○
勝本参考人 利息制限法の
性格いかんという問題に関しまして、私の
意見を述べろという
お話でありますが、沿革的に申しますと、
利息というものは昔はと
つてはならない――ことに
旧約聖書なんかにおきましてはとらない、コーラン、
マヌー法典それからプラトーなんかも
利息をと
つてはいけないという思想でございますが、宗教上におきましては
高利は弱い者いじめであるという点から、特に
利息をと
つてはならないという
趣旨であ
つたのであります。トーマス・アクイナスに至りまして、金を貸した場合に、
期限に至
つて返さない場合には
利息をと
つてよろしいということを言い出しまして、なるほど
利息をと
つては悪いけれども、
期限に至
つて返さないやつには、これは
利息をと
つてもしかるべきであるということを言い出しまして、その結果かえ
つて金銭債務の
履行期を
契約上短縮して、結局
利息をとるというような
傾向を助長したものであります。その後
英国のベンサムが、近代
資本主義的な
立場から
利息の正当であることを主張しまして、その後
経済界においては
利息をとるという慣習が自然に行われるようにな
つたのであります。しかしながら一面において、やはり
高利をと
つて弱い者をいじめるという
立場から、
利息の
法定制限をしようという機運が起りまして、
フランス民法では千九百七条というのがありまして、
法律の禁止なき限り、
法定利率民事年四分、
商事年五分を越える
約定利率を有効としているが、その後
改訂されて
民事五分、
商事六分となり、これ以上のものを受領した
債権者は返還すべきものとしていたのであります。なお
高利常習者には刑罰をも
つてそれを制裁しておるというのが
フランスの
現状であります。今度の立案の中に
高利を
とつた場合には、
受取つてしまえば返さなくてもいいというようなことが書いてあるのであります。これは
民法の七百八条と関連しまして従来非常に問題と
なつたところであります。
日本のこれまでの
利息制限法では、その点は
法律の
解釈に一任していたわけでありますが、
フランス民法が
受取つた場合にも返さなければならぬとしているのと比べまして、
日本民法は一歩譲
つていると申しますか、当事者の
解釈に一任している点において、むしろ進んでおるといわれたのであります。
ドイツ民法では
原則として
高利を許しておりまするけれども、もし年六分以上の
利息を約した場合には、六箇月以後においてさらに六箇月の
解約期間を定めて、
元本債務を解約することができるという
条文が二百四十七条にあります。さらに別な
条文におきまして、
債務者の
困窮、軽率、無経験に乗じて不相当な利得をなさんとする行為を、
一般に無効とするに至り、なお
スイス債務法七十三条も同様な
趣旨を規定しておるのであります。
英国におきましては、一八五四年に至り
利息の
制限を廃止しまして、質屋における
質営業における
金銭の
消費貸借に関して
利息の
制限を設けたのであります。ハウン・ブローカーズ・アクト、一八七二年の
法律でありますが、さらに一九〇〇年のマネー・レンダーズ・アクトによりまして、
金貸し業者の締結する
消費貸借契約につきまして不当なる条件がある場合には、ハーシ・アンド・アンコンシヤナブルな条件ある場合には、
裁判所がこれを適当に軽減し得ることを認めるに
至つたのであります。最近の
ソビエトロシヤ民法二百十二条以下には、
約定利率に関する
制限はございません。
これら
一般の
立法例を背景として考えますと、
利息制限法というものの
性格は二重
性格でありまして、それは
消費貸借というものが今日二重
性格を持
つていることに基因するのであります。
消費貸借――金を借りる場合には非常に
困窮によ
つて、病気であるとか、それから家が焼けたとかいう非生産的な
目的のために、
困窮のために金を借りる場合、こういう場合には本来
利息をとるということははなはだ不合理である。またそういう場合に金を貸すというのは、たとえば自分の恩人であるとか、従来やつかいに
なつた人とかであ
つて、別に
一般の人がそういう人を助ける義務はない。そういうやむを得ず
困窮に陥
つて金を借りる場合には、本来
利息というものははなはだ苛酷な
性格を持
つておるのであります。しかし一面において、大きな事業を営んで五割も、六割も、十割ももうける仕事をする、その
資金を借りるという場合には、
利息を払うのはむしろ当然です。その利益の一部分を
債権者に与えることはどう見ても合理的であります。
資本主義
経済が発達するにつれまして、
利息というものがだんだん合理化され、かつそれは需要供給の自然なる勢いにまかせて、高くもなり、安くもなりして行
つたのであります。ところが一面において非生産的な
消費貸借というものはどうな
つておるかというと、それもやはり
経済組織の進展に巻き込まれまして、そんな
困窮をしてから金を借りる場合とか、事業をやるために金を借りるというような区別はしないで、一切
資本を借りる場合と同じ取扱いになりまして、従
つて利息というものをとるのは、いかなる場合でも、金を貸す場合にはあたりまえであるという思想が醸成されたのであります。しかし内面におきましては、非生産的な
消費貸借と生産的な
消費貸借というものは、これは明らかに区別しなければならぬ。しかしその区別は立証方法としてはなはだ不明確でありまして、明らかな場合もありますけれども、大体はその区別がなし得ない。でありますからどちらかに吸収される。その場合にはやはり
資本を借りるという面にどうしても吸収されがちであります。そこで
ドイツ民法などは、
利息の
制限を認めないという
原則に近くな
つています。そうしておいて一面に貧困者の弱点につけ込んで暴利をむさぼろうとする場合には、それを
制限する。人の貧困に乗じて不当な利益を得ようとする行為――
日本でも暴利取締令というのがございましたが、ああいうもので押えようといたしたのであります。そうして
利息は、当時者間の自由に一任する。その極端なものは、今言つた暴利
取締りの思想によ
つてこれを押えて行こうというので、これが今日の大体の立法の
傾向じやないかと私は考えるのであります。
利息制限法の
性格いかんという問題につきましては、今申したように、
消費貸借というものが常に二面の
性格を持
つておる。
利息を合理的ならしむる
消費貸借もあれば、非常に非合理的ならしむる
消費貸借もある。それを一緒に規定するところに非常に無理がある。そこで妥協しなければならぬ。妥協は、従来
利息制限法というものによ
つて、百円以下の場合には年一割五分とか、千円以下の場合には一割二分、それ以上の場合は一割ということにな
つてお
つたのであります。なぜそういう
制限をつくつたかということは、おそらく当時の
経済状態を背景としまして、現にその
程度の
利息ならば
国民に支払い能力があると認めるのが正当であろうというところにあつたと思います。従
つて今日の状態においては、百円という額はまず二百倍といたしますと、二万円までは一割五分ならばどうかということになろうと思うのでありますが、今回はさらにそれが引上げられて二割でありますか、非常に高くな
つております。これは今日の
金融状態から見ますと、もつともだと思う。私はその
利率をいかにすべきかということは、
金融方面の方の実際の御経験なり、実際にどういうふうに行われているかということを
標準にして、その
利率の正当性をきめて行くべきだと思います。しかし大体におきまして昔の
利息制限法よりも高くなりつつあるということは言えると思います。何分昔の
利息制限法というものは非常に古い
法律でありまして、今日から見ればもう時代遅れの
法律であると言われているのであります。時代遅れの
法律であるとわれわれが言
つているのは、むしろ
ドイツ法的に暴利を取締るべきであ
つて、あとの点は貸借当事者の合意に一任すべきであるという点から考えられるべきものであると思うのであります。しかしまた
実情から申しますと、
利息制限法というものがあるために、
一般に
高利をと
つてはならぬという思想を
国民に知らしめるということになりまして、精神的にある圧迫を感ぜしめるという
効果は大いにあると思います。実際上の
効果がどういうふうにあるかということとは違
つて、ただそういう精神上の圧迫を加え、
一般の人に
高利をと
つてはならぬという思想をつくり上げるというところに、その存在の意義があるかと思います。
御承知のように道徳
観念といいましても、今日は左、右の思想に胚胎するの人ならず、その他
経済的な階級に応じ、あるいは自分の職域に応じまして、道徳
観念が非常に違うのでありまして、昔のように道徳というものを簡単に考えるわけには行きません。
フランスのある学者のごときは、
法律でも
つて道徳をつくるのである。従来の道徳は一応支離滅裂となり、人の主観によ
つて非常に違うものに
なつた。昔のように宗教によ
つて統一されたり、封建制度のもとに統一された時代の道徳と、今日の
資本主義社会においての道徳とは非常に違う。また思想混乱の時代においては各自において道徳の
標準が違うのであ
つて、道徳というものが大きな基礎になり得ない。
法律という国家によ
つてつくられるものが新しい道徳の基礎にならなければならぬと言われているくらいでありますから、
利息制限法というものがありますれば、
国民一般がその
経済生活を行う根本
原則をやはりつくることができる。そういう
意味において存在の意義があると思うのであります。
さてこれが実際にどう運用されているかと申しますと、これはいろいろな面においてくぐる方法があ
つて、ほとんど有名無実に帰するというのが
現状でありまして、実際上の
経済上の需要供給を一片の
法律によ
つて左右することはできないのであります。だからこういうものをつくりましても、どれだけこれが行えるかということは、はなはだ疑問であります。その点において
利息制限法の
性格というものが、昔は実際にこれをも
つて高利貸しを取締ろうとしたところにあるのでありますが、今日においてはむしろ
国民生活のよ
つても
つて向う基準を
法律でも
つて示すというところに基礎があるのではないか。もしつくるならばそういうところに基礎があるのではないかと思うのであります。
それから
金銭の
消費貸借の
債務不履行による
損害賠償額の予定について御質問がございました。
金銭債務にだけ
利息制限法をつくるという立法上の根拠は具体的にどこにあるかというと、これは
金銭債務は四百十九条によ
つて不可抗力をも
つて抗弁なし得ないというところに立法上の根拠がある。
金銭債務以外の債務は不可抗力をも
つて抗弁なし得る。
債務者を救い得る。しかし
金銭債務は
金融資本主義の社会においては、
債務者は絶体絶命、これを履行しなければならぬ。履行しないと強制執行をやられる。誠心誠意働いて、金ができなくても、やはり徹底的に強制執行を受ける。これが
金銭債務の
性格であります。でありますからかわいそうである。従
つて保護の法もつく
つておかなければならぬというところに
利息制限という思想に結びつくのであります。でありますから、
金銭債務について
利息制限法を認め、
金銭債務以外のものについては認めないということは、立法上根拠があるのであります。ただ米であるとか、麦であるとか、油であるとかいうようなもの、この
消費貸借はどうかというと、これは
金銭債務ではありませんから、
利息制限法の規定の適用は排除されるわけでありますが、実際上こういう債務はやはり債務としてほとんど不可抗力をも
つて抗弁なし得ないということと同じように、市場に品物がございますれば、
債務者は履行しなければならぬのでありますから、それに及ぼすかどうかということは、立法問題として一考の余地があると思うのでありますが、一応
金銭債務については四百十九条の
関係から、この
利息を
制限して
債務者を保護するという面をつく
つておかれたい。こういうことが一応言われるわけであります。
さてこの
金銭債務の
債務不履行による損害賠償の予定、これは今度の
法案利率の倍だけは予定額を約定し得るという、この立案の文章によりますと、そういうふうにうかがわれるのでありますが、本来この
利息というものは、
利息の沿革から申しましたときにも、
債務不履行の場合に、損害賠償としてとる
利息が合理性があるという、あの思想に基いて、本来発達した思想なのでありまして、そこから申しますと、この
債務不履行の場合だから、もつと
利息をとるというようなことは、これはその点から見るとどうかと思われるのでありますが、しかし
債務不履行の場合に、当然法定
利息による損害賠償が発生し、また約定
利息がそれよりも高い場合は、その約定
利息によ
つて払うのでありますが、そのほかに当事者が
債務不履行による損害賠償を約定し得るかどうか。元来
損害賠償額の予定というものはどういう
性格を持
つておるかというと、これは実際の損害の算定が困難であるから、実際の損害の算定のめんどうを省くために、当事者があらかじめ
契約でも
つて損害賠償額の予定をするわけであります。
ドイツ民法によりますと、そういう場合に、
裁判所が、それがあまり高過ぎると思うと、しんしやくできる。
日本の
民法では一旦きめた
損害賠償額の予定はしんしゃくできないということにな
つております。
ドイツ民法によりますと、どこまでもこれは
損害賠償額の予定であるから実際の損害がわかれば、なるべくその損害に近いものを払わせる。それがあまり高ければ削
つてもいいのだ、これは
損害賠償額をかりに算定したものであるから、実際の損害がわかりました場合には、その実際の損害によ
つてこれを直すべきだというのが、
ドイツ民法の立法理由であります。
日本の
民法は、その実際のめんどうを省くために予定賠償額を定めているのであ
つて、これを実損害に比してしんしやくし得るということだと、実損害を計算するということになり、当事者が実損害の計算はめんどうであるからそれを省こうという
趣旨が没却される。だから一旦賠償額の予定を定めた以上は、実損害の計算は許さない、実損害のいかんによ
つてこれは左右されない、
裁判所はこれをしんしやくすることを得ず、こういう規定にな
つておるのであります。それが
日本の立法理由であります。
そこで
金銭債務でありますが、
金銭債務における損害賠償というものは、
民法上年五分の法定
利息と規定するのが、これが
民法の
原則であります。但し約定がある場合は約定、すなわち約定
利息が法定
利息より高い場合には約定
利息による。そういうふうに損害の額か明らかである――明らかであるというよりも、
法律が推定しているそれ以上の
損害賠償額の予定をまた認める。しかも法定
利息の倍を認める。かように
利息制限法の
制限の倍のものを
損害賠償額として予定し得るということが立法化される場合には、おそらくすべての
消費貸借において不履行のときは
利息を倍とするということを書くようになりはしないか、私はむしろその方をおそれるのであります。
それから立法上の理論的の不備といたしましては、
金銭債務不履行の損害賠償というものは
法律によ
つて額がきま
つておる。額を計算するのに少しもめんどうでないものに、さらに
損害賠償額の予定を当事者に許すということは、弊害があるけれども実際上の
効果がなかろう。むしろ
金銭債務については
利息制限法の
利息による、それを限度とするということの方が
金銭債務の
性格としてはよろしい。そのほかに違約金、これは罰則でありますから、払わない場合に違約金を払うということはよろしいと思います。しかし今度の立案によりますと、違約金は
損害賠償額の予定とみなすという規定にな
つております。
民法の規定によると、違約金は
損害賠償額の予定と推定するということにな
つておりますが、今度はみなすということにな
つておりまして、反証をあげ得ない。そこで違約金なるものの
性格が
損害賠償額の予定に
なつたもの。
結論といたしましては私は、
損害賠償額の予定でなくて違約金とみなすというならば
法律上とる根拠があると思うのであります。ところが結果においては、その違約金を
損害賠償額の予定とみなすという
法律になりますと、それが当然
損害賠償額の予定の中に含まれるわけでありますから、結果においてはそれでもいいわけでありますが、ものの考え方であります、ものの考え方においては、どこまでも違約金ならよろしいけれども、
損害賠償額の予定というものは
金銭債務については本来不合理であります。当然これは
法律の規定によ
つて約定
利息あるいは
利息制限法の
最高価額の
利息が予定されるものであると私は存ずるのであります。
結論的に申しますと、私の考えと大差ないと思いますから、私はあえてどうのこうの言うのではありません。
もう一つ注意を促さなければならぬ点は、この
利息制限法が従来
効果がなかつたというのは、これをくぐる方法がたくさんあつた。そのくぐる方法として天引きということが行われる。天引きというのは、先に
利息を差引いて残金を与えて行く。あたかも差引かない金を与えて、それに
利息をつけるという形をとる。
利息を天引きしてしまう。なぜこういう方法が行われたかというと、七百八条に、不法の原因によ
つて給付したるものは返還を請求することはできないという規定がある。そこにまた但書がありまして、但し不法の原因がその相手方にのみある場合はこの限りにあらず、こういう規定にな
つております。そこで一旦と
つてしまうと、もう返さなくてもよい。不法の原因によ
つて給付したものだから、もう返還する義務はない。だからこの
利息制限法に反する
利息は、早くと
つてしまえば、あとは問題にならない、こういうことになる。今度の
法律でも、
利息制限法に反する
利息を払
つてしまえば、もうとりもどせないということにな
つております。ところが先に差引くものが非常に弊害があるのでありまして、それについて今度の
法律は、先に差引いた場合は、それは元本の弁済に充てる、つまりそれだけ差引いたものが貸されたということになるわけです。これは私なんかもう二十年前に主張いたしましたところと結果において軌を一にする。私なんかが考えましたものは、この
利息制限法に反する
利息を天引きした場合の
法律効果として、従来三つないし四つの学説がございました。一つは、そういうものをと
つてしまえば、もう返す必要はないという説、一つは、
利息制限法を読みますと、
利息制限法に反する
利息を
とつた場合には、
裁判上は無効であるとありますから、
裁判所で受理してもこれは無効である。ある人は、どうもそれは結果において悪いから、これは返してもらえる。返してもらえる根拠は、七百八条の但書によ
つて、
高利貸の方が悪い、不法の原因がもつぱら
高利貸にあるのであるから、これは返してもらえる、こういう説があ
つたのでありますが、
消費貸借というものは
金銭の移転を要する。でありますから、天引きして渡した場合には、その渡したものがつまり
消費貸借の
目的となるということを申しまして、天引きの場合には、天引きして渡したものが元金になるということを私は主張したのでありますが、今度の立案においては結局そういうことになるのでありまして、天引きしたものは元金の弁済に充当する、こういう
趣旨でございますから、結局元金が天引きしただけ減るわけです。しかしりくつを言いますと、
金銭の
消費貸借は、
金銭を相手方に引渡しをしなければ発生しないというのが
民法の建前でありますから、やはりそういう場合には、その天引きしたものについては本来
消費貸借が成立していない。つまりこれは元金を払つたことにならない。元金そのものは、その天引きしたものを差引いたものについて成立したのである。そういうふうに私は考えますから、その点において多少理論的の矛盾はありますけれども、
結論においては私は賛成いたします。大体この辺で……。