○
参考人(
松岡三郎君) 私
松岡です。両先輩の該博な知識を聞きましたが、私遺憾ながら根本的に違
つた考えを持
つております。
で最初に兼子教授に対する感想といたしますと、
結論から言いますと、具体的に働く場所に行
つたと、その場合に働く
仕事がないということについて、その
仕事がないことの責任が
組合側にある。だから
賃金債権はないという
考え、この一番大事な点について反対です。
孫田博士については最初から私外国の判例とか学説の読み方ということについては、私先ず私の
意見を述べてみたいと思うのです。
今度の
事件についてよく引用されるのは、一九二三年のライヒスゲリヒトの判決です。この判決を読みますと、部分ストに対しては
賃金を支わなくてもいいという
結論です。でこの
結論が出る前に学者は非常にいろいろな議論をやりました。これは
孫田博士の言われる通りであります。この
結論に対しては併し理由があります。ドイツの実定法からは、
賃金を与えなくてもいいという義務は出て来ないのだ。ただここに経営共同体乃至
労働共同体という思想を持込むと
賃金を払う義務はないということなんです。ところで問題はこの
労働共同体という思想は一体どんなものであるかという問題です。これは一九二三年のライヒスゲリヒトではまだはつきりいたしませんでした。その後
孫田博士が指摘されたように、その共同体思想は
労働者の連帯思想だという
考えが明白にな
つて参ります。学者の多くもその点を強調しております。その後に更に
孫田博士が言われましたように危険範囲説、そのどの責任の圏内から具体的な
事件が起きたかということを判断するという説です。いずれにしても連帯主義というものが
賃金を払わなくてもいいという根本的な理論にな
つているのです。つまり部分ストについては
労働者仲間の問題だという、イギリスで言えばフエロー・サーバント・シオリーという問題であります。この連帯思想というものが
日本で採用できるかどうかということを
考えるのは、当時のドイツと現在の
日本とどう違うかということを
考えなくてはならないと思うのです。こういうことを
考えるのは昔の
解釈法学から言えば、これは社会政策学者のやることだというように言われるかも知れませんが、私は
労働法を
考える場合に一番大切な点はこのことだと思うのです。
先ず私は率直に一番最初に言いますと、今
孫田博士の言われましたベトリーブス・ゾリダリテート、いわゆる経営体における共同体思想というものは、御承知の通りにべトリーブスレート・ゲゼツツ、つまり経営協議会法という法律ができて、経営については労使が共同にや
つて行くのだという、だからそこにおいて起
つた責任は労使共同体がとるべき問題だ。だから
賃金債権はないのだという
考えだ。ところが今
日本で経営協議会法があるかというとこれはない。然らば法律がなくてもそういう
考えはあるかというとそれもない。日経連が経営については共同でや
つて行こうと新聞で宣伝しておるだけです。連帯思想というものはベルーフス・ゾリダリテート、つまり職業における連帯思想というものについて、当時のドイツと今の
日本とどう違うかということを私は検討いたしますと、例えばその前年のドイツの社会党の勢力関係を見れば私は相当わかるのではないかと思うのです。その前年の一九三二年九月に多数社会民主党、これは議員数が百八でありますが、独立社会党六十一、これが合同して、社会党が一大勢力を占めます。その党首は大統領であります。政権は得られませんでしたけれ
ども、そのときの合同の綱領が今申しました連帯主義です。こういうゾリダリテートという
考え方を強く打出しております。特に今
孫田博士が言われましたようにインテルナチオナーレ・ゾリダリテートという
考え方をここで打出して、
一つの輿論にまでなりつつあるのだということを私は
言つていいのだと思います。というのはその裏付を見ればよくわかります。その裏付は、職業別
組合が
全国的組織に統一されて来ております。
日本では御存じのように
企業組合で相互の
組合は喧嘩しておる。だからそこには連帯思想というものはありません。で、炭労なんかは比較的まだいいほうだと言われておりますが、建前が職業別なので連帯思想というものではないのです。で、この点は閑がありませんから統計で挙げませんけれ
ども、
日本の現在と根本的に違
つているということを私は
考えるのです。で、又これを更に経済的に見ますと、
労働組合が完全に独占している。だから独占しておりますから使用者が入る余地がない。そうだとすると、その今のストライキということについては独占した
組合がすべて責任を負う。だから
組合の責任は連帯思想、連帯責任だという
考え方がここに出て参
つたのです。
で、
日本はどうでしようか。
日本はこの点については皆さん御存じのように、ピケ破りがあ
つて、
暴力沙汰が行われているのでありますが、つまり独占が十分になされていない。で、この点については、だから完全に
労働組合の責任とは私は言えないというふうに
考えるのです。そうだとすると、
日本において
労働者仲間の連帯責任という理論は採用できないということになるのじやないかと思うのです。で、そうだとしますと、
日本でこの問題を
考えます場合には、どうしても兼子教授が言われましたように、民事的な債権債務ということで
考えなければならいのです。併し兼子教授に書いたいのは、単なる民事的な債権債務だけの問題として取上げることは、これは反対です。やはり
労働法の問題ですから、
労働法の
考え方をも取上げなければならない。私はそういう
考え方で少し私の
考えを述べてみたいと思うのですが、ただここで私は実際のことについて余り携
つておりません。だから資料がない。で、そこで私の議論の手掛りとして、
労働省の方に叱られますが、
労働大臣が今まで速記録で述べられた思想というものを、
一つ私それを仮想の敵として、議論を進めてみたい。それから又、今までの学説として、
経営者の方だろうと思のですが、
経営者の方から、自分と同じ学説だと盲われて配られたパンフレツトに出て来た思想というものを取上げて、私はここで検討してみたいと思うのです。
先ず
労働省の
考え方について私が言いたいことは、
考え方というよりも法律論に入る前に
一つ私は言いたい。それは今度のイギリスの部分的な、部分ストに対する
考え方の点ですが、
労働大臣はこう
言つておられる。「イギリスあたりのT・U・Cの
考え方でも、部分的なストというもの或いはサボというものもやはりストライキの
方法としては好ましくない、こういうふうな
考え方で労組全体を指導するというように聞いております。」、これは
昭和二十九年二月十六日、参議院
労働委員会の吉田議員に対する答弁です。で、この点については、私は率直に言いますが、これは間違いです。で、イギリスのT・U・Cは部分ストに対して好ましくないということは少しも
言つておりません。なぜならば、部分ストというものはない。で、今イギリスにあるものは、アン・オフィシャル・ストライキ、これは非公認のストライキと言うのです。T・U・Cは
全国的に組織されておりますから、その組織に反対して個々の、
日本で言えば山猫ストライキというものばかりです。T・U・Cが指導する部分的なストライキというようなものは、自分がやりたくないならばやるわけはないのですから、これは好ましくないとかそう言うはずはない。このアン・オフイシヤル・ストライキに対してはT・U・Cの大会で毎年私が見たところでは、四、五年続いて好ましくないと
言つているのです。あたかもイギリスにおいても、イギリスは部分ストライキというものは無いものであるというようなことを前提として、今度の部分ストライキはいけないのだというように答弁される、間違
つた答弁をされるということは、私は相当大きな悪影響を与えるものじやないかというふうに思うのです。
そこで問題は、では然らば何故イギリスでは部分ストライキはないかという問題、これを率直に申しますと、部分ストライキがないのは、
日本で逆に部分ストライキがあるのはなぜかと言いますと、緊急調整決定があるからです。つまり乱暴な言葉で言えば、炭労に対するゼネスト禁止法があるからです。イギリスにはゼネスト禁止法がない。なぜないのだろうかと言いますと、これは
労働組合がそういう法律に違反してストライキをや
つて、そういう法律を撤回さしたからです。強制仲裁法に違反して、スト禁止を含むスト禁止法が出ますと、それに違反してストライキばかりやりました。イギリス人はゼントルマンで、法律には滅多に違反しない。ところが
労働法に関する限り、ストを禁止する法律に対しては今年の初頭から、
日本流に言えば違法なストライキをや
つているというような
状態です。そうだとすると、こういう部分ストライキに対する今の労政当局の
考え方から言えば、結局違法なストライキを奨励するという形になるのじやないかという問題を心配するのです。このことは法律論に入る前に、非常に大切なことなので私は附加えます。
そこで先ず第一に、
労働省が部分ストライキに対して
賃金を差引いてもいいのだという議論の第一点は、やはりこの二月十六日の参議院の
労働委員会における吉田議員に対する答弁というのでありますが、「ストをやる、そうして全体の機能を麻痺せしめよう、そういう意図がはつきりして、そうして部分ストに入
つた、その際部分スト以外の職場の
労働者が」……これは失礼いたしました。そのやはり同じ答弁ですが、要するにこういうことを
言つておられるのです。部分スト以外でも、これに関連ある全
労働者に対してノー・ワーク・ノー・ペイの前提において
賃金を差引くことは当然である。つまり差引く根拠はノー・ワーク・ノー・ペイの原理だということなんです。この点については今
孫田博士が御指摘になりましたが、
日本でノー・ワーク・ノー・ペイの原理をと
つているかというと、私は
日本の
労働法ではノー・ワーク・ノー・ペイの原理をと
つていない。例えば
労働基準法第十一条で
賃金の定義をしておりますが、例えば家族手当というようなものをこれに入れております。家族手当は家族が一人いるというだけの理由で、
労働は同じでも
賃金は高いのです。だから
労働と関係しない
賃金を与えている。だから
労働基準法は私はノー・ワーク・ノー・ペイの原理を正確にはと
つていないと
言つていい。私は逆に言うと、ノー・ワーク・ノー・ペイの原理をと
つている条文があるだろうかと思
つて探してみると、それはとても少い。例えば
労働基準法三十七条で、割増
賃金の算定で、家族手当や何か除いている、こういう
程度です。むしろノー・ワーク・ノー・ペイの原理をと
つている条文を探すのに苦労している。
労働基準法で男女同一の
賃金ということを
言つているが、これは男と女の問題だけで、私一生懸命探して、まだ見落しがあるかも知れませんが、二つ三つぐらいの条文しかノー・ワーク・ノー・ペイの原理をと
つている法律がない。そうだとすると
日本の法律ではノー・ワーク・ノー・ペイの原理をと
つていないということが言えるのじやないかと思います。何故と
つていないかということにつきまして
お話ししますと長くなりますので、この点は省略いたします。
それからその次に
労働省で
言つていることは、部分ストは債務の本旨乃至は
労働契約の本旨に副わない
労働だということなんです。この点については二段かまえの論議があります。この点については今読上げようとしたことでありますが、ストをや
つて全体の機能を麻痺せしめよう、そういう意図がはつきりして部分ストに入
つた、その際スト以外の職場の
労働者が形式的に出勤してお
つても、それでも意思がそこにないと判断する、その意思がそこにないという、その意思が何であるかということが問題ですが、そこに意思がないという意思を問題にされているということです。それからもう
一つは、この
組合の指令によ
つて全体を麻痺せしめるために行われたストであれば、少人数の者が休んでお
つても、これは全体がその意図の下に行動しているのでございますから、その労務の本旨に適わなか
つたという限度において
賃金は当然払わないものであろうと思います。こういうことです。これはその
労働の意思がないということを、
組合全体の意思から出ているのだというようなことを
言つておられるのです。
で、この点については一審最後に私の法技術的な
解釈論を述べるときに詳しくは譲りますが、ここで皆さんに一言申上げておきたいのは、債務の本旨に従
つてとか、
労働契約の本旨に従
つてというのは一体なんという意味だろうか、これが
一つ問題だと思うのです。これについては今までの
日本の通説と
言つていいと思うのですが、債務の
内容に従
つて或いは契約の具体的な条件に従
つてやるということだと思うのです。意思というものは問題ではない。だから履行の時期、場所、給付の
内容が信義衡平の原則に超して、それを提供し、使用者のほうが
仕事を与えればいつでもやれる、
仕事を開始されるという
状態であれば、私は意思なくして、意思というものは問題なくして、民法四百九十三条の労務の提供があるということを
考えていいものだと思うのです。これはあとから申上げたいのですが、意思というのは履行の意思、働くという意思ならばいい。極端なことをいいますと人殺しを
考えている意思で以て今のような
状態を実現しても或いは恋人の顔を想像しながらそこへ出たとしてもこれは何ら妨げにならない、だから私は意思というものはここでは問題にする必要はないと思うのです。この点についてドイツの有名なシユタムラーも二つの条件を
言つております。この契約条件に従うということと、それからその債権者がそれを受領せんとするときには正当な
方法の受領となるようなものであるということを
言つておりますが、私が今申上げた通りであります。で、
労働省のほうの
考えられていることはまだほかにあるのかも知れませんが、速記録の中に現われた点に対する私の一通りの感想をここで申上げたわけです。
それから先ほど申上げました
経営者の方が有力な学説だとい
つて紹介された、むしろ今度の
経営者の基本
方針となるような学説というものをここで述べてみたいと思うのです。これは石炭連盟の方だと思うのですが、四つ挙げておられます。
一つは
労働条件の提示としての
考え方です。つまり
賃金の差引というものは
労働条件の提示としての
考え方だというのです。これによれば、現在は
賃金については無協約であるから、一部スト時の就労
労働者の
労働力をどう評価しても
労働条件としてどういう
賃金を提示しようとも自由であ
つて、何ら法に違反するものではないという
考え方なんです。でこれは、この提案に対しては法律論上私は特に反対する理由はないと思うのです。なぜかというと提示であ
つて差引ではない、だから差引ではないのですから一部のものとして受取るには十分だと思うのですが、ここで私は
一つ申上げたいのは、無協約であるからとい
つて賃金が定ま
つておるという
考え方そのものです。で無協約であればもう
賃金はすつかりなくな
つたのだろうかという問題がある。私はこれは
労働の原理に反する。
労働する場合には定ま
つた賃金の下で働くということでありますから、客観的な
一つの
賃金債権というものは確定すると見なければなりません。これは私は実定法の根拠として、特に形式論を青いたくないのですが、
労働基準法十五条、このままが適用になるかどうかわかりませんが、働くときには
労働条件を明示しろということを
言つている。つまり働くときには空白
状態で働いているのじやない。従
つて何らかの条件が定ま
つて働いているのだ。その条件の中で一番大切なのは
賃金なんです。だから私は
賃金が定ま
つていないで働いているということを
考えるということは近代的な
労働法律家のなすべきところじやないというように
考えたいのです。
で第二に、この第三の学説と言われているのは、対抗手段としての
考え方です。これは
労働者の争議手段に対する使用者の対抗手段として、ロツク・アウトで堪えられない場合の争議行為の止むを得ざる対抗
措置として、
賃金減額
措置も可能であるということを
言つておられるのです。で私は対抗手段としての
賃金差引ということを取上げる場合に、先ずロツク・アウトよりも軽いということを一自
つておられますが、私はロツク・アウトと根本的に違う。ストライキは
労働力を売らない。ロツク・アウトは買わないということです。言い換えれば消極的に
一つの債務をしない、不作為という問題です。ところが
賃金差引という問題は具体的な債権を差引くわけです。対抗手段ということを
言つておられるのですから、債権ということがあるということが前提なんです。債権がないということが前提ではない、あることが前提です。だから具体的なる債権の差引ということは、人の財産を取るのですから泥棒ということになる。この点は例えば
労働者がストライキをする場合に泥棒や人を殺してはいけないというのと同じ理論です。だからこれはいけないということを私は
言つてもいいと思うのです。それから更に私はこの点について申上げたいのは、一体対抗手段として強行法規に反していいだろうかという問題です。ロツク・アウトの場合は就労請求権というものを断るのですから、はねつけるのですから、この点については債権関係を破るだけの問題です。ところが債権を保護しておる、例えば
労働基準法二十四条というものを破るということは、
労働者の生存権を侵害する。つまり
労働者の生存権を守る強行法規に反するということなんです。この点は言い換えれば人殺しというものが争議行為で許されるだろうかという問題ですが、これは許されない。私は特に乱暴な言葉で
言つておるわけですが、そういうことを
言つていいと思うのです。
第三番目には、共同負担説というものがありますが、これによれば労務提供
労働者が労務不提供
労働者と同一
組合に所属し、その団体の遂行する手段として一部ストが行われる以上、労務提供
労働者もスト行為の一環として、形式的に出勤しておるものと見るべきであり、ストに対する責任は全
組合員ひとしく共同して負担をするのである。従
つて労働協約で約束したところの
賃金は負担する必要がない。つまり共同負担説、これは先ほど申上げました連帯主義、連帯思想というものと結び付くものであります。ですから私は今の連帯責任、ドイツの連帯責任理論を正当化する地盤が
日本ではないということを申上げることが、これに対する第一点の批評として出て来ますが、私はそれよりも先ずもつと
考えたいことは、全
組合員がストの決議に参加したことによ
つて組合の統制権がここまで及ぶだろうかという問題です。私はむしろ
組合の統制権というものは、将来あるべき債権に対する統制権は及びますが、具体化された債権に対する統制権は私は及ばない。これを別な観点から言いますと、団体法上の連帯責任と債権法上の連帯責任というものは明らかに違うのだということだと思うのです。例えば
組合が団体法上による責任を追及されるというときには、違法なストライキをや
つたというときに、私は違法なストライキに対してやはり全
組合員が責任を負うという形、私はその場合には個々の
労働者も別な観点から責任を負うことがあり得る。併し今問題にしておるのは具体的な債権債務という問題ですから、団体法上の責任関係とは違
つておるというように私は解したいのです。この点については私の最後の
結論を申上げるときにもう一度触れますから、今一応入る順序としてこれだけ申上げておきたいと思います。
最後に、不当利得を中心とする
考え方であります。これは恐らく兼子教授あたりから出たのではないかと思うのは、これによれば、就労しない
労働者のみならず、就労したけれ
ども正常な
作業ができなか
つた労働者も一体とな
つてストを行な
つておると見るべきで、かかる労務の提供は
労働協約で約束したもたでないから、かかる
労働の提供については
賃金債権を発生せず、使用者の受けたる収益の限度において不当利得の返還請求権があるわけであるというのですから、これは兼子教授の説による、まあ近いと
言つておきましよう。この問題については私は非常に形式諭からや
つてみたいと思うのですが、このストを行な
つておる、その部分ストに参加しない者もストを行な
つているということの法律的な意味です。で私はこれは厳格に言うとストではない。
労働関係調整法の
労働争議に該当する
労働争議に参加しているけれ
ども、労調法第七条の争議行為ではない。例えば
昭和二十三年頃でしたか、この都電のときに、生産管理をやるのだと
言つて組合が宣言しました。宣言しても何らストライキをやらないのです。で宣言し、それから決議した。だから宣言し決議したということが直ちにストライキ、争議行為にはならない。だから当時の検察庁は、あれは宣言だけであ
つて、争議行為でないから検察は出て行かないということを言
つたことがあります。これは私は正しい
解釈だと思います。で
労働争議と争議行為というものをはつきり
労働関係調整法で区別しておりますが、この区別をしておることは非常に大切なことなのです。で
労働関係調整法を作るときに、争議行為の定義ということについて問題がありました。これは戦争と同じだから、現在のへーグ条約によれば、戦争するには予告が必要だという
考えと、いや、事実上の戦闘
状態であれば足りるのだという
考えとが対立しました。当時末弘先生は、それは戦争
状態じやなくて、戦闘という意味だから、決議とかそれから宣言とかは問題でないということを言われたことがあります。だからここで決議に参加したということは、私は
労働法規上の責任はあるけれ
ども、争議行為、つまり労調法第七条の争議行為の責任というものは断じてないということを
考えるのです。
それから第二に私がここで申上げたいのは、争議行為に入
つたからとい
つて、争議行為だから
賃金差引という論理は出て来ないのです。で
労働法上争議行為であれば
賃金は差引くという実定法上の根拠を示してくれと言うと、これは示されません。どこにも計いてない。ですから、争議行為であるから
賃金を差引くというものではないのです。これは論理的に言いますと、労務を提供しながら、つまり民法第四百九十三条の労務提供がないから、反対債権というものは与えないのだということを
言つているに過ぎない。で何か皆が決議に参加すれば争議行為だから、それから生ずる損害は全部差引いてもよいのだという
考え方は、何か争議行為ということによ
つて賃金が差引ける実定法上の根拠がある、或いは法理上の根拠があるような印象を与えますが、これは間違いだということをここで申上げたいのです。飽くまでも
賃金債権というものは具体的な債権債務の関係なんです。団体法上の問題じやないということは、私はその点に関する限り兼子教授に対して全面的に賛成する。これはドイツの学者で言えばジンツハイマー教授の言われることに絶対に賛成だということをここで申上げておきたいと思うのです。だから私はここでもつとわかりやすい言葉で言えば、戦争と戦闘
状態というものを区別すべきだということだと思うのです。戦闘
状態に入
つた法律関係を戦闘に入
つていない者にまで及ぼすことはできない。特にこの団体法の責任を個々に及ぼすことは絶対にできない。そこに一本実定法上の根拠がある。一本法律でも
労働省あたりで作られれば別問題ですが、そこまでまだ
解釈論としては到底行かない。そこで今のドイツのような実態がないのですから、私は特に行かないということをここで申上げたいのです。
時間が大分
たちましたから、今度はそういう意味で
経営者側の法理論です。
経営者側の法理論は、今申上げましたことを基礎としていろいろなことを展開しておりますが、ただここで
一つ問題にしているのは、特色があるのは衡平理論ということです。衡平理論というのはたくさん書いてありますが、要するに形の上では一部の職場の
労働者のみの就業拒否であるが、その物理的乃至経済的効果は当該職場のみならず、
企業の組織的、有機的運営を阻害するものであり、特に減産を目的とする運搬関係のストは全
企業的であるということです。これもやはりこの効果ということを問題にしているのですが、私は先ず第一にその前提として、物理的、経済的な効果を全
企業に及ぼすということが、これから
賃金債権、
賃金差引の論理というものが出て来るだろうかという問題ですが、私はこれは出て来ない。でこれは、この効果というものは、例えばイギリスの一八〇〇年代の判決によれば、もう極端なこと、ストは結局乱暴なことじやないのですが、
企業が重大な損害を受けるようなストライキでもこれはいいのだ。ただ公衆、パブリツク・ポリシーが迷惑するようなことがあれば、それは制限すべしという理論が出ましたが、今ではこの論理は通
つていません。だから今の公共の福祉で制限をする、パブリツク・ベニフイツト、公共の福祉という
考えはないのです。パブリツク・ポリシーとかパブリツク・ベニフイツトとかという
考えはないのです。このように私はこの第二に対する批評を申上げたいのです。
損をしたときだけ法律上差引の義務があるのだとい
つたことに対して、儲か
つたときはどうか、儲か
つたときに分配する法律上の義務があるかどうかということになると、ないのです。これはやはり儲か
つたときには、
労働者が出かけて行
つて、これだけのものをくれということしか言えないのです。で儲か
つたときには手放しにして、損したときだけ差引くということを言うのは却
つて衡平の論理に反するということを私は
考えたいのです。
で時間が相当長くなりましたが、そのところそどころに私の感想を申上げましたが、ここで私は
一つまとめてみたいと思うのです。先ず第一に、この問題については、純粋に個別的な民事法上の問題だということをここで申上げたいのです。でその場合に、特にドイツの連帯思想、
労働者仲間の責任だという
考え方をとる地盤が全く
日本にはないということ。だからここで
日本の
現実から出発しなくちやならんということをここで
考えたいのです。そうだとすると、先ず第一に労務
賃金債権の要件として、
労働者がなすべきことは何かというと、民法第四百九十三条によ
つて、
労働の提供が、債務の本旨に従い
現実になされたか否かということが問題です。でその場合に働くという意思、提供の意思というものがあれば、意思と
経営者が
仕事を与えればその債務が実現する。そういうことであるか否かということによ
つて、判断すれば私は足りるのだということを言いたいのです。この点から言いますと、この部分ストに参加しない者が、
現実に職場に行
つて働くというつもりで行
つた。働くという、先ず第一にこの定ま
つた時刻に定ま
つた場所に、それから例えば道具を持
つて行
つたということは、動く意思というものが前提なんです。そのほかに先ほど申上げました動機というものは必要ない。これは人殺しとか或いは乱暴な言葉で言いいますと、いろいろなほかの瞑想はあるでしようが、使用者を何とかして困らしてやろうという瞑想はあるかも知れませんが、とにかく個別的な債権債務である限り、そういう
一つの要件を示せば私は足りるのだということをここで申上げたいのです。だからまあ問題は、最後に兼子教授と違う点です。そうい
つた場合に
仕事がない、その
仕事がないことがどちらの責任であろうかという問題です。これが兼子教授の
考え方は、今のドイツの
考え方と同じように連帯債務という
労働者仲間の責任から出ているという問題です。確かにドイツのように完全に
労働組合が独占している場合にはそういうことが
考えられるのですが、
日本では
考えられない。そこで私はストライキの本質というもので以てこれに対する回答をしなければならんと思うのです。
でストライキというのは一体何であろうかという問題です。例えば私が、今の私は大学教授の地位で俸給が少いというので、もつと俸給を上げてくれと
言つて当局に申込みます。そうするとこの私に対して、お前は嫌だと
言つて、ロツク・アウトをする。そこでその場合に一番大切なことは、ほかの者を、ほかの教授を雇
つて来るのです。雇入権というものが
資本家側にはある。これは現在の実定法からは非難できない。まあ沼田教授なんかそれには相当批判的ですが、私は資本家の雇入権というものは非難できない。つまりほかの教授を雇
つて来る、講義をさせてみる。そうするとその教授が禄な講義をしない。すると
考えてみると
松岡があれだけの要求をしたのは、あれだけ立派な講義をしていたからだということになる。(笑声)これは非常に私例が悪か
つたですが、つまり
労働力を引上げて経済的な価値を相手に知らしめるということが、これがストライキの一審典型的な型なんです。そうして典型的な
考えだから、ほかの者を雇
つて来て働かせれば働かせられる。だからその場合に運搬部門の者がストライキをや
つたというときに、資本家のほうではほかの者を雇
つて来て働かせる権利がある。そして働かせればその
仕事は続行できたであろうということは当然
考えられる。
ところで問題はそういうことができるだろうかという問題。この点について一月十六日の田村議員に対する、ここだろうと思うのですが、田村議員に対する
労働大臣の答弁によると、炭鉱関係の三十一万の
うち数百人を教えるほどの者がこのストに従事しておるというくらいですから、数百人の者を雇うのは非常に簡単です、失
業者は街に濡れているのですから……。このストによ
つて組合側はピケを張るでしよう。ピケというものはこれは実力関係なんです。実力関係で、ピケというものは完全に雇入れを禁ずる権利ではない。これは力関係において雇入れられないようにする。併し法律的には雇入れをすることができる。又できる権利がある。そして雇入れることは可能なんです。それを怠
つたということは、使用者側が
仕事を与えないということになり、これは使用者の責任だということに尽きるのです。この点についてはドイツの一九二三年の頃を
考えてみると、そういうことはできないのです。雇入れようとしても、今申上げたベルーフス・ゾリダリテートという
考え方が徹底しております。又実際に
組合が統制権を持
つておりますからできない。そういうことになると、これは不可抗力だ。だから
資本家側も
労働者側も責任なし、或いは
労働共同体の思想を出して、
賃金支払義務なしということを言わなければなりませんが、
日本の実態とストライキの本質というものを噛み合せると、単に兼子教授のように民事的に
考えないで、呑むか、若しくはほかの者を働かせるかすれば
仕事ができたにもかかわらず、できなか
つたという全責任はむしろ
資本家側にあるということを私は言いたいのです。この点が最初に申上げた兼子教授と根本的に違
つた考え方で、この点は皆さんに十分に検討して頂きたいと思うのです。
更に私ここで皆さんに申上げたいのは、
資本家側は要求を呑む権利がある或いは自由がある。それからほかの者を雇入れて働かせる自由だけじやなしに、ロツク・アウト権があるというのが
日本の学説であり、アメリカあたりへ行きますとロツク・アウト権はない。この点については
日本の学者は非常に保守的です。沼田さんなんかはこの点については保守的な
考え方を持
つておられるのですが、保守的な
考え方に立つとロツク・アウト権もある。そういうこともしなくて
仕事が与えられないということは、これは
資本家側がその責任を負わなくちやならん。つまり言換えると民法五百三十六条第二項の反対債権というものを払わなくてはならない。だから来子教授も、そこへ出掛けて行
つて仕事がなか
つたということだけで
賃金をもらえないということを
言つているわけじやない。そういうことは絶対に、今日早く帰られたのですがへそういうことは言わない。それが
資本家側の責任でないということを前提にしておられる。ところがそういう意味で、今申上げた意味で
資本家側の責任だというのですから、
賃金を支払わなければならんということをここで申上げたいのです。
要するに私は
一つの
考え方として、
日本の実態に照らして、
日本の
労働組合或いはその他の実態に照らして
日本の民法を適用すべきなんだが、そこには
労働法的なスト権の理論というものを
考え合わせて、その
結論では今度の場合には労務の、たとえ私に言わせるとロツク・アウトしないで、現在の場合でありますと
賃金も全面的に支払わなくちやならんということになると思うのです。ただここで最後に附加えたいのは、
請負給の場合は多少別ですが、そうでない場合には全面的に支払わなくちやならんということを申上げるわけです。これで私は終ります。