○
参考人(佐瀬義男君) 私、佐瀬であります。私は刑を受けて参ります前は、南樺太の南端にありますところの弥満という所の学校の教員をしておりました。そこで私の学校には青年学校が附随しておりましたので、青年学校の主事を兼ねておりました。そういう
関係上、青年学校の、本当の軍で使う擬銃、銃でありませんが、擬銃でありましたが、その擬銃の不始末と言いましようか、それを隠しておりましたところを、いろいろな
日本人のかたが、
ソ連側のほうからいろいろと何か探すことを、
取調べを受けるついでに私のところの学校の武器のことが出たのでないかと思うのです。それで私はその当時御真影を持
つて参
つておりましたので、それを大泊という港に御奉遷いたしまして
留守でございました。その
留守に指導員であ
つたところの満月という審が、いろいろ後始末をしてくれましたが、その不始末の責任を以ちまして五十八条の条項の十四項、武器隠匿という罪名を以ちまして、一九四七年の三月に逮捕されまして、豊原を一九四七年の六月二十一日に出発いたしました。そこから邦人並びに
ソ連の住民の、刑を受けた者を合せまして、
はつきり
ソ連の人数がわかりませんからわかりませんが、約百四五十人が六月の二十一日、豊原を出発いたしまして、ウラジオ経由で丁度モスクワとウラジオの中間の所にありますところのクラスノヤルスク地区の
ラーゲルに送られました。それが私のクラスノヤルスクに参りました径路でございます。クラスノヤルスク地区というのは、どんな所かと申しますと、
気候は夏ですとやはり七、八十度ぐらいになりまして、冬は三十度から、寒いときになりますと
零下六十度ぐらいに下ります。大抵どこの
ラーゲルも同じでないかと思いますが、四十二度以上になりますと
作業を中止いたします。併し時間が経過いたしまして、温度が又四十度ぐらいになりますと、すぐ外へ出して働きに出るような
状態でございます。私のおりました所は、エニセイ河の丁度上流にな
つておる所で、本線はリシヨウトという駅から北のほうに線を延ばしておるわけです。それはその線は、名前は何とついておるのか、
はつきりわかりませんです。その線に沿うて木材を主として伐採している線でございます。将来はそれは又何かの線に結局は繋がる線ではないかとも想像されます。その線に沿いまして、
ラーゲルが約三十ぐらいございます。それからそのリシヨウトから又南のほうへ下りますと、これも又二、三十の
ラーゲルがあるように思われます。私らがおりましたのは、そのクラスノヤルスクの第十一号という
ラーゲルに初め参りました。そこは主に伐採で非常に立派な木工場がございまして、そこで以て私
どもは伐採の事業に携わりました。併しそういう箇所は新らしいところ新らしいところと開拓をして行くのでありますから、先ず先決問題として鉄道を敷くということになります。で、鉄道の敷設と言いましようか、鉄道工事に、木材の伐採と同時に鉄道を延長して行くというようにな
つて行くわけです。で、参りました者はこの鉄道の工事に当る者、或いは伐採に当る者、それから木工場の工場に働く者、こういうふうにな
つております。それからこの
ラーゲルは大抵私
どもは五十八条でありますから、一カ所に置かないというのが
向うの建前のようでございます。同じ
場所に置かない、大抵二年、或いは一年半とか一年くらいになりますと、その
人間を各
ラーゲルに移動して参ります、それでありますから所どころほうぼうと
ラーゲルをその近辺を廻る、こういうふうに前はな
つておりました。併し現在はそれが
ちよつと変りまして、私らが来るときにはゴーパーの
ラーゲルと言いまして、五十八条のかたは一カ所の
ラーゲルにまとめておるようです。それからそのゴーパーの
人間でもいろいろあるのです。或いは一項から十四項までありますから、それによ
つて一般の
ラーゲルに許す条項もあるわけです。大抵十項であるとか十四項なんというのは、
一般の
ラーゲルにもおりますが、大抵ゴーパーの
人間は一カ所に集結しておるのが建前のようでございます。
それから私
どもの
給与方面でございますが、参りました当時は、前者のかたからもよく御報告がありましたが、まあ私らがどういうふうに一番先にされるかと言いますと、
ラーゲルに入りますと、先ず人の級がきめられるわけです。
人間の等級がきめられます。それは女のお
医者さんもありますが、男のお
医者さんもあります。そのお
医者さんが一々体を調べまして、それを大抵私
ども参
つてお
つたときには、一級から四級までに分けまして、その等級をきめてくれるわけです。その一級から四級によりまして、今度はそれに附随しましてノルマと言いましようか、基準が違
つて来るわけです。一級の人は非常に体もいい、それから力もありそうだ、年も若いと言いますと、これにノルマが
変つて来ます。それから二級、三級となりまして、大低三級くらいになりますと、それは重
労働に充てないで軽
労働に充てる。それから四級というふうになりますと、それは
仕事をしなくても、
ラーゲルで休養いたしまして、
給与、衣服、いろいろ全部や
つてくれるようになります。それが
ラーゲルへ入りました一番初めに、そういうふうに私
たちに等級がきまるわけでございます。それからそこできまりまして、それぞれの
仕事というふうに入るのでありますが、その
仕事は、伐採、それから伐採されたものを積み込む人を
向うの言葉でパブロスクと申すのですが、それを台車に積む
仕事、それからその山から伐り出したものをスタベルと言いまして、山から来た材木をおろしてすぐ台車に積むような
仕事、或いは木工場、或いは道路の工事であるとか、そのほかに、私がおりました地方は非常に
気候も大体いいんじやないかと思うのです。それと同時に土地も肥沃な
関係上、この
ラーゲルには必ず農業を以て立つところの
ラーゲルがあります。その
ラーゲルは、前に申上げた
ラーゲルの中に、私らの
ラーゲルを若し一号といたしますと、一号の
ラーゲルに、第一分所、第二分所、第三分所、第四分所というふうに
ラーゲルが分かれておりまして、そこのラ治ゲルの中に女の
ラーゲルもあるわけであります。その女の
ラーゲルでは、そういうふうに農業をやりまして、この第一線に働いているところのほかの
ラーゲルにいろいろな農作物を供給する役目をしておるようでございます。で、参りました当時は、前者のかたが申されたように、非常に、こちらにおりますかたも御苦労なさ
つたと同じように、やはり当時は
ソ連でも戦勝国といえ
ども非常に食糧
事情はよくありませんでした。で、普通の働きではとても足りませんので、食べる物も何とかして皆さんで食べなければ生きて帰ることができないというような
関係で、
ラーゲルの中にありますところの草という草は皆食べていました、大体皆。それでまあ
向うのほうでは心配して、露助の上のかたが心配して、成るたけ
日本人はそういう草を食べたら早く病気にな
つて亡くなるからやめろやめろと言いまして注意をしてくれるのですが、やはりお腹が空くものですから、大抵いろいろな草を採りまして、それを一回煮まして、その煮たものをスープの中に入れて食べてお
つたという現状です。それからお腹が空きますから、大抵、私もやりましたのですが、歯などの金を
向うで欲しがるので、できるだけそういう歯等も外して皆パンに換えたような次第です。
それから
日本人で若い人、私
どものような年をと
つておる者は、非常にこすいと言いましようか、ずるいと言いましようか、要領がいいと言いましようか、成るたけ働かないようにするのですが、若いかたは非常に張り切
つておりまして、何、彼らに負けてたまるものかということであ
つて、働くのも彼らに負けない、
気候、風俗、食糧にかかわらず彼らに必ず負けないで、相当いいパンももらう、又働いてやろうというために、その無理を来して将来、将来ということはないのですが、三年、四年と経つ間にその無理が崇
つて来て、病気にな
つて倒れられたかたも少くないのではないかというふうに考えられます。それで
ソ連人は、私
どもはいろいろな人種と
一緒に入
つておる
一般の
囚人の
ラーゲルなんですが、彼らは私
たちに、お前
たちは余りまじめに働くなくと言
つてくれるのです。働かないように、この
ラーゲルにお
つたら働くと早く命を縮めるのだから、お前
たちも成るたけ働かないようにせよと言
つてくれまして、できるだけ私
たちも大事に生き伸びるように教えてくれたのです。そういうような現状です。
併し、ここで
思想的方面とか、いろいろございますが、私
たちはその
思想的に特別な教育を受ける暇もなし、各人種が雑多の中に拠り込まれて、その日その日の働いて帰
つて先ず寝ることと食べること以外に楽しみはないのでございますから、そういう
思想方面とか、そういうことも全然特別な教育も受けませんし、ありませんでした。
それから
通信の方面でございますが、
通信の
状態は、私
どもは全然これはありませんでした。
それから
衛生状態でありますが、この
衛生状態は、樺太で教員をした者が到頭死んでしまわれたのですが、亡くな
つたのですが、彼は若か
つたのであります。それに病気が、彼の病気は神経痛といいましようか、何というのですか、私らでは
ちよつと解釈できないのですが、熱がないのに足が痛んで、足がつけないような
状態にな
つたのです。ところが
医者に行
つてみますと、身体は健康である、それと同時に熱がありませんから、休みもなかなか
病院ではくれないのです。
向うでは、
ちよつと見ただけでは痩せてもおらず、熱もありませんので休ましてもくれない。又入院もさしてくれませんので、いろいろと
日本人のかたが全部集ま
つて、たくさんのお
医者さんにお願いしたのですが、どうも皆、あれはずるいずるいと言われまして、嘘だ嘘だというような
関係で、なかなか本気にしてくれません。まあしまいには、
ドイツ方面から来られて俘虜にな
つておられるお
医者さんなどが非常に好感を持たれておるのです。そういうかたに、結局は入院な
どもさしてもら
つてお
つたのでありますが、結局は亡くな
つてしまいました。非常に残念ですか、この休みといいましても、休みもなかなか、一日にノルマのようなものがあるのです。それでお
医者さんのところへ行きましても、前に今日は二十人に
仕事を休ませると言いますと、行きまして頼んでも、もう二十一人目でありますと、
ちよつと熱があ
つてもお
医者さんのほうで休ませないというようなこともあります。そんなような
関係で、熱でも高くない病気ですとなかなか
ちよつと休ましてくれないというようなところが非常に残念でした。又それからこういうことも言えます。お金があればやつぱり何とかそういう入院もできたのではないかと思うのですが、最後にはいろいろお頼みしまして、この人は入院をさせて頂きましたが、到頭それはたしか結核性カリエスというのでしようか、何というのですか、そういう方面で結局は亡くな
つてしま
つたのです。そういうわけで、まあ
向うでこの衛生方面はお
医者さんが
ドイツ人なんかもおりまして、
日本人を非常によく面倒を見て下さいました。又
向うのほうのお
医者さんも
日本人のためにはできるだけ便宜を図
つてくれておるのでありますが、
栄養失調、それから結核性方面といいましようか、そういうような
関係から亡くなるかたも多か
つた。それから老年で以て脳溢血で亡くなられたかたも非常に多か
つた。私らがおる
ラーゲルで、最近ではレントゲン列車であるとか、そういうものがありまして、又非常によく検査して下さ
つているようです。私らが参
つた当時は非常にそういう、どこも同じでしようが、不備なところも少くなか
つたのではないかというふうに考えられます。
それから娯楽ですが、娯楽も前者の申されました
通りに、やはり
映画であるとか、
新聞雑誌であるとか、或いは何といいましようか、
日本でいう何かお芝居のようなものをたまにやりまして、私
たちの
ラーゲルの中の全体を慰めてくれるというような
状態でありました。それが大体
一般の我々の、この欄に取扱われたような点でございます。
では、今度は残留している者という方面に移りたいと思います。私
たちのクラスナヤスクのほうでは、残
つたのは私の
ラーゲルでは
日本人はた
つた三人のみであります。私の
ラーゲルはクラスナヤスクの第一号です。三人残
つたのですが、その
人たちは一番初めに今回のアミシの結果呼び集められたものは東洋人が一人もなか
つた。アミシは東洋人はかからないのかと思
つて心配しておりましたところが、これがかか
つたわけです。それで非常に喜んでおりましたところが、この五十八条がかからないのです。これはてつきり五十八条はだめかと思
つてお
つたのですが、ところがこれが何といいましようか、五十八条てない
人間か三人残りまして、そこにおりましたのは大体五十八条の十項、十四項でございますが、その者は皆二、三日
あとにアミシの発表がございまして、私らも今度
帰国する一人の仲間へ入れて頂いた仕合せなものの一人であります。
あとに残
つたかたは、私の
ラーゲルに残
つたのは、その当時火災を起してその責任で帰れなく
なつたかたです。それから
あとまだ
日本人が残
つていますのは、大抵殺人方面或いは前に死刑囚であ
つたかた、その死刑囚であ
つたかたが死刑がなくなりまして、二十五年の刑にな
つております。その死刑囚であ
つたかたと、クラスナヤスクの私の管轄線です、リシヨウトウ駅の北の方の線には、
日本人がもう二十名くらいきりしかいないのじやないか、
あとは全部刑を明けておるかたです。
それでは地方に出たかたはどうかということになるのですが、地方へ出たかたは初めにいろいろ聞かれまして、お前はどつちへ行きたいとかということを聞くのですが、なかなか
自分の
希望したところへはや
つてくれません、刑を明けて出てゆく
人たちを見ますと。で、結局は指定された地区に、刑を明けておるものが参るわけですが、それは大抵クラスナヤスクの地区に、私らのように刑を明けた
人間は、大体刑を明けておるのじやないかと思います。で、そこからパスポートのようなものが出ますので、そこから
自分の好きな
場所へ行くというわけにも参りません。そこへ指定されますと、その所に参らなければならないことになるわけです。
それではその参
つたものはどうかということになるのてすか、それは私
どもラーゲルの中に働いておるものは、そとの様子を測り知ることはできないのですが、想像をしてみますと、働いておられるかたが、若いかたはともかくとして、年取
つておられるかたは非常に困
つておるのじやないかというふうに考えます。
で、コルホーズとかソフホーズという集団農場に参りますと、働いてそれが収穫した後でなければ、金であるとかいろいろなものがもらえないことになるのでありますから、そこに働いておられるかたは、或いは非常に惨めな困
つた生活をなさ
つているのではないか、刑が明けても困
つているのじやないか、一日も早く帰るようにして上げなければならんのじやないかというふうに思
つております。それで若い人は、結局は
向うはノルマのようになりますから、そのノルマ以上に働きますと金の取れ方もいいわけです。で、私のほうで聞いたところによりますと、カンスク方面に出ておる
人たちは、全部でも
つて金を出し合
つて、そうしてラジオを買いまして、
日本のラジオをキヤツチした、そうして非常に張切
つて、
日本の内地の唄が聞けたというので喜んだ便りも、この
ラーゲルの中に参
つたこともございます。
それではその
ラーゲルの中のものと地方人との
通信はどうかといいますと、これもやはり月に一遍なりニ遍なり、検閲が非常にやかましくて、思うような
通信もできておらないような
状態です。
それからこれは主に、私が知
つている
範囲内では、石炭卸しであるとかアルコール工場或いは、ミルク工場であるとか、いろいろ町場にいるかたはそういう所におるだろうし、それから余り働けないかた、やはりそういう農業のほうにおられるかたといろいろ散らば
つておるようでございますが、大体クラスナヤスクで刑を明けた
人間は、クラスナヤスクの方面にまだ残
つて元気で働いておるのじやないかというふうに思われます。
それで
思想方面というようなことも、私
どもは全然そとのことは知りませんのでわかりません。
それで今後の
引揚の見込等ですが、これはどうぞ
一つ現在まで御尽力下さいました御心労といいますか、御考慮なさいましたお
気持を最後の一人までもお続け下さいますことを切にお願いしたいのです。
向うの
政府はなかなか相当困難なものかも知れませんけれ
ども、どうぞ
向うの、
ソ連の
政府の好感を持たれるようにしつつ、根強く、
向うもなかなか根強いような国民なんですが、根強く
一つこれを続けて残留のかたの一日も早く
引揚げられんことをお願いしたいのでございます。私なんか考えるのですが、なかなか検閲とかいろいろなことが非常に
向うは厳重でございますから、できればプラウダというモスクワから出している新聞がある、ああいうようなプラウダでも
日本と交通ができるというようなことが若しやできるとしたならば、確かにそれを見た露助はすぐ
日本へのところに行
つてお前は
通信できるのだということを知らせてくれるのじやないかと思う。但しその
通信を許すということを
向うの一流のプラウダに果して出してくれるかくれないか、これは疑問なことですが、何よりも先にそういうことが
日本人じやわからないだろうと皆さんお考えになるだろうと思いますけれ
ども若しそれが新聞などに出ますと、露助は
日本人に非常に好感を最近持
つて来てくれておるのです。なぜ持
つて来てくれているかと言いますと、
日本人は非常に勤勉でまじめで泥棒をしないというような点で、ほかのものに鍵を与えなく
つても
日本人に重要な鍵を今では持せてくれるような現状です。
ラーゲルなんかで働いておる理髪屋とか洗濯屋というようなところは今までの私
たちの線に沿うた
ラーゲルでは大抵東洋人が洗濯場とか理髪とかいうことをや
つて非常に重宝がられております。
病院なんかでも重要な鍵なんかを
日本人に持たしておると一番安心しておる、
日本人を最近では非常に見直しておるように私は考えさせられております。
それからこれはイルクーツクとクラスナヤスクの近辺に
ラーゲルではなく
つても
日本人がまだ匿まわれておるのではないかというようなことも人によ
つては申されて耳にすることもございますから、或いは
ラーゲルでなくてもそういうところにも匿まわれておる
日本人もあるかどうかわかりませんけれ
ども、そういうところに匿まわれておるのもあるかもわかりません。
それから私が教育方面に携わ
つておりました
関係上、
向うの方面の教育のところを
ちよつと申上げますと、今は義務制が四年から六年になりまして、そうしてどんな辺鄙な
場所にでも学校を設けておるようです。
日本ですとあれは前科者であるとかいいまして、一回でも
刑務所生活でもしますと先生ができないようですが、
向うでは
ラーゲルに入
つておるかたでも先生の資格があるものは
ラーゲルの中から引つぱり出してそうして教育しておる。それから土地が広いのでありますから、
通信教授の発達も相当や
つておるようです。それから最近では教科書をそとの子供
たちのを借りて見ましても、年度を増して逐次新らしいもの、新らしいものと教科書を作
つておるようです。それからピオネールとかコンソモールとかいいまして、共産青少年連盟と申しますか、同盟と申しますか、何か名前が付くでしようけれ
ども、そういうふうにいたしまして非常に小さいときから教育を施しておるようです。それじやお前どうして
ラーゲルの中でわかるかと申しますと、私は
ラーゲルで洗濯のほうに最後は携わ
つておりましたが、洗濯場のほうにピオネールの洗濯が私
たちのほうに参るのです。洗濯してくれと来ますから、それで大抵どの方面において青少年のあれに当
つておるかというようなこともわかる、それで非常に一生懸命小さい子供から教育をや
つておるように伺
つて参りました。
それから服装なんかも
一般は非常に悪いように見えますけれ
ども、子供の服装なんかですが、それでもなかなか子供
たちは意思の強いところを持
つておるようなところも見受けられます。それは汽車の中から私
たちがお菓子でも投げてや
つても、彼らは欲しくて一ぱいですけれ
ども、そういう人種の違
つたものから投げたものなんかはもら
つて食べんというくらいの今プライドを持たせて教育しておるのでないかということを私
どもは見て参りました。なかなか頑張
つて教育のほうにも力を入れておるというようなところが伺われました。
まとまりませんでしたが、私の申上げたいことは以上です。