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石井参考人 昭和二十二年の
法律第五十三号によりますと、
国有地が譲与されるためには、まずその
土地が社寺上地、地租改正、寄付等によ
つて国有とな
つた国有財産で、この
法律施行の際に現に社寺等に
国有財産法によ
つて無償で貸付がなされ、または
国有林野法によ
つて保管されていることが
一つの条件になりまして、第二番目に、その社寺等の
宗教活動を行うのに必要なものであるという要件、この二つの要件が満たされなければならないわけであります。
まず、第一番の要件について
考えますと、
富士山の八合目以上の所属につきましては、往古はしばらくおきまして、安永八年の十二月五日の
富士六合目以上の支配出入等に関する幕府の裁許状によ
つて、「依之今般衆議之上定趣者、
富士六合目より上者大宮持たるべし」とありますので、安永八年以後それが大宮
浅間神社の所属であ
つたことは問題はないと思います。「大宮持」の「持」というのは、先ほど和歌森
教授もおつしやいましたが、普通は
所有ということに
考えられております。しかし中には弱い占有程度の見方もありますが、普通は
所有ということにな
つております。ただ、ここのところで問題は、むしろ「支配出入等」ということにな
つているのに、この裁決の文に、「大宮持」という言葉が出て来るのは、ちよつと私は不審に思
つておるのでありますが、しかし、全体の様子から見まして、こういうふうにな
つたと見てさしつかえないように思います。そういたしますと、当時の用語例では、大宮の
所有たるべしということにな
つたわけでありまして、この裁許状の文面からはそう解せざるを得ないわけであります。ところで、
富士山の
頂上には、
富士信仰と六日
信仰との結合によりまして六日堂が設けられました。ところが、
明治初年の神仏分離の結果、
明治六年六日堂が撤去されまして、そのあとに静岡県庁の
許可を得て浅間宮が創設されまして、本宮の摂社に列せられて、十二年の七月には
奥宮に改定されているわけであります。その後間もなく、同年の八月十日に、
奥宮の
境内の範囲につきまして、静岡県庁に
神社から、「今般
奥宮御達相成候上ハ、勿論八合目以上悉皆
奥宮境内ト相心得可然奉存候」というふうに伺い出ましたところが、同月十四日に県令から、「
奥宮境内ノ儀ハ
従前ノ
通り可相心得候事」という
指令があ
つたのであります。ところが、この
従前の
通りというのは、六日堂時代にその支配者たる村山池西坊の管轄した
頂上東駒ヶ岳俵石より西三島岳に至る付属地を指すのか、あるいはまた本宮の管轄した八合目以上全体を指すのか不明であ
つたから、そこで、宮司からさらに、
従前の
通りというのは八合目以上を
奥宮境内地と心得てよいかどうか伺いました。ところが、「
奥宮改定ノ儀ハ別段地所ニ関係無之儀ト可相心得旨」の
指令があ
つたのであります。これより先、
明治四年正月五日の太政官布告によりまして、現在の
境内地を除きましたほか社寺領の上地が行われたわけでありますが、ただどの範囲を
境内地と
考えるかについていろいろ問題が起
つておるのでありますが、地租改正に際しまして、
明治八年六月二十九日地租改正事務局の達乙第四号というのがありまして、その社寺
境内外区画取調規則第一条に「社寺
境内ノ儀ハ祭典法用ニ必需ノ
場所ヲ区画シ、更ニ新
境内ト定、其余悉皆上知ノ積取調ヘキ事」ということにな
つております。そこで、そういう方針で政府でやりましたものですから、すなわち、
境内以外は「悉皆上地ノ積取調ヘキ事」という方針で政府でや
つたのでありますから
——実際は
法律的には
境内外の区画のみを定めたものでありまして、
境内外とされたものをただちに上地されるわけではないのでありますけれ
ども、実際としてはこういう取扱いが多か
つたと思われます。そのときに、新
境内として定められたもの以外は全部上地されてしま
つたらしいのであります。しかりといたしますと、地租改正によりまして、
富士六合目以上は、それまで
浅間神社持ちであ
つたものが上地されたに違いないと思うのでありまして、こういう事情を考慮に入れますと、先ほど申しました「
奥宮改正ノ儀ハ別段地所ニ関係無之義可相心得」という
指令は、
浅間神社の摂社が
奥宮に改定されても、さきに上地された
富士六合目以上がもどされることはない旨を述べたものと思われるのであります。ここにおいて、宮司は、翌十四年四月五日に維新前の支配地たる八合目以上を
奥宮境内に決定せられたき旨を内務卿に出願いたしましたが、内務卿の方から、「
境内外区域相立ツルニ不及候条
奥宮ニ於テ使用ノ
場所坪数等取調可届出」という
指令がありました。そこで八合目以上の百七万六千三百十二坪を
奥宮の使用地として届け出ました。ところが、
奥宮使用の
場所というのは、その
奥宮の祭典及び事務取扱い等に関して使用する
場所を言うのであるということで、この伺い書は返戻されているわけであります。こういうわけで、その後
明治二十五年に八合目以上は静岡県から
境内地に準ぜられるものとされましたが、まだ
境内地にな
つたわけではない。それが三十二年に静岡県の知事から、
富士六合目以上の
土地を同
神社の
境内として確定する旨の通知があ
つたわけであります。さらに、御料地もこれに加えまして八合目以上の
境内編入が宮内省から認められたわけであります。これより
富士山の八合目以上はすべて
浅間神社の
境内地として
国有財産法上公用財産として取扱われておるわけでありまして、それが終戦後雑種財産とな
つて、法定
無償貸付を受けるようにな
つておりますから、先ほど申しました第一条の要件は十分備えていると私は
考えます。
次に、第二番目の、
富士山の八合目以上が大宮
浅間神社が
宗教活動を行うのに必要なものであるかという点が次に問題になると思います。これにつきましては、施行令には、社寺に譲与する
国有財産は左記各号の一に該当するものといたしまして、九つの項目をあげておりますが、今の場合関係ありますのは、第一号の「本殿、拝殿、社務所、本堂、くり、会堂その他社寺等に必要な
建物又は工作物の
敷地に供する
土地」、第二号の「
宗教上の儀式又は行事を行うため必要な
土地」、この二つであろうと思います。第一号との関係におきまして、
神体山の問題がおそらく関係あるのだろうと思います。第二号との関係におきましては、八合目以上が
浅間神社の
宗教上の儀式または行事に関係あるものであるか、この二つが問題になると思いますが、第一号の
神体山の問題につきましては、和歌森
教授から今詳しく御説明がありましたが、私は、しろうとでございますからよくわかりませんが、どうも、
神体山としての純粋な形は、先ほ
ども申しましたように、三輪山のように、古来神殿の設けがなく、山麓に拝殿があ
つたのがおそらく純粋の形ではないか。それに比べますと、
富士山の方は山麓に拝殿だけでなく神殿までもある。しかも、
明治以後になりますと、一般人が広くこれに
登山するというようなことが行われておりまして、どうも
神体性というものが純粋なものを
相当失
つておるのではないかということを
考えます。それにいたしましても、
神体山的であるということについては問題はないと思います。次に、八合目以上が大宮
浅間神社の
宗教上の儀式または行事を行うために必要な
土地であるかということが問題になると思います。この点につきましてもいろいろ問題はあると思いますが、これも道者の行事というものは、私の
考えるところでは、
浅間神社そのものの活動とは直接には関係はないのではないかと思われるのであります。それから、先ほど申しましたように、
明治十五年、八合目以上百七万六千三百十二坪というものは
奥宮使用地として届け出ましたが、
神社局長から、
奥宮使用の
場所は祭典、事務取扱いに関して使用せられる
場所であるというので、これを否認したところから察することができるのではないかと思うわけであります。以上二つの点を
考えてみますと、
富士六合目以上が
浅間神社の
宗教上の儀式または行事を行うために必要な
土地であるという点は、どうも根拠が薄弱ではないかと、私はしろうとながら
考えるのでありますが、
富士山が
浅間神社の
神体山であるという性格はある程度は残
つているというふうに
考えます。そういたしますと、先ほど申しました
法律の条件は全部かな
つておるわけでありますから、すなわち先ほどの
法律第一条による譲与の適格性は有しているものであると
考えられます。
しかるに、本法第一条に適合する
土地はすべて譲与され得るかと申しますと、そうではなくして、施行令第二条は、
国有の社寺
境内地であ
つて国土保安その他の公益上または森林経営上国において特に必要があると認めるものは、
国有として存置して、譲与しない旨の規定があります。そこで、この点を吟味しなければならないのではないかと思います。ところで、
富士山の八合目以上が
国土保安上または森林経営上
国有として存置しなければならないという理由は認められないのでありますから、残る問題は、公益上特に必要であるかということになるのではないかと思います。
そこで、具体的に
富士山について
考えますと、有形的に
登山のための道路、たとえば
登山路、
頂上の環状道路のように、一般的公用に供せられるものが公益上必要であり、そしてまたそれが
富士登山の普遍性にかんがみて必要であるということは問題はないと思います。問題は、
国民は
富士山に対して特別なる感情を持
つておるのでありますが、この
国民感情がはたして公益として扱われるかいなかということにかか
つて来ると思います。
富士山が
日本の唯一の高山として、また東海にそびえ立つその秀麗な姿によりまして、古来わが
国民一般によ
つて敬慕されて、
日本国土の
象徴として渇仰されていることは、いまさら申すまでもないわけでありますが、ことに、
明治以後になりますと、交通の発達によりまして、まのあたりその威容に接する者が数を増しまして、また、
明治以前には
富士山に登る大半が道者でありまして、普通人の
登山はまれであ
つたのでありますが、
明治以後
登山の普及によりまして、
富士山は最もポピュラーな
登山の対象となりまして、また外国との交通の開けるにつれまして、
世界的
名山として全
世界に喧伝せられるに至
つたわけでありまして、今日に至りましては、
富士山は
国民のものであるという強い
国民感情が生れていることは、人が否定し得ない事実であります。そこで、かかる
国民感情がはたして公益となるのであろうかという点に問題があると存じます。
そこで、まず公益という言葉の
意味が問題となりますが、公益が公共の利益の
意味であることは疑いないと思います。また公益は
国家のみならず一般
国民大衆をも含むものであるということも問題はないと思います。利益もまた、有形的、物質的利益のみならず、無形的、精神的利益をも含むものと
考えます。そこで、問題は二つにわけて
考えることができます。
一つは、
国民感情が公共の利益として取扱われるということが可能であるかどうかということ。第二に、もしそれが可能でありましたとして、このような
富士山に対する
国民の感情がはたして公益になるかどうかということになるのではないかと思います。第一の問題としましては、現行法上感情が利益として取扱われる場合があります。民法第七百十一条は、「他人ノ生命ヲ害シタル者ハ、被害者ノ父母、配偶者及ヒ子ニ対シテハ其財産権ヲ害セラレサリシ場合ニ於テモ損害ノ賠償ヲ為スコトヲ要ス」というように規定しております。近時の有力な学説は、この規定は生命の侵害に基く近親に対する精神的加害が違法性を帯びる範囲を規定しておるものと解しています。精神的加害というのは、子、配偶者及び父母の愛情に対する加害にほかならないのでありますから、こういう感情というものが
法律上の利益として
考えられているわけであろうと思います。そこで、問題は第二の問題になりまして、
国民感情一般が公益たり得るものでないことは私は確がだと思います。問題は、
富士山に対する
国民感情が公益と呼び得るかどうかということでありますけれ
ども、この場合、公益性というものの強さが私は問題になるのではないかと思います。法令に見える公益というものもまた、その立法
目的ないし精神によ
つて強弱があるはずであります。先ほ
どもお話になりましたが、権利の概念もだんだんと広く解せられて行く、単なる利益あるいは権利の侵害ではなくして、違法性の問題にまで民法の要件が広が
つて来るわけでありますから、公益という概念も
相当幅があるのでありまして、具体的に本法に用いられた公益というものがどういう
意味であるかということを
考えなければならないと思います。そこで、本法の立法
目的ないし精神を
考えてみますと、これはやはり終戦後総司令部から発せられた覚書によるのでありまして、
神社に対する
国家の財産からの一切の財政的援助や公的な要素の導入を禁止したところの
昭和二十年十二月十五日付の覚書によりまして、
昭和二十一年一月十三日に総司令部から、「現ニ
宗教団体が
利用中ノ公有地デソノ
宗教的活動ニ必要ナ公有地ノ
所有権ハ、適当ナ
日本政府機関ニ申請スレバ
無償デソノ団体ニ与ヘラレル、但シ一八六八年以前ニ
宗教団体ガソノ
土地ヲ
所有シ、又ハ
国家ガソノ
土地ヲ上地セシメタ際ニ
宗教団体ハ何ラ償ヲ受ケナカツタコトヲ条件トスル」ということが覚書で出ております。これに基きまして、二十二年の
法律第五十三号が成立したのであります。このいきさつを
考えてみますと、本法は、
国家が
特定の
宗教に特別の保護を与える制度を廃止する立法と相まちまして、現に
国家より
宗教団体に
無償で貸し付けてある
境内地等については一定の要件のもとに
宗教活動を行うに必要な範囲において
宗教団体に譲与して、
国家と
特定宗教の伝統的な保護関係を断絶して、
宗教団体をして自主独立の活動を行わしめようということを主眼とするものであります。
従つて、本法は社寺に対して特別の保護、利益を与えるための立法ではありませんから、譲与される
土地は厳密に
宗教活動に必要な範囲に限られなければならない。また本法は、社寺等に対して特別の保護、利益を与えようとするものでないことはもちろん、社寺上地、地租改正等によ
つて国有財産とな
つた土地を、さきの上地が不法不当であ
つたとの理由で無条件に還付しようとするものでもないのでありまして、社寺などをして将来において
国家の監督
統制を離れて自主独立の活動をさせるために、元社寺等の
所有地であ
つて社寺上地、地租改正等によ
つて上地され現に
無償貸与してある
国有地の中より
宗教活動に必要な範囲の
土地を与えることにしようというにすぎないのであります。すなわち、施行令に見える公益というのは、社寺等が現に有しまたは有すべき財産権を剥奪しまたはこれを制限するための要件ではなくして、
国家が
国有地を特に決定して社寺等に譲与するのをチェックするための要件であります。前の場合ならば、公益性が
相当強くなければならないことは、憲法第二十九条第一項の「財産権は、これを侵してはならない。」という規定の要請するところであるが、後の場合にはそういう要請があるわけではないのであります。もちろん、あとの場合でも、
法律によ
つて認められた権利は十分尊重しなければならぬが、しかし、あとの場合のチェックの要件としての公益は、前の場合のそれと比べれば、公益性の程度の低いものであ
つても十分であろうと
考えます。ところで、先ほど申しましたように、
国民の
富士山に対する感情というものは、
富士山をも
つて典型的なと言うより唯一無比の、しかも
日本国土とともに永遠にかわることのないその
象徴と
考えておるのであります。その
意味におきまして、この
国民感情は絶対性を有するものと言うことができましようし、かかる
国民感情は、先ほど申し上げたような程度においての公益たり得るだけの利益性を有するものと
考えるわけであります。
次の問題は、しからば
富士六合目以上はこういう
国民感情がある場合に
神社に譲与すべきか
国有に存置すべきかということになるのであります。結局、この問題は、かかる
国民感情と、先ほど申した
神体山信仰に立脚する
宗教的活動の場としての
富士六合目以上の必要性とを比較して、いずれを重しとするかということに帰着することになります。もしかりに、
富士山が六三輪山みたいに今に
神体山として純粋性を保
つていたらどうであろうか。私は、
国民感情の存在にもかかわらず、やはり
富士六合目以上は大宮
浅間神社に譲与せられるのが当然であると思いますが、しかし、先ほど申しましたように、現在の
富士山の
神体山的性格はよほど弱ま
つたように、私はしろうとでありますけれ
ども考えているのであります。しかし、もし弱ま
つておりましても、それが
国民的感情の対象にならないならば、それは譲与されるべきが当然であろうと思いますけれ
ども、先ほど申したような、
富士山に対してはこれに対立する強い
国民感情がありますし、しかしてまたそれは、
明治以後
国有地である
土地を、
世界的
日本の
国土の
象徴とな
つた今日におきましていまさら
神社に還付する必要はないという
国民的感情、そういうものは、先ほど申しました弱化した
神体山的
信仰を圧倒するに足るものであると私は確信しております。すなわち、これを
国有地として存置することは、公益上特に必要であるというふうな必要な場合に該当するというふうに私は
考えておる次第であります。しかし、もちろんそれは、八合目以上におきまして
浅間神社の
奥宮の
敷地その他
宗教的具体的に必要な
場所が譲与されることに異存があるわけではないのでございます。
たいへん長くなりました。