○松岡
公述人 私も初めに少しばかり
立場を申し上げます。私のところの
信濃教育会というものは職能
団体でございまして、約七十年の歴史を持
つておりまして、県内の幼稚園から大学までの現職の先生のみで約一万六千人の組織を持
つております。そういう
立場におきまして、私代表ではございませんが、個人の
意見でありますけれども、一万六千の現場の先生の声はもちろんこれは反映しておるわけでございますから、そのおつもりでお聞きとりを願いたいと
思います。
今度の
法案を出されたということは、
行き過ぎがある、あるいは偏向
教育があるからということであろうと存じます。ところが現行法で、あるいは
教育基本法、あるいは
学校教育法、あるいは
教育特例法、
地方公務員法、この
法律による
教育委員会、県
教育委員会、地力
教育委員において、十分これは
取締りができる、私はそう確信しておる。
従つてすでに現行法において
教育者の
政治活動を
制限しております。これは当然であろうと
思います。基本法の第八条にもあります通り、中立維持もすることにな
つております。それにもかかわらずなお
法律をつくり、あまつさへ刑罰をも
つて臨むというようなことをしなくてもよろしい。県教委育員会、
地方教育委員会において、十分
行き過ぎなり偏向
教育は
取締り是正せられて行くのである。先ほどもPTAの会長さんからもお話がありましたが、なおその上に父兄の声、また輿論が
行き過ぎや偏向
教育は許しません。これらの点からしまして十分是正できて行く、こういうふうに
考えるのであります。しかるにもしこの
法案ができたとしますならば、どういう結果になるでありましよう。今多くの先生方は自主的に、いかなるものが参りましても、たといあつたとしましても、あるかないか知らぬが、とにかくみずから守り、みずから
行き過ぎないようにしておる。多数の先生はそうであります。この
法律によ
つて教育者を守ると文部大臣は申されておりますが、
教育者は
法律や刑罰で守らなければ守
つていけないか、さような貧弱なものに見ておられるか、またこの
法律や刑罰がなければ
行き過ぎてしまうのか。
行き過ぎあるいは偏向
教育をしておる者はごくわずかでありまして、五十万の
教育者のうち、事例は二十四というように
文部省では御発表のようでありますが、これも事案無根のものもあるようでありますし、五十万分の二十四、かようなわずかな
行き過ぎあるいは偏向
教育があつたとしてましても、これは十分
取締れる。それにもかかわらず、大多数の先生に対しましてこういう
法律や刑罰を設けるということは、私はあまりに
教育者を信じないじやないか。
法律や刑罰でやらなければ守
つて行けないのだ、また
行き過ぎてしまうのだ、大多数の
教育者にしてどうしてこれを信じないのか、私は実に情なくなるわけであります。
そして
地方教育委員会を育成強化するという御
意見でありますが、これ以上に
地方教育委員会を育成強化しまして――今
地方には
教育長に適任者が少いようでありますが、適任者を
教育長にし、また指導主事をふやす、もし
行き過ぎなり偏向
教育がいけないというのならば、この
教育長も
身分のことを
考えれば、現場のいい先生を
教育長にすることはできます。また費用さへ国で出せば主事を置くこともできます。そういうふうにされると申しておる。今以上に
地方教育委員会を強化し育成されるならば、たとえば偏向
教育をした者があつたにしましても、
行き過ぎがあつたにしましても、これを是正して行けますし、また現在起
つておるといわれておる偏向
教育または
行き過ぎは現在ほとんど是正されているではありませんか、解決しているではありませんか。新たな
法律をつくらず、刑罰を設けずして、現行法及び
教育協議会、
地方教育委員会、父兄の声、輿論によ
つて是正されているじやありませんか。しかもそれは少数です。私の憂えるところは、ごくごくわずか、九牛の一毛とも申していいような者のために、善良にして一生懸命にや
つておる
教育者をもなおこれをも
つて取締る、刑罰を与えるということは、先ほど申した通り、実に
教育者を信じないものである、
教育者の自尊心を傷つけるものである、もつと極端に言えばばかにしておる、軽蔑しておるものである。情なきところに
教育は行われません。上好むところ下これよりはなはだしきはなし。
政府が大多数の善良なる、熱心なる
教育者を信じないならば、世の風潮はいかになりますか。多くの善良なる、熱心なる
教育者を信じない、重んじないという風潮が現にある。父兄は申しております、また生徒も申しております、その声を聞きました。先生たちはだめだから、こういう
法律や刑罰をこしらえられるのだ――これでほんとうの
教育ができるでありましようか。またこれができたあかつきは、善良なる多くの
教育者を一方へ追いや
つてしまう、私は非常にこれを憂える。国家は思想の悪化なきを保しがたいでしよう。
教育者をして一層険悪なる思想を持たしめることなきや、これをおそれる。また
法律やそういうものはいくらもくぐ
つてできます。いかに多くの
法律があろうとも刑罰があろうとも、犯さないようにして――もし見えるものならば、事務ならばそれはいい。
教育は思想であり、人格の感化であり、心と心の影響である。
法律がいかにたくさんあ
つても、それが見えないようにしていくらもできます。そういう方へ追いやつたらどうなるか、私は非常にこれを憂えるのであります。
従つて私はこういうわずかな少数者のために、それをためるために――しかもそれは是正できている。現行法ですでにできておる。それもかかわらず、なおこういうような
法律をこしらえることは私は
反対です。
私は概括的に申したわけでありますが、昔から思想には思想をも
つて制するというふうに
言つております。
子供を
教育しているとわかりますが、あまり
学校で厳格にやれば
子供は蔭にまわ
つて悪いことをやるようになります。善良な熱心な先生をそういうことで縛つたあかつきにはどういう結果になるか、これを私は国家のために憂うるのであります。信任は尽忠を生むと申しますから――行過ぎや偏向
教育は、もしあれば私もいいとは
思いません。もしあつたとすれば、それは先ほども申すようにちやんと現行法で
取締ることができるのだから、まずそれ以上の多くの
教育者を信任しなければならぬ。現場の先生は、自尊心を傷つけられ、権威を落し、たえられないというふうに
言つております。だから
政府は
教育者を信ずることが大切であり、
教育者を尊重することが大切であります。
次にこれも概括的に申すことになりますが、
教育基本法、これも私が多く述べるまでもなく
皆さん御存じの通りでありますが、その前文で、「
日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この
理想の表現は、根本において
教育の力にまつべきものである。」とあるように、憲法で定めたこの
理想の実現は、根本において
教育の力にまたなければならぬ。それほど
教育は大切なものである。またその次には、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する
人間の育成を期する」とあります。
教育は実に大切だから
教育を重んじなければならぬと私は思う。
教育を重んじなければ
教育の実は上りません。この重んずべき
教育をする
教育者はやはり重んじていただきたい。重んじなければならぬ。尊重しなければならぬ。尊重するということはどういうことであるか、物心両面において尊重することであります。待遇することであります。まず物質的の待遇から申しますと、まだ薄いと
思います。先生たちは人の
子供は
教育することはできるが、
自分の
子供は
教育することはできない。私は信州でありますが、信州の先生は
子供を東京へ勉強に出せません。しかしその物質の待遇は甘んずるとしましても、せめて精神的の待遇、
教育者を重んずるということ――
戦前郡是製糸が全国一の良質の糸をつくつたというが、これは結局社長が
教育を重んじたからであります。物質的待遇も大事でありますが、それが薄くとも、せめて、
教育は大事である、
教育者は大事である、重大な使命と責任を持
つておるから、これを信じ、これを重んずる、こういうふうにしていただかなければ、私は
教育の実は上らぬと
思います。ところが今度の
法律は、精神的待遇どころか、逆に
法律で刑罰を科す、これは実に
教育者を侮辱し軽視するものであると
考えます。
またある論者は言いましよう、いくら
法律をつく
つても刑罰をつく
つても、それに触れなければいいじやないか、こういう論者がありますが、これは一を知
つて二を知らない。
教育者の側に立
つて考えてもらわなければならぬ。触れなければ何をしてもいいか、これははなはだ失礼でありますが、議員の
各位がおいでになりますが、か
つて――今はないでしよう、か
つては議員のうちから刑罰を受けた人がありますが、そのときにもし、どうも重大な責任を受けて、国権を議すところの議員のうちにそれがあ
つてはいかぬというので、議員を縛るような規則をつくつたら、皆様はどういうふうにお
考えになりましようか。いくら刑罰をつくろうが、
法律をきめようが触れなければいいというが、これは
教育者の側に立
つて考えれば、これほどつらいことはないですよ。それほどわれわれは心配している。それまでにわれわれを縛るのか、実にこれは残念である。それだから弱い
教育者はこれで志気が衰えて、萎靡沈滞するでありましようし、強い
教育者は反感を持ちます。もしこの
法案が成立した場合には、
政府に対してどういう
考えを持つか、これを支持する議員
各位、その
政党に対してどういう
考えを持つか、善良なる五十万の
教育者はどういう
考えを持つか、その結果を私は実に恐れるのであります。その結果は、今
教育者に人材を招致しなければならぬけれども、人材の招致は非常にむずかしくな
つてしまう。
教育家は経世家である、また経世家でなければならぬ、こういうふうに申します。私もそういうように
思います。それはもちろん
子供の個性を伸ばし、天分を伸ばし、能力を伸ばして、そうしてその
子供が世に立つたときには、それに応じた職業を得て生活するとともに、基本法にあるように平和と真理を愛する
子供をつく
つて、その
子供が将来世に立つたときにはどうか、それはその生活が問題になります。どの
子供もみんな個人の尊厳を重んじて、たとい能力の悪い
子供でも、何かしらや
つて世の中に立てさせなければならぬわけですが、現在はそれもできないほど悪い世の中であります。
子供が将来世に立つたときには、憲法に規定されてあるような民主的で平和的な文化国家ができるようにということを
教育者は切に願
つて、毎日量的には小さいけれども、それをや
つておるわけであります。この憲法にある大
理想を
理想として日々の
仕事に当
つてこそ、初めて
教育者に熱が出る、小さいながらもそれをやるという意義があるのであります。しかしそうやつたけれども、もし国の
政治が
民主主義に反したり、平和
主義に反したり、文化
主義に反したような
政治をやられれば、粒々辛苦した
教育者の努力は水泡に帰してしまうんです。
従つて教育者は
自分の
子供を
教育すると同時に、国家のために
政治、
政策を批判して、その
政策がもし
教育の
理想にかなう
政策ならば、また
教育を重んずる
政策ならばこれに
賛成し、これを支持する
政党を支持するのである。もしどの
政策にしても、われわれの
理想を不可能ならしめ、妨げる、あるいは
教育を重んじないような
政策には
反対し、それを支持する
政党には
反対する。これが真の
政治的中立であると私は思う。
教育者は両方やらなければならぬ。もしそうでないならば、戦時中のようにその
政府に盲従して、またちつとも批判しないで、こつこつや
つてもその効果はあがらない、いい国はできないんです。そうしてそのときの
政府に盲従するというようなことに
なつたのでは、
教育基本法にあるところの大事な
理想がそのときどきにかわ
つてしまう、一貫できない。つまり私が言うのは、
教育の
理想に照らして、
教育をほんとうに重じ、この
教育の大事な使命を果す上において、いい方に
賛成し、いけない方は批判し、
反対する。私はこれが
教育者として非常に大事だと思う。ところが私は今の
教育者には
教育の
理想を貫くところの熱意、国家を思う熱情がまだ薄いと思う。(「説教はやめたまえ」「説教じやない」と呼ぶ者あり)説教じやない。この
法案が出た結果は、この
理想を貫く熱情、国を思う熱情を
教育者から失わせやしないかということをおそれるから申し上げる。
次に各案について申し上げます。第一の
政治活動の禁止の
法案でありますが、
地方公務員というのは
意味が非情に深いのであります。なぜかというと、国家の
国民をつくる、
従つて国家に対する
理想を
理想としてやるとともに、町村の先生であるから、いい町村民をつくるということが非常に大事なのであります。
従つて地方公務員の
身分ということは、その町村の先生ということである。町村に根をおろし、腰をすえて、打込んで、そうしてその町村の実情をよく調べて、将来
子供がいい町村民にな
つて、その町村をよくするというところに、私は
地方公務員というものの大事な
身分があると
思いますが、その
地方公務員法のうちの
政治活動のところだけを
国家公務員並にするということは、私は
法律の体系上非常に疑義があるのであります、同じ
地方公務員でも、役場の吏員も
地方公務員である、先生も
地方公務員である。役場の吏員は
政治活動をすることができるが、先生だけを差別待遇するということは、はなはだよろしくない。ことに
地方教育委員会を抑制するということは、
地方分権ということに背馳しやしないか、こういう点において私は
政治活動制限の
法案には
反対である。
なお先ほど申し上げたように、国の大事な
教育の
理想を貫き、ほんとうに使命を来すためには、やはり
教育を重んずる
政治が行われなければならぬ。それがためには、議会へ
教育の
理想を貫いたり
教育を重んずる議員を送らなければだめなんだ。そういう点において、やはりいざとなれば
教育者も団結して、大いに
教育の
理想を実現し、
教育を重んずるような議員を送ることはさしつかえない――さしつかえないどころじやない、むしろやつた方がいいんだ。そういう
意味においてこの特別法には
反対である。
次の
中立性でありますが、「何人も」というのでありますが、
教唆、
扇動ということは実にはつきりしないのでありまして、はたして
教唆、
扇動しているのかどうか、またそれを受けた先生が教室で
特定の
政党を支持しているか、
反対しているかということはなかなかわからないのであります。
いま
一つつけ加えることは、この
法律ができれば、この
法律に対する責任は司法
行政である。この
法律が出れば、警察官は責任を持
つてこれを調査することになるのであります。今でも思想調査をやるというような非難がありますけれども、これに対して責任を負うのは司法官であり、警察官である。そこで
扇動しているかどうかということを調べなければならぬ。そしてまた
子供にそういうものを
扇動されてやつたかどうかということも調べなければならぬ。ここに私は警察力の介入というものを非常におそれるのであります。当局は介入させないとおつしやるけれども、現在すらも警察官は
行き過ぎをや
つておる。それをただやらないというくらいでなく、
行き過ぎをとめる
法律を一緒にこしらえてもらわなければならぬという結果になる。こしらえないときには、これは警察官の責任として、
扇動しているかどうか調べなければならぬ。また先生が
扇動されて、教室で
特定の
政党を支持し、
反対することを
子供に教えているかどうか調べなければいけないということになるのでありまして、これも実に困つた
法律である。
教育委員会の要請とありますけれども、
教育委員会が要請するまでに必ず警察官が介入する憂いを持つものである。
時間もはなはだたちましたが、初め概括的に申し上げ、次に二
法案のいけない点を申し上げて、絶対に
反対する。