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仲吉参考人 アメリカが特に
沖繩を重視するようになりましたのは、毛沢東が中国を支配して、中ソ友好
条約を
締結されて、それによりまして、
アメリカの国防省はアリユーシヤン群島、
日本、
沖繩、
フイリピンという一線を画しましてその一環とな
つたのが
沖繩でありまして、特にそれ以来重視をいたしました。終戦直後はたとえば
沖繩における
アメリカの兵舎などは、風よけの設備もしないで、
昭和二十三、四年ごろに講和
会議が開かれるようになりましたころは返すという考えでありまして、御記憶でありましようが、マッカーサー司令官の
政治顧問のアチソン氏なんかは、そういう書類を持
つてワシントンに帰るその途中、ハワイで飛行機事故でなくなりましたが、そういう人たちからも多分返すはずだというふうに私などは聞きまして非常に喜んでおりましたが、今申し上げる
通り、中国の
政治の大変化とともににわかに
向うを重視することになりました。そうして
アメリカの人に言わせますと、
沖繩からウラジオまでが千二百マイル、上海までがわずかに四百四十マイル、ウラジオから香港に至るところの厖大なる大陸を攻めるに最も屈強のところが
沖繩である、西太平洋の防禦線として一番かんじんなところであるということで、そこに航空基地をつくるという、
計画を立てまして四、五年前五千万ドルの費用を投じて
向うに航空基地につくるようになりまして、
日本からは清水組だの鹿島組だのという有力なる請負業者が
行つて、材木だのセメントだのその他の電気の設備なんかをいろいろな道具を持
つて行つて、
向うで今軍事基地の工事をや
つております。そうして
向うの青年連中を四万人、五万人毎日使
つて今依然として軍事基地の工事を続行しております。そうして
沖繩の位置をどうしようかと思
つて、
最初は多分
日本から全然切離すつもりであ
つたろうかと思います。四年前、五年前ですか、日は忘れませんが一月十二日に、元の国務省の
長官のアチソン氏がワシントンの新聞記者クラブで
沖繩辺を国連の信託
統治に置くということの声明をいたしました。われわれ非常に狼狽をいたしまして、
政府及び各
政党を歴訪いたしまして、どうしても信託
統治を阻止してもらいたいということをお願いいたしました。
政府も各
政党もむろん御
異議はない、これは極力阻止して
沖繩は元
通りの
日本の一地方としておかなければいけないというお話でありまして、そこでわれわれの方も
アメリカの方に
陳情書を提出しました。信託
統治は国連憲章によりますと自治能力の発達しないところに置こうというので、
沖繩は
日本の自治制度によ
つて各県同様に県会があり市町村会があり数十年自治を運用した自治能力ある
日本の一地方である、それから
日本の国政にも参加をいたしまして、衆議院にも定員五名の議員を選出してある、文化、
教育すべて
全国と水準は同じだ、ここは断じて信託
統治を行うべき地域ではないということを強調いたしております。また国連憲章によりますと、信託
統治をする地域の住民は、将来独立国家になすのが国連の目標に
なつておりますが、
沖繩の人は
日本から離れて独立しようという考えは毛頭ない、もしこれをしいるとすれば、民主自由国家の精神に相反するものであるということを強調しまして、
政府、
政党もこの意味におきまして
最初にダレス特使が参りました時分に、
政党の各代表がダレス氏に会いまして、ここは武力もしくは軍事力によ
つてと
つた地域でない、もともと
日本の領土であり、また信託
統治をする地域でもないということを、書面及び口頭でお述べに
なつていただいて、その結果ダレス氏も
日本国民の領土問題に対する関心の深いことに感激をいたしまして、特別にあの
条約第三条が二条と離れてできまして、
沖繩、小笠原に対しては
日本の領土として今日領土権はとにかく
日本にあります。これは実に重大なるできごとでありまして、
日本の領土をそれだけでも保持していただいたということはまことにありがたい。これは国会がこれに力を尽していただいたために領土権が
日本にあるようになりました。それからその三条にはまだ信託
統治をやることに
なつておりますが、その各
政党の代表及び
政府がいろいろ御努力の結果、
アメリカとしてはその
条約で必ず信託
統治しなければならないという義務づけの
条約文に
なつていない。これはダレス氏が非常に苦心の結果であるとい
つて常にわれわれにも恩を着せているのでありまして、ダレス氏の好意には非常に感謝しますが、これは国会各
政党の御尽力のたまものと深く感謝をしております。それで第一関門は突破をいたしました。そのときの国会各
政党の力を今度集中していただきまして
沖繩に対する
日本の
行政権の回復をお願いしたい。今度の問題はこれを専心してや
つていただきたいとお願いする次第であります。奄美大鳥ももう返還されまして、残る南の方の問題は
沖繩と小笠原でございますから、今後は中心問題はこの
沖繩、小笠原を
日本に一日も早く返還してもらうという方面に、特に外務
委員会の方から
政府の方に鞭撻督励をしていただきたいというのが第一番であります。
けれ
ども非常に困難な立場に
なつております。御
承知のごとく、先月七日にアイゼンハウアー大統領が一般教書で
沖繩その他を無期限で米国が保有するということを声明しております。また同じく二十一日に予算教書で大統領は講和
条約で得た
沖繩に対する管理権を無期限に行使するということを声明をしておりまして、
沖繩が
日本に返ることは今はなかなか困難な
状態に
なつております。そこでこの
沖繩にいる米国
民政府長官オグデン少将が大統領声明をたてにしましてすでに
アメリカの意図は判明しただろうから、
復帰運動はや
つたつて無益であるという声明書を
沖繩島民に出しまして、そうして
日本と違
つて沖繩は特殊な
事情があるので、民行政と軍とは切り離すことはできない。それだから依然として軍政を続けるということで、
沖繩の人は非常に失望をしている次第であります。しかしながらこれは
技術上の問題でありまして、この問題は日米両国
政府で友好的にお話くだされば、必ず話は解けるであろうと思います。それを
日本の
政府から話の糸口をまず切
つてもらいたい。これを外務
委員会の方で
政府にお勧め願いたいということをお願いする次第であります。ダレス氏も国務
長官になる前は、両国の話合いによ
つて解決する道があるということを言
つております。
沖繩に
日本の行政がしかれても、決して
アメリカの軍事活動にじやまになるようなことはない。そうして
アメリカ人がつくっている
沖繩の空軍基地というものは、
日本軍がつく
つた飛行機基地を主として使
つているのであります。もちろん
日本軍が使
つたときよりは拡大強化しておりますし、そのほかにもありますが、中心はやはり
沖繩の人と
日本軍が協力してつく
つた軍事基地、空軍基地を使用しております。たとえば南の方で那覇
飛行場、それから中部において
日本軍がよく使いました中
飛行場、それからその隣の北
飛行場、この三箇所が主として
向うの空軍基地に
なつております。そのほか港湾な
ども専用の港湾な
どもつく
つておりますが、空軍基地な
どもあとで図面をお目にかけますが、こういうところにございまして、このほかのところについては
日本の
行政権がありましてもさしつかえないように思います。
日本軍も
向うに基地をつくりましたけれ
ども、軍は軍務、行政は当時の県庁及び民間にこれを許したので、
アメリカがいかに何でも必ず軍政をしかなくちやならぬということは、われわれにはどうしてもわからない。でありますから、もし
アメリカが
日本の主権を尊重して、
日本との
友好関係を持続しようと思いますならば、住民及び
日本国民の
希望に
従つて、
行政権だけは
日本に許していいのではないかと思うのであります。われわれは決して無理なことをお願いするわけではありませんが、この図面をごらんくださればわかりますし、また
アメリカの方でも
沖繩における
米軍の基地の安全化を保障されるのは、
日本との協力にまつのみである。
日本との協力がなければ、
沖繩における軍事基地も維持できるかどうか困難であると唱える人も、多くは国務省系の人でありますが、おりますから、
政府がお話に
なつてくだされば、
アメリカも了解してくれるのではないかと思いますけれ
ども、非常に困難でありますから、
政府の方もかたい御決心でや
つていただきたい。それはどうしてもこちらにあられる外務
委員会が、一日はこの問題でひとつ
政府の方と御懇談をや
つていただきたい。こちらに外務省の方も見えておりますが、一日だけはこの領土問題について
政府の方と御懇談をや
つていただきたいと思います。
沖繩、小笠原は今お二人からお述べになりました
通り、われわれは軍事基地にも協力をしている。
アメリカとは協力して行くが、
アメリカのために生きているのじやない。
本土同胞と、
日本国民と共通な国家目的遂行に力を入れてこそ生きがいがある、張合いのある生活を営むことができる、こういうことをい
つておりますし、小学校あたりでは運動会のときに日の丸を上げまして、プラカードを掲げて祖国
復帰貫徹、こういうのをぐるりとまわしますし、
アメリカの百円よりも
日本の二、三円、こういうプラカードをまわしますし、またあるところでは、よそのおばさんのお菓子よりは自分のおつかさんのおいもがいい、こういうふうなことを書いてやりまして、とにかく一刻たりとも早く帰りたい、朝夕の念願は祖国に帰りたい、こういう念願でございます。それで今申しましたオグデン少将が、
日本復帰の運動をよせという勧告を十一日に教書で出しました。そうして学校の職員連中に、それをよさなければ学校の建築材料をやらないとまでおどしておりますが、決して聞きません。何ゆえ自分の父母の国に帰りたいという
希望を表明する運動を中止できないか。けられてもなぐられても、われわれは
復帰運動は中絶しないということで、がんば
つておりまして、学校の
教員男女五千人、それから男女青年連合会が六、七万人、それから酒造組合とか、漁業連合会などという業種団体も入りまして、
復帰期成会という団体をつく
つて、たたかれても、けらてもこの運動は断じて中絶しません。それできのうもわれわれをこの外務
委員会にお招きになるということを聞いたからでございましよう、きのう夜おそく
なつて電報が参りました。これは学校の職員組合の代表者と、期成会の会長、それから青年連合会の代表者から、外務
委員会にお願いをして
沖繩が早く
日本に帰れるように決死運動をしてお願いをしてくれ、こういう電報がゆうべ参
つておるのであります。
それから昨年の秋、
奄美大島返還声明後に開かれました特別国会で、ここにおいでになる
委員長が、各派の国会対策
委員長とお打合せになりまして、
沖繩、小笠原の返還要求
決議案を本
会議に上程されまして満場一致可決されたことがあります。その翌日の新聞——
向うから新聞記者も二人見えまして議場の光景を
向うに報道したわけで、その新聞記事を見ましたら、ある村の議員などは、その記事を見てもうじつとしていられない、すぐ役場の方に走
つて参りますと、やはり四、五人の議員が集まりまして、村長を囲んでお茶を飲みながら、
日本の国会が
沖繩を返してくださると言
つて非常に喜び合
つておるのであります。これほど
沖繩の人たちは国会を力にし、各
政党を命の綱と頼んで、一日も早く祖国
復帰が実現されるようにと祈
つておる次第であります。そうして
産業も
教育も
日本に
復帰しない限り、
日本の行政下に入らない限り、決して再建はできないのであります。それから国
会議員、
日本の
政治にも戦前同様に参与して、
向うからの議員も出してもらう。戦前までこちらに中央の支部がありまして、国策もしくは地方の問題な
どもその線に沿
つて論議をするし、
選挙のたびに中央から応援の弁士その他がおいでになりまして、
政治的な知識の向上をや
つております。今日はあつちだけの地方問題で、蝸牛角上の争いをしております。一つも
政治上の向上発達ということがないのでありまして、これほどの国政に対する参与権でさえも、
アメリカはくれないのであります。さつき元の外務次官から、
アメリカが
日本を疑
つておるから
沖繩、小笠原などは返さぬだろうというふうなお話がありましたが、その
通りであります。誠意を尽して、たとえば法律上の問題で、スパイを
向うが忌避するならば、それの取締りを
日本政府と同様にやるというような話合いすらできないで、一方的に軍と民行政は不可分であるとい
つて現状のようなことをや
つておりますが、これを外務
委員会のお力で
政府を鞭撻奨励していただいて、早く
沖繩、小笠原が帰れるように御尽力をお願いいたします。(拍手)