運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1954-04-23 第19回国会 参議院 文部委員会 第27号 公式Web版

  1. 会議録情報

    公聴会 ———————————————— 昭和二十九年四月二十三日(金曜日)    午前十時二十一分開会   —————————————  出席者は左の通り。    委員長     川村 松助君    理事            剱木 亨弘君            加賀山之雄君            荒木正三郎君            相馬 助治君    委員            雨森 常夫君            木村 守江君            田中 啓一君            高橋  衛君            中川 幸平君            吉田 萬次君            中山 福藏君            岡  三郎君            高田なほ子君            永井純一郎君            松原 一彦君            長谷部ひろ君            須藤 五郎君            野本 品吉君   国務大臣    文 部 大 臣 大達 茂雄君   政府委員    文部省初等中等    教育局長    緒方 信一君   事務局側    常任委員会専門    員       工楽 英司君   公述人    朝日新聞社顧問 関口  泰君    評  論  家 御手洗辰雄君    東京大学教授  海後 宗臣君    神奈川大学教授 高山 岩男君    東京大学教授  鵜飼 信成君   —————————————   本日の会議に付した事件 ○義務教育学校における教育政治  的中立確保に関する法律案内閣  提出衆議院送付) ○教育公務員特例法の一部を改正する  法律案内閣提出衆議院送付)   —————————————
  2. 川村松助

    委員長川村松助君) 只今から義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案の両法案について公聴会開会いたします。  開会に当りまして公述人の皆様に文部委員一同を代表いたしまして、御挨拶を申上げます。当委員会只今義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案の両法案審議中でありますが、この法案重要性に鑑みまして公聴会を開き、先生方の御意見を拝聴いたし、審議の参考に資することになり、本日先生方の御出席をお願い申上げましたところ、御多忙中にもかかわらず御出席を頂きまして、厚く御礼を申上げます。  只今から御意見を拝聴させて頂くのでございますが、御発言の時間につきましては、別に制限はございません。どうぞそれぞれのお立場から腹蔵なき御意見の御開陳を願います。文部委員各位にお願いをいたしますが、公述人先生がたに対する御質疑は公述人各位の御意見開陳が終りましてからお願い申上げることとし、討論に亘るようなことは差控えて頂きたいと思います。  それでは今から御意見を伺います。関口先生から先にお願いいたします。
  3. 関口泰

    公述人関口泰君) 教育政治的中立性のために教員政治活動を大幅に制限する二つ法案につきましては、稀に見る乱暴粗雑な法案として、いろいろの方面から非難があるようでありまするが、私は憲法教育基本法関係からお話を申上げようと思います。  先ず教育皇国の道に則るという明治憲法時代のそれと、人類普遍の原理による新憲法になつてからとは全く性格を異にしたということを先ず注意しなければならんかと思うのであります。殊に政治教育において然りであります。明治憲法におきましては、政治教育とは隔離されていたので、文部大臣天皇官吏として統治者支配者の側にあり、臣民は絶対服従性格としていたのであります。それ故教育行政教育者に対しても臣民に対しても、絶対の支配権を握つていて怪まれなかつたのであります。  教育法令勅令文部省令によるので重要なものは枢密院に諮詢されましたが、帝国議会審議のほかにあつたのであります。これによつて教育制度内容政党的論議のほかに置いて、文部官僚支配の下に置いて、これを教育政治的中立を考えていたようであります。この体制に応じまして教育二つ系統に分けておりました。支配者教育系統服従者教育系統二つであります。それで支配者養成のための教育としましては、官吏養成機関と言われていたところの帝国大学を頂点としてその下に高等学校中学校小学校、割合に完備した学校系統をもつていたのでありまするが、服従者教育のためには国民皆兵兵営教育最後にいたしまして、それに繋がる不完全な青年学校、不完全な青年学校に繋がる義務教育しか与えていなかつたのであります。実業学校もありましたが、これも袋小路と言われまして卒業して大学のほうには続いていなかつた、そして卒業学校が将来の人生を決定していたのであります。そしてこれらの服従者教育教員養成機関としては特殊の師範教育という制度が用意されていたことを特に注意する必要があろうかと思うのであります。それ故に政治教育は行わなかつたというどころか、政治教育とを隔離して、教員には政治結社に加わること、政談集会に行くことすら許さず小学校教員選挙に関する権利も著しく制限されていたのであります。  明治からそれが大正昭和となつて多少の制限緩和がありましたけれども、治安維持法乃至治安警察法戦争まで続いていたように、それは大体の方向としてはそのままであつたのであります。その結果が政治腐敗堕落し、教育は萎靡沈滞していたのであります。政治のほうは腐敗堕落をなし、教育のほうは萎靡沈滞した。つまり政治のほうには教育ということと隔離されたために政治勝手気儘腐敗の道を辿つた教育のほうは公のことに対する考え方と隔離されたために非常に沈滞した。それで軍部官僚の跋扈が国を亡国に瀕せしめて、政治教育が敗戦の道に突き進んだ。その結果が今日まで及んでおるということは現に見るようであります。  然るに新憲法になりますると、教育機会均等について一つ条文を設け、明治憲法には教育に関する条文はなかつたのでありまするが、新憲法におきましてはすべて国民は、法律の定めるところによつて、その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有するということを定めておるのであります。能力に応じてひとしく教育を受けるのでありまするから、一本の教育系統ができたわけであります。前の二つ支配者服従者と別々の教育を与えるということではなくて、法律の定めるところによつて、その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有するということに定めたのであります。このことは一方におきましては法律の定めるところにより国会教育のことについても責任を持つ。教育官僚の手から国会の手に渡つたのであります。又教育政治とを隔離するどころか、民主政治民主教育とは一体でなければならないという原則がそこに打建てられたわけであります。その関係教育基本法にはつきりときめてあるのでありまして、その前文を読んでみますと、憲法が民主的で文化的な国家を建設して世界平和人類の福祉に貢献しようとするこの憲法の理想の実現というものはただ根本的に教育の力に待つべきものである。この憲法精神則つて教育目的を明示して、新らしい日本教育基本を確立するのがこの教育基本法を制定したゆえんであるということを前文にはつきり書いてあるのであります。これがいわば教育勅語に代るべきものという教育基本法の規定であります。明治憲法には、教育に関しては一つ条文もありませんでした。そうして憲法発布の翌年に教育勅語が発布されたのであります。教育勅語の掲げる徳目はたくさんあるのでありまするが、その中にはその当時の時勢を反映して、世界平和のことは一言もありません。或いは博愛衆に及ぼしというような言葉はありますけれども、これはむしろ国内的な意味と解釈すべきでありましよう。又政治教育につきましては、「国憲ヲ重シ国法遵ヒ」とあるだけでありまして、それも、「一旦緩急アレハ」消えてしまうというように教えられていたように見えます。神勅に基く皇国の道に則るものでありましたからして、ただ忠君愛国忠孝一致、詔を承われば必ず謹しむというような、勅語であるが故に、これを拳々服膺する、この詔を承われば必ず謹しむというその精神でできていたのであります。それでありますから、民主政治時代になりまして、主権国民に存する自主的の民主国民教育とは異らざるを得なかつたのであります。主権在民ということは、政治の源泉は国民にある。国民はただ統治され、支配され、服従することを性格とするのではなくて、国家社会形成者として創造的、自主的でなければならないのでありますから、政治教育が特に重要性を持つて来るのは言うまでもありません。  そこで教育基本法第八条が特に「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。」ときめたわけがあるのであります。民主政治を行う民主国民主教育としては当然のことであります。それでありますから、この政治に参与する権利というものは、民主国民基本的人権の最大なものであります。そのために、言論、集会結社の権も、学問思想の自由も憲法に保障されているのであります。教育基本法第八条の、先ほどの政治教育の第八条第二項のほうに、学校の、政党からの中立を規定しているというのも、これは学園を政争から守るためのみならず、政党的教育を強いるために教職員、学生の政治的自由を奪うことなく、これを保障するためにあると見なければならないのであります。又基本法の第十条が教育行政を規定しているのでありますが、これは権力によつて不当の支配をしてはいけない。教育に対して不当の支配を加えてはいけない。教育国民全体に対して面接に責任を負うものであるから、教育行政はその教育目的を遂行するのに必要な諸条件の整備、確立を目標として行われなければならないのであつて、この教育に対して直接に支配するようなことをしては、それは不当の支配になる、それが教育委員会制度作つた所以であります。そうして教育委員会制度を中央には置かないで、地方にだけ置いてある、政党的選挙のほかに、公選されるという幾度を持つている。これは皆この政治権力支配教育に及ばないためであります。そうして教育政治的中立を守り、教育が不当な支配に服することなく、教育を守るということが教育委員会の使命なのであります。それでありますから、今までの教育行政というものと新憲法以後の教育行政というものは性格を全く異にしたのであります。不当の支配というものは、政党組合に限らず、文部省でも文部大臣でも不当の支配をしてはならないのであります。職員組合が不当の支配をしてはならない以上に文部省の中央集権的の権力が不当の支配をしてはいけないというのがむしろこの法律の目指したところであると思うのであります。それでありますから、文部省という官庁の性格も変つて来ております。明治憲法時代には、教育行政機関として教育支配権力を持ち、教職員に命令できたのでありますけれども、新憲法下におきましては、教員に命令し、教育支配する権力機関ではなくて、むしろ調査普及局的な性格教育に奉仕する奉仕機関になつたというのが文部省設置法に現われておるところであります。それでありますから、政治的中立というのは、官僚天皇の名において政党的勢力政党的政争の上に超然としている。官僚のやることは何でも公平である。官僚のやることが即ち政治的中立だというような考え方は、これは明治憲法時代でも官僚思い上りとして攻撃されたのでありますが、新憲法においては、この官吏が全体の奉仕者である公務員になつておるのでありますからして、これは許さるべき態度ではないのであります。  以上を以て大体憲法教育基本法とのこの問題に対する関係、或いは憲法教育委員会から見たこの教育法案に対する批判のあらましを終つたわけでありますが、なお二、三断片的に加えますと、教育政治的中立というのは、日教組的な政治思想一色に染めさせないということと共に、文部大臣権力によつて、特定の政党内閣文部大臣でありますから、それの教育支配ということを排除しなければならないのであります。教職員日本国憲法によつて政治的自由を持つ、政治的な無色を要求することは、この先ほどの教育基本法第八条第二項にもはつきりしているのでありまするが、このことが、むしろ教職員政治的自由を守るためにも、この第二項の必要があるということを考えなければなりません。それを国家公務員並み政治活動を縛つて行こうというのでありますが、このことにつきましては、むしろ国家公務員法による人事院規則そのもの政治活動を縛つていることについても問題があるのであります。先ほどから申しました通りでありまして、この主権者国民が、民主国民として最も大事な権利であるところの政治参加権利政治活動権利の自由というものを公務員となつたがために、これを放棄することが一体できるのか、これは人身売買と同じように見るべきものではないかと、自由を放棄することになるのではないかと思うのであります。  又教育の機能は、現在の政治の是非を判断して、よりよき未来を作る義務が、責任があるのでありまするからして、現在の政治に対して批判的であること性格上当然であります。それでありますから、教員特例法を必要といたしまするならば、むしろその点において普通の官吏、普通の公務員以上の自由を認めなければならないということになるのであろうと思うのであります。  又日教組教育に対する働きかけ等に行き過ぎの点があるということは、私も認めるところであります。併しながら、文部省全国的に調査した政治的偏向事例というものは、一読して信用のできないというようなものもありましたし、又すでに反証の挙つているものもあるようであります。これは十分御調査になつて頂きたいと思うのでありまするが、これがもとになつて、こういうようなことがあつてはならないからというのでありますが、この教育者というものを信用しないで、これらの僅かな偏両者支配されるという、教育者のみならず日本国民そのものを信用しない、侮辱するというような虞れのあることについては考えて頂かなければならないのであります。こういうような二法案ができますと、人を見たら泥坊と思えという式の警察官心理警察官眼光によつて教育を監視されるその弊害のほうが遥かに大きいのではないか。我々が近頃地方に出て見ますると、教員はもうすでに萎縮しているようであります。教員の萎縮は、当然に子供が教師を馬鹿にするというような傾向を出しておる。子供は純真ではありますが、相当にもう新教育によつて影響されている子供、この政治教育のみ……社会科等によつて政治教育的なことが行われている、それに対して、今弊害のほうが大きくなつているように見受けているのであります。警察力学校内に入つて学校図書館の書物を調べたとか、或いは子供を呼びとめて作文の検査をしたというような行過ぎも伝えられているのであります。教唆扇動のことにつきましては、刑法上の問題については牧野博士お話になつたでありましようけれども、これはこれのために何人も、ただ教職員のみならず何人も教職員関係する団体を通じて、教育影響を及ぼすような言動があつたら、それは教唆扇動だというようなことになりますと、穏健な人は却つてそういうものに対して、話をする機会から逃れようとして、そうしてむしろ偏向のある強い主張を持つている人のほうが、それにもかかわらずそういう人たちに講演をすると、影響を及ぼすようなことをするというようなことになつて、これはむしろ弊害が多いのではないか。反対の結果を来すのではないか。それで、教員法律で守つてもらわなければ、自分思想学問教育自分では守れないかのごとく取扱われることに対して、私は遺憾の意を表するのであります。  まあ大体、意を尽すことはできませんでしたけれども、この程度でお許しを願おうと思います。   —————————————
  4. 川村松助

    委員長川村松助君) 次に御手洗先生にお願いいたします。
  5. 御手洗辰雄

    公述人御手洗辰雄君) 御審議中の教育に関する二つ法律案でありまするが、結論を先に申上げまするならば、これは甚だ好ましくない法律案と考えられますが、併し現実事態は、かような法律を作ることも又やむを得ないのではないか、かように考えます。その理由を以下申述べたいと思います。  民主主義時代でありまするから、あらゆる人が自由を確保するということは、これは当然なことでありまするし、中にも学問教育というものが高度の自由を与えらるべきものであるということは、これは当然の事態であろうと思います。併しながら自由というものが、その裏にある重い責任を伴うということは、これは当然のことでありまして、教育に従事しておられるかたがたが、この点に十分なる御自覚を持つて責任をお尽しになるということでなければ、この自由も甚だ危険なことになる虞れがあると考えるのであります。初等教育の相手になりまする青少年が、非常に純真な、いわゆる真白なものである。感受性の強い、いわば海綿のような精神の持ち主であるということは申すまでもありません。これらの青少年たちは、先生に先ず神様に次ぐくらいの尊敬を持ち、殆んど絶対の権威の下に訓育せられているということも、又あまねく知られているところと思います。この感受性の強い青少年に対する先生方の御指導というものの責任の重いことは、大人に対する教育とか或いは学問の研究などというものとは、全く違つた、非常に重いものであるということが言えると思うのであります。然るに現実におきましては、この青少年に対する、感受性の強い青少年に対する先生方の中に、御自身の責任についてのお考えが足りないのか、或いは又考え方が違つているのか、甚だ好ましくない、純白の青少年に或いは黒インキ、或いは赤インキをしみ込ませるというような危険が多々あるように思われるのであります。従つて甚だ好ましきことではないのでありますが、それらに対して若干の制限を加えるということも、国の将来のため、又憲法教育基本法等に定められておりまする国民の将来のためにも、これはいたし方のないことではないかとも考えます。文部省の御提出になつておりまするいろいろな事例につきましては、成るほど私もその中には怪しげなものもあるように考えられまするし、又これを問題にすべきほどのものでもないと考えられますが、それらのうちに特に目立つております山口域いは滋賀県等の事例にみましても、これは誠に重大なことではないかと考えるのであります。かようなことを青少年に教え、指導いたしますることは、これは勿論広い意味政治教育として、必要なことでもあり、許されたことでもありますが、それらのことを指導教育しまするに当つては、なまの事実でありまするから、よほどの精査が要る。正しい認識、正しい知識を与える用意がいたされなければなるまいと思うのであります。ここに一つ山口県における日記の例を挙げまするならば、例えば朝鮮戦争についての例でありまするが、これは南鮮幾度北鮮を攻めたけれども、逆に北鮮南鮮深く攻めこんだ云々というようなことが記されてありますが、これが事実であるか事実でないかということは、今日常識が決定していることであろうと思う。又このことを仮に南鮮が攻めたか、北鮮が攻めたかという今日の常識が疑われると致しましても、これをなお精査する必要は十分あるのであります。これは諸般の事情から察しまして、これは勿論北鮮南鮮に対する挑戦であると思いますけれども、併しこのことの証明は困難でありましようとも、北鮮が南を攻めたということの証明も又同様に困難であります。然るにこの間違つた不確かなる事実を基にして、如何にも南が侵略者であり、北は平和の擁護者なるかのごとき教え方、問題の採上げ方をしておるということは、これは甚だしい歪みである、むしろこれは偽りであると申してもいいのではないかと思いまするが、私はあえて偽りであるとここで断定はいたしませんけれども、非常なる危険の一つの例であると言つて差支えないと思います。更に又ソ連の実情というようなことも挙げられておりますが、ソヴイエトとは分離をするということである。ソヴイエトとはすべてが会議によつて定められて行く、こういうことが言われておりますが、如何にも会議をもつてすべてのことが決定せられておるには相違ありませんが、その会議の基礎になる会議のメンバーはどうして選出されるか、如何にして構成せられるか、かようなところまで考えてみまするならば、これが民主主義であり、或いは人民の自由な意思の結合であるというようなことは、果して言われるかどうか。それは今日世界において、すでに決定せられておることである。さような真実が探求さられずに、ただ単にソヴイエトという文字の解釈をもつて、如何にもさようなる公正にして自由なる制度があるかのごとき錯覚に陥れるような指導方針をせられるというようなことが公正であるかどうか、これは非常なる誤りであるとともに、危険であると考えるのであります、まだ挙げれば幾らもありますけれども、この一つ二つの例を見ましても、かような指導ということが感じやすく純白なる青少年に、非常な誤つた危険な考え方、事実に対する誤つた認識を与えるということは、申すまでもないと考えられます。他にかような例も随分あるようで、私どもも直接いろいろ見聞いたしておることもありまするが、これはこの席では省略いたしますが、これを単に山口県の一部の教員人たちが行なつたということでありまするならば、余りこれを問題とする必要もないかと思いますが、併し私が考えまするのに、このことをされましたのは、山口県の教員の一部でありましようけれども、日本教員組合という全国の全先生がたの結合せられております組合組織がこれを認め支持せられておるということであります。従つてかような間違つたことを、危険なことを全国青少年に向つて指導せられるということが全国的組織である日本教員組合も支持しておるということになりますると、これは事重大だと思うのであります。日本教員組合がこのことを支持せられておるという証拠は幾つもございますが、ここに一つ二つを挙げますならば、昭和二十八年六月宇治山田市における日教組大会において、その最終日全会一致をもつて山口教員組合及び岩国市の教員組合、このことに関する委員会の措置に抗議をされておるのであります。  第二の証拠といたしましては、同年七月のウインにおける世界教員組合大会にも日本教員組合代表者からこのことを不当なる弾圧、我々は公正なることを数えたにかかわらず、例えば或る地域の子供のワークブツクの中で、米ソ中共を公正に取扱つた内容が非難せられ、この回収を命ぜられたというようなことを、世界教員組合に訴えております。アメリカ、ソ連中共は果して公正に取扱つたかどうか、これはこの山口県における問題の日記内容を見れば明らかなことなんです。従つてこのことを日本教員組合が、組織としてやはり支持せられておるという事実は、証拠だてられると思うのであります。  かような事例は他にもたくさんあるのでありましようが、問題は、かような危険な誤りをせられることが一部教員先生でありましようとも、最後には教員組合という組織の力を以て誤り指示せられ強行せられるという点にあると思うのであります。申すまでもなく教育基本法に定められてあります通りに、教員は全体の奉仕者でありましようし、保守政党に加担するものでも或いは革新政党に加担するものでもないはずであります。一人々々のかたがたが如何なる思想、如何なる行為を取られましようとも、それは差支えありますまいが、間違つたことを以て、如何にも偏つたことを以て純白な青少年を導かれるということは、これは許されないことではなかろうかと思います。教育学問が非常な高度の自由を得なければならんことは冒頭に私申述べた通りでありますが、併しながらこの教育学問の自由独立というものにもおのずからなるそこに限界があるのではないかと考えるのであります。如何なる限界であるかと言えば、言うまでもなくこれは国家という有機組織の枠内における自由でなければなるまいと思います。これを官僚の手で統制するとか或いは何らかの委員会の手で統制するというような次第ではない。これは国民常識として国家の枠の中で初めて自由があり独立があるのでなければ非常な危険が起るのではないか。このことは教科書は今日でも初等教育の教科書は国家の検定によつておるという事実を見ましても、すべての人々が承認せられる事実ではないか。右派社会党におかれても、その教育綱領の中に教科書の初等教育の教科書の国家検定を認めておられます。何を教えてもいいというのではありません。これは国家という枠の中における学問の独立であり、教育の自由でなければなるまいと思います。會つては統帥権の独立ということが非情に誤つて用いられて遂に国家の枠の外にあるかのごとき印象を与え、さような行動が遂に国を亡ぼしておるのであります。近項は司法権の独立或いは外交権の独立、言論の自由いろいろな独立や自由が極度に叫ばれれて要求されておりまするが、それらのものが国家の枠を離れた外にまで独立と自由が主張せられましたならば如何なる結果が起るか。曾つて統帥権の独立という行過ぎた、誤つた考えによつて国を亡ぼしたと同じようなことが起る濫觴ではないか、かように思います。学問の自由、独立と申しましても、自然科学でさえも私は載る限界があるのではないか、自然科学の研究ですらも私は或る限界が今日はあるのではないかと思います。昔、地動説がローマ法皇によつて圧迫せられ、今日学問の自由を圧迫する人に対しての嘲笑の例となつておりまするが、併し果して自然科学といえども無限の自由が与えられていいのであるか、原子爆弾、水素爆弾、或いは窒素爆弾というようなものが今日無限に研究され、製造されていいものであるかどうか、かように考えまするならば、自然科学といえども人間の生活における或る程度、これ以上に許すべきものではない、おのずからここに人間生活における最終的な自由の限界があるのではないか、独立の限界があるのではないか、あるが当然である。人間は非常に自由を喜びまするけれども、併し人間自身の住む地球を破壊するまでの研究を自由にやらせるほどの寛容ではあり得ません。民主主義といえども私は同様であろうと思います。民主主義は如何にも寛容なものでありまするけれども、その住む国、その生活し組織しておる国そのものを破壊するような教育思想、研究までも自由に放任してよろしいということは、あたかも窒素爆弾であろうが、コバルト爆弾であろうが、地球そのものを吹き飛ばしても差支えない、さような研究もいいということと同じ暴論ではないか、かように考えるのであります。かような見地からして、先ずこれら教育学問の独立自由ということに対してもおのずからここには限界があるものと、かように考えます。教育基本法は如何にも立派な法律でありまして、その第六条には、教育者を全体の奉仕者と規定せられ、第八条には特定政党の支持を禁止せられ、第十条には不当支配に服することなく、国民全体に直接に責任を負う、こういうようなことが規定せられておりまして、多くの教育者諸君がこの基本法の各条章を重んじて自制し、責任を重んじておられるであろうということは私も信じておりまするが、併し先ほど来申述べたごとく、制しきれないものもあるのであります。これは言うまでもなく日本教員組合という大きな組織を通じての教員諸君の政治的活動が、今申しました自由の限界を超えておるというような点、これは教員組合自身がなさるのではないかも知れません。一部の方々かも知れませんが、これが表面に現われますると、先ほどの宇治山田における大会の決議とか、或いはウインにおける世界教員組合に対する報告とかいうような事実に現われるように、如何にも教員組合御自身の活動なるかのごとく、即ち、全体の活動なるかのごとく見える危険があるのであります。ここに私は非常な危険を感じます。右派社会党の方々は相当な進歩的な方々で、私どもも大体似たり寄つたりの考えを持つておると思いまするけれども、この右派社会党の教育綱領を見ますると、その冒頭において、我が国の教育は、今やコンミニズムと、新たに擡頭しつつあるフアシズムとの圧力によつて壊滅せられんとする危険に瀕しておる、かように述べられておるのであります。コンミニズムによる破壊とは何を意味をするのか、私は説明を伺つたことがありませんが、およそ私の考えておるような危険を感じられておるのではないか、かように思うのであります。今日私は日本教員組合を非難いたす意思は毛頭ございませんけれども、併しその行動についても、今日までの現状というものは、常識のある国民として甚だ納得し難いことが多いことを遺憾とするものであります。この教員組合の幹部の諸君が共産党の勢力の浸潤に対して非常な御苦心を以て防衛に努力せられておるということは、土佐における大会、或いは先般の静岡における大会、宇治山田における大会、その他の場合における教育研究大会等において、これらの大会の推移の状況から見まして、私ども随分御苦心であることはよく了承いたしておりますけれども、如何にせん共産党諸君の教員組合に対する浸潤と申しますか、働きかけというものは頗る執拗であり熾烈であります。例えば昨年一月の高知における第二回教育研究大会における四千五百名の御出席者のうち、百七十名の共産党グループが、開会の前日から頻りに会議を開いて、このグループが各分科会に入られて盛んな活動をせられ、遂に第八分科会においては、教員組合本部が、平和と生産の教育ということをテーマとして研究の結果をまとめられようとしたことに対して、非常な共産党グループの努力によつて、これを平和と独立の教育ということに修正さしております。これは「教育労働者」という雑誌の、その前における記事等から考えまするというと、明らかに共産党の仕業であるということは言うまでもないかと思います。明らかなことであると思います。そうして二十七日の第八分科会におきましては、遂にソ連、中共、北鮮の平和論こそ真の平和論であるというような結論をすらもこの教育研究大会において出さしておるのでありまするが、かようなことが今日国民常識として許されるかどうか、私は多少の賛成者、同調表がありましようとも、大多数の国民はさようには見てはいないと、かように思います。これが第八分科会を通してこの教育研究大会の結論となり、日本教員組合組織を通じて全国五十万の先生方に流されて行く、これが実際にその通り指導せられたということを私も考えませんけれども、かなり大きな影響を与えたのであろうということは想像に難くないと思うのであります。私はかような経過から見まして、教員組合の幹部諸君が非常なる苦心と努力を払つて偏向を是正しようとなさつておるであろうということは認めます。けれどもその中に多くの偏両者の潜入、働きかけがあり、又疑装せられたような人々がこの中におられるのではないかという疑いをも消すことができないのであります。曾つて教員組合が終戦後に発足せられた当時の最高の指導者の一人、名前は遠慮いたしまするけれども、この方が教員組合を率いられるやり方その他のことについて、世評はこれは共産党である、彼は共産党員ではないか、教員組合のすることはことごとく共産党と同じであるというような非難をし、如何にも教員組合が共産党の影響下にあるかのごとき批評をしたのでありまするが、これに対してその指導者は、断じて共産党ではない、共産党に影響されておることはないということを強弁しておられましたが、この人が当院の議員に当選せられますると、直ちに共産党員である事実を明らかにせられました。これは何を語るか、非常なる危険であります。これは俗語で申しますれば一つのペテンであつたのではないかとさえも疑われるのではありますまいか、かような先例のあるということから見ましても、今日教員組合の諸君が如何に御苦心になりましても、大いなる組織の中に強い積極的な偏つた考えの人々がおられて、これをその組織をさように活用して行くということを防ぐということは容易ならんことである、かように考えるのであります。私が問題といたしたいのは、かような事実を放任しておいていいのか悪いのか、こういう点であります。如何にも教育基本法というものは立派な法律でありまするが、併しこれには何らこれらの間違つた事実、間違つた指導訓育というようなことについてこれを是正し、規制する規定というものがないのであります。すべて教育関係者の責任観念、理性の念に待つておるというに過ぎないのでありますからして、この教育基本法精神を更に拡充して或る程度の規制を加えるということも誠に遺憾ながらいたし方がないのではないか、かように考えます。頗る少数のかたがたに相違ありませんけれども残念ながらこれはいたし方がない、かように考えます。  従つて、私の更に結論を申述べまするならば残念ながらこれは現在の事情から見ていたし方がない。そこで、でき得る限り速かに全国教員諸君がその高い使命、崇高な責任観念に立たれて、かような事態に対する反省を起され、この法律が必要でないような事態を作つて頂きたい。その時期を少しでも早くして、かような法律を廃止するような時期を迎えたい、これが私の念願でございます。同時に、この法律を作らねばならんというようなことについては非常な政治的な欠陥も我が国にあるのではないかと思います。それは如何なる点かと申しますれば、いわゆる平和憲法の規定、憲法に軍備を廃止し、平和を守るという理想を謳つておりながら事実上の軍備を進めて行くというようなやり方、これでは教員諸君は何に基いてその教育を、憲法現実との間に板挾みになられるということも誠にお気の毒と言わねばなりません。従つて、かようなことを事実軍備をするのであるならば、憲法を改めて、かような矛盾の起きないようにする、しなければこれは無理でありましよう。  第二に、共産党というものが、暴力革命を企図しておるにかかわらず、而も、これは問題外でありまするから詳説を省きまするけれども、かような国を破壊するということを目的とするというような政党を放任せられておる、この合法の枠の中に置かれておるという事実が教員諸君に一つの錯誤を起せしめ、その去就をまどわざるを得ざらしめる一つの原因であろう。かような二点、政治的な二つの矛盾が日本政治そのものにある。この点を是正しまするならば、かような法律は勿論必要でなくなるのではないかと思います。  まあとにかくそれは別といたしまして、何とぞ教員諸君の責任感の御自覚によつてこれが速かに廃止せられる日の近寄らんことを望むものであります。同時に法案の内部については随分これは粗雑な点もあるように思われまするが、特にこれらのことについて刑罰を以て臨むということは何としてもこれは国民の健全な常識が許さないのではないか、教員諸君がたとえ誤つた訓育をせられましても、それに対して刑法の刑罰を加えるというようなことは非常な危険でもあり、又間違いを起す因ではないかと思いまするから、これらの点については御審議の上に適当な御修正になられるのが妥当ではないか、かように考えるのであります。  一応私の申上げることはこの辺で打切りいたします。   —————————————
  6. 川村松助

    委員長川村松助君) これを以て公述人かたがたの御意見開陳は終りました。委員かたがたで御質疑のあるかたは御発言を願います。
  7. 松原一彦

    ○松原一彦君 関口先生に伺います。  関口先生日教組の行き過ぎをお認めになつているようであります。日教組が行き過ぎでなければこの法律案は不用だと御手洗氏も言つておられます。私も全く同感であります。その関口先生がこの法案を無用だと言われるのも、一方には、それでも日教組の行過ぎというものをばお認めになつておられますから、この際学者として特に教育専門の学者としての関口先生から専門のお立場にあつてのどこが一体行過ぎか、一党を支持するための行き過ぎか、或いは理想を追うことに急なる余りの行過ぎか、偏向の事実はどこから来ておるのであつてどこをどう直せばよろしいのか、私どもも全くそういうところには迷つているのでありますから、この点を是非伺わせて頂きたいと思います。
  8. 関口泰

    公述人関口泰君) 私は日教組のことを特に調べているわけでもない、どこが行過ぎであるかとか、或いはそれについてどうすればそれを直し得るかというようなその妙薬を知つているわけではないわけですから、それに対する御答弁は十分な御答弁できないと思いますから、日教組の実態というようなことについてのちやんとした調べとか、あなた方が持つていらつしやる以上の資料を持つておりません。
  9. 松原一彦

    ○松原一彦君 併し先生全国をお廻りになつて随分たくさんの学校の実態を御覧になつていらつしやる権威者であります。御手洗氏が、今、日教組の行過ぎを各大会等の事例から引いて論じられたのでありますが、それならば先生は行過ぎだとおつしやつたさつきのお言葉から見ても何かをお持ちになつておるだろうと思う、このままでいいとはお考えになつていらつしやらないと思う、これは全国教育者を重んじ、この法を少くとも長く実施しないで済むように日本教育を安全の道に置く点からも、このことをはつきり知つて頂かなければ私どもこの法案審議に困るので、それは先生はこのままでいいとは思召しにならないだろうと思います。その点は是非伺いたいと思います。但しそれは功罪から論じてないほうがいいというのは、必要とするところもあるけれども、それよりもこれによつて萎縮せしむるとか、或いはその他の影響とかが大き過ぎて功と罪とがバランスがとれんと、こうおつしやる点もあるのではないかと思います。それで先生はこれでよろしいのであるか、又……さつきお話の行過ぎがあるとお認めになる点をお聞かせ願いたいと思います。これでよろしいということならばそれでも結構です。
  10. 関口泰

    公述人関口泰君) 私はそれは御質問のあれがよく掴み得ないのかも知れませんが、この二法案は、今御手洗氏も言われたように法律を以て厳罰を、刑罰を以て脅かすというやり方がいかんではないかと、今のままでも、今の法律でも又或いは教員の自覚とか、或いは教育委員会のやり方とかいうようなことでもできて行くじやないかと、法律を以て取締るというようなことになると警察力で取締るというようなことになるからいかんという点を申上げたわけでありまして、日教組の行過ぎとか、日教組のどこが悪いとかいうことについては私お答えができません。
  11. 高田なほ子

    高田なほ子君 関口先生御手洗先生の御両所に第一点を御質問申上げます。これは昨日も非常に問題になつた点でございますが、私はまだ納得が行きません。そのことはどういうことかと申しますと、教育委員会制度につきましては関口先生がおつしやつたように、教育政治的な支配から守ると、こういうことのために新たに置かれた制度でございます。そこでその制度に基いて教育委員会が置かれました、その教育委員会教育委員が今回の法律によりますると処罰の請求権を持つておるわけであります。即ち偏向教育をするように教唆、扇動した者を、これを処罰する、その請求権を持つておる、こういうことは日本の刑法にとつて新らしいケースである。極めて興味の深いケースであるというようなお話も一面ございましたが、私は法律学者が一つのケースとして、或いはテストとして非常に興味深い問題だというお考えには一応学者としてのお考えには納得できるのでございますが、そのために臭い飯を一年も食わなければならない、こういう重要な法律がただ単なる学者としての興味というような問題から理解されることにはどうしても納得が行かない。これは私の意見でございますが、問題は各地の教育委員がいろいろの考え方を持つておるわけであります。で、今日教育委員会地方に置かれました制度そのものは国会においても非常に疑義があつたのであります。ところが衆議院では無理無態に地方に対して教育委員会を置くことにしてしまう結果を招来させた、そういう結果から生れたところの地方教育委員会制度は今日極めて不完全なものであることは、多分御手洗さんにしても関口さんにしても評論家という立場からはこれは御理解になつておられると思うのであります。従いまして今度犯罪の処罰の請求権に当つて教育委員会の主観そのものが、甲村においてはこれは処罰に該当しないという判定を下し、同じケースであつても乙村においてはこれは当然処罰すべきでもあるという、こういう見解を下す。で、なかんづく今日の教育委員会のその成立そのものは封建的なこのにおいの抜け切れない社会の中からぼつかりと浮び出て来た教育委員会制度でありますが故に、極めて政府与党の匂いの濃い教育委員会が、又それと反対のところもございましよう。こういうまちまちの教育委員会の主観において法律が、教育委員会考え方それ自体によつて運営され、基準のきまらないままにここに犯罪容疑者を出し、裁判というものにかけて結論を出すといいながら、実際問題としてはこういうような事態が起るということに対して、私は民主国家における正しい法律の運営のあり方ではない、これによつて起る犠牲者というものが極めて無実の罪に問われる場合が多い、非常に私はこれを憂えておる一人でございます。どうぞこの教育委員会の自由勝手なる主観によるこの処罰の請求権という問題に対して大達文部大臣はそれは誠に結構なあり方で、そういうのがいいのだということを御答弁されておりますが、どうしても私は納得が行きませんので御両所の御意見をお伺いしたい。これが第一点でございます。  それから私四つばかり持つておるのですが、続けて申上げたほうが、他の委員のかたも御質問があると思いますから続けましよう。  第二点は君が代の問題であります。この問題は今般文部省偏向教育事例として出されました中に君が代を歌うか歌わないかという議論をしたこと、そのことが偏向教育であるというふうに摘出されておる。これは文部省一つの参考事例として出された、こういうふうに申しておられます。少くとも私はこの二十四の偏向教育事例はことそれほど簡単には思わない。何となれば今後教育委員会に処罰の請求権が渡されたら、それが起訴されて裁判の事件となつたときに必ずやこの文部省の二十四の偏向教育事例というものは判例の重要な参考資料として出されることに相成る。そういう建前から考えましたときに君が代というものは歌うべきか、歌わないべきかというようなことを議論したそのこと自体が偏向教育として出された、こういうことについて私は御両所の御意見を承わりたい。即ち戦後における国家の行事、式典それらのものの形が変り、その中における君が代の地位、或いは国旗というものの解釈というものは相当に論議せられ、今日なお且つその結論が出ないままになつておるわけでありますから、この際そういう点についても御意見を頂戴したい。  三番目は、これは御手洗さんのほうにお尋ねをしたい。私は日本教育者はいろいろと今日まで御指摘のように行過ぎもあつたでありましよう、行き足らざる面もあつたでありましよう。その証拠には、今日平和教育を口にする一面、一方においては八紘一宇の精神研究会グループを結成し、更に奉安殿の実施さえも主張している学校が幾多あることを私は知つておる、これは行き足らざる面である。行き足らざる面、行過ぎの面がございますけれども、問題は教育基本的な方針にかかつていると思うのであります。今日の教育は明らかに平和憲法の目指すところ、その具体的な方向としては教育基本法にも明示されてあるごとくにはつきりと平和的な国家形成者として一人一人の子供が伸びて行く、これが方針です。従いましてこれの前提をなすものはやはりその国際的な理解を子供に与えて、吉田政府が当初国際間の外交方針として考えられましたことは全面講和であつたと思う。ところが情勢によりまして全面講和はいつの間にか消え去つて、即ち今日の人類の理想は全面講和であるということは世界の何人もがこれを了承するでございましよう、これは文部省の管轄下にあるユネスコの中にも世界のすべてのものと手を繋いで行かなければならないといつたようなことがやつぱり見えておる。こういうような平和という観点からいつたときには、政党政治一切を抜きにして世界の何人とも手を繋ぎ、そうして一人一人の心の中に本当の平和精神を植え付けて行かなければ真の世界の平和は来ないという、こういう考え方から参りましたときに、教育の面における国際理解ということと、政治家の口にするところの外交政策とはほぼその行き方が異にされなければならないと考えるのであります。即ち教育家の取上げるところの国際理解、これを直ちに各政党の政策と結びつけて教育者を非難するということは私は当らないのではないか、やはり教育者は正しい世界の平和のために寄与する人類を作り上げる、その使命の上に立つて国際理解というものを適当なる方法において採上げるということは、これは当然ではないかと考えられますが、これに対して御手洗さんの御見解を伺いたい。  なかんづく先ほど日教組の平和教育の問題に触れられましたが、私はここで御手洗さんにも、又すべてのかたがたにも、この機会に御理解頂きたいことは、平和教育ということは、子供に平和、々々、々々と教えることではないのであります。平和教育の、その真実教育の実踐面に移すことは、どうしたら子供を正しい環境の中に育てて行けるかという、教育実践の面が、これは平和教育でございます。さればこそ教育研究大会にも、たくさんにこの教育の障害となつている、いわゆる環境をどういうふうに整備したらいいかということが、平和教育の大きなテーマとして、毎度これは出されておる。参考までに二、三申上げると、不遇児の施設をどうするか、特飲街に囲まれている子供たちをどう取扱つたらいいか、家内工業地帯の子供たちをどう取扱つたらいいか、未開墾地域にある子供たちをどう取扱つたらいいか、農漁村の子供たちをどういうふうに取扱つてつたらいいか、施設の不足や不備をどういうふうにして解決したらいいか、子供の家庭経済の貧困の問題をどういうふうに教育の面に生かして行つたらいいか、今日の道義の頽廃を、どうして子供たちにこれをテーマとして、子供たちを正しく導いたらいいか、社会の封建性をどういうふうにして払拭して行つたらいいか、又教育の無関心を如何にしてこれを打開して行つたらいいか、こういうことが平和教育の、教育実践問題であります。こういう問題を採上げて参りますことは、これは私は教育者として当然だと思う。  そこで大変おこがましいお話でございますけれども、梅毒のために両親が死んで、親類に預けられている子供の実情を採上げたり、結核で母親を亡くした不幸な子供を採上げたりして、そうしてここに二、三の教育者の苦心も平和教育のテーマとして書かれている。即ち五月の二十二日です。ちよつと私に読ましてもらいたいと思う。「僕が何時も考えている事は先生の事です。何だかおかあさんのような気がしてなりません。時々「おかあさん」と呼びたくなります時には「おかあさん」と抱きつきたくなることがあります。とあり、私も考えさせられたが、「先生は六年生のおかあさんなのだからNさんにもお母さんです。」という意味の批評を書いて返した。」これは教員の日誌です。その次に子供が「先生ありがとう。僕はこれで毎日楽しく勉強することが出来ます。お母さんと一しよに勉強出来るなんてこんな幸福な者はありません。おかあさんさえあれば悲しい事はありません。おかあさんありがとう。」これは先生に対する返事であります。その次二十五日、又子供は、「おかあさん僕はこんな夢をみました。朝起きると「登よ、もう起きなさい」といつたのでサツと目ざめ夢だつたのでがつかりしました。又寝ると今度はおかあさんが「今日は日曜だから映画に行きましよう。」といつて手をつないでくれたと思つたら、僕とねている子の手でがつかりしました。お母さんは先生でした。」又二十六日の日に、「今日一番びつくりしたのは先生の顔に傷がついていてちよつとむくんでいることでした。僕はしんぱいでした。先生は教室では先生、そのほかはお母さんです。川原へ行つて「おかあさん」といつてみました。」こうして先生子供との間にこんな日記が一学期の終り頃までつづいたが、その頃には友達との折合いもよく、明るくなり、学習にも熱心になり、成績も級の上位になり、心に安定感ができ、寮でも責任者の方に非常に可愛がられるようになりました。こうして平和教育を目指する女教師は、一人の子供を、不幸な子供を本当に正しく伸ばすために、平和教育の実践として採上げているのです。ところがこの発表された佐藤寿美さんという静岡市の一教員は、私も知つている。この人は共産党どころか、我々社会党の左派にはあき足らないような先生なんです。はつきり言えば何も思想的なものを持つていない。ところが今回この先生は不意に転任を出された。即ち平和教育の実践者、こういうような観点から、一里半も先の僻村のほうに転任させられている。この教師を奪われた子供は、私は如何に歎くであろうかと思う。とにかく平和教育というものをすべての人が理解してやらなければならない。平和な環境の中に本当に心の中に泌み渡るところの教育をするための教師の実践ということを、もう少し私はわかつて頂きたい。平和教育の実践というものはかくも地についたものであるということを御理解頂きたい。私はたくさんのものを持つております。まあ大変長くなりましたが、是非私が今申上げました三点ばかりのことについて御意見を頂戴したいと思います。
  12. 川村松助

    委員長川村松助君) 関口君、御発言願います。
  13. 関口泰

    公述人関口泰君) 実は私今お話を伺つても、その御趣旨がうまく掴めなかつたので、よくお話を、政府委員がするようにうまく答弁することができません。
  14. 高田なほ子

    高田なほ子君 もう一度……。
  15. 関口泰

    公述人関口泰君) いや、よくわかりませんからお答えができません。
  16. 高田なほ子

    高田なほ子君 ああそうですか。私の質問がわかりませんのですか。
  17. 御手洗辰雄

    公述人御手洗辰雄君) じや私は、わかつた分だけ私は申上げます。(笑声)よろしうございますか。
  18. 高田なほ子

    高田なほ子君 それでは再度質問を許させて下さい。
  19. 御手洗辰雄

    公述人御手洗辰雄君) 第一のお尋ねでありますが、つまり教育委員会というようなところに、この刑罰の請求権がある、かようなことに非常な不安を感じておられる、こういう不安ではないか、こういうお話のように思いましたが、私は先ほど申しましたように、かようなことを学校先生のほうで、その刑罰を以てこれに臨むという態度はいけないと、かように思つております。これは私はこの法律案精神はいたしかたないと、今日の状態ではやむを得ないと考えますけれども、刑罰を加えるというようなことはよしたがいいのであろう、それは行政処分をてこれを規制すべきである、かように思います。これは教育基本法においては如何にも何らの規制する措置がありませんから、いたしかたがないのではないか。又教育委員会審議によつて、実際上の人事の移動その他が行われておるように見受けますが、それらの場合には、これが非常な極端なことと認められる場合には、行政的な措置を以て規制して行くということが望ましいと私は思います。但し、その場合におきましても、今申しましたような……のちにこのことに関連したことが出て来ると思いますが、事実の認定などというものは非常にむずかしいのであります。従つてそう申しちや何ですけれども、山村の教育委員会なぞで、そういうむずかしい事実の認定をなさつて、これを基準として直ちに最終的な決定をなさるなんということは、やはり私も危険を感じます。さようなところには相当なこれが用意をされるがいいのではないか、こう思うのであります。  第二の、君が代を歌つたという、歌うか歌わんかという議論によつて処罰が行われたというお話でありますか、処罰はどうかと思いまするけれども……。処罰じやない、何ですか。
  20. 高田なほ子

    高田なほ子君 いや、偏向教育事例として、文部省は採上げた……。
  21. 御手洗辰雄

    公述人御手洗辰雄君) ああ、そうですが。これは君が代が国歌として……、まだ国の国歌として定むべきかどうかという結論が出ていないというお話でありますが、私どもは今日までのことから見まして、やはり君が代が今日では国歌ではないか。将来このことを改めて変更せられるならばとにかく、そうでなければ、これはやはり自然のままの姿として、一応君が代を国歌として歌つて差支えないのではないかと思います。従つてこのことを以て偏向教育の例として挙げられるかどうかは別としましても、さようなことを否定せられるという態度は、どうも余り賛成いたしかねるのであります。  第三に、平和の教育の問題でありますが、これは第一の御質問に関連いたします。どういうことが真の平和であるか、その平和の教育というものは理想論としては何人もこれは疑う余地がない、平和理想論というものはあり得るのでありますが、現実の問題を扱うことになれば非常なむずかしさがあります。これは私は関口さんと同様三十余年間新聞記者としてさような現実の問題を探究する、真実を探究する、日々の事件の真実を探究することを職業として一生参つたのでありますけれども、それでもなかなか本当の真実というものは把みにくいのであります。平和の問題にいたしましても、国際間の現実の問題、これらについていずれが是、いずれが否、いずれが平和擁護者であり、いずれが破壊者であるかというようなことの認定は非常にむずかしい、判定はむずかしいのであります。これは歴史的な事実、過去のことで、十分な文献が揃いまして検討しましてもむずかしい事件がたくさんあることは御承知の通りである、いわんや現に進行中の事実につきましてはこれはなかなかむずかしいのであります。さようなことを、先ほどここに例に挙げられておりますソ連或いは北鮮南鮮の問題などを掴まえましてもむずかしい。そのむずかしい現実の平和に関する問題を軽々に扱うところに間違いの因がある、かように思います。これを一人の先生或いは数人の先生の研究だけでもつてさような現実認識を決定せられて子供に押付ける、導くということが危険である、何が戦争勢力であるか、何が平和勢力であるか、さようなことは人によつて見るところが違うのであります。従つてさようなことが危険である。そのことは即ち教育委員会等においてさようなことを、先生がこういうことを言つた、これが間違いであるという認定をなさるのが危険であると同様に、先生御自身の現実の問題についても認定というものが非常にむずかしい、そのことに間違いが起る、とかく先生は理想の立場をとつてものをお考えになりますからして、如何にもその理想の議論から見まして現実を見ました場合に、いずれが是、いずれが否と、はつきりしないと子供は納得しないでありましようから、そういうところに危険があると思うのであります。例えば昨年の高知の大会における教研大会の第八分科会で、ソ連、中共、北鮮の平和論が真の平和論であるというような決議をせられた、こういうことがなかなかむずかしいところでありまして、それを固執されて全国に流されて行くというようなことは危険だと思います。  第四に、今お挙げになりましたこういうことが真の我々の平和教育であるという事例をお聞かせ願いましたけれども、誠に尊敬すべき先生だと思います。さような先生がおられるということは誠にありがたいことで、私の考え或いは見聞によりますると、実はさような先生のほうが多いのではないかと思つておるくらいで、私もよく地方教育委員会とか或いは校長さんの連合会などに講演を頼まれて出て参ります。話をしまして、あとで先ず二、三十人のかたがたとよく懇談会をいたします。或いは膝を交えてお話をいたしてみますというと決してさような偏向或いは危険なかたはないのでありまして、今お示しのような先生がたのほうが男女ともに非常に多いのであつて、それにもかかわらず組織として全体として行動せられるときは、どうしてかようなことになるか、私は不思議に思うのでありますけれども、甚だこれは残念ながら事実であります。そこで遺憾ながら本案の趣旨は私もやむを得ず賛成をする、こういうことなのであります。
  22. 高田なほ子

    高田なほ子君 ちよつと関口先生に……、君が代の問題とそれから国旗の問題についてお話し下さい。
  23. 関口泰

    公述人関口泰君) 先ほど御質問のあれが、ここへ書きとめてもおかなかつたのでよくわからなかつたので失礼を申上げましたが、第一の、請求を待つて論ずるという問題でございますが、これは学長とか教育委員会とかいうものに相談してやるのだから安心だろうというような意味でこれが加わつておると思いまするが、これは反対にいろいろな例を持出し、いろいろな何というのでしようね材料を持つて、警察なり検察なりのほうからそれを並べて持つて来ると、学長や教育委員会ではそれを否定することがなかなかできない。それでお膳立通りこれに請求するようなことになるということがあつて却つてこれは危険なんじやないか、まあそもそも刑罰を以て論ずるのが無理なんでありまするから、こういうような第五条を付けても何もならないと思うのであります。却つてより大きい弊害があるのじやないかと思います。それから君が代を歌わせることが何ですか。
  24. 高田なほ子

    高田なほ子君 ちよつと簡単に……、実は文部省偏向教育事例というので、偏向教育というのはこういうものだという標本を二十四十したのです。その二十四の中で、或る学校教員が君が代を歌うか歌わないかというようなことを、儀式に君が代を歌うか歌わないかということを職員会で話合つたところが、一教員は君が代を今歌うべきじやないということを言つた、これは偏向教育であるという事例として出したのですよ。ですからこれは今後先生がたが君が代を、これはまだ早いじやないかなどと言うと偏向教育というレツテルを貼られる危険性があるから、そこでこの君が代の扱い方、今日国歌として現存しておるから何でもかんでも子供に教えなければならないという性格を持つておるかどうか、疑問を持つておる、国旗についても同様であります。そういう御見解を承わりたいと思います。
  25. 関口泰

    公述人関口泰君) そういうことまでも偏向教育の例に挙げる、たから非常に危険だと思うのです。それでそういうようなことを刑罰を以てその偏向教育を行なつた者或いはそれを教唆扇動した者は云々というようなことになると非常に危険で、だから反対だ、そうことを申上げたわけです。  それから平和教育なんかも、これは憲法にも教育基本法にもちやんと書いてあることで、殊に憲法では憲法の尊重擁護の義務公務員に認めておるのでありますから、義務ありとしておるのでありますから、教職員国家公務員であれ地方公務員であれ憲法を尊重擁護する義務を持つておる。それで教育基本法においては平和教育をすることを教育の目標に掲げておる。それをやつてはいけない、やり方によつては処分するというようなことになつては大変で、少くも教育勅語ですらも「国憲ヲ重シ国法二遵」うということを言つておるように、法律なり憲法なりに従つた教育をしてはそれが偏向教育になるというようなことであつては現在の憲法法律をも否定することになると思うのであります。
  26. 岡三郎

    ○岡三郎君 ちよつと御手洗先生にお伺いいたしますが、さつきソ連、中共、北鮮の平和論が真の平和論であるというふうに高知の教研大会の第八分科会で出しておるということですが、それは、どこからその資料は出されたのですか。
  27. 御手洗辰雄

    公述人御手洗辰雄君) 「教育労働者」という雑誌で私は見たことを記憶しております。
  28. 岡三郎

    ○岡三郎君 この「教育労働者」というのは、教育委員会のこれは機関紙であります。で、私は高知の教研大会もこの目でみんな見ているわけです。私は当時の責任者であつた。大体どれでもそうですが、それぞれの主張を掲げ、党派の行動を強く支持しているものは、まあ手柄顔に、そうでもないことをこういうふうに闘い取つたというふうによく書きたいものでありまして、教研大会の最終的な総会の締めくくりにおいてはこのような論も出たのですが、教研大会の総括的な、全員ではだれもこれを認めておりません。  それから日本職員組合の主張自体も、ソ連、中共或いは北鮮の平和論が真の平和であるというようなことを確認したこともない。そういうわけで、この一つのイデオロギーを持つた一つの機関紙がそれを採上げて、それによつて日教組全体がこうだというふうに断定をされるというと私は困ると思う。ただ問題は、そういうふうな論が非常に多くあつたし、それに共産党のかたのグループなるものが、第八分科会に集中的に意見を発展せられたということも私は見ておるわけですが、そういうふうに会議の運営その他については非常に問題があるわけです。それで少し討論ではなくして、やはりこれは真相をいつて見ないとわからないと思うのですが、山口日記の例についても、私自体は北鮮が南か、又は南から北に攻め上がつたということは思つておりません。ただ問題は、あのときの大会地方提出議題で、山口日記なるものを、破棄するというようなことから緊急提案があつた。それに対して内容もわからないで、この問題について今まで教育委員会が破棄せいとか何とかというようにいろいろな問題が起つて来た。教育委員会自体がいろいろなことをやつておるし、あとになつて文部次官通達でこういうことを取締るということについて、教員組合は、そういうことについてはやはり十分調査して、そうしてそのやり方について反対するということが私は重点だつたと思つております。その当時内容について説明しろといつたところが、山口県の提案者は、その中で、このいずれにも触れないで、別の内容について申述べて、割合に比較的穏当なことをいつて、この議案が通過しようとしたわけです。そのときに大阪の質疑者がこれについて私の意見を聞きたいといつたときに、すでに大会の最終的な幕切れで、これは御手洗先生たちも勿論御存じだろうと思いますが、大会運営というものは非常にむずかしい、大勢の人が集つて、ごやごやしているとき最終を狙つてこれがすぽつと出された。これはやはり私は一つの戦術だと思つているのですが、そういうふうな中において、内容の精査も十分なさずに、ただ関係当局が強権を発動したということが重点になつてこれが可決されたことを私はあとで知つたわけですが、その後において日教組がどういうふうにこれを見ておるかということについては、そういう形で抗議をしていつているけれども、日教組の中央執行委員会では、内容についてはこれが妥当であるかどうかという結論は出ていない。まだ出されておらんのです。その後において山口日記自体の内容についてもあとの発行は非常に是正されて、そういうものについては、日教組のほう自体としても、そういうふうに偏るというふうな取られ方をするということはまずいというふうにいつておる。この内容についても十分検討するような示唆を与えているというふうに私は聞いております。  それからもう一点、ウイーンの世界教員会議においては、これは私のあとの問題ですが、その前に、私は日教組が自由世界労連に加盟して、幾たびか脱退せよ、脱退せよと言われている中において、私自体も随分反動呼ばわりされて来たのですか、自由世界労連というものに加盟し、荒木委員長も、その当時の荒木さんもロンドンの自由世界労連の会議に参加している、日教組の変遷史というものは、非常に複雑多岐でありますけれども、全体からいつて、終戦直後から現在まで来ている中において、幾変遷あるけれども、私は非常にまとまつて来ている。堅実になつて来ている。だから現在の特に私が主張したいことは、現在の日教組の執行委員の中でですが、義務制から出ている執行委員の中で、共産主義者は一人もいないといつて、私は断言してもいいと思う。義務制課程から出ている教員の中で一人も共産党関係のかたはおらんと言つていい切れると思う。そういうふうな状態で、日教組の運動史というものは、共産党とそうでないかたがたとの相剋史であり、又自由党との相剋史だと思う。日教組の歴史というものは、それなるが故に共産党は絶えず内部に浸潤しようとするし、自由党は権力を以てこれを弾圧しようとする。こういうふうな中に立たされて、全国の教師というものは、自主制を守つて、何とかしてこれを一つ立派な組合にして行こうという意思に燃えているわけですけれども、ただ問題は選挙活動においていろいろのことをする。この選挙活動の問題も、結局基本的には人事院勧告というものがしばしば無視されて行くという素朴の判断において、この問題というのは当時の団体交渉においても、GHQの指導においても、君たちの意見国会で容れられないということは、君たちの意見というものはまだ多数を占めないから、君たちがやるならば国法に従つて堂々と君たちに許されているところの選挙活動によつて君たちの多数意見国会に送つて、労働権も或いは団体交渉権もその他皆剥奪されているけれども、それが一つつているのだ。それで君たちの、自分たちの待遇改善というものを貫いて行つたらどうだ。これは率直なる私は発展なんです。特に日教組が初めて選挙運動をやつたあの終戦直後、全教連、全教協があつて、岩間君、河野正夫君の二人しか出ていないんです。そのほか大阪から安部さんが出ておりますが緑風会に入つているわけです。ところが労働権剥奪されて、しばしば人事院勧告が無視されているような中でどうしてもこれはいかんというので、私が知つている限りにおいては高知、琴平大会においてやはり我々は自分たちの正当な権利を行使して、少なくも国会において予算の問題はあるとしても、せめて人事院の勧告という線を何とか貫いて行きたい。そのためにはいろいろなことをやつても無理だから選挙闘争というものをやはりやらなければならんじやないか。こいうふうな方向で私は来ていると思うんです。ウヰーンの会議なんかについても先ほど言つたように、自由世界労連或いはWOTP、或いは世界自由教員連盟、私は先般も、一昨年も西ドイツの会議に行き、マルタの会議にも行つているわけですが、そこにおいて我々が一体何を述べているかということも十分知つてもらいたいわけなんです。そういう角度の中で日教組が闘つている。そうして共産党からは悪口を言われ或いは自由党からは悪口を言われ、矯激だというので、而もその中で何故我々が平和憲法を守ろうかという点については、これも朝鮮事変との関連があるわけなんです。朝鮮事変が起らない前は平和々々ということを我々は騒ぐ必要はなかつたんです、だから私たちは運動史を見てもらえばわかるんです。朝鮮事変において南鮮北鮮がいろいろシーソゲームを続けられている中において、あれを一つの起点として、仮にあれが若し拡大した場合に、日本民族はどうなるか、世界民族はどうなるかというような仮定の中において、何はともあれ、朝鮮事変というものを終焉してもらいたい。その中において我々はあのやりかたにおいてアメリカの方式でも、ソヴイエトの方式においても、いずれもそれぞれの正当な主張をするとしても、日本民族としてはそれぞれの主張に加担して行つた限りにおいては平和は来ないんではないかというような形の中で、我我としては平和というものを真に国民の全体に知つてもらいたいし、本当に憲法を守らなければならないというところの信念に基いてああいう行動が今出て来ていると思うんです。その中にはやはり第三者から見てそれぞれ見解がありますから、逸脱している点もあると思うけれども、少なくとも日教組が念願していることはソヴイエトとかアメリカとかいう枠の中ではものを考えない。もう少し素直に憲法基本法の中で考えて行こう、こういうところの運動が漸次高まつて私は現状に至つていると思うのであります。そういう点でこのウイーンの会議において述べたということと、行つた代表者は、これはやはり大会で選ばれて行つたわけじやないんです。それぞれの希望者、それがこの都道府県その他において銓衡されたということもあるでしようけれども、そういう方々が行つておられるわけなんです。つまり決議機関で全部承認して行くという形にはなつておらない。当時日教組から行つた岡木、和田両君が世界自由教員連盟の大会に行つて、そうしてここへ一応参加しておりますが、いずれもそういうふうな形を取つているのでありまして、この場合においても、と言つた人たちに絶対にこれは却つて見る人から言えば姑息であるし、卑怯であると言われても、やはり日教組全体の運営を誤まられて見られてはいけないから、ソヴイエト圏にはどんなことがあつても入らないように。これは君たちの主義主張は別だけれども、日教組全体の運営を誤解をする人が多くあるし、それを誇大に宣伝する人が多くあるから、そういうことは踏みとどまつてもらいたい。それで誰も我々の関係者ではこちらのほうには入らないというふうにして、これは非常に卑怯な、見方によれば卑怯ですけれども、非常に気遣つた運営をして来ているわけです。その中における報告書というものも行つておりますが、この方面についても我々は全部是認しているわけではないわけなんです。これは行つた人たちが相互にそこでまとめて、行つたかたがた一つのレポートとして私は持つてつたというふうに確認しております。そういうわけでいろいろとむずかしい中において、我々は苦労しているわけなんです。併しその中でやはり先ほど御手洗先生が言つたように、政治的欠陥、憲法と再軍備の問題なり、或いはその他の問題についても経済的な問題にしても、教育問題にしても、ともかく、日本の教師の悩みが多いわけなんです。純粋にまじめに考えれば考えるほど非常に悩みが多い。その中で政治が非常に偏向して、政治が堕落して、政治が乱れて来る中において、教育というものは成り立たんじやないかというふうな角度の中で、まじめなものは、ときには共産党的に見られるような発言をするとしても、それは私はそれを全部赤だというふうな認定の下に取締法規を作るというようなことについては、何としても私は納得できない。それは日教組も五十万の中ですから相当いろいろな考え方があると思うのですけれども、先ほど言つたように、少くとも義務教育出身の執行委員においては私はない。共産党的な人はないというふうに断言して憚らないところの一つの確信を持つているものなんです。そういう点で、私はことごとくここで先生に反論して質問申上げようなんという気持はありませんけれども、全国の教師というものは、少くとも戦争前の教育よりいい教育をしているという確信に私は立つていると思うのであります。そういうふうな一つの信念があればこそ、時の権力、そういうものに追従し、盲従しない、そういう気持を強く持つているわけです。ただ二面数量組合だからと言つて非常に批判を受けているわけですが、教員組合も戦後において労働組合つたわけです。併し我々はよく言われたのですが、教員組合というものは他の労働組合と違う点がある。そういう点をよく認識しているわけですが、これにも異論があるわけなんです。これは教員組合なるが故にいろいろな労働組合と同じことをするというと、すぐそれが非難攻撃を受ける、確かにその点もあるのですけれども、日本の教師は運動の中において、子供教育というものを本当によくして行こうという気持を本当に肚の中に私は持つてつていると思うのであります。ただ私は、率直に言つてそうでないかたがたがあるかもわからない。併しそれは教員組合運動とは私は別だというふうに信念を持つて言い切れるということを私は言いたいのであります。併しこういうことを幾ら言つてもしようがありませんので、一番むずかしい点は、国際理解をどう子供に与えるかという問題だろうと思うのであります。余り姑息になり卑怯になると、アメリカのいい点もソ連のいい点も或いは中国のいい点も全然触れないで、悪い点ばかり言う。ここにおいて私は自分の党派の第三勢力論というのは、悪口ばかり言うけれども、第三勢力論になるというきらいがあるというふうに考えております。つまりいい点を認めないで、悪い点ばかり言う。こういう国際的理解の与え方というものも、実際問題としてはよろしくないじやないか。そういつた場合に、諸外国の事例というものを子供に正しく把握させるということは、非常にむずかしいと思うのですが、これは関口先生でも御手洗先生でも結構ですが、国際理解をそれぞれの低学年の子供に与えて行く、或いは中学の子供に与えて行く場合に、その境目というものは非常にむずかしいと思うのですが、そういう点について若しも、国際理解の点についてはやはりこういうふうにやつたらいいだろうというふうに御教授願えたならば仕合せだと思うのです。
  29. 御手洗辰雄

    公述人御手洗辰雄君) だんだん私の知らないことを教えて頂いて感謝いたします、先ほどの高知における教研大会の第八分科会の決定については、お話のことが本当であることを私もよくわかります。これはあの記事を見まするというと、如何にも我々が歴史的にこれは闘い取つたのであるというように非常に力説されているので、多分私が読み誤つたのであろうと思いますが、読み誤つたのであろうと思いますけれども、第八分科会において、これを一応決定させたというようなことは事実であつたと、今お話でもそういうふうに思うのでありますが、さように非常な強力に、又しつこく重点的に日教組組織を食おうとする努力が行われている、それが又折々現われているということも又事実であろうと思います。これに対して今の組合の幹部のかたがたが、お話のように、終戦直後から見ますと、随分秩序を立てられていろいろなことに反省をせられたということは、私もよく最初から申上げている通り認めます。同時にさような過激な勢力の侵入して来ている大会や、教育研究大会などを擾乱することを防ぐことに苦心せられていることは、宇治山田の大会とか、高知の大会などにおける記事を見ましてもよくわかる。報告を見ましてもよくわかる、その苦心はよく察するのでありますが、併しやはり全体としての印象は免れないのではないかと思います。  山口県のお話がございましたけれども、これらにしても大分事実が間違つているように見受けられますけれども、さような高い反省があられるということは非常に結構なことなんで、さようなことが一般的になることを望むのでありまして、これが国民の全部に認められるようなときの早からんことを私は切望するのであります。  組合が民主化しつつある、健全化しつつあるというお話はその通りだと思います。まあこれについて別に言うことはありませんけれども、本年一月の静岡の大会において、共産党グループとめざされる人々から、日本教員組合の民主化の提案があつたように伺つております。これは共産党側からの民主化の提案があるくらいに共産党に対して抵抗しておられるのだという反証だろうと思うので、そういう点は私もよく承知いたしている次第でありますから、あなたのお示しのような程度にまで理解がなかつたかも知れませんが、相当な理解は持つているつもりであります。  最後の、国際理解の問題でありますが、これは先ほども申しましたように、非常にむずかしいのであります。現実の問題の判定は、それぞれの国々の立場によつて違いまするし、日本などもニユースの生のままであらゆる世界からそのまま入つて来るというわけにもいかないのでありまするからして、日本指導者と言われる人々、或いは外務省ですらも又新聞社の首脳部におきましてすらも十分な表裏のニユースを得ることは困難でありますから、本当に何が真実だということは、これはなかなかむずかしいのであります。ただ国際理解という現実の問題につきましては、先生がたの一人々々によるそういう偏したニユースしかない今日、直ちにこれを御即断せられて、こうだああだと決定的なことをお教えになり導かれるということに危険がある、かように考えますから、このことについては今急に何とお答えしていいかわかりませんけれども、ともかく事実と理論の区別をつけられるということが前提ではないか。かように思います。
  30. 野本品吉

    ○野本品吉君 関口先生にちよつとお伺いいたしますが、最初に非常に粗雑な法案だといことから、まあいろいろと御意見を承わつたわけですが、この法案が粗雑であるという点につきまして、先生のお気付きになつております点を、もう少しお聞きいたしたいと思うのですが……。
  31. 関口泰

    公述人関口泰君) 私の習い方が失礼だつたかも知れませんが、粗雑だといういろいろの説もあるが、私は、というところに続くので、一々粗雑がどの点が粗雑だということは、今私重点をどこにおいてこれを説明申上げてよいか、ちよつと見当がつかないのですが、そういう程度で……、言葉を慎しめという意味ならば慎みますが……。
  32. 野本品吉

    ○野本品吉君 それから御手洗さんにお伺いいたします。実は先ほど来御手洗さんの御発表になりましたようなことと殆んど同じようなことを私は先日の委員会におきまして質問し、又説明を求めたのです。で、この法案審議に当りまして、そういう点から非常に私としましては大事なことだと思つて考えておりますのは、日教組に対して外部から非常に熾烈な、そうして執拗な働きかけがある。その働きかけ及びその働きかけによる彰響というものの消長でございますね、逐次それが強化されておるというふうなお考えでありますか。或いはそうでないかということについての御見解を承わりたいと思います。
  33. 御手洗辰雄

    公述人御手洗辰雄君) どうもお話が甚だ抽象的な問題でありまするから、私も何とお答えしていいかわかりませんけれども、全体として私どもの受けます感じは、最初はこの教員組合の発足当時は組合自身も国情も混乱しておりました。従つてかなり過激な人人もあり、過激な行動もあつたように思いますが、それは今、先ほど来幾度も私申しましたように逐次整頓して来たように見受けるのであります。組合自身としては整頓せられ、何と言いますか、相当に規制せられて来たように思います。けれども外部からの破壊勢力、或いは過激勢力というものの働きかけ、これは又非常に組織的になりました。そして執拗になつて来ておるということは否定できないのではないか。例えば本年一月の静岡大会において、先ほど申しましたように共産党グループと目される人々からこの組合の民主化の提案を出されたように承わつております。これは間違いであれば又訂正いたしますが、私はさようなことを承わつております。これも共産党系の雑誌から私は見たと記憶しておりますが、さようなことは要するにまだまだ共産党の人たちが非常に満足を得ていない、もつとやるいうことの一種の表現だろうと思うのでありまして、これは先ほど来幾たびも申しました山田大会、高知大会においても同様なことが非常に組織的に常にこの日教組大会を目指して特別の工作が行われておるということは、私どもも自分の持つております情報で、多少の間違いはあるかも知れませんけれども関心をもつております。従つてこれは余ほど警戒する必要があるように思うのであります。
  34. 剱木亨弘

    ○剱木亨弘君 大分時間も過ぎましたので簡単にお尋ねしたいと思いますが、関口先生ちよつと……。関口先生の旧憲法下教育理念と新憲法下における教育理念の御高説につきまして私ども心から敬服をいたしてお聞きしたのでございますが、それだけ結論につきまして、先生申されますと我々もつい聞いておつて尤もだというような感じになるのでありまして、相当まあ影響力が大きいものがございますので、これはまあお尋ねするというよりも私の考え方間違つておるかどうか、先生一つ御批判をお願いいたしたいと思います。  それは第一に公務員と同じように選挙運動、選挙活動の制限をしようという問題について御反対でございますが、基本的に申しますると、先生只今もよく申されましたように国家公務員法の第百二条が違憲の疑いがある。国家公務員におきましても政治に参加する権限は基本的権限であるから、これを奪うことは違憲ではないか、こういうお考えで、国家公務といえどもこの制限が違憲の慮れがあるというお立場に立つ限りにおきましては、私はこの特例法に御反対されるのは当然なことだと思うのでございます。ただ国家公務員法におきまして、この選挙権の行使を除くほかは人事院規則によつてきまつております政治行為を禁止しているわけでございますが、私はこの国家公務員がその身分におきまして選挙権の行使を奪われることは、この参加権の基本的人権の剥奪だと思いますけれども、その選挙活動そのものにつきましては、やはり国家公務員の職務上から見ますと一定の制限があつてもこれは参加権の剥奪ではないのではないか、特に国家公務員がそういうことを、自由に選挙の候補者に立つたり或いは特定政党に対して選挙運動をするということまでもやれなくなつたの国民全体に対する奉仕者だという性質に反すると申されますが、私は実はその逆に考えているのでありまして、この国家公務員の身分を以て選挙の候補者に立つたり或いは又特定の人に対して選挙運動をやつたりすることは、これは公務員として避けなければならない、これはやはりそれこそ本当に私は国家公務員国民全体に対しての奉仕者というものである、これは憲法精神に副うものだというふうに私は解釈しているのでありますが、この点につきまして私の考え方について御指示を願いたいことが一つ、それからもう一つの問題は、同じく同様な問題でございますが、この政治に参与するということの自由は同時に或る政党に投票せよとか、それを支持せよということを強制されることのない自由もまた持つているものと思います。我々が自分の家庭においてすら自分子供なり妻子に対しましても一つの投票を強制するわけに行きません。これこそ私は選挙の立場については全く自由な立場であるべきだと思うのであります。然るに今日私は岡君なりが立証されましたように、教育者が出て、そうして国会に出て、教育問題について大いにやるということは、基本的な考え方としては非常に賛成でございまして、又私個人のことを言つても相済みませんが、私もそのつもりで出ているつもりでございます。ただ併しそのための選挙活動におきまして日本職員組合という一つの団体におきまして、一つ政党を支持しそれを支持することを全組合員に一つの強制というか、大会において決定すれば、全部が承知すればいいじやないかという意見があるかもしれませんが、事実におきましては私は決してその全五十万の教職員一つ政党を支持するというイデオロギーなり、その政党的な立場をとつているとは考えておりません。然るに事実におきましては、この選挙に現われた姿は全部一つ政党に属する、これは例外は多少ありますけれども、殆んど原則的に一つ政党に属するという関係においてこの選挙が行われている、選挙活動が行われている。特にこれは具体的な例といたしましては教職員組合から醵出しました会費かどうかわかりませんけれども、全体から出したものがその選挙の費用について日本教職員政治連盟を通じてはございますけれども、殆んど一つ政党の候補者に対してこれが出されているというような問題になりますと、これは結局各先生の一人一人の政治的立場に対する一つの強制的な現われではないか、こういうふうに私は基本的にこの問題についての今の問題点があると思うのでありまして、この点は確かに私どもは各人が各人の自由な立場において政治に参与をすることは適当でございますけれども、その各人の政治的立場を強制するという姿そのものは、これは私は現在行き過ぎじやないかというふうに考えるのでございますが、以上の二点につきまして先生一つ意見を伺いたいと思います。(「強制なんかしていないじやないか」「劔木さんを支持したのもやつているじやないか」「答弁々々」「嘘言つてはいかん」「強制とはひどいよ」「黙つて聞くもんだよ」と呼ぶ者あり)
  35. 川村松助

    委員長川村松助君) 静粛に願います。
  36. 関口泰

    公述人関口泰君) 只今劔木さんのお話は、そういう国家公務員選挙に関する権利の限界というようなことについては問題があることは承知しておりますし、又今の人事院規則なんかがそういうふうな考えからできているということは確かであります。それに対しては私は疑問を持つ、これは突きつめて行けば違憲の虞れもあるのではないかというように考えておる、これは意見の相違であります。  それから政治に参与する自由とかの問題についても、今御発言のありましたように、事実はどうなのか、私余り詳しいことは知りません。若しかそういうふうに制限するならばそれは問題と思いまするが、まあ事実はどうなのか、私詳しくは存じません。
  37. 田中啓一

    ○田中啓一君 私は御手洗先生に御意見をお伺いしたいのでございますが、只今大分日本職員組合も又これを組織しておられる先生がたも、整備と言いますか、落ち着いて来られたが、これに対して偏向教育をやれということでありましようか、一言に申しますとそういう意味の働きかけは依然として執拗であり熾烈なものを感ずる、こういうまあ御意見のようでございました。そこでこの法律はそういうものを押えるために刑事罰を以て臨む、こういうことが実は目的だと思うのであります。それでそういう働きかけの勢力というものは身分が教員の人もございましようし又然らざる人も私は定めて多いだろうと思うのであります。そういうことでありますと、身分罰を以て臨むというわけにもいかなくなるのではないかと、こう実は私思うのであります。どうしても今先生のおつしやつたこの執拗熾烈なる組織的計画的な活動というものを押えなければこれは日本教育の自由は守れない、教育基本法の八条は守れない、こういうふうに強く感ずるわけでございますので、そのへんの御見解を伺うことができますれば非常に幸いだと思います。
  38. 御手洗辰雄

    公述人御手洗辰雄君) 只今お話の外部からの働きかけに対する罰であるというお話でありますが、それは思うに破防法とか、或いは刑法とかいうような他の法律を以て律し得るのではないかと考えられるのでありまして、私は甚だ疎漏で相済まんかつた次第でありますが、やはりこれは働きかけられる中には先生がおられる、又先生組織を以てこれをやる、こういうふうに解釈しておつたものでありますから、さような先生がたに対してその職務についての何を刑罰を以て臨むということはどうも面白くない。これらが子供に与える影響国民に与える影響が面白くない、かように考えるので、外部からのものは破防法その他によつて律せられるのではないか、こう思います。事実問題としましてこれは外部からの働きかけが随分激しいことは明瞭でありまして、これは私の独断でなく社会党、先ほども申しましたが、右派の社会党におかれましても教育綱領の冒頭においてこの危険を指摘されておるのでありまして、如何にもこれが甚しいのであるということは保守党のかたがたばかりでなく、社会主義を奉ぜられる、信ぜられる人々においてすらもこの甚しい事実が認められている、こういうことが国民的な輿論、認識と見てよいのではないかとそう思います。従つてそれに対する規制は必要であろうと思うので、本案の趣旨に賛成するわけでありますが、ただ先生、つまり教職員組合に属しておられる先生がたに対しても刑罰を以て臨むということは、これは行き過ぎではないか、これは国民感情の上から見まして甚だ面白くないのではないかと、こう思うのであります。
  39. 田中啓一

    ○田中啓一君 もう一つ実は重ねてお伺いするようなことになるわけでありますが、一般刑法或いは破壊活動防止法も調べたのでございますが、いわゆる破壊活動にならなければこれは処罰を以て臨めない法律だと私は思います。ところが御承知のようにピオニールの教育というようなことをやる国もあり団体もある。これが私は偏向教育をやれというこれが一つの計画になつておるように思うのであります。従つて偏向教育というものを目的とするその執拗熾烈なる外部からの働きかけ、中には内部のものも私はあり得ると思います。従つて基本法の第八条は法律でございますから、法律に違反をしたものは当然地方公務員法によりまして身分罰は受けるわけであります。今でも受けるわけであります。そこでそれと同時に今回の法律によりますると、外部のものでありますれば刑事罰を受け、内部のものでありますれば、それがたまたま内部のものでありますれば身分罰も受け、刑事罰も受ける、こういうことになろうと思います。つまり偏向教育の教唆を対象にして取締る法規はこれ以外にはない、こういうことになるわけでございまして、先生のおつしやることは、私も先生のおつしやるお気持には同感でございます。私も学校先生をやりましたので、実は刑事罰を以て臨んでもらいたくない、先生に関する限り。そうすると実は先生のほうは身分罰、外部のものは刑事罰と、こういうふうにやるほかにないわけであります。併しこれはなかなか内部やら外部やら甚だむずかしい問題がある。どうもこれは一緒くたにやるほか仕方がない。そういう意味先生のように涙を呑んで残念ながらということに実はなるのであります。そういうふうに私思いますので、御意見を伺えれば誠に幸せだと思います。
  40. 御手洗辰雄

    公述人御手洗辰雄君) 重ねてのお話でございますが、どうも、どう考えて見ましても先生に、その先生教育活動に対して刑事罰を以て臨むということは、これは私は国民常識が承知し難いのではないかと思います。今お話のように内外分けにくいというようなことでありますが、さようなところに誤解のないように法案の整理をなされるのが適当ではないかと思うのであります。
  41. 須藤五郎

    ○須藤五郎君 御手洗さんに二、三点伺いたいと思いますが、御手洗さんは先ほど滋賀日記が重大な問題を含んでおるというお話でありましたが、滋賀日記の中に文部省偏向教育事例として出しておる三つの中国から帰つて来た子供の文章があるのでありますが、その二つを御手洗さんが御覧になつたか、私が読んでみますと、少しも偏向的なところが見えないわけであります。というのは中国から帰つて来た子供日本へ帰つて来て、日本のいわゆる汚職やいろいろな汚らしい非常な不潔な面を、パンパンの問題等非常な不潔な面を、中国は三反、五反を通じて非常に綺麗になつた。今や官吏の汚職もないし、パンパンもいないということを書いて、そうして併し私たちの国日本は小さい国ではあるが、自分たちの努力次第によつて日本も立派になるというふうな意味のこと、私は読んで非常に愛国的な、国を愛する一念から書いた文章だとしか受取れないのですが、今日汚職に汚れた日本の政府の諸君はこれを聞くのには耳が痛いかもわからない、併しこの純真な子供の愛国的な文章すらも偏向教育事例として出さなくちやならんということはそこに私は問題があると思うのですが、その点あなたは非常に重大な問題があるということをおつしやいましたので、その点御意見を伺いたい。  それから私たちが集めました事例の中に諸学校先生たちが、ソヴイエトや中国ばかし誉めるような話をしておるように言つてらつしやいますけれども、いろいろな集めた大阪府の統計ですが、そういうことは殆んどないのです。むしろ今日の教育はアメリカ一辺倒な教育をされておるということを私たちは受取る。その証拠にアメリカとソヴイエトとどちらが平和を願つておると思うかというような質問に対して、アメリカが平和を願つておるという答えが九六%七、あとがソヴイエトになるのです。それからまあいろいろありますが、こういうふうにアメリカとソヴイエトに対しての教育の仕方というものはむしろ私は反対じやないかと、その証拠に南河内郡の地区で各小学校が使用しておるところの六種類の社会科の教科書を各社教材の配列について調査をした結果を申しますと、アメリカの問題を扱つておる回数が三百四十五回、四六%を占めておるのです。それから御心配になります中国やソヴイエトは、中国が七十九回、九・九%、ソヴイエトは三十五回で四・一%です。そうしてこのようなふうにアメリカの問題をたくさん扱つておる教科書でないと検定がパスしない、そういうふうな措置が起つておるのでありまして、むしろ私は今日の教科書はアメリカ一偏倒的な教育がされておると、私たちはそういうように考える。そこでそのアメリカ一辺倒的な教育に対して、学校先生たちが反抗するといいますか、是正する意味において中国やゾヴイエトの資料を、尤もだと思うような資料を日記帳の形やいろいろな形で少し紹介するとすぐそれが日本の政府によつて偏向教育事例だ、偏向教育をしているというふうにですね、こういうふうに曲げて報告されておる、そういうふうに私は考えるのでありますが、その点どういうふうにあなたは考えられるか。  それからソ連と中国と平和の問題でありますが、これは私たちはあなたとはやはり世界観が違うかもわかりませんが、併し私は実例を以て申上げたいのですが、昨年マレンコフと周恩来が世界に対して平和の呼びかけをしておる、ところがアメリカから、これに対して、我々は何ら平和の呼びかけをこれまた一度も受けていない。ソヴイエトは常に物事は話合いでやろうではないかということを言つておる。今度のジユネーブ会議ソヴイエトの提唱によつてされておるのでありますが、こういうことを見ましても、ソヴイエトや中国は決して戦争を欲していない。平和を愛しているのだということが私たちは受取れる、素朴な気持でよく受取れる。ところがニクソンが最近の談話において、或る高官というような名前でありましたが、調べるとニクソンだということになつたらしいのですが、仏印からフランス兵が引揚げても、アメリカ兵は出兵するぞというような意味のことをニクソンは堂々と言つている。二つのことを対照しましたときに、いずれの国が、ソヴイエトや中国が平和を愛する国であるか、アメリカが平和を愛する国であるかということを私たちは素朴な気持で判断すれば、これは明らかにソヴイエトや中国が平和を愛する国である。物事は話合いでやろうという陣営であるということが私たちはわかるわけであります。そういう点から学校先生たちがソヴイエトや中国が平和を愛する国であるということを日記帳に採用したからといつて別に不可思議ではない、別に偏向ではないと私たちは考えるのでありますが、その点もお伺いしたい。    〔委員長退席、理事剱木亨弘君着席〕 なお私はこれは答弁は必要といたしませんがです、先ほどこの日教組の初代の委員長が共産党に入党したということに関しまして、ペテンという言葉をあなた使われたと思う。これは私は取消して頂きたい。私は名前ははつきり言つていないが岩間正男君のことだと思いますが、私も岩間正男君にお会いする前には、岩間君は曾つて共産党員であつて日教組委員長をしておつたのかと思つて、私は会つたときに岩間君に言うたのです。ところが、いや、絶対にそうではなかつた自分日教組委員長をして国会に出て来る前には共産党員ではなかつた、だから自分国会に来て第一クラブに所属しておつたんだ、その後自分思想の変更によつて自分は共産党に人党したということを、当時の私にもはつきり言つておる。決して岩間君はペテン師ではない、ペテンをやつたんじやないということを私はこの際あなたにしつかり申し上げておきたいと思う。  それから先ほどのお話の中に共産党は国を破壊すると言いましたが、共産党は国を建設する党であります。決しで破壊する党ではありません。民族というものは革命によつて生成発展して行くものであつてその例は歴史を見たらよくお分り下さると思う、ソヴイエトソヴイエトの革命によつて破壊されたでありましようか、建設されて今や立派な国になつておる、中国は毛沢東の革命によつて破壊されたでしようか、曾つて腐敗した蒋介石政権は脱落して今日毛沢東政権が出て来て立派に生成発展しておる。私たち共産党は国家を建設する党で民族を生成発展するための党であるということをこの際私は申上げておきたいと存じます。
  42. 高田なほ子

    高田なほ子君 ちよつと岩間さんのことを私にも言わして下さい。
  43. 剱木亨弘

    ○理事(剱木亨弘君) 答弁が済んでからにして下さい。
  44. 高田なほ子

    高田なほ子君 そうかも知れませんけれども二、三分ですから、大変失礼でございますが、私は実は岩間さんとは共に教員組合が発足する当時からやつて参りました一人です。岩間さんは労働組合というものは政党じやないのだから、いろいろな者がいると当時私もはつきり申し上げた、可なり共産党のかたもおられたようでございます。組合の発足当時岩間さんは、諸君はそんなにわいわい騒いでもいかんから、労働組合というものはこういうものだから、諸君の思うように動けるものではない、まあ労働組合の正しいあり方はこういうものだということを強く主張して来られたかたでございます。私は別府大会のときに岩間さんが共産党に入られたということを伺つて、岩間さん共産党に入られたそうだが、つまらんじやないかと申上げたら、私は政治家として非常にこの問題については教員組合かたがたにも何かと又影響の及ぶ点もあると思うけれども、私は政治家としてこの途を行かなければならない、非常に悩み悩んで私は結論を出したのだとおつしやつてでありました、これは岩間さんはペテン師であるというお言葉は私は岩間さんのためにこれは非常にまずいのではないかと思いますので、一言申させて頂きたい。
  45. 御手洗辰雄

    公述人御手洗辰雄君) いろいろのお話がありましたが、第一の滋賀県における日記の問題でございましたね、お話の今お挙げになりました……、私は探して見ましたが、ここにありませんので私の記憶を辿つて申上げますと例えばお挙げになつたことは別にしまして、たしかアエバノに行く戦車の作文が幾つかあつたように記憶しております。作文をここに私持つておりませんからなんですが、読んでみますというと、これは一人の先生によつて親切に指導せられて作り上げられた文章であるということは文章全体の書き方から見ましても、用語から見ましても、内容から見ましても、ほぼこれは想像することができると思うのであります。かような見方が、これは平和に通ずる道をお教えになるのはいいのでありましようけれども、アメリカが憎いのである、これは戦争への道であるというようなことを、ただそれだけのことを以て導かれるというようなことが私は一つ偏向であるとこう思うのであります。    〔理事剱木亨弘君退席、委員長着席〕 これはたくさんのなにがありますが、記憶しておりませんから私の特に強い印象のものを一つ挙げて申上げて、さような偏つた考え方がどうもあちこちに見えるとこう思うのであります。  それからアメリカ一辺倒の教育のほうが実は多いのだという統計を以てのお話でありますが、そういうことは私も初めて伺つたのでありまするけれども、それも私はよろしいと申すのではないのであります。私は決してアメリカが平和勢力とも思つておりません。同時にソ連を以て平和勢力とも思つてはいないのでありまして、どちらも今日の国際情勢から見て、やはりいつでも戦争をするぞという身構えで戦争への準備をやつておる、こう私は見ております。その証拠は別に挙げるまでもなく、両国の予算の使い方なり、軍備のやり方なりを見れば明らかなんでありまして、何もアメリカを平和勢力ということが正しい教育と私は申すのではありません。さようなことの公正な事実の認定が、幾度も申しますように、非常にこれはむずかしいのでありますから、よく御研究になり、どういう方法でやつたらよろしいか、先ほどこちらからもお話がありましたが、どうすればいいかということになりますとなかなかこれはちよつとのことで、この席で短い時間に議論をしたところで結論の出るものではありません。さようなことはもつとこれは文部委員会などで御研究になつて、どうすれば公正な国際認識、こういうものが出て来るかということをお考えになるのが適当ではないか、私は私なりに先ほど申しましたように、簡単でありますが、そういう考えを持つております。従つてソ連戦争勢力、アメリカを平和勢力という教育がいいという意味では毛頭ないのであつて、同時に私はアメリカもソ連も平和勢力とは思つておらんのでありますから、さような偏つたことは言えないと、こう申すのであります。その次は……。
  46. 須藤五郎

    ○須藤五郎君 私が質問申上げたのはその二点です。それでもう一点それじやなお御手洗さんにお尋ねしますが、今戦車の作文の問題が出ましたが、不幸この文部省が出しました偏向事例の中にはそういう問題がないので、中国から帰つて来た子供の作文がこれに偏向事例として……
  47. 御手洗辰雄

    公述人御手洗辰雄君) あれは滋賀県じやなかつたですかね。(「日記ではないのです」と呼ぶ者あり)日記ではないが一通り読んだのでありますから……。
  48. 須藤五郎

    ○須藤五郎君 冬の旅という日記に出ている。それであなたに御参考までに伺つておきたいが、私達は今アメリカの軍事基地が日本にあることに対して反対をしているわけです。こういうことは好ましくない、あるべきでないという点で我々は軍事基地撤退を要求しておるわけでありますが、あなたのお考えは日本にアメリカの事事基地があることはどういうふうにお考えになつていらつしやいますか。
  49. 御手洗辰雄

    公述人御手洗辰雄君) 現状としていたしかたないと思います。現状としてはいたしかたがない、ただ好ましいことではないのでありますから、成るべく速かに帰つてもらいたい、併しそのこと一つ一つのことをとらえて、直ちにアメリカを戦争勢力ということにきめつけて、ただそれだけに集中して指導せられるというようなところに危険があるのではないか、こう思うのであります。
  50. 加賀山之雄

    ○加賀山之雄君 今日両先生からお教えを頂いて大変ありがたく存じます。関口先生に一点だけ承わりたいと思うのでありますが、先生はいろいろ新憲法下の自由についてお話を願いまして、その中で教員の自由は普通の公務員以上に自由を与えなければならないと思うというようなお言葉があつたように拝聴いたしましたが、勿論この学問研究であるとか、思想言論の自由ということは当然のことと思いますが、教育という事柄の性質からみて、私はこれは間違つていたらそこをお教え願いたいと思うのでありますが、一般公務員或いは地方公務員違つた、やはり別種の何か特に政治的な目的政治的行為については、何か教育の特性上制限なりがなければいけないじやないかというふうに考えるわけでございます。その点について公務員以上に自由を与えなければならないと言われましたが、趣旨は完全にフリーでいいんだという意味で言われたのか、或いは教員には教員独特の教職ということから見た、別種のやはり制限が要りはせんかというようにはお考えになつていらつしやらないか、その点を一つ承わりたい。
  51. 関口泰

    公述人関口泰君) 教育公務員特例法というようなものを作るとするならば、むしろ教育公務員は一般の公務員以上に政治に対して、政治機関に対して自由でなければなるまいと言つたのでございます。で、それは古めかしいことを言えば、例えば吉田総理にしても誰でも、新らしい時代を作るためには既成の、既存の社会よりも一歩を進むからして、むしろそういうふうなことが必要であるくらいのものだ、それを余りに刑罰を以て政治教育政治的活動を規制するのは却つて逆じやないか、というふうな言い廻しをしたわけです。
  52. 加賀山之雄

    ○加賀山之雄君 私が申上げたのは政治活動もございますが、教壇とか、教育自体というものは非常に、一般の公務員が行政権を発動するのと違つた意味での一つの強いインフルエンスを持つわけでございます。その教育自体について、何かやはり特別の制限は考えておかないと危険な場合が起りはせんか、又教育活動は最も重視され、選挙活動とか、政治活動は自由にされなければならんと言われましたが、これもやはり生徒とか、父兄とか、いろいろインフルエンスの範囲が、これは勿論一般公務員等とは違いますが、インフルエンスを持ち得るので、この意味からいつて、やはり政治活動そのものにも制限を全然考えないということは却つてそこに支障が起きはせんかというような気が……。
  53. 関口泰

    公述人関口泰君) 劔本さんのお話でもそうでありましたが、教育者政治活動に或る制限を置く、その線をどこへ置くかということがむしろ問題なんであろうと思います。それから教育者教育をする場合に、手放しに自由勝手なことが言えるというわけではないので、教育者自分責任において、殊に政治意見を教壇の上から述べることについては、十分自分政治意見を述べるものじやないというようなことも、あれはフランスの誰でしたかも言つているようで、それは教育者自身の、教育者としての責任から考えてそれは当然のことなんです。むしろそれを刑罰なんかで取締り、抑えないで、教育者の自覚に待つというのがいいんじやないか、それで今の御手洗さんも刑罰を以て脅かすのはいかんということについては私と御同感のわけなのであります。その点だろうと思います。
  54. 加賀山之雄

    ○加賀山之雄君 御手洗先生に伺いたいと思うのでございますが、先ほどいろいろ先生日教組の問題にお触れになつたのでございますが、日教組自体も行過ぎがあつたが、だんだんと落ち着いて来ておるようですというお話がございまして、併しこれは無論共産党のグループ等の執拗で、強列な働きかけがあるというお話を承わりましたが、私はそればかりでなく、この教員組合先生、特に若い人の行き方として、戦後非常に言論や行動に重圧があつて、これがとられたところに新らしい精神というか、気持が動いて来て、これは一つ時代の風潮と申しますか、古いものは何でもいかんのだというような傾向も出て来ておる。そういうところに全般的な、総括的な原因があつて、単に日教組考え方だけがそうなつておるのじやないというふうに思うのでございまして、その上にこれらのことがいわゆるいろいろの学者のかたがたの言論によつて、はつきりと支持されて、一層これで自信を得、ますます活発にそういう行動なり、言論が行われて行く、つまりそういう指導的な学者或いは評論家等の御意見が極めて有力にこの元になつていはしないかということを考えるわけであります。  なお御承知のように、この教員組合が労働組合として活動をいたします場合に、これは勿論国際的な只今ILOの関係にしているようでありますが、そういうところからの動きもこれはキヤツチして、それに歩調を合わして行かなければならないし、なお国内的には御承知のように総評というものの傘下にあつて、総評の行き方というものは、やはり日教組がこれと無関係に自主的に動くということも只今の事情ではできないんじやないか、かようにいろいろのことを考えるわけでございますが、そういうような点につきまして、日教組のみが自主的にどう考えようと、そういつた外からの或いは時代の風潮といつたものが強く作用しておるということについて如何ようにお考えになりますか、その点を一つ伺いたいと思います。
  55. 御手洗辰雄

    公述人御手洗辰雄君) 今のお話、しまいのところがちよつとよく聞きとれなかつたのですが、わかりました点だけ申上げます。  若い先生たちが大変に内部で過激な言動があるというようなお話であつたように思いますが、私が考えますことを申上げますと、私も先ほど申上げましたように、教育関係者の会合などに招かれまして、かなりの範囲に亘つて直接にいろいろな先生方と話合いをしたりする機会を持つております。会つてみますと、別に大したことはないのであります。それは中には幾人、幾十人か、幾百人かあることは事実でありましようが、大したことはないのでありまして、こういう過激な思想というものは私ども考えまするのに、昔からいつの時代でも大きな変革期における一つの流行病のようなものなんで、その流行病が起つたからといつて、直ちにその地域全体に対してこれは極端な手段をとるのだということは、私は生きた政治としてはどうかと思われるのであります。従つてかような流行病の起つておるものに対しては、でき得る限り寛容な気持を以て時を仮す、それによつて次第に鎮静するのを待ち、反省を待つというようなやり方が、真にこれは生きた政治ではないかと思います。かような考えからしまして、まあこの案には賛成をいたしますけれども、でき得るならば早くこれが廃止になるようなふうな事態に、国民も、教員先生方も、さような社会になるように努力をせられることを希望するのであります。  それから又外部の学者や評論家の議論が大変影響力を持つて危険であるというお話でありましたが、若しさような考えでこの法律をお作りになるということになりますと、これは私どもとしても自分自身が非常な危険を感ずるのでありまして、さようなことが対象になるだろうとは夢にも実は思つておらんのでありますが、それは冗談事ではないのでありまして、さようなことが、つまり組織的な行為に現われたものを何とか規制されるということが目的であろうと思うのであります。そういう限定された意味において私もやむを得ずこれは賛成をするという意味でありますから、どうぞ一つお考え違いのないようにお願いいたします。
  56. 高橋衛

    ○高橋衛君 御手洗先生に一点。田中君から御質問申上げた刑罰法規に関する問題についてお尋ねをいたします。  御承知のように先ほど詳細に御説明がございましたように、高知の例えば教研大会の第八分科会におけるところの決議、これも共産グループの強力な働きかけによつてああいうことが行われたということが言われておるのであります。又教職員組合においてもその中心をなすものは殆んど大部分が専従者であつて、言い換えれば学校教職員としては休職になつた……「(休職にはなつておらんよ」と呼ぶ者あり)休職になつておるところの専従者が殆んど中心になつておると私は認識しております。普通国家公務員においても現業の職員組合或いは労働組合において、その中心をなしておるのは殆んど専従者であります。専従者はすべて休職の扱いを受けております。従つてその職務の上から監督するということは、これは到底困難である。どうしても行政罰と申しますか、公務員又は教育公務員としての監督の限界を超えて、別途の法規に基いてそれを監督し、取締らなければいかんという問題になると思うのでありますが、その点勿論相当に御研究のあるところだとは思いますが、事実は、私どもは取締られるところの対象は殆んど教職員以外の者である。少くとも教職員を、休職になつておる者が普通であるというふうに考えておるのであります。従つて行政罰というようなことになりますと、この法律の実際の対象をなくするということになりはしないかというふうに考えるのでありますが……。(「休職になつておらない、現職だよ。」と呼ぶ者あり)
  57. 御手洗辰雄

    公述人御手洗辰雄君) 今のお話の現職であるか休職であるか、私はそういうことを存じませんから、どつちとも申上げかねますが、今こちらから現職であるというようなお声がありましたが、仮に休職になつておるといたしましても、それならばやはり教員の地位にないところの者でございまして、れを若し行政罰を以て排除するということになれば、事実問題としては解決するのではないかと思います。  繰返して申しますが、何といたしましても、学校先生がその教壇における活動を通じてやる教育活動そのものを刑事罰の対象とすることは、これは国民常識が納得しかねるのではないかと私はどうしてもその点考えられるのであります。
  58. 高橋衛

    ○高橋衛君 教育活動そのものではないのでありまして、教職員組織する団体を通じて教唆、扇動するという行為そのものが刑罰法規の対象になつておるのであります。又現実の問題としては休職になつておらない場合におきましても、少くともそのポストを離れて組合の中心にあるところに所在して活動しておる教職員という立場での取締りは先ずできにくいと私は考えます。
  59. 御手洗辰雄

    公述人御手洗辰雄君) 教唆、扇動が処罰の対象というお話でございますが、教唆、扇動しただけでは何にもならないので、その結果が行為に現われるだろうと思うのであります。従つてどうもお話の点、ちよつと私には了承いたしかねます。
  60. 川村松助

    委員長川村松助君) それでは休憩をいたします。    午後零時五十九分休憩    —————・—————    午後二時十五分開会
  61. 川村松助

    委員長川村松助君) 只今から再開いたします。  開会に当りまして公述人の各位に文部委員一同を代表して一言御挨拶を申上げます。当委員会只今義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案の両法案審議中でありますが、この法案重要性に鑑みまして公聴会を開き、先生がたの御意見を拝聴いたしまして審議の参考に資することとなりました、本日各位の御出席をお願い申上げましたところ、御多忙中にもかかわらず御出席を頂きまして誠に有難く厚く御礼申上げます。  只今から御意見を拝聴させて頂くのでございますが、御発言の時間につきましては別に制限はございません、何とぞそれぞれのお立場から腹蔵なき御意見の御開陳をお願いいたします。  文部委員の各位にお願いいたしますが、公述べの各位に対する御質疑は公述人の各位の御意見開陳が終了しましてからお願い申上げることとし、討論に亘らないように特にお願い申上げます。  それでは只今から御意見の御発表を願います。先ず海後先生からお願いをいたします。
  62. 海後宗臣

    公述人(海後宗臣君) 私は教育学の研究をいたしておるものでありますが、その立場からこの二つ教育法案の成立することに対しては反対の意見を持つております。と申上げますが、私は特に政党政治団体或いは現にここにおいて問題になつておると称せらておりますところの日本職員組合とは何ら特殊の関係を持つておりません。  先ず初めにお尋ねになつております義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案、これについて申上げます。  この法案提出の理由は、「義務教育学校における教育を党派的勢力の不当な影響又は支配から守り、もつて義務教育政治的中立確保するとともに、これに従事する教育、職員の自主性を擁護する必要がある。」というふうに理由が書かれてあります。これはこの法律案の第一条、目的という部分と大体同文であります。従つてこの理由及び目的教育基本法第八条、特にその第二項と深い関係があると私は解釈いたします。大体を申しますと、第八条の二項がほかの条項、特に第九条、第十条、これは宗教教育及び教育行政でありますが、と比較いたしまして、このままに放置してあつては、政治的中立確保できない事態になつているという判断がされたから、特にこの第八条の問題について法案が用意されておるものと見ます。若しそのような事態が発生していないならば、ほかの基本法の条項と同じように特別な確保法律を必要とはいたしません。殊に罰則を伴うような法律を作る必要はないと言わなくちやならんと思います。例えば宗教教育に関する条項であつても、これと大体同じような様式を持つております。若し学校が特定の宗教に関する教育を行うようなことがあります場合には、或いはこれを採上げて、これを処罰の対象とするというようなこともこれと同じようにでき得ないことはないと思います。或いは教育行政が不当な力の支配によつて非常な偏つた教育を行うというようなことが第十条の基本法の原則に反して行われました場合には、それを処罰の対象にするということも又起り得ることであります。ところがそういうものについては別にこのたびは法案が用意されておりませんで、第八条の、特に第二項、この点についてだけ法案が用意されておりますので、私はこのように第八条の事態が特に何か問題になつておるというように見なければならんと思うのであります。そういたしますと、この法案が用意されて来た事情を考えまして、この法律によつて政治的中立性確保しなければならないような事情が特に全国義務教育学校内に起つておるかどうかというこのことが先ず何をおいても一番根本になることであります。私は教育に関する研究の必要から全国の小、中学校を相当に広く訪問をいたしておりますし又教職員の団体或いは教職員個人と話合いましたり或いはそこにおいて書かれております教職員の執筆しましたものなどを読む機会を割合に多く持つておる、そういう部面の教育研究をしておる一人であります。従つて私がこういう教育研究を主としてしております関係から、全国の諸学校の状況を見まして、現在この法律が必要とされるような事態は母起つていないと私は判定をいたします。新聞紙上によりますというと、いわゆる偏向事例なるものが全国から二十数個挙げられたということが報せられております。これが現下の義務教育学校における危険な状態を判断する材料となるというようなことでありますならば、これには相当問題があると私は考えます。義務教育を実施しておりますところの学校は、申上げるまでもなく全国に約四万、而もここに挙げられましたところの事例なるものも、新聞紙上によつて見ますと、それらの多くは学校全体に関することでなくして、その中の一教員一つの教室内においてこういうことがあつたということなどのようでありますが、若しそういう点を考えますと、義務教育の仕事に従事しておりますところの教員は、全国小、中学校合せて約五十万、その中に二十余のそういうケースがあつたということ、或いは若し学級ということにいたしますならば、全国の学級数は三十七万六千の学級を持つておりますが、その三十七万六千の学級の中において二十幾つかの事例が発生した、こういうことであります。若しこのパーセントを取りますならば、〇・〇一或いは幾ら多くても〇・〇五%に限られることであります。或いはこれに類することが数万あるというようなことを若し予想してありますならば、そういう事例が挙げられなければならんと思いますが、私は全開の学校を相当に広く見ておりますけれども、そういう事例をたくさんに挙げるということは恐らく不可能に属すると思いまするので、こういう事情から、現在はこの政治的中立に関する法律を特に用意しなければならんような事態全国の小中学校の中に起つておるとは私は判定いたしません。  次に政治的中立性の故に禁止される活動の実態は、この案の第三条に書かれてあります「義務教育学校に勤務する教育職員に対し、これらの者が、義務教育学校の児童又は生徒に対して、特定の政党等を支持させ、又はこれに反対させる教育を行うことを教唆し、又はせん動してはならない。」ということであります。衆議院における修正は「反対させるための」という言葉が入つたようであります。この「ための」の解釈は第三項がなくなつたためであると私は推測いたしております。まあかように一般には説明されております。併し第二項がございますので、第二項のほうを見ますと、第二項には「特定の政党等を支持し、又はこれに反対するに至らしめるに足りる教育」こういうことが問題になる教育の実態を表わす言葉としてこの法案の中に出ております。この第三条の第一項或いは第二項のほう、両方とも極めて不明確な教育の実践を対象にしておりまして、その不明確な教育の実践の対象をもとにして処罰の根拠が発生して来る、こういうことになります。そういうふうな事情でありますことは、教育の実践を採上げてこれに処罰の対象を決定する根拠を求めるということが、これが非常にむずかしいということであるのでありますけれども、併しそういうむずかしいことに対して、ここでそれを採上げて処罰の根拠を作ろうとする、こういうことになります。而も不明確であるということは、甚だしい拡大解釈がこれから恐れられるということは、従来の我が国におけるかくのごとき不明確な、特に人間の思想及び行動の全般的な性格に関する判定の問題として出て来ておることでありますから、拡大解釈がされる虞れなしとしないということは、やはり言わなければなりません。どうして判定が困難かと申しますと、これは教育ということの性格から来ています。教育と申しますことは申上げるまでもなく義務教育の小中学校において教師が生徒に対してさまざまな学習指導を行いますが、それは常に変化いたします。そうして如何なる予測の下にどういう実態が成立するかということは、実はその場にならなければわからないということが学校における教育の実態であります。又人間を造くる働きというのは、外部から見ては見えないところにいろいろな働きがあるのです。そのことが教育の本質であります。こういうふうに、こういう点につきましては人間を望ましく育成しようとする極めて複雑なことを、処罰の成立に対する対象の根拠として求めてあるのでありまして、このことが問題となります。併し私はそれが不明確であるということの故に、これを問題とするということにとどまりませんで、およそ教育の実践形態、現に現われておりますところの教育の実態を採上げて、これを処罰の根拠にするというようなことが起ることは、教育の正しい発展のために決してあり得べからざることであると私は考えます。教育は常に人間を立派に育てようと考えておるのでありまして、その立派な人間を育てることについては人によつて多少考えが違うかも知れませんが、併しおよそ人に善意を持ち愛情を持つて働きかけようとするものが処罰の対象になるというようなことでは、これは国家の将来が正しく教育によつて担われることはできないと私は考えます。従つて教育ということは、処罰の対象を発生させるような根拠にはならないようにあるべきだと、又そうすることは不可能でないと私は考えます。若し教育の実践を捉えて処罰の根拠にするというようなことが各所において行われますならば、国民教育は破壊されるというように考えております。教育ということの性格そのものからしてやられておるところの教育は、常に処罰を発生させるところの根拠にするということを思わせるような、そういうことが起るということは、この法案の非常に重大な問題点であります。なお、教育の持つておる性格からいたしまして、教育は社会生活上の事象に触れないでは行われないのであります、ただこれは消極的に政治意味を持つた問題に触れるという問題ばかりではありません。積極的に学校の教師は子供に対して政治的な教養、即ち政治教育を積極的にしなければならない任務を持つておるのであります。その際に、教育指導する内容が特定の政党を支持し、或いは反対させるための教育であるかないかというようなことを考えておるというのでは教育指導はできません。そのゆえにこそ教育中立性は守られなければならんというふうに、各国ともこの問題のために熱心に努めておるわけであります。でありますから、若し教えなければならん内容が或る政党を支持するようになるか、反対するようになるかということを教育者が一々気にして言葉遣いを考え、態度を改めなければならんということがありますならば、正しく教えなければならない教材も、こういう政治的考慮に関係があるという点からして、それも又教えられないようになつて来る。これは教育にとつて非常に重大なことであります。私はこの点について私が実際に教職員との話合いによつて得て来ておる具体的な材料によつて申上げます。これは架空に構想したことではありません。私がこの法律案が問題になりましてから後数カ月間において、各所において取つて来ておるところの材料であります。それによつて申上げます。  例えば、最もたびたび私が触れて参りましたことは、平和教育ということです。平和教育子供に対してすると政治的偏向があるというふうに認められますが、先生平和教育は如何いたしたらいいでしようか。こういうことが現に各所において尋ねられております。これは甚だしい教育の誤まりであります。そのごとき質問を発せさせるような事態にあるから仕方ありませんけれども、そういうことを問題にするということでは教育はできません。どこの国に行きましても、平和が世の中に招来されるということのために挙げて努力をしております。子供に対しては平和であるということを重大な教材にして皆教えております。それは各国の教材をとつてみて明晰であります。従つて私は平和について教えること関して教員が消極的になつたり、気兼をしたりするというようなことが現にこの法案が用意されたということの故に全国に起つておる事実を非常に私はたくさん聞いております。これは現に、人から聞いたのでない。私が教員と直接の話合いによつてつて来ております。  次には戦争の教材の扱い方です。子供戦争はどう考えるか、こういうふうに、例えば中学校の生徒などは尋ねて参ります。その場合に、戦争は何と教えるか。戦争は悪いと教える。これは当然なことであります。世界どこの国の教材においても戦争は望ましいことでないと教えられております。若し我が国の学校戦争は悪いことであるということを教えるのが何かの政党に偏る。或いは離れてその政治的勢力を減退させるというような考慮の下にこれに対して教職員が控え目になるならば、非常な恐るべきことであります。  或いはもつと単純なことになりますというと、農地の交換分合について、子供に何と答えたらいいかということをこの間尋ねられました。私は日本の農業生産を合理化する意味において耕地整理及び農地の交換分合ということは国の農業方針としてとられていることだから、そのことは教えなくちやならない。こういうふうに私は教員に対して申しました。併し教員は交換分合というということを教えて、余り強くこれは大事だと言うと或る政党に近寄つたという判断を受けるから、自分はこういうことは教えられなくなる。農地は混乱していてもよろしい、或いは畦道は幾ら曲つていても構わん。構わんということは言わんにしても、そういうことは成るべく言わんようにする、先生はわからないから。現にそういう問題を出しております。  或いは贈収賄の問題について子供に聞かれたときは自分は答えようがなくて困るということでありますから、何と尋ねられたかと聞きますと、中学校の生徒は、これは社会科の教官でありますが、この教官に、贈収賄ということが世の中に、新聞に毎日出ておりますけれども、あれは先生はどう考えますか。こういうふうに聞かれたときに、先生は、あれは悪いと言うと政治的偏向が起るから悪いとは言えない。そういうふうにその先生が現に私に言つたのであります。(笑声)そういうふうに笑わなくちやならんようなことが起つております。  それからビキニの灰についてもそうでございますが、ビキニの灰によつて障害が起つたということを余り強く言うと或る政党に近寄つて来る、或いはこういうことを言わないようにすることは別の方向に近寄つて来る、それじや先生は仕方がないから知らないと、これはつい先日ビキニの灰の扱いについて先生に尋ねられました。私は如何にビキニの灰が日本人にとつて重大な衝撃を与えているか、或いは又これが人道上どういう問題になるかということを答えなくちやならない。あなたは直ちに答えなくちやならないと言いました。そういうことは実際に私がとつて来たことでありますが、これらのことが現に私に対して尋ねられているということであります。このようになりましたならば、およそ教育というものは社会事象に従つて現に政治的問題になつているいろいろなことに関係して来ますけれども、それをいろいろ予測してあつちに行つたらこうなる、こつちにこう行つたらこうなるというふうに考えて、処罰の対象になるようなことが法律的に、義務教育の小中学校から発生しないようにという教員が努力いたしますならば教員は仕事ができなくなつてしまうのであります。こういう事情が現にあるのです。この法案がすでに用意されたということのゆえにかくのごときことになつておりまするから、若しこの法案が通過いたしまして成立いたしましたならば、更に重大な思惑が教育界に起つて来て、私は日本教育界は微妙な教育上の機能の支障を起す、こういうように考えております。  次にこの法案の成立後について私が考えておりますることは、こういうふうな政治に関する教育が行われたかどうかということが処罰の発生して来る根拠になつておりますから、その事実があつたということを立証しなかつたならばこれを発動させることはできません。そのためには小中学校の毎日の教育の実践が常に処罰を発生させるかも知れないという可能性を持つたものであるとして監視を受けている、こういうようなことになります。或いはまあこういうことはないかも知れませんけれども、そういう事実がありと誰かが解釈して、そうしてこれを通報する者がある。場合によつては捜査の必要上学校に捜査の仕事が入つて来るというようなことが起つて来るに違いないと今までのいろいろの事柄から推測いたします。そういたしますとこういうふうな状況下においてはおよそ教育という名前に当るようなことは到底実践することはできません。それは処罰の可能性があるかも知れんというような予想、思惑を持つて教育を小中学校において行うということは、あり得べからざることです。そういうことができて来るようになる可能性がありますから、その意味において私はこれはよろしくないと思うのであります。そういうふうになりますというと、こういう事態の結果からして小中学校の教師は教育に対していろんな圧迫を感じますから、そこから豊かな教育活動を展開させるということができなくなつて来ます。そして国民教育を通しての積極的な力というものを喪失するようになります。その結果日本の将来に与える禍いというものはこれは目に見えないところで測り知るべからざるものがあると私は考えております。現にそういう教師の消極性或いは不当な予測をしてそして脅えておるというその事態は、これ又この数カ月間において私は各所においてこの様子を見て来ております。現に私が話合つた人々の間にそういう実際の経験を持つております。例えばこれは或る場所において起つたことでありますけれども、一つの県内の教育の優秀な指導的役割を果すような立派なかたが集りまして、ところがその席で話をいたし、最初は私はその人だけで話をすることになつておりましたが、県の教育委員会指導課のかたと、それから県の教育委員のかた、それからPTAの代表のかたと、そういうかたがこの話合いに参加がしたいということになりまして、私は別に差支えありませんから、どうぞお聞き下さいというので傍聴ということになりましたが、この教員は私との話合いを殊更に回避いたします。そうして当然答えてよいことに対しても答えを回避いたします。そして何か調子の合わんことばかり言つております。私は話が成り立ちませんから暫くして打切りまして、今度は別室に行きましてその教員だけで話をいたしましたところが、まるで別人のような話し振りになりました。私はその甚だしい対蹠振りを見まして、それは一体どういうことなのか、なぜあなたはさつきそういうように話をしないのか、今言つているようになぜ言わないのかと言うと、もうああいうことは教育委員なり指導課なりPTAの代表のかたのおるところでは言えない。若し言うならば自分はその言つたことを材料にしてあの教員はこうだというようなことを推定されるから言わないのだと、こう申しております。現にこれは私が或る県において経験して来たことであります。そのごとくに消極的になり、そうして非常な圧迫を感じております。これは教育の実践の場面における問題を申しました。  それで引続いて簡単に教育学の研究に関する問題を申上げます。この法案の第三条に「何人も、教育を利用し、特定の政党その他の政治的団体の政治的勢力の伸長又は減退に資する目的をもつて学校教育法に規定する学校の職員を主たる構成員とする団体の組織又は活動を利用し、」云々というふうにありますが、このことが厳密に適用されて参りますならば、教育学その他の社会科学、文化科学の自由な研究はそこなわれることになると思います。と申しますのは私などは随分教員の団体などには接触しております。これは日本の例えば教員の全部が日本職員組合に入つておるのですから、そこに行きまして教員に会いますと、その人は組合員でありますから、私が今まで話をしに参りました所は何県の日教組の支部でありますかどうかは知りませんが、何とかという形になつております。或いは何県の教職員組合文化部という所に行きます。そこで私は教育の問題、或いは教材の考え方そういうことについて話をいたしたりいたしますと、それが若しここに書いてあるようなことに当りますと、我々は何人もということに該当します。実はよくわかりませんけれども、これだけ読んで見ますと、私どもは一カ月のうちにそういう形態に会うことが少くとも十回ではきかないと思います。相当いたしております。そういうことが若し行われて参りまして私が教員の団体に対して話をしたために、その人たち学校で実践した教育が処罰されるようなことになつた場合、誰からあなたがたはそういうことを聞いたかということになりますから、最後は私が処罰されることになります。そういうふうになりますというと、学問思想の自由は甚だしくこのことによつて侵されることになるのでありまして、我々は教育学の研究をいたしましてこれを進めて参りますのに常にこの法律のあることを頭に入れて置かなければなりません。併し今日は教育学の研究が教育実践者と非常に深い結び付を持つております。我々は単に書斎の中において勉強しておるのではございません。現に教育の実践場面に出ましてこういうことを行わせれば結果はどうなるか、そういうことを見届けまして、又現に行われておる教育の実践が我々の理論にかなつていないものがあるならば、それはいけないからやり直せということを我々が要求いたします。これは教育学を担当いたしておりまする我々として当然の任務でありますからいたします。若しそういうことをいたしました場合に、そのことがこのことに関係いたしますというと、我々は実践者と結び付いた研究というものはできなくなつて参ります。現に平和教育についても平和の考え方子供たちに植え付けるにはどうしたらいいかということを研究しております。それが日本の小中学校において生徒にどういうふうな方法で行うか、或いは今日戦争放棄ということについて、戦争ということは、こういう憲法がなくても戦争は悪いことであるから戦争は悪いことだということを、子供たちの頭に小さいときから如何にして戦争回避ということを教えるかということの方法を我々研究しております。我々は書斎だけの研究では仕方がない。我々は教職員にその方法を伝授いたしまして、それをやつてみた結果、どうであるか、戦争を本当にやらないような子供ができておるかできていないかということを確かめます。できていないならば方法が悪いのであるから、どういう方法に変えたらいいかということを我々は研究してやております。これは我々の職務でありますから、それを実践いたしております。そういうふうにやりましたことが若し教唆扇動に当るということになりますならば、我々は教育学の研究はできなくなつて参りますから、これは容易ならんことだと思つております、多分ならないと思いますが。政府委員のこの法案に対する説明を見ますと、学者が意見を述べたり研究の発表をすることは自由だというようなことが説明文にあります。これは言を要せんことであります。特にこういう説明を要するということが私はおかしいと思う。日本において学者が意見を発表し、そして研究の結果を公表することがどうして断わらなければならんのか、そういうことは許されるとなぜ言わなければならんのか、こういうことはないと思います。これは現在の世相を表わしております。私は学問思想の自由のためにこういう説明文が出て来るということがそもそも日本の事情を現わしておると思う。でありますから、我々は教育学の研究ができなく窒息するようなことになる、そういう虞れもあります。その故にこれは非常に困つた法案だと思います。以上のように私は考えまして、最初にお尋ねになつております政治的中立確保に関する法案は甚しく有害である、不必要であるばかりでなく優しく有害である、こういうふうに考えております。従つてこの第一の法律案は成立しないように御研究を頂きたいと思います。  次に第二の法案について申上げます。第二の法案教育公務員特例法の一部を改正する法律案でありますか、これは内容は非常に簡単明確でありまして、国立学校教育公務員の例によることとする必要があると、こういう必要があると書かれてあります。国立学校教育公務員政治的活動の制限を受けること、そういうことは成るほど規定されておりまするが、そういうことが行われることは適切でないと私は考えております。これはほかの公務員教育に携わるところの国立学校教育公務員は非常に性格が違いますから、そういうことが行われることは適切でないと考えております。でありますから政治的活動については教育公務員に対しては甚だしい制限を加えないで、成るべくこれに制限を加えないように努力するということが必要であると思います。そのことについてはこの教育公務員政治活動の禁止のそれぞれの条項がありますが、あの条項に対して教育者としてかくのごときことが制限さるべきかどうかということについて批判を今日加えられて来ております。私はこういう批判も出ておりますからそういう方向へ向つてこの国立学校教育公務員政治制限に関するあの法律もそういうことがはずされるように法律を改正して頂きたいと思うのです。で、この国立学校教育公務員政治活動禁止のことがああいうふうに出ました際に、聞くところによりますというと、こういうことが国立学校教育公務員に対してなされては困るという意見が主として大学側から出たと思います。これは大学ばかりでありませんが、一般の教育職員がそうであつては困るという、そういう意見が出されたそうであります。それであの中から教育公務員をはずして欲しい、ああいう厳しい制限をすることははずして欲しいということ、併しそれは、はずせないという何か事情があつたそうでありまして、それでその結果厳しい適用はしないという了解が成つたというふうに私は伝え聞いておるのでありまして、これは至当なことだと私は考えております。従つて今日までそのような慣行が行われていないと私は解釈いたします。例えば政府の実施しようとする政策についてこれを批判するということは、これはいけないことになつておりますけれども、併し我々が現に文部省がやろうとしておることに対しても批判を必要に応じて加えます。批判する必要がないことは加えませんけれども、批判する必要のあることは加えます。私は余り議会或いは文部省その他に対して政治的行動に該当するというようなことは余りしたことはございません。昨年社会科の問題が起りました際に社会科が不当な取扱いを受けると、私は社会科の持つておる性格学問的に研究しております立場から考えまして、そんな変なことは、社会科に対して予測されておるような変なことは起らんようにして欲しいということを言つて文部省のとつておる政策に対して批判的な見解を述べました。述べましてからあとに文部大臣に対してこの意見を陳述し、こういうことが行われないように、そういうような政治的な意思の表わし方をして欲しいという御要望が各所にありまして、私はそういう意味において大臣に面会をしたことはありませんけれども、面会いたしまして申しました。併し別にそれからあとまだ政治活動禁止の条項にこれは抵触したというお話は何も聞いておりませんから、多分あれは許されたのだと思います。そのうちあるかも知れませんが、今のところはありません。そのほかたくさんいろいろございますけれども、国立学校教職員がこの政治制限の厳重に隅から隅まで受けることは、現に慣行上はありませんです。私はそういうふうに判定いたします。でありますから、これに倣うというのは何に倣うのか、私はその少くとも若しこういうことが出るならばその慣行に倣うということか或いは我々はこういうものがなくなつて欲しいと考えますから、こういう倣うというようなことはこの際法律できめられんほうがよろしいと思います。併し私はそういうふうにここで考えをまとめて申しますけれども、それは一体どういうところから来ておるかと申しますと、政治活動が甚だしく制限を受けますというと、教員政治についての正しい理解が持てなくなつて来ます。そうしますというと政治に関してどのような教育子供に与えたらいいかということもだんだん明らかでなくなつて来ます。一市民としての政治的な感覚を持たない教員には到底子供政治教育は託することはできません。従つて私は義務教育の内におけるところの教員政治的に力のないものに去勢してしまうという結果になつて来る。第二の法案については今後の正しい政治教育のためにこういうものは成立してはいけないと思うのです。どこの国におきましても一教員が一市民として許されておるそういう政治活動に対しては制限を与えてない。学校の内において或る政党を是とし否とするということは、これは教育基本法は至当だと考えますから、教育基本法にきめてある通りに行かなければならないと思いますが、町に出た一市民としての教員政治活動が甚だしく拘束されて来るというようなことが起りますならば、これは政治的な考え方教員にできなくなりますから、そういう教員子供を頼んでおきましたならば、子供政治的感覚はできなくなりますから、それでは将来の政治は暗黒になりますから、これは容易ならんことだと思います。教員は一市民として許された、教員たるところの性格に恥じない限りの政治活動は全面的に許されている、その政治活動の如何なるものであるかということは、どれをとるかということの判定は教育者の良識に今日待つて何ら心配はないと考えております。なお教員政治活動という問題をもつと具体的に申しますというと、例えば文部省のやろうとすることに対して教員がそれを賛成しない、そういう場合に、政治的な活動を教員がする、して文部省教育政策と日本教員が対立をするというようなことも起つております。併しこれは非常に悲しむべきことだと私は考えます。文部省教員教育の実践に対して最高の奉仕をしなければならない、こういうものと考えますから、その教員政治的活動の制限を争うというようなことが起つている、これでは到底正しい教育はそれでは行えないと思います。併し大よそ対立抗争というものは両方でありまして、一方ではありません。一方では対立抗争になりません、両方であります。従つて私は今日、教員の闘争、政治的運動に関する闘争の方式を批判を加えなくてはならんことは、これは教員の良識に訴えて批判を要求いたしますけれども、併しそれは教員に対してばかりでなく、文部省教員に対して最高のサービスをしようとする、そういうふうな雰囲気を持つているかどうかということも今日反省を要することだと考えております。その事実は非常に明瞭でありまして、今日この問題になつておりますところの二法案のことについてそのことを考えれば、正しく立証されておると思います。今日教員或いは父兄或いはそれは全部でないかも知れません。父兄或いは小中学校長、小学校長の団体、中学校長の団体、が全部揃つてこの法案に反対しております。そうして考え直して頂きたいというふうに求めております。その求めている声がかくのごとくに聞えておりますのに、この声を如何にして採上げ、どのような考えを持つているかということに対して積極的にこれに奉仕しようとするような雰囲気が今日日本にないということは、これは非常に悲しむべきことであります。そういう対立的な気持を以ては教育の自主性も何もない。いわゆる全体の指導、助言をし、正しき日本教育が成長するようにという働きを表わさなければならん文部省が、こういうふうな政治的活動の制限において鎬を削るというようなことでは教育はよくならんことと思います。従つて、こういう対立抗争を早速に解消しなければならんと私は考えておりますけれども、現状は決してそうではありません。若しこの法案が成立いたしますならば、ますます対立抗争は激化するに違いないと思います。そうして日本の文教は決して立派に育つことはできないようなものになつてしまう、私はこの法案成立後の状況を見通しております。私は具体的なことを申しますけれども、日教組文部省が対立している、そういうことではいかんことです。これは両方から責めなければいけません。従つて文部大臣を初めとして文部省内においてさまざまな文教行政に携つているかたは進んで一橋の教育会館を少くとも一週間のうちに数回は訪れ、又教職員も平明な気持で以て文部省内を訪れて、お互いに日本教育のために話合おうという、そういう雰囲気ができなければいけないと思います。私はそういうものができて欲しいと考えておるのでありますけれども、今日はそういうこととまるで反対の態度が両方においてとられておるということは、これは両者とも反省を要します。そういうことを激化するようなことは、この国立学校教員並みに扱うということを今日の慣行を無視して厳密にいたしますならば、ますますこれは激化すると考えますから私はこれに対して反対であります。若し坊間においていわれておりまするごとく、この第二番目の法案選挙の際における対策であるというようなことであるならば、これは甚だしくよろしくないことであると考えます。例えば教員選挙運動をし過ぎる、或いは教員から出て来たものが議員になつて出て来るということではよくないというような考え方がどこかにある、そういうことを予想されて、そうして国立学校教員並みに五十万の教職員政治活動をこれによつて厳重に縛ろうというようなことでありまするならば、これは更に憂慮すべきことだと私は考えておるのでありますが、これは坊間にいわれておることでありまして、そういうことはないと思います。教員組合から議員が出ても悪いことはないです。たくさんになつたからいけないということもないと私は考えております。ですから、私は教員政治性を持つた行動によつて選挙の際に障害が起るというその障害の実体というものが、若しそういうことがありとすれば、何であるかということを突き止めないといけないと思います。実はこのことは裏に隠れておるようでありまして、この中の説明にも何にも書いてありませんが、坊間伝えておるところによりますと、そういうことを申しておる人もありますので……。  こういうことを考えてみると、この二つ法律案はこれらが成立することによつて政治的中立性という名前に実はかりて民主的な教育のあり方が甚だしく阻害される虞れがあるというふうにこの両案とも私は考えておりますから、そういう意味において、日本の民主的教育を成長させたいという私の考え方からこれに対して反対をいたします。両法案とも成立をしないように参議院の文部委員の皆さんに大いに努力して頂きたいと、私の意見を申述べたあとに附加えます。   —————————————
  63. 川村松助

    委員長川村松助君) 次は高山先生にお願いいたします。
  64. 高山岩男

    公述人(高山岩男君) 私は法律の専門でもございませんが、教育中立性という問題について少しく意見を申上げます。  教育中立性と申しますものは、民主的な政党政治というものにとつては、或いは近代教育というものにとつては大前提になつているものだと思います。でありますから、若し本当に民主的な政治教育が行われておりまするならば、こういうことが法案となつて現われ出るということは実は悲惨な事実だと考えますけれども、今日やはり教育中立性というものが問題になるには、国内的に又歴史的に相当の理由があるという工合に私は考えております。なぜそういう理由が今日あるかと申しまするならば、実は教育中立性を阻害する、妨害する力が教育の内部及び外部の双方から加わつて来ているからでございます。で、今教育中立性、政治的中立性を阻害する力を分類いたしますると、私は三つあるように存じます。  一つは教師自身が全くの個人的な立場においては必ずしも政党というものに中立的ではない、特定の政党に関心を持つている、こういう現実的な理由であります。  それから第二は政党政治そのものが必ずしも教育中立性というものを名実ともに保障はしていない、党派性を惹起するという事情がときどき起きる、こういう政治的な事情であります。  第三はこれが非常に今日重要なものだと思いますが、民主主義がいわゆる人民民主主義と、それから自由民主主義との双方に分れて、これが国内でも、更に国際的にもいわゆる冷たい戦争、冷戦というような状態に遺憾ながら今日ありまして、教育そのものを意図的に政治化する、こういう傾向が世界を通じて現われて来ている、こういう現代特有の歴史的な、世界史的な事情があると思います。つまりこの三つがやはり今日教育政治的中立性というものを深刻な問題にして来る理由だと私は考えております。この三つの理由について順次少しく申上げてみます。  教員教員であると同時に国民の一員でありますから、政治的関心を持つというのはこれは申すまでもなく当然のことであります。むしろ政治的に無関心であるということは教員としては甚だ芳ばしくないことだと申していいわけであります。ですけれども教育作用というものが一党一派に偏向しないいわゆる不偏不党の中立性を保つということは、言い換えまするならば政党の制約から自由であるということは、これは当然のことなのであります。若し我々が教員として政党の制約の下に立ちまするならば、端的に申してナチス的な教育或いはソ連的な教育、近い例ならば実は戦前の教学局的教育、そういうものにならざるを得ないわけであります。少しく誇張していえば、おのずから全体主義的な教育という方向に走つて、民主性は失われるわけであります。そこで実は非常に困難な問題が発生して来るのであります。即ち教育作用そのものは政治政党性から中立でなければならん、自由でなければならん。併し教員自身は政治的関心を持たねばならん、これを如何に教育の場において調合するか、統一するか、これが教員に課せられた大きな課題であるわけであります。ではどうしてこれができるか、こういう問題をよく考えてみますると、これはできるのであります。つまり政党政治の党派性という政治的関心をいわば括弧の中に括り入れる、そうして教壇の上では中性化する、ニユートラライズする、こういうことが行われることによつて初めて教育作用の政治的中立性が行われるわけであります。これは封建教育と違いまして近代教育のいわば必須条件、必要条件というものになるわけであります。なお教壇において括弧の中に入れる、そうして中性化するというのは、あえて政治上の党派的な関心には限らないのでありまして、例えば経済的な関心とか或いは依恬贔屓とか、或いは特定の子供に対する愛憎好悪というふうな情念も又、やはり教育の場においては括弧の中に入れて中性化しなければ、教育は本当に成り立たないのであります。そこにやはり我々の倫理であります公平ということが当然入つて来るわけでありまして、そういう意味では教育作用の根源には倫理性があると申してもいいのであります。ただそういたしますと、前に言うような括弧の中に入れて中性化するということが一体できるのか、こういう問題が出て参りますが、これは現実に成立つております。どうしても成立たん、非常に何と申しますか、遠い実行困難なものではないのでありまして、現に従来も教育というものが存続して来た以上、少しく大袈裟に申しますならば、人類の社会が発生して以来、教育作用というものはあるのでありまするからして、それが成立つているには何らかの形でこういうものは可能であつたわけであります。模範的な教員においてこれが成立つていたのも事実でありましようし、たとえそれが困難であつてもこれができるという確信の上に立たないのでは、これは教育作用というものは本当は行われ得ないわけであります。どうしても括弧の中に入れるという中性化の作用ができないというならば、この人は教員としては不適格であると申すよりほかない。無論これは教員として不的確なんであつて、決して政治家として不的確というのでも何でもありません。ただ教育家としては、教師としては不適格である、こう私は考えます。で、この作用が、教育作用というものが成立ちます更に別の例を挙げますると、これと同じように司法官も又やはり政党の、党派的な関心というものに対しては、これを括孤の中に入れて中性化して初めて今日のデモクラテイツクな司法権というものは維持されておるわけであります。それから更にサイエンス、科学というものをやつております科学者も又やはりそういう党派的な関心というものを孤括の中に入れればこそ初めて学問というものが成立つているのでありまして、こういう作用が行われないでは到底科学も学問もできるものではないのであります。こういう意味で第一の問題、つまり教壇の上における教育中立性というものを私はそのように考えますが、これは現実的にできるものである、こう考えております。  それから第二に、政党政治が実際においていろいろ直接、間接に教育影響を及ぼすということは、これは否みがたい事実だと思います。ですが、問題は事実そういうことがあるということよりもむしろ原理的な事柄に関するのであります。いわゆる逆に民主政治でなくして、一国一党を建前とするこういう全体主義の国において、教育政治的中立性というものがあり得るか、こういう逆の問題を提出してみまするならば、申すまでもなく政治的中立性ということは全然あり得ないのであります。というよりもむしろノンセンスになつてしまうのであります。何となれば、教育というものは、実際あれは完全に政治に隷属してしまうのであつて申すまでもなくナチス、或いはフアツシヨ、更に今日のソ連もそうだろうと思います。でありまするからして、つまり教育政治的中立性ということを本質としてこれを承認しているものは、これはただ民主政治のみである。民主主義の国のみである。こう申していいわけであります。ここに私はかなり重大な問題があつて、やはり今日深く考えなければならん点があると存じます。それから事実の上において政党が政権をとる場合、或いはとつた場合に、直接なり間接なりに教育偏向を与えるという事実は遺憾ながら認めざるを得ないのでありまするけれども、併しこれは教育にとつて不当であるとこう考えますのが民主政治であつて、初めからそういうことに対する不当という考え方もあり得ないのがつまり全体主義の国の教育になるわけであります。つまり括弧の中に入れる、そうして政治的関心、特に党派性というものを中性化する、こういう作用が全体主義の上では行われ得ないわけであります。全体主義の国におきましての教育は、特別に政治教育を施す必要のないほど一切が政治化されるわけであります。従つてそこにはもはや中性化とか中立性ということが問題となつて来る隙は全然なくなるのが当然であります。でありますから、そういう意味民主主義を少くとも守るという以上は、教育というものが若しそれが政治教育の場合には、いわば非常に政治的な政治教育になる、こういうのが当然であるわけであります。私は自分の見解といたしまして、独裁主義を或いは専制主義を永続させるためには幼年の子供から政治教育を施すことは誠に便利であろうと思う。これが新し我々が人間の教育、ヒユーマニテイというものの開発という立場に立つてものを考えますならば、弱小のときから政治的関心に満ちた教育を施すということは私は決して正しいとは思いません。むしろそこには我々のヒューマニティに対する敬虔な態度というものが失われていやしないか、こういう工合にさえ感じておるのであります。  それから第三に先ほど一番重要だと申上げました、現代、今日に特に政治的中立性ということが問題になる理由について申上げます。実は今まで申上げましたような教育中立性が今日非常に困難になつておることは事実であります。これは私は正直に認めたいと思うのです。これは簡単に申せば近代教育の危機だと申してもいいと思います。この近代教育のクライシス、危機と申しますものが、実は変転たる時局から出て来ておるものじやなくして、私はやはり大きい時代の中から流れて来ておるものでありまするから、ひとり日本だけじやなくして世界的な問題だろうと思います。じや、こういう近代教育の危機とでもいつていいようなことが教育の内部から出ておるのかと言えば実はそうじやなくして、教育を包むもつと大きいところから出ておると思うのであります。つまり民主主義そのものの危機から実は出ておる、こういう工合に考えます。じや、なぜそういう危機が発生したか、こういうことについて今更ここに詳しく申上げる必要もありませんが、まあ極く簡単に申しまするならば国民の同質性、ホモジニテイ、同質性というものが失われて国民の共同性、同質性の信念が現代において動揺し始めた、こういうことであります。これを裏返して積極的に申しまするならば、一国民の中に階級の対立性が、或いは階級の意識というものが強化されて来た。ここに根本の原因があるのであります。無論この階級の対立性或いは更に尖鋭化して階級闘争の意識というものは、これは単に事実と言われねば意識なり観念なり、まあいわゆるイデオロギーが伴つておる次第であります。こういう階級の対立性を誇張する、そうして更にそれを階級闘争にまで戦術の上で深めるのがこれがマルクシズムであることは申すまでもありません。ただたとえそういうマルクシズムの階級対立、階級闘争の観念が事実を非常に誇張いたしておると申しましても、併し近代国家日本国民の同質性を失わせるような異質性が、階級対立性が発生して来ているという事実は、これ又疑うことのできないものでありまして、この国内におけるまあ階級闘争のこの国際的規模において激発されているものが、これが二つ世界とその冷戦であることは申すまでもないことであります。今こういう事態を念頭におきまして、さて教育中立性、今まで言つたものが何であつたかということを振返つてみますると、実は教育中立性即ち教育の超党派性ということでありまするからして、実は教育国民性、こういうことであつたわけでありまして、これはやはり近代国家国民国家、こういう工合に普通申されておりますところにも端的に示されているのでありまして、つまり教育というものが国民性を持つ、こういうところに中立性の意義が今まではあつたわけであります。無論この国民性はいわゆる国家性とか更に国際性とかいう事態と深く対決しての国民性というものではないのでありまして、つまり封建社会というものに対して近代国家が成立した場合の国民共同の意識が内容となつていたわけであります。従来はこれで教育中立性が比較的容易に保たれて来たわけでありまするけれども、今申しましたような経過を通つて階級の対立性が出て来る、少しく誇張していわば国民内部に敵味方の二国民が発生するというような状態になりますると、これは国民の共同性というものが漸次乃至完全に失われて行くわけでありまするからして、ここに従来我々が教育中立性といつて考えていたものとは非常に違つた事態が今日生じて来たわけであります。で、若しこの国民の共同性、簡単に言えば国民というものをなくそう、国民というものを敵味方の二つの階級に分けてしまおう、こういうマルクス・レーニイズムの考えを徹底したと仮定いたしますならば、先ほど近代教育の大前提だと申しましたが、その大前提である国民の共同性というものは完全になくなるわけでありますから、もはや教育中立性もくそもなくなつてしまうわけであります。とにかく我々が今まで簡単に教育政治的中立性と、こう考えておりましたものと、今申上げました事態を念頭において新らしく考えて見ますると、そこに余ほど大きい変化がある。今日においてはやはり教壇の上において政治的関心というものを括弧の中に入れて、そうして中立性を発揮するのだ、こう単純に言つていたものが、これが実は容易ならざる段階に入つて来たということは我々十分に認識する必要があるように存じます。じや一体そういう困難な今日の状況において本当に教育中立性というものはもう少し積極的にはどういうことを意味すべきであろうか、こういう問題を考えてみますると、私はこういう工合に思つております。つまり今日におきまして教育中立性ということは失われて行く国民共同性の再建だ、こういうことを中立の積極的内容と考えるのであります。再建といいましても、すでに幾たびも申上げましたように、階級対立性が出る以前の、つまり近代国家発生時代国民共同性というものを回服するということは絶対にできないわけでありまするからして、いわば国民共同性の新らしい建設とか、少し仰々しい言葉で以て言えば、創造とでも申すよりほかないわけであります。でありまするからして、単に従来の国民国家時代の或いは階級対立性の意識が濃厚でない時代、もう少し実例を以て申しますならば、ブルジヨア政党二つ対立していたような時代のいずれの政党の関心をも括弧に入れるという、そういう消極的な中立性だけでなくして、更に今日は何とかして階級の対立性、国民の共同性というこの二つを、現在世界が直面しておりますこの二つを何らかの形で統合する、或いは調節する、或いは統一するという働きが私はやはり教育中立性ということの今日における積極的な意味だという工合に考えております。若しそれが……これは非常に困難だと思います。これは我々に課せられておる歴史的な課題であつて、貴様できるかと言われても直ちにできるものではありません。何らかの形でそれを求めて行く。そこに行くことを確信するのでなければ今日教育というものは基礎から私は崩壊するだろうと思います。そうして結局は一つの全体主義的な政治教育が、つまり中立性を初めから認めない二つの対立する政治教育というものになるだけの話であつて到底民主的な教育というものは根拠が失われて持続できないという工合に考えるのであります。そうしてこれは申すまでもなく世界ソ連及びアメリカ中心の二つ世界の対立をますます激しくして行くことに貢献することになるわけであります。でありますから、現在における教育政治的中立性ということの意義は結論的に申しますならば、階級対立性以前の消極的な中立とは違つて階級的な対立を超えた国民の共同の利害とか共同の運命とかいうものの存在を前提として確信して、その確信の上に超階級的な人間性、ヒユーマニティというものを建設して行く、こういうところに中立性の真実の意義がありはしないかと、こう考えるのであります。これは非常に困難でありますけれども、併しその努力を今日我々はお互いに協力してなさなければならないと思うのであります。ところが今日は二つ世界の冷戦の状況にありますので、階級対立性の誇張なり或いは階級闘争の観念なりが不必要な程度に民族の共同意識を破壊していることもこれは到底否定できない事実であります。でありますから、教育に携わるものがそういう傾向に同調するということは私は教育中立性の破壊であるし、実は近代的な意味教育、近代教育の否認に帰着する、つまり教育をやはり政治に隷属させる道だという工合に考えております。何らかの形でこの傾向を阻止する。能う限り不必要な闘争性というものは緩和する。そうして階級闘争性を超えた運命共同性というものを素直に見、そうして国民と階級、こういう二つの間にでき得る限り総合なり調和なりの働きをする。こういうことが今日の日本、或いは世界的でありますが、我々に課せられておる教育の仕事なんだ、こういう工合に実は考えております。  そこで少しくこの法案について意見を申しますると、私は少しも法律技術の点は存じておりませんので、法案そのものよりもこういう法案が出るについての意見を少しく申上げておきます。先ず日本教育界の現状を打診いたしまするならば、私は今申しましたような政治的中立消極並びに積極的な両面に亘つて、果して日本教育中立の方向に行こうとしておるかということの事実の判断といたしましては、私は遺憾ながら左翼偏向的であろうと存じます。特には新らしい国民共同意識を建設する階級意識と国民意識との調和を工夫する、そういう意思に欠けているように判断いたすのであります。そうして間々階級意識のほうを強調して、国民意識を破綻に導くような行き方が相当見られるように思うのでありまして、冷戦の現在にあつて中立を工夫するよりは、却つて共産陣営のほうに加担して世界的な悲しむべきこの冷戦を国内に延長しているような傾向というものはやはり否定できないように存じます。このことを私は一々事実を以てここに申上げるほどの力はありませんが、私の特に重要視したいのは、例えば日教組の幹部諸君の指導精神、そういう人々の書いたものというものを見まするならば、そこに立派に左翼偏向が見られるように存じます。一々例を挙げる必要はございませんが、例えば世界情勢の判断というふうなことにつきますると、米国を戦争勢力である、ソ連を平和勢力であるという工合に、いと単純にきめた判断を多くいたしているようであります。アメリカを中心とする国際独占資本は、世界の至るところで戦争の計画を仕組んでいるというふうな判断を、いと単純に下しているようであります。それから国内については世界の動きは全般として資本主義国内においては平和勢力と戦争勢力の対立が激しくなるというふうな判断を下しておりますが、これは申すまでもなくソ連の眼鏡を通じて見た情勢判断でありまして、決して学問的でも客観的でもないと存じます。恐らくその判断の上に講和条約反対とか、安保条約、行定協定の破棄とか、或いは憲法改正反対、再軍備反対、中共貿易というふうな線を出すのだろうと思いまするが、今日およそ平和の問題にいたしましても戦争の問題にいたしましても、単純にイエス、ノーとか、単純にいいとか悪いとかいうふうな結論が出ないほど実に困難な問題であります。私恐らく人類が発生して以来、初めて直面した最もむずかしい問題だろうと思います。そこには近代の科学文明というものが一枚加わることによつて、科学文明の発達しない以前に単純に考えられたような考え方がとれない非常に深刻な、従来の哲学者といえども従来の思想を以ては単純な解答などができんほど困難な、或る意味では解決の不可能に近いほどの困難な問題であります。而もこれが御承知のように今日冷戦において一つの冷戦の手段として飽くまで用いられております。遺憾ながら平和ということさえ戦争手段として用いられているのが偽りない今日の事実であります。でありまするからして、そういう事情を深く念頭に置いて教育というものに携わるのでなければ、私はいずれかの陣営に加担して、却つて世界というものをば破局に促進させて行くという作用が成り立ちはしないかと思つているのであります。こういういわば左翼偏向思想が共産主義者が戦術の上で心理戦或いは思想戦の戦術の上で隠密に行なつているものか、或いは共産主義者でなくともその同調者がそれと知つて行なつているものか、或いは全然そのことを知らずに動かされて行つているのか、ここは判定がむずかしいわけでありまするが、私は日本にはそういう三つの層があるように存じますが、そうして特に戦後傾向が強いと思うのでありまするけれども、日本の知識層には半意識的に最近特にサンフランシスコ講和会議以後は親ソ的な共産主義の同調者が多いのであつて、結果的にはたとい意図せずしてもその方向を激発する、促進するという作用を営んでいることは、私はどうも否定できないもののように思います。私は今日の世界が平和にならない根本の理由は実は二つの平和主義があるからだと考えているのであります。つまりアメリカ的平和、ソ連的平和、パックス・アメリカーナ、パックス・コミユーナこの二つが対立しているところに平和ができんというところに人類は実に不幸な、又或る意味では馬鹿げた段階にあるのでありまして、この状態を考えまするならばこれを激発するようなことは日本政治としても無論のこと、いわんや教育においては当然避くべきもので、今日教育者というものはそういう点について従来の教育者には必要がなかつたものでしようが、実に深い認識と、実に深い良心を私は必要とするもののように思います。この点に軽率に是非或いはイエス、ノーの判断を下して、そうして特に家庭と教員の繋がりは特別な関係があるのでありまするから、その家庭のいわば弱点に利用してこういう思想が若し入るとするならば、私は由々しい問題だと思います。こういう工合に私は判断いたしておりますので、この法案が今日出るということ自体は実は誠に遺憾至極だと存じます。世界に対しては恥さらしであり、国内に対しては教員諸君を侮辱することだろうと思つて誠に遺憾だと思うのです。ですが更に遺憾なことは、やはり教員諸君に遺憾ながら自主性が欠けていて、やはり一方的な傾向というものに一つの集団的な行動として走るということは、私はやはり今日までの見聞では遺憾ながら否定できない。そういう意味で臨時の措置法としてそういう法というものが出るということは遺憾至極ではありまするけれども、私はやむを得ないし又当然だという工合に考えるのであります。   —————————————
  65. 川村松助

    委員長川村松助君) 次に鵜飼先生にお願いいたします。
  66. 鵜飼信成

    公述人(鵜飼信成君) 私は憲法、行政法を専攻している者でありまして、その立場から只今ここで審議されておりまする二つ法案に対して、私の意見を申上げたいと思います。  ここに取上げられております二つ法案は、いずれも二つの相反する要求の正しい調和点をどこに求めるかという観点から判断さるべき問題であると考えるのであります。第一の法案である義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案の中には、教育政治的中立性ということを前提にいたしまして、これを確保するために、そのような教育政治的中立性を侵害する行為を重い刑罰をもつて取締るべきであるか、或いはむしろ教育者というものの自主的な判断に委せて、その目標である政治的中立確保すべきであるかという、二つの観点のどちらが正しいか、或いはその二つ考え方のどこに正しい調和点を見出すべきか、こういう問題として判断さるべきであると考えます。第二の教育公務員特例法の一部改正に関する法律案につきましては、民主的な社会においては、すべての市民というものが政治的な問題について自分意見を十分に発言し、政治に広く参加し、できるだけ活発な活動をすべきであるという一方の要請と、他方、公務員、特に教育公務員というものは或る意味での中立性を持つておらなければその職務が十分に果せない。その職務に対する国民の信頼が得られない。この二つの要求を如何に正しく調和するかという問題として判断すべきであると思うのであります。この問題を正しく考えるためには、いろいろな基準があると思うのでありますが、日本の具体的な民情、或いは日本の過去における経験、法則の示しているいろいろな問題点、又現在我々が置かれております日本国憲法の示しております諸原理、そしてそれらのもろもろの考慮というものを、その相互の関係においてどういうふうに序列付けるか、如何なる価値が現在の、今の我々にとつて最も高い価値を占めているか、こういうことを判断するのが、まさに賢明なる立法者の責務であると思うのでありまして、その皆様の賢明なる判断をなさいますための一つの参考資料として、私はどう考えているかということを簡単に申上げてみたいのであります。  第一の義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案の中には、幾つかの問題がありますが、私は三つの問題を取上げてみたいと思います。第一は、教唆、扇動というものを独立の罪として処罰しようとしている規定であります。これについてはいろいろな議論がすでに行われているようでありますが、私はこの教唆、扇動を処罰するという考え方の持つている問題点の一番大きなものは、教唆、扇動という行為は、その行為が本質的に思想及び表現の自由というものにかかわつているという点をはつきりとつかまえることであると思います。教唆、扇動は、思想、言論、表現の活動以外のものではあり得ないのでありまして、そこで教唆、扇動を処罰するということは、即ち思想を処罰し、言論を処罰するということにほかならないのであります。アメリカの最高裁判所の有名な判事であるオリバー・ウエンデル・ホームズという人が、すべての思想は扇動であるということを申しておるのでありますが、これは私は当つていると思うのでありまして、或る思想を持つておる者が、その思想に他の者も賛成するようにその思想を主張しないでは、思想としては意味をなさない。そこでそれを刑罰を以て取締るということは、即ち刑罰を以て言論の自由、思想の自由を取締るという結果にならざるを得ないのであります。教唆、扇動についての処罰が若し許されるとすれば、それは現在の刑法が認めておりますように、これを独立の犯罪としないで、正犯に対して従属するものとして、つまり現実にその言論活動によつて現実に犯罪となるような行為が行われた場合に、それに従属して教唆をも処罰する、こういう考え方が現在の刑法にとられておるのは事柄の性質上当然でありまして、その範囲においてならば言論を取締ることも止むを得ない。併し独立して言論だけを取締るということは大変危険である。なぜならば、その言論によつて如何なる社会的な害悪が起るかということは、全然予測に過ぎないのでありまして、その予測について判断をするものは、取締をする官憲であるからであります。その意味で私は、この法案が教唆、扇動を独立して処罰しようとしている考え方、これはすでに我が国の実体法にも先例があるわけでありますが、それらも含めてこういう考え方は、日本国憲法の保障している言論の自由、それは我々のこの社会にとつて最も大切な自由の一つでありますが、それを侵害するものとして賛成することができないのであります。  第二は、この政治的中立ということの持つております意味でありますが、政治的中立教育にあつて確保しなければならないということは、教育を受けた児童が特定の政党を支持することになつてはいけないという意味を持つてはいないと思うのでありまして、政治教育というものは、必ず政治的な意識を持つた者が、自分の正しい判断に基いて、自分が或る特定の政党を支持するというそういうことができるようにならなければ、政治教育意味をなさないのであります。日本の現状はそうではなくして、児童が、或いは教育を受けた者が、そういう正しい政治判断をしないで、何かほかの力に押されて、政治的な行為、例えば投票等をするというところに問題があるわけでありまして、正しい判断に基いて、特定の政党を支持するような、そういう教育をすることは、まさに教育の本来の目的でなければならない。そしてそのことは、教育基本法にも明らかに明記されておりますし、この法案も恐らくはそういうことを否定しようとするものではあり得ないと思うのであります。併し規定の表現から見ますと、規定しているところは、そういう特定の政党を支持するような判断を実際に持ち得ないような、つまり漠然として、政治から離れるということによつて教育政治的中立性が得られるかのように見える、又たとえ立法する場合には、そういうことが意図されておらないとしても、現実にはこういう法律が成立することによつて教育者政治問題に触れることを恐れて、結局教育の中に正しい政治的判断をする力が養われないような、そういう無気力な教育になつてしまう虞れがある。そういう意味でこの法案については考えるべき点があるように思います。これが第二点であります。  第三点は、この法律に基く罪は、教育者に対する監督の責任を持つておる教育行政機関が請求した場合に、初めてこれを論ずるということになつておりますが、これを「論ずる」ということはどういう意味であるか、いろいろ問題がありましようが、仮に公訴を提起することができるという意味に解釈するといたしましても、その前提になつております捜査ということがなければ、果してこれを処罰していいかどうかはわからない。公訴を提起していいかわからない。そこで当然にその前提となります捜査ということが行われる。それは捜査機関がやるにしても、或いはこの請求をなすことになつております教育行政機関がやるにしても、これはどちらにしても教育者というものと、そういう捜査機関というものとの間に大変密接な関係ができまして、一方から申しますれば、教育者が警察化する、或いは警察が教育の中に入つて来る、こういうことになりまして、教育の方向を大変に誤らしめる虞れがあるのではないか。これらの三つの点から申しまして、第一の法案というものの持つております危険性について、我々はこの際十分に反省をしなければならないのではないかと、かように考えるわけでございます。  それから第二に、教育公務員特例法の一部を改正する法律案につきましては、いろいろ問題がございますが、先ず第一に、現在の国家公務員法第百二条と、それに基く人事院規則の十四の七というものによつては、少くとも規定の表面から申しますと、投票を除く以外の政治的な行為というものは、公務員に対して殆んど全面的に禁止されているというふうに規定の表面からは見えるのであります。併しそう解してはならないということは、この法律及びそれに基く人事院規則ができますときからすでにたびたび指摘されて来たところであるのみならず、この法律の制定について大きな関係を持つておりました連合国最高司令部の公務員課長の代理であるマツコイ氏がその声明の中ではつきりと申しておるところでございます。そのマツコイ氏の声明の一部分を引用いたしますと、「教育者は当然日本青少年にあらゆる部面の経済的、政治的問題を教えなければならないという責任を有しているものでありますから、この規定は特に人事院がこれら教育職員に適用するために挿入されたものであります。そしてそれらの教育職員によつてあらゆる方面の問題が知らされないならば、青少年はその知能を正しく用い、正しい判断を下すことを期待し得ないでありましよう。これが民主主義における教育職員の任務であります。それ以外のものは独裁であります。」、即ち、教育公務員というものは一般公務員と違つて政治的な問題について十分な関心を持ち、政治的な問題というものを取上げる責務がある、これが民主主義の要求であると、そのことを許すために国家公務員法第百二条に基く人事院規則十四の七の第七項というものに一つの規定が入りまして、これがマツコイ氏の声明にいわゆるこの規定が挿入されたという規定でありますが、「この規則のいかなる規定も、職員が本来の職務を遂行するため当然行うべき行為を禁止又は制限するものではない。」ということが入つたのであります。そうしてこの人事院規則十四の七の第七項に基いて、職務上であるならばいわゆる政治的行為として一般に禁止されておる行為もこれを行なつて差支えないということになりまして、現在では例えば国家公務員である大学教員政治的な問題について批判をする、例えば国会提出されたる法案を批判するというふうなことは差支えないのであるというふうに言われておるわけでありますが、然らばそういうふうなことが例外が認められるから、これと同じものを義務教育学校の公立学校教育公務員に適用しても差支えないかと申しますと、私はそう簡単に言えないと思うのであります。何となれば、第一に義務教育学校先生というものの持つておる本来の職務が、果して現在国家公務員たる国立学校教育公務員の持つておる本来の職務と全く同じであるかどうかということがすでに問題でありまして、若しも全く同じでないという判断ができますと、現在の国家公務員たる教育職員には許されている行為が、公立学校教育公務員には許されないという判断さえも出て来る虞れがある。又逆に申しますと、公立学校先生に或る行為が許されなくなつたということの反射として、現在国立学校教育に許されております行為が次第に又制限されて来るということも予想されないではないわけでありまして、それらのことを考えますと、この際国家公務員法及び人事院規則の例によつて地方公務員たる公立学校教育公務員をも規制するという方向に行くべきではなくして、むしろ人事院規則十四の七の第七項の示しておりますような精神をもつとはつきりと制度の上に現わさなければ、公務員課長代理の考えたようなことは実現されないのではないか。そういう意味で立法者としては、今のような虞れのあることをあえてするようにいたしませんで、もつと本来の狙いである政治的な行動の自由というものが、必要な範囲内において伸び伸びと自由にできるように現在の制度そのものを改めて行くという方向に進むのが当然ではないかというふうに考えます。のみならず、現在のいわゆる自由民主主義に属する諸国においては、このような厳格な制限というものは一般にしておらないのでありまして、それは文部省がお作りになりました欧米各国における教育政治的中立維持の問題という調査報告、昭和二十九年二月文部省調査局の報告を拝見いたしますと、この中に取上げられておりますアメリカ、フランス、イギリス、西ドイツと、この四つの国においては、教育公務員政治的な活動というものは全く自由でありまして、何らの制限が加えられていない。若しも我々がこれらの自由民主主義諸国に学ぼうとするならば、同じように現在の国家公務員における制限さえも撤廃すべきでありまして、改めて現在許されておる自由を更に制限するというような方向に進むべきではないというふうに考えます。特にアメリカにおきましては、法律によつて教育委員会教育公務員政治的活動を禁止してはならない、教育委員会義務として、教育委員会はそういう禁止をしてはならないという立法例さえあるくらいでありまして、それほど強く自由民主主義の諸国において認められておることが、日本では全く逆の方向に行かなければならないという事態は、私は二つ世界の対立という国際的な冷厳な事実に即して考えてもあり得ないと思うのであります。その意味で私は、この教育公務員特例法の一部を改正する法律案というものの持つております規定に疑問を持つものでございます。  これで一般的に二つ法律案に対する私の見解を申上げたわけでありますが、なおこの二つ法律案については、衆議院で若干の修正がされておりますので、その修正点について私の意見を申上げます。  第一は、この両法案をいずれも臨時立法とする。即ち義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律というものを臨時措置法と改める。そうして本文の中に「当分の間、その効力を有する。」、若しくは「当分の間」という言葉を適当なる個所に挿人するという修正をいたしておるわけでありますが、これは私は法律的には殆んど意味がないと思うのであります。何となれば、この臨時的な立法ということは具体的に、明示的に、その効力を持つ期限というものが明記されていないわけでありますから、改めてこれを別の法律を以て廃止しない限り、たとえこの法律に「当分の間」と書いてあつても、いつまでも効力を持ち得るわけであります。そういたしますと、これは書いてあつても書いてなくても法律的な効力においては全く同じことである。のみならず考えようによりましては、何も明記していない場合よりもむしろ困つたことになる可能性さえもあります。それは日本でしばしば問題になつておりますいわゆる限時法という理論があります。限時的立法は、その立法に違反する行為をその臨時立法が廃止された後においてもこれを処罰することができる、こういう理論が広く行われるわけでありますから、これは若し「当分の問」ということが書いてなければ、廃止後においては、その法律が効力を持つている間の違法行為を処罰することができないのでありますが、臨時措置法としたために、限時法としての扱いを受けて、廃止後においてこれを処罰するということさえ可能になつて来る。その意味で臨時立法であることを明記いたしましたことは、決してプラスにならないではないかというふうに私は考えるわけでございます。  それからもう一つは、教育政治的中立確保に関する臨時措置法の第三条二項を削除いたしまして、従来の第一項の終りの所に、特定の政党を支持又は反対させるための教育というふうに入れたことでありますが、この「ための教育」というものも大変に不明確であります。つまり「ため」というのは一体主観的なものなのであるか、客観的なものなのであるか、主観的なものであるとすれば、そういう意図を以て行なつたということを何人か判断をするということになります。客観的なものであるといたしますと、そういう「ための教育」であるかどうかということを示している客観的事実というものは、これも極めてあいまいなものでありまして、どちらにいたしましても、刑罰法規にとつて最も本質的な要素である犯罪の構成要件というものが明確にされているという点に今度の法律案は合わない。今度の法律案はそういう要求を、そういう基本的な原理を体現していない。犯罪の構成要件をあいまいにしておいて、そうして実際には大抵の行為はこれに引つかからない、或る非常に極端な場合だけが引つかかるのだから、国民は安心していてもよろしいというふうに申しますことは、実は決して本当の安心にはならないのでありまして、却つて現実にはこれによつて処罰される人が、少くともいつ誰か引つかかるかわからないという恐怖の中に国民を置くわけでありまして、その結果としては言論活動に従事している者、或いは教育に従事している者、研究に従事している者、そういう者が伸び伸びと活動をすることができなくなる。その結果は日本の将来に私は決してプラスにならないのではないかというふうに考えるわけでございます。  大変簡単でございますが、これは私の持つておる疑問でございまして、私は賢明なる参議院の議員のかたがたがこの法案の持つておる危険性というものを十分お考えになつて、この法律が成立しないようにさることを心から願つております。
  67. 川村松助

    委員長川村松助君) これを以て公述人かたがたの御覧の開陳が終りました。  ちよつと速記をとめて。    〔速記中止〕
  68. 川村松助

    委員長川村松助君) 速記を始めて、暫時休憩いたします。    午後四時七分休憩    —————・—————    〔休憩後開会に至らなかつた