○飛鳥田
委員 私は、日本社会党を代表いたしまして、
政府原案については賛成、
修正案については
反対の
意見を表示いたしたい、このように
考えます。
この
政府原案並びに
修正案両案を通じまして一番論争の対象になりましたものは、すなわち住居の概念ということであります。再々の
質疑によって明確になっておりますように、
修正案は、選挙法上の
住所、
民法上の
住所、これらのものは統一的に
解釈をせられなければならないということが根元のように思われます。従って、まず第一に、その点について
意見々申し述べたい、このように
考えます。
一体、
法律というものは、少くともその国の民衆の利益のためにあるものでありますし、その利益の種類に従って異なった法の法域を持っておりますことは当然であります。あるいは私法、あるいは公法、私法の中においてもまた幾多の分類が存在いたします。これらの法域に従って、その法の目的としておるところに照しつつ、かつ概念
規定を行わなければならないことも、これまた当然なことだと存じます。
民法における目的と、選挙法における目的というものが、少くとも異なっておるものであることも明白でありましよう。
民法における
住所という概念の決定の実益というものは、少くとむ裁判管轄な決定する、あるいは異法地域間における準拠法な決定する、こまかく申し上げますならば、債務の履行を決定するもの、あるいは不在者、失踪者を決定する要件になるというようなものでありまして、このような目的に照して一定められる
住所という概念と、同氏をして政治に参与せしむるための選挙法における
住所の概念が同一でなければならないということ自身が不可解であります。私たちは、このような異なった法域がありまする概念は当然別個に
解釈なせられなければならない、こう
考えて参りますと、
修正案の唯一の根拠といたしております法概念の統一というようなことは、とるに足らない御
議論ではないか、こう
考えざるを得ないのであります。
過去法において私たちが
住所として
考えて行かなければならない重要な論点といたしましては、
選挙権を最も有効に
行使し観ること、第二には、
選挙権を最も容易に
行使し得ること、第二には、
選挙権の
行使について
住所の
認定が容易であり、かつ確実であるということが、選挙法の要請しておるところであります。
今もし
修正案のように
学生の
選挙権が
郷里にあるということになりまするならば、非常たる不便が生じて参ります。投票をするというようなことは、単にその投票日において一票を投ずるということに限らないのでありまして、いかなる候補者に投票をするかということは、全選挙運動の期間な通じて
考えて行かなければならない。すなわち、選挙運動の中において行われるいろいろな
判断の資料が必要であります。
東京に住んでおって、青森県において
選挙権な
行使する場合において、そこの候補者の政権を聞き、あるいはパンフレットを見、あるいは新聞な見、あるいは長きにわたって候補者の行動を監視するということが、非常に重要であります。こういう
判断資料なくして
選挙権な
行使することは不可能であります。こう
考えて参りますと、当然
選挙権を有効に
行使するという点から
考えて参りましても、われわれは、
学生の
選挙権の決定標準となるべき
住所はいわゆる
修学地にある、こう
考えて行くべきことは理の当然だと思います。
また国
会議員の選挙に限らず、地方議会の選挙などについても同様でありまして、本郷に下宿あるいは寄宿いたしておりまする
学生は、この
東京都において
勉学の施設がより完成せらるることを望むのは当然であります。また道路がよくなるのを望むのは当然であります。いわゆる出て来てしまった
親元の町、あるいは村、県、こういうものの改善に対して持ちます関心よりも、自己が勉強をいたしており市する
修学地における環境の改善に、より多く利害を感ずることは当然であります。こういう点から
考えてみましで、も、その
選挙権の決定標準となるべき
住所は
修学地にあるといたしますことは、
選挙権の有効なる
行使という点において最も重要なものであることは明白であります。
さらに、
選挙権を容易に
行使せしめるという目的に照して
考えて参りしますれば、これは一々旅費を使って
親元にもどるというよう次ことはほとんど不可能であります。旅費を支出しなければならない、あるいは
学校な欠席して投票に行かなければたらないというような点から
考えて参りますならば、当然
選挙権の
行使の容易性という点から参りましても、
修学地にあるとすべきことは当然であります。
さらに第三の問題といたしまして、先ほど申し上げました
住所認定が容易かつ確実であるという点から見ましても、現に居住をいたしておりまする
修学地、これを決定いたすことが最も容易であることは明白であります。
こういう選挙法の精神に照して私たちが
考えて参りますと、学主の住居は
修学地にあると
考えることが、住居の概念決定について最も正しいものではないか。それを無理に
民法上の
住所というものに一致をせしめるということは、必ずしも正しい方向ではあり得ない。むしろ正しくない。そういう強引なやり方によって利益を阻害する形が現われて参ります。冒頭に申し上げましたように、
法律は少くとむ民衆の利益のために存在すべきものであります。その利益をまざまざとそこなって行くようなやり方について、私たちは、単に学年の
選挙権という問題ではなしに、国の政治、国民の全体の利益という点から
考えてみまして、このような
民法、選外法、この何れな合致せしめなければならないとする御
議論には、とうてい承服し得ないのであります。
お説によりますと、住民登録なして届け出るならば、少しも
現実において被害はないじゃ広いかというようなお説でありますか、ここにも私は
一つの問題があると思います。
一つは、すなわち
学生なるがゆえに特に届出の
手続を課せしめろということは不利益な取扱いではないか、こういうことであり申す。この点については、先はどの
質疑の中で明確になっておりますので、詳しくは申しません。さらにもう
一つの問題は、住民登録と関連せしめるという御
議論でありますが、住民登録と関連せしめるということは法規の上でいまだ確定していない。
学生の
選挙権の申出、いわゆる
住所な定めるための申出についてのみ住民登録と関連をせしめるという
理由を、私たちは発見できないのである。あらゆる国民の
選挙権、住民登録と結びつけるという
一つの法的な関連性がありますならば別として、
学生の場合にのみこれを関連づけて行こうとすることは、少くとも
学生に対する
一つの別個の取扱い、他の国民に対する別個の取扱いをなさしめることに帰着すると思います。
こういう点から
考えて参りますと、
修正案について私たちは
理論的にも賛同し得ざる数多くのものを発見せざるを得ません。
現に、
法律の
解釈をその職責といたしております裁判所においても、水戸の裁判所において、あるいは宇都宮の裁判所において、
修正案をはっきりと否定いたしますところの判決が出ておるのであります。さらに、裁判所の判決だけではなしに、現にここに列席なせられ
政府の責任竹である
自治庁長官ですらもが、
政府原案の力が
現実に即応しておるのだということを言明せられておるのであります。
現実に即応しておるということは、すなわら正しく
学生の権利を守って行くということであります。このような
現実に即応したものを、単なる
理論的な満足、そういうものによってへし曲げて行こうとするやり方は、単に
理論を押し貫こうとする意図だけではなしに、他に隠されたる意図があるのではないかとすら私たちは疑わざるな得ません。すなわち、
民法上の
住所と選挙法上の
住所を一貫せしめるという口実に籍口して、
現実においては社会の少くとも進歩的な、要素であるところの
学生諸者の
選挙権を剥奪してしまおう、あるいは制限をしてしまおうとする野望でありと言われても、いたしかたのないものではないかと
考えるのであります。
考えて参りますると、
学生諸君は、
学校において、社会の進歩に対しあるいは学理に対し専心研究をせられておるのでありますから、一般の社会人のように因縁情実あるいは世俗に妥協ないたしました
考え方な持っておりません。彼らは、当然、みずからの理性に照して、その叡智に照して、学理に照して正しいと思うものな選ぶことに躊躇しないでありましよう。こういうことが必要的な結果として保守党の皆さん方に不利益の
現実をもたらしておるという事実、この事実をやはり私たちはこの法案の
修正案の中にまざまざと見て行かないわけには行かないと思います。しかし私は、自党に不利益である、あるいはどこくに不利益であるというようなことによって、次の時代たにない、あるいは時代の良心であるべきこの良識、すなわち
学生諸君の政治への参与をいささかでも妨げるというようなことがありまするならば、これはゆゆしぎ問題であり、しかも日本の民族の将来にと
つて、非常に重要な問題だと存じます。
しかも、日本を今取巻いておりまする世界の情勢な
考えて参りますると、さらに問題は大きなもの々感じます。あまり長く
討論をいたしますことは恐縮でありますから、簡単に申し上げますが、今世界は、ほんとうに平和を求める、あるいは戦争へ突入するという境目に立っておると思います。平和勢力あるいは戦争を求める死の商人たち、こういうものによって民族の興亡をかけた争いにあると思います。アメリカとソ連の対立あるいはヨーロッパにおけるジユネーヴ
会議の問題、アジアにおける日本の地位、こういう諸情勢を
考えで参りますると、やはり、最も真理に対して忠実であり、最も民族の行来に対して正しい見通しな持ち得る時代の良識に、私たちはもつともつと多くのものな依存しなければならない、かように
考えるのであります。ところが、そのようだ良識に対して、逆にその
選挙権の
行使を、政治への参与を制限して行こうという結果に陥る――そういう意図はないとおっしゃるでありましようが、
現実の結果においてそういう結果なもたらすようなこの
修正案に対しては、私たちは全面的に
反対の意を表示せざる々得ないのであります。
そういう
意味で、私たちは、
政府と与党たる自由党との両案の矛盾について、それは中なる矛盾とのみ見ることはできない。むしろもっと露骨なものをその中に発見せざるな得ないということ
なつけ加えて、私の
討論を終らせていただきます。