○
鈴木公述人 静岡大学において
憲法を担任しております
鈴木安蔵であります。
公述人として
意見を求められたのは、
日本国と
アメリカ合衆国との間の
相互防衛援助協定その他
関係協定三件でありますが、私の専門といたしますところから、主として
相互防衛援助協定自体について
意見を述べたいと思います。約三十分ということでございましたが、多少時間が超過するかもしれませんので、御了承いただきたいと思います。
憲法学者としてこの問題に対します際に、
法律解釈論と
政策論と、この
二つが課題になるのであります。狭い
意味の
憲法学、すなわち
憲法解釈論という点から申しますと、
法律解釈論だけが
憲法学者の任務とされておりますが、私はそう思いません。
憲法というような
国政の基準を定める
法規範に関する
意見の陳述におきましては、当然にその研究すべき
協定なら
協定がどのような実際的な
政治効果を持つかということを考えずして
法律解釈論は十分ではありません。しかし、本日は主として
法律解釈論に限りたいと思います。必要がある場合に、
政策論に若干論及したいと思います。
さて、そういう観点から第一に問題になりますのは、すなわちこの
協定は
憲法に適合するかしないか、この点であります。それには、まず
日本国憲法が何を定めておるかということを確定しなければなりません。申すまでもなく、
日本国憲法は国の
最高法規でありまして、
憲法自体において、特に天皇を初め、一切の公務員が
尊重し、擁護する
義務を買うと定めております。そうしてその
尊重し、擁護する
義務を負うというのは、九十九条に明記してありますように、この
憲法、すなわち
現行日本国憲法であります。ちなみに最近
一般社会におきましても、ある場合には
学界の一部におきましても、この
憲法自体が、形式的には
日本国現在の
最高法規であるけれ
ども、その
制定由来にかんがみて、今日一応独立した
日本においては、真実の実質的な
最高法規たる権威を十分に認めることができない、こういう
見解があるのでありますが、もしもそういう
見解がある程度の
真実性を持つとするならば、私
どもはただいま読み上げました
憲法を
尊重し、擁護する
義務を負うということを、心から
憲法上の
義務として受入れることができない。それで私もその問題に一応触れておきたいと思うのであります。
日本国憲法典をひもといてみますと、
まつ先に
昭和二十一年十一月三日のあの上諭またその副書によ
つて明らかであると思うのでありますが、この
憲法はその制定の
政治的由来はどうあれ、
日本国として公式に制定公布したものであること申すまでもありません。
従つて私
ども日本国民として、また
日本政府として、また
日本国会が
国会議員としてこれを外部的な圧力によるものである、押しつけられたものであるというような判断を下すことはできません。
日本国として公式に
責任をと
つて制定いたしました
憲法でありまして、法理論的に見れば、あくまでもわれわれが今日において
日本国として、
日本国民として当然にこれを
尊重し、その
責任を負うべき正式の
憲法典である、すなわち
最高法規としてあくまでも
尊重、遵守されなければならないものであると思います。もしもその
内容について不満がある、あるいは今日の情勢において、この
条文をも
つてしては
国政の正しい運用、すなわち
国民全体の
基本的人権の
尊重をなし得ないと考えまするならば、当然に正式に改正をいたすべきものでありまして、改正されない限り、すなわちこの
憲法の存在する限り、
何人も
尊重し擁護しなければなりません。
さて
現行憲法は、問題の
戦争ないしは
条約に関して何を定めておるか。申すまでもなく
前文における
宣言にありますように、この
憲法は、
人類普遍の
原理である
国民主権の
原理をみずからの基本の
原理といたすのでありますが、その
国民主権の
原理を採用いたします
根本理由として、
前文冒頭において、再び
政府の
行為によ
つて戦争の
惨禍を巻き起さないように、そういうことのために、この
人類普遍の
原理であるところの
国民主権の
原理を採用するものであるということを
宣言しておるのであります。また第二項におきましては、
日本国民の安全と
生存、すなわちいわゆる
自衛権の問題の
解決について、平和を愛する諸
国民の公正と
信義に信頼する、こういう
態度を
宣言いたしております。さらに進んで、
何人も恐怖と缺乏から免れ、平和のうちに
生存する権利があるということを確認しております。
最後に以上の
理想は、
国家の名誉にかけて、
全力をあげてこれを達成する、こういうことを誓
つておるのであります。
前文は、申すまでもなく
日本国憲法におきましては、
憲法典の一部であります。他の
憲法条規とその
法規的効力において区別すべきものではありません。
学者によ
つては
前文は
条文規定のように
法規範としての、たとえば
裁判規範としての
妥当性を持ち得ないと言う
学者もあるのでありますけれ
ども、これは誤解である。
日本国憲法を見ますると、
前文とここで申しておりますのは、われわれが通称そう申すのでありましてたとえば第四
フランス共和国憲法の場合のように、特に
前文として
条文から切り離してはございません。
憲法典の一部でありまして、そうである限り、なるほど各
条文規定のように、比較的
裁判規範としても適用され得るような
具体性を持たない形である部分もありますけれ
ども、しかし十分に
法規範としての一般的な
具体性を持
つておる。
従つて私
どもはいわゆる
前文における
条文を他の
憲法条文と特に区別して、それは単なる
宣言である、単なる
理想のプログラム・フオールシユリフトであるというような
解釈はとりません。
従つて以上
前文において述べられてあります。ところのことは、すなわち何よりも先に、
日本国憲法が、
政府の
行為によ
つて再び
戦争の
惨禍が起らない、こういうことを期待した、そのためにこそ
国民主権ということが必要である。もしも
国民主権を確立しないで、
明治憲法の
基本原理である
天皇主権を存続せしめるならば、再び
政府の
行為によ
つて戦争の
惨禍が巻き起を危険がある、こういう反省と論理との上に立
つておるのであります。また
日本国民の
生存と安全、すなわちいわゆる
自衛権の問題の
解決の仕方におきましては、この
憲法の制定されますまでの
国際通念であ
つたとも言い得るところの
考え方によりますと、一国の
生存と安全は、究極するところその国の
実力を
担保とする、力及ばずといえ
ども、急迫不正の
攻撃が起
つた場合には、国の
全力をあげてこれと戦う。今日
国際法が比較にならないほど発展しておりますけれ
ども、なお現在
国際社会におきましては、絶対
主権国家が対立しておる。ある場合には
不法侵略も行われるかもしれない。こういう想定のもとに、みずからの
生存と安全は、究極するところ自国の
実力を
担保とする、こういう
考え方であ
つたと思うのでありますが、この
憲法は一そういう
考え方をさらに越えて、いやしくも全
世界の諸
国民は平和を愛好するものである。
従つてその
平和愛好の諸
国民、すなわち全
世界の諸
国民の公正と
信義は信頼し得るものである。かりそめにも、ある国が突如
不法侵略をする、あるいは
自衛に名をかりて
侵略戦争をしかける、そういうような懐疑を持たない、不信の念を持たないのであります。
従つて従来の
国際法上の
自衛権の
観念をさらに超克いたしまして、そういう平和を愛する諸
国民の公正と
信義に信頼して、われわれ自身の
自衛の問題は安んじて
解決することができる。こういう
態度をと
つておると私は
解釈するのであります。従いまして、この
憲法は
前文自体において、
日本国民の
生存と安全ということを言
つておるのでありますから、いわゆる
自衛権を否定するものではもちろんない。ただ、
自衛権を
行使するにあた
つて、従来
国際法上考えられてお
つたところのそういう
実力、
軍隊、そういうものによ
つて一切それを守るというような
考え方を一歩超克しておると申さなければなりません。
従つて第九条の
規定におきましては、
何人も明らかなように、
戦争の
放棄、こういう
標題を付しておる。
つまり侵略戦争の
放棄であるとか、そういうものではありません。
戦争一般について、
戦争というものを
放棄する、こういう題を定めておるのであります。そういたしますと、今日
戦争には
侵略戦争、
自衛戦争、あるいは
制裁戦争、この三つがあると普通言うのでありますけれ
ども、
日本国憲法においてはそういう区別をしない。いやしくも
戦争なるものを
放棄する、こういう
標題を付しておるのであります。それはただいま申しました
前文の
考え方にまさに照応するものである。
従つて、第九条の
規定を
解釈いたします際に、私
どもは以上のような
前文においてすでに宣明された
一般原則の上に立たなければならない。
次に第九条に入りますると、第九条の第一項は、
条文を読み上げるまでもなく、この中には御承知のように、
国際紛争を
解決する
手段としては、
戦争その他これに類似する
行為をすべて永久に
放棄すると定めております。今日までの本院における
論議はつぶさに拝見する機会がないのでありますけれ
ども、私は次の三点において、
学界における
論議と比して、若干の理論的の不十分さがあるのではないかと思うので、本日の
公述もその点に重点を置きたいと思うのでありますが、第一に、人々はこの第九条第一項の
規定につきまして、これは一九二八年のいわゆる
不戦条約第一条の定める趣意を
とつたものである。
不戦条約においては、御承知のように明文をも
つてそのことを
規定いたしませんけれ
ども、当時の
了解事項として、
相互に通告された事項として、
自衛戦争、
制裁戦争、こういうものは、ここで
放棄していない、
侵略戦争を主として
放棄するものであるというふうにされておるのであります。そこで、第九条第一項は、この
不戦条約の
意味をそのまま持
つて来たのであるというふうに考えられておるようでありますが、私はその点が第一理論的に注意が足りないと思う。いわゆる
不戦条約の第一条は、
国家の
政策の
手段としての
戦争を
放棄しておるにすぎないのであります。もちろん同条の明記いたしますように、「
国際紛争解決ノ為
戦争ニ訴フルコトヲ非トシ、」こういうことがある。けれ
ども直接にこの
不戦条約の
放棄しておりますのは、
国際紛争解決のための
戦争を
放棄しておるのでありません。
国際紛争解決のため
戦争に訴えることはいけないからと申してはおりますが、直接に
放棄いたしておりますのは、
国家の
政策の
手段としての
戦争であります。これは私は違う。
日本国憲法第九条第一項におきましては、
国家の
政策の
手段としての
戦争を
放棄しておるというような簡単なものではありません。
国際紛争解解決の
手段としては
戦争を
放棄する、
武力による威嚇を
放棄し、
武力の
行使を
放棄する、つまり
不戦条約に比して次のような点においてさらに
前文の徹底した
平和主義に即応しておるのであります。すなわち
国際紛争を
解決する
手段としてはということは、
国家の
政策としての
戦争を
放棄するということよりもはるかに広い、たとえば他国よりいわゆる侵略される、あるいは邦人の
生命財産その他の諸権益が侵された、こういう場合に、今日の
国際法上の通念から申しますと、これに対して抗議する、あるいは
相手の国の
行動の中止を要求する、そういう不法な侵略はけしからぬから至急やめてもらいたいということを、
相手国に対しましてもその他の諸国に対しても当然呼びかける、そうして原状の回復ないしは救済を求めるのであります。こういう
行動は、私
どもの解するところによれば、すでに
りつぱな国際紛争であります。国と国との間において、あるいは一国と数多の国との間において、一定の
相互に了解し合わない
事態について争う、これは当然
国際紛争である。それが侵略された国といたしましてそういう要求をいたしました場合に、単に要求しただけではいられない、またじつとしておれば国が滅びるというようなことによ
つて、
武力の
行使あるいはそういう不法な
侵略国に対してはわれわれは絶対に
外交関係を持つことができない、われわれも当然これに対して戦いを
宣言する、つまり
国際法上の厳密な
意味における
戦争宣言をする、こういうような
事態は、今日までの常識から申しますと当然展開されるのでありますけれ
ども、そういう場合には、かりにそれが一方から考えて
自衛戦争と考えられます場合にも、私は
日本国憲法においては、すでに
国際紛争を
解決する
手段としては一切のものを
放棄するとい
つている以上、これはできない。つまりそこまで不可能ならしめるほどに
憲法は厳密に制限しておる。これがかりに
国家の
政策としての
戦争を
放棄するという、
不戦条約の
規定でありますならば、ただいま申しましたようなことは当然合法的になし得るのであります。しかし「
国際紛争を
解決する
手段としては、」という
日本国憲法の
規定から申しますならば、すでにそういう場合も合憲的にはとうていできないと考えるのであります。
次に、同じことでありますが、今日までの
論議において言われておるように、
自衛権の発動の場合ならば
戦争行為もなし得るというようなことは、これはもちろん
日本国憲法の許すところではありません。かりにも
戦争というものは、
国際法上これをいれられなければ
戦争行為に入るという
条件付の
最後通牒を発する、あるいは公然と
宣戦布告をして開始するか、いずれにせよそういう
戦争行為でありますが、そういうものは必ずや単に盲めつぽうに
宣戦を布告するということはありません。そこで
宣戦を布告する、あるいは
最後通牒を発する
国際紛争が必ずあるのでありますから、かりにそれが
自衛権の発動と考えられる場合でありましても、そういう
意味の
自衛戦争はできない。ただ一つなし得ることは、実際問題として、私は今日の
国際社会においてそういう
事態が起るということはとうてい考え得ないのでありますが、論理的に推し進めて参りまするならば、突如としてある国より
不法侵略された、こういう場合に、敵国の
軍隊がわれわれの領土の中に入
つて来て、縦横無尽に
略奪暴行をほしいままにするというような
事態、この際われわれがそれぞれの方法をも
つてこれに抵抗する、こういうことは当然に
自立行為として生ずるでありましようし、またそれを否定することはできない。それは当然
憲法にも容認するところであろうと思う。しかしながらそれはぎりぎりとそういう場合でありまして、さらにそういう際に、つまり
国際紛争の段階に、今日の
国際社会においては当然ただちに入るのでありますが、そういう場合に、
戦争行為あるいは
武力の
行使を警告をするということは
憲法は認めない、あくまでもやむを得ざる、ま
つたく緊急不正の急迫したそういう危害をやむを得ず力をも
つて防ぐというぎりぎりの一線は認めますけれ
ども、一歩立ち直
つて、さらに
相手の
軍隊を領土から追い払う、あるいはそういうことについて
世界に対し
相手国に対してこの中止を要求する、こういう段階に入りましたならば、そういう事実上の
実力抵抗さえも
日本国憲法は認めない、これは今日まで
解釈されましたのとは若干違うと思うのであります。つまり
憲法はすでに
前文において
宣言しておりまするように、そもそもそういうような
事態が起るということを予想しない、そういうことはあり得ない。つまり平和を愛する諸
国民の公正と
信義に信頼する、そういう
態度をと
つておるのでありますから、第九条におきましても、
不戦条約とは違いまして徹底的に従来のあらゆる
国際法上
自衛のための
戦争、
自衛のための
正当防衛というふうに考えられて認められた
行動につきましても、なし得ないような
規定を、すでに第一項に置いておるといわなければなりません。第一項は、
従つてすでに
不戦条約以上に
日本国としての、
日本国民としての、そういういわゆる緊急不正の危害に対しましても、とり得る組織的の
実力的の
行動について、非常に厳密な制限を置いておる
規定でありますが、第二項に入りますると、これはさらに諸国の
憲法にま
つたく類例のないところの徹底した
平和主義の
規定をと
つておるのであります。すでに第一項の
規定自身が
不戦条約を越えておる、さらに
国際連合憲章等において個別的あるいは
集団的安全保障、こういうような概念において考えられておるよりも、はるかに徹底してみずからの
行動を制限する
規定を設けておるのでありますが、第二項に入りますると、さらにそれが徹底しておるのであります。前項の目的を達するためというのは、これは
立法者の意図によりますると、つまり
自衛のための
軍隊は持ち得る、こういう
解釈を生ぜしめるために、あえて当時
帝国議会において修正したのであると今日称せられておりますけれ
ども、しかし
前文及び第一項の以上の趣旨から考えて参りますると、そういう
立法者の修正は決して十分に成功しておるとは申せません。なぜならば、以上のような
立場に立ちまして、一切の
軍備を持たない、
軍備に類するものを持たない、こういうことによ
つて初めて前項のような、ただいま申しましたような徹底した自粛、
自己制限が可能となるのであります。そうでありませんならば、一定の
軍隊を持
つておる、あるいはこれに類似する
実力を持
つておる、
戦力を持
つておるという場合に、実際問題といたしまして、必ずや
憲法第九条第一項の制限しておりますような限度にとどまらないで、進んで敵を撃つ、あるいはさらに
外交交渉を重ねつつ
実力をも
つてみずからの主張を貫く、こういう
事態が起ることは必然であるのでありましてそういうことを一切なからしめるために、すなわち「
陸海空軍その他の
戦力は、これを保持しない。」という大胆な
規定をいたしたものといわなければなりません。特に第一項において「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」と言
つておるのでありますから、そういう
態度は、かりにもある国は侵略するであろうというような
仮想敵国を考えてそれに対抗するためには、万一の場合を考えて
軍備を持たなければならない、こういうような従来のありふれた
国家の
態度でないことは、これは
前文において明瞭であります。さらに正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求するという九条第一項の
言葉自体がそのことを
意味しておるといわなければなりません。またこの
自衛のための
軍備と
国際紛争の
解決の
手段たる
行為をなし得る
軍備と、この
二つは
観念上もちろん区別することはできるのでありますけれ
ども、実の問題として、ことに今日の
科学兵器の発達にかんがみまして、このことを区別することは不可能である。いや、しくも
憲法がそういう重大な問題について、現実的にとうてい識別することのできない概念を採用しておるとは私には考えられない。たとえば
日本の
自衛、安全、
防衛、おのおのニユアンスはありますけれ
ども、そういう
言葉によ
つて意味せられますことを、もしも冷静に
軍事科学的に今日考えましたならばどういうことになるでありましようか。私は太平洋
戦争におきまして第二
国民兵役として
最後に
軍隊に
ひつぱられたのではありますが、この問題は、しろうとではありますけれ
ども、非常に熾烈な関心を持
つておる。そして私
どもは
戦争中多くの友人、
先輩たち、かなりまじめにそういう人々の
言葉に耳を傾けた経験から申しますと、これは本院の本
会議、あるいは
委員会におきましてそういう
発言があ
つたことが新聞によ
つてわかるのでありますが、
日本のほんとうの安全のために、
日本本土を真に
自衛し得るために、当時の
考え方からは、少くとも
満州国、あるいは
華北方面は絶対の
国防線であると考えられた。さらにある論者は、少くとも
ハバロフスク以東、あるいはさらに
上海方面、こういう方面を真に
日本と友好的な支配にしておく、あるいは
日本自身の力のもとに置く、こういうことにしなければ
日本の安全はないという
考え方であ
つたと思うのであります。当時においてもそうであ
つたとするならば、今日の
科学兵器のもとにおいても当然そうであると思う。ウラジオストツクはもちろんでありまするが、少くとも
ハバロフスク――ここにはソ連の相当有力な
航空基地のあることは、すでに周知のことでありますが、こういうところを、さらに瀋陽、北京、上海、すべてこの地域の
範囲内における敵の
原爆搭載機が
日本本土を
攻撃いたします。そういう基地に
先制攻撃を加えるということでなければ、今日の
軍事科学の常識から申しまして、
日本本土の安全ということは考えられないと私は思う。他方もしも米英と再び
戦争をするというような不幸な状態を論理的に考えますならば、ハワイ、ウエーキ、アラスカ、フイリピン、こういう線を当然に
先制攻撃を加えなければ、今日の状態においては
日本本土の安全ということはあり得ません。しかるに以上のような、場合によ
つては
先制攻撃も加え得るようなものがかりに
自衛のための
軍備であり、
戦力であるといたしますならば、今日の常識において、当然これは
国際紛争解決の
手段としてきわめて有力な
軍備、
戦力となるのであります。
従つて現実の問題として、その
二つは区別することができない。ゆえに
憲法は、前項の目的を達するためには一切
軍備なるものを持たない、持たないことによ
つて初めて、絶対にそういう
国際紛争を
解決する
手段として
行動することもしないということを保障しておるものと
解釈するのであります。
なお「
陸海空軍その他の
戦力」と
憲法は
規定しておるのでありますが、これは陸軍、海軍、空軍三軍が統合されることを禁止されているというような、そういうものではありません。陸軍、海軍、空軍おのおのや、もちろんそれらの統合されたものも持たない、またその陸軍、海軍、空軍が現代の
科学兵器のもとにおいて有力に外国と戦闘し得るそういう
実力、こういうことを
憲法は何ら定めておりません。そういう力が弱くても正規の陸軍、海軍、空軍、あるいは
陸海空軍というものでありまするならばそれは持たない、率直にそう申しておるのであります。またその他の
戦力――「
陸海空軍その他の
戦力」とありますが、これは文脈上
何人にも明らかなように、陸軍、海軍、空軍、あるいは
陸海空軍というそういう正規の
軍隊は持たない、しかしさらにそれのみならずそういう正規の
軍隊にまで立ち至らない、つまり
実力において、その組織において、その訓練において
陸海空軍よりも劣るところのその他のものも、つまり第二次的に
憲法がこれを禁止しておることはきわめて明瞭であります。
従つて陸海空軍であ
つても、
戦力を持たなければ持
つてさしつかえないということは、論理上とうてい
解釈が出て来ない。その他の
戦力――
戦力については
憲法自体何ものも定めておりません。
憲法自身がそれについて
条文解釈をいたしておりません限りは、私
どもとしましては、これは
国民主権の
憲法でありますから、現代の
国民生活において通念として妥当とするそういう
考え方を、当然
憲法は前提としておるといわなければなりません。専制
国家においては、
国民一般の理解し得ないような、特に専門家あるいは支配階級のみが用いるような用語を法律上用いることが通例でありましたけれ
ども、現代の
国民主権の
国家においてそのようなことはあり得ない。
従つて戦力というような
言葉は、一般
国民生活において常識的に
承認し得る
内容のものと
解釈してよろしいのであります。あるいはまた、一般に社会科学において、あるいは他の国の
憲法において採用されておるところのそういう
考え方によ
つて解釈すべきものであります。
それらを総合いたしますと、
憲法において
武力の
行使、あるいはこれまでの関係法規において兵力というような
言葉を使
つておるのとある程度一致いたしますが、さらに広いと思う。私
ども太平洋
戦争のさ中において、
戦力という
言葉をいろいろと使いましたけれ
ども、それは実に今日のいわゆる総力戦のもとにおきましては、非常に広汎な
範囲に及んでおるのであります。私個人の
見解といたしましては、少くとも国内の治安を維持するに必要にして十分な
実力、装備、それがすなわち警察力の
観念でありますが、それを越ゆると客観的に判断されるところの
実力、装備、施設、またこれらを可能ならしめる諸産業、すなわちこれが
戦力であります。そう
解釈する方が、太平洋
戦争に際して、
戦力増強という
言葉をわれわれ
国民全体がまじめ信じて、そういう運動をしたわけでありますが、そういう場合の
戦力の概念にも一致する、また今日の社会科学において
戦力という
考え方にも一致する。
憲法はそれを拒否して、近代戦を有効に遂行し得るところのそういう力、そういうふうに
解釈する理由は全然ないと思うのであります。
従つてつまり何ものも持ち得ない。持ち得るのはつまり警察力であるというのが、
憲法の趣旨であるということはきわめて明瞭であろうと思う。
さらに「国の交戦権は、これを認めない。」、これについても、
学界においてはほぼ異議がないところであると考えるのであります。すなわちそれは単に
国際法上認められるところの交戦国の権利、しかもそれを狭く
解釈しまして、敵性諸船舶の拿捕、あるいは俘虜、そういうような狭い交戦国としての権利のみに限らない、つまり交戦し得る権利、戦闘
行為をなし得る権利、平時ならばとうてい認められないところの、
相手の敵国人といえ
どもひとしく人類でありますが、そういうものを当然のこととして殺傷し得る権利、戦闘
行為を交える権利、
戦争をなし得る権利、これをあわせ含むことは申すまでもないと思うのであります。そうしますと、「国の交戦権は、これを認めない。」ということは、以上申し述べましたような趣旨をさらに徹底して、一切の戦闘
行為を
日本国として不可能ならしめるように
憲法は定めたものと
解釈しなければなりません。さらに、かりに反対説のように、この
憲法が
自衛のための
軍備は持ち得る、
自衛のための
戦争行為はなし得るということを前提とする
憲法でありまするならば、いやしくもそういう
自衛のための
軍隊の存在を容認する、
自衛のための
戦争行為を容認するのでありますならば、これはきわめて重要な
国政作用でありまして、当然
日本国憲法の
原理から申しますると、行政権の最高機関がこれをつかさどるものと思うのでありますが、そういう重要な事項について、
憲法第七十二条ないし第七十三条がこれについての定めをしないということは考え得ない。
日本国憲法は比較的詳細な成文
憲法でありますが、第七十三条は、内閣の権限に関して一般行政事務のほか特に重要なものを列記しているのでありますが、当然そういうところに統帥権あるいは兵力量決定の問題、これらに関して――兵力量決定の問題は、そういう論理で仮定いたしますならば、
憲法のもとにおいては当然
国会の権限であると思いますが、統帥権ということになれば、これは行政権が当然扱うものであろうと思う。そういうことについての
規定を置かないということは考えられない。
学者によ
つては、統帥権とい
つても
明治憲法の場合とは性質が違うから、あえて第七十三条に列記しなくても当然のこととして、内閣総理大臣の権限である一般行政事務のうちに入るというのでありますが、これほど詳細に諸事項について
規定しているところの
憲法が、統帥権というような重要な事項に関して何らの
規定も置かないということは考えられない。つまり
憲法自体としていかなる形態においても
軍隊は持たない、いかなる形態においても
戦争行為はしないということを前提としているから、こういう
憲法構成が了解されると思うのであります。さらにこの
憲法制定のとき、旧刑法第八十一条、第八十二条を改めまして、また第八十三条、八十四条、八十五条、八十六条は廃止しております。時間の関係上読み上げませんけれ
ども、旧刑法のただいまの
条文は、つまり通敵
行為あるいは自国の
軍隊の機密を敵国に知らせる、こういうようなことを重罪をも
つて禁止しておるところの
規定であります。かりにも
自衛のための
軍隊を持
つてよい、
自衛のためには
戦争行為をしてもよいという
憲法でありまするならば、それに相関連する付属法典において、若干の修正はいたしましても、そういう条項を削る必要はない。つまり当時の
憲法制定者及び一般立法関係者は、当然のこととして、そのようなことはあり得ないとして、旧刑法の第八十一条から八十六条までについて根本的な改廃を行
つたものと
解釈することができるのであります。これを要するに
現行憲法は、
自衛のためといえ
ども、
軍隊その他それに類似するものは一切持たない、また一切の交戦権はこれを認めないという
態度であることがきわめて明瞭であると思うのであります。これについては、制定当時の総理大臣その他
憲法関係大臣たちのたくさんの
発言がございますが、これは時間の関係上省略いたします。いずれも以上のように
解釈された
日本国憲法の
平和主義を認めておるのであります。これが
憲法のありのままの
規定である、ありのままの精神である。
そういたしますると、私
どもは今回問題とな
つておりまする
協定を、
現行憲法の以上のような観点から判断せざるを得ないのであります。この
協定は申すまでもなく独立した、これ自身として独立的に私
どもの判断の対象になるのでございますが、しかし外務省の説明書及び
政府の提案理由説明にもありますように、これは昨年六月
アメリカ合衆国議会において成立した
相互安全保障法改正法に基くところの
防衛援助についての
協定なのであります。
日本国内の立法機関だけにおいて立法する法案でありますならば、独立的に考察してよいのでありますけれ
ども、これは
条約の一種であるところの重要な
協定である。
相手国のあることでありますから、この本
協定自身を考察する前に、その根源とな
つておるところのこのアメリカ自身の法を一応見る必要がある。
これを以下簡単にMSAと略称いたしますが、MSAは一体いかなる性格を持
つた法であるか、その性格いかんによ
つては、そういう法に基くところの
条約、
協定というものを
日本国として結ぶことが合憲的にできるかどうかという問題が起ると考えるのであります。さてMSAは、これはすでに文書のあることでありますから簡単に申しますが、何よりも先にアメリカの安全保障を強化するために……。