○
公述人(
小林武君)
二つの
法案のうちの
中立維持に関する
法案から申上げますと、この
法案は
教育基本法八条を守るために、新たに
刑罰を盛
つているところの
法律を作らなければならないと、こういうのが
提案者の側の御
意見のようであります。又これに
反対する側の
意見は、
教育基本法八条を守るために、そのような
法律は、
却つて害がある
法律は要らないと、現在ある
行政罰のあれでよろしいと、こういう
意見の
二つに分れているわけであります。私はこの
二つの
意見のうちの
刑罰を以てやるという今度の
法律は要らないという
立場であります。こういうまあ
反対する者も
賛成する者も、どちらも
教育基本法八条を守るというのが主眼でございます。これは同じ
目的を持
つておるわけです。八条を守るということは、私はこれは
教育基本法を守るという
立場であると思
つております。こういう同じ
立場でありますけれども、そういう全然
違つた二つの
意見があるわけであります。必要とお
考えのかたの
言分は、
偏向教育が各地において行われているということが
一つ、
日教組が計画的にこれを指導しているというところにあるようでございます。で、提案された側も、その事実の例として、二十四の事例を挙げられたことについては、御承知の
通りでございまして、その一部分が本
委員会において、証人を呼ばれまして、いろいろ御調査をされたわけでございますが、その点について私はかれこれ申上げる気持はございません。併しこのような
提案者の側の御
意見であると、私は今まで、ここまで来たあれから
言つて、そこに
一つのこれに
反対する
意見があるわけであります。それを申上げたいと思います。
先ほどから申上げますように、
教育基本法八条を守ること、それから
教育基本法を守ること、約めて言えば
日本の
教育を立派にすると、こういうことだと思います。このためには
法律は要るのか要らないのかということ、まあこういうことになるわけでありますが、私は仮に要るという人の
立場をと
つてみれば、この
基本法八条を守るために、先ず今度の
法律によれば、
警察官が、
警察署が先ずこれを判断する、その次にこれが
検察庁の検事によ
つて判断される。そこで起訴されるかどうかという問題がきまるのです。そこから
裁判所に今度行く、そういうことによ
つて、この
日本の
教育が果して
中立性を
維持しているかどうかということをきめたほうがいいのかということであります。私はこういうこの
警察官、
検察庁、
裁判所と行くような系統から言えば、本当に
日本の
教育を立派にするという
目的は達せられない、威嚇するというのであれば私は又別だと思うのであります。でありますから、私は若し
提案者の側の御
意見が
日本の
教育を立派にすると、こういう御
意見であるならば、このような方法はまずいと、而もこの
法案は大臣もおつしや
つているように、予防の
法案でございますので、事実が起るか起らないかということの前からこれを警戒していなければならんということから、もう
日本の
教育に今のような三つの
立場から常に警戒の目が光らされている、私はこのような
やり方は、まずいと思
つております。
それでは私はどのようにしたらいいかということを
考えますというと、私はやはり教師をや
つてお
つたので、なんとい
つても
教育というもののいろいろなそういう
中立を
違反しているとか、或いは
児童に与えているものが適当であるのかないのか、或いは
教育上のいろんな技術とか、そういうようなものは、自由な
教育の、自由というものを与えられた
立場において十分討論されて、論議されて、そういう過程によ
つてきめられたほうがよろしいのだと、こう思
つております。そうしてこそ初めて
教育というものが
子供の幸福のためになり、立派な
教育に育
つて行くものだと
考えているわけです。
例えば私は
山口日記の
事件を例にと
つて見ますと、
山口日記というのは大分問題になりまして、お前は
山口日記をどう思うかというようなことを私ちよつと尋ねられたとするというと、この頃はうつかりいいとか悪いとかいうことを一口で言うということになると大問題にな
つてしまう。さてそれを述べるということになると本腰を据えて、これはこのような経過でこのようにな
つてということをながながと言わないというと、なかなか
山口日記についての十分な
意見が出て来ない。そうしないというと或る人に迷惑をかけたり或いは生硬な判断では相手方に受取れなか
つたりするようにな
つて来るのであります。これはどうしたわけであるかということを先ず
考えて見れば、これは必要以上に初めの取扱い方が悪か
つたということであります。
山口日記というあの日記はここでも証人が申されたと思いますが、あれは教材ではございません。一般市販のものでございますから、店頭に売
つている日記というようなものと同じものでしよう。併し私はそうではあるけれども、これは
教員組合というものが編集しているのであれば、市販でやついてるものとは違
つた責任が、少くとも教師の良心というものがこの中になければならないと思
つております。そういう建前からいたしまして、あれに若し好ましくないところがあ
つたとしたならば、私はやる方法は幾らでもあると思います。ところがどう判断されたのか、
生徒が持
つている物を取上げるとか、或いはそれを編纂したものが或る
特定の
政党の支持者であるとか、或いはこれは容共的な分子であるとかということにな
つて、だんだんそれが拡ま
つて今度の
法案を直接出すところの原因にまでな
つて行
つた、こういう
やり方にいたしますというと、もう先ほど私が申上げました
通り、この問題に触れるものはうつかりものが言われないということになるわけであります。併しこれは私はそうでなく、たとえこれが市販に出された物であ
つて、買うものと買わないものがあ
つて結構である。そういうものとしてや
つたにしても
組合というようなものがや
つたのであるならば、責任はあるのでございますから、その内容上工合が悪か
つたらどこがいいか悪いか、
一つも
子供に与えるものとして欠点がないというようなことの研究的な態度で行けば、私はこの問題はそれほどこじれて行かなか
つたと思うわけであります。私もあの日記の中にある枠の中に入
つた一カ所か二カ所のことについては肯定できないところもございます。例えば朝鮮が南から攻めて来たとか、北から攻めて来たとか、私はこれは軽々に判断できないと思います。そういうようなことはやはり
子供を対象として
考える、又その出所がどこからと
つたにいたしましても、読む者がそれはどこから出た文章であるかどうかということも判断もできないものでありますから、やはりそういう点については読む者が、受取る者が過ちのない受取り方のできるようなことを
考えなくてはいけない。そういう点で私はまだまだ考慮の余地がある、研究の余地があると思います。併しながらこれを以て先ほど私が言
つたように、この
法案が出されなければならんようなところまで必要以上にやるということ、騒ぎ立てて、そうして若しこれを取扱
つた者が、それはあ
つたかどうかわかりませんが、取扱
つた者が、取扱
つたというのは、これに関係した者が直そうと思
つても、うつかりその個所が悪か
つたとでも言おうものなら、直ちに悪いことが肯定された形において、その者が丸で
日本で
教員も何もやれないようなところに追い込むような状況にまで持
つて行けば、これもはう純粋な
教育の
立場から改良しようなどという
考え方は生れて来ないのでございます。私はそういう意味でも、あのような問題でも
取締るとか何とかいう観点でなく、
教育の自由な
立場における討論の上で研究が十分積まれて、そうしてその対象になる
子供に与えるものとして好ましいか好ましくないかというようなことになるならば、私はこの騒ぎを起したよりかもむしろ
結論的にはいい結果を導き出し、
考え出し得たと思います。そういう点私は先ずこの
法案の持
つている
刑罰を以てや
つて行くという
やり方には
反対をしたいのです。
それから私は
教育基本法を守ろうという
立場、八条を守ろうという
立場であるならば、私は教師の
立場から一体戦後の
日本の
教育は、
教育基本法に盛られている
教育というものは、教師に何を期待しているのかということを
一つ考えて頂きたいのです。戦前の
教育というもの、
教育勅語というものに盛られたあの形から、
教育基本法というものに盛られた形というものが全然違うのであります。これは
教育基本法の前文に明瞭に書かれておるわけであります。こういうこの
教育基本法の本当の精神を活かすということは、先ず私教師に期待されなければならないと思うのです。そうするならば、その期待される教師は一体どういう
立場においてこれを本当に日常
教育活動の上に具現するかと申しますると、私は最も自主的な教師の
立場において、
教育の自由というものが許された中において、
自分の
教育的良心に
従つてやるということが一番この
教育基本法の精神が活かされるものだと思うのです。そういう
立場においてこそ、教師は又国民に
教育者としての責任をとることができるのであります。若しここに
刑罰を以てお前のあれを監視してやるぞというようなことであるならば、私は萎縮してしま
つて、本当に
教育基本法の精神、真理を愛し、平和を愛し、そうして自主的な精神を持
つた子供が、青年ができるはずがないと思います。こういう点、私は
刑罰を以てやるというこの
法案は、根本的において新
教育というものの新精神破壊するものである、破壊する傾向を多分に持
つたものであるというふうに
考えまして
反対をいたしたいのでございます。
又私は一人の教師として是非お願いしたいのです。先ほど申しましたように、私どもは国民に対し教師としての責任を感じておるわけであります。又責任を負わされているわけであります。その責任を果すことを我々は誓
つているのであります。そのときにおいては、私どもが将来その責任を問われるときにおいて本当に教師の自主的な
立場において教師の良心に
従つてや
つた行動にだけ責任を負わしてもらいたいと思うのです。何かものに怯え、
一つの力に左右されて、そうして心ならずもや
つたようなことに最後に責任を持
つて来られるようなことは私は勘弁して頂きたいのです。そういう馬鹿なことがあり得るかとおつしやるかもわかりませんけれども、これは戦前の
教育を御覧になれば、そうしてあの敗戦のときに起
つた事実を御覧になればこれは明瞭だと思うのであります。教師は
一つの枠にはめられて、そうして全く国家の言うままに動いたわけであります。併し最後の責任は教師はとらされたわけであります。戦争
教育に協力したということで我々は責任を相当とらされた。そういう
立場からい
つても私は本当に
日本の教師に国民に対して
教育上の責任を負わせるというものであるならば、どうか
一つ教師の良心においてやれるような自由な教師の
立場を確立して頂きたいということをお願いいたしたいのであります。そういう
立場から申上げましてやはり私はこの
刑罰法はまずいと思うわけであります。
又この
法律を出されました事由の中に
日教組が計画的指導をや
つておるという御批判があるわけであります。誠にこの点についてはこれは私も重大であると
考えるのであります。併しこの計画的指導というようなことの中に何か
一つ間違いがないかということであります。どうも
組合運動というものを十分に御理解を頂いておられないような気持もするのであります。
日教組の
組合運動というものはどこまでも個人としての
組合員、その個人としての
組合員との間の関係でございまして、公人としての教師を縛るものではないのであります。公人としての教師というものは
教育基本法とかその他
学校関係の
教育関係の諸法規によ
つて動いているのであります。この点には明確に個人と公人の区別がはつきりしておるわけであります。
日教組は、教師としての
教育活動を行うところの現場において
生徒に対している教師を拘束する
組合ではないという、このことは
一つ明確にして頂きたいわけであります。
政治的団体であると明瞭に何か文部大臣が言われたようなところがあるような気もするのでありますけれども、或いは
政治団体に変貌しつつあるというような御
意見もございますけれども、私どもはどう
考えてもそれについては理解が行かないのでございます。併し
日教組も八年間の短い労働運動でございます。而も
日本の労働運動というものは極めて底の浅い労働運動でございまして、その間に而も敗戦のあの混乱の中から立ち上
つたこの
日本の労働運動、その中における
日教組というものの動きの中に私は
労働組合としてやはり拙い幼稚な点が多々あ
つたと思います。いわゆる皆さまからいろいろ御批判にする行き過ぎと言われるようなこともあ
つたと思います。そういう点は私どもも十分反省をしなければならないと思います。併しながらどうかこの
日教組という
団体の持
つている至らない点については、これは
組合がみずからの手で直して行きたいと思いますので、性急にこの
日教組の対策というようなことを主眼としたそういう
法律が出て、そのために
日本の
教育が破壊され、或いはそのために
日本の
教育全体が萎靡沈滞するようなことがあ
つては私はならないと思うわけでございますので、そういう意味で私はこの
法律については
賛成ができないのでございます。
それから次は
教育公務員特例法の一部改正の点でございますけれども、私はアメリカの
教育使節団が参りましたときにも、
日本の過去の
教育というようなこと、その大きな過ちの中にやはり
日本の教師が自由でなか
つたというようなこと、市民としての完全な権利を持
つておらないという、そういうところに大きな欠陥があるということを指摘されたことを記憶しているわけであります。又教師という
立場が一個の人間として完全な姿でないときにおいて、私はこれは完全な
教育というものはできないものだと思うのであります。又基本的な人権を我々が享有しないでいるというような場合において、人間としても完全な行動はできませんし、又そういう人間によ
つて構成された国家というものも極めて不健全なものだと思うのであります。この点においては
日本国憲法が制定されましたときに非常に強い言葉でこの基本的人権の尊重をすべきことを時の
政府は説かれ、この基本的人権の保障こそ
日本の民主的な
政治の支柱であるという意味のことをい
つたわけであります。随分激しい言葉でありますが、そのとき基本的人権の剥奪、自由の福祉を保障しない
政府というものは専断による戦争への傾向を持つものであるというようなことが語られたように私は記憶いたしております。それほどこの基本的人権というようなものが重大なもので、これらの欠けた人間、そういう教師というものができるということは私はどうもこれは
反対しなければならないと思うわけであります。又
教育の特殊性のために国家
公務員並みにするというような改正の趣旨でございましたけれども、私は
教育の特殊性ということをそこにお
考えに
なつたことにどうも無理があるように思うわけであります。
公務員或いは
地方公務員、その
公務員というものと
教育というものの特殊性、国家権力というものを一部代行する
公務員とか
地方公務員というものと職教にある教師というものの間には
一つの違
つた面がある。そういう
考え方であ
つて、教師については今までは考慮されてお
つたわけであります。それが当然の解釈であると思うわけであります。それが今度はそういう意味でなく、全国的な地域性の
立場に立
つて教育の特殊性というような解釈で国家
公務員並みにしたということは私はどうも納得が行かないのであります。もともと
公務員といえどもこれは基本的人権の
制限、基本的なそういう諸権利の
制限を相当受けております。これも間違いであると私は思います。
公務員がもともとそういう
制限を受けているのが間違いなのに、間違いのほうに教師を持
つて行くということはどうも私はこれはますます間違いが大きくなるというふうに
考える点から
反対でございます。これはひとり私が申上げるまでもなく、この点については国際自労連のヴオーレーという人がはつきりこれは指摘しているのであります。そうして又そういうような
公務員からいろいろな諸権利を奪うというようなことは、基本的人権としての諸権利を奪うというようなことは、これは
日本が他の国から疑われることになる、又
日本は反民主的な国になるのじやないかというような疑いを持たれることになるということを強調しておることを見ても私は逆に
公務員がもつと
制限を緩和されるということ、そういう
立場に行かなければならないのに、逆に悪いほうに教師を持
つて行くという
やり方に無理があるように思
つております。もう
一つ申しますというと、私はどうも今度の改正の中にも、その前からのいろいろな
やり方にも一貫性がないように思うのであります。地教委の強化というようなことを言われていますけれども、地教委の強化というものが本当に
教育委員会制度の建前からの地教委の強化というものじやなしに、今度の特例法の一部改正におきましては、地教委が地教委の精神からはずれた
一つの監視機関としての性格を強調されたというだけで、本当の意味における
教育委員会制度の強化ではないのだということを私は
考えるわけであります。むしろ私はこの法の中にある精神の中には、
教育委員会制度を否定する
考え方がある、
中央集権的な傾向がこの中にあるということを私は
考えるのであります。こういうところから私はこの特例法の一部改正については
反対をしたいと思うわけでございます。甚だ簡単でございますが……。
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