運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1954-03-13 第19回国会 衆議院 文部委員会公聴会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十九年三月十三日(土曜日)     午前十時十五分開議  出席委員    委員長 辻  寛一君    理事 相川 勝六君 理事 竹尾  弌君    理事 長谷川 峻君 理事 町村 金五君    理事 野原  覺君 理事 松平 忠久君       伊藤 郷一君    岸田 正記君       熊谷 憲一君    坂田 道太君       世耕 弘一君    原田  憲君       山中 貞則君    亘  四郎君       田中 久雄君    中嶋 太郎君       吉田  安君    高津 正道君       辻原 弘市君    山崎 始男君       大西 正道君    前田榮之助君       小林 信一君  出席国務大臣         文 部 大 臣 大達 茂雄君  出席政府委員         文部政務次官  福井  勇君         文部事務官         (大臣官房会計         課長)     内藤譽三郎君         文部事務官         (初等中等教育         局長)     緒方 信一君         文部事務官         (大学学術局         長)      稻田 清助君         文部事務官         (社会教育局         長)      寺中 作雄君         文部事務官         (調査局長)  小林 行雄君         文部事務官         (管理局長)  近藤 直人君  出席公述人         私立大学連盟常         務理事     板橋 菊松君         読売新聞社編集         局教育部長   金久保通雄君         お茶の水大学学         長       蝋山 政道君         群馬県島村小学         校校長     齋藤 喜博君         京都大学学長  滝川 幸辰君         東京都PTA会         長       鹽澤 常信君         信濃教育会副会         長       松岡  弘君         日教組中央執行         委員長     小林  武君         元文部事務次官 日高第四郎君  委員外出席者         専  門  員 石井つとむ君        専  門  員 横田重左衛門君     ――――――――――――― 本日の公聴会意見を聞いた事件  義務教育学校における教育政治的中立の確  保に関する法律案及び教育公務員特例法の一部  を改正する法律案について     ―――――――――――――
  2. 辻寛一

    辻委員長 ただいまより義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案の両法案について、公聴会を開会いたします。  開会にあたりまして一言本日御出席公述人各位にごあいさつを申し上げます。目下当文部委員会におきまして審査中の義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案の両案は、御承知のごとくきわめて重要な案件でありまして、教育界のみならず国民各位が深い関心を寄せておる教育法案であります。従いまして当委員会といたしましては、その審査重要性思いをいたしまして、広く各界の学識経験者各位の御意見を聞きまして、本案審査の万全を期し、一層権威あらしめようとするものであります。各位の豊富なる御意見は、当委員会の今後の審査に資するところきわめて大きいものがあることを委員各位とともに期待するものであります。何とぞその立場左右より腹蔵なき御意見開陳お願いいたします。本日は御多忙中のところ御出席をいただきまして厚くお礼を申し上げます。  なお議事につきまして一言申し上げますと、公述人各位の御意見を述べられる時間は、大体十五分ないし二十分見当にお願いをいたしたいと存じます。なお念のため申し上げますが、衆議院規則の定めるところにより、御発言の際は委員長の許可を得ることになつております。また発言内容は御意見を聞こうとする案件の範囲を越えてはならぬことになつております。なお委員公述人に質疑することができますが、公述人委員に質疑することができませんから、さよう御了承願います。  次に委員各位お願い申し上げますが、公述人に対する御質疑は、一応初め午前中四名の御意見の御開陳の後にお願いを申し上げることとし、討論にわたらないようにお願いをいたします。  これよりまず私立大学連盟常務理事板橋菊松君より御意見を伺うことにいたします。板橋菊松君。
  3. 板橋菊松

    板橋公述人 私は関西大学板橋菊松であります。日本私立大学連盟では、関西大学代表として常務理事の役職についておりまするが、本日ここで申し述べますことは、私一個の意見でありまして、関西大学を代表した意見でもなければ、また日本私立大学連盟を代表した意見でもないということをあらかじめ御了承を願つておきます。  今回文部当局が立案された二つ教育法案である教育公務員特例法の一部を改正する法律案義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案は、両者とも教育政治的中立ということに関連があるのであります。東京大学矢内原総長に言わせると、文部当局日本教育界全体を信用しないあるいは侮辱する考え方をしたものだそうでありまするが、私は、文部当局は決してさような考え方をして本案を立案したものでないと確信しておるのであります。従つて第一の教育公務員に関する法律案には衷心より賛成いたします。ただ第二の義務教育学校に関する法律案は、その主たる条文立法構想複雑怪奇をきわめて、いささか納得できないものがありますので、とくと御再考を煩わし修正していただけないかと存ずるのであります。  いまさら教育とは何ぞやという詮議だてをする要もなく、また民主主義に基調した政党政治の行われている立憲国においては、政治教育というものが欠くべからざるものであるというような説明もあらためていたす必要はないのでありますが、問題は教育政治的中立という考え方であります。実は教育政治的中立と申しましても、これだけではわかつたようでわからないところもあるのであります。教育政治的に中立するということは、政治は右か左か、極右極左片寄つたものとかつて考えたことでありまし、一国の政党が極右党と極左党二つ一かないとして、そのまん中に空虚がある。その空虚に立つもの、すなわち政治的中立、こんなように考えて一体いいのか、私はそうあつてはならぬと思うのであります、かりに一国の政党が極右党と極左党二つしかないといたしますれば、それでいいかもしれませんが、その極右極左とのまん中中立党というものがありましたならば、その中立党主義綱領を支持することもまた特定政党を支持するということになりまして、ここには教育政治的中立ということは考えられないのではないかと思うのであります。ですから政治的中立ということに少しあいまいでありますから、これを私は教育不偏不党考えたいのであります。そして教育不偏不党ということは極右党に偏してもならぬし、局左党に偏してもならぬし、また中立党を支持してもならぬのだ、かように考えます。わが国は今自由党内閣でありますが、今後どの政党が政権を握つても、教育御用党にくみしてもいけなければ、その反対党片寄つてもいけない、かように存ずるのであります。これが教員としての教育的良識であると考えます。従いまして教員である以上は、国立学校教員たる公立学校教員たると、私立学校教員たるとを問わず、ひとしく教員として今申し上げたような教育的良心があつてしかるべきだと思うのであります。ところが国立学校公立学校教育公務員は、私立学校教員に比べますとその身分は保障せられ、またその生活は公費でまかなわれた俸給その他の特権給付によつて、より安定しておるのであります。それだけに国立学校教員公立学校教員は、私立学校教員と違つて政治的に不自由な思いをし、その政治活動制限されるのは当然過ぎるほど当然だと思うのであります。東京大学矢内原総長は、そのうさ晴らしかしれませんけれども、ときどき変なりくつをこねまわしまするが、彼みずからはやはり教育公務員としてあきらめているらしく、一般公務員並政治的の拘束を受けて不平らしい顔もしておらぬのであります。国立学校教育公務員すでにしかりといたしますれば、公立学校教育公務員がこれに準じて政治的行為取締られるということは、教育そのもの一般地方行政事務とは本質的に違つた国家的事業だという見地に立てばすぐに了解し得られるのであります。本日こちらに御出席になつておりまする蝋山さんが、近刊のジユリスト誌に発表された政治中立性という論文の中に、教員職務教員であつて一般行政とは異なつている、しこうして教員職務一般行政との間に区別を設ける理由は十分認められねばならないと書いておられるのであります。これを国家公務員である国立学校教員にあてはめますると、やはり両者区別を設ける理由は十分認められねばならないことになつて来るのではないかと思うのであります。私は教育はあくまで国家的事業である。教育基本法にも書いてありまする国家的事業であると存じまするので、地方公務員といつてもこれを地域的に考えねばならぬと思います。かような見地に立ちますと、公立学校教員国立学校教員の例にならつて政治的制限をすることに何ら無理なところはないと思うのであります。現に国立学校教員の方が一般国家公務員と同様に政治的行為制限されていながら、特にこれを人権蹂躙だの言論圧迫だのとおつしやらない敬虔な態度に私に敬意を表するのであります。ですからおそらく地方教育公務員も、その職責の特殊性にかんかみられたならば、やはり現在の国立学校教育公務員と同様に、教育国家事業であり、それに携わつておるから政治的行為制限をされるのは当然であるとお考えになると思うのであります。  第二の法案でありますが、これは初めにもちよつと申しました通り、どうもその主たる条文立法構造複雑で納得できないところがあるのであります。本法案が、近年問題になつた日教組のごとき政治的行動を防止して、義務教育政治的中立性を守ろう、つまり私の申し上げた教育不偏不党ということを確保しようという御趣旨でありますから、その趣旨にはもちろん私は賛成であります。しかしどうもその条文書き方が変だと思うのであります。日教組政治的行動について、やつたのであつたけれどもそれほどまでやらないとか、そんな事実はないとか、いろいろ新聞の上で拝見いたしますけれども、東京大学矢内原総長も、今日までの日教組行動の中には過激と思われる点、行き過ぎと思われる点がなかつたとは言えないと言うておられるのであります。さらに蝋山さんも前述のジユリスト誌上におきまして、筆者も日教組選挙運動については賛成しがたい点を認め、しばしばその点を指摘して来たとはつきり書いておられるのであります。このお二人、この代表的の自由主義者でも、日教組政治的活動は目に余る、けしからぬものだと認めておられるのであります。ですから大達文部大臣として、怒髪まごに冠をついて、日教組の退治を思い立つたのは、当然過ぎるほど当然だと思うのであります。しかし私はこの条文の第三条の「何人も」が、どうも教育法案にふさわしくない字句だと思うのであります。これはむろん教員以外の何人もということでしよう。たとえば第三者である共産主義者などがこれこれを教唆し、扇動したときに処罰しようというのでありましようが、さような不逞の徒もしありとして、これを取締らなければならぬとしたならば、それは別の刑事法規に譲るべきものではないかというように考えるのであります。そこで本法案では、ただ義務教育学校に勤務する教育職員を主体にして、これらの者が何々という条文に書いてあることをしたときには処罰するような意味で、簡素化できないものかと考えるのであります。つまり第三条はちよつと読んでもはつきりしないように、何段階にも積み上げて書いて、そうして正犯抜き教唆犯扇動犯のみを定めたということは、法律条規の体をなしていないのであります。さらにその第二項で「前項の特定政党等を支持させ、又はこれに反対させる教育には、良識ある公民たるに必要な政治的教養を与えるに必要な限度をこえて、特定政党等を支持し、又はこれに反対するに至らしめるに足りる教育を含むものとする。」こう規定してありますが、これはあまりにもひねくりまわし過ぎて、結局こういう書き方をしておるために、悪法だとか、あいまいだとか、粗放だとか、粗雑だとか言われるのではないかと思うのであります。私は本法案は一部の人たちが申されるように決して悪法だとは思いませんが、何だか珍しい愚法のような気持がいたすのであります。これが本法案の隠しきれない弱点ではないでしようか。  結論といたしまして、私はこの両法案趣旨には賛成でございます。しかるに新聞、雑誌の多くを私が手あたり次第調べてみますと、たとい日教組――日教組と今明らかに申し上げては失礼かもしれません、日教組のような、あるいは別の、教員を主とする教育団体政治的活動に出たような場合は悪い、悪いけれども、よくそれをさとして、なだめて、そんなことは間違いだぞ、今後はこうしなければいけないぞと言うてやればわかるはずだという、まるで時代遅れの孟母の三遷の教えを今ごろ持ち出している評論家があるのであります。私は現実にかような客観的の事実がある。これがわが民主政治民主化の上から見ても、教育政治的中立不偏不党立場から見ても、断固として許すべからざるものであるとしたならば、それに対して改過遷善だのどうのとなまぬるいことは言わず、断固としてこれを取締法規をつくつていいと確信して疑わないのであります。今問題になつているいろいろな汚職事件にいたしましても、ここにもしお前は今後もう再びそんなことをしないか、しないならばもうこれで小菅へ送らなくてもいいと言つてつては、社会の秩序は乱れるままに乱れてしまうのであります。ですからかくのごとき客観的事実、この間違いのない客観事実を握つた以上は、これをいかに処置してわが政治民主化教育政治的中立確保するかということについて、格別の御審議を願いたいと思うのであります。(拍手)
  4. 辻寛一

    辻委員長 次に読売新聞社編集局教育部長金久保通雄君の御意見をお聞きいたします。
  5. 金久保通雄

    金久保公述人 私は今御紹介にあずかりましたように新聞記者でございますから、主として新聞記者立場から、この問題につきまして意見を申し上げてみたいと思います。最初に、この法案に対する、私の意見を申し上げる前に、私自身教育というものをどういうふうに考えているか、そのことにつきまして簡単にお話しまして、そのあとで法案に対する意見を申し上げたいと思います。  戦後の教育改革で、いわゆる新教育というものが生れたわけでありますが、私は、この新教育の一番大きなねらいは、教育政治から切り離すことにあつたのだろうと思つております。教育政治から切り離すということが、なぜ戦後の教育改革で行われなければならなかつたかと申し上げますと、今までの戦前教育では、教育政治の、つまり政府政策道具に使われていたきらいがあつた。もし教育がいつまでも政策道具に使われておりますと、われわれは教育を通じてりつぱな人間をつくることができない、つまり教育というものは理想を追求する仕事でございます。ところが現実政治というものは、皆さん承知のように目の前の問題、きようの問題を処理することをおもな仕事としておるわけでありまして、そういう意味から申しましても、教育政治というものは当然切り離されていなければならぬというふうに、私自身考えておるわけであります。そこで戦前のように、教育政策道具に使われないためには、政府から教育というものを一応引き離しておく必要があるというので、制度の上では、教育中央集権から教育地方分権ということが行われているわけであります。つまり、今まで文部省によつて中央集権的に統制されておりました教育というものを、今度は教育委員会というものをつくりまして、教育を住民の手、つまり国民の手に移したわけであります。この地方分権ということは、つまり今申し上げたように、教育政府政策手段にならないということを、制度の上に端的に現わしたことだろう、そういうふうに私は考えておるわけであります。  それではなぜこのような教育改革が行われなければならなかつたかということを、少し具体的な問題についてお話しますと、大体全体主義の国におきましては、教育というものは政治に従属しておるということが言えると思います。たとえば戦前日本におきます教育は、文部省によつて指揮命令を受けておりました。あるいはソビエトのような全体主義の国におきましては、教育は完全に政治道具として、政治手段として、政治に従属されておるわけであります。全体主義の国における政治教育のこのような関係は、おそらく全体主義的な政治をやられている人は、自分指導者としてりつぱな政治を行い、理想を追求しておるのだから、教育も当然政治について来ればいいのだというふうにお考えになつて、その上で教育というものを政治に従属させていることだろうと思うのですが、全体主義というものが、政治の形態としてはよくないことだというふうにお考えになりますれば、当然そういうふうな全体主義における教育政治関係というものは清算されなければならぬわけであります。  たとえばどうして教育政治に従属してはいけないかという一つの例を申し上げますと、ただいまのわが国政府自由党政府であります。自由党は言うまでもなく自由主義経済あるいは自由主義というものを理想とし、政治目標として政策を行つて来ておるわけてございますが、米の問題を取上げてみますと、この自由主義経済というものを政策の生命としております自由党でさえ、やはり現実の米の事情から、やむを得ず米の統制、米の配給制度というものを行つておるわけでございます。またソビエト政治を見ましても、ソビエトは究極には共産主義社会というものを目標にして政治を行つておるわけでございますが、この共産主義社会というものは、完全な人間の自由な社会ということだろうと思います。ところが現実政治は、その自由を追求しておきながら、完全に近いまでに国民から自由を奪つておる。つまり自由のために非常に不自由な政策が行われておる。このように考えますと、現実政治というものは、理想を追いながらも、目の前のいろいろな事情から、どうしても理想と離れた政策が生れて来る。もしこのような現実政治に対して教育が従属しておりますと、やはり教育そのものまでそうした理想というものを一応捨ててしまうとか、あるいはたな上げしてしまう、そういうような事態が起つて来るわけでございまして、こういうことから考えましても、教育というものは、政治から完全に独立し、自立していなければならないということが言えると思うわけであります。  そういうわけで戦後の教育改革で、わが国教育政治から独立して、今自立の方向に歩んで来ておるわけであります。いろいろの反省なり、批判はございますが、考え方、あるいは方向としましては、そういうふうな考え方でもつて教育を押し進めて来たわけであります。  そういうふうな教育のもとで、一体それでは教育は直接にはどういうことを目標にして行われているかと申し上げますと、皆さん御存じのように、教育基本法教育の目的なり、教育内容をかなり具体的に規定しておりますので、私がここであらためて申し上げるまでもございませんが、一言で申し上げますと、今の教育は正義を愛する、そうして自主的な精神を持つた健康な子供をつくつて行く、そうして日本社会の進歩をはかるということであろうと思います。そこで自主的な判断を持つた子供をつくるということは、今申しました非常に自由な教育でなければ、そういう子供教育はできないというふうに思います。私は、教育というものをそういうふうに一応考えておりまして、そういうふうな考え方から、この二つ法案に対する私の意見をこれから申し上げたいと思います。  最初結論から申し上げますと、私はこの二つ法案反対でございます。なぜ反対かと申し上げますと、一つ法案は、教育公務員特例法の一部を改正する法律案でございますが、この法案は、端的に申しまして、教員政治活動をほとんど禁止に近いまでに制限するということだろうと思います。前の公述人の方が申し上げておりましたけれども、私は一般公務というものと教育という仕事は、やはり内容が違うものだと思つております。ですから教員政治活動はできるだけ自由でなければならないと思うわけであります。それではなぜ違うかと申し上げますと、たとえば通産省公務員教育者仕事というものを比較してみたいと思います。通産省公務員は、とにかく政府がきめた法律をそのまま実行するという義務を持つておるわけであります。あるいは税務署のお役人のことを考えましても、これは税制がきめられた以上は、かりにその税制反対であろうと何であろうと、税務官吏というものは、その税制を執行する義務を持つておるわけであります。もしそれに反対だからやらないということでは、公務員としての仕事が成り立たない。ところが教育というものは、先ほど申し上げましたように、直接政府のきめた政策なり法律なりを執行する仕事ではないのでありまして、むしろ逆に現実政治を批判しながら理想を追求して行かなければならないというふうな仕事であります。そういう意味から申しますと、同じ公務員という身分でありましても、一般公務教育仕事というものはまつたく性質が違う、性格を異にしているということが言えると思います。  もう一つ反対する理由は、ただいま申し上げましたように、これからの子供は自由な、独立的な、しかも自主的判断を持つた子供をつくらなければいけない。そういう子供をつくる教師が、かりに政治活動を極端に制限され、あるいは自由にものを言えないというような不自由な人間になつてしまつたら、どうしてそういう自由な独立心のある子供教育することができるか。そういう二つ理由から、私は教育公務員特例法の一部を改正する法律案に対して反対するわけであります。  時間がありませんから簡単に申し上げますが、もう一つ義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案について反対する大きな理由は、この法律案の骨子は御存じのように、子供教育する教師教唆扇動する者を取締りの対象としておるわけであります。ところが教育中立性というものは、教師子供たちの間の関係の問題なのであります。教師を外部から団体を通じて扇動する人と教師との間の問題ではなくて、教育中立性というのは、教師子供たちとの関係、教室における教育活動の問題だろうと思うんです。ところがこの法律では教師子供との関係については全然触れておりません。そして教師団体を通じて教師教唆扇動をする人の関係取締ろうということになつておるわけであります。十日の衆議院法務委員会大達文相が言われておりましたが、もしこういうふうな法律をつくれば、だれも法律違反をするような人がなくなるだろうから、この法律をつくることによつて、そうした問題をなくすることができるというふうなことを言つておりました。これはつまり予防立法であるということだろうと私は思つておるわけでありますが、なるほど日教組の中にはある程度の行き過ぎはありました。私も今まで自分の職業を通じまして、日教組行き過ぎに対して、かなりきびしい批判を加えて来たつもりでございます。日教組の問題は、いろいろと立場々々によつて見方も違うと思うのでありますが、具体的な問題を申し上げますと、たとえばこの前の委員会で国警長官が、日教組の中には約六百名の共産党員があるというふうなことを発表されておりましたが、私はこの資料は当局の資料でございますから、ある程度信用してさしつかえないと思うのでありますが、とにかく日教組の中にも共産党員の方もおりましようし、あるいは容共と言われるような分子もいるかと思います。ところが全体の日教組としては、何とかしてそうした片寄つた方向に行かないように、全体の人たちはこうした片寄つた人たちを何とかして押えようとしながら、今日まで苦労してやつて来ておるのであります。たとえば昨年三月の義務教育費国庫負担法案のときなども、日教組としまして一斉賜暇の戦をきめております。ところがその前日術になりまして、内部でいろいろと、一斉賜暇という戦術はまずい、こういうことは教師の組合として適当でないということで反対が出まして、その反対が勝ちを占めて、一斉賜暇戦術が前日になりまして中止されたというふうなことがございました。また今度の二つ法案に対する反対運動でも、皆さん直接御存じだろうと思うのですが、今までの日教組のやり方から言いますれば、相当過激な行動に出るだろうということが考えられたわけでありますが、今までのところでは、かなり平静に、組合としては冷静な反対運動を続けております。そういう意味日教組もかなり反省しております。  それから、これは私個人の考えでありますが、皆さんの中にも、一つ政党の中で右派とか左派とか言われる派がありますし、日教組の中にも、たとえば主流派とかあるいは統一派というふうにわれわれが呼んでいる派があるのでございます。内部でそういうふうな闘いをやりながら、日教組はとにかく進んで来ておるのでありまして、一部の日教組のやり方が行き過ぎであるからといつて、全体の教師取締るということは、何としましても適切でないと私は考えるのであります。  もう一つ最後につけ加えておきたいことは、校長先生というものは、私の知つている範囲では、今まで日教組とかなり鋭い対立の立場に立つて来ております。組合員でない先生が大半を占めております。ところが今度の問題に関する限りは、全国の小学校長会あるいは中学校長会も、この法案にはつきりと反対の決議をしております。また信濃教育会という非常に長い伝統を特ちました教育団体がございますが、この教育団体ははつきり申しますと、日教組とははつきり対立した立場をとつて来た教育団体でございます。ところがこの教育団体がつい最近東京まで出て来まして、教育を守るという意味から反対の大会を開いております。それから私どもの仕事の上から言いますと、私はいろいろとこの問題についての日本全国の新聞の論調を調べたのでありますが、私の知つている限りでは、この法案賛成をしている新聞一つしか知りません。  そういうふうなことをお考えになりましても、この法律というものは決して輿論の支持を得ていないということを私は痛切に感ずるのであります。(「その通り」と呼ぶ者あり)どうか輿論というものも十分おくみになりまして、慎重にこの法案についてこれから御審議いただくようにお願い申し上げたいと思います。(拍手)
  6. 辻寛一

    辻委員長 次にお茶の水大学学蝋山政道君にお願いいたします。
  7. 蝋山政道

    蝋山公述人 私がこれから申し上げますことは、私一個の見解であります。しかしこの見解を発表いたしまして以来、相当多数の人の賛成を得ておるのであります。学界におきましても、また教員の間におきましても、相当私と同意見の者のあることをお認め願いたいと思います。  私のこの二つ法案に対する意見といたしましては、主として共通の点としては、この法案は、性格の上から申しまして、日本の議会政治に非常に重要な影響を与えるものであるということを共通の点として指摘いたしたいと思います。議会政治は何と申しましても教育制度と警察制度をその根幹とする制度であります。この教育法案は、わが国民主主義の基礎である教育制度について相当大いなる影響を与えるおそれのある法案でありまして、法案内容の前に、一言この性格の点を十分皆さんに御注意を与えておきたいと思うのであります。申し上げまする点は、法案のそれぞれについて具体的に内容から申し上げてみたいと思います。  第一の教育公務員特例法の一部改正案でありますが、これは御承知のように地方公務員としての教職員を政治活動に関する限り国家公務員とするという見解を包蔵しておるのでありますが、これは国家公務員法と並びまして地方公務員法が制定されましたときに、この国会におきまして十分その点について地方公務員特殊性ということが指摘されたところであります。私も公述人の一人として、その際にあの三十六条但書の根拠について申し上げた記憶があるのであります。この三十六条但書という問題がなぜ必要であるかと申しますと、これは言うまでもなく日本地方制度にとりまして重要な問題であるからであります。これと密接な連関を持つておりますのが、この教員の問題につきましてそれ以上に――私はそれ以上にと言いたいのでありますが、この一般公務員から離しまして、政治活動の大幅の自由を、できるだけ特定の影響力を除いた地域におきましては認めるというのが、この三十六条但書の趣旨であろうと思うのであります。それを今回その但書にもかかわらず、特例法の改正によりまして国家公務員並にするということは、私にとつて理由を解するに苦しむのであります。ただこういうことがいわれると思うのであります。国家もまた中央政府教育に対して重要な責任を持つておる。しかしこのことは、国家公務員についてそのことがいわれるから、同時に地方公務員たるところの教職員に対しても適用できるというだけの理由であります。なぜ地方公務員、特に地方の教職員が大幅な自由を持つているか、与えなければならないかという理由を抹消することにはならないと思うのであります。国家が責任を持つておるということは当然のことであり、すでに法で予定しておるところであります。それをさらに制限をしようというについては非常に重大な理由がなくてはならないと思います。この意味におきまして、三十六条但書をそのままにしておいて、今度は特例法でもつてこれを改正しようという立法的手続につきましても、私は理解するに苦しむのであります。特例法は御承知のように教員に関する特殊の人事立法であり、教員特殊性によりまして特別の法律を設けたというだけのことであつて、その特殊の事情というのは、教員に関する人事その他の点について技術的に特別の法規を必要とするからであつて、教職員の権利や身分関係する根本的な問題をここで規定してはならないものと思うのであります。これがいわゆる一般法と特例法の区別ではないかと思います。しかるに今度は特例法において、三十六条但書をそのままにしておいて、それにかかわらずやるというような立法を私はおそれます。これがいわゆるナチス的立法であります。一般の権利そのものを制限することにおいてある特定の目的を到達しようという立法ははなはだよくない。私は性格的に見てこの立法の危険性を考えるのであります。この点は議会政治を守らなければならないこの立法府の問題としては、十分に御注意をいただいてしかるべき点ではないかと思うのであります。  ことに今日の文部省の設置法を見ますと、この点につきまして教育地方化、分権化ということに非常に慎重な態度をとつておるのであります。文部省設置法第五条によりますと、地方における教員身分に関しましては、ただ調査する、企画するという、その制度上の調査と企画だけにとどめておるのであります。文部大臣の権限は、地方分権を非常に尊重しておるのが今日の文部省設置法の精神であろうと思います。しかるに今回もし特例法二十一条三の規定が挿入されることによりまして、政治活動に関する限り地方における教職員の行状について監督するところの責任は一体どこに移るのでありましようか。立憲政治といたしましては、その責任の所在が明確でない立法というものは法の体系を乱るものと私は考えるのであります。その点におきまして皆様は、この特例法の改正によりまして、地方自治法との関連におきまして、特に教員制度身分制度に関しまして重大なる紛淆を生ずるおそれのあることについて、特に注意をしていただきたいと思うのであります。特に大臣責任論という点から見ましても、この点についてはなはだあいまいなる結果を生じないかということをおそれます。一体文部大臣がどの程度にこうした問題について監督権を持つてよろしいのかどうかという点につきましても、この法律でははつきりいたしません。  以上私は二点ないし三点からこの特例法一部改正案に反対するものであります。  第二の中立の確保という問題でありますが、この法案趣旨につきましては私はわからないでもないのであります。しかし立法の形式がはなはだ私にとつてはふに落ちないし、非常に危険性を包蔵しておるものではないかという点と、さらにいま一つの点は、特に私が現在関係をしておりますところの地位から申しまして、はなはだ困難なる責任を負わしめられるところの法案であるということを感ずるのであります。  はなはだこの法案内容において懸念にたえませんのは、いわゆる第三条の規定でございます。一体公務員それ自身について一般に言えることでありますが、教員の場合におきましても、責任というものが法に問われるという問題でありますが、正しいことをして、それがある場合においては刑事上の犯罪になるというような場合におきましては、非常にその点が明確に具体的に規定されなければならないものであります。公務員といたしましては、また教員といたしましては、自分職務に、公務に熱心であればあるほどいいはずのものであります。ところがこうした立法がなされますというと、その人がまじめに考えたことの結果がかえつて刑事上の犯罪に問われるというおそれもある問題でありますから、その辺の限界を明確にする必要があると思うのであります。しかるにこの二条の規定によりますと、犯罪の構成要件はかなり具体的になつておりますが、その犯罪を構成するような要件とそうでないものとの境目がすつかりわからない。この点が私はこの法律の最大の欠点であろうと思います。特にそれが教唆とか扇動ということでありまして、一般に具体的な事件でありますならば、教唆とか扇動ということは普通の刑事法の解釈で理解できるのでありますが、言論とか思想とかを通ずる教育教唆とか扇動というようなことを用いるのでありますから、この点につきましてはよほど立法を注意していただきたいと思う。このような立法では、とうていこうした刑罰を課するに価するようなことでないと私は思いまして、はなはだ濫用を恐れる次第であります。そうなりますと、日本教育界におきまして従来一番大事に考えて参りました政治教育ということができなくなりまして、基本法の第八条第一項がまつたく無意味になつてしまいます。そういうように、この法律はほんとうに角をためて牛を殺すおそれのある法律であるということについて、私は大いなる反対をいたしたいと思うのであります。  第二の点は、私は特に力説いたしたいのでありますが、いわゆる監督機関請求の問題であります。この立法がなぜなされたかということを考えますと、あるいは直接に警察なり検察庁の活動がなされないようにという親切心から出たかもしれませんが、はなはだもつてこれは不都合な法律であろうと思います。なぜならば、監督のもとにあるものでありますならば、たといどのような事情において不当なる政治活動になりましても、あくまでそれは監督機関の責任でございます。しかるにこれは第三者であります。犯罪の構成要件といたしましては、教職員団体の活動を通ずるということになつておりますけれども、問題は第三者なのである。もし第三者についての何らかの活動を開始するとするならば、それに対し証拠を持たなければなりません。自分の配下にあるものならば、あくまでその証拠を収集するに努めなければなりません。しかし第三者がどこかでもつて活動をしたり、それに影響を受けたというその因果関係を、どこで判定するのでしようか。学長といたしましても、また教育委員会といたしましても、知事といたしましても、そのような証拠をどこで収集するのでしようか。おそらく警察は、あるいは文部当局のような行政機関は、証拠を別々の根拠において収集して、それを当該の監督機関に提供するということにならざるを得ないと思います。自分の収集した資料によらずして判断を下さなければならないような事態に立ち至つたときを想像いたしますと、それぞれの内部における紛糾が予想されるのであります。学内において、委員会において、あるいは知事行政のもとにおいて、教育中立性を守らなければならないそれ自身が、その内部において紛糾を来すような結果を来して、はたしてこの法の目的は達成できるでしようか。私はできないと思う。かえつて波乱を巻き起す結果にならないか。私はこの点を十分研究いたしましたが、直接に本人に向つて自白を強要するようなこともいたしたくないし、かりにしたところで、第三者に対して請求責任を発動できるような根拠がはたして得られるだろうかというようなことを考えましたときに、この法律は当該監督機関に対して親切に考えておられるようでありますが、実はそうではない、結果は逆である、こういうようなことをすること自体が、すでにもう間違いではないかということを考えます。教育中立性というようなことは、このような手段ではとうてい守れるものではない。教職員も、監督機関も、世論も、行政の監督官庁も一体となつて教育中立性を守るという精神が出ないならば、とうてい守れるものではない。この点につきまして、この立法の全体の趣旨はわからないことはないのでありますけれども、どうもこの立法の形式、内容について、私は賛成できないのであります。  最後に結論として申し上げます。日教組それ自身に対しまして、この法案はどのようなねらいを持つておるか明確にすることはできませんが、いろいろ想像しますと、日教組の活動、教職員団体政治活動についての不安を持つておることは明瞭であります。しかしもし日教組政治活動につきまして、従来とられたところで反対の点があるとするならば、その点を直接に指摘すべきであると思います。たとえば日教組特定政党に対してのみ候補者を応援するというような形式はよくない、また特定政党の候補者に対してのみ資金を提供することはよくない、また日教組が授業の途中で、授業を放棄して政治活動に出るようなことはよくない、そういうことを直接に日教組の規約の上に挿入せしむべきであるし、日教組が自発的にそれをやらないならば、立法手段において、地方公務員法の職員団体の規定の中にそれを明確にすれば、その目的は達成するのであります。このような一つの目的に到達するのに、職員団体の活動を相手にするのに、一般教員政治的権利を制限するような立法は、悪法でなければ何でありましようか。私はそういう立法がこの立法府において通過されることをおそれるのであります。皆さん方の慎重なる御審議を希望いたしたいのでございます。(拍手)
  8. 辻寛一

    辻委員長 次に群馬県島村小学校校長齋藤喜博君にお願いします。
  9. 齋藤喜博

    ○齋藤公述人 私は二十数年の教員もしくは校長としての立場から、実際の教育界のお話を申し上げまして御参考に共したいと思います。  先ほど金久保さんから、教育はどこまでも自主的なものだとお話がありましたず、教育はほんとうに自主的であり、創造的でなければならないと思うのです。ところが現在の先生たちの状態は、およそその反対であります。現在もそうだし、前もそうだつたと思うのです。前はもつとひどかつたのじやないかと思うのですが、無気力で自主性のないそういうものが教師の代名詞だ、こういうふうに言われております。私もそうだと思つてみておるわけであります。私自身もまたそういうところがあつたわけであります。教師はいつでも上司とか校長によつてばかり動いている。今度来た校長はこういう考え方だから、こういうようにやつて行つたら都合がいいと、たとい自分考えと違つてつてもその通りに動く、もしくは臆測してその通りに動こうとする。こういうのが今でも実態であります。私はそれを非常に心配しておるわけでありますが、指導主事が来ますと、それに従つてどんどんと動いて行く。また村の人、村長とか、町長とか、議員さんとか、そういう人たちによつてどうにでも動かされて行く。現在でも動かされているというのが実情であります。校長の立場を見ましても、校長などもおよそそれと同じ立場でありまして、白いものを黒いと言われてもそれに従つている。こういう状態でありますから、およそ自主的な、創造的な仕事とは縁遠い仕事に落ちてしまうのが実情ではないかと思うのです。  今までよく教師社会性がないとか、役に立たないとかいうようなことを言われましたが、それはやはり教師社会に接触しておらない、いつでもまわりから圧迫されて、ほんとうにいじけて、自主的でなくなつておる、政治の問題も考えなかつた、勉強もしなかつた、そういうところから教師社会性がない、役に立たないというようなことがつくり出されたと思うのです。そういう教師にどうして自主的な、創造的な仕事ができるかと思うのであります。従いまして現在でも、教育基本法にありますような、全うな政治教育というものも、大部分の教師はやつておらない。全然やつておらないというのが実情であります。法律の中にあるやるべきことも心配し、恐れてやつておらないというのが実情だと思うのです。そういうことですから、この二つ法案が出るということになりました現在、先生たちは非常に心配し、動揺しまして、さまざまな姿が現われております。  それは現在教えている教科書の中から、危険だと思うこと、こういうことをやつたら将来あぶないのじやないかと思うことは、抜いてしまう先生が相当出て来ております。それから子供に質問される。現在の子供は、お母さんが子供に質問されるのと同じだと思うのですが、さまざまな質問を持つて来ます。そうして心配なことが出て来ますと、それは先生にはわからないのだ、先生はそれには答えられないのだ、こういうふうに言つて答えない先生が相当出て来ておりまして、高等学校の生徒、中学校の生徒、小学校の生徒の中にもそういう先生の態度に非常な不満を持つて来ている者が相当出ております。それからさらにひどいのは、こういう先生が出て来ました。これも私が直接聞いたのでありますが、この法案が通つたならば、私たちはもう一生懸命やらない方がいいんだ、一生懸命やればあぶないんだ、だから法案がきまるまではみんな休養しようじやないか、休養した方がいい、なるべくものぐさをし、楽をして休養しておこう、こういうふうな声も出て来ております。そういうようなことでありますから、将来この法案が通りましたならば、どういうふうになるかということを私考えてみたのでありますが、今までもそういうふうに無気力な先生たち、自主性のない先生たちがいよいよ無気力になり、自主性がなくなつて、今後何も言わなくなつてしまう、何も言わないことが一番安心なんだ、こういうふうな先生になり、またそういう先主が幅をきかしてしまうということを感じておるのです。今までもそういう先生がありました。月給をもらつて大したよい仕事をしない先生がおつたのですが、これからは何もしない先生が幅をきかして来る、ですからそういうものぐさの先生たち、だめな先生たちが喜ぶ法案ではないかというようにも考えております。  なお恐ろしいことは、こういうことなんです。これは今までの教師の本性でもあるのですが、教師社会というものは非常にお互いを中傷し合うということが多いのです。教育界はきれいだというふうに思われそうでありますが、内部に入つてみますと非常にきたないのです。これはやはり教師が今まで圧迫されたということから出ていると思うのですが、そういう教育界の中にお互いを中傷して行く、これは戦争中もそうだつたのですが、自分の論に負けるとか、自分が職場でぐあいが悪いとか、反対されるとか、相手が気に食わない場合には、あれは自由主義者だということを言つて、その人をたたくことができたのです。そういう事例が非常に多かつた。ところが戦争が終りまして、教員組合が盛んになりましたが、あの人は反動だ、あるいは保守反動だというのでたたいたのです。それが現在ではあの人は赤だというふうにたたけばすぐたたくことができる社会なんです。そういうふうな教育界の非常にみじめな現在におきましては、この法案が通りますと、職場の中に、教員室の中に、そういう中傷、たたき合いというものが非常に盛んに出て来るのではないかと思う。現在もそういうきざしが前よりひどく出ております。こうなりますと、それが当然子供へも影響して行くわけでありますが、さらにまた恐ろしいのは、子供を使うということができるのです。子供を仲間の教師が使つて、その先生の状況を調べさせるとか、父兄の中で反対の人が子供を使つて、あの先生の言つたことを調べろとか、そういうふうなことが戦争直後もあつたのでありますが、これから相当出て来るのではないかと思うのです。それからまた父兄と教師との間にいろいろの摩擦ができて来ると思うのです。父兄が先生のやつていることにいろいろ疑心暗鬼になつて来て、探りを入れますから、そうしますと子供と先生と父兄との関係が非常にまずくなつて来る、職場同士でもまずくなつて来る、これは父兄が先生を信用しなかつたならば、ちようど夫婦げんかをしている家の子供のように、どつちについてよいかわからない、そうして私たち夫婦げんかをしている家の子供を見ますると、みんないじけている。そうして積極的でない、消極的で無気力な子供になつている。そういうことが学校全体に及んで来ると思うし、そして教育というものは、どこまでも先生と生徒とが手をつなぎ合い、それから先生と父兄が手をつなぎ合い、みんながささえ合い、助け合つてその空気の中にほんとうのよい教育ができると思うのですが、それがめちやめちやになつて来る心配がありますから、そうなつて行くと、もう教育というものはほとんど成り立たなくなるというふうに私は心配します。  それから先ほども申し上げましたが、先生が生き生きとして創造的で自主的であつて初めてそういう子供がつくれますし、そういう教育界の空気もできるのですが、今まで私が見ておりましても、よい先生というものはみなその逆の、ほんとうにつながり合つて自主的に創造的にやつて行く先生であつたと思うのです。独創的な仕事をして行く、それから仕事を真剣にやつて行きますと、何か実践行動もしたくなる、たとえば私の村の学校の中学、私の学校ではありませんが、その中学には新制中学ができまして七年間経ちましたが、まだオルガンが一台もなかつた、ところが二十八年度の予算で教材費がその学校へ行きましたものですから、オルガンを初めて買つたのですが、子供たちは初めて自分たちの中学校に一台のオルガンを買うことができた、それで父兄も子供も喜んだのですが、そういうオルガン一台もないような学校に勤めている先生たちは、何とかしてオルガンを買えるように、村役場とか、県会とか、国会の方とか、文部省の方とか、さまざまのところへお願いをしたくなる気持が出るのは当然だと思うのです。それから給食の問題にしましても、非常に背の小さい体格の悪い子供を毎日見ておりますと、給食費を増してもらいたいという要求を出したくなると思うのです。それからこの間も私の県でもつて全県下の子供の調査をしたのですが、その中に非常に多かつたことは、学校でもつていろいろのお金を集めるわけです。そうすると五円なり十円なりのお金を持つて来られない子供がある、その子供が大勢の同級生にばかにされて学校に行かなくなつてしまつたという例がたくさんあるのです。そういう姿を見ておりますと、私たちは何とかしてPTAの会費も少なくしてもらいたい、いろいろのものが国なり、県なり、村から子供の方にわたるようにしてもらいたいということを、先生が父兄と一諸になつて、県や村の当局にお願いしたくなるのは当然だと思うのですが、そういう要求をしない先生は、先ほど申し上げたように非常にものぐさで何もしない先生だと思うのです、  そうして現在日教組というものが非常に評判が悪い、私は弁護するのではありませんが、組合運動にはもちろん間違いもありましたけれども、組合運動をする先生方の大かたは、ほとんど熱心な先生でした。やり方については間違いもあつたと思いますが、大体において熱心な先生です。そうして組合運動をいやがる先生たちは、家に畑を持つてつて組合運動をする時間があつたら早く家に帰つて田畑を耕やした方が米が何俵とれるというような計算をする。一緒に運動なんかしなくてもちやんと教材費が来るじやないか、月給も上るんじやないか、だから組合費を払つて夜まで働いて組合運動なんかしない方が得だという先生です。そういう先生に限つて、ほんとうの子供教育は実施しておりません。そういう先生でない先生の方が、私が見ておりましてほんとうにりつぱな先生だと思う。そうしてよい仕事をしている先生だというふうに思うのです。私は校長としましてもそういう先生は学校にほしくないと思つているのです。  それから私は自分の長女が初めて小学校の一年生に出たときに胸がどきどきしたのです。どういう先生に教わるだろうかということでもうほんとうに心配だつたのです。これはどうしてかといいますと、私は二十数年教師をしているものですから、先生によつて子供がどつちへでもかわつてしまう、ほんとうにあぶないということがわかるのです。これは米や麦ですとよくわかりますが、教育仕事というものはわからないのです。先生があなたの子供さんは頭が悪いのですよと、こういうふうに言われてしまうと、お母さんはだめなんです。ところが私ども見ておりますと、そうじやないのです。どの子供さんでもほんとうによくなる、私は自分でもそういう仕事をしましたし、また私の学校の先生たちもやつていますし、また全国のたくさんの学校にそういう仕事をしている先生たちがいるのです。そういうことを知つているものですから、ほんとうによい先生に教えてもらいたいと、こういうふうに思つたものですから、胸がどきどきしたわけですが、そういう私が教えてもらいたいという先生はみなやはり自主的な創造的な先生たちです。そういう先生にだけ私は教えてもらいたいといつも思うわけであります。  ところがこの法案が通りますと、現在でも先ほど申し上げましたような状態でありますから、通つた場合にはもうそういう先生はほとんどいなくなつてしまう、そうして全部の先生がほんとうに遊びに行つてしまうということになつてしまうのではないかというふうに思うわけであります。以上私は実際家の立場から申し上げまして、御参考に供したいと思います。
  10. 辻寛一

    辻委員長 以上で午前中の予定をいたしました四名の公述人の御意見を伺いました。  これより四名の公述人に対する委員諸君の質疑をお許しいたします。午前中大体十二時半ごろで終りたいと思います。公述人の時間の都合もございますし、質疑の通告の方が相当たくさんございますので、簡単に交互におやりをいただきたいと存じます。大体お申込みが九人ございますから、関連はお差控えいただきまして、五、六分の程度でひとつお願いいたしたいと思います。世耕弘一君。
  11. 世耕弘一

    世耕委員 私は五、六分のつもりでお尋ねいたします。まず蝋山先生にお尋ねいたしたい。私も教育に三十年ばかり経験を持つ者の一人でありますが、昔は国家が教育を支配していたということは一応うなずかれる。現在はと申しますと、現在は組合が教育を支配する。これは動かすべからざる事実ではないかと思います。こういうことが正しいかどうかということは論ずるまでもないことでありますが、この点について先ほど日教組の例をとられて、日教組行き過ぎであるということを認められた。その行き過ぎの程度が見解の相違になるかもわかりませんが、どの程度行き過ぎであるか。時間の限定をされたから、私は簡単にしていただく意味において申しますが、日教組一つの形式を見ますると、闘争形式というもの、あるいはピケ・ラインというもの、あるいは監視員を派遣する、こういうような共産党の戦闘組織をそのまま受入れてやつておる。それだから善良であるべき日教組の優良教員がみなおじけづいてしまう。今公述人の二人の校長の教職を持つておられる方もおつしやつたのでありますが、実は日教組の優良な教員諸君が、共産党の分子あるいは共産党員の組織活動にがんじがらめに縛られておる、これを何とかほどいてやらなければならぬじやないかということが、立法の趣旨となつて現われておる、私はかように考えておる。この点について、あなたは一応理想論を先ほどお話になつたわけでしごく同感だと思いますが、もう少しつつ込んでこれをすみやかに除去して神聖な教育に当らしめねばならないと思いますが、その点をお尋ねいたします。
  12. 蝋山政道

    蝋山公述人 今日何が日本教育を支配しておるかということについて、私は日教組が支配しておるとは思いません。やはり日本教育制度に関する法律がありまして、少くとも行政的に支配しておるものは国及び地方公共団体であることは、あらゆる今日の日本教育立法が規定しておるところであります、もちろん教育の自主性というものは教員自体にありますから、それ自身につきまして教員の活動が重要視されておることは言うをまたないことであります。しかし今日日教組教育を支配しておるということにつきましては、もちろん見解の相違があるといたしましても、かりにそうだといたしましても、それをどうして防ぐかということになりますれば、教員自体の自主性を尊重するということだと思います。教員自体の自主性の中には、重要な政治的権利というものの尊重がなくては自主性は得られないと思います。従つて今日の制度でも、教員は魂のない教員になつてはならない、萎縮した教員になつてはならないということから、事情のさしつかえない限り政治的権利を認めたのではないかと思います。その政治的権利を制限する意味において、教育におけるところの日教組の影響力を削減しようというのは、先ほど申しましたように方向が間違つておる、こういうことを言いたいのであります。日教組につきましてかりに行き過ぎがあつたといたしますならば、それを直すものは教員自体でなければならない。組合自体の自主性をもつと強化することにおきまして、教員自体が日教組の行き方を是正するというのが最善の方法であります。また特に文部大臣が五十万教員の前に出てみずから自分の所信を明白にしたということは、一ぺんも聞いておりません。そんなことでは日本の文部大臣といたしましても職責に十分でないと思います。なぜ自分政策なり真情なりを、教育を行つて行かれるところの教員に向つて訴えないのであるか。もちろん日教組も招待しないのかもしれませんけれども、そういう現状を私どもは悲しむものであります。従いまして私どもは日教組が支配しておるとか国が支配しておるとか言いたくない。現実におきまして両方がそれぞれの立場において教育はやつて行かなければならぬものでありますから、私といたしましては、決して抽象論、理想論を言つておるのではなく、日教組行き過ぎは認める。先ほど言つたような三点において反対しておりますが、そういう点について、今日の立法でやつておるのではなくて、別の手段で別の方法でやろうとすることに私は反対をしておるのであります。実際問題としても、教員の自主性を尊重し、政治活動を認めることが日教組をよくすることであると私は考えております。
  13. 世耕弘一

    世耕委員 結局蝋山先生の主張は、理想論に落ちるという結論が出て来たようにしか思われない。それはなぜかと申しますと、寒いからどてらを着ろという議論だ。同時に寒いからどてらを看る以外に障子をしめろという議論だ。あなたの言うのは一方的な議論だ。一方的な議論だからこれ以上私は申し上げません。  次に金久保さんにお尋ねいたしたい。日教組の行方、日教組はかくあるべしということについて、あなたは新聞人だから相当資料をお持ちになつておられると思う。私も相当持つておりますが、今後はかくあるべしということについて知らせていただけばありがたいと思います。
  14. 金久保通雄

    金久保公述人 私あまり材料を持つておらないのであります。しかし私の知つている範囲で申し上げますと、たとえば日教組行き過ぎ考えているような問題の中で、先ほど申しましたが、義務教育費国庫負担法案のときに、日教組が一斉賜暇戦術をとろうとしたわけです。これは、言葉は一斉賜暇というような言葉で表現されておりますが、事実上ストライキというふうなものと私は考えたわけであります。そういうふうな戦術は、教育者としてはやはり相当反省してもらわなければならぬということですね。それからすわり込み戦術というのが、かなり日教組に対する批判として世間で言われております。文部大臣室にすわり込むとか、あるいは夜おそく文部大臣の自宅に行つて会見を求めるとかいうようなことが新聞に載りまして、これは世間ではどうも教師としての態度ではないのではないかというようなことを言つております。私もそういうふうなやり方はなるべく避たけ方がよいというふうに考えておるのでございますが、これはやはり文部大臣なり、文部次官、文部省の幹部の方が、もう少し率直に日教組の人と話合いをするという態度に出ることによつて、そうした日教組の、私が行き過ぎと思われるような態度が解消するのではないかと考えるわけでございます。  ついでに――ついでにと言つては失礼ですが、どうも文部大臣初め文部省の幹部の方は日教組を何か非常にきらつているというか、誤解していると考えるのでございます。一つの例を申し上げますと、私昨年の暮れに文部大臣にお会いしたわけです。いろいろと教育の問題について個人的に意見を伺つたのですが、その際、日教組は今の状態ではいかぬから何とか今方法を考えておるという話がありまして、私も聞いておつたのですが、日教組は非常に容共的であるというようなことを大臣が言われた。私は、なぜ大臣は日教組を容共的だとお考えになるのかということをお聞きしたわけですが、そのとき大臣は、二つの点をあげられました。一つは問題になつております山口県の小学生日記事件の欄外記事であります。これは私も決して適当な指導記事だとは思つておりません。もう一つ日教組の昨年の宇治山田の大会で、大会の会場正面にスターリンの肖像が掲げられておつた、こういうことを大臣は言われる。私は実はほかに用がありましてその大会に出席しなかつたのですが、どうも大臣の言われることが私にはふに落ちなかつた、そんなばかなことはないだろうというふうに言つたのですが、いやあるのだと断定的に言われたもので、私も実は自分の目で見ていないので、その場では不審に思つたが引下つたわけです。あとで私の社員の中でその大会に行きました者に聞きましたし、それから直接日教組の責任者にも電話で聞いたのですが、そういうことは全然ないというお話だつた。早速私文部省の方ヘ電話してそういうことはないのだというふうに大臣に伝えてもらうようにしたのでありますが、大臣がとにかく、日教組の大会の会場の正面にスターリンの肖像があつたと言い、あるいはその後聞いた話では、日教組委員長に対して、お前のところの事務局には毛沢東とスターリンの額が飾つてあるそうじやないかということを大臣が聞かれたそうでありますが、それらも全然誤解であります。これは大臣が直接見たわけではなくて、おそらくそういうことを大臣に教えた人があるに違いない、その教えた人が非常に無責任なので、こういうことから大臣の日教組に対する考え方というものがある程度きめられて来やせぬか、そういう誤解があるということ、これはもう少し文部省と、先ほど蝋山先生も言われましたが日教組としつくりと話す機会をたくさん持つていただけば、そういう誤解はなくなると私は考えておるのです。ですからそういうことによつてもある程度日教組の方もだんだんと反省して来るというふうに考えております。
  15. 辻寛一

    辻委員長 野原覺君。
  16. 野原覺

    ○野原委員 板橋先生にお尋ねいたしたいと思います。先生のお話は、教育政治的中立とはどういうことか、このことに対して先生は、不偏不党である、このように述べられまして、教員である以上は不偏不党というこの良識を持つことが当然である、こういうお話を承つたのでございますが、そういたしますと教育公務員特例法の今回の改正は、御承知のように私立学校教員を含んでいないのでございます。従つて教育政治的中立という先生の御見解から申し上げまするならば、当然私立学校教員も含まれなければならない、このように思うのでございますが、この点に対してはどういうお考えでございますか。
  17. 板橋菊松

    板橋公述人 お答えいたします。御説の通りであります。教員である以上は現実政治に対しては不偏不党でなければならぬと確信しております。それは先ほども申し上げました通り、その点においては国立大学の教員たると公立大学の教員たると私立大学の教員たるとを問わないのであります。しかし国立大学の教員は一方で公務員という身分になつておるのであります。いやでもおうでも国家公務員法の適用を受けなければならぬのであります。地方教育公務員は現在のところでは地方公務員法の適用を受けておりますが、私が先ほど申し上げた通り、教育というものは地域的のものではない、国家の大事業であると考えますからして、地方公務員もまた国家の公務員と同じように取扱つて行かなければならぬ。そこで私立大学の教員の問題でありますが、私立大学教員に対しまして、国家公務員法あるいは地方公務員法に類似するような身分保障的なものがありとしたならば、当然この拘束を受けなければならぬものと思うのであります。また別の考え方といたしまして、日教組のごとき――私は材料を持つておりません、最も権威ある東大の矢内原総長、ここに御出席蝋山さんのお書きになつたものによりますと、政治的行動としては相当行き過ぎておるというのでありますが、もしさようなことが私立学校教員にもありましたならば、いかなる法律をおつくりになつても、甘んじてこれに従わなければならぬということをはつきり申し上げておきます。
  18. 野原覺

    ○野原委員 次に蝋山先生に二点を一括してお尋ねいたします。憲法の第九十九条には「公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と、こう述べておるわけでございますが、私は教育の中立ということは、結局今日の教育日本憲法と教育基本法の上に立つてなされるわけでございますから、憲法及び教育基本法を擁護することだ、このことに尽きると考えるのでございますが、先生の御見解はいかがでございましようか、これが一つ。  もう一点は、教育基本法の第八条第二項には、御承知のように、「法律に定める学校は、特定政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」このように述べてあるわけでございますが、これは「法律に定める学校」でございまして、一般市民としての政治活動は、教育基本法第八条第二項によつて制限を受けていない。ところが今回の義務教育学校特例法の改正によりますと、一般市民としての教員、つまり学校における子供教育に携わる教員でなしに、一般市民としての教員の基本的人権が大きな侵害を受けておる、これは明らかに憲法違反ではないか、このことに対する先生の御見解を承りたいと思います。
  19. 蝋山政道

    蝋山公述人 教育の中立ということについて積極的な基準があるかどうかという問題で、憲法の九十九条の問題をお出しになりましたが、私は必ずしも憲法のその点に限定すべきものとは思つておりません、要するに政治的中立ということは、政治に対して教育が偏向しないということでありますから、これを積極的にきめることについては相当問題があるだろうと思うのです。ただそのうち有力なものは憲法であろうと思います。また憲法の基本精神が民主主義というものならば民主主義であろうと思います。現に文部省民主主義に関する教育の指導要綱というものをつくつております。そういつたようなこともやはり一つの基準になると思いますが、こういう政治的中立というようなことを法律的にきめるとなると非常にむずかしいと思うので、せいぜい教育委員会法が不当な勢力の排除といつたような抽象的な規定にとどめておるというところがむしろ賢明なのであつて、積極的に中立についての基準を設けると危険になると私は思う。今お説のような点は有力なる解釈論の一つになるのではないかと思います。  次に教育の市民活動の問題でありますが、要するに教員は御承知のように市民と同時に教職員という一つ公務に従事しておりますから、市民活動の限界と教職員活動の範囲とがどのようにマツチするかということが、まさに問題であろうと思うのですが、現行制度におきましては、やはり市民活動というものを認めることが必要である、市民活動をできるだけ公務にさしつかえないようにするというような精神に基いているのではないかと思うのです。それは教職員というものが政治教育をいたしますときに、いわゆる良識ある公民を養成するための政治教育は、政治に対する市民としての実践がなくては、とうてい生命のある、魂のある教育はできないのです。そういう点から教職員が選挙活動などをいたしまして、不当な影響を与えるようなことがないならば、できるだけその範囲にとどめて、あとは大幅に市民活動を認めようというのが、現行制度の精神であろうと私は思う。これはりつぱな精神であり、過去の日本の経験に徴してこのような立法がなされたと思うのですが、今回の法案はそれをやや逆転させるおそれがあるという意味におきまして、私は反対をしておるのであります。
  20. 辻寛一

    辻委員長 竹尾弌君。
  21. 竹尾弌

    ○竹尾委員 蝋山先生にひとつお尋ねいたします。私は先生の最近書かれた、学問上じやなく、この問題に関するものをたいてい今読ませていただいておりますが、それで・・・・・・。
  22. 辻寛一

    辻委員長 竹尾君、ちよつと御発言中ですが、質問は蝋山先生ですか。蝋山先生は一時近くまでおられるというお話ですが、昼前にお帰りにならなければならない御予定の先生がありますから、あとでやつていただきたいと思います。
  23. 竹尾弌

    ○竹尾委員 了承いたしました。
  24. 辻寛一

    辻委員長 相川君。
  25. 相川勝六

    ○相川委員 私は齋藤先生のお話と金久保先生のお話に関連して質問いたします。齋藤先生のお話は、私率直に言つて胸を打たれたのであります。あなた方のお気持を十分発露できるようにすることが、この法案の精神だと思つておりますが、大分この法案趣旨が、日教組あたりの事実と違つた逆宣伝でもつて、迷わされておるということを悲しむものです。われわれは憲法の精神によつて日本に自主性のある、創造力のある活発なる教育が行われることを希望して、この法案をつくつて審議しております。大体日教組の、精神は、平和教育言つておりますけれども、どう考えましても、ソ連は平和勢力であつて、アメリカは侵略勢力であるという断定のもとに立つておるのであります。そうして至るところに出ておる事実は、ソ連のような共産教育をやることが、日本の平和教育を実行するゆえんだという考えに立つておることが、われわれの根本的に反対するゆえんであります。教育は、ソ連によらず、アメリカによらず、あらゆる方面のよいところはとり、悪いところは捨てて、自主的、創造的な教育であることが教育の精神だと思つている。この点をひとつしつかり御研究願いたい。そうして現在は、学校の先生が自主的に、創造的に、活発な教育をやることを希望いたしますが、日教組のそうした偏向的な、ソ連一辺倒的な考えをもつて、組織的な力をもつて学校の先生に、身分の上においても、あるいはその他の点においても、一種の威圧を与えて、団体の組織の力をもつてその精神を無理やりに押しつけておる。この桎梏をはずそうというのがこの教育法改正の精神であります。従つてこれさえ除かれればわれわれの目的は達する。どうか先生方の団体が本来の面目に帰つて、憲法の条章に従つて自主的、創造的の教育をやつてもらいたいということなんです。従つてこの法案ができましても、今おつしやつたようなオルガンがないから買つてくれとか、あるいは給食の問題をこうしてくれとか、そういうことは御自由でございます。この法案が出てから日教組が出した出版物というものは、皆様方のあらゆるそういう運動が封殺されるということを宣伝しておりますが、学校教育の上において、日教組のこの偏向的な指導精神によらずして、皆様方が御自由にやられることは、今まで以上におやりになつてけつこうであります。
  26. 辻寛一

    辻委員長 相川君、御質問の要点を・・・・・・。
  27. 相川勝六

    ○相川委員 学校教育の自主性の精神は、十分生かすつもりでわれわれ考えております。どうか法案の真精神を御理解願いたいと思いますが、この点についてどういうふうに金久保さん及び斎藤さんはお考えになりますか、御質問いたします。
  28. 金久保通雄

    金久保公述人 今のは私御意見として承つておつたつもりでおるのですが、その創造的な自由な教育をやるんだという点につきましては、まつたく同感であります。ただ、今の質問者の方は教職の経験がおありかどうか存じませんが、私どもの仲間でよく言われていることで、これは先ほどの校長先生の公述にもございましたけれども、教員の大体八割くらいは、これはたいへん教員を侮辱した言葉でありますが、サラリーマン教師だというようなことをよく私どもは言います。それから学者によりましては、九割くらいがそういうサラリーマン的な教師だというふうなことを言われているのでございます。そうしたことは、先ほど校長先生がいろいろ具体的な例をおあげになりまして説明されたから、よくおわかりになつたと思いますが、従つて、たとえば人間として骨のない教師日本ではたくさんいるのでございます。それはおそらく戦前日本教育のあり方、そういうものからもたらされた、非常に不幸な結果だと私は思つているのですが、こういう教師を解放するということが、今日本教育にとつて一番大事なことであると思うのであります。従つて今申されたように、創造的な自由な教育を行うためには、教師を創造的な自由な人間にするそのためには、やはり少しくらいの行き過ぎがあつたからといつて、ここで手足を縛つたり、あまり口をふさいでしまうようなやり方は、少くとも適切じやないと私は考えるのであります。
  29. 齋藤喜博

    ○齋藤公述人 私は、教師の解放というお話がありましたが、日教組の運動によりまして、初めて幾分なりと今まで教師が解放されて来たと思うのです。それが今度の法案によつて、また元へもどるというふうに感ずるわけです。それから今の委員さんのお話でもつて、オルガンの問題などの運動は、幾らしてもよろしいというので安心したのでありますが、しかし安心できない点もあると思うのです。先ほど私が申し上げましたように、教師というものは、そういうお話がありましても、この法案が通りますと、それをやるどころでなく、百も二百もずつとあとの方へ下つてしまうというのが日本教員の姿ですから、そういうお話があつても全然できなくなつてしまう。これは私の問題で恐縮でありますが、これほど皆さん日教組という問題を取上げて来ておりますけれども、今まで先生たちはほんとうにいざりのようにちぢかんでおりました。何もしないで机の上にこうやつているというような状態だつたのですが、だんだんその教師が解放されて来ると、今まで庭で休み時間に子供たちがみな地べたにすわつてつて、活発に子供らしく動いていなかつたのが、非常に生き生きと動き出して来、勉強もどんどん自主的にするようになつた。それだけに先生たちもおそくまで指導して行くというようなことで、ほんとうに女の先生なんか美人になつて来たのですが、そういうことが初めて教育のもとになるのじやないかと思うのです。
  30. 辻寛一

    辻委員長 くどいようでございます。が、きわめて限られた時間に、できるだけ多くの委員各位に御質疑を願いたいと存じますから、質疑応答ともに、要旨をきわめて簡単にお願いいたしたいと思います。松平忠久君。
  31. 松平忠久

    ○松平委員 板橋先生にお伺いしたいと思います。教育基本法その他憲法の精神によりまして、教育中立性を守る必要があることはだれも承認をしておるわけでありますが、この教育中立性を守らせるその手段について、現在も議論の的になつておるわけであります。そこで今度の二法案は刑罰主義等を伴つた手段、方法によつてこれを確保して行こうという政府考え方であるわけでありますが、この刑罰法という行き過ぎたと思われる手段によつてやるときにおいてはあまりに犠牲が多過ぎる。先ほどからもこの法案反対の方が述べられておるようなぐあいに、いろいろ無気力であるとか、あるいは自主性を失うとか、創造性を失うとか、犠牲が出て来るわけでありますが、この点についてどういうふうにお考えになるか。これはやむを得ぬ、あるいは何か別の方法をお考えになつておるのか、その点をお伺いしたいと思います。
  32. 板橋菊松

    板橋公述人 お答えいたします。私は行き過ぎたことをやつた者には行き過ぎた制裁を加えることもやむを得ないと思います。会社の重役が会社の収入になるべきリベートをもらつて私腹を肥やしたというような場合には、徹底的にやつつけていいと思うのであります。そういう意味におきまして、日教組が全国的に現実共産主義の走狗のごとき働きをしておる点につきまして、今度の法案に刑事的制裁を加えることは当然のことだと信じます。
  33. 松平忠久

    ○松平委員 もう一つお伺いしたいのです。これも板橋さんについでに伺いますけれども、共産党は日本の今日の憲法のもとにおいては合法政党として認められておる党であります。従いまして、その共産党の行動が暴力革命に類するような事案があつた場合においては、破防法その他によつて取締ることかできる。しかしその他のことは全部合法的に認められておることであつて従つてかりにそういうことがあつたとしても、全部これに制裁を加えるということは今日の法制ではできないことであります。けれども、その点についてはあなたは一体どういう思想を持つておられるか、お伺いしたいと思います。
  34. 板橋菊松

    板橋公述人 私は共産党という言葉も一言も使つておりません。日教組共産主義のまねをして、いろいろとかつてなまねをしておることを申し上げたのであります。
  35. 辻寛一

    辻委員長 吉田安君。
  36. 吉田安

    ○吉田(安)委員 ごく簡単に読売の金久保さんに一点お尋ねをいたしたい。あなたのお説は、大体その前段のことは私よくわかりますが、以前は教育品が、あなたのお言葉で言えば、まつたく中央集権的な教育の方法であつた。もう一つ言いかえるならば、全体主義的な教育の方法であつた。戦後はその教育が住民の手に渡つた。すなわち地方分権という言葉を使つておられたようでありますが、かりにそういう言葉を使つてけつこうだと思いますが、そしていわば委員会の手に渡つて来た。こういう点は私もまたよくわかるのです。今日はまつたく地方分権的な自由な教育でなくてはならぬことはおつしやる通り。私特にわかり切つたことをあなたにお尋ねいたすことは、他の学者、先生方の著書なり言論というようなものも非常に影響することが大きいのでありますが、報道陣のあなた方の御意見はより以上に私は各方面に影響すると思うのです。それでお尋ねいたしますが、中央集権的な教育から地方分権的な、いわゆる住民の手に渡つて地方教育委員会の手にそれが渡つたといたしましても、その自由主義に基く地方分権的なる教育のあり方が何らかの手によつてゆがめられ、あるいは虫ばまれて来る。そしてそういう手ではどうにもできなくなつたというような場合には、やはりそれは国家の立場から考えたならば、国家が手を差延べてこれを保護し、育成せねばならぬと私は考えるのでありますが、その点に対するあなたのお考えをお尋ねいたしたいと思うのであります。
  37. 金久保通雄

    金久保公述人 教育が実際に虫ばまれておる例を私たくさんは知らないのでございますが、文部省の方の発表によりますと、全国的に見て三十数件あつたというふうに聞いております。私真相は知りませんが、かりにそれが事実だとしましても、日本公立学校は小、中学校合せて約三万五千ございます。三十五件ということになりますと、それは一千校に一件というふうな割合になるのでございます。そういう虫ばまれておるというような事実がございますれば、もちろんこれは何とか是正して行かなければならぬ。そのためにはたとえば教育基本法というものがありますし、基本的には憲法があつて、国家的な規制が行われておるわけであります。それがそうした憲法なり教育基本法があつても、なおかつそうした芳ばしくない実態が出て来るというふうなときにはどうするか、こういうふうな法律が必要じやないかというふうにお聞きしたわけでございますが、私は最近いろいろの事情を聞いておりますと、たとえばつい東京の話ですが、今赤い教育というようなものがあつたとします。かりに赤い教育をやると、すぐお父さんやお母さんの方に響いてしまつて抗議が来る。現に杉並区のある小学校の校長先生に私最近お会いしたのですが、あなたは教育中立性というものは、教室の中の活動の問題だから、外からはなかなかうかがい知れないと言われるけれども、かりにそういつた片寄つたことをすればすぐわかつてしまつて、これは私どもさんざんやられるのだ、今のお父さんやお母さんは非常に賢くなつて来て、われわれはできないというのです。従つてそういうふうなことで直して行くことが私は民主的な方法じやないかというふうに考えるわけです。
  38. 吉田安

    ○吉田(安)委員 そういうことも一つの方法であるとは思います。御承知の通りに戦後長い間日本は占領されて、辛うじて独立国になつて数年を出ない今日なんです、それで思想的には非常に混乱をしておつて、これをまじめに教育の自由というようなことでやつて行くことは、ほんとうに困難だと私は思うのです。そういうことからこうした教育二法も出ましたでしようし、あるいは教育基本法のごときものも出たと私は考える。ところがそれが困難な時代でありますが、いろいろな例をとつて言えば、外部から赤の教育が駸々乎として入りつつあるような気がするのです。だからおつしやるように理想としてはそれはやはり住民の手にわたつた自由主義的なゆがまない、ほんとうに平和なまじめな穏やかな教育をやつて行かなければならないのだけれども、そういうことではどうしてもいかないというときに、地方教育委員会もあるから、それによつてそうした悪い波をさしとめ、防がなければならないが、それができないんだ、こういうところに今は来ていやしないかと私は思います。だから理想的に言えば、地方にまかしておいてもいいだろうけれども、それはあぶなくてどうしても本来の目的が達せられないという状態のときには、やはり国家はこれに手をのべて、これを何とかりつぱに、行き過ぎがあれば引きもどすというようなことで育成をするということに努力をしなければならぬと考えます。その点についてはあなたのお考えと大体において同様だと考えます。またさようなお言葉と私聞いております。一例を申し上げますると、ある県のある学校ではどうしたことか、ある先生が自分の教室に、これは御承知だと思いまするが、憲法九条を大きく書いて張つて、そして毎朝一定の時間になると生徒を集めて、それを何べんも何べんも繰返し繰返し読ませる。そして読ませるだけならいいけれども、それによつて現吉田内閣はどうであるとか、あるいはこれによつて軍備というものは一切まかりならぬ、それを今の政府は軍備を盛んにやろうとしておる、そして現内閣を誹謗する、そうして朝一ぺんならいいけれども、昼と午後にまたやる、だから教育委員会では見かねて、再三この人をないしよで呼んで、いわゆるこのごろのあの疑獄事件で検察当局が某君をないしよで某所に呼んで調べたというようなかつこうで、その人の名誉を重んじて、そうしてその人には、そういうことはどうだろうかということを再三再四反省を促すけれども、どうしてもやめない、しかたがないから委員会は村民大会を開いて、その村民大会の決議においてそれを差しとめたけれども、なおやめない、とうとうこれを解職した。そうするとその人は公平委員会にかけて、赤旗がとり巻いているからもう委員会はほとんど進行ができないような状態だ、こういうのです。そういうのをやはり教育は自由でなくてはならぬという名のもとに、国家も政府もそれをほつておいてよろしいかということが、小さい話のように見えますけれども起つて来る。ここに私は今回のこの法案のねらいがあるのだろうと考えるのです。しかしそういうことをここで言うておりましても議論になりますからこれは申し上げません。  さらに第二点としてお尋ねいたしますことは、さいぜんのあなたのお話の中に、教育法案について、これは間違いだとおつしやつたようでありましたが、それが私の聞き違いならば幸いだと存じまするが、教育は先生と生徒の間の結びつきでなくちやならない、しかるにこの中立確保法律案のごときは、その先生を陽動するものを罰するということにしておるが、これは間違いだというようなことのお言葉のようでありましたが、これは私の聞き違いであれば幸いでありまするが、この点、大事なあなたの御発言でありますから、もう一ぺんお尋ねをいたしておきたいと思います。
  39. 金久保通雄

    金久保公述人 今の点で、私の間違いだと言いましたら表現が悪いので、教育中立性というものは、私はやはり教室の中における教育というものに関連した問題だと思うのです。今度の教育中立性確保に関する法律というものは、教室活動の中は一応問題にしないで、先生を外から団体を通じて教唆扇動する人を取締ろうということですが、文部省の方の御説明によりますと、間接的に教室の中の教育政治的中立性を守ろうということだろうと思うのです。しかしこれは長くなりますから申し上げませんが、その先生が外から教唆扇動されまして、その扇動によつて子供に偏向的な教育をやる先生だというふうにお考えになつて、こういう法律が成立つたんだろうと思うのですが、実際にその教室の教育の面における政治的な中立性確保するということは、教室の中の活動というところまで掘り下げて行かなければ私は目的を達することができないと思うのです。それでかりに教室の中で五十人の生徒に対して一人の先生がいるとします。私はよく言うのですが、非常にこの先生が片寄つた考え方を持つた人で、非常に巧妙に世間にわからないような方法でもつて片寄つた教育をかりにやつたとします。これはだれにも発見することはできない、従つてほんとうの意味教育政治的中立性というものは、先生の良心に期待する以外にないということを私考えるのでございます。そういう意味で先ほど申したわけです。
  40. 高津正道

    ○高津委員 齋藤先生にお尋ねいたしますが、あなたは先ほど教員組合の活動に熱心な人は教育に熱心だというお話をなさつたが、私は自分も相当教員と交際もしておりますが、まつたくそれに同感であります。ピアノの話をなさいました。教員組合の人は、ピアノがなければピアノの設備の充実のために一生懸命に熱心に運動をする、こういうことを言われたのでありますが、私は日教組は施設の完備あるいは設備の充実あるいは教育研究大会あるいは教師の待遇改善というようなことに大きい功績があると思うのです。日教組は今まるで板橋公述人、いな板橋検事などから被告席にすえられておりますが、日本郵船の浅尾社長は、飯野海運の俣野健輔氏の功績をほめて、海運界に大功績があつたと、こういうことを言つているのを読んで驚いたのでありますが、私は日教組は被告席にすえるべきものではないと思う。この法律が通つたならば、待遇改善については日教組が弱ることは間違いないことで、運動はできなくなつてしまつて待遇改善はできない、インフレになれば政府でも資本家でもベースを上げてくれるというものではないのであります。要求しなければ上げるものではないですよ。大学の常務理事であつてもそうでしようが、管理者として、教師が黙つておつたらあなたは月給を上げやしないでしよう。それだからこの法案がもし通れば、教員の組合活動というものがなくなるのですよ。そうしたらもう全国の五、六十万の教師の待遇というものは全然めちやめちやになつてしまう、こういうことは私は感じますが、あなたは同感をしてくださるかどうか、これが一点です。  第二点は蝋山先生にお尋ねをしますが、現在の教師は憲法に基いた教育基本法、そうして権柄づくに与えられた教科書、それによつてコース・オブ・スタデイとか、いろいろそういうふうなものによつて平和教育をやつておるのであります。それを憲法を改正しないでおいて、それを飛び越えて、それらの運動を、平和教育は赤だというようなことを一部の人がとらえて騒ぎ立てるのであります。私はこういう学校教師のやつておることは、五人や十五人の例外は別ですが、大体はそれが正しいのだと思うのでありますが、先生はどのようにお考えでありましようか。  それから第三に、板橋先生にお尋ねいたします。日教組は共産党の手先になつている、共産党の走狗だ、こういうことを言われるのでありますが、われわれの理解によれば、共産主義とは暴力革命を奉ずること、独裁政権を主張すること、ソ連あるいはコミンテルンの指導に対して百パーセント服従すること、国会の活動を過小評価して、院外闘争というか直接行動に百パーセントの信頼を置く、象徴天皇をも否定する、これらの要素がそろつた場合に共産主義だというのであろう。日教組の場合は大よそそういうようなものではないのでありますが、あなたのラフな観察によれば、日教組は平和を唱える、日本共産党も平和を唱える。日教組はベース・アツプを言う、日本共産党もベース・アツプを言う。共産党は国際問題は話合いで行くんだというが、日教組も話合いで国際間の問題を解決せよと言う。だから日教組は共産党の走狗だ、それはあんまり乱暴ですよ。観察が、……(「学者じやないよ」と呼ぶ者あり)いや、学者でなくても学者であつてもですよ。それは日教組は共産党員が何人かおりましよう。インテリの集団ですから、五、六十万のどこかのインテリをすくえば、共産党員は五百や七百はおるかもしれません。日教組の中に齋藤国警長官は六百はおると言うが、それだからといつて日教組を弾圧する口実には絶対にならないと思う。あなたは保安隊の中に何か疑獄があれば、保安隊を全部取締るような、そういう法律をこしらえることがいいと思われるのですか。あなたに対する質問は二点ですよ。保安隊全員を取締るための法律をつくるのか。この三人の公述人に、言葉は足りませんがお尋ねをする次第であります。しかしいろいろ教えられるところは多かつたですよ。
  41. 齋藤喜博

    ○齋藤公述人 私に対します質問につきましては、全面的に同感でございます。日教組はいろいろ間違いもあつたが、私はやはり教育界に大きな功績を残したと思うのです。いつでも新しく世の中が進んで行く場合には間違いもあるのでありますが、あるくらいでなければ進んで行けないと思う。そうして日教組はいろいろの点で反省しておりますから、それでよいのだと思うのです。私の学校などを見ましても、先生たちがいろいろ新しい創造的な仕事をしますと、時に間違いもあります、失敗することもありますが、私は構わずおくのです。そうしますと、時がたちますといつでもそれをきちんと直して高い段階へ進んで行きます。そうして高い次元から間違いを直しながらまた次の次元に進んで行きます。先生たちもそのことをちやんと自覚しております。それからまた私は校長の立場から、教員が組合運動をするのやはり教師の良心だということを先ほど申し上げましたけれども、お母さんでも自分子供がけがをしてあるいは病気になつて医療費がないという場合には、やはり自分の一家の主人なら主人に要求すると思うのです。それをしない教師というのは、よほど鈍感な良心のない教師ではないかと思うのです。
  42. 蝋山政道

    蝋山公述人 平和教育についてどう思うかというような問題でありますが、たまたま憲法第九条の条項との関連がありますので、この問題は公立学校の教職員の場合についてどういう教育をしておるか知りませんが、私ども大学教育におきましても、多年平和教育については非常な苦心をしております。すなわち平和問題を学問的に研究することと、その場合において自分がどの程度信念を持つかということ、さらに現行の日本憲法もしくは時の政府政策がどうかというような三通りの問題があるのであります。大学教育におきましては、教師としては十分注意をして、その点を学生には理解させておるわけであります。これが一般社会科の教育などにつきましてどのように取扱われておるか、事実は詳細には知りませんが、非常にむずかしい問題だと思います。しかし私は、教育というものには、ある程度学問的な知識並びに信念、そうして現行の憲法、制度等に対するいろいろの要素をみな含んでおると思うのであります。そうなりますと、そういう場合に信念を持つて教師が平和憲法の趣旨を徹底せしめるべく生徒に教えることがあるのは当然ではないかと思う。ただその場合、それがたまたま特定政党の政綱なり政策なりと一致したというような場合において、この法案で問題になつておりますようなことと混同されるおそれがないかというような点につきましては、この法案があつてもなくても、教師としては十分に注意をしなければならぬことである。すでにそれは教育基本法第八条第二項で示されておりますが、これが十分に徹底していないということから、またそこに何らかの濫用があるということから、こういう法案をおつくりになつたのではないかと思いますが、これが私は間違いだと思う。それは非常にむずかしい問題でありますから、教師のこれからの指導訓練によつてやるべきことであつて、逆にこういう法案を出してつくつてしまいますと、平和憲法の趣旨というようなものと、その人の信念と、学問的の知識が全部混同されまして、一律的に、外部から見て、一政党の宣伝をするのではないかというふうに取締まられるおそれがありまして、自己の信念を持たなくなる、学問的知識を持たなくなるような先生が出て来るおそれがあると思います。こういう法案方向については私は疑問を持つておるのであります。
  43. 板橋菊松

    板橋公述人 高津さんにお答えいたします。高津さんと私とは何十年来の昔なじみで、社会革新については一脈どころか、何脈も相通ずるものがあるのでありますから、話せばよくわかるであろうと思います。(笑声)私は先ほど松平さんのときでしたか、申しましたが、高津さんに、私が共産党と言つたように聞えて恐縮しております。私共産主義の手先と言つたつもりでございましたが、(「それも同じです」と呼ぶ者あり)同じですか。(笑声)共産主義のことは高津さんの方が十二分に研究していらつしやいますので、私がかれこれ申し上げても、何でもラフだラフだ、(笑声)こう言つて片づけられてしまいますから、とやかく申しません。共産党は合法的な政党であります。しかし国民教育不偏不党という原則から申しますと、その共産党に片寄るということは、すでに教育政治的中立を失つているものだと思うのであります。しかし共産党でなく、共産主義と共産党を同じだと言われると、共産主義について相当御研究になつておる高津さんのお言葉とも思えないのです。私は共産党と共産主義とは全然違うと思うのであります。一方は合法的政党であり、一方は共産主義というものでありますので、必ずしも同じでないと思います。しかしながら今の日教組が全面的にやつておるあのやり方が、共産主義者のやり方と大体同じようなやり方だと思うのでありますが、ここでは時間の制限がありますから、昔なじみとして、そのほかのことは高津さんの御想像にまかせます。それからまた保安隊の中に一人何かあつたならば、全部の保安隊を取締れというのかというお言葉でございましたが、・・・・・(高津委員「この法律がそうなんですよ。」と呼ぶ)この法律はそうだと言われるが私はそうだと思わないのだ、高津さんはそうだと思つておる、私はそうだとは思わないのだ。その保安隊の中に一人あるから保安隊が悪いというのは、これは保安隊の問題であつて、今の日教組に共産党の者が何人おるとか、共産主義者が何人おるとか、そういう問題でなくして、今までの動きが全体的に見てわれわれとしては黙つておられないから、それを取締るための法案がけつこうでございますと言うのでございます。
  44. 坂田道太

    ○坂田(道)委員 齋藤先生にお伺いします。例の偏向教育の例といたしまして、山口県の小中学校の日記が問題になつております。あの欄外の記事につきまして先生お読みだと思いますが、こういう教材というものは現場の先生としていいものであるか、あるいはこれはやはり一つの偏向教育で、こういう取扱い方はよくないのだというふうにお考えになるか、その点が第一点でございます。それから先ほど、学校の先生方が従来の教育においては非常に無気力であつたというようなお話があつたのでございます。たとえば最近に起りました岩手県の一斉賜暇にいたしましても、あるいは北海道の一斉賜暇にいたしましても、あるいは近く行われんとしている十五日の振りかえ授業でありますか、私らから言わせれば一斉賜暇だと思いますが、こういつた賜暇というものを日本教職員組合の指令によつてやるという場合に、末端の先生においては、それはよくないとお考えの人もあるかもしれないにもかかわらず、これを強制しようということは、われわれといたしましてはどうしても納得が行かないのでございます。この点についてどういうお考えを持つておられるか。よく日本教職員組合の方々は、われわれは教育を守るんだ、あるいは子供を守るんだ、こう言われるのでございますけれども、とにかく子供義務教育を受ける権利を持つておる、その持つておる子供の権利を蹂躙して、教壇を放擲するということは、私は教師としてあるべき姿ではないと思うのでございますが、現場の先生としてどういうふうにお考えになつておられるか、斎藤先生についてはそれだけでございます。  蝋山先生について一点お尋ねをいたしたいのでございます。日本教職員組合でこれまた教師の倫理綱領というものをつくつております。その中に教育者は労働者であるという規定をいたしまして、いろいろの説明を加えておりますが、これはいわゆる労働者という一つの階級性を代表し、階級性を主張しておるのでございます。私どもの考え方からいたしますと、学校教育をやる教職員というものはやはり国民全体に対する奉仕者でなければならない、そういう考え方からいたしまして、私は教育者の倫理綱領としては適当なものでない、あるべき姿ではないというふうに考えますが、蝋山先生はいかがお考えになるか、この一点をお聞きいたしたいのでございます。  それから金久保さんにお尋ねをいたしたいのでございますが、金久保さんは先ほどその前段におきまして、新教育というものの眼目は教育政治から切り離すんだ、こういうことを申されたので、私たちも同感でございまして、教育中立性確保するということは、あらゆる政党、特にそのときの権力者である政府、与党というものからの不当なる支配を排除するという意味で、この法案が成立つておると私たちは考えておるわけでございます。ところが現在の日教組の状態というものは、この五十万の、大部分の善良な先生の意思を無視し、あるいはいろいろの考え方を無視いたしまして、いわば資金関係におきましても左派一辺倒、政策の点におきましても左派一辺倒、あるいは共産党的なスローガンというものによつて貫かれ、いわばこの組織を政治的に利用して、自分たちが政治家になる、自分たちが共産党や社会党左派になつていろいろなことをやる一つの足場にこれを供しておる。いわば政治のしもべにこれを使つておる、こういうふうにわれわれは考えるのでございますが、こういう点について金久保さんはいかがお考えになるか。しかも先ほど、中国の例あるいはソビエトの例をおとりになつて、ああいう全体主義的な国家においては教育政治のしもべになるということも、実は私も同感でございますが、ところが「冬の友」なりあるいは「山口日記」なり、私たちが偏向の事例として取上げております中には、アメリカに反対し、誹謗し、そうしてソビエトあるいは中国を礼讃しておる。私は礼讃することはよろしい、礼讃するところがあるならしてもよろしいと思う。しかしあなたがおつしやるように、根本的には全体主義的な国であつて、そうして一方の思想なり一方の考え方を押しつけようとしておるのが中共の考え方であり、その思想に反対する者はこれを粛清しようというのが中共の教育政策であります。こういう根本的な教育政策を持つた中共というものを取出して、ただ無批判にこれを礼讃するような教材を取入れることこそ、あなたの最初考えておられました考え方とまつたく反したところの、やめなければならぬ事態が今日本国中に発生しておる、こういう現実面に立つてわれわれはこういう法案を出さなければならない、こういうふうに考えるのでありますが、日教組に対するあなたの、私が今申しました点について御見解を伺いたいと思います。
  45. 齋藤喜博

    ○齋藤公述人 「山口日記」の問題でありますが、私は現物は見ないのですけれども、新聞にありました写真などによりまして知つたのですが、あの「山口日記」は、いろいろの材料を提供しまして、中共の問題もあげる、資本主義の問題もあげるというふうにあげまして、子供たちが両方のことを知つて、その中で考えて行くという立場をとつておるのではないかと思うのです。私は教育は、どの方面のことでも、ある事実を全部あげて、そうして子供たち考えさせるということが大切なことではないかと思つておりますから、その意味において資料をたくさん出して考えさせるということが必要なことだと思うのです。  それからもういつ、「山口日記」のような学習帳とか日記帳というものを先生たちが自分たちの教えている子供たちに対してつくつてやる、そういう努力をする先生たちに私は敬意を捧げたいと思うのです。  それから一斉賜暇の問題でありますが、こういうことがありました。昨年ですか、私の方の郡で一斉早退をやるということがあつたのですが、いつでも日教組が一斉早退とかそういうふうな運動をやる場合には、各学校から郡に学校意見を持つて集まる、郡のまとまつた意見というものを県に持つて行く、県の意見日教組へ持つて来て多数決でいつでのきめるわけです。その一斉早退のときにも、郡全体の大会でもつて論議されまして、多数決でもつて一斉早退をやるということになつたのです。私たちの学校の先生たちは、非常に反対したそうです。そして帰つて来たのでありますが、反対したが多数決で決まつたときに、全部そろつてくれなければ困る。ここで約束したのに、その日になつてやらないというずるい先生がいるということは困るから、そういうことだけは絶対よしてくれということを発言して来たそうです。さあ実際となると、一斉早退はやらないというわけです。そこで先生たちがやらないというのでは、私は校長の立場からそれは困る、全部一斉早退をしてくれというので、私がけしかけてしまつた、扇動したわけです。それはなぜかと申しますと、全部のところで約束した、そして多数決でもつてきまつたことを守らない先生、そういう先生は子供に約束を守れという、そういうことを教えられないと思うのです。だから私は自分の先生に約束を守つてくれ、こういうふうに申したわけであります。  それから一斉早退とか一斉賜暇というようなことは、できるだけ私もやりたくありません。ただいまお話がありましたように、ほんとうに子供がかわいそうですから、私もやりたくないし、先生たちもだれもやりたくないと思うのです。先生たちは、先ほど申しましたように、みんな非常に弱いのです。また子供が非常にかわいいのですから、やりたくないのですけれども・・・・・・(「日教組の圧迫だ」と呼ぶ者あり)圧迫じやありません。決議によつてやるということは今申し上げました。それともう一つは、いろいろの手だてをその前に尽していると思うのです。これは金久保さんからも出ましたが、今度の問題につきましても、日教組としましても、PTAとしましても、校長会としましても、教育委員会としましても、みんな手を尽しております。それがいよいよここでもつてこの法案が通るか通らぬかという問題になつているのです。いつでもそういう一斉賜暇とか、一斉早退というふうなことは、ほんとうに先生は子供に対して忍びないが、自分たちがたいへんだという場合にやるのですから、そういうときには私はしかたかないのではないかと思うのです。それからもう一つは、それをやる場合にも、先生はいつでも土曜日の午後授業をよけいするとか、一週間の時間数を五時間のところを六時間にするとか、補充を必ずするというそれだけの良心は持つてつていると思います。
  46. 蝋山政道

    蝋山公述人 日教組の倫理綱領の、教師は労働者であるという日教組の公式解釈につきましては、詳しくしておりませんが、公務員の場合でありますと、教育を通じて全体に奉仕するという大きな原則が掲げられておると思うのです。しかし労働者という意味を、必ずしも階級意識を持つた労働者という哲学をとる必要はないと私は思うのです。その意味におきまして、この労働者という意味は、要するに教員もまた賃金労働者とひとしい俸給所得者である。その意味において、俸給その他待遇の改善等について努力しなければならないものであると同時に、労働ということを尊重せよ――何も世の中は資本家だけが偉いのでもない、権力者だけが偉いのでもない、労働をする者がやはり尊重せられなければならないというような考えで、論理綱領に入れたのじやないか。もし階級意識を持つた、いわゆる階級的労働者という意味ならば、おそらくこれは間違いであろうと思いますが、そういう考えを持つてつても、われわれはそういうふうに見る必要はないと思います。
  47. 金久保通雄

    金久保公述人 日教組の活動について、先ほどからいろいろな問題が出ているわけですが、私先ほど申し上げましたように、たとえば日教組特定政党を支持して、それに選挙資金を出してやつていることはどう思うかというふうなことですが、日教組といたしましては、たとえば日教組の今まで幹部をやつておつた人が、国会に議席を持つというふうな例は、今までいろいろあつたのでありますが、昨年秋の代表者会議におきまして、この問題もかなり反省されております。代表の中から、われわれ日教組幹部は、もう国会議員に立候補なんかやめようじやないかというような話まで、かなり強く上つております。そういう意味で、日教組自体は非常に深刻な、真剣な反省を本部はやりつつあるというふうに思つているわけであります。それで日本教育に、しんしんとして共産主義が入つて来ているというふうなお話ですが、私はそうは思わない。むしろ先ほど校長先生のお話がありましたように、まだまだ全体としたら逆でございまして、骨のない無気力な、使命感も情熱もない教師がたさくんおつて、そういう教師の心をゆさぶり起すことが今最も大切な時機じやないか。従つて一部あるいは山梨県とか、あるいは奈良とか山口というふうな、ほんのわずかな例を取上げて、それで全体を規制するというふうな今度の法律的措置には、やはり私は賛成できないのでございます。
  48. 辻寛一

    辻委員長 辻原弘市君。
  49. 辻原弘市

    ○辻原委員 簡単に金久保さんと蝋山先生に質問いたします。金久保さんは新聞人とされまして、蝋山先生は教育者として、教育に対するいろいろな意味での長い御経験をお持ちになつていると思いをす。同時にまた教育に対しては、長い目でいろいろ御観察なさつていると思いますので、私は次の点について簡潔に承りたいと思います。  と申しますのは、今日中立性の問題が論ぜられることは、これは私は非常に重要な問題であると思うと同時に、この問題に対する考え方の基底を誤つてはならないと思うのでありますが、その意味で、今日の日本教育法規の中で、重ねて強調している部面を取上げてみますと、私はこれに尽きるのじやないかと思いますが、それは基本法の十条、委員会法の第一条に、不当な支配に屈することなくという言葉が、同じ内容と同じ用語でもつて規定されております。ここに書かれたゆえんのものは、単なる抽象的規定ではない、こう私は考えているのであります。そこでお二方の長い御経験の中で、一体この二つ法律がここに特に重ねて強調しているゆえんのものはどういう意味であるか、教育が不当な支配に屈することなく、国民全体に対して直接責任を負わなければならぬというのは、単に抽象的に言つているのか、私は、日本教育それ自体の深い経験から、この点を強調しているというふうに把握しているのでありますが、どういうふうに御把握になつているか、一体不当な支配というのは、この法律が立法されました当時、何を想起してこれは書かれたものであるかということを、まず第一にお伺いいたしておきたいと思います。  次にお伺いいたしておきたいのは、先ほど世耕委員からも、今日教育を支配するものは日教組じやないか、こういうふうな御意見、御質問がありましたが、私は支配という言葉の概念が、これは申すまでもなく第二者、第三者の問題であると思います。従つてこの基本法にいう支配という意味、これと同意義でもつて世耕さんが御意見をお出しになつたものと、こういうふうに解するのですが、そうした場合に、両先生も述べられておりましたが、いわゆる日教組の若干の行き過ぎを部分的に認めておられたが、その行き過ぎという問題と、これが教育に与える支配的な力というものとは、私の考えでもつてすれば本質的に異なる、かように私は思いますが、それについてどういうふうにお考えになるか、これが第二の質問であります。  第三点といたしましては、最近自由党報なるものが公にされました。各学校を経由して、PTAに配布せられておりまして、私もそれを手にとつて拝見させていただきました。その数は約四百万枚程度に及ぶと、こういうふうにいわれておりますが、その内容は、御紹介するまでもないと思いますけれども、このようなものが、いわゆるこの不当な支配に屈することなく、ないしは教育の中立確保をしなければならぬという問題と結びつけて、一体今日の情勢下において、かかるものが巻間に大量に発行され、これが流布され、伝播されて行くことの影響を、どう御把握になるか、この点をお二方にお伺いいたしたい。  なお幸いに現職におられる齋藤先生がお見えになつておりますので、これはお受取りになつたと思いますが、受取られた場合のお感じ、同時にそれが現場の先生方に与えられた影響、印象、ないしはPTAの手に渡つた場合の影響というものを、あなたは学校長としてどういうふうに把握せられるか、この点について承りたいと思います。  以上、私の質問は三点でございます。
  50. 金久保通雄

    金久保公述人 簡単にお答えいたしますが、不当な支配というものが強調されておる、これはどういうふうな立法の精神があるかという御質問だろうと思うのです。私は立法当時の事情をそんなによく知つてないものですから、はつきり申し上げられないのですが、私の印象といいますか、考え方では、戦争中あるいは戦前日本教育というものは、不当に政治から圧迫されていた、従つてこれからの教育はそうであつてはならないという意味で、不当な支配という意味を特に強調したのだろうというふうに私自身は理解しております。  それから日教組の支配あるいは行き過ぎという問題でございますが、先ほどからいろいろ問題がありますように日教組にも行き過ぎがあると思います。しかし日教組が支配的な力を持つているというようにお考えになることは、少し当らない。私は少くとも皆様方よりは、現在の学校をたくさん見ておるつもりであります。私の見た範囲では、大体において日教組の支配などは行き渡つておりません。むしろ先ほど申し上げましたように、十年一日のような陳腐な教育が行われておるわけでございまして、日教組が丹頂つると言われるのは、このことをさして言つておるのだろうと思います。従つて日教組が決して日本教育を支配しているとは、私は思つておりません。  それから自由党報配布の問題は、私は実はよく読んでおらないものですから何とも申し上げられませんが、こういう時期にああいうものが配られるということは、少くともあまり教育的じやないというふうな印象を持つております。
  51. 蝋山政道

    蝋山公述人 教育に対する不当な支配をどう考えるかというお尋ねでございますが、不当という意味は、私は制度的の意味であると思います。制度を通じて、それが不当の支配の機会を与えるという意味であろうと思います。個々の場合ではないと思います。戦前の場合におきましては、日本教育に関する法律が、すでに法律上の根拠を持つておりません、全部が命令でありました。そういうようなことから始まるのであります。また内容に至りましても、非常に中央集権的であつたということ、また教員自体の政治上の権利が非常に制限されておつたというようなこと、そういうこと一切をさして、制度的の問題ではないかと思うのであります。しかしこの制度は、もちろん国の制度ばかりではありません。もつと広い意味であろうと思います。また教員自体から見て、内外のいずれをも問わないと思います、従つて教員組織の場合においても、やはり一つ制度的の問題であろうと思います。教員自体は、すでに地方公務員法上の制度なんであります。これによつて認められている制度でありますから、それが教育に不当なる支配を与えるとするならば、この制度をかえればいいのであつて、私は先ほどからそれを言つておるのであります。教育自体に関するいろいろの権利、その他に対する制限を加えるべきではない、こういうふうに考えて、私は制度に対する不当な支配というような意味でお答えをいたします。
  52. 齋藤喜博

    ○齋藤公述人 私の学校にも、御質問の自由党報がこのくらい厚く配られて来たのですが、そのときに先生は、これは配らずにおきましようかということを私に言つて来たのです。しかし私はそんな必要はない、全部配つてくださとお話して配つていただいたのですが、前の方からもお話がありましたけれども、今の時期には、自由党としてはやはりちよつとかつこうの悪いやり方だと思います。今後もああいう自由党報でも、社会党報でも、日教組の情報でも、どんどんただで私どもの学校にもらえば、非常にありがたいと思つております。先生たちがそういうものをどんどんいただいて、自主的に批判的に事実でものを考えて、子供の仕合せになるような教育はどうしたらよいだろうかと考える、そういうような先生になつてもらいたいために、私はずつとこの二つ法案反対しておるわけでございます。
  53. 辻寛一

    辻委員長 原田君。
  54. 原田憲

    ○原田委員 私は金久保さんと齋藤さんに御質問申し上げます。  金久保さんは、先ほど自分教育のことはよくわからないというふうにおつしやいましたが、これは御謙遜であつて新聞社の編集局の教育部長でありますから、日教組のことについても相当お詳しいと思います。日教組内に統一委員会というものを共産党がやつておる。それから国民教育会議という言葉が最近盛んに出て来ておることをよく御存じだろうと思います。坂田君が山口日記の問題を言いました。また高津正道君が保安隊の汚職事件が起きた、それだから保安隊をなくしてしまえと言われましたが、あなたはこれは偶発的な事件であつて、統一的に行われておらないように御断判のようでございます。保安隊の中で汚職をやれということを統一的に上司が命令して、全部がそういうことをやるようになつたら、保安隊をつぶさなければならない。現在山口県の日記も、あれがすべてに行き渡つて子供があれで判断して、あれで動いて行くということになつたら、これはたいへんでありまして、実害が少かつたからわれわれは安堵いたしておる次第であります。しかしながらこれは偶発的な事件とは私たちは考えておらないのであります。日教組の指導方針書、これは戦前教育勅語であると考えておりますが、この指導方針書には、明らかに、アメリカを中心とする独占資本が、世界の各所において戦争を企てているという世界観をもつて割切つております。そうしてスローガンとしては、平和四原則を守れとか、再軍備反対とか、あるいは吉田内閣打倒というスローガンが現われて参りまして、学校ではこれこれの教育をするようにということが書いてあるのであります、そこから現われて来たものが一つは山口県の日記であるというぐあいに私たちは考えて、これが全国的に蔓延して、すべてがそうなつた場合には、日本の国家の革命であると私は考えております。今度の防衛大会は、国民教育会議の準備会であるといわれております。国民教育会議というのは、言いかえれば一つソビエト組織でありまして、戦前日本の組織でいいますと翼賛会に相当すると思います。国会あるいは府県会というような国民の投票による民権の代表機関を越えて、ほかにそういう組織を持つということは議会制度改革であります。あなたにお尋ねしたいことは、あなたはそういう御判断を持つておられるようでございますが、こういう動きに対してどういうお考えを持たれるか。  いま一つお尋ねいたしたいことは、日本の国は戦争に負けてわずか十年でございます。いわゆる民主主義の把握をこれからして行くのです。その間にありましては、労働界だけでなしに、すべての社会におきましていろんな問題が起きて来ると思います。イギリスの例をとりましても、イギリスの労働組合運動、その中の教員組合運動を見ましても、最初に結成されて、これが非常に左傾した。そうして弾圧されて支離滅裂になつた。また再編成されて、また弾圧されて支離滅裂になつて、また今の組合が結成されて、順調な道を歩んでおる。これは歴史の過程でありまして、私は今、日本日教組を中心とする左傾的な行き方は、当然取締られる段階に来ておるというふうに判断しておりますが、あなたは新聞人としてどう考えておられるかお尋ねいたしたい。  それから齋藤先生にお尋ねいたしたいことは、あなたは相川さんの質問に答えられて、学校の先生が給食をやつてほしいということを言えなくなると思つておつたら、そうじやないということを知つて安心したと申されました。先生は先ほど、日本の先生は自主性がないと言われたが、あなたが安心したということをここで言われるということ自体がみずから知らなかつたということになるのでありますが、それではそういうことになるということをあなたはどこでどういう経路によつて考えなつたのか、この法案の中のどこにそういうことを取締ると書いてあるかということをお尋ねしたい。  それからあすは日曜日です。あすの日曜日に学校子供を集めて教育をやる、そしてこれを父兄に参観さすということが――けさの毎日新聞を見ますと「日教組が全国に秘密指令」という見出しでトツプに出ておりますが、あなたの学校はどうされるのか、この二点についてお尋ねいたしたいと思います。
  55. 金久保通雄

    金久保公述人 日教組の内部に統一委員会があるという情報は私も知つております。さつきちよつと統一派という言葉でお話したつもりですが、この統一委員会がどのくらいの勢力を持つておるか、これは私自身判断ですが、それほど多いとは思つておりません。従つて山口県の小学生日記事件は私自身は非常に適切じやないと思つておりますが、統一委員会日教組の勢力全体を握つてしまうというふうには私考えておらないのであります。これは別の話になるかもしれませんが、御存じのように終戦直後日本でも共産党の勢力が非常に伸びまして、一時は衆議院に三十五の議席を持つたことがございます。ところがただいまは御存じのように残席は三十五から一に減つておるわけでございまして、そういう意味からいいましても、教師の大勢がいつまでも統一委員会に引きずりまわされておるということではなくて、これからだんだんと自主性を持つて日教組の運動が健全な方向へ行くというふうに私思つておるわけです。  それから国民教育会議、これは私実はよく知らないのです。準備会に出てくれという話がありましたけれども、私出なかつたものですからどういうふうな内容なのか、あるいはどういうような構成になつておるか知らないわけです。ただこの間の新聞で、五月三日に発会式があるということだけしか知らないのですが、私一番先に申し上げましたように、教育国民全体のものだという意味で、もしあの国民教育会議というものが国民全体に基盤を置いて教育考えて行こうというような組織でしたら、これは非常にいい組織じやないかというふうに思つております。そうでなければいい組織じやないというふうに考えております。
  56. 齋藤喜博

    ○齋藤公述人 先ほど私は安心しましたけれども安心できないというふうに申し上げたのですが、それはくどく申し上げましたように、あまりにも先生たちの実態を知つておりますし、そういう行動をとる場合に、やはり一人一人の教師子供のために、子供の代弁者になつて、お母さんや、お父さんや先生全体で運動する場合には、日教組とかそういう団体の力でもつて行動しない限りそういう要求は通らないと思う。そういうことができなくなるという心配を持つたわけであります。  それから十四日の問題でありますが、私の方では今度の法案に対しましては、教育委員会反対、PTAも反対、全部反対になつておりますので、先生たちどんなことでもやつてほしい、私たちもできることはどんなことでもやるからということになつておりますので、指令の通りに私の方ではやると思います。
  57. 辻寛一

    辻委員長 竹尾弌君。
  58. 竹尾弌

    ○竹尾委員 私は少し詳しくお呼ねしたいと思つたのですが、一時を過ぎましたので御迷惑もあろうと思いますから、ごく簡単にお尋ねいたします。しかし機会がありましたら、先生に教えを請いたいと思つております。ほかの公述人の方もそうでありましようが、特に蝋山先生のお言葉、言論というものは、先生御自身がお認めになつておられるように、非常な影響力を及ぼしますので、私のお尋ねがしどろもどろになるかもしれませんが、できるだけ明確にお答えを願いたいと思います。先生の最近お書きになりましたジユリストの最近号の論文は一番まとまつておると思いますので、これも参照してお尋ねいたしたいと思います。  第一番目に、先生は地公法の制定にあたつていろいろ御努力をされたということでありましたが、この地公法の中で、先生は、地方公務員とそれから教職員の政治的行為には自由を認めておる、しかし教職員に対しては特に政治的行為に対して自由を認めておるのだ、こうおつしやつておりますが、それはどうかと思う。この素材の把握の仕方にちよつと錯誤があるのじやないかと思うのですが、地方公務員と教職員に対しては政治的行為に対して同一の取扱いをしておるのじやないかと私は思いますが、その点をまずお尋ねしたい。
  59. 蝋山政道

    蝋山公述人 地方公務員法ができました当時は、まだ地方教育委員会は末端まで行つておらない当時であります。当時地方公務員としての教職員の身分がはつきりしておりませんで、たとえば給与の問題あるいは任命の問題につきましては、あるいは府県の教育委員会の干渉事項であつた場合もあります。しかるに当時この三十六条但書をきめました場合におきましては、地方公務員についてはそれぞれの所属機関、教員につきましてはその設置団体の処在地ということにきめておるのでありまして、場合によりましては、当時は府県に教育委員会は一個しかありませんでしたから、教員といたしましてはむしろ府県単位に限定せらるべき解釈もあつたのですが、その三十六条の但書で市町村という末端の区域をその区域といたしたということは、つまりできるだけ教員に対しては政治的自由を認めたい、しかしその区域がその所属しておる市町村の区域だけにつきましては、先生であるがゆえに影響力があるだろうというわけで、その所属いかんにかかわらず末端の団体の区域のみに認めたということを、私は特に教育については高調した記憶もありますし、そういう趣旨であろうというふうに解釈しておるのであります。
  60. 竹尾弌

    ○竹尾委員 今先生もおつしやられたようですが、このジユリストに、現状は地方公務員政治的行為と教職員の行為は違う、こういうふうにお書きになつておるようですけれども、現状は違つておらぬと思うのですが、その点はどうなんですか。
  61. 蝋山政道

    蝋山公述人 この問題は、今地方教育委員会まで認められましたから、現状はほぼ同じになつておりますが、その趣旨においてはかわりはないのでございます。特に地方公務員一本にいたしませんで、一般公務員と教職員とを区別いたしました根拠は十分に残つておると考えております。
  62. 竹尾弌

    ○竹尾委員 どうもその点が実ははつきりしないのですが、私は現状では同じだと思うのであつて、先生がお書きになつたもので、特に教職員に対して自由を認められておるということに対して私は実は承服できないのですが、これは時間の関係で先に進みます。  その次に先生は、教育の地域主義と申しましようか、あるいは地域性と申しましようか、それを非常に尊重されております。非常にけつこうなことだと思つておりますが、この間の地教委の存続の問題では、ほかの人たちが大部分反対であつたのにかかわらず、先生は敢然としてこの地教委の存続に対しては賛意を表された。この点に対しては非常に敬意を表します。ところでこの地域主義、地域性と、国全体の全体性と申しましようか、その結びつきの問題ですが、先生は、これを国家公務員並にするというと、地域主義、地域性というものを無視することになるので、その点でこれは非常に反対だ、こうおつしやられますけれども、私はそうは思わないので、そこは再三言われました通り、教職員の公的の地位、身分にかんがみても、これは国家公務員並に取扱う方がむしろ教育の地域主義、地域性を重視するゆえんになろうと私は考えております。その点についてひとつ・・・・・・。
  63. 蝋山政道

    蝋山公述人 地方の住民が、あるいは財政上の負担においてもあるいは精神的な負担においても、教員というものを地方公務員にしてもらいたいという気持は、十分に私はあると思います。つまり地方住民の地域社会というものと離れてしまうということはよくないということが、この根本の制度ではなかつたかと思います。しかるに政治活動であるがゆえに、非常に重大な点であるがゆえにこれを国家公務員並にしてしまうということになりますと、国家公務員でも、教員政治活動をある程度まで認められるという考えがあるなら別ですけれども、私は国家公務員について非常に制限をしておることについてすら今反対なんです。しかし現行制度がありますので、そういうところに持つてつてもさしつかえないじやないかという議論にも承服しないのです。つまり国家公務員にすることがすでによくないのであるから、それを地方公務員にする必要があるのに、さらに国家公務員にしてしまうということは、法の体系を乱ることにならないか。地方公務員としての教職員が、政治活動という重大な権利を制限されておるとき、一体この身分はどうなるのだ、あいのこの身分になつてしまつて地方制度がまつたく混乱した原理によつて支配されるということにならないか。教育制度もまたしかり。中央と地方の協力関係はどうするかという問題はありますけれども、その身分がはつきりしなくなるようなことは、立法体系としてよくないというのが私の考えであります。
  64. 辻寛一

    辻委員長 竹尾君に申し上げますが、予定より大分時間が遅れたものですから、残余の御質問は一括してひとつ・・・・・・。
  65. 竹尾弌

    ○竹尾委員 簡単にやるから。先生は今立法体系及び立法の技術上の問題をお述べになりましたが、私は法律家ではありませんからよくわかりませんが、大体のところ戦後特にわが国の立法体系というのは私の考えでは非常に乱れて来ておる。たくさんの手続法が出ておりますが、それによつて実体法を縛つておる例がたくさんございます。これはある意味では法律体系の混乱であるというふうに思いますが、やはり問題は法律体系云々の体系の問題ではなく、本質の問題であると私はこう考えるのです。それから今の身分のことですけれども、なるほど教育公務員特例法は人事法でありますが、しかし人事法は身分とは密接な関係があるので、むしろあの中に教職員の身分を持つて行くことこそ、教職員の身分権を尊重するゆえんである、こういうふうに私は考えておるのですが、その点についてとうか、……。
  66. 蝋山政道

    蝋山公述人 もし教職員の身分が特例法の規定するところになつた場合においては、地方教育委員会はどのような権限になるのでしようか、知事はどのような権限になるのでしようか、その点を私ははつきりしておきたいと思います。ですから依然として地方の教職員は地方公務員法上の存在であると思うのです。そうなれば知事も地方教育委員会もそれぞれ身分について責任を負つておる。そういう意味から、このような今度の立法によりますと、その点の身分がはつきりしなくなる。そういう考えを持つておる。その点を指摘したのであります。
  67. 竹尾弌

    ○竹尾委員 この点は蝋山先生は最近の論文で強調されております。いずれ時間がありましたら御茶の水大学に参りましてお教えをいただきたいと思います。  その次は中立性の問題、これは再々言われておりますが、先生は政治的中立性というものは非常に曖昧模糊としてわからない、こうおつしやられたのであります。わからないから、こういう曖昧模糊たる法律には反対である、こういうような御見解のようでありますけれども、およそ法律というものは、私があなたに申し上げるのは非常におかしいけれども、大原則はみんな曖昧模糊としておるものだ。例の公序良俗の大原則にしても、戦後における信義誠実の原則にいたしましても、時と所によつてはかわることは当然の話であつて、私は具体的には書けるものではない、こう考えております。  そこでさらにお尋ねいたしますが、今そちらの委員の方からもお尋ねがありましたが、政治的の中立というものを先生は学問的な立場からどうお考えになつておられるか。この雑誌においては具体的な例を出されておりますけれども、私はその本質におきまして政治的中立とは具体的に何ぞやということを、先年の行政学の立場からでもけつこうですから、ちよつとお答えを願いたいと思います。
  68. 蝋山政道

    蝋山公述人 私は、中立という問題はあらゆる場合において政策上の問題であると思うのであります。それを制度的に改めますのには、消極的に規定する以外にないのじやないか。しかるにこの中立法案によりますと、それに触れるところのものは権利の問題である。権利の問題は曖昧模糊たることを許さない。罪刑法定主義というものができましたのは、できるだけ罪については明確な規定を要する。これは竹尾さん十分御承知の通りだと思うのであります。その意味におきまして権利の問題であるがゆえに明確を欲するのであります。曖昧模糊たることを許さない、こういうふうに考えております。
  69. 辻寛一

    辻委員長 質疑はこの程度にとどめます。  午前中の会議をとじるにあたりまして、一言委員長より公述人皆さんにお礼の言葉を申し上げます。本日は御多忙中にもかかわらず貴重な時間をおさきくださいまして御出席を賜わり、貴重な御意見の御開陳を賜わりましたことは、委員諸君とともに深く感謝にたえないところであります。各位の豊富な御意見は必ずや当委員会のこの教育法案審査に資するところ多大なるものがあること々痛感いたし、ここに委員諸君とともに深甚な感謝の意を表明いたす次第であります。厚くお礼を申し上げます。  午前中の会議はこの程度とし、午後二時まで休憩いたします。   午後一時十八分休憩      ――――◇―――――   午後二時二十二分開議
  70. 辻寛一

    辻委員長 休憩前に引続き、公聴会を開きます。  午前にも申し上げましたが、開会にあたりただいま御出席公述人各位にごあいさつを申し上げます。  目下当文部委員会におきまして審査中の義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案、並びに教育公務員特例法の一部を改正する法律案の両案は、御承知のごとくきわめて重要な案件でありまして、教育界のみならず国民各位が深い関心を寄せている教育法案であります。従いまして、当委員会といたしましては、その審査重要性思いをいたしまして、広く各界の学識経験者各位の御意見を聞きまして、本案審査の万全を期し、一層権威あらしめようとするものであります。各位の豊富なる御意見は、当委員会の今後の審査に資するところきわめて大きいものがあることを委員諸君とともに期待するものであります。何とぞその立場々々より腹蔵ない御意見開陳お願いいたします。本日は御多忙中のところ、御出席をいただきまして厚くお礼を申し上げます。  なお議事につきまして一言申し上げますと、公述人各位の御意見を述べられる時間は、大体十五分ないし二十分見当にお願いをいたしたいと思います。  なお念のため申上げますが、衆議院規則の定めるところにより、御発言の際は委員長の許可を得ることになつております。また発言内容は、御意見を聞こうとする案件の範囲を越えてはならないことになつております。なお、委員公述人に質疑することができますが、公述人委員に質疑することができませんから、さよう御了承を願います。  次に委員各位お願いを申し上げますが、公述人に対する御質疑は、一応五名の公述人の御意見の御開陳の後にお願いを申し上げることにし、討論にわたらないようにお願いをいたします。  まず京都大学学長瀧川幸辰君にお願いをいたします。
  71. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 今委員長からお話になりました教育に関する二つ法案について、私の考えをお話させていただきます。  まず第一に、義務教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案、この方から申し上げます。実ははなはだ申訳ないのですが、この法律案新聞に載りましたときに読んだのですが、どこに重点があるかということが私にはわからなかつたのであります。このたび印刷物を衆議院のこの委員会からいただきまして、詳細に読んで初めてわかつたのでありますが、この法律案は世間で非難されておる、あるいは歓迎されておる点と食い違つておるような気がするのであります。  第一に非難でありますが、この法律案教育職員を主とする団体――主として日教組でありますが、日教組を弱める法律案だと新聞なんかに書かれております。しかしこの法律案を読みますと、日教組には何ら触れておりません。この法律案の主眼は第三条でありますが、第三条は――これは御承知のことですから詳しいことは申し上げませんが、とにかく何も教員の組織するある団体――かりに日教組としてもよろしい、日教組を通じて学校教員政治的にへんぱな教育教唆し、扇動した場合はいけない、こういう規定があります。これには罰則がもちろんついておりますが、罰則はあとで申し上げるとしまして、この法律案内容に書いてあることを見ますと、日教組を通じて教員教唆扇動した人間を罰する、こういうことになつておるのであります。日教組のそのものはこの法律によつて何らの規制を受けておりません。実際問題としまして「何人も」云々と書いてありますから、その「何人」の中に日教組の首悩者であるとか、あるいは役員であるとか、そういう人がおるだろうと思います。またおることが多いかもしれません、そういう場合にはこの日教組の役員が――日教組と申しますのは、何も日教組に限らないのですが、簡単に日教組と申しておきます。日教組の役員が、たとえば日教組で何らかの決議をしてその決議を執行する場合、その決議の執行が、学校教員に対してある政治的へんぱな教育を指令した、こういうことになればそれは日教組の役員が罰せられるということであります、しかしながら日教組は主たる役員がそのために罰せられるから力が弱まるということがあるかもしれませんが、これは間接の結果であります、直接には日教組は何も触れておらないのであります。もし世間に伝えられておるがごとく日教組を規制するという法律なら、もう少し日教組を中心にした団体――教員を主たるメンバーとしておる団体を規制する法律案をつくらなければだめだと思うのです。もう少し極端な言葉を使わしていただきますと、これは横から云つたら、右を見、左を見てつくつた非常に弱い法律という感じがするのであります。ほんとうに日教組のような団体を規制するならば、かつての破壊活動防止法――あれがいいか悪いかということに言い及ぶわけではありませんが、あの法律は少くとも暴力団体を規制しております。ところが、この法律日教組に対して何ら規制もないのであります。ただ日教組のメンバーが罰せられる、こういうことだけであります。世間はなぜこれが日教組を弱める法律だと考えられたか、これはわかりません。わからないが、私の推測では、おそらくは日教組のメンバーが日教組の中に教唆扇動して、ある決議とかある指令を出して、教員に何かへんぱな政治教育をやらすということで、間接に日教組が罰せられるから、日教組目標にした法律だというふうにいわれたのじやないかと思います。もう一つは、この法案を起草した人――と申しますと、どなたか存じませんが、そういう人たち新聞に話された言葉が悪いので、何か日教組をやつつけるのだというようなことを言つておられるのですが、これを読むと日教組は何らやつつけられておらないのです。それだからして、これは日教組を規制する法律としては、はなはだ無力な法律だと私は断言します、もちろん間接に日教組がこれによつて規制されるということはあるのでしよう。しかしながらそれは日教組を主眼としておるのではなくて、そのある効果をねらつておるのであります、こういう立法は立法としてはいささか卑屈なような気がするのであります。もう少し正面から堂々と切り出すべきではないかと考えます。  その次に判別でありますが、一年以下の微役三万円以下の罰金ということになつております。突如としてこれに刑罰を科するということに問題があるかと思います。少し話が前後しますが、教育基本法の第八条第二項では、「特定政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」ということが書いてあります。今度のこの法案は、教育基本法第八条第二項の中に全部含まれております、教育基本法は非常に広いのであります、この法案はそれを少し具体化したというだけでございます。そして違つた点は、第四条で罰則をつけておるだけの違いしかありません。教育基本法には、もちろんこれは義務的の規定でありまして罰則はついておりませが、これにはついております。ところがこの罰則で私がいけないと思うのは、国家公務員法の第百二条の規定で、やはり公務員政治活動をある程度制限しております。それに対しては第百十条で罰則がついております。国家公務員法の場合は、国家公務員政治的活動は刑罰をもつて臨んでおります。国家公務員法では何ができるかというと、ただ投票することと政党に加入すること、この二つくらいしかできません、それには罰則がついております。ところが教育公務員特例法とかあるいは教育基本法には罰則がないのであります。これはよく考えてみますと、同じ公務員であつても、教育公務員一般公務員とは非常に性質が違うと思つております、私は小学校、中学校、高等学校は生徒や学生としておつただけで教えたことはないので存じませんが、たとえば大学をとつてみますと、研究する場合に、どうしても政治関係の研究をしている人間は、その学説の立場からして現実政治を批判することがあるでしようし、あるいに賛否を述べることもあるでしようが、それが人事院規則によつて罰せられはしないかという疑問が、昭和二十四年でしたか、出たことがある。そのとき人事院の説明では、それは学者が学問上の研究を発表する場合、その現実政治に対する批判は罰せられないのだというふうに説明しております。しかしながらそれを疑う人は、人事院に法律解釈の決定権があるのではなくて、これは最高裁判所にあるのであるから、最高裁判所がそう言わない限りは人事院くらいが言つても役に立たないと言つております。しかし日本の最高裁判所は、そう非常識なことはしないと信じておるのであります。それでありますからして、この大学教授が政治上の批判をすることはもちろん許されておるのであります。ところが中学校や小学校義務教育になると、よほど事情が違つて来ると思います。生徒は白紙のような人間で、何もそういう政治的傾向を持つていないのであります。そういう人間をつかまえて、ある政治的傾向を教え込むことは問題だろうと思います。私は大学についても、大学の教授が自分政治的見解を教室で宣伝することは卑劣な行為であるといつも言つております、なぜならば学生は講義を聞きに来ている人間だ。聞くのが義務なんです。批判はしません。批判のない場所で自分の主張を一方的にしやべることは卑劣な行為であるということを私は前から言つております。また書いてもおります。それは義務教育に従事する人々に対しては強く要求されることであります。自分政治的見解を子供に教えることは卑劣な行為だと思います。しかしながら今申し上げた通り、ただちに罰則をもつて臨むことがよいか悪いかということは疑問であります。教育公務員特例法にも罰則はついておりません。それから古い話でありますが、昔の小学校令、明治二十三年十月勅令二百十五号、これに小学校の校長とか教員職務を粗漏にしたり、上司の指令に違背したりまたは体面を汚辱する行為があつたときには懲戒処分に処するということで、懲戒処分にとどめております。明治二十三年十月と申しますと、前の大日本帝国憲法が交付されてまだ発効する少し以前であります。そのときすら教育者に対しては刑罰を考えておりません。それからちようどそのころに集会条例という政治的な自由を拘束する条例が出ております。これによつて罰金処分を受けたところの学校教員あるいは政党関係するものは、これは事情々々によつて府県知事から文部大臣に上申して、その府県内において教員となることをさしとめるという規定にとどめております。そういうところから見ますと、一般公務員と教育公務員とはよほど事情が違うだろうと思います。  それからもう一つのこの法律の非難ですが、この法律に対する非難としてこれは教員の思想の自由を拘束する法律だというふうに、非難しておりますが、私は全然その自由を拘束していないという見解をとつております。と申しますのは、ある教員が教室を通じて自分の一方的な政治思想をつぎ込むことは法律で禁止しております。しかしながらその教員が保守主義者であろうとあるいは進歩主義者であろうと、主義主張のいかんにかかわらず、その  教員発言することは自由であります。たとえばその教員の家に児童が遊びに来たときに、どうも今の政治が悪いからもう少し進歩的な政治がよいとか、あるいはもつと具体的にいえば共産主義がよいとか言うことは、その教員のかつてだろうと思います。ここまで拘束するつもりはありません。であるからして教員の思想の自由は拘束しておりません。ただ教員教育の場を通じて、それを生徒につぎ込むということを禁止しておるだけであります。  そこで結論的に申し上げますと、これは目的から行つて新聞に書かれたように日教組なる団体を規制する法律だとすれば、きわめて弱い法律だ。間接にまわり道を通つてやろうとする法律だということになるのであります。  それからもう一つ、ただちに罰則をつけることは少しお考えいただきたいと思うのです。と申しますのは、私は刑法が専門なんですが、刑罰を科するということは、ドイツ語でタート・ベスタントと言つておりますがある犯罪の構成条件が、その犯罪のわけにきちつとはまつておるのを罰するのだ、だからわくからはずれておるのは道徳的に非難するところはあつても罰しないという主義をとつておるのです。こういう場合に教唆扇動とかいう、多少法律上議論のある、範囲の明確さを欠くところの表現を用いておりますから、そういう表現によつて罰することは考えものだと思います。むしろそれよりも行所処分に付する、つまり罷免をするとかなんとかいう方向に向うべきではないかと思つております。  それから次の教育公務員特例法の一部を改正する法律案、これは申すまでもなく国家公務員としての教員と、地方自治体の教員との間に同一性がないのです。具体的に申しますと地方教員であるというと、自分の区域外に行けど選挙運動をやつてもいいということになる。ところが国家公務員になれば、どこへ行つて選挙運動も何もできない。ただ自分は投票するだけだ、こういうことにたるのです。この点は国家公務員である教員と、地方公務員である教員との間に区別を置くことはおかしなことなんです。だからどちらかへならへということになるだろうと思います。これは国家公務員にならへという法律なんです。だからこれから地方公務員は、かりによその県へ行つて選挙運動をやつてはいけない、やつた場合には罰せられる、こういうことになつておるのでありますが、この点政治活動についてはいろいろ種類があると思うのです。たとえば言論をもつて選挙の応援をするということは教育に関する地方公務員であろうと、国家公務員であろうと、同一に言論の自由は認めたらいいと思うのです。地方公務員であれば、他府県へ行つて選挙運動をすることができる。国家公務員はどこえ行つても何もしやべれない。これはあまりにも国家公務員の言論を制限しておるということになるのではないかと思うのであります。それですからどちらかにならへということは問題になるのでありますが、私は一緒にしなければいけないと思うのです。だから教育基本法に規定してある範囲内、あるいは今度の法律が規定する範囲内においては、これは同じように扱つていいと思うのです。しかしながらもう少し教育公務員の言論の自由を認める法律にかえていただきたいのです。これでは教員というものは何もしやべれない。人事院規則が問題になつておるのはそこなんです。何か現在の政治機構を批判する、あるいは政策に賛意を表する、反対をするという場合には、人事院規則にひつかかりはしないかという疑問が出て来るのは、そういうところから出て来るのではないかと思います。その点で今教育公務員はさるぐつわをはめられたような状態になつておるのです。むろんこの法律に書いてある通りに、教育の場を通じて、ある一方に偏した教育をやることは禁止すべきだと思います。しかしながらあらゆる面において公務員であるから、政治上の発言が全然できないということは無理なことであろうと思う。大体時間も参りましたのでこれで終ります。
  72. 辻寛一

    辻委員長 次に東京都PTA会長塩沢信君にお願いいたします。
  73. 鹽澤常信

    ○鹽澤公述人 公述を先に立ちまして誤言を避けますために、一応私の立場を御説明申し上げておきます。私東京都のPTA小学校協議会会長のほかに地区の協議会あるいは東京都の総協議会等いろいろの協議会に関係しておりますので、よく私がいろいろ発言いたしますと、PTAの代表的な意見のように、あるいは総体的な意見のようにとられるおそれがございますので、一応お断り申しておきます。  今度の法律案につきましては、各単位のPTA大部分あるいは組織協議会というものは、多くは可否いずれも結論を打つておりません。また出さないように現在いたしつつあります。しかしながら事教育に関しましては、父兄といたしまして無関心ではあり得ませんので、常にこうした問題の起りますたびにPTAの会合を持ち、あるいはその他の方々と話合いまして研究討議を続けております。現在も続けております。従いましてその討議の中からいろいろと父兄の声であるわけでございます。私は卒直にその父兄の声を皆さんに御紹介申し上げまして御参考に供したいと思うものであります。もとより父兄の声としてその研究討議の中に現われて参たものでありますから、いろいろおさしさわりもあるかもしれませんが、その辺は御了承願いたいと思います。  父兄の意見を大体分類してみますと、二つの形になつて現われております。その第一は政府の方針にまつたく賛成であるという意見。第二は政府の方針には絶対に反対であるという意見。もう一つはいずれでもいいから早くこうした問題が片づいてほしいという三つの意見が大体起きております。この三つの問題をさらに理由づけてみますならば、第一の意見賛成の人々の意見は、大体におきまして、文部大臣がおつしやるように、一部にそうした誤りがあるならば、当然こういう処置をした方がいいだろう、あるいは日教組に対するいろいろな反感というものが出て来て、この際こういう法律ができて教組の行き方を是正した方がいいのじやないか、そうするにはこうした立法措置が当然に要必だという理由が強いのでございます。第二の政府の案に反対だという意見は、文部大臣のおつしやるような教師がもしおられても、これは全国五十万の先生方から見てごく少数である、この少数の人たちのために多くの善良な先生たちが拘束されるような制度ができたならば、教育に関する情熱は失われて来るのじやないか、またそこまで苛酷な処置をしなくても、すでに反省の時期に入りつつあるのだからさしつかえないのじやないか、むしろこうした苛酷な処置に出るよりも、この際父兄と先生方と語り合うことによつて、こうした問題を避けて行けるのではないだろうかという意見がかなりを占めております。第三のどちらでもいいという方は、これはまたきわめて簡単な見方でありまして、この問題は結局は自由党日教組のけんかである、このけんかの中に教育がまき込まれている、だからわれわれはどうでもいいから早く片づけて、そうしてこういうものの中に教育が巻き込まれないようにしてほしいというようなことを言つておる人たちがあるのであります。  以上が大体父兄の間に出て来ておりますところの意見でございます。もとよりこうした人たち意見は、大体ラジオの解説とか、あるいは新聞の報道とか、あるいは先生方の説明というようなものから出て来たものでございまして、いろいろな法律的な根拠を研究したり、理論的に考えたというような方々もあるにはありますが、ほんとうの、たとえば全国に起つたいろいろな偏向教育の問題につきましても、実際の状態をつかむことが私どもはできませんので、多くの父兄は結局これは政府の発表にもかなり誇張がうかがわれるようだし、あるいは教組の言うことにも誇張があるだろう。両方に誇張があるだろうから、PTAはその中間を見て、そうして正しい判断をして行きたいということが父兄の多くの考え方でございました。大体父兄の声は以上の通りでございますが、以後私は子供の親といたしまして、この機会に私の考え方を申し上げてみたいと思います。  もし先ほど申し上げましたように、文部大臣がおつしやるような危険な先生方が全国にたくさんありとするならば、おそらく私が文部大臣であつても、やはり同じような処置をとらなければならないのじやないだろうか、かように考えるのでございます。ところが全国的に見まして、学校の先生方の数から見まして、このくらいの率は大したことではございません。現在の官吏の中にもやはり悪い人もあり、またいろいろな方々の中にも悪い人があるのでございまして、あえて学校の先生だけの中にあるということで特に取上げられるようなことはないと思うのであります、先生方の行き方につきましても、いろいろ批判がございましたし、私ども父兄といたしましても、今日まで、かなり不満を持つておりました。しかしこれは終戦後学校の先生方だけが行き過ぎたのではなくて、あらゆるものか行き過ぎておつた。いわゆる終戦後の空白時代、虚脱の中から出て来たものは、その方向も与えられず、伸びたいほうだいに伸びて行つて、昨今になつてようやくおちつきをとりもどして、みずから反省の段階に入つて来たというのが現在の状況ではないだろうか、かように思うのでございます。私は現在小学校、中学校、高等学校にそれぞれ子供をお預けいたしておりますので、いわゆる教育の第一線の先生方、御父兄の方とは非常に密接な関係を持つておるのでございますが、少くとも私どもの知つております範囲におきましては、決して危険な先生は見当りません。むしろ安心して子供を預け得る状態にあるのでございます。先ほど来問題になつておりますいわゆる教組の組織につきましても、いろいろお話が出ておるようでございますが、下部におきます先生方、あるいは下部における教組の方々は現在反省の段階に入つております。こんな状態ではいけないじやないかというような考え方が出て来ておりますので、教育のために非常にけつこうでございます。私どもPTAの役割は、先生方と教育の問題を語り合つて教育を正しい線に持つて行くということが大事な仕事でございます。従つて今後こうした先生方と語り合つて、もし先生方の歩みに誤りがあるなら、私どもはともどもに相談をして、子供を正しい教育の中に持つて行きたい、かように思うのでございます。私どものような父兄は、子供教育にあたりましてやはり中立性を強く願うものでございまして、もしこの中立性を侵されるような教育が行われるといたしましたならば、皆さん方が御心配になる前に、まず私ども父兄が先に立ち上つて、この問題を取上げて行くようになると思います。またならざるを得ないのであります。人の子供を預けておるのではない、品分の子供を預けておるのでございますから、もしそういうような措置がとられるならば、おそらく見ておられない。当然父兄が立ち上つてこれを解決するというつもりでおります。私どもはかような考え方で行きますので、願わくはこうした法案によつてやることはできるなら控えていただきたいということをお願いしたいのでございます。  私どが一番心配いたしますことは、結局子供学校で安らかに勉強ができないということでございます。しばしば先生方が、いろいろな事情のもとに教壇を離れたりすることは、私ども父兄にとりまして実にたえがたい苦痛でございます。従つて反省の時期に入り、非常に軌道に乗りつつあるときに、さらにこうした本問題をもつて刺激を与え、先生が教育意欲を失つてしまつたり、あるいはまた、沈沸した空気が出て来ても困ります。また逆にこれが反動的になつて、反感をもつて今後しばしば教壇を放棄されるようなことがあつては困るのでございます。私はいつも先生にお願いしておりますが、先生が、子供がかわいい、子供がかわいいといつて公園や外濠をまわらないでくれ、先生方ほんとうに子供がかわいかつたならば、教壇に飛び帰つてこれを守つてくださいということを私はお願いしておるのでございます。この機会にむしろ皆さん方の方から、そうした行き方でなくて、教育のためにお互いに話合つて、そしてこういうような法案を出すことでなくて、話合いを進めていただきたい、かように願うものでございます。
  74. 辻寛一

    辻委員長 次に信濃教育会副会長、松岡弘君にお願いします。
  75. 松岡弘

    ○松岡公述人 私も初めに少しばかり立場を申し上げます。私のところの信濃教育会というものは職能団体でございまして、約七十年の歴史を持つておりまして、県内の幼稚園から大学までの現職の先生のみで約一万六千人の組織を持つております。そういう立場におきまして、私代表ではございませんが、個人の意見でありますけれども、一万六千の現場の先生の声はもちろんこれは反映しておるわけでございますから、そのおつもりでお聞きとりを願いたいと思います。  今度の法案を出されたということは、行き過ぎがある、あるいは偏向教育があるからということであろうと存じます。ところが現行法で、あるいは教育基本法、あるいは学校教育法、あるいは教育特例法、地方公務員法、この法律による教育委員会、県教育委員会、地力教育委員において、十分これは取締りができる、私はそう確信しておる。従つてすでに現行法において教育者政治活動制限しております。これは当然であろうと思います。基本法の第八条にもあります通り、中立維持もすることになつております。それにもかかわらずなお法律をつくり、あまつさへ刑罰をもつて臨むというようなことをしなくてもよろしい。県教委育員会、地方教育委員会において、十分行き過ぎなり偏向教育取締り是正せられて行くのである。先ほどもPTAの会長さんからもお話がありましたが、なおその上に父兄の声、また輿論が行き過ぎや偏向教育は許しません。これらの点からしまして十分是正できて行く、こういうふうに考えるのであります。しかるにもしこの法案ができたとしますならば、どういう結果になるでありましよう。今多くの先生方は自主的に、いかなるものが参りましても、たといあつたとしましても、あるかないか知らぬが、とにかくみずから守り、みずから行き過ぎないようにしておる。多数の先生はそうであります。この法律によつて教育者を守ると文部大臣は申されておりますが、教育者法律や刑罰で守らなければ守つていけないか、さような貧弱なものに見ておられるか、またこの法律や刑罰がなければ行き過ぎてしまうのか。行き過ぎあるいは偏向教育をしておる者はごくわずかでありまして、五十万の教育者のうち、事例は二十四というように文部省では御発表のようでありますが、これも事案無根のものもあるようでありますし、五十万分の二十四、かようなわずかな行き過ぎあるいは偏向教育があつたとしてましても、これは十分取締れる。それにもかかわらず、大多数の先生に対しましてこういう法律や刑罰を設けるということは、私はあまりに教育者を信じないじやないか。法律や刑罰でやらなければ守つて行けないのだ、また行き過ぎてしまうのだ、大多数の教育者にしてどうしてこれを信じないのか、私は実に情なくなるわけであります。  そして地方教育委員会を育成強化するという御意見でありますが、これ以上に地方教育委員会を育成強化しまして――今地方には教育長に適任者が少いようでありますが、適任者を教育長にし、また指導主事をふやす、もし行き過ぎなり偏向教育がいけないというのならば、この教育長も身分のことを考えれば、現場のいい先生を教育長にすることはできます。また費用さへ国で出せば主事を置くこともできます。そういうふうにされると申しておる。今以上に地方教育委員会を強化し育成されるならば、たとえば偏向教育をした者があつたにしましても、行き過ぎがあつたにしましても、これを是正して行けますし、また現在起つておるといわれておる偏向教育または行き過ぎは現在ほとんど是正されているではありませんか、解決しているではありませんか。新たな法律をつくらず、刑罰を設けずして、現行法及び教育協議会、地方教育委員会、父兄の声、輿論によつて是正されているじやありませんか。しかもそれは少数です。私の憂えるところは、ごくごくわずか、九牛の一毛とも申していいような者のために、善良にして一生懸命にやつておる教育者をもなおこれをもつて取締る、刑罰を与えるということは、先ほど申した通り、実に教育者を信じないものである、教育者の自尊心を傷つけるものである、もつと極端に言えばばかにしておる、軽蔑しておるものである。情なきところに教育は行われません。上好むところ下これよりはなはだしきはなし。政府が大多数の善良なる、熱心なる教育者を信じないならば、世の風潮はいかになりますか。多くの善良なる、熱心なる教育者を信じない、重んじないという風潮が現にある。父兄は申しております、また生徒も申しております、その声を聞きました。先生たちはだめだから、こういう法律や刑罰をこしらえられるのだ――これでほんとうの教育ができるでありましようか。またこれができたあかつきは、善良なる多くの教育者を一方へ追いやつてしまう、私は非常にこれを憂える。国家は思想の悪化なきを保しがたいでしよう。教育者をして一層険悪なる思想を持たしめることなきや、これをおそれる。また法律やそういうものはいくらもくぐつてできます。いかに多くの法律があろうとも刑罰があろうとも、犯さないようにして――もし見えるものならば、事務ならばそれはいい。教育は思想であり、人格の感化であり、心と心の影響である。法律がいかにたくさんあつても、それが見えないようにしていくらもできます。そういう方へ追いやつたらどうなるか、私は非常にこれを憂えるのであります。従つて私はこういうわずかな少数者のために、それをためるために――しかもそれは是正できている。現行法ですでにできておる。それもかかわらず、なおこういうような法律をこしらえることは私は反対です。  私は概括的に申したわけでありますが、昔から思想には思想をもつて制するというふうに言つております。子供教育しているとわかりますが、あまり学校で厳格にやれば子供は蔭にまわつて悪いことをやるようになります。善良な熱心な先生をそういうことで縛つたあかつきにはどういう結果になるか、これを私は国家のために憂うるのであります。信任は尽忠を生むと申しますから――行過ぎや偏向教育は、もしあれば私もいいとは思いません。もしあつたとすれば、それは先ほども申すようにちやんと現行法で取締ることができるのだから、まずそれ以上の多くの教育者を信任しなければならぬ。現場の先生は、自尊心を傷つけられ、権威を落し、たえられないというふうに言つております。だから政府教育者を信ずることが大切であり、教育者を尊重することが大切であります。  次にこれも概括的に申すことになりますが、教育基本法、これも私が多く述べるまでもなく皆さん御存じの通りでありますが、その前文で、「日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の表現は、根本において教育の力にまつべきものである。」とあるように、憲法で定めたこの理想の実現は、根本において教育の力にまたなければならぬ。それほど教育は大切なものである。またその次には、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する」とあります。教育は実に大切だから教育を重んじなければならぬと私は思う。教育を重んじなければ教育の実は上りません。この重んずべき教育をする教育者はやはり重んじていただきたい。重んじなければならぬ。尊重しなければならぬ。尊重するということはどういうことであるか、物心両面において尊重することであります。待遇することであります。まず物質的の待遇から申しますと、まだ薄いと思います。先生たちは人の子供教育することはできるが、自分子供教育することはできない。私は信州でありますが、信州の先生は子供を東京へ勉強に出せません。しかしその物質の待遇は甘んずるとしましても、せめて精神的の待遇、教育者を重んずるということ――戦前郡是製糸が全国一の良質の糸をつくつたというが、これは結局社長が教育を重んじたからであります。物質的待遇も大事でありますが、それが薄くとも、せめて、教育は大事である、教育者は大事である、重大な使命と責任を持つておるから、これを信じ、これを重んずる、こういうふうにしていただかなければ、私は教育の実は上らぬと思います。ところが今度の法律は、精神的待遇どころか、逆に法律で刑罰を科す、これは実に教育者を侮辱し軽視するものであると考えます。  またある論者は言いましよう、いくら法律をつくつても刑罰をつくつても、それに触れなければいいじやないか、こういう論者がありますが、これは一を知つて二を知らない。教育者の側に立つて考えてもらわなければならぬ。触れなければ何をしてもいいか、これははなはだ失礼でありますが、議員の各位がおいでになりますが、かつて――今はないでしよう、かつては議員のうちから刑罰を受けた人がありますが、そのときにもし、どうも重大な責任を受けて、国権を議すところの議員のうちにそれがあつてはいかぬというので、議員を縛るような規則をつくつたら、皆様はどういうふうにお考えになりましようか。いくら刑罰をつくろうが、法律をきめようが触れなければいいというが、これは教育者の側に立つて考えれば、これほどつらいことはないですよ。それほどわれわれは心配している。それまでにわれわれを縛るのか、実にこれは残念である。それだから弱い教育者はこれで志気が衰えて、萎靡沈滞するでありましようし、強い教育者は反感を持ちます。もしこの法案が成立した場合には、政府に対してどういう考えを持つか、これを支持する議員各位、その政党に対してどういう考えを持つか、善良なる五十万の教育者はどういう考えを持つか、その結果を私は実に恐れるのであります。その結果は、今教育者に人材を招致しなければならぬけれども、人材の招致は非常にむずかしくなつてしまう。教育家は経世家である、また経世家でなければならぬ、こういうふうに申します。私もそういうように思います。それはもちろん子供の個性を伸ばし、天分を伸ばし、能力を伸ばして、そうしてその子供が世に立つたときには、それに応じた職業を得て生活するとともに、基本法にあるように平和と真理を愛する子供をつくつて、その子供が将来世に立つたときにはどうか、それはその生活が問題になります。どの子供もみんな個人の尊厳を重んじて、たとい能力の悪い子供でも、何かしらやつて世の中に立てさせなければならぬわけですが、現在はそれもできないほど悪い世の中であります。子供が将来世に立つたときには、憲法に規定されてあるような民主的で平和的な文化国家ができるようにということを教育者は切に願つて、毎日量的には小さいけれども、それをやつておるわけであります。この憲法にある大理想理想として日々の仕事に当つてこそ、初めて教育者に熱が出る、小さいながらもそれをやるという意義があるのであります。しかしそうやつたけれども、もし国の政治民主主義に反したり、平和主義に反したり、文化主義に反したような政治をやられれば、粒々辛苦した教育者の努力は水泡に帰してしまうんです。従つて教育者自分子供教育すると同時に、国家のために政治政策を批判して、その政策がもし教育理想にかなう政策ならば、また教育を重んずる政策ならばこれに賛成し、これを支持する政党を支持するのである。もしどの政策にしても、われわれの理想を不可能ならしめ、妨げる、あるいは教育を重んじないような政策には反対し、それを支持する政党には反対する。これが真の政治的中立であると私は思う。教育者は両方やらなければならぬ。もしそうでないならば、戦時中のようにその政府に盲従して、またちつとも批判しないで、こつこつやつてもその効果はあがらない、いい国はできないんです。そうしてそのときの政府に盲従するというようなことになつたのでは、教育基本法にあるところの大事な理想がそのときどきにかわつてしまう、一貫できない。つまり私が言うのは、教育理想に照らして、教育をほんとうに重じ、この教育の大事な使命を果す上において、いい方に賛成し、いけない方は批判し、反対する。私はこれが教育者として非常に大事だと思う。ところが私は今の教育者には教育理想を貫くところの熱意、国家を思う熱情がまだ薄いと思う。(「説教はやめたまえ」「説教じやない」と呼ぶ者あり)説教じやない。この法案が出た結果は、この理想を貫く熱情、国を思う熱情を教育者から失わせやしないかということをおそれるから申し上げる。  次に各案について申し上げます。第一の政治活動の禁止の法案でありますが、地方公務員というのは意味が非情に深いのであります。なぜかというと、国家の国民をつくる、従つて国家に対する理想理想としてやるとともに、町村の先生であるから、いい町村民をつくるということが非常に大事なのであります。従つて地方公務員身分ということは、その町村の先生ということである。町村に根をおろし、腰をすえて、打込んで、そうしてその町村の実情をよく調べて、将来子供がいい町村民になつて、その町村をよくするというところに、私は地方公務員というものの大事な身分があると思いますが、その地方公務員法のうちの政治活動のところだけを国家公務員並にするということは、私は法律の体系上非常に疑義があるのであります、同じ地方公務員でも、役場の吏員も地方公務員である、先生も地方公務員である。役場の吏員は政治活動をすることができるが、先生だけを差別待遇するということは、はなはだよろしくない。ことに地方教育委員会を抑制するということは、地方分権ということに背馳しやしないか、こういう点において私は政治活動制限法案には反対である。  なお先ほど申し上げたように、国の大事な教育理想を貫き、ほんとうに使命を来すためには、やはり教育を重んずる政治が行われなければならぬ。それがためには、議会へ教育理想を貫いたり教育を重んずる議員を送らなければだめなんだ。そういう点において、やはりいざとなれば教育者も団結して、大いに教育理想を実現し、教育を重んずるような議員を送ることはさしつかえない――さしつかえないどころじやない、むしろやつた方がいいんだ。そういう意味においてこの特別法には反対である。  次の中立性でありますが、「何人も」というのでありますが、教唆扇動ということは実にはつきりしないのでありまして、はたして教唆扇動しているのかどうか、またそれを受けた先生が教室で特定政党を支持しているか、反対しているかということはなかなかわからないのであります。  いま一つつけ加えることは、この法律ができれば、この法律に対する責任は司法行政である。この法律が出れば、警察官は責任を持つてこれを調査することになるのであります。今でも思想調査をやるというような非難がありますけれども、これに対して責任を負うのは司法官であり、警察官である。そこで扇動しているかどうかということを調べなければならぬ。そしてまた子供にそういうものを扇動されてやつたかどうかということも調べなければならぬ。ここに私は警察力の介入というものを非常におそれるのであります。当局は介入させないとおつしやるけれども、現在すらも警察官は行き過ぎをやつておる。それをただやらないというくらいでなく、行き過ぎをとめる法律を一緒にこしらえてもらわなければならぬという結果になる。こしらえないときには、これは警察官の責任として、扇動しているかどうか調べなければならぬ。また先生が扇動されて、教室で特定政党を支持し、反対することを子供に教えているかどうか調べなければいけないということになるのでありまして、これも実に困つた法律である。教育委員会の要請とありますけれども、教育委員会が要請するまでに必ず警察官が介入する憂いを持つものである。  時間もはなはだたちましたが、初め概括的に申し上げ、次に二法案のいけない点を申し上げて、絶対に反対する。
  76. 辻寛一

  77. 小林武

    小林公述人 私は絶対に反対立場でございます。私ども日本教育考えて行く上において一番考えなければならないことは……。   〔発言する者あり〕
  78. 辻寛一

    辻委員長 御静粛に願います。
  79. 小林武

    小林公述人 戦争前あるいは戦時中の教育に対する反省点に立たなければならないということが第一だと思うわけであります。新しい教育というものがそういう反省の上に立つて行くということ。これを戦争に負けたから余儀なくされたというような考えがあれば、これは非常に不遜な態度だと言わなければならないと私は思うわけです。そういう意味でまず第一に日本教育のことを考えますときに、私はやはり戦争前の特徴的な点をあげてみなければならぬと思うわけです。  第一に、戦争前に一番問題になつたのは、政治権力に教育が奉仕したという点であります。これは御承知のように教育勅語というものがあり、国定の教科書があつて、その教科書は教育勅語というようなものによつて示されておりますから、相当非科学的なことが行われておつたり、こういうような教育や学問に対する統制というものは相当強いものがあつたということは、過去の日本教育史をごらんになればよくわかることだと思うわけであります。こういう点、たとえば教師の中においても、戦争中につづり方事件なる事件が起りまして、つづり方をやつた教師が数年間牢獄につながれたという事実があるわけであります。それらの人たちが戦後出て参りまして、あまり共産党員になつ人間も見当らないところを見ますと、これはどうも縛つたのが誤りであつたように私どもは考えておるのであります。そういう学問、教育に対する一つのきびしい統制の背後には治安維持法というような非常にきびしい法律があつたわけであります。そのために教師が非常に無性格になつておつた。いわゆる一個の人間として描くところの人間像とはおよそ反対の存在のものが教師であつたと私は思うわけです。こういう教師がまつたく盲目的に――これは私も含めてでありますけれども、政治権力に奉仕した教育をやつた。その結果、敗戦になりましたときに、われわれ教師は当時どういう批判を受けたかというと、日本教師というものは、少くとも教育にあたつて殉教的な精神を発揮するまでは行かなくても、少くとも最小限の抵抗というものが教育的良心から出なかつたかという批判でありますが、これは私どもにとつてまことに慚愧にたえないところであります。こういう日本の過去の教育の欠点を肯定し、その反省に立つて今後の教育に対する方途が講ぜられるのでなければ、私は非常に危険きわまることだといわなければならないと思います。  こういう観点に立ちますと、今度の二つ法律案は、法律上専門的に言えばいろいろあるでしようけれども、私は教育の中立を維持するという建前に立つているものだと思うわけですが、教育の中立を確保するというよりかも、政府やあるいは政治権力というようなものが教育の中立を破壊する方向に持つて行く危険が非常に含まれているということを考えまして、私はそういう点非常におそれを抱いておるものでございます。このおそれがあるために、何とかこのような法律案は出ない方がよろしいと私は考えておるわけでございます。法律上のことは私はよくわかりませんけれども、教育公務員特例法の一部改正の法律案につきましても、やはり教職員の基本的な人権を剥奪するということのために、先ほど申しました教師のいわゆる新時代の人間としての人間像にほど遠い存在にしてしまうおそれが十分であると私は思うのであります。  日本国憲法が制定されるときにも、国民の基本的人権と自由の福祉を確保するということは、政府の専断による戦争への突入を予防するものであるというような意味のことが書かれてあつたことを私記憶しておるわけであります。このようにわれわれの基本的な人権とか自由の福祉というものは重大なものだということは、政治が認めておると思うわけであります、そういう政治並びに国民が認めて、そうして日本の憲法はでき上つたものだ、過去の帝国憲法並びに過去の日本の一切を洗い流してでき上つたものだと思うわけであります。今それを奪い去るということはどうも納得がいかないのでございまして、この点は、私は教師ばかりでなく、他の公務員の問題をも含めて、世界の労働組合の一つである国際自由労連あたりも問題にしておる点はここだと思うわけであります。なお国際自由労連では、かような考え方の発展がやがて日本をして侵略国たらしめる危険性があるということの警告を発しておるのであります。そういう点私は教職員から基本的人権を剥奪するということの危険性を看取するわけであります。  それからもう一つ、この法律案の中には、教育委員会を否定するというような考え方教育中央集権化というようなことに行くおそれがあることを考えます。教育委員会ができたということは、御承知のように教育地方分権意味しておるわけでありまして、教職員の身分もそのために地公法によつて規定されておるわけでございますが、今度の法律によりますと、どうも身分規定は地公法ではございますけれども、その行為の内容については国家公務員法の適用を受けるというようなこと、ということは、どうも法律立場からそういうようなあいまいな取扱いをしておつて、そうして国家統制に公立学校を持つて行くという行き方でないかと考えるわけであります。大達文部大臣の第一回の御答弁の中に、教育というものの性質上一地域に限るべき筋合いものではないのでありまして、公務たる教育の特殊の性格にかんがみまして国家公務員並に規制するのであります、というような意味のことがございましたが、私はこの考えの中にも、どうも教育地方分権というようなものを否定する考え方がおありのように考えられるわけであります、これは教育中央集権化をかはるあぶない考え方であると考えておるわけであります。またこの大臣の御答弁の中にある問題の一つとして、公務たる教育特殊性ということの解釈でございますが、私どもは公務たる教育特殊性という点からいつて教育者には特に政治的な批判力がなければならぬ、自主的な政治判断の立てられ得るところの能力がなくちやならぬ、こういうものが欠如しているためにこそ、過去の戦前日本教育というものは誤つたということからして、私はどうも大臣の御答弁の中にある公務たる教育特殊性ということが、かえつてゆがめられて間違つた方向に持つて行かれているような考えがしてならないわけでございます。この法律を一瞥いたしますと、教育委員会の精神がどうも没却されまして、文部省の末端機関になるというような傾向が多分に現われて来るというふうに考えるわけであります。大臣のお言葉の中にもあつたのでございますが、監視機関としての地方教育委員会を、強化育成するという考え方があつた思いますと。こういう考え方がこの法律案の中にあるので、私どもはきわめて危険であるというふうに考えるわけであります。  もう一つ、問題の教育中立性確保に関する法律案でございますが、私はどうも教育中立性という概念のあいまいさの中に隠れて、一方的に教師だけが何か問題にされておるというように考えるわけであります。御承知のように、日本の過去の教育を調べてみますと、政治中立の確保に対して教師がじやましたということはあまりないのであります。政府にあまり奉仕したために、日本教育を誤つたと私先ほど申し上げましたが、こういう建前から言えば、基本法に示されている問題でも何であつても、国家も教師もともに中立性というものは守つて行かなければならない。ところが今度の法律改正に至りましては、特に教師だけを指摘いたしまして、政府、国家における教育政策教育行政の面に関するものに対して何ら触れられておらないというのは、過去の体験からいたしましても、これはすこぶる危険性を持つているということを考えなければならない。  それから私は教師といたしまして、この法律の罰則についてでございますが、適用されるところの具体的な行動というものが、どうも明瞭でございません。こういうようなことから、これはきわめて拡大解釈をされる危険性があるわけであります、これは私ども文部省にお伺いしたときにおいても、これは予防法であるということを聞いたわけでございますが、予防法であるということになれば、これは事が起らないうちに十分調べるのでございますから、これは教師に非常に疑いの目をもつて警察官が臨まなければならぬということになるのでありまして、こういう法律の出る前触れといたしましても、現実にたくさん問題が起つておるわけです、これは御承知のように全国的に巻き起つておりまして、新聞あるいは私どもの調査に徴しても明らかであると思うわけであります。こういうようなことから、今度の警察官の取調べあるいは文部省の思想調査に類するようなものを見ますと、どうも少し功名心が働き過ぎて、特に警察官の場合には功名心が働き過ぎたために、行き過ぎがあつたというようなことが多数あるわけであります。静岡県の例に現われましたように、警察官が当分の子供を使つて同級生の子供を調べる手助けをしたというようなことも、これは実は私の方では事子供に関することであるから、事件事件であるけれども、外部に出すことを極力避けたのでありますけれども、かえつて反対の側からそれが出されておるようでございますので、やむを得ず新聞等に出るところまで行つたわけでございます。  特に私はここで申し上げたいのは、今度の二十四の件数にわたつて出されました文部省日教組行き過ぎの裏づけの資料でございます。これはまつたく私どもの心配している濫用されるおそれの見本のようなものであると私は思うのであります。こういうようなやり方で、現在まだ法律化されておらない段階においてもこれまで行くのでありますから、もしこれが法律化されて、正当化されますならば、私はどこまでこれが拡大解釈されて拡張するかわからないということを考えるわけであります。時にその二十四件にわたるいろいろな御調査を当文部委員会ではなされたようでありますが、私は新聞紙で見たのでありますけれども、認識の相違であるなんということがいろいろお話合いのときに出たようでございますが、私は認識の相違なんというあいまいなものでやられるという危険性を特に取上げたいのでございます。これは今のところまだ法律が出ないから認識の相違くらいで収まるのでありますけれども、それが法律として出て、びしびし適用されることになれば、認識の相違というようなそういう論争は抜きにいたしまして、いきなり効力を発して、どのような態度にも出れるということになるのであります。特にそういう場合における文部省の態度としても、警察官が学校に入ることはやむを得ないだろうという態度をとつておられるということになると、私は事は重大だと思うのであります。こういう点で、私どもはまつたく反対の態度をとつているわけでございます。  なお私どもは、教師立場としてどうしても反対しなければならぬと思うことがございます。私どもは少くとも教育勅語はありがたいものだと信じ、国定教科書に従つて政府の指導に従つて、そうしてわれわれは教育をやつたのであります。ところが敗戦になりますと、これはまつたく教師の責任で、あるということを追究されたわけであります。そうして全国の教師がみな適格審査というものを受けて、お前は一体どの程度政府に協力したかという適格審査を受けたわけであります。その適格審査の結果、特にばかまじめに一生懸命になつてやつた者は追放になつたのであります。このときに政府は何をしてくれたかということであります。ということは、教師というものは、政府であるとか何であるとかいうことじやなく、真に教育の本道に沿つたことをやるという、自分の信念から出た行動でなくてはならないということであります。誤つた行動は、どのような権力の背景があろうと何があろうと、これはできないのであります。私どもはそういう点で、あの教育基本法なりあるいは教育関係法規の、いわゆる国民全体に対して直接責任を負うというこの立場からいうならば、、教師はその責任において、自己の信念に従つて行動するということは、これは当然でございます。こういう点に対して、政府が一々統制を下そうとする考え方は、これは私は非常に危険であるということを考えざるを得ないのでございます。  それから、日教組に対して非常にいろいろな御批判がございまして、二十五日の官報を見ますと、日教組に対する御批判で一ぱいだつたように思います。日教組が悪いからこのような法律改正を出すというお話もございましたが、このことは、日教組というものがあつて、その日教組行動が組合員に影響して、そしてそのことが全部教員教育活動に行き渡つているというような考え方に立たれているようでありますが、かような考え方は、これはちよつとおかしいと私は思うのであります。少くともそういうことがないように、教育基本法の八条は、教師としての立場はどのようにすべきか、はつきりそこに示しているわけです。そういうことを認めなければ、私は政党政治というようなもの、議会政治というようなものも否定されるような考え方であるように思います。(「恐ろしい、それだからいかぬ」と呼ぶ者あり)それは考え違いしないようにしてもらいたい。なぜかと言うと、今のように自由党の党員の方々が大臣になつてけつこうだと思います。自由党の党員の方が大臣になつても、教員になつても、これは自由党としての何は受けても、しかし教師自分職務としてやるときにおいては、その職務立場々々があるのでございますから、それに従つてやる、教育基本法従つて教育関係法規従つてやるということは、これは成り立つと思うのであります。そういう意味で、私は日教組の活動をそのまま持つて来て、日教組が存在するから教育をこのように取締らなければならないという考え方には私は賛成できないのでございます。  以上の点から申し上げまして、私はこの法案に対しては絶対反対をいたします。(拍手)
  80. 辻寛一

    辻委員長 最後に元文部事務次官日高第四郎君にお願いいたします。
  81. 日高第四郎

    ○日高公述人 教育に強い、深い関心を持つておる自由な国民の一人として、この問題について私の所信を申し上げたいと申います。(「官僚的ではいかんぞ」「黙れ」と呼ぶ者あり)申し上げるまでもなく基本法の八条には、前の半分には政治的教養が必要であるということが力説されておりますし、あとの半分には政治的中立性か必要であることが説かれておるのであります。今度の問題はこの両方に密接な微妙な関係がある法案だと思つております。あとの方の政治的中立性ということにつきましては、学校の持つておる公共性という点から、学校自身が学問や教育の場であつて政治的のかけひきやあるいは政治的の闘争の場になつてはならないというのが本来の趣旨であると私は了解しております。従つて学校の組織を通じ、あるいは教師立場を通じて特定政党を支持し、またはこれに反対するような党派的な教育をしてはいけないとか、または特定政党に有利であり、または不利であるような政治活動をしてはいけないというのが本来の趣旨であると思うのであります。私はこれが徹底しておつて、こういう事実がないことを望んでおるのでありますけれども、遺憾ながらやはりこれに対する違反の事実が出ておることは否定できないのではないかと思うのであります。日教組というようなものは法的には公務員法による職員団体でありますけれども、実際的には一般の労働組合と選ぶところがないものであるというふうに私には了解されるのであります。そしてその組合運動の基本の方針とかあるいは闘争目標とかいうようなものを見ますと、それがはなはだしく政治的色彩が濃厚であるというのは日教組の人でもいなめないのではないかというふうに思うのであります。むろん広い意味においての政治的色彩ということは、なかなかデリケートであつて、どこまでが政治的でどこから政治的でないということはむずかしい点であるけれども、たとえば吉田内閣打倒なんということは、明らかに具体的な政治的方針であるというふうに、私は思うのでありますけれども、組合がそういう方針を決定するということは、私は組合が非常に政党に近づいておるということの一つの具体的な例ではないかと思うのであります。  もちろん日本教職員政治連盟というようなものも形ができておるという話でありますけれども、実際は表裏一体であるというように聞かされておりますし、おそらくそうではないかと想像しておるのであります。そういう点から組合の基本方針というようなものが組合員を通じて学校の中に持ち込まれるということは、教育基本法八条を犯す一つの契機ではないかと思うのであります。私は日教組そのものを否定する心持は全然ないのでありまして、日教組が組合として正当な任務を遂げるということについては、私は何の不審も持つておらないのでありますけれども、しかし学校は組合の学校ではない。そういう点から考えまして、ことに義務教育を受けておる子供は、彼らには現在は政治的自由はありませんけれども、将来政治的自由を持つべきものとして、可能的にはその自主性を重んじなければならない。いわば白紙のような少年少女に対して一定の方向を持つた、そしておそらくは組合の決議に基くであろうというような政治教育をするということが事実であるとするならば、これは私どもは百数十万人の子供政治的自由のために、黙つてみていてはいけないのだ、そう思うものであります。ことに相手が未成熟であるという、この点が教育上重大な問題であります。大学生に対して政治上の議論をしたところが、大学生にはある程度の判断力もありますし、また参政権もあるのでありますけれども、義務教育を受けておる子供たちは、原則として参政権を持つておらない、政治的未成年者である。この政治的未成年者に対しては、できるだけ広い選択の余地を残しておくということが、日本教育のために必要なことではないかというふうに考えるのであります。(「それは日教組も認めておるんだよ」「黙つて聞け」と呼ぶ者あり)こういう点も考えまして、私は文部省があるいはむしろ文部大臣が、日本教育の間接的な、いわば行政上の責任から考えまして、何らかの処置を必要とするということは、私は理の当然である、こういうふうに思うのであります。(高津委員「それは教育基本法に書いてある」と呼ぶ)しかもその教育基本法に書いてあつても、それを犯す事実があるのであります。(高津委員「それは九牛の一毛だ」と呼びその他発言する者あり)
  82. 辻寛一

    辻委員長 高津君、あとで御質問をお許しいたしますから、・・・・・。
  83. 日高第四郎

    ○日高公述人 それで中立性を守るために、政治的行動がある程度の制約を受けるということは、何も教員だけではないのでありまして、裁判官もそうでありますし、検察官もそうであります。こういう点から職務の執行上やむを得ない制限は他にも例があることでありますし、特に義務教育を担当する教官は、その組織を通じ、もしくはその場を通じてへんぱな政治教育をしてはならないということを保障するために、若干の政治的行為制限ということは私はやむを得ない処置だと思います。  具体的の問題となりますと、教育公務員特例法というものは、先ほどもここで滝川氏がお話になりましたように、地方公務員である教育公務員政治的行為制限を、国家公務員たる教育公務員のそれと同じにする、この点には私は理由があると思うのであります、なぜかといいますと、義務教育というものは憲法二十六条に規定されて課せられておるものでありますし、また教育基本法の第四条によつて規定せられておるものであつて、決してその地方の市町村の子弟を市町村のメンバーとして教育するばかりではなくして、個人としてのほかに、また国民としてもこれを教育しなければならない。その意味において、公共的な国家的な意味があるのでありますから、その点においては、国家公務員たる教育公務員と、地方公務員たる教育公務員との間の差別は、ほとんどないにひとしいといつてもいいと思うのであります。  それから次の中立性確保のための法案につきまして、私は一つ疑問かあるのであります。それは教唆もしくは扇動をした者が処罰せられるのであつて、その教唆もしくは扇動によつて働いた人間が処罰されるのでないという点、これは私は教員の弱さを考えてしてあるのかとも思いますけれども、これは筋が通らないというように思うのであります。この点はむしろそういう行動をした者が、もし刑罰が必要であるならば刑罰の対象になるべきではないか、こういうふうに考えます。  私はこういう点で、教育公務員特例法の方は、国家公務員である教育公務員と同様に取扱われることには十分な理由があるという点において、また第二の中立性確保法案は、教育基本法第八条を具体化して、これに対して適切な処置をするという意味において、遺憾ながら必要なんだろう、――私は特に遺憾ながらということを申しますのは、なくて済めばない方がいいと思うのでありますけれども、現実にやむを得なければ、遺憾ながらこういうこともしかたがないのではないかと思うのであります。  ただ私は、この法案が出まして世間で論議の的になつておりましたときに強く感じましたのは、この法案自体を論議するのではなくて、この法案が誤られたときのことだけが、非常に過大に論議されておるという印象を持つたのであります。私はただいま日教組行き過ぎのような点を非常に強く申しましたけれども、日教組の側にも、それが政治的にならざるを得ないような理由があつたかと思うのであります。なぜかと申しますと、これは私の知つているごく一部分でありますけれども、つい一両年前に、教育行政の上では一万に近い教育委員会をつくつてしまつた。そのすぐあとで、教育財政の上では義務教育費全額国庫負担ということを言つた。一方は極端に分権化し、一方は極端に集中化するということは、私は常識では考え及ばないことなのです。こういうことを今の政府政党がする限りは、その裏に何か意図があるのじやないかという疑惑を生ぜしめて、そうして組合の力を非常に刺激したであろうことは推察に余りがあるのであります。私はこれは特定政党やあるいは特定の組合に対して言うのではなくて、全般的に日本教育を健全に、まつすぐに育てるためには、相手の言うことを十分に開く雅量を持つて、問題点の所在をできるだけ縮めて御論議いただくことを陰ながら希望してやまないのであります。日教組の方で言つて来ること――政府のやることは、理由が立つていてものめない、政府のやることは理由があつてもなくても反対をするというようなことは、私はデモクラテイツクな政治形態ではできるだけ避けなければならないのではないかと思うのであります。こういう意味において私は双方に、日本国民のために御主張願うことを希望してやまないのであります。
  84. 辻寛一

    辻委員長 これにて公述人各位の御意見を一応承つた次第であります。  これより委員各位の質疑に入りますが、発言の通告が十二名に上つておりまするので、大体六時前後に終了したい心組みでおりますから、一人当り質疑応答をくるめて十分以内くらいのところでお願いいたしたいと存じます。順次お許しいたします。小嶋太郎君。
  85. 中嶋太郎

    ○中嶋委員 今日私たちかこの法案に対する態度をきめる上において、皆さん方の御意見を伺つてたいへん参考になりました。  松岡さんにお尋ね申し上げますが、地方公務員国家公務員との区別が、先生の立場においてたいへん重要な特殊性があるというお話でございました。私の考えでは、教育内容地方的なことをいろいろ教えるという点については相性もございましようけれども、国民義務教育を担当する点からいえば、公務員の別は、いわゆる給料を払うといつたような、雇い主の関係においてのみ国家と地方区別があるのであつて、それ以外においては一般的国家の先生であるということに私は違いないと考えておりましたが、御意見いかがでございましようか。
  86. 松岡弘

    ○松岡公述人 御説の通り、国家の先生であると同時に市町村の先生である、私は国家に対する理想を貫くことが先生としては非常に大事なことであると思います。同時にまた、ずつと縦にといいますか、同家、それからして市町村の先生として市町村に属しておる、そういうふうに思うのであります。
  87. 中嶋太郎

    ○中嶋委員 次に小林さんにお尋ね申し上げますが、いわゆる六・三の小学校、中学椛の教育義務教育であるということについては賛成でございますか、否定でございますか。
  88. 小林武

    小林公述人 賛成でございます。
  89. 中嶋太郎

    ○中嶋委員 小学校、中学校教育義務ということを肯定いたしますならば、教えることにつきましても国家の統制の基準によるべきものだということをお認めでございますか。
  90. 小林武

    小林公述人 私ども承知いたしているものは、今の学校関係法律では、義務教育といえども地方分権の形の方がよろしいという立場に立つておると思つております。なお義務教育に関する法律の中には親がどうしなければならないとか、国がどうしなければならないとかいうような規定は御存じの通りあります。しかしそれはそういう意味以外のことを拘束していないようであります、現行法に私は賛成いたします。
  91. 中嶋太郎

    ○中嶋委員 教育については地方分権を非常に重要視されておられるという御意見でございましたが、義務教育において地方分権ということがどういう意味において特殊性を持ち、また必要であるとお考えでございましようか。
  92. 小林武

    小林公述人 教育は、やはり先ほど私が申し上げましたが、国家権力で統制されるというような形は好ましくないという立場でございます。
  93. 中嶋太郎

    ○中嶋委員 義務教育という業務は、国家の統一した一つ主義のもとに義務をしておる。かつて自分はすかぬからといつて子供を一人で教育するということは許されないで、これは義務づけられておる。これは国家に対する業務を負つておるわけであります。そうした時分に教育というものが地方分権的でなければならぬということは、義務教育を認めることと矛盾はいたさぬでございましようか。
  94. 小林武

    小林公述人 私は矛盾いたさないと思つております。
  95. 中嶋太郎

    ○中嶋委員 その次にお伺いいたしますが、教師立場から、適格審査をやられた、あるいは追放があつたということに対して今御非難かございましたが、これに日本が占領下において行われたことでありまして、こういうことをわれわれは今度は反省して独立国の立場からやらねばならぬということであつて、これを材料にして、そして飛躍してただ一概に戦争前における日本教育が全部間違つておつたと言うようなことはどうかと思いますが、やはりそうお思いでございますか。
  96. 小林武

    小林公述人 占領下の行き過ぎの中に行われたとおつしやるわけですけれども、私はやはりそうは思わないわけです。占領下で行われたのだからこれはまつたくいたし方ないというような考え方は持つておりません。やはり今の教育基本法、その教育基本法の源泉をなしている憲法、その中にうたわれている教育の見方というものを私は是といたします。これはまた今日の教育がこの結論に近いものだと私は考えておりますので、やはり過去の教育はあやまちが多かつたと考えております。
  97. 中嶋太郎

    ○中嶋委員 次に、あなたは日教組の幹部であられるそうでありますが、日教組の中に共産党員が六百名近くいるということを聞きますが、これは事実でございますか。
  98. 小林武

    小林公述人 私は知りません。何人おるか調べる気持もありませんし、そういうことはわかりません。
  99. 中嶋太郎

    ○中嶋委員 これは共産党の人が日教組の中におるかおらぬかわからぬのか、言いたくないのかわかりませんので、次の質問が少し弱くなりますけれども、できれば一言でよろしゆうございますが、今日の日本共産党は世界共産党の支部であつたのがデミトロフのテーゼ以来人民戦線の戦略を用いましてかわつております。しかしながら日本共産党といい、あるいは中国共産党といつても、実際は国際共産党のカムフラージしたものであるということに聞き及び、また大体私たちもそういうふうに信じさせられておりますが、あなたの日本共産党に対する御認識があれば、ただ参考のためにお聞きしたい。
  100. 小林武

    小林公述人 私はれ共産党とか自由党とか、それらのほかの政党の批判をしたりするような考えは持つておりません。それはお答えできません。
  101. 辻寛一

    辻委員長 前田榮之助君。
  102. 前田榮之助

    ○前田(榮)委員 まず第一に滝川先生にお尋ねする次第でありますが、今回の法案教育公務員特例法の問題の中で、人事院規則の例によるというようなことがありまして、政治活動制限する点を地方公務員国家公務員並にして、国家公務員は人事院規則によつていろいろな制限を受けておるのであります。国会で決定した法律で刑罰や行動制限というものをしないで、国家公務員は人事院規則に基かなければならぬことになつておるために、多くの行動制限を受けておるわけですが、こういうことは立法上法学者として認められる制度であるかどうか、先生の御見解をお伺いしたいのであります。
  103. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 理論上はまずい立法だと思います。法律を規則で制限するということはまずい立法だと思います。
  104. 前田榮之助

    ○前田(榮)委員 それで新しい日本民主主義政治のもとにおいてかようなまずいことが行われようとしておるのでありますが、世界の立法例のうちにかような無理なやり方が多少ありますか。先生の広い見聞の中でこういうものがあるのかどうか、私はふしぎに思つておるのでありますが、もし例があるといたしましたならばお知らせを願いたいと思います。
  105. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 今その点についてどういう例があるか私存じません。しかし法律をつくるという場合に、刑罰を命令に委任しておる例はたくさんございます。
  106. 前田榮之助

    ○前田(榮)委員 次に松岡さんにちよつとお尋ねするわけですが、長野県は昔から教師の思想活動が全国的に非常に活発であつたことは御承知の通りでありますが、今度の文部省の偏向教育の事例の中には、長野県はないようであります。どちらかというと、偏向ではないか、赤色化されるのではないかと世間で思われるような長野県にそれがなくて、むしろほかのところ、山口県等にあるというようなことになつておるのでありますが、長野県の教職員団体関係されておる教育家として、これはどういうところに特色があると思うか、それには何か理由があるのか、この点をお聞かせ願いたいと思います。
  107. 松岡弘

    ○松岡公述人 今の御質問にお答えするのはちよつと困るのですが、自分のことにもなりますし、別に理由というほどのものもないわけですけれども、とにかく教育基本法には――学校のあり方といつても非常に漠然としたものですが、その中には義務的要素も含まつておることだし、従つて教育活動も当然含まつておるので、その学校内において特定政党を支持したり、反対したりすることはいけないとなつておる、それを守るわけですが、これは地方公務員法にもちやんと規定されていることであります。それから県の教育委員会では、教育基本法に対する意見書というものを出している、これをみな先生たちも了承しておるというようなこともありますし、いま一つは、これはどうも自分のことになつていけませんが、私の方は実は組合と教育界とが並行しておりまして、それぞれの分野をきめてやつております。組合は待遇改善、身分その他のこと、教育界は文化、教育の実際のことというふうに分野をきめてやつておりますが、それがためにだかどうかはわかりませんが、またどういうところからそう言うのだというとちよつと私どもでは困るのですが、要するに先生たちが自主的にやつているということもあるのじやないか、それに教育基本法その他の教育三法を守るということで、行つていることじやないか、こんなふうに思います。どうも御満足なお答えができませんで・・・・・・。
  108. 前田榮之助

    ○前田(榮)委員 その次に日高さんにお尋ねするわけですが、日高さんは今回の二つ法律案に御賛成の意思を表明されまして、教師たちは教育に専心せねばならない関係もあつて教師政治活動等をやることは教育生活の上からむしろ逸脱しておるがごとき御意見があつたようでありますが、現在の法律の上でも義務教育関係はいわゆる地公法の制限を受けておる。地公法は一切の政治活動に対し制限なしというのじやございませんで、多少の制限をしておるのですが、この制限では足らないで、国家公務員並の制限をやるのが妥当だという建前で今度の法律が出ておる、これは賛成だと言われるのでありますが、午前中の公述人意見にも出たのでありますけれども、むしろ国家公務員法というものは無理な制限をしておるのであつて、右へならえせねばならぬ場合においては、むしろ地方公務員法の精神を国家公務員法に当てはめるのが妥当じやないかというのが、大体の識者の意見だと私は思うのであります。  それで日高さんにお尋ねいたしたいのは、学校教員も市民であるということを忘れてはならぬと思うのであります。学校の教壇を政治闘争の場にするということはよくないことは、私らも認めるのであります。しかしながら、この人は同時に市民生活をいたし、学校教育職員という職を勤めながらも市民生活を営んでおる、国民生活を営んでおる。国民立場で国家を論じ、国政を批判する、これができない国民はどこかの野蛮国のする仕事であろうと私は思う。そういう意味地方公務員法によつて現在の義務教育職員に適当な制限を――これが適当であるかどうかは別といたしまして、私から見ると大体今の制限は、学校の通学区域内におけるところの一つ制限を受けておるわけです。これをまたとんでもない、関係のないところまでも制限をしようというのが今度の法律であり、国家公務員並にするということなのでありますが、あなたは現在の教職員の市民生活、国民生活の制限までせねばならぬというが、長い間文部省にお勤めになつたからだで、そんなことを考えられたのはどういう理由のもとに、またどういう立場考えられたのか、その点をお聞かせ願いたいと思う。
  109. 日高第四郎

    ○日高公述人 私の申しましたのは、義務教育の場面にできるだけ政治的闘争を導き入れないための用意としては、その方が安全であろうというふうに考えたのであります。
  110. 前田榮之助

    ○前田(榮)委員 どうも私には今の御答弁はふに落ちないのでありますが、これは討論の場ではありませんから、別に討論はいたしません。しかし義務教育の場に政治を持ち込むおそれがあるということは避けなければならぬということは、私前から言つておるのでありまして、それには、やはり地方公務員法においても一つ制限はあると思うのであります。それを一層今度政治的活動制限をするという意味での特例法の改正になつておるのでありますが、そこまで制限せねば、あなたが文部省におられたときの気持から考えて、全国の教職員は信用ができない、あぶないと――これは悪いことを言うなら、マル共や何かの連中は別として――これは全国で六百五十九人だそうでありますから、多少これに輪をかけて、支持者を加えたところで、そう大した数ではないと思います。五十数万の教職員が、その市民生活の上で適当に政治を論じ、また政治を善導しようとして行動を起すごとまで制限しなければならぬほど、あなたらは日本の教職員は信用できない、あぶないと思つていらつしやるのか。あなたが職場へそういうものを持ち込んじやいかぬということはわかります。しかしこういう法律を持つて行けば、職場へ持ち込まれないのか、あるいは現在あるから職場へどんどん持ち込んでいるのか。そういうこを明確にされずに、私は教育に理解を持つているものだということを前提にてしここで公述されて、いかにも日本教育通、教育の権威者であるがごとき言いぶりで御公述なさつたのでありますが、それにしてはあまり学校職員を御信用なさる点が薄いのじやないかと思うのであります。その点の御見解はいかがでございましようか。
  111. 日高第四郎

    ○日高公述人 私は教育通とも申しませんし、そう思つてもおりません。ただ日本教育に対して深い、強い関心を持つて、それを憂えているという意味において申したのであります。  それから私の率直な意見を申しますれば、私は先ほど申しましたように日教組そのものの役割には敬意を持つておりますし、その役割も十分認めているつもりでございますけれども、私の過去の経験から申しますと、遺憾ながら教員組合に政党と選ぶところがないような行動があまりに多過ぎたということを痛切に感じているのであります。五十万の組合員の中には、いろいろ政見が異なつているはずでありますから、それらの者が自由に政治上の立場をとれるようになつていてこそ、組合と政党との区別がつくのだと思うのでありますけれども、選挙の際なんかには組合が基本方針を授けて、たくさんの組合員がいわばその手先になつて働かなければならないような情勢のあることをしばしば私は聞かされております。私の目で見たわけじやありませんけれども、そういうことを聞かされております。そういう意味から、私は政治的運動にあまり深入りしないために義務教育内容を守るために、やむを得ない制限考えているのであります。
  112. 前田榮之助

    ○前田(榮)委員 もう時間が来たようですから、最後にごく簡単に伺います。教育に非常に関心を持ち、理解があるそうでありますが、理解がある方にしてはどうも――日教組の行き方が適当でないように聞かされているということでなしに、理解がある方ならば最後までつつ込んで事実をお調べになるくらいの熱意があつてほしいと思うのです。  それは別としまして、午前中の蝋山博士の公述によりますと、文部大臣が文部行政の長官として五十万教職員に対して腹を割つて話をしたということを聞いていないと言つていらつしやいました。そういうことで、今日あなた方が御心配なさるような、職場へいろいろな政治活動を持ち込んだと御認識なさるようなことが起ることになるのだ、こういう話であつたのでありますが、こういうことはあなたはどうお考えになりますか。むしろ文部行政をやつている人は――あなたは次官としてやつて来られたのですが、たとい教職員の中にやじを飛ばす人があろうが何があろうが、積極的に自分意見教育に関する抱負を述べて、国家国民とともどもに日本教育行政が建設的に発展するようにする努力が足りなかつたと言つているのでありますが、そういう点に対する御見解はいかがでございますか。
  113. 日高第四郎

    ○日高公述人 私は文部省にも欠陥があつたと正直に思います。しかし組合の方にもずいぶん非礼な点が多かつたと思うのであります。たとえて申しますと、腹を割つて話をするために人数を限つてつて来てくれと申しましても、どやどや入つて来て、いわば多数暴力でもつて私どもの言ふことが言えないほどたくさん入つて来られるのであります。私どもが誠意を尽して話をしようと思つてもできないような、いわば闘争形態をもつて来られるのでありまして、闘争形態は話合いの形態ではないのでありますから――もちろん文部省にも足りない点があつたと思いますし、私自身にもそういう点はあつたと思うのでありますけれども、しかしこれは私どもだけの責任とは決して思うことができないのであります。これは組織的な力によつて、私どもと話してわかつたといつて帰れないような空気で来られるのであります。この点はもう少し御了解をいただけると幸いだと思います。
  114. 辻寛一

    辻委員長 次に竹尾弌君。
  115. 竹尾弌

    ○竹尾委員 滝川学長さんと小林委員長さんにお尋ねいたします。第一に滝川学長さんですが、先ほど先生はこういう法律が刑罰をもつて臨むことはどうであろうか、こういうことでございましたが、これには教唆扇動――これは先生の領分で私どもの領分じやございませんが、教唆の独立性と申しましようか、これは従属しているんだから、教唆だけでは縛れないということも言われておりますけれども、危険があれば刑罰の対象になると思うので、教唆の独立性を認めて刑罰を科することも考えられると思いますが、その点いかがですか。
  116. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 今のお話は教唆は従属していると言われますが、理論上正犯が成立した場合に教唆犯があるんだ、こういうことになりますが、この法律の場合は、正犯が成立していることを前提にして、正犯は罰しないうという意味なんです。教唆を罰するという意味なんですね。これを今お尋ねになつたことを関連して申し上げると、正犯も成立している、教唆犯も成立している、しかも教唆犯だけを罰して正犯を罰しない、こういう法律だろうと思います。そういう場合に片方だけを罰して片方を罰しないという法律はありませんし、それから私がどうも扇動という観念がはなはだ不明瞭だと申し上げたのは、教唆というのは相手方の意思のないものに対して相手方に意見をつくらして何かやらす、扇動というのは一方的の行為なんです。だから非常に証明はむずかしいと思うのです。だから刑罰法としてははなはだ不適当だ、こういうことを申し上げたのです教唆の方は前からある観念から相手方の意思を確定さすという条件を持つております。扇動の方はもう何か一人言を言つて扇動になるかどうかわからないが、これは問題なんです。たくさんの人間をつかまえて大いにストをやれといつた場合に、ストライキの扇動になりますが、横を向いてストをやれといつた場合に扇動と解される危険がおるかどうか、扇動も刑罰の規定としては少し不適当だということを申し上げたのであります。
  117. 竹尾弌

    ○竹尾委員 それは私はそう思いますが、ただ問題は教唆の問題でありまして、先生のおつしやられるように、教唆は独立して教唆だけで罰することができる、こういうことでございますか。
  118. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 教唆を独立して罰するというのは、この場合には正犯を罰していない、むろん正犯を罰しないで教唆だけを独立して罰することはできます。
  119. 竹尾弌

    ○竹尾委員 そういうことをしてもよろしいんじやないか、私はこういう結論を出したわけです。午前中に私は蝋山先生に対してもう少しお尋ねしようと思つたのですが、罪刑法定主義蝋山教授が出されまして、そうして罪刑法定主義がおそらく絶対のものであるというように感ずるがごとき御答弁でございましたが、これは御承知のように学長さんが一番よく御存じなんで、戦後の立法はとにかく大部分がその首条に目的を書いてうたわれておるというようなことは、これはもう罪刑法定主義のある意味の軟化現象であつて、そういうことは学界としても当然認められることだと思うのです。そういう意味で刻下のいろいろな問題がいわゆる政治中立性にからんで問題になつておりますけれども、私は午前にもちよつとお尋ねしたのですが、政治中立性、特に教育政治的中立性ということが一番問題になるのであつて、この点を先生はどうお考えになりますか、ひとつ御回答願いたいと思います。
  120. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 今の教唆を独立して罰するという点はかまわないのですか、お尋ねになつていないのですか。
  121. 竹尾弌

    ○竹尾委員 それはもうよろしゆうございます。
  122. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 罪刑法定主義ということを蝋山さんがどういう意味でお使いになつたか私承つておりませんが、罪刑法定主義というのは、ある行為が犯罪であるということ、その犯罪に対してどういう刑罰を科するかということを法律できめる、こういうだけのことで、正犯を罰しない場合に、教唆犯を罰していいか悪いかというようなことは、罪刑法定主義とはおそらく関係ないと思います。
  123. 竹尾弌

    ○竹尾委員 それは私もそういう意味では関係がないと思いますが、なぜ私はそういうことをお尋ねするかと申し上げますと、罪刑法定主義が固定不動の非常にゆるがし得べからざるところの学説であつて、それをわれわれは大いに遵法しなくちやならぬというようなお言葉のように、伺いましたけれども、そういうことは戦後の法律現象としてだんだん軟化しつつある、そこでこういう法律に対しても、戦後独自の見解のもとに、教唆の独立性を認めて立法してもよろしいのじやないか、こういうことをお尋ねしたかつたのです。
  124. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 それは教唆の独立性を認めて立法するということは、罪刑法定主義とは関係ありませんです。
  125. 竹尾弌

    ○竹尾委員 それは関係ございませんでしようが、ただそういう法律現象が非常に固定したものであるというようなことをおつしやつたようですから、そういうことは戦後には、とにかく首条の法律の目的云々と書いてあるようなところは、これは国家のある意味の指導、極言すればある意味では統制といつてもよいかと思いますけれども、そういう思想が――文化国家思想なんという思想も出ている現状でありますから、かわつて来ている、だからかわつて来た現象に対しては、独自の法律をつくつてもよろしいじやないか、こういうお尋ねなんであります。  それから教育政治的中立、これをどうお考えになりますが、これは非常に大事なことです。曖昧模糊として概念がつかめないと皆さんがそうおつしやる・・・・・・。
  126. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 政治的中立性ということはこれは必要だと思います。つまり一党一派の意見にゆだねてはならないということで、これは大学もむろんそうですが、それ以上に特に大学以下の学校では政治的中立性ということは必要だと思います。
  127. 竹尾弌

    ○竹尾委員 そうしますと政治的中立性とは一党一派に偏しないことであると、こういうことでございましようか私はもう少し深い学問的な理論的指拠があつてしかるべきだと思うのですが、その点はどうなんです。
  128. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 これは大学の教育と、それ以下の学校とは違うと思うのです。大学は政治の探究を目的としたおります。だから大学ではこの問題は研究の自由の立場から、これはもうすべて許されると思うのです。ただ学生を通じてそれを宣伝するとかということは、これは許されないでしよう。しかしながら研究すること自体、考えること自体は大学で許されているものです。  ところが高等学校、中学校、小学校――小学校ではこれわやはり国民として今から白紙の状態で進んで行くものですから、それに対して一党一派という言葉が非常に抽象的なんですが、それ以上のちよつと適当な表現を持ちませんからそう申し上げたのですが、ある種の政治思想を注ぎ込むことはいけない、こういうことなんです。
  129. 竹尾弌

    ○竹尾委員 どうも私のお尋ねに対して、私の尋ね方が悪いと思いますが、それであまりはつきりした御返答もいただけないのですが、これは与党の諸君に私はしかられるかもしれませんが厳密の意味における政治的中立なんということは、これは学問的には私はないと思う。そうなると、現在流布されておるところの法律学説のある一派に傾くというようなおしかりを受けるかもしれませんが、そういう意味ではないのです。統一された国民の思想というような理論が今行われているようですが、とにかく多数者の意見というものが少数の人を支配する、こういうような考え方が当然考えられることだと思うのです。そこで、そういう考え方からすれば、国にはおのずから国民思想の統一された一つのものがなければならぬ。それがやはりそうした思想を追うことが、私どもの務めじやないか、こう思うのです。おのずからそこには国是と申しましようか、何と言つてもよいけれども、とにかくそういうものがある、そういうものに適合するものが正しくあつてよいものであると、こういうふうに私どもは思うのですけれども、この点はどうなんですか。
  130. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 社会生活においては、今おつしやる通り多数決に付するのが当然と思います。ことに国会制度をとつている以上は、少数者は大いに議論を闘わすことは必要でありますが、議論を闘わした結果、自分の説が少数で負けた場合には、多数にゆだねるだけの雅量があることが必要だと思います。
  131. 竹尾弌

    ○竹尾委員 そこで、そうなりますと統一された国民の意思というものがあるのですから、その意思をお認めになる以上は、それに相反するような立法やその他の行政はこれは悪である。悪いことである、こういうふうに私どもは考えておりますので、その場合にこの二法案というものは統一された国民の思想にマツチする法案であると、こういうふうに私は考えているのですがその点ひとつ・・・・・・。
  132. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 悪であるとか善であるとかとおつやることは不適当だと私は思うのです。
  133. 竹尾弌

    ○竹尾委員 その点は取消します。
  134. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 しかしこの二法案が国会で多数決をもつて通過すれば、国民としてはそれに従うだけの雅量を持つことは当然だと思います。
  135. 竹尾弌

    ○竹尾委員 わかりました。
  136. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 ちよつと、あなたはさつき学問とおつしやいましたが、・・・・・。
  137. 竹尾弌

    ○竹尾委員 いや、私は学者ではありませんから、その点は・・・・・・。  それでは小林委員長お願いいたします。この日教組の問題ですが、この間委員長さんが、日教組は特に共産党とは何ら関係がない、こういうような談話を発表されておつたように私は記憶いたしております。これは記憶でございます。ところで日教組政治団体と見てもよろしいのだというような説をいろいろなしておるものがありますが、この点日教組は本来から行けば、委員長が一番よく御承知の通り、これは職員団体であつて政治運動をしてはならぬ団体でありますが、現実においては日政連とか何やらの形においてしておる。そこで日教組はそうした政治活動現実に――形はどうでもいいのです、そういう政治活動を認めておられるのかどうか、その点をひとつ。
  138. 小林武

    小林公述人 共産党に関係がないと言つた私の談話は、どこでしたか私もはつきり記憶いたしませんけれども、私はどの政党でも、共産党であろうと何であろうと、日教組の内部に入り込んで組合に干渉するようなことは、絶対してはいけないという考えを持つておりますので、お話の通り関係は全然ございません。  それから日教組政治団体であるというようなことを先ほどのどなたかのお話の中にありましたけれども、かようなことについても考えておらないわけであります。私どもはどこまでも職員団体だと考えております。  それから日政連のことをお話になりましたが、先ほどから表裏一体とか何とかいろいろおつしやいましたけれども、私どもは日教組と日政連とは何ら関係のない団体である、こういうように考えております。それから日教組としては政党といわれるような政治活動はやろうともしませんし、またやつておりません。
  139. 竹尾弌

    ○竹尾委員 それは水かけ論になりますから、やつておらぬと言えばこれはそれだけを聞きおかなければなりませんけれども、いかに日教組が熾烈なる政治運動をしておるかということは衆目の見るところであつて、この法案の立案された原因の一つは、まさにそこにあろうかと私は思います。  そこでもう政治活動は一切禁止されておる、全然関係がないとおつしやるから、これ以上質問するすべはないのですが、もう一度お尋ねします。昼の時間に高津委員が共産党の運動、あるいは共産主義者というものは暴力を肯定し、プロレタリアの独裁を認め、議会政治を軽視して院外の闘争を大いに重視する、そういうものを言うのだ――これはある程度それで間違いないと思いますが、そこでお尋ねいたしますけれども、日教組のやつておられる運動が、暴力主義に傾くかのごとき行動が相当あろうと私は思うのです。これは、私はいつか引用したことがありますが、昨年あなたの方で出された実力行使闘争方針といつたような宣言書の中に、この実力行使というものは悪いことであつて、非合法である、遵法的でないのだ、しかしそれをあえてやらなければならぬから大いにやりたまえというような激励の文書があつたと私は見ておりますけれども、こういうことは少くとも暴力を肯定する思想に近づいておるところの運動であるというぐあいに私はとりますけれども、そういう点はどうでしようか。  それからもう一つ、例のすわり込みの問題です。ああいうことは少くとも普通の職員団体のやるべき行動でないと思う、こういうぐあいに解釈いたしますが、その点どうでしよう。
  140. 小林武

    小林公述人 お尋ねの暴力主義に傾いておるというお話ははなはだ迷惑だと考えます。私どもは決して暴力主義に傾いておるような事実はないのです。もしおありでしたらひとつ具体的な事象を示しておつしやつていただきたいと思います。  それから非合法活動を認めて、その非合法活動をやれというような宣言を発したというお話でございますが、日教組は非合法活動をやろうという考えはございません。またやつてもおりません。  それからすわり込みでございますが、すわり込みについては、先ほどからいろいろお話がございましたが、私どもはすわり込みを別にやりたいと思つておりません。話合いがつけば、なるたけ話合いでやつて行きたい、すわり込みなどということを別に私ども好んでやつたわけではございません。ただ私どもがやりました例は――以前のことにさかのぼつて申すよりか、私の事例の方が一番よろしゆうございますから申し上げますが、先ほどの公述人の方のお話にあつたように、私はやはり文部省の大臣初めどの方でも十分話合いをしてもらいたいと思つております。これにはやはり時間の制限とか何とかもなくしていただいて、よくわかるように話合いがつくようなことになれば、私はすわり込み等はいらないものだと考えております。しかし私どもがすわり込みをした場合のことは、私が初めて委員長なつたときのことでございましたが、その際私どもは初めて執行部ができまして、新しく執行部も出発いたしましたことですから、日教組として大臣に会つていろいろお話をしたい、こういう申入れをしたのでございますが、私はそこで重大な問題に一つぶつかつたわけでございます。日教組と交渉するとか話合いをするとか、そういうものじやなく、陳情ということであれば受けてやろう。そういうのであれば、まず一番初めは委員長一人来たらどうかというふうなお話でございました。私はこれではやはり困る、少くとも日教組という一つ団体は、法的には認めておられないかもしれませんけれども、少くとも日教組は五十万の教師の代表の団体として存在しておる。これはどなたも認めていただいておりますから、やはりそれを認めた上においてひとつ話合いをしてくれる、それは交渉であろうが何であろうが、言葉はいいのですが、団体の代表として話合いをしてくれる。その際にはやはり一人というようなことでなく、執行委員と話合いをやるという態度をひとつ示してもらいたい。そうすれば何もすわり込みをする必要はない。しかしながら、・・・・・(「三百人じやないか」と呼び、その他発言する者あり)三百人じやございません。
  141. 辻寛一

    辻委員長 静粛に願います。
  142. 小林武

    小林公述人 そこで私は認めてもらえないので、今後こういうようなことが起れば、日教組は組合としていろいろな交渉に当ることができないと考えて、これは重大であると考えたので、実はそういう形でなく、日教組として認めて話合いをしてもらいたいというのですわり込んだわけであります。しかし先ほど申し上げます通りすわり込みが手段ではございません。今後そのようなことがなしに行われるならば、私はその方法が最もいいと思つておるわけであります。
  143. 辻寛一

    辻委員長 次に辻原弘市君。
  144. 辻原弘市

    ○辻原委員 最初に滝川先生に二、三点お伺いいたします。先刻滝川先生のお話の中に、この法案を総体的にきめつけられまして、この法案が巷間流布されておるように日教組のような団体を規正するということであるならば、この法案はその目的には沿つていない。日教組団体は、それ自体ほとんど拘束を受けるものではないと、こういうことを前置きにせられまして、もし拘束するとするなれば、むしろろ直接日教組という団体を拘束するような法的措置をとるべきである、こう申されたのでありますが、もちろんこれは総体的な御意見の中からその論がお生れになつたことだと思います。そこで法的な問題についての権威であられますので、若干参考までにお伺いをいたしたいのでありますが、もし滝川先生の御意見によつて、今後そういう措置がかりにとられたといたしますと、これまた非常に重大な問題であります。そこで、こういつた一つ団体を規正する、いわば憲法の結社というものを法律でもつて禁止もしくは制限をして行く行為に対して、法理論的に、または憲法上、滝川先生はどのようにお考えになつておるか、まずこの点をひとつお伺いしておきたいと思います。
  145. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 今、日教組を規定する法律としてはだめだと申し上げたのは、日教組がかりによくない団体だということを前提としての話なんです。今お尋ねのことは団体を規正することが憲法上違反かどうかというお尋ねです。しかしそれは違反でないと思います。つまり公共の福祉に反するような団体を規正することは、憲法にも何ら禁止されていないと思います。
  146. 辻原弘市

    ○辻原委員 私のお伺いいたしましたのは、今滝川先生が指摘されたのは、おそらく憲法のもとに成立した政府は、暴力もしくは云々、という観点でお話されたのだと思うのですが、かりに一般的に許されている民主的な諸団体を規正する、あるいはその結社を禁止するという行為、こういつた点についてはどうなのかということについてお伺いいたしましたので、再度この点についてお伺いいたします。
  147. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 私の申し上げたのは前提というか条件がついておりますので、公共の福祉に反するような団体なら規制もしくは禁止してもいいということなんです。一般の穏健な団体を禁止することはできません。これは憲法違反です。たとえば暴力団体であるとかいうものを禁止することは、憲法違反ではないということなんです。これは仮定論です。今あなたのおつしやつたのは一般的に団体を規正するのはいいかどうかというお尋ねなんですが、それは一概には言えない。公共の福祉に反するような団体なら規正することができる、こういうことです。
  148. 辻原弘市

    ○辻原委員 時間がありませんので次に移ります。  第二の問題といたしまして、先ほど今回の法案の中に罰則がついておることは、法理論的にも適当ではないという御説明がありましたが、内容は私も若干わかりますので、その点はお伺いいたしませんが、先生の御研究なされました範囲で、従来こういつた種類のいわゆる身分法、あるいは先ほど先生が触れられておりましたような騒擾罪であるとか、あるいは国家を転覆させるような政治事犯、こういつたものを除いての一般的な政治行為の問題、政治活動の問題に対して、諸外国の諸立法の例を見た場合、今回のような罰則規定を付しているものがあるかどうか、あるいは従来の日本法律の中で――これは先刻、公述人のどなたかから、教育関係身分立法の中においてはなかつたという話を承つたのでありますが、国内外あるいは今まで過去にさかのぼつてみても、そういう点の事例があつたかどうか、ひとつ法律的にお伺いをしておきたいと思います。
  149. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 国家公務員法には罰則がついておるのです。ところが教育に関する公務員法には罰則がついておりません。それから諸外国の例とおつしやるのですが、これは一概に申せません。戦後いろいろの過渡的な国家の立法ではかつて見なかつたような罰則がついておりました。しかしそれはだんだん是正されて行つて教育に関する場合には大体罰則がついていない、つまり行政処置と申しますか、免官するとか免職するとか、事はどうでもよろしいが、そういうふうな処置でとどまつておる、こういうことであります。
  150. 辻原弘市

    ○辻原委員 次に先ほどの先生のお話で、教員というものは、国と地方区別をすべきじやないという御意見がありました。この御意見からさらに私は先生の御結論を引出して見ますと、言われておる御趣旨というのは、国家公務員地方公務員を含めました一般公務員というものと教職員というものとには、おそらくここに本質的な相違があるのじやないか、こういうふうな御意見ではなかつたかと思うのです。そういたしますと、公務員身分制度という一つの形を改めなければならぬという議論にも通ずるわけでありますが、これをそのままそつくり一つ身分制度にいたしますと、ここに教育公務員という一つの体系が生れて参ると思うのでありますが、そういうことについて先生はどうお考えなさつておりますか、これをひとつお伺いいたします。
  151. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 私は一般公務員と教育公務員というものは仕事の性質が異うと思つております。公務員でなくても、一般教員、たとえば私立学校の先生も、公務員であるところの教員とその本質は同じだと思つております。だからむしろ教員というものは教育者とてしの立法を考えていただく方がいいと思うのです。
  152. 辻原弘市

    ○辻原委員 ただいまの問題に関連してでありますが、おそらく先生の申された理由は――あるいはこれは多少失礼でありますが、概念的にわたつた教育というものを、国家というものから出発されておるというふうな向きにも私は拝聴いたしましたし、あるいはそのあとの日高先生の公述の中にありました憲法の問題から引出された理由もあるのじやないかと思います。私は一般的な概念的な意味合いから申すものは別といたしまして、かりに憲法の問題をもつて、いわゆる教育というものと国との関係考えてみますと、憲法の二十六条にある規定をよくいろいろな問題に引例をするわけでありますが、ここに規定しているのは、国が義務教育に関して特に国民義務づけしておる、その裏として国民にその保障の裏づけをしておる、こういうふうに私は単純に解釈をしておるのであります。従つてここに言う憲法の考え方というものは、国が義務を課している以上は国は最終的に責任を負わなくてはならぬ、同時にそれから出発する機会均等という考え方はひとしく受けさせなければならぬ、そこに教育一つのレベルの維持という問題も生れて来るのであろうと思います。しかしながら問題は、国にその責任があるといたしましても、いわゆる国が直接やるか間接的にやるかという方法論の問題とはおのずから本質的に違つているのじやないか、従つて憲法のこの論法からもつてして、すぐさま国家と義務教育を結びつけるという考え方は、一段飛躍した考え方ではないか、こういうふうに私は考えるわけであります。従つてもしこの憲法の精神が、ただちに国の責任においてやらなければならぬというふうに結びつけられるといたしますならば、当然この憲法のもとに、つまり基本法なりあるいは教育法なり、その他教育万般の立法というものは、その考え方に貫いておらなくちやならぬと思いますけれども、しかしながらすべての教育行政の体系というものは、そういう考え方に基いては今日つくられておらないことは、これは先生も御承知の通りであろうと思います。いわゆる方法論としては、あくまでも分権制度を建前として教育が行われ、その制度の中から生れて来たゆえに、国家公務員地方公務員、その中に含まれる教職員の差が今日においてはあるものだというふうに私たちは考えております。従つて先生がかりにその憲法論からお話なさつているとするならば、現在の教育諸立法と憲法の考え方とに若干ギヤツプがある。その矛盾を私は感ずるわけであります。その辺も御説明をいただければ幸いに思います。
  153. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 今の憲法上教育を論じておるのではないかというお尋ねでちよつとめんくらつたのですが、私は憲法上申し上げておるわけじやないのです。私が申し上げておるのは、教育それ自体は地方でやろうが国家でやろうが同じだ。また国立であろうと公立であろうと私立であろうと同じだ。こういう考えです。それで今お尋ねがあつたのは食い逢いがあるように思います。
  154. 辻原弘市

    ○辻原委員 ただいまの点は、滝川先生のお説を私がかつてに想像いたしましたのですが、日高先生のお話は確かに私はそう受取りましたので、ついでと申しましては失礼でありますが、この点をひとつ日高先生からお伺いをいたしたいとおもいます。
  155. 日高第四郎

    ○日高公述人 義務教育の発展の過程から申しまして、近代における義務教育というものは、国家が終局の責任を持つということによつて成立したのである。従つて戦争前の義務教育と戦争後の新しい義務教育とは目標が違うのであります。戦争前のは、ただ国民国民の一人としてだけやるというようなところに重点が置かれておつたのでありますけれども、今度の義務教育は、国民を個人として、人格として教育するというところに主たる目標があります。これはいかなる個人も義務教育から阻害されないという点においては国が責任を持つ。こういう意味において、私は統一的な根拠が憲法の二十六条のうちにあるというふうに理解しておる。そうしてそれをただ機械的に同じようにやるというのではなくて、やはり統一のうちに変化も含むことができ、多様のうちにも統一があるというところに、新しい義務教育のねらいがあるのだというふうに理解いたしております。ただ私はその統一論の憲法によつて義務づけられた教育であるという意味において、それが非常に公共的な、そうしてまた国家的な意味のあるということをここで申し上げたつもりであります。
  156. 辻原弘市

    ○辻原委員 ただいまの御議論から、ただちにこの特例法の問題でもつて国家公務員同様にするということに御賛成だと言われたのは、これは議論にわたりますので省きますが、いささか根拠が薄弱であろうと私は考えます。  次はいま一点滝川先生にお伺いをいたします。今回の二法案は、教員個人の政治的自由は何ら拘束するものではない、従つて心配はいらないという御意見でありました。ところが私たちがこの法律を拝見いたします場合に、もちろん中立性確保法律においては、直接教員を対象といたさないで、第三者である何人かを対象にしておりますから、その面からのみこれを見ますならば、確かに教員の自由は直接法律の対象にはなつていないかもしれません。しかしながら問題とされる場合におきましては、事前の予防措置といつたような問題もありまして、それにつきまとうこの種の犯罪の捜査といつたようなことが行われる場合に、その捜査の手がどこに伸びるかと申せば、それに至らしめた教育をやつたと考えられる教師一つの犯罪捜査が及ぶことは事実であります、そういつた点について、これはもちろん判定のつきにくい問題ではあるけれども、心理的にその個人の思想的自由といつたようなものを拘束することは常識であると思います。同時にまたこの法律の適用と同時に、人事院規則による政治的行為制限は、投票権を除いてその他の行為は一切禁止をされているということになりました場合に、そこに特定政党賛成しあるいは反対をするそれらの政治的目的を有するということになれば、先ほど先生がお話の中で出されたように、個人が自分の友だちに会つて、某々政党に対しては反対だとか賛成だとか、あるいは入党の勧告をしたとかしないとかいつたような行為について、これはもちろん予想でありますから断定はできがたいとしても、そこに何ら拘束を受けないのだという議論は私は成り立たないものと考えますが、滝川先生はそうしたことについては、何ら懸念はいらないのだという、将来にわたつての御確信がおありになつて申されたのであるかどうか、この点は非常に重要でありまするし、もしかりに滝川先生のその議論でもつてすべてが行きますならば、おそらく今日のようないろいろな国民の輿論は起つておらないだろうと考えるのでありますが、それについていかようにお考えになりますか。
  157. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 私は理論的に申し上げて、教員個人の思想の自由は絶対に制限していないということを申し上げたのでありますけれども、実際問題として、ある何人かが、ある団体教唆して教員に何らかのことを行わせるという場合に、その教員が調べられることはあるだろうと思います。しかしその教員は罰せられない。罰せられるのは、その団体を利用して教員教唆した人間が罰せられる。そうしてその教員は罰せられないのです。だからして教員が事実上何か問われることはあるかもしれない。のみならずこの義動教育学校における教育政治的中立確保に関する法律案の第五条に、「前条の罰は、当該教育職員が勤務する義務教育学校の設置者の区別に応じ、左の各号に掲げるものの請求を待つて論ずる。」となつております。これはつまり被害学校と申しましようか、被害学校の学長なりあるいは教育委員会、府県知事が出してくれという要求があつたとき初めて起訴するということです。これを理論的に申しますと、請求がなくても検事なり警察なりは調べることができると思います。従来の例によると親告罪の一種だ。親告罪は告訴があつて初めて調べる、たとえば今は姦通罪がなくなりましたが、姦通罪を調べるときに、妻が姦通したのを夫が告訴しないのに、警察や検察庁で先まわりして姦通罪を調べておつたという事実はないのです。つまり夫が告訴して初めて調べておつた。従来の親告罪の取扱いはそうであつたのです。請求の場合でも、たとえば外国の国旗を汚辱したというときに、当該の国の請求をまつて罪を論ずるという規定があります。そういう場合に、その国が請求もしないのに警察が検事が先まわりしてやつたことはないのです。その慣例で行きますと、実際処罰の請求がない前に警察や検察が活動することはないと思うのです。しかし実際問題としてそれはあるかもしれぬという御懸念が出て来ることは当然だと思います。将来その点で今の被害者の教員が何らか問われるとか、調べられるとかなんとかいう点で、教員に警察が断圧を加えるじやないかということをおつしやられれば、その心配は全然ないとは言い切れない。しかし今申し上げた抽象論としましては、個人の思想の自由はこの法律によつては侵害されていない、こういうことを申し上げたのです。
  158. 辻寛一

    辻委員長 辻原君、あなたは三十分おやりになりましたからその程度にしてください。坂田君。
  159. 坂田道太

    ○坂田(道)委員 私は信濃教育令の松岡さんにお尋ねをしたいと思います。先ほどの松岡さんの公述を承りまして、教育者としての信念に、一面において非常に心を打たれたわけでございます。そこでお尋ねいたしたいのでありますが、昨年の暮れ岩手県でもやりましたし、また今年になりましてからも北海道で行われた例の一斉賜暇の問題でございます。聞くところによりますと、秘密指令が飛んで、この十五日にまた全国一斉に賜暇をやるということを聞き及んでおるのでございますが、一体日教組が指令をして先生たちを一斉賜暇に導くということは、私非常に非合法的なことだと思います。と同時に教育的な立場から考えて、子供は少くとも義務教育を受ける権利を持つておる、その権利を蹂躙して先生が教壇を放擲する。それが問題はたとえば三本建の問題であるとかあるいは教育法案であるとか、いずれにいたしましても、少くとも先生は教壇を守り子供を守り、義務教育を守る義務があるし責任があると思うのであります。それを自分たちの都合でこれを放擲することは、教育者として最も慎まなければならないことだと思うのでございます。しかるに今日世の中の人たちは、この法案なり何なりについての批判は強いけれども、教壇を放擲し、子供をほつぽり出して子供の権利を剥奪したこの教職員に対する批判が非常に軽やかである、当然のことかのごとくに感じておる。この点が、私どうも納得が行かないのでございますが、先ほどの教育的御信念から考えますならば、少くとも七十年の伝統を持つた信濃教育会の副会長であられます松岡さんでありますならば、こういう指令に対して敢然として立つ、そしてこれに警告を発するくらいの良心と勇気があつてしかるべきではないか、こう思うのでございますが、この点につきます松岡さんの御見解を承りたいのでございます。
  160. 松岡弘

    ○松岡公述人 私も原則的に子供を放擲することはいいとは思つておりません。しかしこれは教育者ということでは一致しますが、私の方の団体ではない。他の団体のやつたことであり、また民主的に各県の教組から代表者が行つてきまつたものをやるのでありますから、やることに対してかれこれ申しませんが、原則としては教壇を放擲することはよくない。しかしそれまでに至る原因をよく考えていただかなければいけない。そこがまた私は非常に大事な問題であると思う。そこで私は県教組の諸君とは個人としてときどき話しておりまして、今回の問題について、振替授業をやるという点については、教組ではきまつたかどうか知りませんが、長野県はいたしません。今度の防衛大会は日曜にやります。
  161. 坂田道太

    ○坂田(道)委員 ただいまお開きしたのですが、ちよつと納得が行かないのであります。先ほどお話を聞いておりますと、少くともこういう法案を出さずに教育者みずからの手でこういうことはやるべきではないかということをおつしやつたのです。そこでこういう一斉賜暇が起つて、長野原にはないけれども、こういう事態に対して、こういう法案については長野県からわざわざ東京に来て防衛大会等を開いて反対しておりながら、事一斉賜暇については黙つて見ておつて何らの声明も発しない。こういうことが教育者として、いわゆる伝統を誇る信濃教育会の福会長としてどういうことであるか、私はおかしいと思うのでありまして、自主的に教育の問題は教育者にまかせておけということは一応了解するのでございますが、ただいまのようなことではとうていまかされないという自体に来ている。そこでこの法案が成立しなければならないと私たちは考えておるわけでございますが、この点につきましてもう一度尋ねてお答え願いたい。
  162. 松岡弘

    ○松岡公述人 一斉賜暇という問題もその原因がありますが、これはだんだん反省して直して行けると思う。法律や刑罰を使つてこれが直るか直らぬか、そこは見解の相違でありますけれども、これを直すためにこういうものをやるということはかえつてよくない、これは直るんだ、こういうふうに思つております。
  163. 坂田道太

    ○坂田(道)委員 次に小林委員長にお尋ねいたしたいのでありますが、きようの新聞紙の報ずるところによりますと、日教組の秘密指令で一斉賜暇をやるというようなことが出されたそうでありますが、これは事実でございますかどうか。
  164. 小林武

    小林公述人 秘密指令ということは出しておりません。
  165. 坂田道太

    ○坂田(道)委員 二月一日と二月二日に秘密会議を開かれて、指令権の委譲を各県に迫られたということを聞いておりますが、この点はいかがですか。
  166. 小林武

    小林公述人 秘密指令を出すというようなことはきめておりません。
  167. 坂田道太

    ○坂田(道)委員 この前委員長を通じまして日教組の二十七年度及び二十八年度の予算並びに大会の経過報告あるいは運動方針書等を当委員会といたしまして要求をいたしたのでございますが、小林委員長、それはお出しいただけますか。
  168. 辻寛一

    辻委員長 それは私から申し上げます。実は先刻日教組の使いが参りまして、三月一日にあの資料提出方を依頼いたしました回答でございますが、直接本組合関係者が貴委員会に臨み陳述することが最適切であると推察いたします。従いまして資料提出は参つた折にお呼びいただけば、参つた折にその説明の参考資料として御要請の文書を提出する用意があることを申し上げる、こういうのが出ておりますので、この委員会が終りましてから一応理事会でお諮りいたそうと思つております。
  169. 坂田道太

    ○坂田(道)委員 ただいまのはどうもわれわれ解せないのでございまして、常に日教組はガラス張りであるということを申しながら、こつちが要求したのにかかわらずこれをやられないというのは、私たちとしては実に遺憾であると考えております。  それはそれとして、聞くところによりますと、日教組は二十八年度の予算書の中で闘争費といたしまして千百五十四万を計上し、かつその中で国会闘争費として、二百二十一万を計上しておられるように聞いておるのでございますが、これは事実でありますかどうか。
  170. 小林武

    小林公述人 予算書その他については、ただいま委員長さんからお話になつた通りでございます。なおただいまの御質問に対しましてはさようなことはないと思います。これは私の方では、私の方の調査研究にあたりまして組合内の調査機関で及ばない場合には、第三者にこれを依頼する、そのような場合に、実費の一部を支弁するようなことはございますけれども、今お話のような、国会何だか費ですか、そういうことはありませんことを申し上げます。
  171. 坂田道太

    ○坂田(道)委員 その国会闘争費の中で、研究依頼費としまして五千円、そうしてそれを二十二人に三回にわたつてやる、そうしてその合計が三十三万円、それから特別研究依頼費として五千円ずつ二十人、二回、これが二十万円(その他いろいろでございまして、政治研究費という総合計が百三十三万ということになつておるそうでございますが、これもお認めにならないのでございますか。この二十二人というのはいわゆる教職員組合から推薦し、公認をし、そうして政治連盟に入つて衆議院、参議院で活動しておられる人だと聞いておるのでございます。それで五千円くらいの受取書を書かせたとかなんとかいうことも聞いておるのでございます。しかしもしこの金が各人に渡つておるといたしますならば、これは金額は非常に小さいけれども、これは国会闘争費という名前において二法案をつぶすべし、あるいは成立すべしということであるといたしますならば、これは涜職ではないかと思うのでございますが、この点に対する明快なる御答弁をお願いいたしたいと思います。
  172. 小林武

    小林公述人 はつきり申し上げます。たいへんうがつたお話でございましたが、さようなことはございません。それでこれについて別に申し上げることはございません。
  173. 坂田道太

    ○坂田(道)委員 それではもう一つ御質問いたしますが、日教組は毎年教育研究大会というものを開いております。その研究大会費用として約六百三十万円、特に講師謝礼として五十万円を計上しておる。その五十万円の講師謝礼というものはやはり静岡県等において清水幾太郎さんなりあるいは国分一太郎さんですか、そういう人たち、あるいは矢内原さん、そういう方々にやられる費用でございますかどうか。
  174. 小林武

    小林公述人 研究大会についての予算を持つていることは事実であります。但し金額等については私は明細に知つておりません。なお講師に対して実費その他支給するということはあると思います。
  175. 坂田道太

    ○坂田(道)委員 先ほど小林委員長は共産党との関係はないというお話でございました。その関係がないという意味は、少くとも共産党に支配されてはおらない、こういう意味だつたろうと思うのでございます。と申しますのは、われわれが仄聞いたしますのに、現執行部の方々は相当共産党と闘つて来ておられる。またそれに対しては一面において私は敬意を表しておるのでございますが、そういう意味において共産党の熾烈なる挑戦と申しますか、そういうものがあるということはお認めになりませんか。
  176. 小林武

    小林公述人 共産党に支配されないとも申しましたし現執行部が執行部内において、共産党と闘わなければならないような事態はございません。
  177. 坂田道太

    ○坂田(道)委員 たとえば高知の教研大会の場合において、全国のいわゆる共産党のグループ活動が行われ、そしてそれに講師の一人、あるいは教職員の若干名が会合をし、そして、たとえば最初あなた方の執行部の案としては、平和と生産のための教育という第八分科会のスローガンを、この共産党系のいわゆる統一派という人たちは、平和と独立のための教育というふうに直すために、相当激烈な激論が闘わされたという情報が、共産党の方から入つておるわけでございますが、あなたはそれはお認めになりませんか。   〔何も知らない、何も知らない」、「ただ月給もらつておるんだろう」。と呼ぶ者あり〕
  178. 小林武

    小林公述人 月給のお話はひとつかんべんしていただきます。私はやはりまじめに、相当議会の尊厳を汚さないようにやつておりますから、どうぞ。  高知のときは私は行つておりませんのですが、今年もそういうようなことを言われたことがございます。共産党のフラク活動が行われておるという点、しかし私はそういうものが行われたか行われないか知りませんし、また私どもは別なものが、いろいろなことをやられることはけつこうだと思うのです。人のことまで干渉する筋合いもないし、またそういうものにわれわれは何ら影響もされないのですから、その点はそういうふうにお考え願いたいと思います。
  179. 坂田道太

    ○坂田(道)委員 小林委員長としてはそう答えざるを得ないのだろうと思いますけれども、共産党側から見ておりますと、たとえば、第八分科会のときにも、国際平和を理解させるためには、アメリカ一辺倒でなくて云々とあつて、結局アジアについての理解を与えるためには、第三勢力のみでは困難であるから、民族解放運動の歴史的発展を明らかにするとの附帯条件をも決議させる。なおいわゆる社会党左派の唱える平和論を堅持しつつ、日本共産党と一線を画せんとした執行部の意図を打破して大きな成果をあげておる。こういうふうに見ておるのでございます。  さらにまた、いろいろ宇治山田の大会、あるいはこの前の山梨の大会において、統一派が非常に成功を収めたという共産党の資料もありますが、あなたがそういうふうに簡単に共産党のことを考えておられるとすると、私は非常に不安を感ずるのでございまして、われわれはこれと真剣に闘つておるのだということを聞けば、私としても実にありがたく感謝をするわけでございますが、この共産党に対する考え方というものは、やはり今まで申し述べられたような甘い考え方でおられるのか。最後にお聞きいたしまして、私の質問を終りたいと思います。
  180. 小林武

    小林公述人 分科会の討論についてただいまいろいろお話がありましたが、共産党が非常に活躍をしたというようなことをお話になりました。私どもは今度の静岡の教研大会におきましては、少くとも現場の研究を取上げて、そしてこれを討論するにあたつてはじつくりと、単なる上すべりの議論をすることなしに討論をしようというので研究を進めております。これが私どもの今度の研究の態度です。その点につきましては。  第三者の批評として、今度の研究は非常に静かであつた、よかつたという御意見もあつたし、あるいは中には、あちこちから大分いぢめられてちよつと腰が抜けたんじやないかという批判を受けるくらい、私たちはちやんと静かにやつたつもりであります。そういうことでございますので、その討論の過程においては、決してさような上ずつた、あるいは一党一派に偏したようなことが持ち込まれて討論されたとは、聞いてもおりませんし、現在私もそれに参加して各分科会へまわつておりますので、なかつたと確信をいたしております。なお山梨とかなんとかいうようなところで共産党がどのような活動をしたかというようなことでございましたが、これはどの労働組合でも大会中央委員会等におきましては、戸口のところでいろんなビラをまくものであります。これは左右両翼ともやつております。これは何とも私どもいたし方がないのでありまして、入るときには私もそのビラをもらつて入ります、くれますから、そのビラにはいろいろなことが書いてありますが、さようなことはもらうだけでありまして、なお簡単にとおつしやいままが、私は簡単に考えておらぬです。私は日教組の運営というものの上において、決して一党一派に偏するような、一党一派に牛耳られるような運営というものはとらるべきでない、そういう態度で執行の責任に当つております。
  181. 坂田道太

    ○坂田(道)委員 最後に、今の静岡県のときには静常にスムーズに静かに行われた、静かに行われましてもその内容というものが非常にはげしいものであるならば、われわれとしては非常に考えなければならぬと思うのでありますが、この静岡県の教研大会に、文部省から偏向の事例として取上げております、和邇小学校の四年生の先生であります仁賀武さんの論文が討議された。「村を守る平和的生産人の教育」、これは内容を読んでみますと、まつたく共産党の指令としておる一つ教育方法をとつておると思うのでございます。しかもこの人が滋賀県の教研大会の代表者に選ばれて来ておる。もしこれが事実とするならば、こういつた教育というものが、単に隅発的に京都であるとかあるいは山口で行われましても、教研大会の代表者によつてこういう内容を持つたものがやられるということになりますと、二、三年の間に日本がこのような偏向教育によつて塗りつぶされれる可能性を少くとも私たちは感ずるのでございますが、仁賀さんのこの「村を守る生産人の教育」というものは行われたのでございますかどうか、この点をお聞きいたします。
  182. 小林武

    小林公述人 文部省からの資料をおつしやいましたが、この仁賀さんのは私あとでよく聞いてみましたが、当日の討論には入つておらないそうです。
  183. 辻寛一

    辻委員長 次に大西正道君。
  184. 大西正道

    ○大西(正)委員 滝川公述人にお尋ねいたしますが、教育政治的中立確保に関する法律案の中で、一般の先生方が心配をしております一つは、今お話のありました罰則のところなんであります。これにつきまして私お尋ねしようと思つておつたところ、ちよつとお話がありましたが、もう少しつつ込んでお尋ねしたいと思います。第五条では、「前条の罪は、当該教育職員が勤務する義務教育学校の設置者の区別に応じ、左の各号に掲げるものの請求を持つて論ずる。」となつておるのであります。今のお話では学長並びに教育委員会その他が請求をいたしましてから初めて警察の権力が及ぶ、こういう建前になつておるということでありましたけれども、一般の先生方もここに非常な不安を持つておるわけなんであります。この法の建前が予防立法的なものでありますので、犯罪容疑がありと認めた場合には、警察官並びに検事は請求を待たずして学内に入り、あるいは子供を使つて調査をしたり、いろいろと警察の活動が行われると思うのでありますけれども、この点いかがでございますか。請求を待たずして捜査逮捕等が行われる可能性があるのではないかと私は思うのであります。この可能性というものは、この法の解釈の上から一応あると思います。
  185. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 理論上はあります。請求する以前に捜査するということは理論上はあります。親告罪は告訴を待つて初めて起訴するというのですけれども、告訴がなくても、起訴以前に調べることはこれはかつてでありますが、従来はそういうことはやつていない、こういうことなんです。この場合にやるかどうか、これはわかりません。わかりませんが、今お尋ねの、理論上あるかとおつしやれば、理論上あるとお答えするよりしかたがないわけです。
  186. 大西正道

    ○大西(正)委員 さらにつつ込んでお尋ねいたしますが、従来はそういうことがなかつたというのは、たとえばあなたのお話では、姦通の問題等において、請求がなければそういうことはしなかつたというのでありますが、今申しましたような意味で、この法案自体が予防立法的なものであるがゆえに、あなたの御見解といたしましては、将来こういう危険が多分に予想されるというふうにお考えになりませんでしようか。
  187. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 ちよつとあなたと見解が違うのです。あなたは予防立法だとおつしやるけれども、また予防立法ということをここでたびたび聞きましたが、私は威嚇立法だと思うのです。それで刑罰を科するということで、刑罰を科せられるとびつくりしてやめるのです。これは御存じの通り。たとえばやみ行為がはげしくなりますと、検事や裁判官が集まつて相談しております、どうしたらやみ行為がなくなるか。そうすると厳罰主義、こういうのです。これは最も常識的なんです。厳罰主義にすれば人は一時びつくりするのです。しかし実際は、罰せられないのです。なぜかというと、犯罪があつて厳罰主義、犯罪があつたら必ず発覚する、発覚すれば厳罰に処するということになればこれはきくのですが、このまん中の段階が抜けておるのです。厳罰主義というのは威嚇主義ですが、この立法も、今予防立法だとおつしやるが、私は威嚇立法だと思つております。
  188. 大西正道

    ○大西(正)委員 私は大学者に対して論争しようというわけじやありませんが、私は威嚇によるところの予防立法だというふうに解釈いたしまして、先生の御見解とはそうかわりはないと思います。  そこでもう一つ、今の警察法の改正等の構想はよく御存じだと思うのですが、このように警察法が改正されましたあかつきにおいては、今の警察機構のもとにおけるよりもさらに私の憂える点が強化されやしないか、こういうことを私は考えるのです。この点についての御見解をひとつ承りたいと思います。
  189. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 今警察法の改正とおつしやつたのですが、こういう点の改正をおつしやるのですか。
  190. 辻寛一

    辻委員長 大西君、ただ単に改正というだけではわからないから、どういうふうなことを言われるのか、・・・・・。
  191. 大西正道

    ○大西(正)委員 おわかりなければこの問題はけつこうであります。今新聞等にいろいろ報道が出ておりますから、・・・・・。
  192. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 いろいろ多岐にわたつておるので、どの点をおつしやるか、・・・・・。
  193. 大西正道

    ○大西(正)委員 要点を申せば、中央集権的な従来の国家公安委員のあらゆる権限を・・・・・・。
  194. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 わかりました。自治体警察をやめて国家警察にする、その場合にどうかという問題ですね。これは私自身考えとしましては、一概に言えないと思います。都会では自治警察でいいと思います。ところが地方の人口の少いところでは自治警察ではできない。たとえば巡査が六人しかおらぬのに、何か放火でもあつたら、六人みな行つてしまつて、こちらは強盗やろうと何やろうと何でもやれるんですね。だからこれは一概に言えないと思うのであります。現在この問題とひつかけてお話することはむずかしいと思います。
  195. 大西正道

    ○大西(正)委員 今度は松岡さんにお願いしたいのですが、松岡さんは信濃教育会の副会長さんでございまして、日教組は結成以来教育会を、偽な言葉で言えばつぶすという方針をとつて来ておる。そうして多くの教育会がなくなつて、ただ伝統を誇るところの信濃教育会が厳然として存在され、今非常に活発な活動をしておられる。この点に対して私は松岡さんに敬意を表するわけでありますが、日教組と犬猿と申しましようか、ただならぬ仲の信濃教育会の松岡さんが――今回の教員政治活動の禁止に対しましては、いろいろ言われておりますけれども、日教組政治的偏向を是正するというのが主である、こういうことが言われておるときに、この法案に対するどのような見解を述べられるかということに対しまして、私は非常に興味を持つてきようは拝聴したわけであります。なお松岡さんは一昨年でございましたか、世界教員の会議、いわゆるWOTPに日本の代表としていろいろ教育の問題を論議されて、視野が非常に広いと私は考えております。その松岡さんからこの法案につきましては、強い反対意見が述べられたわけでありますが、私はこのことにつきまして傾聴に値することと考えておるのであります。そこで今申しました第五条の問題、申請をまたずして警察権力が教育に干渉できるというこの問題が、一般教員諸君に、あるいは教育に熱心なところの父兄にどのような不安、危惧を与え、それが今現場の問題としてどういうふうに起りつつあるかということ、少くともあなたの所属しておるところの信濃教育会はどうであるか、ひとつあなたの見聞を御紹介願いたいと思います。
  196. 松岡弘

    ○松岡公述人 非常に不安を与えるわけでありまして、取調べられるということは、一つには教育者の権威にもかかわりますし、そういうようなことがあつた場合には、先生は威信を失つてしまうということでありまして、私は教育者にとつては非常に脅威であるといいますか、権威を失墜するものである、こういうように考えております。
  197. 大西正道

    ○大西(正)委員 もう一つ小林君にお尋ねいたします。あなたのお話の中に、私の記憶に誤りがなければ、議会政治を否認しなければならぬ、こういう言葉がはつきりとあつたように私は思うのであります。私はこそは非常に重大な問題だと思うのであります。そこでこの際ひとつあなたの言明に対して、はつきりとした見解をただしておかなければ、影響するところすこぶる重大であろうと私は考えます。共産党の方針につきましては、専門家の高津正道さんがお話になりましたが、その中にやはり議会政治を認めないということが一つのはつきりした要素である、これは皆さんも認めるところでありますが、今の発言は、日教組が共産党に牛耳られておるとか、あるいはフラク活動に引きずられておるというときに、こういう発言があつたということは非常な疑惑を与えると思うのであります。そこで私ははつきり聞いておきたいのですが、この法案の名前は教育政治的中立確保に関する法律なんです。そこで私はこの政治的中立ということをどのように考えておるかということを、ひとつ私の見解を少し述べますから、あなたが私の見解に大体同じだというならば、それでよろしいのであります。もし違うということになれば、ひとつ前の問題と関連してお聞きしたい。  私は政治的な中立ということは、何も右と左とのまん中だというような物理的なまん中という意味じやないと思うんです。これは教育というものが時の政治権力から自由であり、自主性を持つということであると私は思う。そういう意味におきましてこの教育委員会制度意味があると思うのであります。いま一つ内容の面におきましては、平和と真理を目ざすところの教育理想に照らしまして、時の政治のいろいろな現象に対しまして、理非曲直、正邪善悪を教育理想によつて判断する。それは政治の権力にも金力にも迷わされないところのいわゆる批判的な精神、これが私は教育政治的中立内容であると思うのであります。そこであなたの言われるのが、今の政党政治のもとにおいては、たとえば今は自由党の内閣が出現いたしておりますから、この政党政治のもとにおきましては、厳密な意味での政治権力から独立したところの教育中立性はあり得ない。そういう意味教育政治的中立ということは、この政党政治のもとにおいてはあり得ないんだ、こういう立論ならば、これは一つ教育の理論としてはりつぱなものだと私は思うのであります。ところがはたしてそういう見解をもつて――教育政治的中立ということを厳密に言うのならば、これは議会政治を否認しなければならぬ、こういう御見解であるか、あるいは今言つたような危惧すべき共産党の関係においてて言つたのであるか。この点を明確にしておきたいと思うのであります。くどいようでありますけれども、自由党政府のとりますところの文教政策は、これは善悪を越えまして、当然自由党の文教政策がそのまま行われているものでなければならぬ。これはいいとか悪いとかいう以前の、政党政治、内閣政治のもとにおける当然の帰結だと私は思うのであります。そういうもとにおいて厳密な意味での政治的中立というものはない。だから議会政治というものは否認しなければならぬという一つの理論の発展としてこういう結論を言われたとすれば、私は安心をいたしたい。その点についてひとつ明快にこの際お答え願いたいと思うのであります。これは決して日教組の弁解のみならず、この法案の根本の問題であろうと思うのであります。
  198. 小林武

    小林公述人 たいへん私の言葉を曲解されておられるようでありますが、これは私の表現のまずさから来るものだと考えます。ただいま速記をちよつと見せてもらいましたら、私の表現に舌足らずのようなところがあると思います。全部を読んでいただければ、今のような考え方は出て来ないと思います。私は議会政治を否定するなどということを申したのではないんです。日教組のやつている組合活動がある、その組合員は、日教組がこういうことをきめたから、もう教員として全然中立的教育が保たれないというような考え方は困るというんです。そういうことであれば、自由党の党員が教員なつたり、大臣になつたりするということになると、教育中立性は全然保たれないということになるんじやないか。私はそういうことはないというのです。基本法第八条、あるいは基本法に示された全体の意向というものは、自由党員であろうが何であろうが、教育中立性を守つてやれるというようになつておるわけであります。私はその限度を守れば、りつぱにやれるものだと考えております。だから今言つたような、日教組の組合員であれば中立的な教育ができない、あるいは自由党の党員であれば公正な中立的な教育ができないということであるならば、議会政治も何も認められないことになりはせぬかというのです。自由党員は大臣になれませんから、・・・・・。そういう意味で言つたわけであります。その点はどうぞお間違いのないようにひとつお願いいたしたいわけであります。なお教育中立性に対しては、私は現場の教員ですから事は簡単であります。教育基本法八条というもの、あのことをもつてはつきりしておる、こういうふうに私は考えております。
  199. 大西正道

    ○大西(正)委員 これは答弁はいりませんが、曲解というようなお話ですが私は決して曲解をしておるわけではない。むしろあなたの舌足らずの言葉があなたの意図に反して曲解されることをおそれて、あなたの正確なるここでの答弁を、私はあなたのためにここで要求したわけなんです。誤解のないようにお願いいたします。
  200. 辻寛一

    辻委員長 原田憲君。
  201. 原田憲

    ○原田委員 私は最切に小林委員長に簡単に御質問したいと思います。あなたは先ほど坂田君の質問に対して、二十八年度の日教組の予算の中で国会闘争費として二百二十二万二千二百五十円という金が出ておる、それが五千円ずつ二十二人に三回にわたつて出されておる、この二十二人ということは、偶然か実際か、国会に出ておられる日政連に属しておられる方と一緒になつておるという問いに対して、知らないと言われたのでございますが、間違いございませんか。
  202. 小林武

    小林公述人 先ほどの御質問は、金が幾ら出ておつて、それが日政連の議員に行つてつて、それは涜職になるというような内容の御質問であつたと思いますので、私はさようなことはない、こう申したのであります。予算書については、私が先ほど申し上げました通り、現在予算書を持つて来ておりませんし、その点については文部委員会が私どもの方の予算書を出せとおつしやるのですから、明細な点は予算書提出のときに来た者について十分お聞きとりを願いたいわけであります。なお私どもの方の会計につきましては、そういうあいまいなことはないわけであります。証憑等もそろえてきちんとしておりますから、その点はそういうふうに・・・・・・。
  203. 原田憲

    ○原田委員 あなたは予算を知らないと言つたから聞いておる。
  204. 小林武

    小林公述人 知らないとは言いません。
  205. 原田憲

    ○原田委員 私のここに持つておる「昭和二十八年度一般会計歳入、歳出追加更正予算案、日本教職員組合」、これが表紙です。この中の十五ぺ-ジに、今あなたが言つた国会闘争費として百六十八百万円、これは当初予算額です。それに増加すること五十三万二千二百五十円、合計二百二十一万二千二百五十一円というものが出ておる。その内訳として、研究依頼費五千円かける二十二かける三回、三十三万円、こう出ておりますが、この事実はお認めになりますか、どうですか。
  206. 小林武

    小林公述人 研究調査に対しては、先ほども私申し上げましたが、外部の方に依頼する場合もある。そうしてそれについては実費の一部を差上げるということはある、こう言うのであります。但し今お話になつたようなことは、私が詳細にここで申し上げないとわからないのであります。その点については私どもの方の資料を出しますし予算書を出せば当然説明もいたしますからはつきり聞いていただきたい。私全部知つておれば一番いいのでありますけれども、会計その他について存じておりません。
  207. 原田憲

    ○原田委員 今の中のことはこまかいことだから委員長の知らないことがあるかもわからないのですけれども、大ざつぱなというか、総額についてはよく知つておられると思うが、二十八年度一億一千三百七十三万八千百六十円一銭、これが日本教職員組合の歳入歳出追加更正予算案となつて出ておるのですが、これを認められますか。
  208. 小林武

    小林公述人 数字をはつきりは知りませんが、概算してそのくらいの数字だと思います。   〔「議事進行」と呼ぶ者あり〕
  209. 原田憲

    ○原田委員 痛いところを突いたら議事進行と言うなよ。もう一言だけが小林委員長にお聞きしたいと思いますが、日教組の第十回定期大会の運動方針書の中に、これは世界観といいますか、その中に、この一年間世界の動きはどのようにかわつて来たか、ということ、アメリカを中心とする国際独占資本は世界の至るところで戦争の計画を仕組んで来た、という何が入つておるのです。それからまた、これらの世界の平和勢力は社会主義建設を共通の目標として持つようになることを予想される、というようなことが書かれておりますが、あなたはこれをお認めになりますか。
  210. 小林武

    小林公述人 文字その他の表現一切が正確であるかどうかわかりませんけれども、そういうような書き方があると思います。
  211. 原田憲

    ○原田委員 私はPTAの塩沢さんにお尋ねいたしたいと思うのでありま。すあなたは先ほどPTAの立場として、父兄の立場として、非常に参考になることを公述していただいたことを感謝いたしますが、あなたの個人の意見としては、できるだけこのような法律を出さない方がいいじやないかということを述べられたのでありますが、われわれでもこのような法律をすき好んで出したくないのであります。先ほどあなたは先生方が外濠公園なんかに行つてほしくないということを勧告もしたと言われましたが、あなたの勧告通り先生たちはみな行かれなかつたですか、どうですか。
  212. 鹽澤常信

    ○鹽澤公述人 前に一斉賜暇をするお話が出ましたときに、組合に参りましてお願いいたしまして一斉賜暇をとりやめていただきました。
  213. 原田憲

    ○原田委員 外濠公園の防衛大会のときはどうですか。
  214. 鹽澤常信

    ○鹽澤公述人 防衛大会のときは私は存じませんでした。
  215. 原田憲

    ○原田委員 先ほど小林委員長は私の問いに対してお答えになつて大体そのようなことがあつたように思うということでありましたが、朝の質問でも私は申し上げたのでございますが、五十万の中の一人、二人、あるいは偶発的にこれが起つたということなら、国が法律を出して先生たちを取締る必要は私はないと思います。しかしながらこれは今小林委員長が認められたように、アメリカを中心とする国際独占資本は世界の至るところで戦争の計画を仕組んで来た、これらの世界の平和勢力は社会主義建設を共通の目標として持つことになることが予想される、という世界観、情勢分析のもとに立つて、そうしてスローガンとしては、そのためには吉田内閣を打倒するんだ、平和四原則を守るんだ、軍事基地に反対するんだ、というようなスローガンを掲げて、これを実践するために、たとえば山口県の日記のような学習方法でやろうということがうたわれてある。これは決して偶発的じやない、連絡をとつてやられておるということを私たちは憂えるのであります。ここに決して偶発的でない恐しさを感ずるのであつて、革命は決して二千万、三千万の人たちがみな立ち上つて行われるものじやない。わずかの人たちによつて行われるものであります。私はきよう先ほど来られた群馬県の先生にお尋ねした。あしたは日曜日であるが、朝の新読むと、日教組が全国に秘密指令を流して、そうしてあしたは日曜であるが登校して、十五日にはいわゆるストライキをやるということになつておるが、あなたはどうだと聞いた場合に私の方ではみんなが賛成しておるからやるでしよう、こう言う。ところが、これは新聞でございますが、群馬県では十四日を父兄参観の授業日として、十五日に反対大会を行う計画を進めているが、県地教委は全面的に反対の態度を示している、こう出ておる。監督機関である地教委が反対しておる。ところが日教組は指令しておる。そうして地教委の言うことを聞かずにやろうと言う。これは一体だれが先生たちを監督するのか、日教組の指令には従うけれども、地教委には反対して顧みない。こういうことで政治の中立ということが守れるかということを、われわれ非常に懸念するのであります。しかもこの日教組の組織は、先ほど小林委員長は、共産党とは関係がないように言われておりますけれども、われわれの調べるところによると、日教組の組織の中では非常に熾烈な闘争が行われておつて、今年の宇治山田の大会におきましても、わずかの差をもつて引続き世界自由労連へ加盟することになつた、危うくソビエトを中心とする世界労連の線へひつぼられるところだつつた。そして現にあなたは東京都のPTAの代表者でございます。東京都の「都教組の力では都教組を守る会」――これは去年の九月十七日のことですが「組合員のみなさん!われわれの都政組は今重大な危機に直面しています」何が危機に直面しているかというと「現執行部に巣くう数人のメンバーを更に十数名にし正式党員を含む共産党グループの全面的進出をねらつています。われわれは都教組を外部の指令で動かそうとする人々の進出と統一委員会という仮面をかぶつた共産党の支配を絶対に防がなければなりません」執行委員長長谷川正三、執行副委員長藤山幸男同じく菊地武雄、書記長神部英夫、こういう名前をずつと出して、これを組合中に配つて共産党から守らなければならぬということを言つておる、あなたはPTAの会長をしておられるが、都教組の中に明らかにこういう動きがあるということを、みずからが物語つておるのです。ここに非常に危険がある。しかも共産党に奪われなかつたらどうだ、今度は左社一辺倒なんだみんな金を出しておる。あなたはきようここにおられたからわかるでしようが、大勢傍聴に来ておられたが、あれはみんな関係者じやないですか。そういう関係にあつて、一方的に非常に中立性が侵されているという事実を見るとき、この法律は私はやむを得ないと思う。  最後にひとつ私の意見を述べて、もう一ぺんあなたの意見を伺いたい。ちようど私らの若い時分に東京で神兵隊事件というのがあつた。この公判が続いておるときに私は傍聴に行つた、その傍聴席には紋付を着た神兵隊の右翼の連中で一ぱいになつている。そして裁判法廷で天野辰夫という右翼の首魁が、検事席を指さして三橋検事を盛んに罵倒する、私は若かつたから、ああなかなか英雄だなというように感じた。検事は恐ろしいものだと思つているのに、それを罵倒する。検事の中で一人鼻をいじくつたら、この神聖な天皇の名において開かれる法廷で、鼻くそをほじくつたと言つて攻撃した。そしてあなたは天皇機関説はどう考えると言つて裁判長に聞いた。検事にも聞いた。みな天皇機関説はいいとは言えない、天皇絶対である、この日本の国では天皇機関説がいいとは言えない。そうするとこの天皇機関説を教えている美濃部達吉を取締らないでなぜおれを取締るのだ、こういうことを言うのです。そして弁護士は商売ですから、どんな悪党でも弁護する。そして花井弁護士が、ロンドン条約当時から説いて、彼らがなぜ蹶起しなければならなかつたかということを説いて行く。これはそばで聞いておつたらなかなか明論です。そうしてこの裁判の判決がどうなつたか、宇野裁判長は、この反逆事件、反乱事件を起したこれらの神兵隊の人に、日本に例のない、その刑を免ず――無罪ということは言えないから、その刑を免ずという判決をした。これらの人が国家の反乱を起しながら無罪になり、英雄になつたのですよ、そこで日本の国がどういう経過をたどつたかということは、あなた方はよくく御存じの通りだが、今はその反対をやられているのじやないか、松川事件はどうです、傍聴席は赤旗ばかりである。それで日本には天皇という絶対のものはなくなつた、今度何が絶対だ、憲法だ、平和憲法である、これを守るのがなぜ悪いか、この議論がなされて、まつたく裏返しであります。私はここに非常な危険を感ずる。今ここでわれわれかしつかりしないで、もしもここで国会の力というものがなくなつたら、おそらく日教組行き過ぎをどうするのかといつたら、これは右翼団体日教組の幹部を暗殺するか、あるいはあの本部をぶちこわしに行くかこういう事態が起つて来る。これはうそじやない。この間大川周明が出て来て、若いやつをそそのかして、国を汚濁しているところの池田とか一万田、吉田を殺しに行かなければならぬということで、そのために護衛がつけられた。そういう事態が日本の国に起きている。私たちはこういうことを考えるときに、これは空理空論でなく、現実をながめるときに、大学の先生方あるいは新聞記者ならば、これは批判的立場であつて、りくつで世の中をよくして行つたらいいということで、これはそれでいいでしようが、現実立場に立つている政治家というものは、これは見のがしておくことはできない。次善の策であつても、残念なからこういう法律を出さなければならない。私はこう考えおりますが、あなたはどうお考えですか。
  216. 鹽澤常信

    ○鹽澤公述人 いろいろとけつこうな御高説を拝聴させていただいて、まことにありがとうございました。先ほどお話がございました都教組が何か印刷物を出しておるということでございますが、私どもはいつも学校の先生に接します場合に教組という考え方一つも持つておりません。PTAはあくまでも教組という考えはとるべきじやないという考えで、私どもいつも学校の先生とおつき合いしております。従つて思想の問題などにつきましても、お語のような心配がありますときには、幹部の先生に会つてお話合いをいたしております。教組と提携したというとことは一度もございません。ただ先生方の団体の有力なところでありますので、先ほどお話がありましたようなときには、こちらの方からお願いに参つております。従つていろいろと先生方と話し合つておりますが、過去におきましての先生方は、比較的話がわかつてくださる。先生がおつしやるまでもなく、思想の問題その他につきましては、私どもも古い教育を受けたものでございますから、非常に古い型のものでございます。従つて子供をやはり自分の色にして行きたいというような気がするのでございます。私が心配いたしますのは、法律をこしらえてそういうようなことをやつた方がいいかどうか。例を申し上げますならば、非常にそういう方面に力を加えたために、地下にもぐつてしまつて探すのに骨を折るような事態もありまし、また学校のそういつた組合の活動でそういうような幹部がおつても、下部の大部分の先生はそうじやないのだ。むしろ私が心配しますのは、それよりも別の方にあるのではないかと思いますので、この機会にお願いいたしたいことは、私ども父兄のために、いな国民のために、よい政治をしていただきたいということです。結局政治がよければ赤が桃色になり白になる。政治が悪けれだ白が桃色になつて赤になるというこでございます。私はぜひそういうようないい政治皆さん方にお願いいたしまして、私どもが安心して先生方と子供を育てて行くように仕向けていただきたい。これが私の見であります。
  217. 辻寛一

    辻委員長 山崎君、議事進行の御発言をお許しいいたします。大分おれましたが、・・・・・。
  218. 山崎始男

    ○山崎(始)委員 それでは一言議事進行で発言さしていただきます。実は今原田委員が予算書を持たれて、小林委員長に御質問になつたのですが、先ほど坂田委員も三十分おやりになりましたが、私はよほどしんぼうして聞いておつたと申しますことは、きようは皆さんお忙しい中を来ていただきまして、公述人なんです。公述人として呼んでつるし上げをするがごとき印象を与えるようなことを聞くことは、よくないと思う。しかもあなた自身は一人十分間と言つておかれて、驚くなかれ三十分お許しになつている。しかもお客さんとしての礼儀を失して発言なさるような印象を与えておられるのですが、こういう点は、私は委員長として議事進行上十分な御注意が願いたいのであります。それで私は原田委員の御発言の最中に、数分後にもう一ぺんまたこれをやるのじやないかと思つたから議事進行でお願いしたのであります。どうぞよろしく。
  219. 辻寛一

    辻委員長 最初にお断り申し上げましたように、討論にわたりませんようにと申し上げましたが、御質問中に一一御注意申し上げるのもいかがかと思つて差控えたのでありまして、私はきわめて公平にやつておるつもりであります。時間も私の目の前に時計を置いて見ておりますが、三十分にはなつておりません。辻原君と大体同等の時間であります。少々長過ぎたと思つておりますから、・・・・・。
  220. 山崎始男

    ○山崎(始)委員 私は時間の短い長いを言つているのではないのです。きようは参考人で喚問したのではないのですから、その点を言つているのです。しかもさつき予算のことに関しては理事会を開いてあらためて云々と言われたのではないですか。わかりましたか。
  221. 辻寛一

    辻委員長 わかりました。公述人の皆様方にちよとお願い申し上げますが、たいへん時間が遅れましてまことに恐縮に存じますが、せつかくの機会でございますので、まだ四人ほど質疑者が残つておりますから、どうかひとつごしんうぼをお願いいたしたいと思います。ちよつと速記をとめてください。   〔速記中止〕
  222. 辻寛一

    辻委員長 速記を始めてください。  それでは必ずお一人十分以内ということを御厳守願いたいと思います。高津正道君。
  223. 高津正道

    ○高津委員 小林委員長にお尋ねしますが、私は、日教組の三役の中にも、それから執行委員の中にも共産党は一人もいないということをまつたく良心に誓つて確信しておるのであります。あなたが、自分もそう思うということを言われるとみんな安心するのでありますが、それをお言いになるお考えはないか。私は強制することはできません。私はそう思い込んでいます。実際そうなんだから、……。  それからこの内閣のもとでは破防法が制定され、電産と炭労がねらい打ちにされて、スト規制法が制定され、大学生が進歩的だというのでその選挙権を奪うことまで企てられたが、しかしそれに大衆の圧力で遂にほうむられたのであります。今また警察の中央集権化が企てられ、そしてここに教員政治活動を縛り、日教組をつぶす、そういうような法律案が出ておるのであります。私はこれはさらに私立大の教職員に及び、大学の教授の、人事院の理解においてある程度持つておるその幅も、まただんだん狭められる方々に拡大する傾向にあると思うのでありますが、あなたは私に同感してくださるでしようか。  それから日政連という団体政治結社の届をしております。これは市岡という事務局長が采配をふるつておられますが、この人は中央でどういう議論をされるか知らぬが、広島県に帰つた場合は、わが尊敬する改進党さんの平川篤雄前代議士の運動をいつもやられておることはだれ知らぬ者もないのであります。そうして日政連の会合には自由党の人も行かれれば、左派も右派も行く、共産党はここには一人も行つていないのであります。われわれはこういうような事実を天下にもつと明らかにされなければならぬと思う。言えるだけは言つてほしい。  それから滝川先生にお尋ねいたしますが、第一の特例法でございますが、教員の勤務地域以外で今まで与えられているところの政治的活動を禁止するというこの法案は、基本的人権を新たに制限し、むしろ剥奪するものであります。先生は、この法案でも地方公務員たる教員国家公務員を規制する人事院規則に右ヘならえとしているが、あれはひどいものだから右へならえというなら、むしろ国家公務員をこそ現在の地方公務員法にならうべきである、こういう明快なる論理で、第一の法案反対意見を述べられましたが、私はその点で意見が一致するから、非常に意を強うしたのであります。さすがは自由人権協会の顧問であられ、また鳩山文部大臣が、あなたを首にしようとした場合に、敢然と学園、学問の自由を守るリーダーとして、あのとき大いに専闘されたが、さすがやはり京都大学の学長はりつぱだ、こう思うて私は感動したのであります。  そこでお尋ねいたしますが、教室をおける中立性確保ということは教育基本法もそれを明記しておる。私はそのことには賛成であります。しかし先生はこの第二の法律案にも反対をなさいましたが、そのお説を聞いておりますと、ある効果をねらつている卑屈である。正面から切り出せ。目的からいつて日教組をねらうならば、この法案はまわり道をとつている。扇動教唆という文字は曖昧不明瞭であつて、罪刑法廷主義立場から見ても、不穏当である。この言葉ははつきり記憶しませんが、おもしろくないという意味を明瞭におつしやつたのであります。私はそこで質問をいたしますが、憲法の第九条には、平和主義を強く表明してある。平和主義であります。私は憲法を全部一々みな子供や学生に教えるわけには行かないから要点については熱心に教えてよかろう。たとえば基本的人権を重視する部分あるいは主権在民であるという部分、あるい第九条の平和主義、これをもし熱心に教えるならば――そのことはこれはこういう説をなすものがあります。この第九条については、これを存続して、再軍備すべからずういう政党がある。改正して再軍備をすべしといと政党がある。あるいは拡張解釈で行け、このままで再軍備していいのだという政党もある。それですでに論争になつておる部分、そこのところをあまり力を入れて教えては、それは教育中立性の違反の問題になる。教育基本法第八条の問題になつて来る。こういうような説をなすものがあるが、こんなことを言えば私は扇動とか教唆という文字があるから、中立性がどこで違反されておるのか、見解がきわめて不明瞭であつて、まさに先生の言われる通りであると思うのでありますが、こういうような法律ができますならば、教壇における中立性の違反の扇動者、思想や学問や教育こういうような精神的な問題に対して、刑罰をもつて臨むこの法律はまつたくやぼなものであると思うのでありますが、この際先生から、お急ぎになるのでありますから一語でもようでございます。どうぞそういうような法律は、非常に乱暴だ、どこかの政党が何か言えば、もうそこは触れてはならないというようなこと、それは乱暴な解釈である、こう思う。その点、イエスとかノーとか、一言でも言えるならば、それをお聞きしたいと思います。  日高元事務次官を除く諸先生からは、いろいろ有益なる御意見を伺つて喜んでおります。
  224. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 お答えいたします。憲法第九条の解釈をして、それが何ですか、中立性の違反になるというようなことを言う人があるのですか。(高津委員「熱心に教えれば」と呼ぶ)熱心に教えたところで、それがほんとうにその人の学問上の信念であれば、それはかまわないと思います。(高津委員義務教育学校でも」と呼ぶ)義務教育学校でもかまわないと思います。  それからもう一つ、あなたは日教組をたたきつぶす法律だと言われました。しかし、私はこれは日教組をたたぎつぶす法律かどうか知りませんが、世間がそう言つておるならば、横からやらずに、正面からやれと言つたのです。日教組は何をしておるか、ここでたいへん質問があつて、私も大体どういうことが行われておるかということがわかつたのです。私は実は教授をしておりまして、教授は一つの経営者であるから、組合に入るべきものではないという意見を持つておるから、私は教員組合に入つておりません。従つて私は、全然組合とは関係がなかつたのです。ところが、最近でもありませんが、日教組はなかなか圧力を持つておるということを発見したことがあるのです。それだけ御参考に申し上げます。  私の方は学長を選挙しております。私が十一月二十三日に当選したわけなんです。就任は何か規定がありまして、十二月の十二日でないと就任できないのです。その間に四人の人が来まして――そのときちようど処分があつて、大半がストライキをやつておつたのですが、その処分はけしからないじやないかと私をつかまえて言つたのです。私は処分には全然関係がないから、処分は知らないと言つたら、学長たる者が知らぬとは何事だと言つたのです。いや、学長と言うが、あの処分は前の学長がやつたので、私は知らないのだと言つたら、部長は知つておるだろうと言うから、部長は知つておるだろう、部長は相談に乗つただろうと言つた。すると、あなたは部長のくせに知らぬとは何事だと言うから、私は部長ではない、四年ばかり前から部長をしていないと言つたのです。そうしたら、ちよつとほこ先が違つた。これは学生事件ですが、この事件は長引くと思うか、あなたの責任で処理するかというので、これはあたりまえだ、私の責任で処理すると言つたのです。そうしたら、われわれは要求を出す、こう言つたのです。それで私は拒否した。あなた方は大学の自由とか、学問の自由とか、大学の自治と言いながら、大学の自主性にあなた方が干渉することは何事だ、そういう要求は聞かないと言つたのです。そうしたら、要求を聞かなければ主張をすると言うから、主張も聞かない、主張するのはかつてだけれども、私は聞かないと言つた。それじや希望を述べると言うから、それもかつてだから私は聞かないと言つた。それでそのままわかれた。名刺をくれたら、みな日教組委員長とか、副委員長とかいう人です。日教組は大学に干渉することはめつたにないと思つたのですが、そうするとこれは小学や中学校には相当圧力を加えるのじやないかという印象を私は得たのです。私は日教組に接触したのはそれだけです。その後に日教組は抗議文というものを持つて来ましたが、私は開封しておりませんから、何を書いたのか知りません。それだけ申し上げておきます。
  225. 小林武

    小林公述人 三役に共産党がいるだろうというおお話でありますが、そういうふうに三役をしぼつて行きますと、私は日常一緒にやつておりますし、三役は特に、私ども組合業務をやる上においていろいろ話合いをしておりますが、そのようなことはないと思います。  それから日政連のことに関しましては、先ほども申し上げました通り他団体でございますので、ちよつとお答えはできません。  それから教育法案に対しての心配は、私ほど公述いたしました通りです。やはり過去の事実等から推して、私はこれは非常に心配であると考えております。そしてまたこれが教育に非常に重大な影響を及ぼすと考えております。私どもはもちろん法律その他の学問的なことはよくわかりませんが、現場というものを考えた場合に、これは重大だと考えるわけであります。
  226. 辻寛一

    辻委員長 世耕弘一君。
  227. 世耕弘一

    世耕委員 簡単にとおつしやいますから簡単に申し上げます。私は日教組に対しては深い敬意を払つておるのであります。なぜ敬意を払うかというと、日本の普通教育の根幹ななすものだと私は考えるからである。きわめてまじめな、純真な態度で、教育方針を確立してもらうその中枢をなす団体であるから、完全な発育をわれわれは望んでやまない。  そこでお尋ねいたしたいのでありますが、時間がないからごく省略いたします。私は問題を簡単に取扱うために、別な面からお尋ねして参りますが、むしろ組合員というような立場から委員長にお尋ねしてみた方がいいのじやないかと思います。私の調査した資料によりますと、組合員は相当多額の組合費をとられておるのであります。ある組合員の声を聞きますと、悲鳴をあげている。数字を申し上げると長くなりますが、一万二百七十四円の月給をとる人の中で、控除が二千六百五十円、組合費が三百三十円平均とられておるという状況であります。その組合費がどういうふうに使われているかというのが大きな問題なのです。それはいずれ予算の表が出るというから、内容はわかると思いますが、ともかくわれわれ疑問に思うことは、たとえば百四十円の組合費がとられたときに、その中で百二十円が組合費で、あとの二十円は闘争積立金として取上げられている。しかもそれが昭和二十七年十二月二十七日には、闘争資金追加金として四百三十円とられておる。それからさらに二十八年二月二十日に、やはり組合闘争資金追加金として五百三十円とられておる。ずつと百円、五十円というふうにかなり多額な臨時闘争費が追加徴収されておるのであります。私の聞くところによりますと、その闘争費だけは秘密にして、いまだかつて一回も発表されておらないということであります。これはどうゆうわけか。この安い月給で悩んでおる教員諸君から、こういうような闘争費をとつて行くことが、はたして妥当であるかどうかということを、私は委員長に聞いておきたい。  それから省略する意味で端折つて行きますが、日教組委員長初め、今言つた三役は、どれくらい月給をつとておられるか、ついでに聞いておきたいと思います。  それからすわり込み戦術ということが話題になつて出ましたが、すわり込み戦術はいいのだということは言わなかつた。悪かつたと言つていた。行き過ぎだということを言つていた。文部省は話がわからぬからすわり込んだというりくつは一応立つけれども、すわり込んだのが正当であるということを言うわけには行きますまい。読売の部長さんからもお話があつたし、ほかの委員の方も、公述人の方もお話がありましたが、日教組行き過ぎだということを言われておる。日教組行き過ぎであつたら、反省しなければならぬ。しかもわれわれから言えば、教育者にあるまじき行為を文部大臣の室でやつたその連中が、憤然としてそのままの地位にとどまるということで、どうして反省しておると言えるか、反省しておらぬじやないですか。これが労働者ならいい、あんちやんならいい。いやしくも神聖な教育労働者と目されておられるその人たちが、人の指導に立たなければならぬ人が、何らの反省もなくして恬然として同一組合にとどまるということでは、私は反省しておるということは言えないと思う。  PTAの方が教育のことは私にまかせておいてくれというような非常に力強いことを言うた。いいことを言うてくれたと思いますけれども、はたしてPTAの方の言うようにまかしておいていいかということは――私ここにひとつ証拠をあげてみましよう。鹽澤さんはおところが杉並のようでありますが、杉並区教職員組合闘争委員長遠藤某というものが指令を出しております。これは判が押してあるからまさかうそじやなかろうと思う。この遠藤某という人をあなたは御存じかどうか。知らないようではちよつとまかしておかれないと思う。この人たちがかなり手きびしい指令を出しております。しかも市中を蛇行せよという命令が七月十八日に出ております。蛇行というたらへびのように、こういうようにして運動しろということです。こういうことを生徒、父兄が見たらどういう感じがするでしよう。近ごろの日本のPTAはPの力がうしろの方へついてPTPになつてしまつて、しまいにはTTAになつてしまう、こういうよりなことが世間のうわさになつておる。しかもそのPTAの中に共産党の分子が最近侵入して来たということもこの中に出て来ております。もう一つ大切なことは、さきにもちよつと申し上げましたが、闘争委員の中に、いわゆるピケ要員の行動の指令がここに出て来ておる。学校の先生が登校したりあるいは帰りのときに、尾行しなければならないような先生があるということはおかしいじやないか。これも杉並から指令が出ている。しかも二人尾行しろと言つておる。保安要員は十八日支部大会場に行け、行かない先生には尾行しろとちやんと指令が出ております。これも判こが出ているのだからうそじやございません。こういうことをPTAのお父様方は御存じか、御存じならばあえて言う必要はないが、まだありますよ。しかもこれははなはだ不都合だと思う。そういうようなことをして学校をサボろうという人がかりにあつたときは、校長先生のいないときに届出をしろ、そのことまで指令を出しておる。もし校長がなかなか早く帰らないときは朝早く学校に来て出してそつと行けというような、そういうこまかい指令まで出しておる、かような状況であります。これではたして教育中立性とか、あるいは政治中立性が得られるか。  まだたくさん申し上げなくちやならぬことがあるのですが、もう一つ申し上げておきます。小林委員長は説明る中にこういうことを言われている・・・・・・。
  228. 辻寛一

    辻委員長 世耕君、お約束の時間が迫つておりますし、まだ御答弁がなければなりませんから、簡単に願います。
  229. 世耕弘一

    世耕委員 日教組の中に共産党はない、こういうようなことを言うているけれども、実は私は写真も資料に持つて来ているのですが、時間がないというからしかたがない、あとでまた御参考に何だつたらお見せしてもよろしゆうございますが、あるという証拠がいくらでもある。しかも共産党が統一委員会という仮面のもとに巧妙な戦術をもつて日教組の中にもぐり込んで活動しているという状況は、逐一ここに報告されておるのであります。時間がないので徹底したお尋ねもできないし、またお答えもできないのははなはだ遺憾に思いますが、結局は今の日教組を共産党からいかに守るかということが、あなた方の一番大切なことじやないか。しかも少数の共産分子によつて善良な教員諸君が蹂躙されておる。私はこういうことが今度の立法の処置における一番大切な問題であると思う。ある人いわく、少数じやないか。この少数がこわい。少数の者がかえつて多の数善良な教員をして毒している。私はきようは時間がないから証拠をあげて申し上げることを差控えておきますが、私も数十年来教育に携わつて、現在教育に携わつておる者の一人であります。教育の何たるかをよく了承いたしております。単に日教組の諸君を攻撃することのみがわれわれの責務じやない。教育を守るというふうな建前から、むしろ小林委員長の奮起を促したい。私は実を言うと、質問する前にあなたの前歴からいろいろな歩き方を全部調べてみた。むしろあなたが今日委員長としておられることを私は心強く思う。心強く思うが、もう一段の奮起が必要だ。この点を特に私は要望しておきます。
  230. 小林武

    小林公述人 組合費が多額であるというようなお話でありますが、今お話になつたのはどこの例かはつきり――そのどこの例というのは、県だと思うのですが、日教組としてはそのようにたくさんとつてないわけであります。二十円ということになつております。  それから闘争費を秘密にして、その経理の公開をやらぬ、そういうことは絶対ございません。これは日教組の名誉のために、私は断然さようなことはないことを申し上げておきます。それから三役の月給でありますが。私はどうも三役の月給を知らないのでありますが、私のことも、きようの法律案に一体月給のことが関係ございますか。私はどうしても関係があれば申し上げますけれども、私は教員としてもらう俸給だけは組合からもらつています。  それからすわり込みは、私は実はしたくないと思います。すわり込みをしなくても、話合いかできれば私は話合いで行こうという主義ですから、それはやりたくありません。  それから労働者やあんちやんと違うというような考え方ですが、私はそういうふうには思わないのです。私は労働者とあんちやんというようなものと違うとは考えない。私は労働者を尊重しています。しかし私が教育労働者ということを言うのは、私どもの仕事が大事な子供を預かつているというところから、教育労働者ということを日教組言つているのだ、そういう意味で、仕事の性格上非常に重要さと特殊なあれを持つておりますけれども他の労働者諸君を軽蔑するような気持は絶対私は持つておりません。  それから共産党についてまた再度御質問がございましたけれども、私は共産党であろうと何であろうと政党が私の方の組合内に介入することは、組合運営上絶対に好ましくないことであると思つております。
  231. 鹽澤常信

    ○鹽澤公述人 世耕先生のお尋ねがございました遠藤氏は、私も存じ上げております者で、どういう運動をとつたかどういう隊形をとつたか、これは組合のことでございますから、先ほど申し上げましたように私存じませんが、ただ先生方としてお会いいたしますときに、私どもの気のついたことは順次申し上げて直していただいております。たとえば私どもの会合に先生方の御出席をいただいたときに、とつくりのジヤケツをわざわざ着て来られたようなときには、何も組合の執行委員なつたからといつて、特に労働者の風をして来る必要はないだろう、われわれも着のみ着のままで来るのだから同じようにして来てほしい、と申し上げまして、すなおに受入れられております。いろいろ気のついたところから申し上げますが、ただいかんせんPTAの関係者というものは職業を持つておりますし、それの監視に当るわけにも行きませんので、常にお会いするたびに、気のついたことを申し上げるようにしております。  なおPTAの中には共産党員がおるじやないかというお話でございますが、私はおつてもさしつかえないのじやないかと思います。子供がある限りは、子供の父兄がございますので、これをPTAの会員にしないということはできないのであります。要はその方がPTAの団体の中において共産党的な勢力を扶殖したりあるいはその思想を普及しないように、われわれPTAの者がしつかりしてこれを防いで行けばよろしいのでありまして、PTAにおきましてもいろいろな各政党に所属しておる方が入つておるのはあたりまえでございます。私がPTAの地区の会長をいたしておりますときに、やはり共産党の会員かおりまして、非常に激烈な闘いをいたしたこともございますが、最後にはその方がすなおになりまして、遂はその学校からわきに転じて行つたという例もございます。要は結局会員の自覚がしつかりしておればさしつかえないのじやないか、こういうふうに考えております。
  232. 辻寛一

    辻委員長 山崎始男君。
  233. 山崎始男

    ○山崎(始)委員 法律の権威者であらせられます滝川先生にお伺いいたします。実は先ほど竹尾委員から教育政治的中立性という用語に対してお尋ねがあつたのでありますが、私も今度の二法律案内容におきまして、この政治的な中立性という用語が相当程度規定されると申しますか――はつきりしたものでなければ刑罰規定を課するということは、――最後においては刑罰規定を課するのでありますが、そういうようになるということは、私たとしましては非常に不安でもあるのでありますが、まずこの教育政治的中立性というのは、一体政治的な用語であるのが倫理的な用語であるのか、あるいは教育学上の用語であるのか、それとも法律上の用語であるのか、先ほどの竹尾委員のお尋ねもこの点は非常に大切だと言つておられましたが、私もその点はまつたく同感なのでございまして、先生の御答弁が少し私よくわからなかつたのでありますが、この点につきましてひとつお願いいたします。
  234. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 法律用語でありません。ただおつしやる通り内容ははなはだ漠然としております。しかしそうむずかしくいえば、あらゆることはみな漠然としているので、この政治的中立性という言葉も、事実の運営にあたつては、実際にはわかるだろうと思うのです。何をやればいけないとか、どういうことは許さぬとかいうことは大体わかるだろうと思います。しかしその言葉は法律用語でも何でもありませんので、私はたびたび申し上げる通り、刑罰規定としてはあの法律は輪郭が少しぼんやりしておる、いわゆる罪刑法定主義立場からいつて輪郭がぼんやりしておる、こういうふうに思うのです。
  235. 山崎始男

    ○山崎(始)委員 いま一度お尋ねしたいのですが、この法律案教育中立性という言葉があいまいだから、罪刑法定主義立場からいつてもどうかと思われるというお話でございますが、大体法律というものは、まずつくりますときには親の法律であるところの憲法、憲法というものに従つて、いわば税法律のもとにおけるその趣旨をくんだ法律をつくらなければならない。たとえて言いますと、今日何ぼ食糧が不足しておると言いましても、飯を一ぺんに五はい以上食つた者には罰金を課するんだという法律は、もとよりできるわけはございませんが、今度出ました二つ法律というものは、ここでいろいろ私たち考えますと、どこかに矛盾があると思うのであります。この二つ法律案の親の法律すなわち憲法の何条に準じておる、こういう関連性があるんだということがなければならぬと思うのでありますが、今度の法律案と憲法とはどういうような関連がありましようか、その点をひとつお伺いしたいのであります。
  236. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 今おつしやつた法律と憲法との関連ということは、憲法に違反しない法律であればよいということなんで、憲法の何条に基いてこの法律ができたということはないだろうと思います。であるから、今の、今度できる法律が憲法違反かどうかといとことは、最高裁判所が判断すべきことなんであつて、憲法の第何条に準拠してこの法律ができたいとことは言う必要はないと思います。まそたういうふうにすベての法律を説明することは不可能だと思います。
  237. 山崎始男

    ○山崎(始)委員 もう一点お伺いしたいのでありますが、先ほどから幾多論議されておりますように、現在の教育地方分権であるか、あるいは中央集権であるか――国家公務員の形をとるか、地方公務員の形をとるか、これは教育学生、その他いわゆる文教行政上の、一つ制度の上の論は別といたしまして、純法律的に考えてみました場合に、地方公務員である学校の先生が、国家公務員であるところの、人事院規則に書かれてある罰則だけが適用される。言いかえますと地方公務員身分を持つておりまする学校の先生が、悪いところだけが国家公務員になつておる。国家公務員になりますと、争議権がない、いろいろな強制行為はできないというので、反面それをまたいろいろ保護するところの道があると思うのでありますが、この場合はいわゆる人事院規則を適用されまして、罰則という悪い面だけが国家公務員の見方を持つて、いい面はちつとも持つていない、こういう点は立法上において非常な問題があるのじやないかと思うのでありますが、この点についてお伺いいたします。
  238. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 私らは、この前にも申し上げた通り、国家公務員である教員であるとか、地方公務員である教員であるとかいうふうに、教員を国家、地方にわけることはよろしくない。教員という資格においては国家公務員であろうが、地方公務員であろうが同じ、むしろ進んで私立当校の教員もやはり同じように扱われるべきものだと思つておるのです。そこで今あなたのお尋ねの事柄とは多少ポイントが食い違つておるように思うのです。私が申し上げたのは、教員としての立場から申し上げたわけであります。国家公務員であるとか、地方公務員であるとかいう、地方とか国家というものは重点を置いて申し上げたのじやなかつたのです。今おつしやる通りに、何も地方公務員を、刑罰だけを同家公務貧並にするという趣旨じやないのだろうと思うのです。いやしくも教員であるものは、地方公務員であろうが国家公務員であろうが、公務員として政治的にへんぱな教育をしてはいけないという趣旨だろうと思うのです。私はそう考えているのです。
  239. 野原覺

    ○野原委員 滝川先生に二、三の点についてお尋ねをいたしたいと思います。実は滝川先生はどうしても七時にお帰りにならなければならない。こういうせつぱ詰つた状況になつたについて、この議事の進行をした委員長に対して私ははなはだ遺憾に思います。しかしそのようなことは申しておられませんから、二、三先生に教えていただきたい点は、教唆扇動ということでございます。先生も御承知のように扇動につきましては刑法に規定がございません。なおまた今回の本法にも定義が出ていないわけです。ところが破防法第四条第二項に扇動に関する定義と思われるものがうたわれているのでございますが、今回の中立確保法律に関しまる扇動は、破防法四条二項のあの定義で行かれるものでございましようか。先生の御見解を承りたい。
  240. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 その扇動するという言葉は、御承知だと思いますが、明治三十三年に出ておつた治安警察法の十七条に、ストライキを誘惑、扇動した者は罰するという規定がありまして、そのときに扇動という言葉を使つておつたのです。ところがどうも誘惑とか扇動とかいうことではあいまいだということが問題になつて、それが廃止になつたのは御承知のことと思います。ところで破防法の四条に扇動という文字を使つております。私はあのときにやはり参議院の公聴会に命ばれまして、扇動という文字はいけないと言つたのです。教唆という文字は昔からあるのでして、明確に範囲がきまつているのです。ところが扇動というと意味がきまつていないので、今破防法通りに解釈するか、あるいは新しく解釈するかということはどうもわかりかねるのです。どちらにしてもあいまいな言葉だということ以上には申し上げられないのです。
  241. 野原覺

    ○野原委員 そこでお尋ねをしたいのですが、破防法の四条二項によりますと「特定の行為を実行させる目的をもつて、文書若しくは図画又は言動により、人に対しその行為を実行する決意を生ぜしめ又は既に生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えることをいう。」
  242. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 それは教唆じやないんですか。今あなたがお読みになつたのは教唆ですよ。
  243. 野原覺

    ○野原委員 これはどうも。教唆という意味でございましようか。
  244. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 それは教唆です。
  245. 野原覺

    ○野原委員 それじや先生の御意見従つてこのことは教唆だと……。これは私もあとで調べてみたいと思います。  そこで次の具体的な例についてお伺いしたいのです。これは中立確保に関する点でございますが、ある人が雑誌に論文を投稿したといたします。そこでその投稿いたしました論文を教職員の団体が研究、討議の資料に使つたといたします。その論文の内容特定政党を支持させるような内容になつている。それが研究討議の資料に使われた。討議の結果、教員特定政党を支持し、または反対するに足りる行動、つまり第三条の第三項に抵触するような判断をされた場合に、この論文を執筆した者は教唆もしくは扇動ということに抵触しはいたしませんか。
  246. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 今のお尋ねに対して説明すると非常にむずかしい刑法の理論になるのですが、この第三条に「何人も、教育を利用し、特定政党その他の政治団体政治的勢力の伸長又は減退に資する目的をもつて」と書いてありますけれども、そういう目的がない場合には、ただ自分が論文を書いて――こういうことをやる目的で書けば罰されます。そういう目的を持たずに論文を書く人は、その場合にこれにひつかからない。ところがその論文をそういう目的をもつて討議に付する場合には、問題になります。これは主観的違法要素といいまして、行為が違法であるか、適法であるかということは客観的にきめることだというのが原則なんですが、新しいこともないんですが、近ごろの学説では、主観的なものにもやはり違法性を決定する要素があるんだ、こういうことになるのですね。たとえば朝憲紊乱の目的をもつて暴動した者が内乱罪になる。暴動しただけでは内乱罪にはならない。朝憲紊乱の目的がなければいけない。何々の目的をもつて、こういうふうにあるんですね。こういう場合には目的をもつた人だけを罰するということなんです。今のお話は、論文を書いた人間がこれを参考にして、何か教育に利用しようという目的をもつて書いた場合にはやられる。またその人間にはそういう目的がなかつても、利用する人が目的をもつてやつたらひつかかる、こういうことになります。
  247. 野原覺

    ○野原委員 そこでお尋ねいたしたいのは、政治的行為と申します場合には、刑法上で申します作為、不作為という点から、不作為による政治的行為というものもあり得ると私は思うのでございますが、いかがでございましよう。
  248. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 刑法上作為とか不作為とかいうものをわけるのは――今そういうことを言うことはおかしいのですが、古い語になつているのです。ある意思が表現された場合、それが消極的な態度によつて表現されることと、積極的な態度によつて表現をされることがあるのですね。今かりに作為、不作為ということをもつていえば、作為による場合もありますし、不作為による場合もあります。
  249. 野原覺

    ○野原委員 私は二十年ほど前に滝川先生から――まだ先生にごあいさつしておりませんが、実は刑法の講義を承つた。そこで作為、不作為は古い説だと先生はおつしやるわけでございますけれども、たとえば次のような例はどうなるでございましよう。私どもは御承知のように平和憲法擁護の義務を負わされている。そこで平和憲法を破壊しようとする政策に対して反対しない。つまり平和憲法を破壊しようとする政策が私どもにおつかぶさつて来る。教員にかぶさつて来る。その政策に対して反対しないことは、不作為による政治的行為だ。これは不作為が古いかどうか知りませんが、不作意による政治的行為にならないかどうか、いかがでございましようか。
  250. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 むろん不作意による政治的行為になるのです。それはちようど選挙のときに投票するのも投票しないのも同じことなんです。政治的行為であることは同じことなんです。
  251. 野原覺

    ○野原委員 そこで不作意による政治的行為だといたしますと、これは作為による政治的行為が処罰の対象になるのと同じように、かくのごとき不作為による政治的行為も処罰の対象にならないでありましようか。
  252. 滝川幸辰

    ○滝川公述人 これはまたむずかしいです。不作為というのは、義務ある者がその義務を尽さない場合に違法性を持つということになるのです。ところがその憲法を守る義務法律によるのであつて、それを侵した場合がこの法律に書いてある犯罪になるかならないかという問題なんです。つまり守るべき義務ある人間が、義務に違反してそれを守らない場合に違反になるということなんです。それから、こつちから質問しちやいけませんから質問しませんが、今あなたのおつしやつた言葉で気に食わぬ点があるのですが、・・・・・。
  253. 辻寛一

    辻委員長 これにて質疑は終りました。公聴会を閉ずるにあたりまして、一言公述人の皆様方にごあいさつを申し上げます。  本日はたいへんお忙しいところを長時間にわたりまして、しかも滝川先生には特に遠路のところお越しいただきまして、たいへん時間の切迫しております折からにもかかわりませず、熱心に貴重なる御意見をお聞かせいただきまして、この法案審査の上にわれわれ委員一同非常に資するところ多いことを喜んでおります。委員諸君とともに厚くお礼を申し上げる次第であります。(拍手)  本日はこれにて散会いたします。    午後七時二分散会