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川俣委員 一つの例をとつたのですよ。従来はこうやつておつた、それよりもふえた分だけの何割を
補助する、こういうことでやつておると、去年と同じような問題が起きて来る。同じ金を出すにしても、明瞭な——さつき議論しておつたのですが、
差額金というようなものは一体どこから出て来るのか。私は別によしあしを議論しているのじやない。一例を言えば、従来はこうであつたから、これに基かなければならないのだというような
考え方を出して行くと、結果的にはいろいろなトラブルが起るようなことになり、
指摘事項が起きるようなことになる。というのは、
一般に
差額金ということに
なつて出て参りますと、
自分が買つたものと去年の
差額金なのか、作柄が平常であつた場合のものと今高く買つたものとの
差額金なのか、あるいは二定
単価があつたものと何とかの
差額金なのか、こういう点にいろいろな疑義が出て来るために、末端に徹底を欠くものなんです。そこでその使用方法にいろいろな見解の相違が出て来るものですから、会計検査院から
指摘されるのは
あたりまえのことなんです。わからないやり方をしておいて、間違つたことをあえてやつてもいいようなことをやらしておいて、これじやいけないというのです。それはあなた方の
考え方か、現実にそぐわないような支出の仕方をするからなんです。問題はそこにあると思う。たとえば去年の桑の樹勢回復の肥料などもそうです。これは現金で渡したりすると、十本を二十本の人にも行かなければならぬ。金でやるなんと言うと、とりに行くだけむだたということが起つて来る。
労力費がない。それだから、受取らない人があつた、この金はどこへ行つたかというようなことで問題を起して来る。これは農協が集めて全体の肥料を
買つて、肥料で渡すというようなことに
なつて来ると、肥料ということになると
農民はとりに行く。もしとらないにいたしましても、肥料として
買つてほかの人が使つても、そう大した批難に当らない。これは現金だということから、渡らないという文句が出て来る。わずかの金なら、手間賃がないということでとりに行かない人が出て来る。
従つてそういう一畝歩とか二畝歩とかまでのものにはやらないならやらない、そういう小さな
農家には別な方法で救済するなら救済する、社会政策的な救済をするのだ。それからそういう
補助金が来ても、経費をかけてとりに行つても成り立つようなところには成り立つようにして行くというようなことをやればよい。ところが、小さいものには渡さない、社会政策は別だというようなことで、この
冷害なり
災害に対してはみな除いてしまうから、それじや気の毒じやないか、幾らかでも渡るようなことをしようじやないかということが起つて来て、三十円とか四十円というような
補助が出て来る結果になる。小さいものにはこういう
補助はやらない、そのかわり別個に社会政策的な見地から出すのた、こういうふうにはつきりして来ると、ああいう会計検査院からの
指摘事項は起つて来ませんよ。それを今度出たものでみんなをやろうなんと
考えるから、無理がある。これはこの段階までより出ないのだ、そのほかは別な方法で救済するということになると、すつきりする。あなたはそう思いませんか。