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山田参考人 小貝川河口つけかえ問題に関することに端を発しまして、先般
新聞記者に対する
取材妨害事件その他の
事件が起りました。この
事件のよ
つて来るところは、与えられたわずか十五分間にまとめるということは、非常に困難だと思いまするが、できるだけ早く御
説明を申し上げます。
大体この問題は二十七年六月三十日に
建設委員会に
おいて討議されたのでありまするが、
建設省側におきましては、私
たちが要求するところの技術的な
説明、あるいはまた補償問題に対する十分なる
説明を与えてくれないのであります。私は
布川町
町長といたしまして、私自身がなるほどそうだ、これならば我慢しなければならないというところまで頭に入らない限り、
町民の
各位に対して私が、これは
協力すべきだというふうに勧めることは、できない
立場にあるのでございます。それでありまするがゆえに、私は
国会に
国会法第七十四条により
質問をすること三べん、
茨城県議会に
質問すること二へん、しかも
建設省におきましては、何らこれに対して肯綮に当る
答弁をしてくれないのであります。
小貝川口をつけかえるという問題につきましては、まず第一に考えられることは、
小貝川口をつけかえないで、現
堤補強によ
つてこれに対処することができるかどうかという問題、さらにいま
一つは、つけかえしなければならぬということなら、どの路線によるべきかという問題に分析されるわけであります。そこで私は二十七年の十二月十一日に、
社会党左派の
勝間田清一氏の名義をもちまして、
国会法七十四条による
質問を
提出したのでございます。それに対して十二月の十九日付をも
つて回答書が参
つておるのでございます。その
回答書によりますると、
幾多の
事項があるのでありまするが、私はまず
建設省が発表したところの
理由書の方から抜萃しまして、
小貝川の
川口をつけかえないでも、現在の
堤防を補強することによ
つて、対処することができるかという
質問をしたのでございます。それに対する
政府の
答弁は、ここに
資料もございまするが、
小貝川の現在の
堤防を補強することによ
つて、破
堤等は防ぎ得るが、
利根本川からの逆流は相かわらずであるから、その沿岸の排水は従来
通り不良である、こういうような
答弁が来ております。現在の
堤防を補強することによ
つても、
堤防のこわれることは防ぎ得るということを、
はつきり言
つておるのであります。ゆえに私はこの点についてなお十分の
検討を
建設省がなすべきであると考えるがゆえに、まず
小貝川つけかえ問題は、ここから始めなければ相ならぬ、かように考えたわけであります。
小貝川口をつけかえなければならぬとしたならば、しからばどうなるかといえば、これについてはまた四つの案がある。今までに
提出されたものでは、実に
五つの案がある。
一つはや
つてみたが失敗した。失敗したがその結果として、またやり直しをしてみようとした案が四つあるわけである。ところが
建設省におきましては、
昭和十四年に
一つ決定した案があるが、この案のかわりに、頼まれたから、いわゆる
背割案という今度の案をつく
つてみた。これは
目黒河川局長が、二十六年八月六日の
茨城県会における
小貝川総合開発委員会の席上で、
はつきり
答弁しておるのであります。つまり
幾多の案を
検討したのではなくして、
小貝川総合開発委員会におきまして、
昭和十四年に確定したところの
捷水路案、いわゆる
富永案と称するもの、
工学博士富永正義さんがつくられたところの案、
昭和二十二年から
昭和二十五年まで、どうしてもこれでやらなければ
小貝川は助からないと、頑強に
建設省におきましても、
茨城県
当局におきましても主張したところの案、その案を
昭和二十五年三月十九日の
小貝川総合開発委員会で白紙に返してしま
つて、これにかわる案として、
幾多の案を
検討したかというと、そうじやないのであ
つて、
背割案というものを提供して来たのでございます。それでありますから、私
たちとしては今申し上げたように、現
堤補強はどうだということを聞くと、現
堤補強については限度があるというようなりくつを言
つているのですが、
富永案を
廃案にするために
背割案を出しただけであ
つて、その他の
検討はま
つたく加えられないという事実が、
国会における三回の
質問によ
つて、
はつきりわかるのであります。それでありますから、この点
背割案には納得行くところの
説明が、まだされておりません。ほかの二人の
村長さんも、まさにその
通りなのであります。
幾多の変遷を経まして、ことしの十月十五日に、
小貝川総合開発委員会におきまして、いわゆる
補償対策案というものが立てられました。まさに笑止千万な案でございますが、いずれにいたしましても、その十月十五日の大会の席上に
おいても、なお三
町村長は
背割案が納得行かないということ、そのためにわれわれは
町村長として、
背割案の実施については、絶対に
建設省に
協力を申し上げることができないということを言明したのであります。ところが
建設省の
態度は、しからば三
町村長から
協力を受けないで、個々別々にや
つて行こう、
任意買上げをやろうというような方針のもとに、十月二十日前後から、二人あるいは三人が一班となりまして、こそこそと
個別折衝という名目のもとに、いわゆる
促進派といわれる
賛成者のところをまわ
つて歩いたのでございます。時あたかも
農家におきましては、
麦まきであ
つて、非常に忙しい。そのために非常に不安を感じた。忙しいので、働き手はみな外に行
つておる。そのために留守番はばあさんか子供しかおりません。そういうところにのこのこ入
つて来て、
測量でもされる、そういうことは常識的には考えられませんが、
農家の
方々はそういうふうに心配されたのであります。そういうふうに心配された結果は、何とかして
対策を立てなければなるまいということに相なりました。時たまたま十月二十八日、
消防の
秋季臨時点検がありました。また永年
勤続者の表彰状の伝達もありましたが、その日に偶然ほかの用件で来たところの
建設省のお
役人さんと、
布川町の一部の
農家との小ぜり合いが起きたわけであります。
ちようど消防器具を出してお
つたところに、自動車が来ましたものですから、狭い道でございますので、そこから追い返されたということに相なりました。さらにまたその十月三十日には、ここに
おいでの
長岡国警隊長さんと、いま一人
警備部長さん、この方が新しくかわられたばかりで、
小貝川の問題をよく御
承知でないという話でありましたので、私は
水戸まで出向きまして、従来の
折衝の経過をるる御
説明申し上げたのであります。それまで私はいろいろと
非難、中傷を受けたそうでありまするが、大体私
たちの行動について、
警察隊長さんもある程度納得していただいたようでありました。ところがその三十日、私が
水戸に出てお
つたその日に、隣村の文村というところの一部落におきまして、
建設省の
係官が二、三人入
つて来ました。そのために
農家のおばあさんがこれを見つけまして、来たぞ来たぞというようなわけで、バケツをたたいてみんなに知らせたというような
事件が起りました。そのときにも、
朝日新聞の
通信員と読売
新聞、二人の
通信員がその場に居合せました。若干小突かれたというようなことも起りました。そういうような問題の起る
原因がどこにあるかと申しますと、これは遠くこの
小貝川河口つけかえ問題にまつわるところの
一つの因縁であります。これは先ほど申し上げましたように、明治の末年から
五つの案があり、しかもどの案も拳骨によ
つておつぱらわれてお
つたのであります。今度の問題どころではない、もつとひどいことがやられた。しかしそれは
建設省の
係官や
測量の
方々だけだ
つたので、このたびのような問題にはなりませんでしたが、個々別々の問題には非常な迫害を受けた。そのためにみんな追いやられて、御
承知の
通り、
布川の方はまじめにおとなしくや
つておるために、これがこちらに押しつけられた。その考え方が、いいか悪いかは別ですが、自然にそういうような気分が醸成されておるのであります。そのためにどうしてわれわれとして押えがたい
一つの
潜在意識があると私は考えております。そういうところからこの二回の
事件が起
つたのであります。そこで私はこれを非常に憂えまして、十月三十一日に、きようお
見えになりませんでしたが、
取手の
地区警察署長にお会いいたしました。この方は非常に私のことをよく了解してくれておりまして、さらに
建設省の
方々がこの
署長さんを通じて、私に面会をしたいというようなあつせんを頼まれてお
つたということも、ちよいちよい聞いておりました。また
ちようど建設省関東地方建設局の
工務課長である
千葉直之君からも、何とか
局面打開について
相談に乗
つてくださいという書面が来ておりました。それでありますから、この際
建設省に向
つて、
町村長を除外して、こそこそ入るような
やり方はやめてもらいたい、そうしないと、どうも
不測の
事態が起りそうだからというような申入れをすることに、私が
署長さんと
相談して、さつそく十月三十一日に、
取手というところから
建設省の
直通電話で
千葉氏に連絡をとり、そうして十一月二日に私は松戸の
建設省の
用地事務所に参りまして、
千葉工務課長と一時間半にわた
つて懇談したのですけれども、その結果は、今までの
やり方はまずか
つたから、それでああいう
やり方は一応とりやめにしよう、ところがそのかわりに、
関東地方建設局長なり
建設次官なりと懇談するようにお願いしたい、こういうような
向うからの注文がありましたので、それはみなと
相談の上で、さらにほかの
村長とも
相談の上で、しかるべく善処しよう、こういうことを約して
帰つたのが、十二時過ぎであります。十一月二日のその午後になりまして、私が
役場にお
つたときに、
茨城県の
県庁詰の
記者クラブの
諸君——当番は
朝日新聞の
記者たそうでございます。
茨城県庁出入りの
新聞社、
通信社は九つあるそうでございますが、その幹事であるところの
朝日新聞の
記者から、三日
はちようどお休みになりますので、あさ
つての四日に
記者十数名が
建設省の
係官に
現場の
説明を求めて、そうして
布川町の方の意向、つまり
建設省のお
役人さんと私
たちとを同席させて、その上で、
新聞の材料を求めようというような目的のもとに、四日に行きたいという
申越しがあ
つたのでございます。そこで私は今申し上げたような、外部からの刺激のないようにというような工作をしたばかりでありまするので、
新聞記者諸君だけで
おいでくださるならばよろしいが、
建設省の
係官が
見えると、どうも今のところぐあいの悪いようなことになりそうだから、そのことだけはやめてほしい、どうか
新聞記者諸君だけで来てください。
新聞記者諸君だけで
おいでになるならば、私がくまなく案内をする、そうして
新聞記者諸君に頭に入れて
おいてもら
つて、日をあらためて
茨城県庁なら
県庁で
建設省の
係官とあるいは県知事、
土木部長まで入れて、私の方の三
町村長が出頭して、その上でや
つてもいいから、そういうような
方法にしてもらいたいから、
新聞記者諸君だけで
おいで願いたいということを私が申し上げたのであります。非常に強く、きつく哀願、懇願をいたしたのでございます。
新聞記者諸君の方におきましても、私が強硬にそういう主張をいたしましたので、結局それではみんなで
相談の上、またあらためて返事をしようというので、一旦
電話を切
つたわけでございます。ところが約三十分ほどしてから再び
電話がかか
つて、ともかくも
建設省の
役人に
現場の
説明を求める、そのために
建設省の
係官と県の
土木部の
係官とを同道するからひ
とつよろしく頼む
——よろしく頼むという
言葉は用いなか
つたように覚えておりますが、こういうふうにやるからと、一方的な
言葉であ
つたように私は記憶しております。そこでそれは困
つたことである、そういうことをやられては、私には責任を負いかねないようなことになる、そういう
事態が起きたら困る、それだからどうか先ほどのように
新聞記者諸君だけで
おいで願いたいということを、重ねて要請したのでありましたが、いずれにしてもそういうようにして行くからというところで、
電話は切られて
しまつたのであります。もちろん
新聞記者諸君が、
建設省の
係官を連れて
おいでになるということ自体は、私は別に
異議のあるわけではありませんけれども、周囲の情勢というものが、今申し上げたような状態に相な
つておりまするがゆえに、私はそこまで申し上げたのでありました。ところがそれを押して来られました。もちろん
町当局におきましても、あるいは
町民各位に
おいても、
相当に気がいらいらしてお
つたというような点はありましたでしよう。そのためにああいうふうな
不測な
事態が起きたということは、結果から見て、まことに私は遺憾に存じております。しかし私としては、その
善後処置につきましても、やはり
相当に苦慮したつもりでございます。
新聞記者諸君が河中に投ぜられたために、あれほど大きく事が宣伝され、さらにわれわれも非常な
非難攻撃を受ける
立場に置かれておりまするけれども、
事情は以上申し述べたような次第であります。
この
小貝川の問題についての
資料は、これだけ持
つて来ておりますので、さしつかえなければ
先生方に一部ずつお配りしてもよろしゆうございます。失礼いたしました。