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1954-04-22 第19回国会 参議院 文部委員会 第26号 公式Web版

  1. 会議録情報

    公聴会 ———————————————— 昭和二十九年四月二十二日(木曜日)    午前十時二十二分開会   —————————————  出席者は左の通り。    委員長     川村 松助君    理事            剱木 亨弘君            加賀山之雄君            荒木正三郎君            相馬 助治君    委員            雨森 常夫君            木村 守江君            田中 啓一君            高橋  衛君            中川 幸平君            吉田 萬次君            杉山 昌作君            中山 福藏君            岡  三郎君            高田なほ子君            永井純一郎君            松原 一彦君            長谷部ひろ君            野本 品吉君   国務大臣    文 部 大 臣 大達 茂雄君   政府委員    文部省初等中等    教育局長    緒方 信一君   事務局側    常任委員会專門    員       竹内 敏夫君    常任委員会專門    員       工楽 英司君   公述人    国立国会図書館    專門調査員   牧野 英一君    立命館大学学長 末川  博君    成城大学学長  山崎 匡輔君    栃木県今市小学    校校長     朝倉 武夫君    東京都杉並高等    学校教諭    伊沢甲子麿君   —————————————   本日の会議に付した事件 ○義務教育学校における教育政治  的中立確保に関する法律案内閣  提出衆議院送付) ○教育公務員特例法の一部を改正する  法律案内閣提出衆議院送付)   —————————————
  2. 川村松助

    委員長川村松助君) 開会いたします。  只今から義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案の両案について公聴会開会いたします。  開会に当りまして公述人各位文部委員一同を代表して御挨拶を申上げます。当委員会只今義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案の両法案審議中でありますが、この法案重要性に鑑み公聴会を開きまして先生がたの御意見を拝聴いたし、審査の参考に資するととになりました。本日各位の御出席をお願い申上げましたところ、御多忙中にもかかわらず御出席を頂きまして有難くお礼を申上げます。只今から御意見を拝聴さして頂くのでございまするが、御発言の時間につきましては別に制限はございませんから、何とぞそれぞれのお立場から腹蔵なく御意見開陳をお願いいたします。  文部委員各位にお願いいたしますが、公述人各位に対する御質疑は公述人皆様が御意見開陳が終りましてからお願い申上げることにし、討論に亘らないようにお願いいたします。  それでは牧野先生から御意見を拝聴いたします。
  3. 牧野英一

    公述人牧野英一君) 皆さん、どういうわけから今日お呼び出しを受けたかということについて、甚だまどうのでございますが、私は純粋な刑法上の理論のことは今なお研究は続けておるつもりでございますけれども世の中とは没交渉な書斉人でございますので、どういうわけでこういう法律が必要とせられるに至つたかの実情については全く心得ておりません。そういうところから何と申しまするか、この法案の実体上の関係というようなことについては申上げるだけの用意がございません。ただ法律関係について他の方面からも若干の質問を受けたことがございますので、それについて申上げることが少しなりともできようかと思う程度でございます。もとよりこういう法律ができるということになりますれば言論の自由が甚しく拘束されるという虞れがあるということになりましよう。又教育に関するものでありますだけに、我々の考えておる学問の自由にも影響が及ぶことになりますので、立法として抽象的に考えますれば甚だ好ましくないことであると思います。併し教育中立性ということはすでに基本法にも規定されておることでございまするし、これを守ることについて教育界自身自己調整、即ち自重自戒を全うしておらんという事情がありますならば、法律がそれに対して刑罰法規を以てその調整に乗り出すということはやむを得ないことであろうと申さねばなりません。又教育界のことばかりでなく、社会が或いは新聞紙その他言論界の模様がどのくらい中立性を維持するのに骨を折つているか。それに対して中立性を守らないという人がどういう態度をとつておるかというこの実情をよく御調査を願つておることと考えますが、ただこういう法律ができますれば、刑罰法規適用の手続の段階として警察権が無用に動くということがありはしないかということは十分考えておかねばならんことだと思うのであります。これは立法に関するだけのここではございませんので、常に言論とか学問とかの自由に関する法律については考えておくことで、今更私が申上げるほどのことはございません。そこに教育基本法でございますが、これはもとより一つ法律であります。直接には教育基本法には制裁規定されてのりませんから、これは単に道徳上の準則を定めたもので法律でないという考えのかたも世の中にはおありになるりではないかと思つております。併し少くとも形式上立派な法律になつておりまするのであり、この制裁ということを考えますれば、行政法的にはもとよりこれは十分制裁があることでございます。民法関係におきましても、この基本法規定が基になつていろいろのことが考えられましよう。特に民法七百九条の不法行為の成立に関係いたしましては、中立性を失なつた行動に対していろいろの訴権の発動ということが考えられるわけであります。そういたしまするならば、やはり刑事関係につきましても、必要があるならば処罰すべきであるということは一向理論上差支えのないことで、かような道徳的な基準を定めた法律刑事法規を以て向うということは不当である、こういう非難は私は当らんと思うのであります。これはまあ私は刑法だけのことでございまするので、実態上この法規に定めてあることが適切なものであるかないかということについては、不幸にして私は申上げるだけの資格のないということは先ほど申上げた通りであります。そこでもう少し刑法上の概念上の議論をいたしますると、教唆扇動という言葉が問題になるのであろうと思います。この法律の形を見ますというと、その行為犯罪でないのに、教唆だけが罰せられるというような形になつておる、こういうことが果して刑法論の上から言い得られるかどうかということが問題になる、即ち罪となるべき行為でないものを教唆して、それが犯罪になるというのはおかしいのじやないかということであります。これについて従来の学説でありまするところの教唆従属性ということを盾にとつて、我々の法律学学者仲間では議論する人がありまするが、先ず第一に立法趨勢及び学説の傾きから申しますれば、教唆独立性ということは世界的の事実でありますが、最近の立法例はそれをだんだん明らかに認めつつあるのであります。一般の犯罪についてもそうでありまするが、特殊の場合にこの教唆独立のものとして罰しておるということは、諸国法律に例がいろいろありまする。これはまあこれもだんだんその数が殖えるというのでありまするので、政治上の犯罪教唆する、政治上の犯罪と申しますか行動と申しますか、そういうものについては例えばフランスの例を申しますれば無政府主義をただ宣伝をしますれば、これはアポロジー、ただそれだけで犯罪になりまするし、又ああいう国柄ですから避妊を奨励するというような行動をとりますると、これはやはり特別の法規犯罪になつておりまするが、やはりその国情によつてそういう必要があるものとされておりまする、そこで重罪軽罪教唆するということになりますれば、もうそれだけで処罰する。これはもう重罪軽罪を、これは教唆するという言葉使つておりません。ドイツなどではフエルライテンという言葉使つて特に処罰することにいたしておりまするし、ドイツ刑法で取調べてみましたら百十一条、フランス刑法では出版法の中にそういう規定がありまする。それでありまするから、教唆とか扇動とかいう事柄を独立犯罪として取扱うということは、理論としては差支えないことであるのみならず、特別の理由のあるときには諸国立法例学説共にそれを認めておるということだけは私の立場から申上げることができようと思います。併しながら諸国立法例を見ますると、単に教唆とか扇動とか言わないで、やはりそういうときには公然やるというようなことが附加えられております。公然やるといけない、こういうような制限が置いてありまする。特に顕著なのはドイツ刑法でございまして、法律違反扇動するというといかん、これはアウフホルデルンという言葉使つてありますが、法律に違反する扇動をするというと犯罪になる、併し公然というやはり制限が付いております。それからイタリー刑法にもそういう規定がありまして、これは法律に対する不従順又は社会階級の憎み合いを扇動した者はいかん、こういう特別な規定があります。ドイツ判例にはゼネラル・ストライキを扇動するというような行為がそれだけで法律従順扇動になるという判例があります。そこで諸国の例から申しまするというと、この法案は形は全く同じではございませんけれども、やはりそういう一種趨勢と食い違つてはおりません。私ども理論的にものを考えておる者から申しますれば、こういう法律が出ても一向差支えない、こう思います。  そこでもう一度前の問題に立返りまするが、教師自身が少し行き過ぎた教育をしたときにはこれは犯罪にならん、行政上の処分だけのことであるが、それを教唆するというと罰則に遭うというのはやつぱりおかしいではないか、こういう疑いがあり得るわけでありますが、併しこの法案を読みまして、教唆扇動をする者はいかんという、その教唆扇動する者は外からやる人もありましようし、或いは団体の内部でやる人もありましよう。そこでそういう一種の場合に、大勢の人がその教唆に乗つて中立性を害するような行動をいたしましたとしたときに、大勢がやつたときにその大勢をみんな処罰するということは実際上困難であろうと思います。恐らくはそういう必要もない、やはりそのうちの主だつた者とつちめればいい、主だつた者はこの教唆扇動で、もう直ぐ処分することができるわけでありますから、よしんば罪とならないところの行為教唆扇動することはいけないと、こういうような批評があるといたしましても、そうではないので、やはり法律の行われる事情から言えば、その行為教唆扇動として犯罪になるわけで、どうも一部の我々の仲間の人がピントが合わんというようなことを言われる心配はないのであろうと私思つております。  そこで私は多年刑法改正仕事関係をいたしまして約二十五年ばかりその仕事をいたしました。臨時法制審議会が大正十五年に刑法改正綱領をきめましたその大部分の立案は私がいたしましたのですが、それには「法令違反行為を賞揚し、奨励し、扇動したものを罰する規定を設けること」こういう一項目がありました。それに基いて司法省刑法改正調査委員会でどういう規定を設ければよかろうかということをいろいろ考慮たしましたが、司法省の我々に示しましたところの原案には、第百七十五条というのでありますが、第一項に、犯罪奨励扇動をなしたものはいかん、その他の違法行為についての奨励扇動もいけない、こういうことで規定を設けております。但しこれは公然の行為たることを要する、こう言つておりまするがそれが私ども委員会で、起草委員会議論をしたときに、どうもこれは広過ぎやしないかということで、差当り兵役義務又は納税義務に違反することを奨励扇動する場合に限ると、こんなふうに一時書き改めたことになつております。やや錯雑して申上げて相済みませんでしたが、結局教唆扇動ということを必要に応じて独立犯罪として規定するということは結局我が国でもすでにそういうふうに相当に骨を折つておるのでございます。主たる行為犯罪にならなくても違法な行為であるならばそれを扇動奨励すればいかん。扇動奨励、賞揚、いろいろな言葉を考えておりますが、そういうことになつております。  そこでそういうドイツフランスイタリーの例でありますが、今、公然、我が国の我々の作りました草案でも公然ということを入れたのでありますが、この法案では公然ということを使わないで、結局三つ要件が定めてあります。第一は目的であります。第二は団体組織又は活動を利用する、そうして教育職員に対する行為であること、と、こういうふうに三つ制限を置いておりまするので相当規定は慎重にできておると思います。これは細かい適用の問題を考えますればいろいろ議論はあり得ましよう。例えば目的という規定を設けた場合にどういうことになるか。これは刑法にもすでに目的という規定を設けた例が若干ありまするけれども判例大分様子が違うというようなこともありまするし団体組織又は活動を利用するというのはどういうことであるかというようなことについても、その範囲如何などというような問題もありましよう。殊に教育職員に対するということになりますと、これも新聞に書いたところで、教師が見るじやないか。そうすればやはり教育職員に対することになるのではないか、こういうようなことも考えられまするので、これは議論は随分あり得ようと思います。併しながらこの法案では公然ということに、この公然というだけの例に従つて相当にあいまいなことになりましようが公然ということにはよらないで、一種の工夫をしたわけになります。殊に団体組織又は活動を利用する。単に教唆扇動をするのではない。団体組織又は活動を利用するというところに制限をおいてあるところから考えまするというと、相当にこれは慎重にできていると思います。これを今牧野が不満足であるならばどういうふうに書き直して見るかと、こう言われまするというと、いろいろ考えて見ましたけれども、まあ差当りは残念ながら私の力ではもつといい制限を並べるだけの力がございません。こういう法律が必要であるとお認めになれば私はこの規定でよかろうと、こう思うのであります。  それからちよつと脱線でございますけれども教唆及び扇動教唆又は扇動という言葉については、破防法のときにもお呼び出しを受けて意見を述べておきました。教唆又は扇動という例は外国の立法には見当りません。やはり扇動というのは教唆一つ方法でございまするので、私は扇動誘惑詐欺その他方法教唆たる者、こういうふうに扇動を、教唆扇動という言葉を是非出しておかねばならんというのであるならば、当時の政府委員かたがた意見では、何といつてもこの扇動という言葉を出しておいてもらいたいということでございましたから、そうであるならば、扇動ばかりではない。詐欺、脅迫による場合も随分ありましようし、又誘惑によるという場合もあるのでありまするから、そういうふうに変えたらどうか、こういう意見を出しましたけれども、これはお取上げになりませんでした。もとより扇動という言葉を書いたときにこれは議論があり得ることでありまするけれども、何々の目的を以て扇動したと、こういうふうに書いてあるのですから、結局教唆です。結局それはその扇動教唆になるので、この文句は少し理論的に言えば面白くないということを今日も考えておりますが、邪魔にはなりますまい。扇動つて教唆一種ですから、これは理論的な形の上から私が今でもどうかと思つておることでございまするのですが、併しもうこの頃では教唆又は扇動というのは我が国法律における一種言葉遣いになつておりまするから、我々法律を解釈する立場から申しますれば、邪魔にならないという意味において、今日は特に異存を申立てるつもりはございません。  そこでこういう法律になりますと、結局片方では教育というものは、いわゆる良識ある公民たるに必要な政治的教養をいたさなければなりません。併しながら脱線をしては困る、こういうことになりまするので、その境がいつも問題になりまするわけです。これを我々の学問のほうから申しますれば、ややまずい言葉でありまするけれども行為違法性の問題という言葉使つております。その行為はいわゆる何と申しますか、違法なるもの、それは健全なる社会の常識から考えて、正しいものが脱線したものか、最後においては裁判所がそれをきめねばならんわけになります。併しこの健全なる社会良識によつてその境をきめるということになりますというと、裁判所だけには任せて置けんという議論が或いはあるかも知れません。そで陪審というような、そういうような陪審というようなものを使つたらどうかという問題が考えられるわけであります。ところが陪審法はありますけれども、その施行が今停止せられておるのでありまするし、これだけ陪審に付するというわけにも行きますまい。そこで法律一種特別な、私の存じておる狭い範囲内においては恐らく我が国の特有の訴追要件というものをきめておるわけであります。この訴追要件ひとり裁判所に対する立場を、社会良識を示すばかりではなしに検事がむやみにその権力を行なつてはならんというところまで行くわけなのでありますから、これは面白い規定だと私は思つております。これがうまく行くかどうか、若しこういう法律をお取上げになるということになるならば、私はヨーロツパ学界へこれを一つ報告してみようと思うくらいに興味を持つておりますので、私はヨーロツパ学界に向つて陪審というものは、これは少し脱線であり、又言い方によつては差障りがあるかも知れませんけれども陪審というものは日本では差当り成功する見込がないということを言つておるのです。けれども陪審の精神というものはこれを無視することのできるものではない。陪審に代るところのいろんな制度を考えねばならんということを言つておるのであります。西洋にもやはり専門陪審というような制度もありまするので、何かもう少し方法を変えねばならん、丁度この法律適用というものにその問題が起るわけでありまするが、この案を考えますというと、これは成るほど随分考えた一つのやり方だ、これが世の中実情に明かるい皆様のお見込によつてこれはこれで実行できると、教育委員会というようなものがやつて間違いなくできるというお見込なら一つつてみて頂きたい。私は積極的にこれが一番いい方法である、結構でありますとまで言い切るだけのとにかく資格がございません。けれどもこれはよほど面白い規定であると思います。  最後にこの法律暫定法とじてできたという形になつておりまするが、若し教育基本法規定に対する制裁として設けられたということであるならば、暫定法などといつて遠慮する必要はない、初めからもう政府原案通りでいいと思います。けれどもとにかくこういう法律ができますというと、我々学者生活をしておりまするものでよくほうぼうから講演の依頼などを受けまするときに、相当態度表現を遠慮しなければなりませんので、そういうことについてまあ若い人の元気のいいところなどは危なげを感ずるということは当然でございましよう。併しこれは暫定的なものであるから学者の間に教育家の間に脱線の虞れがないということになるならばこの法律は取りやめるのだと、こういう趣旨が見えておるのはやはり私は有難いと思います。何も何年間というような制限はなくても永久的な法律ではないからやはり教育家自身自重自戒、即ち自己調整に待つと、こういうことでありまするからこれも私は結構だと思います。私の申上げる程度はそのくらいでありまして、結局におきまして社会実情を全く承知しておりません私としては、刑罰法規を以て教育基本法違反とつちめる必要があるまでに情勢が切迫しておるかどうかということは、どうぞ皆様がたで御決定願いたい。併しとにかく一部の人々の間に常軌を逸した行動があり、明らかに教育基本法に違反しておる行動があるということでほかに方法がないというならば、やはりこういう法律ができるということは、残念ながら私はやむを得んと思う。私ども学問に従事しておる者から見ますと、何だかうるさい法律ができたように思いますけれども、これはやむを得んことでございます。又こういう法律ができるといたしますならば、教育家自身のほうが、又我々学問に従事しておる者でもやはり議論議論として、その思想を述べるときには、やはり合法的に穏やかな表現をするということを考えるべきであろう、こう思いますので、見方によつてはこの法律趣旨を我々が十分理解して、これに順応するように行動すべきであると思います。刑法上の仕組といたしましては、差当り先ずこの法律相当よくできておる。少くとも牧野としてはこれをこう修正したら如何でしようかという対案を持つておりません。これだけのことを申上げることができる程度であります。この程度にいたします。   —————————————
  4. 川村松助

    委員長川村松助君) 次に末川先生にお願いいたします。
  5. 末川博

    公述人末川博君) 私は長い間学校講義をしておりますが、尤も刑法専門家ではありません。法律は勉強しておりますけれども、その講義をしておる癖がありますので、一つ総論というものと各論というものに分けて話をさせて頂きます。総論的に、言い換えれば概括的に、実は今、私、学校学長とか総長とかいうものをやつておりますので、一面では教育ということに直接関係をいたしておりますので、今日の教育のあり方というようなことについて総論的に申上げて、そうして各論的にこの二つの法案についての私の意見を申述べさせて頂きたいと思います。  概括的に申しますと、今日の教育は何と申しましても学校だけではやれないのであります。社会家庭学校というものとが一体となつて若い世代の人たちを立派に育て上げて行くということでなくてはやれません。ところが今日の社会皆様も心を痛めておいでになることと存じますが実に汚職だとか疑獄だとか混濁し切つておりまして、泥沼のようであると言つてもいいかと思います。こういう社会学校関係しておるものが教育を完全にやろうということは非常にむずかしい、又この社会を反映しまして家庭におきましてもやはり不純のものがどこの家庭にも入り込んでおるという状態でありますので、やはり私どもから言えば社会をとにかく浄化して頂くということにいやしくも教育に関心を持つておいでになるかたがたは協力して頂かなければいけない。そして又家庭をきれいにして頂くということを我々は常に父兄母姉に望んでおるのであります。このように社会家庭学校というものを一体にして私ども教育の場として考えておるのであります。従つて私は皆様がたのように文部教育のことに関係を持つておいでになるかたには特に社会をきれいにして頂くということを先ずお願いするほかはないのであります。  次に今日の教育理念というものは、これは私が申すまでもありません。戦前、戦時中の誤つた方向における教育を是正するという意味において、又日本を民主化する、平和国家たらしめるという意味において憲法を基本とし、更にそれに基いて教育基本法ができておるのでありまして、その教育基本法では私が申すまでもなく平和的な国家及び社会形成者としての人間を作り上げるということが中心になつておるのであります。従つてどもとしては真理と平和を希求する人間の育成ということが、これが教育根本理念である、このように存じておるのでありまして、この根本理念を離れて私ども教育をすることはできない、このように考えておるのであります。そうしましてそういう教育というものは言うまでもなく真実の上に立たなくてはならない。幼稚園から小学校から、すでに嘘を言つてはいかんと言つておる。つまり虚偽を廃止しなければいかん、つまり真実を伝え、真実を語るということが、これが教育であります。そうしてその真実を語るということがやりは学問の根本の指導精神でありますから、真理を探究するということが学問の心髄であるとするならば、やはり教育はこの学問の上に立つて学問を通して行われるというときに真の教育たり得る、このように考えます。そうしますと本当のことを学校の先生は言わなくてはならない、そうして本当のことを言えばそこにおのずから批判が出て来るということも又当然であります。教育というものはただ事実を事実として伝えるだけでなくて、それに対してやはりこれは善悪正邪といつたような意味からの価値判断をしなければなりません。従つて教育というものはともすれば何と言いましても現在に対しては批判的な態度をとるというのを本質的な使命としておると言つていいと思うのであります。従つて時の政治、時の経済のあり方というようなものに対しては、どうしても批判的な態度をとらざるを得ない、それが即ち教育基本法に言うところの良識のある公民たるに必要な政治的な教養をするということにもなるだろうと考えます。ところが実はこの事実を事実として伝えるということが学校ではなかなか容易でないのであります。この法案が問題になつてからでありますが、私の所へ中学校の先生が来まして、自分は中学校社会科を受持つておる、そうすると税金を納めねばならんということを教える。そうするとその税金というものだから、お国や市町村で必要なんだからと言つて税金を納めるという、納税の義務というようなことについて話をする、そうするとその税金というのはそれじやどういうように使われるかというようなことも、やはり教えなくちやいかん。そうすれば国家の予算というものがある、市町村にも予算というものがあるという話をしなくちやいかん、国家の予算というものは今日どのようになつておるかというと、これは本年度なら一兆億円で抑えて、そうして物がむちやくちやに値段が上つたりするのを防ぐというような方策もとられておる。そうしてその予算の中身というのは大体こういうようになつておる、そうするとやはり自分たちとしては文化とか教養とか学校とかいうほうの予算は余り殖やしてない、或いは又結核とか何とかのほうの療養のほうの費用もどちらかと言えば減らされておる。あれだけ風水害で損害をこうむつてひどいことになつておるが、これを復旧するための費用も余り殖やしてない。これに反して国防というか、防衛というか、そういうほうの予算は殖えておる。これは事実だから事実としては我々は教えなくちやならん。そうして又その税金というものに関連して子供たちは今の造船疑獄とか或いは東京のどこどこの待合でどうやらしたということを新聞やラジオで聞いておる。これを黙つておるわけにゆかん。ともかく新聞やラジオで彼らは聞いておるので、これは黙つておつたらあの先生は何も知らん、馬鹿やと言われる。だから言わなくちやならない。それを言うというと事実を伝えるのだけれども、これはときとして言うわけにゆかん。こういう場合に今度の法律ができたら我々はどうなるのです。こういつたような、すでに苦痛を訴えておる。私はそういつたような意味から言いましても、やはり教育というのはどうしても将来のことを考えておるのです。子供たちがこれから十年、二十年と生きて行くその先のことを教育家というものは考えなくちやならない。これは政治や経済でも百年の大計というように、やはり将来のことを考えてやらなくてはならんのですけれども、実際言いますと、やはり政治というものは今日の問題、現在をともかく直ちに捕えて、かれこれ言うことになります。経済にしても今眼先で儲かればいいというのが今の実業のあり方だと言つてもいいと思います。これに反しまして教育家というのは、常に将来のことを考えなくちやいけない。子供たちを立派にし、子供たちの立派な社会を作るというように仕向けなくちやならないのでありますから、どうしても現在に対しては批判的にならざるを得ない、そういうことを私ども教育者としての立場から考えておるわけです。従つてその意味においては偉大なる教育者というものは、現在に対するところの大なる批判者であり或いはときには反逆者である。吉田松陰先生は私は教育者としては尊敬しておる、或いは福沢諭吉先生を私は尊敬している。これらの先生はその当時の状態に満足していなかつた。だからこそ偉大なる教育者です。ペスタロツチにしてもそうであります。私はそのように考えております。その意味においては教育というのは、これは政治や或いは実業といつたようなものはどうしても或る意味においては違つたものを持つておるということを当然予想して頂かなくちやならない。従つて教育者というのは、教育関係しておるところの教育職員というのは、これは行政や或いは司法の事務に与つておられるところの職員とは大いに違つた立場にあるということを考えて頂かなくちやならないと思うのです。即ち直ちに権力作用に関係しておるものではないのです、国家作用に直接。国家作用というものをどういうように定義するか問題でありますが、ともかく権力的な立場においておるものではないのでありまして、そういう意味では教育は公の事務ではりありますけれども、公務ではありますけれども、これは行政的な事務とか或いは司法的な事務とかいうものと違つた性格を持つておるということは前提として考えなくてはならんと私は思つております。そうしてそれであるからこそ、この教育基本法も第十条に言つておる教育行政のことにつきまして「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」、即ち国民全体に対して国民全体の上に立つて行われるものでありまして、その意味においては従来の、言うところの国家権力というようなものの上に立つて行わるべきものではないということをはつきり言つておるわけであります。さればこそ又第二項において「教育行政は、この自覚のもとに、教育目的を遂行するに必要な諸条件の整備擁立を目標として行わなければならない。」、とこういうことを言つておるのです。教育行政というのはやはり教育を盛り立てて、そうして教育を十全に進展せしめることができるようにいろいろな条件を備えるということであつて、この条件を欠き、これを奪うということではないということが言われておるわけでありまして、文部省というものの又皆様がた文部委員会というものの存在理由も教育をあらゆる不当なるところの支配から或いは圧力から防衛してやる、それに十分な諸条件を整えるということのために存在の理由があるであろうと私は考えております。  私はこういつたような概論的な観点からこの二つの法案教育目的を阻害し、教育行政の根本精神にも反して、下手をしますと曾つての治安維持法であるとか或いは戦時中或いは戦前にありました言論、出版の自由を抑圧したところの法律と同じように国を亡ぼすところの原因を作るというようにさえ私には杞憂かも知れませんが憂慮に堪えないような気がするのであります。即ち私たちは常に将来を考えております。現在だけを問題にしておるわけには行きません。将来のことを考えると、曾つて治安維持法なりそのほかの言論、出版の抑圧の法律が国を誤つたように、やはりこれが又そういう方向に民衆の口を封じ、耳を封じ手を封じて、ひどいことにならねばよいがということを恐れておるのであります。だからこそ知識人が或いは大学に関係しておるところの大学教授の大学教授連盟というようなものが先だつても声明を発表しておるのでありまするが、そういつたものが或いは教育関係者が、又いろいろ新聞、雑誌その他の輿論がこれに反対しておるのだと思います。殊に大学関係者として南原、矢内原、大内、これらの諸君が心からこれに反対しておる。と申しますのは、これらの諸君は十年前十五年前に体験しておる、ひどい目に会つたということを前から知つておるのです。だからもう一遍このことによつて国を誤つたらどうもならんということを彼らは真剣に考えておる。私もそう考えておる。私自身も実は二十年前京都帝国大学から追われた経験を持つております。そういう私どもはことを考えるのです。まあこういつたようなことを私は総論的なものとして申述べておきまして、次に各論に移りますが、今牧野先生がこの教育政治的中立確保に関する臨時措置法については、刑法の専門的なお立場から懇々とお説きになりましたので、私はそういう点についてかれこれ申す資格も能力もありませんから差控えますけれども、私がこれについて持つておる考えを一応述べさして頂きますると、一般的に言いまして、この政治的中立確保に関する臨時措置法は、私の受けた感じでは、これは刑罰を伴つておるところの威嚇立法でありますので、こういう威嚇をして、威して、威しつけて一体教育者を取締つて行くことが果していいかどうかということに疑問を持つておるのであります。そうではないのです。すでにこういう法律案が出されるとか出されたとかということだけで教職員は非常に弱いのでありますから、政治家のように心臓が強くありませんから、(笑声)弱いのですからもう怯えておる。これはもう何も言わんがいい、触らぬ神に崇りなし、こういつた状態に追い込まれておると私は見ておるのです。こういう威嚇的な立法を以て教育に臨むということが元来いいか悪いかということに私は疑問を持つております。  それからその次にはこの法律、特にまあ中心をなしておるのは第三条だと思いますのですが、この中に使われております言葉は私どもから言えば、これはドイツでゲネラアル・クラウゼルと言つておつたようでありまするが、普遍条項といいまするか人によりますると帝王規定言つております。ケーニヒクラウゼルと言つております。つまり非常に中身はわからないのです。中味は非常にあいまいで弾力性に富んでおる。だからどういう内容でも盛れます。そういう一つの内容のあいまいな弾力性のある言葉が使われておるのです。そういう言葉で盛られておるから危険だという感じがします。例えば政治的中立ということ自身がすでにそうでありまするが、これが実際として政治的中立とは何かと言つたつて、誰だつてはつきり答えることはできないと思います。それから又今先生も指摘されましたけれども教育職員団体というようなことであるとか或いは政治的勢力の伸張又は減退に資する目的というような言葉であるとか、こんなのは目的を持つてやるかやらんかというようなことは極めて主観的な判断が入りますのでありまして、これはどうかと思います。それから又、教唆扇動という言葉も今、牧野先生からいろいろお話がありましたけれども、私どもから言えば非常にあいまいな、模糊たる内容を持つているのであつて、実はこういうケーニヒクラウゼルといいますか、帝王規定といいますか、こういう規定を以て臨みさえすれば、どういうことでもやれるということになれば、結局内容はどういうものでも盛られますから。これはナチスの立法の特徴であつたのです。これでナチスはぐんぐん押して行つた、又日本の戦前戦時中の法律にもこういつたものが多かつたのであります。出版なんかを取締る場合に、安寧、秩序ということでもつて来る、安寧、秩序に違反するからというのです。安寧、秩序とはわからない、これは安寧、秩序、安寧、秩序と言つてばたばた皆やつてしまうというようなことにさえなつて来るのでありまして、誠に危い感じを私は受けております。  それからまあ第三条全体は牧野先生は非常にこれは立派な、もう手を入れるほどのことはないと言つておられる、言つておつた、非常によくできておるとおつしやいますが、まあこれは私はどうも全体として見て、えらい長い文章で書いてありまして、普通の人が読んだらちよつと読めんのじやないか、法律家であつても、どうかすれば、これはどこへどう引つかかるのかと思つてちよつとまごまごするような規定だと思います。これはそういう意味において全体としても私は何だか掴みにくい感じを人に与えている。いわんやこれが小学校や中学校の先生にこれをぶつけたらどのようなものやら、とにかくこれは怖いぞ、恐しいことが規定してあるぞ、こういう感じを受けるだけであつて、これは牧野先生みたいな平素からこういうものを扱いつけたかたではどこへ引つかけてどうなるというけじめがつくでしようけれども、まあ普通はなかなかこれは読みにくいだろうと思う。私はそういう意味において、これは余り感心いたしません。それからこの政治的中立ということが一番問題になつておりますが、政治的中立というのは、これは皆様もいろいろな新聞や雑誌や言論を聞いておいでになつて、はつきりしないということをおわかりだろうと思いますが、私どもから言えば、やはり教育については先ほども言いましたように、真実を知り、真実を語るというような学問と共通のものがあるのでありまして、そうして教育というのは、やはり真実を語り、真実を伝えることによつて良識のある公民を育成するということが本旨なのでありますから、そういうことが自由にやれる、自由に真実を語る、真実を伝えることができるという、そういう境地を作つておくところに初めて政治的な中立というようなものもあるのじやないかと思います。即ち言い換えれば、憲法とか或いは教育基本法とかいつたようなものに従つた教育を自由にやることができるように、即ち平和的な国家及び社会形成者であり真理と平和を希求する人間であるところの若い世代の人たちを育て上げるということができるように保障して行く、そこに政治的な中立というものがあるのである。而もそれは真空な状態ではなくて、今言いましたように真理と平和を愛するということを何か身に持つておるものであると、このように考えるのであります。  それから教員の自主性を確保すると、こういうようなことがこの目的として語われておりまするが、教職員の自主性というものは、申すまでもなく、これは溌剌として伸び伸びとして自信を持ち信念を持つて教育に当ることができるというところにのみそれはあるのでありまして、刑罰を以て臨んで、萎縮して、そうしてものを言うたら危いぞ、迂闊なことを聞いても危いぞ、こういうようなことで自主性が擁護されるというようには私は考えません。そういう意味で、この政治的中立とか或いは教育職員の自主性とかいうようなことについても、実は問題が非常にあると思いますのですが、第三条でも実は或る「特定の政党その他の政治団体政治的勢力の伸長又は減退に資する目的をもつて、」と、こうありますけれども、実は今日学校で、殊に社会科あたりで教えておることは、必ずどこかの政党が、或いは政治的な団体が言うておることであるのです。まあ平和とか、或いは再軍備とか、憲法改正とか、或いは教育文化とか、社会保障とか、何とかかんとかいうことを取上げれば、それに関連しての問題はすべての政党がどこかで言うておるのです。それに反対しておるか賛成しておるかの別はありますけれども、再軍備ということ、或いは平和ということを問題にすれば、それはどれかが賛成しておる、必ずどれかが反対しておるといつたような状態にある。だからこれについて何かを言おうとすれば、必ずどつちかにぶつかつてしまう。どつちかを伸長するか、或いはどつちかを減退するということにとられるのが実情だろうと思うのです。これでは何も言うなということになつてしまう。何も言えないということになつてしまう。誠に恐るべきことだと思います。そうして而も、そういうことに資する目的をもつてやつたらいかんというのでありますが、これは先ほども申しましたように、一体目的をもつてやつたかどうかということは、元来はへの心の中の話なのであります。これを外からかれこれと認定をしてかかるということになりますると、実に危険なんです。これはもうすでに治安維持法なんかで、私どもの先輩なり、私自身も若干でありますが、大きな経験をしておる。つまり治安維持法では、国体を変革する目的があつたらやつつけるぞと、こういうことになつておつたのです。そうしますと、最初の頃はそれを少々限定して解釈しておりましたけれども、だんだんひどいことになりまして、御存じのように、共産党の人の虫歯を治してやつたというあれは、どうやらその目的でやつたのだと、そういうことに言われたり、現に最後の頃の横浜事件なんかというのは、それであります。中央公論とか、改造とか、日本評論とかの編集者が皆引つ張られてしまつて、それは何か国体変革、或いは私有財産否認とかいう目的をもつてお前はやつているのだと、こういうふうに言われることになつてしまう。実に危険であります。こういうことを、漠然とした目的でやるということを誰が判定するかということになりますると、私どもとしては晏如としておれないということになるのだろうと思います。だからこそ、先ほども言いましたように、大内君だとか、南原君だとか、矢内原君とかが、どうしてもこれはいかんと言つておるのであります。なお教唆ということ、扇動ということは、これは今、牧野先生からお話がありましたから、私は専門的な観点からは何も申し附加えることはありませんけれども、これなんかも実に危いのだと思うのです。よそを向いで何か言つてつても、それを聞いて、やつておつたということになれば、扇動しておつた、或いは教唆しておつたというようなことにならんとも限りません。殊に教育関係することでありまするから、そうむちやくちやにこれを拡げられて行われるということになつたら大変だと思います。まあこれは親告罪というか、何か請求を以て断ずるということになつておりますけれども、やはりもう皆さんがいろいろお聞及びのように、警察官が教員を脅かしておる。而も何人もということになつたら、一般人も脅かされるということになる。こういう点を考えましても、どうもこれは余りよい法律にはならんだろうと私は考えておつて、まかり違えば五年後七年後の日本を曽つての戦争中、戦前の日本のように一方的に追い込んでしまうところの手段になつてしまうということさえも恐れておるのであります。大体これは私の考えでは、教育基本法の第八条の二項で、「学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治活動をしてはならない。」というだけで十分であつて、而もこれを監督したり或いはこれを又是正したりするためには、教育委員会とかそのほかの教育行政機関があることでありまするから、それで十分であつて、而もこの教育委員会制度というものが公選によつておるということは、即ち国民全体に対して教育が責任を持つて行われるということを意味しておるのであつて、私はこういう法律を以て臨むべきではないと、このように思つております。  それから次に、今の政治的の中立に関する問題でありますが、牧野先生はお触れになりませんでしたけれども教育公務員特例法の一部を改正するというこの法律案でありますが、これはまあ要するに公立学校の先生を国立学校の先生並みに取扱おうと、こういうことになつておるのであつて国家公務員法の百二条、或いは人事院規則の十四条の七というようなものがこれに関連して問題になるのだと思いますが、私官身の考えでは、大体国家公務員法で人事院規則に言つたようなことは、従つて人事院規則で規定しておるようなこの政治行動制限というものはまあ占領下、殊に占領末期においてなされたところのものであつて法律学者も、これは基本的人権を制限するもので違憲であるとさえ言つておるのであります。私はこれが違憲であるかどうか知りませんけれども、とにかく一般に勤務をしておる間は政治活動をしてはならないということは、これは当然でありましよう。が併し、勤務外においては、勤務をはずれれば、これは一般市民として活動してよいはずであつて、これは行政、司法の面と比べると、教員については更に特殊性を認めてよいと思うのでありますが、別段これは教職員は権力作用を伴うところの職種ではないのでありまするから、枠外では自由にやつてもよいはずであると私は考えておるのであります。ただ教育基本法の八条の二項というものを守らなくちやならんということは、これは当然であります。そういう意味で、私は大体この国家公務員の政治行動制限ということ自身がおかしいと思つておるのでありますが、併し、とにかくそれは今日あります。今度公立学校先生がたを同じように扱おうと、こういうのであります。が併し又一方では、今までの国立学校先生がたつて大した不自由を感じておらんじやないか、別に言わんじやないかと、こんなことを言う人もあるようでありますが、私が申すまでもなく、今日国立学校というのは殆んどすべてが大学であります。大学の附置したところの高等学校や中学校が若干ある程度でありまして、教職員の数としましても国立の学校での高等学校や中学校の先生というものは三千人に足らんということを私は聞いております。これは五十万の公立の先生がたに比べたらものの数ではない。而も国立学校といえば殆んど大学であります。大学の教授はこういう規則がありましても実は強いです。少くとも東京大学、京都大学、一橋大学というような、これまである大学の先生がたは強い。大学の教授会というものを持つておる。身分保障をされております。だからばんばん言うことは言います。又言つてもそれを世論が支持しております。だから世論にバツクされておりますから、なかなかこれを人事院規則に違反したからお前どうだということは言えません。又言うたら大学の教授会というものがあつて、なかなかさわらせません。だからその辺は強いのでありますが、併し大学の中でも私どもが実際知つておるのでは、地方にできました新らしい大学などの先生がたは、もうこれで怯えておるのです。大学の先生にも実は今日はいろいろあるのです、正直にざつくばらんなことを申しますといろいろある。大学の先生だからみんな強いということは申せません。大学の先生にも弱いのがある。こういう先生はびくびくしておる。そうすると政治学の講義で何をしておるか、法律講義で何をしておるかということになる。そういつた点からいいましても、国家公務員法で教員まで引つくくるということは無意味であります。強いところはこんなものは平気であります。現に皆さん御存じのようにやつております。それは私どもからいつてもはつきりしておりますが、併し弱いところは皆さんお気付きにならんか知らんけれども、この規則があるのでびくびくしておる。そのために、ざつくばらんに言うと地方の新らしくできた大学あたりで法文科とか法政科とかいうものを置いておりますけれども、これはナンセンスになつてしまつておるということがいえるように私は考えます。  それから実は教員或いは教職員ということ、教員という身分或いは職種からいいますと、これは官立も公立も私立もないはずであります。これは区別すべきじやないのです。官公私とも教育というものはこれは一つの線の上に立たなくちやならない。ところが私今私立に関係しておるのでありますが、私立のほうは有難いことに非常に楽であります。現に私立でも、私どもが知つておるのでは世耕弘一さんが近畿大学の学長をやつておるわけです。又石橋湛山さんもどこか立正大学かなんかの学長をやつておる。まあ平気です。あの人たち政治活動をやらんといわれますまい。大いにやつておるのです。平気なんです。又私どもの知つておるのではこの国会の、衆議院や参議院に属しておられる議員で講義をしておられるのを私少くとも二、三知つておりますが、何でもない、それが別にどうも差支えがあるということは私どもは聞いたことがありません。  だからやはり結局教育公務員といいますか、教職員といいますか、そういうものについての政治活動制限というのは教育基本法の第八条二項だけで足りるということになるのです。世耕さんや石橋さん、これは例に挙げていいのか悪いのかわかりませんけれども、そういうかたがた学校の卒業式や入学式で訓示せられるときは、おれの政党を支持せい、そんなことはおつしやらんだろうと思う。それだからこそ問題ないと思う。即ちこの第八条第二項で十分だ、私どもはそう考えるのです。官公立においても同じことだと思う。つまり教員というものはそれでいいはずです。それをやいやいいうから却つて事が面倒になると私は考えるのです。でありまするから、私から言わせるならば、国立や公立の教員をこれを私立の教員並にして上げることが当然だ、これが日本教育を本当に伸展せしむるゆえんだと私はそう信じております。  そうして私は極端な話になるかも知れませんが、教員は実は社会に出たら社会教育もやらなくちやいかんと思う。今の社会がこんなに混だくしておる、こんなに汚なく泥沼のようになつておる。これを教員というものは見ておつてはいけない。出て行つて社会教育をやる、社会をきれいにするという働きくらいやる、そのくらいの気迫を持たなくちや私は実際日本の将来は憂うべきものだと考えておる。  そういう意味から要するに私はこんな法律を作らずに私立学校の先生並みに国立や公立の先生がたをして上げたらどうか、このように考えておるのであります。とにかく私はこの二つの法案に対しては全面的に、又絶対的に反対であります。これを以て終ります。
  6. 川村松助

    委員長川村松助君) これを以て公述人かたがたの御意見開陳は終りました。委員のかたで御質疑のおありのかたは御発言を願います。
  7. 永井純一郎

    永井純一郎君 私は実は法律のことは余りよくわかりませんので、的確なお尋ねができないのかも知れませんが、牧野先生末川先生の両先生に只今のお話を頂いた点につきまして少しくお尋ねしたい、是非御意見を頂きましてこの重要な法律案でありまするので、私ども審議の参考にさせて頂きたいと、こう考えるわけでございます。  初めに牧野先生にお尋ねをいたしたいのですが、私はこういうふうに思うわけなんです。牧野先生は大体今出ております法律だけについてのお考えをお述べ頂いたものと拝聴したのでございまするが、私今考えまするのに、新らしい憲法ができましてから、日本法律の何と申しまするか、一つの体系が新らしい憲法を中心といたしまして民主的な法律体系がずつと日本にでき上つたと思う。その中の中心は私はやはり教育制度をきめた法律と、それから警察、それから経済関係の民主化を図りました私的独占の禁止に関する法律、こういつたものが中核となりまして、憲法を中心にして民主的な法律の体系が作り上げられた、こういう日本の現状であると考えるのでございます。この点は非常に前の法律とは、今、末川先生がいろいろ治安関係法等の例を引かれましたが、あの当時とは非常に変つておると考えるのでございます。そこで私がどうしても今まで文部大臣等の質疑を聞いておつてわからない点がたくさんありますので、専門的な御教示をここで頂いておきたいと思うわけでありまするが、例えば一番偏向教育としての顕著な事例として文部当局も言つておりまするのは、やはり再軍備というような問題が教育の場においても偏向の事例として大きなものであるという意味のことを今日政府は言うております。ところが私が考えますのには、再軍備というようなことにつきましては、憲法がすでにきめております。第九条で憲法はやはり軍備は持たないということを明らかにこれはきめておるわけでございます。(「そんなことは言つちやいない」と呼ぶ者あり)そうして又その他の条項におきまして、公務員なり、特に教職員も公務員でございまするが、公務員等はこの憲法を、国務大臣初め国会議員もそうでありまするが、十分に守らなければならないという規定もございます。そういたしますると、私が心配いたしまするのは、仮にこの法律ができ上りまして、そうして違反者が出たということになりまして裁判等が行われることに仮になりましても、裁判官、裁判所も私は憲法に抵触しておるような法律によつて裁判をするということは、私はこれはできないと思います。そういたしますると、私は今の憲法の下におきまする一連の民主的な法律体系の中では、こういつたような立法をすること自体が学問的にお考えを願つてできないのではなかろうかということが一点お尋ねしたいわけであります。  それから今申上げまするように、仮にできてしまつても、裁判になつた場合に明らかに憲法なり基本法が示しておる、特に憲法が示しておる条項に反するようなことで、裁判になつてその人に罰を食わせるというようなことは、これは全然裁判所はそういうことをすることはできないのではないか、これが二点。  それから又それが裁判になりました場合には必ず罪になつたものが、疑いを受けておるものが必ずこれは逆に提訴をして行くだろう、裁判所へ逆提訴を必ずやつて行くだろうということになりますと、この法律は仮にでき上つてもまるつきり用を足さない、ただやたらに混乱してしまうのじやないかというような疑点が非常に起るのでございます。この点はどういうふうにこれは法律上なるものでありましようか、牧野先生の御教示を給わりたい。なお末川先生のお考えもお聞かせを頂きたい、こう思うわけであります。
  8. 牧野英一

    公述人牧野英一君) 今のお尋ねの趣旨で具体的にお示しになりました例は、再軍備のことを議論することがどうかということでございましたが、再軍備のことを論ずることが教育基本法趣旨に反するかどうか、即ち学校教師がそういうことをしたときには法律によつて処罰されるかどうかというのですが、再軍備を論ずることが憲法第九条を無視したことであるときまつておれば、これは成るほどお説のような心配もありますけれども、それは問題にならないですね。憲法九条の解釈というものは御承知の通り乱れておる。のみならず私どもが貴族院議員として憲法改正案特別委員会で討論をし合つたところでは、決してこの九条の意味というものは、はつきりと確定しておつたわけではないと私は思つておるのであります。片方では何らの武力も持たないという考えがあつたかと思うと、片方では自衛権は差支えないのだという議論があり、自衛権というものはどこまで行くか、こういうことで、そうしてあの憲法が、今私が遠慮なく申しますればわからないままにあの憲法ができておる。現に或る委員のごときは、そういうふうに議論をして来るというと、憲法第十九条というものはその心持は大変尊重すべきものであるけれども法律関係としてはノンセンスだ、こう言つた人もあるくらいなのであります。そういうわけであるから、憲法九条というものを議論をしたから直ちにそれが偏向教育であるというわけにはなりますまいと思います。けれども議論の仕方で、それが或る特定の政党を支持するというようなふうに見えるときには偏向教育になりましよう。即ち憲法九条というものをどういうふうに理解をするということについていろいろな方面から観察をして、良識ある会見としての素養を全うする程度においては許されることであり、結構なことであろうと思いますが、行き過ぎになつてはいけません。そこでそういう境がやはり先ほど申しました我々のほうでは妙な言葉ですけれども行為違法性の原則、即ち健全な社会の通念によつて、健全な社会の通念という言葉は大審院がしばしば示した言葉であります。それによつて判断をすることになりまするので、今の再軍備ということだけでおつしやればそれ自体として再軍備は偏向教育になると概括的に言うことはできないと思います。再軍備の議論、憲法九条の取扱い方についてやはり良識ある公民として心得ておくべきことはこの程度だ、かるが故に自由党に賛成しろというふうに言つては工合が悪いでしよう。そこはやはり人の子を教えるときには教師というものは、手前は何と思つてつても人の子を預つておるのですから、自分自身もやはり健全な常識で教師たる職分を尽す、安心してその子弟を預けてもらうというだけのやはり用意は必要であろうと、こう思います。若し教師の一部の人が熱情の余りに、それだから諸君は自由党でなければならん、こういうような議論をすれば、それはどうも基本法に触れることにもなり、又私らも憲法九条というものはほうぼうから聞かれていろいろな機会に自分の意見を言つたことがございますが、そういうことを団体の力を借りて、そうして政党を支持するためにやれば、それは後援をすればいかんということになるでございましよう。それは憲法九条というものをあなたは、はつきりとおきめになつておる内容があるように私も今伺つたのですが、それは議論のあるところである。一先ず御承知を仰いで、そうしてその議論のあるところは議論のあるように政治的の良識というものを子供に教えるということが教師の任務であつて、そこは本人の最後のコンクリユージヨンというようなものは余りむき出しにしないように心掛けなければなるまい、これが教育というものであろう、こういうふうに私は考えます。
  9. 永井純一郎

    永井純一郎君 今牧野先生のおつしやる通り私がきめてかかれば、第九条がこれは再軍備は絶対にできないものだというふうに私がきめてかかつておるというようなお言葉でございましたが、仮にこれはきめてかかる、或いはきめずにかかるにかかわらず、これは裁判所が私はきめるものだと思います。今再軍備を反対だ、賛成だという憲法についての議論は主として政治家或いは行政庁関係のものがいろいろやつておるわけだろうと思います。まだ裁判所は一遍もこれについてこうだということは言つたことはないわけでございますから、そこで私が今度の法律が若し出ましたら必ずそういうことになつて来る、今度初めて裁判所が再軍備に対する論議というものが果して二法案で罰を食わせるようなことができるかどうか、この問題をつかまえて、できるかどうかというようなことが私は明らかになつて来ると思うのです。それはいずれにいたしましても裁判所がきめるのだという考えで私もおるわけでございますが、ところが私がそこで考えることは、裁判所はいろいろな情勢の判断、別に政治的な関係や何かを考える必要はないので、この憲法をまじめに考えて行けば多くの場合、これは私の単なる考え方ですが、やはり軍備はしてはならないという考え方を持つだろうと思うのです。そういう場合が非常に私は多かろうと思うのです。そういたしますると、たくさんの事件の中で殆んどどうもこれは憲法に違反する法律だから裁判にはならないというようなふうになつてしまう可能性もあるわけでございます。私はそのことを考え、そういうときには一体どういうことになるのかということをお伺いしたい。  それからもう一つは、先ほど申上げましたようにそういうことになりますと必ず訴えられた人が逆に提訴するだろうと思うのです。憲法違反だとか或いは人権を蹂躙されたとか、これも私は当然今の憲法の規定から行きましてできるだろう、こう思うのですが、その点はどういうものでしようか、これをお伺いしたいと思います。
  10. 牧野英一

    公述人牧野英一君) 今のお話は私失礼ながらちよつと呑込みかねたのですが、再軍備の話を、これは法案が二つあるわけですが、学校の先生が再軍備の話をするというだけで、それがすぐ問題になるということは私は考えられないのです。やはり子供には再軍備の問題というものがあるということは、場合によつたら社会科では教えていい、又教えなければならない、世の中で騒いでおることについて子供を全く盲目にしておくことはよくないと思います。併し教え方が或る一つの政党を支持するというようなふうな教え方をしてはいかんわけです。そこに微妙な問題がありますので、それだけの用意をして、教える人のほうで工夫をしなければならないと思う。工夫をして、やはり父兄に対して申訳の立つように教えなければなりません。それだけのことです。それを憲法問題にからませて最高裁判所の問題になるのじやないかということをおつしやれば、御承知の通り今日最高裁判所が七千件、八千件という事件を持つておりますが、大部分は皆憲法問題でございます。これは憲法問題にからませれば何でもなるというぐらいのことしか私は答えることができません。このことのために特に憲法問題が困難なことになるというふうには我々は考えておりませんし、若しそれが何らかの形で憲法問題になれば、やはり最高裁判所判例でその態度を示すことになります。私はこの点は特にこの法律について心配しなければならない点であるというふうには考えておりません。ただどこまでも憲法上の問題についても節度を守つて教育基本法の要求するような態度方法教育すべきである、こう思います。
  11. 永井純一郎

    永井純一郎君 それでは次に末川先生に御教授給わりたいのですが、今牧野先生からもいろいろ御教授を頂きましてありがとうございました。そこで再軍備をしてはいけないと教えることが一つも偏向教育にならないとおつしやいますが、私が末川先生にお尋ねしたいのは、御承知の通り今再軍備に賛成と反対がはつきりわかれてしまつておるわけです、世の中議論は。そういたしますと、学校教育の場におきまして、再軍備は憲法でもこう書いておるから、先生は良識ある判断によつて、再軍備はいけないと憲法も書いておるし、これは平和の点から見てもいけない、再軍備をしてはいけない、こう言われますと、これは明らかに再軍備反対を主張しておる政党の勢力を伸長することのためにやつておると見られることは明らかだと思う。これは必ず再軍備反対の政党が、主張しておるわけです。片方は再軍備はやる、片方はいけない、こういう主張をはつきり政党は言つておりますから、こうなりますと、どうも憲法が再軍備はいかんというふうに私どもは考えるわけですが、それは裁判所が結局きめますけれども、どうしてもそのことがすぐ言つたことによつて一つの政党を支持するという危険を伴うわけでありますから裁判になつて行く、こうなりますと、今裁判所は非常に混乱してしまつて、今先生のおつしやるように皆最高裁のほうに行つてしまうということになると、私は裁判所のことはよくわかりませんが、いつまでたつても片付かない、こういう混乱が裁判に起つて来て、この法律は全く無意味なようなことになりはしないか、私はそういう意味で申上げておるわけでございますが、この点末川先生のお考えを伺いたいと思います。
  12. 末川博

    公述人末川博君) 私もこういう法律ができると実に学校の先生は教えにくいじやないか、さつきも言いましたように何も言えないようになると恐れております。この憲法でも第九条だけが問題ではないのであります。私どもから言えば憲法の前文を見ましても、これは何と言いましてもとにかく戦争はいけない、平和ということを言つているのです。而もこの教育基本法というものがやはり教育者には何といつても大きな基準になるわけです。これは明白に、平和と真理と正義を愛するという人間を造れ、平和的な国家及び社会形成者として育成せよとかいつているのです。そういうところから言いまして、又憲法下にある日本国民としては何と言いましても、憲法を守れ、憲法を守れ、そういうことはどんなに言つても構わないと思うのです。それを言わなかつたら又教育者でないということになると私は考えておる。それでありますから私は実は先だつてこれは新聞で見たのでありますから本当か嘘か知りませんけれども、大達文相は、吉田内閣打倒を、或いは再軍備反対と、或いは憲法改正反対というようなことを言つたら偏向教育になるのだ、こういうことを言われたというのです。これは私は真偽のほどは知りませんが、どこかの委員会で言われたという。これは先生がたに大変なシヨツクを与えております。こんなことを言つたら何もできない。併し我々は、憲法を守れと言つている。平和憲法で人類を幸福にしろ、お前らの行く道を開け、こう言つている。それを言つたらこれはいかんということになると、一体どうしたらいいのか、こう言うのは私は当然だと思います。而もこの教育基本法で今言つたようなことをきめてありますから、私は実は裁判前の問題であります。裁判前に、もうこれを恐ろしい威嚇を与えて萎縮させるということに法律に反対する理由を見つけておるわけであります。いわんやこれが裁判になりまして、裁判官が本当に中正な立場でものを考え始めたのでは、これは混乱するにきまつている。憲法の明示してあることを言つたところがそれで引つかけられた、それが一つの政党の主張と一致しておつたからという理由で引つかけられ、そうして裁判する、どうしてそれが罪になるか、どこに問わんとすべきものがあるか、こういうことになつて来ましたら、裁判所も憲法を保護せざるを得ない。裁判所自身が憲法の上に立つている、そういうことになつたら、裁判所良識的にものを考えようとしたならば、これこそ今おつしやるように混乱に陥るだけでありまして、私は裁判になるということの前を虞れておるのです。  教育者というのはさつきも言いましたように弱い、これは良心は持つておりますが、良心とパンとの間に挾つたサンドイツチのようなものでありまして、誰かそう言つたが、実に弱い、その弱い者をいじめたらいけない、弱い者は伸ばさなければならない。私はそのことが子供を守るゆえんだと思つている。私は実際そう思つております。
  13. 剱木亨弘

    ○剱木亨弘君 私は牧野先生末川先生両先生に昔から御指導を頂いておりますが、実に古くからでございますが、末川先生にちよつとお教えを願いたいと思いますが、非常にこういう席でございますので、失礼なことに……。
  14. 末川博

    公述人末川博君) 一向構いません。
  15. 剱木亨弘

    ○剱木亨弘君 昨日実は日教組から関口さんの教育を守るためにという資料を頂きましたが、その内容は大体本日先生が御講演頂きましたことと似ております。それを具体的な点になると思いますが、今日のお話と両方混ぜてお伺いすることになると思いますが、御明示願いたいと思います。  先ほど先生は教育の総括的な問題といたしまして、教育は真実の上に立ち、真実を教えるものである、この原則については私全く御同感でございます。ただそれに伴いまして、教育的な方法といたしまして、必ずそれに対して価値判断が伴うという問題でございますが、その価値判断が、先生が大学において講義をされる場合と、全く何もわからない、いたいけな小学校の児童等に対して、必ず価値判断を以て児童に対処するという教育法論につきましては、これは私には相当な異論がございます。併し教育論を以て先生と今日どうこうという問題ではございませんが、ただこれにつきまして、私が先生のお話を承わりますと、この法案のいろいろな御批判につきまして、いろいろこれは非常にあいまいであるとか、漠然であるとか、或いはこの条文は読めない、普通の人には読めないというような理由が大きな御反対理由になつておるようでございます。私といたしましては、もう少し的確な御理由によりまして御反対を頂くということを実は期待申上げておつたのでございますが、それについては今更どうと申上げません。ただ一つ、是非お伺いしておかなければならんということは、先生は新聞の記事にも、又今日の御講演にもございましたが、教育中立性ということは非常にあいまい模糊としたもので、判断がつかん。そういう美しい名に満されてはいけないというようなことをおつしやつておるようでございます。私ども法案の中立確保ということは、その内容から来る名称でございまして、この本の中に、今日も全く同一趣旨であつたと思いますが、この法案では「特定の政党を支持させ、又はこれに反対させる教育を行うことを教唆し、又はせん動してはならない。」という実に漠然たる規定を持つている。こうお示しでございます。併しこの前段におきましては、教唆扇動という問題については、私はこれは先生がいろいろ申されましても、私どもとしては刑法学の大家であられる牧野先生の御説明を尊重するよりほかないと私は思つております。だから、従つて教唆扇動という言葉刑法学上必ず先生のおつしやるように漠然というのじやないので、その前にある言葉がこの漠然としておるという意味合いになるかと思います。ところが、先生もしばしばおつしやつておられますように我々は教育基本法の精神に則つて、そして教育というものが行われて行くべきだと、こうおつしやつておりますが、この通りだ。殆んど少し、させるということが変つているだけでありまして、教育基本法第八条におきましては、明確にこの言葉規定されております。これによつて我々の教育は行われなければならんということを是認される限りにおきましては、私はこの規定が漠然としておるということには考えられないのでございますし、又中立性ということはこの内容を示しておるものでございまして、私はこの意味からして明確なる一つの観念というものは、私はあるものと考えております。教育基本法が、我々がそのままで受取る限りにおきましては、この法律について漠然としておるとか、あいまいであるとかということでは、私どもはどうしても受取れないのでございます。そこでこの問題について、先生の御意見を承わりたいと思いますが、私の同僚議員でございます須藤委員が、曾つて教育には中立性はないのだということを申されました。先生のお立場といたしまして、先ほど御説明にもありましたように価値判断からいたしましてすべてのことを、いろいろな価値判断をすれば、すべていずれかの政党に属するということを申されたのでございますが、その真意は、この教育にはやはり中立性はないのだ、やはりその価値判断によつて、或る政党に仮に先生が属しておれば、その良識従つて、その価値判断に従つて教育が、生徒、児童であろうとも、それは自分の価値判断によつてはつきり言わなければならん。そういう意味におきまして、教育中立性はない、こういうようなお立場でありますのかどうか、その点お伺いしたいと思います。
  16. 末川博

    公述人末川博君) 今劔木さんから承わりましたところで、まあ大学の学生と或いは高等学校の生徒、中学校、小学校の学的、生徒と、それはやはり教育の仕方、方法或いは教育者が臨む態度というものにはおのずから差があるということは、これは申すまでもありません。併しいずれにしても、本当を教えるということは、これは私は貫かなければいかんと思つております。本当を教えるというのは、それは逆に言えば嘘を言つたらいかんということなんであります。ただその本当を教えるという場合に、本当のことを受取るほうで年令が違つたり学識が違つたりするものですから、受取り方が違うから、そこは教育者が良識で判断して行かなければならん。これは私も全く同感でありまして、これを一様に何でもかんでも言えというわけではないのであります。併し高等学校くらいになりますと或る程度の批判はします。先生を実際批判します。小学校でも大分批判します。だから先生は余り馬鹿なことを言うとつたら先生は笑われます。教育ができません。やはり先生は信念を以てかからなければいけません。それだけは、はつきりしております。ただ今のように疑獄だの汚職だのということがあるというだけで、これはいいか悪いか君ら判断せいという態度はいけません。これではいかん。今の政治家は何をしている、今の実業家は何をしている、このくらいのことはやはり言つていいと思います。私はそのくらいのことをやらなくちや道義心を高めるということはできません。それだけのことは私は、はつきり言えると思います。  それで私のこの法案に対する反対理由が甚だ的確性を欠いているとおつしやいましたが、それはおとり上げようによつてはそうとられてもいたし方ありませんが、私は大体こういう法律を作るということの意図自身にも若干の疑点を持つておりますし、こういう的確な反対理由としては、私はやはり教育というものを守る、而も我々は青年学徒の将来を守るという根本の立場に立つておりますから、その点から私は、私自身としては的確な反対理由を持つていると考えているのであります。  なおこの中立性ということは、これは実はとりようによると如何様にもとれるのです。今日のように世界が二つに割れたり、いろいろな考え方があつたりする世の中に中立ということはあり得ないというのはこれは言えるのです。その中立という意味が又それぞれ違いますけれども、とにかく今日皆さん方に中立の態度をとつて職務に専念して頂きたい、こう言いましたのでは皆さん方もお困りだろうと思う。だからそういう意味においての中立というようなことは、はつきりしたものがあるわけじやありません。だから中立性を主張するという、或いは中立性を維持するということ自身がすでに政治的な性格を持つてつて中立じやないということも言えるのです。こういう法案を出すこと自身がすでに中立性を欠いておるというような見方さえあるのです。だからして中立性という言葉自身をここで論議すれば切りがありませんが、私はとにかく教育というものはやはり教育者を信頼してやらなくちやいけない、教育者を先生方を信頼しないで、先生方を脅かして、先生方をおどかしてそうしてやつてはいけない。それだけは言えると思うのです。即ちそういう意味において、やはり先生方が真実を語る、真実を語る場合にやはり是非、善悪を教えなくちやいけません。道義心を養うということが今日最も必要なことなんです、私から言えば。今日日本社会に道義心が欠けているということは皆さん御存じだと思います。この道義心を如何に涵養するかということが我々には問題である。或いは愛国心を涵養するということが問題です。そういう意味においてはその価値判断が必ず入る。これはいい悪い、これは正しい正しくない、こういうくらいなことはどうしても入ります。それを政党を支持するというような意味において言うのでないというところに中立性というものがある。これは決して自由党とか或いは社会党とか、改進党とか、共産党とかいうようなものを問題にしないのです。今日の多くの先生のかたは、そういう意味では中立性を守つておると私は思つております。決してみんながその中立性を失つておるとは言えませんと私は考えております。
  17. 剱木亨弘

    ○剱木亨弘君 今中立性の問題で私としては、はつきりと受取れなかつたので、私は教育基本法の八条に書いておることが中立性だというふうに解釈して、それにどうかと……。ソ連と二つの世界に分かれておるということの中立性ということを私は申上げたわけじやありません。併しその点は時間が長くなりますので省きまして、もう一つお伺いしたいのは、先生は第十条に「教育は、不当な支配に服することなく、」ということで、あらゆる支配、不当なる支配に服することはないということがございまして、而もそのお言葉の中に、国家権力に服することがないということをおつしやいました。私はこれは非常に問題があると思うのであります。私はこの条文においては、不当なる支配に服するということがないということは、正当なる支配には服さなければならんということを意味しておると思います。特に国家立法府を通じて法律を作り、その法律に基いた教育上の制約というものは、これは当然私は国家権力だと思いますが、これには当然に服しなければならんと思うのでございまして、この意味におきまして、不当なる支配に服するということはないということは、無制限に不当なる支配に服することはないということと考えるのでありまして、この点についてのお答えを頂きたいと思うのであります。それが第一点でございます。その次に先生は、教室でいろいろなことを言つた場合に、これが或る特定の政党と一致するが故にそれは偏向教育だと言われては大変なことだということを申されておりますが、この本の中にも、世界の平和とか、民族の独立とかいうような正しいことを説いても、或る特定政党と一致した場合には、それは偏向教育と言われるのはおかしいじやないかということを言われておりますが、私はここで資料を政府から貰つたのでありますが、日教組内のグループ活動及び教育研究大会における日共の働きかけのときに、平和と独立教育ということを共産党のほうから強くテーゼとしてこれを持出して、これを日教組の教育方針の中に応取入れられております。それでそのテーゼは、その言葉自体は、私は先生のおつしやる通り正しいと考えますけれども、そこではつきり承わりたいのは、共産党の先生がおられて、そのテーゼによつてこの共産党を支持する目的を以てこれを教室で大いにこのことを説いても、それは偏向教育にはならんのか、それをもやはり差支えないとおつしやるかどうか、これが第二点でございます。  それからもう一つの問題は、先生は真実を教える、これはもう私は全く同感と申しておりますが、この法律におきまして、私は政治活動の第一の法律についておつしやるのか、或いは中立確保法律について先短は申されておるのか、それはわかりませんが、この法律学校教育に対しまして、ここにありますような目的を以て教唆扇動した場合においてこれを処罰するという法律でもつて、教室内におきまして先生が自由なる立場において真実を教えるということを何ら制限しておるものではないと私は考えております。この点について先生が頻りに真実が言えなくなるというふうなことを申されますが、この法律のどこからそれが先生の法律的解釈におきまして出て参りますのか、その点。以上三点につきまして御説明を願いたいと思います。
  18. 末川博

    公述人末川博君) その教育基本法にあります不当な支配に服することなく、というのは御説の通り、正当な支配には当然服しろということであります。併しその不当な支配或いは不当な国家権力、国家権力なら何でも私どもは正当だとは考えません。それは悪法も法なりという言葉がありまして、まあこれでもできましたら、これはやはり法律になるから、これでやられてしまいますから、それを私は恐れるのです。治安維持法だつてあれほどの悪法はなかつた。だから占領軍が来てあれがなくなつた。それでもあれがあつたためにひどい目に会つた。悪法があるために日本がどうなるかということを私は恐れる。だからこの法律を作つて頂きたくないということを私は希望するわけです。つまり不当な或いは不法な支配をするような危険性を持つて来るものを作つてもらいたくないということなんです。私はそう考えておる。治安維持法の例を見たらよくわかります。戦時中よく言論を抑圧した、あれは国家権力だから正当だということで、しようがなかつたが、悪法も法であつた、作つたからしようがなかつた。ああいう悪法を作つていけないということを、参議院の皆さんがたは、そういうことを考えて頂きたいということを私は強調して言つておるわけです。これは特定の政党、例えば共産党に属する人、自由党に属する人が教師におりましたら、やむを得ません。これは信条の自由は保障されております。自由党のかたがおられても、改進党のかたがおられても、これはしようがありません。併しそれは教室でやつてはいけません。私はそれは、はつきりします。共産党を支持しろということを言つたらこれは勿論いけません。或いは自由党を支持しろと言つたらいけません。そのことは当然第八条の二項できめられておることだと考えます。だけれども、今私は実は日教組なんということはよく知りませんけれども、日教組の或いはあれが共産党系統のものかどうか、それも私は全然知りません。とにかく平和憲法を護れということを言つておる。民主的な社会を作れということを言つておる。そのこと自身はこれは誰が言つたつて構わんです。これは共産党員が言おうが、自由党員が言おうが、改進党員が言おうが、誰が言つたつて構わない。それだけのことは教室で言つてもよろしい。それだからというので自分のほうの政党の勢力を伸張するというようなことのために使つたらいけませんということを私は考える。そのことは当然に第八条に入ります。だからこそ私はさつきも言いましたけれども、石橋さんや或いは世耕さんがこれが学長学校を経営しておられても、恐らくそういうことをせられんだろう。これは党の如何を問わないと考えております。  なお真実を語れということを私は言つておりまして、この点は劔木さんに御同感でありますが、教唆扇動を抑えておるので、教員が真実を語ることを抑えておるのじやない。それは当然のことでありますけれども、併しこういう法律ができますと、つまり何人もという、非常にこれもあいまいな言葉使つてありますから、誰がやつた、誰からそんな話を聞いた。いや、あれは誰それが来て言つたということを探られるということになる場合もありましよう。とにかくそのこと自身によつて非常に脅威を受ける、萎縮をすることは、これは常識論としても考えられる。私はかように考えます。
  19. 高田なほ子

    高田なほ子君 牧野先生に三点だけお尋ねをいたします。  先ず第一に牧野先生にお尋ねいたしたいことは、先ほど先生は法律学者としてのお話でございました。そのお言葉の中に、今般の本法律の中に処罰の請求権を教育委員会に持たせたということはなかなか面白い、こういうお言葉でございました。これは学者として、初めての試みであつて、誠に興味が深い、研究しなければならない問題であるというふうに私は解釈をしておるわけでございます。併しながら法律学者の研究素材ではなくして、現実にこれは法律として明日の日にでもこれが通れば国民の上に重大な影響を持つものでございます。今日水爆の実験にいたしましても、科学者はまさかあれが今日日本のビキニのまぐろのように非常に迷惑をしていると考えないで、科学者として実験されたのだと思う。それと同様に、この法律学者が教育委員会の処罰の請求権が興味のある問題だというような御解釈を頂くことは、私として非常に悲しいことでございます。何となれば、今日の地方の教育委員会を設置することは日本の現状に即して時期尚早であるという参議院の良識は、実は教育委員会を地方末端に設置することに反対をした。ところが衆議院はそうした。参議院の良識を無視して遂に地方に教育委員会を設定した。そうした経緯におけるところの教育委員会に処罰の請求権を与えることによつていろいろの問題が起ることは、先般来から本委員会において非常に問題にされた。即ち偏向教育をするように教唆扇動をした場合に処罰をされるわけでありますが、甲の村の教育委員会においては明らかにこれは犯罪行為であると認定をいたしまして、その人物に対して処罰の請求権を発動するわけであります。ところが同じ条件の場合において乙村における教育委員会は、これは犯罪行為に該当しないという理由を以て処罰の請求権を発動しない。このように教育委員会の主観によつて犯罪の請求が或る所においてはされる、或る所においてはされない、こういうようなことは私どもの常識としては納得が行かない。文部大臣はそういうことは誠に結構なことであると言う。今日の近代社会において罪刑法定主義とか、私はよくわかりませんが、そういうものが刑法の原則にされているというようなことを。私はそういう本を読みますときに、成るほどこれは理窟に合つたことだと、こう考えておるわけですが、こういう点について牧野先生はまるで刑罰が、この村でやつたときにはよくて、こつちでやつたときにはまずい。まるで天災ですよ、これは天災の厄に遭わなければならないというような姿をなすところの刑法というものは、私は近代社会に許さるべきものではないし、人道的にも許さるべきものではない、こういう考え方を持つておる一人でありますが、この点について現実に即した御答弁を煩わしたい、これが一点でございます。  第二点は、第三条の中にこう書いてあります。「何人も、教育を利用し、特定の政党その他の政治団体政治的勢力の伸長又は減退に資する目的」、この目的の認定というものはどうするかという問題、非常にこれは問題だと思います。この目的を認定する場合には、その何人もいわゆる処罰の対象になる人間の平生の行動というものが克明にここにさらし出されて来なければ、目的としているか、していないかという認定はできないと思う。ここに警官が常時あらゆる人間行動調査するという、いわゆる警官の思想調査が行われる危険性を孕んでおる、私は先ほど牧野先生も警官の無用の活動ということについてちよつと述べられたようでありますが、この目的認定ということは非常に重大だと思う。これにからんで常時狙われるところの人間行動というものが克明に警官によつて調査されるのではないか。一網打尽を狙うところの法律原則がここらにあるような気がして非常に危険な気持がいたします。どうぞこの辺を私にわかりますようお願いをいたしたいと思います。私は法律専門家でございません。一般の国民も法律というもののすべてがわからなければ、何をしたらいいんだかわけがわからなくなるのでありますから、どうぞ一つ刑法などに暗い私に十分納得できるようにお話願いたい。  第三点は、平和教育の問題でございます。今日の教育の原則は、もうすでに申上げるまでもなく、憲法の精神に副つた教育が行われ、なかんづく教育の最も中心となるところのものは、平和の国家を建設するための社会の構成員を作つて行く、これが教育目的である。即ち、一人々々の子供に平和な国家を形成するため、平和主義を教えて行かなければならない。これが教育者の勝手な言い分ではなくて、国の主張である。又国民としても守らなければならない原則でございます。どんなに条約ができても、どんな宣言ができても、一人々々の子供は本当に平和主義。一人々々の大人が平和国家を建設するという固い信念を持たなければ、私はこの憲法を、日本の今日の憲法を守つて行くことはできないと思う。そこで今五十万の先生がたは声を揃えて教育、その教育平和国家としての方向に向うための教育がされている。ところが不幸にして政府は、これと反対の行動をとつている。そのために平和教育を熱心にやるような先生が非常に虐待されておる現状である。こういうような現状でございますから、牧野さんは、憲法を守るための教育者の主張というものが、今日の世代で以て守るための、法律家としての方法というようなものをお考えになられておられまするならばお示しを願いたいということが私の質問の要旨でございます。どうぞお願いをいたします。
  20. 牧野英一

    公述人牧野英一君) お尋ねの三点の第一は、教育委員会というものを用いることにしたのはどうかということでありますが、教育委員会の現状が果して信用するに足るものであるかどうかということは、私は実は心得ておりません。併しながら、先ほど末川君もお話になつ通り、民主主義の制度である、こういうことであります。それでその教育委員会の民主的な性格を利用して、いわゆる陪審制度に代るフアンクシヨンを営ましたらどうか、こういうのは、それを面白い制度と申上げるのは少し……成るほど面白いという言葉は我々が使う言葉でございますけれども、興味ある、インテレステイングということは使う言葉でありますが、ふざけた意味使つておるのではございません。学問上これは一つの試みとして、テストとしてやることで、法律というものはみな或る意味から言えば、強く言えばテストです。殊に恒久的な法律はやはりテストでありまして、こういう制度が成功するかどうかというのは初めての試みでありますからわかりませんけれども、今のところでは教育委員会の民主的な性格を利用して、陪審制度について待ちもうけている効果を挙げようとするのは、今のところではやはり面白い試みであると、ころ私は申上げたので、教育委員会の意向で罰せられるのではござません。教育委員会は人権蹂躙をチェックするために働きをするのでありまするから、今の教育委員会立場如何によつて或いは罰せられる、或いは罰せられないということになるという御懸念は、先ず御無用のことになりはしないかと思います。そういうことでありまするならば、裁判所も東京の裁判所と大阪の裁判所と違つた判決を下すことが幾らでもあるのでありまして、裁判所自身がやはり信用ならんものでありまして、かるがゆえに最高裁判所において判例を統一することになつているのでありまして、教育委員会一つのテストの制度とすることが不都合であるというふうに今私伺つたのですが、これは一つお考えを願つて、こういう制度をやつて見て、まずかつたら改正することにしたらばいいと思うけれども、よかつたらここで一つつて見るがいい、こう私は思います。こういう制度をのけて全く検事局や、司法警察官吏のやるところに従つてやるというようなことにしておくなら、却つて先ほどの御懸念の人権蹂躙の問題が起り得ると思います。  二点の目的ということでございまするが、何々の目的を以てということは刑罰法規のいろんな場合に出て来る。貨幣偽造なら行使の目的を以て、文書偽造でも行使の目的を以て、必ず何々の目的を以て、暴動でも、朝権紊乱の目的を以て、そういう規定刑罰法規にたくさん出て来ますので、場合によつてはかような動機があつたかどうかということを判定するのに裁判所が苦しむこともあり得ようと思いまするが、それがえらい問題になつたということは実際は裁判の上では判決例には幾らも現われておりません。先ず私の心得ているところではそれを最高裁判所の問題にしたような事件はないんです。目的を以てという規定のために警察官が無用な干渉を試みることがありはしないかということは、これも私は少し御懸念過ぎはしないかと失礼ながら刑法立場から申上げたいと思います。併しながら警察官が無用なる干渉をするという懸念はこういう法律にはあるので、思想とか、学問とかの自由を拘束する、法律はどの法律についてもこの懸念がありまするので、それでこそこの教育委員会を持出したということになりまするので、目的につきましては犯罪の、何と申しますか範囲を限定するために役立つものでありまするので、このために世の中の人が目的規定が危いぞと恐れる、殊に小学校の先生などは大変弱いかたがただと、こういうふうに末川君が先ほどおつしやいましたが、弱いかも知れませんが、又この法律に現われている通り団体を背景にしたときにはなかなか強いんです。(笑声)それでこの目的という規定のあるためにみんながびくびくするというほどのものでは私はないと思います。  第三に平和論をすることが危くないかということのお話ですが、平和という言葉は私どもも全然御同感申上げる次第で、常に平和論をやつておりますが、併しながらピース・オフエンシブという言葉がございます。御承知の通りこのピース・オフエンシプというので困る。平和攻勢、これが問題になります。これは実情について平和攻勢なりや或いは真に平和なりやということで判断をするということは、先ず第一次に教育委員会がやるでしよう。第二次に警察機関及び検察官庁がやりましよう。第三次に裁判所がやる。こういうことになるわけであります。先ほどこれはどなたからか再軍備のことに関連してでしたが、どなたからか、どんな政党も軍備のことは論じているのだから、軍備のことを論じたらば政党を支持することになりはしないかというような御懸念のお話もありましたが、どうも軍備のこと、例えばまあ自由党と申しましよう、自由党即ち軍備論しきやないものでしようか。即ち軍備のことでイエスと言つたところで自由党に賛成というわけでもないし、ノーと言つたところで社会党に賛成をするわけでもございませんので、やはりこの中立を守つて平和論を称える、軍備論を批判するということは政党に関係なくやり得ることであると思いまするし、やらなければならん、教育としてはやらなければならんことと思います。  そこで中立性ということはないというような御懸念の御議論がありましたが、これは時計の振子のようなものでございまして、このデス・ポイントに振子が下つてしまつてはもう動かんのです、それじや困る、やはり右へ左へ、右へ左へと動いて行く、それが一定の限度を超えるというと時計の用はいたしません。そこに中立ということがありまするので、各自が意見を持つておる以上はおのずから保守的な考え、おのずから進歩的な考えがあるでしようけれども、併しながら時計の運転がやはり時をあやまたず動いて行くようにその中立を守る、こういうことから考えますると、中立というものをそんなに窮屈にお考えになる必要はない。要するに教育家は健全なる良識によつて教育の先ほども申上げた通り父兄からして子弟を預けられた、それに失望をさせないように期待に副うように教育をするということをこの法律は望んでおりまするので、そこが義務教育の当局の諸君がこれはふるえ上るというようなことは私はどうも想像できませんし、そこでむしろ、併しながらこれによつてやはり時計が動くように右でも左でも動いて行くというふうになさるべきであつて、時計を壊してしまうようなことをなすつちやいかん。(笑声)こういうことになると思います。
  21. 中川幸平

    ○中川幸平君 末川先生に簡単にお尋ねいたします。いろいろお意見を拝聴いたしまして全面的に反対のように伺います。お話の通り東大総長の反対の意見もありまして、又言論界にもいろいろと反対の意見もあることも事実であります。とかくその教育界或いは言論界で進歩的な、殊更飛躍的な意見を発表されるようなきらいがあるように我々は感じるのです。この法律が成立した暁には安心して教壇に立ち得ない。殊に社会科の担任などは到底でき得ないというようなお話を聞くのでありますが、果してこの法律の中を十分お調べになつての話であるかどうか、私はこの法律に反対とも賛成とも申上げませんが、(「賛成じやないか」と呼ぶ者あり)仮にこの法律が成立いたしましても、教育界の絶対が、九割、九割五分までが痛くも痒くもない法律であろうと思うのでありまするが、いま一度御意見を承わりたいと思います。  又次はこの法律に直接の関係のないことでありますが、京都は土地柄に似せん従来から進んだ思想の発達したところで、いわゆる山本宣治氏もおられた土地なんです。一昨年ソ連の第一回引揚げの際に京都駅頭で非常な乱闘が演じられました。その際にあなたのほうの学生も多数参加しておつたことも承わつております。又昨年石川県の内灘の試射場再開のあの際に、政府から田中官房副長官、外務省の……(「法律関係があるのですか」と呼ぶ者あり)情報文化局長と地元民と……。
  22. 川村松助

    委員長川村松助君) 法律案関係あることですか。
  23. 中川幸平

    ○中川幸平君 あります。一緒に参つた際に、地元民との懇談のときに、それを阻止すべく五十人か七十人か知りませんが、あなたのほうの学生がわざわざ来て、スクラムを組んで非常な妨害をいたしました。私はその際に、父兄の貴重な学費を以て学業に進まなければならない学生が、わざわざ旅費まで使つて金沢まで来て、かような行動を見るにつけまして非常な寒心に打たれたのであります。たくさんの子弟をお預かりになる学長といたしまして、これらについての御見解を承つておきたいと思います。(笑声)
  24. 末川博

    公述人末川博君) 誠に恐れ入つた御質問でございますが、(笑声)それは私が申すまでもなく、今言論界或いは学界でこの法案には殆んどすべてと言つてもいいほどに反対しております。各大学でも或いは大学教授連盟とか、その他の会でも反対をしておるのは事実であります。それは行過ぎた飛躍的な人間がやつておると御観察になるのも、それはもう御観察になるかたの御自由でございまして、私どもとしては実は子供たちの将来のことを考えておるのです。こういう法律で平和を守る教育ができなくなつてしまうということ、私どもは実は何十年前に学徒出陣というような経験を持つておりまして、あんなことを繰返したらどうもならんというのが私どもの念願であります。それだから私どもは再びああいうことに追い込むような態勢をとつて頂きたくないということを考えておるのでありまして、それが飛躍的であるかどうかは、これは御判断にお任かせいたします。  なお京都は土地柄進歩的であつたり、革新的であつたりするとおつしやいますが、これは必ずしもそうではありません。随分保守的な、封建的なものもありますが、このことは法律案関係がないから簡単に申上げますが、今日の学生は何と言いましても、若い者でありますから、これらが日本政治とか、日本の経済等のあり方に対して真剣に考えておるということは認めて頂かなくちや困ります。彼らは敏感であります。これは明治維新を誰がやつたかということをお考えになつてもわかると思います。私どもはこれらの学生の立場を十分に理解して、これらを誤まらん方向へ向けるということは考えておりますけれども、彼らの正義を愛する、殊に基地の問題なんというのは、学生にとつては自分たちがこれからどのような目に会うかということを彼らの身近に考えておる問題でありまして、これに反対するということは、基地の設置に反対するということは、学生たちは昔の学生のように自分だけが出世さえすればいいという考え方をしない純真なる気持から出ているのでありまして、これは尊重すべきであると考えております。私はそういう意味で、一体教育者というものは少し先のことを見なければいけない。私は決して現実の力に屈したり、目の先の利益に汲々として、疑獄を起すようなことをやつちやいかんと思つております。そういうことに対して彼らが批判をし、正義に燃えてやるということは、私どもは助長すべきであると思います。勿論彼らは行過ぎてはいけません。彼らの中には行過ぎておる者もあります。それは十分取調べます。現在教職員の中にも行過ぎがあるというような例が挙げられておるようでありますが、それは或る場合にはありましよう。五十万人の中で何人かの例はありましよう。私の学校でも一万人もおりますと、行過ぎる者もありましよう。それはできるだけ引戻します。併しそのために彼らの純情な気持を抑えつけてはならんと私は考えております。私はその意味において、実は教育者というものはもつと彼らをよくかばつていく、彼らを正しく遂に進めていく。そうして彼らのすべてを見守つてやる。彼らを再び戦場に起たすようなことをしてはならん。私は十年前に彼らに戦場に出て行けと言つた、そういう痛い経験を持つております。私はそういうことを再び繰返したくないのです。そのために私は実は社会的にも、何とかしてこの日本社会をよくしなければならんということを考えておるのであります。そういう意味でやつて来ておるのでありまして、とにかく今日の学生運動を御覧になりましても、昨年あたりから今日にかけまして全学連でも非常に穏健になつて来ております。彼らはみずから顧みまして、みずからやつております。而もこれらが全国的な繋がりを持つてやるようになつたということは実にえらい力になつております。これは或いは邪魔になる場合もあるかも知れませんが、何といいましても昔のように自分だけよければよいという考え方はなくなつております。これは基地などでも現われております。農村なんかに行つてやるのもそれであります。自分たちの住んでおる社会をよくしなければ自分たちは立派に生きていかれない。学校に行つて自分だけが選ばれて出世すればよいというような利己的な考え方がだんだんなくなつたということは今日の教育の進歩であると考えております。これは見解の相違かも知れませんが、私はそのように考えておるのであります。
  25. 相馬助治

    ○相馬助治君 私は牧野先生にお尋ねをしたいのです。  教育中立性を守らなければならないということについては私も極めて賛成でございます。又現実には五十万の教員の中には偏向教育の事例とも見るべき間違いというようなものも絶無では私はないと思います。又今まで取沙汰されております教員組合の非難等に対しましても、戦後の混乱期の中に出発して来た非常な多難な途を歩んで来た教員組合の足跡を振り返つて見て、その中に非常に戦術的にも非常にまずいのじやないかというように指摘される点があるであろうということも当然私どもは認めるところなんです。ただ問題は、このたびは刑法の処罰によつて教育の中立を守るということを政府が考えられて来た。このことは先ほど末川先生のお言葉にもありましたけれども、その教育はただ沈黙に通ずるだけであるというところに、法律以前の問題として私は大きな問題を感じておるのです。ところが牧野先生は現にこの法律がなぜできて来るのか、現在の社会はどうなつておるのか御存じない、こういうことでありますので、私はやむなくそこは通り越しまして、この法律自体について刑法学の泰斗であられる先生に、以下三、四点疑問を質し、御教示を願つておきたいと思います。  先ず第一に、特例法の一部改正法律案でございます。先生も御承知のように、この法律は地方公務員である教育公務員を、その政治活動制限の面において国家公務員並みに取扱おう、これが趣旨でございます。そこで私が問題としてお聞きしたいことは、一体地方公務員である教員を国家公務員並みに取扱うことが法律的に妥当かどうか、このことであります。なぜ尋ねなくちやならないかと申しまするというと、私はこういうふうに考えておるからなのであります。国家公務員の規定によりますれば、政治活動の違反事例は刑法上の処罰対象になつております。その後に生れて来ました地方公務員法によりまするというと、同じ違反行為が行政上の処分にとどまつております。即ちその関係機関から排除される、首を切られるだけにとどまつておりまして、地方公務員の場合には刑務所に送られるということはないのでございます。ところが、今般はその地方公務員である教員が、政治活動の本法に規定する制限に違反した場合には、国家公務員並みに刑事上のこれは加罰行為として処分される。このことは一体筋が通るであろうかどうか、これが私が不審に思えてならない一点なのであります。  第二の点は、これは第一の質問のうちの小さな第一点で、(笑声)小さな第二点は、人事院規則をそのまま当てはめて来ると、こういうのです。ところが人事院規則自身に非常に問題があつたことは刑法学の泰斗であらせられる牧野先生御承知の通りであります。一体さようなる刑事上の処罰規定になることを人事院という一つの行政機関に白紙委任して一体よろしいかどうかということは当時非常に問題になつたわけでございます。而も人事院の考え方が変るというと、その人事院規則によつて処罰される地方公務員の処罰される尺度が変つてつてしまう。学校の教員などというものは法律をよく学んでいる暇もないのですから、わけて人事院規則というものにまで目をさらすというようなことは考えられないのです。そこでさような危険を冒した場合、さような矛盾がある場合、これは法的に一体この法律は差支えないものであるかどうか。これが私の疑問なのでございます。その次には人事院規則にようて政治活動制限の面は非常に広く且つ深いのであります。私はこれには反対でありまするが、よし賛成として、今の末川先生のおつしやるように悪法も法なりという精神から仮にこれを認めるとして、認めた場合には人事院というものは御承知のように国家公務員に対してかかる強力な自由制約の権限を持つている一方においては、国家公務員の利益保障の機能を持つております、最近あやしくはなつて来ましたが。(笑声)法律の建前からいいますと職員の不利益処分に関する審査であるとか、給与の勧告であるとか、人事院はこういう広汎な権限を持つております。こういうものを担保として人事院規則によつて公務員というものは縛られているのです。ところが今度の地方公務員の場合には何も担保を与えられずに、何も利益を守られずに首だけ縛られるというのだから、これは我々には納得行かないのでございますが、こういう一つの内容を含めて一体地方公務員である教員を国家公務員並みに縛ることはどうなのだろうか。筋が通らないのじやないか。私どもは実は義務教育職員の財政負担の面からも又日本社会機構の面からもこのことの矛盾を感じますが、卒直に法律的な立場から見て特にこの法律には矛盾がないでしようか。筋が通らないところはないでしようか。かような点を第一点としてお尋ねしておるのでございます。  第二点でありまするが、先ほど高田委員がちよつと触れられて罪刑法定主義云々というような意味のことをおつしやつたのでありまするが、私が第一点として質疑したこの疑問をいささかなり消すものとしては、仮にこの法律がどうしても必要な場合には、むしろ私はこの法律自体に制限規定を列挙すべきではなかつたかと思うのです。かような表現をすると、この法律の成立を望ましいというような心理的背景を以て述べておると思われたら非常な間違いなんですが、私はそういうことじやなくて、法律だけを問題にしておるのですが、この法律自体が制限……、こういうことをしてはならん、こういうことをしてはならんぞというならば、この法律というものがよほど取締られる対象になる人々にとつてもよいものになるのじやないか。少くとも筋の通つたものになるのじやないかと思うのでありまして、これは望ましい形として私はさように感ずるのですが、先生の御所見を承つておきたいのであります。  第三には先生のお手許に資料がおありだと思うのでありまするが、本法律案は衆議院において極めて激しい陣痛の結果生まれましたのであつて、その過程において三派共同による修正が行われたのであります。その修正の特例法に関する分を見ますと、適用は「当分の間、」とすると、かように書いてあるのであります。即ちスタイルからいうと臨時措置立法であるかのごとき表現使つているのであります。これは併し真実には臨時措置立法になつているでありましようか。かようなことをお尋ねしたいのであります。というのは、具体的に申してみますと、一体当分の間やるというが、その当分の間を規定している他の法律は何もありません。附則もありません。かようなことになつて来ると、素人考えの私の言葉になるかも知れませんが、法律というものはすべて当分の間であると思うのであります。即ち法律は、国会において成立する法律自体が次の国会に義務付けることは不可能だと思うのであります。少くとも三年後には云々と言えば三年後には義務付けているが、ただ単に当分の間と言えば、この当分の間は三時間の場合もあるでありましようし、長い目で見れば百年の場合もあり得ると思うのであります。そうすると、次の国会の決定を義務付けるようなことは不可能であると言わなくちやならない。さように言うというと当分というようなこの言葉を入れたことは、法律的効果以外のものを狙つているのじやないか。即ち本法はやがて近いうちに廃止されるのだぞ。伝え聞くところによると教員組合がおとなしくなつたらこれはやめるのだからというようなことを巷間囁いている人があるようでありますが、それは裏の話であつて法律自体は何らこの当分ということが入つたことによつて変更を見ていないのであります。先生は現在の社会事相、それからこの法律の必要性というものについてはお述べにならなかつたようでありまするから、さようなこと一切抜きにして、「当分の間」、として臨時措置法的なことを入れたこの法律というものは、非常に卑俗な言葉でいえばくわせものだ、(笑声)こう思うのでありますが、さようにはお考えにならないだろうか、これを私はこの法律について承わつておきたいのであります。で、特例法については以上三点でありまするが、議事進行の関係上中立維持のほうについて一点だけ伺わせて頂きたい。  これも問題にちよつとなつたのでありますが、請求権の問題でございますが、地方教育委員会とか学長が請求権を持つておるということがいいか悪いかなんということは私は問題にしません。教育委員会がさような請求権が与えられて負担に堪えるかどうか、現在の教育委員会が。これも私は問題にしません。私はとてもだめだと思つているのでありますが、ここでは問題にしません。そこで教育委員会自体が請求権を完全に行使し得るという前提に立つて、以下の質問をして御教示に与えたいと思うのであります。一体行政委員会である教育委員会が、この案件が教唆扇動のかどによつて当然刑法の処罰に該当するという判断がなければ私は請求は行われないと思うのです。勿論処罰されるか、されないか、わからないから請求するのですけれども、請求するからにはこれは本法違反の疑いが極めて濃厚であるという建前に立たなければ請求は現実の問題としてしないと思うのであります。そこでさような判断を一体行政委員会で判断する事例を私は知らないのであります。実は文部大臣の説明によりますと、他にある、経済事犯等についてあるということを言つておりますけれども、請求権を教育委員会に持たせるというようなこの規定というものは、先生のお言葉をそのまま引用すると、極めて面白い立法例であると思うのであります。そういうことになるというと、これは一体法律の建前からしてどういうことなんだろうか、妥当しているのだろうか、普通の立法精神から。このことなのであります。第一に教育委員会の地域によつて、地域社会の現実によつて或いは教育委員会の構成人員によつて請求するかしないかというものの差は非常に付いて来ると思うのであります。大体教育委員会が教員の利益を守る立場から請求する場合もあり得るでしよう。或いは又教員の利益を守るということよりも、自分の管轄下の教員を処罰するために、教員の、観念的に言う教員の利益と違う立場からこれを請求する場合もあつて、これは極めてややこしいと思う。而も私が非常にややこしい問題だというのは、偏向教育がなされたことについて請求するのではなくて、教唆扇動されたかされないかのことについてこれは請求するのです。ところが、この請求者についてみますと、偏向教育が行われたか行われないかは、自分の管轄においてやられたのであるからよくわかるが、どこで教唆扇動が行われたかということはこれはわからないはずです。先生のお示し下さつた通り、公然という一項が通例こうい法律の種類のものには入るというお話を聞いて、私は成るほどと肯いたのです。公然という言葉が入つておれば大分私をして満足せしめるですけれども、そういうことが入つていない。そういうことになるというと、世上言うように、本法律案は、教員よりも警官を信用する法律であるという表現をされることに対して非難する言葉を今日私は知らないのであります。そこで一体この請求権ということが法律的に見て筋が通つておるかどうか、又その運用の面において法律的に御覧になつて、いささかもこれは支障がないものと認定されるかどうか。若し極めて疑問であるとするならば、何らかこの請求権が円満に行われるため担保が必要であるとお考えであるかどうか。さようなる点をも勘案されまして、この請求権についての法的な見解について、一つこの法律を、幼稚園生を教えよるうな意味で、緒論から始まつても結構ですから、はつきりと、ははあ、成るほどと本人を満足せしめるような一つ御教示を給わりたいと思います。
  26. 牧野英一

    公述人牧野英一君) 今又私お尋ねの次第を十分理解し得なかつた点があろうかと思いまするので、さような次第になりますれば御免を願いまして、気付いた点を申します。  第一に、地方公務員、第一の問題の中が大分小分けになつております。この刑事制裁をつけたことが妥当なりや否やということのお尋ねでございましたが、先ほど私が自己調整という言葉を用いた。これはくだけて申しますれば、自重自戒ということでございましよう。我々の体にたとえますれば、我々の体がいつも病気におそわれておるわけでありますけども、常に自己調整によつてうまく行くのです。併しながら、一定の限度を越えますというと、薬を飲まねばなりません。薬を飲めば必ず副作用というものはつく、こういうことをお考え願いたいと思います。そこで実情論になりますというと、今日の実情論として、薬を飲む必要があるか、或いは放つておいて、食物を注意するくらいで治るかどうか、こういうことが実際の問題であろうと思いまするので、そこは何とも申上げるだけの準備ができておりません。
  27. 相馬助治

    ○相馬助治君 甚だ失礼ですが、私は刑法上の科刑がいけないと言つているのではなくて、地方公務員である教員に国家公務員の規定をそのまま読み替えてふんじばつてしまうということは法律的に筋が通つておりますか、こう  いうことであります。
  28. 牧野英一

    公述人牧野英一君) そうです。それが第一の御質問の小さい二です。(笑声)それで、地方公務員を国家公務員と同じように見るのかどうかとおつしやいますが、これは教育ということの性質に鑑みての規定であります。教育というものは、やはりこれは国家的に見て行かねばならんものであると、こう考えますれば、この点だけは国家公務員と同じように扱う、こう言つて一向差支えないことであります。併し、実情の上で、同じ教育でも、国家公務員の教育と地方公務員の教育とは実際こういう違いがあるのだ、こういうことを御説明願えれば私のほうで、成るほど、そういう違いもあるものですかと申上げることになる次第であります。それはどうぞ一つ議員皆さんで御決定を願いたい。それで人事院規則に任せてあるということですが、これは随分議論になることであります。人事院規則というようなもので罰則の内容がきまるというようなことは相当に考慮してもいいこであります。併し、人事院規則には国会は勝つのでありますから、どうぞ人事院規則の必要な点は国会でおきめ願いたい。それから随分人事院規則なんかでわからないことがたくさんできて、誤つて罪を犯すことがあるかも知れん。刑法のほうでは「法律ヲ知ラサルヲ以テ犯意ナシト為スコトヲ得ス」とありますが、これは大分最近の事情は動いております。それで法律の錯誤といえども、弁解するに足るだけの事柄があるときには犯意の成立がないということになつておりまして、我々は刑法の仮案の中に或る程度のことを、十分ではありませんでしたが、規定しました。最近では諸国立法例、なかんづくこの点について最も苦心をしておるのがドイツでありまして、ドイツの新らしい刑法ではありませんが、各種の法規の中には、法律を知らなかつたことについて弁解のできる間違いであるならば罪を論じないという趣旨規定がいろいろ法律に現われております。けれども又、実際裁判所について見ますというと、統制法規などの細かい法律は私どもこそ何にも知りませんけれども、業者はよく知つておるのです。よく知つてつて、やつばり犯すのでありまして、従つて裁判所法律を知らずという弁解を容赦しません。という実情があるということも御承知願いたい。(笑声)  それから人事院は国家公務員の肩を持つが地方公務員の肩を持たないのに、罰則だけをきめるというのはけしからん、これはどういうものかというお尋ねでしたが私その点の細かいことを今お答え申上げるだけの用意がございません。そういうわけで、刑罰を国家公務員並みにするならば、地方公務員の各種のことも国家公務員並みに人事院がやるということは一つの御議論だろうと思います。これも一つ国会で適当におきめを願いたい。(笑声)この法案がどうかということには関係がないと考えるのであります。それが第一の質問でありました。  第一の質問は、いろいろ列挙をしろというようなお尋ねであつたかと思いますが、成るべく列挙をするというようなことのほうが穏かであるかも知れませんし、外国の立法例には、こういう移り変りの法規については列挙をいたしまして、そうしてそれこそ先ほどのテストをやるのです。そうして盲点ができますと、次から次と補充して行くというような立法のテクニックを使つておるところがあります。そこでこの法律案の中の、特に研究をいたされております三条を見まして、これでわかると私は思います。末川君は大変これはゼネラルクローズ、概括的条項になつておるから危いと仰しやいますけれども、私は今日の裁判官の見識と責任において第三条を適用しますれば、これで先ず……、先ずと申上げましよう。誰も間違いのない人はありませんから。先ず裁判所を信頼してこの第三条の規定適用を先ず任せることができる、こういうふうに思いまして、仮にこれを一つ一つに列挙するということになりまするというと、どうでしようか、私はその問題は考えたことがござりませんので、何ともお答えができませんが、併し三つ要件がきめてあるのでありますから、これで搾りをかけるところは相当よく搾りがかかつておる、こういうふうに思います。  それからその次が当分、当分ということもなくてもいいとおつしやればなくてもいいのです。国会はいつでも法律改正することができるのでありますから、当分などということはあつてもなくてもいいのでありますが、理窟から言えば。ここに当分ということを言つたところに、こういう法律はテストであつて、やはりおのずからこの法律適用を受けるべき人々が自粛自戒をすれば何もこんな法律をこしらえておく必要はないのでありますから、先ず様子を見るために、医者の薬を三回だけお飲みなさい、こういうようなわけのものであつて、これも私の言葉をあえて用いれば面白い一例であります。同時に国会の諸君においてはこの法律は当分の法律であつたということを忘れないようによく事情を御覧下さいまして、不必要になつたときには早くおやめになる、又適当に改正なさるという方法をとつて頂きたい、法律なつたからといつてお忘れにならないようにお願いいたします。  それから最後は請求でありまするが、これはいわゆる親告罪の例によつたもので、親告罪は被害者の告訴を要するのでありますが、併しほかにそれぞれの当局の請求を待つて論ずるという例がありますのです。という一例としてこの新らしいことを考えたのですが、教育委員会が果してこの請求権を適当に行使するに堪えるや否やということになりますると、これは実情論になつて牧野の力の及ばないところであります。併しとの規定趣旨は明らかに教職にある人々を保護するためにできておるので、規定趣旨は陥れるためのものじやないということは疑いなかろうと思うのであります。
  29. 加賀山之雄

    ○加賀山之雄君 本日は牧野末川両先生から、牧野先生からは特に法律的、刑法の見地から、末川先生は主として実際問題としての立場から御指摘頂いて大変有難いと存じております。で私は、特に末川先生に実際問題として教師の不安というようなことからお述べになりましたのでお伺い申上げたいと思いますが、先生のお膝許である京都に旭丘という中学校がございます。そこに起きた事件については先生とくと御承知のこととは思うのでございますが、ああいう事例について先生は一体どういうふうにお考えになつておられるか、非常に漠然たる聞き方でございますが、御感想をお漏らし願えれば大変有難いと思います。
  30. 末川博

    公述人末川博君) お尋ねの旭丘というものと、それからもう一つ大将軍という小学校、この二つの事例が京都で文部省の何かに上つておるそうであります。どちらも実は私直接そう詳しく知りませんが、旭丘のほうのことも大将軍のほうのことも新聞で見たりしたことがありますけれども、私は一体これはPTAということが問題になると思うのであります。PTAというものが学校の中へ余り出過ぎるということは、教育者を徒らに混乱さして教育を繁ると考えております。実は旭丘のほうも大将軍のほうも内容的に細かいことは存じませんのでございますが、見方によればそれは行過ぎである、こういうようにも思われるでしようが、これを取上げて、而もそのPTAというものが二つに分かれておる、この節のことですから。それが一方が取上げて、そしてすぐ、先生がたがまじめにやつておるのを、日本人の悪い癖で、あれは赤や、あれは非国民やという調子でやつつけてしまう。そうすると一方は非常に反擬します。そんなことはないといつておる、というようなことになつて、徒らに教育界を混乱せじめておるということは言えると思います。なお私はよく知りませんが、大将軍のほうでも君が代を何か歌えとか歌うなということが問題になつたというお話でありますが、私どもそういうことについては岩手県でも問題になつたということは、私は毎日新聞の社説か何かでちよつと拝見したのでありますが、一体PTAというものがそういう場合に出て来て君が代を歌えというようなことを言うのがいかんと私は考えております。PTAのほうからそういうことを言いますと校長は困るのです。そして又教員も困るのです。これは君が代を歌うがいいか歌わんがいいかということば十分教員の間に論議をさして見て、歌うということになれば歌わしてよかろうし、又歌わさんということになれば歌わさんほうがよかろう。或いは日の丸を揚げろといつてきめてかかつて、そしてそれを一方的に押付けると教育者を混乱せしめる。先ほど行つた学生たちでさえ日の丸を掲げておるというのでフィリピン人が引込めろと言つて困つたということが新聞記事に出ております。これはいろいろな見方がある。それはやはり教員の先生がたに、教員会議なら教員会議できめさしたらいい、ところがそれは日の丸の旗を揚げるなとか、或いは君が代を歌わさんとかいうことを言うた先生がおりますと、それはあいつは赤や、あいつはいかんのやということですぐやつてしまうのです。それが実に危険なんです。だからPTAというものが大体両方の学校でも問題を起しておると考える。その点は私はPTAというものはできるだけそういうことには触れんほうがよかろう、若し言うなら個別的な問題として取上げて行かなければならんので、それは校長が困るのです。第一それは又教員も困ります。そうして今度はさあ君が代を歌え、その次にはさあ紀元節をやれ、教育勅語をやれ、それに反対すると皆赤や、そうするとだんだん昔に帰つてしまう、こういつたものさえある。これを私は非常に恐れる。そうして二千六百年というものは学校では嘘や言うて教えておるのですから、これは歴史は千九百年しかないということ台言つておる、それで二千六百年というのはそれは反対やと言うと、あの先生は赤や、いかん。こう言つておつぽり出してしまえという運動が起つて来る。そういうようなことが大将軍でも旭丘でも起つておる。だからそういうことは、ここでお聞きになつたかどうか存じませんが。先生がたの間でもいろいろの考え方がございますし、又お聞きになつた証人でもいろいろな考え方を持つておるはずであります。私はこういうことは、大体PTAというものはそういうものじやないということをいつも私は言つてあちこちで教えて歩いておるのであります。併しこれは私も実情を知らんことでありますが、これらのことが仮に十や二十ありましたところで、それを取上げて、それがあつたからというのでこういう法律を作るということは言語道断だと思います。行過ぎなら警察でも行過ぎは非常にあります。私たちの学生にもひどい目に遭つた入がおります。そこでそれならそういうような警察はなくしてしまえという議論も出て来ます。併し学生運動でも行過ぎはあります。そいつは我々が直して行く。牧野先生じやないが、こういうふうに振子でありまして、寄ります。が、現に学生運動なんか非常に立派に進展しつつあると考えております。これは一時ひどかつたこともあつたかも知れません。それはやはり自戒自粛をやつて行きます。ですから教員でも五十万人の中で何人か行過ぎたことをやる人が出て来るのは、警察官の中にむちやをやる人がいるのと同じことでありまして、これは大勢おればやむを得ません。私の学校でも一万何ぼ生徒がおりますが、偶にはそれはやります。だから皆学生はいかんと言つてしまつたらどうにもなりません。教育というものはそういうものじやない、そういうものを善導して行つて、そうして立派に教育して行くのが立派な教育だと考えておりますので、今の旭丘でも大将軍なんかでも、これはPTAというのが大体いかん、そうしてPTAを握つている連中は、これは私は教育委員会というものは公選よるもので民主的だと言いましたけれども実情を申上げたらそうじやないのが多いのであります。地方のボスがおりまして、そうして京都あたりも随分ならず者みたいなものがやつております。あれがPTAの会長かというようなのがいるのであります。それが自分たちの勢力を張るためにそのようなことをやりまして、こういうものを利用するから、実に危険であるということも言えます。とにかくこれがPTAというものを考え直す一つのものにはなりますけれども、これによつてこの法律を作るということの根拠にはならない、私はかように考えております。
  31. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 私は牧野先生にお伺いしたいと思います。二つの点について一つ意見を伺いたいと思います。  その一つは、教育公務員特例法の一部を改正する法律案の中の第二十一条の三、この中に「公立学校教育公務員の政治行為制限については、」云云とありまして、「国立僕校の教育公務員の例による。」とございます。これに関連をしまして解釈規定についてお伺いしたいのですが、それは教育基本法の第十条は、御承知の通り教育行政の項でございますが、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」こうございます。この言葉教育委員会法の第一条にもございます。「この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきである」とございます。ここの「国民全体」というのは何を指しているのかということであります。これに私の考えをちよつと申上げますと、教育委員会法或いは教育基本法言つている「国民全体」というのは、少くとも地方公共団体が設立している公立学校においてはその地域の住民を指していると思う。この言葉は一党一派に対する言葉であつて、いわゆる地域の住民の全体という意味を公立学校の場合は指していると思うのです。そうでなければこの教育委員会を地域ごとに設けられる趣旨が私は変つて来ると思うのです。若しここに言う「国民全体」が八千五百万と言いますか、日本国民全体に対して責任を持つというのであれば、教育委員会は全国民の選挙によつて行われなければならないような規定になると思うのであります。各市町村ごとに教育委員会が選挙されているということは、これはここで言う「国民全体」というのはその地域に住む住民全体を指す、こういう解釈規定をするのが妥当であると思つております。そこで私は折角の機会でございましたので、先生の御見解をお聞きしたいと思うのです。  それからもう一点は、次の義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案の第三条の第一項でございます。この第一項の終りのほうに、「特定の政党等を支持させ、又はこれに反対させるための教育を行うことを教唆し、又はせん動してはならない。」ということがございます。その中の「これに反対させるための教育」ということです。これは政府提案では「反対させる教育」とあつたのです。ところが衆議院において「反対さするための教育」と修正されたわけなんです。そこで「反対させる教育」と「反対させるための教育」とはどう違うのか、若しできましたら具体的な事例について、どう違うのかということを一つお教えを願いたいのです。
  32. 牧野英一

    公述人牧野英一君) これは今日まで私ども研究をいたしておりません問題で、教育基本法の「国民全体」というのはどういうことか、日本国民全体と或る地方々々の、何と申すか社会の考え方が違うというようなことを想像することができますと、そういう問題が起るわけですが、今日までそういうことを考えたことが私はございませんので、各地方ごとにそれぞれのニユーアンス、特色はありましようが、それがやはり合体して日本国民全体になつているので、地方別の差違を考慮しながら、やはり日本国民全体と、こういうふうに考えておりました。只今御質問の趣旨から言いますというと、その地方と日本国全体とが両立しあたわざる状況になる場合があるかのような……
  33. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 そうではないのです。言葉の解釈です。
  34. 牧野英一

    公述人牧野英一君) そうではないのですか、私は実は今のところでは極めて軽く、あつさり考えておりますので、こういうような場合がありまするというと、地方の全体には責任を負えるが、全国民に対してはどうとかというような違いの出るケースをちよつと想像しかねております。私は今までは極くあつさり考えておりましたが、なおこれは一つどういうことになるか、御質問の趣旨をよく考えまして研究いたしましよう。どうぞ差当りの答弁は御容赦願いたい。  第二の問題は、それはどうぞ政府委員のほうにお尋ねを願いたい。私としては申上げるべきことではございません。
  35. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 私のお聞きしているのは、法律解釈として違うのか、違わないのか。
  36. 牧野英一

    公述人牧野英一君) 同じことです、私の差当りの考えでは。
  37. 岡三郎

    ○岡三郎君 議事進行。非常に時間が経過しておりますし、両先生もお疲れだと思うのです。午後のスケジュールも控えておりますので、いろいろと問題があると思いますけれども、一応ここで又あとに譲つてやるというふうにして進行してもらいたいと思う。もう一時半になるわけです。昼食をとつて午後の日程に入らなければ間に合わんと思う。私も質問があるわけですが控えているわけです。
  38. 川村松助

    委員長川村松助君) 只今岡君から、午前午後の関係もあるから、この程度で一応打ち切りたいという動議が出ておりますが、同時に木村君から是非今両先生から御意見を承わりたいことがあるからという要望があります。極く簡単に二、三分だけだそうでございますから、許すことにいたしますから御了承願います。
  39. 木村守江

    ○木村守江君 私ども参議院の文部委員は、我々に付託されましたこの教育に関する二法案を最も真剣に、最も詳細に審議いたしまして、而して国家統治のために貢献いたしたいというような考え方から本日おいでを頂きまして、特に午前中においては刑法学者として、又民法学者としての両先生においでを頂き、いろいろお話を拝聴いたした次第であります。併し私は誠に残念でありまするが、末川先生から反対の理由といたしまして、学術的な反対の理由をつかみ得なくて、誠に残念に感ずる次第であります。  かような観点から私は第一番目にお尋ねいたしまするが、これは御両人にお尋ねいたしまするが、この法案ができたために非常に教職員が萎縮して困る、社会科の担当の先生が教育ができないというようなことになるのではないかというような心配を申されまするが、若しかようなことができましたならば、これこそ大きな障害となる問題でありまして、これは悪法と言わなければいけないと思うのでありまするが、少くとも私は教育に対しましては、教育の法的規制ということは考えるべきじやない、成るべく教育は法的規制から除外すべきであるというような考えを持つておりまするが、(「委員長委員長」と呼ぶ者あり、その他発言する者多し)併しそういうようなことでありましても……
  40. 川村松助

    委員長川村松助君) 木村君、法律案関係した直接の問題をやつて下さい、時間は二、三分ですから。
  41. 木村守江

    ○木村守江君 そういう点から考えましても、現在までの日本教育の状態は、これは憲法に則つて教育基本法に則つて教育をしておつたと考えるのであります。ところが今度出ました法案というものは、この教育基本法の第八条に関係する法律案でありまして、若しも今まで教育基本法案第八条を正しく守つておりました先生でありましたならば、この法案ができましても私は何ら不安がない。何ら萎縮する必要がない。ただかようなことを教唆扇動する人が刑罰に処せられるのであつて、この法案ができたから教職員が萎縮するものではないと、若しも萎縮するようなかたがあるとするならば、それは教育基本法第八条を正解していない、正しく守つていない人が、又守ることをいやがる人ですね、守らないようにというような考えを持つている人が萎縮するのではないかと考えるのでありますが、これはお二人の先生がたから御意見をお伺いしたいと考えます。  第二番目には、先ほど末川先生からお話がありました中で、大学の先生は強いから、これは国家公務員法の禁止規定があつても自由に行動ができる、やつていると言われます。これは大学には大学の教授会があるので、この国家公務員法の禁止規定があつても自由に行動できるというようなことを言つたのでありますが、大学の先生は法律を守らなくてもよいというようなお考えであるかどうか。(「政府はどうだ」と呼ぶ者あり)この御見解をお願いしたいと思います。  それから第三番目には、先ほどの発言の中で悪法だから国会で作つてはならないというような御発言があつたと思われまするが、(「その通り」「悪法だ」と呼ぶ者あり)少くとも国会で作つてはいけないというようなことは、これは国会の否定になりはしないか。(笑声)これについてお話を願いたいと考える次第であります。  それから第四番目には、あなたは非常に教育は真実でなければいけない、(「その通り」と呼ぶ者あり)これは事実を事実として伝えるだけであつてはいけない、現実に批判的でなければいけない、そうしてこれが良識ある教員と言われますが、あなたの真実というのは、これは五年か十年で変わる真実ですか。私は真実というものは、これはそんなに簡単に変わるものではないと考えるのであります。(「演説はやめて質問せえ」と呼ぶ者あり)私はかような点から考えます。あなたが昭和十七年に「歴史の側面から」という本を出しております。又昭和十五年の七月に「総動員法体制」というような本を編集されております。この中に述べられておりますところのあなたの真実性というものと、現在あなたがとつておる真実性とは相当懸隔があると思うのでありまするが……
  42. 川村松助

    委員長川村松助君) 木村君……
  43. 木村守江

    ○木村守江君 その点を御答弁願いたいと思います。若しそのことを忘れましたならば、私はここに本を持つておりますから、お話を申上げたいと思います。(「答弁必要なし」と呼ぶ者あり)
  44. 相馬助治

    ○相馬助治君 私は議事進行の発言を頂きましたので答弁の前に誠に失礼ですが……。  この公聴会牧野先生末川先生を初めとして、以下十人に近いかたがたを学術研究家として、又各職場の代表として、我々は聞くべき意見をお持ちだというので、礼を厚くしてここにお迎えして御指導を頂いておる。只今の木村君の質問の中に甚だこの公述人の名誉を失墜し、或いは発言を制限する虞れのある発言があつたかと思うのでありまして、委員長においては速記録を取調べて、これは適宜一つお取消しを願う、それらの措置を取られることを希望すると同時に、実はここに午後の公述人も私の見るところではお見えになつておる。委員の発言が不当に公述人意見開陳を拘束するような……、証人にお呼びしたのではないのであるから、これは御答弁を拒否されて、甚だしくこの公聴会が失態を演ずるこれは可能性なしとしない。私は公述することが嫌だと言つて帰られても私は御両君を引きとめる権限を何ら持つていない。どうか一つ公正妥当な措置を以て議院を運営されている名川村委員長において(笑声)これは適当な措置あらんことをこの際私は特に希望しておきます。
  45. 川村松助

    委員長川村松助君) 研究してみましよう。
  46. 木村守江

    ○木村守江君 どういうことなんだ。
  47. 相馬助治

    ○相馬助治君 取消せということなんだよ。
  48. 末川博

    公述人末川博君) それでは極く簡単にお答えをいたします、お答えする筋合のものでないと思うものもありますが。私は教育者として子供たちの未来を守りたいと考えているのが信念であります。それがこういう法案に対する私の根本的な態度であります。そのためにこの法案について木村さんが御要求になるような公述をしなかつたのかも知れませんけれども、私が実は言いたいことは、木村さんあたりに言いたいことは、一体大連文部大臣というような人は、自分の身辺を先ず教育して欲しいということであります。(拍手)我々が学校だけで教育がやられるものではありません。社会をきれいにして頂きたい。そのことをあなたがたは十分に肝に銘じてやつて頂きたい。今のような疑獄や汚職を目の前に見て、それが真実であります。その真実について我々が批判をするということが何がいかんですか。それをやらずして教育者の立場はありません。そういうことを十分に御認識願います。それからなお私は決して悪法をお作りなさんなということによつて議会を否定するつもりではありません。これは当然のことであります。議会が公聴会を開いて私どもにお聞きになるのはそのためではありませんか。これが悪かつたらこれを作るまいという心構えで聞いて頂かなければ、私どもが来て公聴会出席する理由はないと思います。私はあなたがたが折角牧野先生のような御老体をお招きになつたのは、若しここで悪いところがあれば直して、そうして立派な法律にしようというお心構えと考えてここに推参しているのであります。どうぞ御了承願います。そういう私は議会を否定するとかなんとかいう立場から、ものを申しているのではございません。  なお、大学教授は教授会を持つているから、それだから法を守らずに破つておる、こういう議論は、これは何と言つてお答えしていいかわかりませんが、とにかくこういう大学教授は現にそれが社会的に大きな働きをしておるのであります。そういう人たちこそが日本の良心であります。それだけを申上げておきます。
  49. 川村松助

    委員長川村松助君) 午前の会議はこの程度で休憩いたしたいと思いますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  50. 川村松助

    委員長川村松助君) 御異議がないようでありますから、これを以て休憩いたします。    午後一時四十一分休憩    —————・—————    午後二時三十七分開会
  51. 川村松助

    委員長川村松助君) 再開いたします。  只今から義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案の両案につきまして、公聴会開会いたします。  開会に当りまして、公述人皆様文部委員一同を代表して一言御挨拶申上げます。当委員会は、只今義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案の両法案審議中でありますが、この法案重要性に鑑みまして公聴会を開き、先生方の御意見を拝聴いたし、審議の参考に資することになりました。本日各位の御出席を願いましたところ、御多忙中にもかかわらず多数御出席頂きまして、誠に有難く御礼申上げます。  只今から御意見を拝聴さして頂くのでございますが、御発言の時間につきましては別に制限はございませんから、何とぞそれぞれのお立場から腹臓なき御意見の御開陳をお願いいたします。  文部委員各位にお願いいたしますが、公述人各位に対する御質疑は、公述人各位の御意見開陳が終りましてからお願いすることにいたします。なお、討論に亘らないよう御注意いたします。  それでは山崎先生からどうぞ御発言願います。
  52. 山崎匡輔

    公述人(山崎匡輔君) 只今委員長から、いわゆる教育法案につきまして意見を聞きたいという御招請にあずかりました。私の極めてしろうとらしい意見開陳さして頂きます。  先ず結論から先に申上げます。只今お話の教育法案につきましては、私は現下の情勢の下では遺憾ながらこれに賛成せざるを得ないのでございます。先ず、教育公務員特例法の一部を改正する法律案について申述べてみたいと思うのでございます。  そもそも、戦後教育勅語に代るものとして何らかの教育の基準がほしいという要求が各方面にございましたのでありますが、このことに応じましたものがいわゆる皆さんの御承知の教育基本法でございまして、それは新憲法と表裏をなすものと存じております。その法案の中に政治教育と宗教教育とが第八条並びに第九条に取上げられておるのでございます。私考えまするのに、宗教は個人生活に深く根ざすものでございまして、政治は国民生活、社会生活に根底を置くものでございまして、共にこれは新らしき日本の姿におきましては尊重されなければならないし、その自由が確保されなければならないものと考えております。そこで、その宗教並びに政治の自由が尊重されることは、新憲法の我が国で最も大切なことの一つであると申しても過言ではないと存じます。ただ、宗教に関しましては、事が個人生活の問題でありますので、特に同じ志を持つておる人々が集りまして私立の学校を経営し、あらかじめそれを公示する以上は、その偏つた教育も認め得るのでございます。併しこれが官公立の一般の学校では、偏つた宗教を強要するような教育は絶対に許されないのでございます。例えば仏教でなければならないとか、キリスト教でなければならない、又神道でなければならない、そういうようないずれもその宣伝の具に学校を使うということは許されない。若しそれを許すといたしますというと、これはまあ御承知の通り大変なことになります。私の申上げることは極めて常識的なことで、そんなことは聞く必要はないとお考えになるかも知れませんが、もともと私は土木の人間でございまして、法律の条文その他について詳しく意見を述べるよりも、私の感じましたことを率直に申上げたほうがいいと思いますので、大変お釈迦様のお耳に入れるような気がいたしまして気がひけるのでございますが、その点はあらかじめ御容赦を願いたいと思います。併し、学校の教職員といたしましては、そういうふうに偏つた宗教を官公立学校で宣伝してはならないということにはなつておりまするけれども、教員各位は御自分で勝手な宗教を信じようと一向差支えない。この自由はどこからも束縛されることではないのでございます。ただこれを教育の面に現わしまして、その行動をとつてはならない。  大変横路にそれて宗教のことを申上げましたが、これと非常に対照的値なりまするものが、私は政治教育だと考えておるのでございます。この政治教育のほうは、事が国民生活並びに社会生活に関係するものでありますから、教育機関におきます偏向した政治教育は官公私立如何にかかわらず一層厳重な制限を受けることが当然でございます。そこで、教育基本法におきまして、宗教に関する第九条と、法文といたしましては対句のように政治教育に関する第八条が並列されて制定されておるのでございます。これは平たく申しますれば、純潔無垢の青少年に対する教育は一党一派に偏した教育をしないという建前からなされたものであります。それは政治の自由を尊重すればするほどその必要を認めたからであるのでございます。ところがその成文は、その第二項「法律に定める学校は」という文字から始められております。「学校は」というのは学校の構内であるから、一歩校外に出れば何をしてもかまわん、或いは「学校は」ということが学校という機構であつて、それが機構としての偏向政治教育をしなければ、個人たる教員は何をしてもよい、こういうような勝手な解釈が相当ども教育関係しておりまするときに行われたのでございます。この点は教育行政に携つておりました者といたしましては、誠に困つた問題に遭遇いたしました。若しこの法文を作成いたしましたときの議事録が一般に認められるといたしますれば、或いはその議事録は法の精神を伝えるということをお認め願えるならば、こうした誤解はなかつたのでございます。一体将来の国民の政治的の考えの自由を確保するためには、その教育に従事する教職員は、おのれの意見、識見は別としまして、その言動について非常に慎重を期することは当然ではないかと考えております。その意味におきましては、他の官庁の公務員よりも、将来の国民が政治的に正しい自由なあり方を念願するというそういう目途といたしまして、どうしても守らなければならないところの線が一層明確にあるように考えられるのであります。すでに国家公務員が国税によつて俸給が支弁せられるという極めて外的の理由から、その政治活動に一定の制限を受けておるのでありまして、又受けるのは当然と考えられておりまする以上は、教育職員が中央地方を問わず、又憲法の保障する政治的自由を尊重すればするほど、税金などという目に見えるものの見地からばかりでなく、私は一層その偏向政治教育を厳に排除しなければならないと思うのでございます。事は現状から更に国家将来に及ぼす極めて重要なことと考えておるのでございます。教育という場は画一的の製品を生産をする工場ではございません。いわゆる教育の資材となるそのものは、めいめいが顔形が変つておりまするように、非常に違つておるのでございます。我が家の極めて少数の子供の教育につけましても、余り厳重にいたしますといじけます。やさしくすれば非常に放縦になる。なかなか我々はそういうような面におきましても手を焼いておるのでございまするが、実際学校におきましては、多数のこれらの違つた素材からそれぞれの特性を見付けまして、それぞれの発達を遂げさせるものでございまして、良心が非常に鋭敏なかたならば、その鋭敏なるほどなかなか学校の内外を通じて偏つた政治教育活動などをしておるいとまがないのではないでしようか。世の中には、そうした教育に本当に心から没頭して一生懸命やつて下さつておる立派な教員諸君がたくさんおるのでございます。実はこういうような法律ができて困るというのは、少数のそうした熱心の足りない教員がたではないかと考えるのであります。然るに、そうした少数のかたがたがなかなか勇ましく、大勢を引ずつて行きそうであります。又行きつつあるように考えられるのでございます。私はこの改正案にそういうような意味におきまして賛成をいたすものでございます。その罰則につきましては次の法案と一緒に意見を述べたいと思います。  次に、義務教育学校におきまする教育政治的中立確保に関する法律案について述べてみたいと思います。  今日におきましては、団体の力、組織の力というものは誠に偉大なものであることは申すまでもございません。この偉大な力が立派に公正に使われまするならば、誠に結構なことと申さねばなりません。このような偉大な力はいわば正宗の名刀のようなものでございまして、その使用法を誤まりまするならば、百害あつて一利ありません。従つて正宗の名刀を使う者は、心を澄まし精気を丹田に罷め、聖者に近い心持でなければならないと存じます。全国五十万になんなんとする義務教育者諸君、そういう人を会員とすることのできる組織は、実に大きな力を持つておるものでございます。こういう組織によりまして、給与や勤務条件、その他厚生的活動ども盛んになることは、私は心からこれを祝福するところでございます。然るに、こうした組織団体政治的に動き、義務教育職員に働きかけて、大切な将来の国民たる少年少女に偏つた政治的思想を植付けることは、前に述べました教育政治的中立性を重要と考える上から、或いは政治的、或いは思想的の自由を尊重する上から、これは国家将来のために実に重大なことと言わねばなりません。これは自由党であろうが社会党であろうが、そうした方法でその勢力を固めようとするものにとつては、最も簡単にして確実で、根本的な方法であると思います。教育をそういう面に利用することは一番楽な確実な方法であると考えます。それ故にますます事は私は重大だと考えるのであります。教員に自主性があるなしの問題ではなく、現実の問題といたしまして、余りにも大きな教育界に醸成されておるところのこの組織の力がその憂うべき方向に動きつつある以上は、ここに述べられましたぐらいな法律ではまだ私は手ぬるいと考えられるくらいでございます。只今申上げました法案につきましては、まだまだいろいろ検討する点があると思うのでございますけれども、どうしても私はこのぐらいな法案はなくてはならない。若しこれがないというと、国家将来に非常な重大な禍いをもたらすものであるというふうに私は考えております。併しながら、罰則の問題につきまして、これをどういう罰則をすべきかということは、私は先ほど申上げました通り土木を専門の業とする者でございますために、量刑の見地からこれを専門的に私はここで意見を述べる資格はないものと存じまするけれども、やはり或る程度罰則はあつて然るべきだと考えます。ただ、これが刑事上の罰則になるべきものか、或いはどういう期間どのぐらいな罰金と、こういうものに対する意見を徴さるるならば、私はそれに対しては御答弁するところの資格はないものと考えておりまするが、併しながら、この罰則があるからこの法律が効力を生ずるとのみは考えておりません。これは今日窃盗、強盗することは相成らんという法律があつても、窃盗、強盗する者がございますように、罰則ですべてが解決されるとは私は考えておらない。ただこの法案は、全体といたしまして私の考えるには、我が国の現状から見て必要なものでございます。殊に初頭に私が申上げましたところの法案の一部改正のあの法案は、これはもうどうしても必要である。殊に教育基本法の条文ではつきりしないところをはつきりさしたのでありまして、これは私はどうしても必要である。第二の問題のほうにつきましては、衆議院において御修正になりました通り、事態がすべて変りまするまでは、この法律はどうしても必要だ。で、私はこの法律ができ得る限り早く用をなさなくなることを念願いたしておるのであります。殊にこの問題が起りまして以来、大衆に媚びるための議論は別といたしまして、まじめな学者が数々いろいろの議案なすつておる問題につきまして、私も或る程度共鳴するところがございまするが、それは現状を直視しない全く生地の上に描かれた理想論でありまして、如何に私はその論説に共鳴いたしましても、私自身現下の日本の状態において賛成をすることは不幸にしてできないということを残念に思うのであります。  私が申述べますことは、大体以上のようなことで、甚だつまらない、しろうとの考えを率直に述べたまででありまして、失礼の段はお許しを願いたいと思います。   —————————————
  53. 川村松助

    委員長川村松助君) 次に、朝倉先生にお願いをいたします。
  54. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) 私は大正七年、随分昔ですが、以来幾変遷の世相の中を小学校教育実務に従事して参つた者でございます。桃太郎の話のような話になると思うのでありますが、暫らく御清聴をお願いいたしたいと思います。  この三十七年間を回顧いたしまして、私が最も生甲斐を感じたときが二度ほどございます。いずれも生死の苦を伴つたのでございまするが、その一つは、微力で附属小学校の訓導となつた時代でございます。もう一つは終戦後から今日までの時代でございます。附属小学校時代の私は自己の責任において自由な研究を許されておりました。十五年間という期間でございましたが、まるで一息で通したような気がしております。昭和八年に私は地方の小学校長に転出いたしましたが、そこで見た教員の生活は実に浅ましいものでございました。天に賜まり地に抜足する教員の姿、戦々兢々として薄氷を踏むがごとき生活の態度、それらはことごとく権力支配の下に作られた習癖に近い卑屈なものでありました。弱き者よ、汝の名は教員であるということは自他共に任じておつた有様ではなかつたかと思います。そうした教師によつて行われた教育が、命令に対する反射運動の時間が早ければ早いほどよい子供だというような無批判、無気力、そしてただ単なる物知りの子供だけが養成されておつたと私は痛感いたします。終戦後は基本的な人権の解放と共に教員も解放いたされました。一時は衣食住に事欠くほどの苦しみもございましたけれども、新憲法と教育基本法の精神をよりどころといたしまして、自己の立場に信念を以てあらゆる障害を乗越え乗越えて行ける生活は、実に明かるいものでございました。新らしい社会倫理の基盤を一歩々々踏み固め、近代的生活への適応と改善によつて社会正義の実現を夢見て参りましたことは、実に生甲斐のあつた生活でございます。  かようにいたしまして、教員も漸く人間並みに胸を張つて歩くようになり、その足元もどうやら大地を踏み締めて、希望の丘を越えるというような感じが見えて参りました。然るに最近側々として迫つておりまする前近代的な寒風のために楽しい夢が破られようとしています。今度この教育法案が成立するようなことがございましたならば、我々教育者は再びあの戦前の状態に逆戻りをさせられる。民主主義国家社会形成者を育成するなどということは空念仏になつてしまうのではないかと心配で堪りません。  先ず初めに教育公務員特例法の一部を改正する法律案について申上げたいと存じます。この法律案の通過を喜ぶ者は、この法案提出者と、最も卑屈な一部の教員だと私は思います。なぜ卑屈な一部の教員が喜ぶかと申しますと、選挙運動をしないで済むからです。選挙運動をしないで済むという教一員は、選挙運動を日教組の幹部や県教組の幹部にさせられると思つておるのでございます。こういう教員は担任児童、生徒の不幸にも無関心であり、職務上の障害にも気がつかず、ただ月々の俸給袋にだけ神経質であるのであります。選挙運動に手を出して土地の有力者に睨まれては損だと思つているのです。こういう教員は適応と改善の方向を誤つて、依然たる封建社会に適応迎合し、長いものにはまかれろ式で、有志のお髭の塵を払うために、日曜日は魚釣りのお供をし、碁や将棋で夜ふかしをするという徒輩でございます。その上近代社会生活の実践や社会正義の実現に努力するまじめな同僚の蔭口を言つたり、そういう同僚を赤だと中傷したりすることを改善だと思つているのではないでしようか。我々は余りにもかわいそうな子供を見ています。又余りにも多くの障害を持つております。肢体不自由児、難聴弱視児、その他の身体虚弱児、陽転した子供、精神薄弱児、精神異常児など、これらを合せて二〇%を私の学校では置いておりますが、特殊児童は普通児童と同じ教育を受けられないものでございますのに、その特別施設の経費がないために普通児の中でお客様扱いをされたり、劣等感に苦しんだりしております。又戦争で父を失つた母子家庭の子もたくさんございます。私の学校は二千百六十名の学校でありますが、そのうちに二百六十七名という子供が戦争で父を失つた子でございます。その多くが生活保護法該当者かその一歩手前の貧困者でございます。給食費もPTAの会費も学級費も納入できない。お正月になるのに足袋一足買えない。新学年になつても教科書も学用品も買えない。みんな市役所やPTAのお世話にならなければなりません。又完全給食の効果は十分にわかつていながら、その実施の賛否を尋ねますと、四割近い不賛成が出るのは月額三百円の給食費が困難であるからでございます。それを強いて行おうとするためには、市役所から年額百万近い補助を必要といたしますが、これは地方財政が許しません。なお毎年度末近く全職員がその校務分掌によつて学校評価を行います。そうして改善すべき点を把握いたしますが、その中には勿論自己の努力によるもの、併し教員の努力だけではどうにもならない問題がございます。これらを基礎といたしまして、次年度の教育計画乃至教育予算の編成をいたすのでございますが、職員組織の劣弱、学級児童定員の過大、教科指導設備の不足、校舎、机、腰掛け、黒板などの破損、児童図書館の貧弱、保健衛生設備の不備などく、誠に切実な問題を投げかけて参るのでございます。併しこうした切実な要求は年々歳々殆んど容れられません。それが現状でございます。而もこうした要求はまじめな先生ほど、子供を本気で愛する先生ほど熱烈でございます。自分の洋服を縫い直して教え子に着せる先生、貧困児を自分の家に引きとつてと願い出る先生などもこうした先生たちでございます。併し小説「波」の中に出て来る先生と校長との問答のように、どぶの中のぼうふらは救いきれるものではないよ、というあの校長の言葉によつて諦められるものではございません。何とかしたい、何とかしなければいられない。この切々の思いを自分の有する参政権のただ一票を投ずるだけで我慢ができるでしようか。いやそれで我慢する先生が真に国民全体に対して責任を負う教育者であるというのでしようか。彼の宋の愚人は、痩地に生えた麦を一本々々引つ張つて枯らしてしまいました。日本教師は痩地に生えた麦とよく似た状態にある児童生徒を育てているのでございます。児童生徒の育つて行く畠を肥やさないで、児童生徒だけを引つ張つたら枯らしてしまうのです。児童の生活環境をよくするのには、何と言つて政治の力が第一でございます。そこで、教育振興の熱意に燃える人物を国会に送りたいというのに、それがどうして禁じられなければならないのでしようか。国家公務員である大学の先生からもこの権利は奪つてあるのだから、お前たちからも奪い去るのは当然だというのでは、私にはどうもこの熱心な先生たちの気持がかわいそうでなりません。  次には、義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案について申上げたいと思います。この法律案を拝見いたしますと、目的は誠に結構で、結構な言葉表現されております。「義務教育政治的中立確保するとともに、これに従事する教育職員の自主性を擁護する」と謳つておるのでございますから、それがその通りならば文句はないのでございます。併し、第三条以下を見ますと、能書きとは違つたお薬だという感じがするのでございます。すべて或る目的を達成するためには適切な手段が必要でございます。適切な手段とは何かと申しますと、大体応病施薬の精神によるものだと存じます。この応病施薬は、先ず診断を的確にすることから始まります。病気でない者を病人にしてはなりません。この間或る親がこう言います。近頃の子供は生意気にばかりなつて学力がないと申しますので、どういうのですかと尋ねてみますと、こうです。わかりもしないのに新聞などを読んだり、図々しく町役場でも、郵便局でも、警察でも、どこへでも平気で入り込んで行きまさあね。そうして、やれこれはいいの悪いの、町に子供の遊び場を作つてくれとか、町を発展させるためにはどうすればいいのだとか、まるで町会議員でも言うようなことを言うんでさあ。それでいて三府四十三県の名を言つてみろと言つても知らないし、利息の公式を聞いても知らないのですよ。こう言うのです。私はこの親の話を聞いて、一面喜ぶと共に、他面こんな親の言葉に輪に輪がかかつて、そうして誤まり伝えられ、いわゆる偏向性教育が行われるというような診断になることもあるのじやないかと心配いたしました。現在義務教育学校教育政治的中立性を失つている病人であるかどうか。この点については本当にまじめに考えなければならないと思います。これが根本だと思うのであります。文部省ではそちらこちらに聴診器を当てて御覧になつて、病人だと診断されたようであります。併し、又このことは、勿論五十万教職員のうちの極く一部には偏向性教育をやつた者があるかもわかりません。丁度回虫を持つている子供のようなもので、回虫がわいたからと言うて、ヘキシールレゾルシン以上に非常に強烈な虫下しを飲ませますと、その副作用が恐しいと思うのであります。問題は子供を健康にすることと私は思います。極く僅かな虫がついていたつて、それが五十万教職員のすべてである、まるで五十万教職員全部が回虫だと、こんなようになつては大変であります。又現在は発病していないが、この法律は予防注射だと、いろいろな話を伺つておりますが、いずれにいたしましても、このお薬には相当激しい副作用があると思うので、飲ませないほうがいいのじやないかと私は思うのです。このような法律を強いて出さなくても、現行の教育法規適用を十分にいたしますならば、一部に行われる偏向性教育を排除することができるものと思います。  さて、その副作用のことでございますが、この法律において処罰の対象になる者は、いわゆる偏向性教育を行なつた者ではなくて、そうした教育を行うことを教唆扇動した者である。従つてまあ九割九分九厘の先生は心配するに及ばないのだと申されます。併し教唆扇動の有無を我々の日々の教育活動の中から探索することになるだろうということは、決して杞憂ではなかろうと思います。そうなりますと、これを探索する者がいろいろ出て参ります。第一に刑罰を加えるという建前から当然警察官が学校教育の場に踏み込んで参ります。第二は、遺憾ながら教員相互の探索もときには行われないとは限りません。第三には、何かの感情的なもつれなどから父兄が子供を通して探りを入れることになるかも知れません。又こうした故意の探索ではなくても、子供が家に帰つて親に話す言葉が、端なくも偏向教育らしく受取れる場合もあることと考えます。なぜならば、子供の理解力や把握力は多くの場合部分的であつて、総合的でございません。その上判断力も批判力も不十分でございます。まして言葉も不完全でございまして、例えば誰かが悪いことをしますと、その子供にどうしてそんなことをしたのと聞きますと、私ばかりじやない、みんなやつたのです、先生。みんなと言うからどれほどやつたかと思つたら、隣の子供一人なんです。単数と複数の区別もつきません。そういつたような言葉の不足というもの、いろいろでございますが、だからこそ教育する必要があるのでございます。ややもすればこうした子供の力を知らない観たちが、子供は正直だよ、子供の言うことに嘘はないよというので、この子供の言葉そのままを事実として信ずる親が相当多いのでございます。  このようにしてけんのんな空気がその学校の中に入り込んで来る懸念があるのでございます。そうなつては疑心暗鬼で安んじて教育することができなくなります。いや心配するな、この法律では罰せられないのだからと申されましても、教育公務員特例法の一部改正によりまして、国家公務員の例によるということで、国家公務員法の百二条が適用され、そうして人事院規則の何かむずかしいのがたくさんありまするが、あの第四、第五などに照らし出そうとする詮議を受けることがこれから誘発されるのではないでしようか。特に第三条の第二項を見ますと「良識ある公民たるに必要な政治的教養を与えるに必要な限度をこえて、特定の政党等を支持し、又はこれに反対するに至らしめるに足りる教育を含む」とありまするので、これは我々の教育活動そのものが問題点となつておるのでございます。そこで必要な限度ということが私たちには非常にむずかしいことになります。場合によつては危いからというので必要なこともやらない結果になるかもわかりません。これを私は惧れます。我々が児童生徒の教育をする場合は、教え子の成長発達の度合に応じてできるだけわかるように、できるだけ身に付いた教育になるようにと最善を尽すところに限度はございません。それでもなかなか身に付いた教育にならないことを嘆いているのでございます。身に付いた教育をするには、生徒児童の生きた経験を基盤にして新らしい経験を類化想像させ、批判創造にまで行かせなければなりません。それにはできるだけ具体化することを第一の条件といたします。児童生徒の生きた経験は家庭及び地域社会の事象そのものでございまして、政治関係のある問題が非常に多いのでございます。又社会科は勿論でございまするが、家庭科、理科、算数、国語等の教材には多分に政治的教養のためのものが入つております。我々はこれらを教育の糧として考える人間を作りたいと思つています。自主性を次第に高めつつ批判力を養い、想像力を培つて、住みよい社会を建設する二とのできる力、即ち政治的教養を身に付けてやりたいと日々苦労を重ねておるのでございます。こうして良識ある公民たるに必要な政治的教養を身に付けさせることができますなれば、この子供たちは将来各政党の政策を批判して或いは或る政党を支持し、又はこれに反対するに至るでありましよう。又そうならないような教育は単なる物識りを作るものであり、新憲法に基いた教育基本法の精神に停るものではないかと思います。然るにこの法律によりますと、或いは私の錯覚かもわかりませんが、教育基本法の精神を具現する教育をすることが処罰の対象となり、あいまいな教育をして自主性も批判力もない人間を作る教育のほうが是認されるような感じがしてならないのでございます。こうなつては先生ほど楽な商売はないことになりますが、国民教育の沈滞は必然であり、国家の将来は実に暗澹たるものがございます。  最後に、私は現在教育基本法第八条の規定従つて教育をしておるのでございますのに、どうしてこのような法律を出し、この激しい副作用に苦しめられなければならないのか、実に心外でたまりません。聞くところによれば、日本五十万の教職員が日教組の支配下に盲従していてかわいそうだから、その支配から解放してやるのだとか、日教組の指示命令によつて偏向性教育が行われているから、これを国の責任において是正するのだとかおつしやつておられるようでございまするが、これは我々教育者の自主性も主体性もお認めにならない、そうして国家権力を以て左右しようとするものではないでしようか。勿論我々にも幾多の過ちもあつたことでしよう。例えば思い出すのでありまするが、終戦後のあの混乱の中において、我々の仲間の中に相当激しい行動に出た者もございます。併しそれが次第々々に落着いて参りまして、最近は全国をあさつてみても、二十数件の病人らしきものが出た程度ではないかと私は思うのでございますが、その過ちはみずからお互いの自粛自戒によつて今日の程度にまで是正されつつある今日ではないかと思います。即ち教育者自身の反省と自覚と、その相互啓発によつて自主的に解決することを本体とし、万止むを得ない場合は現行の教育法規によつて十分に措置できるものではないかと思います。何をか、かかる法律を改めて制定する必要がございましよう。  以上現場人の立場から鄙見を披瀝いたしまして、私の公述を終りといたします。
  55. 川村松助

    委員長川村松助君) 次に伊沢先生にお願いいたします。
  56. 伊沢甲子麿

    公述人伊沢甲子麿君) 伊沢でございます。申上げます前にちよつとお断りをしておきたいと思いますが、私都立杉並高等学校に今勤務しておりますが、杉並高等学校の教員を代表して申上げるというわけではない。もう一つは、都立の高等学校の教員の代表的な意見だというふうにとられては困るのです。それでなくても私が最近書きました或る雑誌の論文を或る政党が無断でそれを借用して、そしてそれを全国にばらまいて、こういう学校の先生がこういうことを言つておるじやないか、だから日教組のほうはどうのこうのと、まあ日教組を叩くために利用したんでしようけれども、私の書いたものを私に何の断りもなく出した政党がございますから、それだけは固く断つておきます。それから私の個人の性格ですが、非常に毒舌家でございまして、私の恩師の辰野博士から免許状をもらつたものでございまして、あなたがたの気に障るようなこともちらつとしやべるかも知れません。それから私の大叔父伊沢多喜男も私にだけは頭を下げておつたほど毒舌でございますから、それだけは前以てお許しを願いたいと思います。  それで、申上げますが、教育の問題ですが、余り私は四角張つてものを言いません。私はやつぱり民主教育一つの建前というものはやはり不偏不賞だと思います。中立何とか、中立というとおかしいですが、中立という言葉はいろいろあいまいですが、中立でなくて不偏不党だと、何党に属するような、個人的に属するのは構いませんが、それを教壇に持つて来て何党に属すがごとき態度をとることは非常に問題だと思う。これをやりますれば、小さい子供は自分の親父やお袋よりも聞きますよ。今のように我々教育者が馬鹿にされておる時代でも、自分の親父やお袋の言うことよりも先生の言うことを聞きますよ。だからそういう意味においても、義務教育者は教壇において一党一派に属するような発言は小さい子供には差控えてもらいたい、それは私ははつきり申上げます。なぜかと申しますと、私は高等学校日本歴史を教えておりますが、教えておりますと、一番驚くことは、中学校を出て来た子供が、非常に驚くのですよ、日本の国の歴史のことで子供が知つておるのは八日市という市場がどうだというつまらないことは知つておるけれども日本の国がどうして生成発展して来たかということはまるつきり知らない。案外子供のくせに、子供のくせにというといかんかも知れませんが、農民が搾取されたとか何とか、どこどこの代官が苛めてひでえ目に会わしたということはよく知つておる。山びこ学校の本なんて読んでみるとそれが出ておりますが、そういうことを知つておりますが、日本の国の我々の偉大な先祖たちは少くとも輝く二千年の歴史を構成して来たということはまるつきり知らないんだ。私はこれは日本歴史の教師として非常に慨歎に堪えない。日本の偉大なる人物と言いますか、そういうような、我々のいわゆる憧れの的とも言うべき人物などはまるきり知らない。そうして割合に歴史上のそう大きな問題でないと思うことはべちやべちやよくしやべる。そうして一番恐ろしいことは、日本の国というのはつまらない国だというような、そういう考え方を何だか、どこで植付けられて来るのか知らないが、植付けられている。私のほうに入つて来た子供がはつきり言いました。再軍備なんと言うようなやつはみんな悪いやつだ、絶対に平和でなければいけない、そういう政党でなければ駄目なんだ、あとのやつはみんな我々若い者を軍隊に持つて行くためにあんなことを言つているのだ。これは私の甥なんですが、高等学校言つてもいいのですが、名前を言うと、その高等学校から文句を言われると悪いから言いませんが、私立の有名な学校ですが、その私の甥が言うのには、実際学校の先生なんかが言つておる、保守党のやつはけしからん、保守党のやつはじじいが多いから、だから兵隊にとられやしないから若い者が兵隊にとられる、それを保安隊だ、へちまだということはけしからん、我々はみんな弾よけにされてしまう。誰がそんなことを教えたかというと、何々先生が言つている、全然同感だ、おれたちも殺されちやたまらないから反対するのだ。実にその表現法が問題だと私は思うのです。いろいろ事例を挙げてどうのこうのというと、問題になりますが、私は証人じやないので意見を述べますが、表現法が問題だと思うのです。ともかく今の教員組合の、日教組の根本の目標というのは、先ほども午前中の質問などを伺つてつてもわかりますが、再軍備反対、可愛い教え子を戦場に送るな、誠に美しい言葉で飾られているのでありますが、自衛力までも否定しようとする勢いが非常に強い、そのスローガンで進んでいることは確かなのです。全国の学校の先生が若し団結してこういうことを小学校、中学校の先生が言つているのだとすれば、言つているのかいないのか、実際のところ小中学校の教員ではないからわかりませんが、言つているのだとすれば、私は国家の自衛という観点から言つて憂うべき問題が起る。これは共産圏の国々を利するだけであつて、我が日本はただでさえ丸裸なのに、いつまでもこの丸裸の状態を続けなければならない。これは私の非常に憂うるところなのであります。というと、お前は学校の教員のくせに、憲法を絶対に守ると誓約書を書いて高等学校の教員になつたのに、さてはお前再軍備賛成だ、憲法違反でどうのこうのと、早速質問があとから出るだろうと思います。それは覚悟しておるのでございます。私はよく新憲法の解釈が、法律専門家じやないからわかりませんが、私の解釈するところでは自衛力は認められていると思うのです。芦田均先生でございましたが、そのかたもどこかでおつしやつておつたような気がするのでございます。自衛力は認められるというようなことを新聞で述べておられた。私もその意見に賛成なのであります。そういう意味から言つても非常に自衛態勢を崩すという、そういう方針が確かに盛られている我々の所へ来る新聞、今日持つて来ましたが、毎月毎月来るのですが、日教組の新聞、その教育新聞というようなものに出ているのは大概その問題なんです。私はこれでも日本の国を憂うる者として、過ぐる日の戦いに学徒出陣で青春の夢を捨てて身を以て海軍予備学生として砲煙弾雨の中へ身をさらしたのです。私の友人が、ああ日本日本がと言つて死んで行つた姿をこの眼で見ている。それは「きけわだつみのこえ」の映画に現われているように、軍を呪い、日本を呪つて死んだやつなんかいない。一部にはあつたでしようが、みんな日本の国を守りたい、負けたくないという気持で死んで行つた、これだけははつきり申上げます。その私の友人たちがあの世で、又靖国神社で以て何と言つているか、今の現状を見て恐らく泣いていると私は思うのです。骨抜き同様にいつまでなつているのかと泣いているのじやないかと思う。私も実はこの戦後八年間というもの教員をやりましたが、私がどれだけ苦しかつたか、よく左翼の人が自分たちは町のPTAのボスからいじめられたとか、何からいじめられたとか何とか言うが、私が何か言うたびに右翼だ、何だかんだということを、ひどいデマが飛ばされた。そうして先ほど先生がおつしやいましたが、同僚で中傷する人が学校の教員にはいて、それが司令部に訴えるというような人間もいる。私は別に軍国主義を鼓吹したわけでも何でもない、    〔委員長退席、理事剱木亨弘君着席〕 又再軍備を演説したわけではないから平気ですけれども、ともかく私の気持として実に憂うべき状態があつた。この八年間、天皇陛下を好きだということさえも言うと、変なふうにすぐ言つた人が多い。私が都高教の中央執行委員なつたことがありますが、私みたいなものがなつたのは不思議ですが、そのときに立候補の演説で昭和御維新の断行ということを言つたのですが、凄いことを言つたはずですが、それでも私に投票した人間がいざとなつてみると案外多い。たしか私が第二位で薄井君の次に当選したと思うのですが、そのときに、私が個人的に天皇陛下は好きなんだということを言うと、とんでもないことを言うとすぐ言つた人がある。私ははつきり言つて天皇陛下が好きでしようがない。直接個人的に知り合いじやありませんけれども……(笑声)  そこで、そういう意味においてともかく共産党、そういうふうに色をつけるのはどうかと思いますが、ともかく現在の日教組の一つの主流になつている人が全部とは絶対に言いません。併しその中のかなり有力な人が相当左翼的な思想を持つていることは事実です。それでなかなか頭のいい人が多い。私のように低能の人は少い。なかなかうまいことを言つて日本の自衛力を高めない方針に着々と持つて行く、私はそう感ぜられる。お前は証拠を出せと言うかも知れませんが、私は第六感でそう思う。人間第六感があるのですから……、第六感がないのは動物だけだと思います。そこでその意味において私が今新聞の一部を皆さんにお読みしましよう。それより事実はまだたくさん持つておりますが、持つて来るのが重くてしようがありませんから、時間が長くなりますから一部分だけ読みます。こういうことが書いてあります。これは一月二十二日のやつでして、その中に書いてあるのですが、「本当の平和がくるまで、或る教師から」と出ております。『先般東北地方の或る高校の先生から編集部に年賀状が届きました。次はその概要です。新年おめでとうございます。一九五四年は、是非とも平和を守るための闘いの年としたいものです。最近の社会は、ますます私が学校に行つていた頃と似て来ているようです。これは私の想い出なのですが、中学生のとき予科練を受けようと思つて担任の先生のところに出かけました。「君たちは勉強がしたくなくなつたのか、学生のときは勉強することだけ考えなさい」、消極的な言葉ではありましたが、そのとき「良いことだ頑張れ」と言われていたら、私の生活は間もなく終つていたかも知れません』、これは学校の先生は君たちは勉強しなさい、勉強がしたくなくなつたのか、予科練なんか考えないで勉強しろと言つたのだと思います。それをこの人が感激したと思います。「憲法学習運動をやつても弾圧される社会になりました。併し現在の私たちには大きな力を持つ組織があります。今年こそは、いや、本当の平和が来るまで、皆様と共に闘いたいと思つています。」、一つ組織を頼りにして、そうしてこういう保安大学に学習するような学生を諭すとか、又は何と言いますか、憲法擁護という建前の下に自衛隊の漸増を阻もうというような意向が相当見られるのじやないかと思います。殊に保安大学の受験生を諭すなんて、私は問題だと思います。入学するのにどこを受けようと自由です。それは教師良識において……。それがパンパンガールになるとか、それから万引きをやるのは、やつちやいけないととめるのは当然ですが、保安大学に行つちやいかん、商人なんかなつちやいけない、皆んな政治家になれと法学部に勧められたら、商学部に行くのはいなくなる。保安大学に行くのを諭したというふうに出ておりますが、これは事実だとすれば大問題だと思う。  ともかく、こういう風潮があるのは、何も私は教員組合とか学校の先生の一部だけを責めようとは思わない。こういう風潮を作つた戦後の評論家だとかジャーナリズムに責任がある。そういうものが持ち上げるのですよ、先生がたを……。天真爛漫な先生がたは乗つてしまう。先生はすれておりませんから、職員室の中しか見ていない人が多いのですから、私はそういう面でも非常に問題がある。ともかく学校の先生は不偏不党であつて、そうしてそれにおいて自分の信念とか、そういうようなものはそれは場合々々によつて述べてもいいと思いますけれでも、併しそれにも述べ方があると思う。対象が小さい子供だつたときには、常に述べ方を考えなくちやならん。教師としての述べ方を考えるべきだと思います。  それからこの法案で、公立学校の先生を国家公務員なみにするということに対して、非常に反対しているのでありますが、私は国家公務員になつたから学校の授業がろくにできなくなるというようなことは考えられない。国立の学校でも立派な授業をやつているのでありまして、公立の学校より国立の学校がうまく授業が行つていないとは断定できないのでありまして、そういうことだけで教育が駄目になるとか、ほれ、我々の口が塞がれたとか、手枷足枷がかけられるとか、すぐそういうことに持つて行くのは飛躍した考えではないか。半面におきまして、午前中聞いておりましたところで、末川先生のおつしやつたことでぴんと来るのですが、PTAというものが非常にボスが支配しておつて、そういうものがあの先生は赤だとか何とか、田舎なんかで言う人があることは事実です。私のようなこんな思想の人間、私は青森県に満一年四カ月、足かけ三年いたのですが、私はこういう性格でありますから、県会議員だろうが町長だろうが、何が来ようと、市長が来ようと、思うことはぽんぽんやつつけて、満座の中で罵つたことがあるのですから、そしたら私の行つたあとで、ここらは殆んど自由党ですが、あの伊沢は満座の中で罵つたが、あれは秘密共産党員であつたらしい、新聞に出ておりますが、青森の三戸新聞というゴロ新聞がありますが、その中に出ておりました。教え子が何か怒つてつて来ましたが、私が帰つて来たあと、こういうことが書いてあつた、新聞社襲撃するのだと、生徒が憤激しておりました。そういうことを書いた新聞もあるのですから、それは確かに非常に問題があると思います。併し私はこの法案ができたからといつて、無実の罪の人をぼこぼこつかまえるということは考えられない。やはり調査すればわかるのであつて、例えば政治的にいろいろ発言するとしても、特定の政党のために明らかに走狗となつたと断定されたり、又は或る特定の目的を持つて、例えば世界共産革命を企図して、そしてその生徒を指導しておつたというようなはつきりした事実がわかればともかくも、そうでないような人たちがこれと同じようなケースに入れられて、片つぱしからつかまえられるのじやないかというふうに心配するのは行過ぎじやないかと思います。そんなに心配することはないと思うのです。  それから、それよりも私は却つて恐れるのは、近頃でもそうですが、終戦後特にそうだつたのですが、却つて私が心配するのは日本のお国のいわゆる美しさとか、それから曾つて日本のやり方にもいいところもあつたのだ、又は太平洋戦争などにしても、日本ばかりが悪かつたのじやなかつたというようなことなんかひよつと言いますと、却つてあいつは右翼だとか、恐るべきことを言つたとか何とか、評論家や言論人が一緒になつてぶつたたく。勿論同僚の教師なんかもどうのこうのと言う例もあるのであります。これは私一番いい例を挙げますと、映画の問題ですが、学校で生徒をときどき映画へ連れて行くのですが、そうしますと、「戦艦大和」という映画があつたのです。その映画を映画研究部の部長の先生が連れて行くというふうにきめた。映画研究班の者だけですよ、何も生徒全部じやないのです。希望者だけ集めて連れて行くと言つたら、やはり学校の映画研究班としてそういう「戦艦大和」というものを見に行くというのはちよつとどうかと思う、世間から軍国、主義と誤解されやしないかと言つて、左翼でも何でもない人ですが、心配して早速それに反対を唱えて、それは行かせないほうがいいと言つて、非常に職員会議でもめたことがあるのです。大和なんか軍国主義でも何でもない。ちよつと軍艦マーチが聞かれるだけですが、私は「ひめゆりの塔」や「きけわだつみのこえ」は学校でこそこそ行くのです。左翼の映画だつたら大して批判もなくぞろぞろ連れて行く。「ひろしま」なんか圧力があつたと言いますけれども、いろんな学校が見に行きます。ところが「太平洋の鷲」ですか、「戦艦大和」ですか、「叛乱」という映画ですか、あんな映画のときはどうのこうのと言われやすい。正直に言うと子供たちは、ほかの学校のことは知りませんが、今まで教えて来たいろんな学校の生徒がよく手紙をくれます。一番感激したのは「太平洋の鷲」、「叛乱」だつたと言つております。特に山本五十六さんは感激したと、子供たちは正直ですから。そこで、ともかくそういうような状態でありまして、こういうように私は、却つて右と言つちや失礼だけれども、ともかく左翼の人から見れば右と言われるでしよう、右の人はよほど不自由している。思うことも言えない。そういう人たちは自分の言動を慎しんでおるから言えないのです。そういうことも非常に問題だと思う。私この法案が出たことを教師立場として、教師にいろんな足枷、手枷をかけるという考えからいつて、本当を言うと余り心から全面賛成というふうに叫びたくない立場なんですけれども、現状がこういう新聞やなんかで宣伝されたり、又各組合の情宣部でそういうふうな国際情勢をプリント刷りにして配つて来ておりますが、それなんか教員を啓蒙する意味で配つて来ておりますが、それなんかに書いてある物の見方というのは、実に一方的な見方なんで、お伊勢さんの神社の、この前式典がありまして、そこへそんなのが復活したのは軍国主義の集りだから、軍国主義の芽生えだから、学校の教員は団結してこれを警戒しろとか、そんな意味のことを言つて来たり、このすぐ前の日教組の新聞でしたか、皇太子殿下の悪口を笑話みたいな形で書いてあつたり、アメリカ軍が日本から撤退するというデマをばらまく、フランケンシュタインの復活ですか、これはアメリカ軍のことを言つているのでしようが、西ヨーロツパを抑えるので、軍国主義が起りつつある、ナチスの復活だとか、いろんな一方的な見方の国際情勢のパンフレットみたいなものを学校に送つておる。組合にこういうものを配つて来て、ものを知らない先生方は、ものを知らない先生方と言つては失礼ですが、そういうものに知識のない先生、無批判に盲従する、盲従すると言つてはおかしいですけれども、信用する虞れなしとはしない。そういう点でも、私はこの法案はまあ実に涙をのんで、現状においては涙をのんで賛成する。それが私の偽らざる気持です。  実際、こういうところへ私が立つのでも、実は悩んだのです、はつきり言いますと。個人的な話になりますが、私これをやることに同僚や友人たちが皆とめたのです。これをやると、皆、お前は教員の裏切者だとやつつけられる、お前の思想はわかるけれども、お前の思想通りにはとつてくれない、だからお前はきつとやられるぞ、そういうことを言つて忠告してくれたのもありますし、昨日ですけれども、或る人が来まして、これは組合に関係している人ですが、個人の立場で来られました。その人がいろいろ私の立場を聞きに来ました。別にその人は私を抑えるために来たのではないでしようが、とにかく反対だ、我々の気持はこうだということを私に教えに来てくれたのです。ともかく周りから私がここに立つのは、この壇に立つのは余り賛成する人は殆んどない。それはこの法案に賛成している人でも、先生でも、こんなことを立つてしやべれば、お前はあとからごてるから、とんでもない目に会うかも知れないというような心配をなさつているかたもある。そんなこと私はこの思想の自由の世の中に、又言論の自由の世の中に、最も自由々々を叫ぶ組合幹部諸君が自由にものを言つたつて、これをいじめるとか、あとから復讐をするというはずはない、そういう自由を尊重する人たちだから、自由に聞くだろうと言つて私は出て来たのです。そして今日この二法案に賛成いたします。ただあとのほうに、刑罰に処するというのですか、刑事犯みたいなことに罰則がなつておるのですが、このところはちよつと私はどうかと思うのですが、一年以下の懲役ですか、それから又三万円以下の罰金というふうになつておりますが、この罰則はもつと学校の先生をやめさせるとか、別な処置をとる方法がなかつたかどうかということも考えるのですが、併しこういう法策を遂に断固出した大達文部大臣は、これは私はよほど悩んだ末、私のように悩んだ末にこういうことを考えただろうと思います。私は大達さんは全然知らないのです。ここにいても、どこにいるのか顔が全然わからないのですが、いたらあとから手を挙げて頂きたいのですが、(笑声)私の死んだ大叔父伊沢多喜男が、あの大連というやつはちよつと見どころのあるやつだということを若いときに言つていたところを見ると、立派な人なんだろうと思う。そういう人がやつたのだから、私はこれは相当悩んできめたのだろうと思う。この罰則については何とも私の意見は述べられません。私はよくわからないのです。実際言うと、こういう刑罰をきめるのは、もつとほかの罰則がなかつたかというふうにも考えます。併し、ともかくもこの法案目的には賛成です。現状においては止むを得ないと、こう思います。  以上が私の気持でありますが、それ以外にもう一つ言いますが、現在私の憂えていることで、これは大事なことですから、最後にもう一つ言いたいのですが、現在の学校教師がとかく政治家の真似をしたがるのです。これは非常に問題だと思う。非常に現在の学校教育者は……、教育政治関係がありますけれども、いわゆる政治家の真似をしたがる。これはどういう理由でそうなつたか、私もいろいろ考えておるのですが、ともかく校長クラスの人では、非常に自由党の県会議員だとか、都会議員だとか、そのほか代議士だとかいうのと組んでいろいろうまいこと働く人もある。それから校長クラスの人で、社会党系の人と手を組んでうまく動く人もある。そういう政治的にうまく動く人を名校長だとか、教員でも議員なんかに当選する人を偉い人だというように考えている人が随分多い。これは私は問題だと思う。そういう者を偉いと考える考え方は非常に問題だと思う。これはそういう考え方がないわけではない。お前一人の考えだろうと言うかも知れんが、そういう考えを持つている人が多い。そうして一例を挙げますと、私が青森県にいたときに事実この身で体験したことなんですが、これは甚だ自由党のかたに耳が痛いのですが、黒板に丁度独立後最初の選挙、何年であつたか忘れましたが、その選挙のときに、青森県から或る代議士が出た。その人が演説してぐるぐる廻つておりました。その選挙がいつといつてまだきまらないときでした。夜高等学校の講堂で施政演説会をやるというので、私たちの高等学校の教員室に大きく何々代議士何月何日本校に来校して講演会ありと、大きくその人の名前が黒板に書いてある。それで私は朝の職員朝会のときに、こんな名前を書くのは何事だ、選挙違反だから消してしまえと言つて、私はどんどん消してしまつた。そうしたらなめくじみたいな面をした教頭が出て来て、冗談じやないと言つて私が消したのを又黒板につけた。私が消したら、又つけた。それでけんかになつたから、次の日に職員会議に持込まれた。校長が立つて次の日の職員朝会にこういうことを言つた。本日何とか先生の話がある、どうぞ皆さんは各ホーム・ルームに行つたら、今晩その先生の話があるから、生徒にその先生の講演を聞くように勧めてくれと、そこで私は立上つて、冗談言うなと、馬鹿なことを言うな、ホーム・ルームでそんなことを生徒に勧められるか、選挙違反じやないかと、その点日本の先生はいくじがないから、選挙違反なんと言われるとパツと顔色を変えて、いやそんな意味じやない、社会科の一つの手助けになるから、(笑声)代議士の話を聞くと非常にいいから勧めたので、今の発言は取消しますと言つて取消したことがあります。私は勿論自由党の提燈持ちの人も遠慮なくひつつかまえてぶち込んでしまつたらいいと思う。それからそのほかに、青森県の小学校の校長が言つたのですが、この校長はかなり年輩の人ですが、清水幾太郎先生の講演か何か聞いて感激しちやつて、感激居士で、まるつきり感激しちやつた。社会党左派が天下をとらなければ我々は仕合せにならん、左派でなければならんと、まるで左派が天下をとればすぐ我我の生活が楽になるように言つておつた。私をつかまえて口僻のように、あなたは東洋精神の権威だという話だが、あなたのような考えはどうも感心しない、左派が立たなければ駄目だ、我々のような正しい者は食つて行けない、貧乏人は麦を食えというようなことを言う大蔵大臣ではどうにもならない言つて、がみがみ言つておりました。私は小学校には勤めておりませんから、日頃職員室でよくがなつていたのはよく聞いておりましたが、一体教室じや生徒にはどんなことを話したか知りませんが、恐らくそんなこをは話していないと思います。立派な先生ですから……。併しそういうことを常に言つておる人がいるというようなことは、これは自由でありますが、校長室で教員たちの前でがんがん言えば、影響なしとはしない。非常に問題もあるのです。こういうように左右両党どちらに偏しても問題だと思う。少くとも公立学校の教員として公的な立場にある限りは、政治教育はしてもいいけれども、併し自分の分際というものは考えなければいけないし、特定な目的を持つて自分の感情を露骨に出してしまうということになると、非常に問題だと思う。真実を教えるというようなことを最近小学校先生がたが言いますが、真実と言いますが、これはクソ・リアリズムと言いまして、日教組の一部小学校の教員や、中学校の教員の作文の指導にクソ・リアリズムというものがある。何でもかんでも事実なら書け、事実なら教えるというようなわけで、アメリカ兵がパンパンと何とかしておるところを見て来いとか、そうしてお尻をなめたとかなめないとかいうことを作文に書かしておる先生がいる。「基地の子」というのを読んだら、その子供がお母さんに見つかると困るからと言つたら、先生が、いや抽出に入れて誰にも見せないから安心して書けと言つて書かしておいて、結局その後本に発表した。もう本に発表しておりますが、これは或る意味では子供を騙したのだと思う。何でも事実だからといつて、それを子供に教えたり、書かせたり、又は見ることを勧めたか勧めないか知らないが、勧めたとしたら、問題だと思う。便所を覗いて、糞便しておるところを覗いて作文に書けということになつたら、私は大変だと思う。(笑声)そういう意味でクソ・リアリズムということは反対する。(笑声)  そういう意味におきまして、現在の傾向をいろいろな点から眺めまして、止むなくこの法案に賛成するという態度をとるわけであります。だから、私は特別な党に入られて特別な目的を持つて運動されるかたは、学校の先生をおやめになつて、何か別なことをして頂きたい。不偏不党、而も飽くまで信念を持つて、そうしてやるべきことはやると、そうして而もそれが飽くまで教師であり、又公務員であるという建前をよく考えなければならない。よほど慎重に考えてものを言つてもらいたい。慎重に考えるといつても、それは必ずしも卑屈になるわけではないと、私はそういうふうに思います。私はちつとも卑屈になつておらない。最後には私は腰折一首朗詠いたします。(笑声)「時世とはいえどかなしも政治屋のまねする教師猿にかも似る」。(「侮辱している」と呼ぶ者あり)
  57. 剱木亨弘

    ○理事(剱木亨弘君) 伊沢君、ここで朗詠はちよつと困ります。  これを以て公述人のかたの意見開陳を終りました。  委員のほうで御質疑のおありのかたは御発言をお願いいたします。
  58. 木村守江

    ○木村守江君 ちよつと朝倉先生にお尋ね申上げますが、私ども、この法案が成立いたしますと、先生がおつしやいましたように、本当に先生たちが萎縮いたしまして、教員に対して非常なブレーキとなるというようなことでありますならば、これはもう非常に困つた問題だと真剣に考えております。そういう点から考えまして、私といたしましては、先生が非常に心から訴えられましたような心配がないように考えられますのですが、なお、先生に一言お伺いいたしたいのは、先生はどうもこの法案ができますと、教育基本法によつて教育をしておるとそれが処罰されるということになるというようなお話のようでありましたが、それは一体どういうようなことからそういう結論が出られますのか、お伺いいたしたいと考えております。  それからこの法案で以て或いは日教組のような変なものとの関係を断つて、そうして……。(荒木正三郎君「ちよつとおかしい、変なものとは何だ、それは駄目だ、それはどういうことなんだ」と述ぶ)それはあとでやつて下さい。(荒木正三郎君「変なものとは何だ」と述ぶ)ちよつとよく聞きなさい。(荒木正三郎君「そういう言い方をするものではない」と述ぶ)日教組からの変な働きかけというようなものを、そういう関係を断つて先生の自主性を持たした、生体件を持たしたようにしてやろうというようなことを言われるのは、現在の教職員の自主性も主体性も認めない、非常に軽蔑したような言い方だというようなお話をされましたが、この二点についてもう少し御意見をお伺いいたしたいと考えております。(荒木正三郎君「そんな話はしない、速記録を見てもわかる」と述ぶ)
  59. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) お答え申上げたいと思います。先ほども申上げたのでございますが、教育基本法による正しい意味教育を行うことが処罰の対象になるのではないかという心配があると、確かに申上げました。教育基本法の中にいわゆる新らしい近代社会倫理の基盤の上に立つて、そうして新らしい意味社会生活というものに適応させ、更に封建的な、或いは卑屈な生活の中に陥つておる気持から改善をさせて行くことによつて社会会正義の実現に向わせることが、言葉は違いまするが、教育基本法で示されておると思います。従つて先ほど或る父兄の言葉の例として申上げたのでございまするが、子供たちは幾多の生活事実の中に立つてそうして批判力を養い、新らしく住みよい社会を建設しようとする方向に指導されて参ります。即ち「私たちの町」という教材におきましても、その町の中にあるいろいろな施設なども参観をさせ、そこに行つて教えを受けます。そうして結局はこの町を住みよい町にするのにはどうしたらいいかというデイスカツシヨンが行われて、そこに例えば、この聞こういう事実があるのでありますが、笑い話としては受取れない、つまり空地がありまして、そこは子供たちの大事な遊び場であつたのであります。ところがそこへ家が建つてしまつたのであります。そうすると子供たちが、私たちの遊び場なんだから私たちに話をしてくれればいいのに、大人は随分勝手だ、こういう話を言い出したわけであります。こういうようなことから先生が、それはお前たちの考えることは勝手なんだ、お前たちは成るほど遊び場所がなくて困るだろうが、大人には大人の都合があるので仕方がないのだから学校の庭へ来て遊ぶんだよ、こう指導したのでありまするけれども、子供はさようないろいろな生活の事実について批判を持つのであります。この批判力を育てて行くということは、場合によりますと、新聞の記事などが教室の中で子供の質問として出て参ります。出て参りましたその記事については一つ一つの性質を明らかにし、その関係を追求いたしまして、そこに新しい事実を創造発見させるという指導が行われるのでありますが、こういうことが先ほど申しましたように、どうしても新しい私たちの教育理念として進められて行きたいと思つております。然るにそういう事柄が子供の不完全な言葉の上に親に話され、そうしてそれが輪に輪をかけて偏向性教育であるがごとくに誤り伝えられるように相成りますると、百二条の規定に基いて人事院規則の中でこれが問題として取上げられる、結局危い、危いという心配ほど教員を意気地なくするものはないと私は思うのであります。さなきだに弱い性格を持つておる教員が何か不安の中に置かれますると、必要なことまで言えなくなつてしまつて、これはお座なりの教育になるから、先生がおつしやいますように大きなブレーキになるという心配を持つておるわけでございます。  それから日教組との関係、その働きかけを断つて先生の主体性を持たせるということは、先生のためにこの法律が出た、出すのだ、そういうことは先生の主体性も自主性も認めないという解釈をするのかというお尋ねのようでございますが、私は日教組というものと我々との関係というものは先ほども申上げたのでございまするが、日教組の指示や指令によつて我々は生活はしておりません。はつきりと申上げます。例えば一つの例を申上げますると、三月十五日の振替授業、一斉賜暇等の話もございましたが、私どもは一斉賜暇をするということが合法的であるか非合法的であるかというような問題を論ずる前に、私たちは日々子供の教育に専念しておるのでございます。この言葉が妥当でなければ慎みたいと思いまするが、併し巷間の言葉でありまするので申上げまするが、    〔理事劔木弘亨君退席、委員長着席〕  教育を破壊する法案を破壊するために大会を開き、そのために一斉賜暇をやる、これは目的というものを忘れた手段だと私は思います。一斉賜暇は子供を放擲することに相成ります。これが教員組合が持つている最高の手段であると言つた人もありますが、私は最後の手段だと思います。最後の手段とは尾籠な話で恐れ入りまするが、きつねやたぬきの最後屁であります。この最後島をひつた以上はきつねやたぬきの仲間に入れないわけであります。だから一斉賜暇をするならば、一生賜暇の覚悟でやらねばならない。よつて私は一斉賜暇には断じて反対であると述べました。そしてその方向に次第々々に声が拡がつて参りまして、一斉賜暇は行わなかつたと私は存じております。即ち私どもは日教組の指示や指令のままに支配をされておるのではございません。私それ自身の、我々教育者それ自身の自主性において反省もいたしますし、検討もいたしますし、相互に是正されて行くべきである。戦後の混乱の中には誠に行過ぎたことがあつたと私は是認いたします。併しそれがお互いの自主性に基いたお互いの相互錬磨によつて今日のごとくに次第に落付いて来たのだと私は見ておるのでございます。よつて私は主体性を与えて安心して頂きたい。甚だ長くなつて相済みませんが、日本の国もそうであるように、日教組も又成長の過程にございます。まだ赤ん坊でございます。駄々も言います。食い過ぎもします。或いは暴れ過ぎもいたしましよう。併し、だからと言うてこれを食わせなかつたり、一室に監禁したりするようなことをいたしましては、成長いたしません。文部省に坐り込んだというような駄々はかわいいではありませんか。よしよしまあちつと待つておれという優しさをもつて親が子を諭すような気持で、次第に成長を待つていたいし、私たちもみずからでき得るならば日教組の皆さんにももつと大きくなつてもらいたい、育つてもらいたい。マッカーサーが言うことが真実かどうかわかりませんが、日本国民は十四才である。十四才かもわからんと思うのであります。もう少し育つまでじつと育てて頂きたい、法を以て縛らないで頂きたい。私たちは責任をもつて自己の責任において正しい方向に進まして頂きたいということをお願いするのでございます。
  60. 木村守江

    ○木村守江君 先生のお話よくわかりますが、先生は只今も申されますように、新らしい教育理念をもつて新らしい教育をしなくちやいけないというような話で、まあ子供の批判力の問題、それからいろいろな遊び場所の問題とか、或いはデイスカツシヨンの問題をお話されましたが、そういうようなことがこの法案によつて何か制肘されるように申されましたが、簡単にどこの法文からそういうふうになりますか、法文をちよつとお話願います。  それからもう一つは、先生は日教組のいわゆる指令によつて我々が動くものじやない、日教組の影響ということはそれほど心配する必要はない、まあ一例をこの間の十五日の一斉賜暇の問題について話されまして、先生の御信念のほどはよくわかりましたですが、全国には先生と違つてあの日教組の指令に従つて一斉の振替授業、ああいうことをやつたことがあるので、そういう点から考えますと、日教組の影響がないということは言い切れないのじやないか、そういうようなことから考えて、又こういうような法案の成立もやむを得ないのじやないかというように考えますが、ちよつと簡単でようございます。
  61. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) お答えいたします。先ほど私は公述のときに申上げたのでございまするが、第三条の前段におきましては、教唆扇動ということでございまするから、直接に関係はないと申されるようでございますけれども、その事実が現場に行われたかどうか、これを請求するのは教育委員会だと承知いたしております。そういたしますと、これは而も罰則が刑罰でございまするので、警察の力が学校に及んで参るということは事実でございます。それからその事実の有無ということはやはり現場で探さなければなりませんので、教員相互間の探索が行われる、いやなことでありまするが、中傷等の前例もございますので、心配いたします。それから先ほど申しましたような、一般の父兄のかたが、ともすれば子供の言葉の一言半句を信じて、それがそうではないかというようなことを追究するのではないか、こういうようなことがこのほうでは束縛されませんけれども、結局は、私法律のことよくわかりませんが、あの国家公務員法の第百二条によつて政治活動が禁止され、そうしてそれの違反者は人事院規則で処罰されるということになり、この結果も又刑罰になるというようなことがあの特例法の改正によりますれば出て参りまするので、どうも表面からだけ見ますると無関係のようであつて、実は中身は非常に関係があるというので、これがブレーキになるのではないかという心配をしておるわけでございます。特に三条の後段のほうになりますると、これは直接そういう一党一派を支持する必要なる限度ということがあり、それからそのあとにはそういうふうになる可能性のある教育をしていけない、こういうことになりますると、日々の我々の教育話動そのものになつて参りまするので、こういう点からどうもこの法律が出ますと、私たちの職場においては非常に臆病になつて必要なこともやらないことが起るのじやないかと、こう心配するのでございます。  それから日教組の指令に従つてやつた所もある、こういうお話、従つて日教組の影響はないと言い切れない、こういうお話でございまするが、一体日教組の指令は誰が作るのだということなんでございますが、これは日教組の中執の方たちが勝手に作るのではないはずであります。さようなことは全国五十万教職員が許さないと私は思つております。即ち日教組でいたしますことは、中央情勢を事実を材料として各県のほうへ流して参ります。これは専門的に研究なさいますから。これは自由党の方が自由党報を学校にお配りなつたのとちつとも変りはございませんで、私の学校ではやはり自由党報もちやんと職員に渡しまして、誰でもとにかく広く知識を求めたいと私たちは考えておりまするので、一方のものだけもらつて他のほうはもらわないなんという、そういう卑屈な偏頗な根性は持たんつもりでございます。で、これらの情報を総合いたしまして、郡は郡で、或いは県は県でこういう問題に対してどう対処しようかということを討議いたします。これは教員のやつぱり一つの自主性に立つた新らしい問題への解決の途であろうと私は思うのでございますが、そうしてそれらの代表者が日教組に集まりましていろいろ相談をします。それで相談の結果が一つの結論になりまして、こういう結論になつたがどうだ、こういうふうに出て参ります。出て参りますると、その結論に対しては又それぞれの機関において検討いたします。で、私のところのこの三月十五日の問題なども、持つて行くときに大根田委員長相当の覚悟をもつて一番弱い線ではあるけれども、ともかくも最後の職場を守る抵抗の倫理に立つて我々は何らかのことをしなければならないんだ、併しどこまでも合法的な手段をとりたいんだ、で全国統一の精神に立つて行こうということで行つたのでありまするが、結論は大根田委員長の熾烈なる努力によりまして、多分そう私は思つているのですが、日教組の代表者会議においては、私どもの県で決定いたしました線でああいう穏かな線に行つたと私思つております。而もそれが行われるときには、地教委のほうで非常な心配をいたされまして、まあ繰替授業にならない、或いは、場所のよりますと、その防衛大会に出てはならない等の話もございましたが、私はそれはそうだ、それはその通りである。従つてこれは午後一時という線だけでも全国統一行動をとるべきである。併しそれによつて授業を欠くようなことがあつてはならない。だから午前中に授業の終つた人は午後一時に集まろうじやないか、午後一時間授業がある人は一時間授業をやつて集まろうじやないか、二時間授業のあるものはその授業をやつて集まろうじやないか、絶対に職場を離れてはならない、子供を捨ててはならない、許される範囲内においてこの真剣な問題とぶつかつて討議しようじやないかというので、私どもの県ではそういうふうな方法とつたわけでございます。従つてどもは今の日教組の指令は日教組の中執のかたたちだけが勝手にきめるようなものであつてはなりませんことで、若しさようなことをするならば、日教組に対して我々は断固たる態度を示さなくちやならんと思つております。
  62. 中山福藏

    ○中山福藏君 大変自主性のある、信念のある言葉を承わりまして、謹聴しておつたのであります。只今日教組の影響を受けないとおつしやいましたが、昭和二十六年十二月二十七日共産党は通達第二十一号で日教組のうちに一つのグループを作れという指令を発しておるはずです。あなたはこれは御存じでございましようか、これが一つ。昨年の六月十五日三重県の山田で日教組の大会が開かれておる。そのときに十四項に亘る項目が決定されておる。例えばその一例を挙げますと、朝鮮の戦争をやめろ、中共と手を握れ、こういう言葉が書いてある。それを見ると、教育のことは一つも書いていない。いわゆる政党の政策であります。この十四の項目を調べてみますと、今あなたがこの日教組の決定事項には承服しないとおつしやるが、私があなたのお述べになつ言葉から受ける感じはどうもこの決定事項と矛盾があるようです。その点をお尋ねしておきます。
  63. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) お答えいたします。二十六年の十二月二十七日に共産党が日教組の中に何か作れという話があつたそうでありますが、私は全然存じません。それから昨年の六月十五日の山田の大会、これは大会があつたことは存じております。そうして又十四項の事項が決定されたそのことは報告を以て承知しております。今例にお話し下さいました朝鮮戦争を早くやめろとか、中共との貿易をどうしろとか、こういうような事柄は我々の職場において直接の関係は全くございません。ただ或いは中共との貿易関係の問題になりますると、社会科で世界との繋りというようなところがございまするからして、或いはこんなところで中共との貿易が再開されたら大変都合よくなるのじやないだろうか、そんなふうな話合いが出るかも知れませんが、私たちは日教組の大会において決定いたしましたことを、例えばですね、文部省の指導要領とかいうようなものに従つた教材のごとくに尊重はいたしません。これは一つの参考ではございましようが、さような気持ちは持つておりません。日々の教育において最も大切な問題は教育基本法の精神と、それから文部省で制定しておりまする各科の指導要領、それから一番大事なものは子供の生活を見詰めることだと私は思つております。日教組の大会において決定したことは或いはこれは最大公約数的なものになるかもわかりませんが、私たちの現場においては、現場の子供の生活とその土地の生活とが根本でございます。いわゆる教育のカリキュラムが、何を学ばせるかというスコープと、どう子供が身心発達するかというシークエンス、そのスコープとシークエンスのところにカリキュラムの線が出て参ります。これは丁度検定教科書を採択する権能が我々に与えられております通り、我々の自由でございます。そうでなかつたならば、我々は自主性があるとかないとかさようなことは申せん、こう考えておりますので、日教組の綱領がどうであろうが、さようなことは一つの参考にしか過ぎません。
  64. 中山福藏

    ○中山福藏君 ここは討論をすることは許されておりませんから質問だけにしますが、あなたが先に言われたことと、私が読んだ十四項目というものは、あなたは日教組の綱領に拘束されないとおつしやつたから実例を挙げて御参考に供したわけです。  もう一つお尋ねしておきますが、三十五年教育に携つておられたというので、私もその点について非常に尊敬するわけです。私が曾つてニューヨークで受動的の教育をやるほうがいいか、即ち先生からいろいろ教わつて伸びる力を与えるほうがいいか、或いは能動的の教育方法をとるのがいいかということで、学校のクラスを二つに分けて四年間研究したことがあるということを或る雑誌で読んだことがあります。能動的な教育を施すほうが非常に進歩的だ、そのほうが知育上半年も先に進むという結果を実験上から得て、大体ニューヨークの学校ではそういうような方策を現在とつておると聞いてをる。そういうような按配で、一つの実例から推して結論を得るということにならなければ本当の教育の効果は得ないと私は考えておる。そこで私はお尋ねしますが、三十五年というと相当の年月日である。あなたに尋ねますが、元はあなたのおつしやる通り教育勅語によつて、これを基本として、中心にして日本の過去の教育制度並びに教員の考えというものが回転しておつた。ところが教育勅語がなくなつた。あなたの言われる通り教育基本法というものと新憲法の精神に則つて平和と真理というものを探究して人類社会の福祉をもたらす。その希望に沿わせる国民を作るというところにあなたは狙いを置いておられると思うのです。ところが先ほど三十五年の教育経験を持つたあなたのお話を聞いておりますと、相当なドグマに陥つている点があるのじやないかと考えるあなたは、先ほどどなたかにおつしやつたが、正義感、例えば原理というものに沿わせなければならん。人間というものを原理に沿うように教育をして参らなければならんというようなことをいろいろおつしやつておる。ところが正義というのは時と所と人によつて時々刻々変つて行くものである。雷なんかも神だ、これが真理だと思つておつた人間は、今日は御承知のように物理的に科学的にこれを証明することになつておる。だから昨日の真理は今日の真理じやないのです。昨日の正義は今日の正義じやない。時々刻々笥のように真理でも何でも伸びて行く。それが生きた社会実情である。そこに教育家が目を注がなければ本当の教育はできないと考えておる。それでありますから、あなたの言われたことについて、私は相当に真理を含んでおると傾聴しておるわけですが、先ほど言われたようなことは一つの自分の三十五年の体験だと言われるが、只今この教育法案というものがブレーキの立場に立つて、自分なんかの行く手をさえぎるとおつやるが、日本教育は戦前は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という考え方から出た各種の法律制度と同じ精神から出発しておつたのですが、新憲法の下ではそれがないのです。現在それがないということを頭に置いてそういうふうな結論を出しておつしやつておるのですか、どうですか、その点を一つ伺いたい。(「何だかわからないな」と呼ぶ者あり)
  65. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) 御質問の趣旨が私はつきりいたしませんのですが、一応申上げて、若し的外れでございましたならば、恐れ入りますが、もう一度教えて頂きたいと存じます。私は受動的な教育か能動的な教育かということで、能動的な教育をいたしたいと私は思つておりますが、子供それ自身には適応の可能性というものを認めております。教育はこの適応の可能性に対して一定の刺戟を与えて、その刺戟によつて子供自身の適応性が成長するようにいたしたいこちらに一つの子供の成長する能動性、適応性というものを画き、こちらにそれに対してこれを伸ばすための刺戟を与えますが、この刺戟が能動性に対する角度が余りに高うございますと、これは上りませんし、並行か或いは低くあつたならば、これは何らの教育的価値はない。従つて子供の力に応じたある限度の刺戟を与えて、次第々々にてこで持ち上げるように子供を成長させるものだと考えておるわけでございます。そこで、それならばその成長の、成長させて行く方向は何か。戦前においては教育勅語を中心として指標として教育をいたしましたが、総括的にそのことばかりではなくて、戦前の教育一つの目標を描きまして、ここまでついて来いといたしました。即ちここまで到達させることが教育であつたと私は思います。戦後の教育は子供の能動性を認めまして、無限に発展させることではないかと思つております。即ちヘーゲルさんの哲学ではございませんが、正反合、無限発展の途を辿らせることによつて教育の理想が実現するように私は思います。そこでその無限発展の方向、即ち正義の問題ですが、これに段階があるとおつしやられましたが、私全くその通りだと存じております。正義と申しましても、真理と申しましても、子供に絶対に理解のできないような高い正義や真理を掲かげましても、この刺戟は余りに強過ぎて子供の能動性に何も及んでおりません。結局時処位の倫理が正善であるように、その時、その場、その地位において正、善が決定されるという立場におきまして、私は正義の、真理のその変化というものは子供の力に応じて伸ばすというところにあると存じておるのでございます。何だかそんなことしか今思い当りませんのですが。
  66. 中山福藏

    ○中山福藏君 私の質問がよくわからなかつたからでしよう。そこで能動的にやらなければ子供が伸びて行かん。それで中立を要するということが、偏向教育をやつてはいかんという結論が出て来るのじやないですか。そういうことをあなたに結論としてお尋ねしているわけです。そうすると、あなたのこの二法案に反対なさるということは、結局わけがわからんことになるのじやないですか。
  67. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) その今のお話、私まだ不敏にして了解に苦しんでおるところでございますが、お前のそういう考え方からすれば、この教育法案が現在出るのが当り前で、それに反対する理由がわからないとおつしやられるようでございまするが、私は今申しました能動的な教育を行うためには、そうして無限発展の方向に子供を教育しますのには、常に正反合の批判力、総合力、そうしたものを養つて行かなければならないと思つておるのでございます。そういたしますると、その偏つた政党を支持するに至らしめるに足る教育ですか、批判力を養えば当然子供は、現在私は決して子供に対して何党の政策がよろしいなどということを言うべきものでもなければ、言つたらこれば批判力の養成になりません。押付けになります。できるだけ子供の生活事実を具体的に示して、そうしてそこから子供に判断をさせる、そうしてその判断がいいか悪いかを更に又他の材料によつて判断させるという方向に行きたいと思いますが、それが何やらこの二法案によつて抑えられるような心配がございますので、私は二法案に反対をするわけなんであります。
  68. 中山福藏

    ○中山福藏君 生成発展するとあなたの言われるのはよくわかる。生成発展を妨げないようにしなければいかん。それにはちやんとそれに人が手をつけられないような姿を子供に持たせなければいかん。それで政治的な圧力、例えば六月十五日に日教組のきめた要綱によつて心を養われておる人々が、ああいう教育関係のないような政策ばかりを教壇に立つて述べるようになつちや大変だから、そういうことができないように法律で以て枠を作つて、子供にすくすく伸びるような囲いをすることが必要じやないか。それにはやはりこの教育法案があつたほうがいいのじやないか、こういうふうにお尋ねしておるのであります。
  69. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) 私はその枠をはめることによつて教師それ自身の自主性、創造性が失われる。そこでそういう自主性、創造性のない教師のびくびくしたような教育を受ける子供にはやはり創造性も自主性もつかないだろうと心配するのでございます。この日教組の支配下に五十万教職員があるという御診断でございまするが、私はその点につきましても水かけ論と申しては失礼ですが、私はないと思つております。又そうなることは断じて許せない、こう私は思うのでございます。
  70. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 私は山崎先生に少しお伺いしたいのですが、先ほど先生のお話の中に、教育基本法第八条、特に第二項であると思いますが、従来明確を欠いていた、併し今度法案が出ることによつてこれが明確になる。そういう意味で非常に結構である。こういうふうに伺つたのでありますが、そこでお伺い申上げたいのは、学校に勤務しておる、或いは教育に携つておる人たちに対し、政治活動を禁止するということがよろしいというふうなお考え方を持つていらつしやるのかどうか。政治活動をこれは全面的に禁止はしておりません。この法案に盛られておる程度政治活動制限するということが教育者に対してはいいのだ、こういうふうに考えておられるのかどうか、お伺いしたいと思います。
  71. 山崎匡輔

    公述人(山崎匡輔君) お答えを申上げます。先ほど私が申上げました教育基本法の第八条の二項、これはちよつと先ほど私が触れましたように、最初は「法律に定める学校は」という言葉で始まつておる。これは先ほど申上げた通りでございます。それで実はそのときに、この法案を作ります時分に私は多少関係をいたしておりました。丁度法文が整理されて発表になります当時は私は丁度離れておりまして、その整理過程は私は知らなかつた。ただそのときに論ぜられたことが、やはり只今申上げました宗教と政治中立性、これはどうかしてその教育の場から中立にしたいという話が非常に熟しまして、そうしてああいうふうな法案ができたのであります。そのときに法案の整理のときに私はどうもよくわからなかつたのですが、そこに立会いませんが、多少第九条にいたしましても、宗教教育はこれを尊重しなければならないという第一項と、それから一方に偏りました教育をしてはならないといういわゆる第二項と丁度同じような対句のようにできてしまつたのでございます。その後私は御承知の通り教育委員会やなんかに関係しておりますというと、「法律に定める学校」はという言葉が随分問題になりました。甚だ私は法律に迂遠なものでございますから、非常に変な返答になるかもわかりませんけれども、今のこしらえましたときはああいうふうな限定された言葉ではなかつたのです。精神ではなかつたのです。法律の精神はどこまでも教育というものは政治については中正の立場で立つて行きたいということを盛ろうということの話合いができた結果として生まれたのがあの法案なんでございます。その学校はというのは学校の建物の中だ、一歩出れば何してもいいのだ、或いは学校の機構を通じて政治活動をしてはいけないのだ。ところが私どもの実際には世の中へ出て参りますと、教育委員や何かになりまして、いろいろの問題に接しますというと、学校の勤務時間外だ、だから自分は教員だけれども勝手なんだ、そうして自分の受持つ家庭訪問をされる。それでそのときに或る程度の一方に偏した政治活動をなさる、これは勤務時間外で全く自由だというお考えなのでございます。併し私どもの考えでは、いやしくも自分の受持の家庭を先生がお訪ねになつて、そうして自分の政治的見解をそこで披瀝して、そうしてこの政党でなければ本当の教育はできないというようなことを主張するということは、私は少くともそういうような、最初我々に話をしておつた精神から非常に離れておる、こういうふうに考えております。それは学校の教員として自分の受持の子供の家庭を訪ねますと、これはどなた様でも御経験があることだと思います。恐らくその家庭に参りましたら大変その先生を尊重して、俗に申しますと下にもおかない待遇になるのであつて、この先生からそういうようなお話をなさるということは、果して教育中立性を保つたものであるのかどうか、或いは学校というものを背に負つてそういうようなことをなさつたというふうに私は考えても差支えない。何かしらあの文の中には対句のような関係からいたしまして、如何にもあれでは明確を欠いておる、こういうように私は考えます。  それから第二の点で政治活動学校の職員はしないほうがいいと考えるかという御質問であつたかと思いますが、私は先ほども申上げましたように政治的の自由というものは近代社会において殊に日本の現代においてどうしても必要なんだ。極く純真無垢な子供さんで、まだどちらへでも染まらん、何も判断力の本当の経験もない、そういうような人に先生が或る特定の政党は非常にいいんだ、こちらがいいんだ、こちらが悪いのだというようなことをお話になれば、たびたびそういうことを繰返して聞くうちに本当にそういうような気持になつてしまうのです。これはもう実に動かせない事実である、そういうふうにすることは只今お話のように子供が生成発展してすくすくと伸びて、その持つた判断を自主的に働かせるような教育ではない、私は偏つた教育はそういうような弊害がある。そこで私はどうかしてその政治性を本当に尊び、自由を尊び、宗教の信念でも、その宗教の信念の自由を尊ぶ、そういうような今度の懸法で一番大切なものを若い子供さんのそういう未熟な人のところに先生がたが一方のものを押し込むということは真直ぐ、正しく発達すべきものが曲つてしまう、同時に先生がたは併しながら個人としては政治的の識見も何でもちやんとお持ちになつて、そうしておいでなることは一向差支えない、それは何ら妨げることではない。ただそういう先生という職をお持ちになつた以上丁度国家公務員が如何なる政治的のお考えを持つてもそれに対する政治的の活動ができない。国家公務員すらそうなんであつて従つて教育に従事する人も無論そのくらいの制限を受けるのは当然である、私はそういうふうに考えております。
  72. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 少し私言葉が足りませんでしたので、若干誤解されてお話しておられるように思いますので、少し言葉をつけ足したいと思います。私も教育基本法に言う自分の政治的な考えを子供に植え込む、こういうことはよくないと考えておるものでありますし、教育基本法は私は当然な立法措置であるというふうに考えておるわけなんです。そのことを私はお尋ねしておるのでは実はなかつたわけなんです。私が学校教育に従事しているものが政治的な行為、そういうものをするこことがよいか悪いかということを言つておるのは、子供にそういう教育をするということは勿論よくないということは私ははつきりしておると思つて、そのことを忘れておつた。ただ一市民としていろいろやはり政治的な活動があると思うのです。一市民として先ほど例に引かれた教育の一環として教員が家庭訪問をした、その際にいろいろ自分の政治的な考え方を父兄に話す、これは私もやはり行過ぎの点があると思います。そういうことを私は言つているのではないので、一般に市民として教育にあるから政治活動は……、政治活動というのは先ほど山崎先生は何でもというお言葉をお使いになりましたが、非常に私はあとでよくわかつたのですが、私は民主主義国家にとつて政治活動というのは非常に重要な問題であると思います。そこで教員が一市民としての立場に立つて政治活動をすることは教育者としては好ましくないとか、よくない。今度の法律は御承知の通りにそういう場合にも制限しているわけなんです。禁止しているわけなんです。ですからそういう場合も教育者としては当然であるというふうにお考えになつているかどうか、その点を伺つておきます。
  73. 山崎匡輔

    公述人(山崎匡輔君) お話を聞き違つておりまして、大変余分な時間をとりまして申訳ありません。私は簡単に結論を先に申上げます。私はやはりこれは教員が一市民としても政治活動においては中立を守つて頂きたい、これは私の考えであります。意見でございます。それはどういうことかと申しますと、これは実際の問題にしまして一市民として先生がたが御活動なさることと教員として御活動なさることと、どこに区別をおいてやるか、これは一市民だ、これは教員としてだ、それはなかなかそういうふうに簡単明瞭に分解点を見出せないと思います。と同時に国家公務員でありましても、一市民としてならいいじやないかというお考えもあるかも知れませんが、国家公務員でもやはり国家公務員の身分を本業として持つている以上は、これは政治的中立でなければならん。従つて私はそういう重大な教育に従事する先生がたは一市民としてもやはり中立性を守つて頂きたい、そうしなければならん、こういうふうに考えております。
  74. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 そこでこれは余分なお尋ねになるかも知れないと思いますが、先生のお考えをお聞かせ願いたい、こういう意味でお尋ねをいたします。私は教育基本法第八条にいういわゆる一党一派に偏する教育、これは公立学校であつても私立学校であつても同じことだと思うのです。私は公立学校でもいけない、私立学校でもいけない、同様な比重においていけないことだと思うのです。そこでその問題と、それから今度は教員の政治行為制限するわけなんですが、教育ということに携わつておるという意味においては、私立学校であろうと公立学校であろうと、私はそこに教育的な意味からいえばなんら差違がないと思うのです。そこで公立学校の教職員には、この法律では大体投票権はあるけれども、それ以外の殆んど一切の政治行為は禁止されている。併し私立学校には、先生は今私立学校のほうに関係しておられますから申すのですが、私立学校のほうではそういう制限は全然ないわけなんです。私の考えは、もうはりきりしているのです。学校教育において政治活動をしてはならん、これははつきりしています。併し一市民としては、私立学校であろうと公立学校であろうと、一市民としての政治活動は自由にしなければならん、こういう見解を持つているのです。ですから誤解のないようにして頂きたいと思いますが、公立学校の教員に禁止すべき事項は私立学校の教員にも同様な措置がとらるべきである、これが教育というものに携わつている教員という特殊な性格から来るものなら、そういう扱いをなさるべきである、私はして欲しいとは少しも思いません。思いませんが、理窟からいえばそうなるのじやないか、こういうふうに考えるのですが、先生の御所見を承わりたいと思います。
  75. 山崎匡輔

    公述人(山崎匡輔君) 只今の荒木さんのお話には私は全然同感であります。今の教育基本法のほうはこれは公立、私立を問いません。あれは全部政治活動のほうの問題は両方とも含まれていると私は考えております。或いは読み違いしておるか、記憶違いがあるかも知れませんが、両方含まれていると思います。それでは今度の法案においてどういうふうになるか、こういうお尋ねでございますか。
  76. 荒木正三郎

    荒木正三郎君 いや、私が言つているのはこの教育公務員特例法を一部改正する法律案のほうを今言つているわけなんです。教育者は一市民としても政治的な活動をしてはならん、政治的な中立を保つべきであるという先生の御見解なんです。その御見解に従えば、公立、国立、私立を問わずこのことは同様に考えておられるのか、公立とか国立だけにそういうことは当然であつて、私立学校の教員にはそういうことは当てはまらない、こういうふうに考えておられるのか。
  77. 山崎匡輔

    公述人(山崎匡輔君) まさに私はあなたと同じ意見であります。公立学校の教職員に許されないことは私立学校の職員にも許されないほうがいいと考えております。私の意見だけを申上げます。
  78. 相馬助治

    ○相馬助治君 私はこの際伊沢先生にお尋ねいたします。本日公述にお願いいたしました公述人かたがたを我々で、失礼な言葉ですが、御選考申上げたときに、実はこの教育法案のうちのあとの法律案義務教育学校の問題ですけれども、実はこの法律が出れば社会科の教員が非常に困る、こういう反対理由、反対の根拠が相当申されておるわけです、私自身も申しているわけですが。そこであたかもよし先生は高等学校社会科の先生であると我々は承わつたので、むしろ客観的な立場から、義務教育学校ではないけれども、子供の年令やら職場の姿が幾分斜造が違うけれども教育の場にあるものとして、やはり同じ立場から御見解を披瀝して頂いて、我々の参考に資したい、かような意味合いで公述をお願いし、先ほどいろいろお話を承わつたわけなのでして、そこで先生の現在持つておる職場から、次のような点はどのように今日御判断になるか、一つ承わつておきたいのであります。  第一、教育の今の現実は偏向教育という一点に限つてみて、戦後と現在、只今とではどのような変遷の跡を辿つておるか、だんだん偏向教育の実例が悪質になり、量質とも増加したと見られるか、或いは反対と見られるか、このことであります。このことがこの法律案と対照して考えてみます場合に、逐次偏向教育の事例が質量共にひどくなつているとするならば、立法措置に訴えるということも一通り筋が立つ、若し仮に反対であるとするならば、むしろかかる法律案は今日は必要ない、もつと早く政府は出すべきであつたというふうな御見解もそこで生れて来ると思うのです。それらを勘案して、一体偏向教育というものに連関しての現実の姿はどうであるか、そうしてこれを法的に措置しようとするこれらの問題についての総合的な御見解は如何でございますか、というのが私の質問の第一点です。  第二点は教育中立性維持の法案でありますが、政府の説明を聞いてみますと、お手許にも多分資料があると思いますが、提案理由として「義務教育学校における教育を党派的勢力の不当な影響又は支配から守り、もつて義務教育政治的中立確保するとともに、これに従事する教育職員の自主性を擁護する」必要がある。我々はこの法律案は威嚇法案である、又その虞れがある、かように申しておりまするし、文部大臣は、いや、こういうものを出して教員を守つてやるのだと言われる。どちらが正しいかということになつて来ると、一方が正しいとするならば、一方は全く現実に反した虚偽を言うているということになる。そこで仮に今政府の申しておることを認めたとする場合には、当然ここにあなたが所属している高等学校もこれは入れるべき性質のものじやないか、高等学校の教員の自主性も守られる権利を持つているのじやないか。政府言つている通りだとするならば、なぜ我々の高等学校だけをこれから除外してくれたのだ、依枯贔負もいい加減にしてくれという声がこれは話の筋からないでもないと思う。従つてこれから高等学校が外されていることをあなたはどのように考えるか。そうして又総括的にあなたの賛成というのは絶対賛成だとはおつしやつていないので、大分ニュアンスがあつて、今の状況じやこういうものも仕方がないのじやないかというような、やや間接的、消極的なお言葉で賛成の意を述べられているわけですが、どうもここらが、高等学校を除外しているというようなことも立法の建前からいうと問題があると思うので、その点について承わりたい。結局質問は二点でございます。
  79. 伊沢甲子麿

    公述人伊沢甲子麿君) お答えさしで頂きます。只今の御質問を若し聞き漏らしのところがありましたらその都度お教え願います。  一番最初の御質問ですが、偏向教育の現実はだんだん悪くなつておるか、よくなつておるか、ということでありますが、先ずこれから申上げますが、終戦直後のあの状態から比べれば今日はよくなつたと思います。よくなつたというのは、ああいうことがやりたくともできない、やりたい人はいるのでしようが、これははつきり言つておきますが、これはできないのです。だからよくなつたと言えばよくなつた。  もう一つは戦前戦後とおつしやいますが……。
  80. 相馬助治

    ○相馬助治君 戦後でよろしいのです。戦争直後から現在までだんだんよくなつたかどうかということです。
  81. 伊沢甲子麿

    公述人伊沢甲子麿君) それはよくなつたのです。確かにおつしやる通りであります。ただ併し問題は、非常に中を巧く抜ける巧妙な方法をかなり考えて来られたかたがいるということも言えます。それからもう一つは高等学校のほうが入つていないのは不公平ではないかというお話でありますが、そういう筋が出て来るという話でありますが、私は高等学校においても特別なその目的を持つて、そうしていわゆる生徒を使つて政治運動をしたというのでは問題だと思います。ただ問題は高等学校と小学校義務教育、こうわけたのはこういうことが言えると思うのです。高等学校の年頃になると一応理解力もございますから、簡単に先生の言うことでどんどん動かされるとか、先生が特殊な策動をしようとしてもなかなかできないということが言えるのではないか、こう思うのでございますがその意味で高等学校の場合、は政府原案で抜かしておるのではないかというふうに考えます。勿論私にはわかりませんが、私が思うのです。それからそれが不公平ではないかというお言葉でございますが、高等学校においても当然生徒を使つて特殊な一つの方向に持つて行こうという運動を政治的にすれば、これは私は問題だと思います。現にそういうことをいたしました学校が都立の学校にも独立後の初めてのメーデーにございます。生徒を引連れてメーデーに参加しまして、そうしてその学校は事務員の女の子まで出掛けて、メーデー大会に行かないと反対したのはクリスチャンのかたが反対して、あとは皆行つて、そうしてぶんなぐられて血だらけになつて、チヨコレートを持つて行つたり、脱脂綿を持つて行つたりした先生が私の同僚におります。そういうことは高等学校でも数多い学校の中にはございます。そういう教員に対しては断固処罰をして頂きたい、こういうふうに考えます。
  82. 相馬助治

    ○相馬助治君 今のあとの一点は、私の表現がまずかつたので的確な御答弁が頂けなかつたのですが、今のお言葉の中から一つ問題を出して、もう一度お尋ねして見たいと思うのですが、この高等学校の生徒の場合には或る程度自主的な判断ができるから偏向教育らしいものを行われても実害が少い、義務教育に比べて。かような見解に立たれると思うのです。我々は教育の対象である子供の年令等から見て、一般的にそういうことが言えると思うのですが、教育学者の発表するところによると、高等学校において、各中学校から集つて来た子供が非常にイデオロギー的に差があるという事例は余り知られない。それはものを知つている知つていないの点では、先ほどの先生のお説ではないが、いろいろあると思うが、大した差はない。ところが大学の先生に言わせると、高等学校の違いによつて非常に考え方が違うものがたくさん集つて来る。いわば偏向教育というものは、最も高等学校において行われる可能性がある、最も効果的に偏向教育が行われるということが統計の上から実証されているということを私どもは聞いておる。実は私どもは素人でありませんで、教育者としては。そこで本当に政府が言うように、教育の自主性を擁護するならば、そうして教職員の自主性を擁護するとしますならば、この第二の法案は高等学校でも、私は私立学校もと言いたいのですが、差し当りあなたに御質問申上げたいのは、高等学校も入れて法的措置をすべきではなかつたか、私自身はこの法律は要らんという立場をとつているものですが、仮に要するとするならば、高等学校まで入れるべきではなかつたか、かように思つてあなたにお尋ねしておるのであつて、高等学校を入れる必要はない、或いは入れたほうが筋が通る、御返事はどちらかの一つでよろしいのでございますが、一つお聞かせ願いたいと思います。
  83. 伊沢甲子麿

    公述人伊沢甲子麿君) 原案通りでいいと思います。
  84. 松原一彦

    ○松原一彦君 私松原一彦です。丁度私は前のほうをお聞きしなかつたのですが、老人でございますから思想は非常に古い。私が三人の皆様方にお聞き申上げたいのは、私は日教組の行過ぎを随分長いこと攻撃し続けて来ているものなのです。併し戦前と戦後においては、いわゆる中道というものにも非常に違いがある。戦前の中道と戦後の中道には非常な違いがある。教育目的、基準等においても戦前と戦後には非常に大きな開きがある。新らしい時代の教育に専念しようとせられる諸君に行過ぎのあるのは当然だ、時代の変化において。その行過ぎの事実を私は挙げろと言えば幾らでも挙げられますが、その事実に対しまして皆様方の御判断をお聞きいたしたい。それといいますのは、この法律目的とするところは明らかに書いてはありませんけれども、大体団体というのは日教組である。又偏向というのは右のことは勿論あるかも知れませんけれども、極左、最も端的に言えば共産党、この方面への偏向を懸念して、そうして法律を以て取締らなければ困るというところまで参つたのであろうと思うのであります。そうしますると、その認識です。日教組ができてから今日までまだ私は日教組の変遷史を読んでおりませんからわかりませんけれども、私の知る限りにおいては、昭和二十四年の一月、共産党があの選挙で三十五人一気に出た時代、別府の公会堂で日教組の大会が行われて、私は終始見ておつたのでありますが、実に乱暴なものであると驚き入つたものであつた。続いて金沢で大会が行われ、飯坂でも行われ、それからあとは私は余りよく知らないのでありますが、ずつと変遷を見まして、一体日教組は今日のごとく法律をもつて取締らねばならないように悪化しつつあるものでしようか。自然に落着いて参つて偏向がおのずから教育者の常識の進歩とそれから反省によつてだんだん鎮静して参つておるのではなかろうか。若しそれが甚だしく問題を起すとするならば、政府とつた憲法に明らかに違反すると思われる再軍備への政策転換、再軍備のよし悪しは問わずして、私は昭和二十一年以来国会におりますから、政府は絶対再軍備はせんと吉田首相は今日まで言い通しておられますが、或いは憲法は変えないと言い通しておられますが、だんだん変つて来ておる。客観的な情勢と共に政策も変つて来ておりますが、そういうことに刺激せられた点もありましようけれども、変遷を客観的に冷静に見たときに、私はだんだん落着いて参つておると思うのです。そうして私の見るところにおいては、もう数年経たないうちに私は日本教育者は冷静沈着な正しい筋に行くものと私は思つておる。逆に今頃になつてこの取締法案を出さねばならないものでしようかどうでしようか、その認識を山崎先生にも朝倉先生にも又伊沢先生にもお尋ねしたい。何か喧嘩過ぎての棒ちぎりという感じがしてならないのであります。(笑声)どうも認識に非常に不足がありやしないかという感じがある。私頭の古い人間ですし、現実を余りよく知らないかも知れませんから、変つた御議論をお持ちになる先生がたのその御判定を承わりたい。これはこの法律案を議する上に重大な鍵であります。であるからしてこれは暫定となつておる。又ないほうがいいけれどもやむを得ないというお話も伊沢先生からあつたようであります。ないほうがいい法案なら成るべく作らないほうがいい、こういう意味からお尋ね申上げたいのであります。お教えを願いたい。
  85. 山崎匡輔

    公述人(山崎匡輔君) 最初に御指名がありましたので大変失礼ですが私から先に御返答申上げます。私もいわゆる教育面に関係いたしましたのは戦後でございます。アプレのほうであります。只今御質問の点につきましてその後の変遷の様相をどういうふうに見るか、こういうお話、これを先ずお答え申上げます。私自身はこの教育の面に関係いたしまする度合が終始変つております。相当に戦後直ちにかなり深く関係いたしました。だんだんそういう問題から離れたようなところに今おりまするので、私の判断は必ずしも全体を科学的に見まして数量的に比較するというようなことはできません。でありますが、私の申上げますことは今日のような法案を早くから欲しいと思つておつたのであります。これはお答えになるかならないかわかりませんけれども。幸いにしてこういうような法案ができますると、教育政治的中立というようなものがはつきり守られるということで私は喜んでおる。但しおいでになります前に私はこのことを申上げたのですが、残念ながらこの法律を賛成をする、こういうことを一番先に申上げたのです。そういうような意味におきましてこの法律が用をなさないときの来ることの一日も早からんことを願つておる。それだからこれは要らないだろうという今の論法のようでございますが、そうではない。要するからやむを得ず賛成をした、こういう立場であります。併しこれが衆議院において修正されまして今お話のように暫定法案になつたということにつきましてはひそかに喜んでおる、こういう立場でございます。お答えになつているかどうかわかりませんが、これで……。
  86. 川村松助

    委員長川村松助君) 御発言中ですが、今議長から本会議長に臨時参加してくれ、こういう申入れが参りました。どうぞそういう申入れですから、一度休憩しまして本会議場に御参加願います。休憩します。    午後五時十七分休憩    —————・—————    午後五時二十六分開会
  87. 川村松助

    委員長川村松助君) 再開いたします。  それでは朝倉先生にお願いいたします。
  88. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) 松原先生の御質問の御要点は、日教組の変遷を通して見てよくなつているかどうかということと、それから政府の再軍備政策転換というような問題から状況が変化して来ておるが、そのことが日教組をして今日平和憲法擁護とか、再軍備反対とかというようなことに行つているのではなかろうと思うが、この点について心配してこの法を出すのだが、それが今出すことが適当かどうかというようなお尋ねと思つたのでありますが、若し間違いましたら……。
  89. 松原一彦

    ○松原一彦君 そうです。
  90. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) 私は今度の法律が日教組征伐の法律だとか何とか聞いておりますが、さようなことは問題にいたしたくはございません。ただ問題はこの法律が出ることによつて、決して相愛ではなく、現場の正しい意味教育がブレーキをかけられて、ますます教職員に自主性がなくなつて、行くということを恐れるものでございます。実際問題といたしまして、今の全国五十万の教職員が、或いは日教組が法で取締らなければならないほど悪化しているとは私は思つておりません。勿論六百何名かの共産党員がいるとか、或いは二十数例の偏向教育の事実があつたとか申しますが、これは丁度子供の腹の中に回虫がわいた程度のものであつて、これを切開手術するほどのことでもなし、恐ろしく副作用のある、ヘキシールレゾルシン以上のような副作用の心配のあるような、こんな強い法律で取締るほどの問題ではないと思つているのでございます。是非これは教育者の反省と良識によつて次第に沈静しつつあるこの機会に、徒らなる刺激をされないほうが親心ではないかと考えまして、この法案の通過をいたしませんようにお骨折りを頂きたいと存じます。  それから日教組の平和憲法擁護の問題をお前はどうかということではないかと思いますが、私の立場で申しますると、これは日教組がどう言おうと、どう言うまいと、私たちは現在新らしい憲法の下に制定されました教育基本法によつて教育をしておりまするので、この憲法に従つて行くべきだと、こう私は考えておるのであります。だから私はこの点については日教組が平和憲法擁護運動をするとかしないとかいうことは別問題として、同じにこの教育基本法教育をしております私たちとしては、憲法を擁護するという気持において決して偏向教育をやつておるのだなどとは露ほどもつておりません。それから日教組の征伐されなければならないというような理由に平和憲法を擁護するからだ、MSAの援助に反対して再軍備反対をするからだというようなことも聞いておりまするが、これは日教組も少し考えなければならないと私は思うのであります。さつき大変失礼なことを言つたのですが、成長の過程にありまするのでだんだん大きくなると思つておるのでありまするが、子供というものは便所に行くのをおつかながるのです。出ないばけ物を恐れるのであります。丁度そんなものじやないかと私は思うのでありまするがMSAの援助を受けて先ほど先生もおつしやつたように客観情勢が変つて来たので、まあこういう状態になつて来たのですが、MSA援助を受けることによつて当然再軍備をしなければならない、再軍備をすると、そうすると可愛い子供たちが戦場に引張り出される、そうしてあの戦火の巷に弾よけにされる、こう早呑込をしておるかもしらんと思うのです。或いはそうなるかならんかわかりませんが、まあ大よそそんなことにはならないだろうと、こう思うのですが、ならない先の遠くのほうの問題を言つたら馬鹿と言つて怒られるかも知れませんけれども、とにかく出ないばけ物にたまげてぎやあぎやあ騒ぎ過ぎるのだ、そこに又成長の過程にあるのだというようなふうにも私は考えるのでありまするけれども、できるならば日教組も、もう少し大局的に物を考えて、そうしてその対策というものをまじめに現場の教育の上に立つて考えるようにして行きたい、尤も私たちがあの終戦後身近にいろいろな苦労がありましたときに相当行過ぎが、あつたことは反省するのでありまするが、日教組の中執のかたがたが全国的のいろいろな困つた資料を眼の前にいたしますと、そういう気持になるのも又無理もないと思うのです。併しもつと広く、場の上にも広く、時間の上にも広くものを考えて、そうして正常な判断の上に事を処して頂きたい、こんなふうにも考えております。
  91. 伊沢甲子麿

    公述人伊沢甲子麿君) 意見を述べさせて頂きます。戦後のだんだんよくなりつつあるのにこの法案は今頃どうかという御質問でございますが、私はまあ先ほど山崎先生もおつしやつたように、もつと早く出すべきであつたと思つておりますが、今日かなりよくなつておるから、それじやこの法案はいらないのだという結論は出せないと思います。そういう結論は私は飛躍だと思いますが、よくはなつておるが、全面的によくなつておるというわけではございません。又現在フラク活動ができる基盤がないわけではございません。そういう意味におきましてもこの法案は現状においては悲しいながらやむなく賛成せざるを得ない、こう思います。
  92. 吉田萬次

    ○吉田萬次君 朝倉さんに一つお尋ねいたします。私は愛知県でありまするが、愛知県の校長は日教組に入つておらんのでありまするが、あなたは日教組に入つておいでになるか、おりませんか、先ずそれを承ります。
  93. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) 入つております。
  94. 吉田萬次

    ○吉田萬次君 先ほどの御議論、御答弁を拝聴いたしましたが、あなたは日教組の悪いところがあるときは反対するとおつしやつた、それは承わるところによると個人、あなたの問題に限つておるように考えられます。そこで先ほど中山先生があなたに御質問になつたときに、共産党の指令が出たのを知つておられますか、それに対してどうお考えになる、又伊勢の宇治山田の大会のときのいろいろ箇条があるが、それに対してあなたはどうお考えになるかということをお尋ねになりましたときに、あなたはそういうことを知らないとおつしやつたのでありますが、併しながらあなたはそういうことを知らないとおつしやつて、そこをカムフラージされたように私は解釈いたしますが、若しその真相をあなたが知つておいでになるとするならば(「そんなことはないよ」と呼ぶ者あり)この法案ができるということが当然であるというようにお考えになることも私は考えております。そこで先ほどあなたは六百人の共産党員があつたにしても、それは要するに蛔虫がわいたようなものだということをおつしやつた。併しながら蛔虫というものは私は医者でありますけれども、大人にわいた蛔虫はそれほどの影響もないでありましよう。併しながら子供にこの蛔虫がわいたときにはたくさんな子供が死ぬということを考えましたときに、たとえ少しの子供でも死ぬということに対して看過することは私はでき得ないと思うのであります。そこであなたは知らんというふうなことを先ほどおつしやつたけれども、それから又あなたは現在まだ日教組というものがそんなに成長しておらないからということをおつしやいましたが、成長しておるおらないということは別といたしまして、只今この状態から見まして、この法案が出るということは私は当然のように考えるのであります。それで先ほどあなたは知らんとおつしやつたのでありますが、若しこの真相を知つておられました場合において、この法案が出るのを当然と解釈せられると私は考えまするが、どうですか。
  95. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) 日教組の悪いところがあれば反対すると言つたが、それは個人的なものであつて組織の中の一員としては許せないとかいう問題ではないかと思いますが、そうでございますか。
  96. 吉田萬次

    ○吉田萬次君 それはそうではありません。あなたは個人的のものとしてお片付けになつたに過ぎんと……
  97. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) それは質問の要点ではありませんね。
  98. 吉田萬次

    ○吉田萬次君 そうではありません。
  99. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) 共産党の指令があつたのをお前は知つておるかとおつしやいましたに対して知らないと申上げました。これは全く存じません。  それから宇治山田の大会の問題は報告を受けて知つております。知つておりますが、先ほど申上げました通り、私どもが子供を教育いたしますのに何を以て子供を教育するかということ、丁度それは文部省の検定済になつた本がたくさん出ておりまするが、その検定済になつた本のうちどれを採択するかという自由が許されております。なお又私どもが採択した教科書そのものを教えるのではございませんで、子供の生活の事実を教材とするのでございます。従つて仮に日教組の大会で如何ようなことを決定いたしましても、そのことが直接私の学校の子供に経験させてはならないことであるならばこれは組合員としての義務を果すなどということは第二、第三の問題でございまして、私それ自身の教育的良心は宇治山出の大会の決定であろうと何であろうと、さようなものを教育の場に持込むつもりは絶対にございません。従つて私のお答え申上げますることは、いやしくもこの国会のこの場においてお尋ねを頂きますならば、カムフラージをしながら逃げようなどという卑怯な気持は微塵も持つておらないことを信頼願いたいと思います。  それからなおそういうことを知つておつたならば当然この法案に賛成するであろうというお話でございまするが、私は先ほど申しますように、日教組は次第によくなりつつある、教職員も次第に鎮静をして来て相当に自主性を持つて、みずからの反省によつて相互検討をしつつある、このときにこの法案が出ますことによつて先ほど公述いたしましたように、幾多の思わざる副作用が生まれて参る。その副作用によつて命を落すようなことが起るのではないかということを懸念するのでございます。子供の共産党員が六百人あるということは、蛔虫がわいた程度である、こう申上げましたが、或いはその言葉が過ぎたかも存じませんが、私は蛔虫駆除ということは、結局人間の生命を維持するために必要な手段でございまして、その蛔虫を駆除するために余りに副作用の強いものを飲ませることは、却つて心配が多いということを申上げましただけでございます。少くとも子供でも看過できない、その通りでございます。ただ一人の子供の問題でも、真剣に一人を愛し、一人を尊重しなければならないと、こう考えておるのでございまして、要は副作用のない教育基本法、サントニンの程度の、而も確実性のある、その虫下しを飲ましておけば、先ず日本教育は心配がないと私は信じて、先ほど申上げたわけでございます。失礼いたしました。
  100. 吉田萬次

    ○吉田萬次君 若し私の学校にそういうふうのことがあつたならば、私はそれをとめるとおつしやつたのですが、あなたの学校にあつた場合において、それをおとめになることは、それは簡単なことだと私は思う。併しながら事は全般に及ぶのでありまするのと、この法案が蛔虫駆除に対するサントニン程度のものであればいいけれども、非常な強烈なものであつたならば、これはやめたがいい、その解釈に対してあなたは強烈だとこれをお考えになる。私はサントニンでも中毒することがあるということを知つております。従つてかような点から考えまして、この法案というものは、決して永続すべきものであるというところのものでもなし、これによつてそれほどの、私は教員が萎縮するものでもないと考えます。従つてこの法案というものが、若し日教組が、いわゆる反省して、だんだんいいようになつて行くならば、それと等しくこの陰も薄らいで行つて、なくするときが来るだろうと思うのであります。現状としては、私はどうしてもこの法案によつて一応収めるより仕方がないだろうと思うのであります。併しながら先ほどあなたが、いわゆる教科書の選定に云々ということをおつしやいましたが、教科書の選定とこれとは違うのでありまして、現実に現われたところの共産党の指令、或いは宇治山田の問題というものは、そんなに簡単に解決すべきものではない。この問題が、いわゆる偏向事例というものを起すところの私は要素であると考えまするが、なおあなたはさようにこれを軽くお考えになりますか。
  101. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) 宇治山田の大会の決議は、私ども存じておりますのはこれだけでございますが、日教組の指令、共産党の指令ですか、そうしたものは存じておりませんが、先ほど私が申上げました、教科書選択の自由が与えられておるように申しましたけれども、それは私は軽く視ているということではございません。如何に大きな問題でございましても、大きければ大きいほど、我々の主体性においてその弊害をはつきり認められると思うのであります。従つてそのことが今の子供の教育に適切なる材料でないと言うならば、これは日教組の指令であろうと、決議であろうと、これを直ちに学校教育の場において取上げることは、これは教育基本法の第八条によつて明らかに制限を受けておるのでございまするし、なお教師の教材選択の自由も、この点を解決するものであろうと私は考えます。  そこでこの法律案暫定法であつて、永続するものではない、この法律が出ても教員が萎縮しないというお考えで、お前はどう思うかというお尋ねのようでございまするが、これが、先ほど私は公述のときにも申上げたのでありますが、この第三条の内容の前段、後段を通じて考えますると、どうしても日々の教育活動そのものが問題点になつて行くのでございます。そういたしますると、教員はこのことによつて、毎日の教壇生活において危なかしくて、うつかりしたことが言えない、それは警官の学校侵入もあり、或いは同僚の中傷もあり、或いは父兄の、子供を通じての観察もあり等々の……
  102. 吉田萬次

    ○吉田萬次君 よくわかりました。ちよつと……
  103. 川村松助

    委員長川村松助君) 討論になる虞れがありますが、質問にしてくれませんか。
  104. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) 私もう少し、最後まで申上げさせて頂けませんでしようか。
  105. 川村松助

    委員長川村松助君) 簡単に願います。
  106. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) 簡単に申上げます。そこへ持つて来て、現在の地教委そのものは、我々の行動に対して、いろいろな監督の権限を持つております。併しこの地教委の実態というものが、やはりこれも成長しておりませんので、而も身近にこの地教委の勧告が行われるということになりますると、いよいよ以て教職員が、この法の制定によつて萎縮するということは、私疑わない事実であろうと考えておるわけであります。失礼しました。
  107. 吉田萬次

    ○吉田萬次君 委員長もう一言、只今の先ほどからの御答弁によりまして、朝倉さんの御意図はよく了承いたしました。これ以上御質問申上げるのは、いわゆる水掛論になる、見解の相違になるから、私はこれで打切ります。
  108. 田中啓一

    ○田中啓一君 関連質問。前から……朝倉先生にお尋ねを申上げたいと思いますが、実は朝倉先生、先般来お話がありまして、確固たる御信念に基いて長年教育をおやりになつておりまして、私は大いに敬服いたすのでございまして、若し朝倉先生のごとき先生ばかりおられましたならば、私はこの法律は不必要であろう、かように私は存じます。併し先ほどお話のございました、例の振替授業の点でございますが、勿論今市の学校におきましては、只今の御見識によりましておやりになりません。又附近の学校もやらなかつたところが多いように見受けられました。併し新聞に出ましたところによりますると、日教組は、全国においては七五%指令に従つて振替授業をやつたのであります。こういうことをみずから発表しておられますし、又私ども東京に住まつております者は、実に騒然たる状況であれが行われまして、中には校長は絶対振替授業はやつてはいけない、職員が言うことを聞かなければ、自分一人でやる、私は実に崇高なる精神の現われだと思うのです。職員は誰も出て来ない、自分だけ出て、何百人の生徒を相手にしておやりになつた、私は涙が出た、それほど強いかたもおられる、そういうこともよく存じております。かれこれ考えますると、どうも先生は日教組の指令なんというものは、誰も盲従する者はない、こうおつしやいますけれども、今の校長一人で授業をおやりになりました、その校長の談が出ておりました、新聞に。組合の指令なりと称してどうしても承知してくれん、仕方がない、自分は教育のためにこの指令は聞けん、こういう談が出ておる、やはり組合の指令で校長、これは授業を振替えてやらなければいかんと迫つたに違いないと思う。かくのごとき事例が七五%もあるということでは私はやはりなかなか組合の支配力というものは強いものだ、こう考えますが、この点に対する御認識は如何でございましようか。
  109. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) これは新聞で七五%あつたということを私も見ましたが、これは私現実にはわかりませんのですが、こういうふうに日教組の指令というものが相当の力を持つておる、こういうことに対してお前はどう思うかという御質問だと思います。それでよろしうございますか。
  110. 田中啓一

    ○田中啓一君 はあ。
  111. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) 私どもは先ほどちよつと申しましたが、やはりこういう大きな問題になつて参りますると、教育者の良識において何らかの抵抗運動をしなければならないということは私も是認できます。併しそれが法治下の国民として非合法的な手段をとるということは、これは如何なる場合でも許されないと思つておるわけでございます。で、日教組の振替授業の問題そのものについては非合法であるかないかということについては相当論議が行われたと思いまするけれども、私は、先ほど申しますような理由を以て、これが非合法であろうと合法であろうと子供は手離さない、なすべき授業だけは完全に行なつてやるのだ、こう思つたのでございます。で、この七五%の全国のかたがたの中には多分それぞれの見識においてこれを合法的と考えて全国統一行動のどこかの線に一致すべく努力したと思うのであります。これはさつきも申しましたが、子供を犠牲にして、そうして我々の都合のいいことをやるのだという御批判でございまするが、私はそれは若しその通りであつたとするならばよろしくないと思います。併しそれを行なつた人人はこれは日教組の指令に従つたという観点も立ちましようけれども、むしろその地方の先生がた良識において、これは子供を手放すのではなくて、振替授業を行うことによつてその欠点は補い、更に週四十四時間という勤務時間のことも考えて、できるだけ合法的な手段によつて全国統一に参加しようというふうなこれは自主精神であろうと私は思います。校長が一人でやるのに組合員が教員組合の指令だからやらないのだ、こういうことでは誠に残念だと思います。我々の良識においてこれはやるべきものであるという線において行われるならば是認されまするが、教員組合の指令だからまずいと思うのだけれども我々はやらなければならないのだ、こういうようなことを今頃の先生が言うものではなかろうと私は考えるのですが、これは現場の人について聞いてみなければわかりません。
  112. 田中啓一

    ○田中啓一君 それからお話を伺つておりますと、この教育政治的中立確保に関する法律案は、まあ表面はさしたることはないが、どうもその副作用が恐ろしい、こういう御意見であつたように私承知いたしました。ところがこれは、余り法律のことを申上げるのは如何かとも存じますけれども、私も実は素人でありますからそんなに法律論ではないのでありますが、教育基本法の第八条は決して今まで悪い法律だ、あつてはならない法律だとはおつしやつておりません。そこでこの八条と三条とを読み比べますと、衆議院のほうで二項のほうはおきまして、八条に書いてあると同じ文句で、支持し又は反対するための政治教育その他政治活動をなすことを教唆扇動したものは処罰する、こういうことになつておるわけなんです。そうなりますると、もう一つこれを、この意味を解釈いたしますると、教育基本法第八条に違反するような教育をやらせようと教唆扇動したものは処罰するぞ、これだけの意味になつてしまう。でありますから、若し副作用があるならば、もう基本法八条に副作用が出て来なければならない。而も基本法のほうはそういう偏向教育を教室でした人は八条違反になるぞと書いてある。これは先生が人におだてられても、知つても知らなくてもやつたが最後引つかかるということになるのでありますから、このときにこそ副作用が出て来なければならなかつたと思う。而も八条は法律でありますから、今度は地方公務員法のほうへ参りまして法令に違反をすれば懲戒免職ということになり大きな私は処罰だと思います。身分罰だから軽いということはなかなか言えん、一生を棒に振るということになると思います。でありますから、どうも副作用の点でこの法律は誠にいやだと、こうおつしやるのでありますが、副作用は基本法の八条も又この三条も余り変りはないではないか。八条のときに出て来ない副作用は第三条を作つてみても出て来やせんじやないか、私はかように考える。その点について御所見をお伺いできますれば誠に幸いと存ずるわけであります。
  113. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) 教育基本法の第八条と今度の法律案と文句はそう違わないのだ、だから若しお前の言うように副作用が今度の法律で出るならば、第八条の規定のときも出るはずだと、こういうようなお尋ねで、それに対してどう思うかということだと思いますが、それでよろしうございますか。教育基本法の第八条には私どもこれは納得が行くのでございますが、何となれば私どもは教室の中でこの政党がいいとか、この政党が悪いとかいうようなことを申しますれば、これは児童生徒の批判力、判断力を潰すことになります。そういうふうなことは今の教育者は子供を考える限りは言えないのでございます。こういう事実もある、こういう事実もある、それをできるだけ子供にわかるように示してやります。そうしてそれに対する判断をさせる。判断は随分間違います。間違つたときに又新らしい資料を与えます。そうして判断をさせるということに教育の狙いがあるように私は思うのでありまして、第八条においてはそういう教育をしろ、こうおつしやつたかと思うので、私どもは全くその通りでございます。こう思うのでございます。ところが今度の法律では、私どもが一番懸念しますのは、目的はあの通りでございまして、何の文句はない、実際は。ところがあの法律を出しますことによつて、あの問題が地公法と国家公務員法との関連がある。つまり我々は地方公務員でなくなつて、それから国家公務員になる。そうしてそれが人事院規則で取締られると、こういうようなことになる。罰則に刑法が伴うということに相なりますので、副作用がそこから出て来ると思つたのであります。つまり繰返して失礼でありますが、いろいろな捜査の手が学校教育の場に入つて参りますので、その捜査の手に煩わされて、私たちがうつかりしたことは言えないぞという不安が伴なつて来る、そうして子供たちに具体的な資料を与えて判断力を養う、批判力を養うという、教育に必要な仕事が抑えられる、それでは困つたことになる、こういうふうに解釈したわけなのでございます。
  114. 加賀山之雄

    ○加賀山之雄君 いろいろお話承わりまして、いろいろお伺いいたしたいのでありますが、時間も大分過ぎておりまして、御迷惑と思いますので、極く簡単に、少しこれは、或いは私の質問がむずかしいかも知れませんが、お答えを頂ければありがたいと思います。  私ども今日までこの法案審議して参りまして、いろいろの過程を踏んで参りまして今日まで参つておりますが、その過程におきましてやはり偏向教育というものがあり得る。又行われている事例の一、二も確かにあり得るということがはつきりして参つております。尤も私福井県の出身でありますが、福井県の教育界なんかにはそういう心配はないということを聞いておるのであります。併しどこかにそういうことが行われておるということは考えられる。又先ほどから日教組の話が出ておりますが、確かに今日まで行過ぎがあつたということも明らかにされておるように存ずるのであります。そこで私はこういう法案が準備されたのだろうと思いますが、この法案がなくて、ほかに先ほどの、反省期に入つているというお話がございましたから、又朝倉先生は日教組がどういうことをきめようと、自分としては断固として自分の信念を以て教育に当るのだという強い御決意を承わりまして、私ども誠に心強く感じますが、併しこれも日教組というものは組合でございまして、組合というものがあります以上は、やはり組合の決定に基いて行動するということがやはり組合活動の本旨であろうと思う。又これが民主主義というものがきまつたことを、多数できまつたことを実践して行くということになろうと思うのでありますから、これは棚倉先生のような強い信念の先生ばかりおられるならばこれは心配ないかも知れない。従つてこういうことから見てこの法律がなくては、いわゆる教員諸君を初め、日教組の反省、或いは強い信念を持つた先生方の力だけによつてこういつた心配はなくなるという保証があるかどうか、その点が一点であります。これは三入の先生方にそれぞれお伺いをしたい。  もう一つは先ほどお話に出ております、私はこの教員諸君がみんなそう弱いかたばかりとは考えておりませんで、現に今日御出席の朝倉先生にしろ伊沢先生にしろ、極めて強烈な意思と教育精神を持つておられる。併し中には卑屈で或いは弱い先生があるというお話でございますが、こういう先生方が、こういつた法律が出ると脅えてろくろくものも言えない、生徒に自分の正しいと思うことさへ教えられなくなるというお話がございましたが、この法律が出たと仮定いたしまして、その場合に今言われた非常にそれぞれの個個の先生方の意思なり、そういうもの以外に、何かそういう先生方の立場を守る保障があるかどうか、さような具体的な手段があり得るかどうか、その点について、これもお三人の先生から承わりたい。
  115. 山崎匡輔

    公述人(山崎匡輔君) 初めのほうの御質問はちよつと聞き漏らしたのでございますが、あとのほうのお答えを先にいたします。  今度の法律は、ここで議論をするのでは決してございませんので、意見でございますから朝倉先生ちよつと失礼いたします。  今度の法律が出ますというと、副作用として先生方は非常に萎縮するという御心配、そういう副作用を防ぎたい。私は実は今日の日教組の現状をはつきりしておりませんので、六百人もの共産党のかたもいらつしやるということを聞いて、実は非常に驚いているのであります。ただ今のお話の今日の法律が出ても、私は中正におやりになるかたは、さように御心配にならないでも如何なるところでも、明快に自分のお立場を説明することができるのだと、こう思つておるのであります。その反対に、むしろ大勢組織の力に反対して行くということは、この朝倉先生のようなかたばかりお揃いになつておれば、実に何ともなく参るのでありまして、それこそこういうかたはそうたくさんは私はないように思うのであります。実にいい先生方はたくさんいるとは思いますけれども、惜しいかな弱いかたが非常に多い。従つてこういつた法律ができませんというと、これは今の副作用と丁度同じような、思わずそこのほうに引張られるという、思わないところに盲従して行かなければならん、丁度今御心配の反対の現象がそこに起りまして、それが結局教育界に非常に大きな心配を生ずるものだ、今のお話と逆の方向、なければいけないということ、この法律がなければいけない。そういうかたがたが本当に安心して教職についておられなくなるということを私は申上げたい。それから先の問題は……。それだけでよろしうございますか。
  116. 加賀山之雄

    ○加賀山之雄君 あとでお答えになつたのがそれに当るのであります。
  117. 朝倉武夫

    公述人(朝倉武夫君) お答え申し上げます。この法律がなくても日教組も教員も相当沈静をとり戻し、よくなりつつあるのだからいいではないか、こう私は思うのであります。即ちそれをどうして証明するかとおつしやつたのでございますが、これは事実が証明していると私は思うのであります。戦後あの激しかつた教員組合の行過ぎが、次第々々に落着いて参りまして、なお且つまだ多少の問題点も残つておりまするけれども、よくなつて来ている、このよくなつた基は、法によつて束縛されてよくなつたのではございませんので、教員それ自体の反省と批判と相互研修によつて次第に目が開いて来て落着が出て来たのだ、これが即ち教員に主体性、自主性を育てて下さる政府の親心ではないかと私は思うのでございます。  もう一つ、組合員である以上は国の決定に従うべきであつて、それが組合活動の本質である。即ち多数決に従うのが民主主義の原則だ。お前は大分強がりを言つて、多数決になつてもそれに従わないからお利巧だと言われるのではないと思うのであります。私も多数決に従わなければならないと思うのでありますが、この多数決にまで持つて行くディスカッシヨンの過程が最も重要な組合活動の本質だと私は思うのであります。即ち幾多の事実をそこに並べまして、判断の資料をたくさんに持つて来て、そうして而も現在の許されたる法の範囲において、なし得る程度のことを決定するのだと思うのでございます。判断の高さは資料の数に正比例すると私は思つております。お若いかたがお集りになりますると、とかく勇ましいことを言うて、そうして判断を過つこともございまするが、そこに先ほど私は組合員の一人であると申上げたのでございまするが、私たちのように頭の禿げた者も入つておりまして、その判断の資料になるものをたくさん提供して、これはどうだろう、こういう問題から見たらどうだろう、これは本当に日本教育を支配するようなものになるとするならば、それほど我我は命がけでも材料を提供して多数決に持つて行く前に決定する前に、何人の人にでも説くべきであると私は思うのであります。この多数決の結果が問題でなくて、多数決に持つて行くまでの過程そのものに組合運動の本質があるのだと私は思うのであります。従つて一旦決定いたしました全国統一行動の線につきましても、法の許される範囲において、又我々の良識が許す範囲において是非統一行動の一線はまとまるように努力いたします。  そこで、さつき一つの例と申したのですが、午後一時までに防衛大会を開けというその線は、私は午後一時というこの線を確守いたしました。併しこの午後一時を確守するために授業を放擁してはならないから、一時に間に合う者は一時に来い、間に合わなかつたら二時に、三時、四時、五時まで待つているぞと、こうして全国統一行動の多数決の線に従つたのであります。苦しいこともございまするが、併しそれが今組合覇をだんだんよくして行く我々の努力ではないかと思うのでございます。
  118. 伊沢甲子麿

    公述人伊沢甲子麿君) お答えさせて頂きます。教員が萎縮するかどうかというお話でございますが、私は萎縮するかたもあるし、萎縮しないかたもある。決断を下すわけには参りません。ただ第一の質問については先ほど山崎先生が詳しくおつしやいましたから、私があえて附加える必要はないと思うのでありますが、私は現状においては、先ほどから何度も言つております通り、やむを得ないと思うので私は賛成して、そうしてこれによつてそれは一時はいろいろな宣伝又は新聞、又は評論家の雑誌の文章や何かで、相当まあその私の立場から言うと、ためにすると私は思うのですが、ああいう法案が出ると、お前たちはひどい目に会うぞというような、ためにする人々の言によつて萎縮するかたもあるかも知れません。併し一時的なことであつてはつきり時間が経てば、おのずからこういう問題に、法規に触れない人は別に何も処罰されるわけじやないのですから、別段問題はそう起らないと思います。  それからその次の身分保障があるかどうかというお話がちよつとございましたね。
  119. 加賀山之雄

    ○加賀山之雄君 ちよつと補足して、私の言葉が足りなかつたので。私申上げたのは、この法律が通つたと仮定して、弱い先生、いわゆる副作用があつて私はそういう萎縮する人があるかどうかを伺つたのじやなくて、そういうかたがあるとした場合に、そういうかたの立場を擁護し、そういうかたを鼓舞激励し、萎縮しないように、或いはその立場を守る保障があるか、何かそういう方法があるかということを承わつたので、この点は朝倉先生のほうからもお答えがなかつたのですが、併せてどうぞ。
  120. 伊沢甲子麿

    公述人伊沢甲子麿君) その保障、法律的な保障でございますか。
  121. 加賀山之雄

    ○加賀山之雄君 別に法律でなくてもよろしい、事実的なことでも結構です。何でもいいのです。
  122. 伊沢甲子麿

    公述人伊沢甲子麿君) ああ、そうでございますか。別にこの法案ができたから萎縮する人を鼓舞激励する保障……。
  123. 加賀山之雄

    ○加賀山之雄君 あなたならこうすれば、そういう立場が弱いかたが出て来たら守れるのじやないかという、そういうお考えで結構です。
  124. 伊沢甲子麿

    公述人伊沢甲子麿君) それは我々同僚たちが校長初め一つの釜の飯を食つている学校で、而もその学校がうまく運営されておる学校であるならば、当然皆が力を併せて鼓舞激励しますし、又お互いの身分の保障のためにも力を尽し合うと思います。これは当然のことでありまして、又そういう私が今まで勤めて参りました学校は、先生がたはとにかくお互いに仲好く守つて行こう、こういう学校が、私少したくさん学校を教えましたが、そのうちの一校を除いては……、一校だけは不幸にしてそこは非常に各党が分かれて、絶えず訴え合いばかりしておりました。あとはそういうことはございませんでした。
  125. 岡三郎

    ○岡三郎君 もう大分時間が経つたので打切りにしてもらいたい。
  126. 川村松助

    委員長川村松助君) 別に御質疑もなければ、これで本日は散会いたしたいと思います。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  127. 川村松助

    委員長川村松助君) 御異議ないと認めまして、それでは散会いたします。  先生方にお礼申上げます。本日は御多忙のところを長時間お話を給わりまして、いろいろと有益な御所見を拝聴いたしまして誠に有難うございました。時間が遅れまして恐縮いたしております。    午後六時十八分散会