帰れそうもない。それが、十一月の一日になりまして、現在
旅大地区に
残つている人は一人も帰れないのだ、あなた方は
帰国をする条件として一度この地を離れなければ帰ることはできないのである、御
承知の
通りこの
旅大地区は軍事基地である、軍事基地からただちに
日本に帰るということは、
中国のためにもよくないし、あなた方のためにもよくない、相互利益のためにやはりこの地を離れて関内に行
つてもらいたいという説明が局長からあ
つたわけであります。三百七十名の
方々は、公安局長から話がありまして、ほとんどの婦人の
方々は、涙をこぼして、どうして帰してもらえないのかということを言
つたわけであります。しかし、
中国の政府の方針としては、帰すわけにいかぬ。それで今まで
大連にお
つた人たちで半年前に今の洛陽、昔の奉天あるいは長春あたりに転勤に
なつた
人々はいずれもみな帰
つたじやないか、どうして
大連だけは帰してもらえないのか、半年前の
大連の
事情はみな知
つているはずだ、われわれと大差ないはずだということを申し上げたわけであります。しかし、政府の方では、半年たてば大分情勢がかわるが、現在の
状態はあなた方が知
つている
通りだ、今の
状態では、あなた方は帰
つてから
日本の政府その他から圧迫を受けるだろう、あなた方を保護する意味からもあなた方は残られた方がいいだろうということを話されたのであります。それで、行く先はどこですかということを聞いたのでありますが、今行く先は申し上げられません、いずれ後刻発表がありまし
ようということであ
つたわけであります。しかし、行く先の大体の見当、それから時期などをお示し願いたいということを当局にお願いしたわけであります。そうしたところ
昭和二十八年十一月末日までには全部の方が関内に移動する、行く先は、今のところ
はつきりわからぬが、西安、重慶、武漢を中心とした地方に行くだろう、いずれにしてもこの軍事基地からは直接帰るわけに行かないから、どうしても
帰りたいならばこの
地区から離れなければならない、それがあなた方が
帰国できる条件である、だからどうしてもあなた方が
帰りたいならばこの
地区を離れてもらいたいということであ
つたのであります。それで、昨年の十一月の二十日に
大連から第一次として重慶の
方々が、二十二日に武漢の方方が出て行きました。なお、われわれは二十六日西安に参りました。大体十一月末ころまでにはほとんど全部の人人が
大連地区を離れたのであります。その当時
大連に二世帯残
つたわけであります。一人は山口県出身の方で満鉄の阿部渠さん。あなたは貴州省の貴陽に行
つてもらいたいという発表があ
つたわけでありますが、何分転勤という形で残されたものでありますから、そこの企業体の首脳者の承諾がなければ動かされない。あそこの旅人の
大連ドツク、正確に申し上げますれば
大連造船修船公司、そこの専家としておられた阿部氏は、そこの最高責任者であるソ連の総局長から、阿部はどうしても動かせない、だから転勤を承諾するわけに行かないというわけで、残されて、現在
大連にいるわけであります。もう一人の藤村彦次氏は旅順工大の出身でありますが、その人はち
ようど入院中でありましたので、ずつと遅れまして、本年の十一月五日に武漢に動いておられるのであります。
大連地区からは、二世帯を除くほかは、大体千名と申し上げましたが、全部離れまして、このほかに
中国人あるいは朝鮮人と国際結婚した人が、正確にはわかりませんが約三百名おります。その方は現在なお
旅大地区に
残つております。
旅大地区と申しますと、昔の関東州でありまして、現在
旅大市ということにな
つておりますが、
旅大市に、
中国人と結婚した以外の方は現在一人も
残つておりません。
それから、私は十一月三十日に西安に着きましたが、百五十八名着いて、
安東、瀋陽その他の
地区から約三百名、四百五十名が西安に到着いたしました。さらに、五日、六日の間を置きまして、第二回の分散をしたわけであります。青海省西寧市に、ここに御出席の古田さんの御実弟である古田秀三郎さん、それから、もう一人、
舞鶴の
援護局長の宇野さんと同期生の
藤田尚彦さん、この二世帯と、それに奉天その他の
地区から集まられた独身の
方々が約二十名、二十五名の方があそこに行き、それから寧夏省の銀川には、
大連地区から鷲尾さん、これは元天津の専門学校の教授をしておられた。それに中島兼文さん、上岡長作さん、清水英之助さんという
方々がみな
家族を連れて西安から五日間の行程でトラツクで向うへ移動されたわけであります。西安には城内に約二百四十名
残つておりましたが、そのうち今度第一回にわれわれと一緒に
引揚げて参りましたのが八十七名、なお百数十名
残つております。その近郊には相当多数
残つておるわけであります。西安から、そういう
ようなぐあいに、今申し上げました青海省、寧夏省、陜西省の武功、延安の東の延長、あるいは宝、草灘、覇橋など数箇所に分散しております、大体向うに行
つた人たちで
帰国を希望しない人はほとんどないほどでありまして、現在一番気の毒な
状態にあるのは清水本之助さんで、この方は終戦後関東局土木部長高等官一等の方で、年齢七十才ですが、いまなお職を与えられず向うの人事局の招待所で――どんな家に住んでいるかということは皆さんの御想像できないところだと
思いますが、天井は紙天井、窓もガラス戸一枚なく、全部障子、なおドアも障子です。ほんとうにガラス一枚もない、下は土間で、いなかにおける百姓家の土間よりももつとひどく、湿気もひどい。それで、着かれてから今日まで約一年間この湿気のひどいところで
生活されておられたので、非常にからだも弱
つておられて、ずつと今日まで六、七箇月間は寝ておられた
ような
状態です。非常に気の毒な待遇を受けており、給与はずつと同じでありますが、やはり何ら職を与えられていないということで、
本人にも非常に気の毒だと思うのであります。なお、私は、
旅大地区を離れますときに、局長から、あなた方の待遇は全部
旅大地区と同じ待遇である、給与もそのまま差上げますということを
はつきりと説明を受けたのでありますが、向うへ行きますと、ただちに給与は一割八分全部減俸されたのであります。一人残らずそういう待遇を受けましたので、最初からの話とは全然違うではないかということで、われわれは清水先生を初めとして全員で政府当局に、一応
大連での言明
通りの待遇にしてほしいということを再三願い出て、七月末に至
つてその差額は支給され、この問題は
解決されましたが、非常な不安な
状態で今日まで過して来たわけであります。家屋の
状態もあまりいいとは言えません。中には、ほんとうの家屋じやなしに、穴居
生活の
ような、そういうふうな家に住んでいる方もあるわけであります。
私が立ちますときに、昨年三月二十五日から十一月末まで八箇月余
大連の寺児溝収容所に収容された人たちの中で、中島康郎あるいは高松三守という六十歳前後の
方々も今度の集結に漏れたのでありますが、あれだけ願い出て自分たちはこれだけ
帰りたいと言
つたのにどうして
残留させられたのかと嘆いておられました。なお、高松三守さんは
北海道農大の出身で、現在西安から西、鉄道で約二時間半、武功種馬場に住んでおりますが、この際ぜひ帰してもらいたいと願い出たわけです。私は三十二、三の娘を初め娘ばかり四人もおる、家庭の
事情もあるし、自分も六十を越しておるので、とうていこの地に長くとどまられない、しかも昨年ずつと三月二十五日から
大連の収容所の
生活をしておるのだから、どうしてもいの一番に帰してもらいたいということを言
つたところ、向うの局長は、そうあなたが
帰りたいならば、あなたは
帰りたい理由書をぜひ文書で出してもらいたいということを言われまして、それで今から帰
つてその理由書を書かなければならぬというふうな
状態でありました。
今まで紅十字会の方でいろいろあつせんしてくださいましたが、自願による
引揚げということに表向きはな
つてお
つたのであります。しかし、西安
地区の八十七名の中では、西安に行きましてから一度も
帰国希望云々をされたこともありませんが、今度もほとんど抜打ち的に、十一月十五日の午後五時に至りまして、十八日の三時までに招待所に集結せよと言われ、その職場の重要性その他一向に
考えず、
本人の
意思も全然
考えずに全部集結を命ぜられたのであります。この私たち一行の中には、西安に行きましても、
帰りたくても、
帰国したいという希望を一度も申し出ない、あるいは申請書も出さない
人々も入
つておるわけであります。それで、多少その点に矛盾があるわけでありますが、一応私も紅十字会の責任者の方に聞いたわけであります。このたびのわれわれの
引揚げは
本人の自願によるのじやないか――。もちろん自願による――。われわれは西安
地区では今度は八十七名集結していても一人も願書を出していないし、申出もしていない、どういうわけでこれらの氏名を決定したのかということを考いたわけであります。向うにも時日はなか
つたかと
思います。李徳全会長が
東京を十一月十二日に立たれて北京に十四日に着かれた。十五日にはそれが発表に
なつた。その間時日がなか
つた。
地区地区によ
つて違うわけであります。ある
地区では
本人が
残留したいかどうかという意向も聞かれた
ようでありますが、聞かないところもあるというふうな
状態で、非常にまちまちのやり方をされておる。
なお、先ほど古田先生から
お話があ
つたように、西北大学には八名の大学生、本科生もお
つたわけであります。そのうち私の
子供が二人、娘とむすこが大学生にお
つたわけであります。それで、政府からあまり突然な発表があ
つたので、とても大学に行
つている
子供の二人の退学手続その他の点についてはできないから、十八日三時にちやんと集結しろと言われてもなかなかそう簡単に行かない。そうしたら、あなたは行かぬでもいい、政府の方で一切合財や
つてあげる、自動車も出して、手続も全部してやるということであ
つたので、当然在学証明あるいは退学証明、何らか書類をくださるものと期待してお
つたのであります。それで、校長にいろいろ折衝したのでありますが、紅十字会の指令があ
つて一切そういう在学証明その他の書類は出さぬことにな
つておる、どうしても出すことはできぬということであ
つたのであります。それで、私の
子供たちも、
東京に帰
つてから在学証明や何らかの書類をもら
つて帰らなければ転学その他に非常にさしつかえる、そういう
ようなことで
帰りたくない――。私の
子供二人はどうしても書類がもらえなければ帰らないと言
つたのでありますが、三回も四回も自動車を出し、ぜひ帰れということであ
つたので、従
つて私の入所は遅れたわけであります。私は招待所に集結しましたが、
子供たちは、どうしても書類をいただかなければ帰れない。なおその節全般的に出さないのかと聞いたのでありますが、これは統一した方針であるから、小学校、中学校、高等学校、大学、すべて一律に出さないのであるということを言われたわけであります。西安の招待所に参りましたら、ただ
本人だけそういう書類をもら
つていない。あとは高等学校、小学尋常一年に至るまで全部在学証明をもら
つておる。そこで私はさらに質問しました。そのときにち
ようど紅十字会の
代表の方、最高幹部の方が十人ほど慰問に来られたので、その点を私はただしたわけであります。政府の一貫した方針で紅十字会の指令によ
つて出さぬということを
はつきり言われたにかかわらず、この招待所に来てみれば、ほとんど全部の人が在学証明書を持
つている、西北大学の今度集結した
本人だけ持
つていない、われわれの
子供はこれでは非常に困る、何とか善処してほしい――。
子供たちはどうしても在学証明をもらわなければこの地を離れたくないと申しておりました。もつとも経済的な面もいろいろ
子供たちにあ
つたと
思います。大学生になれば一切合財の費用、寮におきまする食費から教科書代に至るまで、すべて政府で大学生に対してはめんどうを見てくれます。高等学校までは親の負担でありますが、大学生は国家の負担でありますので、はたして
日本に帰
つて来た場合に、われわれ二人が父の収入だけでや
つて行けるだろうかどうか、はたして就職ができるだろうかどうか、その点を
子供たちは懸念したわけであります。私も
昭和二十年終戦の直後に家内をなくしまして私の一人の手で三人の
子供を育てて来たわけでありますので、親の教育その他についても行き届かない点が多分にあると
思います。しかし
子供たちは在学証明書をもらわなか
つたことについて非常に不満を感じている。しかし政府の方ではどうしても帰れと言う。私が招待所に入りましても、
子供たちは退学の手続もしない。
荷物を学校に置いたまま、退学手続をしなか
つたわけであります。それで、校長室で政府の人から再三そういう話がありまして、
子供は、そんなに
帰りたくない、要するに、在学証明を出さなければ、
帰りたくない者は帰らないでいいじやないかということまで言
つたのであります。しかし、政府の方は命令だからということで、無理やりに西安を立
つたわけであります。それで、私は、天津に参りましていろいろと他の大学の在学証明書のことを聞いてみたところが、他の大学はほとんど出ているわけです。上海の交通大学の学生にしましても、その他全部在学証明書を持
つている。高等学校、中学校、小学校みな持
つて来ている。それで西安だけ出さない。西安では、小学校、中学校、高等学校で在学証明書をもら
つた者は一人残らず全部回収せられたのであります。この点が私は非常におかしいと思
つて、あなた方が回収されたのは政府の統一した方針によ
つて回収されたのか、もしも他の
地区の大学なりその他の学校で証明計を出してお
つたならばどうするかと言
つたら、いやそれは大丈夫だ、天津の税関において
中国の書類に判を押したものは一切没収することにな
つている、出したところは間違いだ、出さない方針に
中国は指示しておるから出さないのだということであ
つたのであります。しかし、天津に行
つても全部証明書を持
つておるということであ
つたので、また紅十字会の方にお伺いしたわけであります。ち
ようど古田さんもお見えにな
つておりましたので、船の出る前の二十五日の晩に、紅十字会はこういうふうな方針であるらしいからぜひこの点を善処してもらいたい。それで天津へ行きましても、私の
子供二人は、どうしても不安だ、これならば
日本に帰れない、
日本に帰
つた場合に、自分たちがはたして大学生だ
つたことを立証すべき証拠は一つもない、――在学証明書は全部取上げられたわけでありますので、非常に私の
子供は不安に感じてお
つたわけであります。それで、紅十字会に申し上げましたところ、それでは研究をすると
言つて、二十五日の晩約四時間にわた
つて在学証明書の問題について討議されたわけでありますが、結局これは出すことにしまして、あなた方の
子供さんに対しましてはあなたの
帰国後に後刻送りまし
ようということに
なつたわけであります。こういうふうな点で、私たちの
引揚げの問題に対してはスムーズに行
つたようでありますけれ
ども、いろいろな問題でひつかかりができて、非常にこの問題に対して私自身として困
つたわけであります。
なお、話はもどりますが、
旅大地区の千名の行き先について申し上げますと、約三十箇所に分散したわけであります。行き先を申し上げれば、西安
地区は先ほど申し上げた
通り、西南
地区、これは重慶を中心としてそこに約三百名、それからもとのチベツトの西康省に一世帯、それから雲南省の昆明に約十世帯、貴州省の貴陽に約十世帯、その次に中南
地区は武漢を中心として長沙、湘潭黄石港など、さらにまた河東
地区は南京、杭州、鄭州など、それから河北
地区では山西省の候馬、運城鎮、張家口の南にある宣化並びに内蒙古の帰綏、包頭方面にみな転じたのであります。
現在の
残つている
状態は、ほとんど
帰国を希望されておるが、今まで
旅大地区にお
つて残留したいという人も、今度は
帰国したいということを願
つているわけであります。いずれ紅十字会の方ではこの次の
帰国者に対しては
本人の
意思を確かめた上で名前を発表するのじやないかと
思いますが、政府当局にこの点を聞いてみたところ、今度は非常に忙しいために企業体へも連絡しなか
つた、それで、重要な人もあるいは重要でなか
つた人に対しても今度第一次に入
つてもら
つた人もある、この次は十分この点は考慮しなければならぬということを西安
地区の紅十字会の方は申しておられました。いずれこの次第二次、第三次にはこの
方々は帰
つて来られるんじやないかと
思います。なお、
残留希望者の方も、二、三ある
ようです。鄭州には二世帯ある
ように開いております。これはいずれ
小野さんから
お話があると
思いますが、以上の
ような
状態です。
それから、この
ような紅十字会の取扱いについては、先ほど古田先生から
お話に
なつた
ように、非常に丁重をきわめました。独身者の方には八十万元、
家族者に対しては、十六才以上は六十万元、十六才以下の
子供については二十五万元ずつ、
中国の人民紙幣で
補助金をいただいて帰
つたわけであります。なお、ホテルその他の設備についても、西安では西安招待所、私たちは親子四人でありましたが、十六畳くらいのりつぱな部屋、これは第一ホテルくらいのりつぱな設備、じゆうたん、ソフアーその他寝台等りつぱなもので、二部屋を提供していただいて、食事その他もあまり天津・広東とかわりないほど、非常に優遇していただいた。なお、西安から天津に来るまでも、八十七名に対して紅十字会から
代表の
方々が五名も付添われた。それで、天津における
状態は、先ほど
お話のあ
つた通り駅頭まで来ていただき、紅十字会に対しては私は実に感謝の言葉がないほど好遇していただいたことについて、この席を借りてお礼を申し上げたいと思うのです。