○
斎藤公述人 斎藤でございます。私
ども考えますのに、
自衛という問題は
国家民族存立の原理であり、
防衛ということをま
つたく必要としないような世界ができますれば、それは
理想でございましよう。だが現在の段階ではまだその
理想にははるかこ遠いのでございまして、
侵略の可能性はなお至るところにあります。こういう
侵略の可能性のある世界に処して、
国家なり民族なりが、自分の生命を維持し、あるいは安全を保
つて参りますには、これに対してみずから守るということは当然な話であります。
自衛とか武装とか申しますと、よく
国家主義者の一群の専売特許であるような議論をなさる方がございます。だが私はそれは大きな誤りであると思います。一九一六年の十二月に公布されましたソ連の
憲法、いわゆるスターリン
憲法と申しますが、この編纂は約一年を要しまして、慎重の上にも慎重を期して起草したものでございます。六月に草案を発表しましてから
あとも、約半年ぐらい、五箇月の間はこれを一般の討議に付して、十分に民間の
意見を尽さしめて、初めてこれの効果を発生さした、ロシヤでほとんど
政府、民間のあらゆる論議を尽した
憲法でございます。だがその百三十二条には全
国民的に、
国民皆兵の義務を、これは
法律の定める義務であると規定しております。労農赤軍における軍事勤労、軍事勤務はソ
連邦人民の名誉ある義務であると、はつきり
憲法に明言しております。さらに百三十三条に至
つては、祖国の
防衛――祖国とい
つています。祖国の
防衛はソ
連邦各人民の神聖な義務である。祖国に対する反逆あるいは宣誓違反、敵国への内応、
国家兵力の毀損、間諜行為、これらは最も重大な罪悪として、
法律の峻厳をも
つてこれを罰するということを申しておるのであります。共産主義の
国家においてすらも、祖国の
防衛ということは人民が負うべき神聖な義務でもり、
憲法が明文においておごそかに規定しておる神聖なる義務であります。人類の共栄、世界の平和ということも、民族の自立があり
国家の平和があ
つて初めてこれを望み得べきものであります。民族の自立なく
国家の安全がなくて、世界の平和ということはあり得ないと私は信じます。平和というものは、われわれが営々の努力を重ねてこれを地上に創造すべきものであ
つて、かりそめにも他人のあわれみにすがり、あるいは他人の慈悲にたよ
つて、喪家の犬のように投げ与えられるのを待つべきものでない、そう信じます。
最近にはまた原子爆弾あるいは水素爆弾の破壊力が非常に大きいので、あまりに大きい
威力に眩惑されましたあまり、もはや今日の兵備は全部不要である、原爆の大
威力の前においては軍艦も大砲も戦車も航空機も、これはおもちやだというような御主張もあるようであります。私が平素最も親しくおつきあいを願
つております、最も敬愛する友人先輩の間にも、この主張を支持され、あるいは主張される方がたくさんあります。ではございますが、いかに小さいものであるにせよ、
自衛の機構を保持するか保持せぬかという問題は、
国家百年の運命に関する大問題であります。私
どものような民間の論客、野人の論客が何を
考えているかということも、一応はお聞取り願いたいと思うのであります。
兵器の恐ろしい
進歩は、これは確かに
戦争の形式、形態をま
つたくかえました。これはおつしやる
通りであります。
従つて防衛の方式というものも、また
防衛の観念というものも、根底からかわらなければならない、これも仰せの
通りであります。私
ども始終この点を主張しておるのでございまして、それは確かに真理でございますが、なお問題が
一つある。それは原子
兵器の出現というものは、はたして他の一切の兵備を不要にしたか、無価値にしたか、おもちやにしたかという点は、なお慎重に御考慮願いたいと思うのでございます。原子爆弾というものは、本来それ自身運動の能力を持
つているものじやないのであります。翼を持
つて、自身空をかけ海を走
つて敵国の頭上に至
つて炸裂するというような性質のものではない。これを敵の頭上に運ぶものは航空機であり、潜水艦であり、航空母艦であります。あるいはまた
誘導弾の中にこれを仕込んで敵国に向
つて、発射する。その運搬の手段があるかないか、あるいは運搬の手段がまさ
つておるか劣
つておるかということが原子
戦争の勝敗を決定するのであります。攻撃する側から申します。ならば、いかにして原子
兵器を敵国の頭上に運搬するか、防禦する側から申しますれば、いかにしてこの運んで来る原子爆弾を途中で食いとめ、撃ち落すか、これが原子
兵器の勝敗を決定する最大な要因であります。このようにして原子
兵器が出現しましてから当然航空機あるいは艦艇の性質が非常な飛躍を遂げまして、このようにして空では戦略空軍、海上では恐るべき機動
部隊、これが今日の花形にな
つております。防禦の側では電子管
兵器と申しますか、
誘導弾を含みまして、自分自身の中に精密な電子の頭脳を持
つて、敵を自身で求めて、敵に向
つて殺到する電子管
兵器、あるいは防空戦闘機の驚くベき発達を見るように
なつた。このようにして艦船であるとか、飛行機であるとか、ロケット砲とか
誘導弾とかいうものは、こういう原子
戦争の
時代に入
つたからこそ恐ろしい飛躍を遂げ、以前のものとは全然比べものにならない重大な値価を持つように
なつたこれは将来においてはなおさらであります。現在合衆国
海軍の機動
部隊の中核となろうとしておりますものは、五万九千トンの大型航空母艦であります。すなわちジェームズ・フオレスタルで、本年には竣工するはずであります。第二艦のサラトガも一両年中にはでき上ります。第三艦はおそらく
原子力の機関を持
つた原子力航空母艦になるのではないかと思います。そううなりますと時速も五十ノット内外で、およそ想像を絶した行動能力と破壊力とを持つものになるのであります。戦艦もその
通りでありまして、今日の戦艦はもはや大砲の戦艦ではないのであります。
誘導弾の発射装置を持
つた戦艦が現われて来るであろう、あるいは現われております。たとえばソビエト
連邦が最近製作しました三万五千トン級の戦艦が二そうあります。それはトリエーテイーインテルナチオナール、ソ、ヴイェツキーソユースで、どちらも
誘導弾を主要な武器にしております。
アメリカの方でも同じくノートンサウンドと申します水上母艦を誘導、弾軍艦に改装して試験しております。一九四〇年の計画で六そうの戦艦を建造するようにな
つて、いましたが、そのうち四そうできて二そうでき上
つていない、二そうはなお七分
通りでき上
つて船台の上にさらされております。第六艦ケンタツキーは、おそらく最初の
誘導弾戦艦とな
つて現われるのじやないかと
考えられる。飛行機もその
通りであります。今日の飛行機はもう人を乗せない。速力もこれまでのように一時間何百キロというようなはかり方ではもう
時代遅れと申せましよう。音速の何倍――マツハ二、マツハ三、音速を基準にしてはかるような
時代にな
つております。第二次大戦の一九四四、五年ごろの
時代は、ロンドンはドイツの恐ろしいロケット砲撃にさらされてお
つた。その基地はオランダであります。この間の海上の距離が約二百マイル、この二百マイルを隔てて凄烈なるロケツト攻撃を受けた。今日はすでに大西洋を横断する無人飛行機があります。御承知の
通り、B六一マタドーと申します人の乗らないレーダーのビームによ
つて操縦される恐ろしい無人機も一箇中隊はすでに一九五〇年から
現実に存在しております。防禦の方でも同じことであります。
誘導弾の発達はおそらく想像を絶するものがあるように思います。これに最も熱心なのは英国でございます。オーストラリアの中部にウーメラという広漠たる砂漠がありますか、この砂漠に
国家の費用をも
つて巨大な
兵器研究所を建てております。そこでもつばら力を入れて
研究しておりますのは、
誘導弾あるいは誘導魚雷で、最近のものは時速三千二百キロ、音速の約三倍の速度であります。到達する有効距離も一万五千メートル強で、世界の最高峰といわれるエヴエレストの二倍近い高度より敵の飛行機を追い詰め、どこへ逃げても必ず自分の頭脳、自分の感覚でも
つて追いかけて行く。命中率は今日約二分の一とされております、つまり二発撃てば一発は当るという精度を持
つておるようであります。
アメリカにも、これに対抗するものとして例のナイク、スパロウ、マイテイーマウス、いろいろなものがあります。また防空戦闘機が
進歩しており、レーダーで先導する高射砲が
進歩しております。われわれが第二次大戦中に知
つておりました高射砲の
威力は、今日はもはや博物館的の存在でありまして、口径も七五センチくらいの小さいものであります。到達する距離も、五、六千メートルくらいでしかない。たまも人間が込めていた。今日のものは
威力においても性能においてもこれとはま
つたく比較にならないものがあります。朝鮮の
戦争で、一九五〇年六月二十五日から一九五二年一月の半ばまで一二年近い間に米軍の射落された飛行機は、ジエツト機が百七十、プロペラ機が二百四十五、その中で共産軍の高射砲で撃墜されたものが、ジエツト機では百七十の中で百三十三、プロペラ機の中では二百四十五の中で二百三十というように、ほとんど地上砲火でも
つて射落されておるのであります。これはすべて原子
戦争の
時代に入
つたからこそこういう大飛躍をしたのであります。原子
兵器の破壊力が惨烈をきわめたからこそ、これを避難し、阻止し、破壊するあらゆる
兵器の重要さは、もはやきのうとは比較にならない。原子戦の恐怖から
日本の生存を守る道、再びわれわれの子孫の上に原爆の惨禍を受けしめないただ
一つの方法は、これ以外にはないのであります。そのためには、われわれは民族の叡智を尽くし、あらゆる方法を尽して、これを食いとめる方法が今日
研究せられなければならぬと存じます。まして
日本列島の場合には、原子攻撃といえ
ども必ず海洋を通過し、空中を通過して加えられるのであります。
従つて今日の
戦争の勝敗を決定するものは、依然として制海権、あるいは制空権の問題であります。原子
戦争の
時代に入
つたからこそなお一層制海権、制空権は重要になる。
戦争の形態はかわりました。だが
戦争を支配する大原則は今日といえ
ども少しもかわ
つておらない、依然として不動であります。
第二の問題は、原爆
戦争というものはどういうふうにして戦われるか、原爆
戦争の戦われる形、これを
考えなければなりません。原爆、
水爆の
威力というものは言語に絶するものがあります。だがこの大
威力を行使する
戦争は必ず全力を敵の唯一の、致命の目標に集中しなければならぬ。ほかのところへさいている力はないのであります。最初の一撃で勝敗を決定しなければならぬ。最初の一撃がもし失敗するならば、今度は自分が原子弾を食う番であります。いわゆるリタリエーシヨンと申します。報復であります。報復戦の恐怖は、ただ一個の原爆といえ
ども目標以外のところに使うことを許さない。これが原子
戦争の普通の形であります。
その上に原爆というもの数の上にも非常な制限があります。第一に、ウラニウムの原鉱を入手することが非常に困難にある事情。第二に、これを製作するには想像を絶する大電力がいるということ。第三に、相当の時間がかかる、長時間をかけなければこれは製造できない。こういう意味で、数はきわめて少いのであります。しかももつと悪いことは、一旦この製作の設備を敵によ
つて破壊されるならば、もはや原爆はつくり得ない。ところがこの原子爆弾工場くらい所在の場所を探りやすく、爆撃しやすいものはないのであります。先ほど申しましたように、恐ろしい大電力がいる、原子工場のある所は、必ず大発電所の近くであります。
従つて大河の流域であります。たとえば今日ソ連の原爆製造工場のあります場所、イリ河のほとり、カマ河の近所あるいはアンカラ河のそば、すべてこれ大河の沿岸であり、大発電所のある所であります。これは非常に爆撃を食いやすいのであります。
もう
一つの問題がある。これを運ぶ高速の、巨大な爆撃機が非常に少い。特に水素爆弾のような巨大なものになりますと、これを運ぶ飛行機というものはそうあるものではないのであります。この数少い飛行機を、そういたずらに致命の目標以外の地域にさくことができるかどうかということであります。その上に、この飛行機は敵国に侵入する途中で必ず撃墜されます。侵入の途中でも
つて、落される率、これは普通に
考えましても約三割、いわんや
誘導弾の趣撃を受けました場合には、七割以上は落されるものと思わなければならない。かりに二百機の飛行機が二百個の爆弾を抱いて敵国に侵入した場合、百四十機は撃墜されて、わずかに六十機が国境を惨透できる、そういう公算しかないのであります。まして今日の
戦争の方法は、敵の手足は撃たない。手足はほつといてまず頭脳に一撃を加える、あるいは心臓にとどめを刺す、これが当然の
戦争の方法であります。こういうときに、
日本列島に対してこの貴重な原子爆弾をたやすく行使し得るかどうかということには、私は大きな疑問を持つのであります。
ソ連には、最近ゴロヴアロフと申します大将を指揮官としまして戦略爆撃隊ができました。ADDと申します。戦略爆撃機の分野は、ソ連が今日まで最も不得意としたところでありまして、これは非常に劣
つてお
つたのであります。ところが最近初めて巨大な戦略爆撃機がどんどん登場しおります。たとえばトウポレフのつく
つた二〇〇型あるいはイリユーシンの三八型、これらははつきりはわかりませんが、今日すでに四百機くらいにな
つておるのではないかと推定されます。それが一体どこに展開しておるかということをごらん願いたいのであります。大体コラ半島からチユコツト半島へかけて北極海に向か
つておる。北に向
つておる。太平洋の真北であります。向うところは北極であります。これはカムチャツカからまつしぐらにアラスカを通過して米州をつかまえる、あるいは北極圏を翔破してただちにアラスカに至る構え。現に昨年の秋九月にも、ソ連の国防相代理ジユーコフ元帥がこの一帯の地域を視察しております。こういうふうに第二次の大戦では、
戦争の伸びて行く形が横に長く伸びまして、たとえばハワイに行き、ミツドゥエーに行き、フィリピンに行き、沖繩に行く。あるいはフランスに行き、スペインに行きました。だが、可能なこの次の戦いは、横には伸びずして南北に伸びるのではないか。北極を中心に北に、あるいは南に伸びるのではないかと思う。まして
日本列島を制握するには、そんなにも貴重な原爆を使う必要があるだろうか。
日本列島の地形ぱ英国とほとんど同じ地形であります。海上に孤立した孤島であります。これを制握しますには、原爆を使わなくても、今日の
日本ならば、わずか数十隻の潜水艦があれば、これを屈服に追い込むことはたやすかろうと思います。前大戦の終りに
日本に対して原爆を投じたじやないかと言われるかもしれません。しかしあのときは八千万の
国民の結束はなお鉄のようであ
つた。滅びかけてはお
つたが、なお巨大な海上の武力があ
つた。陸上の大兵力があ
つた。一万機に近い航空
部隊も温存されてお
つた。
アメリカが特に神風攻撃に対してどんなに苦しんだかは、今日いろいろな文献を見れば見るほど明らかになるところであります。だが、今日は全然事情を異にしておる。潜水艦だけでけつこう。あるいはソ連が最も得意とする機雷の最も巧妙な
使用によ
つても、
日本列島を分断することはたやすいことであります。
イギリスは、これまで両度の大戦に幾たびか存亡の渕へ追い詰められました。ドイツの潜水艦隊に追われた。それと同じように、通商破壊戦こそは
日本にと
つて最大の恐怖であります。今日
日本にと
つておそらくこれ以上の
現実の恐怖はあるまいと思う。ところがソ連の
海軍、空軍の構成を見ますと、通商破壊戦に全力を集中しておるように私は見受けます。ドイツが
戦争中に建造して
戦争に十分に
使用し得なか
つた二一型の潜水艦、シュノーケル型とい
つておりますが、これの設計をと
つて来て接収し、ドイツ人の技師を連れて来てどんどん製作しておるようであります。あるいは巡洋艦もその
通りであります。これまでソ連の持
つておりました軍艦は、内海にこびりついた軍艦であります。黒海の艦隊もそうであります。あるいはバルト海の艦隊にしても内海の艦隊で、航続力が非常に短かい、足が短かいのであります。ところが昨年の夏六月、イギリス女王の戴冠式の観艦式に列席いたしました新しい巡洋艦スヴエルドロフの、これら旧式の巡洋艦の性能とま
つたく違
つておるところは、ただ
一つおそるべき航続力、おそるべき足であります。これはもはやソ連が湖水の艦隊に甘んじていない証拠であります。目ざすところは太平洋、インド洋の通商を破壊するにあるとわれわれは
考えておる。しかも今日ソビエト
連邦は航空母艦を持
つておる。クラスナヤズナーヤ、この建造が伝えられております。あるいはドイツが持
つておりましたグラーフツエペリン、これも通商破壊戦用の航空母艦であります。これを接収して、改装して持
つておるのではないかと推定しております。もし
日本列島がこの潜水艦の封鎖を受けますならば、あるいは機雷の封鎖を受けますならば、
国民の食糧はどういたしますか。もう
国民は飢餓に瀕するほかはない。工業の原料は来ない。工業は崩壊するでしよう。これに乗ずる内乱が起り得ましよう。こう
なつた場合、ほとんど収拾する方法はないのです。空爆もその
通りであります。これも可能であります。原子爆弾によらない空爆、たとえばイリユーシン二八型、これは双発のジエツト軽爆機でありますが、最近どんどんつく
つております。中共空軍にすら与えておる。こういうふうに
日本が今日最も必要としますものは、潜水艦に対する戦闘
部隊、通商保護の艦隊、国土を
防衛する
防衛空軍であります。あるいは
誘導弾の要塞であります。ないしは国土の上に張りめぐらすレーダー網、
日本列島というのはほんとうの一条の線であります。国土の上だけでは足りない、海上にも防空レーダー船を出して守らなければならない。これが
日本の安全のためには最大の
現実にいる武装であります。あるいは原子爆弾から見ますならば、とるに足らないおもちやに相違ない。おもちやには相違ないが、これは
日本民族の安全と平和を託するには必要不可欠のおもちやであります。しかも場合によ
つては当分の間は十分なおもちやであります。これでも
つて足ります。
日本列島は先ほどから申し上げますように、地形的には非常に特殊な国土であります。周囲を全部海洋が囲縛しておる。海であります。あらゆる攻撃は必ず海洋を通過して来るということは、ドイツの場合とはまるで違うのであります。もう
一つは全列島が最近にはほとんど要塞化して来ておるという点、第三には自由諸国との間の相互安全保障があるという点、ソ連、中共に数百万の大軍があるとしても、必ずしもこれに対応して自分の一身の安全を守るためには同じような数百万の大軍を必要としない。ソ連に原爆があり、
アメリカに原爆があ
つても、必ずしも原爆を必要としない。これが
日本の特殊な条件であろうと私は思います。その上にさらにソ連あるいは
アメリカ、自分たちの周囲にあります強国を見ましても、たとえばソ連の例をと
つてみましても、上陸戦に必要とするような船の数は足りません。大上陸戦を敢行するに足るだけの船舶は持
つておりません。その上に上陸用の舟艇、小型の船の用意も非常に欠乏しております。それからソ連の
陸軍、
海軍は上陸戦の経験がほとんどないのであります。第二次大戦にクリミア半島の近くでわずかにまねごとをしたにすぎない、アンフイビアスウオーと申しますか、海陸協同の作戦の経験がない。ましてスラヴ民族ば非海洋民族であります。海上においてはあまり能力を発揮し得ないのであります。空挺作戦も同じであります。空輸機が足りない。空挺作戦をしますには必ず補給をせぬければならない。落しても補給が続かなければ、これは何らの
威力も発揮できないのであります。この補給は海上を通過しなければできない。さらに制空権の問題がある。それから敵国の内部において内応する
部隊がいる。ドイツの落下傘
部隊あるいは空挺作戦の成功は、敵国の内部にこれに内応する
部隊があ
つたからであります。たとえばオランダではアントン・ムツセルトが指揮するオランダナチ、これの内応があ
つて初めてあれだけの疾風迅雷の作戦ができ、しかも成功した。
日本の全列島が今基地化しておるということも大きな条件でありまして、今日基地の価値は非常に大きいのであります。昔の戦艦の一戦隊、航空母艦の一戦隊にも当るかと思います。これはもう迅速に
日本全土を通じて航空
部隊を移動することは可能になる、あるいはもし空輸機さえあるならば、
日本全土に陸上
部隊を自由に動かすこともむずかしくない、その上に相互安全保障体制なり戦略空軍機動
部隊と結んでこれと協同して作戦するという形になる場合に、何もわれわれ自身の手に急いでそのような大破壊力を持つ必要はないのであります。こういうふうに、おもちやの兵備といえ
ども、
日本列島の
防衛には、こういう条件を
考えますならば、千鈞の重みを加えるのでありまして、十分にしてかつ必要であると言
つた理由はここであります。
だがこのようないろいろな条件も、
日本に相当の数の兵備があ
つて、相当の装備を持
つていて初めてこれは意義をなすものでありまして、裸でおるならば、今日の
日本に対してはおそらく一隻の潜水艦でも恐るべき
威力を発揮するのじやないかと思います。一握の空挺
部隊でも十分でございます。海洋というものも、これに武力を配してこそ初めて海上の天然の要塞にもなろう、武力の守りのない海洋は
侵略のための短路であります。進撃のための好道であります。これほどたやすい進撃はない、ましてもう
一つ原爆
軍備競争がしきりに行われ、これはあらゆる大戦の危険を内包するけれ
ども、先ほど申しましたように、報復戦がこわい、破壊力があまりにすさまじい、この恐怖が今日世間で言うような大戦をなかなか起させない
原因だろうと思います。大戦は起きないだろう、だが局所的な局地
戦争、あるいは制限
戦争は起き得るのであります。現に仏印に起きております。朝鮮に起きております。あるいはユーゴに起きないとも限らない。これに対処する心構えがなくては、とうてい民族の生存ということは保障できません。今日機銃をも
つて武装した暴徒、手榴弾をも
つて武装した暴徒は
現実に起き得る可能性であります。これに比べまして警棒一本持
つた警察というものはおもちやではないか、すべからく警察を廃止せよとおつしやいます。戸締りもいらぬ、屋外燈もいらぬことだ、警戒ベルもいらない、すべてこれは破壊してしまえ、そうしてあき巣、こそどろ、かつぱらい、ゆすり、強盗、これらの横行をお許しになりますか。これは私は不合理であると思う。また姑息の小さな
軍備、そんなものなら持たぬでもいいじやないか、こういう御議論があります。だが、どのように強大な
防衛の力であ
つても、それは決して一朝一夕に成るものではありません。ことに武備というものはなおさらそういうものである。どんなに天文学的な数字の予算を与えて、さあ今
軍備をつくれとい
つても、決してできるものじやありません。大砲を積み、軍艦を山と積み、飛行機を与えて、さあ
軍備をやれとい
つてもできるものじやありません。長い年月の歴史をかけ、基礎の上に基礎を、軍ね、石の上に石を積んで何らかの精神のバツクボーンを通して初めて
軍備はできるものである。もし今日そういうことを言
つて、小さい
軍備ならいらぬというような態度をと
つておりますならば、われわれは未来永劫自主
自衛の
独立国家となる可能性はもうなかろう、何年国際社会のやつかいものとなり終るか、あるいは永久に他の強国の奴隷とな
つてその頤使に甘んずるか。
第三には、原子
兵器というものは一体に言われるように、ほんとうに絶対
兵器かという問題であります。これはもう最後の
兵器であ
つて、これに対抗はできないかという問題があります。これについては、もうイギリス、
アメリカではげしい論議が尽されております。英国の著名な原子学者ブラケットは、あらゆる論拠をあげて原子
兵器が絶対
兵器ではないと言
つておる。私
どももこれは当然の議論であると思います。一体
兵器の歴史というものをよく読んでこらんになりますとつの新
兵器が現われました場合には、必ず、時間の差はあれ、これに対抗する対抗
兵器が現われるのであります。これは
兵器の歴史の原則であります。新
兵器というものが、最初現われましたときには、あまりにも恐ろしい破壊力がある、これはたいがいの人がこれこそ絶対
兵器ではないかという錯覚を持つものであります。だがいつの日か必ずこれに対する対抗
兵器が現われて来てこれを屈服する。刀ややりを持
つて戦いました
時代には、
火薬は絶対の
兵器のように思われた。あるいは第一次大戦の場合でも西部戦線に初めてタンクが現われました。このときにはドイツ軍は色を失
つて敗走しました。潜水艦が現われたときもそうである、飛行機がそうである、毒ガスがそうである。すべてそのときには絶対
兵器のごとく思われたものでありますが、やがて対抗
兵器によ
つて屈服されるのが
兵器史の上の鉄則であります。今日もその
通りであります。私
どもが
考えますのに、先ほど申しました電子管
兵器、
誘導弾などはその芽ばえでなかろうかと思う。まして民族の
防衛ということは、これは民族の知能の限りを傾けて、努力の限りを傾けてあらゆる危険に対して自分の身を守る努力をすることである、くふうをすることである。原子爆弾に対しても同じであります。タスク一切を断念して、両手を上げてしま
つたり、裸にな
つてあぐらを
かくのは
防衛の本義ではないのです。なるほど原子
兵器の偉力は前代未聞であります。前代未聞あるがゆえにこそわれわれは民族の全知能を集中し、全努力を集中いたしまして、この脅威から生き抜き、生き延びる方法を
考えなければならぬ。私は
防衛というものの本質はそこにあるのだ、こう信じます。こういうふうにしよせん
自衛ということは平和の基礎であり、平和のためのただ
一つの有効な方法であります。
日本の上に再び原爆の惨禍あらしめないということは、われわれことごとく望むところでありますが、どうや
つて原爆の惨禍を浴びずに済むか、かの恐怖に対して百万べんの哀訴を繰返して原爆の惨禍からのがれることができるか、武器を捨ててあぐらをかいておれば原爆の惨禍からのがれられるか、これをのがれる方法はただ
一つ、でき得る限り完全な
自衛の措置を急速に施すほかにはあるまいと私は信じます。もし
戦争の悲惨を説いて、
戦争が悲惨であるからとい
つて防衛の措置を否定するというならば、これは死の恐怖を説いて、死は恐ろしいから医者もいらぬだろう、医薬もいらぬだろうというにひとしい議論であります。はなはだこれはこつけいであります。
私
ども今日ここでちようだいしました時間は約一時間しかございません。理由をあげておる時間はありませんが、今日の世界を見まして判断しますとき、第一にこの両勢力のはげしい争いの間に立
つて中立を維持するということは、これは白昼夢であります、不可能であります。
第二には、累積して行く世界大戦の条件は増しつつあるとも減
つてはいないということてあります。第一次大戦、第二次大戦は世界の歴史上最大の大戦でありました。これはなぜ起きたかと申しますと、結局一言で申しますならば近代資本主義の行き詰まりであります。レーニンが申しますように、世界の領土的の分配、資源の分配が一応終
つてしま
つて、もう食い込むすきがない、後進国はもはや自分自身の力をも
つて先進国がわけと
つた、か
つてに先にと
つてしま
つた領分の中に食い込む以外に生きる方法はない、窒息するか、発展するか、この
状態が第一次大戦を起し、引続いて第二次大戦を起したわけであります。この第一の
原因は、資源の分配の不公平、領土分配の不公平、近代資本主義の発展の結果であります。
このようにして大戦はニへんにわた
つて戦われ、しかもただいま申し上げました大戦の
原因であるところの条件は、大戦のおかげでも
つてなく
なつたかと申しますと、反対であります、なおある。今日世界のほとんど大部分の領土、資源は、アングロサクソンの壟断ずるところであります。敗戦国は植民地を取上げられ、発展すべき市場を失い、資源、領土の不均衡、今日のごとくはなはだしい時期はないのであります。しかも資本主義発展の結果、技術的発展の結果は、
アメリカ一国の生産力をも
つてほとんど全世界の需要をまかない得るというような
状態にな
つている。その上にさらにこれに加える不幸は、世界は画然と氷炭相いれない異質の世界に分裂して、しま
つたのであります。その上にもう
一つ不幸がある。第二次大戦の結果、至るところに国際的な真空ができた。この真空のところにイギリスも
アメリカも相争
つて突入する、ソ連も入
つて来る、これがわれわれが現に見ております冷戦の
原因であります。
こういう幾十もの不幸をさらに決定的にしたものは、われわれが現覧ております原爆
軍備競争であります。恐ろしい原爆の競争が始ま
つております。原子爆弾というものが
アメリカ一国の手にある間は、これによ
つて世界の
戦争を絶滅することができるかもしれぬ、こうわれわれは希望を持つおりました。ところが一九四九年以来はソ連が原爆を持
つております、水素爆弾を持
つております。しかもお互いに相手が原爆を持
つておるという恐怖感に襲われ、危険感に襲われて、両方が一生懸命に原爆をつくり出した。一体国際政治史の上で、
軍備競争が起きますときは、必ず大戦に導くものであります。これまた国際政治史の鉄則であります。今日もし人間の叡知がこの原爆競争を食いとめることができなか
つたばらば、完全な
国際管理ができなければ、これは当然世界大戦に突入するのは火を見るよりも明らかである。それならばこの
原子力の
国際管理はできるかと申しますと、私は非常に困難だと思う。
米ソお互いに持
つております原子
兵器に非常な差がある場合は、これはできるかもしれぬ。一方が他方を屈伏させることができるかもしれぬ。今日ソ連の持
つております原爆の数は約百五十であります。
アメリカは千五百くらいであろうと思う。だが原爆に関する限りはこの開きは決して一対十を意味しないのであります。われわれ戦略
関係、兵術
関係の原則に二乗方式というものがございます。二つの力が相対立しておる。この兵力の比が兵力の二方が有利になる。この開きは兵力の二乗になる、ずつと差ができるのであります。ところがこの二乗方式というものは原爆に関する限りは当てはまらぬのであります。原爆攻撃というものは最初の第一回に相手のほとんど全部を覆滅するものであります。
従つてソ連側から申しますならば、
アメリカの致命的な目標の幾つかを選んでこれを一挙に爆砕する数があ
つたならばそれでいい。それ以上あればあるほどよろしいが、なければならぬことはない。その最小限度の数が大体二百と計算されるのが一般の常識のようでありますが、この二百の原子爆弾をソ連が持つのは今年か来年であります。つまり本年か来年を境として、ソ連と
アメリカとの間には原子
兵器に関する限り開きはないという
状態になる。しかもお互いに生死存亡をかけて争うという
状態にな
つておるときに、たやすくこれが禁止できるかどうか、その上万一人間の叡知が、政治家の叡知が、少数の賢明な人々の努力が原爆競争を禁止できたとしても、先ほど申しました世界大戦の
原因は除かれておるかと申しますと、除かれていない、かえ
つて増大しております。こうなれば、人間の知恵というものは必ず禁止されました原爆にかわ
つてもつと恐ろしい
兵器、もつと有効な
兵器を考案するに違いない。現にこれを考案しておるものもあります。これは神経ガスであります。この大戦の最後にドイツが使おうとして使わなか
つた。百五ミリ砲弾の中にこのガスを込めておびただしく積上げて持
つてお
つた。これは神経の刺激が筋肉に与える効果、あるいはいろいろなからだの機関に与える効果をコントロールする抗素がありますが、この抗素を破壊してしま
つて神経系統を混乱させ、麻痺させ狂わせる猛毒であります。これはごくわずかの分量を皮膚に受けましても、食物と一緒に食べてしまいましても、もう全身の筋肉と全身の機関が猛烈な痙攣を起してやがて悶死する。まずまつ先にひとみが開いて、次に収斂して小さくな
つて物が見えなくなる。その次は呼吸器が押えられて呼吸ができなくなる、全身からおびただしい粘液を出す、口には一ぱい唾液がたまる、全身から汗が出る、それから次は腸に移る、横隔膜が痙攣して、最後にはおびただしい粘液のために肺臓の機能が破壊されて悶死するという恐しいガスであります。これを七トン空中から落しますと、五十里四方生きたものは跡を絶つといういわゆる猛毒であります。こういうものができ得るのであります。またたといこれを全部
法律的に禁止することができたにしても、それがはたして
戦争の場合に行われるかどうか、私
どもは行われていない無数の例を知
つております。たとえば潜水艦であります。潜水艦の無警告撃沈というのは人類のためにも非常な非道であります。警告もせず知らぬ間に魚雷を食わせて海底に沈めてしまう、これは明らかにロンドン
条約のときに、ロンドン
条約潜水艦規程というのをつく
つて禁止しております。禁止したのだが、第二次大戦でもこの禁止条項にかかわらず無警告撃沈をした。この無制限潜水艦戦はドイツも行
つた、米国も
アメリカ合衆国は前々大戦の場合のドイツの潜水艦を攻撃した張本人でありますが、その米国の
海軍はわが国の真珠湾攻撃の日に無制限潜水艦戦を命令しております。こういうふうにあらゆる条件は
戦争に向
つて指さしておるように思われる。その上に基地の奪取戦であります。今日の
戦争は基地の取合いでございます。これを見ておりますと、これは北極を中心にして書いた地図をごらんにな
つて上から見おろしますとよくわかるのであります。ソ連を中心に四方から基地の網でも
つて封鎖をする形にな
つておるのであります。こういうのを周辺
戦争といいますが、まわりを、ぐるぐるまわりながら破壊して行く、これはある意味では、見方によるならば、第三次大戦は始ま
つておると言えないこともない。とに
かく一九四七年以来世界は有史以来の最大の危機にあるのであります。こういう危機に立
つて列国の愛情に依存し、列国の信義にたよ
つてまるはだかにな
つてあぐらをかいていられるだろうか。私はこういうときに
日本にと
つて最も必要なものは、民族みずからの力をも
つて自分を守る措置である、こう信ずるのであります。その意味でこの
法案に対しましては私は賛成、むしろおそか
つたと思うのであります。
ただ少し希望を申し述べることを許していただきますならば、この
法案によりますと、陸上、海上、航空の
自衛墜おのおの別であります。幕僚監部も別であります。これはもう一応御検討願いたいという希望を持
つております。今日
アメリカ合衆国の国軍の間に三軍の相剋と対立があるということは、もう合衆国の積弊であります。これには歴代の大統集がほとほと手を焼いております。予算のぶんどりをやる、材料のとりつこをやる、今合衆国の戦略態勢がかわ
つて、戦略態勢のニユールックというようなことを申しますのも、この三軍の相剋と対立を少しゆるめるということを意味するものであります。私はもちろん
日本の今日できます
自衛隊につきましては、
日本自体の
自衛隊でありまして、
日本独自の
構想になるものと信じます。決して合衆国のまねをしておるとは思いません。しかし前者の例がある。万一にも合衆国軍の機能、制度を模してこの致命の病弊までも受継ぐようなことがあ
つてはこれは一大事であります。できるならば一個の
自衛隊に統一して、
一つの幕僚監部にしていただきたい。
日本列島の
防衛などということは、これは空海陸にわけ得ることではないのであります。海上における一本の線であります。細長い弧線であります。これは、海上の
防衛ということはつまり空中の
防衛であります。空中の
防衛ということは陸上の
防衛であります。
一つ一つにわけられるものではありません。その上にただ助けられ合う、協力するというのではなしにつの生命の通
つた軍隊にしていただきたい。
もう
一つは、
経費の点であります。国防費の総額が限定される、これだけの国防費がある、この中でも
つて三軍が自分の予算を分取りするということは、その結果は恐ろしいものになるであろう、その意味で、この
法案は兵站の重複を避けております。技術
建設本部、調達実施本部というものを
一つにして、陸海空みな一本にしておるのは、私はたいへんに賢明な措置であると思います。願わくは、さらに技術の一本化、教育の一本化をお
考え願
つたならばたいへんありがたいと思います。
第二は、国防
会議であります。国防
会議は、この
法案によりますと、
総理大臣の諮問機関にな
つております。私
どもひそかに希望しますのは、この国防
会議が最も重大なものでありたい。今日の国防は総力国防であります。単なる
自衛隊の武力機構というようなものは、この総力的
防衛機構の
一つの点にすぎないつの頂点にすぎない。もつと大きな意味で
日本の国の全能力をあげての
防衛を
考えるというのならば、国防
会議をもう少し重大なものにしていただきたい。これは
総理大臣自身がこの国防
会議の議長として、これには
防衛関係の各省の大臣、衆参両院の国防
委員長、副
委員長あるいは幕僚長、これを
委員としまして、国軍の編制に関すること、武装に関するごと、国軍の秩序を保つ制度に関すること、徴集の制度に関すること、あるいは国防国策の根幹、これを議して、議決をして
国会の承認を得るという精度にして、これに重点を置かれたならばもつとよろしかろうと
考えるのでございます。
もう
一つ統帥の問題があります。これは私いろいろ
考えておることもございますが、
憲法と連関して参ります今日の段階ではまだ申し上ぐべき段階でもありますまいし、また私自身もまだ十分
考えがまとま
つておりません。もう少し
考える余裕もほしいと思いますが、とに
かく統帥の形態は、これは非常に重大な問題になるのではないかと思います。こういうふうに
防衛ということは、先ほど申しましたように、国の総力を、組織を集中する行為であります。
自衛隊あるいは保安庁、
防衛庁とい
つたようなものもこのほんの一点にすぎな一、あるいは
一つの頂点にすぎないりありますから、
自衛隊は
国民の
自衛意識と離れては存在し得るものではないということ、国の総力をあげての
防衛態勢と別個に動いては何ら効力を持ち得ないものであるということを十分お
考えいただいて、さらに進んでもう少し大きな
防衛構想にお移り願いたいと思うのであります。
なおもう少し時間が残
つておるようでありますから、一、二簡単に申し上げます。
軍備反対の論拠として、今日若い人たちの間に、われわれ青年は戦場に血を流すのである。いざ
戦争に
なつた場合に、お前たち老人は戦場に出ぬではないか、囲内にあ
つて暖衣飽食するではないかというお説もあるようであります。これは今日の
戦争の形を御存じないか、あるいはしいて御存じないふりをなさるかの議論であろうと思います。今日の戦線には前線もありませんし、銃後もない。むしろ最もさんたんたる害をこうむるものは圏内にいる老幼であり、婦女子であります。原爆の攻撃を食うのも
国内の婦女子であります。封鎖による飢餓に直面するのも
国内の老幼男女であります。砲弾の雨を浴びるのも、内乱にあ
つて家を失うのも、兵火によ
つて財産を焼かれるのも、ことごとくこれは
国内において暖衣飽食するはずの老幼男女であります。ことに先ほど申しましたように、今日の
戦争のやり方は手足を撃つのではない、敵の頭脳を撃ち、心臓をとめるのが今日の
戦争の法則であります。こういう意味でこの議論は私ははなはだ幼稚な議論であると思います。あるいは経済力の立場からも御反対がある。国防は金がかかるとおつしやる。だが国防というものは国の富を消耗するものでは実はないのであります。
国家民族の繁栄と安全の基礎をつくるものであります。生産力を養うことこそは国防の本義であります。生産力が伸張して初めて国防は全きを得るのであります。また国防計画の整然たる樹立があ
つて、国防計画が整然と行われて、初めて国の生産が伸びるのであります。あるいは平和産業を破壊するという議論がありますが、平和産業とは一体何であるか。日常のわれわれの消耗品をつくることが平和産業であるか。私はそうは
考えません。国の財政を維持する輸出産業こそは平和産業であります。ところがその輸出産業は、
各国の例に見ましても、ほとんどその根幹を養
つておるものは国防計画、国防産業であります。ドイツの
科学工業はこれは言うまでもない。英国の今日最大の平和産業は航空機工業であります。御承知のように
日本にコメット機などを出しております航空工業であります。これはもちろん軍需産業として起
つたものであります。わが国の例をごらんになりましても、
日本で一番大きな平和産業は鉄鋼業であります。輸出の第一位にある。あるいは第二位に、綿布工業の下になりましても、資源、原料費の
関係から
考えてみましても、依然として第一位であります。この根底をつくりましたものももちろんこれは国防計画であります。まして今日の国防計画の中心は精密機械工業であります。あるいは重化学工業であります。精密機械工業と申しますものは、大量生産ができないものであります。
アメリカあるいはその他。先進資本主義諸国の大量生産競争を避けて、しかも世界の市場を制覇し得る唯一の工業の種類は精密機械工業であります。今ごの精密機械工業を一国の根幹にしなければ、おそらく
日本のあすの繁栄ということは期しにくいのではないかと思います。というのは綿布工業であるとか、そのほかの軽工業はすでにアジアの諸国からはげしい競争をしかけられております。しかも中共の例に見ましても、労働力は無際限、しかも整然たる計画経済によ
つて強行されておる。これは恐るべき経済力、生産力であります。これと対抗するということは、今日おそらくむずかしかろう。ただ
日本がこの世界の工業競争の中に立
つて独自の面目を発揮し得る分野は、今申しました精密機械工業あるいは重化学工業のほかにはあるまい。それを開発し得るただ
一つの方法は、これを国防計画と綿密に結んで
国家の計画によ
つてこれを助ける以外に方法はあるまいと思います。資源の不足というよう大ごともしきりに言われます。だが資源というものは、これは開発する努力をしなければならないのであります。しかも資源の性質は刻一刻かわるのであります。数十年前の世界では石炭は最大の資源であ
つた。イギリスは全島石炭であ
つたがゆえに勃興した。さらに下
つては石油は最大な資源である。ロシア、
アメリカは
国内の地底を掘ればどこからでも石油が出る。これが世界に覇を唱える。今日以後の最大の資源はおそらく電力でありましよう。
日本はこの電力の可能性を無尽蔵に持
つているではないか、何も川の水力電気のみを言う必要もない。海の底もその根元であろう、火山もその根元であろう。あるいは鉄、今日はもはや鉄の
時代ではありません。軽金属の
時代であります。あるいは
日本に無尽蔵にある例をあげましても、チタンであるとか、あるいはマグネシウムであるとか、こういうものは海からとれるのであります。あるいは
日本で長い間鉄鋼業のじやまにな
つてもてあましていたものであります。これが新しく最大の質源として生れて来ようとしております。こういうときこそ民族の知能の限りを尽してこの新しい資源を開発し、新しい分野を開いて、ここに新しい他国のまねのできない地位を確保するのが
日本の生きる唯一の方法ではあるまいかと私
どもはひそかに
考えるのであります。そういう意味で経済力の不足、あるいは非常に費用がかかるというようなことを言われる方があります。特にそれがはなはだしいのは、
軍備費を計算する場合に
アメリカ流の計算方法をよくや
つております。たとえばジエツト飛行機をつくると、おそろしく金がかかる、こう言
つてその数字をおあげになりますが、これは
アメリカの会社であげた数字をそのまま換算するからであります。米国の会社は御存じのように軍需工場をつくります、ときには、非常な施設費がいります。この施設費は
国家が負担するのではありません。民間の会社が莫大な施設費をことごとく出して施設をつく
つて、製品を
政府に納める。これが二年なり三年なりたちまして、他の式が登場して来ると、この設備が全部無用になる。
従つて政府に納入します飛行機なりには、当然おびただしい自己調弁の施設費を全部繰込んで計算するのであります。一利盃もこの山にませ計算する。その結果は恐るべき厖大な数字にな
つて現われますが、これは
アメリカの特殊な工業形態、あるいは
兵器発注の方式によ
つてそうなるのであります。それをそのまま
日本に移して、そのおそろしい数字に驚嘆することは当らぬことであると思うのであります。ちようど時間になりましたから、私の
公述を終ります。(拍手)