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参考人(
吉沢国雄君) 先にお断りしておきますが、私は今度
一般邦人という中に加わりまして
帰国いたしました。従いまして今
湯浅代表がお話になりました四百十七名の
西陵からお帰りになりましたこの四百十七名の元
軍人、
戦犯こういつた
方々と少しこの
帰つて参りました
状況がいろいろ異なります。私はこの参議院のほうから私に
意見を聴取される四項目についてお答えしたいと思います。
で第一項目は、
抑留前及び
抑留後の
状況とこうな
つております。これについて回答いたしますと、私は一九五二年でございますから、
昭和二十七年
北京におきまして反革命分子として、
北京の軍事管制
委員会の未決看守所に拘留されました。そうしてこのたび
帰国の直前、九月の十四日に判決を受けまして、罪名は反革命罪でございますが、八年の有期徒刑を受けまして、同時に即日国外追放、この処決で国外追放になりまして、
帰つて参つたわけであります。
で、私の
抑留前の
状況、まあこれを申し上げますと、非常に長うございますから、簡単に
厚生委員会の
方々に御必要だと思われるようなことについて私はお答えして行こうと思いますが、私が終戦のときには、
北京郊外、清華園の
陸軍病院に
軍医でおりました。終戦のときに一級北支軍は上りまして、いわゆるポツダム
大尉というのでありますが、
大尉に任官いたしました。その前は中尉でございます。終戦後
部隊長茂木中佐、私
たちの病院も、元は病院の中に教育部というのがございまして、病院と全く独立
部隊だつたのでありますが、終戦と同時に教育部が病院と合併されたわけであります。従
つて茂木中佐は元の教育部長でありますが、この方から勧められまして、
中国に残
つて、今から思うと大変反動的な思想でありますが、もう一度
日本の再興、
大陸へのもう一回発展、いわゆる発展という言葉で、その
ために若い
軍人が
中国に残るように、そのような
部隊長の話がありました。で、二、三の者と相談をいたしまして、軍が接収される前に、武装したまま
部隊を飛び出しました。それから今こちらに
帰つておられる根本博軍
司令官、当時中将でございました。この根本博さんに個別に面会いたしました。そして長期
中国に
残留して、やがて時期を見て活動するように、こういうお話で、当時私は若い者五、六名、
下士官とか、見習士官とか連れまして
中国に
残留したわけでございます。その後いろいろな行動は略しまして、反革命罪に問われました。第一の罪状は私が根本博さんの、つまり軍
司令官であります。その命を受けて
中国に潜伏しておつた、
日本軍の
特務、これが第一の罪状でございます。そのほか私が
北京におきまして、
日本人救済会というのを
北京解放後三回ばかりやりました。もちろん
中国におきまして、
日本人が
北京、ことに首都
北京でそういう組織を作り上げることは、解放後禁止されておりました。従
つて日僑の、昔ありました自治会というようなものも解散されておりました。私どもはそれに反対いたしました。どうしても
日本人の間に困
つた者が出る、あるいは牢に入つた場合に、家族の者が困る。そういう者
たち、そういう
方々を救済する
ために、救済会は必要である。しかし許されてない、こういうようなところから、非合法に救済会というものを三度にわたりまして作り上げました。そのときに私
たち非常に思想的にはその当時
中国側に対立しておりましたので、まあ
中国側の誹謗をいたしました。それが私の罪状の第二であります。それで反革命罪に問われまして、八年の刑を受け、今度寛大の処置を受けまして
帰つて参りました。
抑留後の
状況、
抑留後の
状況は、私がそれらの罪を初め全然認めませんでした。一九五一年、つまり
昭和二十六年になりますか、
昭和二十六年から私は
北京市において管制状態に入りまして管制状態と申しますと、大体毎週、一週間に一回ぐらい公安局に私が向うから聞かれたことを答え、
自分の反省をする、つまり
自分の罪をその間に白状する。すでに公安局は私に、お前は
日本陸軍の
特務と認めるから、一切の罪状を白状しろ、白状を終えれば
政府は寛大な処置をする、こういう通達がございました。しかし私は逮捕されるまでそれを認めませんでした。拘留後は、私が今考えてみまするに、ひとの国に
日本帝国主義が銃や剣を持
つて侵入したという事実、これは
中国の
人たちにと
つて、最も
中国人民が胸の中まで憎んでいる、敵であります。私は帝国主義が、
日本が投降しても、なおかつ
日本の再興によりまして、
中国に残つたのでありますから、これは当然
中国人といたしまして、私を刑に処するということは当然だと思います。これらの罪を
自分が認めますと、
中国の今の
政府は非常に犯人に対しても寛大であります。従いまして拘留後は、私のそういうがんこな反動思想を、
政府の工作の
方々はほとんど毎日のように討論の形で私にいろいろと新しい見方、私の誤りを是正いたしました。なるほどある点では非常に私
自分が悪かつたということを認めました。その結果今度牢獄の中に入りましたのは二年でありましたが、お前は大体お前の罪を認めたし、ものの是非は何を根拠として、いかなる根拠からものの是非をきめるか、そういうことはお前には大体わかつたはずだから、
日本に
帰つて医者は医者として医者の道を歩くように、こういう私を教育をしておりました看守所の所長さんが、そういうお話で判決を受けて
帰つて参りましたわけであります。牢獄の中のいろいろの
生活問題等、これは申し上げますときりはありませんが、皆さん御質問なさるならばお答えいたします。これで第一項を終ります。
第二項、在留
邦人の
状況につきまして、私は一九五二年に牢獄に入りましたから、最近二年間の
北京市の
状況はわかりません。しかし今度天津に私が集結いたしましてから、私の友達あたりを通じまして、私が聞いたり、また
日本に帰りましてからも、多少今までに接触しました
人たちから聞いてみますと、現在
北京市におきましては、ほとんどの
日本人がすでに
引揚げたようであります。牢獄の中に私が今度帰ります前、まだ三名の
日本人が一緒の場所におりました。これは朝夕顔を合せますから、確実であります。この三名の
日本人、この氏名はすでに私
舞鶴で申告してあります以外には、牢獄の中に
あと何名おるか、はつきりしたことはわかりません。私
たちは各個別に、ほとんど
日本人と
日本人と一緒になることがありませんから、そういうことはなかなかむずかしいのであります。しかし私の今の予想では、まだ
北京の軍事管制
委員会の未決の中に、まだ
日本人が少くとも十名くらいはおるのではないかというような考えをいたしております。そのほか
一般の
邦人のほうにはほとんど私が知
つておりました者は、すでに全部
帰つて来てするようであります。付け加えますが、一九五二年私が逮捕されますときに、
北京の広安門外の監獄の中に
山西関係の
戦犯が三名入
つておりました。
岩田元参謀、
岩田何と言いましたか、
岩田さん、河本大作、城野実、この三名が広安門外の監獄におるということを聞きました。これに差入れしておりました者もおりました。この差入れをしておりました者は、今
湯浅代表もちよつと言われました松本広瀬という、つまり
山西軍を閻錫山に
交渉して
中国に残した計画者の一人であります。松本広瀬は、これはやはり反革命罪に問われまして、
中国で反革命罪で逮捕され、五年の刑を受けまして、昨年
帰つて来ております。松本広瀬、この人が
岩田、河本、城野、この三人の人に差入れをしております。それから
あとこの三省は
太原に移されたという情報も聞きましたが、この辺は私
たちわかりません。在留
邦人の
北京における概要はそんなものです。
今後の
引揚げについての見通し、この問題に関しましては、私はほかのほうはわかりませんが、少くとも反革命罪で逮捕されている
日本人、これに対しては、この一、二年の閥どんどん
帰つて来るのではないかという見通しであります。今度
北京の未決監から判決を言い渡されまして私と一緒に国外追放になりました者が五名おります。この五名のうち、十年の刑が五名でありますが、一名は四年未決におりました。一名は三年、もう一名も約三年であります。十年の刑を約三、四年で国外追放にな
つております。私は八年の刑で、一年管制に置かれ、二年未決に置かれまして、前後三年でやはり今度強制
帰国を許されました。もう一名も八年の刑で、三年で
帰つて来ております。従いまして、私が今大体予想しておるのは、未決監中に大体十名ぐらいおるのではないかと考えるのでありますが、こういう
人たちもあるいはこの次の
引揚でまた国外追放にな
つて帰つて来るのではないかと思います。中共側の私
たち反革命罪の罪人に対する処置は、決して刑が十年だから十年務めろということではないようであります。大体罪を認めれば、
あとは国外追放という形で
日本に送り還すという方法をと
つておるようであります。これが私の今後の
引揚についての見通しであります。
第三、今回
引揚の実情、四百十七名の未
復員軍人についての実情は、この
方々については、
湯浅代表からお話がありましたし、私も実情を詳しく知りませんし、別に第四組について少し申し上げます。今度の私
たちの
帰国は、四つの組に
編成されております。第一、第二、第三は
山西関係の
軍人の
方々、第四組がいわゆる
一般邦人ということにな
つております。しかしながら、今度の第四組も少し今までの
引揚者と
状況を異にしております。この第四組の中に、大体国境追放という、牢獄を出て向うの公安局員に武装で護送されまして天津の紅十字会に渡されました者が、私の調べたところでは約十七名おります。氏名もわか
つております。この
人たちは、いずれも十年なり八年なりの刑を受けまして、その刑がまだ終らないうちに国外追放に
なつた人々であります。そのほかに強制的に帰れというような状態で
帰つて来たと認められる方が約七名おられます。この
人たちもか
つては、あるいはどこかで教育を受け、あるいはか
つて帰国を希望したけれども、いろいろな事情で
帰国が許可されなかつた人で、急に今度出発の前四、五時間くらいで
帰国するようにというような命で、荷物も持たないでほとんど準備もできずに
帰つて来た、こういう方がいるわけであります。そのほかは、
あと自由
帰国ということになります。私はこれは個人で船の中で調べた
状況でありますから、数字の上に多少の出入りがあると思いますが、御
参考までに私が申し上げますと、今御
発表になりました百四十一名が
一般の
邦人ということにな
つておりますが、大体その中に、世帯数でいいますと約八十世帯ばかりであります。で、託送荷物の数が六十六個とな
つております。ただし、この第四組の中にさらに小さい組、
小組というのがございますが、これは
山西の元
軍人関係の
方々で、
戦犯に問われないで
帰つて来た
方々でありましてこの
人たちは除いてあります。従
つて第四組の中の第一、第二、第三、第四、この四つの
小組の託送荷物の数でありますが、大体六十六個であります。大人一人につきまして平均一個くらいの数にしか当りません。携帯金を全然持
つていない
引揚者が二十八世帯ございました。約五〇%は大体こういう状態であります。従いまして、今度の私
たち第四組の状態も、昨年のように非常なこまごましたものまで何梱包も持
つて帰つて来た
人たちとはまるで
状況を異にしております。自由
帰国の方方も、大体
帰国の前一日、あるいは二日、短い人は半日くらいの時間の余裕で
帰国するようにという通達がありまして、従
つて各方面に困
つておられます。それが一つの
状況であります。
それからもう一つは、今度
帰国いたしますときに、各方面から集まりまして、北は長春、落陽、東北の各地から一名、二名ずつ集められました。南は広東まで
行つております。重慶から来た人も一名おるそうであります。こういう各地から集まりまして、天津のいわゆる
赤十字社に集結し、
赤十字社のお力で
帰つて来たわけでありますが、その間の交通費が、ある人には
中国側から負担がありましたが、ある人はその間の交通費を自弁しております。これも昨年までの
帰国の
状況と違うようであります。昨年あたりは、たとえば長春に集結いたしますと、長春から天津までの旅費も
中国側から負担があつたようでありますが、今年はばらばらに各地から一名、二名ずつ集つた
関係でありますか、交通費を自己負担された方が相当あります。従
つて、天津の
赤十字社に入りましたときに所持金がすでにないという人が非常に多うございました。これが今度の
引揚の
状況のうち今までと違うところではないかと思います。
この
状況の中に、私付け加えますが、天津の
赤十字社に私
たちが入りましてから、私は国外追放でありますが、
赤十字社の私
たちに対する
帰国の援助は非常に親切でございました。金のない者には金が支給されました。私と一緒に参りました五名の国外追放者の中の三沢君という人は、これも
陸軍の
特務で逮捕され、反革命の罪で十年の刑に
なつたのでありますが、着のみ着のまま一文の金もございませんでしたが、
中国の紅十字会から五十万円の金をもらいまして、洋服を作りたばこなどを買
つて帰つて来たような実情でございます。従
つて、窮迫の事情に応じまして紅十字会からいろいろな補助がございました。これが今回の
引揚の実情のうち私が知
つておる大体主要なことであります。
第四、その他
参考となるべき事項、これもいろいろございますが、どういう方面から申し上げてよいのか、ちよつと今のとこ二漠然としておりますので、皆さんから質問していただいてお答えしようと思います。ただ一言私はここで付け加えたいと思います。今度私、ち五百六十六名が一つの
団体として
帰つて参りました。その中には、四百十七名の
日本軍人の
方々、元
山西の
残留された
軍人の
方々、それから私
たち一般引揚者と、中にはおのずからそのような差別もございますが、共通した点はどこにあるかと申しますと、やはり
日本帝国主義の侵略戦争の
もとに、多かれ少かれ、程度の差こそあれその
犠牲になりまして、そうして
日本に今度
帰つて来たと、やつと終戦したというような者が私も入れまして相当数おるわけであります。で、私は今この四百十七名の
方々の詳しい事情はわかりませんが、私の希望といたしまして、どうか参議院の
厚生委員会の
方々が、もう十何年になります、人生のうち最も若い、最も勉強しなければいけないその時期を全く空白に過ごして、青春を
犠牲にし、結婚も遅れ、内地に妻や子も苦しみ、
自分は
戦犯として
中国で拘留されておる、そして
帰つて来られたのであります。私の見方といたしまして、これは私個人の考えでありますが、これが参謀の
命令によ
つて残つた未
復員である、あるいは一部の援護局の局長が
舞鶴で言われたように、君
たちは
復員しておる。僕はそういうような問題ではなくて、先ず実質の問題であります。何とかして経済的にこの
戦犯の釈放された
方々を助けて上げていただきたい。私自身も何とか、今私背広も何もございません。裸で
帰つて参りましたが、もしできることならば、何とか皆様のお力で、まあ
生活が、非常に大きな要求をするわけではありませんが、目下困
つておることは、一つ皆様のお力で助けていただきたいと思
つておりますが、ことにこの四百十七名の
方々は、一兵卒、大
部分が
将校ではありません。大体
兵隊として徴兵されて外地に渡りました。死なれた方も非常にたくさんございます。で、こういう
方々に対して、これはやはり
日本人全体が援助の手を差しのべていただけたならば私は一番いいんじやないか、私の見方はこういう見方であります。未
復員であるか、あるいは
軍人であるかということよりは、実質的にこの
人たちを援助する。もちろんそこに大きな問題があるわけです。もし未
復員であるならば、恩給が取れる。未
復員と認めなければ、毎月千円の手当しか出ない。しかし毎月千円の手当でこの
人たちの
犠牲にされた青春の代替になるかどうか、私はこの点はもつと皆様がこの
人たちに同情していただきたい、こういう気持でおります。私の発言を終ります。