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政府委員(岡田修一君)
只今起
つておりまする問題を御
説明申上げまする前に、簡単に計画造船の今までのいきさつ、それから利子補給、それからなぜああいうものが成立したかということを簡単に述べさせて頂きたいと思います。
戦争が終りまして、御承知の
通り日本海運は殆んど潰滅状態にな
つてしまつたのであります。これに対してGHQとしては当初外航船の建造を許しませんで、主として国内船、国内航路に使うものを目的とした船の建造を許したのであります。これが
昭和二十三年度であります。その間にこれを一次から四次までの四回の計画に分けております。それからその当時は
船舶公団というものがございまして、
船舶公団と船主の間で共有の
関係で船を造
つたのでございます。それが二十四年度になりまして、外航船の建造を見返資金を以て融資して作るということをGHQのほうでも認めることになりました。これがいわゆる五次船。二十四年度から今年度までいわゆる、五次、六次、七次、八次、九次というふうに、今日まで計画を進めて来ております。それで大体百九十八隻、トン数にいたしますと百五十四万総トン
余りのものを計画して建造し、又建造中でございます。
その建造の
方法といたしましては、五次、六次、七次、これは大体見返資金を五割、
あとの五割は市中銀行から
貸付ける。八次になりまして見返資金を貨物船については四割、油槽船についてはたしか三割というふうにいたしたかと思いますが、残余は市中銀行から調達する。二十八年度になりまして海運
事業が非常に悪くなりまして、又海運
会社の
経理状況も非常に悪くな
つて参りましたので、財政資金を七割というふうにいたして、更に市中融資の一分につきましては三分八厘の利子補給をする。大体市中から融資を受けましたものの利率が七分五厘になるようにその差額の三分八厘を利子補給する、これに対しまして、毎回とも船
会社の申込みが建造予定よりも非常に多いのであります。従いましてその非常に多い申込みの中から、如何にして適格船主を選ぶかということにつきまして、毎回私どもも心を砕きまして、その当時における最善と考える
方法をと
つて参りました。
即ち五次におきましては、
関係の幹部、私ども、それから海運業者、こういうものだけでなしに、
船舶運営会の
理事長或いは
船舶公団の総裁、復金の
理事或いは当時経済安定本部がありましたが、それの交通局長という人たちも
委員にな
つて頂きまして、約十五、六人の
委員で、各船
会社の実情によ
つて記名で採決をする。それで一定の点数以上のものは無
条件に建造を認める、それ以外のものは抽選できめる、こういうことで
運輸省独断で船主を選考するという
方法を避けて、他から批判の余地のないような
方法をとるというので、そういう
方法をと
つたわけであります。勿論これに対しましてもいい面と悪い面とありまして、相当改善する余地があ
つたかと存ずるのでありますが、一応そういう
方法をと
つたわけであります。
それから六次船になりまして、これは二回に分けて造
つております。その六次船の
最初のほうは、これは銀行のほうで船主を選んだというふうに考えて頂いていいと思いますが、私どもの建造予定が二十二、三万トンでございましたが、それに対しまして銀行が融資の約束をした船
会社は、そのうちの十五、六万トンに相当するものでございます。従いまして市中銀行が融資の約束をした船
会社は全部適格船主として認める、いわゆる銀行船を造るというので私どもも非難されたような次第でございますが、市中銀行が船主を選んだという恰好に相成ります。
その次は
運輸省で選ぶわけですが、第五次の折にやりました新造船主適格審査
委員会、こういうものはGHQの指令で、そういう
委員会の活用を禁止されたわけです。従いまして
運輸省自体でやらざるを得ない。そこで私どものとりました
方法は、いわゆる聴聞会制度でございます。一般の人に聞いている前で、申込船
会社の責任者を呼びまして、そうして船
会社の申込の
事情、それから船
会社の内情、こういうものを詳細に聞くわけです。その聴聞の聴に当りますものも、私ども直接船
会社に
関係しているものではそこに偏見が入る。従
つて船会社にあまり
関係のない
運輸省の官吏が当るというので、当時の官房長或いは官房の
課長、
船舶局の
課長、こういうものをして聴聞に当らしめた。そうしてその聴聞の結果を、
運輸大臣の前で、政務次官、事務次官それから私ども
関係の局長、
課長も
出席いたしまして、その前で
会議してきめるという
方法をとりました。これが六次の後期と、七次の前期におきましても同様の
方法をと
つております。
ところが七次の後期になりまして、
只今申しました聴聞会の方式にもいろいろ考える余地がある。且つ又公衆の面前で船
会社の役員にいろいろ
事情を聞くということが、船
会社のほうからもいろいろの異議が出た。そこでとりました
方法が造船合理化
審議会、これは
関係各省の次官、それに銀行筋、それから造船業者、海運業者、中立的な有識経験者、こういうものを以て構成されておりますが、この造船合理化
審議会で、如何にして船主を選ぶべきかこいうその選考基準をきめてもらいまして、その選考基準によ
つて運輸省が選ぶという
方法をと
つたわけであります。
運輸省が選ぶ
方法は、同様大臣の前で
関係の局長、
課長以上皆
出席しまして、そこで十分討議してきめるという
方法をと
つております。
それから二十七年度、いわゆる八次船におきましては、単に造船合理化
審議会で基準をきめてもらうだけではなしに、造船合理化
審議会の決定として、船主選考
委員会という
運輸省以外の者を選考
委員に選んでそこできめてもらうということを私どもは提案した次第であります。ところがそういう
委員会で決定するということにつきましてはいろいろの議論がありました。いわゆる海運、造船に明るい人は船主並びに造船所の紐付きで、紐付きでない人は海運、造船に全然暗い、むしろ
運輸省自体で選ぶべきである、こういう意見さえ出たのでございますが、私どもとしては是非民間の
委員で御決定を願うか、さもなくば諮問
委員会で結構だからそういうものをおいて、その前できめるような措置をとるように願いたい、こういうことを造船合理化
審議会に強く提案いたしまして、そこでそういう
方法がとられたのであります。従いまして我々のほうでは造船合理化
審議会で基準決定をして頂くと同時に、その基準の適用については、
只今申しましたような民間の人たちを諮問
委員として、その諮問
委員の前で各船
会社を評価して決定する、こういう
方法をと
つております。そのときの
委員は、経団連の会長の石川一郎さん、銀行協会の会長佐藤喜一郎さん、第一銀行頭取の酒井さん、或いは村田省蔵さんも
委員にな
つてお
つたと思います。それから元の復金
理事長の工藤昭四郎さん、それから造船工業会の会長、船主協会の会長も入
つております。船に経験があり、或いはつながりは持
つているけれども、色のついていないという人を諮問
委員に選んでおります。それから二十八年度になりまして、これは開発銀行から財政資金は融資するということになりました。従いまして私どもは開発銀行の、銀行としての自主性を尊重しなければならん。
従つて只今申上げましたような諮問
委員会はそこに活用できなくな
つた。そこで私どもと開発銀行のやり方は、これは二十八年度の船も二回に分けて作りましたが、
最初のほうは、私どものほうで海運、造船政策の面から見て非常に大きな枠、例えば十二隻の船を作るのに対しまして、私どものほうはたしか二十五社以上を推薦したと思いますが、海運、造船政策の面から見て非常に大きな枠で船主を選んでこれを開銀に推薦する、開銀はそれを開銀の銀行的感覚からして、資産、信用力を重点において決定するという
方法をとりました。
それから九次の後期でございます。これにつきましては当初のやり方では、海運政策、造船政策の面がややぼけておる、もう少し海運政策、造船政策の面を後期においては強く打出す必要があるというので、今度は
運輸省では海運政策、造船政策の面から船主を選ぶ、開銀は融資の観点から船主を選ぶ、それを持寄
つて相共に協議して決定するという
方法を講じて来たのでございます。
で、
只今申しましたように私どもとしては如何なる
方法をとろうとも、誰かが責任をと
つてこれをきめなければならん、併し責任をと
つてきめる場合に、これを一定の物差で測
つてきちんときめられるものならいざ知らず、そうでない限り必ずそこに疑惑の目を以て見られるということを私どもは十分承知し、恐れて来ておるわけですが、従いまして私どもとしては、私どもの考える限りの最善の
方法をと
つて来た、かように私どもは考えております。
それから利子補給の点でございますが、利子補給、損失補償という制度は、戦前においても日本で設けてお
つた制度で、利子補給はたしか
昭和五年頃からや
つております。で、
昭和十四年にこれは法律といたしまして、利子補給並びに損失補償法というので、ずつと終戦のときまでや
つて来て、法律としては終戦後も残
つておりましたが、実際は終戦と同時にその制度は停止された。ところがこの日本の海運界は、
朝鮮事変において多少のブームを受けましたが、そのブームのときには持船というものは非常に少なか
つた。
従つてそれによる恩恵というものは非常に少い。然るにそのブームも一年或いは一年半
余りで急激に悪くな
つた。例えば北米の小麦運賃にしましても、一時は十五ドルから十六ドルしたものが七ドル以下に下
つた。タンカー運賃にしても日本の運賃が十六ドルか十七ドルしましたものが、これ又七ドル以下に下
つたというふうな急落振りでございます。こういう状況下において日本としてなお
船舶を復興して行かなければならんというふうにいたしました場合に、これに対して市中融資というものを如何にしてつけるかという点が
一つの問題、もう
一つは日本海運として対外的な競争をいたしまする場合に、そういうふうな市況下において非常に高い、これは一総トンについて金利だけ比較いたしますと、約ニドル
余り日本船のほうが高いということになるが、こういう高い金利を以て外国船との競争は到底できない。
従つて金利だけでも外国船に近い金利のところまで持
つて行こうじやないか。で、外国の船は、これは終戦当時英米にしましても、その他の海運にいたしましても、終戦当時相当の船を持
つておる。で、その終戦当時相当の船を持
つておりますと、終戦当時の海運のブームというものは相当なものだ
つた。そのときにうんと儲けておる。それが暫らくして不況が来ましたが再び
朝鮮事変のブームによ
つてうんと儲けた。而もそれに対しまして、英国あたりは、そういう利益が挙りました場合には、一年間に四五%という償却を認めておる。或いは戦争中に失いました船に対して二億六千万ポンドの補償をするというふうな助成をしておる。又
アメリカにおきましては、御承知のように自国と外国との労金の差額を航路
補助という形で出しておる、或いは
船舶の建造
補助という形で出しておる。更に又軍需品の輸送或いは対外援助物資につきましては、一般の市価に対して倍になるぐらいの運賃を払
つて助成をしておるわけです。それに対しまして日本の海運は、先ほど申しましたように、終戦当時の、外航船を作り始めました当時の外航船が僅か十二万総トン、これを如何にして外国並みにすると言いますか、再建するかということにつきましては、戦時補償として得ました二十五億の、当時の二十五億の金は、今日におきましては約五千億、その金を打切られて
しまつておるんです。全部これを借入金で賄わなければならん。そこで先ほど申しましたように財政資金、これは七分五厘でございます、当初、それから市中金利、これは大体一割一分、こういう高金利の金で全部賄わなければならん。そこに外国船と日本船の間に金利だけでも一総トン当りニドル近くの差がある、そういう状況でございます。
この競争力を強化するため、もう
一つはこれ又触れましたように、今後の新造に対して、不況にもかかわらず市中からの融資を確保するというために、どうしてもこの利子補給制度というものは必要である。そこで私ども当初提案いたしましたのが
昭和二十八年の法律第一号として成立いたしました外航
船舶建造融資利子補給法でございます。その目的は、大体市中融資一割一分、或いは一般の市中はもう少し安いんですが、これが大体七分五厘になるように、その差の三分八厘余を補給する、こういうこと。当時の私どもが土台といたしましたその市況、これは大体
昭和二十七年の上期の市況です。この市況を土台として考えたのでございます。併しその二十七年の下期におきましてその市況というものはもつと悪化した。そうして一般的な見通しは、これは到底回復する見込なし、そういう状況でございました。併し一応そういう見通しの下に大蔵省と折衝をし、そうして成立したのがこの利子補給法でございます。当時損失補償法を
運輸省は提案をしたのであります。併し大蔵省としては海運については損失保償法というのを考える、但し若しこれを海運に許すならばほかの産業も同様のことを
要請するであろうということでもう少し考慮しようじやないかということで、一国会延ばした。そこで次に私どもとしてはその次の国会にそれを提案すべく大蔵省と話を付けてお
つたのですが、それが国会の都合でそのときには提案にならずに、昨年の夏の臨時国会に般舶建造融資利子補給法の改正案といたしまして損失補償制度を付加えて出したわけですが、その改正案に対しまして三党修正で、開発銀行の金利が三分五厘、それから市中融資がこれが五分になるように六分の利子補給をする、こういう修正案が出されまして、この三党で御修正にな
つた御趣意も、私が
只今申上げましたように、日本海運の対外競争力を強化するという面において、少くとも金利だけでも外国海運並みのところへ持
つて行くという趣旨からそういう御改正があ
つたことと、かように
了承いたす次第でございます。
で、今度は最近の問題でございますが、お説の
通り壷井官房長が
とつつかま
つております。起訴にな
つております。その詳しい
内容は私ども知りません。併し壷井官房長の私どもの計画造船における役割は、何と言いますか、大臣の一般的な補佐役として大臣の前で
会議をする場合に出ております。併し計画造船についての資料の調製或いは構想の建て方、そういうものは私ども海運局の者と
船舶局の者で協議いたしまして、そうしてそれを大臣、次官の前で相談をしてきめておるものでございます。壷井君がこれにどの程度に関与したか私は存じません。
その他の問題、例えば船
会社のリベートの問題、これは私ども財政資金を
使つて船を作り始めました当時から、いやしくも戦前において一部噂があ
つた。戦前におきましては、これは
自分の金で、或いは
自分が銀行から資金を調達して来て船を作
つてお
つたわけです。全部じやございませんが、一部の個人
会社的な色彩の強いところにおきましてはリベートと称するものが行われてお
つたようでございますが、これが商慣習であ
つたかどうかは私は存じませんが、一部にそういうものがあ
つたと私は聞いております。従いまして、いやしくも財政資金を以て船を作るようにな
つてからは、そういうリベートのようなものが絶対にあ
つてはならんということで、更に忠告して参
つたのでありますが、従いまして私ども今日までそういうリベートのごときものがあ
つたとは信じてなか
つたのでございます。これは検察
当局の手によ
つて明らかになりましようが、私どもは今日の事態が起るまてそういう事実が行われておるとは考えておりませんでした。以上でございます。