○
小林参考人 本日
参考人としてお呼出しを受けまして、はなはだ光栄に存じます。
私は、
裁判制度の
改革に関し考慮すベき
主要問題点、こういう書面を
ちようだいしておりますが、この
順序は先ほど
委員長が言われたのと
ちよつと違うようですが、第一には
最高裁判所の
違憲審査権、第二に
司法行政事務、第三に
上告制度、第四に
最高裁判所の
機構、第五にその他の問題とありますが、大体この
順序によ
つて少し申さしていただきます。
第一に
最高裁判所の
違憲審査という問題でありますが、このごろよく、
最高裁判所は
憲法の番人だ、こういうことがいわれております。これはザ・ガーデイアン・オブ・ザ・コンステイチユーシヨンの訳語です。
最高裁判所ができてから
日本で思いついて使つた言葉ではありません。こういう
アメリカの
連邦最高裁判所についてよくいわれている言葉の訳語です。この
アメリカの
連邦最高裁判所に関連して、こういうことがいわれております。
アメリカの
連邦憲法を守るために
連邦最高裁判所がつくられたのである。こういうことをイギリスのある人が聞いて、
アメリカの
連邦憲法を二日がかりで調べた。ところがどこにもその規定が出て来ない、そういうことがいわれております。これはこういうことを簡単に言つただけのことで、
アメリカの
連邦憲法につきまして、
法律その他の命令が
違憲であるかどうかを
審査することは最下級の
裁判所でもやる。しかしながらその最上級に
連邦の
最高裁判所が位している。だから結局この
連邦の
憲法を守るのは、この
連邦の
最高裁判所である。であるからこれは
憲法の番人だ、そういうだけのことなんです。それで、この俗にいわれている言葉がとられて、
憲法八十一条の規定とな
つているのであります。つまり八十一条で、今問題にな
つている
最高裁判所は
法令の
違憲についてこれを決定する最終の
裁判所である、そういう規定があるのであります。これは大したむずかしいことを規定したのではない、ただ
憲法問題についての最終の
裁判所だ、もつと広くというと、
憲法問題だけでなくて、すべての問題、
法律問題のすべての
事件について最終の
裁判所であるということです。でありますから、今相当問題にされているように、これは決して
法令違憲の有無の
審査権、抽象的に、
裁判所にそういう
権限を与えたものではない、
日本の
憲法というものは
アメリカ連邦の
憲法を模範として収入れたものであることは疑いのないところだと思います。でありますから、私にこの
憲法八十一条を根拠にして
わが国の
裁判所に
法令の
違憲の有無、これを抽象的に
審査し、
裁判し、宣告する、こういう
権限があるというのは
間違つておると私は
考えております。しかしながら、さればとい
つて憲法は積極的にも消極的にも、そういう
裁判をしろとも、してはいけないとも規定しておりません。であるからこれは
憲法上許されない、こういうことは言えないだろうと思います。でありますから
法律をも
つて最高裁判所にかくのごとき
権限を与える際には、もう少し突き詰めていいますれば、下級
裁判所に与えまして、そこで
立法論としてそういうことをしていいかどうか、そういう問題が起
つて来ると思います。
それで、これに関連して、今
最高裁判所が判例を
二つ出しておるはずですが、この
具体的事件を通して
法令の
違憲の有無を
審査する、こういうことで、あります。この
最高裁判所の判例は私はきわめて正当だと
考えております。それならば
法律をも
つてこういう抽象的の
審査権を
最高裁判所なり下級
裁判所に与えていいか、これは私はもう相当言われておりますが、
最高裁判所裁判官を政争の渦中に――今問題にな
つている政府の行為それが
違憲だ、あるいはもつとひどい場合を
考えてみますれば
国会が
法律を制定した、これをまともに
違憲だ、こういつたことを宣言すれば、
裁判官をその政争の渦中に、政府なり
国会と対立させるその弊害と、こういうことを宣言さす、無効を
国民に知らす、これのどちらがいいかというならば、私にそういう場合には
裁判官を超然とさしておいて、そういう争いの渦中には入れない方がいい、そう
考えております。
それから、今の事例につきましても、政府のや
つていること、これは無効と宣言をする、しかしおそらく政府はこの行為を続けてやめはしないでしよう。あるいはやめ得ない状況に置かれているのが真相と思います。だからそんなことを抽象的に宣言さしても何の役にも立たない。また特に注意すべきことは、外国に
立法例があるようでありますが、これにほとんど
連邦国においてこういう
制度が行われている。西ドイツ、これも
連邦である。スイス、カナダ、オーストラリア、みんな
連邦だ。ただイタリアだけがそうでないようですが、これは
日本と同じく戦敗国であります。どういう事情のもとにできたかわからない、だからこういうことは軽々にまねしてはいけない、そう私は
考えております。
それからここに問題にされておりますが、それなら
最高裁判所をして、具体的事案を、どうして
法令違憲の有無の
審査をさせるか、ところがこれでは時間がかか
つてしようがない、これをどうするか、この問題はここにもあげておるようですが、下級
裁判所から
最高裁判所に移送させる、こういうことが可能だと思います。これはすでに人身保護法に規定が設けてあります。この人身保護法の規定というのは、これはイギリスのリツト・オブ・サーテイ・オレライ、これにヒントを得た規定で、あります。つまり重要な
事件を下級
裁判所に係属すると、それを
最高裁判所がこつちへよこせとい
つて取上げる、この
制度であります。これは人身保護法で行われて、
最高裁判所がすでにそういうことをやつた例もあります。皆さん御
承知と思いますが、巣鴨にいる朝鮮人、あの問題で、人身保護の請求をした下級
裁判所、地方
裁判所にしたのを、
最高裁判所が取上げて、これと同じ仕組みをすることは可能だと思います。また
法律によ
つて最高裁判所にこういう問題について、
憲法問題を含むこういう
事件について、一審の管轄権を与えることも可能だと思います。だから急いで、実際こういう現在を設けてもやれるかどうかに別問題として、それを早く
最高裁判所に取扱わすこういう
手続は
法律により規定することは可能だと思います。
これから第二に、
司法行政事務、これは昭和二十五年ですが、この前民訴の一部改正、民事
上告に関する特例の問題が起きたあのとき、この
委員会でこれに触れたことがありますか、これは私は最初から疑
つておつた問題であります。
最高裁判所ができると、
裁判をそつちのけにしてやれ
裁判官に議、やれ何々と日も足らない、そういう状態にあつたことを私は気がついております。この
裁判官会議というのは、一八七三年に、イギリスのジユデイカチユア・アクト、
裁判所法というのがありますが、これに規定してあるロード・チーフ・ジヤツジスの規定、それから起
つて来たものだと私は当時から
考えておつた次第でありますが、規定によりますとこれはロード・チヤンセラーの要求によ
つて、少くとも年に一回開く、こういうふうにな
つております。だから
裁判官会議というものは、これは本来イギリスから起つたもので、それが
アメリカに行つたに違いないのですが、
司法行政事務を、
裁判官が全部集ま
つて何でもかんでもやる、そんな性質のものでは最初からありません。ただ
裁判所の
手続とか、規則、そういうことを調査して、その欠点があるかどうかを相談する、そうして報告を出さす。そういうようなことが主たる目的にな
つているようです。これは少くとも年に一ぺん、
あと必要ならば招集することが主要なことにな
つておるくらいの規定です。それをはき違えてこういうものを新たに与えたがために、珍しい点もあつたでしよう。これは私が
間違い、はき違いがあるということを常に
言つていた点であります。
わが国においてはこれは非常な欠点だと思います。
裁判官が
裁判をしない。御
承知の通り今でも所長とか高等
裁判長所官、これは奇特な方はみずから進んで
裁判されますが、
裁判をしない方が相当ある、そうして
行政事務、盲判とい
つては語弊があるかもしれませんが、ともかく判ばかり押している、めんどうくさい
裁判を避けておる、こういう点が非常にあります。これを私は是正しなくてはならぬと思
つておりますが、この
裁判官会議などもよほど注点しなくてはいけない。それでどうしたらいいか、それには具体的の案もありませんけれども、私が常に
言つていることは、
司法行政事務、こういうものは事務総長の系統にまかせて、これを長官が統轄すればいい、人事は、各高等
裁判所長官の同意あるいはこれと協議して
最高裁判所長官が許可する、そういう方向で進むべきものだと私は
考えております。
それから第三と第四の問題ですが、これは結局ただいま
最高裁判所の
事件が渋滞してしかたがない、これをどう処理するか、この
方法いかん、こういう問題だと私は
考えます。それでここにいろいろ掲げてありますが、結局その
方法として第一に取上げているのは、
上告の
範囲を
制限する。
憲法違反とか
法令抵触とか、あるいは重要なる
法律上の解釈問題を含むとか、あるいはこの間の改正では、判決に影響を及ぼす
法令違背、そんなふうに
制限されたようですが、こういうふうにしてとにかくその
上告の
範囲を
制限する、こういう主張です。しかしこれは最上級に位する
裁判所の唯一の職務だと思います。
法律の解釈、この適用、これを統一するということは、最上位に位する
裁判所の主たる職務である。ことにただいまのように戦後こんとんとして、まるで法制をひつくり返して、こうやく張りをするように英米の
法律が入
つておる。秩序も何もない。こういうときこそ、最上位に位する
最高裁判所においてこの
法律の解釈と適用を一手に統一する、これが主たる使命だと私は思います。私はこの
上告の
範囲を
制限するということには絶対に反対いたします。
それから次に起ることは許可制です。これはこの前も私ここで申し上げたことがありますが、これは英国ではりつぱに行われている。下級
裁判所で判決をいたしますと、その法廷ですぐその
判事が、もし
上訴するのなら私は許可を与える。あるいは
裁判官が言わなくても、アシスタントの方から、法廷で判決の言渡しの
あと、もし
上訴するべきものなら、すぐ私は
上訴したいから、これに対して許可を与えてもらいたい。そこで許可を得られないと、その上の
裁判所に申請することになる。そこで得られなければしかたありませんけれども、そこでも許可する。だから原審と上の
裁判所両方で許可をする。これはどこでもみなそうです。貴族院、ハウス・オブ・ローズには別にリーブ・コミテイがあ
つて、そこでこの許可を与えるかどうかを
審査する、そういうことにな
つております。しかしこの許可制ということは、
わが国におきましては今でも下級
裁判所は
上訴を恐れる空気がある。また
裁判所は争点を回避する、これは現に
最高裁判所においてもこういうふうなことがあると私は思います。
憲法上の重要問題なんか、それを判断する機会が幾らでもあるのに、これを避けて手を触れない。その顕著な例は、
憲法七十七条の例の
最高裁判所の規則制定権、これは
最高裁判所の一部には、
法律よりまさる、あるいは
法律と同等の
効力がある、そういう空気がくすぶ
つております。ところがその
法律との
関係について判例を出さない。これは出さない限りは、
国会は
最高裁判所の規則制定に委任をするなんということは一切いけない。民事でも何でもよろしゆうございますが、
手続規定についても、もし
法律の下にあるという判例を下すならば、一切をあげて
最高裁判所にまかせる。
手続規定等については
国会は手をつけない慣例をつくればいい、そう私は
考えておりますが、その
関係を明らかにしない限りは、これは絶対にまかしてはいけない、何をされるかわからない。これは私に苦い経験を持
つております。なぜかと言いますと、ここでおつくりに
なつた人身保護法、これは人身保護規則というのでめちやくちやにされております。つまり一面において
法律にまさるというような頭がある。そんな
関係で、これをすつかり
効力のないものにしておる。そんな
関係がありますので、この許可制なんというものをと
つても、
国民は決して納得いたしません。であるから
日本においては、これは将来の理想としてはそうすべきだと私は従前から
考えておりますが、今の段階においては、この許可制をとる、こんなことは絶対にいけないことだと
考えております。
その次の問題としては、高等
裁判所、原
裁判所に事前の
審査権を与える、こんなことを言う人があるようですが、これは
上告の適法要件あるいは
上告理由について
審査をさせるにいたしましても、結局これは原審
裁判所に許可権を与えるのだ、そういうことに帰着するだろうと思います。原
裁判所がやはり
国民の信頼を託し得ない限りはこういうことはできないだろうと思います。
それからまたこういうことを原
裁判所に調査官あるいは
医者の代診、そういう役割をさせる、そんな頭があるようですが、これは原
裁判所を侮辱した言葉だと私は
考える。だからこういうことも
上告裁判所、
最高裁判所の
事件を少くする
手続としては適当ではありません。
それからもう一つ、再度考査をするというようなことが問題にな
つているようですが、こんなことはも
つてのほかで、原
裁判所は精魂をあげてこの
事件について
裁判をしたに相違ない。それが
上訴されたらもう一ぺん
考え直す、そういうことはあり得ないことだろうと
考えます。そこでいろいろ
上訴の
範囲を
制限する、これがいけないということになりまして、今度はこういうことを
考える。つまり高等
裁判所に
上告部を設ける、あるいは高等
裁判所所在地に
上告裁判所をつくる、こういう
議論が起
つておるようであります。しかしこれは屋上屋を重ねることにすぎない。簡単に言いますと、
最高裁判所を超然たるりつぱなものにして、これは
アメリカの
連邦の
最高裁判所が常に頭にあるのでありますが、それに匹敵するものにする、そうして
あとに
各州の一審、二審、三審があるように、そういうものをつくる、こういう主張です。しかし
わが国におきましては、
日本のような飛行機で一時間か二時間の小さい国に、一審、二審、三審制を有するそういうものを各地につく
つて、その上に
最高裁判所か超然とする、そんなことはよけいなことだろうと思います。私はあまり小説を続まないのでずが、新聞にあつた「てんやわんや」だと思いますが、これに四国独立論というのが出たことがあります。それを
議論して私は非常におもしろく思つた。
裁判所のいろいろの主張と関連させて私は非常な興味をも
つて読んだのでありますが、あるいは何でもかでも
アメリカのまねをしたいという空気が高じますれば、それが実現するかもしれない。四国、九州、本州、北海道あたりで
連邦国をつくるかもしれない。そうなれば、そのときは東京あたりに最高裁所所、これは
アメリカ合衆国の
連邦の
最高裁判所に匹敵する
最高裁判所をつくる。そんな夢も実現するかもしれないと思
つております。要するに、
最高裁判所が今日事務の渋滞を来してどうにもしかたがない。なぜこういうことが起るか。これは私は
日本の国情を無視――先ほど
岩田先生も言われた通り、
わが国民はこういうことになれておらない。
遵法精神にも乏しい点があるでしよう。それから従前の
訴訟のやり方もある。そういうことを一切合財無視して、ただ、こともあろうに――私は特にこともあろうにと言いますが、
アメリカ合衆国の
連邦の
最高裁判所そつくりを押しつけたのが今の
最高裁判所であると思います。従前は四十五名の
裁判官でやつと処理していた。これを
アメリカやイギリスのまねをして十五人に減らした。これで
事件の処理ができるわけがないのです。これは私が最初から
言つていたことで、そんなことをしてもとてもだめだ。私は元来
日本の
裁判制度はイギリス並にしなければならぬと思
つております。私はイギリスを理想としております。これは私は百年た
つても二百年た
つてもイギリスの
裁判制度を実現しなくてはならない、そう
考えておりますが、そんなまねを今やつた
つてできることはありません。イギリスあたりは
裁判官も
弁護士も非常に
専門化しておる。判例によ
つて、争点はどんどん狭められております。
手続も非常に厳格にな
つておる。早い話が貴族院。これは
上告審ですが、そこの
事件というものは、一年間に新件が六、七十、残
つているのが三、四十、合計百件くらいです。これを
少い人でや
つているのですが、
事件が
少い。それを、その
事件がどのくらいあるかということをそつちのけにして、
アメリカやイギリスでは六人とか、七人とか、九人とか、そういう
少い裁判官をも
つて裁判所を構成しておるから、そのまねをしろといつた
つて、
事件がはけるわけでも何でもありません。今にひどい目にあ
つて、
国民の非難の的になるから見てろと私が言つたその言葉が、数年を出ずして実現された。もしこういう
裁判所の
機構を
日本に取入れるならば、まつ先に
手続に手をつけなくてはいけない。
手続を英米流にかえなくてはいけない。それを
最高裁判所は何もしておりません。人事の争いなどもしたことがある。
裁判官会議は
行政事務に没頭しておる。それで今日の事態を来しておるわけであります。
わが国の
裁判所組織はドイツの
制度を受入れておる。それに伴う
手続も同じく受入れたから、全体として戦前はよく動いていた次第であります。それを今は
最高裁判所の頭だけをと
つて、それで下級
裁判所をそのままにして、
手続はどうかというと何も新たにしておりません。刑訴は新たにされておりません。これは私はチヤンポンだと思う。
日本の国情に適した
手続ではありません。占領されている間に、民訴なんかはこうやく残りで何になるかと私は
言つていたのですが、みなそう言うのです。カクナテルじやない、チヤンポンです。だから
国民は酔
つているだけなんです。それで
最高裁判所は、
事件を持
つて来るな、持
つて来るな――何のことだかわからないと私は思います。
裁判所は
事件のため、
国民のための
裁判所です。
裁判所のための
国民でもなければ、
事件でもない。
事件がどれだけあるか、それをきめて、それに相当する
裁判所をつくるのがあたりまえです。それが本来転倒されております。
それからもう一つ、
最高裁判所が言うことは、先ほども言いましたが、
事件が起きて、そこで別に
上告裁判所を設ける、あるいは高等
裁判所に
上告部を設ける。またこのごろ
裁判所法が改正されて、簡易
裁判所の管轄の
範囲が増しましたが、これは物価騰貴の今日、それに伴
つてある程度の管轄を拡張する、それはよろしゆうございましよう。しかしこれによ
つてその
上告を高等
裁判所でとめて、
自分の方に
事件が来ないようにする。そういうことは私は
意味がないと思います。こういうことは、この前も私言いましたが、洪水が超るのは山か荒れておるかもしれない、河床の掃除が行き届かないかもしれない。そういうことを一切合財おかまいなしに、水が来て困るから、それをせきとめて横流しをしろ、そういう態度です。こういうことは私ははなはだけしからぬ態度だと思
つております。それからこのごろ
事件が多い、
事件が渋滞する。それは
事件を持
つて来るからいけないのだ、そこで悪循環があるということであります。それはその通りです。
最高裁判所で
事件がはけないから、負けた方の当事者はどんどん
上告する、それで
事件をそこで渋滞させておる。これは確かに悪循環です。しかしながら、早い話がだれでもこれはねこの前にかつおぶしを置いてみればすぐわかることです。すぐそれに飛びつく。利益のあるところ、そこに飛びつくのはあたりまえのことです。しかし、この悪循環に火をつけたのはだれであるかといえば、これはやはり
最高裁判所です。国情も、従前の
大審院の状態も、一切おかまいなく、ただ
アメリカの
最高裁判所のまねをしておる。それで
手続等に手をつけない。その悪循環の火をつけたのは、私は
裁判所側であると思います。結局、どうしてこれを救済するか、それには私は
最高裁判所の人数を増す以外にはないと
考えます。私はただいまの
最高裁判所の人数を三倍にすべきであると
考えております。それで、私はただいまの
憲法のもとにおいてこういうことは可能だと
考えますが、もし
憲法を改正しなければこの目的を達成することができないというのならば、
憲法を改正すればよい。これは全面的に改正する必要はありません。これこそ
アメリカのまねをしまして、
憲法修正第一として、
司法に関する部分、必要の
最小限度だけを改正すればよいと思います。もし、この方針がきまるならば、全国六千の
弁護士にわれわれは呼びかけて、この目的を達するために
国民を納得させることは容易ではないかと私は
考えております。
大体
裁判所の今の
事件渋滞の状態をいかに打開するか、これはただいま私が述べた通りでありますが、そのほかここにあるその他の問題、これについてはささいといえばささいですが、簡易
裁判所の扱い、これは私は少し
間違つておるのではないかと思います。簡易
裁判所というものを非常に軽く見ておる。これは特任
判事といいますが、私は終戦後
裁判所制度を検討した
委員会において最初から
言つていたことでありますが、イギリスでは
裁判ということに非常に重きを置いておる。最下級の
裁判所は、主としてしろうとがやりますが、
裁判は決して一人でやらせない。ほかの予審とか、そういういろいろ
行政面もありますけれども、それは一人でやります。しかし事
裁判となると、決して一人でやらせない。だから今後私は
日本でも簡易
裁判所を非常に活用すればいいと思いますが、この
裁判についてはその例になら
つて慎重を期して一人でやらせない、そういう仕組みにしたらいいと思
つております。
それからもう一つ、その他の問題に関連さして皆さんに訴えておきたいことは、
最高裁判所の建物、あれは非常にりつぱなものである。東京名物にな
つており、バスも盛んに来る。バス・ガールに加わ
つて、あそこで内部を案内しておる者も特にきめてあるようです。ところが東京の簡易
裁判所、これは拓務省跡にありますが、これはどんなざまをしているか、物置にもならないようなところで
裁判をしております。
国会は御
承知かどうか。私は
裁判所に偽りがあると常に
考えております。もし
最高裁判所をお上りさんを連れて来て見せるのなら、その足ですぐこの簡易
裁判所の建物、物置にもならないようなこういうところを見せるべきだ。
日本の
裁判はどんなちぐはぐな状態において行われておるか、
国会議員は国政調査の
権限を活用されて、公の
資格において一ぺんこれを見ていただきたい。
それから、あそこの拓務省跡は電車に面しております。それであのバラツクのきたない建物が、これは外国人にもみんな目につくだろうと思う。この機会にあそこくらいはりつぱな建物にし、
裁判所のりつぱな庁舎をつくるべきではないか。
最高裁判所の
機構の
改革とあわせまして、ここに目に見えるりつぱな
司法権、これにふさわしい建物を東京に建てていただくべきではないか、そう
考えております。五、六億の金はただいまの国家においては大した金でにない、私はこう思います。これもひとつ御考慮を願いたいと思う。
私はこれくらいにしておきます。